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「し」


2007年鑑賞作品

シアトリカル 唐十郎と劇団唐組の記録
2007年 120分 日本 カラー
監督:大島新 脚本:大島新
撮影:桜田仁 音楽:
出演:唐十郎 鳥山昌克 久保井研 辻孝彦 稲荷卓央 藤井由紀 赤松由美 丸山厚人 多田亜由美 高木宏 岡田悟一 気田睦 野村千絵 大美穂 土屋真衣 大鶴美和子 大鶴美仁音 大鶴佐助


2007/12/21/金 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
唐氏のお芝居を観たこともない私が、彼のドキュメンタリーに足を運んだりしていいのだろうかと思いつつ、芝居人、それも伝説の、というものに対しては妙に興味がそそられるもんだから足を運ぶ。
そして、これまた知りもしないんだけど、観ながら何となく、蜷川幸雄氏との対照を考えていたりしていた。後に、同時代人である蜷川氏も唐氏に強い影響を受けていることを知って、やはりと思ったり、ちょっと意外にも思えたりした。

それは特に、唐氏の劇団スタイルをこのドキュで知ることとなった部分に対して、強い対照を感じたのだ。
唐氏は、いかにも昔ながらの(これまた、知りもしないくせに言い切ってしまうけど)劇団スタイルを奇跡的に維持し続けている人。
蜷川氏が個性的ながらも、商業演劇という位置を決して崩さないことに重きを置いている(ように見える)のと、その点で凄く対照的に見えたのだ。蜷川氏にも気に入っている役者や、彼が育てたと言われる役者はいるけれど、彼らは常に外とつながっている。スターとして。

でも唐氏は、そのことにはまるで頓着がないように見えた。唐氏の戯曲に当て書きされる“スター”たちは、私のような演劇には無知な人間には全く知らない人たちだったし、彼らも外へつながろうという意識は全くないように見えた。
彼らは唐氏に当て書きされていること、つまり、何よりこの凄い人の近くにいることこそを誇りに思い、第一に考え、自分の生活のことや未来のことなど、まるで頓着しないのだ。
それはまだ彼に当て書きされていない新人たちも同様で、彼らは唐氏に当て書きされる日を夢見て、芝居で食えるわけもない今の赤貧生活を、むしろ嬉々として過ごしている、ように見える。

唐氏は戯曲を万年筆で手書きし、それを団員たちがやはり手書きで清書していく。そのことも彼らにとっては誇りのようである。
「唐さんのイラスト、可愛いんですよ。もれなく載せようと思ってるんですけど」と嬉しそうに指し示す主演女優。登場人物が女装するシーンのページで、ブラジャーとパンティーがこちょこちょっと描き加えられている。

なんかね、誤解を恐れずに言えば、新興宗教の教祖と信者たちみたい、などという考えがふと頭をよぎってしまったのだ。外界との隔絶、シンボライズされたリーダー、その絶対的なリーダーに取り立てられること(それが男女の関係だったら、もっと生々しい言い方も出来るかもしれない)を無常の喜びとし、それまでの日々は修行と考えて耐え続ける、みたいな。決して“外の教え”に与しないのも、そんな印象を加速させた。

ただ、これはドキュメンタリーの仮面をかぶった虚構なのだ。というのは、ラストに明かされるけれど、観ている時からそんな感じはしてた。
団員たちは決して、この唐組だけに縛られている訳ではないんだろう、勿論。客演の話も出てくるし。
でも彼らが客演の話をする時、いやどんな話題の時でも、そこに唐氏が存在するか否か、いなければ意味がない、彼への絶対的な信奉、愛情を隠そうとしないんだもの。他で芝居してもつまらない、と。
だから、ああ、そうよね、外部への客演もしてるのよね。役者として生活しているんだし、とは思っても、なんかそういう匂いが全くしないというか……。

ただね、それが仕向けられたものであるというのも、観ている時から薄々感じてはいた。ラスト、ドキュの筈なのに唐氏のアップにカチンコが挿入し、お疲れ様、と監督と握手して「自分を演じるのは想像以上にキビシイね」(ちょっと言い回し違ったかもしれない)と唐氏が、言葉とは裏腹に満足げに言う。
そして「これは7割のドキュメンタリー、2割の虚構、1割は虚実不明である」などとクレジットされるのだもの。

正直、そんなことがわざわざ挿入されるのには、ちょっとガッカリする気持ちもあった。ああ、やっぱりと思ったし、実質はどうあれ、ドキュの形のまま貫徹できないのかなとも思った。
でも……フィクションを挿入“せざるをえない”感じ、だったのかなとも思ったけれど。
なんていうか……やっぱりと思ったのは、あからさまにこれは芝居だろと思う部分が多々見受けられたからなんだよね。
それを言い出してしまえば、一応ドキュが前提の筈なのに、最初から最後まで全てが芝居のように、芝居めいて見えた。まさにタイトルが示すとおり。それは人生を象徴しているのだろうか?

最初にあれっと思ったのは、唐氏と三人の団員たちが呑み屋で、役者とはなんぞやという激論を闘わせた後、突然唐氏がコインランドリーに走っていって、服のままシャワーを浴び出した場面。
慌てる撮影スタッフ側の、その慌て方も違和感があったし、何より、駆けつけた団員たちが、唐氏に呼び寄せられるまま、狭いシャワー室にひしめいてシャワーを浴び、思いがけない展開に楽しそうな表情をする場面。
その“思いがけないことに楽しそうな表情”が、パーフェクトにその通りに見えて、なんかヘンだなと思ったのだ。いや、これがホントにドキュだと言われたら、何も言えないんだけど。

そして、酒が入ったホンの読み合わせの時、なんたって酒が入っているんだから、多少はノリも軽くなるわけ。
でもそれに対して、それまで終始ゴキゲンだった唐氏が突然ヘソを曲げだし、必要以上に主演男優を罵倒し始める。その主演の彼はうつむき、頭を抱えだし、それにカメラがズームアップしていく。
なんかそれが……やけに芝居めいて見えたんだよね。いや、この場面はドキュだと言われたら、ホントなんも言えないんだけど。
で、この主演男優はその後、より役に近づくために、戯曲の舞台になった場所へ旅に出かけるのだ。とにかく唐氏のイメージを汲み取ろうと、必死になって。

あるいは一人の女性団員が、実家のタクシー会社が火事になったこと、そして20代後半という年齢的なこともあって、辞めようかと思っている、という相談を切り出した場面もそう。新旧三人の女優がこれまた呑み屋で顔を合わせて、来し方行く末を議論している。
彼女は「(スタッフとして動くことなしに)役者に専念出来る環境も考える(後述)」という台詞も吐き、唯一唐組への疑問を呈する存在でもある。実際そんな疑問を抱いた者たちが、ここを離れていったのだろうと推測される。

この劇団のベテラン格で主演女優を長く務める団員が、彼女を励ましながらも突然泣き出すのも、すんごく芝居めいてるんだよね。
そんな風に思ってしまう自分がなんて冷たいんだろうと思うんだけど、ある意味上手い、こなれた芝居なわけ。そう見えちゃうのだ。本当はどうか判らない。あるいは彼女自身が、芝居と現実の境がついていないようにさえ、思えるのだ。芝居の中だけで生きていると。
「唐さんも心配してる」という台詞に、でも心配するだけなんだよね……などと思ってしまう。それが演劇人の厳しさなのか。

ああでも、そう考えると、いつも酒が入っているんだよな……とも思う。酒の要素が、芝居が入るスイッチという暗示のようにも思えてきて。
ことあるごとに、皆が集まって宴会をする、その酒の肴も彼ら自身によって用意される。ことに印象的なのは、状況劇場当時の団員たちが建てた、古い山小屋での新年会。故郷から見事な寒ブリを調達し、鮮やかな手さばきでお造りにする男性団員。魚屋か板前になった方が良くないか?
この場面、唐氏の二人の子供が宴会に同席している。まだ10歳そこそこという感じ。こんな小さな子供がいるとは知らなかった。カミさんも若い。
長女の美仁音ちゃんが、「神様だと思うこともあるけど、お酒を飲むと……」などと父親を評する。この台詞もちょっと、出来すぎてるかなあ。

酒が入った唐氏が突然怒り出すという場面は、ことあるごとに頻出する。時には相手が言っていない台詞を創作してまで怒り出す。カメラのこちら側でインタビューしている監督が、舞台の上では役者の方が劇作家より上なのかと問うた場面、役者と作家の立場を、上・中・下とまでは言ってないよね?唐氏はそう言って怒り出すんだけど。
どうやら唐氏は酒が入ると、態度が豹変するらしい。その度ごとに団員たちは黙りこくり、ただスイマセンを連発する、のがなんかキモチワルイなーと思っていたところへ、怒らせたのがこのドキュの大島監督自身だったこの場面。
唐氏は勿論、その一番弟子とも言える男性団員が「お前ら、オレたちをナメてんだろ」と師匠以上に怒り出す場面は、これ絶対作ってんだろー、と何となく引いて見てしまった。
いや、これもドキュなのだと言われたら、ホントなんも言える訳がないんだけど(爆。こればっかし)。

ただね、ここは用意された芝居というんじゃなくて、この場を収めるために師匠以上にわざと団員が怒り出す、という気遣いを見せたのかと思ったのよね。それにしてはクサイ芝居だなーなどと思って(爆爆)。
でもその後、あれは芝居だったんだよーん、などと弁明されるシーンはないし、唐氏は怪人ならではのテンションの移り変わりであっという間に機嫌を直してこの場面が収束してしまうのが、え?あれってマジでドキュだったの?と思ったら……なんかうわっと思ってしまったのだ。
その感情がどういうものだったのか、なんか上手く説明できない。ぞっとしたようにも思うし、感嘆したようにも思える。彼らは芝居とリアルの境目が本当になくて、唐氏の側にいることが、もう彼らにとって芝居の場なのか、っていうのが……なんかそれが、怖かったのだ。

勿論、彼らはここにいるだけでは、立派に食っていける訳もない。それでも“当て書き”されている数人は定額の給料が出るということらしいし、保証が与えられるのだろうか?そんな風におごった“一般人”の私たちは、ついつい“心配”してしまう。
唐氏の公演スタイルは、自分たちの手で舞台美術から宣伝は勿論、会場設営(テント芝居)からお客さんへの対応までをもこなす。団員としての収入は年収15万だという、勿論アルバイトで身を立てている殆んどの団員たちも、こんな入り込んだスタイルならば、アルバイトのシフトもそうそう上手くこなせないだろうなどと余計な心配までしてしまう。

それが証拠に、まさに赤貧の生活をしている彼ら。家賃一万五千円、当然トイレも風呂もなしの三畳間、流しの湯沸かし器で頭を洗い、絞ったタオルで身体をふく。毎食安いレトルトカレーで、メーカーで味が違うから案外飽きないなどと言う。それでもテレビとかはあるのね、なんて思ってしまう自分がほんっとヤだなーと思うんだけど。
なんかね、私、大いなる偏見で、冷ややかな目で見てしまっているのかもしれない。それこそ宗教の教祖と信者に向ける目みたいな?これはあくまでドキュ・ドラマで、そう導かれているのは判っている筈なのに。

先述した、一緒に頑張ってきた女子団員が辞めるかもしれない、という話に、力強いアドヴァイスを与えながらも“芝居めいた”涙を流した、唐組の主演女優に、その要素が集約されている気がした。
むしろね、男性団員には不思議とそれを感じないのだ。男性団員の中には、状況劇場時代から共にスタートした仲間に、佐野史郎や小林薫などといったそうそうたるメンバーがいる、唐氏の下で20年以上を過ごしたベテランが存在する。彼らは若い団員たちと同じように、唐氏の側にいられることこそを誇りにして、佐野史郎になりたいなんて別に思わない、とアッサリと言う。
でもね、彼らには不思議と危うさを感じないんだよね。こんなパートナーは持ちたくないとは思うけど(爆)、ムジャキね、と思う程度で。それはやはり、唐氏に対して男同士だからなのかな。そんなことを感じてしまうのは、なんて超絶ヤボなんだろうと思うんだけど……。

でも恐らく、このベテラン女優も転機を迎えているんじゃないかと思ってしまう。そうでなければ、絶対の自信があるのなら、同僚が辞めることぐらいで泣きはしないんじゃないかと。それも思わせられているのかな。
実際、男性ベテラン組は、最初の同期は50人ぐらいいたというんだから。
彼女は中学生の頃から劇団員が夢で、だからまさに今、夢を叶えている状態で、しかしそれに対して当然、今は亡き父親は大反対していたという。
このドキュともフィクションともつかないインタビューを受けている最中、それも、「自分が結婚しないことを、心配していた」と話している時に、飾ってあった父親の写真がふいに床に落ちる。彼女は「何で落ちたんだろ」と驚き、この時は本当に驚いたように……つまりそれほど芝居めいては見えなかったんだけど、なんかここまでくると、全てが作り上げられたものに思えてくるのだ。

あ、でもここだけはドキュだなと安心して?思えたのは、やはり彼女の場面だった。
台本は団員それぞれが、表紙を作って製本するのが決まりだという。彼女は裏表紙にこっそり小栗旬君の切り抜きを貼っていた。「ミーハーなんです。写真集も買っちゃった。辛い時に、見て癒されるんです。いつか、小栗君と共演したい」なんか、安心した。なんてヘンだけど……。
そしてまさにこの時、対照としての蜷川氏とつながったのよね。
あるいは唐氏に当て書きされるベテラン役者が「オダギリジョーは凄いと思う。オダギリジョーにはなりたいと思うけど」という台詞も、まさに旬の若手俳優の二代巨頭をズバリと指し示していて、この作品、唐組の立ち位置、純粋なる演劇の立ち位置の難しさを非常にダイレクトに示しているように思う。

唐氏だけが、テント演劇にこだわり続ける。役者、演劇人の狂ったストイックにもこだわってる。でも、この部分が、まさに大切なこの部分が、やや判りづらい気がしたのが、私の偏見を加速させたのかな……それともそれは、誰もが知っているという前提の上でなんだろうか。
団員たちは実に嬉しそうに、大好きな唐氏の話をする。「オレが一番歌が上手いと言っていた」とか。でもそれって……結局、唐氏は後進に任せるつもりがまるでないからさあ。でもそれも当然承知の上で、団員たちは唐氏が好きなのだろうけれど。
芝居でも、いい場面で唐氏が出てきて、待ってましたの拍手が巻き起こって、それがいかにクライマックスからずれてても(いや、判らないけど)そここそが最高潮になってしまうんだもの。

あのね、正直な気持ちを、言っちゃってもいい?
私、中盤くらいから、見てられなくなった。
これをキモチワルイと思ったら、ダメなのかな……。
いろんな思いがあるのだ、私の中に。
いろんなトラウマ的な思いもある。
劇中、ベテラン主演女優が外の友達の話をする時、「あんまり友達いないけど」と自嘲しながら前置きするのが、辛かったんだ。
私に、演劇を観る資格なんてないね、きっと。★★★☆☆


子宮の記憶 ここにあなたがいる
2006年 115分 日本 カラー
監督:若松節朗 脚本:神山由美子
撮影:音楽:S.E.N.S.
出演:松雪泰子 柄本佑 野村佑香 中村映里子 寺島進 余貴美子

2007/2/7/水 劇場(シネスイッチ銀座)
突然、金魚の入った水槽が金属バットで殴り割られる。
悲鳴をあげる母親。
「これ、ママの一番大切な……!」
まだ顔の見えない息子は、台所の棚から大金をつかみ出して出て行こうとする。「脱税やってんの、バラすぞ」と言い捨てて。それを止めようとする母親ともみあう。
母親を組み伏す息子。まだ、顔は見えない。
「あなた、本当に、真人なの?」恐怖におののいた母親が漏らす台詞に、ふと反応したように息子の顔がようやく映る。
後から思えば……彼はこの時、いや、俺はリョウスケだ、と思ったのかもしれない。

そして、更に後から思えば、彼が「ママの一番大切な」ものをぶち割ったのは、その形容詞に続くのが自分ではないことを知っていたからじゃないのか。
でももし、その金魚の水槽をぶち割れば彼が1位の座に返り咲くのだとしたら、そんな安っぽい順位はあまりに哀しいし、そして水槽の次にも彼はいないんである。
いや、彼はそう思っていたけれど、本当はそうじゃないかもしれない。
17歳の男の子には、まだまだ見えないものが沢山あるのだもの。本当の母親の気持ちなんて、判るわけもない。

しかし、彼、真人は、この母親が「本当の母親」じゃないかもしれない、と思っているんである。
いや、そういうわけではなく……もっと、内面的な意味で。彼がつながっているのは、生まれたばかりの赤ん坊の頃、40日間を共に過ごした愛子という女性だと思っている。
それは、生後間もない真人を、産院からさらった“誘拐犯”。
真人は愛子が今沖縄にいると突き止め、バイクに乗って、彼女に会いに来た。

柄本佑ってば、またしても17歳の役である。ラストに数年後の設定があるにしても、17歳の男の子が持つモヤモヤをその佇まいから表現できる男優は、これが意外になかなかいないということなんだろう。
劇中、彼は余貴美子演じるスナックのママから、「人なつっこい(人当たりがよい、だったかな)けど、心の中では人を信じてない」と言われる。彼自身、その自覚があるのかないのか、あいまいなリアクションをする。
一方、愛子はそれとは正反対に、「クールに見えるけど、本気で人を好きになる、熱い人」なんだという。彼が「本当の母親」だと感じているのに、自分とあまりにも正反対。
いや、きっかり180度違うからこそ、パズルのピースが合わさるようにぴたっとくるのか。

愛子は沖縄で食堂を切り盛りしていた。ダンナは入院中で、このかき入れ時に彼女はたった一人で大忙し。傍目にも明らかに手伝いが必要な状態。友人であるスナックのママは、真人が住み込みのバイトを探していると知って口添えしてくれるのだけれど、「ガードが固い」愛子は、首を縦に振らなかった。
しかし、忙しい時、するりと手伝いに入った真人を拒否することも出来ず、住み込みの件に関しても入院中のダンナから、「何警戒してんだよ、ババアが」と言われ、やむなく受け入れることになる。
真人はよく働いた。自分の名前をリョウスケと偽り、愛子に「愛子さんと呼んでいいですか。自分もリョウスケでいいです」と言った。
彼が愛子さん、と呼びかけても、彼女は西脇君という呼び方を変えなかった。その頑なさが、二人の仲を微妙に変化させる。

愛子が松雪泰子なもんだから、柄本佑とじゃ、実年齢差を考えたって(そーゆー考え方はしちゃいけないんだけどさ)そりゃ、そんな雰囲気にもなるさってなもんである。
でも、あくまで二人はプラトニック。プラトニックというのもヘンだけど……例えば彼が彼女を抱き締めるのも、その形はあくまで息子が母親に甘える形、それはきっちりと踏襲はしているんだけど、やっぱりどこか……微妙なのよね。
無論、40日間の過去はあったにしても、二人は実の親子であるはずもなく、恋愛関係になるという可能性は無視できないってのはあるんだけど、二人が、特に真人の方が愛子は母親なんだ、というガードを常に掲げているから、そのガードにぶつかって湾曲してしまうのだ。
いや、愛子の方こそが、そうだったのかもしれない。それこそガードの固い愛子。でもいったん好きになったら本気に熱い。真人が言わなくても、彼に対してあの時の赤ん坊を重ねていたのは想像に難くない。ただ、母親が息子に向ける愛情は時に、……常軌を逸するからさ。

愛子は真人に、自分は息子を亡くしたのだと言った。だから、一度子を亡くした哀しみから彼を誘拐したのかなと思ったのだけれど、そのあたりの事情が判然としない。
昔の新聞記事とか出てきて解説されるまで、一体どういう順序で行けば、さらった愛子の方が本当の母親になるのかと、物語を追いつついろいろ考えて悩んじゃったんだけどさ……。
まさか赤ん坊を誘拐して捕まったと言えるわけもないから、息子を亡くしたというのはそりゃ当然言い訳なんだろうけど、100%そうだって確信も持てない。もし本当にそうならば、彼は死んだ息子の替わりであり、彼もまた本当の母親の替わりに彼女を求めているのであり、そんな哀しいこともないんだけれども。
一応、過去の報道では、愛子が子供が出来ないストレスから誘拐した、みたいな感じなんだよね。
でもそれで、40日間の幸せな日々を送るものだろうか。しかも回想シーンの雰囲気では彼女と赤ん坊、たった二人の雰囲気なんだもん。
しかもタイトルが「子宮の記憶」である。原作が未読だから映画から受ける印象しかないんだけど、それがちょっとあいまいで、歯がゆい。

真人の母親は、無事に息子が戻った後、ビデオで何度もニュース映像を見てた。真人がブロック遊びをしている前で、自分主演の悲劇の母親に酔いしれていた。それが彼の多分、最初の記憶。
こんな事件がなかったら、彼は母親なんてこんなものだと思って育ったかもしれない。
ヘタに、“もう一人の母親”の存在がいることが、彼の、男の子として甘えるという要素を、未成熟なままに閉じ込めてしまった。もう一人の母親のためにそれをとっておいてしまった。
中盤に、こんな回想が出てくる。母の日に真人が一輪の赤いカーネーションを母親に贈った場面。
「私、カーネーションって嫌い。貧乏臭くない?」と言い放ち、彼の差し出した花に見向きもしない母親。

