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いかれたベイビー
2013年 90分 日本 カラー
監督:浅野晋康 脚本:浅野晋康
撮影:道川昭如 音楽:松本龍之介
出演:江口亜衣子 岡部尚 愛代さやか 服部竜三郎 林摩耶 松永大輔 関寛之 鈴木拓也 小林晶 谷川昭一朗
題名と、ざっくり書かれた解説(まあ、観る前には読んでないけど)からは予想もつかない展開。
展開というか、展開もそうだけど、何より驚きであり魅力なのは、予想もつかない人間が次々に現れることであり、しかも予想のつかない台詞を次々に吐き、それがまたねじれて展開していく面白さ、なんである!
こういう映画を見ると、やっぱり映画は脚本、そしてその元となるアイディア、特に人物造形だよなー、と思っちゃう。
内省的に閉じこもるような、例えばたった二人の人物に延々喋らせるような、痴話喧嘩をカネ払って見させられているようなイライラが、青春Hに限らず時々、あるからさ。
こういうのって嬉しくなる。だって映画の、いやエンタメの大前提じゃん!
しかしこれだけ、次々予想もつかない人間が出てくる割には、小さなバジェットの作品でサイトがお粗末なんで、主人公の役名しか載ってない。ひえっと思って検索しまくったが、せいぜいが恋人の役名までしか追えない。
ひえっ、ひえっ。それでなくても人の名前覚えられないのにー!という訳で、主人公カップル以外の役名はうろ覚え極まりなしなので、間違ってたら(かなり間違ってると思う……)ゴメンナサイ。
主人公はエリ子。見るからにオシャレ女子。冒頭いきなり、恋人の浮気場面に遭遇する。
浮気場面と言ってもキスシーンだが……と言っちまうあたり、私もかなり毒されているが、その後モロエッチシーンにも遭遇するんだから、まあ青春Hシリーズなんだからそれぐらいやってもらわないと困るが(爆)、浮気のキスシーンはまあ、ジャブである。
しかもここは起点となるシーンなんで、まず冒頭において、いったん時間をさかのぼり、このシーンに戻ってくる、という、まあ王道ではあるけれど、確かに効果的に時間の反復を使ってくる。
最初のあたりだと、ワカモンの顔は私もなかなか覚えられないしさ(爆。うわー、なんたるオバチャン発言……)。エリ子の前でチュッチュしてる二人の、その男の子が、あれ、彼氏の顔だっけ……とかちょっと判然としてない訳(……ダメすぎる……)。
しかしこの、主人公の一翼を担う男の子、和美君を演じる岡部君は、他の作品で見たことあったかな?とにかく彼の達者さが、本作を大きく支えていると思われる。
浮気気質は男の本質か、カノジョと会っていても、お前ジャマ、メンドクサイ発言連発。
明らかに合コンと判り切っている飲み会に送り出しちゃうカノジョもカノジョだが、この時点ではまだまだエリ子は、カレシに油断しきってて、よもや自分の誕生日も忘れきるほど合コンで会ったオンナに溺れるとは思ってなかったんであった。
いや違うな、正確に言うと、この時点ではカレシが合コンに出かけるって自覚もなかったし、カレシがオンナに溺れたんじゃなくて、オンナが彼に溺れちゃったんである。トンだモテ男なんである。
なあんてほどの男でもないと思うんだけどねーっ!などと言ったら演じる岡部君に失礼か(爆)。でもこーゆー男がカワイイ女の子二人に取り合いにされるというのは、なかなか世の中判らん。
合コンで登場した、一見してAVアイドルと判っちゃう愛代さやか嬢が、「えー、ウソ、カッコイイー」と一目ぼれ状態ってのがね、え、そう?みたいな……。
“一見して判っちゃう”などと言ったが、このさやか嬢がなかなかイイのよね。
まあ芝居は確かにあんまり上手くない(爆)。和美君とのエッチシーンで、ミサイルみたいな爆乳を、騎乗位でゆっさゆっさ揺さぶるシーンのために選ばれたのかと思われるかもしれない(爆)。それもあるかもしれない(爆)。
「カノジョがいてもいいから、私と付き合ってよ」と天真爛漫な笑顔で言って和美君にドン引きされて、そのカノジョであるエリ子と「同じ人を好きになるんだから、気が合うと思うんですよね」と友達になりたがる。
