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日本の悲劇
2012年 101分 日本 カラー
監督:小林政広 脚本:小林政広
撮影:大木スミオ 音楽:
出演:仲代達矢 北村一輝 大森暁美 寺島しのぶ
いや、きっと私が甘ったれで、そうしたことに真正面から向き合えないだけなのかもしれない。
本作に対しては「バッシング」で感じた超絶違和感てほどではなく、題材もテーマも、厳しいけれどあるかもしれない……という納得の範囲内ではあった。
震災を盛り込んだのも、あの事実を挟んであっちとこっちでは、日本も日本人のあり方も確実に違っているのだし、仕方ないかなとも思った。
一時期震災映画に拒否感ありまくりだったのが、何となく薄れてきたところでもあったから、展開の一つとして見ていたんだけれど……。
でも、物語が終わり、最後の最後、監督からのメッセージという形で、震災で亡くなった人の数、毎年の自殺者の数を並べ、そうした死者たちに捧げる、とうやうやしくメッセージが刻まれた時、うっ、とつまってしまった。
やはりそれなの、という思いと、この二つをどうして並べるの、という気持ち。
震災に対して映画というメディアがどう対峙すべきか、あるいはクリエイターとしての映画人たちがどう表現するべきなのか。2年以上経っても、答えが出ない現実にさらされてしまったような気がしてしまった。
震災に対して、この映画で、死者に捧げるの、なんで、と思ってしまった。
何でも何も、そんなことはそれこそ自由な筈なんだけど、それこそ本作にはあの当時の震災映画にイラッとしていた被災地描写は現れないんだけれど、その意識的な見せなさも、逆に計算高い感じがして、なんだかイヤな感じがした。
……私は一体、どんな震災映画だったらいいんだろう。あくまで触れてほしくないのか……判らない。
でも、自殺者の数と並べることにはまた違った違和感を感じてしまう。なんでそんなことするのと思ってしまう。
確かにどちらも、あまりにも悲しき“日本の悲劇”に違いない。でも、ここで並べるの。なぜ、なぜ、と。
確かに物語は、その二つを並べるにふさわしい展開ではある。
リストラにあい、追い詰められて、精神を病んでしまった男は妻と子に去られる。その妻と子が身を寄せた彼女の実家が気仙沼で、あの震災からこっち、行方が知れないままである。
父親は最愛の妻に長闘病の末に去られ、自らも肺がんで余命いくばくもない。治療を拒否し、部屋にくぎを打って閉じこもる。
父親の年金で細々と暮らす息子に言い放つ。オレが死んでも半年か一年はそのままにしておけ。ミイラになるんだ。傑作だろう、と。
そこにはここ数年世間を騒がせた、親の死を隠して年金を不正受給していたという、しかも何件もそんな事件が発覚した衝撃を、小林監督なりの優しさで描かれている訳である。
確かにあの事件は世間を騒がせたし、それは一様に不正受給した子供たち、子供という名のいい年した大人たちに対して、なんとむごい、薄情な、という世間の誰もが感じた、つまりは“バッシング”と言ってもいい一方的な感情の嵐に物申すものだっただろうと思う。
そして確かに、この小林監督なりの答えは、何かうなずけるものがある。そんな親もいたかもしれないと思う。
この父親の提案に対して息子がどう答えたのか、ラストの一場面だけではどっちにもとれる気がして怖かったのだけれど……。
まあそれはおいといて。でね、そう、この事件に対する小林監督の答えとしては、ああなるほどと、思ったのね。なるほどってのもアレだけど(爆)。「バッシング」でのそれがあまりにもあまりだったから、まあこれはマトモかなとか思って(爆。ヒドイ生意気な……)。
でも、それと震災を並べないでほしいなあ、という思いもあった。二つのテーマでお得感、なんていう訳じゃないけど(爆)、そんな気がしなくもなかった。
