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ハード キャンディ/HARD CANDY
2005年 103分 アメリカ カラー
監督:デイヴィッド・スレイド 脚本:ブライアン・ネルソン
撮影:ジョー・ウィレムズ 音楽:ハリー・エスコット/モリー・ナイマン
出演:パトリック・ウィルソン/エレン・ペイジ/サンドラ・オー/ジェニファー・ホームズ/ギルバート・ジョン
男女二人の密室劇。古今東西、さまざまな立場の男女で繰り広げられてきた魅力ある状況を、現代ならではの組み合わせと設定で実現させた。早送り映像とか、スリリングや焦りを上手く表現してる。
でもこんな具合に過激な題材なのに、どことなくパンチ不足を感じるのは、この“14歳の少女”が実際演じているのは当時17歳の少女だということも、図らずも関係しているんじゃないかと思う。
このコは演技は達者だけど、正直、少女性を感じさせる魅力はあまりない。確かに顔は幼い。身体も華奢で、14歳には充分見えるんだけど、14歳を前提にした17歳っていうのは大きい。
直裁に言ってしまえば、オバサンくさいのだ。ロリコンの男をひきつけるような小悪魔性に、どうにも欠けるんである。女を見せる意識の方が働いてて、少女性の無意識が今ひとつないのだもの。
それは、この少女、ヘイリーの設定自体に原因があるとも言える。ヘイリーは「父親は医学教授で、時々医学講義を聴講している、優等生のヘイリー」としてジェフに出会うけれど、凶行に及ぶようになると、次第にその正体が揺らいでくる。
はじめは、殺された少女、ドナへの復讐を執拗に口にしていたから彼女の友達なのかと思ったけれど、どうもそれも違う。そのうち、「私は全ての少女の言いたいことを言っている」とか言い出し、最後には自分は実はヘイリーではないことを明言する。
どこから現われて、なぜジェフ(というか、ドナの事件を)にこだわり、彼を恐怖にさらして殺すまでしたのかが判らない。
過激な題材だけに、彼女が何者なのかをハッキリさせないのが、逆にパンチ力を損なったような気がしてならない。ほら、山口百恵の「ひと夏の経験」の歌詞でさ、ワンフレーズめでオオッ!と思わせといて、そのすぐ後にボカされて、なーんだ、と思うようなさ(ヘンな例えだが……)。
全ての少女を代弁しているというのは、高みからの、神のような視点であり、まさにそれをネラったんだろうけれど、彼女自身の個人的な恨みつらみではない、となるので、少女のザンコクさが減じられてしまうのだ。
赤いパーカー姿というのは、赤ずきんをモティーフにしているんだという。そう言われれば狼の欲望が最初から明らかなのも、赤ずきんの物語に準じている。
赤ずきんも普遍的な女の子であり、世界の誰もが知っている。そしてこの寓話はどこか教訓的なものを帯びていて、それはあくまで少女に向けたそれだったんだけれど、ひっくり返されて男への警告になっている本作は、確かに興味深い。
でもそのことで、少女のザンコクさという魅力が損なわれてしまうのはあまりにも惜しい。少女はザンコクさこそが、魅力なんだもの。あどけなく、思慮の浅い、すぐ騙されてしまう危なっかしさが、ふいと裏返しになった時の非情なザンコクさ。
男が自分を狙っていることを承知の上で、興味津々にもてあそぶ。本当に純粋な興味だから、罪悪感さえない。ネコが死にかけのネズミをもてあそぶように。キラキラした目をして男をもてあそぶ少女のザンコク。
……というのを期待していたので、どこか正義をかざした彼女の“復讐”はそれだけで少女の小悪魔性をそいでしまうのでちょっとガッカリし、更にその正体をボカされてしまうので更にハズされた感じがするのだ。
ヘイリーはジェフの欲望を見透かした上で、彼の部屋に入り込む。
「私は異常なの。両親も医者もそう言う。だからあなたの部屋に行ってもいいでしょ」そんな台詞に大人のはずのジェフも騙されてしまう。
後から、「君が誘ったんじゃないか」と言ってみてももう遅い。ヘイリーはそれみたことかと反論する。
「男は皆そう言う。女が色っぽい仕草をして、自分を惑わせたんだと」確かにその通りだ……。
そして、「私が酒を飲むのを止めなかったじゃないの」確かに、確かにその通りだ……。
ヘイリーが酒を呑んでいるのを見届けて、ジェフも彼女から差し出された酒を呑んだ。そこには欲望がアリアリだった。で、その酒の中にクスリが入れられていたのだ。
「言ったじゃないの。私は異常だって」
自制心を保とうとしている(というか、そう見せかけようとしている)ジェフを、少女の皮をかぶったヘイリーはたくみにその気にさせ、待ち構えてワナに落とし、昏倒させて縛り上げる。
「パパから失敬してきたの。適量や致死量を聞くわけにはいかないじゃない」
そんな恐ろしい台詞を吐き、彼の部屋に隠されているヒミツを暴こうと家捜しを始めるのだ。
写真家である彼の部屋には、「仕事の写真」として少女の写真が何枚も飾られているのだが、ヘイリーはそれを「オナニーするにはこれじゃ刺激が足りないはず」として、ロリコンの証拠を見つけ出そうとするんである。
この時点でもジェフは、ヘイリーの本当の目的に気づいていない。第一、少女の写真に書かれたメッセージを見つけたヘイリーに「本当に恋したのは彼女だけ?」と言ったことを、嫉妬してくれているんだと思ったぐらいのアホな男なんである。
