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「た」


2004年鑑賞作品

ターンレフト ターンライト向左走・向右走/TURN LEFT, TURN RIGHT
2003年 99分 香港 カラー
監督:ジョニー・トー/ワイ・カーファイ 脚本:ワイ・カーファイ/ヤウ・ナイホイ/オウ・キンイー/イップ・ティンシン
撮影:チェン・シウキョン 音楽:チャン・チーウィン/ベン・チェン
出演:金城武/ジジ・リヨン/エドマンド・チェン/テリー・クワン


2004/11/18/木 劇場(歌舞伎町シネマミラノ)
舞台は台湾だけど、香港映画。で、ああ、そういえば最近香港映画観てなかったな、と思い……今やすっかり席巻している韓国映画におされて、香港映画の上映館があまりメジャーどころに来ない感じがする。もうそれこそキネカ大森ばっかりとかさ……。そうだ、これなんだよねー、と久々に気持ちよく浸る。香港映画と一口に言ったって、そりゃさまざまあるんだけど、そのひとつである、ラブストーリーを語る時の、言ってしまえばベタなまでのロマンティックさ。韓国映画のラブストーリーにもそういうところはあるけど、でもちょっと違うの。香港映画のそれはもっと泥くささっていうのかなー、一昔前の、でっかい目の少女マンがみたいな。私、きっとこういうベタさに飢えていたんだわ。フツーにドキドキして、フツーにキュンときて、フツーに最後大号泣しちゃったもん(笑)。いやあ……久しぶりのベタな(ホメてんのよ)ハッピーエンドに気持ちよく泣いて……あ、でも二人これから遠距離恋愛かあ、いやいや大丈夫、もう遠距離だって、二人の愛は不滅なのさ!

何にも言わずにいきなり結末言ってどうする……。あー、だから、これは、この原作は台湾発の大人向けの絵本だっていう話。私は全然知らなかったんだけど……もうそれぞれ大人である男性と女性なんだけど、でもなんか、どこか生きていくことに対して不器用なところがある二人で。二人はまだお互いを知らない。そして二人は隣同士に住んでいる。隣と言っても入り口が違うので顔を合わせることもない。しかも、入り口を出ると男性はすばやく右に折れ、女性は左に折れるクセがついている。ますます、交差することなど皆無に等しい。
原作と同じくこの二人にはジョンとイブという役名がついているんだけど、劇中その名前で呼ばれることは殆どない。殆どどころか、一度もなかったような気もするんだけど。二人は最初早い段階で出会い、そして偶然にもお互いが中学生の頃惹かれあった同士だということに気づく。ずっと忘れられずにいた……お互いを記憶していたのは胸に書かれた6ケタの生徒番号。で、劇中、お互いをずっとその番号で呼ぶ。しかし6ケタもあるもんだから、私はもう既に忘れちゃったんだけど(笑)。まあ、だからジョンとイブということで話をすすめよっと。

ジョンに扮するのが金城武。売れないバイオリニスト。流行のセクシーな音楽なんか弾けなくて、で女がニガテな、人生に少々希望を見出せなくなっている純情青年。金城武、似合うんだよなあ……こういうの。私は彼がバリバリカッコいい役をやるのより、やっぱりこういう、ちょっと現実離れするほどの純な、つまり世の女の子たちが夢見るような男の子(男の子って感じよ)をやってる方が似合ってて、好きなのだ。だって、今あんまりこういう役にイヤミなくハマる人って、いないもの。
そういう意味ではイブ役のジジ・リヨンも同じ。ひとり立ちした、翻訳の才能のある、社会人の女性、であるにもかかわらず、こわがりで、オバケにおびえて、布団ひっかぶってブルブル震えている、なんていう女の子!な可愛らしさをこれまたイヤミ皆無ではまってる。いやー、ジジ・リヨン、カワイイな。私は不思議とこの人の出ている映画と縁がないんだけど……初めて観たのは前回の「君のいた永遠(とき)」だわよ。あの時も、実に美少女だわ、とか言ってた。忘れてたけど。で、「君のいた永遠」では、金城武との共演だったんだ。そうだそうだ、思い出した。でもね、あの映画はちょっと……だったのよ。“シンプルな恋愛”という意味では共通しているのかもしらんけど。本作はもっとね、こう、脇を固めるのが強烈なユーモアの個性があったりして、二人のシンプルな思いの切なさが際立つ、っていうのかな。そういう感じね、うんうん。

そう、脇たちが、ちょっと強烈すぎるくらい強烈。まあ、つまりは、二人の間をジャマする人たちなんだけど。でも、不思議なことにこの脇たち、会えない二人の切ない電磁波を受けてるかのごとく、恋に落ちまくりなの。最初はお互いの大家同士。二人とも家賃を滞納しているらしく、この大屋たちから逃げまくってる(家賃ぐらい払いなさいよ……特にイブの方はちゃんと仕事してるのに)。もちろんもう初老といってもいいぐらいのオジチャンとオバチャンなんだけど、この二人がいきなりイイ感じになるのには、ええッ、何の布石もナシで、ひと目惚れに近い状態で、こんなんアリ!?と思うほどに。あ、でもジョンとイブだって、そして後から出てくる、最も強烈な二人である医者のフーとメシ屋の娘シャオホンだって、“ひと目会ったその日から……”的な部分があるよね。ひと目会った、というより、フーとシャオホンの場合は、ふと目が合ったその瞬間から、という感じ。こういう愛すべき単純さが好きなのよ。だから、二人をジャマするっていっても、どうにも憎めない。

でも、シャオホンは、二人に教えてあげればいいのにさ!とさすがに思ったけど……彼女はかなり早い段階からジョンとイブがお互いを探していることに気づいていたんだもの。そもそもどうして運命的な再会をしたジョンとイブが会えなくなっちゃうのかっていう……二人はね、最初に会ってから、次に会えるのが実に映画のラストなのよ!それまでずううーーーーっと、すれ違うの。「君の名は」かッ!ってぐらい(つっても、私だって「君の名は」は知らないけどさ)それというのも、運命の再会にお互いに胸をときめかして、心通わすステキな時間を過ごしたんだけど、突然の雨にあわただしく電話交換して、でもその雨にぬれてメモの数字がぬれちゃって読めなくなって、二人は必死にその読めないメモを読もうとして、いろんなところに電話をかけまくり……で、二人とも同じ番号にかけたのが、メシ屋だったのだ。うーん、さすが運命の二人だぜ。

で、このメシ屋の娘、シャオホンが、風邪で寝込んだ二人の部屋に出前をするんである。二人共々風邪で寝込んでいる……あの大雨に当たられちゃったのだ。うーん、やっぱりやっぱり、運命の二人だわ。しかしこのシャオホンに当たっちゃったことは良かったのか悪かったのか。いやでも、彼女に当たらなかったら、最終的に二人は再会できなかっただろうし、いいのかなー?でもね、だからシャオホン、お互いを生徒番号で呼び合っている二人、同じような読めないメモの切れ端、で、最初っから気づいちゃってるんだからさー、教えてあげなよ、もう!とか、映画の成り立ちも考えずに私は本気でイライラする。うーむ、一番単純なのは他ならぬ私かもしれん。ま、つまりシャオホンはジョンにホレちまったから、当然教えることなどしないのよ。何とかイブのことを諦めさせて、自分がカノジョの座におさまろうと虎視眈々と狙ってるわけ。

イブの方に現れるオジャマムシは、二人が運び込まれた病院の医者である。学生時代に面識がある二人。その時からこの医者、フーはイブにいけいけゴーゴーで、イブは当時から彼のことを気持ち悪がっていた。で、この再会に勝手に運命を感じるフー。うう、ヤメてくれよ、確かにキモチワルイんだもん、彼……。だって、だってさ、こともあろうにコイツ、イブの部屋にあがりこんで、ベッド使って風呂まで使うんだよ!うッ、許せない。キモチワルイッ!いや、部屋にあがったのは、イブが留守電のセットを彼に頼んだからなんだけど……同様にジョンもシャオホンにそれを頼んでて。つまり、自分がいない間に相手から電話がきたら……ということを考えているわけ。
シャオホンも同じようにジョンの入院中に部屋を勝手にサッカー観戦の場に使っちゃって、散らかし放題にしてるんだけど、この子の方はさして腹がたたないんだよなあ……もんのすごく押しが強くてうっるさいコではあるんだけど、基本美少女だからついつい大目に見ちゃうのかしらん、私。いや、でもだって、やっぱり彼氏でもない男が女の子の部屋に入って風呂を使うのは、ルール違反でしょ、それどころか、犯罪だッ!と叫びたいくらい。しかも、一度ならず、二度までも!イブが激しくショックを受け、「好きじゃないの。感謝はしているけれど。好きじゃない男性にお風呂を使われるの、とてもイヤなの。前回、お風呂を三日も磨いて、せっかく日本で買って大事に使っていたシャンプーも、バスマットもタオルも全部捨てたのよ」ああ、判る、判るなー!そおだよ、もう、キモチワルイんだから!感謝している、と言うだけイブはエライよなー。そんなことも言う必要ないッ!もう、許せーん!