いや、二つどころじゃないでしょ。仕事、会社というものに知らず知らず縛られて、それは家族の幸せのためにやってきたと信じていたのに突然裏切られて、自分を見失って、自殺未遂を繰り返した男の話までもが盛り込まれる、だなんて。
そりゃどれもが上手く立ち上がっていて、この短い尺の中で張りつめた役者たちに観客もまた追い詰められていくんだけど、一軒の家の中の、二つの部屋、つなぐ廊下、アングルもごくごく限って役者の演技を見つめる形の本作は、なんか……舞台チックな感じもして、それもまたナマな芝居とそれを受ける観客のリアクションを妨げるような感じがして、しっくりこなかったんだよね……。
確かにストイックで印象的ではある。もうそれは冒頭から印象付けられる。
勝手に退院してきた父親を家に送ってきた息子、というファーストシーン、ワガママな父親にイライラしながら家のこまごまを片づける息子、洗濯機をかけに行くシーン。
洗濯機のある場所にカメラが移動することなく、カメラはじっと、亀のようにじっと動かないまま、遠くから洗濯機の動く音とイライラとした息子の声が聞こえてくる。
観客の、カメラが移動することを予測&期待する思いを封じる、もう最初から何一つおもねることのない印象的なプロローグなんだけど、ある意味これが、決定づけていたような気がする。
観客は傍観者なのだ。そこに入り込むことを許されない。ここは作り上げられた舞台で、その壇上を観客が眺めている。映画じゃない。どんなところにもカメラが入っていける映画じゃない。
それが、有効なのかどうか、私には判らない。ただ……なんだかひどく押し付けられたような違和感があるだけ。
前作「春との旅」は、その意味では、らしくなかったかもしれない。一般観客に訴えるものがあったかもしれない。
私もアホな一般観客だからさ(爆)。つまりは小林監督は戻ってきただけなのかもしれない。
仲代先生はこのキャリアのお年になって、名コンビと呼ばれるほどの監督さんとの出会いを得たのだから、それは役者にとってこんな幸せなことはないのだろう。
「春との旅」の圧倒から、本作で彼が嬉々として小林監督の世界に生きたのは、当然のことだろうと思う。役としても、「春との旅」に勝るとも劣らぬ“やりがいのある役”。
昭和の父親が年老いた姿……ガンコで怒りっぽい、でも奥さんには頭が上がらない、息子には厳しく、孫にはベタ甘、仕事をリタイアしてしまえば家の中では何もできない、ただワガママな大男、という姿を、お見事なリアリティで演じる。
まるでそんな、昭和のモーレツサラリーマンを生きてきた、典型的な人生をホントに送ってきたかのようである。
その一人息子を演じる北村一輝は、確かに今まで見たことのない彼。この役をやるなら、それっぽいその年頃の役者は他にいくらでも思い浮かべそうな気がする、という点でも、驚きのキャスティング。
どう転んだら仲代達矢の息子に北村一輝がなるんだと(爆)いや、それを言っちゃあオシマイだが……。
リストラ、精神不安、度重なる自殺未遂、妻子を置いての失踪、その妻子が震災で行方不明、母の死、自ら飢え死にしようとする父親との相対……これまた、こりゃあ役者がよだれ垂らしてやりたがる役柄だよねと思う。
時に子供のように声を裏返して泣きじゃくる北村一輝に、うわあ……こんな北村一輝を見ることがあるとは……と半ば呆然とする。
うっかり笑いそうになって慌てて引き締める。いや、笑ってもよかったんだろうか。
仲代達矢の子供のようなふるまい……奥さんに酒のお代りを所望するとか、息子の世話焼きに「必要ない!」と駄々っ子のように反論しまくるとか、結構観客からは笑いが起こってたんだよね。まあ私は笑えなかったけど……(爆)。
確かにそういう意味では、仲代氏の方には少々の余裕があったかもしれない。わがまま爺さんを笑ってくれよ、みたいな。