という天真爛漫さは、後に彼女自身がついに自分で「私、バカなのかな」と自覚するに至るほどなのだが(爆)、ボー読み台詞が妙にそれにマッチして、妙に可愛いんだよね。最初は当然突っぱねてたエリ子が、なんか妙にほだされちゃっていくのが判る気がする。
先述したけど、キスシーンどころかエッチシーンにも遭遇しちゃう。キスシーンでの言い訳もショボかったが、「どうしてほしいの、謝ればいい訳?だから悪かったよ、ゴメンって!」みたいなカレシにエリ子が逆上するのは、まあそこまではよくある流れじゃんか。
すったもんだした挙句、仲直りできるかな、と思ったところで今度は言い訳のきかないエッチシーンに遭遇!騎乗位でズコバコしてくるしおりちゃん(さやか嬢の役名は確か、そうだったと思う……違ったらゴメン(汗))に、「止めて、止めて止めて、ダメだって!」と焦りながらも、ヤダー、としおりちゃんに拒否られて、止めない流れでそのまま続行しちゃう(汗汗)。
しかし何とか止めて、エリ子を追いかけて「でも、途中で止めたから。そこは判ってほしいっていうか」この台詞を聞いた時にはさすがに噴き出したが、それが笑いによる噴き出しなのか、呆れた気持ちなのか、自分でもよく判らない(爆)。
劇場の男性たちの笑いは、純粋な笑いに聞こえたのが、なんかフクザツ……。
まあそう、だからこーゆーヤツなんですよ。ずっとずっと先に、もう二人の関係がねじれにねじれまくった後に、そもそもの二人のなれそめが回想されるんだけど、「これから、ちゃんと付き合ってほしい」と和美君から申し込まれてエリ子は目を丸くし、「え、私たち、付き合ってなかったの?」と言った。
だって、デートも何回もしたし「まあ、デートはするよね」ソウイウことも、何回もしたし「セックス?まあ、するよね」エリ子は目が点。観客も点。
いやひょっとしたら、点になってるのは不毛女子の私だけで、世の男の感覚はそんなもんなのか……?いや判らない。でも彼がこういう価値観のヤツだと判っていたら、そらまあしおりちゃんのような女の子は現れるであろう。
んでもってエリ子はそれに対抗すべく、「だったら私もフリーセックス!」と高らかに宣言。
そりゃまあ、エリ子が怒るのもムリない。言うに事欠いて和美君は「ちゃんとエリ子も好きだよ」などとぬかしやがったんだもの!
当然エリ子は「も!?」とかみつくと和美君、「揚げ足とるなよ……」揚げ足って問題!?
そこから「ハンバーグも好き、カレーも好きっていうのと同じじゃん!だったらハンバーグカレーにしなよ!」それもムチャクチャだが、「それって3Pじゃん」と返す彼氏はもっとバカ!
でもこういう台詞のバカバカしいけれど、妙味を感じるっていうか、そういう楽しさがたまらない魅力なんだよね。
特にこの、カップル同士で繰り広げられているっていうのが、結局はぐずぐずに許しちゃうホレた弱み、って感じで。
そうなの、結局はホレあってるんだよね、二人……。女の目から見れば、こんな男、とっとと別れちゃえ!と思う。こーゆー男の気持ち、判らない、と思う。
でも、こーゆー男が、男ってことなんだと理解しちゃえば(正直、したくないが……)、エリ子を彼女として決めた彼が、それってホレてるってことなのね、と男の生理を受け入れざるを得ないっていうかさ。
まあこれは極端な例だとは思うけど、デートもするよね、セックスもするよね、そんなチャンスがあれば、男はそりゃするよね。
でもその上で、カノジョは特別なんだと、カノジョなんだと、ぬけぬけと言っちゃう男に、怒りを感じながらも、最後にはそれならそれでいいかと思わせられちゃう。なんか、なんか、ズルい!!
……悔しさのあまり、結論まで出ちゃいましたが。だーかーらー、予想のつかない人物、そして展開が待ってるんだってば!
エリ子がまるで偶然みたいにして出会った、リストラされたばかりでアパートも追い出されてしまったと言う初老のおじさん、ハセベさんと言ったかな(これが一番名前に自信ない……ゴメン!)、彼の正体が一番、ビックリした!