ヘイリーは最初から、ジェフを狙っていた。ただロリコンの男の誰かを懲らしめたい、というんじゃなくて、ジェフこそを狙っていたのだ。
「14歳以上だと判ると、テキトーにチャットを打ち切ってたでしょ」
「君とは気が合ったから」
「趣味を聞いてから2、3分間があいてた。調べてたんでしょ。あなたの感想はアマゾン.comと同じよ。バカね」
「女の子の気を引くためには、男はそれぐらいのことはやるだろ」あっさりと認めるジェフ。男の単純さはここではさすがに愛しさには転化せず、ただ愚かなだけである。
「女の子の気を引くためには」しても、大人の女にはそれはしない、というのもここでハッキリと認めさせられているのを、ジェフは多分、気づいていない。
こんな会話もキツい。
「本業は風景写真なんだ」
「自然を愛しているから、善人だと言うの?自然を愛するロリコンのヘンタイ男」
ついにヘイリーは、隠し金庫を見つけてしまう。彼が唯一、真実愛していた少女との記念日が磨き石の下に(このあたり、日本趣味)隠された金庫の暗証番号だった。それをヘイリーは解読してしまったのだ。「おセンチな男ね」とはき捨てるように言って。
ヘイリー曰く、「吐き気のする写真」がゾクゾクと現われる。残念なことに本作は健全な映画(だと思うよ)であるので、その写真がどういうものなのか、片鱗も見せてはくれない。ただヘイリーが「ロリコンが犯罪になるのが判る」てな台詞で想像されるだけである。
ジェフはうろたえる。だってヘイリーは彼のシュミを、この愛した少女にバラそうという行動に出るのだもの。
彼女にだけは、自分の本性を知られたくない。
彼女を愛した時は、彼女が自分のシュミであるロリの範囲だったからだろうに、たとえその彼女が成長しても、やはり永遠の相手なのか。
ヘイリーの言動は、どこか、その彼女に対する嫉妬を感じなくもない。少女はフクザツなものなのだ。たとえ吐き気をもよおすほどキライな相手でも、自分以外の女の方を愛しているのはイヤなのだ。
そしてその中に、ヘイリーの捜していた、殺された少女、ドナの写真があった。
だけど、ドナの写真だけは本当に健全である。街中で撮った、普通に服を着て(とわざわざ言うのもおかしいけど)カメラに向かって笑っている写真。
ドナがどんな事件に巻き込まれて、どうして殺されてしまったのか、ハッキリと劇中で説明されるわけではない。
その事件のあらましは、最後の最後、ヘイリーがもう一人の共犯者を既に自殺に追い込んだと告白する時点で、ようやく二人組の犯行だったことが明らかになるぐらいなんである。
ここまでで、スッカリ自分のシュミをあからさまにされてしまったジェフは、「自分は写真を見ているだけで満足だったのに、アーロンが……」と生々しく告白するんである。
ロリコン趣味だけでは罪ではないだろ、という趣旨の発言。確かにその通りで、それだけで罪だというのは酷だとも思う。少女の写真を壁に飾ろうが、それでオナニーしようがいいじゃないの、と思う。
でも少女は、それさえも許せないのだ。そんな男たちは皆死んじまえばいいと思ってる。あるいは劇中そうしたように、去勢してしまえばいいと思っている。
そう、この映画の白眉はなんといっても、ジェフに施す去勢手術のシーンなんである。
最初からそのつもりマンマンのヘイリーは、重たい医学書籍をバッグの中に隠しているのだ。
恐怖にひきつり、涙ながらにあの手この手で助けを請うジェフの話になど、全く耳を貸さないヘイリー。テーブルに縛りつけられてビクとも動けないジェフの股間に氷のバッグを置き、麻酔代わりにシビレさせる。こんなヒドイことやろうってのに、そのあたりやけに丁寧で親切である。
そういやあ、モノを切り取った後も、ネットの相談窓口を教えてあげたり、水を飲ませたりとヘイリーは不条理に優しいのだ。ジェフは戸惑って、なぜだと聞くと、彼女はあっさりと答える。「だって、カワイソウだもの」
そんなことを言いながらも、切り取ったモノをディスポーザーで粉砕してしまうし!
……なんて描写は、全てカメラから見切れたところで行なわれる、のは、伏線だったのだ。なあんだ、ホントに切り取ったわけじゃなかったの……ってガッカリするのもナンだが。
だって、ちょっと痛快だったんだもの。グロで悪趣味だけど、女にとっては正直。
欲望がなくなることがそんなにイヤなのかと、じゃあ、女を愛する時、気持ちはそこにはないのかとか、思っちゃうんだもん、女は。
でも一方で、そう思っちゃうことも、なぜか痛快だった。そう、ないんだろうな、性欲と直結しなければダメなんだろうな、って。なんか気分がスッキリするような思いさえした。
タマをディスポーザーでガリガリやったのも、うっわ、と思いながらもやっぱりどこか、やってくれた!ぐらいに思ってたのに。
結局、去勢はしてなかったのだ。脅すだけだった。でもその後、自殺に追い込む形で彼を殺すんだから、ここで去勢をしなかった理由はよく判らない。
「ついてる」と心底ホッとしたジェフは、あれほど泣きながら彼女に請うていたのが一変、元の狼の本性を取り戻したかのように彼女を追い詰め始める。
でもそれも、もしかしたらヘイリーの計算のうちだったのかもしれない。