ある時、真人は唐突に愛子に花束を贈る。「私のこと、可哀想な女だと思ってるの?」と愛子は受け取ろうとしない。「そんなんじゃないです。いいです」と真人はカンタンに花束を引っ込めてしまう。
愛子は真人にひどいことをした、と落ち込み、ママの店で酔いつぶれてしまう。しかし真人は、「俺、そう簡単に傷つきませんから」と愛子に言ってみせる。「強いのね」と返す愛子。
この台詞は、彼と彼女の180度が、ちょっと条件がブレるとカンタンに360度回ってしまうことを示しているように思う。真人はショックを隠すのが上手なだけ。あるいは、ショックに気づいていないだけ。そのショックの度合いは、愛子と同じなのだもの。

真人が両親に愛されていないことに不満を持っていることが、冒頭、母親に対するいきなりの暴力行為で示されるだけなのはあまりに判りづらい。
折々に回想シーンが挿入されたり、真人自身の言葉で解説されたりするものの、正直ピンとこないんである。
でもそれも、意図的なのかもしれない。後に愛子の義理の娘に指摘されるように、真人は「何の苦労もなしに育った」お坊ちゃまなのかもしれない。父親が仕事で忙しくて不在気味だったり、母親がナルシス気味だったりするのは、世間によくあることなのかもしれない。

ただ、真人には他の子供たちとは違う条件があった。それが、赤ん坊の頃誘拐されたという経験。
彼にとってそれは、ちょっと誇らしい事実だったんじゃないの。
他のヤツらとは違うんだ、みたいな……。
そして愛子だけが最後の砦だと思っていたけれど、逆で、自分が愛子にとっての最後の砦だと思ってたんじゃないの。
子供が欲しくて欲しくて、赤ん坊の真人をさらった愛子。自分の存在そのもの、それだけが、彼女を癒したという自負。
でもだからこそ、赤ん坊なら誰でも良かったとは、言われたくなかった。
そうじゃないことだけを聞きたくて、愛子に会いに行ったとさえ、思える……後から考えれば。
だって、愛子が「私に笑いかけてくれたたった一人の赤ん坊」だと聞いたとたん、彼女への執着を解いたじゃない。

というのは、またずーっと後の話なんだけどね……。
真人にとって産みの母親はやっぱりたった一人の母親で、それが愛すべき存在かどうかというのは別問題である。
愛子さんは愛子さんという特別な存在であり、やはり母親にはなりえないのだ。どんなに運命を感じても……。
愛子の義理の娘のミカが、二人の秘密をかぎつけるも、真人は冷静に(というか、冷静を装って)「これはゲームだ。バラされたらゲームが終わってしまう」という言い方をするのも、それが明るみに出ることを怖がっているようにも思える。

ミカはひたすら親に反抗している。ことに、突然母親として登場した愛子には、一から十まで突っかかってみせる、情状酌量をするにしてもちょっとワガママ過ぎな娘なんである。
真人の荷物を物色し、弱みを握って呼び出した彼を質問攻めにする。
「あんた、なんでそんなに金持ってんの。歯科医の息子だから?」
真人は、ミカが自分を置いて出て行った実の母親にこだわっていることに気づいて冷笑する。
「母親が本当の母親だなんて判らない。生まれた時の記憶はないんだから」それは、真人が愛子を母親だと信じているんだと言っているような台詞。誘拐犯の女を。

「あんた、狂ってるよ」ミカは真人の迫力に気圧されながらも必死に返す。
「お前は母親に捨てられたんだよ。それを認めたくないだけだ」
そして、真人はミカを押さえつけ、「人を殺すぐらい平気だ」と逆に脅しつけ、彼女を押し倒して……まあ、そのー……そういう関係に至る。
でも、独特の間があったせいか、ムリクリに見えないのもちょっと悔しい。「あんた、慣れてるね」というミカの台詞をすんなり聞けちゃう。
「金、返すよ」「そんなに良かった?」「バカ。いくらなんでも多すぎると思ったからだよ」
この台詞は、後に登場する、妊娠によって自殺してしまう友人の女の子への伏線になるんである。

確かに真人は、愛子が母親であればと願っただろう。でも違うのだ。それは彼が一番よく知っている。
そして、自分が生まれなかった子供の身代わりだということも……。
二人の関係はだから、暗黙の了解の元にそれを口に出すことをお互いに禁じた、共犯関係だ。悲劇の母と息子、を演じているのだ。
ハタから見て、二人がデキている、と俗なウワサがたつのも、恋愛にも似たような暗黙のウソというものが存在するから、そんな空気を感じとられたんじゃないだろうか。
ある時、酔った客にからまれた時、真人は愛子を母親だと言った。愛子は「ウチの息子が何をしようが関係ないでしょ」と客に出て行くように言い渡した。
怒って更に絡む客に、真人はビール瓶をブチ割って、野良犬のような目で客を見据えた。
それ以前までならば、ギリギリ、二人は擬似親子でいられたのかもしれない。でも母親のためにここまで凶暴な目をするだろうか。
いや、するかもしれない。だから母と息子の関係はヤバいのだ。

暴力的な夫、犯行的な義理の娘。もしそうじゃなかったら?愛子が理解ある夫と娘に囲まれて幸せに暮らしていたら、真人はただしおしおと帰ったのだろうか。
真人にとって、いや男にとって、好きな女が悲劇的な状況にいるというのは理想的だ。だって自分が救世主になれるから。
大抵のヒーローモノとヒロインとの関係はそうだもの。

沖縄とはいえ、ダンナが入院中で一人残されている愛子が、ノースリーブのふわふわしたワンピースというのはなんだかあまりに無防備。 ソデのあるなしで全然違うんだよね。彼女が本当にそんなにガードが固くて、人見知りだっていうんなら、ノースリなんて着るかな……。
確かにそれは彼女の危うさを現わしてて、見ててすっごい危なっかしい感じはするけれど。
それともそれこそが、「ガードは固いけど、本当に人を好きになる、熱い人」を表現しているんだろうか。
一方の義理の娘は、これまた判りやすいぐらいの超ミニのギャルファッション。対照的にするにしても、あまりにも単純明快である。んでもって茶髪にちっこいサンダルにゴージャス系のメイク?判りやすすぎるなー。
しかも彼女、東京に出てきた時は、その東京版とでもいうように、ゴールドのトップに白のフレアーミニ、ショルダーバッグもキンキラキン、といういでたち。それはあまりにバカにしすぎだろ……。

そして、こっちこそがキーマンなんだけど、愛子のダンナってのが、これまたすっごい判りやすい暴力的なヤツなんである。なんでこんなヤツと結婚したんだよ、みたいな男。
ヤクザひげ生やした寺島進、というのもやけに判りやすい。
真人を住み込みにさせた「何警戒してんだよ。お前みたいなババアが」てあの台詞、あまりの暴言に愛子はうなだれ、真人は顔には出さないけど憤ってたに違いない。だけど後のシーンで、このダンナ、愛子に欲情して病院のベッドの上で愛撫を図るじゃないのお。

この時だけは、ふと彼が優しい男のように思えてしまった。ああ、なんて女はバカなんだろ。セックスの時に優しくなる男を、気持ちの優しさだとカン違いしてしまう。だから、余計傷ついてしまうんだ。でもそれって、女が悪いの?
あえぎ出した愛子に、「もう帰れ。あいつにレジ任せてるんだろ」とダンナ。「あの子は大丈夫よ」「バカか、お前は。なんですぐ他人を信用するんだ」それまでの愛撫がウソだったように頭を小突く。さっきまで優しく愛撫していたその手で……。
ババアなんかじゃないのに。彼女みたいな綺麗な女なら、特に母親の愛情に飢えている男の子ならイチコロじゃないのお。彼とそういう関係にならないのが不思議なぐらいだよ。
男は自分の女になると、所有物だから貶めるクセがあるんだろうか。でもそういう論理なら、所有者である自分自身こそ貶める結果となるのに。

それをもうひとつの形で象徴的に表わしているのが、真人の友人の女の子、沙代の死である。
受験生なのに東京からわざわざやってくる。でも二人の関係はあくまで友人。沙代はあまりに警戒心がなく、真人に「泊まってってくれる?」なんてまで言う。それは、不安な心を沈めるために側にいてほしいってこと、本当にそれだけだった。
もうちょっと大人になってしまったら、そんな論理が男女の間で通用しないことぐらい判る。今、彼らの年齢ではギリギリ通用するけれど……彼らがサバ読んでるハタチを超えた年齢になってくると、もうそんなのダメ。

いや、男の子の方は性欲がいっぱしに出てくるから、もうこの時点でやっぱりダメなんである。
寝入っている彼女の素肌に指を這わす真人に気づき、「したいの?いいよ。真人となら」と言う沙代。
彼女にとってそれは確かに、友情の証しとしてのセックスだっただろう。そんなものがあるのかと思ったけど、この時の彼女にはそれを感じた。それがいい時代と言えるのかどうか……。
相手を好きだからこそ許すはずのセックスを、恋人に裏切られて、こんな形で終わらせるのがイヤだったのかもしれない。
真人がただ……セックスしたかっただけにしても。
だから沙代が死んでしまった後、真人は激しく後悔する。
でもそれを、愛子のビンタ一発で許してしまうのも、なんだか甘いような気がしちゃうけど。

沙代は、妊娠していた。付き合っていた早大生は、オレじゃない、と逃げているという。堕ろすしかないだろ、と言う真人に彼女は冗談に紛らせて、「痛いの、ヤだな。だからピアスもしないのに」と笑った。
真人は淡々と、「気持ちいいことしたんだから、仕方ないだろ」と言うと、沙代は「気持ちよくなんかなかったよ」と素早く返す。
「じゃあ、なんでしたの」「なんでだろ……サービス?」
さ、サービス……これって、すごい、リアルな言葉だな……。

っていうか、男の子は10代ん時からセックスが単純に気持ちいいわけで(推測)、だから女の子もそうだと思っちゃって男女の意識のズレが生じるってことを、ちゃんとガッコーで教えなさいよ(なんつって)。
それにつけこんで、アダルト業界が隆盛するわけだけどさ(あ、テーマがズレてきた)。
女はねー、そこに至るまで多かれ少なかれ、苦労するモンなのよ。それまでは演技力で乗り切るのよ。女がウソが上手いのはだからなのよ(ますますテーマがズレてきた……)。
その話を後に聞いた愛子の、「20代の頃までは、セックスは嫌いだった」という言葉と、キッチリ呼応するしね。
それが愛情なんだと言われると、女の子は逃げ場がなくなるんだよね。しかもそれで妊娠させられた男に逃げられたんじゃ、目も当てられない。

沙代は、真人と笑顔で別れたけど、その後、祭りの最中に海中で溺死体となって発見された。
彼女はヨソモンだし、真人と一緒にいたところが見られていたからヤバかったんだけど、「遺書が見つかるかもしれない。それまで真人のことは黙ってて」と愛子に懇願されたママは、「あんた、母親みたいね」と嘆息する。

…………。

結局、遺書が見つかる。まんじりともしなかった真人はその知らせに、愛子の腰に抱きついて泣き崩れる。彼の頭を抱えて撫でさする愛子。……ちょっとギリギリな描写。
ハッと気づいて身を離す真人だけど、そこに入院中のはずのダンナが包丁持って乗り込んできた。包丁って……かなりベタだけど。
二人の関係を疑ったダンナは衝撃の事実を告げる、とでもいった風情で、愛子の過去を暴露する。しかし真人は知ってた、と言い、ここにきた理由を告白する。……たまらず、涙を流す愛子。
リョウスケっていうのは、単なる偽名じゃなかった。あの40日間で愛子が彼につけた名前だったのだ。
だから、愛子は薄々気づいていたのかもしれないけれど。

愛子の手をとって、一緒に行こう!と叫ぶ真人。彼女は躊躇するけど……結局彼のバイクにまたがって疾走する。
そして到着したのは、澄み渡る空と透き通る海と白い砂浜。海岸線に向かって佇む二人。愛子は「これからどうするの。考えていなかったでしょ」とちょっとからかい気味に真人に言う。
でも、その考えていなかったという子供の性急さこそが、彼女にとって愛しかった。だから、何にもならないと頭では判っていても、少しの間だけ酔いしれたくて、ついてきたんでしょ。

実際、この海岸についてから二人一緒にいた時間はそれほど長くない。
海の中へと入っていった愛子に、沙代みたいに自殺するのかと思って焦って後を追う真人。愛子は振り返って微笑む。
「もう一度会えるなんて思わなかった。こんなに大きくなって……」
一歩、また一歩と愛子に歩み寄り、彼は彼女を抱きしめ、彼女はそれに応えた。
この時の抱擁は、あまりに切なくて、私には恋人同士のそれとしか思えなかった。この台詞でギリギリ踏みとどまっているようにしか。

愛子に行きなさい、と背中を押され、真人はこの地をあとにする。
バイクで元来た道をひたすら戻り、家へと戻る。
彼は母親と関係修復しようと思って帰ったのだろうか。
しかし、母親は一週間前に倒れて死んでしまった。むしろこの結末は真人にとって甘い気がする。
だって、死んでしまったら、もう闘う必要はないんだもの。
それとも、せっかく覚悟を決めて闘いの場所に挑もうとしたのを奪われた哀しみ、と解釈すべきなのか。
「どこへ行っていたんだ、一週間も」そう責めかける父親に、「ひと月!ひと月だよ。気づかなかった?」と応酬する真人。黙り込んでしまう父親。
穏やかな、あまりにも穏やかな母親の死に顔に呆然と膝をつく真人。
「なんで生きている時その顔でいてくれなかったんだよ。今更そんな優しい顔したって、騙されない」
これが、愛の言葉に聞こえてしまうのは、間違ってる?

この後の場面は、必要だったのだろうか。
数年後、社会人となった真人が昼間の映画館でミカと再会し、愛子が行方知れずだと聞いて沖縄に旅立つ。
なんか、やけにダサいカッコの真人……。
そもそも、ミカは本当に愛子の居所を知らなかったの?「知ってても、教えない!」という台詞は、知ってるってことじゃないの? それとも、二度も母親に置き去りにされたことへのウラミなんだろうか……。
最後に別れた海岸を訪れる真人、帽子を海へと投げ、座り込む。

あの別れの時愛子は、自分の身の振り方を「戻るかもしれない。一人で生きるかもしれない」と濁していた。愛子がどちらを選択したのかは、判らない。だって真人は二人が過ごした場所にしか行っていない。今はもう廃屋となった定食屋と、この海岸だけ。ダンナの元もママの元も訪ねてはいない。
男のロマンティックはこれで完結するのだろう。
でも、女は?★★★☆☆


刺青 堕ちた女郎蜘蛛
2006年 96分 日本 カラー
監督:瀬々敬久 脚本:井土紀州
撮影:芦澤明子 音楽:中川孝
出演:川島令美 和田聰宏 光石研 嶋田久作 松重豊

2007/1/25/木 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
あれえ?谷崎の「刺青」ってこんな話だっけと思ったけど、いやいやいや、考えてみればこんな話どころか、ものすんごくシンプルな話だったんだよね。彫り物師が理想の女を見つけてその背中に蜘蛛の刺青を彫る、って言ってしまえばただそれだけの話。
でも、その耽美な映像美がグワッと目の前に迫ってくるような作品で、映像化の魅力をとにかくそそられるのであろうネタ、そしてシンプルな話だけに、作家の力量も試されるネタ。

冒頭で、皆して催眠にかかっているような描写からスタートするもんだから、「こんな話だっけ?」という驚きがまず突きつけられたんである。自己啓発セミナー、自らの中のものを解き放つ、みたいだけど、客観的に見れば、これがまるで洗脳以外の何ものでもない。
数人の老若男女の中で、この物語の片方の主人公となる二ノ宮という青年が、最もそのワナに深くはまっている。深い闇からようやく目覚めたとでもいう顔で、その大きな瞳にはギリギリと涙があふれている。見たとたんに、こりゃ、ヤバいと思う。

この青年を演じているのが、和田聰宏。ここ数年、なんか見る度気になる役者。ちょっとグッとくる色っぽさがあるんだよね。いまだに大沢たかおにちょいと似てるなあと思ってしまうのだが。
全編そうなんだけど、この冒頭の描写で、思い込んでしまったら、もう誰がなんと言っても聞きゃしないんだろうなという危なっかしさを感じる。それは愚かではあるんだけど、それこそが妙に色っぽい。
谷崎の「刺青」では女に彫り物を施す男こそが主人公であったけれど、彼はそのカヤの外におかれる人物なんである。

そして、なんといっても刺青を入れられる女である。出会い系サイトのサクラをしているアサミ。彼女の描写は、不倫相手の家を訪ねてドアを狂ったように叩き、警察に通報されて連れてかれちゃう、という痛いシーンから始まる。彼女もまた、一度思い込んでしまったら危ないタイプである。
アクセスしてきた客と会うことは御法度なんだけど、アサミは二ノ宮と会ってみる気になる。それは、彼が「今、車の中に蝶が入ってきました」と添付してきたその白黒模様の蝶の写真に、ふっと魅せられたから。
この蝶、っていうのはちょっと不気味なんだけどね。葬式の幕みたいな白黒のストライプ模様だからか、なんだか不吉な感じがする。

実際、アサミが二ノ宮に会ってみると、開口一番彼はこう言うんである。「リンゴさん?……想像していたのとちょっと違ったから。僕の話を聞いてもらえますか」
どう想像していたというんだろう。でもとにかく二ノ宮が彼女と会いたいと思ったのは、ヨコシマな考えからではなかった。いや、言ってしまえばヨコシマな考えであるとも言えるけど……自己啓発セミナーの勧誘が目的だったのだ。あらららら、冒頭のアレですっかり彼はワナにハマって、いまやそのインチキ会社に勤めちゃってるんである。

彼がアサミを引き渡したのは、セミナーの主宰者・奥島。一見、物腰は柔らかそうに見えながらも、「大人のくせに、家族と相談するとか、自分で決められない優柔不断な人は困るんですよ」と冷たい目で突き刺す。アサミはその目に射抜かれたようになって、そのまま彼と関係を持ってしまう。
奥島はアサミが気に入り、自分の女にするために自らの背中に背負っているような刺青を彫らせようと、彫師、彫光の元に彼女を送り込む。その運転手役は二ノ宮である。
二ノ宮の目の前で、アサミは麻酔をかがされ、その背中に大きな女郎蜘蛛の下絵が描かれる。
二ノ宮は、彫光の手からアサミを救おうとするんだけど、アサミは自分の背中に魅入られたように言った。「刺青、彫ってください」

ところでさー、このアサミなんだけど、「彫師が一生に一度、会えるかどうかの肌だ」なんてほどのキャラ設定なのよ。そらそうだ、谷崎が原作なんだもん。でもね、演じる川島令美は、決してきれいな肌じゃないの。彫りを入れる背中にカメラが近寄ると、結構ブツブツが目立つ。
この女優の配役だけが、どうも納得出来ないなあ。
化粧荒れした顔も、「刺青」の主演女優としてはダメだよー。鼻なんていつもテラテラ脂ぎってて、近寄るとイチゴみたいに毛穴がバッカー開いてんだもん。
まあ、これはカメラとかメイクでフォローすべきだったのかもしれないけどさ……。でも、ああ、葉月蛍とかだったらスゲー良かったのに!とか思わず妄想しちゃう。

目の前の女が、ココにはいない男と、背中に傷を刻みつけていく男とで、染められていく。
二ノ宮は最初からアサミに対して、勧誘の意図しかなかった筈なのに。
結局、アサミは刺青を入れることを決め、二ノ宮はどうにも承服できなかったんだけど、奥島の命で仕方なく、彼女を彫光のところへ送り迎えするようになる。
その帰り道、送ってくれた二ノ宮の車から降りようとしたアサミは、そこにあの不倫相手がいるのを見つけてしまう。
彼女はとっさに、彼に見せつけるように、運転席の二ノ宮にキスをする。誘われたようにアサミを求めようとすると、彼女は慌てて身を離す。
「俺のこと、からかってんですか」
憮然とした二ノ宮をなだめるように、アサミは彼をホテルに誘う。

一人、酒を浴びるように飲む二ノ宮。アサミは自分のことを話し始める。
いくつものキャラクターを演じ分け、男たちを翻弄することを楽しんではいたけれど、一方で騙しているという罪悪感も感じていた。
実際、サクラだと見抜いた男たちに脅されたりすることもあった。
「お前、サクラだろ。お前のサイト、評判悪いぞ」「絶対見つけ出して、殺してやる」そんな言葉が目の前で打ち込まれた。
そんな時、アサミは仕事場においてある、二ノ宮から貰い受けたあの蝶を、ビンの中、飛び立とうとしてカサカサと動いている蝶を、じっと見つめていた。

