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架け橋 きこえなかった3.11
2013年 73分 日本 カラー
監督:今村彩子 脚本:
撮影:今村彩子 渡辺佳宏 柳喜代子 古川元 音楽:
出演:
でも震災から時を経て、徐々に震災映画が変わりつつあることを感じていたこともあった。ある意味大雑把にパニックとしてとらえる向きから、一人ひとり、あるいは時には一匹といった単位に目を向けるようになった。
それぞれの人、人に限らず生きものそれぞれにとっての震災がある、というスタンスに変わっていったから。
でも確かにその中には、障害を持った人たちはいなかったのだ。障害を持った、などという時点でかなりの差別感覚も感じるけど、実際、そうだったのだった。
例えばこれが、高齢者というくくりでの、身体が不自由な、という表現はあった。それこそ高齢者は、ある意味震災の一つのジャンルといっていいほど、彼らを切り口に様々な問題が語られたし、それはそれでいいんだけれども、バリアがある人たち=高齢者で片づけて終わり、みたいな感じだったかもしれない、ひょっとしたら。
今村監督の作品に出会う前から、いわゆる障害者(という言い方はナンだが……)、の中でも、ろうの人々は特別の文化というか世界を持っていると、さまざまな作品……ドキュメンタリーが主だけど……を感じていた。違う言語を持っているという誇りというか、そんな雰囲気を。
地震や津波の警報、放送が聞こえないことは命にかかわり、実際、そのことで亡くなってしまった数多くのろう者たち。
命を取り留めても、避難所では放送が主で、何が起きているか判らない。常に周りの状況に気を張り詰めていなければ、食料の配布にもありつけない。ありつけない、なんて言い方あまりよくないけど……でも、そういうこと。
ただでさえ知った人のいない避難所で、健聴者とコミュニケーションをとることもままならず、疲弊していくろうの老夫婦、特に奥さん。
と、いうのは、ある意味判りやすい例かもしれない。あらゆる場所の何人もの人々を同時に、時間を追って取材していく中には、それこそさまざまな人々とエピソードがある。
本作は決して映画作品として作られている訳じゃなくって、きっと監督が突き動かされるようにして震災直後から足を運んで、人に出会い、追ってきたものであり、元々は20分前後の4本の作品として製作されたものを、映画版として編集したものだという。
と、いうことを観終った後に知って、それをそのまま、編集することなく、続けて見たかったかもしれないなあ、と思った。
本作を観た時に思った、いい意味での物足りなさ、分断される感じは、まあきっと相変わらず私が理解能力不足のバカだからだろうけど(爆)。だってあの人はどこの誰だっけとか思うの、ちょっと複雑な劇映画でも混乱するの、ホントバカだよね、もう、自分でイヤんなっちゃう(爆)。
まあいくらなんでも本作では誰だっけとまでは思わないけど(……アヤしい(汗))、再登場してきた時に、その前のエピソードを思い出してつなげるのに頭の中で時間がかかる(爆)。あーもう、ホント私、バカ過ぎる(爆爆)。
最後まで見て、ファーストシーンがラストシーンに繰り返されているのを見て、なるほどと思い、確かにこれは映画版にする必要性があるし、上手く作られているなあとは思ったのね。だからただ私がバカなだけ(涙)。
そう、ファーストシーンで、以前より太った、と手話で言い、階段を駆け下りて、駐車場の車までさえ駆け足する、その間も常にニコニコとしている、宮城県ろうあ協会の会長、小泉さん。
ファーストシーンで見た時には、彼の身に何が降りかかったかなんて当然知らないから、震災があったのに太っちゃったよ、なんてジョークなのかと思っていた。それこそラストシーンまでは。
でも彼は、ろうあ協会の会員の安否確認やサポートに走り回る日々で身を削って削って、倒れてしまったんであった。車の整備士であり自身も車大好きの彼にとって、そして人のことを考えてやまない彼にとって、なんと辛い……。
でも、少なくともカメラを向けている時には、見事なリハビリの成果を発揮するし、それこそラストシーンでは大好きな車に乗ることも出来ている。一秒でも早く車に乗りたいと、少年のように嬉しげに小走りになりながら。
とても個人的なことなのだけれど、脳梗塞に関しては、父親がかなり重いのをやったので、思い入れがある。
劇中、別のエピソードで、脳梗塞で倒れて数日間発見されなかった(一命はとりとめた)高齢者の話が出てくるでしょ。そのエピソードは、震災とはまあ関係ないというか、いわゆるコミュニティの取り組みとして、合鍵を預かるサービス、というシークエンスで出てくるんだけど、一命をとりとめたとしても、このご老人がどうなったのか……。
リハビリって、凄いからさ。今のリハビリって、本当に凄いから。一昔前なら、脳卒中だので倒れちゃったらもう寝たきりで、みたいなイメージ、あったじゃない。でも今は違う。本人の努力次第で、健常者に近い生活を取り戻すことができる。
……今うっかり健常者、と言っちゃったけど、そういうところに差別意識はあるのかもしれない。でも、ろうである小泉さんが、思いがけず他の“身体障害者”となったエピソードは重いと思う。
正直それが、それほどフューチャリングされていないのは、そんなことは彼自身のパーソナリティーにとってものともしないものだということなのだろうけれど、後から思い返すと、少し比した形で考えを深めたかった気もしている。
本作の大きなテーマは、いや本作に限らずだけど、ろう者が“外からは判りにくい障害者”であり、この震災においてはそれが大きく影響したことを考えると、更に思いを深くする。
ろうの世界が深くはぐくんできた文化を、彼らが誇りに、大切に思ってきたからこそ、ひょっとしたらこの、二次災害のような“身体障害”を、反映させる考えには至らなかったのかもしれない。
しかし何より、この小泉さんは一番のキーパーソン。なんたってこのタイトルは彼自身が担っていることなのだから。
何かが起こると途端に感じる、様々な壁。逆に言えば、何かが起こらなければおおやけにあぶりだされない壁。あぶりだされなければ、橋を架けることも出来ない。
感情的に最も揺さぶられるのは、ろうの菊池さん夫婦、特に奥さんの方。避難所でのろう者の苦難を具体的に伝えてくれるのが彼女であり、ろうであるが故の不安や心細さを、少女のような素直さで、ぽろぽろ涙をこぼして今村監督に、そして観客にぐっと訴える。
このシーン、避難所で心細い彼女を激励し、別れを告げる監督の胸で嗚咽する奥さん、娘、ひょっとしたら孫ほども違う若いお嬢さんの胸で、少女のように肩を震わせる。
今村監督が、この時にはまだ少し、戸惑い気味というか、私のような若い者が……みたいな顔で彼女の背をさすっていたのが、次にこの可愛らしい奥さんが不安に立たされた時には、頼もしく、近所の人たちがこの奥さんをちゃんと見てくれているかどうか確かめていたりして、あ、なんか違う!と思うんだよね。
この奥さんも、いろんな荒波乗り越えて、強くなったとは思うけれど、基本的には旦那さんラブで、ちょっと頼りないところが可愛らしくって、趣味で作っているビーズ小物とかもそれを後押しする描写でさ。なんともチャーミングな人物なんだよね。
ここではホント、今村監督の成長、なんて言ったらエラソーだけど(汗)、でもなんか、そんな男気を感じたというか。これをそれぞれの、一本一本の作品として見たら、もっと感じただろうなあ、とも。
もうひと組、印象的なのは、理髪店夫婦。こりゃだいーぶ奥さんの尻に敷かれてんだろうなあ、というぐらい、前半はとにかく奥さんの“静かな”マシンガントーク。
私の言うことはちっとも聞かないの、という恨み言は、全ての夫婦の仲良しの証拠だろうな。
彼女の披露する、何にもしていないのに、種なんかまいていないのに、津波で持ってかれた花壇に芽が出て、きれいな花が咲いた、というエピソードは、確かに感動的だけど、それこそそれは、他の映画に譲っていい、言ってしまえば“良くある話”。
地味で地道だけれど、やはりこの理容室が再開して、常連さんがそれを待ち望んで、待ち構えてやってきた、というエピソードこそが、テッパンであろう。
津波にやられて店内泥だらけ、でもとりあえず建物は無事で済んだ。協会や寄付による支援、海近くの住宅は流されてしまったこともあって、客足はひどく鈍り、それが贅沢な悩みだと判っていてもつい口に出してしまう店主。
でもそこにやってくるのが、「いつもここで切っているから。ここ以外で切ったことがないから」というとてもシンプルで、それだけに重い価値のある言葉を持って、仮設住宅から何度も足を運んで再開を待って来てくれた常連さん。
地味だけどじんとくる、地味だからこそ、固いものを感じて、勇気が湧いてくるじゃないのお。
そうだ、もう一つ、本作のキーワードとなる言葉があった。「情報に格差があってはいけない」これは、監督自身から発せられた言葉であった。
まだ発生間もない時期での取材、本震とそう変わらない規模の余震が繰り返し訪れていた時期。
慌てて路肩のインタビューを切り上げ、車で移動した。「流れていたという津波警報は、私には聞こえなかった」このままあの場所にいたら危なかったかもしれないと、監督は恐怖に震え、その晩泊ったホテルで、これだけが頼りだと懐中電灯を確認し、それでも恐怖に震える。
掛け布団をめくったカラのベッドを映し出す。監督自身を映し出さないカラのベッドに、妙に生々しい恐怖を感じる。
「情報の格差」という言葉で単純にイメージされるのは、情報操作、あるいは情報遮断が行われている、独裁政治、恐怖政治が行われている発展途上国。
それでも今は、大分少なくなった。それこそ某……キタと呼ばれる国ぐらいじゃないだろうかと思う。
どんなに遮断されていても、情報が、正しいばかりじゃない情報も含めて、手に入れられる時代になった。
でも、その情報を手に入れるツールを失ってしまう、非常事態では。
電気が止まる、あるいは混雑する、たったそれだけのことで、通信手段を失ってしまう現代社会に、何でも可能だと思っていた現代人は呆然としたし、第一段階での情報が手に入らないことで、それこそ、情報の格差、という言葉を口にした人もいただろうと思う。
でもこれは、第二段階なのだ。たった、第二段階。音声による情報が受け取れないことによって情報の格差が出来てしまった事実。たった第二段階で振り落される事実。
ものすごく、過信していたんだと思う。通信、コミュニケーションツール、情報の伝達。発達しすぎて、基本的なところが出来ていなかった。
そのことを、人間同士のコミュニケーションの薄さとか、そういうことを言い出したら、それは確かにつながる問題だけど、キリがないし、やっぱりちょっと違う問題になってくると思うし。
でも、たった第二段階、なのだと思う。その恐怖を、思う。
音楽だけが、目に見えない、つまり証拠が残らない芸術だという議論を、思い出した。
本当にそこにあるんだと、証明することができない。いにしえの音楽家たちは、残すことが出来なかった音源ではなく、スコアに刻まれたものが作品だったのだ。音は記憶の中で存在するもの。今も昔も。
最後の方にちょろっと出てくる、ボランティアの学生たちの初々しさが心に残る。
全国各地から集まった、中学生も含む十代の若人たち(古い言い方だなーっ)、声がどうのとか、音がどうのとか、考える以前の柔らかな感性を、彼らから何も聞かずとも感じ取ることができる。
炊き出しよりも、来てくれたこと自体が嬉しくって、手話で質問攻めにするおっちゃん、おっちゃんの教える手話の基本を、これまた初々しくなぞってみせる彼らに、なんかもう、これだけでオッケーと思っちゃうのは、年食ってしまったせいだろうか(爆)。
もっともっと沢山、素敵な人々、エピソードがある。戦時中育ちで、読み書きの出来ないおじいちゃんのために、新品の扇風機を携え、リモコンの使い方を懇切丁寧に教える小泉さん。
これを、読み書きという、音がなくても通じる世界と対比して考えるなんていう、判りやすくヤボなことをしたくもなるけど、そういう感じでは決してない、のね。
小泉さんはあくまで、彼らを助けたいと思って奔走しているし、このおじいちゃんだって、「ろうで、しかも文字が読めないなんて」なんて思ってない。
それぞれは全く別個だし、それぞれをネガティブになんてとらえてない。そもそも、それ自体、ネガティブなことじゃない。
だから私みたいに、対比させれば鮮やかになるのに、などとついつい考えてしまうと、ふとおいてかれてしまう。
恥ずかしいんだけど、だからこそ、先述したように、編集された映画版より、一本一本を、じっくり見たかったなどと、言い訳をしてしまう。
とにかく、人間というあらゆるバリエーションについて、経験がなさすぎる。私だけじゃないと、思いたい(爆)。
当初からミーティングの場に顔を見せ、話し上手でチャーミングなジャージのおっちゃん、すんなりインタビューに応じるかと思ったらさにあらず、「まだ落ち着いてないから」と、後に応じてくれた彼は、ろう学校の先生。
震災が生徒に与えた影響など、ここで描写するには足りなすぎると思う。とにかく、表せられる場が少ない。あまりにも少ない。
震災から2年、もう2年だけど、やっぱりまだ2年。こうした作品が発表されるのは、ある程度の迅速さが必要だとは思う。確かに思う。
でもそれで躓いた作品も沢山あるし、それは致し方ないと思うような浅はかな作品もあった。
でも本作は……少しもったいない気がしたのは、多分、いやきっと、必ず、これは彼女自身にとっても途中経過に過ぎない筈で、だからこその完成度への足りないピースを感じたから。
でもそれは……震災というテーマで見れば、ピースが足りて終了なんてことが、果たしてあるのかどうか……。
★★★☆☆
あれ、なんで……などと思ってしまって、思ってしまう自分に嫌気も差したけど、本作に足を運んだ人はどこかで、その真相には迫らないのかと思った人は、結構いたんじゃないかと思う。
別に自殺の真相に迫る映画じゃない。そんな意味で作られたんじゃない。それはタイトルでちゃんと示してる。彼の、書くことの重さ、それを追った真摯なドキュメンタリーだということは、判ってる。
判ってる、つもり、……なのかなあ、私。うがって言えば、書くことの重さに耐えられなくなったという含みを置いているだろうかなどとも思い、いやいやそれは、いくらなんでもうがちすぎだよな、とも思う。
ただ私は、ただただ、佐藤泰志という作家を、その人となりを、知りたいと思って足を運んだから、だからその先に選んだ死がどうしてだったのか、知りたかった。
どうしてか判らないから、触れなかったんだと言われればそれまでだけれど。確かに謎なのだろうけれど。
でも、彼の近くにいた人たちから、推測だけでも聞きたかった。だってここで描かれている限り、彼は決して孤独じゃなかった。仲間も、家族も、マスコミの中にだって理解してくれる記者さんなどもいたのだ。なのに、なのに……。
夭折の作家をことさらに神格化したがるのは、確かに人間の中に潜む悪趣味なのだという気は確かにしてる。でもあの「海炭市叙景」を半ばにして自ら命を絶ったその理由を、知りたい気持ちがあった。
……無責任だよね。作品を読んだこともないのに。そう、読んだことない。これはヤバいと思った。函館函館言ってるくせに、函館の作家である彼の存在すら知らなかった。
確かにずっと現代文学とはご無沙汰で、最近ようやくその面白さを再認識しているところだなんて、本当に遅すぎる。
でも彼は、ずっと作品も絶版だったというんだから、余計難しかったかもしれないけれど。
映画となった「海炭市叙景」に関しては、それなりに評価はされていたけれど、もっともっと評価されていいんじゃないかと、私は思っていた。
公開時期が、良くなかったんじゃないかと思った。年末公開で、私は年明けに観た。年内に観てたら、絶対その年の自分のベストワンだったと思った。
映画の街としても知られる函館だけど、それまでも魅力的な函館映画はあったけど、そのどれとも違っていた。
生活のリアルな手触りの中に、心に灯がともるような人の手のぬくもりがあって、それは同時になぜかとてつもなく切なかったのだ……。
その、原作者、作家・佐藤泰志を私は知らなかったから、だから衝撃を受けた。その人生を知りたいと思ったから、だから……。
佐藤泰志の作家人生を振り返る時に、避けて通れないのは、文学賞に恵まれなかった不遇の作家、ということなのだろうと思う。
必ず、それは出てくる。でもそれは、それだけ候補に上がり続けたということでもある。
世の中には“作家先生”なんてモンは掃いて捨てるほどいて、文学賞の候補に挙がるような“作家先生”はその中でも一握りだし、受賞するとなるとまたまた一握り。
言うまでもなく、文学賞を受賞したから成功とか、大作家とか、いうもんでもない。人気の有り無しもまた、そこにはまるで関係がない。
佐藤泰志という作家の場合は、文学賞の候補に上がり続けたことが、不幸であったという言い方になってしまうのだろうか。
候補になってもなっても落とされる。それが不幸なら、候補になりもしない、かすりもしない作家はどうなんだとか思うけど、それは庶民の考え方なんだろうか。
実際彼は、学生時代から志を高く持っていて、いつか芥川賞をとる、ということも夢の一つとして明言していたという。
実際、学生時代から青少年向けの文藝賞を数多く受賞、その実力は、高校生が書いたものとしては問題があるとして掲載が見送られるほどだったという。
本作の中にも断片的にではあるけれど紹介される、学生運動や戦争をモティーフにした作品の、その文章の恐ろしいほどの完成度の高さに慄然としてしまう。なんだ、なんなんだこれは。こんな高校生、ヤだぞ!!
