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「ふ」


2013年鑑賞作品

ファの豆腐
2011年 40分 日本 カラー
監督:久万真路 脚本:本調有香
撮影:大塚亮 音楽:畑中正人
出演:菊池亜希子 塩見三省 三浦誠己 瀬能礼子 ともさと衣 須藤偉生 千葉ペイトン


2013/3/12/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
「冬の日」との二本立てでの今回の企画はニューカマーと思っていたが、二本とも監督さんはそれなりの年齢とキャリアで、現場経験が豊富でも監督作品を撮るチャンスってやっぱり難しいのだな、と思う。

一本目のこれは、尺よりもいい意味での長さを感じる、静謐な一本。いい意味での長さとはなんぞや、うーん、上手く言えないけど、この中でドラマティックを追求することなく、かといって小さく大きくヒロインは揺らぎ、波はあり、しかし時間の流れが一本につながって感じられる、“いい意味での長さ”。
こういう静謐な時間の流れはいかにも、日本映画のあるひとつの流れであると思う。何も起きていないかのように静謐に流れているけれど、流れ着いた先には、何かが違って見える。

ヒロインの菊池亜希子嬢、一目で「森崎書店の日々」のあの女の子かと、思い出した。役者さんの顔と名前をなかなか覚えられない私にしては、珍しいことである。
その後、「わが母の記」なんて大メジャーにメインキャストとして出ているのに、その時には気づいてないんだもの(爆)。

あの作品と、静謐な印象が似ていたからかもしれない。本作の企画テーマである“白い息”が、そのまま彼女そのもののような静謐さ。 冬の豆腐屋の早朝、水を張った中からそろりと豆腐を取り出す彼女の手から、切れるような冷たさが伝わってくる。
混ざり毛糸のマフラーを巻いて水色ののぼりを立てて、自転車に乗って外売りに出る。今ではすっかり聞かなくなってしまった豆腐屋のラッパの音が、彼女はちょっとヘタクソで、二音めの吸う音が、ファ、と止まってしまう。

このタイトルは恐らくそこから来ているんだと思うんだけど……ラストで常連さんの幼い男の子が買いに来る、「ファの豆腐ください」と。
でもそれまではそんなこと、全然言ってなかったから、タイトルの意味も??だったし、んん?と。だからこの推測が当たっているかどうか、自信ないなあ。

父親と二人暮らし。「炒め物が一番カンタン」という、それとお味噌汁とご飯だけの質素な夕食。
「明日、リサイクルショップが来るから」と、一人暮らしの最後の荷物であった冷蔵庫を売ることを告げる。置いておいてもいいんだぞ、と父親。「失業保険も切れるし」売れるんなら、と思ったら、彼女の手のひらに残されたのは500円玉ひとつきり。

どういう経緯で彼女が、実家であるこの豆腐屋に戻ってきたのか明らかにはされないし、後半、彼女が男にフラれたイラつきもあって吐露する思いもそんなに切実に迫ってくる訳でも、ないんだよね。
給食から外されて、いよいよ店を畳もうかと思っていた。だけど続けたのは、お前が続けてほしいと言ったからだ、と。決して父親は責める口調ではなく、むしろ娘であるお前の言うことは聞くから、という慈愛に満ちている。
一方でその娘の吐露は、正直にわかには思い出せないほど(スミマセン……)あまり切迫感がなく、ただ、働けるところがなかった、ここなら働けるからと思った、ぐらいなニュアンスしか伝わらなかった、のは、うーむ、きっと私があんまり真剣に聞いてなかったせいかもしれない(爆)。

まあ、つーか、中盤は、ちょっとした恋模様、なんである。でもそれも、とても淡々としている。
公園でラッパを吹き鳴らしていた彼女にふふっと笑ったベンチの男。見交わした目線で、知ってる間柄なんだな、と判る。
後にそれが“布団屋の息子”であり、“商売は左前だけど、アパートを沢山持ってるから”裕福であり、“外国に旅行ばかりしてフラフラしている”ヤツだということが知れるんである。

彼は彼女にハーモニカを教えてくれる。いや、教えてくれたのは結局は、父親だったか。
彼がくれたハーモニカを不器用に練習していた娘からふと取り上げて、軽快に「聖者の行進」を吹き鳴らす父親は、その無骨な職人のいでたちからは想像しにくいけれど、そうした若き青春の過去を持っているのだろう、きっと。

この布団屋の息子と、彼女は関係を持つ。今一瞬、恋に落ちる、と書きそうになったけど、少なくとも彼の方は恋ではなかったし、彼女の方も……どうだったんだろう。
彼女の風合い(ヘンな言い方だけど、なんかそんな感じがする)は、なんかとても頼りないんだよね。先述したけど、この豆腐屋を一応継ぐという形で働いている姿も、売り歩く様子も、それこそラッパの音も、全てが頼りない。
彼女が最初に立ち寄るお得意さん、ブロック塀の向こうのガラス戸をガラリと開けて、鍋を差し出し、受け取る時には決まって、「昔の方が美味しかったね。まあいいけど」と言うおばあちゃん、その台詞にも、はあ、と応えるだけ。

彼女は、全てが変わらないと思っていたのかもしれない。いや、そんな強い思いじゃなくって、変わった時に、だから呆然としたのかもしれない。
いい意味で長い、と言ってしまったけれど、この時間のゆるやかな流れは、そんな残酷さがある。変わらないと思ってる訳じゃないけど、変わっていることに気付くと呆然としてしまう、みたいな……。

この布団屋のお兄ちゃんと再会した前だったか後だったか、忘れちゃったんだけど(ここ忘れちゃうの、かなり重要な部分と思うんだけど(汗)、彼女がうーんと伸びをした時に、ん?と思って、自室に帰ってシャツの下からブラジャーを取り出すのね。紐が切れてて、あぁ……と声をもらす。
学校時代に支給されたと思しき(だって覚えあるもんなー)ようなクリーム色のプラスチックの裁縫箱を取り出し、ちくちく修繕する。ちょっとした物悲しさを感じる場面である。

その後、布団屋の息子と再会して、彼の部屋のベッドに潜り込んで着衣を脱ぎ捨てる……あ、その時には、そうか、古いブラジャーだった。それを脱いだ衣服を乗せて隠してた。
そしてその後、自転車に乗って、橋を渡って、綺麗なお菓子が入ってるみたいな小さなギフトバックに入ったブラジャーを買って帰ったんだ。淡いピンクのレースの、乙女なブラジャー。

彼からもらったハーモニカを練習して、淡々とした生活が桃色に染まりそうだったのに、ある日訪ねた部屋に彼はおらず、ドアノブに豆腐を下げて帰ったら、その後会った彼につき返された。もう会えない。カノジョが帰ってきた。楽しかったよ、ありがとう、と。
彼が彼女に、恋人の存在を明かしていたのかどうかは判らないけど、呆然と取り残された彼女が、豆腐をつき返されたことにこそショックを受けていたことが、後になってみればなかなか爽快に思われた。

数少ないお得意さんのおばあちゃんが入院してしまって、買ってくれなくなって、「昔の方が美味しかった」と言われた意味を初めて考えて、父親にぶつけた。
手を抜いてる訳じゃない。でも今では、普通に美味しい豆腐を、どこでも安く買える。そう言いながらも父親は「昔使ってた豆をもう一度取り寄せてみるよ……値段は上がるけどな」と笑った。涙を浮かべて、笑った。娘も、笑った。

……といった、いわゆる展開的なことは、実際は割とどーでもいいような気がしてる。二本目の作品は“白い息”が映える冬であることも、映画としてドラマチックに展開することも腐心していたように思えるけれど、本作は、割と、雰囲気重視みたいなところがある気もする。
キーポイントとなる情景描写、台詞、何よりこの、冬のわかりやすいアイテムである雪もない中で、寒々とした、“白い息”の雰囲気をただよわせること。