ジェフは、ヘイリーが逃げ出さないと確信している。必ずこの家のどこかにいると。それはその通りで、ヘイリーはジェフの手から逃れるために一旦外に出ても、また戻ってきて家のどこかに隠れようとする。
彼の確信とヘイリーのその通りの行動は、一体なぜなの?それはまるで、自分の願望が成就されることの決してない、ロリコン男の切なる願いに応えているみたいじゃないの。
これまで完璧だったヘイリーの行動に、だんだんとボロが出てきていた。近所も皆留守だったはずが、隣人のトクダ夫人に目撃されてしまった。
向こうの人にとってアジア人はみんな一緒なんだろうけど、明らかにチャイニーズ系の顔。ミシェル・クワンのかーちゃんはこんな顔してんじゃないの、みたいな。
でも結局、このトクダ夫人が目撃していたからどうこうなることもないしなあ。
でもトクダ夫人の登場によって、ひたすらクールにクレバーにコトを進めていたヘイリーが、やはり少女に過ぎないことを示しているのか。
ラスト、ヘイリーはジェフが唯一愛したかつての少女を呼び出し、ジェフの犯罪を全てバラしてやる、と切り札を出す。
その前のシーンで、ヘイリーは再び気を失わせたジェフを(結構ギリギリのバトルが繰り広げられるのだ……ジェフの顔をラップでぐるぐる巻きにしたり!)、恐怖の自殺マシーンに括りつけたりしてた。ちょっと足を踏み外すと、首吊り状態になるという……。
本人が気絶していたからって、少女が大の男一人を立たせた状態でこんな風に縛り上げるなんて、いくらなんでも非現実的なのだが、ここまで来ると二人のバトルは壮絶を極めてくるので、これぐらいのことは何でもなさそうな映画のマジックにとらわれてしまう。
その状態も何とか脱したジェフなのだが、かつて愛した少女にだけは自分の本当の姿を知られたくない、そのためにはここで自殺して、ヘイリーに口止めさせるしかない、という状況に追い込まれるのだ。
という心理状態も、観ている時はなんとなくすんなり見ちゃったけど、整合性はない。ヘイリーの巧みな話術に釣り込まれてしまっただけのことで、本当に最後の最後までヘイリーのワナにはまりこんでしまったのだ。
彼女には言ってくれるな、頼む、と言い残し、首に縄をかけて、屋根から飛び降りるジェフ。逆光のシルエットの二人が、こんなシーンなのにやけに胸に染みて美しい。
ヘイリーは、ぶら下がったジェフを屋根の上から覗き込み、「……なんてね」と捨て台詞。もう死んでしまった彼に、慈悲を与える必要なんてないとばかりに。
ヘイリーの視点は、少女の視点というより、被害者となった家族、特に親の視点と言った方がしっくりくる。自分の娘をヒドイ目に合わせた男は、こんな目に合わせてやりたい、みたいな。
だから最終的に男はこの世から抹殺されるのだし、少女はあくまで匿名性なのだ。そしてだからこそ、少女の生々しい声は聞こえてこない。
彼女が言うように、自身優等生ではあるんだろう。優等生の少女は確かに征服したい魅力はあるけど、そうした不特定多数の声を代弁している彼女は最後まで完璧すぎて、少女として惹きつけるスキがまるでないのだ。
だから、実際は17歳という彼女にナルホドなのだ。“14歳の少女を偽装”している、劇中の設定のままともいえるし。
少女性のアピールとしての、成熟していない身体だけど、でも妙に腹筋は出来てたりして。幼児性のあるお腹じゃないとねー、少女は。それにそこまでやるなら、未熟なオッパイのひとつも見せてくれないとパンチにかけるんである。
「女子高生が男をホテルに誘い、その気になった男からサイフを盗んで逃げた日本の事件からインスピレーション」を受けたのだという。
そんな瑣末な事件をなぜこの監督は知ったのだ。日本オタクか?トクダ夫人の登場もそのせい?あの日本趣味の隠し金庫もそうかなあ。
しかし、その事件の概要って、まるで「ジーナ・K」の冒頭みたいだけど……。★★★☆☆
小泉監督は、もう私のひれ伏すべき監督に入ってるのだ。「雨あがる」から大好きだけど、なんといっても、これまたなんなんだろ、この涙はなんなんだろ、と思いながら止まらない涙に自分で呆然としていた「阿弥陀堂だより」で決まりだった。そして「雨あがる」も、「阿弥陀堂だより」も、そして本作も、寺尾聰が監督の世界の住人なのだ。
私はもはや、寺尾聰が出てくるだけで、涙が出てしまう。
そういやあ、最近お気に入りのジャズピアニスト、上原ひろみ嬢が言ってたっけな。大ベテランは、舞台に出てきた時からもう歴史を語ってるって。そして一音鳴らしたらもう泣く、みたいな、って。その感覚、寺尾聰にそのまま当てはまるなって、最近思う。
ちょっと以前は、お父さんにソックリになってきたなあとか思ってたんだけど、今は寺尾聰というオンリーワンの人生を身にまとってスクリーンという舞台に登場し、私は彼が声を発するのを待たずして、胸が熱くなり、目頭が熱くなってしまう。
そしてその寺尾聰を主人公に起用し続ける小泉監督は、彼が主役をやれる物語という前提で撮ってるんじゃないかと思うぐらい。二人は近年稀に見る名コンビ、いやそれを越えて奇跡のコンビ。ずっと彼を指名し続けているのは、あるいは彼が演じるべき役のある映画を撮るのは、監督の世界と限りなくイコールに近いからだと思う。
もっと早く、監督デビューしてくれれば良かったのに!