まあ確かに登場の仕方が、「ここのパン屋はどれが美味しいですか?」と話しかけるという、不自然にもほどがあるだろ、というものだったし、コイツは何かあるなと思うべきだったんだろうけれど、この企画はバジェットも低いし(爆)、そうなると作りがザツなところもあるし(爆爆)、油断してたんだよなあ。
それに何より、彼氏にウワキされ、合コンでお持ち帰りした男にもそそくさと逃げられたエリ子にとって、ハセベさんという年恰好や状況の男は、安心感をそそるんだよね。
しかも、不誠実な彼氏に失望している矢先だったりするでしょ。そりゃヨワいよ。
ハセベさんが「そんな男、別れればいいと思うけど、別れたくないんですね。だったらこっちも浮気のフリを見せつけて、嫉妬させて気持ちを向かせましょう、自分が一肌脱ぎますよ!」と言い出す。
いやいやいや、と腰が引けるエリ子だけど、僕が一肌脱ぎますから、脱ぎますよ、脱ぎます!とやたら脱ぐを連発するハセベさんに圧倒される形で(こういうちょっとした、エッチな面白さを出してくるのも上手いんだよなー)、三人で和美君と会うも、嫉妬から逆上した和美君、ハセベさんに二発もビンタをくらわして、ものわかれに終わってしまう。
後にこのハセベさんが、探偵さんであり、別れさせ屋であることを知れば、なるほどなあとは思うけれど、でも同じ嫉妬でも、女の方は男と別れたくないと思い、男の方は、それで別れたいと思う不思議さ。
そうでなければハセベさんはエリ子の味方のフリして、こんな芝居に加担しなかったと思うしさ。
傷ついたエリ子が、ハセベさんを誘惑し、「今、キスしたいと思ったの」という台詞は、冒頭のカレシの浮気キスシーンのままだからそれこそ腹いせだとも思えるけれど、ただ一晩たって、エリ子のためにかいがいしく台所に立っているハセベさんを見て、「決めた。私、カレシと別れて、ハセベさんと付き合う」と言う台詞は、なんか切実なものを感じるんだよね、女としてはさ……。
本作はコメディ要素が立ってるし、そんなシリアスに切り込むんでもないんだけど、こういう風に乗り換える女の子って、多い気がしちゃう。女は男が思うより、ロマンスよりも安住を求めるものなのよ。
でもこれはロマンスを求める、フィクションという名の映画だから、そうそう、そうはならない。
翌朝ハセベさんが姿を消しているのが、劇中のエリ子よりも観客である私がショックを受けるのは、つまり私にとってのロマンスは、安住だということなのかもしれない(爆)。
そして次に出てくるのは、会社の同僚、ジンボさん(確か、ジンボさんだったと思う……)なのだが、彼は最初の職場シーン、女子同士の休憩タイムのお喋りに割り込んで来たり、合コンの幹事として切り盛りしたりしているから、すっかり油断していた。
そりゃまあ、エリ子に好意を寄せていたのは知っていた。書類を運ぶのを手伝うという、一世紀前かよ!と突っ込みたくなるようなことをしでかしていたから。
まあだから、エリ子も不審げに眉をよせるだけで、特に対処はしなかったんだけどさ。
でもエリ子の誤算は、はた目には明らかにアンタにホレてると判っている彼を、最初から対象外へハズしたこと。そう、カレシを嫉妬させる浮気相手としてね。
合コンを言い出した同僚の女の子がジンボさん狙いだったということもあるだろうけれど、エリ子自身がフリーで、合コンは彼氏の嫉妬を引き出す浮気相手を探す場だということがなかったら、すんなりジンボさんと付き合っていたんじゃないかと思っちゃう。
先述のように、女は自分を大切にしてくれる男に弱い、弱いというか、それこそが大前提だと思ってるからさ。あーあー、男と女の永遠の深い溝―。
でまあ、そう、そのジンボさん、ついにエリ子に言い寄る。不自然極まりない、「君の家の方に、用事があるから」そしてそのまま、一杯だけ飲ませてくれとかヘタな言い訳して家に上がり込んで、ムリヤリやっちゃう。
……いや、レイプという訳じゃなかったけど、エリ子が彼氏とのことでモヤモヤしてたところに付け込んだのは確か。だって、コイツ、探偵さんに調べ上げてもらって、彼氏と別れさせようと画策していたんだもの!!!