ヒロインの菊池亜希子嬢はまさにそれを体現してて、彼女のたたずまいを見ているだけで両手に息を吹きかけたくなる。早朝の豆腐屋、水の中から取り出す豆腐、混ざり毛糸のマフラー、のぼりをはためかせて走る自転車、赤いほっぺの子供がおまけのおからを「お母さんがこれでクッキー作るから」と所望する、これだけでいいと、思っちゃう。★★★☆☆


フィギュアなあなた
2013年 112分 日本 カラー
監督:石井隆 脚本:石井隆
撮影:佐々木原保志 山本圭昭 音楽:安川午朗
出演:柄本佑 佐々木心音 風間ルミ 桜木梨奈 間宮夕貴 壇蜜 伊藤洋三郎 山口祥行 飯島大介 竹中直人

2013/6/25/火 劇場(池袋シネマ・ロサ)
最近作を観てなかったせいか、えらく久しぶりな感じがする石井隆作品。この題材がいかにも石井作品チックと思うのはヤハリ、彼が劇画家であった過去があるからかなあ。
漫画家というより、劇画家というイメージ。なーんて言って、読んだことはないんだけどさ、自分の描いた原作を元に作り出す作品世界が、劇画チックだからそう思うのだろうか。
肉欲なんだけど情欲みたいな感じとか、昼より夜の闇の中に跋扈する、つまり昼日中にマトモに顔をさらして歩いていない男たち、女たちとか、そんなイメージがあるからかもしれない。

とはいえ、主人公は昼日中をさまよいあるくサラリーマン男子である。とはいえあっという間にクビ(というか、辞職への誘い水というか)になり、その闇の世界に転落していくんだけど。
とある出版社の編集部に勤める主人公の健太郎が、パワハラ上司に無理難題を押し付けられて、失敗企画の責任を全部負ってしまった。

ということが冒頭、彼がやり込められる会議で示されるけれど、果たして本当にその上司や、この悲劇に見舞われた健太郎を見て見ぬふり、どころか薄ら笑いで見捨ててしまう同僚たちが悪いのか。
この上司が言うように、どんな企画でも成り立たせることが、編集者としての腕だというのは、至極まっとうな理論で、彼を薄ら笑いで見ている同僚たちも、つまりは彼の能ナシを呆れているのかもしれず……。

なんて、能ナシ女が勝手なこと言ってるけど(爆)。でもその後、彼が運命の女、ならぬ、運命のフィギュアに出会ってからの、いや、出会う前からだけど、その人物像をじっくり追っていくと、やっぱりそんな気がしなくもない(爆)。
でもだからこそ、なんだよなあ。健太郎を演じる柄本佑君は、普通の男の子の持つ根拠のない自信や、他人や他の要素に原因を求める弱さや、つまりそれは、自分の無能に向き合いたくない、というより気づかない傲慢さ、若さゆえの無自覚な自信、みたいなものをリアルに見せてくれるんだよね。
いや、彼自身はとっても能力のある役者さんだけれども(汗)、だからこそ、か。

こんな私にも覚えがあるけれど、若い頃って、根拠のない自信、悪いことは社会や他人のせい、みたいなところ、あったもんなあ(汗汗)。
健太郎がね、憧れの編集部から総務に異動になって、いたたまれなくて(ってあたりは、年くったらなんでもないことなんだろうけどなあ)辞めてからも、転職先に出版社ばかりを当たり、軒並み落とされることに「もうブラックリスト回ってるのかなあ」などと言うのにヒヤリとしてしまう。いやいやいや、多分、キミはそこまでの人物じゃないよ、と。

て、ことを彼が話しかけてるのは運命の“フィギュア”心音ちゃん。
心の音と書いて、ここねちゃん。劇中、心音がない彼女に対し、健太郎がそう命名するんだけれど、演じる彼女自身の名前であり、石井監督の執着ぶりが明らかである。

彼女と出会ったのは、くだんの出来事があって、健太郎が荒れに荒れまくって、ストリップかなんかに迷い込んだのが始まり。
酔って暴れて追い出され、店の外でハデ女子をつれた腕っぷしの強いオニイ(FTMね)にボッコボコにされてしまうんである。

なおも追うこのオニイ=よっちゃんから逃れて迷い込んだ廃墟ビルが運命の場所だった。
積み上げられたバラバラ死体のようなマネキンの中に、完全体である彼女は、いた。
他のマネキンと違って皮膚は柔らかく、一本一本生えているかのようなアンダーヘアーもくっきりとしていて、それでなくてもフィギュアフリークの健太郎は目を見張る。

そう、彼の部屋にはエロ系のフィギュアがたくさんあるのね。だから彼がまず注目したのが、この超リアルフィギュアが履いているのが、フィギュアに装着された下着ではなく、本物の下着をつけられていることだったりする。
詳細にこのフィギュア美少女を観察していく健太郎。下の穴がないことを確認して、やっぱりフィギュアか、とほっとしたようなちょっと失望したような、ためいきをもらすのが可笑しい。

後に人間の女の子そのもののように反応し、若さあふれるセックスを繰り広げるこの心音ちゃん。これが案外、若い男の子と若い女の子のこうした場面って、映画でなかなか実現することがなく、なんかおばちゃん、ドキドキしてしまうんである。
若い男子が、しかも売れ線の子が、こういうことガッツリやってくれるっていうのは、案外珍しいように思う。
しかも佑君は、決してイケメン役者などではなく(爆。場合によってはとっても色っぽいと思うけどね!)その普通さを、ネガをたっぷり含めた市井の男子を体現できる役者さんだからさ、なんかメッチャ生々しくて、ドキドキしちゃう。

この心音ちゃんは、どこまでが彼の妄想だったんだろう。フィギュアを演じるっていうのは、簡単そうで難しいだろうし、彼女がぴたりと動かないのに、おなかの呼吸はめっちゃ見えている場面なんかだと、これは演出として意図的なのか、それともそこまで耐えきれなかったんだろうか、などとすんごい考えてしまった……。
だってね、やっぱりこういう難しいキャラ設定だから、結構カット割って、つい動いちゃうとかいうのを見せないように逃がしてるから、じゃあ、観客に気づかれるほどの呼吸とかは、あえて見せている、意味があるのかなと思ったり……。
でも、それが明確に見える場面は別にあったりすると、じゃあ、これはウッカリなのかなとか、なんかぐるぐる考えちゃう(爆)。困ったなあ。

だからという訳じゃないんだけど、今回だけではこの心音ちゃん、佐々木心音の真価がイマイチ判らない。
石井監督は本作にもちゃっかり登場させた壇蜜嬢を次回作のヒロインに迎えているし、予告編的には檀蜜にこそエロ芝居をがっつりやらせてるから、この心音ちゃんに対してはなんか気を使ってるというか、期待してない訳じゃないだろうけど(爆)、まあなんかちょっと、微妙な感じ。
あくまで主人公は佑君で、彼が心音ちゃんを女神と仰ぎ、マトモに働くより彼女のお告げで雀荘で一発勝負にかけてみたり、なんかそんな、運命の女のために堕ちていく男子を、どこかコミカルに、いとおしく、同情と慈しみに満ちた視線で描いている、というのが本作の本質なのかなあ、って。

正直、ね。心音ちゃんと出会う場面で、ヤクだのヤクザ(というより、そこからこぼれ落ちたチンピラ)だの絡んで、殺し合いの凄惨な場面になったりしてさ。
いやそもそも、この不自然なほどにしつこく追いかけてくる(爆。だって、やっぱりちょっと、不自然な気がするなあ……)よっちゃんとその彼女の二人にしたって、なんかあんまり必要性を感じない(爆)。

いや女子的にはね、女子は単純だから(言い訳に女子を貶めるのはサイテーかも……)、フィギュアエロ美少女とうだつのあがらないダサ男子のピュアラブを見たかっただけなのよ。
まあこれがそうじゃんと言われればそうかもしれんが、ヤクだのチンピラだの女子はあんまり興味ない(爆)。
結局は夢オチ?みたいな経過もあって、なんか余計にガッカリしちゃうんだよなあ。

