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「け」


2001年鑑賞作品

夏至A LA VERTICALE DE L’ETE
2000年 112分 フランス=ベトナム カラー
監督:トラン・アン・ユン 脚本:トラン・アン・ユン
撮影:リー・ピンビン 音楽:トン・タティエ
出演:トラン・ヌー・イエン・ケー/グエン・ニュー・クイン/レ・カイン/ゴー・クアン・ハイ/アンクル・フン


2001/7/31/火 劇場(渋谷Bunkamuraル・シネマ)
一番美しいものは、生活なのかもしれない、と思った。私の大好きなピアニスト、村松健氏が、「一番美しいもの」というタイトルのアルバムを出した時、人によって一番美しいものは違うと、あなたにとってのそれは何ですか、と問い掛けて、私はその時ふと考え込んでしまったのだ。一般的に思い出す“愛”という言葉は、あまりに漠然としすぎて、実感がわかなかった。恣意的に、都合よく使われすぎるから。その時からずっと考え続けてきた。“愛”という言葉が信じられないのなら、じゃあ、私が信じられる「一番美しいもの」って、何だろう?そしてこの映画に出会った。なぜこんなに美しく感じられるのだろうと、私が一番美しいと信じられるものって何なのだろうと思った時、それはこんなふうな生活じゃないかなと思ったのだ。あるいは、何気ない一日。平均化された、平凡な一瞬。

ベトナムという暑い国で、でもその気候を人工的に捻じ曲げることなく、風をいっぱいに入れ、風通しのいい服を着て、じっとしてゆるやかに扇子を扇ぐ。汲み置きされた水を丁寧に、大切に使う。豪雨での雨漏りを糸を伝わせて器に受け取る様さえ、なんだか優しく感じられる。何ていうか……自然のそのままを、ただ単純に、素直に受け取っている、ただそれだけのことでこんなにも美しく感じられるのかというのが、オドロキだったのだ。日本があまりにもあまりにもそうした部分で捻じ曲げすぎているから。それが快適なことなのだと思っていたのが、なんという傲慢な勘違いだったのだろうと思う。夏の暑さすら優しく感じられる、この映画の中のベトナムの住人たちの方が、よっぽど快適そうではないかと。

捻じ曲げられていない生活の中では、東京のような都会では聞こえない音がよく聞こえる。それを一番顕著に感じたのは、水の音だった。その表情も含めた水の音。水道からひねれば水は出ると思っているような私たちには聞こえない、大切に、大切にされているがゆえに聞こえる水の音。ひそやかで、まろやかで、美しい。あれは何て言うのだろう、長女スオンが愛人の青年からプレゼントされる、取っ手をぬれた手でこすると器の中の水が細かくさざなみを立てるあれ……水のイメージを売りにしたといえば、ついこの間観た「渦」がそうだったけれど、あの作品よりずっとずっと水の美しさを感じる。それは水を大切に扱っていることが、当たり前の感覚だから。そうか、こんなにもこの人たちの生活が美しく感じられるのは、生活を、生活を構成するものたちを大切に扱っているからなのだ。それも、特別なことなく、当然のこととして。……そして、私たちは?

そうした静かな美しさをたたえながらも、結構、物語自体は波乱に満ちている。姉妹の物語ということで想起されてしまうせいか、ほとんど谷崎並の波乱万丈だ。しかし、その事件性すらも日常の普遍性の中に溶け込んでいるのがこの映画のすごいところ。谷崎を小津安二郎が映画化したらこんな感じ?(実際、トラン・アン・ユン監督は小津信奉者なのだとか)これが例えば、ただなんということもない日常をなんということもなく描くというのなら、まあ、折々見られる手法ではあるし、あるいは、事件性のある物語をドラマチックに描くというのは、さらに世にはびこる手法である。しかしこの映画は、夫婦間の愛憎というかなり濃い、シリアスなエピソードをふんだんに盛り込みながらも、それがさらさらと流れていく日常の生活の中の一場面として感じさせるのだ。そしてそれはまさしくそのとおりなのである。