フーは探偵を雇ってイブを隠し撮りしてた。そこにはいつも偶然、小さくジョンも映りこんでいた。つまり二人はいつもいつもすっごく近い場所にいながらすれ違いまくっているのだ。その指摘に探偵さん「運命の二人なのかもな」うーん、君はいいヤツだなー!だけど二人は、これはジョンとイブが一生すれ違い、会えない運命だという証拠だ!と息巻いて、二人それぞれに写真を送っちゃう。これで諦めるだろう、って。アホか……余計思いが募るに決まってるじゃないのよお。でも意外なところが……ジョンとイブはお互い、この台北の街に友達がいない。毎日毎日繰り返される変わり映えしない毎日の中、孤独を抱えていた。で、そんな二人の前に現れたこのフーとシャオチャンというのが、迷惑極まりないにしても、二人にとってたった一人の友達といえる存在だったのだ。……と考えるあたりは二人の気の良さよねー、ホントに。だって普通、思わないって……こんなおしかけ虫!

だからこの写真を見た二人は、相談できるのはこのフーとシャオチャンしかいないから、それぞれその切ない思いを聞いてもらう。もうここまで言われちゃったら、そりゃあフーとシャオチャンも諦めざるを得ないでしょ。というかもうその時点でフーとシャオチャンはラブラブだったわけだしさあ。二人が自分のことなど見もせずに、会えない相手を思っていることを思い知らされたフーとシャオチャンはしぶしぶあきらめてたんだもん。そして二人してヤケ酒を飲んでいる時にふっと目が合っちゃって「運命の相手だ!」とか言って、キスしちゃう。おいおいおいー、何だそれは、今までのお前たちは何だったんだー!いや、いいけどさ、こういう単純さこそが、君たちの君たちゆえんだけどさ。大体それぞれぜっんぜんタイプ違うじゃないのよ!
そんな風に、お互いに“運命の相手”を見つけたんならジョンとイブを会わせてやっても良さそうなもんなのに、こんなに私たちを苦しめたんだから!みたいなヘンな意地を張って、ジャマし続けるんだもん。まあ、でもこの時点でさすがにジャマはやめたけど……それにしても、引き合わせてやっても良かったじゃないのよお!

ジョンとイブは思い出の場所をさまよう。メリーゴーラウンド、カフェ、噴水……そのどれもが、取り壊されている。呆然と見やる二人……原っぱに解体されたメリーゴーラウンドの馬たちが横たわっている。それはまるで、胴に鉄棒を貫かれて死んでしまった馬たちが散らばっているような、哀しい光景。
二人共に、その馬を一体ずつ、もらって帰る。あの最初の出会いの中学生の時、相手が乗っていたお馬さん。その馬を二人がそれぞれ持って帰る、という発想が共通しているのがなんとも凄いけど。だってこんなものしか手元に置いておける、相手の思い出がない。でも、思い出になってしまうの?そんなことを予感もさせて、ヤダヤダッて思う……。

フーとシャオチャンがそれぞれ、自分の番号だと言って手渡したのは、ジョンにはイブの番号、イブにはジョンの番号。しかも、「私に気があったら」などと言って手渡す。うッ……これでどうやったら二人が相手にかけるっていうのよお!案の定、ようやく二人がそれぞれの番号にかけることになるのは、ジョンがウィーンの楽団に、シャオチャンがアメリカの出版社に就職が決まってから。この街でたった一人の友達だから、と、ジョンはシャオチャンに、イブはフーにかけるのである。もちろん、その番号は……。お互いに留守電で、二人は思いのたけを喋る。すれ違うばかりの運命の相手に対する思いを。そしてその留守電のメッセージをお互い聞いて、ハッとして外に飛び出す!

だーかーらー!何でそこで外に出ちゃうのよッ!もう一回電話かけてみればいいじゃないのよお!やみくもに外に出たってまたすれ違っちゃうじゃない!でも、いつでもお互い近くにいたことが判っていたから、だから、二人は夜の街を大声で、お互いの生徒番号を呼び合い(名前さえ、まだ知らないのよ!)必死に探し回る。だって、時間がない。もう出発の準備もして、部屋の中はがらんどうである。見つかるわけもない……しおしおと部屋に戻ってくる二人。でも、最後だ、と。ジョンはもう一度だけかけてみよう、そしてイブはもう少しだけ電話を待ってみよう、と思う。ああ、良かった。それぞれお互いにかたっぽだけだったら、またすれ違っちゃうもん!しかしジョンがかけ、イブがとり、やった!ようやくつながった!と思ったとたん、え?あれは地震!?突然地鳴りがし、壁が崩れ始め、二人はそれでも電話だけは放すまいと受話器を耳に押し付けてテーブルの下に逃げ込む。でもその騒音で声も聞こえなくなり……やっとおさまったと思ったら電話は切れ……ええッ!?で、でも!壁に、壁に穴があいてるの!大きな穴!あ、まさか……そのまさかよッ!ああ、こんな幸福な幕切れがあっていいんでしょうか……舞い上がる砂ぼこりの中に、二人はお互いの姿を発見するわけ。受話器を握りしめているお互いの姿を。ああ、ああーー良かった、良かったもう!それになんて、なあんて、ドラマチックなのッ!(恥ずかしげもなく大感動して号泣)ジョンがどこか信じられない、とでもいうような足取りでゆっくりと壁を越えてイブの部屋に入ってくる。二人は……二人はしっかと抱き合うのさッ!ああー、ジジ・リヨンの泣き顔がもう、幸せー!金城武のやっとつかまえた!っていうお顔が幸せー!いやあ、このハッピーエンドは、キング・オブ・ハッピーエンドとでも言いたい、屈指のハッピーエンドでしょお。はあ、本当に……良かった。

この流れの中では書くの落ちちゃったんだけど、ジョンがスタジオを辞めてバイトに入るレストランのオーナーが良かったなあ。彼もまた童謡だの何だのとヤボな曲ばかりジョンに弾かせるんだけど、「私も料理の本場フランスで修業した。君はウィーンで通用する腕前だ。そうなったら、ここでバイトしてたことはナイショにしてやるよ」といたずらっぽくそんな風に言うの。唯一の、純粋にイイ人でさ、この人のこの言葉があったから、あの自信なさげなジョンが、オーディションを受ける気になったんじゃないのかなー?などとも思い。うんうん、とにかくこれ以上ないってくらい切なくて、これ以上ないってくらいカワイイお話。金城武が持っているお薬が日本製だったりするのが妙に好きだったりして。池の中に散らばる原稿、二人を引きとめようとする赤ちゃんと犬という御伽噺的雰囲気。台北の名物、激しい雨も、ドラマに花を添えてくれるのさ!★★★★☆


大尉の娘
1936年 76分 日本 モノクロ
監督:野淵昶 脚本:森田信義
撮影:青島順一郎 音楽:深井史郎
出演:井上正夫 水谷八重子 清水将夫 浦辺粂子 三桝豊 宮島啓夫 田中筆子 吉田豊作 山田巳之助 田中早穂 西尾克彦 浅川重夫 志水辰三郎 錦町慶二 米津左喜子 小宮一晃 南部章三 歌川八重子 大井正夫 野辺かほる 鈴木光枝 金沢コンチャン 高橋潤 川島康夫 友成若波 榛名洋 勝本圭一 成島成夫 辻復二 福地初雄 今井録郎 此村咲子 川瀬静子 谷照子 山路晴子 堺寿美子 若水公子 速水稔 池田園子 上田寛 松平竜子 高倉恵美子 御影公子

2004/2/5/木 東京国立近代美術館フィルムセンター
ちょっとこれも凄い話かも。いや、あらすじだけつらつらと並べれば、まあクラシックにありがちな悲惨物語なんだけれど、やっぱりこういうのは映像の力の凄さだと思う。舞台劇として有名だった話らしいんだけれど、何度も映画化もされているというのは、多分、映像としての力の方が凄いからじゃないだろうか。だって、実際に火事を見せることが出来るんだから。打ちのめされた女が、火をつける。ごうごうと燃えさかる火は、まさに原始の迫力で、数あるスペクタクルを見慣れているはずの目にも充分圧倒的。それにねー、そりゃお露さんは火をつけるわよ。観てるこっちも、火つけろ、つけて当然!ぐらいに思ったもんね。だってこのバカ男ときたら、ホントにちょっとヒドイのよ。いやちょっとじゃなくてかなりヒドイのよ。お露さんの親友のお滝さんでなくったって、同情して同情して悔し泣きしたくなるほどだもんなあ。

いやでも、そもそもなんでこんなアホな男に引っかかったのか……。見るからに、軽薄、浅薄な男、松雄。村長の御曹司で裕福なのをいいことに女を食って遊んでいるのが、その風貌をひと目見ただけでありありと判る。一方、遊ばれたお露の方は真剣そのもの。このプレイボーイに引っかかって、恋愛にハマッちゃって、彼の言葉を信じて、そして子供を宿してしまう。その言葉ってのもねー、「二階建ての小さな洋館を親父に建ててもらって、ポンポンダリアを庭に植えて……」なんていう、アホかってな、甘ったるい言葉なのよ。大体、親父に建ててもらって、ってあたりでアホよ。しかもこの全く同じ台詞を、お露さんが彼と一緒になれる日を夢見て行儀作法を習いに東京に行っている間に、別の女の耳元に囁いているんだから、まったくあきれるのよ。でもこの別の女、というのが政略結婚の相手で実にしたたかで、このお露さんのこともしっかり知っていながら、彼にお嫁入りする。実際、こんな口ばっかりのボンボンの相手にはこういう女でなければ勤まらなかったのかもしれない。

お露さんの親友のお滝さんは、最初っからこの松雄が気に入らなくて、お露さんが心配でたまらない。ほかならぬ自分の子供にも他人事のようにほっときっぱなしで会おうともせず、東京に行くお露さんを見送ろうともしない松雄をせっつき、涙ながらに責め立てるのだ。ズーズー弁のこの親友、実に実に純粋な友情でホント、泣かせる。人目を気にする松雄に「私とあんたじゃ噂にもならないよ」と言ったりするあたりに笑っちゃったりして、ちょこっとコメディリリーフな部分もあるのがさらに好感度大。しかしこのバカな男に何言ったってムダなのだ。薄情な男とお滝さんは言うけれど、そうじゃない、バカな男なのだ。

