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「や」


2011年鑑賞作品

やぎの冒険
2010年 84分 日本 カラー
監督:仲村颯悟 脚本:山田優樹 岸本司 月夜見倭建
撮影:新田昭仁 音楽:ASIAN GHOST MOVIES
出演:上原宗司 儀間盛真 平良進 吉田妙子 城間やよい 津波信一 山城智二 仲座健太 金城博之


2011/2/11/金・祝 劇場(池袋テアトルダイヤ/モーニング)
“カントクが中学生!”というフレコミを見た時は、ええっ?なんで!?どーいうイキサツで?またまたー、なんか有名俳優さんのジュニアとかを担ぎ上げたんでしょ。全然監督なんかじゃなくて、ちょっと椅子に座らせてカットオ!なんて言わせてさ、などと大人のヤラしい見方をしていたのが、いたのが……。
メッチャちゃんとしたいきさつで、本当に監督で、メッチャこの子ホンモンやないの!(なぜ関西弁……)

本作の脚本は彼の名前は使われてなかったから余計に、担ぎ出されたのかと大人のヤラしい見方をしてしまったのだが、そもそも本作の元となった短篇は彼の脚本であり、地元沖縄のコンクールにそれが入賞して、彼が自ら演出して撮ったその短篇が高く評価されての今回の企画。
それも彼は8歳からホームビデオを手にし、自らお話を作った様々なジャンルの作品を撮ってそれが実に30以上!なのだというから、まさにインディーズクリエイター、力をつけて満を持して今回、世に出てきたのだっ。

いやー、いやー、驚いたなあ。いやこれを、時代といってしまえばコトはカンタンだが、まあ時代というのもあるだろうが……つまり、物心ついた時からそうしたツールが当たり前にある時代だから、彼のような才能が出てくるのはそう驚くことではないのかもしれないけれど……。
そうだよな、確かに、他のジャンル、そうした時代に特化されるツールがないジャンル、文学とか絵画とか芝居とかでは、若いうちからそうした才能を開花させる向きは確かにあったのだもの。

映画(に限らず映像)の分野でそれが遅れたのはあくまでツールの問題で、それは不幸な出来事だったのかもしれないが、それがようやく乗り越えられたのだという感を強くする。
まあ、同じようなことは塚本晋也監督が出て来た時にも思いはしたけれども、あれは8ミリでありそして作り始めたのが中学生、世に出てきたのは20代を越してからだったことを思うと、このあどけなさの残る仲村颯悟監督の年若さにはやはり驚く。

それにね、それにね!今回“日本映画史上最年少”という肩書きが誇らしげに、そう誇らしげに!ついているでしょ。
私ね、おぐりんが「シュアリー・サムデイ」を撮った時、“最年少監督”という言葉を使いたいがために、大規模公開の商業映画では、みたいなワケわからんくくりをつけたのが凄い納得いかなくて。
それこそもっと“最年少”で作ってる監督はいるだろー、そもそも監督ってネームバリューや資金力があれば作れるものだってことなの?脚本力や演出力、つまり才能は関係ないの?などと(いや……おぐりんにその責などみじんもないのは判っているのだが……「シュアリー」は私、どうも??だったからなあ)かなり憤った記憶があるので、この本物の才能の登場に大いに溜飲を下げたのであった。

しかしね、観るまではそんな具合にうがっていたから、そしてタイトルもさ、そんな、中学生の子供らしさ、瑞々しさを示しているようにも思えたからさ、やっぱりなんか、どーなのよ、みたいな感じで座席に身を沈めたのは否めないところなんである。
そう、この時点では、彼がそんな、まっとうなプロセスを踏んで、つまりちゃんと才能を評価されて監督の座についたなんて知らなかったからさ……ほんっとうに、驚いたんであった。
この、このタイトル、ズルいよ!いや確かにその通りではある、けれども……だってこのやぎさんは、その“冒険”の末にはさあ!!

あのね、まあ、オチをぶっちゃけて言っちゃうと、このやぎさんは食べられちゃうのだ。いや、オオカミにじゃなくて(爆)人間によ。
そもそもこのやぎさんは、食べるために飼われている。しかしふとしたことから逃げ出してしまう。捕まえようと追って追って追って、というシーンが非常に動きのあるクライマックスになっていて、夜の闇の恐怖などもやってきて、少年の心細さやその中の成長などが実に瑞々しく描かれる。
しかしつまり、やぎさんは食べられちゃうのだ。これはそうした、人間が他の生物の命を頂くことを真っ正面から見つめたドラマなんだよね。

と、カンタンに言ってしまうと実にカンタンなんだけど……実際、そういうテーマってさ、割と最近のハヤリで、大量の動物が工場のように飼われては、機械的に殺されていく様を扇情的に見せるドキュメンタリーがゾクゾクと作られて、それに対してだって私たちは大いにショックを受けていたのに、その比じゃないんだもの。
だってそのやぎさんは、そんな風に大量に飼われている訳ではないのだ。それこそ大量に飼われている、判りやすく牧場の形を取っていたら、こんなにショックは受けなかっただろうと思う。

と、いう、自分勝手な人間の思いにこそ切り込んでいるのだ。工場のように、牧場のように、あるいは判りやすく言えば広大な農地から収穫される野菜のように、命が感じられないほどに膨大な数の中の一匹に、このやぎさんがいたら、こんなにショックは受けなかっただろう。
でもなぜそれならショックは受けないの?膨大な中の一匹だろうが、ぽつんといる一匹だろうが、ひとつの命には変わりないのに。
つまり、私ら人間は、根本的に判ってなかったのではないか?と。

まあこんなこと言ってると話が進まないから最初からいくと……那覇の都会っ子、裕人が祖父母が住む田舎にやってくるのね。
というか、そもそも裕人が住む那覇がすんごい大都会なのには驚く。いやすんません、知らなかったもんだから(爆)。
やっぱり内地の人間にとっては沖縄ってひとくくりのイメージでさ、それこそ全てが、裕人が訪れる祖父母の住む町のような、瓦屋根にシーサーがのっかってて、緑がわさわさ道の両側をふさいでいて、当然、ちょっと歩くと海に出て、みたいなイメージがあるんだよね。

勿論、那覇のそうした大都会のイメージこそが伏線になるんである。しかも裕人が住んでいるのがそうした大都会のイメージを更に助長するような、これまた沖縄のイメージとはかけ離れた狭苦しいコンクリートで固められたような団地であり、裕人が一人でそこから、祖父母の町へ出かけるところから話は始まるんである。
いや、タイトルの冒頭は、いとこの琉也が真っ白いやぎを抱えて、葉が生い茂る道をカメラのこちら側に向かって歩いてくる印象的なシーン(ポスターにも使われている)である。
これは全てが終わった最後のシーンにもう一度繰り返されるのが非常に心に残るのだが、この時点では物語がどう展開していくのか当然判っていないし、あくまで物語は裕人の出かける場面から始まるのよね。

この出かける場面でね、都会っ子の裕人が更に都会の象徴(と言ってしまっては語弊があるかもしれないけど)である、母子家庭の子供であるらしいことが示唆されるんである。
いや、明確にそう言った訳ではないし、実はウッカリ?お父さんもちゃんといるのかもしれない……。
ただ、裕人が出かける時、お母さんは疲れ切っているのか寝床から起きてこないし、彼が「お金は?」と言うと母は「テーブルの上にあるから」と起き上がれずに眠そうに言う。