ということを感じさせるのは、一応ボーイフレンドと上手くいっていないということが描かれるものの、姉二人よりはそれほど深刻に問題を抱えていない末の妹、リエンの日常、その始まりの朝にポイントごとに戻されるからかもしれない。彼女は役者の卵の兄、ハイと一緒に住んでいる。ちょっと問題があるくらいのお兄ちゃん子で、夫婦や恋人に間違われるのを嬉しがっているほど。兄さんのベッドにもぐりこんだり、ダンスをしたり、爪を切ってもらったり……本当に夫婦か恋人かと見まごう二人なのだが、やっぱり明らかに兄妹なのだ……当たり前だけど。二人の気持ち的には確かにまさしく兄妹なのだけれど、このリエンがとてもコケティッシュで、兄のハイがさわやかな青年で、二人がそんなふうにじゃれあっているさまがあまりにもお似合いなので、その微妙なバランス感覚がとてもドキドキしてしまう。二人が暮らす部屋は、心地よい生活感に溢れている。シャランシャランと涼しげな音を立てるビーズ玉ののれん?や毎朝かかる優しげな音楽、風通しのいい空間……それはこの二人の部屋のみならず、長女スオンも、次女カインもそうなのだが、例えば日本ではとんと使われなくなった蚊帳や、毎日いけ換えている花瓶の生花や、着ている衣服もさらさらと風通しが良くて。本当に一見なんでもないようなそうした生活の小道具が、とても大切に扱われていて、心地よさに溢れている。

リエンとハイの、爪を切ったりダンスをしたり、あるいはハイの芝居の稽古をリエンが務めたりする場面が、他の場面にするりとつながっていく。そしてそのつながっていく場面は、愛の場面である。ことにスオンの愛人との情事につながっていくことが多い。芝居の稽古で、相手を無言で振り向かせる仕草は、スオンと愛人、そしてリエンとボーイフレンドのホアの場面にもつながってゆく。姉妹の女としての一大場面に。リエンとハイの仲の良さで見せる情景が、そんなふうな場面につながっていくことが、この兄妹のかすかな色を感じてまたしてもときめく。

そう、この長女、スオンは夫に愛人と息子がいることを知りつつ、自分もまた愛人の青年との逢瀬を重ねている。次女のキエンは新婚で妊娠が判り、幸福絶頂と思われたところに夫の行きずりの浮気(というのも、誤解なのだが)が発覚する。そしてリエンはというと、23歳といえどまだまだ幼い恋と幼い誤解で、可愛らしく揺れている。3人のこうした悩みの落ち着き先は、まるで最初から何事もなかったかのような着地点で、ドラマ性を重視した物語ではおよそ考えられないことかもしれないのだが、これが、これこそが生活の美しさなんじゃないのかなと思うのだ。

この三姉妹はとても仲が良い。本当に嫉妬してしまうほど。顔を寄せ合って母の命日の料理を作る冒頭場面から彼女らの仲の良さを象徴するかのように、カメラが彼女たちに寄り添う。寄り添うというより、殆ど貼り付いている。それが彼女たちのアジア女性特有のしみ一つないきめ細かな肌や、真っ黒な髪を無造作に伸ばした美しさを存分に引き出すことも合わせて、たぐいまれなる美しい映像になっている。それは絵画のようなとかいう凡庸な表現すらとも違う新鮮な美しさで、美しい女性に最大限近づいて撮るという、あまりに単純で逆に思いつかなかった手法に気づかされる。それはこのトラン・アン・ユン監督が女性の美しさを100%確信しているからできるワザであり、もしかしたら監督の独自の感性はそこにこそあるのではないかとさえ思われるのだ。男性はもとより、女性自身だってそこまで思い切れない。

それによって最大限引き出された、この三姉妹の美しいことは!これほどまでに生(き)の美しさが輝くとは……。特にその黒髪の美しさには参ってしまった。これを見て、昨今の茶髪、金髪ばやりの日本人も黒髪に戻したくなるのではないかと思うほど。その暑い気候だから、もしかしたら汗かもしれないんだけど、あるいは洗い髪が乾きかけているような感じか、軽く濡れた髪がはらりとゆれるその様子が、ものすごく美しい。顔がもたいまさこな長女、スオンでさえ、その黒髪の美しさで見とれるほどの美女になってしまうのだ。このスオンの、愛人との逢瀬の場面はひたすら魅力的。沈黙の誓いを立てたスオンは青年に対してひと言もしゃべらない。声を出さずに唇を動かすだけなのもものすごく色っぽく見える。一方の次女、キエンは、一番健康的な感じで、目じりのしわも可愛らしい笑顔の似合う、好感度大の女性。