……こういう人は、こういう、才能があるばかりにはみ出してしまった人は、はみ出してしまった部分を排除されていく運命にあるのだろうか。
ことに、データが完備されて、平均値が用意されていってしまった、近現代の時代には。
芥川賞がとれないことに失望した作家、といったら、やはり太宰治を思い出してしまう。海峡を隔てたあっちとこっちの作家。
芥川賞、芥川龍之介とはかくも、海風厳しい暗い雪国の人間を惑わせるのかと思う。
確かに、あの海峡が及ぼす人間の気質は、直木賞という感じではない。芥川賞気質の作家は、直木賞、あるいは候補になった作家より、自殺確率が高い気がする、なんて言ってしまってはマズいだろうか。でも太宰もまた、自殺だった。ていうか、そもそも芥川自身も……。
という側面についつい陥りがちなのは、良くない、良くない。そんなことで作家が図れもしないし、図れもしないのに図ってしまう傾向が良くないと思う。
でもね、本作が、こと芥川賞に落ち続けたことに関しての描写に重きを置いているもんだから、ついついそうなっちゃうんだよね。
再現ドラマにして、そのたびに候補の中でも筆頭にあげられるのに、落とされる。つまり、誰も受賞しない、該当作なしが何年も続くんである。
そう言われてみれば、芥川賞って該当作なしのイメージが確かにある。最近はそうじゃなかったから、ちょっと忘れてた。
それによって芥川賞の価値観は同時に発表される直木賞よりグッとアップした感もあり、逆に言うと、庶民にとって近づきがたい、お堅い、ゲージュツイメージがついてしまった感もある。
そうか、あの当時連発された、該当作なしの頃の、その中でも評価の高かった作家さんだったのか……。
芥川賞を決める会議、築地の料亭で重鎮作家たちが意見を交わす様子が再現される。幾度も候補となった、そのたびごとのやりとりが、再現される。
大物作家たちをそれぞれ現代の役者に割り振った、いわば本作にとって最も力の入った場面である。
なんだけど……正直、この場面がイマイチ重みに欠けたことが、本作に対する印象を薄めてしまった感がどうしても、あるんである。
インディーズ作品だし、そんなに大物役者を揃えるということは難しいんだろう。ナレーションに仲代達矢、母親役に加藤登紀子を揃えただけで充分であると言えばそうだけど、この会議のシーンに重みを感じられないと、やはりツラい。
なんかね、若い役者さんが一生懸命老けメイクして、言い回しも重々しく、口ひげでもひねりながら、みたいな雰囲気を出しましょうって感じで……。
ひとくちに言っちゃえば、なんかね、華奢なんだよね。和服を着た“作家先生”も着られてる感の方が強いというか……。
選考会議の再現シーン以外は、佐藤泰志がいかにして作家となったか、学生時代から、当時の文学仲間たちへのインタビューを交えて、再現ドラマも含めて、ひも解いていく趣である。
たばこやパチンコで停学を繰り返したとか、思いを寄せた女学生には実は迷惑がられてたことが明らかになったり、なかなか楽しいものの、正直なところを言うと、“文学好きの学生の過去の思い出”の域を出ることがない、って気もしたかなあ……。
佐藤泰志の癖字は全編を印象的に彩り、その字そのものが彼の人となりを伝えているような感じがしたんだけれど、またまた正直なところを言うと、それをインタビューや再現ドラマの凡庸さが(ゴメン!だってさ……)薄めてしまったような気がして……。
そりゃ、わざとドラマチックにする必要はないんだけど、でも、ドキュメンタリーといえど一つの映画作品にする訳だし、それにセミドキュメンタリーだし、佐藤泰志という作家のミステリアスな魅力を盛り上げて、そして解明するような作りが欲しかった気がする、なんて、勝手な言いぐさだとは判ってるんだけど。
何も知らずに対峙した自分の無知を恥じる気持ちはあるけど、でも基本はそうじゃん、誰も、何も知らずに、イチから知るために作品に対峙するじゃん……。
そういう思いがあるから、その死の真相に迫らないのももどかしかった、とまた最初に戻っちゃう(爆)。
卒業文集や同人誌、そして友人へのインタビュー。思い出話。なんだか「ウチくる!?」に毛が生えたようなといった趣。まあ「ウチくる!?」は好きだけれど(爆)、作家の苦悩を知りたい、感じたいと思う向きとしては、肩透かしの感。
それだけ佐藤泰志という作家が、そうした苦悩を表に出さなかったということなのかもしれないけれど……。
同人誌は、彼が心血を注いだものなのだろう。それは、その中に記された彼自身の言葉から推測できる。
ジャンルもごちゃごちゃに仲間内でわいわいやっていたような同人誌をおいて、本格純文学の同人誌を立ち上げた経緯からもそれは充分に感じ取れる。
でも、そこにあったんじゃないかと思われるそれなりの確執とか、同人誌仲間のやり取りは、突っ込まないよね。
いや、別にトラブルを望んでる訳じゃないんだけど(爆)、いや、望んでるのかもしれないけど(爆爆)、あー、なんか私、メッチャ俗人間でヤだ。
でも映画にするって、作品にするって、限られた尺で一人の人間の人生を描くって、そういうことじゃない。仲間内の思い出話を聞きたい訳じゃないんだもの。
なんて言っちゃって。ちゃんと?彼が自律神経失調症に悩んでいた経緯も紹介されはするんだけれどね。ちゃんと、ってなんだよ、と自分でツッコミ。
精神的に傾いて、それが自殺の遠因ともなった、と簡単に言うことは出来るけれど、それをしてない本作にイラついているのだとしたら、そりゃあまりに本末転倒だ。
そうやって、精神的に追い詰められる作家の人生を見たがっているなんて、サイテーだと思う。
そんなに人生、誰の人生だって単純じゃない。でも、でもさ……ああ、私は何を言いたいんだろ。何を見たいと思っていたんだろ。
自分の凡庸さに嫌気がさせばさすほど、才能に恵まれた人の不幸さを求めたくなるのか。自分は平凡だけど、まっとうに人生を送っていると思いたいのか。サイテーだ。
ただ、ただただ、印象に残るのは、彼の、佐藤泰志の、字。その癖字は高校時代、失踪事件を起こした時に、連絡船の乗船名簿を、その癖字を友人たちが探したというエピソードに印象的に示される。
劇中、その魅力ある癖字は、何度となくスクリーンに登場し、忘れられない印象を残す。本作の一番の印象度と言ってもいいぐらい。
原稿用紙のマスをいっぱいに埋め尽くす。そうか、まだ原稿用紙の時代、その最後の時代だったんじゃないかと思う。
もちろん今の作家さんでも原稿用紙に手書きの人はいるだろうけれども、ある年代から先に生まれた作家さんは、多分最初から、ブラインドタッチ、だよね。
昔ながらに赤い校正が入れられた原稿用紙、彼自身そのものを焼きつけた肉筆。
肉筆なんて、それこそ今はもう、言われなくなる時代になってしまった。その時代をうっかりまたいでしまった、いや、またぐ前に生まれてしまった作家、佐藤泰志。
そういうことなのかもしれない。つまりそういうことなのかもしれない。彼がもし、あと10年、あるいは20年遅れて産まれていたら。たらればは禁物だけど、こういう芸術家の生涯に触れると、時々神様が計算を間違っちゃったんじゃないか、って思うことがある。★★☆☆☆
そう、考えるとますます気が滅入るけれど、ならばこうした映画が作られる現代だけが問題アリなんだろうか?過去にはなかったから、作られなかったんだろうか??
きっとそうではなくて、ようやく表面化してきたということなのだろうと思う。だからこそ問題解決までには、更に二倍三倍の時間がかかるのだろうと思う。
そりゃ過去にだって、子供に理解を示さない親、暴力をふるう親、が映画の中に出てこない訳ではなかった。
でもやっぱりそれは、一つのフィクションであり、エンタテインメントの要素に過ぎなかったように思う。物語を構成するために、盛り上げるために、作られた要素。
でも、ずっとずっと隠されてきた。日本は基本的にはいい国だと思うけど、この隠す文化がいけない。いい場合も沢山あるけど、いけない方向にはひたすら、いけない。
昨今よく感じている、なぜ五体満足な人間以外を見ることが少ないのか。それは隠されているからなのだと。
その問題と一緒にしたら危険な部分もあるかもしれないけど、基本的には、日本人の“いけない方向”としては同じように思う。
虐待。それも親が子供にする虐待。密室の中で、精神的に追い詰められた中で行われる、犯罪。
私は、恵まれた家族環境にいたと思う。両親も姉も、家族として大切だと思える、人間的にも尊敬できる人たちだったから。
だから私は、特に子供の頃には、子供が親を、あるいは親が子供を暴力とか殺すとか、とにかく確執があるってことが、いまいち理解できなかった。
親は子供を愛し、子供は親を愛す。そんなこと、当然のことだろうと、それが出来ないのは、人間としてなっちゃいないぐらいに、愚かにも思っていた。
“親は子供を愛し、子供は親を愛す”前提があるからこそ、余計に事態を悪化させているんだということに、成長するにつけて段々と気づいてきた。
自分たちのような家族関係、親への、子供への感情を持っているところばかりじゃないんだと知るにつけ、私はなんだか……親になるのが怖くなってしまった。
いや、だから独身だという訳じゃないけど(爆)、でもちょっと、あるかなあ。自分には子供の親になる自信がない。振り返って思えば、自分の両親が、子供であった自分たちに対して、なんと大人だったかと思う。
本作は、子供といってももうだいぶ成長している。バイト先の店長に万引きの口封じをするために、「なんでもするから」と手と手を絡めて流し目を送るぐらいのことはやってのけ、乱れた服を整えつつその店長の財布を失敬するような、したたかな“子供”。
と、思えたのは最初だけ。確かに施設内でスタッフにガンをとばし、年下の子の面倒を見てねと言われても丸無視するような、まあ言ってしまえばよくいるタイプのいきがった生意気少女なのだけれど、そんな、大人になることを強要すること自体、残酷だよと思えてくるのは、彼女の境遇が、そして今の感情が、段々と段々と……判ってくるにつけ、である。
監督さんは、私、今回が初見だったんで、新人さんによくありがちな、もう最初に頑張っちゃって、深刻なヒューマンドラマ作っちゃって、その後が続かない、てなタイプかしらと思ったのね。
でも本作の前に既に、そうした社会問題を取り上げた作品で注目を集めているというし、本作以降もそうした作品の準備があるという。
こりゃあ、困った。この力量で続々続かれたら、受けるこっちの身が持たない……とにかく、これは本物の才能らしい。
でもね、本作は映画が持つべきエンタテインメントとしてもきちんと成立しているんだよね。言ってしまえば虐待要素だってひとつのエンタメだけれど(誤解を恐れずに言えばよ!)。
そうではなくて、これは映画の基本、ボーイミーツガールの物語であり、そして映画のもう一つの基本、青春にさよならを告げる、子供の成長物語でもある。
物語の冒頭、いきなりインコの羽がハサミで切られる描写。子供の頃インコを飼っていたし、やはりそんな風に飛んでいかないように羽を切っていたから、それがこんなに残酷なことなのかと、映画を見ている間中、この場面が頭を離れなくて、困った。
決して決して、私ら家族はインコのチャイム(3代目までいた)を虐待なぞしてない、とてもとても可愛がっていたよ!