一応は見送りに玄関まで出てくるも、「朝ごはんはちゃんと食べなさいよ。おにぎりにしなさい。米粒が大事だから。」と言って送り出す。
この言葉は実に微妙で……米粒が大事、つまり力が出るから、というあたりに母の思いがこもっていそうで、つまり朝ごはんはコンビニでおにぎりでも買いなさい、と言ってるってことなんだもの。
裕人は母の言葉にウンと殊勝にうなづくも、コンビニで買い込んで、バスに乗り込んで食べるのは、幼い彼の顔の三倍ほどある菓子パンである。

そりゃあね、今の時代、片親というだけで責められる訳もなく、子供を抱えて頑張っている親御さんにどうこう言える筋合いはない。私のような気楽な独女は特にね(爆)。
ただ、裕人が訪れる母の実家、物語の大半を占めるのどかな田舎町で、おばあが大皿に大量に作るおばあちゃんの味、いやそもそもはおふくろの味が、やっぱり染み入るからさあ……。
そしていまや息子の朝ごはんも用意できないほどに疲れ切っているお母さんだって、このおばあの味で育ったんだもの。

そう、だから思えば、このお母さんは、やぎ食の文化は知っていた筈だよね。生活に余裕があれば、息子に教えることも出来ていたかもしれない。
いや、というか、そもそも裕人は、別にここに初めて訪れた訳じゃない。同い年のいとこの琉也と再会を喜んでもいたしさ。
一人で来たのは初めてだけれど……だから、いかにも幼い彼にバスの運転手さんも心配して声をかけたけれど、「お願いします」なんて大人びていて、ホントいかにも都会っ子って感じだった。大きなパンを食べていたのは、母親に対するちょっとした反抗を感じさせもしたにしてもさ。

でも、やぎさんとは初めてだったんだろうか。庭先に、まるでペットのように二匹飼われているポチとシロ。そう、そうして名前までついていた。ホント、ワンちゃんみたいな名前だったし、犬を飼うように、小屋まで用意されて。
やぎのポチとシロはそれこそきょうだいのように仲良く見えたし、裕人は琉也と一緒にえさの葉っぱを与えながら、とても楽しそうだった。
思えば裕人は母子二人きり、きょうだいもいないっていうのが、また布石になってるんだよね。あの団地ではペットも飼えないし、余計にさ。

そういやあ、琉也と地元の子供たちと川で遊ぶシーンで、琉也が捕まえてくれたエビを大切に小さな水槽に入れて枕もとにおいているのがこれまた象徴的でね。
後に二人が逃げたやぎを追って山の中で一夜を過ごすことになった時に、琉也が捕まえたエビをあぶって食べようとすると、裕人が苦々しげに「エビも食べるのかよ」と言う。琉也はさすがにカチンと来て、だったらお前は何も食べるな。牛も豚も鶏もエビも食べるな!と怒るのだ。まさにその通りなのだ……。
犬を飼うように飼っているヤギを食べるのはダメで、エビならいいのか、いや裕人にとっては、水槽の中のエビのイメージがあったから、エビも食べられなくて……ホント勝手だよね、人間ってさ。

でもね、やぎを食べてしまう、ていうか、その前段階、つぶしてしまう描写は本当に衝撃だったのだ。
だって、そんなつもりで飼っているなんて思いもしなかった。本当に、犬を飼うように庭先に小屋を作り、名前もつけ、大事にえさをやり、していたから……。
ただそうして大事にしていたのはいとこの琉也であり、その家に住んでいるおじいやおばあ、母の弟であろうと思われる足を痛めたおじさんは、あんまり面倒見る気がない感じなんである。
でも、そう、同い年の琉也がそんな風に大事にしていたから……だから、彼こそが、“潰す”場面にいたことに、裕人は大ショックを受ける。ていうか、観客も大ショックである。

だってその前までは、このやぎさん、ポチを売り飛ばした、足を痛めてることを口実に働く気もなくノーノーとしているおじさんこそがワルモンだと思っていたから……。
裕人は必死にポチの後を追う。しかしその行き着いた場所、その裕人に屈託のない笑顔で、こっちこいよ!と声をかける琉也。そりゃもー、裕人のみならず、観客も、ええ!?お前も加担してるのかい!とショック、ショック、大ショックなんである。

加担だなんてね……全てが終わって、落ち着いて考えれば、そう、この映画の深い深いテーマを思えば、琉也こそがいかに真に命の意味を、命を頂く意味を知っていたか判るのだが。
ていうか、ホント、だから、すごく驚いたのだ。いやね、沖縄ではやぎを食べる文化がある、でもそれは廃れてきているし、特に都会で育った人たちには遠い文化である、ということこそが前提に作られた作品なのだということはあるのだろう。

ま、それは後から知ったにしても、それにしても、でもこれってきっちり、都会に暮らす裕人の視点から描かれているし、そこに私ら観客がすっかり肩入れしちゃうし、つまり、監督の彼が沖縄に暮らしていて、やぎ食のことを理解しているからこそオリジナルの方も作っている訳でさ。
今の日本人の、食に対する畏敬の念も薄れた、ふやけまくった思想を厳然と弾劾しているのが、スゲーと思ってさ……そしてそれは、“今の日本人”こそをきちんと監督が理解しているからだというのも感じてさ……なんかもう、鳥肌が立っちゃったんだよなあ。

そんな都会っ子、裕人に呆れるいとこの琉也がイイんである。なんか彼、妙に色っぽいんだよね。裕人の方が、きちんと刈り込んだ頭のマジメな感じであるのに比して、無造作に伸びた髪が野生児の雰囲気を醸し出して、これがやけに、色っぽい。
そう、彼が、ポチを探して海岸までやってきた裕人に、笑顔でこっちこいよ!と言う場面の、残酷さを思わせる色っぽさがゾクゾクくる。
いや、そうよ、琉也に言わせれば、食べるためだからこそ、大切に育てたんだから、そんなこと言われる筋合いはない訳なんだけどね。

そう、“食べるために、大切に育てた”この言葉にめっちゃ、めっちゃ、打たれた。雷に打たれたようだった。こんな基本的なことを判ってなかった。
そして、その“大切に育てる”のが、私たちふやけた現代人がペットに対するそれと変わらないように見えるのこそが、衝撃も衝撃、大衝撃だったのだ。
……私ね、子供の頃を思い出した。お父ちゃんがね、どっからかチャボをもらってきたのだ。お父ちゃんは、それをつぶして食べる気だったのだが、ワレワレ女ども(母と私と姉)はそんなカワイソウなことは出来ない!と強行に反対し、そのチャボはペットとして飼われることになった。

つがいの彼らは卵を産み、その卵をワレワレは食卓に頂戴し、時には愛らしいヒヨコが何羽も生まれ、それが野良猫にヤラれたりもし、ヒヨコから育って成チャボになった子は何かに驚いてどこかに飛んでいって帰ってこなかったりもした。
……今から思えば、“そんなカワイソウなこと”だったのだろうかと思う。結局そのチャボのつがい、そんな色々があって数年飼っていたけれど、記録的に暑かった夏の日、鶏小屋がコンクリの上に設置していたせいで、熱中症で死なせてしまった。
だから、ひょっとしてひょっとしたら、最初のあの時、“食べてあげた”方が彼らにとって幸せだったんじゃないかと思ってしまったりもする。そう、それを思い出してしまったせいもあってさ……。