それともこのオニイカップルの登場は、そのカノジョの方がカラミ要員?てゆーか、そんな条件はこの作品には必要ないと思うけど……。
こういう闇映画ではある程度は必須だとは思うけど、どんなイケイケ姉ちゃんでもレイプシーンはやっぱりあんまり見たくないなあ……。
しかもなんつーか表現が(体位が(爆))ロコツで、目の前で恋人が殺されてるシチュエイションで、なんていうの、それこそ劇画チックだけど。
このあたりが、ある意味衆目の元にさらされる映画作品になった場合の取捨選択として、難しいあたりのような気がする。つーか、今更言うか、私がそんなこと(汗)。

まあだからさ、私はきっと、純愛が見たかったのさ、恥ずかしながら(爆爆)。
この惨事から一晩たって、「行くところがないんだろ」と心音ちゃんを廃墟ビルから運び出す健太郎。ここからはある程度、私の好きな純愛モードになってくれる。

危機一髪のところを、突然命が吹き込まれて、無敵サイボーグとなって敵を次々倒してくれた心音ちゃん。この超リアルなフィギュアだって夢のような存在なのに、一体どこまでがホントだったのか……。
死体もヤクも消え失せた明るい朝の光の中で、健太郎は判然としないままながらも、彼女をうんしょと運び出す。

等身大フィギュアである心音ちゃんは、だからこそ動かすのも一苦労で、そうしたエピソードの数々は、これはやはり映画として、実際に人間が動く映像として見る醍醐味がある。
だって、たっぷりと重たいおっぱいを携え、すらりと手足の長い肢体の心音ちゃんは、きわめて普通男子の健太郎=祐君には手に余るんだもの。

じっと手足を投げ出して座っている心音ちゃんに弁当を用意したり、めっちゃ大人のおにんぎょさん遊びで、ちょっといいなあ、と思う(爆)。
何よりイイのは、狭いお風呂場で苦労しながらも、丁寧に、慈しむように、何よりエロく、心音ちゃんの肢体を洗う場面。
フィギュアだから、自身で立っててくれないから、前後に倒れそうになる彼女のバランスをとるのに苦労しながら、でも実に丁寧に、慈しみ、エロく、洗い上げる。
女子的にも何ともうずいてしまう(恥)名シーンである。生身の女子にもこれだけやってくれるのか、大いに疑問だよなーっ。

これがあるから、やっぱり、アレとは違うかもしれない。アレとはなんぞや?本作に接して即座に頭に浮かんだ「空気人形」である。
いや、女の子が実はロボットとか、アンドロイドだとか、そういう設定は結構いろいろあるし、殊更にこれを持ってくるのは良くないかなとは思う……なんたって本作は、原作が既に20年前に監督によって描かれたものなんだから。

でも「空気人形」が、ペ・ドゥナが、あまりに可愛かったからさあ……。
そらま本作はヘアもカラミもふんだんだし、おっぱいだってとっても立派でエロだけれど、純愛が見たいと思うと、彼女が“人形”のままでは、なかなか難しい。
心音ちゃんだって喋るし動くし、セックスだってするけど、基本的には健太郎の妄想の中って感じだし、まあ、だからこそ、もの悲しい魅力があるんだけど。

あ、そうか。「空気人形」はその人形の、女の子の恋を描いていて、本作は男の子の恋を描いているんだから、全然違って当然、なのか。
どこまでが本当でどこからが妄想か判らない、っていうのは、もう言っちゃえば、全部が彼の妄想と言ったって構わないぐらいなのかもしれない。

恋は盲目だから、って、それは違うか!いや、違わないかも。案外、違わないかも。
心音ちゃんに言われて絶対ムリな奇跡の手で雀荘で勝って大金を手にする、クライマックスのシーンでも(これがクライマックスってところが、もの悲しいんだよね。すんごいスリリングだったけど、だからこそ余計に……)、彼の妄想で、フィギュアに、つまり人形に言われたということになると、なんか本当に、もの悲しいんだもの……。

どこまでが本当かとか、本作自体、示してはいないと思う。結末は、これまで登場した会社の上司や同僚、ストリッパーの壇蜜嬢、殺し合いを演じたオニイと彼女、チンピラさんあたりは血だらけで登場、そのシーンは健太郎と心音ちゃんの結婚式。
彼の住んでるおんぼろアパートの屋上で、華やかな衣装をみんな身に着けているのに、夜の闇の中、誰も気づかないおんぼろアパートの屋上、という、妄想中の妄想の悲哀、なんである。

ていうか、そうそう、最も大事な部分を落としちゃいけない。心音ちゃんのアドバイスで、奇跡の手で大勝ちした雀荘から、「大切な女が待っているんです!」と叫ぶとおっちゃんたちからあたたかく送り出されるなんて奇跡つきで、走り出した健太郎。
まー、この時点でこりゃ無事に着ける訳ねーなと思ったが、案の定。でも、時間差、トリックありありで、なんかズルい気がする(爆)。
結果的には、彼は車にはねられて、死んでしまったんだと思う。かばった相手は、心音ちゃんにソックリの、しかし一見してそうと判らないほどのイメージの違う……OLさんって風情の、女の子だった。

ここに来て思い出す。あの山積みにされたマネキンたちに、オニイのハデ彼女が、かつて一緒にバイトしてた誰々さんやら、誰々ちゃんにソックリ!とはしゃいでた。
で、健太郎の妄想だかリアルだか判んない中で、殺されていったチンピラどもはそんな、“死体フィギュア”になっていって……。

死んだらフィギュアになってしまうのか。誰かが見つけてくれたら、息を吹き返せるのか。あのラストは、心音ちゃんが健太郎にかばわれて生き返ったのか。
部屋に帰ったら心音ちゃんがいなくって、焦って探しに出たら、屋上で、雨が降りしきるなか、心音ちゃんがピアノを弾いている。
ピアノ?オルガン?電子ピアノ……と言っちゃうと、なんか寂しいよなあ……どこから電源取ってるの、とか言いたくなっちゃうし。

で、チュチュ姿の心音ちゃんがまんまワイヤーワークで空へと舞い上がる。こういう企画だからとはいえ、見上げた彼女のヘア具合ばかりが気になってしまうのは美しくなくて、女子的にはあんまり、なあ。
まあでも本作が、ひたすら彼女の秘部を確かめる(彼女のみならず、壇蜜嬢が登場するストリップバーにおいても)ことに重きをおいてるから仕方ないのか……でも美しくないよな……。

なんか久しぶりにメッチャ客層が偏ってて(爆)ひるんでしまった。見事にいかにもな一人のオジサンばっかり……(いや、私だって一人のオバサンだが(爆))。
ピンクが一般劇場にかかる時だって、こんなに偏ってなかったぞ。人気グラビアアイドル、佐々木心音嬢の力なんだろうけれど……。石井監督作品なのに!なんか、もったいなーい!!★★★☆☆


WHO IS THAT MAN!? あの男は誰だ!?
2013年 88分 日本 カラー
監督:沖島勲 脚本:沖島勲
撮影:四宮秀俊 音楽:宇波拓
出演:蒲田哲 内木英二 黒澤正義 石塚義高 植松敦巳 外波山文明 愛奏 中原翔子 岡村多加江 井上カオリ ほたる 古川真司

2013/10/25/金 劇場(ポレポレ東中野)
後から、そういえば子供の影が全く見えないな……と思ったら、ちょっと腑に落ちる気もした。つまり全然腑に落ちなくて困ってたというか(爆)。
どうやら近未来らしい。役立たずの男たちがどんどん排他される法案が次々と成立、その“役立たず”は性不能、つまり女を喜ばすことが出来てない、ということがメインの理由。
女たちは第二、第三の夫を持つことができ、駆逐された夫たちは妻を喜ばすことが出来なかったための賠償金まで迫られる事態。