でも……本作は虐待映画(なんて一発な言い方をしていいのかしら……)だし、羽をもがれてどこにもいけない、それも庇護者である筈の相手から、ということが、このシーン一発に含められている訳だし、しかもしかも、このインコちゃんは悲劇的な最後を遂げる訳だし、……なんか……。
そう、うちでもインコを飼っていてね、ヒロインのサヤコが「お母さんが踏んでしまって、瀕死のインコを私がトイレに流して殺してしまった」過去を語るような、そんな死なせ方はしなかったけど、三代いたインコのどれも……可哀想な死なせ方をしてしまった。
自分で危機をなかなか避けられない小鳥は、猫や犬よりずっとずっと気を使ってあげなければいけない存在だった。ということを、今、愛猫を傍らにして、そんなことも判らなかったあの頃を思い出す。
だから、このインコの描写は私はすんごく痛いんだけど、でもこれって、無論、ヒロインである、虐待された子供、サヤコに投影されているに他ならず……。
サヤコだけが、施設に入れられているんだよね。彼女にはお姉ちゃんがいるんだけれど、普通に仕事をし、一人暮らしを謳歌している。
この施設がどういうところなのか……虐待というテーマだから、てっきりそこから子供たちを守るための施設かと思ったけれど、何かと問題を起こすサヤコや、同じ施設に暮らすいかにもいきがった少女たちを見るにつけ、更生施設めいたところなのかな、とも思う。
ただ……そこにはひとり、とびきり幼い女の子がいて、彼女はいかにも、ヒドい親から離された雰囲気があるし、どうなんだろう……。
少なくとも、サヤコに関しては、お姉ちゃんがいるのに、彼女だけが、親から虐待された。
母親から、と言うべきなのかもしれないけれど、面会に来る父親はこんなところにいる娘にあからさまに金を無心するし(しかも哀れっぽく)、どっちにしろどうしようもない両親であった。
それでもサヤコにとっては、母親よりは父親の方がマシだったのか……。彼女がこつこつバイトで貯めたお金を、管理されてて自由にはできないから、事務室に忍び込んで通帳を盗み出し、携帯電話を契約したいから、保証人になってもらって、払い込みもしてもらうためにと、父親に託す、なんて、信じられない行為に出る。
それは“大人”の目からしたら、信じられない行為、である。なんでこの父親を信じられるの。金を無心に来たのに、どうしてこの父親がこの通帳を、娘の携帯料金以外に使わないと信じられるの。
サヤコは見た目はもう大人なのに。夜の街で出会うオジサンたちから、またヨロシク頼むよ、なんて何人もから声をかけられるぐらい……つまり身体は、身体だけは大人になっているのに。なんて子供なの、と思う。
それはあまりにも痛ましく、最後まで、最後の最後まで、思い続けたことだった。なんて子供なの。彼女は子供でしかいられないの。子供でいることから逃げ出せないの、と。
お姉ちゃんはもう、大人である。だって虐待を受けていないから。なぜ母親が、お姉ちゃんの方だけは娘として普通に?愛したのか……。ただ子供を愛せない母親、という訳ではなかったという、この複雑さ。
だから姉は、母親と同じように妹を虐待する。あんたは人に迷惑をかけるばかりだと、蔑み、殴り、ガムテープで縛り上げる。
いや、縛り上げようとした……父親に有り金を取られて放り出されたサヤコが、姉を訪ねた時、縛り上げられそうなところを、逆転して、サヤコが姉を縛り上げた。
母親にさまざまに虐待された幼少の頃の記憶が、何度も繰り返し挿入されるんだけど、ガムテのこれもあったんである。そして、姉だけを連れて母親は外出した。
そしてもっとひどい記憶……カンカンに沸いているヤカンのお湯を、背中に注がれた、信じられない過去。
ドアの外に放り出されて、泣いて泣いて入れてもらって、だけどドアの内側で鈍い音が繰り返されて、やめてやめて、痛い痛いと訴える幼い声だけでもあまりにもひどかったのに、そんな、そんな……。
今もサヤコの背中に生々しく残るやけどの跡。まさにもがれた羽の傷跡。それをサヤコはガムテで縛り上げた姉にも仕返そうとしたから、ダメ、ダメだよ、それだけはダメ、そうしたら、取り返しのつかないことになっちゃうよ!って……。
でも、幼い娘にしたそんなひどいことが、見過ごされたままになっているのに、成長した大人としての姉妹同士だと、罪となる。
ああ……ちらと解説で読んだ、同じく暴力、同じく犯罪なのに、親が子供にすると、“虐待”と名をかえられて、罪にならない。
罪になるのはほんの一握りの、子供が死んじゃったり、取り返しがつかなくなる時だけなのだ……。
虐待されている妹を、優越感……なんて判りやすいことじゃない、完全に卑下し、厄介者として見てどん底に突き落とそうとする姉の姿は、母親とはまた違った問題をはらんでいる。
マインドコントロール。お姉ちゃんはもう大人だし、大人に見えるけど、子供の時から、母親という大人に、それと同じ位置にいるのだと、刷り込まれた恐ろしさがあり、それはまた別の大きな問題のように思う。
姉妹同士で運命が別れた尼崎事件などを思い出してしまう。あれは妹が姉を、まさにマインドコントロールによって死に追いやった。母に成り代わった女によって。
本作の場合はまさに本当に母だけど、母の役割を放棄してる時点で、あの事件と大差ないように思う。つまりそれだけ……問題は危機的状況なのだ。
サヤコは父親に有り金とられ、姉に殴られ施設に通報されかかり、それを振り切って飛び出す。
飛び出した先でボーイミーツガール。この自転車に乗った男の子、ケンタは行く先々で「僕のこと、知りませんか?」と聞きまわり、自分探しの旅なんだと言う。
道行きを同じくしたサヤコが行く先々で、姉の元カレをはじめ、まあほとんどはエンコウの相手のおじさまに声をかけられることに、うらやましがる。
自分探しとか、僕のこと知りませんかというこの台詞とか、なんともウザイっつーか(爆)、なんかそれこそ、ひと昔前の青春映画にあったような感じだな、となんとも受け入れがたく感じていたんだけどね。
彼の父親が登場し、これまた虐待オヤジだと判明し、せっぱつまったサヤコとケンタがそこに偶然あったスコップ(偶然すぎる……)でかわるがわる殴り殺しちゃう段に至って、こりゃマズいわ……と思い始める。
こののっぴきならない事態が、それでなくてものっぴきならない彼らを極限まで追い詰めて悲劇的結末になるのかと、なんかもう、最後まで見たくない気持ちだった。
でも、そうはならないんだよね。言ってしまえば埋めて終わり。いや、言ってしまえばにも程があるけど(爆)。
今ではもうすっかり大きくなって、暴力でねじ伏せてくる父親にはむかうことだってできそうな彼が、アッサリボコボコにされるのは無論、それまでそうした力関係でいたからに他ならない。
この父親が家に帰ってきた場面、姿を消した息子を、押し入れやらを開けまくって探すってあたりに、この父と息子にも残酷な虐待があったことがうかがえる。だから彼らだって凄く深刻なんだけど……。
サヤコとその母親に、重点を置いていたんじゃないかと思う。このケンタと父親は、サヤコに自分だけじゃないと思わせるファクターだったのかな、なんて……。
埋めて終わり、なんて言っちゃったけどね、あのシーン、遠くに光るライトアップされた橋にキラキラライトをきらめかせて車が行き交ってて、誰も彼らが死体を埋めているなんて知らない、そんなシーン、「誰も知らない」を思い出しちゃったんだよね。
あの時遠くに見えていたのは、確か飛行機だったように思う。
本作でもサヤコが飛行機を見上げるシーンがある。子供であるというだけで、保証がないというだけで、身体はもう立派に成長しているのに、大人である親たち(だけに限らない。社会に跋扈する卑怯な大人たち)から虐げられ、ここから一歩も出ることが出来ない。
そうなの、サヤコがお姉ちゃんのところに行ったり、いくらお金を取られたと言っても父親のところに行こうとしたり。
そして何より……最初に行ったのが、あの鬼畜母親のところでさ、男を連れ込んでたからすげなくされるんだけど、男が帰るまでドアの外で辛抱強く待ってる。
それは幼い頃、ボコボコに殴られて放り出されたのに、他に行くところがなくて、同じように外で待っている、まさにその場面の再現でさ。
この時には男が自販機で買ったお釣りをくすねて逃げ出し、ボーイミーツガール、なんだけど、この時ドアの外で待っていた、まさにそこに戻ってきた、ラストなのよ。
私ね……ビックリした。ここに戻ってくるんだ、って。背中にやかんの熱湯を注いだ母親の元に、いくら行くところがないからって、それだったらまだ施設の方がマシだと思うのは、素人?考えなのか。
そう、だから、だからこそ……サヤコがここに“戻って”きた、ここしか“戻る場所”がないことが衝撃だった。
なんでこんなに、行く場所がないの。子供だから、行く場所がないの。それとも彼女は大人になっても、行く場所がないの。
サヤコは母親が昔と同じようなインコを籠に飼っているのを見つけ、目を見張り、涙をはらはらと流して「……久しぶり」と言う。
違うのに、あの時サヤコが“殺して”しまったインコじゃないのに。なのに。
これは、このラストはどう考えたらいいの。彼女は地獄の子供時代に戻ってしまったの。それとも……。
ただね、この母親が、ここはもうあんたの戻る場所じゃないと言っていた母親が、一晩さまよい、ぼろぼろになった娘が舞い戻ってきて、どこか呆れたように、諦めたように、部屋に迎え入れたことが、すんごく意外だったんだよね。
子供を愛せない母親、その一点だけで考えられれば簡単だったし、ラクだったんだけど、長女は可愛がり、誕生日には服をプレゼントし、サヤコはそれに嫉妬して、殴りつける姉に恐らく初めて抵抗して、ガムテで縛り上げた。
姉にプレゼントした若草色のサマーニットを着ているサヤコを、母親がそれに気づいたならまた色々考えるところがあったのかもだけど、そこまでの言及はなかった……難しいな。
大人だったら、大人になったら、いくらでも逃げようがあるのに、と最初は思っていたけれど、そうじゃないのか。ある程度健全な家庭環境で子供時代を過ごせなければ、大人になることさえ、許されないのか。
そしてそれを、そんな時にはここぞとばかり、彼らの中の“大人”を要求する社会。どうすればいいのか……。
鬼のように、いや、悪魔のように怖い母親、川上麻衣子が恐ろしすぎる。彼女がインコを手の中におさえて羽をハサミで切り落とす、その手は彼女自身じゃないかもしれない(恐らく違うだろうな)のに、その冷徹さが押さえつけられて羽にハサミを入れられるインコに映されている気がして……。
施設に据え付けられた、同じ模様のインコの置物、三度ぐらい映されるまで、ホントのインコ、まさにあのインコかと思った。
そうじゃないのよとばかりに、作り物の目にカメラが寄って、ちょっとホッとしたけど、このインコの置物の意味ありげはちょっとやりすぎな気がしたかなあ。
★★★☆☆
戦争モノという訳ではないんだろうけれど、きっと監督はそこのところは努めて回避して作っているんだろうけれど。
実際、とても美しいラブストーリーという側面だけでも語れるぐらいなんだけど、でもやっぱり、戦争モノという側面は、避けられない。
予告編や宣材カットを見る限り、そこで重点を置かれているのは二郎と菜穂子のラブストーリーであり、あるいは二郎の飛行機への愛であり、戦争云々に関してはチリほども見せていない。のが、なんとなく気になるんである。
それこそなあんにも知らずに、この予告編の雰囲気だけで足を運んだら、どんどん重苦しくなる戦争の影に、えーっ、聞いてないよーっと思う人もいるかもしれない。
ラブストーリーの側面だって、ある意味ではそれが一つの障害になって盛り上がる部分もあるし。
さすがに公式サイトでは、墜落してズタズタになった零戦の前で呆然とたたずむ二郎のカットが印象的に配置されてもいるし、きちんと情報として提示はしているんだけれど……何となく気になったんだよね。この表向きのさわやかさ、ロマンティックさが。
勿論それは、堀越二郎という実在の人物を知ってさえいれば、何の問題もないことなんだよね。そりゃ知ってる人は知っているのだろうが、私は知らなかった。そこはそれ、そういう方面にはとんと疎いからさ。
それこそ戦争方面に詳しい人にとっては有名人なんだろう……なんて言い方をしては良くないだろうか。
あくまで航空技術者として名をはせた人。宮崎監督自身もあくまでそういう視点において、彼の人となりを追っているのだし。
堀辰雄はね、そりゃ知ってるさ。一応私も日本文学部出身だしさ。まあ、読んでないけど(爆)。
でも風立ちぬといやー、松田聖子……いやいや、その前に堀辰雄だってことぐらいはさ、知ってるさ。
堀越二郎と堀辰雄、なんか韻を踏んでますかあ?ぐらいな感じで、惹句を見ていた。堀越二郎のことを誰だろうとは思っていたけど、特に気にしてはいなかった。
主人公のキャラクターは、この両名を“ごちゃまぜにした”んだという。とはいうものの、ほぼメインの人物造形は、優れた飛行機設計者として、戦時中には外国をも恐れさせた堀越二郎に他ならない。
タイトルからは堀辰雄が真っ先に思い浮かぶものの、それ以外はどこに??と思ったら……。
菜穂子、だったんだね。このラブストーリー、悲恋のお相手、堀越二郎はそんなロマンティックな人生だったのかと思ったら、堀辰雄の体験こそが元になっていた。
……そーかそーか、なーるほど。でもこれも、ちょっと調べてみちゃったから判ることで、こういうのってどうなのかなー……と思いもする。