実は、久しぶりに観終わった後に原作を買ったのだった。これは本当に読みたいと思った。映画に感銘したこともあるけれど、数学が文学になるその美しさが、映画とはまた違ったそれなんだろうと思って、そう考えただけでドキドキしたから。
私は数学はキライである。ずーっとニガテだった。数学が美しいというのは判る気はしてた。それはよく言う、クリアーな、ひとつの答えにまっすぐに向かっているから、一点の曇りもないから、美しいってことなんだと思ってた。だからそれに到達できない自分は、ひがんでいたんだと思う。
でも、博士が、数学は判らないことだらけだと、それは人間にとってそうなんであって、神様の手帳にはクリアーに書かれているんだと、人間はそれを一生懸命努力してそっとのぞかせてもらえるにすぎないんだと、それまでのどんな紆余曲折も博士は愛していて、それが数学ギライの私には目からウロコだったのだ。
原作に手を出したのはもうひとつ理由がある。オフィシャルサイトのBBSで、大体原作モノだと否定する人が結構いるんだけど、今回は原作ファンもかなり受け入れてる雰囲気だったのね。否定していたのは私が見た範囲ではほんの数人だった。でも逆にだから、不思議な感動に包まれた私はそのほんの数人の否定さえなんだか悔しくて、よーし、原作読んだろうじゃないの、みたいに気張っちゃったのだ。
それにしても、映画が先にあってあとにノベライズ、みたいなのだと、映画をより楽しむために、みたいに言われるのに、逆だと、やっぱり映画は原作を越えられないとか言われるのって、すごく納得いかない。映画と原作は越える越えないの関係じゃなくて、運命をともにしながらも、あくまで別個の人格を持つんだもの。
否定している人の気持ちは、ちょっと判った。原作ではじっくり語られるところが合理的に片付けられたり(と、その人は思ったんだろう)、博士の背広につけられたメモが原作の印象と比べると映画ではぐっと少なかったり。
確かに後者に関しては、博士の病気に対する不安を示すものだから、画的に収まるようにメモを少なくしたととると、納得がいかないのも判る気がする。
ただ、前者に関しては……特に主人公が博士をついつい信用しない態度を示し、それに対して息子が母親を責める、という、原作では母と息子が和解するまでに数日を要するのが、映画ではその日の帰り道には仲直りしてしまう、ここは息子が成長する重要なところなのに、というのも、判るなあと思いつつ……原作を知らないで見てるとね、すごく巧みなのよ。第三者が介在し、それに対する母親のハッキリとした台詞によって示されるから、そこでルートが母親に不信感を抱いたこと、博士が傷ついたことが一気に判る。
そしてルートが、母親がかぶせようとした帽子をはらいのける、たったそれだけの描写で、博士を信じなかった母親を怒っているのが判るし、そう判ってしまうと、帰り道までの気まずい時間が、永遠のように長く感じられることも、二人がお互い仲直りしたがっている気持ちがあることも判るから……こういうのは演出と役者の演技のマジックだと思うんだよね。
なんか、とりとめなく、言いたいことばっかつらつら書いちゃったけど……そもそもこれは、なんだか最近やたらある記憶モノのお話なんである。ホント、多いよね。この映画を見てるときに流れてた予告編でも、渡辺謙がやっぱりこういう前向健忘症の話やるみたいだし。
私が大好きな「50回目のファースト・キス」は、24時間しか記憶のもたないヒロインの話だった。正直、私はそれが映画として、物語として描くには限界なんじゃないかと思ってた。しかもそれでさえ、ファンタジーの趣が濃かったのに。
80分なんて、どうするんだろう、と思った。でも、80分でカチッと入れ替わるわけじゃないんだもんね。80分前の記憶を忘れてしまうだけなんであって、その間継続してその人間関係を続けていれば、大丈夫なんだ。
あれ?と考えると、「50回目の……」で、24時間記憶が持つんなら、一晩寝ても大丈夫なような気がするんだけど……ま、それはここでは関係ないからいいか。
それにこれも「50回目……」でそうじゃないかな、そうだったらいいのになと思ったことなんだけど、その間しか記憶がもたなくても、脳の記憶としてじゃなくて、どこかで、身体のどこかで覚えてるんじゃないかって、だからその人と毎朝初対面でも、関係を取り戻す時間が短くなるんじゃないかって、勝手に、そんなファンタジーを作り上げたくなっちゃうんだ。
「50回目……」よりは、ずっとリアルな部分が大きいし、時としてシリアスにもなるのに、そんなファンタジーを信じてしまいたくなる。
そしてそれは、子供をこよなく愛する博士のキャラクターも大きく作用する。義理の姉弟(博士の死んでしまったお兄さんの奥さん)関係で愛し合い、禁断の子供を作ってしまったことは、作中で匂わせる程度ではあるけれど、博士の胸の中に、自ら未来を奪ってしまった子供に対する愛情があることがハッキリと示される。
主人公の家政婦さんに対しては、毎朝よそよそしい数字の挨拶を繰り返すのに、その子供、ルートに対しては毎回の初対面で、愛情たっぷりの抱擁をかますことで、そのことが判り過ぎるほどに判るのだ。時のかなたから存在していた数字に果てしない愛情を寄せる博士が、自分にはない果てしない未来への時間を持っている子供を愛するのは当然といえば当然なのだ。