でも北村氏の方は、最初から最後までチリチリ焼け付く音がしそうなぐらい張りつめてる。
長闘病のお母さんを看取ったのも彼(先述のようにそんな場面は示されず、台詞での説明のみ)、そして父親と二人暮らしの間、結構手早く食事を作ったりしていたことも、これまた台詞のみで示される。今日はカツオを買ってきたから父さんの好きなにんにくスライスで食べようとか、これ見てくれよ、生かき買ってきた。かき酢を作ろうかな、とか。
冒頭の、父親が勝手に退院してきて、そして母親の命日というシークエンスでは、部屋中に散らかったコンビニ弁当の空き容器を片づけ、出前の鮨を用意していたりするから、彼は全然家事が出来ない男子なのかと思いきや、「380円の弁当を二つ買って、昼に一つ食べて、夜は焼酎で半分食べて、半分は朝に残す」と、切り詰めた生活を説明するんである。
恐らくそれは、父親が入院していた時の話で、一人だと自炊よりそっちの方が安上がりとか、作る気力がないとか、いうことなのかもしれないけど、ちょっとこの辺もハッキリとしない。
それなりに料理が出来て、それまでやっていたのなら、一人でも自炊で回す方がお金がかからないし、気力がなくなったからお弁当になったとかいうような、明確な理由付けが見ていて感じられるわけでもない。
なんか、彼のキャラづけは、納得できるようで出来ないもどかしさがある。かき酢を作る、ってアッサリ言える位なら、それは自炊男子としては相当の腕前だと思うんだけど、コンビニ弁当生活にあっさり陥っちゃうなら、そんなキャラづけを何でしたの、とか思っちゃう。
ラストシークエンス、最も幸福だった一場面を、ご丁寧に唯一のカラーで示す(こういうの、あまりにも意図的で、ていうか、ワザとらしくて、あんまり好きじゃない……)シーンでも、おふくろさんが初孫を連れてきた息子一家に張り切って、前日からよっぴいてご馳走を作っていたというのを、いかにも一人息子らしく、おお、おふくろのメシだ、的な態度で、なんで彼が自炊男子になれたのか、どうも判然としない……。
妻子に去られていた時には、病院に入っていたんだし、どこで自炊の腕を磨くのだ。うー、こういうこと、つまんないツッコミだと判ってるけど、そのどれもがイマイチピンと来ないから(爆)、なんか必要以上にツッコみたくなるんだよーっ。
最愛の妻の遺骨と位牌と遺影と共に一室に閉じこもり、戸にくぎを打って死を待つ父親。
そんなワガママパパに戸惑い、憤り、必死に戸をたたき、あるいは遠ざけ、血のにじむような言い合いの果てに夜を明かす息子。
ある日、“一日一回の安否確認”の朝のあいさつに父親の答えが聞こえなくなる。
次のシークエンスでね、相変わらずコンビニ弁当のゴミだらけの食卓で、でも父親の写真がきちんと額に入れて飾られている。
彼は求人広告にマルをつけながら食事を済ませ、空のペットボトルに急須のお茶を入れ、くしゃくしゃのレジ袋にその求人広告の載った新聞とペットボトルを突っ込んで、それでもカッコだけはきちんと背広を着込んで、出かける。
出かける時に、食卓に飾った写真にではなく、閉められた戸に向かって、「面接行ってくるよ」と声をかけて出かける。
あれ、あれ、あれあれあれ、これってつまり、つまりつまり、息子は父親の言うことをきいて、自分の仕事が決まるまで、父親がミイラになってもそれは彼の希望だから、と?それとも……。
ああいう、かつての幸福だった時代、みたいに一部カラーにするの、私すっごいキライなの(爆)。しかもそれが、一人息子の、初孫で、ってなシチュエイションとかさ、わざとかと思うぐらいの判りやすすぎるベタで、耐えられない。
「男でなくてゴメンね」と言う息子の台詞は、意味をもたらしていたのか、それとも作り手側に何の意図的な感覚もなかったのだとしたら、それこそサイアクだが、いくらなんでも……どうなんだろうか。