ポチが潰されたのは、この地域で選挙活動をしている、なんかいかにも胡散臭い政治家の事務所開きのためだったんだよね。その政治家の息子と同級生であるらしい裕人のおじさんは、かなり苦々しげな雰囲気だった。
裕人も、祖父母の家に行く途中で出会ったこの政治家に上から目線で言われたこともあって、あんまりよく思っていなかったことが、余計にポチの“無駄死に”にショックを受けたことだったんだろうと思う。

ポチがいなくなって、一緒に飼われていたシロが悲壮な鳴き声をあげるのが見ていられないというのもあってさ……。
そう、牧場じゃなくて、ホント、こんな風に、ペットみたいに飼われてるんだもの。それだけ、近い場所で、マンツーマンで育てられてるから、だから、それでも、こんなあっさり売りに出せるんだ、というのが衝撃でさあ……。

でも、それこそが感謝の気持ちなのだ。食べるからこそ、大事に育てる。その気持ちが判らないようなふやけたところで生活しているから、私たちは平気で好き嫌いしたり、残して捨てたり出来るのだ。
もとのポチやシロを見ていたら、育てていたら、目を見てエサをやっていたら、そんなこと、確かに出来ないに違いない。でも、でも、それが日常になることって、想像もつかない!っていうのが正直なところで……。

ポチの件ですっかり落ち込んでしまって、シロだけの小屋の前でぼんやり座りっきりになってしまう裕人。
しかしシロの行き先も決まってしまう。おじさんが後輩らしき青年とその連れ合いに、自慢げにやぎの潰し方を伝授している。
スパッと頚動脈を切らなければいけない。そうじゃなきゃ苦しんでかわいそうだ。出来るのか?と、まあ、これじゃニュアンス全然伝わらないけど(爆)聞けばのどかなウチナー口で言う訳さあ。
それを背中で黙って聞いてる裕人。どうやら新婚夫婦への祝いにシロが提供されるらしい。そんでもってその新婚の夫である青年がシロを潰すらしい。
そして軽トラの荷台に乗せられるシロ。しかしそこに、あの胡散臭い政治家の車がクラッシュし、シロは逃げ出すんである!

ここからが本作のメインでね、足が悪かった筈のおじさんが、途中から全然、全力ダッシュしたりするのも可笑しかったり、地元の子供たちをカネで釣ってシロを追跡させたりするも可笑しいんだけど、なにより裕人と琉也の二人での逃避行がね……。
いや、逃避行なんかじゃない、あくまでやぎのシロを追っているんだけど、なんかさ、こと裕人に関しては何かからの逃避行に見えるし、妙に色っぽく大人っぽい琉也はなんかそれを判っているような気もするし……。
琉也は、途中地元の友達を追っ払うんだよね。もう帰っていいから、と。それにあっさり答えてじゃあバイバーイ!とふとっちょの友達が帰っていくのも妙に可笑しいのだが。
だけど、そこからの裕人と琉也はなんかもう、なんかなんか、スタンドバイミーもかくや、いやそれ以上なんだよなあ!

シロに対する、というか、やぎ食に対する根本的なところで衝突した二人、もう暗くなるから一度帰ろうという琉也に、一人で帰っていいよ、僕は残るから、と強がる裕人。
しかし、一人残されて、たまらず泣き出して、そこに隠れてバアと驚かせた琉也が泣いている裕人に慌てて寄り添うシーンは、もうおばさん、キューンときちゃったよ!
その後、原っぱで野宿をする二人は、くだんのエビや、シロが逃げればいいのにという裕人に琉也が怒ることでちょいと言い争いになったりもするも、野良犬の咆哮に一緒に叫んで、そして二人闇の中の草原で疲れ切って眠り込んで……なんかもう、なんかもう、少年!なのだもの!!!!!

二人はそこに、シロが来ているのに気づかない。
でもあれ、二匹いたのね。シロが山の中で出会った相手なのか、それとも双方ともシロじゃなかったのか……。
そして、二人が気付かぬまま、やぎは去っていく。
そして朝になる。その間、帰ってこない裕人を心配するおばあがケータイにかけてみたら、置きっぱなしのケータイにおじいが出たりと言ったコミカルな場面がありつつも、裕人は草原の中で目覚めるんである。

そういやあ、おばあもしばらくは、裕人がなぜ急に落ち込んだのか気づかなかったんだよね。ようやく、あの子は街の子だから……とやぎを潰されたことでショックを受けたらしいことに思い当たるんだけれど、裕人の気持ちにしばらく誰も気付かないのが、辛くてさあ……。
でもそれこそが、ここでは常識であり、そもそも生きていく上で常識だって、ことなんだよな。

海岸に一人座る裕人。寄せては返す波。その彼をアップにして、ピントをはずした背後に白いやぎがボヤけた形でフレームに入ってくるのが見える。
カットが切り替わり、後ろ姿の裕人がやぎをなでている。寄せては返す波、寄せては返す波……。

そして次のシーンでは、あのカップルの新築祝いにヤギ汁がふるまわれているのだよ。
なんか、なんか、いろんな思いがうずまいて、ずーーーーんときたよ……。

素晴らしいよ、なんて素晴らしいんだろう。これからも沖縄を拠点に作品を作りたいという仲村監督の今後が、もの凄い楽しみ。
しかし沖縄にこだわらず、外にも出てほしいと思う。その上で沖縄に帰って作る作品も更に見たいと思う。この若い才能が今後どう花開くのか、彼が今後どんな風に学ぶ道を選び、どんな風に作品へと還元していくのか。
いつも、映画が天上のもので、ただ仰ぎ見るしかなかったのが、映画はみんなのもので、市井のもので、だけどだからこそとても崇高なものだと、だから誇りを持って人間は生きていけるのだと、真に感じさせてくれた、幼いながらも名監督に感謝の気持ちが溢れるばかり。
おばちゃん、ほんとに、長生きしたいと思ったよ!★★★★★


ヤコブへの手紙/POSTIA PAPPI JAAKOBILLE
2009年 75分 フィンランド カラー
監督:クラウス・ハロ 脚本:クラウス・ハロ/ヤーナ・マッコネン
撮影:トゥオモ・フトゥリ 音楽:
出演:カーリナ・ハザード/ヘイッキ・ノウシアイネン/ユッカ・ケイノネン/エスコ・ロイネ

2011/2/26/土 劇場(銀座テアトルシネマ)
尺も、物語の構成も、もの凄くシンプルで、もの凄く無駄のない、これぞストイックという作品だったので、ちょっと驚いてしまった。
良くない言い方をしてしまえば、こんな話、どこかであったような、という気もし、いやいやあまりにシンプルすぎるほどにシンプルだから、逆にどこにもないのかも、などとも思わせた。

どこかであったような、と思ったのは、手紙というキーワードを持つ映画の名作はいくつもあり、こんなシンプルなストーリーなら、これまでに生み出されていても良さそうな気がしたからか。いやいや、なんかオー・ヘンリーが書きそうな物語だと思ったからか。
あるいは、タイトルロールであるヤコブ牧師が、まるで自分のもののように聖書を引用するものだから、こんな話が聖書にあったのかもしれないなどと思うのかもしれない。
それはないか。聖書は教えであって読み本ではないもんな……仏教とかの経典ならそういうネタもありそうな気がするけれど。

