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どうも、奥歯にものがはさまったような言い方になってしまう(爆)。多分私自身が、こういう女女した物語があまり好きじゃないせいがあると思う。
まあ、女として希薄な人生を送ってきたから、判るぅーとか思えなくて、逆にうっとうしいと感じてしまうのは、つまりは私自身がアワレなだけなんであろう(爆爆)。
んー、でも……ならばこういう話を、男性はどう思いながら撮っているんだろうという気もしてしまう。確かに恋をするのはステキなことだと思うけれど、小池栄子扮するみっちゃんが言うほど「どんな恋でもないよりはマシ。好きな男がいないなんて耐えられない」とまでの気持ちは、正直理解出来ないというのがホントの気持ちなんだもん。
やたら男運の悪いともちゃんにしたって、その男性遍歴はある意味華麗とも言えるもので……つまりこんなに何人もの男と付き合うことが平均的な女と思われるのもなあ、などと思ってしまうのは、いくらなんでも考えすぎ?
まあ、彼女は次こそは幸せになろうと、つまりは性懲りもなく男をつかまえては、またダメ男だった……となる(しかも判で押したようにみんな暴力男)訳だけど、それってつまり、男に人生の幸せを求めている訳だからさあ。
で、結局今は亡き愛しい人の影をいつまでも忘れられず、ちょっと狂ってしまったヒロインにしたってその点は同じなんだよな。
……おっと、いきなりオチに触れてしまったけれど。うーーーん。一人でもそうじゃない女が出てくれば、こんなにも居心地の悪さを感じることもなかったかもしれないけど、「パーマネント野ばら」に集うパンチパーマのおばちゃんたちに至るまで皆が皆、オトコのチンポを欲してやまないというんだからさすがにゲンナリしてしまう。
いや、ここでゲンナリしてしまっては、それこそシャレにならない、ここは、シャレなんだから。こんなオバチャンになっても恋をする(チンポに恋してるだけのような気もするが……)ことこそが素晴らしい、というつまりは人間讃歌なのだから。
それこそホームレスのおばあちゃんでさえ、五年前の男も、おととしの男も「死んだ」とアッサリ言い、今はまた白髪の紳士(まさ子が髪を切ってやると、もともと品のいい人だというのが判るんだけど、もうその前はまさに野生動物)一緒に暮らしている。ここまでの老齢になるともはや判り辛いけど、でもやっぱりこのおばあちゃんよりは年下だろうなと思われる。
そしてそして……彼女は裏山に登り、何かを埋めているのを、なおことともちゃんが目撃するんである。それは当然……!!
……まあ、そんなのはこの物語のほんのわき道に過ぎない。本筋は、そう、ヒロインはなおこ。演じるは菅野美穂。8年ぶりの映画主演?そんなになるっけ……8年前は「Dolls」。あ、あれか……あれは案外、キライじゃなかった。
あのね、私本作に際して、すんごいデジャヴ的な感覚を味わったんだよね。同じ西原理恵子原作の「女の子ものがたり」の感じとソックリだって思った。
かの作品は、西原氏の自伝的要素が濃いというのはもう一見して明らかだけど(ヒロインは漫画家だし)、でもヒロインが故郷に帰るところから始まって、その故郷では三人でつるんでいた仲のいい女の子二人がいること、そしてその小学生時代の回想シーンなぞがふんだんに盛り込まれる段に至っても、なんかやたら「女の子ものがたり」に相似系な気がしてならなかったんだよね。
もっと言っちゃうとヒロインを演じているのが、向こうは深津絵里、本作は菅野美穂、似てるタイプと言ったらそんな簡単に言うなと怒られそうだけど、なんか肌が白い感じとか、入り込むけどナチュラル系の芝居をするとか、決して全く違うタイプではないじゃない?
それに無印良品系みたいな、ナチュラル志向の衣装もなあんかやけに似てるんだよね……しかも二人ともそれが実にしっくりきてるし。
そのナチュラル志向と対照的なのが、フィリピンパブのママをやってるみっちゃんであろう。演じる小池栄子はハデハデメイクで、お姫様みたいな縦ロールをパーマネント野ばらで当ててもらって「さすが野ばらさんやわー」とご満悦である。
ダンナは完全なヒモ状態、しかも店の女の子に手当たり次第に手を出して、フィリピンで店を出してやるから、とかき口説く。みっちゃんは「口説く方も口説く方だけど、信じる方も信じる方やわ」と号泣。……でも、それは多分、アンタにまんま返って来るセリフだけどね。
彼女に関しては、ビンボー時代の荒っぽさが抜けないお父ちゃんのエピソードが強烈なのだが、こうした少女時代から連なるエピソードを乗っけていくことで、どこにフォーカスが当てられてんのか、絞りきれない印象を与えたのは否めないところかなあ。
いや、少女時代の彼女の父親を演じる本田博太郎はじっつにキョーレツでさ、凄く良かったんだけどね。そして、当時のビンボーっぷりと、電柱をチェーンソーで切って(!)電線やらをヤミでうっぱらって肉やら米やらを家族に買ってくるという、その栄光の記憶が彼女は抜けないのだ……。
私が本作に惹かれたのはやはり、池脇千鶴嬢が出ているからだったかもしれない。なんかやっぱり彼女、お顔がぱっつんぱっつんで、でも手足は細いし決して太った訳ではないと思うんだけど、いや、顔が痩せないのは老けなくていいと思うんだけど、なんか妙に心配になってしまう(爆)。
彼女はとにかく男運が悪い女の子。付き合う男付き合う男、皆暴力男で、歴代の男たちに激しく殴られる場面がリズム良く紹介?される。
そしてようやく殴らない男に出会ったと思ったら、コイツがギャンブル男で、しまいには闇マージャンにはまってそこでシャブ中にまでなって、「野たれてたわ」という状態で死んでしまう。
彼女はポンタなる黒猫を飼っていて、最初の男とのケンカで巻き添えを食って眉間にキズを負った。それ以来「ポンタは歴代の男たちが大っ嫌い」……そう思うならなぜ次々と男を切らせないのかと、今や猫が一番大事な私はつまらないことを思ってしまうのだが。うーむ、やはり、私はダメな女なのだな、きっと……。
で、まあ、ヒロインである。菅野美穂、満を持してのヒロイン。先述のとおり、どうにも深っちゃんのイメージとかぶる気持ちは否めないが、大いなる相違点は、このなおこが子持ちの出戻りであるという点だろうと思われる。
まだまだ頑是無い幼子、ももを連れて実家に戻ってきた彼女は、「夫は何でも一人で出来る人だから」だから自分が必要とされなかったと語る。
その語っている相手が、今つきあっている高校教師のカシマなのだが、実家に戻ってきてから出会ったにしてはかなり気安い雰囲気。
それに彼は決して不誠実そうには見えないのに、とても理解ある優しい、イイ男に見えるのに、出戻りの彼女に、じゃあ僕と結婚しようとか、新しい父親になれるかなとか、そもそも子供に会わせてとかいうこともなく、ていうかもう、まるで純粋な恋愛関係なんである。
それでもなおこが元夫の話をするとそれなりにスネるし、「つき合っているのを隠そうって、いつの話だよ。もう大人だろ」と諌めたりもするし、まさかそんな“オチ”が待っているとは思わなかったのだが……。
でも、なんとなくは推測されたかな。さすがに、温泉旅行の段になればさ。おかあちゃんが町内会の慰安旅行に出かけて行き、娘のももも元夫に連れてかれてなおこは一人ぼっち、ふと思いついた彼女はカシマに突然、温泉でも行かないか、と提案した。
彼はちょっと驚いたけれどもすぐに承知してくれて、先乗りしていた彼女の元へ、予想より早く小さな車で乗り付けて、浴衣の帯であーれーごっこなどして、甘美な時を過ごした。
しかし、“コトが終わって”彼女が気付くと、彼の姿がない。駐車場にも車がない。テーブルにコップと共に置かれたビールも栓が開いてないままだったことに彼女が気付く段に至って、さすがに観客もこれは……と感づき始める。
そう、このカシマは彼女が高校時代にこっそりつき合っていた教師。誰にもナイショにしようと言っていたのは教師と生徒という関係だったからだし、でも今、なおこは充分大人になったんだからカシマから「もう大人だろ。そんなの、いつの話だよ」と言われ「……そんなに昔だったっけ……」と彼女はつぶやくんである。
大体、旅行先から彼が突然姿を消した後、公衆電話で「どうして私、こんなに寂しいが?寂しくて寂しくて仕方がないが??」と号泣する場面、この時点では、うわ、うっとうしいと思ったけれど、つまり“なぜこんなに寂しいのか”というのは、カシマがつまり……今は存在しないからに他ならないんだよね。
そして、ともこに「これは誰にも言ってないんだけど……」と告白すると「何度も聞いたよ。なおちゃんは、忘れんぼうやなあ」と言われてしまう。なぜ、こんな大事なことを言ったことを忘れてしまうのか。なおこは段々混乱してくる。
そして、それがさっくりと明かされるラスト前、もう映し出された時点から、これは現実じゃないと判っちゃうほど、現実離れしている。
二つの波が押し寄せる印象的な浜辺、カシマと二人、“デート”している。「一緒に住もうか。捕まえてなきゃ、あんた、どっかに行っちゃいそうだもんな」……カシマが先に行ってしまったのに。
でも、彼の言葉はまさしく正しいのだ。周囲の皆がなおこをそんな風に心配している。その“デート”の最中、みっちゃんが一升瓶を下げて訪ねてきた。「あ、おじゃまだった?」
でもその時、もうなおこは気付いていたのだ。ふり向いてもカシマはいなかった。愛しい人が、高校時代死んでしまっていることを、思い出したのだ。
「みっちゃん、私、狂うとる?」優しいみっちゃんは「この土地の女はみんな狂うとるよ」女はこうなれっていう押し付けなんてぶっ飛ばして、狂うてやればいいんだと、みっちゃんは笑う。
やんわりと肯定したその言葉に、なおこはようやく現実を悟る。「なおちゃん、デートしとった」と野ばらのママや客たちに告げると、皆、当然知ってた顔をして、心配する顔になる。
そう、皆知っていたのだ。それなりに乗り越えたと思ってただろう。結婚もして、離婚して戻ってきたけれど子供だってもうけたのに、だからこそか、なおこはあの頃に戻ってしまった。
「大丈夫!」みっちゃんが笑顔を見せると、皆も心配を残しながらも笑顔になって、彼女が持参した美味しい日本酒を茶碗酒で酌み交わすのだ。
まあだからある意味……なおこだけが現実から逃げてるんだよね。ここの女たちは確かにみんな色恋沙汰にのまれているんだけれど、それは総じてひどく生々しい。みっちゃんなんて、浮気した夫を浮気相手の女の替わりに車で跳ね飛ばしちゃって(ていうか、浮気相手を標的にすること自体、まず間違ってるけど……ここが恋に溺れる女の弱さなんだよなあ)、お互いボロボロになった夫と病院でも取っ組み合いしてさ。
あの場面は凄かったなあ。一度はフリを見せるのよ、夫はさ。「そんなにオレのことが好きか……俺は幸せもんだなあ……とでも言うと思ったか!」って、一度は涙を浮かべかけたみっちゃんを罵倒してさ!それでもそれでも、彼女は夫に金を渡し続け、でも……ついに離婚するしかなくなってしまう。
こんな恋でも、ないよりましだと言っていたのに。
だからさ、なおこだけが、浮き世離れしたそれなんである。こんな友人たちと比べりゃ、そりゃそうである。彼女のお母さんだってさ、これまでに若い男をとっかえひっかえ。それに傷ついたなおこが引っ越し途中で車から飛び降り、肩に大きな傷を負ったなんて記憶もある。
「お母さん、私がいればいいでしょ、ねえ」幼子にそう言われて、覚えずお母さんは顔をそむけた。……今、農家の老婆に浮気している“おんちゃん”が一体何人目のオトコか知らないけれども、演じる宇崎竜童が語る「夜中二時になっても、次のスナックにハシゴしてしまうんだ。そこが格が落ちると判っていても。それが男ってもんよ」という語るウンチクに思わず笑ってしまい、そして……これこそがこの土地の男と女の、いや、世間一般の男と女の、哀しきサガってヤツなんだろうなと思う。
恐らくこのおんちゃんとの付き合いは長く、なおこも、これまでの母親の男はみんなおんちゃんで、誰もおとうちゃんと呼んだことはなかったけれども、いざ、このおんちゃんが母親と別れることになった時、他人になるのがしのびなく、「お父ちゃん」と初めて呼んでみる。“おんちゃん”は激しくテレる……ああこれが、家族ってヤツでいいのかもしれないなあ、私らはホント、縛られすぎているのだろう、と思った。
「パーマネント野ばら」を訪れるオバチャンたちがみんなパンチパーマだというおかしさは、タイトルになっている割にはあまりピンとこないものがあったかなあ。
夏木マリ姐御を迎えても、あの男前の彼女が、結局は男を切れない役回りだったってのも、スッキリしない原因だったかも。
いや、ていうか……劇場でさ、最初から最後までイビキかいて寝てるオッサンがいてさ、いかにもリタイア後の暇つぶしオッサンでさ、それがずーと気になって気になって仕方なかったのが何より原因だった、なんていう話で終わったら本気で怒られるよなあ??