それにしても、この“東京で一年間行儀作法を学ぶ”というのは何故そうさせたんだろう。これは、お露さんのお父さんが指示したこと。一介の退役軍人の娘と村長の御曹司の恋だなんて、火遊びとしか思われない。お露さんが子供を宿してしまって、しかも彼女が真剣そのものだったから、お父さんは村長さんのところに直談判に行くんだけれど、何せ立場が違いすぎて、きっぱりと言えず、「今は時間がないから」などと追い払われてしまう。しかし、この村長の慇懃無礼なこと!「うちのとおたくの娘さんがナニがあったとして、それでうちが嫁にもらってくれると考えているわけじゃないだろうね」だなんて、ヨユウの笑顔かまして、言うのよ!!!お、おまえなー、テメーのドラ息子が純真な娘をかどわかしたんだろーがよ!でも、お露さんのお父さんは、そう一介の退役軍人だから、それに対して強く出られずに、言葉を濁してしまうのだ。
この場面、さっすが時代柄で、直截な言葉を一切言ってないことに妙に感心したりして。「あなたの息子とうちの娘が……その、察してください」とか、「うちの娘は……つまりただの体じゃないんです」とか、じっつに慎ましやかな言い回しなんだよね。これが現代だったら、言った言わないのトラブルになりそうな。こういうもどかしさが何かたまらん魅力なんだなあ。

で、お父ちゃん、何にもこの村長から引き出せなかったもんだから……つまりは、相手は何をする気もないわけよ。一年間娘を東京にやらせたのは、時間稼ぎだったのか、その間に娘が男を忘れてくれるか、あるいは誰か別の相手を見つけてくれるんじゃないかとか、まあとにかく逃げの一手だったんだろうと思う。しかしそれが裏目に出てしまう。な、なんと、お露さんがそうして奉公に出ている間に、赤ちゃんが病死してしまったのだ。病気の知らせにいてもたってもいられずに田舎に帰ってきたお露さんは、お父さんが懸命にその事実を隠そうとしたにも関わらず、あのナイスな親友、お滝さんからその事実を知らされてしまう。しかも追い討ちをかけるように、その日、赤ちゃんの初七日も過ぎないうちに、あのバカ男、松雄の結婚式が村で盛大に開かれていたのである。しかもまあ、厚顔無恥というかなんというか、カドが立つからと言って、お露さんのお父さんはその宴に招待されていたのだ。あ、あのねー、カドが立つって、そりゃおまえたちのせいでしょうが!!でも一介の退役軍人のお父さんは(しつこい?)仕方なく出かけていく。その間に娘はすべての事実を知り、正気を失い、華やかな宴の村長の屋敷に火を放つのだ。

ねっ、ねっ?火をつけたくなるのって、当然でしょう?ったく男ってーヤツは、女とヤレさえすれば、くだらない甘い言葉はいくらだって言うんだから。で、メイワクになったら、あっさりポイよ。許せんッ!で、フラフラと家に帰ったお露さん、自ら命を絶とうとするんだけれど、それを止めるお父さんの説得が、さすが先生というか。お前のあとを追ってわしも死ねば、それで世間様に申し訳はたつけれども、それは卑怯者のすることだ。と、こう諭すのよ。お前のすべきことは、自首することだと。この腕にお前が帰ってくるのを待っていると。あー、やっぱり、この時代は親子愛なのよね。この前に見た「乳姉妹」もそうだけれど、恋愛より親子愛が映画で尊重されている時代なのよね。しかも父と娘の。美しいわあ。このお父さん、マジメで厳しいいかにも昔のお父さんなんだけれど、すごく娘を愛してて、だけどそれを示すのが不器用で、泣けるんだよなあ。ラストシーン、娘を促して自首しに向かう二人でとぼとぼと歩いていくショットが!

移動撮影、シーンのつなぎ目の二重露出、カットバックなどは、この作品が本格的に導入して日本映画の撮影界を革新したのだという。特にカットバックは最初の試みのせいか、今見てもかなり大胆な使われ方に目を奪われる。お露さんが松雄の愛の言葉を思い出したり、死んでしまった子供を思い出す場面、彼女のせっぱつまった涙目のアップと、松雄のノーテンキな顔、坊やの愛らしい様子などが、暴力的と言っていいぐらいにバッ!バッ!と繰り返しカットバックされ、彼女が火をつけるまでに追い詰められていくのが、もうしょうがないよね、と思わせるぐらいの印象的な効果を挙げている。今じゃ逆に、ここまで大胆に暴力的なカットバックは出来ないんじゃないかしらん。こんな荒っぽいカットバック、見た覚えないもの。表現として無難さを知らず知らず身につけちゃっているから。原点を見直すってことはやっぱり必要なのかも。

初代、水谷八重子をひょっとしたら初めて観た、のかも。う、うーむ、結構おへちゃだわ。軽く二重あごだし。この時代の女優さんはみんな麗しいから、何だかミョーにこのおへちゃっぷりは生々しい。確かにこのアホなボンボンに騙されそうだもんなあ。しかし彼女が坊やを思って涙をためる表情や、とんでもないことをしてしまって前髪をほつれさせて呆然としている様など、そういう哀れな時、やけに、美しいのだ。やっぱり女は基本的にペシミスティックな生き物なのかも?★★★☆☆


タカダワタル的
2004年 65分 日本 カラー
監督:タナダユキ 脚本:――(ドキュメンタリー)
撮影:長田勇市 音楽:
出演:高田渡 柄本明 松田幸一 中川イサト 坂庭省悟 高田漣 坂田明 シバ ロケット・マツ 佐久間順平 松永孝義

2004/4/24/土 劇場(テアトル新宿/レイト)
私はこの高田渡という人を無論タイムリーで知っているわけではないし、名前だけを聞いたことがあるというわけでもなかった。ただ、数年前、ある映画の中に彼を見かけた。私が函館映画(というカテゴリがあるのだとすればだけど)の中でベストワンだと思っている「とどかずの町で」という映画に、彼は存在していたのだ。出演していた、というよりは、そういう言い方がピッタリくる。
やっぱり、私にとって映画は教科書だなと思う。左様に世間のことにはウトいのだけれど、もう10年も前の映画だというのにその映画自体も、そしてその中の高田氏と音楽はとてもとても忘れがたいものだったから、今回足を運んだのだ。

面白いことに、あの映画で感じていた哀愁を帯びたイメージと、今回出会うことになる、いわばリアルな高田渡とは、全く違っていた。
愛すべき酔いどれ、誤解を恐れずに言えば、こんなヨレヨレの年寄り、こんな酔いどれになりたい、と思う。
ライヴ映像が中心のドキュメンタリーである。それで彼の人となりが充分に判る。
彼はステージに出る前や、ステージですら平気で酒を飲み、スタッフに「お通しは?」なんてオチャメな冗談を言ったりもするんだけど、どうしてだろう……それがたまらなく、チャーミングなのだ。

しわくちゃだし、おひげは真っ白だし、皆で飲みだしても酔っ払うとすぐ寝ちゃうし……つまりはおじいちゃんそのものなんだけど、実は見た目ほど年をとっているわけでもない。だって息子さん、まだ若いし、そうだよね。
でもその年くっている感じでさえ、チャーミングなのはどうしたことだろう。だから高田渡の存在自体が、昨今の、若く見えるために必死になっている世の中に対する実に痛快なアンチテーゼのようにさえ、思えるのだ。彼を見ていると、年をとること、酔いどれになることが、たまらなくステキなことのように思えてしまう。

それでいて、彼がやっていることというのは、不思議なほど変わりがない。
だなんて、知っているわけでは無論、ないのだけれど。この秀作ドキュメンタリーの冒頭に、実に30年前の彼の映像が出てくる。あの頃よくあったであろう、野外のフォークジャンボリーでの映像。小さなステージを大切にしている今と、しかしまるで変わらない。その時から酔いどれでヨレヨレで、カッコ悪いことがカッコ良かったみたいだ。
力むと疲れるでしょ、と彼は言い、骨が抜けてるんじゃないかと思うぐらい力をぬいて小さなステージに立つ。
様々な、いろんな世代のミュージシャンたちと、まるで気負わずさらっとコラボしてしまう高田氏。いや、向こうから高田氏とやりたいと接触してくるんだろう。高田渡自身が何の働きかけをしなくても、彼の周りに自然と人が集まってくるのが非常によく判る。だって、好きにならずにいられない人なのだもの。

印象的だったのは、まだ年若い、30代前半とおぼしき息子さんが高田氏の演奏活動に参加していることだった。こんな父親を持ったらさぞかし大変だろうと思うんだけど、何か驚くほど普通の好青年。しかし彼の演奏している楽器が不思議なの。アナクロな電子楽器みたいな趣で、凄く懐かしい音が出る。初めて見る楽器。ほんわかしながら強い意志、チャレンジ精神を持つところが、外見は今ひとつ似てなくても、あ、やっぱり親子なんだなと思わせた。