シンプル、シンプル言っていても仕方ないので、ざっとストーリーを言ってしまえば、本当にこれだけなのだ。
何の罪か、終身刑を言い渡されたレイラという女性。模範囚の彼女は恩赦を与えられ、刑務所を出られることになる。
行くところのない彼女を引き受けようと言ってくれた、というか、手助けが必要だからレイラに来てほしい、と言ってきたのは、盲目の牧師、ヤコブ。レイラが後に察するように、恩赦を求めてくれたのは彼だった。
ヤコブ牧師がレイラに頼むのは、彼の元に届く悩める信徒からの手紙を読むことと、その返事を書くこと。
毎日毎日、ヤコブ牧師の元へ手紙が届く。今までその仕事を買って出てくれていた隣人が老いて施設に入ってしまったことで、だいぶ手紙がたまってしまっていた。

そもそもここに来たのも本意ではないレイラは、あからさまにヤコブ牧師に対して距離をとるし、ヤコブ牧師に手紙を届けにくる郵便配達員も、レイラが終身刑を受けたことを知っているから不信感を募らせる。
ついにはレイラを恐れて配達に来なくなったもんだから、ヤコブ牧師はすっかり生きがいを無くして日に日に弱っていく……。

まあ、オチ的なものはまた後述としても、登場人物もヤコブ牧師とレイラと郵便配達人のほぼ三人のみ(冒頭、レイラに恩赦を告げる刑務官がちらと出るぐらい)であり、先述したようにあまりにシンプルな構成なので、なんか物語が進んでいく中でもついつい身構えて、いろいろ深読みしたくなってしまう。
だって、レイラがこうしてヤコブ牧師の元に身を寄せるようになったら、いくら彼女が固く心を閉ざしていたとしたって、オチとしてはその心がほどけなければ物語として成り立たないんだから、それはどの時点で来るのかなあ、とか。
そもそも、この手紙自体にもちょっと疑問があって、実はヤコブ牧師に肩入れしている郵便配達人が出させているんじゃないか、なんて思ったり。

実はそれは、映画を観終わった後でも、くすぶったままだったんであった。というのも……だって、突然手紙が来なくなるじゃない。
しかもそれが、郵便配達人がレイラと衝突して、彼女を恐れるあまり配達に来なくなってからであり、レイラがなぜ手紙を配達しないんだと詰問しても、来てないんだから届けようがない、と配達人は言うばかりなんだよね。
最初からなんとなく、手紙の真偽のほどはどうなのかなあ、などと思っていたから、余計にその確信を高める要素な気がしてしまって……。
この郵便配達人がね、ヤコブ牧師を善人そのものだと、だから悪さをするなとレイラに牽制するじゃない。彼は本当にヤコブ牧師を尊敬していて、というか心配していて、もしかしたらこの小さな町で唯一彼を心配している人物なんじゃないかという気がしてさ……。

だって、ストイックすぎるほどに、他の登場人物が、牧師を慕ってくる生身の人間が、出てこないんだもの。手紙だけなんだもの。
しかもそれを追い打ちするような事件さえある。ヤコブ牧師が「結婚式がある」と危なっかしく杖をついて出かけて行ったまるで廃屋のような教会。
それでいったらヤコブ牧師がたった一人で暮らしている牧師館も、その名で言えば多くの牧師が暮らしているような雰囲気があるのに、彼がたった一人で寂しいことこの上ないし。
なんかね、なんか……一体ここは、現実の街なのかと、郵便配達人は本当にちゃんと、郵便局から手紙をより分けてここに届けに来ているのかと、なんかふと、そんな非現実的な雰囲気さえ感じてしまう、のは、さすがに言い過ぎだろうか?

言い過ぎといえば確かに言い過ぎな要素は、あったのだった。ヤコブ牧師が、「何度も手紙を書いてくる人もいる」と言っていた。レイラが、差出人の住所も何もない、と言った手紙の書き手をヤコブ牧師はピタリと言い当て、レイラが驚いて封筒を改めて見ると、封をしているところに名前だけが走り書きしてあったりした。

そして何より、“何度も手紙を書いてくる”その一人がレイラの姉であり、牧師に恩赦が叶うように何度も何度も頼んできたのは、レイラのたった一人の姉だったんである。
と、いう展開こそが、オチ的に言えば実に“どこかでありそうな話”であり、どこの時点でレイラが牧師に心を開くんだろうとじりじりして待ち続けた、そのクライマックスだった訳だが、予想よりレイラは、牧師に心を開くのは確かに……遅かったかもしれない。

終身刑を言い渡されて、頼れる知己もいなくて腐っているのは判るにしても、あまりにもふてぶてしく可愛げのない中年女のレイラは、牧師を心配して家に忍び込んだ配達人をヘッドロックして口を押さえ込むほどの腕っ節の強さまで持ち合わせているしさ。
本当に、最後の最後の最後に至るまで手の内を見せないもんだから、正直観客になかなか共感させてくれないんだもの。いやそれこそが本作のストイックないいところであり、簡単にベタベタのメロドラマになっていないところなんだけど。

確かにオチ(という言い方はアレだが)がこれだけシンプル、油断したら予測されてしまいそうなものならば、そこまでレイラを頑なに描写するのは必然であったのかもしれない。
だってレイラが終身刑をくらった罪さえ、その“オチ”まで明らかにされないんだもんね。正直、その“オチ”が明らかになってみると、充分に情状酌量があると思うのに、終身刑だなんてずいぶん重いな、と思ったけれど、フィンランドと日本じゃまた違うだろうし、それにこれは1970年代が舞台なんだというんだから……。
って、そんなこと、示唆してたっけ?えー?全然そんなの判んなかったんですけど!いや、確かに言われてみれば郵便配達人のファッションとかレトロかも……でも、外国だからそれも判んないじゃないのお。

“オチ”というのはね、レイラが元々親に疎んじられていて、赤ちゃんの頃から暴力を振るわれていたのを、身体を張ってかばってくれていたのがたった一人のお姉ちゃんだった、というところから始まるんである。妹のレイラがお姉ちゃんより身体が大きくなっても、かばい続けてくれた、と。
刑務所暮らしにしてはまるで女子プロレスラーのような身体つき(爆)のレイラがそう言うってのが、実に説得力がある。

そのお姉ちゃんが嫁いだ先のダンナってのがまた暴力男で、このお姉ちゃんったら、まるでそんな不幸な星の元に生まれたみたいだけど。
レイラはお姉ちゃんが大好きだから、心配で様子を見に行った。あまりにもあまりにもひどい暴力で、殴り続け、殴りつかれたら小休止し、そしてまた殴る、という鬼畜で、ガマン出来なくなったレイラは、飛び出していってこの義兄を刺し殺してしまったんであった。

……ね?これで終身刑なんて随分と……時代なのかな、それともフィンランドは殺人に厳しいんだろうか?
何よりレイラが、“大事な姉の、大事な夫を殺してしまった”罪にさいなまれ、面会に訪れた姉に会おうとしないし、勿論出所がかなっても、姉の元に行こうなどとは考えもせず、だからこそ行き場のないレイラをヤコブ牧師が引き取った訳なんだけど……。

こんなヒドイ義兄から姉を守る形で殺しても、“姉の大事な夫を殺してしまった”ことで、姉に顔向けできないと思うなんて、いやでも、殺人を犯してしまったという意識なら、確かにそうなのかなあ……。
それともそれだけ、その当時が、女は亭主がいなければ生きていけないという、悲しき保守的な意識が徹底していたからなんだろうか?……確かにそうかもしれないなあ……。