その息子の台詞に対して老父が言う「何言ってるんだ。無事に生まれてきただけで充分だ、そんな贅沢は言わない」みたいな、まあ言い回しは違うと思うけど(うろ覚え(爆))とにかくそんなニュアンスのことを言うもんだからさ、こ、こ、これって、どうなの、と思ってしまった。
気にし過ぎだろうか……でもわざわざここまで言わせるなら、それに対する展開があるべきだと、今の時代ならあるべきだと、思ったけど、もうここはラストシークエンスだからさ、独女フェミニストというサイアクな私は、えーっ、何これ、いまどき?サイッテー!とか思っちゃうわけ(爆)。
娘が産まれてきたことに対して、それだけで充分、贅沢言わない、って、な、何なの。
つつき過ぎ?気にし過ぎ?でも、こんな繊細な作品なら、そーゆーとこも拾ってしかるべきなんじゃないのーっ。この世代の父親だから、ということなのかもしれないけど、明確に示される訳でもないのでは、単なるヘンケンに思えちゃうなあ。
……やっぱり私は、苦手なんだと思う。小林作品。世界に評価されるテーマ性を持っている監督さんだというのは判る、判るけど、持っているのがテーマ性だけじゃさあ、などとナマイキ極まりないことを思ってしまう。
モヤモヤとした気分が残る。そうさせるだけの力量があるということなのだろうけれど……。
★★★☆☆
なんだろう、この不思議感……ベースはおとぎ話、というか、神話、あるいは狐狸妖怪の雰囲気なのに、現代社会のドキュメンタリズムたっぷり。
そりゃそうだ。この社長さんも本物、彼の友人として登場する『湖南菜館』店主、リーさんも本物、って、この人、“歌舞伎町案内人”の異名を持つ、ってあの、映画でチューヤンがやった、あの歌舞伎町案内人!?そうなんだ!!すごーい、なんか、イイ男だし、50過ぎてるって??見えなーい!!
……なんか色々興奮してしまった。いや、見てる間は不思議気分でいっぱいだった。そして徐々に全貌が明らかになり、この映画の成り立ちも判ってくると、こういう映画の作られ方、人の出会い、云々があるんだ、と思って、なんだか、なんともドキドキしてしまうんだよ!!
日本が舞台で、登場するのもほとんど日本人ではあるけれど、監督さんはトルコとフランスの運命的カップル、その出会いを知っただけでドキドキしちゃうが、その運命の才能にも更にドキドキしてしまうんである。
何なの、何なのこの人たちの確固たる意志は、なんなの!!異文化を理解したい、まあ言葉で言うのは簡単よ。そういう具合にエキゾチックな文化に分け入って、メチャクチャな映画を作る人はたまーに、いや、かなーり、いるわよ。でもこの人たちは、違う、違う!
確かに彼らの持つ、私たちにとっての異文化からの視点が、この作品の風合いを不思議感覚にさせてはいる。どっぷりつかり過ぎているからこそ、私らはこんな風に、自分たちの文化を表現することができない。狐と狸の化かし合いを、こんな愛の物語になんてできない!!
確かに日本という国の、神話から連なる文化には、どこか遠く深い森には異世界に通じる入口があって、そこには聖なる結界が張られていて、覚悟を持った人間しかそこには行きつけないとか……。
そういう世界を、確かにこの日本という国のどこかにはそういう場所があるだろうと、思っているところはあるけれども、でもそれをこんな風に、本当の手触りで描くことは、かえって日本人には出来ないんじゃなかろうか。
だってそれは、いつでも現実とつかず離れずのところにいる。客観的に、私たちは見られないんだもの。
うーうーうー、この作品の魅力をどこからどう語ったらいいのか判らない。一応三つのチャプターに分かれているんだけれど、それぞれが分断されているんじゃなくて、あくまで一つの流れで流れていく。
このチャプター分けは、どの立場に重きを持って見るかという、観客に対しての慎ましい指南のような感じで、それが実に、絶妙に功を奏してるんである。