そして、サックスの坂田明氏を迎えたライヴ。だって坂田氏と言えばジャズである。そして高田氏はフォークである。それこそ、ベタベタのジャズであり、ベタベタのフォークである。しかし、これは高田氏の方の柔軟さであろう、たちまちジャジーなフォークを奏でて、これがやたらと粋なんである。音楽を長年やっている人間が、突き抜けた柔軟さを感じる。こだわらないことがコダワリになるという柔軟さは、こんな風に年をとらないと獲得できないものなんじゃないかと思う。若い時に持っているコダワリは、周りが見えないそれだから。やはり人間、年寄りになるまで生きなきゃダメだと思ってしまう。

彼の歌う歌は、日本語がハッキリと、まっすぐに聞こえてくる。しかし愛すべきひねくれ加減でもあり、観客をニコニコにさせてしまう。そのニコニコを手伝うあの喋り口調の独特なキュートさ!確かに彼曰く、好きだ嫌いだということを四分も五分も歌っているなんて、意味のないことなんだろう。本当に大事なことは三十秒かからずに言えると。しかもこんな風にしゃれっ気をまじえてさえ、それはひどく説得力を持つのだ。

このレイトショーに合わせて劇場でのトーク&ライヴが企画されていて、実に高田氏は一ヶ月間イオカードを購入して“通勤”していた(笑)。いやー、これは本当に素晴らしい企画だった。知らなかったもんだから、映画上映後のその予期せぬ贅沢な時間に大いに満足した。スクリーンで観るイメージよりずっとちんまい高田氏に驚きながらも、それだけ彼自身の存在感が大きいことを痛感する。
高田氏はやはり、60、70年代に活動した人だから、政治や世界の問題に一言ある人なんだよね。今回のイラク戦争や日本の政府についても言及していた。今のミュージシャンでそういうことが言える人、どれくらいいるだろう……なんて思ってしまう。
高田氏が短い言葉での、短い歌に執着するのもそう思うと何となく、判ってしまう。長々と愛だの恋だのを言う前に、ひとこと、言うことがあるんじゃないのかと。
そのひとことだけで世界が変わるわけではないにしても、そのひとことが投げかけるものは決して小さくないはずだから。
それでいてほんわかしているんだよね。でもそれこそが強さかもしれない。まるでプチプチのエアクッションみたいに、ぶつかっても壊れない。優しさの中の強さ。柔軟だからこその強さ。

一番哀れな女はどんな女か、という歌があった。それは捨てられた女でも、不幸な女でも、死んだ女でさえなく、……忘れられた女だった。
凄く、ズキュンとくる。この詩自体は高田氏本人の詩ではなかったかもしれない。でも彼がつまびくと、本当に短いのに、しかも酔いどれなのに(笑)、ズキュンとくる。ヤバイ、と思う。
そういう意味で言えば、高田渡は決して忘れられる人ではない。彼を知ってしまえば、忘れる人なんていっこない。それこそ、数年前の映画にちょこっと出ていた彼を私が忘れられなかったんだから。
ヨレヨレの酔いどれでも、彼はきっと世界一、幸せな人なのだ。
劇中、この映画を企画した柄本明がひどくうらやましそうに言う。芝居で高田渡のようにやりたい。でも出来ないんだよね、と。あの柄本明をうらやましがらせるなんて、凄いことでしょ!★★★★☆


たまもの(熟女・発情 タマしゃぶり)
2004年 65分 日本 カラー
監督:今岡信治 脚本:今岡信治
撮影:鈴木一博 音楽:深井史郎
出演:林由美香 吉岡睦雄 華沢レモン 栗原良 伊藤清美 伊藤猛 川瀬陽太 桜井一紀 佐藤宏

2004/11/25/木 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
ひょっとしたら、ピンクの新作がロードショー公開されるって、初の快挙なのかもしれない。荒木監督の「お友達になりたい」はあくまで一般映画として作られたものだったし。それが今岡監督のものだということに嬉しくなる。大好きな今岡作品。でもこれでやっと何作観ることが出来ているんだろう……その中でももっとも、判りやすい、確かにいわば、一般ロードショーしやすい作品だと思うし、それに本当にクオリティが高いと思う。ピンクだから勿論セックスシーンは条件どおり何度も入れられているけれど、正直ピンクというのを忘れてしまうぐらい。

不思議なんだけど……今回はホンバンだったというのに。その日トークショーに来ていた主演の林由美香嬢、今回はホンバンで行きたいんだけど、と監督に持ちかけられた時の話として、イイけど、大丈夫なの?ムリだし、無意味だって言ったんですけどネ、みたいにサッパリと話してて、実にプロフェッショナルで、いやあ、ホレるなー、などと思ってしまった。
無意味だというのは、フィルムじゃ4分しか回せないから(そうなんだ……)。そのことに関しては、やはりトークショーのゲストであったAV監督のカンパニーさんと、実に興味深いお話があったんだけど、ここでは割愛。で、彼女はだから、フィルムじゃホンバンの流れを撮る意味はない、と言ったわけなんだけれど、やっぱり意味はあったのだ。
今までのピンクで見てきた由美香嬢と一番違うと思ったのはこのセックスシーンで、凄く苦しげに、見えたのね。由美香嬢は本作の中で二人の男とセックスする。一人は、彼女に勝手に思いを寄せてくる既婚者の男、つまり愛人。そしてもう一人は、彼女がとてもとても大好きになってしまった青年、つまり恋人。その表情は愛人とのそれではイヤイヤって感じで、恋人とのそれは、切なげって感じに見えた。
……そうか、由美香嬢は本当のセックスの時にはああいう顔になるんだ……なんて。
挿入より、唇を求め合うのが本当に執拗なぐらいで、ホンバンなのに、やけにリアルにスピリチュアルに思えた。

本当に、ここにいるのは、今まで見たことのない林由美香。今までは、ピンクの定石をきっちりと守った演技をするスター女優、という感じだったから。
彼女自身も、久々に思い入れのある作品だと言っていたし。ここでの彼女は、人間の、女の、皮膚の匂いがするっていうのかな……ざんばら髪に空気が入ってて。表情というか、もう全身が、何かを語ってる。そして、すごく可愛い。今までの小悪魔的なカワイさとは違って、純に、けなげに、可愛い。
彼女は口がきけないんじゃないかと思うぐらい、まるで喋らない。喋るのは、映画の最後のふたことみこと。そういう設定の映画もまあぼつぼつ見かけはするけれど、その中で一番ずしんときたのは……どうしてだったんだろう。
でも口がきけないわけじゃなくって、無口ってだけの設定。確かに、スクリーンに映ってないところで、何かを喋っている感じはある。携帯だって持ってるんだし。
でも、そう考えると、人間って、なんてムダなことばかり発しているんだろう。別に口に出さなくたって済むことばかりじゃない。
しかも、その最後に口にする台詞だって、そういう映画にありがちな、意味のある、重い、総括するような台詞じゃないのだ。
繰り返し絶叫する「ストライク!一発!ストライク」
そして、本当に最後、「……お腹すいた」
なのになぜこれが、こんなにも心にずしんとくるんだろう。

林由美香が演じるのは、ボウリング場に勤める愛子。どうやらプロボウラーを目指しているらしい。夜遅くまで練習し、彼女の小さなアパートの部屋には、ボウリング関係のものがいっぱい。
冒頭、彼女は海岸の防波堤に座って、お弁当を食べている。お手製のお弁当。ひとりで。海に背を向けて。
その時、愛子だけをずっと映しているから判らないけれど、どうやら画面の手前でバイクが倒れたらしい。
愛子はお弁当を置いて、近寄り、こぼれた手紙を拾い出す。倒れたのは郵便配達中のバイク。
「あーあ、なんでこんなことするんだよ」そう言って近寄ってきたのは、配達人の青年。愛子がバイクを故意に倒したと思ったらしく、悪口雑言で彼女を責め立てて、走り去ってゆく。
それが、愛子と良男の出会いだった。

どうして、愛子は良男のことをこんなにも好きなの。
あんなに最初、ヒドいこと言われたのに。その後拾った手紙を届けに行った時にも、すっかり責任なすりつけられて。
あんなにヒドいこと言う郵便局員は今はいないだろうけど……郵政公社からクレームが来そう。
良男は愛子の部屋に上がりこむようになる。思えば、いつでもそのパターン。セックスするために上がりこむ。ただそれだけなのに。
朝、駅で会う良男に愛子はお手製のお弁当を手渡すようになる。料理が得意なのは、彼女の数少ない自慢なんだろうと思う。大好きな人に心をこめて作ったお弁当を手渡す。それは彼女にとってなんの疑問もないことだったんだろう。だけど。
セックスするためだけに上がりこんでいるような良男にとってはどうだったんだろう。

最初こそ良男は、部屋に来た時も愛子の作った手料理を美味しそうに食べていたし、お弁当だって食べてくれていた。でもそのまるっきり愛妻弁当であるそれを(にんじん?で作った郵便番号クンがカワイイ!)同僚の女の子に見つけられ「やっぱり彼女いるんじゃん」と言われた良男はいや違う、これは母親が持ってけってうるさいから……と否定するのだ。
彼女だと思っていなかったわけではないと思うけれど、でも、この時彼はハッキリと否定した。
お弁当を毎日毎日作ってくれる女、っていうのはそりゃまあ……確かにうっとうしいのかもしれない。自分が食べさせてやっているという自己満足のようなものなのかもしれない。しかも愛子は良男が金に困っているだろうからと思ったのか、彼に小遣いを差し出したりさえ、するんである。良男が縛られていると思ったのも……確かに無理はないのかもしれない。