勿論、姉はレイラを恨んでなんていなかったし、それどころか、自分の苦悩を共有してくれる唯一の存在(ヤコブ牧師への手紙にそう書いてあって、読んだレイラは初めて表情を崩して涙をこぼす訳よ)であって、だから何度面会に行っても断われることに心を痛めていたし、早く出してあげたい、会いたい、と思うからこそ、ヤコブ牧師に手紙を出し続けたんであった。
正直、姉が何度も面会に来ている事実をレイラは当然知っているんだから(自ら断わっているんだから)、そんな姉の愛を感じることぐらい、全然難しくないんじゃないのかなあとも思ったが、そんな立場になったこともないから判らないし、そんなことを言ってしまったら、このシンプルで美しい物語が成立しなくなっちゃうもんなあ……。

そう、確かに美しい。美しさの定義は、まずシンプルであることなのかもしれない、と、なんか基本的なことに思い至ったりしたんであった。
美しさのためには、余計なものは必要ない。余計な登場人物が必要ないから、この、とても重要な人物である姉も、出てこない。
物語の最後、ヤコブ牧師がまるで……そう、レイラにお姉さんの愛を伝えるという、彼にしか出来ない使命を、そう、神にさえ出来ない使命を果たして、まるで殉教者のように倒れて死に行く。

ひっそりと救急車に乗せられた遺体をレイラ一人が見送り、いや、もう一人、いつものように自転車に乗ってやって来た郵便配達人が、呆然としつつも深い畏敬の念をもって見送る場面。
そこでカットアウトされ、レイラが手にしていたお姉さんの手紙の住所がクロースアップされるから、恐らくレイラはお姉さんの元に向かうんであろうことは推測されるものの、示されはしない。
お姉さんは大都会、ヘルシンキに住んでいて、レイラのいるここは、どこともしれぬ片田舎である。

一度レイラは、手紙に答えられなければ自らの存在価値はない、と落ち込むヤコブ牧師と衝突してここを出て行こうとし、しかし行き場がなく、首をくくって死のうとさえする。
そりゃあレイラはたった一人の頼るべき人であるお姉さんを裏切ったという気持ちがあるから、どこにも行き場所がないと思っていたんだろうけれど、それにしてもこの場所が、あまりに世俗から隔絶されていて、ヤコブ牧師が、結婚式を頼まれていた、いや洗礼式だったかもしれない、などと誰も来ない教会で待ち続けるのも、ここだけが、パラレルワールドみたいに取り残された場所のようで、どうあがいても出ていけないようでさ……。
ヤコブ牧師が、自らの使命を果たして死に行くことで、レイラが出て行く空間が空けられたような気がする、なんて、いくらなんでもSFに考えすぎだよなあ。

なんかでも、本当に、現実的じゃなかったんだもの。いやそれは、ネガティブな意味じゃなくてね。
ヤコブ牧師は盲目にはなったけれど、手紙を読んだり書いたりする以外は一人で何でも出来た。でもその食事は固いパンをスライスしたものと、お湯。ヤコブ牧師は紅茶を入れると言ったけれど、ポットからティーカップに注がれたのはただのお湯で、しかしそれになにか、インスタントのものを溶かしていたのかな?
それにしても、まさにパンとワイン、いや、ワインですらない、パンと水である。キリストが血と肉にしたものよりストイックである。

ホントだからね、だから……まるで巫女か恐山のイタコみたいに、聖書を自分の血と肉にしていたヤコブ牧師だから、まさしくさあ……。
でも、あらゆる聖書の一節を悩める人々のために引用していたけれど、レイラには、ただ、たった一人のお姉さんの愛を、示しただけだったんだよな。そこに、聖書の一節なんていらなかったんだ。
だって代読し、代筆したレイラには、聖書の言葉なんて全然届かなかった。ただ、お姉さんの一筋の心をヤコブ牧師が示しただけで、心がほろほろほろほろほどけたのだ。

なんか可愛げないな、私(爆)。だってなんかうろたえちゃったのだ。あまりにも無防備なほどにシンプルで、崇高にストイックで、純粋にスピリチュアルなんだもの。★★★☆☆


奴が殺人者だ
1958年 94分 日本 モノクロ
監督:丸林久信 脚本:橋本忍
撮影:遠藤精一 音楽:宅孝二
出演:土屋嘉男 東郷晴子 横山道代 五十嵐基治 峯京子 佐藤允 天本英世 山茶花究 淡路恵子 生方壮児 加藤春哉 桐野洋雄 田武謙三 中山豊 谷晃 光秋次郎 笠間雪雄 中丸忠雄 村上冬樹 瀬良明 清水元 林斡 堺左千夫 中田康子 姿圭子

2011/10/30/日 劇場(銀座シネパトス)
この日は一本目の池部良が観たいがためだったために、正直苦手分野のサスペンスだということもあって結構力尽きる(爆)。
もう本作の印象といえば、禁断症状の天本英世の怪演、まさに怪演、ザ・怪演、怪演というイメージぴったり(というのもおかしな話だが、あるでしょ、そういうの)の姿だけが脳裏に焼きついて、麻薬密売の組織やら、どうやって追い詰めたやら、あんまりよく判ってなかったりして(爆爆)。

まあそのー、麻薬密売組織、麻薬密売人を追い詰める刑事達のハードボイルドと言っていいかもしれない。この日一本目に見た、その池部良が警察官、つまりはおまわりさんの、わざわざ公僕、という言葉まで用いた、地道でソンな役回りだけど、街を僕らが守ってるのさ、という様子とはやはりまったく違って、ドラマティックである。
そりゃまあ勿論、こっちだってリアルな世界なのだろうとは思うが……署に詰めている刑事達の様子は、暑さにダラダラ汗を流して扇風機を目の前に手ぬぐいで首筋をぬぐう様子もなんだかナマな感じで、制服姿の池部良に萌えたのとは違うドキドキを感じてしまったして(爆)。

とはいえ、最初こそそんなハードボイルドな刑事の二人組が、殺された麻薬密売人から大ボスにたどり着こうと、地道に聞き込みして奔走している印象ではあったけど、麻薬取締官の佐藤充と、彼が潜入した先でコンビを組まされる天本英世が出てくると、もう彼らが大メインになってしまう。
それがかなり中盤になってからなもんで、正直ちょっと、印象が分断される感じはあったかなあ。

身内同士でもその存在は極秘の麻薬取締官、という存在自体、ドラマチック、いや映画チックである。
そのコワモテで地元のチンピラに絡まれたところを、先述の刑事のどちらかが(すんません……こーゆーところがうろ覚えなのだ)「こいつは網走帰りでね」などと言って彼らを怯えさせるのは、最初から計算だったのやら?それともこの麻薬取締官、石原はホントに網走帰り?
……すいません、もう、頭に霞がかかっちゃって……(爆)。

とにかく、この石原は顔に似合わず(失礼!)職務にマジメな奴で、危険なおとり捜査に飛び込むんである。
日本では禁止されているおとり捜査に、しかしそれを出来れば成果があげられるのに、などという台詞があったのは、本作だったか一本目だったかすらごっちゃになっている私は本当にダメなヤツ(爆)。いや多分本作だったと思うけど……(汗)。
佐藤充は若くて、モノクロでも判るぐらい肌もプリプリ、ツヤツヤで、血気盛んで正義感あふれる(顔に似合わずね……しつこい)麻薬取締官なもんだから、麻薬で身体がボロボロになってる天本英世の造形との対照が際立ってるのよね。
あ、そういやあ、一本目の池部良の警察官モノも、クスリの密売人の男との攻防がクライマックスだったっけ……実はそんなところでこの二本はつながっていたのね。