でもそれこそさ、そんなオッサンを起こすぐらいの力がないと、映画はダメだと思うんだよ、ある程度ハッタリでもいいからさあ。
それにしても、菅野美穂が30歳ってのは、そうか、そのぐらいだよなと思ったけど、ちーちゃんも彼女と同級生を演じられるぐらいのアラサーの年頃になっていることに軽い衝撃!
信じられないけど……確かにそれだけ「大阪物語」から時は経ってるのか……ああ……私も年をとるわけだわ。
うーん……あのほっぺたのぱっつんぷりは、今後彼女がいかに年をとらないかってことの指針として見定めておこうか……。
それにしてもカシマを演じる江口先生はイイ男だったなあ! ★★★☆☆
それに一番重要なのが、彼がその行く先々で絵を描いている訳ではないことで……本作の中では、ちゃんと八幡学園に戻ってから、驚くべき記憶力と創造力で作品を仕上げている、という“事実”を大事にしている。
つまり、その一番大事なところをおさえておけば(いや勿論、彼がどのような道筋を辿って放浪したかもある程度はその通りみたいなんだけれど)この山下清という唯一無二のキャラクターを使って、言ってしまえば上手く利用して、後は作り手のやりたい、非常に優れた社会派映画を作り上げていることに驚嘆を禁じえないんである。
最初はね、水木洋子という脚本家の特集であることなんてさして気にしてなくて、この二本立てが魅力的だっただけなんだけど、これが見事に、なるほど、この脚本家さんの力技だってことがよーく判るのだ。
確かに、山下清を演じる小林桂樹は見事である。私の記憶にもある芦屋氏よりも、私的には小林氏の、どこか哲学者を思わせるような清像が魅力的だったなあ。
確かにあの風貌で、あのカッコで、あの喋り方で、その妙に筋道立てて話すのはまさに山下清なんだけど、その筋道立てて、っていうあたりに脚本家、水木洋子のワザが見事に効いていてさ、彼の純粋さが見事な社会風刺になってる。
裏返して言えば、山下清というキャラクターに私たちが癒しを感じていることに対する、痛烈な批判ともとれる。
それこそ山下清が自分のことを頭が悪い、ばかなんだと繰り返すことに対して、私たちは“温かい心で”受け入れたりなんかして、だからこそ優越感が手伝って、彼のキャラに癒しを感じるのじゃないのか?
でも実は、世の中のことがまっすぐに見えていて、誰もが飛び込めないところにズドンと飛び込んでしまえるのが山下清であり、ていうか、彼の姿を借りて切り込む脚本家、水木洋子であり、でもそれはまさに山下清の人となりを見事に濾過していて、凄いなあ、と思っちゃうのだ。
つまりね、これって戦時中に一番重点を置いているんだよね。清が至極単純に抱く死への恐怖は、当時は口にすることさえタブーだったに違いない。
現代作られる戦争映画はその辺が甘くて、結構アッサリと戦争で命を落とすことへの恐怖を口にするけれど、それが名誉として考えなきゃいけない時代であったことが、その時代に今よりは近い頃に作られた本作を見ると実にひしひしと感じるんである。
清は徴兵検査を受けたくないということがまず大きな理由で学園を脱走し、21歳になることがバレると徴兵検査を受けなきゃいけなくなる、と長年世話になった弁当屋を夜中こっそり抜け出す。
「一つ飛ばして22歳になったら、徴兵検査を受けなくてすむかもしれない」という彼のモノローグは、確かに山下清らしい幼さでふと微笑ましくも感じてしまうんだけれど、改めて考えて見ると、こんなにも切実な死への恐怖の感情はないんである。
そんな感情を、当時の日本人たちは、天皇陛下や国家への忠誠心のために表に出すことさえ許されず、だから当然の反応を示す清は……“生まれつき頭が悪い”から受け入れられるという形をとりつつ、実は彼らにとって、自分たちの気持ちを代弁してくれるという意味での、かけがえのない存在だったんじゃないかと思うんである。
なあーんて、そんなマジに言ったりしても、確かに彼の言動はいちいち予想外に可笑しくて、もう散々笑っちゃうんだけどね!
だってもう冒頭からサイコーである。線路に沿って走っている清を、駅員さんが追いかけている。追いかけられると逃げる。後ろからは蒸気機関車が迫っている。すわ!と思ったら、トンネルを抜けると蒸気機関車が通り過ぎ、あれっ?と思うと、その後ろからすすけた二人が相変わらずおっかけっこ。もう最初っからやたら和むんである。
しかしこの冒頭もある意味非常に優れた伏線になってて、彼はいつでも、自分を押さえつける権威からすたこらさっさと逃げ続けているんだよね。
そう、その価値感は、戦前、戦時中、戦後、とめまぐるしく変わっていくんだけれど、彼は当時の大方の日本人がそれに大いに戸惑っていたのに反して、いつでも自分を押さえつけるものからはすたこらさっさと逃げるのだ。
しかもその逃げ足の早いこと(笑)。ラストには、日本のゴッホとまで言われるようになって、ファンや新聞記者から追っかけられても、やはりすたこらさっさと、まあ、逃げ足の早いことったら(笑)。癒されるとしたら、こういう部分でなければいけないのだよなあ。
そう、彼は次々と放浪するんである。「死に際の母親に教えられた」という口上がふるっている。
「お前は頭が悪いんだから、どこかに行って使ってもらいなさい。お腹がすいたらむすびをもらいなさい」
彼は父親や母親は死んでいて、きょうだいも親戚もいないと、あの口調でとうとうと語るんだけど、父親は確かに死んでるけど母親はピンピンしてて行方不明になった清を案じているし、兄も姉もいるし、つまりはウソなんである。
山下清がウソをつくということ自体、結構センセーショナルかも(爆)。というこちらの気持ちを見透かしたように「ウソをついてしまった。でもウソをついた方がむすびをもらえるから」と平然とモノローグする彼に思わず噴き出してしまうんである。
ウチも貧乏だからむすびはやれない、とじゃが芋を恵んでもらったところで「こ、これは小さいから足りないんだな」と大きな芋をさらに要求したり、縁側に上がりこんでまんじゅうをしこたま頂いたところで教育勅語を唱えろと言われ、まんじゅうに目がくらんで口上に失敗した自分に後悔している様もまたサイコーなのよね!
ここで既に、戦争やら天皇陛下やらへの、それって何の意味があんの?っていう態度がしっかり示されててさ、口ごもりながらしっかりまんじゅうを全部たもとに入れて逃げ出しちゃう。
どこまで事実が反映されているか判らないけど、映画が作られた当時でさえ、ここまでの意識は画期的だったんじゃないかと思う。なんかそのあたりは、女性ならではの意識の転換の早さかも、と思う。
でね、ないではないといった人々のあたたかさも、でもやっぱり、ほんの少しかなあ。こじきのようにもらい飯をして歩いている清を不憫に思ったくみとりやの奥さんが、虻田駅前の駅弁屋に手紙を書いてくれる。
間違って定食屋に届けられた、その定食屋のご主人がやけに上手く出来たこの手紙を歌うように読み上げるのも可笑しいんだけど「このくみとり屋の女房の心をくみとってください」ってオチがまた!
で、首尾よく駅弁屋に住み込みになった清は、「朝早くから皆を起こすから」にわとりと呼ばれている女将さんと「隠れてていきなり出てくるから」潜水艦と呼ばれているご主人のいる(この、従業員たちの毒がたっぷり入ったネーミングを清が淡々とモノローグするのには爆笑!)店で、ドジばかり踏みつつも結構和気あいあいと働き続ける。
重ねた弁当はひっくり返すし、弁当を小包みたいにぐるぐる巻きに紐を巻くし(これも笑った!)、売り子に出れば、コーヒー!とアンパン!の言葉に右往左往してお金さえもらいそこねてしまうし、確かに不器用極まりないんだけど、妙に細かいところもあって重宝されるんである。
例えば丁寧に野菜の皮をむくとか、洗濯や針仕事、そして……ご飯の中の、ネズミの糞や油虫(ゴキブリー!!)をつまみだすこと(てか、それを除いた後のごはんを弁当につめるってのが!!!)。
「女将さんやご主人がいない間は遊んでて、来ると仕事をするのが要領がいいってことなんだナ」、とあの哲学者のような顔で言って、反対に彼が怠けていたとしめあげられるあたりはご愛嬌か。でもここも非常に判りやすい形で世の中の汚さを映し出しているよなあ。
清はとにかく徴兵から逃れたくて、身体を壊そうと毎度お腹を出して寝たり(か、かわいすぎる……)、痩せなければと絶食を試みたりするも、心配して女将さんがうどんを差し入れてくれて、そのうどんの美味しそうなことにアッサリ陥落しちゃうあたりもやっぱりカワイイと思っちゃうんだよなあ……。
この駅弁屋を辞した後に入り込んだ定食屋は「俺たちは神国の兵隊だ!」とふんぞりかえっている兵士たち、ことに一人の上等兵がサイアクで、清が大事に育てている朝顔の出たばかりの芽を、この大事に、食えもしないものを!とギリギリと靴底で踏み潰してしまうんである。
まあ、それだけ言えば、ありがちな戦時の理不尽さとも言えるんだけれど、この作品のパッケージは一応は喜劇だから、上等兵はつるりと滑って、清のじょうろの水をまともにかぶり、清ともども泥だらけになる……。
でもね、そうしたオブラートに包んではいるけれど、でも言いたいことは確かに明確に伝わるんだよね。そもそもこの定食屋では、兵隊の階級ごとに露骨にメニューの豪華さが違い、定食屋ならごはんが食べられるだろうと思っていた清には粗末なすいとん汁しか出ない。
そして……戦争が終わると、このイヤな奴の上等兵は実に立ち回りよくヤンキーめいた元締めになり、そして、彼より立派な、とんかつ定食なんぞ食べていた上官は、いわば資本主義の、かつての敵国のアメリカにこうべをたれ、つまり屈辱を受け入れなければ生きていくことが出来なくなっているんである。
でももちろん清は、そんなことは頓着などしないんである。あのね、本作の中ですごく印象的だったのはさ、彼が笑わないことに言及していることだったんだよね。
そういえばそうだよな、と思う。こんなおおざっぱな括りをしたら怒られるかもしれないけれども、知的障害者の人たちの、ある一方での特徴が、笑わないことにあるように思う。
勿論、そんなひと括りには言えないことは判ってるから許してほしいんだけど……、ホント大ざっぱに言うならば、いわゆる健常者が笑うこと、これまたあまりに大ざっぱに言うならば、それが人間が他の動物と違う特徴なのだと言うならばさ、それってそれってつまり……人間というものが、自らを欺いてようやっと生きているからって気がしてきちゃうのだ。
あのね、本当にビックリしたのだ、その笑わない当事者である清に、笑わないよね、と問い掛けるだなんて。
戦後、もうすっかり日本人が疲れ果てて、清もどうしようもなく家族の元に身を寄せて、そして彼が笑わないことに、これまたそんなことに大して頓着しない近所の老夫婦が指摘して、そこをキャアキャアと笑いながら通り過ぎていく女子高生がいて、清は「女は何もなくてもずっと笑ってるな」と言うのだ。
あの口調だからふと聞き流してしまうけれど、これって実はすんごいシンラツかもしれないと思った。でも一方で、これが女性脚本家が書いているってことを思い出すと、自嘲と共に、清よりは勿論、男よりも、子供よりも、俗にまみれていることを自覚して、笑うことでイヤなことを吹き飛ばせることを判っている女は、頼もしいとも思った。
清はそれとは真逆な意味でたくましい。そんな自分を欺くことなどしなくても、彼にとっては世の中がどうなろうと、世の中が自分をどう思おうと、関係ないんだもの。それは……そういう風に扱われてきたっていう、シンラツな事実があるんだけどさ。
一番ショックだったのは、それまではそれなりに清を心配し、行方も捜していた母親やきょうだいが、彼が画才を認められていきなり有名になった途端、まったくメーワクだよね、マトモな仕事についてなきゃみっともないじゃないか、としかめつらをすることなんである。
しかもその前に、放浪(というか家出)していた清が、働いて貯まっているであろう金をことごとく当地に置いてきたことを知って、苦々しい顔をする母親もキツい。
そりゃあ何よりこんなご時世ってこともあって皆生活は苦しいし、彼女にとっては手のかかる子供にカネを還元して欲しいという気持ちがあったのだろうけれど……。
ていうかさ、このあたりはまさに脚色にほかならないよね。だって一応ベースは彼の放浪日記だけなんだもの。そこにそこまで書いていたのかなあ……いや、よしんば書いていたとしても、それをこんなシンラツに映画にするのはスゲーことだと思うのだが……。
家族に了承を得ているのなら、更に凄い。でもそれだけ……それを残したいと思うだけ……凄く凄く、大変なことだったのだろうと思う。
清の言葉の中でね、一番印象的だったのが「戦争で死ねば神様、ただ死ねば仏なのに」というものだった。いわゆる、戦死すれば名誉として靖国神社というアレよ。
ホトケとカミの存在意義ってのは、宗教的に見てもかなり曖昧な部分はあれど、その曖昧な中でも確かに神は最上級であり、曖昧で最上級だから……問題なんだよなあ。それに、この清のセリフはほおんと、シンラツだよね。実際に彼が言ったかどうかは判らないけど……。
あのふんぞりかえった兵士たちに、誤まって味方を攻撃したことも敵を撃退したんだとウソをついているのを清がアッサリ喝破しちゃう場面とか、笑っちゃうけど痛快とまではなかなか思えなくて、さすがに痛くて、こんなテーマできちんと声をあげる水木洋子はホントに凄いと思った。
ああ、そうそう!精神病院のくだりとかもね!凄いんだよね、「男子の大事な部分を見せただけで、キチガイ病院に入れられる」(まあ、そこに至るには、実にほがらかなだけの理由があるのだが……)女はストリップで大事な部分を見せて稼いでいるのになぜ?という清のあまりに純粋な疑問に、うう、とつまってしまう。それは、それは……私ら女子も男子に聞きたいよ!