そんな近未来は、“自由民主共産” あっかんべぇー”政権から、“お前等アホちゃうか”政権、“何さらしとんねん”政権とどんどん変わっていき、そのたびに、妻が持つことができる夫の人数が一気に引き上げられたり、20歳になるまでに結婚していない男は奴隷になる法案を用意していたりと、男にとって過酷な世の中になっていく……。

この政権名にまずかなりのドン引きで(汗)、解説でちらりと目にした時はそれだけで観る気も失せたが(汗汗)、うーん、なんだろう、なんか妙に背中がぞわぞわする恥ずかしさ。
この監督さんは何となく名前を見たことある、のは、ピンクにも関わっているからか、私、作品観てるのかな?日本昔ばなしの脚本家だったというのはこれまた凄い経歴だが、そのあたりからこーゆー破天荒なネーミングセンスが出てくるんだろうか……。

この政権名からも何となく想像されるけど、なんというか、オオサカテイストである。駆逐されていく夫どもがなぜか関西弁になっていく、というのを、彼らを取材する新聞記者が興味深くメモったりしている。
何でもかんでも“コンピーター”で制御される世の中が許せない!と吠える初老の男性に、「コンピーター」とこれまたメモったりする。
この制度は男たちの人格を破壊するらしい、的な展開なんだけど、こういうちょっとした部分、本来ならギャグ的に笑わせにきているんであろう部分が、う、うう、笑えない。なんかサムすぎるんだよう。

……まあそれは、個人的感覚の好き嫌いの問題であろうが。多分私、ちょっと西が苦手なのかも、ちょっとね。
うー、でもここはどこという訳でもないというか、少なくともそれこそ関西ではなさそう、東京、というにも何となく片田舎。近未来だからというんでもないんだけど、時間がすっかり止まっているようにさえ見える。
そう、それこそさ、政権がまた交代しましたよ、とか、今度はこんな法案が通りましたよ、みたいなことを言うんだけど、その会話がなされるのはしんと静まり返った児童公園かなんかで、男たちが数人集まって、粗末な食事をして、ペットボトルの水を分け合ったりしている。
世の中の流れなんて見えない、ていうか、世の中が流れているかどうかさえ判然としない。政権なんてことが動いているのかさえ。

そう、とりあえず出てくるのは初老の男ばかり。後半、その男たちをキックアウトした女たちも出てくるけど、女たちに、というかこの世界に駆逐された男たちが微妙に増えていって、途中一人死んじゃったりもして減ったりして、そんな具合に、男のむなしい井戸端会議、といった雰囲気なんである。
それぞれの事情が断続的に語られる。弁護士同士の夫婦で、この問題で裁判になって妻に負けた男。
売れっ子テレビディレクターだったのが、仕事をかけ持ちしているうちに、仕事も頭もごちゃごちゃになっちゃって、その間に妻は若いADをこの政権下で合法の元に連れ込んでいた。「一か月も家を空けてちゃ、そりゃしょうがないですよ」と集まった男たちに口をそろえて言われる。
男たちはそれぞれ、年齢やなんかを加味された、年間何回というセックスのノルマを課せられているんである。

それこそひと昔か、ふた昔前ならば、仕事で帰ってこれない男、なんてのはよくある話で、よくあるどころか、それをステイタスにするようなところがあった訳で。
まあ、今から思うとバカげているけれど、つまりそれで家庭が、あるいは夫婦間が成立してしまう世の中だった、のは、男が稼いで食わせてやってんだ、という価値観が大手を振って横行していたから、なんだよな。
本作にどことなく居心地の悪さを感じるのは、もうそんなことが通用しない世の中になって随分と経つのに、それを大きく振りかぶって大テーマにしてるからなのかもしれない。それこそ女にとっては今更な感。

さらに言えば、8人も男をくわえこみたいなんて女がそうそういるとも思えないけどねー。これって男の願望をそのまま女に当てはめてるだけのような気がして仕方ない。
いや別に、純真ぶってる訳じゃないスよ。そうじゃなくて、そんなのめんどくさいじゃん(爆)、一人だってもてあますぐらいなのに(爆爆)。
確かに女は恋するイキモノだが、別にそれは身体と時間を割かなくてもいーの。脳内恋愛が楽しいんだからさー。
セックスで満たされないから、というのだって、まあなくはないだろうけど、近未来の設定で、ようやく女が上位に立てるっていうんで、コレかよ、という気もしてる。なんか軽く見られてるよな、アンタらとは違うよ、と言いたい気持ち。

……ヤだな、なんか、私、フェミニズム全開(爆)。こんなん、さらりとコメディーとして受け取ればいいのに、ついイラッとしてしまう、クサレ女(爆爆)。
まあ確かに、痛快と受け取ればいいのかもしれない。不倫だの愛人だの、再婚するのも親子ほどの若い女だの、なんか好き放題してる男社会に同じだけ反撃してると思えばいいのかもしれない。
でも、つまりそーゆー具合に自分のそばにラブラブでいてくれる女がいないと自身が保てない男とは、女は違うのよッ。不倫相手になってる女も、超年上の男と結婚する女も、自分のアイデンティティをしっかり守った上で、というか、守れる相手だからこそ、そういう立場を選んでいると思う。
まあそりゃ不倫は良くないけど、そういう男と女の双方の打算というか、妥協に、お互い目をつぶって、ことに日本社会においては運営されてきてる訳だからさあ。

で、なんかかなり前に言ったからうっかり忘れそうになりそうだったけど(爆)、そう、子供の影がいないんだよね。
それこそ不倫だの愛人だのだったら、もうそれは不可欠な要素じゃない。正当な立場を得るための要素、だなんて言っちゃったら色々問題あるけど(爆)、でも、それこそ正妻と愛人のバトルでは絶対そういう話になる。
でも、いわば男女の立場が逆転したこの近未来の世界では、ちっとも子供の影が見えない訳。

……これは意図的なことなんだろうか……。

夫婦間、のみならず、男女間のセックスの先には、当然子供という問題がある筈。ことに、夫が妻から性的不能によって駆逐されるなんていうテーマなら、なおさらじゃないかと思うのに、ちっとも出てこない。
初老の夫婦に子供がいない、まあ、いない夫婦もあるだろうけれど、でもまるで語られないのは不自然で、つまりこれは、そういう“近未来”ということなのだろーかとか、思ってしまう。

子はかすがい、そんな言葉が失われてしまったのだろうかと。子供が生まれない社会、社会どころか国家、あるいは世界、それは未来がない、ということ。近未来なのに、未来がない、ということ。
不妊は妻側ではなく、夫の精子の弱さによるものだという事例が増えている昨今、つまりそれだけ男子の生命力が失われている昨今……子供をなすことが出来ないなら、夫婦間のセックスは、つまり男の価値観は、女を喜ばすことにある、と??

うーむ、でもさでもさ、でもさー、ついフェミニズム女はまたつつきたくなっちゃう。セックスは男が女を喜ばすことなんですかあ??などと……。
こーゆーつまんないこと言い出しちゃったらホントもうどーしよーもないのだが。でもまあ、男ばかりが欲望を満たして、つまり喜んでばかりだったから、という自戒なのか??