池部良ラブなので、ついそっちに気が行ってしまう(爆)。でね、えーと、なんだっけ。
そうそう、天本英世よ。彼が出てきたら、もうさらっちゃう訳。彼は尺の中の半分も過ぎたところで出てきてるのに、もう本当に得な役だと思うわ。役者なら誰もがやりたくなるような。
正直、こんなヤク中でボロボロの男を、密売人暗殺の殺し屋として黒幕が重宝するのが判らない。いつでも禁断症状に苦しみ、クスリが手に入るなら何でもやる、というあたりが子飼いに出来るメリットなんだろうけど、その割には仕事に時間がかかって、その間ずっと彼は禁断症状に苦しみ続けるしさ。なんか天本英世の怪演を見せるためのキャラ設定ちゃうのと思っちゃう。

しかし凄いのは、それまでは、充分コワモテに見えてチンピラたちを黙らせていた佐藤充が、天本英世が登場した途端、なんかウブな青年に見えてしまうという、それだけの天本英世の凄さよ。
ま、確かに佐藤充、ひいては彼の演じる役柄の本質はウブな青年なんだろうから、当然なのかもしれないけどさ。

私にとって天本英世って、なんかザビエルみたいな帽子かぶってる悟りを開いたような人、という晩年?の印象しかなかった。でも確かにそんな、ザビエルみたいな帽子が似合うような、ヨーロッパ方面のストイックなバタくささ?(これまたおかしな言い方だな……でもそんな風にしか言いようがない)を持つ人で、それが骨格からそうなんだというのが、本作ではよーく判るというか……。

ノスフェラトゥと言ったら言い過ぎ?いやそれぐらいコワかったよ。何よりコワいのは、眉が段違い平行棒みたいに高さが違うこと。フツーの状態ならニヒルな魅力なのかもしれないが、禁断症状にブルブル震えて、汗だくでシャツがやせた身体にはりついてて、眉に合わせて目もかたちんばみたいに(これはいわゆる差別用語ってヤツなんだろーなー)片方が据わってて、片方が見開いてて、なんかとにかくもう、尋常じゃない訳。なんでだかモジャモジャの髪型もなぜかコワい(爆)。
でもなんかもう、なんかもう、それこそ尋常なくそれが、異様に色気があって、ゾッとするほどのセクシーさで、彼から目が離せなくなってしまう。
なんかもうね、天本英世の登場だけで、彼の転落するしかなかった、語られないドラマに観客が絡め取られてしまうんだよなあ。

天本英世扮する殺し屋の竜は、石原がイヌじゃないかと疑っている。疑っているくせに、結局最後まで彼を連れてっちゃうあたりがマヌケである(爆)。
潜入操作をしている石原を刑事たちが交代で見張っていて、黒幕の“ユーさん”こと湯本という男をとらえるまではと、緊張の攻防が続く。
正体がバレかけたと、石原がスキを見て打ってきたSOSを、黒幕に追いつけることと、石原の危険とが天秤にかかって、刑事たちと、石原が潜入している麻薬組織との間に緊張が走るのはスリリング。

ちょっと休憩。このまま行くと男だけの話になってしまいそう。美しい女優たちが華やかな彩りも添える。
けども、女たちは男たちの命がけの攻防を何にも知らないってあたりが、知らなくて、ただ帰って来ない旦那様なり婚約者にブンむくれているだけというのが、いかにもである。
まあ今の時代にこういう作品を作っても、正直似たり寄ったリという気もするが……あるいは、これみよがしに女性を捜査官に据えたりとかね。
そんな不満をここで言ってもしょうがないが(爆)、何も知らされていないとはいえ、だからこそ女たちは無邪気に美しいんである。

一人は石原の恋人。それとも会話から察するにひょっとしてもう結婚している?もう一人は、黒幕としての名前と手配写真だけで殆ど登場しない、ユーさんこと湯本の婚約者。
この二人が親友同士だっつーのはあまりにも出来すぎなドラマだが、それを石原と湯本は結局最後まで知る由もないんである。
いや……それを知ることになるであろうラストが暗喩されて終わるのが、なんとも哀しいまでのスタイリッシュなんである。

その頃、湯本の婚約者のもとに警察官が訪ねて、彼女は愛する彼の一切を知ることになった訳である。
一方で、近々結婚を控えているのになかなか進展していない親友を心配している石原の彼女は、やっと仕事から帰ってきた彼氏とのデートの最中に、電話ボックスから湯本の婚約者に電話をかける。
石原もまさかそんなこととは知らず……。湯本の婚約者が、「もう家具も入れてしまって、請求が訪ねてきて困ってるのよ」と、口調とは裏腹にふわふわした幸せそうな様子で言っているのがなんとも痛ましい。
チャキチャキした石原の彼女とは対照的なふんわりした湯本の婚約者が、彼氏の正体を知らず、最後まで騙されていたなどと思うのは、なんかしんどい。

石原の彼女が電話ボックスから親友にかけるのがラストなんだけど、それがラストというのが意外なぐらい、クライマックスの、天本英世のもんどりうちぶりが見事なのよねー。
なんかね、途中から石原は天本英世扮する竜に同情、以上だな、何か……あの感情はなんだろう、こう言っちゃあ語弊があるかもしれないけど、敗者の美学というか、滅びゆく者の美学というか……なんかそんなものを感じていたんじゃないかって気がする。

ボロボロのヤク中男の竜に戸惑いながら、そして自分の正体を鋭く見破る眼力にうろたえながら(だから、その割に、最後まで同行させちゃう甘さなんだけどさ)、何か男としてどうしようもなく惹かれてしまう色っぽさがあったと思う。
なんかね、この天本英世の前では、佐藤充ほどのコワモテも、あまっちょろい、青いワカモンに見えてしまうんだもの。
まあ、若い無鉄砲さがなければ、麻薬取締官としてとはいえ、こんなおとり捜査なんて出来ないだろう、というあたりも上手いと思う。

彼ら、というか、竜を手なづける、表向きはマトモな会社経営者を装いながら、ウラで麻薬密売に手を染め、足のついた湯本を消そうとしている山茶花究の、いかにも表向きは善人ヅラしていながら、って感じが、妙にパーツのハッキリした彼に憎たらしいぐらいよく似合っててさ。
つまりは竜はこの社長に従順してた訳で、もうそれこそ、彼こそがイヌよ。飢えた野良犬がエサをもらいたいために、ぺろぺろなめるみたいに禁断症状の竜が懇願して、それを足蹴にしていたようなこの社長。
クライマックス、石原の必死のSOSで刑事たちが追い詰め、竜は殆ど逆ギレ状態で、社長に銃口を向ける。……いや、考えてみれば逆ギレどころか本ギレだよね。子飼いにするために竜を薬漬けにしたのはコイツなんだもの。

それを判ってたのに薬の魔力におぼれて見ないフリをして、薬をくれる社長を恩人だと自ら思い込ませてた竜。
ようやく自分に正直になって、逃げる社長に銃弾をブチこんで、禁断症状なのか、社長を殺したことなのか、身体をのけぞらせて吠える。
それを俯瞰のカメラでとらえるのがまた、強烈な印象。

ほーら、ほんっとに、前半は特に私寝てたって(爆)。天本英世が出てきた後半からしか、正直印象ないもん(爆爆)。
でもさ、この二本立て、本作はがっつり麻薬捜査の話だし、一本目も重要な要素としてそれが入ってきてて、それだけ当時深刻だったんだろうけど、現代でもちっとも変わらず蝕まれているっていうのが、なんとも言いがたいわね。★★★☆☆