捕まった時の清が、どうして手錠をかけるのかな?よく考えれば逃げられないようにするため、とノリツッコミするのにも爆笑。良く考えなくてもそうだわ!
戦争が終わって、ある土地に自衛隊がやってくる。自衛隊歓迎、と土地の人たちは浮かれている。そこにパレードがやってくる。兵隊じゃないのに、どうして鉄砲持ってるの?と執拗に聞く清。
実はオレも良く判らないんだ、と、群衆の一人。しかしその当たり前の声もあっという間に、国を守るんだから鉄砲を持って当たり前だろ、とかき消される。
このあたりの価値感も、現代でも充分議論できるよね。戦争が終わったばかりの時代でなら特にそうだと思うけれど、日本人は驚くほど転換が早いから……。
ああ、あの場面が好きだったなあ。山下清が花火が特に好きだったというのは有名らしいんだけど、まさにそれをほがらかなギャグに凝縮した場面。
何日はどこそこ、何日はどこそこ……と、驚くほど詳細に花火大会の日程を知っている清に、隣りに座っている男は目をシロクロ。いや、それ以上に男が驚いたのは、ひたすらひたすら、清が食べ続けるからである。
しかもひとつ食べ終わって次に開く包みは決まってその前よりひとまわり大きいんである。おむすび、いなり、おはぎ、とグレードアップして、最後に巨大な包みから出てきたのは、ドカンと四分の一はある、きれいな半月形のスイカ!もう爆笑!花火見る余裕ねえだろ!と思うけど、目線は常に空にむいてて、ちゃんと手元操作してるのよねー!
露天風呂での柳家金語楼との、色気談義も相当面白かったが……そんな具合で、オモシロが多すぎるからさ、もうお手上げ!
のどがつまったようなあ、あ、ぁ……ていう喋り始めが、最後にはギャグになってしまうあたりのしたたかさが、ホント、この作品は強いわ!
恐らくホントの山下清作品が多く登場していると思うんだけど、フィルムの保存状態が悪くて、全編すっかりセピア色なのが残念! ★★★☆☆
舞台は横須賀の寂れたドライブイン。サウスーポという名前は、そりゃあ本当はサウスポーという気持ちがあったと思われる。
あ、でも、この店を仕切る、とし江の亡き恋人でプロボクサーであった風間はサウスポーだったっけ……あまり気にしてなかった。
そこへ、出資者で風間を育てたジムの会長が、突然このドライブインを売却したという話を持って来る。リゾートホテルを建設するから、近々に立ち退けと。
突然の話でとし江はもちろん、板前として雇っている留吉、八重子夫婦はひどく憤る。
殆んどヤル気ナシのウェイトレス、笑子はまあどうでもいいかという風情である。
二階に居候しているとし江の弟は、表面上は大人の勝手な都合に異議をとなえながらも、どこかこの事態を楽しんでいるようにも見える。
そして当のとし江は、こんな話をよりによってこんな日に持ってきた会長に苦々しい思いを抱く。今日は風間の三回忌の日だったのだ。
そしてその日に、“幸福の手紙”が沖縄から届く。10人に同じ文面の手紙を送らなければ災いが起こるという、あの一時流行った不幸の手紙の別バージョンである。
とし江はその筆跡ですぐに誰からのものか判った。ふざけんなとビリビリに破いてしまった。笑子はそんなとし江を咎める目で見る。
まさか、本当に、そのせいで災いが起きた訳でもないだろうが……とし江たちの留守中に呼んだ笑子の恋人が、アメリカ兵士たちのバスが崖に引っかかっているのをトラックで引き上げてやろうとして、逆に落っこちて死んでしまった。
笑子はそれが、とし江が幸福の手紙を破ったからだとかたくなに言い募るのだが……。
て、言う前に。そうそう、とし江たちがなんで留守にしたかっていうと、リゾートホテルを建てるための測量をしにきた作業員たちと、留吉が大立ち回りをしてしまったから。
てゆーか、作業員っていうより殆んどチンピラ!だってダウン・タウン・ブギウギバンドのメンメンなんだもん!
オープニングクレジットで彼らの名前を目にして、一体どういう風に登場するのかと思ったら、暴走族なグラサンが似合いすぎてコワすぎる宇崎竜童を始めとして、みんな作業服を着ていてもチンピラにしか見えない(爆)。
でもこの登場は凄く楽しい。横須賀を舞台にしているからなのか、あるいは彼らの登場があるから横須賀にしたのか。
くってかかる留吉に、宇崎氏があの名台詞を多少はしょって「あんた、なんなのさ」と上目遣いにガン飛ばす、なんてサービスシーンもちゃあんと用意されている。
しかしこの立ち回りシーンはかなり段取りが見えちゃって、どうにも微笑ましいんだけれど(爆)、でもそれも含めて楽しいシーンだったなあ。
てか、そうそう、なかなか原田芳雄が出てこないんだよね。尺的にも、三分の一ぐらいは出てこない印象があったなあ。いや、原田芳雄をジリジリ待ち続けているから長く感じただけかなあ。
だって、この作業員のメンメンもそうだし、先述した笑子の恋人の非業の死もそうだし、結構重たいエピソードを挟むんだもん。笑子の恋人のエピソードなんて必要なんかいなとも正直思ったが(爆)、その後登場する原田芳雄が自称私立探偵で(私立探偵の名刺を出そうとして「24時間かけつけます」的な、下水清掃の名刺を間違って差し出すのが爆笑!)、“きのうの夜もおとついの夜も彼とセックスしていた”笑子を“内縁の妻”に仕立て上げ、アメ公から5千万円は取れる、などと豪語する場面で笑わせるから、まあ必要なのかなあ。
で、そんな訳で、原田芳雄が登場するのは、警察沙汰が二件も重なって、ゴタゴタしている最中なんである。
あまりにも登場しないから、私が見逃しているだけで、実はあの弟が原田芳雄だったりしないよね?あんな無邪気な顔だっけ?などと思わず不安になったところにご登場、もう寸分違わず、間違いなく原田芳雄である!
お、男臭ぁー!!今のちょい枯れな風情も素敵だが、メッチャセックスアピールムンムンの原田芳雄には、鼻血出してぶっ倒れそう!
こういう役者、外見もそうだけどこのおっとこくさーいオーラを出す役者、今いないよね、ホント……イケメン流行りなせいもあるとは思うけど、なんかもう、根本的に食いモン自体が違う気がしちゃうなあ。
まあそれに、こんな男に対しては女もたおやかになるしかないし、女の立場が少なからず向上した今は、男の様相がそれこそ草食系になるのも致し方ないのかなあ。
いやいやいや、忘れていた訳ではないけれど、忘れるトコだった。たおやかどころではない、原田芳雄のここでの相手役はアッコさんではないの!デカくて強い女の象徴とも言うべきアッコさんじゃないの!
いやしかし……ここでは殊更に、そのアッコさんの身体的特徴を言わないんだよね。明らかにデカいし、彼女とは対照的にオンナオンナした笑子という存在もいるのに、そんなことはないかのように言わないんである。
それどころか、原田芳雄扮する風間の親友、山本はしきりに「色っぽくなった」とまぶしそうに言い「声まで色っぽくなりやがった」なんてまで言うから、なんか段々こっちまでそんな気がしてきちゃうんである。
いやまあ、髪型こそは今のアッコさんに近いボーイッシュなベリーショートだけれど、なんたって若くて、お化粧しちゃうのがもったいないぐらいお肌なんてツヤツヤだし、それこそそのお化粧のノリが……これは若さでこんなに違うものかなあ。お化粧がそのままじんわりと色気に乗るっていう感じはさ。
脂粉の香りにクラリとくる、なんていう時代劇めいた言葉さえ思い出したりして。
もちろんデカいし、パンツルックにエプロンがヘンな感じがするぐらい、そして台所でかがみ気味に包丁を使うのもバランスがおかしいかもなんて思うぐらいなのに、確かにちょっと、色っぽいんである。
籍こそ入れていなかったものの、それと同じぐらいの関係だった風間の死後もこのドライブインを切り盛りしているとし江は、後家と思われているぐらいなんである。
風間の三回忌に、彼の死の原因になった、最後の試合相手とそのジムの会長もやってくる。少なくともとし江にとっては最早、わだかまりはなさそうに見えるけれども、風間のジムの会長や山本はそうでもなさそうである。
いや……山本はその前に風間とハデなケンカをしていて、素人に手を出してはいけない筈の風間からボコボコにやられていた。
「あの時、オレがそのことをバラしていたら、風間はライセンスを剥奪されて、リング上で死ぬことはなかった」どこか冗談めかして言うものの、山本は半ば本気でそんなことを言っている雰囲気もある。
風間の最後の試合、あれは戦略ミスだった、なぜ打ち込まれた場面でタオルを投げなかったんだ、お前が殺したんだ、とジムの会長を攻撃する山本。
酒に酔って絡んでいる図ではあるけれど、長年のわだかまりをここでぶつけている感アリアリである。
んでもって、二階にはとし江の弟の久とその仲間たちが、床にあけた覗き穴から様子を見ている。
薬局の息子が“いつでも死ねるように”携帯している青酸カリを、あの気に入らないジムの会長に飲ませてやろうじゃないか、なんていう危険な遊びに皆がノッてしまう。
このクスリが本当に青酸カリなのか、金魚で確かめるシーンがゾッとさせる。この若者たちのシークエンスが、それがなければ喜劇と言ってもなんとか通るであろうこの物語に、はっきりと暗い影を落とす。
ついつい、あの金魚はこの作品のために殺されたんだろうかなどと思ってしまう(ああいうのって、作れるんだろうか……)。
青酸カリをビールに溶かして、かき混ぜた割り箸を思わずなめようとした久を仲間が慌てて止めるシーンとか、笑っちゃいそうにならなくもないんだけど、やはりゾッとする。
方眼紙に間取りを詳細に書き起こし、会長のグラスに滴り落とそうとする緊迫感、会長につきそってきた愛人(もう、見るからに判るってあたりが)が、天井の覗き穴にふと気付いてしまうスリリング、そして、苦労の末に会長のグラスに見事青酸カリの滴がヒットし、それを彼がやれ飲むか、いつ飲むか、と気をもむカッティングと、なんともハラハラさせるんである。
後に久が会長に山本を指して、「命の恩人だぜ」と言う、のは、何度もグラスを口に運ぼうとした会長の、そのテーブルを一徹返しさながらにひっくり返して、もう飲むどころではなくなってしまうからなんである。
それまでにもとし江が再三、もう帰って、二度と来ないでと言っても、彼は居座り続けた。
実際、山本は何しに帰ってきたんだろう。風間の三回忌ということはあれど、やっぱりとし江に想いを伝えにきたのかなあ……そこでこんなゴタゴタに遭遇して、いやそうでなくても彼はこの場をメチャクチャにしてそうだけど(爆)。
なんか、こんなに男っぽくて男臭いのに、そんな恋心だけはやけに少年のようで、それがアッコさんに向けられているというのも、なんかすっごいプラトニックな感じがしてドキドキしちゃう。
でも実際、プラトニックだったんだろうなあ……。
そしてもう最後は、アッコさん自身が「もうどうせここもなくなるんだし、スッキリしよう!」自ら暴れまくる!