良男はこの弁当攻撃をやんわりと拒否する。大変だろうし、みんな外で食べてて俺だけ恥ずかしいからもういいよ、と。そうすると愛子はその拒否の本当の理由に気づかなくて……今度はほか弁に似せて作る。市販のスチロールの容器につめて。
押入れの中から出てきた大量のスチロール容器に驚いた彼、さすがにあきれて……そしてまたお弁当を持ってきた彼女に、別れを言い渡すのだ。
でも、あの大量の容器、それは彼女の、これからのたくさんのたくさんの愛を信じたい気持ちにあふれてて、たまんなかった。
別れを言い渡された彼女は、判った、という風にうんとうなづくものの……彼がフレームから見切れると一歩を踏み出そうとして力が抜けたようによろけ、ガックリとひざをついてしまう。
でも、彼はもうとうに画面から去ってしまっていて、そんな彼女に気づくわけでもない……。

愛子が、彼女の部屋から帰ろうとする良男を行かないで、とでも言うようにぎゅうっと抱きつく場面が凄く、好きだった。
後ろから、ぎゅうって。ものすごい気持ちが入ってる。
それは、小さな子供が、世界で一番大好きなお母さんに、ぎゅうっと抱きつくみたいに、どこか頼りなげで、そしてまるで打算のない愛情。
彼女(実年齢も)いい年なのに、そんなピュアラヴが信じられる、この愛子には。
セックスもしているのに、純愛が信じられるなんて。
そうだ、愛子には縛り付ける気持ちなんて、本当に、なかった。全然、なかった。ただ彼が好きだっただけなのだ。
愛子が、可憐な白のスリップ姿で良男を出迎える場面なんて、良男が「どうしたの、そのカッコ」と言うと返す、そのイタズラっぽい笑顔が可愛くて、ああ、本当に彼のためにすべてやってる、彼が大好きなんだなって、思った。
それを縛られていると感じるなんて、男の方が自意識過剰だったんじゃないの、なんて思っちゃう。

その後愛子は愛人との関係も清算する。いや、清算させられる。その男の奥さんから直談判されたから。やはり素直にうなづく愛子。喫茶店での会話。ここでの払いは自分がと意地になった愛子が、万札を崩すためにコンビニまで全力疾走、列に割り込んでムリヤリ細かいお金をわしづかみにし、店を飛び出すもんだから、追いかけてきた店員や通行人たちに取り押さえられてしまう。数人の男に組み倒される愛子が、愛子の意固地な気持ちが、無意味だと思いつつ、あまりにも判ってしまって、涙が出る。
愛人との別れで職場も追われる愛子。
「ごめんね……。愛子ちゃんはいい子だから、どこに行っても大丈夫だよ。ほんと、そう思ってるから」
男は、いつだって勝手なんだ。自分の状況が守れれば、都合のいい女なんて、いらなくなった駒みたいに、ひょいとつまみだしてしまえばそれで済むと思ってるんだから。

良男は愛子と別れ、積極的にアプローチしてきた同僚の女の子、郁美(職場であんなことするなんて……冒頭のシーンも合わせて、ホントに郵政公社からクレームくるよー)に乗り換えるんだけど、この郁美、関係を持ったら速攻、既成事実を作った!とでもいう感じで、彼を親に紹介しに引っ張ってく。「結婚しよ」と。
思わず、ざまあみろ!と思ったりして……ほおら!愛子の方が絶対良かったでしょ。
縛られていると思っていた女が実は全然縛ってなんかなくて、自由にしてくれそうな女が、これ以上なく彼を縛り上げるなんて、痛快な皮肉。

そして結婚が決まった良男。同僚たちに祝われ(ロン毛の伊藤猛と日サロ焼け?の川瀬陽太が強烈!こんな郵便局員、いるか!)しこたま酔った良男は、独身最後だからという口実で愛子に電話をかける。結婚するから、もう会えないから……そして彼が愛子のあの小さなアパートについた時、テーブルの上にはあの頃と同じようにいくつもの料理が並んでいた。「相変わらず凄いね」そう小さく笑う良男。
彼に会えると知って、また懸命に料理を作ったの……愛子。電話が来た時素直に嬉しそうだった……愛子。
でも、その料理を食べることはなかった。せつなげな唇の求め合いが長く続く。そしてセックス。次の場面では倒れた彼の頭の上に落されたと思しき、ボウリングの玉、流された血があたりを染め上げていたから。

戸棚の上に大事に飾られていたボウリングの玉。時々愛子に話し掛けるようにこんなことを言う。「ストライク!一発、ストライク!」
ぴくりとも動かない良男に後ずさりしながら、愛子はこの言葉を繰り返す。次第に搾り出すような叫び声になる。すがりつく。動かない彼に。

愛子はボウリングが純粋に好きだったんだろうと思う。ボウリングものだらけの部屋。遅くまでの練習。大事に飾っていたボウリングの玉が喋り出すぐらい、好きだったんだと思う。
でも良男が現れて、彼が離れていって、乗り換えた彼女と二人テニスをしているのを見て、自分もラケットを買って部屋の中で素振りをしたりする愛子。
さらに、そのボウリング場も追われてしまった愛子。
ボウリングより愛した、初めての男かもしれなかった良男。

愛子は死んでしまった良男をえっちらおっちら運んでいる。なぜかその後ろに郁美がついてきている。
砂浜に埋めようと、ずるずる死体を海岸に引っ張り上げる愛子を手伝う郁美。
なんだかこれが実に不思議。だって郁美は愛子から良男をとった女であり、その良男を愛子が殺してしまったわけであり、なのにお互いに、特に郁美の方が愛子を責める雰囲気などなくって、まるでそれはひとりの男を介した同志のように思えるのだ。
深く深く砂浜を掘り、良男を埋め、小塚を作って頬を寄せる愛子。「……お腹すいた」と。そしてカットアウト。
この台詞にどんな意味があるのかはよく判らないけど、でもそれには、この大変な出来事も彼女の中で通過点として過ぎていっている様な、ある種の切なさがあった。それは今まで良男に向けられてきた、胸をかきむしられるような愛しい切なさじゃなくって、人生の切なさというようなもの。こんな出来事も、過ぎていってしまう、切なさ。
ほつれ髪の中からのぞく顔をおこして、その台詞をつぶやく林由美香はとてもとても、キレイだった。

空気が、違うんだよね、今岡作品って。その中に吹いている風が違う。今岡風の凝った作品を撮らなくても、それがやっぱりちゃんとあるんだ。
一般映画への野心を聞かれて、勿論それはあると言っていた今岡監督。誰かお金持っている人、お願いします、だなんて。そして、瀬々を越えたい、って。冗談ぽくだけど。
いや、越えて!越えてほしい、ぜひとも。というか……これだけいろんなジャンルから映画監督をデビューさせている今の実体、じゃあその後コンスタントに力ある作品を撮り続けられる新人監督がどれだけいるの。そもそも本当に力のある人をデビューさせてるの?と思うことがあるから……もう世界も実力も確立したピンクの作家さんたちがもっともっと一般デビューしてもいいのに、と思ってるから。★★★★☆


タリラリラン高校生
1971年 83分 日本 カラー
監督:田中重雄 脚本:安本莞二 田口耕三
撮影:中川芳久 音楽:北村和夫
出演:峰岸隆之介 小野川公三郎 八並映子 福田豊士 田武謙三

2004/2/10/火 劇場(銀座シネパトス/レイト)
「ヤングパワー・シリーズ 新宿番外地」を観た時に同じ監督&主演の本作を知り、このタイトルに一目ぼれして、観てぇー!と叫んだら、特集上映の中に組み込まれているのを発見、もう、いそいそと出かけましたわよ。このタイトル、今まで知っている中でも一、二を争うナイスな脱力タイトルだわ、と喜んでいたんだけれども、これって実はかなりシリアスな意味を含んだ言葉だったのね。ぜえんぜん、知らなかった。あの当時、ゲバ棒を持つまでには至らないけれど、社会に対するささやかな反抗心を持っている若者たちの、行動力がない自分たちをもまた卑下するのを表現したというこの言葉は、一部の高校生の間などで流行ったのだという。劇中では、どうにもならないからどうでもいいや、的な感じでターリラリララーン♪と歌う歌もテレビから流れ、そういう曲も当時ヒットしたのかしらん?つまり、これは無力感を感じながらも、何かをしたいと苛立つ、シニカルな“タリラリラン”なのであり、最初にイメージしたような、ノーテンキなそれではないのであった。

ので、物語もぜっんぜん、ノーテンキではない。ノーテンキどころではない。破滅に向かって突き進んでゆく。こりゃないだろという悲惨なラスト。またしても峰岸サン死んじゃうしさ。実際、若い頃の彼って、このもてあまし気味のパワーと、一方でどこか女性とか母親思慕を思わせるミルク臭さのある美貌もあり、ものすっごく、そういう暴走の果ての死を匂わせるのだ。いやー、メッチャいい男なのよ。もうぷんぷんしてるの。それにしてもこれで高校生じゃねえだろうといくらなんでも老けすぎよと思っていたら、この甘えんぼさんは留年に留年を重ねて、しかし資産家の息子だからようよう高校に行かせてもらっている、という設定なのであった。いやー、似合ってる。授業なんてアホくさくて出ずに、しかし体育の授業だけはのそっと起き出し、ありあまる欲求不満を爆発させるごとく暴れまくる。もうあつらえたみたいにラガーマンの格好の似合うこと、似合うこと。そんな彼だから不良グループからも目をつけられるんだけれど、最初はワザと弱いフリしといて、次の機会にはボコボコにする。そういうスカシもやたらキザなんだけど、キザがかっこいいの!キザがサマになるっていうのって、なかなか難しいのよ。キザってギャグになりやすいから。しかし彼はキザがめちゃくちゃカッコいいんだよなあー。