冒頭はね、狐と狸の賭けの話。金持ちの人間を騙して、その金を巻き上げた方が勝ち。ただし、その勝負がつくまでは人間の姿でいること。
それまでもいろんな賭けで楽しんでいたらしい狐と狸は、これが今までで最長の賭けになることは知らずにいる。そしてそれが思わぬ結末と、お互いの思いを自覚することになることも。
でもね、私はしばらく、気づかずにいた。冒頭語られたこのナレーションが、その後展開する、経営危機の社長さんの描写にどうつながるのか、まあなんか、寓話的な戒めみたいに置いただけで、現代社会の厳しさを描く映画なのかな、ぐらいに思っていた。
でもなんか段々と、ただごとではない気がしてくる。まあ、確かにただごとではない。この社長さんの経営する企業は、朝礼で報告される会話は抽象的で何をやっている会社なのかイマイチ判然としないんだけど(そのあたりももちろん計算済みだろうが)、とにかくかなりの経営危機に陥っているらしい。
それをこの社長さんは、友人のレストラン店主、リーさんに相談しに行く。冒頭の次の、現実世界の最初の場面は、リーさんがこの吉野社長(実際に、吉野社長!!)をポールダンスバーに連れていくところから始まるんである。
セクシーなダンサーの股の下に横たわり、胸を押し付けられて、お札をくわえとったダンサーは吉野社長の耳元で「今日はありがとうございます。また来てくださいね」とささやいた。
吉野社長は感銘を受し、そのことを朝礼で報告する。人のためになる仕事がしたいと。ありがとうございますと言われて、私は彼女が神様に見えたと。神様になれるのだと。
恍惚とそう訓示する社長に、社員以上に奥方が心配顔である。奥さん。でも苗字が違う。あ、実際は本当にこの吉野社長の奥さんだから(!!)もちろん同じ苗字なんだけど、役名としての苗字が違うのね。
仕事をしているから旧姓を使っているということも考えられるけど、ちょっと意味ありげな気がした。
だって社内では、彼が奥さんであるということは、特に指摘されないし、社長は段々と精神を病んでいって、過去を忘れて行ってしまうから……。
でも、まあ、考え過ぎかな。なんたっておフランスチームだから、女子が旧姓で仕事をするぐらい、フツーのことだもんね。
でも、そう、社長は錯乱していってしまう。いや、この描写が社長の錯乱なのかどうかさえ、あまりにも不思議な描写と、雰囲気で進んでいくから、何かこう、アヴァンギャルドな世界の物語なのかしらん、などと緊張しながら見ていた。
だって、この閉塞した状況を打開するには、サンバしかない!とか言い出して、社員が超サンバコスチュームでブイブイ踊りだすんだもの。一体これは、何??と……。
まあ、その前に、社長らしくカラオケスナックでホステスの女の子の肩を抱きながら、ギザギザハートやら、昴やらで大盛り上がりするあたりはノリがいいけど、でもサンバとは違うよね、日本の社長さんは……。
でも冒頭のポールダンサーのくだりがあったし、なんか、なんだろう、そういう方向なのか、と思って見てしまうことが、後の、いわば謎解きのところで見事に引っ掻き回されることになる。
でもそれは私が勝手にコンランしただけだろうか。でもでも、これは、運命の人は誰かを見出すラブストーリーだもの、きっとそれは計算のうちのハズ!
社員に給料が払えないほどの事態に陥り、発作的なのか飛び降りを図ったところを奥さんはじめ社員に止められ、吉野社長、リーさんの紹介した京都のメンタルクリニック施設に入るんである。
……なんというか、いかにも、もうここからどこへも行けない感満載の、壊れかけた人たち満載で、一体これからどうなるの……と思う。
吉野さんはそこで、一人の女性に出会う。年頃は吉野さんよりひとまわりほど年下だろうか。チャーミングな笑顔がほんわかと惹きつける。
凄く吸引力があって、一体この人誰??役者さんとはまた違うオーラがあるけれど……と思ったら、なんか有名な作詞、訳詩家さんだとか!