既にそれ以前に原田芳雄によってかなーりメチャクチャになった店内を、ガラスもぶち破り、散々にぶち壊しちゃう。
会長から契約の不備をとうとうと説明されちゃって、その時点で自分たちの甘さを思い知らされてしまうという、上に反発しても簡単に打ち砕かれてしまうという苦さを示されつつ……。
そして愛しい人の死に打ちひしがれて、三年の間自分を閉じ込めてきたことからの、長き間だったからこそのはじけっぷりもなんとも甘苦くて。
この犬たちは、大騒動だった一昼夜、本当に大変だっただろうな……店のガラスがガシャンガシャン割られている時なんて、ホントにパニックに陥っているみたいだったもんなあ。
でね、本当に唐突に、ピシャリと終わるのだ。時間が示されて、ピシャリと終わる。
そう、最初から、古いラジオの時刻表示みたいな、カシャリ、カシャリと数字の真ん中から変わっていく時間表示が、節目ごとに示されるのね。
そしてあのジムの会長が、風間の三回忌の早朝とし江を訪ねてきた時からちょうど一昼夜がたって、本当にいろいろなことが起こって、事態は収束に向かう。
その直前、風間の亡霊を見た、と一瞬思って固まった彼らは、それは久が風間のリングコートを着て階段を降りてきたことにほどなくして気付く。
ほっとしたような、哀しいような、何ともいえない空気が流れるのが、全てを象徴している気がしたなあ……。★★★☆☆
そう、私だってラブコメ映画は実は好きだった……というか、今だって好きな筈なんだけど。
だからね、この“ラブコメだけは嫌い”とホラー映画の名作めぐりに悦に入っている桃子が、でも実は、本音のところではそういうありえない出会いや恋の展開に憧れ、妄想し、胸ときめかせているんであろうことは、やあっぱり、なあんか、判っちゃうのだよ。
そう、“こんな映画ファンにはなりたくない”と言いながら、恐らくある程度映画の茂みに足を踏み入れてしまった人たちは、皆多かれ少なかれ、桃子の気持ち、映画に対する、恋に対するアンビバレンツな気持ちが判ってしまうに違いないんである。
そういうところをホント上手くついている。これはね、そんな、出来すぎたラブコメが大ッキライ、ハッピーエンドなんて用意されているみたいで気持ち悪いと思っている女の子が、そんな“映画のような出会い”に動揺し、どんどん“映画のような展開”は奇跡のように加速し、これは運命かもしれないと思い、ハマっていき……しかし、実は “映画のような恋”がもう一つ同時進行していて、そっちこそがホンモノだったというお話。
そしてメインかと思われた、“映画のような出会い”から始まる、結局はポシャってしまう方の恋が、よくあるラブコメ映画のよくあるキッカケやよくある展開を寄せ集めた、つまりは平凡なものであるという規定であるのに対して、知らずに同時進行されていて実はホンモノだったという恋の方はちゃんと「ジョン・ヒューズの映画」とキッチリ確定されていること、なんだよね。
「女友達の恋の相談に乗ってやっていたその男の子は、実は彼女のことが好きで、最後はこの二人がくっつく。ベタでしょ」と言われて、初めて桃子は店長の想いに気付き、このタイトルのハッピーエンドにたどり着くんである。
……思いっきり最初っからオチに言及してしまった。でも、タイトルが「ハッピーエンド」だから、予想されちゃうからいいよね、ね?
でもね、これはとってもファンタジックなんだよなあ。大体が、最初、空から洗濯機が落っこってくるところから始まるんだもの。
二層式のアナログな洗濯機。何度か繰り返して挿入されるこの不思議なシークエンスも、きっと何かの映画へのオマージュなのだろうけれど、無知にして私、知りません。ゴメン。だってでなければ、このシークエンス、本当に意味が判らなかったんだもの(爆爆)。
このシーンを基点として、何度か時間軸がジグザグと行き過ぎる。図書館に勤めている桃子は、一方で店長となじみの映画レンタルショップに頻繁に出入りしては「アタシは客じゃないから」といつもタダで借りていってしまう。 店長とたった一人の店員が、そのツケをしっかり数えているあたりが可笑しいのだが。
この店長が桃子のことを好きなのはもう、丸わかりである。あのね、私の目からは正直、桃子は別に映画オタクではなくて、店長から勧められた映画をそっくり借りていっては「良かった、最高!」と言っているだけに見えたんだよなあ。
それらはまあ、一般的には女の子が嫌いそうなスプラッタなホラーの名作群だったりしてさ(でもこれも、一般的思い込みだけどね。私もホラーは大好きさあ)。
なんとなくね……映画ファンなら誰もが通る道だから、皆結構共感すると思うんだけど、そういう映画が面白いと思う自分を見ているもう一人の自分が、私って通じゃーんとか思ってるところが少なからずあるというさ(爆)。
桃子がラブコメをキライだって言うからには、ラブコメがキライになるぐらい、つまりラブコメのベタな定義が判るぐらいに数を観ているからに他ならず、そんな私が今好きなのは名作ホラーなんだもん、とかいう気持ちを感じてしまうのは、いくらなんでもイジワルな見方過ぎるだろうか?
でも、それを言ったらきっと店長だってそうだよね。彼が「アルマゲドン」を嫌う気持ちはとってもよく判るけれども(爆)、でもその本音のところでは、「アルマゲドン」を嫌っとけば、とりあえず映画通の態は保てる、という形は絶対あると思うんだもん(ヒネクレ過ぎだろうか、私……)。
桃子が好きになってしまった、ていうか、運命の相手だと思ってしまった相手が「アルマゲドン」が大好きで、困惑した桃子が無難な「スター・ウォーズ」あたりでお茶を濁すのは痛々しいっちゃ痛々しいけど、でもそれは、そんなイタい映画ファンの痛々しさかもしれない、などと自嘲気味に思ったりして。
だってさ、店長はその一方で「ローマの休日」なんぞはさらりと勧めたりする。あれだってラブコメじゃんというツッコミに彼は、名作だからいいんだ、と返す。
一方の桃子は、ハッピーエンドを毛嫌いするばかりに、「ローマの休日」はハッピーエンドじゃないからいいんだ、という、苦し紛れの結論を出す始末。
この二人のやりとりは、もうこんな具合に最終的にはちょっとした支離滅裂になってきて、映画ファンとしてはいろいろと片腹痛くてなかなかに見ていられない(爆)。その時々の自分を見ているようで仕方なくて(爆爆)。
そういう意味ではある意味、狂言回しに過ぎなかった運命の王子様(では結局、なかったんだけどさ)、村上君の過度すぎない映画好きな程度は、もはやこのぐらいが好ましいでしょとつい思ってしまう、自分を肯定できない映画ファン(自爆)。
まあ、「アルマゲドン」はおいとくとしても(……これをおいといたら結局は同じだろうか……)彼が素直にぐすぐすと泣いた映画に桃子は、キャラの伏線の甘さや展開のご都合主義が気になってしまって素直に入り込めず、でも彼があまりに感動しているからそのことを言い出せずに「面白かった」とつぶやくしか出来ないんである。
桃子の気持ちは判るけれども、これはあくまで最初のデートだからであって、付き合いが深くなれば、価値感が違っても自分の気持ちを正直に言えると思うけどなあ?そして、自分にはない感覚を持った人に、ヒネくれた自分(私だ(爆))にはない魅力を感じたりもすると思うんだけれど……。
私、映画ファンの自分を卑下しすぎかしら(爆)。でもやっぱり思うよ。だって私「プリティ・ウーマン」大好きだったもん、って(爆)。
それはあの頃、私がまだそれほど映画を見慣れていないティーンエイジャーだったからであって、そうじゃなかったらやっぱり桃子のように「あんなの、結局水揚げの話じゃん」と憤るのかなって。
いやいやいや、明らかに桃子より私の方が人生生きてるじゃないの(爆)。うーん、映画をレンタルで見られるようになった時代がもう当たり前になってはいるけれど、やっぱりあれをリアルタイムで見てときめいた世代としては、フクザツに思っちゃうよなー。
だってレンタル自体、私が中学生ぐらいにようやく出始めてさ、それまでは映画は劇場で見逃せばもうそれっきり、テレビの深夜に入るマニアックな映画との出会いに、それこそマニア心を満足させるぐらいの話だったんだもの。
特に私のような田舎育ちは名画座もなかったしさ……。私がなあんとなく桃子や店長のような“映画マニア”に気持ちが判りつつも若干の反発心を感じてしまうのは、レンタルから始まって今はネットやCSやもうあらゆる手立てで世界中全ての映画が観られるぐらいの勢いであることで、いくらでもこんな“映画通”が生まれて、ベタなラブコメやハッピーエンドやアルマゲドン(爆)への批判じゃないけど、そんな気風が正義のように語られるのが、なんかつまり……私、悔しいんだな(自爆)。
でもね、このレンタルショップはちょっと、懐かしい感じもしたんだよなあ。それこそ私が中学生時代に田舎で通っていたような。そんな空気を感じちゃったのよね、なんかさ。
店長が独断でもうけたお勧めコーナーもそうだし、ゴムでくくった“レンタル中”の札もそうだしさ。それにね、VHSのビデオテープも扱ってたでしょ?ああいう、ビデオとDVDが混在しているような雰囲気も実に懐かしかったんだよなあ……あんなレンタルショップ、今もあるの?なんて。
でね、なんか脱線しまくりで、本筋をいまだに言ってなかったんだけど(汗)。
この作品のキモは、まるで映画のような、もとい、ラブコメ映画のようなことが次々に起こる、ってことなのよね。
最初はささいなことだった。本棚のこちら側と向こう側、同じ本に手を伸ばしてその本が落ちてしまう。本棚を介するのは「恋人たちの予感」かなあ?うろ覚えだけど(爆)。
んで、そんな“映画のような展開”に桃子の同僚の真紀の方がキャーキャーと盛り上がり、店長の黒田はその話を聞いて「ジュースを持ってぶつかるなよ」とからかう。
それがまるで奇跡のように、その通りになるんである!しかもそれ以前に村上をついついストーカーのように追いかけた桃子は、自分がいつも通っている古い映画館に彼が入っていったのを目撃している。
ジュースをぶつけたことで急接近した彼から「いつも旭座にいますよね。映画、好きなんですか?」と聞かれて舞い上がってしまう。
彼が映画館で女の子と一緒していて、その女の子が彼の肩に頭を乗せていたのを見ていたのに……。
まさにそのことを、桃子は努めて忘れようとしていたのだろうか?村上ととんとん拍子にデートの約束も決まり、不安な桃子は何くれと店長に相談する。
見ているこっちは、ジョン・ヒューズの例を出されなくても、この二人だよなーと思うけれども、最終的に桃子が回想するように、実は店長とも往来でぶつかっていたし、そんな何気ない場面で、いつも彼は彼女のそばにいたのよね。
それをさらりと見せられているのに、観ている時にはメッチャ用意された村上との“映画のような恋”に気をとられているのが、上手い!と思っちゃう。
ほおんと、メッチャ用意されている。ていうか、予言されている。先のジュースを持ってぶつかるのからもう、そうだし、お前のためにっつって歌いだすぞ、というのもジョーダンだろと思ったら、歌うまではしなかったけど、ワザとらしく落としたブルースハープを奏で出しやがった!
それでも桃子は「こんなことされたら逃げ出すと思っていた……」と正直に口にしながらも、感動のあまり動けなかった。村上から「良かった、逃げられなくて」と言われてキス寸前までいったところで、こっそりつけてきていた店長のクラクションで二人は離れる。
店長は、実は近くにいるんだなんて言えないけれども、電話で彼女をはげます。「ラブコメは一度障害があって盛り上がるんだぞ。ここで男が事故に遭うとか……」ここまできたら、もうギャグと思うけど、これがそのとおりになっちゃうの、判っちゃう。
飲み物を買って戻ってきた村上が、本当にギャグそのものって感じで、桃子の背後でドカン!
これは恋が成就するための障害だと店長は慰めたし、そういう展開にも見えた。それまでラブコメの王道の奇跡が叶えられ続けたこともあって、桃子は自分のせいだと落ち込むんだけれど、彼から好きだよ、のキスをもらってまさにラブコメのセオリーどおり彼女は盛り上がっちゃう。
確かにあの、全ての不安をとろかしてしまう突然のキスは、女子にとってはマグナム級の威力があった。けれども……なぜ桃子は忘れていられたのか、観客はずっと、あの時映画館で一緒にいた女の子のこと、忘れてなかった、よね?