博士は未亡人の義姉と許されない愛をかわしていた。博士との新しい時間を閉ざされた未亡人は絶望し、家政婦に彼の世話を託すものの、何人もの家政婦がネをあげた。でも新しく来た彼女だけは、毎日繰り返される博士との新しい一日を厭わなかった。
未亡人はナンクセをつけて彼女を解雇してしまう。未亡人は嫉妬したのだ。17年前から記憶を積み重ねることの出来ない愛する人に、新しい今を与えることの出来る彼女と、未来への時間をたくさん持った彼女の息子に。
未亡人は愛する人との子供を生む勇気がなかった。せめて子供がいたら、止まった時間を刻むことが出来たのに。
博士が語った直線と線分の関係を思う。心を落ち着かせるために直線を書いてごらん、と博士は言った。彼女は紙の真ん中にすっと線を引いた。
それは線分なんだよ、と博士は言う。線分は、点と点の間の最短距離を結んだもの。直線には初めも終わりもない。だから現実に描くことは不可能だけれど、それは心の中に存在しているんだよ、と博士は胸にこぶしを当てて微笑んだ。
80分の記憶しか持たない博士にとって、いつも最初からやり直さなければならない家政婦の彼女との関係は“線分”だ。何度も終わりが来るけれど、何度も始まりも訪れる。義姉とは17年前までの記憶が永遠に博士の中で“直線”として存在している愛する人。どちらもかけがえのない真実の時間なのだ。
本作は、このルートが長じて中学校の数学教師になり、一年の初めの授業で、自分がルートと呼ばれるようになったこと、そして数学の美しさを博士に教わったこと、と語る形式である。
これが実に上手く出来ている。原作ではルートの母親である、博士の世話をする家政婦の一人称なんだけれど、語り部としては、成長したルートの方が私は好きである。
演じる吉岡秀隆も寺尾聰と同じく小泉作品完全連投であり、ということはつまり、博士の分身となるルートを投影するのに、寺尾聰から引き継ぐには吉岡秀隆以外に考えられないのだ。
まあ、正直、いい仕事ばっかりしてはいるけど、そのことで家庭破綻させてちゃダメじゃん、とか言いたくなるんだけどさっ。
でも、この「ルート先生」は本当に良かった。私は十数年ぶりに、生徒になった気がした。原作のように博士にマンツーマンで教わるのもいいけど、教室に座って、皆でワイワイ言いながら、こんな初々しい先生に、習ってたら、私も数学好きになったかもしれないなあ。
原作は無論、ルートの母親である、当事者の家政婦が語る形式なんだけど、それを視覚的にチョクに訴える映画でそのままやってしまうと、それこそげすの勘ぐりな関係を想像しかねない。
ここは二人を当分に見てきたルートに語らせるというアイディアと、博士の影響で数学の教師になり、子供たちに、かつての自分が博士に教わったように伝えていくという趣が、非常に上品なのだ。
そこには、博士から受け継がれたものがあるからなんである。自分の母親の回想として博士のことを数学の歴史とその美しさをからめて喋るルートだけれども、時々、彼に博士がダブって見える。不思議。全然タイプ違うのに。
映画ではね、多分そこを意識して作ってると思うの。だって原作と映画の最も大きな違いは、ルートと博士、そのキャラの距離の違いにあるんだもの。
原作の博士が全き博士であり、野球が好きなのは、選手がはじき出す数字の示す美しさであって、実際の試合は一度も見たことがないというちょっと信じられないほどパーフェクトにインドアであるのに対し、原作の博士は、まあ大胆にキャラ設定を変えて、数学の勉強と並行してずっと野球をやってきて、肩を壊してやめた、という設定。
これは世界観を変えかねない危険な賭けなんだけど、博士のキャラを損なうことなく、より心にぎゅっとくる博士へと昇華してくれた。
だから原作では、なかなか外に出ない監督を阪神の試合に連れて行くシーンが、もう決死!って感じで、かなりのメインになってるんだけど、本作では外に連れて行くのに、そこまでの苦労はない。
これが、私は小泉監督作品、って感じですっごく好きなのね。その素朴で美しい戸外(自然とか、風景とか、そんなよそゆきの言葉は小泉作品にはかえって似合わない)に連れ出せることこそ、映画の専売特許なんだもの。
そのためには博士に外に臆せず出て行けるだけのバックボーンが必要だったし、それがルートを分身とすることにつながっていくんだよね。
やはり、ロケーションが魅力の映画、特に小泉監督の場合、その晴明な自然の風景が人の心に直接訴えかけるから、登場人物を外へ連れ出すのは絶対に必要なんだよな。
それも原作のように群集の熱気に包まれた野球場ではなく、博士が違和感なく出かけていける山水の静けさの中から始まる。
時には家政婦さんと野草を摘みにいったりし、食べられる野草に感心したりする。これは原作にもある、料理の美しさに感心するシーンにも違和感なくつながる、好きなシーン。その時も言ってたでしょ。「ああ、静かだなあ」って、愛しげに。その時と同じぐらい、野草を摘んでる時も、高貴な静寂に包まれていた。それは博士の愛する書斎の静けさと同じ。
そう、あの料理のシーン、すごく、好きなの。
「何がそんなに面白いんですか。ただの料理ですよ」って、テレくさそうに彼女。博士は彼女が料理をしている姿を、とてもとてもいとおしそうに、慈しむように見ていて、キューンときてしまう。
「なぜ肉の位置を移動するのか」なんて質問して興味深げではあるけど、それ以上に、「君が料理をしているのを見ているのが好きなんだ」という台詞が物語ってる。
これって、その日の朝に“初対面”だった相手に言う台詞じゃないよねー!殺し文句じゃん!