でもさ、結構この、セックスにおいて「男が女を喜ばしてやってる」みたいなことって、聞くよなあ。いまだに、さあ、こんなマッチョな考えが横行し、その元にこんな映画がつくられちゃうこと自体に、ちょっとイライラしてるのかも、私(爆)。
夫が妻を満足させられないから、妻が二人目、三人目の夫を持つことが許される、そんな近未来は一見、女が君臨する世界のように見えるけど、その前提は大いなる誤解が含まれたマッチョな価値観だと思うんだけどなあ。
しかもこんな、未来がない中で。希望がなさ過ぎて涙が出ちゃう。

……と、大分不毛な議論になって脱線しまくってしまいましたが(爆)。
で、そうそう、いろんな男たちがいる訳。最初に印象に残るのは、若い妻と、その浮気相手から、「お前はゼロだ」と断じられて、田舎道にほっぽり出される絵描きの男。
クズだの役立たずだのとは言われるが、「ゼロというのは初めて聞いた」と、ジャーナリストは興味深げにメモする。
民家に入り込んで生イモなぞかじっているところを通報され、なんだっけ、何か、人間じゃないみたいな、ヒドいこと言われてたんだよな。
入り込んでるんで、つかまえてくださいとか、まるでネズミか何かみたいに、しかも淡々と言われてさ。妻を喜ばすことが出来なくなった男が、人間ですらなくなってしまうという、ツカミとしては充分衝撃的なオープニング。

妻の浮気現場に踏み込んだものの、「ヴァギナ様の喜びを中断させた罪」で、警官にヒモでつながれて引きずり回されている初老の男。ヴァギナ様、というその異様な表現に、男たちが一音ずつ区切って、サイレントで繰り返す。
笑えそうで笑えない、のは、女のセックスの喜びを“ヴァギナ様”一言で終わらせちゃったこと、だよなー。そらー、“女を喜ばせられない”さあ。男はそりゃあ、“チンポ様”一言で終わらせられるのかもしれんがよ。

……うーむ、なんかどんどん、ドツボにはまってるな……別にセックス談義をしたい訳じゃ、ないんだけど(汗)。
これはあくまで、コメディ、社会派コメディ、ブラックコメディであるとは思うんだけど。でもそれなら余計に、そーゆー繊細なトコって、重要だと思うんだけどなー!!

新しい夫たちに妻をとられた男たちの中に、妻が迎えた新しい夫たちが、次々死んでいって、つまり次々新しい夫を妻が迎えている、というケースがあるんである。
なんかさ、こーゆー描写って、昔から、あるよね。性欲ムンムンの女にからめとられて死んでいく若いツバメたち、みたいな。
そーいやー、この物語の最後に、女子学生に取り囲まれた大学教授が、「手を出さないのが、逆セクハラだ」とゆー、とんでもない判決出されて島流しにされる。
年頃の若い女の子たちだから、「ムンムン、ムラムラですよ。でも私はガマンしたんですよ」という結果がコレなんである。
現代の島流しだから、国境争いしてる危ない孤島への島流しで、この教授は、ここで討ち死にする覚悟でいるんである。

年頃の若い女の子たちは、ムンムン、ムラムラ……そんな手当たり次第に性欲発散するか……てなところでイラッときてたら、それこそお色気コメディーなんて作れないが、こうして言葉だけで、若い女の子はムンムン、ムラムラとか言われると、やっぱりなんだかガッカリしちゃう。
まあ、ね。本作はある意味ストイックと言えるほどに、男の主張、その哀れさ、それこそ近未来にはこうなるかもしれない、ということを示していると言えるのかもしれない。でも……なんか、しっくりこない。寓話と素直に受け取れない。

ああ、そうそう、それこそ寓話っぽいシークエンス、あったよね。「酒が飲めるぞー」とポンコツ楽隊が練り歩く。浮浪者のような、そうでもないような。
なぜこうして歌っているのか、金がもらえる訳でもないだろうと問うと、彼らは言うのだ。「神様が見ているから」と。思わず天を仰ぐ男。
なんだろう、なんだろう……こうやって人間は宗教にハマっていくということなんだろうか??判らないけれど……。

なんか妙に、重要度っぽいオーラを放つシークエンスだったが、ここも含め、とにかくとにかく、ちょっと年いった男たちばかり。
女の描写は彼らの哀れっぽい語りの中だけ、そして先述したけど、子供の影も形もない。
このゆがんだ感じが、きちんと意識された構成なのだとしたら、凄く意味があると思うけれど、どうなんだろう……。正直、延々とグチを聞かされているような気がしないでもない(爆)。

最後に、捨てられた男たちを憐れむ側だった筈の新聞記者の男が、彼もまた奥さんに捨てられて、呆然と駅のホームに立つ。
ぐらぐらと揺れる。明らかに別撮りの、寄せては返す海のシーン、津波が来る予感を感じさせる。
……あれ?これは、解説上は、震災後の近未来、なんじゃなかったっけ??……てゆーか、そうか、それならばこれは、これもまた、震災映画なのかとこの期に及んで思い、そのスタンスでこの映画を考えてみたら、……こりゃイチからやり直しだ、とも思う。
その場合、この映画の中の女は、崇められているのか、それともさげすまれているのか??それは同様に、男も、子供も、年老いた者たちも、あらゆる者たちも。

ところでこのタイトル、劇中、一人の初老の男が、妄想のように見る男に呼びかけるシークエンス、そこで記者がご同様に「急に英語……」とつぶやいてメモるんだけれども、つまりこれって、タイトルになるだけのこれって、つまり、……なんだったんだろう……。
確かに意味深だし、タイトルにするとますます意味深だけど、つまりは……。
なんだろう、何か、哲学的な意味?あの男、は、自分自身?ドッペル的な??アイデンティティを追い求める哀しき男たち??……そんな掘り下げるだけ無意味な気もしてしまうけど……(爆)。★★☆☆☆


舟を編む
2013年 133分 日本 カラー
監督:石井裕也 脚本:渡辺謙作
撮影:藤澤順一 音楽:渡邊崇
出演:松田龍平 宮崎あおい オダギリジョー 黒木華 渡辺美佐子 池脇千鶴 鶴見辰吾 伊佐山ひろ子 八千草薫 小林薫 加藤剛 宇野祥平 森岡龍 又吉直樹 斎藤嘉樹 波岡一喜 麻生久美子

2013/4/16/火 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
これって確か、最近の新鋭監督さんが抜擢されたんだよなあ、と頭の片隅でそれを思い出そう思い出そうとしながら、思い出せないまま最後まで行ってしまった。監督、石井裕也と出て、そうだそうだ!と。
彼がまごうことなき才人であることは疑う余地のないところだけれど、正直なところを言うと商業デビューの「川の底からこんにちは」のインパクトが強すぎて、第二作第三作も良かったんだけれど、ちょっと拾われてない感じがしてた。

それに、それこそその最初のインパクトがプレッシャーになっていた訳でもなかったんだろうけれど、題材の個性やパンチにちょこっとこだわっているようにも思えて。
空回り、とまではいかないけど、いや、どちらかというと受け手である観客の側にその感じが出てしまって、このままだと満島ひかりのダンナということで終わってしまうかも……と勝手に危惧していたんだった。

しかしここで、初めての非・オリジナルを任され、原作が良いというのもあったのかもしれないけれど、それを肩肘張らずに、彼のヌケた良さとひそやかなる情熱と、なんといってもセンスの良さでとても素敵な、愛すべき映画に仕上げて、ああ、本当に、良かった良かった、と。
実はこれ、原作を先に読んでしまおうかと結構、悩んだ。いつもだったら原作を先に読むなんてことはしないし、よっぽどでなければ観賞後も読んだりはしない。でもこれに関しては題材に凄く心惹かれて本屋に足を運んだんだけれど、まだ刊行間もなく、文庫になっていないから断念した(ケチ)。
でもそれが結果的には良かったかもしれないなあ。だってこんな素敵な物語、読んでしまったら、やっぱり頭の中に人物のイメージが出来上がってしまっただろうし、どんなにキャスティングを凝らしても、緻密に脚本を書き込んでも、その原作のファンになってしまうと、違うと思っちゃうもんだもの。

とはいえ、マジメ君には松田龍平その人しかいないように思われた。というのも、観てしまったからこそ、ではあるんだけど、それこそ観てしまったから、もう彼以外には考えられない。
彼は実は、こんなにマイペースな人だったのね。本質的にも、役者としても。最初はこの独特のオーラで、それこそ彼の父親の持つビリビリするような個性を発揮する人なのかと思った。

