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2011年鑑賞作品

ノルウェイの森
2010年 133分 日本 カラー
監督:トラン・アン・ユン 脚本:トラン・アン・ユン
撮影:リー・ピンビン 音楽:ジョニー・グリーンウッド
出演:松山ケンイチ 菊地凛子 水原希子 高良健吾 霧島れいか 初音映莉子 玉山鉄二 柄本時生 糸井重里 細野晴臣 高橋幸宏


2011/1/12/水 劇場(錦糸町TOHOシネマズ)
この有名すぎるほどに有名な原作の誰に思い入れがあるかで、物語の見え方って変わってくるのかもしれないなあ。
と思ったのは、直子役を熱望して見事ゲットした菊池凛子が原作を最初に読んだ時から直子が引っかかっていた、と語っていたことと、私自身が、レイコさんが最も印象に残っていたこと、そして映像化された作品を実際に観てみると、主人公の筈のワタナベが、実は狂言回しな立ち位置なんじゃないかと思ったこと、等々があるんである。

それぐらい、本当に、レイコさんのことしか覚えていなかった。レイコさんとそのエピソードが、何の話のものだっけ、ぐらいに思っていて、「ノルウェイの森」を読んだ、という感覚がついぞなかったんである。
まあ確かにレイコさんが病を発症したキッカケは強烈だし、ワタナベとの別れは美しく印象的なこともあって、インプットされていたのかもしれないが、それにしても自分の記憶力のなさにアゼンとしてしまったんであった。

というか、レイコさんだけが自分の中に残っていたことが、菊池凛子の直子に対するそれとあいまって、なんだか気になったというか、それが映像という、小説よりも語り手の存在が希薄になり、より中立化する媒体に置いて、相対する観客が受ける印象が、化学変化を起こすという気がした。
でも、自分でも不思議な気がする。だって10年前ぐらいなら、レイコさんの年齢に近いと言うわけじゃない。確かに、ワタナベや直子や緑はその時の私よりはずっと若いけれど、でもレイコさんは、当時の私にとってはずっと大人だった筈。

そう、今なら判るんだよね。レイコさんの年恰好近辺だから。なんでそんなに、レイコさんだけが私の中に残ったんだろうと考えていて……レイコさんが療養所に入る前、つまり、彼女にとっての時が止まった時が、私がこの小説を手にとった年齢とちょうど重なったからかもしれない、と思ったのだ。

で、レイコさんのことから話し始めちゃったから、その印象から言うとね、レイコさんは……言ってしまえばレイコさんだけが、イメージと違ってしまった、かなあ、という気がしてる。
それは無論、私がレイコさんに対する思い入れが強かったからに他ならないにしても、私がこの小説の中で最も美しいと思った、直子を送り出す儀式としての二人のセックスの場面で、「ねえ、ワタナベ君、私とあれやろうよ」「不思議ですね。僕も同じこと考えてたんです」というあの台詞、私はこの映像化で最も再現してほしかったのだ。

もちろん、原作がある映画で生じる違い、そもそも原作と映画が別物だと言うことは判っているけれど、本作に関しては人物や世界観はある程度原作を尊重していたから、尚更残念な気がしてしまった。
だって、映画では、レイコさんはワタナベに懇願するような形で、しかも悲愴な雰囲気でセックスを提案し、ワタナベは戸惑い、二度に渡って「本気ですか?」と彼女を牽制するんだもの。

私はね、私にとってだけだけれど、この場面で全てが救われる気がしていたのだ。大きな、救いがある気がしていた。直子を大切に思う二人が、直子の大好きな音楽を通して悼んで、そして、直子が出来なかったセックスを、直子を思う二人が成就する。あうんの呼吸で、“あれ”を遂行する二人の会話の崇高さがとても好きだったからさ……。
二人で直子を悼む場面も、二人とも重くて、泣いてて、絶望のふちから這い上がりかけている救いがほんの少し見える、そのほんの少しこそが素敵な原作とは大きく印象が異なっている。でもそれが、監督が示すこの物語の解釈ならば、仕方ないんだけれど……。