アサミの言葉には、あなただってそうでしょ、という含みがある。二ノ宮は激しく否定する。「俺は本当に信じてやってますよ」そう言って、したたかに酔う。
わざわざそう、自分に言い聞かせるように言うこと自体が、もしかしたら心のどこかに引っかかっているのを彼自身、感じているのかもしれない。
普段はそんなこと思いもしない。奥島を信じ切っているけれど、アサミに出会って、ちょっと心惹かれて、こんな風に酔ってしまうと、心の中の弱い部分がふっと首をもたげてくる。
アサミの方は二ノ宮から「話を聞いてください」と言われた時点から、もうおかしいと見抜いていた。いや誰だってそう思うけど。
それでもなぜ、落ちてしまったのだろう。刺青を入れてくださいと、言ったのだろう。
実は、「この刺青に魅せられて」なんて風にはね、見えなかったんだよね。一応、流れ的にはそうなのかなと解釈したけど。これは彼女の演技力の問題か……。
スミを入れられてる時も、アンアン言ってるだけで、眉にシワひとつ寄せないし、どーも耽美的魅力に欠けるのよね。

自分の刺青を見てほしい、そう言って衣服を脱ぎ捨てようとする彼女を、今度は二ノ宮が拒絶するのね。
なんかね、ちょっと嫉妬に思えなくもない。
「針があたしの肌に突きささってて、墨があたしの肌に入って…痛みを感じてる時、あっ、あたし、今ここにいるって、そう思った」
そうつぶやくアサミの台詞を聞いているのかいないのか、酔った二ノ宮は拒絶の果てのようにトイレに駆け込んで吐いてしまう。そしてフラフラとベッドに胎児のように丸まって横たわる。その彼の隣に、衣服を脱ぎ捨てたアサミは向かい合って横たわる。
これは……この後、を暗示させた描写なのだろうか。
でも、アサミは手始めに奥島と、それから後半には数々の男たちとヤッちゃってる場面が実際に描写されてんのに、ここだけが暗示で留めているというのは、ないかなあ。
でも、弱い者同士が向き合っているようなこの場面は、ちょっと心そそられるものが、あるんだけど。

二ノ宮には、今は別居しているけれど妻子がいる。彼らに会いに行く場面も、二ノ宮のちょっと怖いぐらいの思いの激しさが覗われる。
通り道を待ち伏せするように、妻子の前に現われる二ノ宮。息子の手を引いた妻はあからさまにイヤそうである。でも二ノ宮はそんな妻の様子には気づいていない。嬉しそうに息子に話しかけ、今の会社の名刺を差し出す。
「金がたまって落ち着いたら、また一緒に暮らさないか」「……その時にまた話し合いましょう。これからは来る時電話して」
妻は、本当はそんな理由で彼から離れたんじゃないと思う。今までの二ノ宮の様子を見れば、そんなことぐらいは推測される。でも彼自身は、全然気づいていない。
案の定、次にまた突然二人の前に現われた時、その隣には交際していると思しき男性がいて、既に息子もなついていた。息子に買ってきた缶スープを路上にばらまいちゃってはいつくばっている二ノ宮に、妻は、冷たく言い放つ。
「もう、近づかないで」

そんな中、二ノ宮の勤めていた会社に、警察の手入れが入る。彼だけが最後まで奥島を信じて残っていた。その奥島自身も姿を消していた。
信じられない二ノ宮は、そんなはずない、と叫んで、暴れて、警察に連れてかれてしまう。でも何を聞かれても、奥島のことを信じきっていた二ノ宮に答えられるはずがなかった。
ようやく解放されて、そして身を隠していた奥島に再会する二ノ宮。奥島は平然と、「また名前を変えてやりゃいいよ」などと言う。「そんなことでいいんですか!」と二ノ宮がくってかかると、奥島は豹変する。二ノ宮をボコボコニ殴り倒す。
こんな男の、何を信じていたのか。
フラフラになった二ノ宮は、ブロックを奥島の頭に打ち下ろしてしまった。
松重さん、こーゆー極悪冷血で、弱い男をのし、女を力づくでモノにする男、似合い過ぎるのよねー。

アサミも二ノ宮の前から姿を消していた。あのサイトにアクセスしても、「リンゴさんは既にこのサイトを退会なされました」という答えが返ってくるだけ。それはアサミ自身が打ち込んでいるんだけど。
彫光も、アサミを待ち焦がれていた。
「彼女を見つけたら、ここに連れてきてくれ」そう二ノ宮に懇願した。
一生に一度出会える肌に、出会ってしまったら彫師も終わり。それを恐れてる。でも未練がある。未完成が心残りで。
まるで初恋の少年のようだ。……そんな肌ではなかったけどさあ。

ラブホテルの清掃員になった二ノ宮は、ある日、定食屋のテレビに釘付けになる。
そこには、孤児たちの施設が閉園になるというニュースが流れていた。
涙を流し、「皆で寄付してこの子供たちを救いましょうよ!」と叫ぶ二ノ宮。ええー……。
なんつーか、やはり彼は、どーにも極端なのね。
もう自分は騙されないとか言ってたのに、そりゃまあ、今度は騙されているわけではないんだけど、このニュースでなぜそこまで思いつめられるのか。彫光にも寄付を募るしさ。

そんな中、彼は男と一緒にホテルに入っていったアサミを見つける。
出口でニコニコと待っている二ノ宮。
彼を見て、いきなりうろたえ、金を全部投げ出して逃げ出す男。「スミなんか入れてるから、おかしいと思ったんだよ!」勝手に美人局だと誤解したらしい。それにしても、川瀬氏、うろたえすぎ(笑)。
二ノ宮は、そんな男など目に入っていない。アサミのことも……なんか目に入っていないみたい。彼女を目の前に、孤児院に寄付する話を繰り返す。彼女は彼の勢いにどう思ったのか知らんが素直に金を差し出し、そしてこれからの計画に乗るわけね。

もともとそれは、アサミがかつての不倫相手と再会したところから始まっていた。
アサミはただ彼に抱いてほしかっただけなのに、彼女の刺青を見たとたんに、彼は及び腰になってしまう。抱いてと何度彼女がせがんでも、ごめんと謝るばかりの彼。結局、カネをばらまいて逃げてしまうのだ。何のためのカネなの。手切れ金?一体、何に恐れているの。
不倫に覚悟なんかなかったのだ。本当に愛していたわけではなかった。

そして、アサミは今、サイトで騙した男たちに実際に会い、「許して」とその身体を捧げることを繰り返してた。その男たちから寄付を募ろうというのだ。
つーか、明らかに美人局よね、これって。二ノ宮自身にその意識がないようにしか見えないっていうのが、スゴイよね。
その計画は見事にはまり、事後に現われる二ノ宮に皆恐れて金を差し出した。だけど……最後の男だけが違った。
二ノ宮が殺して埋めた奥島が甦ったかのような、背中に見事な刺青を背負ったヤバめの男。
二ノ宮が現われても、まるで動じない。

っていうか……いつもは事後に現われる二ノ宮が、この時だけはその最中に入ってきちゃったんだよね。
まるで陵辱されるような、セックス。でも彼女のあえぎっぷりは激しく感じているようにも見えた。
男は邪魔されたことを、明らかに不快に感じている様子で、二ノ宮の頭に灰皿を打ち落とす。そして風呂場にもつれこんでのバトル。ベッドでセックスの後の感慨にふけっているかのように、ぼーっとそれを眺めているアサミ。ようやく気づいたように物憂げに身を起こし、風呂場へと向かう。……もっと早く行けよ。
浴槽には二人の男が、沈んでいた。まさか二人とも死んだか……しかし二ノ宮はぷはあ!とばかりに顔をあげる。彼を引き上げ泣きじゃくるアサミ。この時に気持ちは決定したかな。

瀕死の二ノ宮を支えたアサミ、ホテルの部屋に男の死体を置いて、二人は必死に逃げていく。血だらけで息も絶え絶えの和田氏はやけに色っぽい。
崩れ落ちる二ノ宮、泣きながら彼の唇に自分の唇を押し付けるアサミ。ああ、和田氏、色っぽいなあ……(こればっか)。
二宮は、自分の代わりに施設に金を届けてくれ、と彼女に懇願し、息絶えた……って、うっそお、ここで死んじゃうのお!?
アサミは彼の最後の望みを叶えるべく、立ち上がる。施設の郵便受けに血で汚れた封筒に入った金を入れる。そして、もう一人の男の願いを叶えるためにきびすを返した。それは彫光のところ。
女郎蜘蛛に赤い目が彫り込まれた時、路上に倒れていた二ノ宮の目がうっすらと開く……って、おいおい、生き返るのかい!
えーと、解説では、「そして愛の奇蹟が。」って、えー、そーゆーオチなの?うっそお……。

しかしそうボヤきつつ、ラストではちょっとドキドキしたりして。
偶然なのか、いつのまにか待ち合わせたのか、二人が再会したのは砂浜。あ、そういえば砂浜で二人寄り添い、手を握る場面があったっけ(忘れてた)。
彼女は彼を見つける。彼は彼女を見つける。駆け足になる。その速度がだんだん速くなる。硬く抱きしめあう。血で汚れた白いシャツの彼が、はかなげなワンピースの彼女を抱きしめる。寄せては返す波の音が聞こえる砂浜。ベタだけど、きゃー、ちょっとドキドキしちゃう。

谷崎の原作がこう変貌するっていうのも、興味深かったし、和田氏はとにかく色っぽかったのだった。★★★☆☆


しとやかな獣
1962年 96分 日本 カラー
監督:川島雄三 脚本:新藤兼人
撮影:宗川信夫 音楽:池野成
出演:若尾文子 伊藤雄之助 山岡久乃 川畑愛光 浜田ゆう子 高松英郎 小沢昭一 船越英二 山茶花究 ミヤコ蝶々

2007/7/17/火 東京国立近代美術館フィルムセンター(川島雄三監督特集)
もう、ただただアゼン呆然!まるで息つくヒマもない会話劇は、新藤兼人の目の覚めるような脚本が大きな力を与えているとは思うものの、それにしても圧巻過ぎる。
しかも一部屋に限っての密室劇、言ってしまえばシチュエイションコメディ。いや、シチュエイションコメディなどと言うにはシニカルのスパイスがあまりにもたっぷりかけられすぎているけれど!実際、あまりの皆さんのごうつくばりっぷりに、笑える筈なのに笑うのも忘れて口をあんぐりとあけたまま、アゴがハズれんばかりの状態で観続けていた次第。いやー、もう、ビックリしたのなんの。

ほんの2Kばかりのアパートの一室を、縦横無尽のキャメラワークで切り取っていく。無論これはホンモノのアパートの一室などではなく、撮影所に建てられたものであることは、天井を外した俯瞰の図、ドアの内側と外側を上から一度にとらえた図などで即座に判るものの、それにしたって非常なるスリリングである。
一部屋モノということで舞台調になりそうなところを、この鮮やかなキャメラワークで厳然たる、そして魔法のような映画世界に見事に切り取っている……。
けれど、やはりこの作品の素っ晴らしいところは、そんな流麗なキャメラワークのことでさえ、二番手、三番手にくる、このごうつくばりの人間どもなのだっ!

最初に出てくる退役軍人夫婦がまずモノ凄いので、彼らがメインで引っ掻き回すのかと思ったらさにあらず。次から次へと強欲人間が出てくるんで、この夫婦が可愛く見えるほどなんである。
いやしかし、でもやっぱり、この父親は凄かった。冒頭、息子の会社の社長をアパートに迎えるという場面、ワザとボロい寝間着に着替え、高そうな絵やテレビは外し、「見ての通りの貧しい暮らしで……」と平身低頭する。芸能プロダクションに勤めるこの息子が会社の金を使い込んだことへの謝罪なのだけれど、慣れた様子でとりつくろったり、社長一団が帰った後は「なかなか怒ってたね」などとのほほんと言うもんだから、あれれ、息子がチョンボをしたことがショックじゃないのかなと思っていたら、なんとこの父親自身が命じて息子に使い込みをさせていたというんだから仰天!

いや、と言っても、この息子がアゴで使われているというわけでもない。「どうせ税金をゴマかしているんだから」とこの息子も平気の平左で、「父さんにはやったろ。僕にも分け前はもらわなきゃ」てなもんでぜっんぜん平気。
父親は口では「もう父さんも50で、最後のチャンスだ。成功すればこれまでの借金なんて全部返せる」とか言いながら、これまでの事業は「軍人仕事で」ことごとく失敗。今だって口ばっかりで、結局は子供たちの運んでくるカネだけが大事なんである。
二言目には「父さんにあと30万ばかり貸してくれよ」だの「ホテルに泊まる金があるなら、その分父さんにこづかいをくれ」と言うもんだから、その飽くことのないカネへの執着に、時々はふいを突かれて吹き出してしまうものの、もうとにかく口アングリなのだ。しかもだ。彼は口ではいずれ借金も返せるなどと言っておきながら、これっぽっちも返す気などないのだから!

更に凄いのが、このアパート自体、彼らの持ち物でもなければ賃貸でもないっつーことなんである。二号さんとして差し出している娘のパトロンである作家、吉沢のこの台詞に仰天し、爆笑する。
「そもそもこのアパートだって、友ちゃんのために用意したのに、いつのまにか君たちが入り込んできて、これはサギのようなものじゃないか」えええ!
しかもそれに返してこの父親、「いえいえ、私たちは先生と友子がお会いになる時はいつでも出て行きますので」
いやいやいや、だって思いっきり腰をすえた生活してんじゃん!しかも棚には高そうな酒がズラリと並び、物語の最後なんて父親はブランデーグラスをまったりと手で転がしながら、つまみはなんと「ほら、キャビアがあったろ」って、オーイ!
しかもそれにハイハイと答え、父親と一緒に猿芝居をし、時には父親よりも冷静なリアクションを取る母親もいい面の皮なのだ。あ!そうだ。まさに面の皮が厚いってこーゆーことなのだ。こんな面の皮が厚いヤツ、見たことない。演じる伊藤雄之助と山岡ひさ乃のなんとまあ、圧倒的な強欲夫婦!

しかし彼らをも感嘆させるツワモノが登場する。冒頭、怒り猛る社長の側に静かにつき従っていた経理の三谷幸枝。彼女は息子の実とデキていて、会社の横領には彼女の力もまたあったわけなのだけれど、この幸枝にゾッコン参っている実は彼女との温度差に今の今まで気付かなかった。
なんとまあこの女、表面上は実に加担しているように見せかけておきながら、自分の作成する帳簿はバッチリ、実が横領したカネを自分に貢がせる形をとり、そのカネで旅館を建てるまでになり、そして旅館オープンの手はずも整ったから実と手を切り、会社も辞めると言い放つんである。

こんな具合に、最初はこの強欲夫婦の世渡り上手(などと言っていいんだろうか)の展開かと思いきや、人間関係やお金関係のからくりが次々と複雑化し、明るみに出てくるんで、なんかもう、推理劇のような様相さえ呈してくる。
だってこの幸枝、実のみならず社長とも、更に税務署の男とも関係を持っていて、そしてそれぞれの男を自分だけの女だと思い込ませて、帳簿には残らない金を、つまりそれぞれの男のみを滅ぼす金を、見事な手管で吸い上げているんだもの。

しかもその言い様が素晴らしい。税務署の目をごまかすために袖の下を使った金を「社長の言うとおり、ちゃんとお渡ししましたわ。でもその後ホテルに行って、私に返してくれましたの」!!!か、返してくれたって、そ、それって、オマエがソイツと寝たからだろー!
すべからく彼女はこの調子で、「私は何も犯罪はおかしておりませんので、大丈夫なんですわ」と言葉遣いはたおやかなのに、まあ、まあ、その面の皮の厚さは、あの夫婦が可愛らしく見えるほどにゴワゴワに厚いときてるんだから!
若尾文子が美女のつややかさをふりまいているだけに、その完璧な悪女っぷりが圧巻。

実は当然、裏切られたことと嫉妬に燃えさかって荒れるんだけど、それをもはや蚊帳の外のように傍観している夫婦は(つーか、おめーらめちゃめちゃ当事者だっつーの)、「大した人だねえ」「あの人なら、実が捕まるようなヘマはしていないから大丈夫だよ」と感心しきりだっていうんだから、やっぱり相当な面の皮の厚さ。
つーか、実が父親に渡していた金額とはくらべものにならない大金を(だってそれで旅館建てちゃったっていうんだから!)彼女に渡していたと知って、「オマエ、父さんには30万ばかりで、あの女には100万やったのか!」(金額は正確じゃないけど)とゴネだす始末。……問題点はそこ?そこなの?オトウサン……。

事態は元税務署員の神谷が訪ねてくるあたりで、にわかにシリアスな様相を呈してくる。彼に逮捕状が出たことで自分に罪科がかぶさるかもしれない、と社長と実が慌て始めるのね。
自分が穴を開けた100万の罪を、横領のついでに息子さんがかぶってくれないか、と提案する社長に、ウチの息子に限って横領なんてするわけがないんだから、そんな話はお断わりだ!とにべもない父親。しかしそうやって拒否することで、いいように値を吊り上げているんである。

んでもって、社長を外に連れ出した実は、50万を吹っかけて取り引きを成立させる。もうここまでくると見事なチームプレーと言うほかはない。しかも父親は明らかに自分がやらせた横領なのに、「私は実が犯罪を犯したと絶対に認めていないんだからな」と言いつつ、濡れ手で粟の大金にニンマリ。
いや、濡れ手で粟なわけではなく、思いっきり無実の罪をかぶっての大金なわけだけど、なるほど「横領のついで」なわけだ。ううう、もうこうなると誰がどうあくどいのやら判らんくなってくる。おっそろしい。人間というのは、おっそろしい。

しかしこの社長にしろ実にしろ、幸枝にしてやられて怒り狂ってはいるものの、騙された男の愚かさがまだコミカルに転じている一方、神谷だけは凄まじい悲壮感に漂っているんである。
彼もまた幸枝にゾッコンなのだけれど、騙されたというウラミは持っておらず、「幸枝さんに迷惑はかけませんから」と実に言い残して出て行くところで胸騒ぎ。だって彼ったら、そのまま警察に向かうことをせず、なぜかアパートの階段を“上がって”行くのだもの!
彼がもし自殺したら、という過程で幸枝が予測を立てて「しかしそう上手くはいかないでしょう(上手くは!?)」とか言ってたから、あらららら、これは「そう上手く」行っちまうんじゃねーの、とハラハラ。もうそっからは、一見家族団らんに落ち着いたこのトンデモ一家のその窓に、いつ彼の身体が落下していくのが映るのかと、そればかりが気になって……。

実際はそういう画ではなく、彼が飛び降りた後、パトカーのサイレンの音に気づいた母親が外を見、なんともいえない表情をする、という描写。
しかしその前、降りしきる雨の中、屋上のキワギリギリに立ちすくむ神谷、というショットが、彼の頭の上からつま先を覗き込むようなギリギリの角度のキャメラが、凄いの。演じる船越英二はやけに鼻が高くて、ツクリモノみたいに整った顔立ちの中でホンット鼻が異様なぐらい高くて……それがなんだか、思いつめた表情にゾクリとする印象を与えるのだもの。
あああ、怖かった。結局は私が恐れていた(期待していた?)画ではなかったものの、それが迫り来るのがホンット怖かった……。

なんかウッカリ飛ばしちゃったけど、娘の友子と彼女を囲っている吉沢という作家のシークエンスも爆笑必至。
強欲家族にウンザリして友子を返してよこしたものの、やはり未練があって呼び戻してきた吉沢の元に帰る娘に「吉沢先生に、30万貸してもらえるように頼んでくれないか」と、ぜっんぜんコトの原因が判ってない父親にまたしてもアゼンとするが、拒絶反応をする娘に、「それがお前への愛情を図ることになるんだよ」と言いやがるこの父親は、どこまで面の皮が厚いんだよ!
しかもこの娘もこの娘で、結局この30万の話を持ち出してフラれ、「私より30万の方が大事だって言うんだもの」とふくれるのには、違うだろー!と心の中で絶叫。

彼女を送ってきた吉沢にまだ脈アリと、父親と母親はまたも揉み手をせんばかりに下手に出て出迎えるものの、吉沢は無言でトイレに入り、そして預けていたルノワールの絵を外してさっさと帰ってしまう。
さぞかしガッカリするかと思いきや(まあそれでガッカリするのも、思いっきり娘を商品扱いしてるけどねえ)、ガッカリしているのはルノワールを持っていかれたことで、「さっさと売ってしまえば良かったな」「でもあれ、ニセモノなんですのよ。絵の具代にもならないって」「なんだそうか」とアッサリ解決。相変わらずのタダでは起きないごうつく根性に、必死に笑おうとするものの、スゴすぎて開いた口を閉めるのを思い出すのが精一杯。

今誰もいないから、と言って家に引き入れているのに、実際は壁の向こうでは皆が聞き耳立ててたり、ドアの覗き窓に映りこんでいる姿がドアを開けて、そして閉めてもまだそのままくっきりと収まっていたり。このアパートの全てを計算し尽くして、あらゆる角度に入り込むキャメラがホントスリリング。まるでパズルのよう。
人間関係やストーリーもパズルなら、キャメラもパズル。役者は監督の究極の駒だけれど、いやあもう、ここまで使われ倒されると、役者冥利につきるというもんだろうなあ。★★★★★


縞の背広の親分衆
1961年 91分 日本 カラー
監督:川島雄三 脚本:柳沢類寿
撮影:岡崎宏三 音楽:松井八郎
出演:森繁久彌 フランキー堺 淡島千景 団令子 田浦正巳 桂小金治 藤間紫 大辻三郎 竹田昭二 愛川欽也 ジェリー藤尾 有島一郎 西村晃 堺左千夫 酒井健三 石村慎一 松岡圭子 千直子 山川智子 春川ますみ 川久保とし 沢村いき雄 内海突破