堀越二郎その人の人生だと思い込んじゃうのも、この堀越二郎が全くのフィクションの人物造形だと思い込んじゃうのも、両方アリじゃない。でもそれだと、どっちにしても、この作品世界そのものに誤解が生じてしまうことになる訳で……。
なんかね、こういう“ごちゃまぜ”って、あんまり好きじゃないなあ、って気がしたのだよね。本当は幸せな家庭を築いた堀越二郎に、薄幸の恋人との悲恋をあてがうなんて。
ただ、美しい。確かに美しい。喀血したという電報をもらった二郎が、恋人の元に走り込んで庭から駆け込んで、病床の彼女をひしと抱きしめ口づける場面なんかもう……。
……という具合に流れで行っちゃうともうどうしようもないので、この辺で話を戻さなくては。
話を戻そうと思ったけど、一つだけ。そう、それこそ、宣伝でもバンバン流れていたテーマソングの荒井由実「ひこうき雲」が、この曲からインスパイアされて作られたのかなと思ったぐらいだったんだよね。
つまりこれって、ある意味ネタバレ。彼女が死んじゃうの、バレバレじゃん。
まあそこまで明確には示されないけど、高原の療養所から二郎の元に逃避行、「僕たちには時間がない」からと、ただ一緒にいるためだけの、そのためだけの結婚をする。
しかし彼女はある日、突然療養所に戻ってしまう。それは、「きれいな姿だけを、好きな人に見せたかったのね」と世話になった上司の妻は涙を流す。
このシークエンスは、二郎が世話になってる上司夫妻の元で、夜半ひそやかに結婚式を挙げる場面もひどく美しくて胸が詰まったし、寝床の中から仕事をする彼の手を握りながら眠りにつくなんていう場面も、とにかく二人の結晶のような愛の姿が切なくて、その点に関しては何の文句もないんだけど。
でもでも、でもでも、今更、不治の病で死にゆく女かよ!と思わなくもないというか……。
そんなことを言っちゃいけない。だってこれはきっと、二郎の設計した零戦に乗った若者たちが「ひとつも帰ってきませんでした」と彼がひっそりと言う、それにだって呼応しているに違いないのだから。
愛する妻も、彼の設計した飛行機に乗った前途ある若者も、若くして世を去ってしまった。でも、彼は「生きねばならぬ」と敬愛するカプローニに言われる。そしてまっすぐに前を向く。
そうそう、カプローニ。ようやくなんとなく最初に戻れる気がしてきた(汗)。イタリアの飛行機設計者、二郎が敬愛するカプローニ。少年時代から二郎の夢に何度となく出てくる彼のヒーロー。
飛行機が戦争の道具となってからも、「当局にはナイショだがね」と遊び心タップリの設計を施した飛行機に乗せてくれる。
というのは勿論夢の中。華やかな女の子たちがキャーキャーと身を乗り出し、飛行機の翼の上を歩く。宮崎駿の真骨頂。
真骨頂だけに、よくぞまあこんなにも、議論の余地をタップリ含んだ作品にそれを注ぎ込んだと思う。
現実の世界では戦闘機に使われている飛行機を、遊覧船、船じゃない、飛行機だが、それよろしく飛ばす。
それはまさに宮崎駿のお得意の画で、……なにか今までの彼の作品で見たことがあるようなデジャヴな錯覚にとらわれる。
カプローニとの夢での対峙の場面では何度となくそんな場面が描かれ、どれだけ現実が真っ黒に塗りつぶされても、突然カラフルになる。“美しい夢”を肯定的に、というか楽観的に示してくる。
そう、この“美しい夢”という、何度となく示されるモティーフ。モティーフというか、なかば強制的に刷り込まれていると思えるほど何度も繰り返されるキーワード。
正直なところ、ちょっとそうした強制的ムードを感じて、違和感というか、拒否感というか、そんなものが、あった。
“美しい夢”というキーワードが繰り返し示されるのは、現実の世界ではなく、いつでも、二郎が夢の世界に飛ぶ、カプローニ氏と対峙する、カラフルで、重力なんかなくて、美しいことだけを純粋に追い求められる世界でだけ、なんである。
現実の世界で、色濃く戦争が浸食する中で、“美しい夢”なんて、とても口に上らせられない。
つまりはそれだけ対照的に示している訳で、現実の、戦争の厳しさと、でも人間が真摯に追い求めるべき“美しい夢”ということなんだとは思うんだけど……ちょっとなかなか、そのあたりが難しい気がしたんだよね。
正直な感覚を言えば、やたら“美しい夢”を連発して、二郎が零戦を作ってしまった功罪、ということから逃げているというか、そういう議論に持ち込ませないようにしている気がしてしまった。
カプローニ氏との夢のシーンはとても美しいし、純粋な思いや理想を信じられるけれど、断続的に挟んでくる構成に、そういった深刻な議論を深ませないようにしてる感じがしてしまった。
しまいにはやたら連呼される“美しい夢”という言葉が、洗脳ワードのように思えてきちゃって、つまり零戦を“作ってしまった”ことを、あくまで二郎の真摯な飛行機への愛(まあ確かにそうなんだけど……)とだと言いくるめる言葉のように思えちゃって、それはなんか、正しい擁護(という言葉も正しくないと思うけど)の仕方じゃないんじゃないかと、思ってしまったのだ。
勿論、二郎は、自分の作った美しい飛行機が、結果的には若者を乗せて「一機も帰ってきませんでした」なんてことにはしたくなかったに違いない。それが二郎の罪である筈もなく、その後も彼は飛行機の未来を追求し続け、だからこそ真に名を残す技術者となった訳なのだから。
それに、悲しいことだけど、戦争が人間の文明や技術を発達させてきたこともまた事実なんであり……それはもう打ち止めにしてもらって、もう充分ってことにしていただきたいけれど、当時は確かに、そういう側面もあったのだ。
そういう側面もあった、ということは充分に承知していながらも、劇中の二郎がかなり淡々としているのは気にならなくもなかった。
いや、これで二郎が、自分の飛行機が戦争の道具に、我らは武器商人かとか悩んでしまったら、それこそ戦争映画になってしまう。宮崎監督が目指した、自分の夢を真摯に追い求めた人を描くということから外れてしまう。
でも、そもそも、堀越二郎を描くとなった段で、この葛藤は避けられない訳で……つまり宮崎監督は、飛行機への夢を信じて突き進んだ二郎を描いたということなんだろうけれど、それで正解なんだろうけれど、それ故に、なのか、彼の携わる飛行機がどんどん戦争に、つまり人殺しに関与していくごとに、彼の淡々とした、冷静な表情が、なんだか気になってしまって……。
二郎はエリートだからさ。帝国大学の噂の英才だと、会社に迎えられる。上司どころか社長も唸らせる才能で、あっという間にトップに上り詰める。
あくまで二郎は、よりよい飛行機の設計に没頭している。時代だから、軍からの要請によって仕事をするにしても、海軍の連中のやかましい文句には最初から耳を傾ける気なんてない。
実際この場面、キーキー言う軍人の言葉は全く意味を持って聞こえてこないようにされていて、思わず笑ってしまう。
でもそれは、今の、平和な時代だから出来る芸当。この当時の日本人に、本当にそれだけの思想の自由が確保されていたかどうか。
いや、されていたのかもしれない。だってここにいる人たちは、それが確保されるだけのエリートだもの。なあんて思っちゃうのは、非エリートのひがみだろうか(爆)。
戦争だから、爆撃機能を持たさなきゃいけないから、軽量化がそのせいで図れない、とあっさりと言う二郎に、同僚たちは爆笑、つまり彼らにとっては本当に、飛行機だけが、技術だけが、信頼に足ることなのだ。
戦争も、政府も、軍人も、どうでもいいこと。でもそう思えたのは、彼らのような恵まれた技術者だけだったんじゃないだろうか……。
本作の中で印象的なのは、ドイツへの技術視察の旅。おカタいドイツ人たちに四苦八苦しながらも、その“美しい”技術を目の当たりにして感嘆する。
二郎の同期、良き相棒の本庄は、とにかく日本は、20年は遅れているんだ、と焦るばかりだけれど、二郎はただただ、その“美しい技術”に惚れ惚れとし、自分の中に還元したいと、技術者としての純粋さだけ、なんである。
……やっぱり、二郎の造形は、時代だの、戦争だの、別にどうでもいい、自分が愛する飛行機が美しければそれでいい、ってことだったんじゃないかと思う。まあそりゃそうだよね。監督自身が、その夢にまっすぐ邁進する人を描きたいと、そう公言しているんだから。
でも時代が時代だし、同僚にはこうしてハッキリと、時代への関与を提示している。二郎自身も、身に覚えのない思想犯の疑いをかけられるなんていうシークエンスも用意されている。
二郎が何故、思想犯の疑いをかけられたのか……少年の頃から、外国の技術雑誌なんかをよく読んでいたからなのか、一人の技術者に傾倒してたりしてたからなのか、その辺は明らかにされないけど、明らかにされないからこそ、“二郎もまた、時代の流れに翻弄されてる”てなネタだけのためみたいな気がしないでもないというか……。
しかもその流れで、上司の家の離れに逃げて、そこに菜穂子もまた逃げ込んでくる訳でしょ。“時代に翻弄された恋人たち”みたいに見えなくもないというか……。
いや、てーのは後からぐだぐだ付け足しで思ったことで、こん時にはフツーに感動してウルウルしてますけど(爆)。
菜穂子との出会いは、関東大震災。列車に乗り合わせていた二人の運命の出会い。
二等車の菜穂子とその付き添いの女中さん、二郎は三等車の学生さん。デッキで風に飛ばされそうになった学生帽を菜穂子がナイスキャッチ。その時は会釈して別れたんだけど、その後、関東大震災が襲う。
この震災の描写が、凄くて。グワグワと家屋が盛り上がっていく。東日本大震災が起こるまでは、関東大震災は勿論、ドラマや映画で描かれてはいたけれど、これほど大地の臨場感を描写することはなかったと思う。
家の中でグラグラ、そして街が火の海、そんな感じで。やっぱりあの震災が、リアルな震災というものを、もたらした、と思う。
足を折ってしまった女中のおきぬさんがまず、二郎にホレてしまったんであろうということは、その後迎えに出向いた若い衆が「いい男だな」とおきぬさんに声をかけた時点で知れてしまう。
その後、菜穂子と偶然の再会をする二郎は、彼女から「私とおきぬのヒーローだったんですよ」と聞かされ、菜穂子は、今は二児の母となったおきぬさんに、このことを知らせます、と上気して言うんである。
……私は“年増”の方だからさー、なんかおきぬさんの気持ちを思っちゃう。うっかりこの震災の描写を細やかにしてくれたもんだから、おきぬさんが二郎にハートを燃やしたトコに、ズキュンときちゃったもんだからさあ。
だって、だって、ズルいよ。菜穂子は若いお嬢さんだし、英語なんかハツラツとキメて、しかも不治の病の薄幸の美少女だなんて!……うっ、そんなことを言ってはいけないか、でもでも、さあ……。
菜穂子との再会は、あまりに偶然に過ぎる気もするが(爆)、あれだけモーレツサラリーマンだった二郎が、妙に優雅な休暇中。“避暑地の出来事”的な、別荘地での再会である。
彼女の方はすぐに彼だと判って、「ちっともお変わりありませんのね」とぼたぼた涙を流す。……こんな時にも二郎は冷静だが、でも彼が唯一涙を流すのが、菜穂子が喀血したという電報を受け取って、急ぎ東京の彼女の家へと向かう車中。
でもその涙は、車中の中でこなす仕事の、設計図の上に落とされる。ああ。女は、少なくともこの時代は、男の仕事の二の次に位置されるのか。
この別荘地ではドイツの技術者との出会いもあり、それが二郎の心に影を落とす。
戦争、ヒトラー、思想犯。純粋な“美しい夢”がねじまげられていくことを逃げようもなく痛感させられていく筈なのに、かたくなに、憎たらしいほどに、二郎が最後まで表情を変えないのが、それは監督の信念なのか、それとも……。そう感じるのは私だけなんだろうか。
そんなにもこんな状況でも、純粋に理想を、美しい夢を追えるのかと考えてしまう私だけの思いなんだろうか。その思いをわずかでも揺らがさせるのは、“薄幸の恋人”だけだなんて。健康な恋人なら、そうはならなかったのか。
そんなイジワルなことを考えてしまうのは、二郎と菜穂子が、凄く、あまりにも、ひどく、とてつもなく、美しかったから。
出会いと再会のシチュエイション、不治の病、凍てついた療養所の、音さえ失われた白い世界、全てが言葉を失うほど、言葉のいらない崇高さだった。
ズルい、と思った。だって生きねば、なんでしょ。生きていかなきゃいけないのに、神様に召される美しさを彼女への思いに付加させているなんて、ズルいよ。その後生きていく人間に対して、ズルいよ。
それは……二郎の作った零戦で散っていった、「一機も戻ってきませんでした」と、二郎がただ一度だけ、自分の信念が揺らぐような言葉を発したことを、逆に美化するようで。特攻で散った彼らと菜穂子を同列の“美しさ”にしてしまうようで、そんなの、私は、納得できないよ。
考え過ぎかなあ、考え過ぎかも。でも……。ひたすら“美しい夢”に封印してしまった気がして、確かに美しかったし、何一つ間違ってはいないと思いながら、モヤモヤとしてしまう。
彼は結局、飛行機に、この“美しい夢”にどう決着をつけたの、と思ってしまう。
戦争の重さも充分描いていたと思うし、手を尽くし、思いを尽くした作品だと思う。深い作品性もあると思う。……でもどこかに掴めないものを感じるのは、主人公こその、その根幹たる思いをハッキリと掴み取ることが出来なかったからじゃないかと思う。
愛する人への思い。飛行機への愛。尊敬するカプローニ氏への思い。……こうして羅列していくと、次第にそれが薄まっていく気がする。