確かに松田優作を継承するオーラがあった。それは今でもある。あるけれども、そのオーラは松田龍平その人のオーラなのだよね。こんなにも独特の間があって、のんびりとも違う時間の流れがあって、無愛想に見えるぐらいぼうっとしているのに、それが純粋さゆえだと判ってしまう、こんな人、こんな人、いないよ!!
あの「御法度」でゾッとするほど美しい美少年としてホンローした彼は、彼ではなかったのだ、いやそれも彼なんだけどさ。
むしろ弟君の方がキラ星スター系で、父親の系譜を引き継いでいるように見える。

ここ数年、相棒の片割れを好演することが多くなってくると、ピンで任されるのとまるで違う力の抜け方が、まさしく松田龍平の魅力を全開にしていった。
同じ原作者の「まほろ駅前多田便利軒」がまさに、そうであった。そう、同じ原作者なんだよな。つまり彼は彼女の世界の体現者なのかもしれない。

でもこれは、ピンの主演作である。松田龍平の真の魅力を多くの人に認知された長い年月を経ての、満を持した主演作、と言っていいかもしれない。
ポスターや予告編ではあおいちゃんが同等に扱われていたから、うぅ、またしても無難系あおいちゃんにイライラするのかしら、と思っていたら、彼女の登場尺はそれほどなかった。
いや、思ったよりもという程度で、重要度は勿論大きいけれど、宣伝で感じていたような、対等、同等なほどの位置ではなかった。
やはりこれは松田龍平、マジメ君の物語なのだ。「一生の仕事」と口にした時、マジメ君=松田龍平のあの口調で、特に真剣にも響かないぐらいとつとつとしていた。
でも彼は出会ってしまったのだ。一生の仕事に。彼の中は、燃えさかっていたのだ。

相棒、という点では、今回はオダジョーがそれにあたるのかもしれない。辞書編集部の先輩で、いかにも現代っ子のおちゃらけた青年。
現代っ子なんて言ってしまったけれど、これは現在の起点にして、中型大規模辞書(判りやすく言えば、広辞苑的なサイズ)が企画から完成まで費やす10数年を追っていった物語なんである。
つまり当時の現代っ子青年が、世に出始めたPHSをうらやましがり、「これからはパーソナルコンピューターが各家庭に普及する時代」だと語っていた時代。パーソナルコンピューター、だよ!まあその通りなんだけどさ!!

そう、相棒、相棒だよな、オダジョーこそが。こんな彼も、初めて見た気がする。アゴのほくろと大きな瞳で、オダジョーだよなとは思っていたけれど、前髪を下ろしたところなんて初めて見たせいか、しばらくその確証が得られなかった。ていうか、こんなある意味“普通の”サラリーマン役なんて、私初めて見たからさ……。
マジメ君が尋常ならざる本好きで、古い下宿先には本、というより古本が埋め尽くされている。大学院まで行って言語学を研究、まさに辞書編集部にうってつけの、つまりは“変わり者”。

それに対して、オダジョー演じる西岡がなんで辞書編集部にいるのか、きっとそれはこの性質ゆえの左遷に違いないと観客皆が思ってしまうようなタイプ。どうしたってマジメ君と仲良くなれなどしないだろうと思うんだけど、確かに最初はもうかみあわなまくりなんだけど。
マジメ君が西岡とうまくいかない悩みを下宿先のおばさんに打ち明けたら、「人間同士なんだから、判らなくて当然。判りたいと思うから、話しかけるんじゃないか」と言われて奮起、出勤シーンで必死に腕をとりに行くマジメ君の可愛さにはヤラれたなあ。

最初は気味悪がってた西岡も、マジメ君が恋に落ちちゃってどーしよーもなくなったことをキッカケにガッツリ関わり始める。
マジメ君と西岡の関係は、世間によく言われる類友という概念が生み出す悪しき側面を、かろやかに排除してくれて、そうそう!と思うんである。
本当はね、仲良くなるのにタイプが似てるとか理解できるとか、趣味が共通とか、そんなこと関係ないのよ。むしろそういうのって、つまんないと思う。友情に限らず、恋人とか、上下関係でもそうさ。コイツ、判んない、排除しちゃうなんて、なんてつまんないことか。

マジメ君と西岡は、何一つ噛み合わないけれど、噛み合わないからこそ、自分にはないものを持っていることを発見した時、お互いを尊敬し、仲良くなれる、以上の関係になれる。
そうそう!と思いつつも、こういう友情関係を築ける人がどれだけいるだろうか。相手が自分の世界を広げ、自分が相手の世界を広げられる、こんな相手が。

カネばかり食う辞書編集にトップから中止の危機が来た時、西岡が編集部を離れることで、つまり人身御供になった時、マジメ君が、西岡さんが生きた言葉を知るには外に出て人と話さなければダメだと、なんかそういうニュアンスのことを(ゴメン、正確な台詞忘れた(爆))と言って、西岡が「泣かせるなよ、マジメ」と言って本当に号泣した時、なんか、思いがけない感じがして、ひどく、胸をつかれた。
実は私、この時まで、なんだかんだ言って、西岡のこと、軽く見ていたのかもしれない。辞書編集部にはふさわしくない、それこそ出版社にいるなら、週刊誌かファッション誌あたりでヘラヘラしてそうなヤツ。宣伝部に異動するってんなら、ちょうどいいんじゃないの、とぐらいに思っていた。でも彼はマジメ君に大きな影響を与えたのだ。

……今更だが、物語の筋もおさえず、なんかワケわかんないまま進んじゃってゴメンなさい。もう取り返しつかないから(爆)このまま行く。
西岡は結局、宣伝部に行って正解だったんだよね。彼は辞書編集部を離れる時も、これからも辞書編集部には一番に力を貸すから、と言った。世間的に、多くの場合、そんなん、言葉だけなのに、そうじゃなかった。
展開上はいきなり時間が飛ぶけれども、いよいよ完成、出版が近づいた暁には、その大宣伝におおいに腕を振るう彼は、きっとそのためにキャリアをきちっと積んで、この“大渡海”を世に出す為の立ち位置を身につけたんだろう。ああ、なんてイイヤツ。
彼のカノジョ役のちーちゃんが、当時のバブリーな雰囲気を出してて(今日は違う人とデートとお互いに言い合ったりとか!)、それこそ、あれ??ちーちゃんだよね?と凝視しちゃったり……ちーちゃんとオダジョー、ホンット芝居巧者同士やのう!

なんかこのまま行くと、ホントあおいちゃんをスルーしそうになる……いけないいけない。
彼女が出てくるのって、本当に中盤ぐらいから、だよね?マジメ君が長年お世話になっている下宿のおばさんの孫娘として。
猫を追いかけて夜に物干し台で出会う様といい、なんといってもその名前、かぐやといい、予告編で見た時には、彼女は本当にかぐや姫で、マジメ君にしか見えない幻想の世界の女の子なんじゃないかと思ったぐらい。

でも彼女は生身の女の子。祖母の体調が良くないためにこの下宿で一緒に暮らすようになった。
というのは表向きの情報だけれど、彼女にかかってくる電話から察するに、元の地で恋人と上手く行かなかったことが原因ではないかと推測される。
彼女の仕事は板前さんで、マジメ君に「……やっぱり女の板前って、ヘンかな」と吐露するあたりで、その元カレとの破局の原因がうかがい知れる。かぐやにすっかり参っちゃってるマジメ君は「そんなことありません」と即答するに決まってる。

この役は女の立ち位置としてもかなりのもうけ役だし、そのあたりのボロが出ない(つまり、現実の男がやっぱりそういうのは希望しないってこと……)程度の尺に収めているあたり、ちょっとしたズルさも感じなくもないけど、でもこれはマジメ君=松田龍平の物語だし、あおいちゃんに最近感じていたイラッと感がないのは、そのあたりの上手い処理加減なのかなあ、と思う。
彼らが出会ってから、最終的に今の時間軸に至って、お互いがお互いの仕事にまい進、マジメ君のそれはもちろんきちんと描写されるし、かぐやの方も、雇われ人から独立、自分の店を作っているあたりにそれがあらわれている。