なんか、違うんだよね、雰囲気が、なんだろう……。この施設の中で、鮎川さん(本名ママ!)は、なんか妙に、存在感があるのね。
というか、ここで出てくるキーパーソン二人、絵本を作ってる女の子二人、独特な雰囲気の女の子二人が、その絵本の展開は鮎川さんに指示をあおがなあかん、と言う訳。第一チャプターからどことなくあやしげだったけど、この第二チャプターで、明らかに異世界への扉を開く雰囲気アリアリな人物が出てくる。それがこの女子二人。
なんていうか……なんだろう、もう、彼女ふたり、絶対異世界の扉開いてるだろう!って雰囲気なのよ。独特の、雰囲気。別に普通の女子なんだけど、喋り方とか、目の伏せ方とか、なんだろう、なんか、シャーマンチックなのよ。
片方がかなり小柄で、……こう言ってしまっては語弊があるかもしれないけど、フリークス的な雰囲気があって。
狐と狸の賭けの顛末を、やたら現実的に作り上げていく。狸は男になって会社の社長になった。でも精神を病んでしまった。狐は女になって、身体を病んでしまった。そして死んでしまった……。
人間の身体は、それまで狐狸妖怪として生きてきた彼等よりずっと弱い。だから、男になった狸は精神を病んでしまい、女になった狐は身体を病んでしまった。そして狐は死んでしまった。
経営者になった狸、というだけで、吉野社長はそれが自分を差していると判ったし、観客たちももちろん判った。
じわじわと示されていく中で、冒頭のあのナレーションが、現実のこの物語に反映されているんだと判りつつ、でも男は判ったけど、女は??と突き止めきれずにいた。
それは、印象的な女子としては、鮎川さんという存在があったせいもあり、……本当に鮎川さんは、笑顔のキレイな、きっと吉野社長もちょっとホレてしまったんじゃないだろうかと思うような、そんな雰囲気を持っていたんだもの!
落ち込んでる吉野社長に、屋上へと案内し、大文字焼の山を見せる。山にいつも話しかけてるんだと、応えてくれるんだと、そのチャーミングな笑顔で教えてくれる。
「愛している人が死んでしまったから……古事記、読んだことありますか?私はいつか、黄泉の国にあの人を探しに行きたいと思っているんです」
それは彼女が死を選ぶという意味にしか聞こえなかったのに、吉野社長は彼女の笑顔につられたのか、きっと見つかるよ、と言った。言ってしまった。そして鮎川さんは姿を消したんである。
あの、絵本を製作している女子二人が、人間の女になった狐がフラメンコダンサーだのと言うし、死んでしまったとも言うし、狐の正体がどの女性なのか、なかなか当て込めなかったんだよね。
本当に鮎川さんなのかと思った……のは、施設に訪ねてきたリーさんが、鮎川さんが実は自分の元妻だと告白しつつ、「店は売ってしまって、本当に困っていた女の子にお金をあげてしまった」と言ったから。
お金持ちからお金を巻き上げた狐が死んでしまった、という流れを、どう解釈すればいいのか。
お金持ち、がリーさんだということは推測がついた。鮎川さんは元妻だというから違うのか、確かにリーさんは、鮎川さんには会ってもらえないと言っていたし、お金を上げた“女の子”とは別なんだろう。
でも女の子、と言ったからさ、この時点までには、奥さんこそが狐なんだろうという確信が持てずにいた。
でもなんたって狐、なんだから。奥さんはその時、本当にリーさんの前で女の子になったのかもしれない、なんてまで想像するのは行き過ぎだろうか。リーさんと普通に会って相談している場面もある訳だし……。
でも、この賭け自体が人間に化けて行うゲーム、だったんだから、あるかもしれないじゃん。でもゲームが本物の愛になっちゃうなんて、なんて美しいの。
いやいや、その結末は、本物の愛だと感じる結末はまだまだ先だ。焦っちゃいけない。
リーさんが、日本に来てからの来歴を、実は結構な奥さん遍歴だったりする、鮎川さんのことも“捨てた”形になったということを、涙をにじませながら語る、その彼の表情にグッとくる。
それは、歌舞伎町で、美しい指でスマートにタバコをふかしている、細身のスーツが似合うリーさんではないんである。ニット帽なんかかぶって髪がぺちゃってなっちゃって、まるで無防備なのだ。
そんな自分の来歴を黙っていたことをしきりに謝りながら、吉野社長がその鮎川さんと友達になったこと、私にとっても忘れられない女性だったと言ってくれたことに、しきりに感謝を繰り返す。