この事実が判った時には、本当にゾッとした。まあ場面としては、ジンボさんとハセベさんが喫茶店で会っているところを目撃するという、まあかなりのベタベタではあったけど、バジェット故最初からあきらめている気持ちが自分の中にあったのか(爆)、フツーに驚いた。
人物相関、絡み合い、そういう点でももちろん秀逸なんだけれど、再三言ってる、予想もつかない人間と展開、なんだけど、それよりも、……、エリ子と共に、観客である私も、ゾッとしたし、ガッカリしちゃったのだ。
なんでって?そんなん、ハセベさんにホレちゃったからに決まってるでしょ!……ああ、やっぱり、本当にバカなのは、女の方なのかなあ……。
まあそれはともかく。ジンボさんとハセベさんのつながりが判った時には本当にゾッとしたなあ!
最初のあたりは、エロさえ入れればいいこの企画に、まあテキトーにAV女優なんかも入れてーの、みたいな風だとふんぞり返っていたから、慌てて飛び起きてムチウチになるところだった、というのは冗談だが!本当にビックリしたなあ……。
でもそうやって、次々現れる予期せぬ人物は、皆なんだか、ちょっと好きになっちゃうんだよね。
ハセべさんは最終的にはプロの手管でエリ子に近づいたということになる訳だけど、エリ子と寝たのも計算のうちだったかもしれないけど、本当にちょっと、エリ子のことが好きなっちゃったかもしれないんじゃなかなあ、なんて思っちゃう女の浅はかさ(爆)。
だってそれこそ私は本当に、マジに、ハセベさんのような人がいいよ、和美君みたいな男は捨てて、ハセベさんとマジ付き合うわあ!と思っちゃうもん。
ハセベさんはジンボさんからの依頼で、エリ子と和美君を別れさせるように画策する訳だけど、その前にエリ子にバレちゃう訳で。
ジンボさんの平謝りの中に、どうすれば許してもらえるのかと、狡猾な作戦が見え隠れするあたりが、ジンボも和美君も同じな訳!こんなこと言いたくないけど、私も言われて傷ついたセリフだけど、「謝れば済むと思って」なんである。
しかしジンボさんの、予想以上の粘着質にはゾゾ気がさしたなあ……。それこそ、私には経験しようもないコトだけど(爆)。でも、うらやましくなんか、当然、ないさっ!当たり前だべさ!!(やけくそ)
和美君と元サヤに戻るきっかけが、あのトンデモ浮気相手、しおりちゃんが、しつこくもエリ子と友達になりたいと、二度までも一人暮らしの自宅に訪れたことなんである。
このシーンはかなり、好きだったなあ。このしおりちゃん、両親が離婚しているから料理は得意なの、というリクツは、どっちの親についていったのかさえ分からないのに、結局いまだに女は家事従事の奴隷かよ、と正直思ったが……。
そしてしおりちゃんは母親についていったのが「パパが死んだの。ケンカ別れしてからもうずっと会ってなかった」という台詞で判っちゃうとなると、ますます、ホンット、日本は進歩ねーな、私の子供の頃からちっとも変わらん!!と怒りそうになるんだけどね、正直。
だって和美君、嫉妬させるためとはいえ、しおりちゃんの料理の腕をほめるのに加えて、エリ子の料理ベタ、カップ焼きそばしか作れない、としおりちゃんに言うんだもん!
あーもう、私ならこの時点で(いやもっと、前の前の時点で!!)こんな男は願い下げだが、結局は何もできない男なんだと思えば、そしてナイスバディな女の子がぶら下がってくれば本能のまま飛びつき、甘い台詞も言い、カノジョに見つかれば愚かなほどにうろたえる、そんな男をかわいく思える、のかなあ……。
なんて、懐疑的っぽく言っちゃったけど、大好きなのよ。女が負けっぱなしなのが、悔しいだけ!
だってさ、エリ子はオシャレ女子だし、脱いでもお腹ぺったんこでいい感じのおっぱいの大きさのナイスバディ。
なのに会社ではコピー取りに、パソコンを適当に叩いている場面しか出てこないし、恋人の看病がしたいがために早退(結局浮気場面に遭遇しちゃうんだけどね!)しても大して迷惑がられない、どころか、同情される。
合コンでお持ち帰りしたガタイのいい男は、彼女がいるからと最初から腰が引け気味、エリ子が、セックスしていけばいいじゃないですか、とウワキ宣言を身体オンリーにシフトしてすごむと、そういう職業の人でしたか、持ち合わせがなくて、ごめんなさい!と、ぴゅーっと去っちゃう!