「ローマの休日」を借りていったっきりの村上を、桃子の相手とも知らずに、延滞料金が発生することを知らせに病院を訪ねた店長、そこでその女の子と、そして訪ねてきた桃子とも鉢合わせする。
もう、それっきり、になっちゃうんだよね。桃子がレンタルショップから足が遠のいていた間に、店長は姿を消した。
村上はこの女の子の前で再び車にはねられて、今度はかなりの重症になり、この子は「新しい彼氏が出来たんで。桃子さん、ヨリを戻すなら今ですよ。まあ、どうかと思いますけど……」とアッケラカンと言い放つ。
そして、桃子が通い慣れた旭座が閉館となる。そうそう、村上とデートしたのは、いわゆる今時のキレイなシネコンでさ、桃子も、二人の様子をストーキングしにきた店長も、実に居心地悪そうだったんだよなあ。
店長が、いつも旭座では、一抱えもある大きなカップのポップコーンをぼりぼりやりながら観ているのに、ここでは一人用のドリンクサイズみたいな小さなカップでさ、なんかそれがなんとももの悲しいんだよなあ。そりゃまあ、この時は彼は一人で二人をつけていたからなんだけれど。
ああ、それでいえば!それは見事にラストの伏線になっていたのか!因縁の作品「ローマの休日」が最後の作品になる旭座、姿を消した店長が、最後の上映日に来ているかもしれない、と桃子は駆けつける。
それもギリギリまで逡巡して、店長との思い出の場所……なんてことない場所なのよ、リサイクルショップとかさ、それも閉店間際で誰も人がいない、茜色の店内を歩き回ってさ、で、ダッと走り出す訳。
タクシーは止まらなくて、そこに実に“映画的”にやってくるのが同僚の真紀の車。そして彼女いわく「こういう時、映画だと渋滞に巻き込まれてヒロインが車を降りて走り出すのよね。でも渋滞じゃないから……」
何を言い出すのかと思ったら、見事に車がエンスト!しかしこれもきちんと伏線があって、村上とのデートに彼女の車で送ってもらおうと思っていたところを、エンストしちゃって店長の車で送ってもらったという経緯があったんであった。
あ、そうそう、このシークエンスには「めがねをかけていた女の子がコンタクトにして、急にキレイになる」という、これまたダサダサのラブコメ要素が提示されていて、しかし、後輩店員にそれを示唆されてドキドキしていた店長が「……なんだよ、いつもと変わらねえじゃねえかよ」と落とす場面はサイコーだった。
でもちゃんと、その場でメガネからコンタクトに入れ替える桃子に目を奪われるんだけどね。やっぱりちゃんとラブコメなんだよなあ。
で、なんだっけ。なんだっけじゃない!そうそうそう!「ハッピーエンド」というタイトルのなす大団円である。
憎まれ口ばかり叩く旭座のもぎりのお姉ちゃんに、いつもと違って真剣な顔で頼み込む。ここに大事な人が来ているかもしれないと。
ケーリー・グラント?ともぎりのお姉ちゃんが言う。メグ・ライアン!と桃子が返す。「めぐり逢い」と「めぐり逢えたら」っすか!
この大事なシーンにソレを持ってきちゃあ、つまりはソレを肯定していることに他ならない訳で、最初にぐちゃぐちゃ思っていたことがさらりとかわされた思いがして、悔しくもなんかとても嬉しくなっちゃう。
勿論、映画館の中には店長がいる。いつものように、しかも一人なのに、あの大きなポップコーンのカップを抱えている。まるで桃子が来るのが判っていたかのように。
いや、判ってたんだろう。悔しいけど、ムカつくけど。いやいやいや、来て欲しいと思ってて、その奇跡に賭けてて、桃子が隣に座った時にはドッキドキだったのかもしれない、と思いたい。いやきっとそうだと。
それでも彼は何気ない顔で彼女に大きなカップを、スクリーンに目を向けたまま差し出す。彼女はそれを受け取る。
ポップコーンをほおばる。そして、あの時目にした光景を自分が再現する……店長の肩に、自分の頭をぽとりと落とすのだ。
東京でもさ、本作に出てきたようなやたらメタリックでキレイな、機械的なシネコンがドーン!ドーン!!と建ってさ……。
そういうのって、郊外のイメージがあったのに、東京のようにちまちまと映画館が乱立しているところでもその波に抗えなくなって、昔ながらの映画館も、個性を発揮していたミニシアターもバタバタ潰れてしまっているもんだから……。
本作の旭座なんて、私が若かりし頃(爆)地方にあった映画館を即座に思い出させるから余計に、グッとくるものを感じるんだよなあ。
あくの強いもぎりの姉ちゃん(窓口でチケットを売って、きびすを返してもぎりするという)を演じる広田レオナが、キョーレツ美女なのに、そんなノスタルジーも感じさせて、凄く良かった。
ヒロインの菜葉菜嬢は、私はとても久しぶりに観た気がするけれども、“インディーズ映画の女王”と言われる存在なんだとか。い、いつの間にそんな……(汗)。
彼女がひたすら「だから、そんなんじゃないって!」と、一体何度この台詞を繰り返したんだろうと思われるほどに繰り返し、だからこそ、そんなんなんだろうなあと感じさせるのがなんとも微笑ましく、まさにそれこそがラブコメの幸福感でさ。つまりつまり、思いっきりラブコメを肯定してるじゃん!って。
勿論それは、ジョン・ヒューズを決定打として持ち出すことで明らかなんだけど、ずっとずっと、肯定し続けてきたんだなあ、って。
本作は、山形国際ムービーフェスティバルのスカラシップ作品だという。スカラシップ作品なんて、PFF以外では聞いたことなかったけれど、様々なところからどんどん才能が出てくるんだなあ。
しかも本作はもうハリウッドでのリメイク決定!?菜葉菜嬢はエレン・ペイジにぜひヒロインをやってほしいと語っているらしいが、果たして??★★★☆☆
実際ね、それなりに知名度があって、それなりにこなせる女優さんも使えたと思う。この年頃でそんな“それなり”な女優さんはいくつも顔を思い浮かべることが出来る。
商業映画として世に打つなら、その“それなり”に妥協する道もあったように思う。まあ、ギャランティのこととかもあるのかもしれんが(爆)、でも徳永えりを持ってきたところに、ああ、春を春として生きることが出来る子を、タイトルロールであるという意味で、仲代達矢御大よりも春こそがヒロインであることを、映画の成り立ちを真摯に考えて彼女を迎えたんだなあ、という気持ちをひしひしと感じた。
そりゃあ彼女はこれまでバイプレーヤーとして、地味ながらもその実力は、あああの子ね、と誰もが納得する折り紙つきではあるけれども(やはり「フラガール」が出世作だろうなあ)でも、徳永えりと聞いて一般的に名が売れているとは決して言えず、しかもあの仲代達矢とがっぷり四つという大役としての抜擢は、相当のものだと思う。
でもね、春、だったなあ。見事にタイトルロール、おじいちゃんと共に生きながら、彼女はまさにヒロインだった。
彼女のキャスティングは、なんか小林監督っぽいなあとも思ったけれども、そんな皮肉なことを思わずともキチンと成功していた。
なんかのインタビューでチラリと読んだのよね。彼女がね、不細工に見えることをネラったんだって。あの大股の独特な走り方も、彼女のアイディアだという。
あれは本当に、印象強烈だった。足の悪いおじいちゃんと呼応するという意味もあれど、あれ一発で確かに彼女の言う“不細工”さが見事に表現されていた。
無論、彼女はちゃんと?可愛い女の子ではあるんだけれど、でも確かに、一発で印象が残るような“美少女”という訳ではないかもしれない。いい意味で普通の容姿の持ち主で、だからこそ今まで、この年ながらバイプレーヤーとして重用されてきたんだと思う。
その彼女がこれだけの大役を任され、“不細工”を目指し、それでなくてもダサい真っ赤な防寒着に、なぜか寒そうなヒラヒラしたスカート(このあたりはちょっと乙女心が働いているのだろうか?)に、中途半端な丈の紺のハイソックスに、ぼっこりとしたスニーカーという、なんともいえない田舎娘ファッションでおじいちゃんの後をバカバカと大股で追いかけてついて回る姿は、春として生きる覚悟を感じられて衝撃的なほどだった。
ことにその登場シーン、家を飛び出したおじいちゃんを必死に追いかけてくる彼女の、眉間にしわを寄せた表情は、うわっ、この子がヒロインなの?と思わずヒヤリとするような、みごとな“不細工”っぷりだった。
そもそもなぜ二人が旅するようになったのか……。なかなか明らかにはされないんだよね。もう最初からガンコなおじいちゃんが粗末な家から飛び出し(あれは彼らの困窮を表わすにしても、まるで時代劇みたいにあまりに粗末だ……)、慌てて孫娘の春が追いかけ、おじいちゃんに杖を渡すも投げ捨てられ、憤然として歩いていくおじいちゃんに付き従っていくという描写。
何が起こったのか、この時点ではまるで判らない。ただ、おじいちゃんがどうやら彼女に腹を立てているらしいことと、彼女がそれをちょっと後悔しているらしいことと、そしておじいちゃんが、何かを決心して家を出たことだけは、何となく察せられるんである。
おじいちゃんは散り散りになったきょうだいたちを訪ねて歩く。自分を居候として置いてくれないか、という算段のためである。
これまでおじいちゃんと孫娘の春が、二人でほそぼそと暮らしていたこと、春が給食の配膳の仕事についていた小学校が廃校になってしまったこと、何よりこんな暮らしになったのは、母子家庭だった春の母親、つまりこのおじいちゃんの娘が自ら命を断ってしまったこと、が徐々に明らかになっていくんである。
そして、失業した春が、都会に出たいと言ったこと、だからおじいちゃんはきょうだいの誰かにやっかいになってもらえないだろうかと言ったことが、この騒動の発端だったんであった。
そりゃ春はまだ若いし、可能性を求めて都会に出るのはあるひとつの選択である。こんなに若いのにおじいちゃんに縛られて……というのも一つの見方であろうと思う。
ただ一方で、そうやって老人が切り捨てられていくという、現代の問題も確かにある。曲がりなりにも身内がいるのに、孤独死する老人という痛ましい話を現代はそこここで耳にする。
つまりこれって、そうした現代社会の問題に実にまっとうに切り込んだ作品であったんだなあ、と、今更ながら思う。
そして特筆すべきことは、その孤独老人の方にこそ厳しさを求め、自立を促がすという流れ、だったんだよなあ。
予告編でね、きょうだいたちに会っていって、その誰にも居候を受け入れてもらえない、自分たちの生活を守りたいがためにキツい言葉を投げられる、みたいな作りでさ。
それは勿論、予告編だから、なんだけど、でもあっさりそれに乗せられたんだよなあ。現代社会は実のきょうだいさえも冷たく、受け入れてなぞもらえないんだな、って。
でも、違うのだ。きょうだいたちは確かに彼を受け入れてはくれない。もともとそりが合わなかったのに、今更虫のいいことを言うな、などと見苦しい口喧嘩や、口喧嘩に留まらず取っ組み合ったりさえする。
確かにこのガンコジジイは若い頃からワガママ者で、きょうだいたちの間では鼻つまみものだったらしく、そんなことがこんな老いてからも響いてくるあたりも哀れなんだけれど。
でもね、決してきょうだいたちは彼を拒絶している訳じゃないのよ。ちゃんと愛しているのだ。
受け入れられないのには様々な理由があって、一番判りやすいのは、長兄は悠悠自適に暮らしているように見えながらも、婿養子として入った手前、子供夫婦の言うことには逆らえない。
長年待ち続けた施設の空きがようやく出て、女房と一緒に入ることになったんだと。大滝秀治が菅井きんを抱き寄せながら、こいつと一緒に……言うのがなんともキュンときてさあ。
どういう境遇になろうと、言いなりになるしかなくても、女房と一緒なら……とこの年になってもそういう気持ちってのが、大滝秀治の独特の可愛らしさだとついつい納得してしまうんだよね。こんな可愛い菅井きんも初めてみたなあ。
長女を訪ねた時が、一番このガンコじいさんの人となりがあぶり出されたと思う。
唯一頭が上がらないと、彼の顔がゆるんだたった一人のきょうだい、肝っ玉姉ちゃんで温泉旅館を一人切り盛りしている長女を演じるのは、銀幕を生きてきた貫禄がにじみ出る様が素晴らし過ぎる淡島千景。
自分を置いてくれないか、と殊勝に頭を下げる弟に「あんた、何が出来るの?ウチは働かざる者食うべからずよ」とピシャリとはねつけ、逆に春の方をスカウトするんである。
給食の配膳係だった春なら、忙しい厨房も任せられる、後々継がせることも考えて、ここで働かないか、と提案するんである。
この長女はね、勿論不肖の弟のことを思っているんだけれど、思っているからこそ、孫娘に頼っちゃいけない、と言う。今までワガママ放題に生きてきたんだから、突放した方があの子のためなんだと言う。