普段は、原作と映画化作品は別物だって、割り切ることこそがスタンスなのにね。でも、こうまで原作が世界的に有名だと、やはり気にならざるを得ないしさあ……。
でも、そう、先述の様に、既読だったことさえ覚えていなかったから、再読する前に観ていたら私、どう思っただろうか、とも思う。
と、いうのは、最初のうちはね、ここであの台詞が来る、というのを、いちいち身構えちゃってたんだよね。尺が限られている映画作品だけど、そこんところはさすがセンスのある監督さんだから、きちんと必要な核を残して、あとは小気味いいぐらいにバッサバッサと切っていく。
それだけに、必要で、印象的な台詞はキチン、キチンと入っていく。で、キチンと入っているなあ、上手い刈り込み方だなあ、なんて、どうでもいいところで感心しながら前半は観ていた気がするんだよね。

で、段々と……いや、もう、中盤も過ぎて、後半になってからかもしれない。段々と、聞きなれない、つまり、原作にはない台詞が増えてきたような気がした。
いや、それは単に私の気のせいかもしれない。別に、ちゃんと確認した訳じゃないから(爆)。でも、はしょり方や、設定のとり方、特に直子や緑とのやり取りが、こんなのあっただろうか?などと思い始めてしまったら、どんなに映画と原作が別物だと判っていても、前半が上手くハショリを処理しつつ、かなり忠実だっただけに、なんだかどんどん気になっていってしまった。
療養所の直子がワタナベの前で、あんなに激昂する場面なんてあったっけ……?いや、あったかもしれない……その、どんどん感じていった違和感が最高潮だったのが、先述のレイコさんとの、最も美しい筈の場面の、大きな変更だったんである。

なんて、原作ありきの映画を語るのにありがちなことばかり言っていてもしょうがないので、最初からとにかくなぞらなくては。
舞台は学生運動華やかなりし頃、と同時に、ワタナベやその周辺に漂う虚無感も、周囲の騒々しさが高まるだけに、相反的に深まっていったんじゃないかという気がする。原作の中では殊更に出てくる「グレート・ギャッツビー」も、それを象徴しているような気がする。なんて、マトモに読んだことないけどさ。
キーマンであると言うべきだろう、メインの時間軸ではもう死んでしまっている、直子の幼なじみであり恋人、そしてワタナベの友人であるキズキの死から、物語は始まる。

松ケン、菊池凛子、高良健吾の三人が、時代を感じるジャンスカと半袖シャツに黒ズボンの制服でじゃれあっている場面は、それでなくても後に19から20を演じる松ケンと菊池凛子という前提があるのに、更に若く、高校生なんだから、ちょっとドキドキとする。
とはいってもやはりあの時代は今よりずっと、感覚も容姿も大人びているのは原作からも感じ取れるし、実際、今の19や20の役者に、ワタナベや直子や、その周辺のキャストを演じるのは難しいであろうと思われる。そりゃまあ、上手い若手役者はいるけど、この世界観にはやっぱり難しい気がする。

そして、そう、キーマンを演じるキズキが高良君だというのが嬉しい。物語の全編に渡って影響を及ぼすキズキを演じられる男子はそうはいまい。
あるいは松ケンがこんな思いがけずメジャーな存在じゃなかったら、松ケンと高良君が交代しても、なかなか面白い効果が得られたかも、などと妄想してニヤニヤしてしまう。何より、松ケンと高良君の共演が、こんな短い場面ながらも、凄く重い関係性だし、とてもワクワクとする。

キズキの自殺場面がキチンと描写されたのはちょっと、驚いた。自殺の方法は明確に示されてはいたけれど、事件を説明するみたいに簡潔だったし、映画に際してはぽん、と、キズキが自殺によって世を去った、とするんだとばかり思っていた。
まさか映画において、その描写を律儀に再現するなんて思っても見なかった。まるで、朝ごはんの用意でもするような顔をして、キズキは車の排気ガスをホースで運転席の窓に入るように細工してエンジンをかけた。
ホースから吹き出す排気ガスの激しさに戸惑って、後部座席に逃げる、なんていう様まで見せた。何かに悩んで、とか、死ぬしかない、とか、そんな表情を一切見せずに自殺を図ったキズキを淡々と見せたのだ。