このシーンはさすがに笑っちゃったけど、笑っちゃったけど……でも「そういう職業の人ですか」ていう台詞、突き刺さったまま消えなかった。
私はフェミニズムすぎかもしれん。ここまで感じてきた、先述したことと、ふいに合致した気がしてさ。
家事と性を提供する、女は奴隷。キャリアウーマンになっても、女を捨てたとさげすまれるだけ。男も男を捨ててみやがれ!
……おっとっと。うるさいババアになってしまった。でもまあとにかくね、ハッピーエンド。ハッピーエンドと言って、いいのだろうか??
しおりちゃんの身の引き方があまりにあっさり唐突だったのは、彼女自身の演技力のせいだろうか??(爆)。
でも、それこそその、クライマックスシーン、しおりちゃんが、パパが死んでショック受けて、エリ子がそんな彼女をそっと抱き寄せるシーンから始まり、しおりちゃんと和美君のデートに割り込む形でエリ子も参戦、二人の女が交互に真ん中の男の唇を奪い合うという、前代未聞のシーンに突入。
どんなエロ映画でも、むしろエロ映画なら特にこんな甘酸っぱいシーンはないし、フツーの恋愛、一般映画なら、こんなシーンじゃすまされないさあ!
いや、もちろんそれ以外にも爆乳散々拝ませてもらいましたけどねっ。いやいや!
で、まあちょいと脱線したけど、しおりちゃん、何キッカケだか急に、やっぱりエリ子さんにはかなわない、それじゃね!と踵を返して、深夜のタクシーに乗り込む。
三人で「ラーメン食べに行きたいね!」と盛り上がっていた、あともうひとくさりの盛り上がりをあっさりとかわす。
そして和美君はいつものように、エリ子んち、泊りに行ってもいい?と口にする。そう、いつものようにだ……。
「私たち、まだ別れてなかったんだ……」と思わずつぶやくエリ子にぽかんとする和美君、の図は、そう!涙が出るほど直球に、二人が付き合った時の言葉そのものなのだ!!
うー、ズルイズルイズルイ、こんなん、ズルイよ!、何をもって付き合うのか、別れるのか。二人の付き合い始めの会話の初々しさを、ここでさえ当てはめさせるというのか。……当てはめさせるというのだね!!
「え?私たち、付き合ってるんじゃないの……」と戸惑ったエリ子の気持ちにあざやかなリターンエース。デートはしても、セックスはしても、彼女は別、特別なんだ。
……うう、でも“は、しても”は撲滅キャンペーンしてください!男はマジ、判んねーっ。
ついつい、ぽっちゃりガンダム足、ミサイルロケットおっぱいのさやか嬢に目を奪われたが(ついついの割には詳細な形容)さすがヒロイン、江口亜衣子嬢は安心して見られる。
ちょこっと片桐はいり系なのが、メイクがこってりな故に余計に気になるが、このトンデモ彼氏をはじめとしたクセモノキャストを上手いことさばいて、斬って、収めまくる。
それゆえに、ハチャメチャ期待が抑えられた感もなくもないが(爆)でも、主人公が抑えられないと何にもならない。
確かにカッコイイ彼氏かもしれない。頼りなさと端正さのバランスが絶妙。
エリ子に横恋慕するジンボさんもなかなか整って入るけど、探偵使って別れさせ屋は、単なるストーカーより、ある意味タチ悪いよねーっ。
どこまでがウワキなのか、キスはダメなのか、一緒に暮らさないまでも、金銭的援助をするとか、うっ、そうなるとお妾じゃん……。
ふと心の中で思っただけでもダメなのかとか、浮気問題が勃発するたび、大なり小なり考え、日本人、日本文化の中に、本能的に隠してしまうような色ごと、それもなまなましい色ごとがあるということに、思い至る。いつだって人生は一代限り。男と女の意識と本能、秘め事ルーツを探っても仕方ない。人生はそのたった一人のためだけの人生だから。★★★★★
でもこれ、2じゃ、ないんだよね。観る前にチラリと資料を眺めたら、あくまで世に出すため、観客の元に届けるため、見てもらうために、そういう体裁にしただけ。
監督も違えば、扱うテーマも違う。勿論動物、ではあるけれど……まあ「1」は観ていないからアレだけど、とにかくこれは、あくまで単独で作られた映画。
監督自身が世に出したい意識をハッキリと持っているのは、取材の第一歩で「『犬と猫と人間と』の飯田監督の弟子なんですけど……」と切り出すところに明確で、なんとも印象的である。