なんか、本当に、ジーンとしてしまったのだ。なんだろう……それまではさ、あくまで吉野社長の方がリーさんを信頼して、相談を持ち掛けたりしていたけれど、実際はリーさんもまた吉野社長を心から信頼してたんじゃないかなあ、って。
この施設を紹介したのも、いい施設だから、というのがあるにしても、その元妻と会ってほしかったからじゃないかなあ、って。
そして第三チャプター。狐と狸の物語が自分たちの物語であることに気づいた吉野社長が、死んでしまった狐を探して取り戻す、と決意する。
死んでしまった、ということが観客には知らされてなかったから、ちょっと動揺する。しかも取り戻すだなんて……。
彼が真っ先に向かったのはなんとイタコ(だよね??)の元!お念珠をじゃらじゃらと鳴らしながら神様に向かって願い請うも、死んでしまった狐は黄泉の国まで行かないと取り戻せないとイタコばあちゃんは言う。
それはどこにあるのですかと吉野社長は問う。西に行きなさい。そこに森がある。その中に入口がある。ただし見つけるのは大変だよ、と大変という割には、ひどくシンプルで、あっさり見つかりそうな口調である。
吉野社長はその言葉に従って西に行く。あっさり森がある。分け入る。陽が落ちてくる。ガチャンとワナにかかってしまう。
……えっ!?ジタバタする。どんどん暗くなる。ジタバタする。うわー、これ怖い!だってマジに人っ子一人いない森閑とした森の中(まあ、森だけに……)。
誰かー!なんて言ったって誰もいる筈ないじゃない!と、思ったら、いた!画面の奥の方からブルゾンの人影が近づいてくる。それはそれで怖い……。
「なんだ、狸か。狸は食えない。逃がしてやるから、行きな」えっ、なんで彼は、吉野社長が狸だって判るの??
「行けってば。食ってまうぞ」食えないって言ったくせに……なんだか妙にユーモラス。吉野社長は彼の後について行く。
山小屋の中に入り、シカの生皮を「まだ肉がついてるだろ」とそぎ取る様子を見せてくれたり、なんかひどくリアリティあるなと思ったら、マジに猟師。そういう生活してる若き猟師さん。
えーっ。一体この作品は一体、一体、なんなの!!ディープすぎる!!そりゃそういう人なら、人に化けた狸も、狸と一発で見抜いちゃうかもしれない……。
そしてその猟師さん、狐の居所を聞かれていともあっさりと、「あの石段を登って行ったところに狐はいる」と言うのだ。本当に、いともあっさりと!!
教えられたとおり、吉野社長は登っていく。立ち並んだ赤い鳥居が延々と続く。結界のオーラをしんしんと感じる。薄闇や湿り気や曇った天気が、余計にその雰囲気を醸し出す。
狛犬じゃなくて狛狐、お狐様があちこちにまつられている、時間を重ねた石石石……よそ者が弾き飛ばされるような悪寒に似た妖気を感じる。
狸が来た、何故こんなところに狸が、そんなウィスパーボイスのささやきがあたりを取り巻く。そんな“演出”がなくても、充分妖気満ち満ちている。何かがいる。お狐様がいるのだと感じる。
お堂でがらがらと鈴を鳴らし、そして分け入っていく。最初に到達したところは能舞台。迎え出でるお能の美女が、“狐”なのかと思い、あれれ?と思う。
お能メークをした顔をしげしげと見つめても、そこにはあの奥さんのお顔は勿論、鮎川さんも、もちろんポールダンサーもサンバチームも見いだせない。
吉野社長もうろたえて、「君は誰だ!?」と問う……。彼の確信している“狐”が、実は違ったのかといううろたえなのだとしたら、観てるこっちもおんなじ気持ちである。
このシークエンスは実に思わせぶりにたっぷりと描かれ、そこらへんはやっぱりちょっと、外国人目線のエキゾチック追い、な気もしなくもないけど、でも逆に、日本人じゃ、今の日本人は特にできないかもしれない。
伝統芸能に疎くなり、尊敬畏敬の念からも遠く、単に縁遠い難解なものになってしまった今の日本人には出来ないかもしれない。
ここにはシンプルに、その美しさに対する希求がある。そして美しさはシンプルに、神へと近づくんである。
と、何か唐突に、きらびやかな装飾の内部に入っていく。最初は仏教的なきらびやかなのかと思ったら、何か次第に違う、何かが違う、確かに狐がそこここに祭られているけれど、こ、これは、なぜかなぜだかホストクラブ??