そしてなんといっても素晴らしいのは三女のリエン。監督夫人であるという彼女が実際幾つなのかは知らないけれども、このヘタするとカマトトになってしまうようなリエン役をまるで違和感なく本当に可愛らしく体現し、しかしそのしなやかな糸でできたようなスレンダーな体と、これまたしなやかな細長い指、兄の前では無防備にノーブラだったりするさま、そして無造作に投げ出した黒髪や、あるいはその髪をきちっとまとめ上げたときに首筋にかかるおくれ毛などがとてもセクシー。そのセクシーさは、いわゆるボン、キュッ、ボンなそれじゃなくって、本当にすらりと細いんだけれど、そうしたグラマーな女性よりも、本当の意味で色っぽいのだ。そのぽってりとした厚めの唇のアンバランスさもいい。私はひたすら彼女に見とれ続けてしまった。面白いのは、彼女はそんなふうに兄の前では無防備なゆえの色っぽさをたたえているのに、ボーイフレンドのホアの前ではまさしく少女の無垢さで、その逆説的な感じが、このリエンのコケティッシュな魅力を象徴している気がするのだ。

信じられないほどのウブさでホアの子を妊娠したと思い込んだ彼女が、彼を呼び出して言葉もなく対峙するシーンがいい。このホアもまつ毛ばさばさの美青年で、二人はまるでペアルックがごときの上が白で下が藍のナチュラルな格好で、引いては寄せ、寄せては引くカメラワークが顔の微細な表情と身体の距離感から来る表情とを絶妙に魅せて、その画とリズムの美しさにため息が出てしまう。

この物語は三姉妹の母の命日に始まって、父の命日に終わる。この間一カ月。父と母は一カ月違いに生まれて、一か月違いに死んだ。ほぼ同じ時間を生きた。それほどまでに愛し合っていたと信じていた夫婦の、そこに浮上する母の初恋の人、トアンのエピソードは、いろんな、同じ名前のトアンが出てくることで、人生と愛情の機微をしんしんと、しかし決して押し付けがましくなく伝えてくる。母の命日で、お線香をあげた遺影に手を合わせる一人一人の静謐な画に心奪われ、ああ、こんな美しさが日本にもあったはずだけれど……などと思う。トラン・アン・ユン監督は女性もそうだけれど、その前に自分の故郷であるベトナムの国、そこで生活する魅力、その美しさを100%確信している人なのだ。端々に文明の利器が出てきても、それは昔から脈々と続いている生活を邪魔することはない。邪魔することのない位置に置く本能的な知恵があるのだ。そうしたものにあっさりと侵食されてしまう日本の都会とあまりにも違いすぎる……。

誕生日は祝わなかったくせに、命日ばかり大事にする、と冗談ぽく皮肉るハイに、そうね、とあっけらかんとリエンが答えて映画は終わる。それは不思議と否定的に響かなかった。死を尊ぶことで、生がより一層尊いものになるのではないか、あるいは、死を尊ぶことは、そこまで生きた生を尊ぶことと一緒なのではないか、と。生きている時は、ただただその時を生き続けるしかない。そして彼女たちは今生きているのだ。

「一番美しいもの」が生活であり、イコール生きることなのだと、私も自信を持って言えるようになりたい。★★★★★


けものがれ、俺らの猿と
2001年 107分 日本 カラー
監督:須永秀明 脚本:木田紀生 久保直樹
撮影:北信康 音楽:曾田茂一
出演:永瀬正敏 小松方正 鳥肌実 車だん吉 松重豊 石堂夏央 降谷隆志 ムッシュかまやつ

2001/7/24/火 劇場(渋谷シネクイント)
何か最近、観た映画のオフィシャルサイトのBBSが気になるようになってしまった。他人がどう思っているかというのではなく、その反応が濃いか薄いか、である。こういうタイプの映画だとまず間違いなくそうしたところで現れる反応というのは一緒で、キャストがかっこいいとかそのキテレツさにしびれたとか、音楽が最高とか、……薄いなあ、と思ってしまうのである。おんなじタイプの他の映画のサイトにそっくり移しても差し障りない、という感じの……。

といいつつ、私も鳥肌実のキテレツさにはホレたクチなのだが。彼のおかげでこの点数にとどまったという感じ。家の中の肉食?昆虫とか、町民全員がクチャクチャ何かをかんでいる、そしてその中でもバラ?の刺青したタクシーの運ちゃんと暴力的な警官とか、そうめんを口にしてうつむいたまま歩きすぎてゆくつんつるてんの浴衣着た少女の一群とか、巨大な大仏とか、……そうした映像のキテレツさは、結局それを見せるだけに終わってしまえば、それだけの話なのだ。これが例えば同じようにやっぱり映像がキテレツだけど、そしてそれが意味をなすとかなさないとかは関係なくて、その脱力感にも似た魅力でしっかり世界のキテレツさにリンクしていき、誘っていってくれるような、石井輝男監督の「ねじ式」のような作品とは、違うんだよなあ。何が違うって、……つまりはそうした映像、エピソード、よくあるカッティング、ギャギャーとうるさい音楽以外に、何かがなければならないということなのだ。ミュージック・クリップ出身の監督、というくくりでケチをつけるのはイヤだけど、「トランスミッション trancemission」とかもどこか共通したツマラナサを感じたし……。でも中野裕之監督やHiguchinsky監督は大好きだもんなあ。やはりこれは単にそれぞれの監督自身、作品自体の問題か。