もしかしたら、本作が最も原作からの乖離を、というか独立を見せようとしたのは、ここだったかもしれない、などと思う。
まるでヘイキな顔をして死んでいったキズキに比べて、恋人だった直子は勿論、激しく動揺し、自分自身を見失い、最後には死を選んでしまうし、ワタナベも直子の死によって呆然自失になり、最愛の恋人、緑からも見放されかけてしまう。

小説ではさらりとした表現で駆け抜けたワタナベの絶望も、そこは役者が介在する映画だから、松ケンは無精ひげと汚れた顔としまいにはヨダレを垂らしながら慟哭し、深く心を打たれもするんだけれど、最後まで直子の死への悲しみを残しながら終わった本作は、レイコさんとの“儀式”の時点で“少しでも”希望を思わせた原作からの脱却を図っていたような気がする。
それは……なんだか、哀しい方向への脱却のような気がするけれど、でも、もしかしたら原作小説の方が、何かに目をつぶってしまった結果、そして20年後の、今この物語を思い出しながら綴っているワタナベが、埋めようのない虚無感を感じているのかもしれないと思うと、どちらが正しいなんて、確かに言えないのかも知れない。

なんか、物語を綴ろうとしたのに、結局どうしても、内側にこもってしまうなあ(爆)。それもこれも、ワタナベのせいだ(爆爆)。
でもね、ホント、映画、というか、映像化すると、印象って変わるな、と思った。原作小説はワタナベの一人称だから、いや、もちろん、それはあくまで形態上であって、限りなく三人称に近い綴り方ではあるんだけれど、でもやっぱり、ワタナベの視点だったんだなあ、と思った。
それは……これもきっと、監督はきちんと判った上で脚色しているだろうな、勿論。

そう、“勿論”だ。ワタナベの口癖。一度、直子から「勿論、ていうのはやめて」と言われる。ワタナベは特に考えることもなく、「判った、やめるよ」と言う。この、“特に考えることもなく”というのは、小説を読んでいる時から思っていたけれど、映像で見ると更に強く感じるんだよね。
実際、ワタナベはその後も「勿論」は使う。直子に対してはその後、一回ぐらいだけだとは思うけど、緑に対しては連発していたように思う。
実は小説を読んだ時から私も気になっていたかもしれない、こんな風に、気にしてしまうのは。

「……してくれる?」「もちろん」
それってさ、そんなこと、わざわざ言うこともないよ、何を気にしてるの?バカだなあ、みたいなニュアンスがあって、それは一見、優しそうなそれにも思えるんだけど、実は、そうお願いした彼女に対して、その気持ちや理由を問うこともない、つまり、判ったつもりでいる、ことを、露呈しているんだよね。
ワタナベはなぜもちろん、と言うのがダメなのか、直子に聞かなかった。ただ、彼女が望むことならその通りにしようと思った。それは確かに優しさだけど、でも、彼女が望んでいたことじゃ、ないんだよなあ……。

小説を読んでいた時には薄々としか感じていなかったそのことを、映像化されると、つまり、生身の役者で演じると、残酷なまでにそれをハッキリと感じてしまうのだ。
優しくて、誠実で、友達思いで、自分に正直なワタナベが、やっぱりまだまだ若くて、直子の望む言葉を与えて上げられなかったことを。そしてそれはひょっとしたら、キズキに対してもそうであっただろうことを。
もちろんそれは、その本人の問題であり、ワタナベが信頼されていたからといって、キズキや直子の死が彼の責任であろう筈はないのだけれど。でも、あの場面、小説で読むよりもひどくヒヤッとしてしまったのだ。

直子に一緒に住もうと持ちかけたワタナベに「もし私が一生濡れることがなくてセックス出来なくても、私のことを好きでいられる?」とズバリと切り込んだ直子に、彼が「僕は本質的に楽天的な人間なんだよ」と、言葉とはウラハラに本質をかわした場面。
そう、小説で読んだ時には、そんな深刻になんて、考えなかったのだ。ホント、むしろ、ワタナベに対して寛大で優しい、ぐらいに思っていた。
でもこの時、ニッコリとこの台詞を言ったワタナベに対して見せた直子の、つまり菊池凛子の表情に、ああなんてワタナベは残酷な人間なんだろうと、思ってしまった。この台詞が直子を決定的に追いつめ、死に追いやってしまったのだと、思わずにいられなかった。