2007/6/22/金 東京国立近代美術館フィルムセンター(川島雄三監督特集)
もう何たって私は、イイカゲンでスケベな森繁久彌が大好きなのよ!本作はフランキー堺とクレジットを二分していて、しかもヤクザの親分役なんてどうかしらと思ったけど、相変わらずイイカゲンでスケベな森繁久彌で、もーすっかり嬉しくなってしまったのであった。
むしろあの才人、フランキー堺のピン場面はどことなく中だるみの感がある一方(三人の若者をリッパなヤクザにするべく、スパルタ教育したりするトコなんて顕著)、森繁久彌のピン場面は、そのイイカゲンでスケベな本領発揮がなされて、もーう、とにかく最高なの。
ま、それは後述するとして……それにしても彼ほどヤクザの親分が似合わない人もいないと思ったけど、だからこそどこまでも間抜けてて、おっかしいんだよなあ。

大体もう、最初から怪しいもの。それは彼がまだ姿を現わさない、オープニングのキャストクレジットからなんだもの。バックに流れるのは森繁氏が朗々と歌い上げるベッサメムーチョ。姿を現わさないうちからもう場内爆笑。あ、怪しすぎる!
彼は殺人事件を起こして逃亡、南米各地を15年間放浪して帰ってきた守野圭助というヤクザ、という設定。なぜゆえに南米なのだとも思うし、しかも最後に明らかになるんだけど、人を殺したのも彼のカン違いだったんてんだから、もーう、彼のテキトーぶりには心底ホレちまうんである。
でね、ヤクザのあの、おひけえなすって、から始まる自己紹介の仁義があるでしょ。これが笑えたっていうのも私は初体験。だってなんたって南米、ブラジル、ベッサメムーチョだもん!彼はすべからくこの調子で、セニョール、セニョリータ、グラッチェなのよ。当たり前だけど、思いっきりジャパニーズスパニッシュでさ。次第に周囲もつられて、たおやかなおしまさんでさえ、「圭助さんはかの地にセニョリーがたくさんおられるんでしょう」と言う始末なんである。

ああこのおしまを演じる、淡島千景の色っぽさときたらなかったなあ!もう、たおやか、しなやか、猫のような曲線に、はんなりとしなだれかかるような声音。いやー、スケベな森繁久彌ならずとも、何となく手が伸びてしまうような色っぽさなんである。思わず彼女の手に置いた自分の手を引っ込めてパシッと叩くしぐさが、いかにも森繁らしくて可笑しくて、吹き出しちゃう。
彼女は亡くなった大親分の妻。料亭の女将を勤めながら、何とかおおとり組を支えている。時代はどんどん高度経済成長に突入し、荒っぽい新興ヤクザが台頭して、時代遅れのやくざの組なんか風前の灯なんである。

そして今問題が持ち上がっているのは、まさにその高度経済成長の問題。新しく作られる道路予定地が、おおとり組の守り本尊であるお狸不動にぶつかるっていうのね。そこには道路公団の尾形という男の欲得ずくな思惑も重なって、複雑な様相を呈している。
尾形としては地元の反対の手が挙がれば計画の変更やらなにやらで、予算追加を上司に申告することが出来、それによってがっぽり懐にカネを入れようという腹積もりなわけ。そのために新興ヤクザの風月組をけしかける。
そしてそして、おしまとソリが合わなくて家を飛び出し、今や女子分を従えて花屋を切り盛りしている前妻の娘、万里子や、道路公団の設計技師となった長男の良一やらも巻き込み、更に混迷を極めていくわけだ。

そうなの、物語自体は結構フクザツなんだけど、それを追っていくとめんどくさいので割愛。万里子に岡惚れしているスモーキー・ジョウなんていう一連のシークエンスもあるのだけれど、正直、万里子と彼にちょっかいを出すコーラスガール?三人娘たちはギャグも含めてかなりワザとらしく、イマイチ笑えないもんで。
やーっぱり、森繁久彌なんだよなあ!彼はいっぺん、警察のご厄介になるのね。賭場を開いていたところを警察に抑えられてしまうのだ。しかし彼は牢の中でも同胞たちに「女の差し入れをしてくれるブラジルのブタ箱」の話を得々と語って聞かせ、全く堪えていない様子。そして無事出獄とあいなるも、どっからか手がまわってデパートに勤めることとあいなる。

このくだりが一番可笑しかったなあ!彼をこのデパート、象屋に引っ張ったのはかつて彼と割りない仲であった女だったんだけど、この“割りない仲”の女がこの後ゾロゾロ出てくるんだもん!
彼が配属されたのはクレーム係。あ、ちなみに、こたびのことをおおとり組に知らせた手紙が、ながーい巻き物状態で屋敷の奥から玄関、庭先までのびていくのにも笑った。だって、手紙の続きを読むのに、次の間へ行き、暖簾をくぐり、結末を急ぐために走っていって垣根を越えて、「判りました!」と叫ぶ始末なんだもん!あー、このバカバカしさがたまらない。あのアホな仁義を切った圭助なら、要点をまとめないこんな長々とした手紙、書きそうだもん。

おっと、ちょっと脱線したけど、そう、このクレーム係として客の元に謝罪に行く度に、昔の女がゾロゾロ出てくるのよ。しかも毎度台詞が同じ。「俺の名を知っているとは、何モンだ」「やだあ、圭助さんたら」という具合で、彼はどの女に関してもなかなか名前が出てこないイイカゲンっぷりなんである。
この「俺の名を知っているとは……」という台詞は後に、敵対する男との一触即発の場面でも使われ、しかし何たってこの下地があるもんだから、シリアスになりきれるわけもないのね。そういう構成は上手いんだよなあ。
あ、だからまた脱線したけど。多分彼は次々出てくる女たちのこと、覚えてないんだろうけど、ああそういえば、みたいな感じで、押し切られる形で、結構よろしくやっちまうんである。
まあよろしくったって、ちょっと太もも触ったり、ブラジャーのホックを外したりする程度なのだが、しかしクレーム係としてそれをやるんだ、という前提がありながら、本質のスケベ心を隠しきれずに、じゃあ、ちょっとはずしてみますから、と手を出してくる、もうその動きだけで吹き出しちゃう。
そういうのがね、ヤラしいんだけどヤラしくなく、彼のそんなキャラ自体がギャグとして成立するのが、もうさすがって感じなんだよなあ。

なんか、このデパートに勤務するくだりは、本筋とは全然関係なかった気もしないでもないんだけど、やはり森繁でたっぷり笑わせるためには必要だったと思われる。しかもこのデパートのテーマソングとして歌われる♪エレファント〜てな旋律がまた絶妙なマヌケっぷりで、大いに笑わせてくれるしねー。

で、まあなんだかんだあって(私もテキトーだな)、彼はおおとり組に帰ってくる。風月組は道路公団の思惑にのっかっておおとり組と和睦をしようとしたのだけれど、おしまの色香に血迷った風月組の親分三治が、反対におしまに手ひどく痛めつけられるのだった。
この三治を演じる有島一郎のアヤしさもかなりのもんで、圭助のインチキスパニッシュに対して三治はルー大柴も真っ青のインチキイングリッシュ。それは息子(多分。パパと呼んでたし)がジェリー藤尾であるということが大いに影響しているんだけど、この親子がマイクの切り替えでインチキ英語を織り交ぜてやりとりしている場面も大爆笑。お互い激昂していくのに、その後には冷静に立ち返って「どうぞ」とマイクを切り替える、王道のギャグがビシッと成立している。カットの切り替わりもスピーディーで、それがまたギャグをより可笑しくさせているのはさすがなのだよなー。

圭助が一人討ち死にしようとする場面などもあるのだが、何たってヘタレヤクザだから(笑)、迫り来るブルドーザーにビビり、しかもなだれ込んできた小学生の写生のモデルになっちまう始末で、もうこのあたりのヘタレっぷりはさすが森繁、立ってるだけで、いや座ってても可笑しいし!
なんだかんだあって騒動が鎮静化したのは、お狸様の正当な持ち主である娘の万里子が、それを料亭に持ち帰ったからであった。現代っ子の彼女は仁義だの義理だのといったカビくさいことにキョーミはないのだ。それは設計技師としてこのお狸様を取り壊そうとしていた長男の良一もそうなんだけど、でも彼は道路建設という経済の発展にヤクザの意地と見栄で張り合うことに、真っ正直なある種の正義感で憤っていたわけで、一方の万里子はお狸様自体は大切に思っていたけれど、社会とかヤクザとかも関係なく、自分が生きていくために必要なことをしただけなんだよね。なんかこのあたりに男と女の差が出ているような気もするんだよなあ。

このお狸様をお迎えする儀式もかなり笑えるのだが……ここばかりはフランキー堺の真骨頂で、念仏が奇妙にビート聞いているのが(笑)。しかもそれが、別の間で圭助たちが打つ三本締めのリズムにも合うという(笑笑)。
ここに訪ねてきていたのが圭助が殺したと思い込んでいた男で、それが実は大いなるカン違いで、しかもこの男は今や道路公団の副総裁になっているというのだから!彼は自分がそうなれたのも圭助にバラされそこなったおかげだと感謝しているくらいなんである。

そこで大団円かと思いきや、これが最後のはずの賭場が警察に抑えられちゃう。懲りなすぎだっつーの。圭助とスモーキー・ジョウと手下一人は何とか逃げ出すものの、おしまやおおとり組のために圭助一人が責任をかぶって、また南米に放浪することを決意する。
夜中、この男三人どもがほうほうの体で戻って来て、裏から入ろうとするのに猫の鳴き声などを真似する場面、次第に興が乗ってきて、声だけでいいのにサカリのついた猫を本気で演じるのには爆笑!
中でまったりと呑んでいる女三人はすっかり猫だと思い込み「やだねえ」なんて言っているから、彼らはどんどんエスカレート、しかし万里子が「猫じゃないわよ。いまクシャミした」爆笑!

そして圭助とおしまの別れの場面、ここはかなりしっとりと見せ、実は圭助を憎からず思っているおしまの思いを秘めた美しさにはスケベな森繁……いや圭助ならずともくらっと来そうになるのだが、彼は必ずいつか帰って来ると約束し、旅の空へ。
しかし一足違いで訪ねてきたのは、なんと南米から来たという圭助の子供、しかも三人!巻き毛に浅黒い顔、まんまサンバのカッコして軒先でスパニッシュ仁義を切り出す子供たちにおしまは呆然自失。この脱力のラスト!しかもこの子供たち、ドーラン塗ってるだけの日本人だろ!

もーホント、森繁にはヤラれるのであった。スケベもここまで堂に入っていると、粋よね。★★★★☆


シミキンのオオ!市民諸君
1948年 69分 日本 モノクロ
監督:川島雄三 脚本:斎藤良輔 津路嘉郎
撮影:西川亨 音楽:木下忠司
出演:清水金一 高屋朗 朝霧鏡子 堺駿二 南進一郎 松本秀太郎 鈴村一郎 藤山竜一 勅使河原幸子 横尾泥海男 松竹歌劇団

2007/6/12/火 東京国立近代美術館フィルムセンター(川島雄三監督特集)
時代ゆえの表現のせいか、今のコメディのセンスやリズムに慣れきってしまった努力の足らない身体ではなかなか素直に笑えない部分もあれど、やはりまだまだ知らない世界があると興味の心がふつふつとわくのを感じるのであった。ああ、いつまでたっても勉強不足であるのって、楽しい。

この作品に目を惹かれたのは、なんとなく聞いたことがあるだけの喜劇俳優、シミキンこと清水金一主演だということである。ちゃんと冠として「シミキンの……」とついている。これからはそうしたシミキンの冠映画を観ていく機会もあるかも知れない、その初見。シミケンでもエノケンでもなく、シミキン。ああ、知らないことって、楽しい。
初めて目にする伝説の喜劇俳優。ウィキペディアにさえその解説が載っていない(←すぐ頼りにしてしまう悪い癖)。この目でみる、その印象が今の全てである。タレ目で、人の良さそうな、しかし結構しっかりとした男子の体躯は、対する堺駿二の、全身コメディアンっぷりとは対照的で、だからこそ彼を対照としておいたのだとも思える。それが堺駿二自身を引き立たせる結果になったのかもしれないのは、ひょっとしたら皮肉だったのかもしれないけれど。

しかし、「シミキンの……」という割には、それほど彼ばかりが押し出される感じはない。ことに前半は、彼が映画界に引き入れたという相方ともいうべき堺駿二との、一騎打ちともいうべきコメディ合戦である。
それはまさに、喜劇の原点を見る思いがする。小さな茂みを挟んでお互いにぐるぐると回ってちっとも気づかないという、観客席から見ていたら、志村!ならずシミキン!後ろ!と声をかけたくなるようなお約束なんである。
堺駿二、この作品の中ではシミキンと並んで唯一その名前を知っていた人。いわずと知れたマチャアキのお父様だけれど、彼よりずっと小柄で、ちょこまかと始終止まることなく、そのつぶらでオドオドとした瞳が次に何をやらかすのだろうというワクワク感を覚えさせ、長いものには巻かれっぱなしで巻かれすぎて窒息しちゃうような小市民な風情を全身から発している。映画量産時代には出まくっていたという彼を、これから観る機会がきっと何度もあるだろうと今更ながらにまた胸がワクワクとするのである。いやあ、なんと映画の世界というのは奥が深いどころか、ブラックホールのように、探っても探ってもまるで底が見えない。

そうなのだ、シミキンは主演の筈なのに、なんだか終わってしまえばお膳立てっぽいキャラにも映る。
あ、とりあえず物語を紹介しておきますと……口癖は「文化」のいかにも成り金男の丸屋金造(高屋朗)という男が、高名な茶碗と間違って沼津島ならぬナマズ島という実際海に浮かんでいる島を買ってしまったところから始まる。
この金造は、ほんっとただの成り金で何にも判ってなくて、名品、逸品として自慢げに並べている骨董品は、恐竜の卵だの、丹下左膳の義眼だの、どーみたってまがいもんをつかまされたってもんばかりなんである。
このあたりはなかなか笑わせる。彼が言う、持ってれば価値が上がってカネになるなんて、どう考えたってムリなクズばっかり。そしてナマズ島っつーのもそういう皮肉な含みがあったということなのかもしれないな、後から考えれば。つまり見る目がない成り金男がウッカリ買ってしまった無人島に、意味なんてあるハズがないっていう皮肉がね。

大昔は流人島として使われていたものの、今はすっかり手つかずで、罪人もすっかり死に果てて無人島になっている、と踏んだのが大間違いだった。
無人島ならばこの島を呑む打つ買うの一大歓楽地にして、株を売りまくって大もうけしようという目論見だったんだけれど、この島には人がいたのだ。女一人、男四人。罪人の末裔なんだか、なぜかここに流れ着いた人々なんだか、会話から聞いていてもどうも判然としない、まあテキトーなキャラ設定なのだけれど、彼らはこの世の楽園で幸せに暮らしていたんである。

しっかし、この、いかにもターザンなカッコとか(お約束の、アーアアーみたいなこともするしさ)、「警戒警報」と称したカンカラや、法螺笛よろしい合図、といい、この「ザ・無人島」な描写はいくら昔の映画として割り引いて観るとはいえ、かなりハラハラとするものがあるんである。やっぱりこのカッコだけでベタな部分ってどうしてもあるしさあ。
しかし紅一点、アンコちゃんを演じるこの映画でビューを果たした勅使河原幸子のぱっつんぱっつんの太もものヤバさに鼻血が出そうになるんである。いや、それだけではなく、彼女は後に本土から乗り込んできた撮影部隊に、島のミューズとして祭り上げられるのもむべなるかなっていう、かなりな美少女でもあるんである。
なんかね、彼女のメイクにはムラがあって、前半は、無人島でこのつけまつげはねえだろう!みたいなバッサバッサなんだけど、それもまたこの愛くるしいお顔には似合うのよね。いやでもそれも後半は落ち着いて、ナチュラルな美少女にあいなるんだけど、あのムラはどうしたことかしら。そういうのって、凄く気になっちゃう。

前半がシミキンと堺駿二とのスラップスティックだとしたら、その前半で既に火種を作っていたシミキン=金八をめぐる女同士の攻防戦が後半であるといえる。
つまり、やっぱりなんだかシミキンは狂言回しの雰囲気があるんだよね。だって彼って「文化」と対決する島の代表に祭り上げられるも、それはどこか島の実質的実力者であるアンコちゃんと恋仲になったことによって実権を握った感があるし、実際、文化の恩恵に浴したらアッサリ陥落して、金造の娘とイイ仲になっちゃうしさ。
そうそう、このあたりはさすがに詳細ははぶいているものの、東京で直談判するつもりがそんなことスッカリ忘れたかのようにバリッとしたスーツなぞきて、金造の娘がしなだれかかるのに鼻の下をのばしている描写なんてのはさ、そりゃーこの娘と割りない中になったに違いないと下衆な想像をしてしまうのは、あながち外れてもいまいと思うんである。だって金八はこの島を「文化」で発展させてよりよい生活をしようという戯れごとを信じきっていたのだし、その裏で進行していた違法でエロで退廃なことを何ひとつ知らずにいたのだ。

このことを金八に知らせず、彼を利用して住民を説得させようとする金造側。その隠しっぷりが面白い。この島には、いわゆる娼婦街も計画されているんだけれど、これまた何も知らないお嬢様の金造の娘が、「女だけが住めるマンションが欲しいわ」と言うと、「こちらに用意してます」と地図を指すのがその娼婦街なんである!これは爆笑!
地図が英語で書かれているというだけで、判らないだろうというのはまあ時代と言うべきなのだろうか。しかしそれをこのウブなお嬢さんまでもが判っていないというのは少々のムリがあると思うのは、やはり現代の汚い欲得の世界に慣れきってしまっているせいだろうけど。

いよいよ本格的にナマズ島にリゾート建設をしようと乗り込んできた成り金たち。株も売れに売れて、彼らはウハウハなんである。金八はアンコをはじめとする住民たちから当然裏切り者扱いされるし、まったくもって踏んだり蹴ったりである。
しかしそこに、ナマズ島に大地震が来るという警報がラジオから流れる。意気揚揚と乗り込んできた成り金たちは、工夫たちを乗せた船が先に行ってしまったことで、島民たちと運命を共にすることになるんである。
この、船に乗りそこねる場面は、小柄な堺駿二が岸壁と船のへさきに足を引っ掛けて大股開きになって海に落っこちるというお約束が用意されているんだけれど、彼の軽妙な動きとそ冗談みたいに小さな身体もあいまって、気持ちよく笑える。それに彼、最初から最後まで「駿六」という役名をその左胸に大きくくっつけているんだけれど、それってまるで彼があまりに小さいから、よく判るように、とでもいう意味に見えて、あるいは小学生がつける大きな名札のようにも見えて、やけにオカシイ。

最後は、この地震警報自体がマチガイだったという、実に脱力な結末を迎えるのだけれど、そのことで全てが解決されたように仲良く踊る敵味方、というのも、実にお気楽よねー。
だってもう皆死ぬんだから、と金造の娘も金八をアンコに渡すことを決意したというのにさ。しかもそれを言われた金八が、「あっ、そう」とフツーに受け入れたのには思わず吹き出した。彼はいかにも喜劇俳優らしい動きよりも、そういうふっと気の抜けた台詞がツボに入るところが多々あったけれど、それが彼の魅力かどうかは勉強不足(楽しー)の私にはまだ判らない。むしろそれがおかしいと思うのは、現代のセンスだからかもしれない、と思う。やっぱり本作の収穫は堺駿二だったと思っちゃうしなあ。

お嬢様一行が歌い踊る歌謡メロディーっぽさと、金八が対抗する土着のメロディーと呪術的な舞、まあ正直どちらもかなりのキビしさはあったものの、こういう音楽合戦てのも時代ってことなんだろうなあ。ラジオから流れるジャズが最先端みたいな描写も、まだまだ戦後3年しかたっていないまさに復興の時代の象徴だったんだろうと思われる。やはり映画は時代の証言者だとつくづくと思うんである。
しかし、金八という名前が、金八先生のはるか昔に存在していたことには、やはりなにがしかの感慨を覚えずにはいられないよなあ。★★☆☆☆


しゃべれども しゃべれども
2007年 109分 日本 カラー
監督:平山秀幸 脚本:奥寺佐渡子
撮影:藤澤順一 音楽:安川午朗
出演:国分太一 香里奈 森永悠希 松重豊 八千草薫 伊東四朗

2007/6/23/土 劇場(シネスイッチ銀座)
自分の落語が見つけられずにはや10数年、パッとしないまま二つ目から先になかなか上がれない落語家、三つ葉(国分太一)。師匠の小三文(伊東四朗)が講師を務める現代話し方教室の席を怒ったように退席した十河五月(香里奈)に声をかけたことと、祖母のお茶の生徒で密かに恋している女性、郁子の甥の村林少年(森永悠希)のイジメの相談を受けたことから、話し方教室を開くこととあいなるんである。
その噂を聞きつけて、ちっとも喋れないコワモテ野球解説者の湯河原(松重豊)が加わり、三つ葉は彼らと接することで自分自身とその落語を見つめ直すようになる……。