無宿 やどなし
1974年 97分 日本 カラー
監督:斎藤耕一 脚本:中島丈博 蘇武道夫
撮影:坂本典隆 音楽:青山八郎
出演:高倉健 勝新太郎 梶芽衣子 藤間紫 山城新伍 栗崎昇 中谷一郎 大滝秀治 荒木道子 木下サヨ子 今井健二 石橋蓮司 伊吹新吾 南部彰三 神津善行 殿山泰司 藤春保 三上真一郎 安藤昇

2011/8/4/木 劇場(銀座シネパトス/梶芽衣子特集)
梶芽衣子特集。アウトローな役柄の彼女しか知らない当方にとっては、今回の二本立てはかなり新鮮。
主人公は高倉健とカツシンの二人だけど、健さんは藍色の着流しにドスを仕込んだあまりにも見慣れた健さん、カツシンは白い麻の背広を意気揚々と着込み、カンカン帽にひげもじゃという、これもなんともカツシンらしい傍若無人さ。
つまり二人とも実に良く見慣れた二人なんだけど、梶芽衣子だけが、ちっがーう!私の知ってる梶芽衣子とちっがーう!
まず、可愛い!いや……だって女囚さそりか女渡世人かスケバンかしか知らなかったんだもん(爆)。

運命的に二人に出会って、一か八か女郎から抜け出す彼女は、そう思えば確かに意思の強さを思わせもするが、冒頭シーン、姉貴分の女郎の死にさめざめと泣き崩れるし。
常にどちらかの男に頼ってて、疲れて歩けなくなるたびおぶってもらったカツシンのことはうっかり好きになりそうになるし(いやその前に、健さんにも傾きそうだったぞ!)およそあの強い梶芽衣子とは思われないはかなげさ。
そのはかなさをよりいっそう際立てるような着たきりすずめの淡い藍色の着物も良く似合ってて、時々見せる無邪気な笑顔にドキリとし、あの鋭い猫目の女王様がッ!?と驚いてしまうんであった。

でもやっぱり、健さんとカツシンなんである。確かに梶芽衣子特集にこの作品が選ばれたのはむべなるかな、彼女の存在は第三の主人公と言ってよく、チラ出のワキにそうそうたるメンバーが揃っているのを見ても彼女の存在感はとても大きいんだけれど、この男二人の友情には残念ながらかないっこない。
だあってえ、ズルいよね。男二人の友情となったら、女は割り込めないもん。でもその点で、彼女がどちらの男からもそういう目で見られないというのは、ある意味“割り込める”余地があって、だからこそ第三の主人公となり得たのかもしれない。

だって、ストイックすぎるんだもん、二人とも。健さんがストイックだというのは当たり前すぎるが、それでも彼が演じる錠吉が出所後真っ先に訪れる女郎のユキノのこと、好きなのかと思ってた。
そのユキノが兄貴分の女房だと知れてからも、そうじゃないのかな、と思ってた。

でもやっぱりそこんところは健さんなんだよなあ。ユキノというより、やはり敵は兄貴を殺した相手。
しかしそれも、渡世人同士の抗争であり、その殺した相手、仙蔵だって命じられて殺したに過ぎないことは、錠吉だって薄々判っていた筈。
面立ちは酷薄な感じのする仙蔵(安藤昇だからね!)が、しかし幼い息子の手を引いて賭場から帰る場面。
決して決して、非情な殺し屋などではないのだ。それが判って、胸が苦しくなる。父親が討たれた後、この子はどうするんだろうって思ってしまう。

この息子の面構えがまた、いかにもこの手練の息子って感じで我が強そうでさあ。
カツシン演じる玄造が裏道で父親を待っているこの子にちょっかいの目配せを送ってもただただまっすぐに強い目で見詰め返すばかりなのがなんとも物語っているのよね!

てか、えーと、最初から行こう(爆。またかよ……)。
そもそも高倉健演じる錠吉と、カツシン演じる玄造はムショで出会った。
冒頭は、二人が塀の中のメンメンにあおられて、どちらが長く水に顔をつけていられるか、という競争。ぶはあ、と顔を上げた玄造は、余裕の表情で起き上がった錠吉に手を差し出したけれど、冷たく無視された。
玄造はこの時から錠吉をネラっていたけれど、錠吉は先述したただひとつの使命で頭がいっぱいだったんである。

玄造が心に抱いているのは、父親から密に教えられた、海中に沈んだバルチック艦隊に眠っているお宝を引き上げ、大金持ちになること。
塀の中での勝負から錠吉に目をつけていたけれど、後に錠吉が潜水夫だと知って、更に執拗に錠吉を仲間に入れようとするんである。

錠吉はとにかく兄貴の敵を討つことしか頭にないから、そんな錠吉の行動を利用して、玄造は仙蔵の名をかたって旅籠に泊まったりしておびきよせる。錠吉はそりゃあ、カチンと来て玄造を相手にしないんである。
玄造は、そりゃまあお宝を手にするための相棒として彼を引き入れようとはしているんだけれど、なんかだんだん、というか最初からかもしれない、錠吉のことを無二の親友のように思って、だから死んでほしくない、ムショにまた放り込まれてほしくない、ヤクザの敵討ちなんか無意味だと、やたらめったら先回りして、先述の仙蔵にも先に耳打ちしたりする訳。
そのことで、仙蔵が実は冷血の殺し屋などではなく、彼もまた錠吉と同じく一人の鉄砲玉に過ぎないことが明らかになるあたりが切ないのだが……。

そう、玄造はとにかくバルチック艦隊のお宝を引き上げること、その一念で物語の冒頭から動いてる。
錠吉に友情を感じたり、女郎のサキエ(梶芽衣子)の足抜きに加担したりするのは、ちょっとしたわき道に過ぎないんである。
いや、そこまで言うのもアレかな。少なくとも錠吉とのストイックな友情物語は、こういうヤクザ的な話にはアニキな萌え要素として必要不可欠だからさ(萌萌)。
それだけに、玄造の持ちかける話があまりに夢物語であり、とても現実味がなく、まあ破綻して終わるだろうというのは最初から目に見えていてね。

正直、後半、玄造がマジで探し始めるのが意外だったぐらいで……。
しかもサキエはともかく、即戦力として首尾よく錠吉も参加してさ!
いや、ね、だってさ。正直、錠吉の兄貴の敵討ちの物語だけだって相当のボリュームがあったし、それだけで一本の映画としてオワリになれるぐらいだったと思うんだよね。てか、よくある任侠ものなら十分アリだったと思う。

でもそれなら確かに、高倉健とカツシンの両主演はまあ……ないんだよな。
だからこそかな。本作ってね、なんか二本、って感じが、したんだよなあ。前半は高倉健パート。いかにも高倉健らしい、義理を通すがゆえに己を消し去る男の無常。
これぞ高倉健、という藍の着流し、ハンコになりそうなぐらいシンボライズ。

でも、お決まり過ぎるけれど、結局なぜその兄貴は殺されなきゃいけなかったのか、仙蔵も上から命じられただけだし、錠吉がムショに放り込まれたのも、出た途端兄貴の敵を討たなきゃいけない、自分の道はそれしかない、と思いつめているのも、明確な理由付けはされず、正直合点がいかないのは……やはり私がバカな女子だからか(爆)。でもそういうあたりもいかにも健さんだけどね。