こんな老いてまでそんな……と思うけれども、老いてと言うならこの長女の方が老いている訳だし、きっと負けず劣らず波乱万丈な人生を送ってきた訳であろうし、それでもしゃんと背筋を伸ばして、今も仕事をバリバリして生きている。
“こんな老人にそんな可哀想なこと”と思うことこそが、侮蔑なのだ。あるいは今は、いくら年をとっても、一人の人間として尊厳を大切にされるというタテマエの一方で、だからこそ孤独においやられるということもあるのだろうと思うけれど……。
ただ、おじいちゃんに縛られて若い身空を潰されてしまうんではないかと、この長女が春を心配する気持ちも、判るのだ。だっておじいちゃんはそんなこと、この段になるまでちっとも考えてなかったに違いないんだもの。
ただ孫娘にまで捨てられたと子供のように腹を立て、判ったよ、言うとおり誰かきょうだいの世話になってやる、物置小屋にひっそり置いてもらってやる!みたいなさ。
でもこの長女との再会のあたりから違ってくるんだよね。春ちゃんだけはそんな目に合わせちゃダメ!ときつく言われて、お姉ちゃんには頭のあがらない彼は、この時には確かに一人で生きていく決心を固めたと思う。
春もここで働かないかというスカウトに若干心を動かしているようだったし……でも、春は春で、この時点で、おじいちゃんと一緒に生きていく決心を固めていた。いわばこの後は消化試合に過ぎなかったのだ。
たった一人、会えなかったきょうだいがいる。おじいちゃんとは唯一ウマが合ったという弟である。
毎年年賀状が来ていた住所に彼はいなくて、食堂をやらせている女房、というセンからなんとか行き着く。「あの人から、あなただけには年賀状を送っとけと言われて……」演じる田中裕子の慎ましさと、これまで耐えてきたことを忍ばせる真の強さを感じさせて素晴らしい。
当の弟は他人の罪を背負って、もう8年も刑務所暮らしだった。「あの人は、刑務所でしか生きられない人なのかもしれない」ここにも、ワガママ故に女を大変な目に合わせる男がいて、しかしおじいちゃんは「あいつはいいヤツだから……女には判んねえだろうけどな」とまるで春の反論を封じるような言い方をする。
つまり、春が反論したいであろうことが判ってるってあたりは、このおじいちゃんも短期間で成長したのかもしれない、とも思い、しかしこの弟とだけはウマが合っていたってあたりが、自分の信念(まあ、ワガママっつーか、ガンコっつーか)を通すばかりに周りを困らせるってところが似てたのかも、と思う。
このおじいちゃんはね、ニシン漁に命を捧げた漁師さんだった、というんだよね。ニシン御殿なんてはるか昔、にっちもさっちもいかなくなっても、オレはニシンに恩義があるからと、最後までそこを離れなかった。
一方きょうだいたちは散り散りになっているあたりが、それまでの経過の厳しさを感じさせもした。
そして彼の娘は結婚するも離婚、母子家庭になリ、そして自ら命を断った。
離婚の原因は彼女自身の浮気だったらしく、それで夫は出て行ったんだけれど、この夫とおじいちゃんはそれこそウマが合っていたらしいのに、おじいちゃんはこの義息子を止めることが出来ず、そしてみすみす娘を死なせてしまった、のだよね……。
最後のきょうだいを訪ねるあたりになると、それまで微妙だった春とおじいちゃんの距離は、ぐっと近寄っている。
こうして書いてくると、まさにおじいちゃんの話なんだけれど、やはり春、なんだよなあ。
春はもう最初から、あんなことをおじいちゃんに言ってしまったことを後悔はしてるんだけど、でもあくまでおじいちゃんを傷つけてしまったからという理由だったのがね、次第に、おじいちゃんとこれからも一緒に暮らしたい、という方向性に変わってくる。
それは、きょうだいもいない春が、つまりはたった一人の身内であるおじいちゃんを大切に思うが故の理由だったんだけれど……。
最後の最後、これまたウマの合わない弟に散々に言われて「何度でも言ってやるよ、バ・カ・ヤ・ロー!」とまで罵倒されて(仲代達矢の鼻先まで迫って叫ぶ柄本明、サイコー過ぎる!)もう取っ組み合いの喧嘩になってさ、でもそれを見て、ていうか、それまでのことも見て、なんだか春はうらやましくなっちゃったのだ。
そんな喧嘩までしても、ここまでの旅ですっかりお金もなくなってしまった彼らに「ホテルのスイートをとってやれ」と女房に命じた、ってあたりもなんとも泣かせた。
女房を演じる美保純がね、田中裕子とはまさに対照的なヒョウ柄のハデな奥さんなんだけど(笑)、でもね、このだんなさんと苦労を共にして生きてきて、彼が婿に入ってくれた不動産業も今は畳んでさ、一応は高層マンションなんぞに住んでるけど決して余裕のある暮らしじゃないってあたりは、そのヒョウ柄も安っぽくて(爆)、柄本明は似合い過ぎるほどの安っぽいカラシ色のジャージで(爆爆)判っちゃう。
ダンナのお兄ちゃんとその孫娘を送り出した彼女が、顔を見せなかった夫の元に走り寄るのね。
「大丈夫だよ。美味しいものでも食べに行こっか」そのダッサイ格好の二人が寄り添って歩いていくのがなんとも泣けてさあ……夫婦って見た目じゃないなあと思ったり(爆)。
最初はさあ、ホントに春とおじいちゃんの距離がある感じがしたのよ。ついてきた春を再三振り払い、列車の中で春が隣に座るのをメッチャ驚いて身を浮かせたりさ(アレはちょっと笑っちゃった)。
春は常に静かに本を読んでいる。しかし一方で奔放なおじいちゃんの旅に、少ない旅費に頭を悩ませて、どうしても宿が見つからなくて夜のベンチで一夜を明かしたりする。
この時もね、おじいちゃんはほおんと世間知らずでワガママでさあ、それなのにいつも上から目線で春ばかりを動かして、そりゃあ春だって時にはキレるさあ。
路上で凄い言い合いになって、おじいちゃんが往来に飛び込もうとするのを必死に押し留めて二人座り込んで泣きあったり、そんな決死のやり取りが何度もあって……。
そんな風にあからさまに喧嘩することなんてきっと今までなくてさ、ずっと一緒に暮らしていながらも、お互いわだかまりがあったんじゃないかなあ。
そして最後に訪れるのが、春の父親のところなんである。春がおずおずとおじいちゃんに言ったのだ。「おじいちゃんがきょうだいと会っているのを見ていたら、うらやましくなっちゃった」
お父さんに会いたいなんて思わなかった。もう会うつもりもなかったのに……。
おじいちゃん以外の、近しい唯一の身内。でも、お母さんの死の原因だと思えば、そりゃあ会いたいと思う訳は無かったのだが、この時点では観客には、その離婚の真相は知らされていなかったのよね。
この別れた父親を演じるのは、香川照之。極端に台詞は少なく、よって離婚に対する申し開きもせず、ただ春の方が思いをぶつけるのみである。
この時になって、二人の離婚の原因が母親の浮気にあったことが明らかになり、それを幼い春が知っていたことも明らかになる。
春は父親が新しい奥さんを迎えていたことを知らずショックを受け、そのことをおじいちゃんが知ってたことにも少なからずショックを受ける。
ていうか、春がショックを受けたのは、その奥さんがお母さんソックリだったから……というのは、本当にそうなのだろうか?そう春には見えただけではないのだろうか?
「お母さんのこと、好きだったんだね。じゃあなぜ、離婚したの」その台詞まで言われたら、たとえ似ていなくても、春にそう見えたんならと、父親は口をつぐまざるを得ないではないか。それにそんなの、今の奥さんにとって悲しすぎるではないか……。
ただね、この奥さんはおじいちゃんを見た途端に、シンパシイを感じちゃう。彼女もまた春と同じく母子家庭育ちで、一目見た途端、おじいちゃんが自分の父親のように思えてならなかったと言う。
あの人もあなたがとても好きなんですよ。いつも話をしているんですよ。一緒に住みませんか、他人でも気が合う同士ならいいじゃありませんか、と言い募る。
それはね、これまで血のつながった人間にことごとく突き放されてきたおじいちゃんにとって、つまりそんなことクソの役にも立たないと思い知らされてきたから、きっと娘さんの面影も感じていただろうし……どんなにか……。
でも彼は断わる。父親に思いのたけをぶつけて号泣し、ぼんやりと風景を眺めていた春に声をかける。「こっそり、おいとましないか」「私もそう言おうと思っていた」
そしてあの、不恰好な大股の春と、足を引きずったおじいちゃんの、しかし全力疾走の後ろ姿!
春がね、あれは、最後の弟に会いに行く前だったかなあ。自分は今後、おじいちゃんと一緒に暮らすんだと心を決めて、じゃあ、最後のおじちゃんと会ってもう帰ろう、と言うのね。
いや、帰ろう、じゃなくて「帰りましょ」と言ったのだ。なんかここで思わず、んん?と思ってしまった。それまではね、普通に孫娘としての口調だったと思う。帰りましょ、てのが、やけに改まって大人びて聞こえて、つまり彼女はここまでに成長したっていうポイントを示したのかな、と思った。
でもその後、春が自分の父親に会った時、母親のことを涙ながらに話す時にもそんな、他人行儀なような、言ってしまえば古びた表現を使ったんだよね。
「お母さんはそれで悟ったんだよ」みたいなさ。悟った、って、字面ではスルーしちゃうけど、会話としては……特にあの年頃の女の子が使うとは思わないんだよなあ。
なんかね、時々、こういうことを感じるんだよね。ことに脚本にプライドを持っているような作家さんだと、特にそうなような気がする(爆)。
なんかそれでそれまで流れていた空気が突然停滞することがあって……それはさしもの徳永えり嬢でも難しかったりする、んだよなあ。
正直、どうオチをつけるんだろうと思った。春は地元で仕事を見つけて、おじいちゃんを大切にしてくれる相手を見つけて結婚して、なんて言っていたけれど、もうそんなことを言う時点でそりゃー、ムリだろと思った。
いやそのこと自体がムリなんじゃなくて、そうわざわざ言わせることが、叶わないから、と即座に判っちゃうからさ。
……電車の中で昏倒して死んでしまうというのは、確かにロードムービーの終わりとしてはふさわしいのかもしれない、けれども……。
確かにその伏線めいたこと、スイートの部屋でベッドに横になっているおじいちゃんが死んでしまったと、春がカン違いして揺さぶるシーンなどもあるけれど、正直春がおじいちゃんと地元で暮らしていくことを選択したこと自体に多少の甘さを感じていたから、これはかなり甘甘なラストだったかなあ、という気もする。
だけど、仲代達矢と渡り合う徳永えり嬢を見られただけで充分価値があったなあ。仲代氏も凄く彼女を信頼してやっていた感じがするもの。 ★★★☆☆
杞憂とはこのこと。ホント、余計なお世話だったよね。断片的に聞こえてくる彼が語る言葉によると、やはり彼自身も、スポーツ系さわやか青少年があまりに続き過ぎることに危機感を抱いていたらしい。この役は男娼という設定自体、彼のイメージをガラリと変えるものだけれど、それだけじゃ飽き足らず、というかその役を体現するのを自分から楽しむかのように、北欧人のような白金系の金髪に髪を染め上げてきた。
その姿を予告編で初めて見た時のなんと衝撃的だったこと!そう、彼の端正で、少し異星人感のあるような美貌は、髪の毛を白金にすると、本当に北欧の少年のように見えるのだ。
繊細な中に漂うふてぶてしさ。純真そのもののようなイメージの彼の中に、そんな色が潜んでいることを知って、私は嬉しさに心底身震いした。瞬間見せる、目を細めて見下ろすようなあの表情が、すべてを見通して見下している、少年の残酷さを語ってあまりあった。
それでいて彼は……ほとんどバックグラウンドが説明されないまでも、宿もなく夜な夜な中年男に身体を売るこんな境遇に落ちただけの、過酷で孤独な人生があったに違いないのだ。白く美しい身体に痛々しく残るアザがどうして出来たのか語られはしないけれども、したたかに見えるその中で、凄惨な仕打ちにあってきたに違いないのだ。
そう……見事にヌードまで見せてくれる。絶対に隠さなければならない部分以外は、見事に見せてくれる。これも、衝撃だった。イラストレーター兼雑貨店店長、という肩書きの未来(香里奈)が彼にモデルを頼んだ時に見せる遣都君のヌードは、想像以上にストイックに締まっていて、そしてギリシャ彫刻のようになめらかな乳白色で、罪深い私なんかが見てしまったらバチがあたるほどに、美しかったのだ。
あれは……女の子のヌードより美しく、そして思い切った決断だったと思うなあ……。
それに、彼が見知らぬ他人の家に鍵をこじ開けて入って、何をとるでもなく、ただくつろいで、そして……マスをかく場面まであるんだもん。……こんなに一気に彼の覚悟を見ていいのだろうかとひるんでしまった。いや、私が思っているより彼は、覚悟を決めた、そしてしたたかな役者、なんだもんね!