などとまあ、珍しく最初にずらずらずらっと筋を書いてしまったのは、恐らくこの後はこの感激した思いをただただ垂れ流していくであろうことが自分で予想されるからなのであった。
評判はいいみたいだったけど、なんかあんまり信じてなかった。平山監督だから、期待していいはずだったのに、このメンツにあまり魅力を感じていなかったので(なんてナマイキな言い草……)正直あまり気乗りがしていなかった。国分君がドラマで活躍していたのは知っていたけれど、映画ではお目にかかったことはなかったし、香里奈嬢はなんでこんなに映画に重用されるのか正直解せなかったし。
唯一松重さんのバイプレーヤーっぷりに期待していたぐらいで。もー、松重さんはマジメになればなるほどコワ可笑しい。マジメな滑稽さが天下一品だからさあ。あのぜっんぜん判んなかった「SFホイップクリーム」でも彼の可笑しさだけで乗り切ったようなもんだもん。

なのに実際観てみたら、その国分君、香里奈嬢にこそ、私はさんざ泣かされたのだった。うっそー、という感じ。自分のナマイキな先入観がドカーンと突き破られて、目からボロボロウロコが落っこちる。国分君はあんな温和なイメージなのに、ガンコに古典にこだわるうだつのあがらない二つ目の噺家が堂に入っていたし、クライマックス、師匠から「お前の火炎太鼓になっていたじゃないか」と言われた高座は本当に素晴らしく、笑いながら涙がこぼれた。
しかしやはり最も驚いちゃったのは、今まで首を傾げ続けてきた香里奈嬢。首を傾げ続けてきただけに、役に出会うということはこういうことなんだと目に見える形でハッキリと判った。
彼女はこの作品の中で2、3回しか笑顔を見せない。しかもそのどれもがほんの一瞬である。それまで映画で見かけた彼女は型通りの美人さんで、印象も演技も、可もなく不可もなしという感じだった。言ってしまえばサムシングに欠けていた。
今の世の中、美人女優ははいて捨てるほどいる。その中で突出するためには、演技力以上のモノが必要なんだと思うんだよね。彼女がこの役に出会ったことは大きな意味があると思う。笑顔でごまかされない役は彼女の全身を大きな緊張で包んでいて、そのために演技がぎゅっと集中され、ほんの時たま見せる笑顔が真当に価値のあるものになったのだ。
美人が笑顔を見せないと本当に美しいし、そして怖い。ただならぬ迫力がある。その武器を、美人さんは案外判っていないのだ。

しかしやはりこの映画を成功に導いたのは、大阪から来た阪神ファンの村林少年に他ならないであろう。鑑賞後、劇場から出て行く時私の後ろにいた女性二人連れのお客さんが、「あの子がいなかったら、全然ダメだったよねー」と言ってたぐらい。ま、まあそこまで言うのは極端にしても(汗)。
いわゆる江戸落語の世界、舞台も下町で浅草や上野の寄席や、ほおずき市、隅田川を下る水上バスなどが重要な舞台となる本作の中で、彼の存在は明らかに異質である。異質だからこそ他のエピソードを圧倒するし、あるいは逆に他のエピソードを際立たせる役割も担っているのだ。
この話し方教室に野球解説者の湯河原は遅れて参戦するのだけれど、最初、特に十河とのソリが合わないのね。それは、実は似た者同士の仏頂面コンビだからなんだけど(笑)。で、衝突し、「男にモテないだろ!」と十河を喝破する湯河原。その時、村林少年ときたらニッカリ笑顔で「言ってもうたー」とカメラ目線で振り返るもんだから、凍った空気が一気に溶けて、観客大爆笑(もちろんスクリーンの中は凍ったままなのだが)。その時から観客の心をガッチリ掴み、彼が出てきたらとりあえず笑いどころだと期待している部分もあって、それに彼はしっかりと応えつつ、更にちょっとほろりとさせるんだからたまらない。

この村林少年だけが、落語にヤミツキになるんだよね。彼はその関西弁ゆえにいじめられているんだけれど、江戸落語はどうしても慣れなくて、三つ葉が上方落語のビデオを見せると、もうそれに夢中になっちゃうのだ。「何?何コレ!メッチャおもろい!」とビデオを片手に飛び出してきた村林少年の、夢中になれるものを見つけた瞬間のステキさときたら!
でも彼がここに来た根本的な理由、「落語のひとつも覚えてクラスの人気者になる」はなかなか実現されないし、なんといっても彼のクラスには勉強もスポーツも万能のツワモノ、宮本君がいるのだ。
村林君はこの宮本君に野球対決で負けて、行方不明になっちゃう。しかし実は、三つ葉の部屋に忍び込んで、押し入れの中で息をひそめていた。発見され、三つ葉にぶたれた時、強気な村林少年が思わず泣き出したトコなんか、もういじらしくてホロッときちゃった。

しかしなんといっても素晴らしかったのはやはり、村林少年がホレこんだ、桂枝雀の関西バージョン「まんじゅうこわい」を友達たちの前で披露する場面。表情豊かな彼の達者な落語に、子供の可愛らしさを超えてマジで笑わせられながらも、よく頑張ってる、と思わず涙があふれてしまうのは、ああもう、年をとると独身だろうが子供がいなかろうが、なんか本能的な否応なき母性本能が出てくるんじゃないかとホント最近思う。
しっかしこの落語は実に見事だったなあ。本当に彼は将来落語家になってしまうんじゃないかと思うぐらい、見事だった。本作の中で伊東四朗、国分君、香里奈嬢が見事に落語をマスターし、伊東四朗なんかまさにベテラン噺家の風格が漂っているんだけれど、その中で一番面白いと感じたのは、この村林少年だったんだもの。

しかしそれも、扇の要をしっかりと止める役者がいるからだと思う。三つ葉の祖母を演じる八千草薫の、包容力の素晴らしさ。それでいてカワイイ。三つ葉は村林少年から「先生のお母さん?おばあちゃん?」と聞かれて「どうひいき目に見たっておばあちゃんだろう」と答えるけれど、いやいや、このしゃんとした可愛らしさに対してそれは失礼でしょ。
いかにも江戸っ子の彼女、両親を早くに亡くした三つ葉の母親代わりとして、シャキシャキと彼を育ててきたのが目に見えるよう。
そして彼女は三葉よりよっぽど笑いをとるのよ。この話し方教室を見ながらいつの間にか覚えてしまった「まんじゅうこわい」を口ずさみながら、「私の方が上手いね」とつぶやいてふふっと笑ってみせる八千草薫の茶目っ気タップリの可愛らしさには、思わず笑っちゃう。
村林少年が「将来、先生の弟子予約や」と言った時「大人になれば、それがマチガイだってことが判るよ」と言った場面には、もうそれが絶妙の間合いだったもんだから、吹き出しちゃうんだもん。しかもイヤミがない。愛情たっぷりなんだよなあ。

ちょっと話が戻るけれど……村林少年が宮本君を殊更に意識していたのは、勉強もスポーツも出来て人望もある彼のことを尊敬し、好きだったからに違いないと思うんだよね。そうでなければあそこまで必死にならないし、彼を笑わせることが出来たことで、もろ手をあげてやった!と喜ぶこともないだろう。
一方の宮本君は、皆が最初からゲラゲラ笑っている中でも決してその渋面を崩さなかったし、笑ってしまった自分に「しまった」と思った様子で、出て行くんだけど、それは恐らく、彼は彼なりにこの魅力ある転校生を気にしていたのだ。

ところで、唯一、この話し方教室で落語を覚えることのない湯河原だけれど、でも彼はここで笑うことを覚えた、ということなのかもしれないと思う。確かに彼の見る目は的確で、その毒舌を解説に活かしたら個性的解説者になれたかもしれないけれど、心優しい彼に、それは相当の精神的苦痛と思われる。
解説者の仕事が全然来なくなって、嫁さんのお兄さんの居酒屋で働かせてもらっている湯河原のミジメさときたらない。その大きな身体を折り曲げるようにして、お客さんにかけてしまった水を謝りながら拭いているところなんか、もう見てられないのだ。お客さんにもヘタな解説のこと罵倒されちゃうしさ。

彼の大きな見せ場は、なんといっても村林少年に野球を教える場面。村林少年は阪神にいたこともある湯河原に色々と皮肉なことも言うんだけど、でも心の中では大尊敬しているに違いなく、この二人の見えない絆にも心打たれてしまう。
でね、「バッティングに絶対の自信を持っている俺が教えるんだから、絶対に勝てる」と村林少年を熱心に指導した時、初めて湯河原の心の熱さを見た、と思ったなあ。野球を伝えていく喜びを知った瞬間だったに違いない。
しかもそれが功を奏することなく、村林が宮本に負けてしまうというのも心憎いんだよね。つまり、教えることの難しさと、それが成功したらきっととてつもなく嬉しいんだろうという予感と、そして教える相手との心のつながりを、湯河原は感じたに違いないのだ。
それをね、寡黙な役が心底似合う松重豊だからこそ、実に心に染みるんだよなあ。そして彼は、村林が自分の居場所を見つけた落語に大笑いする。それがね、また染みるのよ。この話し方教室で見つけたのは、話しかたではなく、笑顔であり、人の気持ちを思いやる心であり、好きなことであり、好きな人なのだということをね!

最後の部分は勿論、十河と三つ葉の恋の成就っていう意味である。まあ、ベタではあるけれど、三つ葉が自分の落語を獲得した一門会での「火炎太鼓」を、十河が覚えて発表会で披露するのにはちょっと感動したし、それがとりもなおさず愛の告白であったことは、ちょいと粋じゃん、と思うわけ。
三つ葉は祖母のお茶の生徒である年上の女性、郁子に恋していたわけだけど、彼女とは踏み込んだ話もしないうちに失恋しちゃって、いわば本当の恋ではない感じがあった。まあでも、彼女から結婚話を聞かされた時、明らかに腐っていると判っている彼女お手製の弁当をヤケ食いした彼は、ちょっと哀れな可愛さがあったけれど。

でも、十河には最初からまるでカッコつけずに接していた。カルチャースクールを退席した彼女が気になったのも、寄席に来てくれた彼女に動転していきなり「まくら」を飛ばしボロボロになったのも、何食わぬ顔でほおずき市に誘ったのも、そしてこっそりほおずきを彼女の家のクリーニング店の店先に届けたのも、全ては彼女のことが気になるからこその行動だったのだけれど、彼自身、そのことになかなか気付かない。
十河がこのほおずきのことを全然言わないことでイラだって、ようやく気付くぐらいなんだもんなあ。もう、江戸っ子の噺家とも思えないほどのヤボっぷりなんである。ほおずき市の時、浴衣姿の彼女に一瞬、あっけにとられたように見とれていたくせにさ。
でも多分、彼女がこのほおずき市に足を運んだ本当の理由、しかも浴衣を自分で縫ってまで来た理由を知ったせいだとは思うけれどね……。
十河は、失恋していた。このほおずき市に、元カレと来る約束をしていたのだ。そんなんだからフラれるんだと三つ葉に言われて、いつもの彼女なら強気な反論の一つや二つしそうなものなのに、黙って涙をぽろぽろこぼした。美しい彼女だからその涙も本当に美しく、三つ葉はこの時だってドギモを抜かれながらもそんな彼女に見惚れていたに違いないのにさあ、全然自分で気付いていないんだから!

普段から着物を着ることにこだわったり、どこか噺家オタクともいえる三つ葉は、落語だけに没頭していて、そのことこそが彼の落語をつまらなくしていた。師匠から、工夫がない、俺のマネだけしてどうする、と言われても、どうしたらいいのか判らなかった。古典を愛し、師匠の落語を愛する彼には、それを自分のものにするということがどういうことなのか、判らなかった。
この年で二つ目の中途半端さ。どんどん才能ある若手に抜かれてゆく。ある程度は年功序列の世界だから、いつかは真打ちになれるだろうけれど、それが年功序列という名のお情けなのだとしたら、こんな情けないこともない。
彼と対照的に置かれるのが、新作落語で笑いを取る柏家ちまきである。対照的も対照的、なんたって山本浩司なんだもの。衣装もハデハデ、現代の軽い言い様や話題をぽんぽんと投げ込んで観客をノセにノセる彼と、しかめつらしく話すばかりで客をしらけさせる三つ葉。つまるところ、同じなのだ。古典でも、つまりベースがあっても、自分独自のものにしなければ、客をノセることはできない。

師匠のオハコである「火炎太鼓」に挑戦すること、つまり勝負に出た三つ葉はしかし、なかなかそれを自分のものに出来ずに苦しんでいた。でも話し方教室で皆と衝突することで、彼のこわばりが少しずつはがれて、人間臭くなっていったのが見える気がした。
ことに、この話し方教室の存在自体に懐疑的になっていた彼に、「なんで、ちゃんと集まると思う? みんな、自分を変えようと必死なのよ」と十河に言われた時、彼の目からウロコが落ちたように見えた。
高座に出る前緊張しまくっている三つ葉に、師匠は酒をぐいと飲ませ、その勢いで出て行く。若干内容を、数の部分とか、太鼓のリズムとかを誇張したものにした。それも努力だけれど、それだけじゃなく、そのちょっとしたことによって、自分のものとして引き寄せるってことなんだと思う。そっくりそのままじゃ、それは所詮師匠のもの、あるいは過去の噺家たちのものだ。自分のものにはならない。自分のものになったとたん、借り物ではない、所有物だから、自由自在に操ることができる。

三つ葉にとって、これはあくまでほんの第一歩で、ちょっと変えた部分、が自分のものになる後押しをしたんだと思う。しかし古典をやりたいという彼が、そのことだけを武器には出来ない。それを武器にするなら新作をやればいいだけのことで、これはキッカケに過ぎず、きっとこれからも彼は苦悩するだろうけれど、でも落語が自分のものになった喜びは、きっと生涯忘れないだろうから。
高座を降りてきた彼に師匠が「酒を呑んだ方が、いい噺出来るじゃねえか」と声をかけ、「あーあ、損した」とコケる方に賭けていたことを暴露するところは、なんか泣き笑いしてしまう。だってこの時の国分くんったら、高座をつとめた興奮冷めやらぬ顔をして、紅潮して涙目になってるんだもん!

私が住み、働く、なじみのある下町がわんさか……。よそ者の私でも、なんだか居心地よくいさせてくれる。なんといっても佃が素晴らしい。最後に残った、ここだけが真の、奇蹟の下町。
最後、水上バスで抱き合う三つ葉と十河のラストシーンも良かったなあ。画としてはベタに見えそうで、しかし水上バスってのが粋に昇華させてる。それになんたって、十河が発表会で披露した「火炎太鼓」は、あれは三つ葉への思いをぶつけたに他ならなかったもの。あんな熱烈な愛の告白はないもの。
それを三つ葉が「30点」と評するのが、そして笑い合うのが、少なくとも十河とだけは、この話し方教室、いや二人の関係が終わらないことを示していて、いやあ、ちょいと胸キュンなのである。
まだこんなこと言うの早いけど、今年の映画賞にかんできてくれると嬉しいなあ。八千草薫、あるいはもしかしたら香里奈の助演女優賞とかさ、いやいやもしかしてもしかしたら、国分君の主演男優賞だって私ならあげたい!
どこか懐かしさを感じさせるゆずの主題歌も良かった。★★★★★


14歳
2006年 114分 日本 カラー
監督:廣末哲万 脚本:高橋泉
撮影:橋本清明 音楽:碇英記
出演:並木愛枝 廣末哲万 染谷将太 小根山悠里香 笠井薫明 夏生さち 椿直 相田美咲 河原実咲 榎本宇伸 石川真希 松村真吾 藤井かほり 牛腸和裕美 渡辺真起子 香川照之

2007/6/9/土 劇場(渋谷ユーロスペース)
久々に、画を見ただけでその作家のものだと判るクリエイターが登場した。このうっとうしいほどの静寂と、長回しを平然と自分のものにする小憎たらしいほどの力量を持った作り手。
本当は、観たくなかった。この監督・脚本・主演までもつとめる制作ユニットのデビューである前作で、凄く凄くイヤーな後味ばかりを味わったから。そこまで観る側を追いつめるってことはつまり力のある作り手だってことが判ってても、観たくなかった。イヤな思いをするのが確実に判っているのに、どうして足を運ぶことがあろうか、とまで思いもした。

今回も、やはり感慨としてはほぼ同じ。来なきゃ良かった、観なきゃ良かったという後味の悪さと、その力ワザに屈服するしかない悔しさ。でもちょっとだけ違ったのは、前作では対象をあぶり出すのに自信満々のように見えた作り手が、今回はあまりそうは見えなかったこと。
今の14歳を理解することも出来ないし、同時にかつての14歳だった自分もよく思い出せないことに、ストレートに向かい合っている。初めから、彼らを理解するために作っているんじゃない。理解出来ないことを前提に、作っている。
でもそれもまた、自分自身と真正面に向き合う自信の現われのように思えて、やっぱりなんだかコイツーと思ってしまうけど。

今の14歳とかつての14歳。冒頭は、そのかつての14歳の描写から始まる。彼女の上唇をめくって覗き込み、指先をかぐ女教師。いったい何をしているのかと思ったら……「出しなさい」そのひとことだけ言う。
彼女が差し出したのはライター。あら、タバコ吸ってたのか、と思ったら、「深津さん、タバコ吸わないのに、どうしてライターなんて持ってるの」彼女は、飼育小屋に火をつけたと疑われていたのだった。真っ黒に焼け焦げた飼育部屋。「特殊学級の子たち、泣いてたのよ」この台詞もちょっとヤバイ気がする。別にこの台詞について殊更に触れられることはないのだけれど、わざわざそんな台詞を用意したことになんとなく……差別的意識を感じて。
あるいはそれは、14歳あたりから芽生え始める人を見下す気持ちをすべりこませたものかもしれない。後に描写される今の14歳でそれは残酷なまでに示されるから。

先生は疑っていないけど、と言いながら絶対疑っているに違いないこの女教師を追いかけて、彼女、深津稜は彫刻刀で背後から刺した。夢のようなスローモーションで描かれる。教室から廊下にバラバラと投げ出された彫刻刀、それをはいつくばるように拾い上げる深津、歩いていく女教師に駆け寄り、身を寄せるように刺す、まるでダンスの流れのような一連のスローモーション。
それを見ていた同級生の杉野浩一。
二人は13年後、14歳の子供たちに関わる形で、再会する。

深津稜は中学の教師になっていた。ベテラン教師の小林真(香川照之)が校則を破った生徒に厳しく当たるのをいさめたりするような、生徒の心を思いやる先生だった。いや、というよりそうなろうと必死だった、という方が正しいかもしれない。
彼女のそんな思いは、生徒たちによって簡単に恩をアダで返される形になってしまうんである。
恩……そんなものも確かにありはしないのだけれど。ひょっとしたらこの一見ヒドい、生徒の人格なんかありはしないと思っている小林の方が、子供たちの生理を判っているのかもしれないけど。
小林はこう言うのだ。「教育を放棄しているわけではないですよ。深津先生と考え方が違うだけです」そして、「マスコミはあいつらのことを無関心無表情だと簡単に言うが、そのまなこの奥を覗いたことがないから言えるんだ」と。
しかし、この吐き捨てるように言われる言葉は、後に彼が問題を起こした生徒の保護者に苦しげに告白する言葉と呼応するんである。
「私は彼の目を見て注意することが出来ません」……。
この小林先生を演じる香川照之は決して出演場面は多くないんだけど、強烈で、心に残る。

深津は、14歳の自分をこの中に探そうとし、彼らを判ろうと努め、結果14歳の自分を見つけることも、彼らを判ることも出来ずに深く傷つくのだけれど、もはやベテランの小林先生はそれらがいかに無意味かということを、もうイヤというほど思い知らされてる、そんな気がするのだ。
彼のバックグラウンドは語られることはないけれど、彼もまた14歳の時に何かを抱えてここにいる気がして仕方がない。
いや、14歳の時に何もなかった人などいるはずはないんだけれど。
彼のクラスではイジメが行なわれていて、しかしいじめられる方もやりかえしたりしているもんだから、もはやどっちがどうだか判らない。一人孤軍奮闘するこの芝川という少年を、教室に残して説教をしてみる小林。しかし彼の射るような視線が窓ガラスに映り、小林はそれを正視することが出来ず、思わず窓をあける。そんな先生の心を見透かすように、現実の彼もすっと教室から出て行ってしまう。