“美しい夢”の連呼が邪魔する気がする。何度も連呼されるたび、それってつまりどういうことなの、どういう意味なの、って。
カプローニ氏との夢の場面が何度も挿入されるたび、それって未来への夢というより、白昼夢のような、妄想夢のような気がしてしまう。
じきに公開されるもんで、「永遠の0」がやたら宣伝されているのが妙に皮肉に感じてしまった。同じ零戦が同じ映画の土俵で描かれるこの違いに。
二郎を演じる庵野秀明氏の、絶妙な単調さが、ストイック。ストイックだから、病床の菜穂子の元に息もつかせず駆けつけるギャップにドキューンとしてしまう。
庵野氏とジブリといえばさ、ナウシカのアニメーターだったことをやっぱり想起しちゃうよね。彼が語ってた、ドロドロ溶ける巨神兵、そのドロドロスピードが自分的には納得いかなかったと語ってたこと、思い出した。
本作の冒頭がさ、少年の二郎が夢の中で飛行して、平和に飛行しているんだけど、謎の、不気味な飛行群が登場するじゃない。そこから降りてくる光る眼の、黒い怪物みたいな造形が、庵野氏が納得いかなかった巨神兵を思わせて、なんか最初からドキドキ、というかワクワクしてしまった。
庵野氏と宮ア監督の不仲説とかは知らなかったけど、そんな、コアファンでもない一般、部外者の側からもなんだかワクワクしてしまう。
自身で物言わずとも、庵野氏が主人公の声を担当していることで、外野が勝手に妄想するロマンや理想に、自然と歯止めをかけているような、そんな気もする。
あ、言い忘れたけど、二郎の妹、医者になる勝気な妹が良かったなあ。★★★☆☆
大阪の雑踏の食堂で身を寄せ合って食事してる、義父がビールを飲んでおいしそうにしているのを、おいしいの?良かったわね、と、まるで自分の父親を慈しむように言う倍賞千恵子の生々しい可愛らしさにズキュンと来てしまった。
妻であり、嫁であり、母であり、膝上のスカートの、その膝頭に少女の面影を残していた。そりゃまあ寅さんの最初の頃の、いっちゃん若い頃の彼女は本当に可愛くて、それは知ってたけど、あの寅さんに閉じ込められていた彼女が、女優の輝きを見せている作品があるんだと思った。
いや別に、寅さん以外でだって彼女のことは見ている筈なんだけど、でも彼女もやっぱり寅さんにとらわれて……というか、そのイメージを大切にしてきた人なんだと思う。渥美清ほどストイックに貫いた訳ではないにしても、やはり……。
本作には渥美清も、旅の途上ですれ違う一人としてゲスト出演的に出てくるけれど、それはまさに渥美清のイメージそのままで、裏切らない。他にもクレイジーキャッツのメンメンやら何やら、当時の人気者がゴーカに出てきて、それらもまたやはり、裏切らないんだよね。
でもこの家族だけは。倍賞千恵子、夫の井川比佐志、舅の笠智衆、そして幼い子供たちは、まさにこのナマな過酷な現実の中に放り出されて、凄く、リアルで。なんかもう、ビックリした。
いや、こういう映画だってことを知ってた筈なのに、こんなことを山田監督がやってたなんて、って。
だって彼って、作劇の人じゃない。喜劇にしても、シリアスにしても、そうじゃない。物語も台詞も作りこむ、まさにこれが映画だ、っていう、お手本のような優等生的監督。その彼が、こんな実験的なことをやっていたなんて。
ドキュメントタッチ、ていうかドキュメントな撮影方法の作品、それは是枝監督、それもあの「誰も知らない」を思い出し、まさにあれも家族であり、しかも幼い娘が死んでしまうところまで、うがって思えば符合していたりして。ひょっとして是枝監督は……うがちすぎかな。
とにかく、それよりずっとずっと前に、あの山田洋次がそれをやっていたのかと、自分の無知がひたすら恥ずかしい。でもホント、観ることが出来て、良かった。
物語としてはね、もう、日本縦断なのよ。北上よ。一家が、長崎の小さな島、伊王島から北海道の中標津に向かう。なぜかといえば、開拓のためである。
本作が作られた1970年、そして撮影もなんたってドキュメントタッチなんだから、あの大阪万博をリアルタイムに映し込んだりしている。
1970年なんてもう随分と“最近”だと思うんだけど(いや、私はまだ産まれてないけどっ(そこ強調))、なんたって高度経済成長真っ只中でありながら、まだ北海道が“開拓”なんて、うっそおという感じ。
夫の精一は長年それを夢見てきた。「俺は使われるのには向いてない」とか言って勝手に仕事を辞めて、妻の民子は困惑。だって子供はまだ二人とも小さいし、北海道の開拓なんて、辛くて逃げ出した人も多くいると聞く。
しかしそんな言い募りにも、「男の決めたことにいちいち口出しするな!」
あーもう、サイアクな台詞。私だったら即離婚だけどなっ。いやここでへこたれるから現代人はダメなのか。
ていうか、彼女の支えになっているのは、これが意外、舅なんだよね。もちろん愛しい子供の存在や、実際は女こそが強いってこともあるけど、舅が、イイんである。
だって笠智衆だもの。姑は、もう死んでしまったのか、民子が精一の元にお嫁に来た時からいない。舅が真っ先に、ひと目で、息子が連れてきた民子を気に入ったんである。
でもその回想、正座した民子の短いスカートからこぼれ出る太ももを、彼女が舅の視線から隠すようにしきりにのばすなんていうのって、ギリギリだなー。
いや、笠智衆がそんなエロ舅な訳ないけどさ(爆)。ホント、倍賞千恵子、可愛いんだもん。
そんな風に、回想シーンは本編のドキュメントタッチと対照的に、まさにこれぞ山田洋次風味、ていうか、松竹風味というか、古き良き時代の日本映画そのものというか、って感じなんだよね。
これはやっぱり、意識的に、いつも以上にそんな風に味付けしているような気もする。色味もセピアで違っているけど、それ以上に、違う。
メインストリームの彼らはひたすら旅人で、いつでもガヤガヤとした人ごみに落ち着かない。回想での彼らは、民子の仕事場に顔を出す精一に、周囲に気付かれないように目配せしたり、船上でのデート中の突然のキッス(!キッスと言いたくなるわー)やら、それこそ先述の、父親に引き合わせる場面もそうだし、メッチャ、あるあるー、って場面なんだよね。
ご丁寧に結婚式の場面まであって、しかも彼らはクリスチャン!そうか、長崎なら多いんだな、きっと。なんかもうやたら、オトメチックというか、ロマンチックなの、回想は。
でもこのクリスチャンっていうのだって、後々厳しい現実に何とも悲哀の深い味わいを沿えるんだよね。もうそれが何とも……。
舅の笠智衆は、旅の途中、広島の次男坊家族に世話になるため離脱する筈だった。でもそれを「兄さんが勝手に決めた」と弟は怒る。
……実際は父親である笠智衆が、自分は足手まといになるから(ということはハッキリ言わなかったけど)ツトムのところに行く、だからお前たちは気兼ねせんでいい(ということも、何たって笠智衆だから言いはしないんだけど)と、言って決めたことなんであった。
でもこんなことになって……考えてみれば、実の息子二人ともから拒否されたことになる訳で……。
民子がね、お義父さんに一緒に来てもらおうと言う訳。開拓は死に物狂いでやらなきゃいけない。お義父さんにきてもらえれば、子供たちの面倒もみてもらえる、と。
もちろんそれは実に建設的意見、そのとおりではあるんだけど、舅の気持ちを考えるともう……ていうか、笠智衆だからさあ。眠れずに息子たちの言い合いを聞いている彼がたまらんくて、さあ……。ある意味、笠智衆であることが、ズルい!!
ちなみにこの次男坊は、前田吟だったりする。寅さんではずっと夫婦である倍賞千恵子が「ツトムさん」と、義弟として相対するのがなんか不思議。
結局父親を拒否した形になった彼は、気まずげに彼らを送り、なけなしの餞別を渡して、帰り道の車の中でむせび泣くんである……。
旅の途中、ようやっと東京についたところで、幼い娘が死んでしまうんである。
何せ長旅、今のように飛行機でシュッという訳には行かない。何日もかけて鈍行でどんぶらこ。一応新幹線や特急の場面もあるけど、当時はまず、東北新幹線がないし……そうそう!
東北を縦断するのには東北本線、そして北海道に渡るには連絡線、私の子供の頃はまさにそう!福島から親戚のいる函館に行くのに、列車で六時間、船で四時間、計十時間、と、呪文のように唱えてたもの!な、なつかしー。
でも彼らは、ここまで来るのに更にトンでもない時間を使っている訳で。早苗はまだ赤ちゃんというほどに幼くて、その旅の疲れのせいであろう、哀れにも死んでしまうのだ……。
もうさあ、もうさあ、もうさあ……これは、あんまりだと、思ったよ。そんな過酷を与えなくてもいいじゃん、って。
この時、特急券をとっていた精一は、明日の朝青森に着いてから医者に見せればいいじゃないかと言った。それを民子は、突っぱねた。
それまでも気丈なところを見せてきた民子、その最大が、夫の夢についていくことだったんだけど、そして民子の判断は正しかったんだけど……正しかったけど、遅かった。
とにかく宿をとって、病院を探した。夜ということもあって、開いている病院を探すのに手間取った。「なぜこんなになるまで放っておいたんですか」と言われた。
……民子の悲痛な声が、夜の救急病院に響き渡る。精一はただただ、頭を抱えるしかなかった。
この時にね、舅は本当に、……笠智衆は本当に、支えになるのよ。
彼はただ、長男坊、剛の面倒を見ているだけ、といえばそうなだけ。動物園に連れていって、おまんじゅうをタダでもらっちゃった孫を叱咤してお金を払わせたり、優しくもちゃんと人の道を教えるおじいちゃんを完璧に全うする。こんな時にも。いや、こんな時だからこそ、かもしれない。
精一はね、もう打ちひしがれるばかりの民子と、そんな妻をどうしようも出来ない、自分も打ちひしがれているけれど、なんたってこんな事態になったのは自分のせいだということもあるから、でも男のつまんないプライドもジャマしているから、どうしようもないのさ。
舅はね、最初から、それこそ息子が民子を連れてきた時から、彼女を信頼して、民子の言うとおりにしろと、ことあるごとに息子に言ってきた。
早苗が死んだ時、こんな時お前がしっかりしなきゃいけないと叱咤しつつも、泣き崩れる民子を痛ましがりながらも、民子の方をこそ、彼は信頼している、っていうのがね、いいんだよね。
まあ、これは笠智衆ってのもあるけど、ヤハリ舅だから、っていうのもあるのかもしれないなあ。姑だと、難しいかもしれない……。
重苦しい気持を抱えて、四人になってしまった一家はようよう中標津にたどり着く。想像をはるかに超えた荒れ野に「とんでもないところに来てしまった……」と、それまでは強気なことばかり言っていた精一が弱音めいたことを言ってしまう、のね。
それまで、民子にも、そして弟にも考えが甘いと言われ続けていたのを、長男坊の甘ったれみたいな強情を通してここまで来ちゃって、娘まで死なせて。
しっかり者の民子ですら「島に帰りたい……」と泣き崩れ、逆ギレして妻や父親に暴言を吐くサイテー夫だった。
でも、それぐらいまだ強気でいれられのに。
あのね、北海道に着いて、逆ギレ&しょぼくれてた精一は、ぷいと買い物に出かけるのね。帰ってきたら、皆の長靴と防寒具を買って帰ってきた。
しかもね、民子には鮮やかなピンクのオーバーコート。それまで泣いてばかりいた民子がふと顔をほころばせて、舅を見る。舅もにっこりと笑みを返してくれる。
小さな食堂でのこのシーン、ほんの小さなシーンだけど、めちゃくちゃグッとくる。
それでもその後も、民子は中標津に向かう列車の中で、子を亡くした同じ境遇の女に話を聞いてもらって一緒に泣いたりするんだけど、いや、でも、この女の話を聞いている時には、もう彼女の涙は乾いていた。どこか呆然としたような、超然としたような顔で、窓の外を、その更に遠くを、眺めていた。
しかもこの、北海道に入ってから、目的の中標津に着くまで、いくつものローカル線を乗り継ぐ、それを淡々とクレジットで説明する、それが更に永遠のような遠い道のりを感じさせる。
着いた頃にはもうへとへとで、ニコニコと出迎えてくれた夫の友人に、抱えた骨壷を、それ何ですと聞かれて「早苗です」と、絶句した相手に気遣いも出来ずに直裁に言って、へたりこむしかなかった。
精一と民子は改めてその大地に呆然とし、しかし舅はニコニコと、まず大地にクワを入れた。炭坑夫時代に苦労をした彼は、寡黙だけれどとにかく強い男なのだった。
歓迎の宴が開かれ、舅が炭坑夫時代に鍛えたノドで聞かせる歌が皆の喝采を浴びる。
まさにこのたった一日で舅は近隣の開拓民の心をつかみ、それを息子夫婦と孫への最大の置き土産にして、その晩、眠るように息を引き取った。
あうう、あうううう、なぜなぜ笠智衆まで死なせるのおっ。二人も死ぬなんてあんまりだ、あんまりだ。
……でも、この場面、すっかり酔っぱらった精一が今までの彼からは考えられない、「お前がいなきゃだめなんだよう」みたいに民子に甘えて、そんな夫をよしよしとなだめた民子、隣の部屋でおじいちゃんの布団をすっかり占拠してしまった息子の剛に、ダメよ、こっちで寝ましょうねと声をかけようと、して……。
まっすぐに、仰向けに、生真面目と思えるほどの寝姿の舅は、息をしていなかった。その口元は、楽しくて仕方ないっていうぐらいに、大きく微笑んでいた。
このシーン、この一連の流れ。外は吹雪が大きく窓を鳴らしていて、楽しい宴の余韻が残っていて、でも夜の闇が覆っていて、まだ慣れない妙に空間の大きな家の中で……。
なんか、何もかもが、何もかもが、たまらないの。舅はまさに役目を終えて死んでいったの、満足げに!!