この彼、竜次がオートバイで乗り込んで転校してきた先のクラス委員が圭。七三分けで黒縁メガネでキッチリ詰襟を着込んでいる彼は、いかにもマジメなガリベン君。しかし彼は一方で友人から銭ゲバの愛称を頂戴するような金の亡者で、ガリベンやりつつ朝から晩までバイトも欠かさない。それというのも、圭の母親が彼の大学進学のためにヘソクリをため続け、自分の病気のためには使わずに死んでしまったからだ。そして後妻に奔放な女を迎えた父親を忌み嫌っていて、まさしく家庭崩壊状態である。

一見して全く正反対の竜次と圭が、そういう、母親への思慕の念で共通していたというのは、それは彼らが同志となってから明かされるわけだけれども、しかし実際、二人はお互いの中に惹かれあうものを感じていたんだと思う。クリーニング屋の圭が洗濯物を届けに行ったルミという風俗女のところに竜次はシケこんでいて、ウブな圭はすっかり驚いてしまうのだけれど、このルミという女は竜次にとってもどこか母性を感じさせるような女性なのである。竜次は圭と親友になったことでルミもまた共有させようと、圭に彼女を抱かせる。竜次のことを愛しているルミだけれども、彼の気持ちを汲んで圭を誘惑し、抱かれる。ベッドで誘う彼女のオッパイの緊張感のなさがヤダー。そんな発想の竜次もガキだけれども、酔った勢いで彼女を抱いてしまって思いっきり後悔し、竜次だけを大切にしてやってくれ、という圭の純粋さもステキなガキっぷりである。そう言われてルミは、竜次のことだけを愛していることに、ようやく正面から向かい合える。つまりは竜次と圭は愛すべきガキ二人なのだ。

でもこのガキ二人、頭のいい圭と行動力のある竜次は二人で組んでかなりヤバい金儲けに乗り出すのだ。最初の二人の共通点は、この金への執着ということだった。貧乏な家庭ながら死んだ母親のために、父親の手前もあって意地でも大学進学して優秀な医者になりたい圭と、バイクレーサーになって世界中を転戦するという夢を持つ竜次との利害が一致したのだ。圭は確かに頭がいいし、綿密な計算に基づいた計画を立てて、まんまと金持ちのエロオヤジやヤクザたちから金をせしめるんだけれど、どこかツメが甘いというか……あの変装じゃ後でバレちゃいそうだし。そのあたりはやっぱり何だかガキ、なんだよなあ。でもバレることは、なかった。バレる前に、圭が自ら、バラしたのだ。それは竜次が死んでしまったから。圭もまた、竜次と同じように自らケリをつけようと決心したのだ。

竜次がルミの言うとおり、母親の死のショックと、圭をこれ以上ヤバいことに巻き込みたくなかったことから自殺を図ったのかは、判らない。バイクがガードレールを飛び越えたというそれだけでは、豪雨の中だったし、事故と考えた方が自然に決まっている。だけど竜次が母親の通夜に出席する、とルミの部屋をあとにした時、一度外に出た彼はまた引き返してきた。どうしたの、と言うルミを竜次はどこか悲しげな表情でじっと見つめ、何も言わずにまたきびすを返し、出て行った。あの時、あ、竜次は死んでしまうんだ、と100パーセントの予感で、思った。あの時の彼、まるで亡霊みたいだった。勿論、出て行ってすぐ引き返してきたんだから生身の彼なんだけれど、まるで死んでしまった後に訪ねてきたような、そんな風情だった。何だか腕のあたりがザワッとしたのだ。間違いない、彼は死んでしまうんだって。

竜次は年の離れた異母兄が自分の母親と関係を持っている、と圭に語った。父親が死んだ後、母親がどこか解放されたように見えていたことは、母親を思慕していた彼にとって複雑な思いだったに違いない。私にはどこか、竜次が語るその禁断の関係は、もしかしたらただの邪推だったのではないかと思わなくもないのだ。実際にその現場を見たとか、そういうことが具体的に語られているわけではないから。ただ確かなことは竜次が母親を慕って慕って、たとえそんな汚らわしいことがあっても彼女のことを嫌えないでいる、そんな自分にも嫌気がさしているということなのだ。まだまだ女ざかりの母親が伴侶を亡くして、コドモである自分ではそんな母親を満足させてやれないということ、それがその“邪推”を(いや、そりゃ事実だったかもしれないんだけど)を生み出したんじゃないか、なんて。

圭もまた親のことで悩んでいる訳だけれども、彼の場合、父親のもとに嫁いできたのは、あくまでも他人である。圭にとっての唯一の母親は死んでしまい、それは理想の姿のまま永遠になったとも言えるのだ。竜次はその点、圭がうらやましかったのかもしれない……。しかしこの圭の家庭の描写、後妻の描写は何だかアンマリって気もするけど。グータラで、口で言うように母親として努力しているとは到底見えないこの後妻、まるで当然のごとく、他に男を作って出て行ってしまう。その時、圭は今まであんなに冷たくしていたのに、ガラリと態度が変わって、うなだれる父親に優しく接するのだ。何というか……“後妻”“継母”のすっごくステロタイプなイメージで描いてて何だかな、って思うのだけど……まあ、今じゃちょっとできない描写だと思うから、逆にいいのかなあ?

竜次が死んで、圭もまた自分にカタをつけるため、全てを警察に打ち明ける。表向きは出来のいいクラス委員。何も知らなかった父親や、気のいい担任や、校長のもとに続々とマスコミがつめかける。皆それぞれの立場で知ったようなことを言うんだけれど、留置所でじっと膝を抱えている圭の心中には、そんな彼らの存在はまるで、ない。圭は竜次が好きだった。友達とか親友とか同志とか、そういうものを越えた何かが二人の間にはあった。親や社会へ無性に感じる苛立ちを力を合わせて発散している時、二人は幸せだった。度胸試しのオートバイ、竜次の背中にしっかりつかまる圭や、二人で酔いつぶれ、涙を流して身の上話をする竜次、そして何よりも……あいつをこれ以上巻き込めないと言って死の旅へと向かった竜次と、竜次の死を聞かされて驚愕の表情で凍りつき狂乱する圭の姿に、二人の運命の絆を強く感じた。それはあまりにも哀しすぎて美しすぎる絆。

「タリラリラン高校生」なのにさあ、この刹那はどうよ。タリラリランでこうなるとは思わないでしょー。もおっ!★★★★☆


誰も知らない
2004年 141分 日本 カラー
監督:是枝裕和 脚本:是枝裕和
撮影:山崎裕 音楽:ゴンチチ
出演:柳楽優弥 北浦愛 木村飛影 清水萌々子 韓英恵 YOU 串田和美 岡元夕紀子 平泉成 加瀬亮 タテタカコ 木村祐一 遠藤憲一 寺島進

2004/8/31/火 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
劇場を出ると、「泣くなよ、これは映画なんだから」と……年配の、夫婦と思しき、二人連れ、その奥さんにご主人が肩に手を置いてそう言っていた。母親の立場として、あまりにもやるせなかったんだろう、その奥さんは無言でうんうんとうなづくばかりだった。
私はといえば、正直その時にはよく状況がのみこめずにいた。
最初から、おかしいのだ、普通じゃないのだ。それは判ってたんだけど。そう、歯車が最初からたがえていたのだから、どんどんどんどん悲劇に向かうのはある意味当然の帰結だったのかもしれないけれど。
どうしてそうなってしまったのか、いや、まるで導かれるように子供たちがどんどん追いつめられていくのを、なすすべもなく見て……映画として観ているだけなんだからなすすべがないのは当然なんだけど、自分の、大人の無力さを、ただただ感じるままに終わってしまって。
次の日ぐらいになって、急激に、これは大変な映画を観てしまったんだと思った。
子供たちが、大人の無力さ、社会の無力さのとんでもない犠牲になっている。
数々のシーンが思い浮かんで、こみ上げた。
涙していたあの年配の奥さんの気持ちが、私は子供がいないけれども……急に判った気がして、胸に迫った。

そりゃ、これは母親が悪いに違いない。それはそうなんだけれど。
冒頭、引越しのシーン。母親が大家さんに紹介するのは長男の明だけ。まだ小さい下の二人はスーツケースやかばんに入れて運び込み、長女の京子は夜になって人目がなくなってから待ち合わせた場所へ迎えに行く。
という、事実だけを見てみれば、なんという非常識でヒドいことを、って思う。実際、非常識なんだけど……カバンからばあ、とばかりに出てきた子供たちは無邪気に笑い、母親もよくガマンしたねえ、なんて笑顔でほめてやったりして……なんだか面食らってしまうのだ。
そう、基本ラインがこういう感じだから……ずっと状況がのみこめないようなまま、彼らに起こっていることの残酷さが……真綿で首をしめられるみたいになんだかよく判らないまま、進んでしまうのだ。でも子供たちは最初から、やっぱり、強いられていたのだ。彼ら自身でさえ、気付いていなかったけれど。

いや、長男と長女はこの時点でもう気付いてて……思春期の入り口にいるこの年長二人は、お互いにしか判らないような諦念の目配せを既に、している。
でも子供たちはこの母親が大好きで、慕ってて、……まだまだ社会的常識なんぞを知らない子供たちにとって、自分たちがヒドい目に合わされているということが判らない。
いや、そう、上の子二人はさすがに気づいてきている。学校に行かせてもらえない。家事係の長男以外は家から出ることさえご法度。そんな、軟禁の状態に気づいてきている。
でも、この家族四人が揃った時は、人なつっこそうな母親とじゃれあうのが子供たちは本当に楽しそうで幸せそうで……ヒドいことをしているに違いないのに、穏やかで幸せな家庭としか、見えないのだ。