深津はいまだメンタルクリニックに通いながら、生徒たちを救おうとしている。
そのうちの一人が、受験まではバレエはお預けだと言われている一原知恵という少女。彼女は「塾まではヒマだから」と林路子という少女に殊更にちょっかいを出す。
皆は部活動をしているんだけれど、バレエにこだわる彼女はそんな気にもなれないらしい。
深津先生は一原にバレエをやらせてあげたくて、彼女の家を訪ねて母親に話をしたりしてやるんだけれど、この母親というのもまた実に一方的で、聞く耳を持たない。先生が来ていると言うのに一人でひたすらビスケットをかじっているような女なんである。
高校に入ったらやればいいという母親に、一原は、バレエをやっている子は今のうちから留学とかして、オーディションを受けたりしている、とこぼす。深津はとりなすように、「バレエは勉強と違って、遊びじゃないから」 あ、ヤバイことを言った、とヒヤリとする。
先生、またお母さんに話してみてよ、という一原に深津は困惑気味に、「一原さんばかりに特別扱いできないのよ」
あ、またまたヤバイことを言った。とヒヤリとする。一原は返す。だって、みっちゃん(林路子)の勉強はいつもみてやっているじゃないか、と。「あの子は、見てあげないととてもついていけないし……」
……ああ、もうダメだ。
それが、彼女たち二人両方にとって、どれだけ侮蔑する言葉だってことが、判ってない。
彼女自身が、そうした教師の心無い言葉に傷ついたハズなのに……。

でもそうだよな、と思う。本作のキーワードは。14歳の頃の気持ちを思い出せないというところにあるんだけど、実際、14歳の時の自分のことって、よく思い出せない。私のようなボンヤリした人間にだって、14歳の頃には結構それなりにいろいろあった。つまり、大人になっても決して忘れられない厭うべき思い出が。
あ、なんだ、覚えてるじゃん、と思うんだけど、覚えているのは「イヤな思いをさせられた記憶」「浴びせられたヒドイ言葉」に傷ついた自分自身であって、その時に何を考えていたのか、どう対処してほしかったのか、自分は他人に対してそこまでの配慮で行動し、言葉を発していたのか、ということは思い出せないのだ。

そう、決して忘れないのだ。教師から言われたヒドイ言葉。それは今考え直してみると、ほんのささいな言葉だったのかもしれない。ほんのちょっとだけ、その教師が考えなしだっただけで。それは人間には往々にしてよくあることで、教師だって完璧な人間じゃないんだからと今なら思える。
でも、その時には思えないんだ。そのひとことがどうしてもどうしても許せない。そのひとことで傷ついた子供の自分が、そこにずっと置き去りにされている。
そう思うと、教師になろうと思う人って、凄いと思う。ちょっと、皮肉な思いで。どんなに素晴らしい先生でも、全ての生徒に対していい先生でありえるわけがない。全ての生徒に平等にしようとする心が、子供を傷つけるひとことを生み出すのだ。だって、全ての生徒に平等にするってことは、全ての人に愛されるという八方美人のイヤなヤツに他ならないから。

一原の家を訪問した深津が出てきた時、向かいの家から出てきたの杉野だった。10年ぶりの再会。
杉野は普通のサラリーマンをしているんだけれど、そのピアノの腕を請われて雨宮大樹という少年のレッスンをみてやっていたのだ。この少年も深津の学校の生徒である。
「私たちもあの子たちみたいだったなんて、笑っちゃうよね」
バス停で並んで待っている深津は、杉野にそんなことを言ってみる。それが一体どういう意味だったのか……。
この雨宮という少年、家庭はやけに裕福らしいのだが、なんだか歪んでいる。
おっとりとセレブな佇まいを見せる母親の口癖は、「そうよね、まーくん」(まーくん、だったと思ったけど。違ったかな。この名前でまーくんじゃなかったかも)
杉野は彼の父親に頼まれてここにいるはずなんだけど、彼が対峙するのはいつもこの母親と息子であり、母親はこの息子を溺愛しているのだ。

そういえば、こんなシーンがある。ワンピースの背中のファスナーを息子にあげさせる。素直に言われたとおりにし、ホックも律儀に止める彼。
なんか、危ないんだよね。父親の姿が見えないのも、そんな下衆な勘繰りをしてしまう。
レッスンの場には母親も同席し、満足気に紅茶などすすりながら、「随分上手くなったんじゃない」だなんて言う。しかし正直、彼のピアノは相当にぎこちなく、いくら聴いても進歩の後は見られない。
ふと、杉野は笑いを抑えられなくなり、トイレにこもる。
杉野の気持ちは判らなくもないけれど、相当に病んでいる。

大好きだった筈のピアノを、あの14歳の頃から彼は触っていないのだ。
この、一般家庭にデンと置かれたグランドピアノは、たまたまピアノを再開したいと思った少年によってまた音を響かせるけれど、杉野の耳にはあまりにチューニングが狂いまくり、そして弾き手があまりにつたなすぎることに、苛立ちが抑えられないようなのだ。
そして杉野は雨宮から自分はピアノを続けるべきかどうかと問われ、それが好きかどうかという意味ではないこと、才能のありなしを言っていると知って、どこか苦笑気味に、言ってはいけないことを言う。
「君のピアノに興味なんてないよ」

かつての14歳、深津と杉野から離れて、さまざまな14歳の形が描かれるのだけれど、その中でも一原知恵と林路子の関係が、なんか一番身につまされるというか、衝撃的である。
「みっちゃん、塾の時間まで私、ヒマなんだけど」 口癖のように、何度も何度も口にする一原。一方の林は一心不乱に勉強をしている。
なぜそんなにも林に執着するのか。彼女をつなぎとめておかないと、自分が孤独になってしまうからなのか。でも一原は、ビンボーでいけてないボサボサ髪でしかも成績の悪い林のことを軽蔑しているのだ。
そう、ここに……小学校時代まではギリギリ、みんな同じという意識だったのが、14歳あたりから、同じ年の子でも見下す価値観が生まれてきている様を見ることができる。

夜半、林に電話をする一原。勉強しているから、と言う林を、「あんなバカ高、誰でも入れるって」(!)と言い、それでも渋る彼女に、「あっ、そう。じゃあ明日からシカトだから」……。
ボサボサ髪の林に「うちのお母さんが今度美容院に行く時、一緒に連れて行ってくれるって。みっちゃん、絶対髪をちゃんとしたら可愛くなるって」と一原は言う。だまって下を向く林。
しかしその当日、そんな約束もすっかり忘れたように、その後用事があるから連れて行けないと言う一原の母親に、林はムリヤリ車に乗り込もうとするのだ。……驚いた。驚いたのは一原とその母親もそうなのだけれど、一原は、美容院に連れて行ってくれるって、とくりかえす林を車から引きずりおろし、こともあろうに、「美容院でちゃんとしたら可愛くなるって言っただけじゃん」と言うのだ。
呆然と、投げ出される林は、駆け出してしまう。
とがめるような母親の視線に、「あの子、ちょっとおかしいの」と一原は言う。

そして、一原が次に林を訪ねた時、しれっとこんなこと言うのだ。「美容院のこと、怒ってるの。うちの母親、約束すぐ忘れるから」
林は黙ったまま、チェーンを外してもう一度ドアを開ける……と思いきや、思いっきり一原の足をはさみ、思わず尻餅をついた彼女の頭にツバを吐くのだ。
すさまじい、逆襲。
林自身こそが本当に、美容院に行って可愛くなりたかったことを一原は思いも寄らなかったんだろうし、自分より下だと思っていた子にこんな仕打ちを受けるなんてことも、思ってもみなかったんだろう。
そりゃ、観客も思っていなかったから、本当に驚く。
でも、ムリもない。そのボサボサの頭に隠された瞳が、いつもいつも見下されている一原を、友達として付き合いながらも、本当は真に、大っ嫌いだってこと、判ってた。
一方の一原は、ニセモノの友達関係さえもつなぎとめられず、軽蔑している母親にも反発出来ず、どこにも行けない14歳のプライドがズタズタにされる、そのショックは計り知れない。
彼女は塾で、授業も聞かずに、ずっとずっと、バレエのステップを机の下で踏み続けている……。

この一原によるイジメで、深津は学校に行けなくなった。
深津がメンタルクリニックに通っていることを「精神病院通い」と黒板に大書し、その薬の名前まで書き付けたのだ。
深津は、家庭訪問までして気にかけた一原の仕業だとは思わない。他の子に、あなたの字ね、と言っていきなり殴りつけてしまう。泥沼。仕掛けた一原は薄笑いを浮かべる。
唯一、14歳の子供はこうなんだ、と真正面からとらえたようなシーン。
つまりは、ここだけが、作り手の思いがほの見えた、迂闊だったシーンに思える。それともそれは、確信犯だったのか。

14歳、というタイトルの映画なのに、14歳である彼らの表情をマトモに覗き込もうとはしなかったから。小林先生が言うように、彼らの目をまともに見られないのだ。それは見ても判らないからという恐怖なのか、見たら射すくめられるという恐怖なのか。
それは、かつての14歳だった深津と杉野の、その14歳だった頃に関してもそうである。
教師を彫刻刀で刺した深津の表情は、うっそうと覆った前髪によって隠された。
それを見つめていた杉野の表情も、カメラがさっと横切ってしまって判然としない。
深津がクリニックの先生から手渡される、「ここに通い出して、半年ぐらいの写真」も、遠目で、妙に目の部分がボケて見えていて、心霊写真のように怖い。
人の目を覗き込むことは勇気のいることだけれど、でもその目が見えないことはもっと、本能的に、怖い。

だからこそ、これがリアルな14歳なのかどうかは判らない。こんなにひどくないのかもしれないし、もっとひどいのかもしれない。彼らの本気の目を、私たちは怖くて覗き込むことが出来ないから。
そういう意味で、この中でヒドい教師と言うべき香川照之が、大人の気持ちを非常に代弁していると思う。
私たちは、14歳の頃のことを忘れてしまった。それは忘れようとして忘れてしまった、のかもしれない、とふと思った。

これがキッカケで深津への生徒のイジメはエスカレートし、深津は学校に行けなくなった。教卓の下に仕込まれていた、男女のあられもない声を流し続けるプレイヤーにテープがぐるぐる巻きにされていて、黙って見つめ続ける生徒の前でそれを必死にはがそうとする長回しに、吐き気を覚える。
生徒たちの視線があまりに冷たく思えて。氷のように冷たくて。

深津は、長い間世話になっているメンタルクリニックの先生から言われた。
「14歳のあなたは、ここにはいないのよ。言っている意味判る?あなたが教師になったのは、14歳の自分を救おうと思ったからじゃないの」
14歳の自分を、弱者としての別人格で捉えることによって、今の自分を大人に見立てて支えている。
それが間違っていることを医師は知っていたけれど、それが判ってしまえば彼女の立ち直ろうという気持ちの行き場がなくなってしまうから……。
「もしそうなら、教師をやめなさい」
判る、判るけれども、教師をやめてしまったら、深津はあの時置き去りにしてきた14歳の自分と共に、一体どこに行けばいいのか。
医師はこうも言った。「子供は、いつでも爆発しかねない火種を抱えているのよ。それがいつ爆発するかなんて、本人にも判らないの」
それは、爆発した方がいいのか、押さえ込んで大人になる方がいいのか。

杉野と会った深津は、彼から、どうしてあの時先生を刺しちゃったの、などと問われ、苦しげにあえぐように、答えるのだ。
「判ってるんでしょ。杉野君だって、14歳だったじゃない」
この時の、喫茶店で向き会っての会話シーンは、その苦しかった14歳の頃に、イヤなのに、今降りていかなければいけないという思いで必死にさかのぼる、辛いシークエンス。
飼育小屋が火事になったこと、「本当に私が火をつけたのかな」彼女は言う。杉野は、そんなことは自分には判らない。深津が判ってるんじゃないのか、と返す。しかしそう言われても、彼女は何度もその台詞を繰り返す。
「ウサギはよく燃えるの。燃えている音なのか、骨が軋む音なのか、キュウ、キュウいって……」そんな、ナマナマしくショッキングなことまで口にしたのは、杉野に思い出させるためだったんじゃないのか。確かに杉野は忘れるわけがないと言った。でも忘れているんだ。多分、必死に忘れている。

彼が火をつけたんじゃないかと思う。あの時のこと、深津が教師を刺したことを彼が彼女と同様にあんなにも鮮明に覚えているのは。だってあの時、引っ立てられる彼女に思わず手を出した彼の右手には包帯が巻かれていた。そのシーンは意味ありげに二度繰り返される。なぜ包帯が巻かれていたのか、ハッキリとした理由は提示されないのだ。
そして、「本当に私がつけたのかな」と深津が杉野に何度も問いかけるのが、それって、彼女の記憶が本当に判然としていないのか、あるいは、杉野君じゃないの、どうして忘れているのって意味だったんじゃないかと思って……。

杉野の後輩がある日ふと杉野に訪ねるんである。誰かをいじめていたこと、ありますか、と。
彼は、一人語りに語り始める。
「中学の時、毎日殴ってたヤツがいたんです。そいつと偶然バスで再会したんですけど……あいつを殴った肉の感触がよみがえって……一生あいつを忘れられなかったらどうしよう」
“毎日殴ってたヤツがいた”という言葉がさらりと出てくるのも凄いけれど、“肉の感触”という言葉も凄い。
一生、忘れてもらっちゃ困るけれども、そりゃ殴られた方は一生忘れないに決まっているんだけれども、でも、じゃあ、一生共に覚えていて、どうしようというのか、という気持ちもなくはない。
忘れることは、人生の処方箋のようなものだ。マイナスの記憶をある程度消去しなきゃ、先には進めない。
でも、消去してしまうことによって、同じことを繰り返してしまうこともある。深津や杉野が14歳だった自分がどんな言葉に傷ついたかを消去してしまって、同じことを彼らに言ってしまうってことが……。

「あの子にひどいことを言った。あの頃、自分が言われて凄く傷ついた言葉だったのに」
その杉野を、雨宮は誘い出し、刺そうと待ち構えていた。まるで、あの時の深津みたいに。
呼び出された時から、杉野はそれを予期していたんだろう。勢いよくドアから入ってきて、構えていた雨宮の凶器を叩き落とし、おびえて暴れる彼を抱え込んでピアノの前に座らせる。抵抗する彼を追いかけ、抱え込んで。
「人に聞くなよ、自分で決めろ。俺は自分のことでいっぱいいっぱいだ。子供に真正面から向き合う大人なんて、ほとんどいないんだよ。でもお前が望むこと、出来る限り受け止めてやる」
それを、この一連のシークエンスで目に見える形で示している。こんな風に、大人に身体ごとぶつかってきてもらうこと、雨宮には絶対になかったに違いないから。あのまーくん、な母親じゃありえない。

心ない言葉を浴びせた大人を刺すこと。あの時、深津がしてしまい、その後の人生を苦悩することになったこと。
「そうしなければ、私の居場所がないと思った」そう深津は言った。でもそれも、その時そうハッキリ思ったわけではないだろう。子供の頃の記憶があやふやなのは、あの頃持っていた気持ちをハッキリとした形に出来るほどの成熟がなかったせいだ。
でもそれこそが正解なのだけれど。気持ち、感情なんて、言葉っていう借り物のツールで示すことなど出来るわけないのだから。
だからこそあの頃の気持ちを、今のツールで変換できないから、思い出せないし、理解できないのだ。
そして、忘れようとしているのだ。言葉に変換できない思いを抱えたあの頃が、痛ましくて赤裸々で恥ずかしいから。

雨宮が、彼に思いを寄せる少女が告白しようとしたのを制して、「気持ち悪いから、そばに来ないでください」と言う場面も強い印象を残す。
恋の気持ちに対する、防衛本能、拒絶心、恐怖。
自分が他人の言葉に深く傷ついているのに、それを反面教師に出来ず、他人をひどい言葉で傷つけてしまう。
それが、子供ということならば、なんと残酷な季節なのだろう。
いや、自分が傷ついたはけ口をどこかに見つけられなければ、立っていられない、そういうことなのかもしれない。
まるで水の循環のように、傷つく心もまた、彼らの間を循環していく、そういうことなのかもしれない。
ボサボサ頭の林路子もきっとそうだった。彼女の場合はそれを当人にぶつけることが出来たから、まだ良かったのかもしれないとさえ思う。

誰が、悪いんだろう。
大人が100%悪いわけではない、子供が100%悪いわけでもない。
大人だから完全ではないし、子供だから不完全なわけでもない。
子供の未成熟さに腹をたてるのも大人気ないのだろうし、あるいはどうせ未成熟だからと見下してかかるには、もう彼らにはアイデンティティというヤツが確立しているのだ。

この映画を、実際の14歳が観るとは思えない。
劇場にはかつての14歳しかいなかった。
いや、これだけじゃなく、14歳を描いたり、14歳に向けられる作品を、どれだけの現在14歳が受け止めているのか。
本屋にも山積みにされている、14歳の君へ、といったたぐいのものを、実際の14歳が本当に手にとるのか。
それは、14歳というくくりの中に全てを閉じ込めてしまうことへの当然の拒絶反応、軽蔑なのではないのか。
私はこれを、実際の14歳がどう受け止めるのか、知りたい。★★★★☆


16[jyu-roku]
2007年 75分 日本 カラー
監督:奥原浩志 脚本:奥原浩志
撮影:橋本清明 音楽:杉本佳一
出演:東亜優 柄本時生 小市慢太郎 諏訪太朗 宮田早苗 徳井優 伊藤清美 紺野千春 渡辺真起子 松岡俊介

2007/6/11/月 劇場(渋谷シネ・ラ・セット)
一時期は17歳流行りだったけど、今度は14歳になったり15歳になったり、まあ忙しいわと思っていたら、何となくぽっかり空いていたような16というタイトルのこの作品。
しかし別に16歳の何たるかを描く映画というわけではなく、「赤い文化住宅の初子」のスピンオフ企画ということなんである。こういうささやか系の映画でスピンオフというのも珍しいなと思い、そのスピンオフ作品が、まるで美術館の待合室みたいな小さな小さなスペースのシアターで、更にささやか過ぎるほどに上映されるのも面白いなと思うんである。

「赤い文化住宅の初子」で映画初主演を飾った東亜優が、女優になるために地方から上京してくるストーリーを、彼女自身になぞらえて描いていくという手法。劇中、彼女が「赤い文化住宅の初子」のオーディションで、その一場面を演じてみせる場面もあれば、その本編の撮影風景を再現している場面もある。まあだからこそ、「赤い……」より随分と大人びた印象の彼女に時間の逆回し感を感じ、ああ、これ、「赤い……」と同時にスピンオフ企画が始まってて同時に撮ってたらより面白かったのにな、と思う。
今回「赤い……」の公開が決まっての企画だからこうなったのだろうけれど、それもまた面白いとは思うんだけれど、「赤い……」の時点が最新の、つまり右も左も判らずに地方から出てきた少女が、今出来る最高の女優像としての完成形を見せているから、どうしてもおかしなギャップになるんだよね。その過去を演じている彼女が、もう眉の形も完璧で、身体も少女のふっくらからすらりとした体躯になり、迷える少女、初子ではもはやないのだもの。でもそんな彼女であえて過去を演じるから面白いのかなあ。

実際、「赤い……」の時には見ているこっちが心配になるほど、一人取り残されたウブな女子中学生だった彼女が、ここではそうした自分を演じる、という女優そのものになっていることに驚くんである。
だってなんだか、顔が違った。え?同じコ?とまじまじと見つめてしまった。でもそれは、より洗練されると女優としての共通項を持つようになるから、今の彼女よりも初子であった彼女の方が個性的であるというのは皮肉なのだろうか。

さて、「赤い……」の主演女優の上京物語、という、ドキュメントに見せかけながらも、あくまでフィクションであるこの物語。彼女が本当にお母さんの勧めでオーディションに応募したのかとか、新人タレントはこんな寮に住むのかとか、先輩女優からこんな風に厳しく当たられるのかとか、どこまでがリアルに本当のことなのかは判らないし、その中で小さな恋をしたというのなんかは、恐らくハッキリとフィクションなのだろうと思われる。
最終的に彼女は「男の人を好きになるって、どういうことなのか良く判んないです」と、地方から出てきた子だからにしても、あまりに純情なことを口にし、いくらなんでもこれはフィクションだろうな、などと斜に構えて見てしまうのは、年をとった証拠なのだろうか……若い子のウブを信じられないなんてさ。

そんな彼女に、「お父さんが聞いたらきっと喜ぶね」と言うマネージャーの返しが、彼女の言葉をどこまで本気にとらえているのか、なかなかビミョーなトコなんだけど、演じるコイチマンは相変わらずステキなのであった。
そうなの、本作はスピンオフに対する興味はあったけど、監督が苦手印なのであまり観に来る気はおきなかったのだ。それを覆したのは、キャストクレジットの割と早い順番に小市さんの名前があったからなのであった。

誰一人知り合いのいないこの東京で、唯一頼りにしているマネージャー。実際、彼との待ち合わせ場所でサキはさっそく「待ち合わせしている人は来れなくなった」怪しげな男に近づかれ危機一髪、そこへ現われたマネージャーが小市さん。いやー、こんなマネージャーがいたら、もうスゲー仕事一生懸命やっちゃうしね!
まあ、このマネージャーが物語に関わるってわけでもないのだけれど。
でも、初体験の演技がなかなか上手くいかなくてベテラン女優をイラつかせるサキを、心配そうに見つめる小市さん、そして「皆オレに恋愛相談してくるんだぞ」とニコニコ笑ってパフェをつつく小市さん(サキはコーヒーだか紅茶だかを飲んでるのに)、あー、もう、たまらなくステキなんだわ。
マネージャーって役、思いもしなかったけど、やけにやけに似合うのは、警戒心を抱かせない人懐っこいとろける笑顔と、しかしふと表情を引き締めると途端に敏腕そうな風貌になる感じだろうな。ああ、なんてステキ。