あの一晩で皆をとりこにしてしまった舅と、そして旅先で死んでしまった早苗の葬儀が執り行われる。キリスト教式なんである。
盛り土に十字架。神父様の呼びかけ。ホーリーネーム。寒々しく荒れ果てた北の大地。いやんなるほど画になってしまう。
6月になれば、花がいっせいに咲いて、いっせいに春と夏が来る。それまで2ヶ月だと。頑張ろうと、民子はくじけそうな精一を励まし続ける。
大丈夫かよと正直思う。でもパンと時間が飛んで、まさに6月になって、子牛が産まれるところから始まる。ズルい、ズルいよー、この画一発で泣いちゃうじゃん!(涙腺ヨワすぎ……)。
民子は喜び勇んで大地相手に格闘している精一の元に駆けていく。しかもしかも、精一が一緒に仕事している友人に「コイツのお腹にもいるんです」。
で、出来すぎー!!おいおいおい、それまでのドキュメントタッチはどうしたんだよ!まあ、いっか、幸せならばっ。
メッチャ疲れたけど、それだけのスゴいものを観てしまった!
★★★★★
という訳で、かなり見苦しい文面になってしまうのはごかんべん。本作はかなり観たかった、のは、やはり、南果歩のデビュー作だから。
彼女のルーツがデビュー作で色濃く反映されているというのも凄く根っこを感じたし、名作の聞こえも高かったから。
しかしまあ、そうだ、これは小栗康平なのだった。この独特の静寂とその画とリズムに、恥ずかしながら前半は眠気をこらえるのに必死。
若い二人の恋物語が叙情ゆたかに息づきだしてからは、まあラブにはヨワいから、ついていけだしたものの、ちょっと、ツラかった。
まあでもそれは、私自身の無知が大いに作用しているのは否めないところ。だってこれは、やっぱりこれは、在日問題、しかもそれが今よりももっともっとかえりみられることのなかった、差別されて当たり前ぐらいな雰囲気を本作を見てるだけでも色濃く感じる時代の、物語なんだもの。
この作品が作られた当時だって、きっとそうだった。そこからさかのぼって、戦後すぐあたりの時代を回想しつつの展開。
ヒロインの伽?子は「戦争が終わった年」のことを覚えているし、彼らの両親世代は、そこからメインの時間軸、そして物語のラストに語られる10年後に至るまで辛酸をなめまくっている。
40年も日本にいるとは思わなかった。と言い、子供世代は帰国かどうかを悩み、指紋押印を強制された外国人登録証をじっと眺める。
しかし一方の主人公、在日二世にあたる相俊は朝鮮語もあまり話せない日本育ちで、大学に通えるぐらいの豊かさを持ち、そうではない同胞たちからは冷たい視線を浴びる。
いや、同胞たちからならまだいい。親たちからの冷たい視線こそが、彼や、兄(川谷拓三!)に重くのしかかる。それはきっと、今も二世、三世に大なり小なりのしかかることなんだろうと思う。
ところでこの、もう一方の主人公、相俊を演じる呉昇一氏は、お名前もお顔もお初のお目見えで、一方の南果歩がその後順調なキャリアを積んでいったことを思うと、え、彼は一体どこに??と思ったら、もともと彫刻家で、役者活動はこの一本のみだとか!
えーっ、そうなの!私的にはかなり好みのお兄ちゃんなんだけど!手もきれいでさ、果歩ちゃんの手が若さゆえのぷっくりなのと対照的に、男の色っぽい手でドキドキしちゃったよ(照)。
でもこの手で彫刻家……更に萌える(爆)いやいや(爆爆)。そうか、そうかあ、もったいないような気もするけど……でもこの作品だけで生きる相俊兄だからこそいいのかもしれない。
ところで、この役名、なんて読むんだっけ。劇中、果歩ちゃんが呼びかける読み方が、サンジュニイ?ごめんなさい、なんかうまく聞き取れなくて……。
それでなくても、ハングルやハングル訛りがごちゃまぜで、で、日本人役者が演じるハングル訛りも含まれて、なんかどうも……どうも聞き取りづらいんだよね(爆)。
いや、まあ、言い訳……かもしれないけれども(爆爆)。それもあって、事情を汲み取るのに大いに苦労してしまう。てゆーか、ちゃんと理解してないような気がしてならない。自信ない(汗)。
とにかく、でも、確かなことは、果歩ちゃん演じる伽?子は、果歩ちゃん自身には韓国のルーツがあるけれども、この伽?子は日本人で、朝鮮人の父親、日本人の母親の養子になった、ということなんだよね。
彼女自身のルーツを考えると、この役との邂逅はなんとも不思議な運命で、ひょっとしたら彼女自身は相俊のキャラクターの方に近いのかもしれない。それにしても運命的である。
相俊が父親の親友である伽?子の父親に会いに来る、冒頭の夜汽車のシーンで、隣り合わせた乗客の殿山泰司が、樺太から引き上げてきた時に、弱った赤ちゃんを女の子だからというのもあって海に捨てようかと思ったが、りんごを与えたらとたんに回復して、その子が今、東京でひっついちまって、結婚式に呼びつけたんだと、問わず語りに相俊に語るんである。
……この述懐はなんともツッコミどころが満載なのだが、つまりはそういう時代、だったのだ。弱ったのが男の子じゃなかったら、海に捨てようなんて思わなかっただろう、ってこと。
そして伽?子は女の子だったから、捨てられたのだろう。いや、劇中では捨てられた、なんて言い方はされていないんだけれど。
ちょっとね、判然としないんだよね。解説を読むと、もう単純に捨てられた、なの。でも見てる限りでは、ハマジュン演じる父親が「俺があの女に産ませた子だから、頭がいいんだ」みたいな言い方してるからさ、そんな事情があるのかなと思ってさ……。
伽?子という名は、伽?琴という朝鮮の琴から名づけられた。つまり父親には、故郷への思いが大きくある。母親の方は、もうコッテリのズーズー弁。雪国の厳しい様子が活写されて、どこかなと思っていたら、森町、ということは北海道!この母親は下北だとか言っていたような気がする。
在日朝鮮のテーマでそんな北国なんて、意外だった。いや、それこそ単純なイメージで、大阪とか多いからさ。
でも樺太からの引き上げ、その地での「日本人ノー!朝鮮人OK!」みたいな回想シーンも挟まれたりする。……すいません、どうもこういうこと疎くて、事情がどうにも判りづらいんだけど(汗)。
それにしても、果歩ちゃんの登場シーンには心奪われる。近所の悪たれどもにスカートをひっつかまれて、手荒にまとわりつかれている。大人である相俊が現われると、あっという間に散っていき、伽?子は気弱そうにスカートを直してうつむく。
この時もう、伽?子は相俊お兄ちゃんだと気付いていたんだろう。まっすぐで艶やかな黒髪と、うつむきがちの内気な戸惑い顔が、かすかに果歩ちゃんの面影はあるものの、ええ、ホントに彼女??と思ってしまう。
結果的に、などという言い方はヘンだけど、彼女、この作品でさらりとおっぱいやお尻を見せてくれて、それがまた、お互いを求め合う美しい場面や、あるいは求め合ってはいるけれどもなんだか切ない焦燥感にかられた場面であったりして、実に美しく、清楚で、可憐で、だけどちょっとだけエロで、おお、うおお、うおおおお、南果歩、脱いでンじゃん!……などと、どう嬉しがっているのか我ながらギモンなのだが、でもとにかく嬉しくなってしまった。
だって南果歩が脱いでるイメージなんて、ないじゃんか。デビュー作だけであっても、思い切ってくれてるのって、嬉しいよなあ。
最初におっぱいをちらりと見せるシーンは、まさに、お兄ちゃんと思いを通わせて、窓から二人並んで外を眺めている……実際は外を眺めている訳じゃなくて、彼らの未来を、期待と不安を抱えながら見つめている、という風情。
呉氏の細マッチョな上半身も萌え萌えなんで、ちらりと見せてくれる彼女の清楚なおっぱいが、イイのよー、実に実に、イイのよー。
隠したままだって、成立したと思うのに、見せてくれたのが嬉しくてね!……どうもそこだけに執着しすぎな気がしてきた……。
でも二つめのシーンでは、もう二人は同棲している訳だからさ!二人うだうだと寝転がってて、彼女の立てた膝頭の奥に見える暗がり、彼じゃなくったって、そこに手を入れてみたくなるよ!