で、この年若い監督さんがナレーションも全篇務めるんだけど、いかにも優しげで、そんな強固な意志で切り込んでいくようには見えない、じゃなくて、聞こえない。
この絶望の世界に連れて行く、ある意味悪魔のささやきのような声なのかも、なんて思う。
先日観た、これは全然関係ない映画でなんだけど、主人公が写真をやってて、でも「使える」と思って撮った写真で友人を傷つけてしまって写真をやめた、というのがあってね、なんか、思い出した。
監督は故郷の惨状を目の当たりにして、カメラを持って行ったにも関わらず、人に話しかけることも出来ない。
でも、その中を尻尾をふりふり走り去っていく白い犬を見かけて、動物を突破口に人に近づけるんじゃないか、取材できるんじゃないか、という“下心があった”と語ってるのね。
で、結果的にそれは見事に成功した訳で、まさに動物たちは「使えた」訳なんだけど、勿論、そんな卑しい思いを本作から感じることなどはない。
「2」なんていうタイトルをつけてほしくないと思うほど、世に、世界に届けたい本作を作るために、導かれた、なんて、そんなことを言ってしまったら大げさ?でもさ……。
それこそ、「使える」と言うならば、私ね、もう心から引き剥がせないワンシーン、ワンカットと言うべきか……があるのだ。
その家の飼い犬が、横倒しになって口を半開きにあけて、息絶えている場面。
それまでにも、ちょっと驚くほど、この震災によって命を落とした動物たちの遺体(というのはヘンかもしれないけど、死体とか、死骸とか、言いたくない)が生々しく写真や映像で描かれるんだけど、あの犬のワンカットが何より強烈だった。
警戒区域に入っては残された動物たちへのえさやりを続けているボランティアの方が、「飼い主に見捨てられて、衰弱して、どんな思いで死んでいったのかって考えると……」と声を詰まらせなくても、そんな“説明”がなくても、心に焦げ付いてしまって、はがせなかった。
私は、猫派だしさ。それこそ本作の中で、猫だって同じく被災しているんだけど、猫は基本、つながれてないじゃない。この作品の中でも、何かたくましさを感じるんだよね……。
まあそれは、多分に楽観的過ぎる見方なのかもしれないけど。それこそ放していた故に、見つからない飼い猫を必死に探し続ける人もいるし。
でも犬は、……その死に様があまりに哀れで。その哀れさは、人間に責があって、というか、彼(彼女)がその人間を責めてはいないからこそ、天から責められている。
仕方ない、仕方ない、戻ってくるつもりだった筈。戻りたくても戻れなかった。あるいは、戻れる機会があったかもしれないけれど、この惨状を見るのが怖くて来れていないのかもしれないとも思う。
でも、あの横倒しの白い犬、きっと生きている時には愛らしかったに違いない様子が目に見える、つながれたまま横倒しになって、口を半開きに開けて死んでしまった犬が、もう、……忘れられないのだ。
先述したけど、本作の中には多くの死が活写される。活写、などという言い方はおかしいだろうか。でも、彼らは生きていたんだから。
“基本つながれている”のもうひとつの悲惨な例は、愛犬、コロスケと共に小学校に避難してきたのに、校内に入れることができず、つなげた外が津波に襲われてコロスケは死んでしまった。
そのことを、悔やんで、悔やんで、悔やみきれない初老の御夫婦、なんである。
誰が悪い訳でもない。ある程度大きな犬は中には入れないで、と言った教師を一概に責められない、などと思うのは、大人の言い分だろうか。
目の前で死なせてしまった“家族”に、たまらない自責の念を感じ続ける彼らが痛ましくてたまらない。
本作の大きなテーマは、犬と猫、あるいはそれ以外の動物たちも、一緒に生活してきた人間たちにとって、かけがえのない家族だということ、なんだよね。
これが、通常の日常、平穏な日本ならば、そうだよね、と皆言ってくれる。ペットロス症候群なんて言葉だって、一般に流布してる。
でも、あの当時の、震災の時には。
“人間の”家族を失った人たちの前で、ウチの犬が、猫が、と言えなかった。“人間の”家族が行方不明の人たちの前で、ウチの犬が、猫が、と言えなかった。
優先順位?そんなもの、ある訳ないのに。暗黙の了解のうちに、出来上がっていた。