……などと、ついつい遣都君にばかり入れ込んで話を進めてしまったが。でも、同列メインとも言える登場人物の中でも、彼が演じるサトルはただ一人、同居人ではない、外部からの闖入者だし、彼が入ってきたことでそれまでは当り障りのない生活を送ってきた彼らの実体があぶりだされるという点で、確かにキーパーソン、実にオイシイ役であることには違いないんである。
そう、彼が最年少で一番キャリアがない中で、見事に先輩俳優たちを食っているのは実に見事である。いかにオイシイ役といえど、それに慢心してただ台詞を言って通り過ぎるだけでは、これほど鮮烈な印象は与えないだろう。正直、先輩俳優たちに比べれば、やはりまだまだ演技や雰囲気もこなれていない感は否めないんだけど、それを補ってあまりあるこの役への気合いとオーラが、この作品を彼が引っ張っているんだという感を強くさせるのだ。
結局はサトルは何者でもなく、罪をしでかした人物でもないにしても、それだけに、一体彼は何者だったのか、謎が解けた現場に居合わせても取り乱さず、やんわりと事態を収束させてしまう彼は何者だったのかと、ふとぞくりと思わせるんである。
サトルがかき回すのは、古びたアパートの一室、何部屋かが振り分け式に区切られていて、中央のダイニングで皆が会する。そう、同居スタイルにはうってつけの場所。
しかし本来は新婚夫婦用に供されたスペースであり、実際ここに最初に住んでいたのは、恐らく世帯主として名前を出しているであろう最年長の直輝と彼の恋人であったことが、後々語られていくんである。
それまでは、なかなかこの形態が飲み込めないままに進行する。最終的には一番の印象を残す遣都君は中盤も過ぎてからの登場だし、最初は貫地谷しほりとこいでんの二人のシーンが長く、彼ら二人が同棲しているのかと思うぐらいなんである。
しかし……彼ら二人はそれぞれ、片思い以上両思い未満みたいな相手との恋愛事情に苦しんでいて、最初の登場で印象的とはいえ、妙に二人が同志的に仲良さげに見えるのはそのせいだったかもしれない。
そう、そう!このキャストの中で一番のうまさを感じたのは、貫地谷しほりだったなあ!今をときめく人気俳優と同郷のなじみで恋愛関係にある彼女は、彼との恋愛のためだけに日々を生きていて、それ以外はまさに、無為の日々なんである。……ルームシェアなんだし、あれでどうやって家賃なり何なりを得ているのかしらんなどとは思うけれど、まあ見事な無為っぷりなんだよね。
恋愛関係と言ってしまったけれど……肉体関係、と言った方が正しいかもしれない。実際、ひたすら彼からの連絡を待つ以外は、ダラリとしたスウェットの上下を着っぱなしで、眉毛のムダ毛を抜くことだけが日常の彼女に、「そんなんじゃ眉毛なくなっちゃうよ」と良介(小出恵介)は呆れ気味に言うし、誰の目から見ても、二人の間に未来がないのは明らかなのだ。
で、そう、そんないわゆる“恋愛体質”の女を演じる貫地谷しほり……彼女のことは随分前から映画の中で見ていたけれど、いつもサブな感じで、そしていつでもそのサブに徹していたから、つまりは今から考えるとそれは彼女のプロフェッショナルさだったのかもしれないんだけど、ホント、ピンと来てなかったのよね。
恥ずかしながら、彼女が朝ドラで花開いてから、いかに彼女が実力派であったかを思い知ることになる。恋愛体質の女、といえばアリガチだけれど、つまりはそのわずかな時間以外は、ただただ無為な日常を過ごす女。その無為さがたまらなく上手いのだ!途中、隣室が売春窟ではないかと憤り、良介をけしかけて潜入捜査などさせるんだけれど、それもホント、暇つぶしって感じで(爆。良介もだけど(爆爆。しかもカン違いだったし……))。でもさ……売春に対してあんなに拒否反応を示したのは、カレとの関係が身体だけではないと信じたかったからなのかな、と思うと、恋愛体質の女、を一概に糾弾も出来なくて……。
ていうかね!なんかこれじゃ、どんな話かちっとも見えてこないんだけど!まあ、こんな具合に、それぞれに何かを抱えた同居人たちの切なく厳しい日常があぶりだされる、という感じではある。
ただそこにじわりと一石を投じられるのが、世間話のように語られる、近所で起こった、深夜帰宅途中の女性ばかりを襲った無差別殴打事件であり、中盤から突然登場したサトルがその犯人ではないかと取り沙汰されるところから、“物語”は一気に動き出すのだ。
サトルが彼らに合流しなければ、あるいは、世間話は世間話だけで終わっていたのかもしれない。いや、それは神の采配なのか、それとも……。
原作を未読だから何にも言えないんだけど、サトルをここに引き入れることになった未来がなんとなく……さ。
いや、彼女は彼女でフクザツなバックグラウンドを抱えてて、それがゆえの深酒女で、これまでも何度となく深酒しすぎて覚えていない惨事を引き起こしていたというから、そんなことはないよね、とは思うんだけれど。
ただ、そう……遣都君がキーパーソンなら、彼を酔った勢いで連れ込んだ未来は実行犯?
彼女は実父に対する大きなトラウマを抱えている。「それが女房の役目だろ!」と怒鳴りつけて母親を暴行した父親の姿が彼女の記憶から消えることはない。
酒飲みで、タバコをプカプカふかし、ボサボサの髪に無造作にメガネをかけた彼女はいかにも豪快な女に見えるけれども、恐らくそれは、いや確実に、そんな弱さを隠すための鎧、なんだよね。
彼女がサトルにそのトラウマの話を打ち明ける場面、よもや“夜の遊園地に忍び込む”雰囲気に酔っちゃった訳でもあるまいが、それをサトルが寝入ってしまったフリをして“聞いていない”態を作り上げたのが、気になったんだよね。それには何か、意味があったのかなあ、と思ったから……。
その後、サトルは未来が隠し持っていた“レイプシーンを編集したビデオ”を見つけ、その醜悪さにヘキエキして甘ったるい恋愛ドラマ(琴美(貫地谷しほり)の恋人が出てるヤツ)を上から録画してしまう。激怒して、サトルを追い出せと吠える未来だけれど、彼が実際行方をくらますと、ひどく狼狽するのだった。
未来が「(レイプシーンのビデオを見ていると)落ち着く」という屈折した気持ちは、いかに彼女がそんなトラウマを抱えているとはいえ(ていうか、だからこそ余計に)なかなか共感しにくい部分ではあるんだよね。正直、彼女のキャラを強烈に印象付けるためにしか思えないんだよなあ。
そのビデオをちょっと見ただけで「悪趣味」と眉をしかめ、その上からクサい恋愛ドラマを重ね録りしてしまうサトルが、恐らくそんなレイプまがいのことを彼が経験しているだろうことを考えると、彼の行動の方がよほど理にかなっているんだけれど、理にかないすぎ、なのかなあ?
でもね、原作もこの映画の作り手も男性だということを考えると……そういう了見の狭いことは言いたくないけど、未来の屈折は、ちょっと許容範囲外と思っちゃうんである。
えーと、これで最後の一人を除いては、出てきたかな?あ、あ!今までも名前だけはちらほら出てきた、こいでん扮する良介も、先輩の恋人と関係を持っちゃったりと彼なりには波乱万丈ではあるんだけど……あのオネーサンは「このカワイイ男の子とはちょっとヤッてみたいワ」ぐらいなノリだったしなあ……。
ただ彼がちょっとショックを受ける、同じ大学だった男の子が交通事故で突然死んでしまったエピソードは、冒頭、その後のエピソードに特に関係があるでもなく示されるんだけれど、確かに関係はなかったけれど……ひょっとしたら結構重要なエピソードだったのかもしれない、などと思う。
凄く、単純、シンプルなことだけど、ただ、生きている、それだけの大切さ。琴美が未来のない恋人と別れるための一つの手段、というか、ハズミとして、アッサリと一つの命を消し去ってしまうことや、別に死にはしないまでも、直輝が起こした無差別殴打事件だって、ヘタすると死にかねないじゃない。
……サラリと言っちゃったけど、でもなんとなく推測される、よね?だってサトルが狂言回しであると判ってしまえば、“一番それらしくない”人物が犯人であるというのは、ミステリの常道なんだもん。
なんかね、最初から直輝、に扮する藤原竜也を出し惜しみしている感じはしてたんだよね。あれ?藤原竜也出てるんだよね?なんか、なかなか出てこないなあ、みたいな。
ある朝、突然見知らぬ少年がいることに驚く一人として登場する彼は、その場面こそ他の登場人物たちとオドロキを共有してはいるものの、それも後に回想される感じだし、なんか彼一人だけキチンとしているだけに、キチンとした彼が見えてこないというかさ……。
むしろ、テキトーに日常を送っている琴美や良介の方が、テキトーである人生が見えているんだけれど、直輝はなかなか見えてこない。ホント、しばらくは、ジョギングが趣味の健康オタク、としか見えないんである。
それが語れるのも、サトルの正体を知りたくて付け回した未来が彼の口からそう発せられた言葉を聞いたからであって、それまで観客である私たちは、直輝のキャラがさっぱり見えてこないんだよね。
そして、(恐らく父親のトラウマのせいで)ゲイバーにべったりになった未来と何度となく遭遇する場面が多い直輝は……映画中では、夜半のジョギング中に一人きりの女性を殴打する場面しか描かれていないけれども、彼にも何か、バックグラウンドがあったんだろうか??
先の定義で、犯人は直輝かもなあ、と思っていたのでそのシーンが提示された時には大して驚かなかったけど、ただそれを発見したのがサトルで、そのサトルが驚かず、彼の逃亡を手引きし、しかもしかも「皆知ってるんじゃないかな」とさらりと言った時には、さすがに驚愕した。
英語も駆使して、さっそうと仕事をこなす。ウディ・アレンのインタビューの手配の場面など、手伝いに来ていたサトルのみならず、観客だって直輝のカッコ良さにほおーっとなっていた。
人気俳優との子供を妊娠してしまった琴美が真っ先に相談したのも彼だった。ただ一人シッカリした直輝。その彼の闇を、一体サトルはいつ見越していたのか。
いや、その“皆知ってるんじゃないかな”という定義は、あくまで推測に過ぎず、直輝がそれを確認した訳じゃないのだ。
ただ……雨にそぼ濡れて帰った二人が目にしたのは、あまりにもいつもどおりの同居人たちなんだもの。
それまで彼らに数々起こった修羅場がまるでなかったように……琴美も良介も未来も、この部屋を出ていかなきゃ、なにも始まらない、と言って、この先の人生を目指す気マンマンだったのに、まるでアタリマエのようにそこにいる。
そして、この物語の最初に語られていた、のんき極まりない、伊豆高原への旅行の話なんぞをしている。それもまた、ドロドロの人間関係のうちのエピソードだったのに、タイムマシンですべてが消し去られたように、みんな何も起こってやしないような顔をしているのだ。
いや、ただ、ただ……。伊豆高原に皆で行こうと盛り上がる中、直輝は泣き崩れる。その涙の理由はこれまでのことを思うとあまりに複雑で……皆は察しているのかいないのか、疑っているのかいないのか。
そもそも今までお互いに干渉せずに暮らしてきた。だからこそ心地良かった。それをサトルから「うわべだけの関係なんだね」と言われ、ヒヤリとした彼らだったけれど、そこに当のサトルだって心地いいと感じて帰ってきたのだ。
でもその心地良さを示しているに違いないラストは……。
「直輝も行くでしょ」
いつもクールな未来が言ったにしても、それにしても、未来以下、能面のような無表情で、直輝を眺めていた。もうずっとずっと、知っていたんだ、そんな顔に見えて。
そう……この時の、かすかに見下ろす遣都君の残酷な美貌にゾクッとしたんだよなあ。
こんなもんじゃ語りきれない物語なんだろうと思いつつ、気鋭の若手俳優たちのトンがった演技に大いに刺激されて大満足。
ほおんとに……林遣都君の、スリリングだったことよ!
彼は自分の手で、役者人生を切り開いたね!★★★★☆
でも確かに、池松君の上手さが彼女のフレッシュをとても引き立てていたと思う。
池松君、ああ池松君!私は彼の「鉄人28号」のケナゲな姿が忘れられないのよおっ!興行的に失敗してようが、原作の世界観を踏襲してなかろうが(そんなん、私は知らんもおん)そんなことは構わないもん。
あの時の印象と変わらない、一生懸命でひたむきな池松君、それでも充分に思春期の男の子になった池松君に、グッときちゃったんだなあ!