でも、ささやきはずっと続いている。なぜこんなところに狸が、と。……考えてみればお狐様は神様だけど、狸は、狸、だよなあ……同じ、人間を化かすイメージでも、狐は神格化してて、なんというか、怖さがあって、狸はどこか、マヌケで、人間的なイメージがある。
場違いなところに紛れ込んできた狸をいぶかしがりながら、どこか恐れている雰囲気もあるのは、人間のマヌケゆえの愚かな恐ろしさを、狐は知っているからなのか。
狸は、人間的だから、人間に化けたら毒されちゃって、精神を病んでしまったのか。
狐は、心は侵されないけれども、神ゆえにフィジカル弱くて、身体が病んでしまったのか。でもそれって、どちらが弱いのか、強いのか……。
そのホストクラブの主は、狐を取り戻しに来たという吉野社長の言を聞いてせせら笑う。
判った。じゃあ賭けをしよう。ここから出て行け。一度も振り向くな。振り向いてしまったら私の勝ち。振り向かずにいられたらお前の勝ち。
狐をついていかせるから、最後まで振り向かずにいられたら、そのまま連れて行け。
……振り向くに決まってるじゃん。古代文学に疎い輩だって、こういうエピソードは古今東西、みんな聞き覚えがあるし、そして絶対振りむいちゃうことも、判ってる。
だからこの時点でついついあーあ、と思ってしまうんだけど、でも、最後の最後、やっぱり吉野社長が振り向いてしまっても、なぜか、ガッカリはしなかった。だってそこに残されたのは愛だった。愛が残って、物語は終わったから。
ずっとずっと、吉野社長のそり上げた後姿が、赤鳥居の連なる中を歩いていくのを追っていくのね。この旅に出る前に、バリカンでそり上げた頭は、白髪の三分刈りといったところ。劇中ナマでそり上げて、その決意表明にぶるっと身が引き締まる気持ちがする。
吉野社長の後頭部に投げかけられていく狐の声は、あの奥さんの声にしては細く高く、若い声のように思うなあとか思うと不安になる。
でも結局は勿論、あの奥さんだった訳なんだけど、社長が精神不安を自覚しだした時、三味線を練習しだした奥さん、その背後に二人の結婚写真と思しき初々しい記念写真が飾られていた。
吉野社長は、あの男は誰だ、と言った。……お互い人間として生きてきた長い長い年月、黄泉の国に行ってしまった奥さんは、若い頃の声で彼に呼びかけていたのかもしれない。長い長い赤い鳥居をくぐりぬけ、二人の間の長い年月を埋め、あともうちょっとだったのに。
吉野社長が振り向いてしまったその一瞬だけ、まるで正体を現すためのように、奥さんの姿が映し出された。「愛してます」そう言って、かき消えた。
リーさんから巻き上げたお金、勝負に勝った筈なのに元の世界に戻れなくて、自分の身体も病魔に侵されたままで、ならばと奥さんは、夫の心の病を治すために使った。
もうこの時、彼女は夫を愛していることを自覚していた、そうでなければ自分の死と引き換えにこんなことしない。
でも狸である夫は……狸である過去さえ忘れていたんだもの、振り向いて、そしてようやく、愛に気づいた。そんな気がする。
振り向いて、奥さんかき消えて、でもなぜかあーあ、やっちまった、と思わない。彼は愛に気づくために振り向いた。そう思う。
そういや、二人の間に子供はいなかった。そらそうだ。狐と狸の間に子供なんてできっこない。
日本社会で夫婦を描くと、その先に子供を当然のように入れてくる。あるいは、子供がいないことの理由を追及する。
マイノリティと呼ばれる人たちがいて、その存在価値は、マイノリティとくくれるだけの規模やなにやかや何にも関係なく、当然一人一人の人の重さも同じであることを思う。
狐と狸が人間界に紛れ込んだお話に、神話の魅力に、そんな社会的なことを勝手にねじ込むのは、いけない??
でも、愛こそすべて、すべての人に愛はある。彼の前から消えた奥さん、でも愛は残った。ひとしずくの美しい愛の言葉を残して。それで充分じゃん!!★★★★★
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