当然、行政も、ペットの犠牲数なんて把握してない。言ってしまえば本作が出来上がったのも、色んな角度から震災を検証できる“余裕”が世の中に出来上がったからだ。
でも、カメラを持って監督さんが現地に入ったのは、震災からほどなくしてであり、だからこそあの生々しい画が撮れた。
それこそね、行政は、“経済動物”の犠牲数なら把握している。鶏、豚、牛の類である。本作がそれらに対しても緻密に追っているのには驚かされる。
だって犬猫とは違うじゃん、と思う。でも、“人間と関わっている動物”には違いはないのだ。
そしてこの、“犬猫とは違う”つまり愛玩動物と経済動物の違いを一般的な人たちが持っているからこそ、バッシングが起こる。
あの震災の時の、知った風な人たちのネット荒らし、書き逃げ。
まあ震災じゃなくてもそういう人たちは跋扈している訳だけど、でも震災という、ほとんどの人が未経験で、反論の材料を持たない事態で、それらがどんなにか残酷な爪あとを残したか、想像するにあまりある。
私もちょっとだけ経験したから……そのちょっとだけで、自分でもビックリするぐらい傷ついたから。
彼らがそれにヘコみながらも自分の信念を貫いているのが、言っちゃえば美談的ではあるんだけど、ただただ、ただただ、賞賛の思いしか、なかったのだ。
それこそ牛たちの悲惨な餓死の姿ってのはさ、ネットや海外メディアでも大きく報じられていた。
ある意味、こんなに判りやすいことはなかった。原発によって使い物にならなくなった牛たちを、人間たちが避難してしまったことによって世話することも出来ず、政府の言うがままに殺処分するしかない。
その決定(というか脅迫めいたゴリ押し)がなされるまでにも時間がかかり、牛たちは糞尿にまみれた中で、次々と倒れ、餓死していく。
当然といえば当然ながら、子牛が真っ先に犠牲になる。政府の決定が遅れたために種付けが行われてしまったのも、その事態に拍車をかけた。
小さな牛の頭蓋骨が痛々しく散乱する。石灰をかける処置だけは指示されているのか、一面真っ白な“遺体の散乱”は何か異様で、その一方で、放置されて小バエとウジが無数にたかった遺体のそばに、寄り添うように力なくうずくまっている牛がいる。
「牛が泣くのを初めて知った」と涙を流す牛をカメラに収める。それこそ“使える”画だけれど、それはほんのオマケのように思える。これは、これは……。
いずれ、屠殺されて死ぬ運命だったのだから。そんなのは偽善だとか、判りやすい、しかし悪意に満ちたバッシングが起こる。
私だって、あの場面を見ることがなければそう思っていた、と、思う。……多分。それはつまり、論理的考えを持つことが出来る人間だという、おごりなのだ。
ここで発生する感情はとても単純なのだもの。ボランティアの女性が言う、このひと言に尽きるんだもの。
「ここに来て、その現状を見てもそう言えるのか、聞きたい」
私は単純なのかもしれない。行ってもいないのだから、実際に目にする生々しさ、その匂いとか色んなことを肌身に感じてはいないけど、やはり見てしまうと、「どうせ死ぬ運命なのだから」なんて思える訳がない。
私はバカだから、それを論理的に、それこそ経済学的にとか喝破されたら、反論さえ出来ないだろう。でも、ただ、単純に、思う。助けられるものなら助けたいと。
それはやっぱり……彼らが人間のために、ここで生まれ、ここで生きてきたから、なんだよね。愛玩動物でも、経済動物でも、その根っこのところは一緒だから。
彼らが屠殺される運命であったとしても、そうして食べさせてもらって、ありがとうと言って、まっとうさせるべき命だったのだもの。
ちょっと考えれば判ることなのに、そしてそれは、とても単純な、こんな死に方をする彼らを見ていられないという気持から来るのに、どうして人間はこんなに、こねくり回すようになっちゃったんだろう……。
この牛のシークエンスで出てくる、政府から殺処分を迫られ、それに応じた仲間たちとも相容れなくなる畜産業者の吉沢氏。
彼は「わすれない ふくしま」でもアイコン的に登場した人物で、矢面に立つ、あるいは立たざるを得ないこういう人は、必ずいる、そのことに安堵と、彼がかぶる尋常じゃない過酷さに身震いする。想像を絶するとはこのことだよな、と思う。
「わすれない……」ではそれこそ判りやすく、原発がこうむった牛たち、それを守ろうとする吉沢氏、だった。