つまり、二人は、お互いの仕事への理念のために、子供を作らない選択をしたのだと思う。出来なかった、とかいう雰囲気ではないように思う。
そういう部分を掘り下げる作品ではないというのもあるけれど、ちーちゃんと結婚したオダジョーが、現在の時間軸で、赤ちゃん言葉で家に電話しているのを映し出すんだから、そのあたりは意識的であろうと思う。
それを肯定的に描いているとは思うけれど、ひょっとしたら年配の方は不満に思うかもしれない……。

でもね、やっぱり、マジメ君がかぐやに恋しちゃって、出勤途中でいきなり足がもつれて倒れて、その日はのぼせちゃっておでこにおしぼり当てて仕事にならないとか、彼女の情報を、辞書の用例採集のメモに、しかも詳細に書き連ねてるとか。恋の描写が可愛すぎるのだっ。
彼の恋を成就させようと、かぐやの勤める料理屋に速攻で予約入れてくれるベテラン派遣さん(伊佐山ひろ子、最後までメッチャ素敵!!)とか、ラブレター=手紙=恋文、筆の巻物に仕立てちゃって「なんで筆選んじゃったの、戦国武将じゃないんだから!」と西岡に怒られたり。

その武将手紙を渡したら当然読めなくて、「大将に読んでもらった。嫌だったけど、本当にいいのかって、何度も聞かれたけど、内容を知りたかったから、でも恥ずかしかった。こういうの、一人で読みたいものでしょ!!」と完全にキレられて、でも「内容を知りたかった」っていうのは、そういうことなの。手練手管の西岡は、正解だったの。お前に興味があるなら、何とかして読もうとする筈だって。
なみだ目で、「言葉で聞きたい」とかぐやから迫られて、あんなに巻物にしたためたのに、マジメ君から出た言葉は「好きです」のひと言。彼をひたと見つめたかぐやから出た言葉も「私も」のひと言。

純粋度千パーセントの告白シーン。恋しちゃったマジメ君は、恋の語釈の執筆を任されていてね、マジメ君が記した恋の定義が、もう、純情そのものでたまらんのよ!
好きで好きでたまらない、その気持と、成就した時の天まで昇る気持までもが記されているんだもの!ああ、恋、恋って、本当になかなかね、大人になるとなかなかね!!

……筋を無視して書いてると、かなりどうしていいか判らなくなってきたが。えーと、取りこぼししちゃいけないものをまず抑えなくては。
そもそもマジメ君が辞書編集部に迎えられたのは、ベテランの荒木=小林薫が奥さんの体調不良で通常の定年により降板することになったから。
編集部トップの松本氏の信頼も厚く「荒木君の替りなど考えられない」と言われていたところに、社内の徹底リサーチによりスカウトされたのが、“右”を唯一定義することが出来た、マジメ君だったんである。

小林薫は勿論ステキだったんだけど、それ以上に松本氏を演じる加藤剛がステキだったなあ!!ダンディなままの、なんともステキな年のとり方。
それこそさ、彼は時代劇のイメージもあったから、この人、絶対知ってるけど、誰だっけ、誰だっけ、と思ってたの!す、す、素敵―!!
辞書編集部、いや、この辞書、“大渡海”のよりどころは、加藤剛=松本氏にある訳であり、世に出ている名辞書が、数年どころか十数年、二十数年という年月を経て作り上げられているのを知って「それでなんでやる気が出ちゃうんだよ!!」と西岡にツッこまれるマジメ君を目を細めて見守っていた。

合コンに参加してイマドキの言葉……今はなつかしいチョベリグなんて言葉もしっかと用例採集メモに集めて嬉々としていたり、時にはマジメ君とともにマックで女子高生の会話に聞き耳立てていたり。
彼は本当に言葉を愛していた。マジメ君を迎え入れた最初、まず小手調べとばかりに、らヌキ言葉をどう思うかと聞いた。
僕は使いません、と控えめに述べたマジメ君に同意しながらも、それでもこれだけ若者の間で浸透している。日本語は変化していくものだから、間違った使い方だという注釈を入れても、そうした語例を入れていきたい、と言った。生きた辞書を作りたいんだと。

凄く、凄く、すごーく、判るの、判るの!私ね、私もさ、らヌキ言葉はキライ、使わない、キライだから。
でも、ここまで浸透すると、なぜ浸透したかということを考え、確かに合理的だと思う部分もあったりしてさ……可能や受身と、謙譲や尊敬といった語意の違いが明確に区別されるという点でさ。
しかもそれはほんの小さな例で、日本語ほど変化し、創造される言語はないんじゃないかと思う。いや、他の言語はさっぱり知らないんだけど(爆)、でも日本人さえイラッとするほど、変化し、作り上げられ、淘汰される言語は他にないんじゃないかと思う。

ある程度の年月を経なければ、それが本当に残っていく言葉、あるいは用例なのか判らないなんて、他の国ではないんじゃなかろうか……。私ね、これほどまでにマジメ君が情熱を傾け、一生の仕事にすると下宿のおばさんに告げたこの辞書が、紆余曲折を経たとはいえ……それこそを判りやすく示したことこそが、本作の、あるいは原作である小説の作品世界の、最も大事なところだったんじゃないのかなあ……って。

最後の校正仕上げで思いがけない落丁が見つかって、若いバイトさんたちと徹夜作業になったり、何より、病に倒れた松本氏に完成品を届けたいと、ゲラでも届けたいと思っていたのに間に合わなかったり、そんな、判りやすい、そう、判りやすいヤマがありつつ、ありつつ……。
なのに、辞書が出来上がって、華々しいパーティーが行われて、そこで涙して終わり、じゃないの、ないの!!小林薫と、荒木と、お互いにポケットから、用例採集メモ、それもお互い、尋常じゃない厚さなの!お互い、出して、早速改訂作業ですな、って言うの!!!

十数年も情熱を傾けた辞書が刊行されたら、マジメ君は勿論、その周囲もすっかり意気消沈しちゃうんじゃないかなんて勝手に心配していたら、ホントに、ホンットーに、大きなお世話だった!!
本作に常に、示されてた。日本語は変化するからこそ素晴らしいのだと。現代人の誰も読めない筆文字の恋文も、物語の後半になって参戦するファッション誌から異動した女の子がつぶやく「(ファッション用語が)いまだにこんな古い解釈……」というのも。
あるいはシンプルな解釈、本作のモティーフである“右”の解釈ひとつにしたって、辞書によって違い、その模倣は倫理……以上にプライドによって許されない。

こんなクリエイティブな言語が他にあるだろうかと思う。それはつまり、古い言語が捨て去られるということでもあり、古書を愛するマジメ君がしたためた恋文が、現代人には解読さえ不可能というところが皮肉としてと示されてはいるけれど、でもそれも、きちんと解読できる土壌があり、消え去る訳ではない。
変わり続ける日本語を憂えるだけではなく、それを受け入れ、どころか賞賛し、どんどん厚みを増し続ける日本語の、そして日本の文化を、こんな素敵な形で綴った本作、そして元になった原作、キャスト、スタッフたち、素敵、素敵、素敵です!
あ、ああー、言い忘れた!猫も素敵です、やっぱり日本の、特に文科系には猫が似合うの。なんたって、我輩は猫であるだもの、ニャー!★★★★★