マネージャーが心配していたサキの淡い恋は、初めてのドラマで緊張しきっていたサキをリラックスさせてくれた俳優に対してだったんだけど、彼に対する思いは、心細さを埋めてくれる、いわばふるさとや親への思いとさして変わらなかっただろうと思われる。
だって、サキは彼の手が気になった。タバコを挟んだ手。それは確かに男を感じさせる色っぽい手だったけれど、サキが故郷を離れる時、見送りに来た所在なげな父親の手が、やはり目に焼きついていたのだ。恐らく彼女にとって、ふるさとの記憶はそれが最後。
男性の手が気になる。それが本当に色っぽい意味でのことになった時に、サキはようやく恋を知るのだろうと思われる。

この、ふるさとをあとにするシーンは、女優になるために前途洋々、という感じではなかった。母親は、自分が勧めたから娘は気乗りしないんじゃないかと、それは娘がいなくなる寂しさゆえにそんな風に自分を責めて泣いていた。そんな母親に、「でも、私がやりたいって言ったんだから」と言いつつ不安を隠せないサキ。
ローカル列車にぽつんと座っているサキのところに、いきなり幼なじみのヤマジが乗り込んでくる。
見送りに来てくれたの?というサキに、そんなことするか、とヤマジは憎まれ口を叩く。
後に判ることだけれど、ヤマジと話したのは久しぶりだった。小さい頃はよく一緒に遊んだ。でも中学に入ってあまり口をきかなくなって……そう、後に判ることなんだけれど、ヤマジは上手く友達を作ることが出来なくて、孤独にさいなまれていたのだ。
結局ヤマジは、サキの携帯に友達から電話が来て話しこんでいる隙に列車を降りてしまうのだけれど、後に突然東京にやってくるんである。

この、ヤマジとの一夜の道行きがこの作品のメインであり、青春のやりきれなさであり、恋愛とも友情ともつきかねる思いを共有する、なんとも切ない一夜なんである。
ヤマジは中学時代、補習授業で一緒になった4つ年上のヒデちゃんという先輩を頼って東京に出てきたんだけれど、その当のヒデちゃんは連絡がつかない上に、家賃を半年滞納して行方をくらましたというんで、不動産業者から二人は関係ないってのに絞られるんである。どうせ家出してきたんだろう、警察を呼んでもいいんだ、などと理不尽に脅されて。
……なんつーか……東京の虚しさ冷たさを、端的に示すエピソードである。ちょっと、陳腐だけど。

行くアテもなく、どうすることもできないんだけど、サキはヤマジをほっておけない。深夜のレインボーブリッジを黙って歩く。
「お前は、帰っても、友達たくさんいるけどさ……」ヤマジの切ない告白は、つまり彼には逃げてしまったヒデちゃんとサキしか、友達がいないことを示してる。ヒデちゃんがいない今、サキしか友達はいないのだ。
でもそのサキは、地方にいるヤマジでも手にとることが出来るような雑誌のグラビアを飾っていたりして、しかもそれを見たとサキに言ってみても、「どの雑誌?インタビュー載ってた?」なんて言うなんて、そんなに売れっ子で仕事をこなしているのかとそりゃ彼は思ったに違いないのよね。
そして二人は、ヤマジの「宿」であるファミレスで一夜を過ごす。テーブルにうつぶせて寝入ってしまったサキを起こさないようにして、ヤマジはそっと、店を後にした。

このヤマジとの邂逅の後に、マネージャーに、あの気になる人ってのはどうしたと聞かれて、サキは、そんなんじゃなかったみたい、と返すのだ。
あの淡い恋はあっという間に終わってしまった。悩んだ末にジッポをプレゼントに用意し、彼の芝居を見に行ったサキだけれど、彼には「連れ」、つまり奥さんがいたのだもの。
でも、サキは特に傷ついたっていう描写があるわけではない。一晩中泣き明かすとか、そんな感じではない。
そこからすぐにヤマジのエピソードに入るせいもあるけれど、やはり恋ではなかったということなのか。あるいは、すぐにヤマジのエピソードに入るという意味は、彼女にとって恋しいのはふるさとの友達で、彼が去ったことによって、つまり彼を救えなかったことによって、彼女はこの東京で女優というフィクションの中で生きていくしかなくなったということなのだろうか。

最初は満足に芝居を咀嚼することが出来なかったサキが、ベテラン女優に叱咤されて本気でホンに向き合い、その女優に、面と向かって褒められはしないまでも、演技で殴った頬を軽くポン、と弾かれたりなんかして、出来るじゃない、みたいなイイ感じになる。
まあ、その時にはサキは淡い思いを抱いたその俳優、丸山(松岡俊介)に「やったぜ!」って笑顔を向けることこそが重要だったわけだけど、でもこの場面の重要さは、やはりこのベテラン女優に認められたことだったに違いないのよね。この時点でサキはそこまでの認識はないんだけど。

サキは「赤い……」のオーディションで監督から彼氏がいるか聞かれて、女優としてそういう存在がいた方がプラスになるのか、とマネージャーに尋ねていた。自分がそういう方面にあまりにもウブなことを、ひょっとしたら気にしていたのかもしれないし、そんな潜在意識が丸山に恋する気分に傾いたのかもしれない。
つまり、女の子は自分をスキルアップするために、自分自身の中で演技することが出来るってわけだ。
サキはそのことを明確に自覚しているわけではないだろうけれど、丸山に失恋してもさほどショックを受けなかったことや、あれだけ東京での道行きに付き合ったヤマジが去ったことに対するリアクトがないことも、そういうこと、だって気がする。
女優になるということは、女の子が生きていくあらゆる要素を含んでいると思うけれど、自分に必要ない部分は容赦なく切って捨てる、ってことなのだと思うのよね。

だから、「まだ恋愛なんて判らない」という結末に落ち着いたのは、これから女優として生きていく自分に、とりあえず必要でもないってことが判ったってことであり、もしかしたら必要かもしれない、と試してみる気持ちがあったのは、丸山に対するアプローチで充分すぎるほどに示されてる。
だってやっぱり、いくら地方のコだからって(この言い方自体、かなり差別的&間違ってるしさ)16にもなって、恋の気持ちが判らないなんて、ありえないもん。「それを聞いたらお父さんが喜ぶよ」「そうですね」というマネージャーとの会話は、双方共に、それがありえないという前提の元で会話しているとしか思えないもんなあ。

やっぱりね、ヤマジとの深夜の道行き、東京タワーの展望台やレインボーブリッジをただただ歩くシーンに、最後のピュアが託されていたように思うんだよね。彼女が女優になる過程とか、その戸惑いとかはどうでもよくて、つまり、誰もがどこかで捨てるしかない純情を、サキはうっかり東京まで持ってきてしまって、だからこそここでひっそりそれが光っているのが痛ましくて切なくて……みたいな。

リアルな痛さをウリにしているティーン映画とは異質の、しかし妙なリアリティがあるゆえんかもしれない。★★★☆☆


昭和エロ浪漫 生娘の恥じらい
2006年 60分 日本 カラー
監督:池島ゆたか 脚本:五代暁子
撮影:清水正二 音楽:大場一魅
出演:春咲いつか 池田こずえ 日高ゆりあ 津田篤 なかみつせいじ 平川ナオヒロ 吉原あんず 樹かず 小原かなえ 茂木孝幸 池島ゆたか

2007/4/15/日 劇場(池袋新文芸座/第十九回ピンク大賞AN)
毎年ベストテン授賞式で進行として壇上に立つ、お喋りで明るいスケベなおじさんといった池島監督のイメージと、毎回テン内に入ってくるきっちりとした映画のイメージがいつも結びつかなくって、面白いなーと思う。
観る機会が限られている私の中での乏しいイメージとしては、でも毎回、外枠からキッチリ作ってくる人。どこか自由主義を感じるピンク映画の中でも、すごく職人的な感じのする人。予算が少ないことや撮影日数の短さがまず大前提に立っているはずのピンクの中に、緊縛モノ や昭和モノといった、それを更に困難にさせる要素を恐れずに入れてくる。しかもそれが、当然、完全に成立しているんだもの。

今回の昭和モノなんて、一般映画でそれをやるより、いまだフィルムの手触り感や役者のナマな感じがあるピンク映画の本作の方が、リアルな空気が漂っている気さえする。
やっぱり、流行りの役者さんって、今の流行りの顔をしているからさ。でもこの中の役者さんたちは、もうその風情からして昭和、なんだよなあ。いやいやまず彼らがきっちりと芝居が出来る人だということなんだろうけれど。

舞台は昭和30年代。厳格な父親とおっとりとした専業主婦の母親、大学生の息子、工場の事務員である娘、その四人家族の、愛や家族の人間模様が描かれる。思えばピンクのこの短い尺の中に、彼ら一人一人が外で関わってくる人間模様と、それを家族の関係に還元してくる様をまとめ上げているというのはかなり驚嘆。つまり、ムダな部分が一切ないということだろうなあ。だってカラミだってしっかり入れなきゃいけないんだし。

最も主軸となるのは娘の明子。彼女はもう25で、父親からは再三見合いの話を持ち込まれている。タイトルとなっている生娘というのは彼女のことで、今の時代では25で生娘を描くのはかなり遅れたイメージになってしまうから、その点でこの昭和30年代という設定が活きてくる。
現代のティーンの生娘の初体験を描いたって、そりゃあ大して萌えないもんなあ。社会に出て、結婚もしなきゃいけない年頃になって、世の中の納得出来ないこともいろいろ判ってきて、でも身体は純潔で。お見合い結婚がまだまだ普通にまかりとおっているこの時代でも、どこかでそれを、女の直感とでもいうべき部分で、拒否している。彼女は口に出しては言わないけれど、やはり運命の人を望んでいたんだと思う。

母親は、見合いを断わり続ける娘に、「明子がピンと来る人じゃなかったんでしょ」と援護してくれる。母親は父親と見合い結婚だったけれど、それが女にしかない直感で感じたんだと言う。だから明子もそれを待てばいいのだと。母親は暗に、それは見合い相手でなくてもと言ってるんであり、実際、娘に好きな人が出来たらしいことを感じとると、連れてきなさいよ、と言ってくれる。
でね、25の生娘、だからそう、萌えるのさ。しかも、この時代のね。明子は会社の、労働組合の活動に燃える田中という青年から愛を告白される。彼は青森から集団就職で出てきた青年で、その訛りと作業服がいかにも垢抜けないんだけど、明子をたびたび歌声喫茶に誘いながら、いつも組合活動の話しか出来ないあたりが、あとから考えるとウブな青年なのだ。だって、彼は明子のことをずっと好きだったんだから。

ガタンガタンという電車の音が聞こえる彼の狭い部屋、昭和って感じ。そこで、二人は結ばれるのだけれど、明子が、結婚前の女が……てな雰囲気と、やはり初めての怖じ気とで彼を拒みつつも、この青年のせきを切ってしまった激情に巻き込まれるように抱かれるのが、ああ、こういうの、確かに現代じゃ描けないよなあ、と思うのだ。
ただ、この時には苦痛を必死に耐えて歯を食いしばって硬直していた明子が(まっ、生娘だからね)、次に彼と交わるシーンで早くもメッチャ積極的になって、「私、初めてイッたみたい」などとゆーのは、いくらなんでも早すぎのような気がするけど……。

そして、お父さん。この厳格な父親にも、実は密やかな愛の物語があった。私は、このお父さんの話が一番、好きだったなあ。
部下の百合子と連れ立って歩いている彼。決して、不倫なんていう間柄ではない。彼は優秀な部下である百合子を好ましく思いながらも、他の女の子達がどんどん寿退社していく中、彼女だけが残されているのを、心配していた。
いや、それはウソだ。彼は百合子にホレていた。それは……最後の最後、たった一度きり、二人が結ばれる時に、明かされることなのだけれど、そんなこと、言える筈もなかった。ただ優秀な部下と仕事の後飲みに行く、彼女の相談に乗る、それで良かったのだ。
彼女は父親と二人暮しで、父との同居が結婚の条件になっているから結婚が遅れている、のだけど……多分、それだけじゃないと思う。だって、百合子は彼が好きなんだもの。だから、踏ん切りがつかなかったに違いないんだ。

上司と部下として、彼女は彼に敬語を使い、あくまで後ろに控えながらも、二人はしっくりと、しっとりと、お似合いである。
百合子が彼に、結婚が決まったことを報告するバーがまた、実に雰囲気がある。このバーは彼が一人で飲みにくることもあり、そこでは長嶋が活躍するラジオ放送なぞがかけられている。「長嶋はすごいですね。彼は野球界を変えますよ」 隣に座った客とそんな会話を交わす。
ラジオのかすかな雑音が耳に心地よい、このラジオの音があるからこそ、返って静寂を感じる外界から閉ざされたバーは、二人の運命の場面によく似合う。

ずっと、あなたのことが好きでした。そう告白した百合子は、最後にお願いがあると言った。即座に予測がついた。カットが替わると案の定、そこはホテルの一室。それもまた、現代のラブホテルの無粋なきらびやかさとは違って、何か、もの悲しい。
「本当にいいのかい」スリップ姿の百合子に問う彼。「私もずっと、百合子君のことが……」そんなことは、言わなくても、よかったかもしれない。この一度限りの関係がなければ、二人は不倫関係ですらなかったのだから。
でも、ずっと思い合っていた二人が永遠の思い出として交わるこのシーンは、ピンクの条件としてのカラミではあるんだけど、それこそをじっくりと描けるピンク映画の強みを感じさせるんである。だって、こんなに切ないセックスはないのだもの。彼女は、永遠に忘れません、と言った。彼もまた、永遠に忘れないだろう。肉体よりも、今までの思いが、感情が、このセックスに凝縮されているんだもの。

この家族の中でカラミシーンがないのは、専業主婦の母親だけで、ピンクって、メインの登場人物はなんだかんだ理由をつけて?、カラミがあることが多いもんだから、彼女も最後にはこの父親と和合の意味でのセックスがあるのかな、と思っていたら、なかった。それが意外でもあったし、だからこそ救われた気がした。
だって、自分の知らないところで夫が他の女にホレてて、あんな中身の濃いセックスまでしちゃったわけでしょ。何にも知らずにのほほんと専業主婦やってる、みたいな見え方にどうしてもなっちゃう彼女が、哀れに見えそうにもなるじゃない。んでもって、その上夫とのセックスシーンが用意されていたら、なんか罪滅ぼしみたいな感じにも思えちゃうじゃない。

でも、ないんだよね。そういうシーンは。だからこそ心に染みる。百合子の結婚式に出席してきた彼が、縁側で一人将棋をやってて、その夫にうちわで風を送ってる彼女、それがラストシーンなの。
なんかね、彼女が、夫が百合子と何かがあったのか、勘付いているのかもしれないし、そうじゃないのかもしれないけど、そういうことは別に関係なく、夫を支えている、セックスなんか抜きで、家庭生活を彼女こそが支えているっていうのがね、外に支えを求めない、強靭な精神力である女の、強さだなあと思って、ああ、カラミがないのは正解なんだなあ、と思うんだなあ。

そうした中身の濃い、他の家族たちの描写に対して、息子だけがかなりカルい。それは、愛のあるセックス、あるいは愛そのもの、といったものとの対照として用意されているから、なんかこれぞピンクって感じ、と思うのも失礼な言い方なんだろうけど、それもまたピンクの魅力でもある。
ある意味、セックスにバカバカしさを付加するっているのがね、ピンクじゃなきゃ出来ないことだもん。まあ、彼自身は結構マジだったのかもしれないけど、彼がホレて筆おろししてもらって、セックスの手ほどきをご教授してもらった美女は、セックスに愛なんかない、楽しむだけの行為だと割り切っている、ある意味ドライでカッコイイ女性なのだ。
曜日違いでセフレがいるもんだから、ウッカリ間違えて彼とバッティングしちゃったりしてさ。でも、悪びれないの。憤る彼に、そういう重いのイヤだから、合い鍵返してよ、とアッサリ言う。ショックを受ける彼は、曜日違いの男に殴られもしちゃう。彼は彼女にホレてると思ってるけど、でも他の家族の真剣な愛の形を見せられているから、それはまだまだ、全然愛に到達していないってこと、判っちゃう。実に、バランスがとれているんだよなあ。

この日、男優賞受賞のために来場していた、私のだあいすきな下元史朗氏がね、池島監督とは役者同士として旧知の仲で「ハダカなんかやっちゃおしまいだ」なんて言われた過去なぞ披露して、じゃあ、お前は今、何やってんだよ、と冗談まじりに言っててね、下元氏の話の中には仲間として柄本明の名前なぞも出てね、なあんか、ジンときちゃったなあ。
ハダカだろうがハダカじゃなかろうが、監督だろうが役者だろうが、才能ある人が、場所は違っても、こうしてそれぞれに精力的に仕事をこなし、評価されているっていうのがね、ああ、素敵だなあと思ったんだよなあ。★★★☆☆


神童
2007年 120分 日本 カラー
監督:萩生田宏治 脚本:向井康介
撮影:池内義浩 音楽:ハトリ・ミホ
出演:成海璃子 松山ケンイチ 手塚理美 甲本雅裕 串田和美 浅野和之 キムラ緑子 貫地谷しほり 西島秀俊 吉田日出子 三浦友理枝 柄本明

2007/5/21/月 劇場(池袋シネマ・ロサ)
最近は、音楽映画、あるいは音楽ドラマの流行りなのかしらね。のだめといい、「この胸いっぱいの愛を」といい。
まあでもそんなことは関係なく、この作品は本当に楽しみに待ってた。
大好きな監督の一人、萩生田監督が成海璃子嬢をヒロインに迎えて新作を撮ると知って、なんか凄く納得してしまった。そりゃ璃子嬢はあまたの監督が今一番使いたい女優だろうけれど、萩生田作品にしっくりくる、もう即座にそう思ったもの。
曇り空の美しい萩生田作品に、成海璃子という女の子が立つ時、曇った心の中を晴らせずに、透明な瞳で覗き込んで困惑している少女が、そのまま彼女に重なった。

そしてこの作品は両主演という形。一方の主役、ワオ(和音)を演じるのがこれもまた今一番旬の俳優であろう、松山ケンイチ。
彼に関しては、ここでようやく私は認識した。遅いっつーの。フィルモグラフィーをチェックしてみるとすっごい見てるはずなのに、全然インプットされてなかった。
しかも彼が名前を売った作品に関しては、ことごとく観てない始末。戦争モノを嫌うばっかりに「男たちの大和」を、シリーズモノを嫌うばっかりに、彼が一気にブレイクした「デスノート」を観ていないことを、今回ばかりは歯噛みするんである。
しかし、「アカルイミライ」「NANA」「リンダ リンダ リンダ」も観ているのに、彼のこと、ぜっんぜん覚えてない……サイアク。あ、いや、思い出した。「NANA」で、原作のイメージと全く違ってガッカリしたもんだから、マトモに正視しなかったシン役の彼かあ!うう、だってあれはさすがにミスキャストだったと思うもん……そうかあ、あれが彼だったか。

で、ビックリ、松山ケンイチって、青森出身なのね!
こーゆー時ばっかり、やーっぱ青森は天才を生み出すトコだなー!と主張するんである。
いつか、彼がネイティヴ津軽弁で演じているところを見てみたい。あ、彼は下北弁なんだそうだが(南部弁との中間。それ自体知らなかった私失格……)
初めて見るタイプの役者。ひとことで言ってしまえば、面白い。どうにでも化けそうな感じがする。
そして彼にも、璃子嬢に感じるような不思議な透明感がある。演技力うんぬんではなく(勿論、上手いけど)その存在自体が目に止まってしまう、そういう役者であるところも共通している。
二人が、年が離れているとはいえ、璃子嬢は結構大人っぽいのに決して恋人同士に見えないのは、そのせいだろうと思われる。
同じ匂いがする。でも決して兄妹でもないんである。兄妹以上の同じ匂いなのだ。本作の中でそれが最大限に発揮され、運命の相手として作用する。

しかし不思議なことに、時々彼が西島秀俊(萩生田作品の住人だよなー)に見える時がある。それは勿論二人が似ているということではなく、この劇中だからこそであるに違いない。それもまた大きな意味を持つ。
いや、やはり似ているのかもしれない。独特の発声の少しくぐもった声、それが生み出される唇が、大きめの上唇が下唇に柔らかく重なるような形なのも妙に似ている気がする。そして、鍵盤の上を這う美しい指も似ている。
璃子嬢扮するうたに寄り添う彼=ワオが、彼女の父である西島秀俊に見えるシーンが時々あって、ドキリとするのである。
両主演のような形をとりながらも、存在感も物語の軸もどう捕らえても、うたが中心であり、ならば和音(ワオ)の存在がどう据えられるのかというのなら、やはりその立ち位置なんじゃないかと思う。
そう、うたは歌であり、ワオは和音、彼女に寄り添う伴奏。ひとり口ずさむ孤独な歌が、伴奏によって、音楽になる。うたは「大丈夫、あたしは音楽だから」とラスト、決め台詞を言ったけれど、私はそれが、ワオがいなければ完成されないような気がした。