……いやいや、いやいやどうも、主旨逸脱はなはだしいな……。でもさ、こういうのを、本当にその年齢の、初々しい女の子でやってくれるのが、凄く良くてさ、だからこそ、だからこそ、切ない訳でさ……。
伽?子は、家出したんである。彼女の登場シーンは、実に内気な感じで、相俊にロクに挨拶も出来ず、両親の間に入って双方の膝に両手を置いてうつむくなんていう様子は、「いつまでたってもネンネなんだから」とどこか嬉しそうな父親の言うがまんまだった。
でも、次の年、再び相俊が訪れた時、伽?子が両親のテキヤの仕事を手伝う合間に抜け出し、二人で、まあまさに青春映画よろしく駆け出して、ボートなんて乗っちゃって。
伽?子は白いワンピースに麦わら帽子なんていう定番中の定番、しかも彼女はいつも足元が三つ折の白いソックスで、それは彼と同棲し始めても変わらず、清楚、可憐が次第に恋とのギャップを奏ではじめると、最初は萌えるんだけど、次第に、なんだか、辛くなってくるんだよなあ……。
相俊とこっそり手紙のやり取りをしていたのをとがめられたのが、家出での直接的な理由ではあったんだけれど、それだけではなかった。
後に二人の部屋に乗り込んでくる両親に、気弱ながらも伽?子が言ったのが、いつか一緒に帰国するんだから、という台詞。この台詞に両親は勿論、相俊こそが戸惑い顔を見せたのが、辛かった。
その彼の表情に伽?子自身が気付いていたのかどうかは、正直見ていて判らなかった。
ただ、タイトルロールである伽?子よりも、本作の本当の主人公は恐らく相俊の方で、在日として差別され、親や同胞たちに結束を求められ、自身にそこまで確固としたアイデンティティを追究できてなくて、日本でこのままそれなりに暮らせればいいやみたいな、……そこまで彼が語っていた訳じゃないんだけど、でもなんだか、ぼんやりとしていた風、ではあったんだよね。
伽?子の父親から、これから娘とどうするつもりなんだと詰め寄られた時、私はオトメの発想で、彼女と結婚したいと思います、どうか許してくださいと、彼が当然言うもんだと思って、ワクワクしながら待っていたのだ。
でも彼は、言わなかった。言えなかったのか、言おうとしたのにその前に伽?子があの帰国発言をしちゃったからなのか。
……少なくとも、この時、伽?子との思いの違いを、彼は感じたに違いなかった。てことを、見ている時にはそれほど強く感じた訳じゃなくって、むしろその後、伽?子が中座した後に父親から、伽?子がいなくなって、寂しくて仕方がない。せめて大学を卒業するまでは、娘を手元に置かせてほしい、と懇願されて、親の思いに負けたように、見えていたし、そう思っていた。
でも、それならあの結末はない筈。いや、確かにこれはひと時の青春の恋物語、そんな刹那の美しさはあるけれども、でもやっぱり、違ったんだと思うんだ……。
大学の数少ない同胞たちとの邂逅はあっても、相俊は彼らのように、それに胸躍らせたり、絆を深めようとはしないんだよね。
かといって、それに反発する訳でもない。どこか戸惑い気味に距離を置いている風。
バザーに供出された古い家具にセピア色の家族写真が、民族色ゆたかに貼り付けられていても、華やかな祭りに遭遇しても、それは映画的に魅力的に映し出されるけれど、彼自身は、古い言い方だけど“現代っ子”か“新人類”よろしく、どこか冷めている。
かといって冷たい訳じゃなくて、同僚を心配して訪ねたりもするんだけど、家々のたたずまいを“懐かしい”とか言っちゃって、まさに今そこに生活している子供に「お兄さん、朝鮮人?朝鮮のこと、どう思ってるの?」とストレートに聞かれて、答えられなかったりするんである。
思えば伽?子は日本人で、朝鮮人の父親と日本人の母親に育てられて、つまり二人の間にはさまれて、苦しんでいた。
「ちっともウダツの上がらないダンナで、朝鮮人と結婚して失敗した、って言っていたじゃない!」とトンでもないことを言い出す伽?子の頬を張る母親、止めに入る相俊。
そして父親も、知ってたんだろう、当然、知ってたんだろう、そんな風に母親が、いや……皆がそう思っていること。でも、でもでもでもでも、それは、“うだつのあがらない朝鮮人”じゃなくって、そうさせた日本という国なのに。なのに。
大学を卒業するまで、結婚できるまで伽?子を“預からせてくれ”という表現で懇願した父親、それに折れたのか、あるいはそれ以上の話し合いがあったのか。
伽?子と相俊の最後のシーンは、二人、何も語らないし、何も約束しないし、ただ夜の町を歩くだけなんだもの。
そこに、不思議な道具を持ち歩いている男性(えっ、蟹江敬三!……端正な美青年に見えた!……って、凄い失礼な言い方……)に行き合う。
何をしているんですか、と問う。水道管の漏水を調べているんだという。何も音のしない夜でしか、出来ないんだと、鉄球のついた長い杖のようなものを打ちつけて、耳を傾ける。ごく微小な雑音を聞き分けるのだという。
二人、道路にねそべり、耳を当ててみる。何も聞こえないよ、と言いながら、伽?子の目からは涙があふれている。
……ああこの時、きっと全てが決していたんだな。何とはなしに見えるシーンにも見えた。でも、果歩ちゃんの瑞々しさが、おっぱい出したり膝立てたりした時よりずっとずっと(てゆーか、そういうトコと比べたがるのが即物的なのだが……)、グッときたのだった。
それは、少女の、恋以上の純粋さ、信念というものへの、哀しいまでの潔癖さ。でもなぜ、なぜなぜ、伽?子はそこまで……だって、彼女自身は日本人だったのに。
いや、捨てられた、からか。日本人として捨てられたから、彼女は好きになった男に、自分のアイデンティティを求めようとしたのか。
……それは恐らく、養父の、父親のアイデンティティじゃなくて、なのは、母親のようにならないと言い放ち、ぶたれたシーンで示されちゃっている、から。
物語のラストに相俊が伽?子の父親を訪ねるまでに、10年が経っている。伽?子が姿を消したんだと、その行方を捜したんだと、相俊は言うけれども、妻に先立たれ、今は伽?子が世話してくれていると、もう相俊の顔も忘れてしまっている父親は言う。
相俊は伽?子を探し続けたのに、あっさりとこの北の地に伽?子は戻ってきていて、相俊は死んだのがこの父親の方だと思っていたのに、そういう風の噂だったのに、実際は母親の方だった。
それだけ風の噂というものは頼りなく、伽?子の行方だって、こんな具合にあっさりと知れる。
もうすぐ顔を出すだろうと父親が言うけれども、相俊は辞する。雪道の途中で出会う、伽?子の捨てられる前の名前、美和子の名を口にする幼女。きっと伽?子の娘なのだろう。
雪、雪、雪……。この地に10年ぶりに帰ってくる相俊が、妄想なのか、幻想なのか、夢なのか、って具合に挿入されるシークエンス。
一面の雪原、白一色の中を、民族色タップリの一群が整然と列を成して行進している。
青臭い大学生の風情だった相俊から、いい感じに年をとった彼が、かつての自分、赤いほっぺの子供だった自分と相対する。
駆けてきたその子供の彼は、帰国するという。「歩いて?」「アボジもオモニも一緒だよ」。帰国船を待っていたのは伽?子だった、けれども……。
在でも、問題提起をし、優れた作品を生み出す在日のテーマ、古い作品でも色々あれど、問題意識、あるいは青春として深く切り込んだ、パイオニアのひとつ。
デビューの果歩ちゃんを見られて、なんか感動した。想像以上に、素敵だったから。★★★☆☆
彼はホント、独特のスタンスで撮る人。そのスタンスのユニークさは、他のどの監督さんにも似ていない。
若き日を日本で過ごした、というだけでは言い切れない日本との関わりは(あ、ていうか、奥さん日本人?)、日本だけの純粋培養では決して作り出せない映画を作り出す。
それこそ、こんなことをわざわざ言うまでもないけど、ハリウッドが日本に乗り込んで作る時に出る、違和感以前の苦笑の要素など全くないの。なのにちゃんと文化も人間もクロスオーバーしていて、これが国際的感覚なのだと唸る。
それも彼の場合は、日本とどこかのクロスオーバーなのだ。前作を見逃しといてアレだけど、もっと日本で注目&バックアップしても良さそうなもんだが。
今回は工藤夕貴の名前もあって、見つけ出すことが出来た。危ない危ない、シネコンの1スクリーン公開なんて、ミニシアターより埋もれてしまうよ。
今回の舞台は沖縄。へえ、沖縄、と思う。ガニオン監督の日本でのバックグラウンドを知ってる訳じゃないけど、何となく意外な気がするのは何故だろう……。
沖縄、というとストレートに観光地、それもまあ外国人にもそれなりに人気の、というベタさが、日本を深く知るガニオン監督がそれを選んだというのが意外な気がしたのか。でもそれこそ、浅薄な考えというものなのであった。
沖縄の、芭蕉布という織物に主人公の初老のカナダ人、ピエールは魅せられる。そしてその布を織る人間国宝の平良敏子なる人物に会いに、工房を訪ねる。
驚くべきことにこの平良敏子という御年90を越えるお方は、実在の人物を登場させる。
織物の原料となるイトバショウを刈り取り、細かく繊維を分け、染め上げ、織り上げ、その一連を熟練した女たちが見事な手さばきで見せるそのシークエンスは、まるで良質のドキュメンタリー。
いや、まるで、ではない。本作はここをクライマックスにして、ここを見せるために作られたと言っちゃっていいと思う。
でもそれでも、これは劇映画である。監督さんは、そこをこそ見せたいがために、劇映画に仕立てたんじゃないかという気もする。
言ってしまえば、それこそちょいとベタな物語だ。DVの夫に悩み、外国人観光客の男(ピエールの旅は、そんな単純に言い切れないけれど、まあぱっと見というか、現地の人間から見れば)とついハズミで肉体関係に及び、夫の暴力から逃げる形で彼の旅についていく、だなんてさ。ヘタすりゃちょっとしたメロドラマになりかねない。
いや、メロドラマには違いないのかもしれない。でもそこを、さすがの工藤夕貴と、これも本国ではベテラン俳優であるという主演のガブリエル・アルカンの余裕ある滋味深い演技で見せる。ちっともハラハラしないんだよね。安心して見ていられる。
でも、彼らが一線を越えるシーンは、めちゃくちゃドキドキする。そこは、それこそ、さすがである。
ピエールの写真を見るために彼の宿泊しているホテルの部屋に入った時にはドキリとしたけど、それこそティーンエイジャーじゃないんだから、いい大人がちょいと部屋にお邪魔したくらい、と思う。
でもでも、そーゆーところはヤハリ、年は関係ないのかもしれない……いや、お互いを意識してしまった男女は。
ピエールの近さに、いやいやこれは、外国人だからだもん、と思い、しかしそれに素直に反応してしまう純子=工藤夕貴の、薄い皮膚の下がばら色に染まり上がり、目が潤んで泳ぎ、「なんか変な感じだわ……あなたといると居心地がいいの。」台詞だけで聞くとこれほどベタなこともないんだけど、これをドッキドキに聞かせるのは、やはりさすが!
この時には純子、メガネなんだよね。それが彼女が自分をガードしている感じを思わせて、よりドキドキさせる。
純子が悲鳴のような声を上げてのセックスは、ちょっとコミカルにも思うし、その後の旅の中で声だけで示したりするのもそうかなと思うけど、その後判明する暴力夫のことを思うと、女としての満足度をメッチャ単純に示してくれている気がして、なんか顔が赤くなってしまう(爆)。
そしてこの日の出来事を、友人の明美に報告に行く、その時の、女友達に告白する純子も、あの時と同じぐらい、生々しい顔してて、うわーっ!と思っちゃう。
なんか今更ながら、工藤夕貴はいい女優だわ……と思う。いまだに英語流暢が武器になっちゃうお寒い事情の日本で、その点ばかりで国際派女優と言われがちだけど、そうじゃない、んだよね。
そうそう、なんかこのシークエンスのドキドキに心乱してウッカリ言い忘れてたけど(爆)、ピエールと純子が出会ったのは、好奇心旺盛な明美のおかげ。
往来で目的地への道を見失っているらしい、後から明美が言うには「外国人のおじい」のピエールを彼女は見捨てておけず、純子に声をかけさせた。
「学生時代、ちょっと留学したことがあるだけ」と怖気づく純子だが、後々の純子、いやさ工藤夕貴の流暢さはそんなもんじゃねえだろ!
それが謙遜だったなら判るけど、この冒頭のシークエンスでは純子、「多分こんな風に言ってるんだと思うけど……」と言いながら、明美に通訳して聞かせる。
ピエールと二人で旅するようになってからは、そんな自信なさげは一度もないのに。それともこれは、日本人特有の謙遜さなのかなあ?
まあ、ちょっとんん?と思ったのはこの部分ぐらいだけど。
でも、純子は東京出身、なんだよね。友達の明美は地元民。仕事の都合とか、夫の仕事の都合とか、なんかそんな説明をしていたような気はするけれど、純子が東京出身であることの意味、物語に及ぼすこと、が欲しかった気も、しないでもない。
純子はもうこの地に長いこと住んでるし、満足しているという。地元の文化にも詳しい。だったら、地元民の設定でも良かった気がするんだよね。わざわざ東京出身であるという設定ならば、何かがあるのかなと思ったんだけど……。
ただ、沖縄に住むことになって満足かと聞かれて、純子はワンテンポ、遅れた。明美があっけらかんと当然そうよね、とフォローした。
まあそれは、暴力夫との生活には当然満足していない訳で、そこんところだとは思うけど、この時にはそんなこと判らないから、ちょっと含みを感じて、それをちょっと引きずっちゃったんだよね。
まあそれは私の勝手なリクツなんだけど……とにかく、暴力夫から逃げ出す形で、つまり勝手な自分の理由でピエールの旅のガイドを買って出た純子は、まあそりゃあピエールにとってみれば困惑である。
通訳はそりゃ助かるし、その後の旅のあちこちで助けられはするんだけど、常に夫からの電話にビクビクして応対している純子は、フツーに考えてメーワクそのものである。
優しいピエールはそれでも彼女との旅を発進させるんだけど、もう最初から、夫の車から逃げ出すためのちょいとしたカーチェイス、イラッとしたピエールは思わず純子を置いていこうとしかけ……でもやっぱり出来なかった。
自分でもお人よしと言っちゃうぐらい確かにイイ人。でも多分、それだけじゃなかった。
タイトルのカラカラとは、泡盛を入れる急須のこと。中に同じ陶器の玉を入れて、カラの時はカラカラと音を立てる。
それを純子から教えられ、酒は呑めないと言っていたピエールも、旅の最後にはイケる口の純子とおちょこを合わせるようになる。
実はベジタリアンのピエールが食事を無遠慮に突っ返そうとしたり、地元音楽の演奏を騒々しいと思ったのか退席したりしたもんだから、純子は静かに爆発。
「今日のあなたにはガッカリした。」と思いやりの大切さを説く……。これもね、言ってみりゃ、判りやすくベタな、日本的礼儀の指南さね。
きっとガニオン監督はこういう日本の思いやり文化を愛してて、それを外に発信したいと思って、自国の俳優を犠牲にして(爆)、こういう場面を作ったんだと思う。
これもだから、上手い役者じゃなきゃ、成立しない訳なんだよなあ……。
その後二人は気まずい雰囲気のまま無人島探索に出かけるんだけど、そこで静かに、時間をかけて、彼らは理解しあう。
それまでも一人一人の時間を大切にしようとしてきたけれど、それは、ただ深いところに触れ合わないだけだった。
純子は女の本能的カンでか、信頼できると踏んだピエールに暴力夫のことやら、難しい年頃の子供のことやら、話していたけれど、それは一方的なことで、時にピエールをヘキエキさせていた。
ピエールは病気で亡くした友人の話を語り、見せかけでつくろった結婚生活、親子生活、教員生活を語り、純子から思いやりの心を指摘されて、目が覚めた、と言った。
まあ、確かに、ベタなんだけどさ。全てが見せかけだけなんて、そりゃ奥さんも家族も立つ瀬ないだろうし、男が言いそうなつくろいのメロ言葉と言っちゃえば、そうなんだけどさ。
ただ……純子がそれまで、この人は信頼できる、と一方的に自分の事情を、こちらはセキララに打ち明けていたのを、ピエールがそれまでは、自分自身には何の問題もない、相談されてオッケーな信頼しうる人物、を消極的にしても演じていたことを思えば、大いなる進歩だと思って……。
それこそね、純子とピエールの間には、わかりやすい国籍の違い、文化の違いでの行き違いはないの。純子が指摘するピエールの思いやりのなさは、文化の違いと言うことも可能だけど、ハッキリした形では示してないし、その後のピエールの過去の告白で、そうじゃないってことを明確にしている、じゃない?