本作だって警戒区域に取り残された犬猫から始まって、牛たちの世話もしだすことでつながっていくこなんだけど、スタートが原発ではないから……あくまで震災で被害を受けた動物たち、だから、少し、いや、かなり視点が違う、んだよね。
そこにあるのは同じ命で、“人間の”失われた命に対して臆してしまった最初の視点が貫かれてる。
そう、牛たちの惨状は“使える”画として早くから流布していた。それは、“見える”惨状だった、んだよね。
その画をこの映画以前にそれこそネットで見てしまった私は、衝撃を受けたけど、これは容易に想像しうる“見える惨状”であり、置き去りにされたペットたちの、あの、胸に焦げ付いたままはがれない横倒しの犬の遺体は、そうした想像力が働いて“しまって”、わざわざ分け入らなければ目にすることの出来ない光景なのだ。
確かに“使える”画だけれど、“手っ取り早く使える”画からはこぼれおちてしまった画だ。
そしてそれは、放射能という“見えない”恐怖による産物として、ある。
……あのね、特に去年さ、この画を収めなければクリエイターじゃない、とばかりに津波に根こそぎ奪われた様子を撮る為に作られた数々の“震災映画”にイラッとしたのは、それが、“見える”恐怖だったから、なんだよね。<p>
阪神淡路の時にはこれほど露骨じゃなかったのは、津波がなかったからだった。
原発に関してはハレモノに触るかのように鳴りを潜めていた。
そのテーマでようやく作られたものも、どこかヒステリックでピントがずれていて、真正面からとらえることへの恐れや難しさも感じた。
本作は、その見えない恐怖によって生じた見える恐怖を、分け入って、探し出して、収めていることなのだ。
先述のように、牛舎とか、そりゃ行けば悲惨な状況になってるのは判る。それを収めに行くジャーナリスト、クリエイターも凄いと思うけど、でもやっぱり“手っ取り早く使える”画と情報なのは否めない。
本作の画を収めるためにはその前に人と出会わなきゃいけないし、その人の思いを汲まなきゃいけないし、気持ちが判るとか言葉が通じるとかそんな不遜なことを思うべきではない動物たちに対して、人間と関わってくれた動物たちに対して、感謝と哀悼と懺悔の気持が真実になければいけないんだもの。
……なんか、かなり、私情に走って、いろいろ、いろいろ、とりこぼしがある。
監督が最初に出会った、オスとメスの野良猫の両方にミーちゃんと同じ名前をつけて、えさを与えて可愛がっていたおっちゃんが、監督→NPO団体のお姉さんに説得されて飼い猫として、いや家族として迎え入れることになったくだり。
飼い主の判らない犬猫に面会にくる人々、似ているというだけで連れて帰ろうとする向きに、真摯に、しかし抵抗するNPOのスタッフ。
「飼い主かもしれないけれども……飼い主に虐待されていたかもしれない跡がある」面会に来た人たちを映し出してまで、そんな吐露をさせるから、ヒヤリとした。
面会に来た御夫婦が後に送ってきた写真と見て、やはり違うと判断したと言っても、監督のナレーションは「こうして実際並べてみても、よく判らない」というんだもの!!
団体に持ち込まれる犬猫が、保護されたものたちだけではなく、補助金をパチンコで費やし、ならば猫を飼いなおそうとペットショップで高い猫を購入したのに、三ヶ月で手放したとか。
仮設住宅で暴れて逮捕された男性が飼っていた猫を保護しに行ったら、メチャクチャな部屋の片隅に、慰霊のお供えがあったとか。
行政の立ち入り許可があまりにも遅く、しかも許可時間があまりにも短く、これじゃあっという間すぎて何にも出来ない、しかもその後、そうした許可は一切出ていないとか。
でもやはり、そうしたことは、ある意味判りやすい要素なんだよね。
そういう意味ではちょっと、盛り込みすぎと思えなくもない。意欲は凄く感じるけど、コアの部分が凄くぎゅっと凝縮されているから、もったいない気もする。
最後に据えられた、失われた小さな命たちをイラストレーターたちが絵に仕立てた絵画展にしても、とても意義あることだし、素晴らしいと思うけど、本作の凄さは、あるべき位置は、今になってようやく言えることは、同等の苦しみ悲しみ悲惨さであるということなんだ。そう、思う。★★★★☆