で、そのいかにも健さんのくだりをじっくりと見せた後で、後半はまんまカツシンである。
確かに最初からバルチック艦隊のことは言ってたけど、錠吉を仲間に引き入れることと彼への友情の気持ちがごちゃまぜだったもんだから、お宝探しは後半いきなり始まったような感が強く、ホンット判りやすく、高倉健の前半、カツシンの後半といった趣である。

だってさあ、高倉健のパートでは、相対する安藤昇との果し合いのシーン、いきなり静寂な竹林にいざなわれたりしてさあ、その直前に玄造が「お前を捕まえさせたくなかったから、仙蔵に教えた」という俗世的メロドラマのような会話シーンなんて後ろ足で蹴飛ばすぐらいな感じでさ。
まるでそれは、カツシンにストイックな武士道は出来ないと言っているみたい。まあコレに至ってはそのとおりなんだけど(爆)。
と、とにかく、前半の高倉健と、後半のカツシン、とハッキリ別れてて、なんか一本の映画のような気がしないのよ。

なにかそれは、この平々凡々たるタイトルが、実は深く象徴していたのかもしれない、などとも思う。無宿と書いてやどなしと読む、なんてさ、あまりにもベタなヤクザ映画にありがちじゃん。
でも、こんな、ある意味分断されているほどに大きな要素が二つあって、確かに二人ともやどなしだし、そして二人をつなぐ女郎のサキエ、今回の主役であるところの梶芽衣子は二人以上に宿無しなんである。

男たちは、いつの時代も男たちは、どことなーく、なにげなーく、根っこは残してる。錠吉が、つまり健さんが残している義理の渡世人の世界なんか、その際たるものさ。
玄造はその人懐こさで方々に顔がきくし、どこにでもすぐに鼻を突っ込めるし、何よりケンカに強いってことは、俗世に通じてるってことでもある。
でもサキエは、サキエだけは、もうどこにも行くところがないんだよね。
正直、足抜けをしたサキエにはっきりとした追っ手がつかず、錠吉だけに標的が絞られるのがよく判らないし、それはまあ先述したように、彼がこだわる兄貴の死の真相、なぜ始末されなければいけなかったのか、というのがどうにも明確じゃないからなんだけど……。

でもだからこそ、梶芽衣子が魅力的なんだろうなあ。
彼女は海が見える町に行きたいと言った。錠吉はバルチック艦隊のこともあるんで、成り行きで彼女を連れて行ったんだけど、本当にサキエは嬉しそうだった。
後に思いがけず加わった錠吉(この時点で薄々予感していたラストがハッキリ確信出来ちゃって……そして当たっちゃったんだけどさ)と共に、オンボロ船とオンボロ潜水服で海に出る。
この船と潜水服を貸してくれたのが殿山泰司だってのが、ゴーカさの一片を物語る。
なんたって勝プロダクション製作だしさ!……まあそれはいいか……。

このオンボロ船とオンボロ潜水服はとかくコミカルでね!
特にオンボロ潜水服よ。古いSF映画の宇宙服みたいなデザイン、よれよれのホースがつながっていて、船の上でエイサホイサとポンプをこいで空気を送るんである。
錠吉が加わるまでは、潜水能力のない玄造と、女の非力でひいひいのサキエのポンプこぎで、俺を殺す気だろ!てなののしりあいや、それにスネたサキエが乱暴にこいだポンプが玄造のあごをヒットするなんていうお約束が展開され、思わずほほえましくてクスリとする。

錠吉が参加してからも、そんな夢物語みたいな話は実現するとは思えないんだけど、錠吉が来た場面がなんとも良くてさ……。
最初は意地を張って知らんぷりする玄造。心配するサキエに「茶碗買ってこい」と照れ隠しにことさらにぶっきらぼうに言うのがなんとも可愛くて、ああ、カツシンだなあ!と思う。
その台詞にそれまでの不安げな顔からパッと、これぞ破顔一笑っていうんだろうなあ、駆け出す梶芽衣子がほおんとに可愛くてね!

この描写が何より物語ってるんだよな。彼女はお宝なんて興味ない。この楽しい時間がいつまでも続けばいいと、つぶやく。
それは、お宝が見つかったらどうするかという、霞のような夢を男どもが語っている片隅でである。
玄造はね、ムショから出て真っ先に恋人の元に向かっていたし、彼がやりたいことは最初から見えてて、ほおんとにブレてないんだよね。
旅一座の男形看板女優、国定忠治を演じさせたら天下一品、と彼が賞賛してやまない愛しい恋人。
令夫人にしてやる、その台詞を二度三度、この恋人に囁くけれども、でも、この恋人だって、そんなことは本気にしてないし、何より望んでない。
彼女だって、愛しい人と一緒にいられればいい、ただそれだけなのに。

ちょっと玄造に惚れてたっぽいサキエ、長い旅行、心も許し「抱いてもいいんだよ」と耳元で囁いた。
それは、どっちかというとストイックな錠吉の方にクラリと来ていたサキエが、スケベ心を出した玄造をさりげなく避けたシーンがあったりもするのでちょっと意外な展開なんだけど、でも判るわあ。
だって、まあ最初のシークエンスこそ玄造はかなりテキトーにサキエたちを見放したけど、それ以降はずっとサキエと一緒だったんだもん。
遠くの親戚より……じゃないけどさ、特に女はこういうシチュエイションに弱いんだよなあ。
だから、どんなに長い間離れてても、恋人を思ってブレない(まあちょっとスケベ心が働いたとしても(爆))カツシンが、男が、なんかうらやましいような……気もする……。

ラストは予想通り、錠吉筋からのしがらみによる追っ手によって、錠吉のみならず玄造も凶弾に倒れる。
てか、玄造の方が一人行こうとする錠吉をさえぎって協議に行こうと出向き、無慈悲な飛び道具に真っ先にやられるのが悲しすぎる。
海は青すぎて目にまぶしいぐらいの楽園なのに。
この時、直前に錠吉が見つけ出したバルチック艦隊のものと思しき船の部品に大喜びした玄造、そんなもので大喜びするの、と。それだけでもう、残酷な結末が見えた気がした。

玄造が撃たれた音にハッとなって、急ぎ駆けつける錠吉もまたやられる。
白い砂浜に真紅の鮮血。
小さな国産車に(マツダだったような気がする……スポンサーか?)1、2、3、4、5、とひしめきあうようにコワモテが横並びに顔を揃えているのがどこか滑稽で、しかしひどく恐ろしく、そしてなんとも鮮烈にスタイリッシュ。
そのスタイリッシュさは、細眉の梶芽衣子のどアップのアングルなどにも折々見られ、カッコイイのだ。

そして梶芽衣子ならヤハリおっぱいは見せるのね、カッティングがやや不自然な気もしたが(爆)、しかし美しいおっぱい。
男二人の友情に置いてきぼりをくらったようにしゃがみこんだサキエが、突然着物を脱ぎ捨てて海で泳ぎ始めるシーンは、呆然と見ている男二人、そして同じく海に入っていってはしゃぐ経過といい、おっぱいを忘れそうになるぐらいすがすがしい。しかし男どもは服を脱がないのね。ちっ。

どーでもいいことだが、健さんが古い仲間を訪ねた町の食堂でカレーライスを食べていたのが結構衝撃。
いやだってさ、あの藍の着流し姿で銀のスプーンをカレーライスに突っ込んでるって、結構衝撃じゃない?じゃない?
しかもそれを深刻な顔して駆けつけた弟分に「半分やる。食えよ」って……。
カレーライスの食べ残し!いやこれもアニキーな萌えか??高倉健の萌えか?かなり高度かも……。★★★★☆


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