冬の日
2011年 28分 日本 カラー
監督:黒崎博 脚本:黒崎博
撮影:笠松則通 音楽:梅林茂
出演:長澤まさみ 風吹ジュン 内野謙太 梅沢昌代

2013/3/12/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
「ファの豆腐」との二本合わせて「白い息」という企画名。はそれ自体が映画のタイトルのようで、吸い寄せられるように足を運んだら、その小さな、ぬくもりのある掌編の二本目である本作にはなんとなんと、長澤まさみ嬢が!ま、ていうか、彼女の名前が足を運ぶ決め手になったんだけどさ(爆)。
それにしても、こういう、小さくても魅力のある企画に意欲的に参加する彼女に嬉しくなってしまう。だあってこんな片隅でひっそりやってる映画に長澤まさみが出ているなんて、誰も思わないんでないの!実際観客も少なくて、なんか身内っぽい気がしないでもなかったしなあ……。

でもこれは、本当にそんな風にひそやかにかかっているのが似合う。レイトショーでないのが不思議なぐらい、なんて言ったらおかしい?
企画テーマからして冬の、冷たい空気の中に吐き出される息、つまりそんな季節が舞台になっていて、二本目のコレなんてまさしく雪国が舞台で、尋常じゃなく雪が降り積もっているし、ずっとずっと、雪が降り続いているしさ。
ひまわりのような笑顔がまぶしいまさみ嬢が、こんなしんしんと降る雪の中にいること自体が不思議な気がするけれど、これが本当にキレイで、見とれてしまう。
可愛い可愛いまさみちゃんは、まあ、本当に大人の女になったのねと思う。今「ロボコン」なんぞを思い出すと、本当にウソみたい。

しかし、思えば彼女は、初期の頃は、それこそ「ロボコン」以前までは、割と暗い役が多かったもんなあ。
こういう、言ってしまえば地味な作品の中で、彼女みたいな一見してキラ星スターが、実に繊細な表情を、スクリーンのどアップで見せることが出来るのは、やはりやはり、キャリアだよなあ、と思う。いい女優になっちゃって、しみじみ。

……まさみちゃんの話だけで終わりそうになってしまう。いけないいけない。
たった28分のこの映画の中に、え、28分しかなかったの?と驚いてしまうぐらい……いやそれは、長く感じた、っていうんじゃなくて、その中に二人の女性の人生が語りつくされていて、じんわり未来への希望がわいてくることへの驚き、なんである。

一人は勿論まさみちゃん。実家である写真館を片付けている。そこへやってくるのが高校時代の元カレの母親。演じるのは風吹ジュン。
まさみちゃん扮するリサは写真の勉強をしに東京へ出て、賞もとったのに、やめて帰ってきた。雪道を運転してきた車の中から、中年の女性……元カレの母親が一人、ぽつんとバス停に残されているのを見つけるんである。この時には、それが元カレの母親だというのは気付いていない。

その後、写真館に彼女が訪ねてくる。息子はあなたが賞をとったことを自慢げに話してる。私の写真を撮ってほしいの。賞をとったカメラマンさんに撮ってもらえるなら、きっとキレイに映るわ、と。
リサは困惑気味に、今父親がいないし、こういう写真館の写真の勉強はあまり慣れてなくて、父親のカメラは慣れていないし、それに……私、カメラはやめたんです、と。

そう……ならば、また来るわね、と言い残して風吹ジュンは去っていく。その姿に何か、ただならぬものを感じて、リサは追いかける。
そして、この母親がもう手のほどこしようのない胃がんに冒されていること、それをこれから息子と夫に告げなければいけないこと。
息子と夫のために、食事だけは気をつけていた、張り切って作っていた、というのは、その後、リサをつき合わせた買い物の仕方で判っちゃう。

リサの方は、賞をとった後、鳴かず飛ばずで焦り、コンテスト用に友達のヌードを撮ったところが、その写真がネットに出回ってしまった。
勿論友情は断絶、リサは「本当に彼女を撮りたかったのかどうか、今となっては判らない。使える、と思っちゃったんです」と言う。
本作はしんしんとしていながら、キメどころの台詞、言葉が実によく効いていて、それの最も効果的なのが、この「使える、と思った」ってトコなんである。
そう、この母親は、自分の遺影を撮りに来た。そう明瞭には言わなかったけど、何か事情があるらしいとリサが追いかけた時(このシーンの、往来なのに静まり返った、雪が降りしきる様が画になりまくる!!)、彼女は言ったのだ。
入院するから、その前に、普段どおりの自分を撮っておきたい。ほら、病気すると痩せちゃうから。その時はその程度の言い様だった。

でも後に、リサの事情も聞いた彼女がじっくりと話した。そういえば、写真なんて撮ってなかった。そう思ったら、いつの間にか写真館に足が向いていた。
夫と息子には長生きしてもらいたい。私の写真を見て、思い出してもらえたら嬉しい。息子が結婚して、子供が産まれて、その孫にこれがおばあちゃんだって、判ってもらえたら嬉しい。
……写真って、そうやって人の記憶に残っていくものじゃないの?どうでもいいものは、忘れられていくのよ、と。

それは勿論、リサが犯してしまった罪、ネット上に消えることなく漂い続ける友達の写真を指している訳で。
これって、判る、判るなー!と思う。確かにネットに出回ったものって、回収なんてホント出来ないんだけど、一時熱病のようにこねくり回されたものでも、永遠に残ってしまうものでも、忘れ去られてしまう、んだよね。
まるで、宇宙空間に永遠に漂うゴミみたいにさ……。ホント、つまり、そういうことなんじゃないかと思う。

そして何より写真が人間にとってどう必要かを、専門家でもない彼女こそが、リサに教えてくれた。そしてリサは彼女を撮りたいと思った。撮らせてください、と言った。
彼女は「使えると思った?」と返した。ちょっと、皮肉のようにも聞こえたけれど、リサはひるまなかった。
雪原に彼女を連れて行って、カメラをかまえた。「どういう顔をすればいいの」「今日の夕食はどうしよう、ってことを考えてください」

次のカットでは、彼女の息子、リサの元カレの結婚式。先行きを決めていなかったリサは、この式場でカメラマンとして働いている。
新郎の父親の手には、リサがあの時撮った彼女の遺影。実に穏やかに、日常の彼女のままに、笑っている。
「遺影は死んだ人の写真。でも、死んだ人を撮っているんじゃない。生きている人を撮っているんだ」この台詞は、当たり前のことなんだけど、沁みた。
アーティストとしてのカメラマンとして脚光を浴びることは出来なかったけれど、ていうか、カメラマンの何たるかということを、示してて、ね。
結婚式場で、生きた、ナマの、人間にシャッターを切り続けるリサは、それが商業的な仕事だとはいえ、カッコ良かった。そうだ、写真は、生きている人間を、撮るんだ、と。

リサと元カレとの邂逅は、それこそ本式?の映画ならば、ある程度の尺があるならば、きちんと語られるのだろうと思う。
いや、そこだけじゃなくても、先述した、写真と人の記憶と、大事な思いといったシークエンスだって、ほんの数分で収めているのに、合理的といったらアレだけど、実にピシリと収まっている。

酪農家であるこの家で、母親が出してきてくれる牛乳を一気に飲み干して「美味しい!」と破顔するリサ。
元カレとのひと時の会話、彼はリサがカメラをやめたことに驚きはするもののさして追及もせず、ただ「これからどうするんだ?」とだけ聞く。
そして自身の仕事を聞かれた時、楽じゃないけど、何万頭も処分しなくちゃいけなかったところもあるんだから、と。
ハッとする。それは勿論、あの大震災でのことなんだけど、震災を入れ込む映画が様々ある中で、こんな風にさらりと、現実生活のリアルさで入れてきたの、初めて見たから……どれもこれも、ホント入れたる!って感じだったからさ……。

雪の中のまさみちゃん、本当にきれいで、見とれてしまった。ちょっと茶色がかった髪と、スレンダーなジーンズ、無造作なマフラーが、東京から帰ってきた女の子、の垢抜けた感じを思わせる一方で、それがこの雪の、地元の中で、居心地悪くたたずんでいる。
尺的なこともあるだろうけど、写真館の主である父親も出てくることなく、彼女が一人、死にゆく女性に立ち向かうストイックさが、美しかった。 ★★★☆☆


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