おっとっと、大分突っ走ってしまったが。そうなのよね。本作はあくまで、メインは二人の若い役者なのだ。大泉先生は前半あまりにも登場場面が少ないので、何コレ、三番目のクレジットはイツワリ?ギャラ泥棒!?ぐらいに思ってしまった(爆)。
いわば彼の存在は物語のどんでん返しに当たり、あ、なんだ、そーゆーことお、とネタ明かしの時にはついつい思ってしまった……「なんだ……」なんて思うのは不遜なんだけどさ。
まあその話は後においても、そう、そういうオチがあったとしても、でも基本的にはこのスタイルってさ、もんのすごく見覚えがあるっつーか、もうホントに何度も観た覚えがあるっつーかさ。
まああのセカチューもそうだし、「Little DJ」もそうだし、病気を絡ませてしまうと純愛って作りやすいんだよね。だってその病気が深刻であればある程、ただこの今という時を一緒にいるだけでいい、あるいは、未来の時を一緒にいられるだけでいい、という気持ちがムリなく構築できるんだもの。
そうではない、いわゆる世間一般の平凡な?恋愛は、一緒にいられることなんてフツーだから、そして未来も一緒にいられるとフツーに“カン違い”しちゃっているから、相手への欲やワガママが出てしまうのだ……。
ああつまり、純愛モノって、何気にそれを皮肉っているのかもしれないなあ、などと思う。今いられることがフツー、はまだしも、未来も一緒にいられることがフツー、では決してない。病気とかじゃなくても、それこそ一寸先は闇、人生何が起こるか判らないんだもの。
それを年若い時から知ってしまった彼らのような人間は、大人になっても、健康体になったとしても、今の一瞬が大事だということを忘れないのかもしれない。
まー、てか、この二人の純愛物語、なんだよね。「60歳のラブレター」でいきなりベタベタに商業映画にシフトしたとはいえ、本作は更にベタさを増したパッケージなので、正直どうなの……と思ったのは事実……かなあ。
だからという訳ではないのかもしれないけれども、これまで三作品観てきた深川作品では、「60歳の……」のようにシリアスな題材でもかなり笑わせる台詞の応酬を入れてきたのに、本作ではそれがなかった。
いやまあ、池松君演じる裕一とその悪友たちのやり取りは、いかにも思春期の男の子って感じで、“オヤジのエロ本”の情報に恋愛テクを見い出したりして面白いんだけど、でもそれも、笑えるというよりも、微笑ましい、という感じかなあ、だしさ。
裕一を里香に引き合わせる濱田マリ扮する豪快な看護婦さんとのやりとりも確かに面白いんだけど、でもこれまでのような、明らかに笑わせる感じではない。ちょっと意外なほどに王道に純愛を綴っていく。この作品に関してはそうすべきだと思ったのかなあ。
そう、看護婦さんのアキコさんによって、二人は引き合わされる。裕一は肝炎で入院しているんだけれど、イマイチ自分の病状を理解しておらず、しょっちゅう悪友たちに手引きされて夜中病院を抜け出すもんだから、アキコさんは、もうテレビを没収するわよ、と彼のほっぺたをギリギリとつねり上げ(アレはかなりホンキのつねり上げだ……)、ひとつの条件を出す。
転院してきたばかりでいつも屋上に一人でいて、それどころか9歳の頃からずっと入院生活だという里香と友達になってくれないかと(ていうか、テレビ没収か、友達になるか、てな選択肢のうちの一つだったんだけど)裕一を里香に引き合わせたんであった。
なぜアキコさんがそこまでしたのか、後から考えてみるとどうなのと思わなくもない。彼女の慧眼で、裕一なら里香と合うと思ったというのが一番自然かもしれないけど、それが一番ご都合主義のようにも思う(爆)。
私はふと、里香の方から裕一と近づきたいとアキコさんに頼んだ、ということもあり得るよなとも思ったけど、そんな暗示は微塵も出てこないしさすがにうがちすぎだよな。
でもそう思うぐらい、この展開はうん、なんか、昔の少女マンガチックだなと思ってしまったのだった。
でもそんなことを言ってしまえば、祐一はとてもそんな優秀そうにも見えず(爆)、通っている学校も極めてフツーそうなのに(爆爆)、里香の病気を治したい一心から猛勉強して医学部に合格しちゃって、まあそこまでは純愛の情熱と言えなくもないけれども、その後彼は全国からその手術の腕を聞いて患者が集まってくるような優れた外科医になっているっていうのはさすがに……ねえ。
あるいはここまで厳しい条件が揃っていなければ、純愛なんて語れないということなのかもしれないなあ。
だって純愛というコトバもあまりに安売りされすぎているもの。これぐらい現実味がないぐらいの条件を課せられなければ、それは確かにウソかもしれないもの。
……ついつい、つまらないオトナ発言してしまった。素直に二人の純愛に戻ろう。
二人が出会う場面はでも、深川監督らしく?ドライにコミカルに意表をついてくれた。
屋上にはためくシーツの間を抜けて、友達になってほしいなんて頼まれたんだから当然男子だろうと思い込んで、グローブに野球ボールを携えてきた裕一は呆然とした。
そこにいたのは、静かに本を広げている、色白でロングヘアーの女の子だったんだもの。
うろたえて、口をパクパクさせる裕一と、その美少女の目が合った。アキコさんから友達になってほしいと頼まれて……とつっかえつっかえ裕一が言うと(バカか!そんなことまんま言うか!)、彼女は一呼吸おいた後、その端正な顔立ちからは考えられないドスの効いた低い声で「はぁ?」と返したのだ。
いやー……これは意表をつかれたわ。だってさ、そう、本作が凄く印象的なのは、最後まで貫くソフトトーンの画面。久々にフィルムの手触りを感じるような。クリアすぎて目に突き刺さるような画じゃなくて、艶消しな、凄くソフトな画作りなのだ。
その中で、風にはためく白いシーツの奥の、宮沢賢治の本から顔をあげた美少女っつったら、可憐な、鈴のような声を連想するでしょうが!
そりゃあその後も彼女は裕一をアゴでこきつかい、まさに草食系男子受難の図に見えるんだけれど、でもね、最終的に彼女はやっぱり、死を覚悟している、悲運で可憐な美少女の印象であり、つまりこのファーストシーンのドスの聞いた声は、多分にネラっていることはアリアリでさ、それがすんごい効果的なんだよなあ!
これがあるから、その後の彼女の運命や、ケナゲにその運命に立ち向かったり、ある時はアキラメたりしている様が、そのギャップに胸をつかれるんだもの。
そう、それは恋に落ちる時も同じ法則なんである。コワイ看護婦さん、アキコさんに脅されたことも、そして悪友がプレゼントしてくれた「おばあちゃんしか見えない」双眼鏡でノゾキをしていることを里香から脅されたことも、裕一が里香に服従する理由にはなっていたけれど、あくまでそれは形だけの理由。
形だけの理由に次第になっていったのだ……。だって二人は恋に落ちちゃったから。
裕一の場合は、すんごい、判りやすいんだよね。悪友たちがマニュアルに洗脳されつつあるとはいえ、リアルに恋を満喫していたから、ならば自分は気になる女の子がいるのかと考えたら、もうダイレクトに里香だったから。
でも里香はどうだったんだろう……。彼女にはそんなマニュアルはないだけに、裕一に対してもっともっとダイレクトな思いだったような気がする。
それだけに怖い気がしたんだよね。でも裕一を演じているのが池松君だから、やはりそこはさ!もう思いっきり純愛しちゃってくれるんだもん!
里香が“命令”して連れて行かせた砲台山は、彼女と同じ病で天国に召された父親が、最後に連れてきてくれた場所だった。そこで彼女は自らの死も覚悟するけれども、裕一はずっと一緒にいたい、生きてほしいと言う。
二人が夜の病院を抜け出したこの出来事は、ロマンチックな事件として病院内を駆け巡り、オバチャン患者たちは胸をときめかせるけれども、二人はこの日以来引き裂かれてしまう。
というか裕一が自ら彼女の前から姿を隠した。里香が自分と離れたくないがために、転院して手術を受けることを拒んでいると聞いたから。
いや、違った。これだけじゃなくて、文化祭事件があったんだよね。文化祭なんて当然経験したことのない里香を連れて行ってあげたいと、悪友たちを巻き込んで計画した。
演劇部部長で、学校一番の美少女と付き合っている悪友のひとり。ヒロインをつとめるそのカノジョが当日来なかったことでうろたえているのを見て、里香は裕一の袖を引っ張って「私、出たい」と言う。
事前に文化祭の話を聞かされて、台本も読んでいた里香は、何度も何度もそれを読み返し、台詞もカンペキに入っていた。つきそってきていた母親は、突然舞台に出てきた娘に驚く。
プロンプターとして花をつけて舞台の隅にうずくまっていた裕一に、忘れた台詞を彼が教えたのに返答するように「私も(愛しています)」と里香は返した。
友人たちが計らって王子様とのキスシーンの場面に裕一が入れ替わり、ガチガチになって里香に手を伸ばす裕一だけれど、バチンと殴られてオワリ。そしてその後、里香は重篤な状態に陥ってしまうのだ。
……ほおんと、こんな具合に綴っていくと、大泉先生は何が関係あるのと思っちゃうよね。
彼はね、里香たちが入院している病院に、内科医として赴任してきたのね。もともとは心臓外科医として名を馳せ、この病院にも難しい心臓病の手術をしてほしいと、わざわざ遠くから転院してきた患者がいるんだけれど、彼は自分の妻に手術を施した後亡くしてから、幼い娘がいるからという理由も口実にして、外科医としてのキャリアを捨てているんである。
こう書けば、てか、見てれば、その“転院してきた患者”は里香だと、フツー思うじゃない。てか、そういう見せ方もしてるしさ。
名医を頼って転院してきたけれども、結局断わらた里香、でもその相手はよーちゃんじゃなかった。あれっと思ったら、よーちゃんが廊下で声をかける少女も……ここはちょっとあざといかなと思ったけど、里香が退院する裕一を見送る場面で、きびすを返した里香に声をかけた大泉先生、いや、夏目先生、肩に手をおいた少女は全くの別人。
いかにも今風な、制服をズルズルに着こなした男の子が彼女に寄り添い、夏目先生に吠える。今更あいつを惑わせるなと。せっかく転院を決意したんだからと。
夏目先生は、彼女がいなくなった後のことを覚悟できてるのか、私も妻と死なれた。今のうちに別れた方がいいと冷静に告げるも、彼は突き刺すような視線で言った。
先生は幸せなのかと。俺はあいつのそばにいてやりたい、いてやれないほうが辛い。そばにいることが幸せなんだと。
凄く凄くシンプルで、だからこそ大人になってしまうと、腐った大人になってしまうと、言えなくなってしまう台詞。
でも、夏目先生なら、判る筈なのだ。
だって彼は、そのとおりにしたんだもの。
だって、夏目先生が、裕一なんだもの!!(これが原作と違うということを後で知って愕然(爆))
考えてみればさ、裕一の悪友たちが着ているガクラン、あるいはその悪友のカノジョが着ているセーラー服、確かに今の時代ないよな、てなシロモノなんだよね。今の時代に生きてないからなかなか気づかない(爆)。あんな判りやすい今風の男の子が出てこないと判らないなんて(爆。それこそベタやん……)。
この事実が判明してしまうと、つまり裕一のその後が大泉先生扮する夏目医師だと判明すると、後半はいきなり大泉先生オンステージ状態になる。
前半登場シーンが少ないどころか、後半は彼が主役って感じだからさ。
……私はね、正直、男性が恋愛映画の中で泣くのはあんまり好きじゃないんだなあ。本作で大泉先生は亡き妻からのメッセージを見て号泣するけれど、そのメッセージだってその当時の裕一に向けられたものであって、今の彼に向けられたものじゃない。
今の彼は愛する妻が亡くなって、そこから随分経つのに喪失感がぬぐえないままで、二人の思い出の場所である砲台山に向かうのね。
で、そこで「なんで里香がそばにいないんだ」とひとしきり号泣して、携えてきた本がポロリと落ちる。そのカバーに隠れた部分に「私はいつでもそばにいるよ。ガンバレ!これは命令!」と書かれてる。
命令!というのは、彼らが出会った当時、裕一の弱みを握っていた里香が半ば面白がって言っていた台詞で、つまりは二人を結びつけた言葉なのだよね。それはとても感動的なんだけれど、正直、大泉先生には泣いてほしくなかったかもしれんなあ……。
いや、池松君が泣くのはいいのよ。男性には、泣いていい年齢制限がある。いや、誰も見ていない場所なら、いくら泣いてもいいデス。
まあ、それを言ったら、この場面、大泉先生が泣いてるのを見てるのは観客だけなんだけどさ(爆)。でもね……やっぱりそこはさあ。
後半は大泉先生の独壇場。幼い娘は里香との間の子供である。
一度は手術に成功した愛する妻だけれど、ある雨の日、ベランダからレースのカーテンが無造作にたなびいているのを、帰宅途中に気づいた彼が急ぎ戻ると、彼女がそこで倒れていた。
画面では濡れた裸足の足先だけが見えて、それがひどく生々しく痛ましい印象を与えた。
風が吹き込んだ部屋の中には、幼子が一人何も知らずにすやすやと眠っていた。その時から彼は、純愛を貫いた妻との間の娘との生活を大事にしてきたんだけれど……。
彼は自分が負の部分を押さえ込んでいたことを知り、改めて医者としての自分を見直し、自分を頼ってきた患者と向き合うことを決意する。
ケナゲな娘は「パパといられればどこだっていいよ」と何度目かの転校をすんなり受け入れる。……そんな聞き分けのいい娘はなかなかいないとも思うが……。
なんといっても印象的なのは、里香が愛読していた宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」。
自らをカンパネルラに投影していた彼女の透明な孤独、その孤独を「君はお母さんに嫌われる理由などないじゃないか」とジョバンニの言葉を借りて裕一が里香に投げかけた時の、彼女のなんとも言いがたい表情。
それは、里香の母が娘に対する思いは勿論、里香が裕一との間にもうけた娘への気持ちも後に思わせて、とても深かった。宮沢賢治の透明な世界観もとても本作に合っていたし。
このタイトルは、これから太り行く上弦の月と、これから痩せ行く下弦の月を見て、私はどちらの月なのかしらと思う里香の気持ちを投影したもの。痛ましくも、切なく、ロマンティック。
忽那汐里嬢のスッピンのニキビ肌が、ちょっとヒヤリとしたりもしたけれど、それもリアルな女の子っぽかったかもしれない。
自分を避けた裕一を訪ねて、夜中にベランダづたいに病室にやってきた里香が、彼のベッドの中にもぐりこみ、布団をかぶった白い闇でやりとりする、これ以上ない純愛シーンはヤラれずにはいられない。こーゆー時だけよ、少年の涙が許されるのは!
ラストクレジット前、ベッドに隣あって座った二人、里香が裕一にキスするのも萌えるけど、やっぱりやっぱり、この布団をかぶったシーンにはかなわない。だってコレ以上ない二人の世界なんだもん! ★★★☆☆