この母親が、ある日明に「お母さん、今、好きな人がいるの」とまるで初恋をしている少女みたいにウキウキしながら告白する。それを聞いて明は「……また?」と返す。
今まで、何度となく繰り返されてきたことが一瞬にして判る会話。実際、この四人の子供たちはみな父親が違うのだ。
仕事だからと言いつつ彼女が頻繁に長く家をあけるのは、その恋愛体質のせいに他ならない。明や京子はそれに気付いているけれど、気付かないフリをしている。そう……今までは、それでもちゃんと帰ってきてくれていたから。
生活費が足りなくなって、明はそれぞれの父親のもとに金を無心しに行く。……子供になんてヒドイことさせるんだよ!それぞれの父親たちはそれぞれの対応をするのだけれど……総じて大した金額を渡してはくれない。

ホント、なんてヒドイことさせるんだよ、だよね。なのにこの母親はそれを後から聞いても、「もっとくれてもいいのにね」とか、「困ったら、また行けばいいよ」と言うんである。
大人よりももっと、すさまじい勇気を持って行ったに違いないのに!……でも、この母親のセリフ、100%拒否反応示すわけじゃないのも実は……事実で。
ちょっと、思っちゃったんだ。確かにこの母親が悪いに違いない。だけど、父親たちは?認知はしていないのかもしれないけど、でも自分の子供でしょ?
やっぱり、このあたりは女がソンだと思ってしまう。
この母親に同情するわけじゃない。決してそうではないんだけれど、妊娠し、出産する女、たとえ中絶したとしたって、その事実の痕跡が、親であることから逃げられないじゃない。
男は、逃げられるんだよな……なんて思っちゃうのだ。

でも、この母親も逃げてしまった?んだろうか……。いつものように、少し長く家を空けるぐらいだと思っていた。「クリスマスには帰るね」そう書き残していったから、信じていたのだ、子供たちは。でも、クリスマスどころか、お正月、そして、春が過ぎ、夏になっても母親は帰らなかった。
これを、どう受け止めたらいいのだろう。
逃げた、いや、逃げたという意識すらないように思える。
ギリギリまでガマンをして、どうにもこうにもせっぱつまった明が、一回だけ送られてきた現金書留の住所から104で番号を調べて、かけてみる。すると……母親の声で、別の苗字が告げられた。
明は呆然とし、ひと言も発せずに、受話器を置いてしまう。
この時……“お兄ちゃん”であることの、タガが外れたのだ。

判ってたはずなのに、判ってたはずなのに、ねえ、明。好きな人が出来たの、とお母さんが明に告白した時「……また?」とあきれ気味に言っていたのに。でも、明にだけそう告白してくれたことを、むしろ嬉しく思っていたんじゃないの?恋愛体質を強く感じさせながらもイヤみのないキュートな母親、YOUが実に適役。
思春期にさしかかるまさにその時で、この渦中に声変わりも済ませ、しかも外との人間関係がまったくといっていいほどない明にとって、このカワイイ母親は思慕の対象だったんじゃないかって、思う。
だって、それまでは兄弟姉妹たちの面倒を実に良くみる、頑張り屋の、本当にいいお兄ちゃんだったのに、この時から部屋は乱れ放題、ワルい友達と付き合い始めて弟妹たちを戸惑わせるようになってしまったから。

他の苗字をこともなげに告げた母親に、生々しい“女”を感じたのは疑うべくもない。そして、自分たちの苗字を名乗らない母親は、他人になってしまった。
クリスマスに帰るという約束を、もしかしたら明が一番信じていたのかもしれない。クリスマスの夜、ケーキが安くなるまで、道端で手をふーふーやりながら待った明。そして季節がめぐり、ついに明は弟妹たちに「もう帰って来ないよ」と言い放つ。
それまでは、お正月にお母さんから預かった、とわざわざお年玉まで用意していたのだ。それはきっと……自分が頼りにされているからというプレッシャー。出て行った日、母親はまとまったお金と共に、明に弟妹たちのことをよろしく頼んで(カルイ感じだけど)出て行った。家のこと、弟妹たちのことをキチンと管理できなければ、それは自分のせいだって、思いつめていたに違いない。

12かそこらで、そんなこと、思わせるなんてあんまりだ。
でも、そうしてお年玉を渡して、そしてもうすぐお母さんは帰ってくるよ、と、言っていたのだ。
大事なクリスマス、そしてお正月にも帰ってこなかったのに。
それでも、やっぱり、明が一番、信じていたような気がして仕方がない。……あの電話までは。
でもねでもね……やっぱりこんな幼い子供に、“いいお兄ちゃん”を、しかもここまで強要するなんて、あんまり、あんまり酷だよ。
ちょっと話が飛んじゃうけど……あの、あまりにもひどい悲劇が訪れた時、気がついたように送られてきた二度目の現金書留。遅すぎるよ!っていう……明がかけた電話(お金が足りなくてつながらなかった)で思い出したに違いないその仕送りに添えられた手紙は、弟妹たちをよろしく、頼りにしているから、と……あんまりだよ。
きっと彼はそれがずっとずっと重荷だったに違いないんだ。大好きな母親から頼りにされていることは何より嬉しいことながらも、苦しくてしょうがなかったに違いないんだ。

でも、だから、明にはお金の価値がいやってほど判ってる。
むしろ、この母親の方が判ってなかったかもしれない。あんなわずかなお金であんな長い間子供たちが無事に過ごせるなんて思ってる(ていうか、それさえ考えてなかったかも)んだから。
初めて出来た友達であるワルガキたちに万引きを強要されても、明にはどうしても出来なかったり、明たちの窮状を見かねて紗希がエンコウ(と言っても(彼女曰く)カラオケだけ)で稼いだカネ(いわば、あぶく銭)を受け取れなかったりするのは、そのせいだ。
だって明はたどたどしい文字でノートに家計簿をつけ、小銭単位で家計に悩んでいたんだから。
たったひとつの、ほんのわずかな、この状況でのメリット。他の巨大なデメリットにあっというまにかき消されてしまうけれど……。

京子は気付いていた。男の子よりずっと早く大人になる女の子は、明よりも落ち着いて、先が見えていたのかもしれない。
お年玉の字が母親と違うことだって、気づいてた。京子もまた思春期だから、お兄ちゃんである明とのやりとりはどこかはにかんだようなぎこちなさがあるんだけど、誰よりもお兄ちゃんの辛さ、苦しさを判っていたのは彼女。
ピアノを買おうと長いことためていたお年玉を、苦しくなった家計にと差し出す。……子供のやることじゃないよ……子供にやらせていいことじゃないよ!
京子ももちろん、お母さんが大好きだった。思春期にさしかかってきた京子が憧れる、フェミニンな母親。酔って明るくはしゃいだ母親がしてくれたマニュキア。でも、その後そのマニュキアを床にこぼした時、母親は「お母さんのものに触らないでよ」と叱責する。
……あの時に、京子の、母親に対する決別が見えた気がしたのだ。
明は、他の苗字を言った母親に、それを感じた。
やはりそこには、強く“女”の匂いが介在している気がする。
……やだな。何で女ってこんなに、ヤッカイなんだろ。

貧しい国でなら逆に、子供たちはたくましく生きていけるのかもしれない、などと思う。
でも、こんなムダに豊かな国、日本では、ヘタに子供の権利が守られていたりするから。例えば16歳からしか働けなかったり。当然明は自分が働かなければと思うのだけれど(でも、たった12歳で決死の思いでそう考えるなんて……あまりにキツい)、そう、一億総中流の日本では、そんな生暖かい権利の壁に阻まれる。子供たちだけで意思を持って生きていくのは難しいのだ。……いや、その必要が本来、この豊かな国日本では、ないから。それは幸せなことに違いないんだけど、とにかく生き延びなければならないと思っている子供たちがここにいる。彼らにとってはちっとも幸せな社会じゃない。
周りと違うということが、これほどの刃になる。……これはいい社会と言えるんだろうか?