やっぱり脳だけじゃない、どこかで記憶してるんだと思いたいなあ。
大学まで行って、肩を壊して辞めた、という映画での博士、そしてルートは同じく大学まで野球をやるものの、膝を怪我して(これは原作での設定)辞めた。
ルートは自分が博士に教わったように、数学の美しさを子供たちに教えたいと思って、中学教師になって……原作ではそう明確に見えなかった、博士からルートに受け継がれる分身的なものが、くっきりと見えるのだ。
実際、ルートが回想に合わせて展開する、偉大なる数学者たちと偉大なる、そして美しい公式を解説する“授業”はすばらしい。寝癖がそのままルート記号になった吉岡秀隆は妙にカワイくて、それは博士の純粋さをそのまま引き継いだみたいなんだよね。
博士が出かけたのが阪神の試合ではなくてルートの試合、そしてルートが所属する少年野球の練習を見てやっていた、というのが、大胆ながらも、嬉しく、的確な追加エピソードである。
博士の愛する子供たちが頑張っている姿であり、しかもその子供たちはルートと同じく博士を理解し、受け入れてくれる。決してルートだけが特別なのではなく、子供の純粋さは何にも替えがたいと博士が信じてることを端的に示してて、なあんか、嬉しいんだ。
その後博士は熱を出してしまう。三日も寝込んで、だから当然その間に家政婦の彼女のことも忘れてしまってて……でも、「僕は人の役に立たない」と悄然と、搾り出すようにいう彼に、「博士はルートを助けてくれたじゃありませんか。私たちに大切なことを教えてくれました」と言うシーン、好きなんだよなあ……。こういう時でもね、家政婦役の深津嬢が暖かな笑みをたやさないのが、グッときちゃうの。
原作ではひたすら紙に書いていたのを、家のあちこちにある黒板に書いて数字での会話をするというのにも、ルートの現実世界での授業による解説とつながり、上手い設定である。
この黒板は、家政婦との連絡や、彼が忘れないように書いておく第二のメモであり、映画としての視覚的効果もあるし、そして関わらないと言っていた義姉が関与していることを判りやすく提示するという合理的な役割も満たす。
一方、やっぱりなんか……切ない思いをかき立てるんだよね、黒板って。それを見上げるようにじっと見つめる彼らの視線の角度の美しさが……。
そう、最初に、ルートの母親が博士に数字の美しさを教えてもらったシーン、友愛数のシーンなんか、やっぱりこれは、紙に書くより、黒板に書いた方が絶対、それもこのなんだか懐かしくて温かみのある、木の感じの小さな黒板が、なんとも胸をあたたかく点すんだ。
ヒロインである深津絵里が最高にイイ。「結婚できない人を愛した」という設定は、原作では彼女の母親だけど、映画では彼女自身に持ってきた。
同じシングルマザーでも、こうした複雑なキャラクターは役者にとって難しいはずなんだけど、そういう事情を彼女は言葉に出さずとも、その細い身体で息子を育てるためにただひとつの武器の家事で頑張っているっていうのをね、自転車を懸命にこいで仕事場に向かうその姿だけで、語ってしまうんだよね。それが、凄い。
清楚で、ストイックで、ガンコで、なんか、いつでもそれが深津絵里だったように思う。本当に、彼女の肉体が全てを語ってて、すばらしい。
特に好きだったのは、あそこだな……ルートに、「大丈夫だよ、ママは美人なんだから」と言われるシーン。「知らなかったのお?」なんてまで言われて、なんか照れくさげに顔を覆う彼女が、その時点でとても辛いのに、博士のもとを解雇されて、博士のことも、博士のところに行きたいルートのことも気になって辛いのにふいにそんなこと言われて……なあんかちょいとジンときちゃうんである。
禁断の愛を博士と育んできた義姉を演じる浅岡ルリ子の圧倒的な存在感はもう、言葉では言いあらわせない。
義姉と博士が薪能に行くシーンがある。事故が起きたのは、二人が薪能に行った帰りだった。これはその時の回想なの?それとも……私にはどうしても、ルートの語っている時間軸にしか思えなかった。二人はいつもの姿だし。
もしそうなら、原作の一人称じゃ絶対に出てきっこない、いやこの映画のルートの語りでだって本当は出るはずもないシーンだけれど……。震えてしまう。博士の手が、薪能の舞台に見据えられたまま彼女の手に重ねられて……本当に、本当に、鳥肌が立つ。かすかに驚いた彼女、でもその彼の手にそっと、でも愛しげに自分の手を重ねる。
博士にとっては、昨日の記憶は、彼女と遭遇した事故の日のはずなのに。年老いた彼女に(そして自分に)毎日戸惑っていたはずなのに。もし本当に、この時間軸でのシーンだとしたら、いやそうであってほしい。
やはり、どこかで、覚えていたんだと思いたい。
家政婦に対する態度が頑なだったのから和らいでいったのも、だからだと思いたい。
脳だけじゃないと、思いたい。身体のどこかでかすかにかすかに、記憶を重ねていたんだと。
原作では、少し哀しい色合いを帯びたラストなんだけど、映画では、それをちょっと匂わせながらも、幸福を、幸福な気持ちを届けよっ、ってのを感じるから、またしても私は泣いちゃうんだ。
ルートの授業が終わり、生徒の一人から「ありがとうございました!」との声が飛んだ時点で私は涙ダーである。数学の深遠さと、神秘と、美しさと、何よりそれを愛した博士への敬愛の気持ちに溢れてて、それが生徒の心を打ったんだ。
ルートは窓の外を見やる。そこは波打ち際。ルートが幼き頃プレゼントした江夏の背番号、28のジャケットを着た博士が誰かとキャッチボールをしている。
ルートがそこに近づいてくる。彼が差し出した頭を、幼き頃と同じように博士がいとおしげにクシャクシャとなでまわす。二人でキャッチボールを始める。少し小高くなった土手で義姉と家政婦さんが親しげに、楽しげに、眺めてる。博士の顔にズームアップしてくる。博士はとてもとても楽しそうに、ルートに向かってピッチングする……。
モノクロームのストップモーション。胸が、胸がジンジン痛いよー!