妻が留学と称して逃げたその日から、脚本家の佐志(永瀬正敏)は仕事がとんと途絶え、ゴミは投げ入れられるわ、キモチワルい肉食虫は徘徊するわで家の中は荒れ放題。この家の家主である義父(車だん吉)からは、既に愛想をつかされ、即刻退去を命じられていた。その後にマンションを建てるのだという。そこに飛び込んできたシナリオ執筆の話。持ってきたのは、自称ベテラン映画プロデューサーである老人、梶山(小松方正)である。長年温めてきたというその題材は、ゴミ処理場を舞台にしたサスペンスでありエンタテインメントであり、ロマンスであるというワケノワカラナイもの。とにかくシナリオハンティング、と向かったゴミ処理場のある町ではみんなして何かを噛んでいる住民からなぜか白い目で見られ、挙句の果てには警官に捕まってボコボコにされる。その後も、妙に佐志に執着する全身アブナイ光線を発している田島(鳥肌実)の出現など、彼の行く先々で次々と襲われるおかしな出来事。佐志は現実も幻想もごっちゃになったような世界で煩悶を繰り広げる……。

とまあ、こーゆー展開なのだが、まず、昆虫の類の描写は私は生理的にダメである。ゴミ関係の描写も、最近よく見るような気がするけれど、やっぱりあまり趣味がいいとは思われない。確かに現代のジャンクな感じを手っ取り早く描写することはできるけど。で、“斬新ぽい”カッティングとか、とにかくインパクトはある音楽とか、……町田康原作って、こんなふうになるしか、ないのか?なんて言いつつ、まだ「人間の屑」に続いて2本めだが(これだけだよね?)どうもヒットせんのだよなあ。ちゃんと読んだ事があるわけじゃなくて、チラリと速読しただけだけど、町田康の魅力の1つはその破天荒でリズムのある文体にあり、そして彼自身がパンクロッカーであるから、こうしたアプローチは確かに正解なのかもしれないんだけど、……でもそれもまた、単純すぎるような気もする。私は逆に、これをミョーに静かな物語として見たいような気がするなあ(あ、それって、それこそ「ねじ式」な感じ!)。だって、こういうこと言うと反則だけど、これをビデオで観ちゃったら、音絞ってたら音のインパクトなんて何の意味も持たなくなっちゃうじゃない。音や音楽のインパクトなんて、結局はその程度のもので、本当にインパクトのある使い方というのは、ただたんにギャンギャン乗せればこと足りるものじゃないんでは?あるいは、そうじゃなくても、登場人物全員がテンション高いのが、疲れる。もっととぼけた人が欲しい。

劇場に向かうエレベーターで乗り合わせた人が「友情出演って、誰の友情だよ?」といっていた降谷隆志は、ミュージック・クリップを手がけたつながりの、監督の友情だったのね。ところで、なぜあれしきの登場場面と演技で彼がそんなに絶賛されなければならないのだ?(オフィシャルサイト参照)はっきりいって、そんなに演技が上手いとは思われないが……もっと言ってしまえば、ヘタだが……。しかもなぜあれしきの登場場面でこんなに名前が前に来ているのだ?(ムッシュかまやつに至っては、さらに!)これって完璧な客寄せパンダじゃないのよー。納得いかん!

主演、永瀬正敏のアプローチは、ま、妥当。小松方正や車だん吉等のベテランは、さすが。個人的に好きなのは、目が完全にイッていて、体の動きやその行動が予測できない鳥肌実。彼がオーディオをバットで壊す場面は、ありがちな場面なんだけど、ほんとにホンキで、かなりコワい。それにしても、鳥肌実である。彼、雑誌の演劇ページだったか、あるいはCD屋のポスターだったか忘れたけど、妙に耽美的な構図の写真に収まったお姿を見てから、……しかしどこか常軌を逸している目と、そのねじれたネーミングで、とても気になっていた人で。ところで彼、オフィシャルサイトで、“42歳厄年”ってあったけど、これって42歳ってことなの?違うよねー?だって、肌がすごく若かったもん。うーん、どういう意味なのだろう。それにこの人の言うことなんてちょっと信用できないよなあ。だってその後に“樺太出身”と続くんだもん……。

もひとつ。タイトルとはそれほど関係なさげなおサルのアンジーちゃんがめちゃかわいい。それだけ。★★★☆☆


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