明がどこかヤケクソ気味に作った友達とも、明が“一億総中流”ではないことで、その関係が崩壊するのだ。
学校に行きたくて仕方のない明。うらめしげに学校の門にぶらさがったりして……そして小学生の年から中学生になり、かつての悪友たちは真新しい制服と大き目の靴に幸福気にしかめっつらをして、桜吹雪の中、明の横を素通りしてゆく。
明が学校に行きたいと再三言っていたのは、勉強したいという向上心とは違うかもしれない。
でも、閉じ込められて、ただただ生きているのがたまらないんだ。そこまではっきりと自覚しているわけではないかもしれないけれど、これじゃ、飼育小屋でエサを与えられてただただ生きているウサギみたい。

「いいじゃん、学校なんか行かなくたって。学校なんか行かなくても偉くなった人いっぱいいるでしょ」イラつくように、そんな風に言う母親。……それは、行きたくても行けなかった人がふんばって、あるいは、学校を体験した上で自分でそれを否定した人、のどちらかであって。
その言いっぷりには本当に……ペットにそんな権利を主張されてもね、みたいな面倒くささを感じてしまったりもして……。そう、この母親、確かに子供たちのことは好きだと思うし、育てる義務があるとも思っていたと思う。でも言ってしまえばそれだけで……子供の意思や、その未来のことは範疇になくって、本当に、ペットに対する意識ぐらいのことしか感じないのだ。
……もしかしたら、現代、そういう親たちが増えているような気もしないでもない。
子供とは友達みたいに仲良くして、楽しくて、でもそれは……育てるってこととはちょっと、いや全然、違うんだ。

友達ならまだいいかもしれない。ここではペット、いや、ろくに“飼育費”も送ってこないあたり、鉢植え程度の扱いである。
この物語、悲劇的な展開を迎えるけれど、それをこの母親が知った時、ちゃんと哀しみにくれてくれるのか、それが怖くて……そこまでを追わなくて逆に良かったかもしれない、なんて思ってしまった。
しかもこの母親こうも言う。「お父さんがいないなんて、いじめられるよ」と。
明は母親が出て行った後、イジメられて孤立している女子中学生、紗希と知り合う。イジメのために学校に行かずに公園で過ごしている彼女と、兄弟姉妹ともども親しくなる。でも明にとってたとえそんな状況の紗希でも、学校に行ける彼女がうらやましいに違いない。彼にはイジメを受けられる状況さえ整わないのだから。

でも、子供たちはやっぱりやっぱり、母親が大好きなんだ。ずっと、信じてる。
信じてないはずの明もやっぱり信じてる。一度、“しっかりもののお兄ちゃん”を転落してしまってからは、お金のなさも手伝って、くるくると、まるで面白いほどに、ひどい状況に転落していった。まず、電気が切れた。当然、ガスも使えない。だからカップラーメンもコンビニで湯を入れて急いで持ち帰る状況。水も……止められた。
水を止められるっていうのは、命に関わる本当に最後の手段だから、水道局員とか何度も来るはずだし、止められるまではかなり大変なはずなんだけど。でも、止められ、明たちは公園で水を汲む生活になる。真夏。電気がないからクーラーはおろか、扇風機もダメ、洗濯は公園でして、鉄棒に干す。お風呂も公園での洗髪。着たきりすずめで、その服も擦り切れて穴があいてくる。

冷蔵庫は電気が切れたから、もはや死んだ状態で、戸棚代わり。その“戸棚”の中に入れられるのは……コンビニでもらってくる、賞味期限切れのおにぎり。
まるで、ホームレスと同じ扱いだ……でもそれでも、店員の好意が明にはありがたいし、兄弟姉妹四人の命をながらえているのも事実。
そして、いい人に映るのも事実なのだ……。
こんなことしか、大人は出来ないの?こんなことでいい人になってしまうの?この子たちのために、どうしたらいいんだろう、どうしてどうも出来ないんだろう。お願い、この子たちを助けてあげて、そう思っている自分が一番助けられない情けない大人であることに本当に……愕然としてしまう。
そう、私には、“こんなこと”さえ、出来ないから。

末っ子の妹、ゆきが椅子から落ちて動かなくなってしまった時、……明は誰より何より、母親に電話をするのだ。
お金がなくて、通じなくて、結局そのままゆきは死んでしまうのだけれど……。
死んでしまう、死んでしまう!なぜ!どうして!どうしてそんなひどい展開を持ってくるの!って思うのだけれど……何よりショックだったのは、この期に及んでも、明が救急車などではなく、母親に助けを求めたってことなんだ。
以前、万引きの疑いから助けてくれたコンビニの店員の女の子が明を心配して、警察や福祉事務所に連絡するべきなんじゃないの、と言った時、明は、そんなことしたら、四人で暮らせなくなる。以前もそれでとても大変だったんだ、と言う。
四人……この時既に、母親が含まれていないのが少し、辛い。あるいはここは彼の意地だったのかもしれない。
確かに、こういう状況で、四人の兄弟姉妹が一緒に暮らせる可能性はゼロに等しい。非力な子供だからそれも仕方ないというのが、彼には通用しないんだ。

子供だから、ひとりじゃ生きて行けないから、それだけの理由で引き離すなんて、自分がその子供の立場で考えたら、確かにそんなヒドイことってないんだけれど……。
でも、そうだ。明はだって、大人と同様に戦ってきたんだもの。それなのに今さら、子供だからという理由で引き離されるなんてごめんだって、思ったのかもしれない。だけど……。
あるいは。父親が違う兄弟姉妹。だからこそ、家族の絆を大事に思ったのかもしれない。それに、外との人間関係が作れない以上、兄弟姉妹と引き離されたら……自分は本当にひとりぼっちになってしまう。
救急車を呼ぶこともなかった。それは、そうしたら、自分たちが離れ離れになってしまうと、やっぱり思ったからなのか。
その思いの方が優先してしまうのか。矛盾してるのに。妹が死んでしまったら、四人が三人になってしまうのに。
妹の死よりそれが優先してしまったのだろうか!?ヤだそんなの……そんな、強烈な寂しさ!

いつもいつも、明をじっと見上げて、「お母さん、いつ帰ってくるの」と聞いていたゆき。仲良くなって出入りするようになった紗希にもなついていたゆき。はじめはキチンと揃っていたクレヨンが、今は5色だけ、しかもすっかりちびた状態でしか残ってない。それでもそのクレヨンを使って大好きな人の似顔絵を描いてくれた。
彼女にはもっともっともっと、甘やかされてすくすく育ってゆく権利があったのに。
飛行機を見せてやりたい、そう明は言って、ゆきのなきがらをスーツケースに入れて紗希に手伝ってもらってモノレールに乗る。引っ越してきた始めはかばんにラクに入っていたゆき。「背が伸びたんだね」そう、京子がぽつりとつぶやいた。
ゆきがこんなにあっけなく死んでしまったのは……転んで頭をかばうだけの体力もなくなっていたんだろうな……。 でも、まさか、まさか死んでしまうなんて。

飛行機の発着が見える羽田の草っぱらに、ゆきのなきがらを埋める明と紗希。
明はぽつりぽつりと語る。冷たくなったゆきの手の感覚に、“気持ち悪い”と思ってしまったことを。
死の意味さえ、死に対する悲しみさえ、いや、それ以前に驚きさえ、つかめないままこんなところに呆然といる明が痛ましくて、たまらない。
だって、これ、初めての遠出だよ?それでもあの狭い一室から母親の禁を破って外へと出歩くようになった兄弟姉妹、でも、飛行機の飛び交う羽田なんて、夢のまた夢だった。
本当は、夢はここから始まるんだよ。日本各地へ飛行機が飛んでゆく羽田。
でもそれでも、日本国内だけに過ぎないのに。
彼らの世界はあまりにも狭かった。あまりにも、あまりにも……狭かった。

こんなこと、いつまでも続くわけない。実際、家賃を催促しに大家の奥さんが来ていた。先は、見えているんだ。 でも、ゆきが死んだ後、ゆきのかわりをつとめるように、紗希を含めた四人で歩いていく後姿には、たくましさと言ったらヘンなんだけど、それと似たような……生きていく意志が感じられた。ヒドい、あんまりだと思いつつ……ラストに感じたのが微かな救いだったのはそのせいかもしれない。

カンヌを制した、大きな目の美少年、柳楽優弥は確かに素晴らしい。でも、彼だけでなく、四人の子供たちは皆素晴らしい。無垢なゆき、やんちゃな茂、思慮深い京子、そして……声変わりを迎える揺れる少年期の明。その、そこで本当に生活し、生き、おしゃべりしているような、ナチュラル。奇跡のカルテットだ。
そして、そこに加わる“第三者”の紗希、韓英恵も勿論。ちょっと前までは小学生だったなんて信じられない。高校生にも見えるような大人びた落ち着き。センセーショナルだった「ピストルオペラ」より完璧な存在感。切れ長のドス効いた目は、大きな目で抑えまくる柳楽優弥の対張る迫力だ。
1年間の撮影期間を設け、特に成長期の柳楽優弥は背の伸びと声変わりをそのスクリーンにハッキリと焼き付けた。成長が刻み込まれる。この劇中としては辛い成長だけど……。

特に男の子に感じる、時間の経過を感じる髪の長さはでも、特にそう、“性徴期”の柳楽優弥君にはなんだか妙ななまめかしさを感じるのだ。最後の夏、あまりの暑さに上半身ハダカになる場面も出てくるんだけれど、何か痛々しいほどの、まさしくローティーンの男の子の華奢さで……ベビーフェイスでコケティッシュでフェミニンな母親、YOUとの感情の関係性を、どうしても感じてしまう。
長女である京子もまた、女として母親を意識する生々しさを感じずにはいられない。酔った母親がゴキゲン気味で施した赤いマニュキアがいつまでも心に残る。急速に背が伸び、声変わりを迎えた兄に対する微妙な距離、同じ母親をそれぞれの立場で女としてとらえ、そして父親が違うという気分が……なんともいえない微妙な距離感をかもし出していて。

本当にひどい状況なのに、だけど兄弟姉妹がお互いに大好きで、お母さんを最後までやっぱり信じてて、お母さんがいても、そしていない時でも、楽しい時には本当に楽しいのが、……それでもその世界は狭いマンションの中と、そして母親との約束を破って勇気を振り絞って出た外、公園とか商店街とかそれでもやっぱりすごく狭くって、それが何だか、凄く辛いんだ。側溝に咲いているささやかな赤い花に目が止まったり、その種をインスタントラーメンの空き容器に植えてみたり……でもそれも、明らかに雑草としか思えない草しか生えないんだけど、なんかそういう、無意識下で強烈に願っている外の世界、生への希求が……たまらないんだ。

私たち現代の大人が、子供並に自分のことでいっぱいいっぱいで、子供たちを慈しむ余裕さえないのが、恥ずかしい、恥ずかしくてたまらない。★★★★☆


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