おかしいんだよ、考えてみれば、おかしいに決まってるんだよ。ルートはあの時と比べてもう20年近くたってるのに、ほかの三人はまるで年をとってないんだもの。でもそんなこと考えちゃいけないほど、このシーンは美しくて、ルートに向かって本当に楽しそうに、満足げに球を投げる博士が幸せそうで、寺尾聰が幸せそうで……涙が、涙がとまらないの。
原作者の小川洋子さんがね、オフィシャルサイトに2ページもの長い長い原稿を寄せているのが、凄く嬉しかったのだ。原作者って、結構二言三言、多くて10数行ってとこだよ。無難な感じでね。でもこの長い原稿には、原作の世界に命が吹き込まれた、それも世界を壊さないながらも映画として美しく独立しているのを、嬉しく思ってるのが感じられて、凄く嬉しかったんだ。
ああでも、やっぱりやっぱり寺尾聰、なんだよなあ!特に、ルートの存在を“初めて”知った場面、家政婦に、「君はしょせん私が忘れてしまうと思ってるんだろ。見くびってもらっちゃ困るよ」っていうの、原作もそのままの台詞であるんだけど、役者の声で、寺尾氏の声で聞くと、暖かなチャームとユーモラスで笑いながら、泣きそうになっちゃう。★★★★☆
……って、投げたくなるほどだよ。新藤監督特集、結局これ含めて二本しか観られなかったことを、もう死ぬほど後悔してる。一本目は圧倒的な中にもコミカルさが横溢してて、すっかりノセられてしまった感じだった。でも、これは……凄すぎて突き放されてしまう感じ。何も言うことが出来なくなるぐらい。
モスクワ映画祭でグランプリを受賞し、各方面で絶賛され、現代でもソクーロフ監督が激賞しているというこの作品、前半の、ひたすら一年間の過酷な生活をただただ無言で追っていく描写には、なるほどソクーロフ監督が好きそうな感じだよな、とソクーロフ作品を1本か2本で挫折してしまっている私は、多少腰が引ける感じで見てた。
だって、本当に無言。最後まで、登場人物(といってもほぼ家族四人のみ)は一言も喋らないんだもの。解説も、ないんだもの。
ただ判るのは、この家族が孤島に住んでいること。この孤島は見るからにやせて乾いた土地で、夫婦が運ぶ水によって何とか生き長らえ、作物をほそぼそとつけていること、そしてこの島には水がなく、本島から船で1日何度も運ばなければならないこと……作物にやる水も、食事の水も、風呂の水も、全部。
つまり夫婦の生活はほぼこの水汲みだけに費やされ、孤島の崖を天秤にかついでフラフラになりながら登っていくさまはあまりにキツそうで、妻がウッカリ水をこぼして呆然と立ち尽くすと、夫は殴り飛ばすし、なんかもう、辛くて見てられない。
それぐらい水は大切だってことで、作物にやる時も、本当にそーっと、必要なところにだけ大切に大切にやるんだもん。現代の恩恵にひたりきって暮らしてるこちらとしては、もう信じられない、耐えられない生活なの。
まさかこの日常の描写だけで最後まで行くんじゃないでしょうね、どうしよう……と内心思いながらも、この夫婦を演じる二人の役者に圧倒されてた。
台詞という、キャラを説明するものを一切許されない、つまりその人物として本当に生きなければいけない。
台詞があったって演じるということはそれが大前提なんだけど、でもその、言ってしまえば枷から解き放たれた時、こんなにも役者の力量が試されるものなのか。この役、役者にとってはこんなイイ役はないけど、でも絶対怖いよ。顔じゃない、動きじゃない、もうすべてが、この孤島で過酷に生きている夫婦じゃなければいけないんだもの。
監督の運命の同志、乙羽信子、そしてこの人がこんなに上手い役者だったとはと恐れながら感服した殿山泰司、この二人の圧倒的な力の前には、ただただひれ伏すしかない。
水をこぼした妻を殴り飛ばす夫、という場面、絶対どこかでこぼしちゃうよ、あんなに足場が悪くて、あんなに重いの担いで、とハラハラしながら見てた。
こぼしたら、絶対殴られるというのも予想通りだったから、大切なのは判るし、それを示すためっていうのも判るけど、殴らなくてもいいじゃん!などとついつい思ったんだけど、でもこれは……もっと大きなうねりが発生する後半への布石だったのだ。
なんかね、だから前半は正直辛かった。でもこれがなきゃいけなかった。一年間をどんな風に過ごしているかをきっちり追うことが。
春は麦を、夏はさつま芋を収穫し、本島に売りに行く。それで家族の生活はギリギリ。二人の小さな息子たちは育ち盛り。この二人も一切喋らないんだけど、表情豊かでワンパクで、のびのび明るく育っている様子はちゃんと伝わってくる。
家族四人で外にしつらえた食卓を囲むシーンは、もう皆猛然とかっこむし短いシーンなんだけど、そして誰も喋らないんだけど、なぜだか彼らの信頼感が伝わってくるのだ。
子供たちはいつものように、といった感じで食卓の用意をし、風呂のためのまきを運び、五右衛門風呂には一番に入らせてもらえる。二人の小さな男の子が狭い缶からデコボコに頭を出して、ニコニコとつかっている様の幸福そうなこと!