ワオは音大を目指している受験生、うたは天才的なピアノの才能を持つ“神童”。そんな二人が出会う。
ワオの家は八百屋で、受験に向かって最後の追い込みをしている彼のピアノに、隣人から苦情が入る毎日なんである。
古風な商店街の昔ながらの八百屋、住居兼店舗になっているその間取りといい狭さといい、なんとも懐かしさを感じさせる。
ワオの両親、寡黙な父親柄本明とチャーミングなお母さんキムラ緑子が、この作品の人情味を一手に引き受けて、凄くカワイイのね。うたがここに惹かれたのは、この両親もコミだった気がするなあ。

手狭なワオの部屋に置かれたアプライトピアノは、いかにも古ぼけている。
一方で、うたの家もまた、ガランとした安っぽいアパートの一室。そこにピアノはない。しかし母親(手塚理美。なんか太っちゃったような……)はうたにレッスンに行くようにしつこく言ってるし、あなたには才能があるんだと執拗にせまるし、あら、何か事情がありそうね、と思っていたら、父親の遺影が置いてあった。
才能あるピアニストだったらしい父親の死の真相は、この時点ではまだ明かされない。
手放した屋敷の中に置いていかれたグランドピアノを、うたは時々弾きに行っていた。
そのピアノをワオの練習のために、貸してやるうた。りっぱなピアノに有頂天になるワオは、うたがつぶやいた言葉を聞いていただろうか。
「時々弾きに来てあげるの」そう言ったような気がする。

村松健氏がね、言っていたんだよね。ピアノは唯一、持ち歩けない楽器だと。その場所にあるピアノを弾かなければいけない。どんな状態であろうとも、短時間で息を合わせなければいけない。
でもそれを、彼はどこか嬉しそうに言っていた、気がする。時にはヒドイ状態のピアノもあるだろう。限られた時間で仲良くなるのは容易なことではないに違いない。
でも、その場所にはずっと、ピアノがいたのだ。そのピアノに会いに来た。そんな言い方をしていたことが、印象に残っている。
奏者にとって楽器は、きっと恋人のようなものに違いない。弾き込んで弾き込んで、いつでも一緒にいて、演奏会などの本番には、その相棒と日頃の成果を発揮する。でもピアノだけがそれを出来ない。いきなり見知らぬ他人とセックスしなきゃいけないようなものだ。

きっとそれは、ピアニストが越えなければいけない壁なのだろうと思う。そしてそれを越えた時、見知らぬ土地で待っていてくれる“恋人”に会いに行くことが楽しみになるんだろうと思う。
私はそんな話を聞くたびに、まるで港々に女がいる小林旭みたいだな、と思って軽い嫉妬にも近いような羨ましさを感じた。もし私がピアニストだとしても、人見知りの私には、人以上に気難しい初対面のピアノと仲良くなんてなれっこない。
そして、うたも、そうだったんじゃないかと思うんだ。
うたはきっと、見知らぬピアノに対面しなければならないことが、辛かったんじゃないかと思うんだ。
まだまだ世間や世界を知らない少女で、大好きだった父親のことさえも知らないことが多すぎて、人だけじゃなくピアノにまで人見知りするのが辛かったんじゃないかと思うんだ。
でも、うたはワオと、その部屋にあるピアノには安心できた。
畳の部屋に置かれた古ぼけたアプライトピアノ。まるで昔からの友達みたいに、嬉しそうにうたはその鍵盤を鳴らした。

うたは、孤独を抱えている。友達といえる存在はいない。孤立しているのは明らかである。残酷なまでのピアノ過保護な母親によって、体育は見学、日頃から手袋などという、ハブにしてくれよ、って公言しているような生活を強いられているのだ。
それでも彼女は、男子にからかわれれば敢然と立ち向かって、ケンカもしょっちゅうである。それは彼女が、この孤独をこれ以上深いものにしないように、と思っているからのような気もする。
男の子みたいな乱暴な言葉遣いと強気な口調。彼女自身がそういう性格でなくても、ワオから「そんなんだから友達できねえんだよ」と言われても、自分を防衛するために、身についてしまったことなのだ。

うたには確かに才能がある。父親譲りの天才的な才能。だからこそ母親はそれを伸ばしてやろうと思った。あなたのためなのだと言って。
それはでも、彼女の人生から突然いなくなった夫へのあてつけだったのかもしれない。だって、彼の死の真相は判らない。ひょっとしたら、自殺だったかもしれないことが後に明らかになる。
演奏旅行の最中、船の上から突然姿を消した父親の死の真相を、友人だった音大の大学教授は「事故だったと思っている」とは言うけれど、うたは、きっと自殺だったんだ、と迷いもせずに言ったから。
娘がそれを知った時、そう言うだろうことを母親は判ってたんじゃないか。つまり、彼の気持ちをどうやら、娘のうたは理解出来るらしいことを、彼女は気付いていたから……自分が分かち合えないことを、うたは分かち合えることに気付いていたから、どこか、女の意地のような、嫉妬のような気持ちがあったんじゃないかと思うんだ。

たとえ親子であったって、女と女。
そして、親が子供に権威を示せる期間なんてごくわずか。
例え子供がそのことを心の傷として一生持ったとしたって、“神童”に勝てる期間なんて、ごくわずかなのだ。
心のどこかで、そんな思いがほんの少し、あったかもしれない。
だってきっと、彼女はうたの父親への思いと同じく、夫を愛していたに違いないから。
「コンクールの賞金ぐらいで、家なんて買い戻せないよ」うたは母親につぶやいていた。
母親は、結局、家は残して、ピアノを売っぱらったんである。
この時点で、母親はうたにとっての、そして夫にとっての大事なものが判ってない。
ピアノは残して、家を売りゃよかったのに。
いや、判っていたからこそ、ピアノだけを売ったのかも知れない。
まさか、この時こそを待っていたとまでは思わないけれど……。

ワオはうたの後押しがあって、音大に首席で合格するも、その後スランプに陥ってしまう。
彼はそれを、あの受験の時にはうたのピアノが乗り移っていたからだ、などと言う。確かにあまりのプレッシャーに試験場から逃げ出そうとさえしていたワオの冷え切った手を温め、大事にしているぬいぐるみを渡してパワーをくれたのはうただった。
でも彼は後に、声楽科の加茂川香音の伴奏を担当するようになって息を吹き返す。
それは……原作は未読なんで何とも言えないんだけど、彼がうたのようなソロのピアニストとしてではなく、人と合わさって魅力を発揮するタイプのピアニストだという示唆のように感じる。
それが彼をどういう思いにさせているのかは、判らない。そこまでの掘り下げはしていないんだけれど、ただワオの表情からは、思いがけないところに自分の居場所があることへのオドロキがあるように見えた。

ワオがかつて思いを寄せていた相原こずえは、海外の一流音楽校への留学を決めた才能あるソロピアニストの卵。そして、うたも“神童”なわけでしょ、彼がそうはなれないことに悔しさや挫折感をにじませるのかと思ったからちょっと意外だったけど、でも彼は「ピアノが好きなんです」と言っていたんだ。受験の時のように上手く弾けない彼に失望する教授に、それだけをまっすぐに。
教授は「好きなだけじゃダメなんだよ」と吐き捨てるけれど、好きなだけでいいんだよね。ワオのピアノの良さはきっとそこなのだし、うたが「ワオのピアノはヘタクソだから、聴いてて安心する」なんてアマノジャクなことを言ったのも、同じ理由だったとも思うもの。

彼の伴奏に笑顔で振り返って、気持ち良さそうに歌っていた香音の表情もそれを物語ってる。ただここはあまりにも吹き替え丸判りすぎて、ガックリきたけどさ……。ムリもないけど、そら彼女がこんな声出せるわけないんだけど。
その点相原こずえに扮する三浦友理枝の、壮行会での演奏シーンは圧倒的な迫力。さすが本物のピアニストはスゴイ。吹き替えとはくらべものにならない。うたが彼女に向かって言う「甘ったるくて聴いてらんない」という台詞にハラハラするぐらい。
ピアノの天才というのが、技巧、表現、それを意識せずに弾けることを言うのだとすれば、その技巧の圧倒的を示したのが相原こずえであり、後にうたが、それも含めて全てを観衆に見せつけるわけだ。

しかしこの時点のうたはというと、それまであんなにレッスンをイヤがっていたのに、屋敷から“お父さんのピアノ”がなくなった(やむにやまれず売ったと思われる)時から、急に変わりだす。「弾きたい」と、それまでなら考えられない言葉も口にする。
それまでのうたは、ピアノが好きなのかどうかさえ、自分の中での葛藤があった。彼女を心配するピアノ調律師、長崎がそんな彼女を心配そうに見つめていた。
うたは、ワオを訪ねていった音大で、彼の指導教授が父親の友人だったことを知る。そして、自殺かもしれなかった父親の死の真相を知る。彼が難聴に悩まされていたらしいことも。
そしてうたも、耳に異変を覚え始めていたのだ。
うたの記憶にあるメロディは、この教授と父親が演奏旅行中に弾いたものだった。そのテープが残っていた。教授は、この時が一番自由に弾けた、理想どおりの音が出た素晴らしい時間だった、と言う。

神童といって即座に思い出すのはモーツァルト。クライマックスでうたが弾くのもモーツァルトだけれど、耳が聞こえなくなる悲劇の天才、といったらやはりベートーベン。その激しさもやはりベートーベンを思わせる。
ただ、うたの天賦の才能は、やはり神童・モーツァルト的なんだよね。一方、ピアノが音楽が好きで好きで、もうそれしか道がなくてひたすら努力して近づこうとする“努力の天才”ワオこそが、ベートーベン的。
そういやあ、ベートーベンはモーツァルトを崇拝していたんだよな、ってことを考えると、ますますもってモーツァルト=うた、ベートーベン=ワオと思えてしまう。
ただその図式で言うと、モーツァルトは早世してしまったから、あの意味ありげなラストと、うたの父親がうたいわく「音楽そのものになりたかったんだよ」という理由で死んでしまったことが、ひどく気になるんだけれど……。

でも、音楽って、唯一存在を立証できない芸術なのだ。それを象徴するピアノだって、音を出さなければただのオブジェであり、その音はコレ、って掌に乗せて示すことの出来ないものなのだ。
つまり、ただ音を、自分の思いを、その中で共鳴するだけの虚しきオブジェ。
音を出しているその時間だけしか、存在を示すことの出来ないもの。
人間以上に、はかないものなのだ。
だからこそ、“ピアノの墓場”にあるピアノたちは、あまりに痛々しい。
この“ピアノの墓場”に、幼い頃のうたは、父親に連れてきてもらった。そう名付けたのはうたで、そこはワオの言うとおり、ただの中古ピアノのための倉庫かもしれない。でも誰かに弾いてもらうために存在するはずのピアノが、そのたった一つの存在理由から外されて無造作に置かれているのが、うたにとっては墓場としか見えなかったのだ。
たとえちっちゃな子供のつたない雑音でも、その鍵盤を叩いてもらえるピアノこそが“生きて”いるのだもの。

うたが父親の思い出をこの“ピアノの墓場”と直結して連想するのは、ワオの言うように、外国に輸出されていつか誰かに弾かれるかもしれない、なんてことは、ここで死んでしまっているピアノにとってはあまりにも無意味で、そう、弾く人のいないピアノは死んでいるんであり、それは父親の死と重なるからのように思う。
だからこそ、“お父さんのピアノ”がある限り、父親は生き続けた。この中からうたがひとつ救い出してあげよう、と父親に言われて選び出したのは、譜面台に繊細な細工が施された美しいピアノ。一目見てこれだと判る、どっしりとした存在感を放つグランドピアノだ。
ラスト、このピアノを探し求めてようやく見つけ出して、うたが弾くことによってピアノが生き返ったと同時に、そこに現われたワオ。うたにとっての心の支えが父親から彼へと引き継がれ、父親はようやく、成仏(っていうと、なんかカビくさいけど、お役御免?)したのかもしれない。
ラストシーンの二人の連弾は、本当に心に染みる。あの目配せ、これ以上心が通じていることはないっていう、“音楽家の目配せ”に、私は本当にヨワいのだ。

おっと、またしてもいきなりラストに行ってはいけない。
最初にうたが触れた父親のピアノ、そして最後にそのピアノに再会するまでに、うたは様々なピアノに出会い、友達を作ることによって世界を知るように、成長していくんである。
きっと、ピアノごとに人見知りしていたであろう、うた。言葉を覚える前に楽譜が読めてピアノが弾けた“神童”でも、ピアノを弾くことは決して楽しくなかった。弾きたくなかった。母親がナントカやりくりして月謝を捻り出しているレッスンも、さぼりがちだった。
でもそんなうたが自ら弾いたのが、ワオの狭い部屋のアプライトピアノだったのだ。
「こんな八百屋にあるピアノ」と母親が言うように、決して状態のいいピアノじゃないんだろう。なにせうたはずっとグランドピアノを弾いてきたのだから。今はボロアパートに引っ越して、ピアノさえも置けないけれど……。

でもきっと、うたにとって、ワオのアプライトピアノは、とてもとても居心地のいいピアノだったに違いない。それは、窓の外から聴いた時直感したに違いない。
勝手に上がりこんで、勝手に弾いちゃう。ワオのピアノには怒鳴りこんでいたお隣のオバチャンも聴き入り、通行人たちも三々五々、集まってくる。
そういえば、うたがワオを訪ねて音大に来た時、階段の下に放置されていた、カバーも剥き出しにボロボロになって誰も見向きもしないアプライトピアノを弾きだして、その優しい旋律が一気に聴衆を集める、というシーンがあるのよね。
ここでもうたは、このピアノとなら、即仲良くなれたということなんだろう。
忘れられたピアノ、歌ってあげられてないピアノ。そんなピアノとは仲良くなれる。
それはなんだか、悲しいことな気もするんだけれど。

クライマックスは、来日した有名ピアニスト、リヒテンシュタインによって見いだされたうたが、体調不良(恐らく、ウソだろう)によって降板した彼に代わって、演奏会にデビューする場面である。
しかも、当日いきなり言われるのだ。当然、曲は初見である。
母親は大反対。「失敗したら、あなたの一生がメチャクチャになるかもしれないのよ!」とがなりたてる。
しかしうたは舞い上がることもなく、冷静にこの大仕事を引き受ける。母親には「弾きたいの。それだけ」と言い放って。
14歳の子供らしく、「おしっこ行きたい」などとムジャキに言い放ってみたり、ステージ上に出ても「この椅子、低いみたい」と指揮者に直させる強心臓っぷりである。
でもそれもこれも、緊張を隠すすべだったのかもしれないけれど。
ワオが駆けつけた。受験の時に力を与えてくれた、あのくたくたのぬいぐるみをうたに手渡した。心配そうなワオにうたはにっこりとして、「大丈夫だよ、あたしは音楽だから」そう言って、ステージに出て行った。

ふっと、思い出した。冒頭の、湖面にボートを浮かべて仰向けに寝ているワオにうたが声をかける、二人の出会いの場面。この時のうたの白い上下と、リヒテンシュタインの替わりに舞台に上がった時の白いドレス姿が、妙にカブる。それに、うたが湖面にそのドレス姿で立っているイメージが挿入されるのね。
あの出会い、冒頭に据えられているからついついスルーしてしまうけれど、思えばここだけふっと浮いている。いや、ラストシーンと共に浮いている。現実なのか夢なのか妄想なのか、判然としないところがある。
うたは、舞台の上でピアノを弾いている時、夢を見ていたんじゃないだろうか。
そしてラスト、“ピアノの墓場”でワオと一緒にピアノを弾いているのも、うたは夢を見ていたんじゃないだろうか。
なぜ、そんなことを思ってしまうのだろう……。

弾きたいピアノを弾いている時、大好きな人がそばにいること。
ラスト、“ピアノの墓場”でうたに近寄ったのは、絶対に父親だと思った。その横顔が映し出された時も、一瞬西島秀俊だと、本当に思った。
でも、ワオだったのだ。うたにとって音楽を共にしたい人。
大事な存在。お互い大好きだけど、恋愛ではない。かといって兄妹的な気持ちでもない。ワオにはうたの父親が投影されているとは思うけど、それはほんの一瞬、一瞬だけ。
凄く、羨ましい関係。多分、この何ヶ月、せいぜい1年ぐらいしか成立しない、宝石のような関係。
ワオとは恐らく“恋人関係”になった香音が言う、「そんなにうたちゃんのこと大事なんだ」という台詞に、ワオは瞬間、つまってしまう。
大事。大事だけど、恐らく彼女が思っているような単純な存在ではないから。

だから、それは先なんだってば。うたは無事演奏会を成功させたんだけど、舞台の上で倒れてしまう。そして、耳鳴りはいよいよひどくなり、彼女は……家に帰らない、のね。
この道行きに同行するのは、うたよりも頭三つ分は背の低い、いかにも中学生の男の子、である。うたとはしょっちゅうケンカしている。この男の子のちょっかいに、うたが受けて立つ図式である。
つまりはうたは、実際のところ、モテるんだよね。同級生の男の子たちはまだこんな風に小学生レベルのやり方しか示せないけど、上級生から告白されたりもしている。それを覗き見ていた彼らは、「口と性格は悪いけど、顔は美人だからな」「結構、カワイイよね」「お前ら……」などと、うたに恋している男子は満載なんである。

で、このケンカ相手の男の子。家に帰ろうとせずさ迷い歩くうたを、心配してついていくのね。
うたのことが好きなのは歴然だけど、うたは自分が実はモテるだなんて自覚してないし、どこか巻き添えみたいに道行きにされる男の子がカワイソウというか、カワイイというか、切ないというか。
だって、彼はうたのことが好きで、だから心配で、この家出に内心ヒヤヒヤしながら付き合うのに、うたは彼がついてこようがこなかろうが頓着ナシで、ひたすら“ピアノの墓場”に向かってるんだもの。

この時点のうたはもはや、車が近づくのにも気づかない。この子とは掌にペンで書いて会話するといったありさま。もううたの耳は本当に聞こえなくなっているのか。
そしてラストシーン、このピアノの音が聞こえる?と問うワオに、聞こえるよ、とうたは応える。そんな問答こそが、彼女が聴力を失ってしまった証拠のように思える。
でも、彼女はきっと、決して不幸ではないのだ。

「きっとお父さんは、音楽そのものになりたかったんだよ」そう、うたは言った。だから死を選んだ、と。
その血を受け継いだ、という意味以上のものが、うたにはある、と思いたい。
だってうたは、「大丈夫、あたしは音楽だから」と言ったもの。もうそれを叶えるために死ぬ必要なんて、ないんだ。
それに、死んでしまったら、音楽そのものになんて、なれない。
ピアノは音楽そのものではなく、音楽を再現するための反響体に過ぎない。
楽譜も違う。その時間空間もとらえきれない。
音楽そのものとはなにか、それは奏でる人間自身というのは、正確な答えなのかもしれないのだ。

確かにそれは、ピアノと同じく、演奏する時に音を取り込む反響体に過ぎないのかもしれない。
でも、ピアノはそれ自体は歌わない。でもそれを弾く身体はいつもいつも歌っている。聞こえないピアノの音を、その身体の中に反響させている。
閉じ込められていようとも、その頭の中に響く音楽だけは止められない。ああ、確か「ショーシャンクの空に」の中で、ティム・ロビンスが言っていたっけなあ。

「雨の町」では、存在感は圧倒的だったけれど、まだまだ演技的にはぎこちなかったのに、あっという間に“感覚”をモノにした璃子嬢。
カメラが近づきたくなるのが判る。泣きのシーンなどは判りやすいけれど、ほんのひと筋の眉毛や、その下の筋肉のかすかな動きの繊細さに驚かされる。
原作は小5の女の子であるという。璃子嬢しかうたは演じられないという決断が、中一の設定に変更になった。
原作者や原作ファンはどう思うのか知らないけど、これは大正解。小5じゃ、ワオとは微妙な雰囲気が出ないからつまんないもん。
だってね、ささやかだけどこんなシーンが用意されているのよ。ベッドで眠りこけているワオにそっとキスしている(と思う。角度が微妙なのよ!)うた、というセンシティブなシーン。しかもうたはその時、まるで母親が息子をほほえましく思うみたいに、クスリと余裕の笑みをもらしたりするのだ。

膝下だいぶ長い紺サージのプリーツスカートに紺のソックス、ズック靴。今時あるんかいなというそそられる中学生スタイル。璃子嬢、ほんっとに、ほんっとに、リアルな13歳なんだもんなあ……。
大人っぽく見える場面もあるけど、リアルなんだもんなあ……。
でも、ホントにハッとさせるぐらいの大人な表情を見せる場面が、気を抜いてると、もうバンバンくるのさあ。 確かに13歳には見える。でも、見えない。ひょっとしたら二十歳ぐらいに見えなくもない。いや、でもやっぱりそこまで大人じゃない。
この多重性をしれっと持ってるのって、スゴイよ!
そういやあ彼女、「神はサイコロを振らない」でも、弾くシーンはなかったけど、天才ピアニストの役だった。
あの大ステージで、すっごく幸せそうな、楽しそうな顔して弾くんだよ。大オーケストラをバックにして!

うたが見上げる空の、雲の間から、柔らかな光が差し込む。
そんなシーンが印象的だった。
曇り空が美しい萩生田監督。美しいけれど、どこかもどかしく、歯がゆい、切ない気持ち。それをうたが、いや璃子嬢が突破した気がした。★★★★☆


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