そしてその視点で溯ってみると、ワタナベの、この“判ったつもり”な言動って、原作でもきちんと?示されているんだよね。
村上氏は当然と言えば当然、ワタナベの残酷さを判っていたに違いなく、それってつまり、トラン・アン・ユン監督もそれをきちんと汲み取ったからこその演出だったのだ、とも思った。
“濡れないのは精神的なことだから。時間が経てば大丈夫。僕は楽天的だから。”なんて、なんて残酷なのだろう。
楽天的、と言った時点で、それでなくてもひどく無責任に過ぎた言葉たちが、つまり“楽天的でなければ、やってられない”と固定されてしまうじゃないか。
読んでいる時にはね、本当にそんなこと、思わなかったのだ。ワタナベにこそ同情していたし、直子に寄り添っていると思っていた。でも本当の本当は、そうじゃなかったのか。

監督(と撮影監督)以外は、実に純粋に、日本映画なんだね。クレジットを見て、見慣れた大手制作会社の名前を目にしてそう思った。
トラン・アン・ユンが監督なら、村上春樹氏のゴーサインがなかったら、全てがうちうちになって、ヒドい作品になっていたかもしれない。
いや、村上氏は自身の映画化にそもそも乗り気ではないと言うから……うーん、それを言われると、私が大好きで大好きでしかたのない「トニー滝谷」もそう思っているの?切ないなあ……。

でもね、トラン監督がメガホンをとると聞いた時は、そう、それこそ原作を読んだことさえ覚えてなかったけどワクワクしたのだ。
でも私、実は彼の監督作品は2本しか観てないんだけど(爆)。でも「夏至」がとにかく大好きで。たまらなく好きで。もうその一本だけで、ひれ伏しちゃうぐらいだったから。「夏至」は明るく、それこそ“楽天的”な作風だから、全然、本作とは違うんだけれども……。

四季が美しく描かれる本作だけれど、殊更に美しかったのが冬の風景だというのは、心象風景によりそっていることもあるだろうけれど、ルーツとしては冬の感覚があまりないであろう監督が、どこか憧れを持って描いているのかなあ、とも思った。
冬でなくても、緑の草原の中で、ワタナベが直子に手でやってもらう場面も、やたら強風でやたら寒そうだったし。 直子とレイコさんが編んだセーターを映画ではマフラーに変えたのも、映画の画として、やっぱり冬の切なさを思わせるじゃない?

松ケンが「青森には行ったことがない」と言う台詞がふと楽しかったり、「旭川で人は恋をするのかしら?」なんて、ほんの短い間だけど旭川に住んでいたことのある人間とすれば、そりゃないよ!と思ったり……北のキーワードに敏感になるのは、劣等感までは言わないにしても、多少アンビバレンツな気持ちがあるのかなあ?
だって、ワタナベって、東京人ではないけど、一応神戸から出てきた人間だけど、でも神戸だし、大都会だし、やっぱり違うんだもの。

私的には久しぶりに見たハツミさん役の初音映莉子が嬉しかった。しかもハツミさんにピタリだった。美しく成長していて、嬉しかった。
そして、細野晴臣に高橋幸宏、一人欠けたYMOは、まあ、坂本教授は色々と手垢のついている人だから(爆)、この二人が、純粋な映画の神聖さをまとわりつかせて参加してくれたのは嬉しかった。
だってノルウェイの森、特別にビートルズの楽曲の使用も許されたんだものね!教授が出ちゃうとやはり、手垢がつき過ぎるかもしれないもん(爆爆)。

上唇がやけに色っぽく厚ぼったい松ケンが、凛子嬢や水原希子嬢と繰り広げる柔らかくて吸引力のあるキスシーンがやたらとドキドキしてしまった(恥)。★★★★☆


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