そもそもピエールの菜食主義は、別に生まれた時からじゃない。その後、純子から叱責されたこともあって、まあ色々あって、脂身たっぷりの豚バラ肉の乗ったソーキソバを注文、「困ったことに美味い。この豚が苦しまないで死んだことを祈る」というピエールに純子はたまらず噴き出す。
ここではわざわざそれこそベタには示さないけど、全ての食材、それこそ野菜も魚も肉も何もかもの命に感謝して、全てに神様が宿ってて、いただきますという言葉にはその感謝がこもっている、だなんて精神をわざわざ示すことはないんだけれども。
でもピエールが、肉は食べないけど魚は食べるとか、それこそその主義こそが数年前からだとかいう中途半端が、有象無象、命(と定義されるもの)あるものなきもの全てに敬意を示し感謝するDNAの前には、つまらぬことなのだと。
……なんかここまで言っちゃうと、ケンカ売ってるみたいな気がしていた。ゴメンナサイ、主義思想はそれぞれ、とても大切で大事なものだよね。
で、まあ、そうした旅の中、色々あって。明美のおばあちゃんを純子が訪ねるシーンなんか、きっとこのおばあちゃんも地元のリアルおばあちゃんだろうなと思わせるドキュメンタリズム。
そうか。ピエールが平良氏を訪ねるところがクライマックスではあるけれど、純子が明美のおばあちゃんを訪ねて一緒にビールを飲んで話が盛り上がったところから、ピエールとの確執が発生して来るんだから、やっぱりここも大事なトコなんだよね。
同じ、ドキュメンタリズム。さすがの工藤夕貴もちょっと緊張しているように見える、邂逅のシーン。こういうドキュメンタリズムも、過去作から思うと確かにガニオン監督の真骨頂、なのだよなあ。
暴力夫が純子をムリヤリ連れ戻しにきて、ピエールとひと悶着。な、なんで夫、プロレス技!?思わず笑っちゃったよ!
ピエールはケンカなんか小学生ぶりだと言い、それは女性と寝たのは何年ぶりだと言った場面より当然ながらずっとずっとさかのぼり……なんかそうして彼は過去をさかのぼって今を清算している気がする。
けど、ただ、だからこそ、、芭蕉布に魅せられて、忘れられなくて、ここにとどまって弟子入りすること、そのために、認められるために、日本語を習得することを決心したピエールは、もうさかのぼることは、ないのだろう。
このラストは正直、素直に、感動した。いやね、どうやってオチつけるのか、っていうか、二人はもう、関係を断つのかなと思ってたの。
だってピエールは冒頭、いかにも観光客向けの静かで趣のある宿に泊まって、友人と共に、もう帰りたくないな、ここは別世界だ、とか言ってたじゃない。
それは彼の言うとおり現実世界じゃない訳だけど、日本においての、あるいは沖縄においての現実世界でもないじゃない。だからこそ純子に叱責されるハメになる訳なんだけど……。
ピエールは沖縄の米軍基地問題にも憤りを示していたけれど、純子に「私とあなたで怒っていても、解決する訳じゃないから」とたしなめられる。
この時点では、日本ならではの美しい宿に感激していたピエールも、東京から沖縄に来て、沖縄のことより自分の状況にいっぱいいっぱいな純子も、確かにそんなことを論じる立場にさえ、なかった。
でもラスト、いろんなことを経て。ピエールがリタイア後に骨休めに訪れた筈のこの沖縄で、大きな一歩を踏み出したことを聞いた純子。
夫と別れて子供と一緒に新たな生活を踏み出したことを報告した後、基地問題のことをマイケル・ムーアにメールしたの、と言って、ピエールを驚かせる。
のには、フィクションと判っていても、観客にも大きな驚きと、大きな溜飲を下げさせる!これは、凄いよ!
★★★☆☆
期間限定で被災地に届けられたコミュニティラジオ。それも、スタッフ全てが素人。声という、目に見えない元気の元はあまりにも悲惨なものを目にし続けてしまったこの震災という中にあって、確かに“使える”テーマだ。
使える、というのは、決して皮肉じゃない。魅力的という意味だし、本作に魅力を感じたのはまさにそこ、タイトルもそれを端的に示していて、公開前に観られる機会がなくったって、私はきっと劇場に足を運んだと思われた。
でも、思っていたより、それだけを掘り下げた内容じゃ、なかった。いや、掘り下げてはいるんだけど、なんていうのかな……。
ラジオだからリスナーという構図は必要、と思ったのか、娘と孫を失ってひとりぼっちになってしまったおばあさん、という存在を仕立てて。
いや、仕立てた訳じゃなくて実際に存在する訳なんだけど、でも見ている限りでは彼女が決して熱心なリスナーには思えなかったこと、物語の後半で、リクエスト葉書を書いている画に、実際のラジオ音源でそれを読み上げるという“使える”にしてもちょっと過ぎてる構図が、気になった。
遺骨さえも見つからない娘と孫に、たった一人生き残ってしまった自分、生きる気力をなくしているおばあさんがラジオに救われるという構図は“使える”が、彼女の前にただラジカセがあるだけで、ちっとも聞いている風がないんだよね。
一応台詞では「一日中つけっぱなしにしている」とは言っているんだけど……おっと、台詞、なんて言っちゃった。でもなんだかそう、感じてしまって。
彼女の苦しみが尋常じゃないことぐらい判るだけに、この構図に持ってきてしまったことに、何がしかの違和感を感じる。
言ってしまえば、こうした境遇の人たちはごろごろいる。代表として彼女が抜擢されたにしては、あまりに形骸的すぎて、気の毒な気がする。後に孫の親友だといって訪ねてくる女の子が蒼井優みたいな、やたら美少女なのも“使える”感じ、なんである。
あるいは、役所広司のナレーションなんて、まさしくだしさ。しかも彼が“僕”という一人称で語るのが一体誰なのか、生き残った誰かなのか、海に沈んでしまった犠牲者なのか、なんかなかなか判然とせず、それこそ妙に“映画的”に作っちゃってて、なんだかなあ、と思ってしまった。
そりゃ、生々しく、痛々しく、苦しい“震災映画”に疲れ果ててはいたけれど、こんな風に“商品”にしてしまうのは違うような気がした。
商品だなんて、言いすぎだろうか……でも、本作の冒頭、避難を呼びかける無線の肉声が、そのために津波の犠牲になった方のものだというのも、そりゃまあこれ以上“使える”こともなかろうが、ちょっとゾッとしてしまった。
勿論、それをこうして映画作品として残すことは重要なことだと思うけれど、彼女の存在は一時期それこそ、“美談”(イヤな言葉だ)として語られていたからさあ……。
いやだから、これはコミュニティラジオ局の物語なんである。津波による甚大な被害がもたらされた南三陸町に、震災二ヵ月後の5月から、震災から丸一年後の三月いっぱいまで、たった10ヶ月間だけ運営されたミニFM局。
たった10ヶ月間で終わってしまったその理由は、町の財政難によるものだというのはあまりに惜しい。そうした意味でも本作は、彼らの奮闘を伝える意義がおおいにある。
たった9人のスタッフは誰もが素人で、震災によって職を失ったサラリーマンやダンプ運転手、進学、就職を断たれた高校卒業したての若い女の子二人、劇団に所属していてCMナレーションの経験があるという女性ぐらいの経験が唯一という、まさに素人集団。
正直、このFM局が開局された経緯や、その素人集団に最低限の技術を教えた誰かがいる筈で、そうしたことが知りたかったし、凄く、気になった。
勿論、このラジオ局がもたらした様々な“奇跡”が充分“使える”素材にはなるんだけれど、先述のように、彼らにべったりくっついて描いていく訳ではないからさ……。
でもそれは、仕方ないのかもしれない。ここには“見えてしまう”爪あとがあって、どんなにこれが“使える”テーマだとしても、それにはかなわない。
本作の冒頭、ストップモーション画像ではあるけれど、平凡な町の風景が津波によって一瞬にして破壊される様子が、刻々と映し出される。それこそ、ストップモーション画像であるからこそ、息をのむ衝撃である。
正直、この冒頭の画に勝てないまま終わってしまった気がした。そんなの、あんまりだ……。
9人も、いるんだから。よそ見をせず、彼ら一人一人を、じっくり掘り下げてほしかった気がしている。
いや勿論、かなりじっくりとは、掘り下げていたと思う。リーダーである工藤さんが体調不良を理由に長期間行方をくらました本当の事情は、生活費用を工面するためのバイトだったり。
サブにつく、スタッフの中で一番キャラの濃い、スキンヘッド&オシャレメガネという、ホントにタレントみたいな風貌の和泉さんが、元ダンプの運転手で、人とのコミュニケーションから離れてたなんて信じられないし、しかもシングルファザーで難しい年頃の息子たちを抱えていたり。
障害を持つ姉を津波で亡くした女の子なんて、彼女が姉のことを「大嫌いだった」し、「死ねとか、何度も言っていた」し、この町のことも大嫌いで、出て行きたいと思っていた、その全てを後悔して、つまり全てが大好きだった、今は母親の作る味噌汁が一番美味しいとか言うのが、勿論全てが真実で、胸にグッとくる筈のことなんだけど、それが箇条書きのごとくさらりと流されてしまうんで、えーっと思っちゃうんだよね。
個人的には、障害を持ったお姉ちゃん、に関して、“使える素材”であることすら放棄して流してしまったのが、気になった。そりゃこれは、掘り下げてしまえばここだけでは終わらない要素ではある。でもそれだけに、出してきたのにさあ、という、思いがあった。
どういう障害を持っていたのか、姉妹同士でどういう葛藤があったのか、今どういう思いで、お姉ちゃんに対してとってしまった態度を後悔しているのか……そりゃまあ、掘り下げれば掘り下げるほど、済まない問題ではある。
だからこそ、これだけで済ますのがなんだか許せない気がしてしまって……。お母さんの味噌汁が美味しいなんて結末にしてしまうのが、あんまりだと思って……。
そう、だから、彼らスタッフだけの物語に絞ってほしかった、と思ってしまう。彼らが街中を駆け巡って拾う住民の声、幼稚園の運動会や、合唱大会の歌声。
ささやかなクリスマスイベントのために、サンタのコスチュームやらツリーの電飾、オーナメントを揃えに隣町に買出しに出かける女子チームのウキウキした様子が可愛らしく、それも、もっと見たかった気がしてる。女子的には。だってそういうささやかな部分に幸せを感じるのって、大事じゃん。
正直、この点灯イベントに住民たち、子供たちが本当に喜んでいる様子って、リアルに感じられなかったしさ、役所さんのナレーションで讃えられてはいたけど……。
そしてそのクライマックスは、この震災で結婚式を挙げられなかったカップルや、結婚写真を流されてしまった夫婦に式と写真をプレゼントする“出発式”。
震災からある程度時が過ぎ、いわゆる“協賛熱”も過ぎ去っており、企業からの協賛金がなかなか取れない。
それは確かに思い当たる節があり、あっさりと日常に戻ってしまったことに罪悪感があったのも最初のうち、節目となる日に思い出した、テレビのドキュメントを見て涙を流した程度、なんていうのが正直なところというのが、大多数の人たちの感慨かもしれないと思う。
しかし、その協賛金獲得に奔走するという描写も、東京に出てあちこち廻る様子はそれほど熱心なものではなく、役所広司のナレーションで、十何社目だと語られるだけなのがね……。
で、パソコンに来たメールに「来た!協賛取れました!」と叫んで拍手喝さいだけでは、彼らがどれだけそれに苦労したのか、切実には伝わってこない。このメールを開けるところだけ苦心して追っていた様にも感じて、なんだか冷めてしまう。
協賛してくれたのが小さなブライダル会社で、まさにこのイベントにピッタリ、イベント自体は大成功。連れ子同士のカップル、復興のボランティアのために来て出会い、この土地の新住民となったカップル、新婦さんがお腹の大きいカップル、本当に様々で、それぞれにドラマがあって、ドラマがある筈なのだが……それもね、物足りなかったよなあ……。
新住民になるカップルなんて、その経緯をもっと詳しく聞きたかったし(女の子メチャクチャ可愛かったし)、連れ子同士のカップルだって、新婦さんが新しい命を宿しているカップルだって、そうじゃない?
正直、この新婦さんが新しい命をこの世に産み出したという報告を、ラジオ最後の日に披露するというのが予想しやすすぎて、それゆえに他のカップルの人生が、ウェディングドレスとタキシードの画だけで切り捨てられた気がして、凄くもったいない気がしてしまった。
このイベントにははるな愛嬢が呼ばれていて、彼女のキャラクターはとても素敵だと思うんだけど、会場まで案内される途中に、津波に襲われた老人ホームに立ち寄って、彼女が口をおおって嗚咽をもらす、のね。
それが凄く、やたら、妙に、バッチリ撮れているのが、勿論それこそ“使える”画で、そういうのは作品にとても大事だし、私だってつられて泣いちゃったし、なんだけど、ここまでのそうした経緯というか、思いがあるから、もっともっと出来たんじゃないかって、そう思ってしまった。
自分じゃ出来ないくせに(爆)、でもだからこそ、せっかくこんな素敵な題材なのにと他人に丸投げする、観客の無責任な思いさぁ。
そりゃあはるな愛のそんな画は撮らなきゃダメさ。でもここで、やっぱりふと、監督の二人ともがテレビ界の人であることを、やっぱりやっぱり思っちゃったのだ……。
南三陸のFM、だから「FMみなさん」。略するのが得意な日本人とはいえ、なんとも素敵なネーミングだ。
あるいは南三陸町はもともと、みなさん、と略されていたのかもしれないけれど、たとえそうでも、この状況、ラジオという、目には見えないけれどこのネーミングにあたたかく強力なコミュニティ力を思う。
かつてラジオっ子だった自分を思い出した。ラジオ聞かなくなったなあと思って、凄くもったいないと思った。
私は結構、ラジオに育てられ、ラジオに人格形成され、ラジオに、誰も知らない、身内も友人も、もしかしたら自分自身さえ判ってない私自身の秘密を、預けている気持ちがある。だからこそ、もっともっとという気持があったのかもしれない。★★★☆☆