その次には夫が入り一日の汗を落とし、最後に妻が家事も全て終え、星空を見ながらゆっくりとつかるのだ。その笑顔には充実感があり、私たちにはなんだか無為にさえ見える過酷な生活も、自分たちが生きるため、そして子供たちを育てるため、彼女の中できちんと折り合いがついているのが判る。
でも、それはこうして生活が成り立っているからなのではなかったか。本当にギリギリのふちだった。あの悲劇が起こるのは、この不便な孤島で暮らしている限り避けられないことだったんではなかったのか。
という話に行く前に……そんな生活の中でもささやかな楽しみはあるのね。季節の変わり目のお祭りもあるし。
そして、息子たちが大きな鯛を釣り上げた時のエピソードは、この家族の絆の強さを感じさせるのに充分だった。
本当に大きな鯛。仕掛けていた釣竿がビンビンと張っている。小さな体の息子たち二人がかりでようやっと引き上げる。水汲みから戻ってきたお父さんとお母さんに自慢げに見せる息子たち。夫は初めて見せるくしゃくしゃの笑顔で片方の息子の頭を撫で回し、もう片方の息子を抱き上げてぶんぶん振り回して戯れ、海にじゃぼん!と落としたりしてはしゃぐ。それを笑いながら見ている妻ともう一人の息子。
それまでは、過酷な一日に必死にかじりついている表情しか見せなかったから、ああやっぱり、子供たちはお父さんとお母さんが大好きだし、夫婦も彼らを慈しんで育ててるんだ、と思って胸が熱くなるんである。
でも、その鯛を売りに行く描写は、ほんの少し切なさを帯びている。夫婦はいつもの野良作業のカッコからちょっとだけイイ服……といっても夫はシャツにズボン、妻はすとんとしたワンピース姿ぐらいのカッコだけど……を来て本島に渡り、鯛を買ってくれるところを一軒一軒訪ねてまわるんである。
どこも、買ってくれない。だんだん表情が暗くなる家族。いや、身につまされるのは息子二人の不安そうな顔であり、自分たちが釣り上げた鯛のことで、両親をミジメな思いにさせているのではないかと……そこまで具体的には思っていないかもしれないけど、そんな思いが顔に現われてて、なんかもう、胸が痛いのだ。
でもやっと、本当にやっと、それもかなりムリヤリって感じでねじ込んで買ってもらえて、そのお金で子供たちに新しいランニングを買ってやる夫婦の笑顔や、こんな機会でもなければ外食なんてほとんどしないんだろう……狭い食堂のテーブルを囲んで頭を突き合わせ、ここでも猛然とかっこむ四人の姿は、本当にささやかな贅沢なんだけど、過酷な日常があるからこそ、とても幸せに思える。
そして家族四人、ロープウェイに乗ってびっしりと建ち並ぶかわら屋根の街並みを楽しそうに眺める。ロープウェイに乗るなんていうことだけで凄い観光なんだろう。乗っているだけで、何でそんなに嬉しそうなの、と胸を突かれちゃうんだもの。
いつも必死の形相で水汲みしている夫婦だから、心からこのハレの日が楽しいんだって判る。子供たちは無論無邪気にはしゃいでる。世の夫婦と違って、この夫婦に隠しごとなどあろうはずがないのだ。いつもハダカで向き合って、作り笑いなんかするわけもなくて、辛い時も楽しい時も100パーセントをぶつけ合っている。それは確かに幸せなことなのかもしれない。
それに自分たちがいつも見ている孤島のてっぺんからの眺めは、確かに美しく絶景だけれど、ぽつんと一軒だけ建つ粗末な家で暮らす彼らにとって、家々が建ち並ぶ風景はどんなにか贅沢なことか、想像を絶するのだ。
毎日、水汲みの途中に本島の学校に行く子供を船で送り迎えして、痩せた土地とはいえこの小さな島は夫婦のものだから、こつこつと懸命に土地を開墾して、そうして糊口をしのいで子供たちが無事育っていけば、確かにそれは、幸せだと言えたのかもしれない。ギリギリのところで。いや、ギリギリだからこそ真の幸福だと。
でも、思いもよらぬ試練が待っている。全編通じて流れているテーマ音楽が、一音ずれて、不穏な響きを奏で始めるから、もうそれで判ってしまう。イヤなことが起きると。
夫婦がいつものように水汲みから帰ってくる。その前から下の息子がせわしなく家と岸壁を行き来して、両親が帰ってくるのを今か今かと待っている。土間に仰向けに寝ている上の息子は……息が荒い。
ヤバい、これは……この結果が既に見えてしまうことで、もう胸に突き上げる衝撃と恐怖を回避できない。だって、子供たちがいることで、成長していくことで、このギリギリの幸福が成り立っているのに。
小さな腕をぶんぶんと振り回して両親を呼ぶ小さな息子。まだ岸からは離れているのに、いち早く妻がその姿に気づくのもなんだか胸に迫ってしまう。やっと岸に着き、慌てて家に向かう夫婦。既に意識もない状態でただただ荒い息を吐くばかりの上の息子を抱きかかえ、ゆすり、うろたえる母親。父親は医者を呼びに行くために猛然と引き返す。でも、船で本島まで行くのに一体どれぐらいかかるの。そしてお医者さんをつかまえるまでにどれぐらいかかるの!
本島について病院に駆け込んでも医者は往診中なのか留守で、看護婦さんに聞いたんであろう、立ち寄る先を必死に探し回る夫。だだっ広い田んぼの中の一本道を、医者を探して走り回る俯瞰の図は、医者に子供を見てもらう、ただそれだけのことがどうしてこんなに大変なのか、もう、早く、早く……と……内心結果はあまりにも予想できるのに、それを見たくなくて、打ち消したくて。
ようやく往診帰りと思しき医者を捕まえる。急ぎ船に乗ってもらって必死にこぐ夫。でも家に飛び込んで見ると……妻が呆然とした顔で玄関に背を向けたまま座り込んでいるから、もうそれだけで判ってしまうのだ。息子は既に息をしていない。妻は泣き崩れる。この時初めて彼女の声を聞いたような気がする。
小さな葬列。だから余計に痛々しい。本島の学校から先生や子供たちが船に乗って参列しに来てくれる。子供たちで満載になる小さな船だけど、でもエンジンつきの船。せめてこんな船があったら、命に間に合ったかもしれないのに。
粗末な着物姿の妻といつものシャツとズボンの夫、小さな棺を前と後ろで持って家を出る。本当に小さな棺。だって本当にまだ小さな子供だったんだもの。
小高い丘に穴を掘った中にその小さな棺を埋める。子供たちが花を投げ入れてくれる。そして薪を入れ……妻がふと思いついたというようにふいに駆け出す。家からこの子がいつも弟と遊んでいたオモチャの刀をとってくる。そして棺のふたにそっと置いてやる。
子供たちは帰ってゆく。小高い丘からは煙が立ち昇っている。荼毘に伏しているのだろう。妻は一人離れて海を見つめていた。呆然と見つめていた。花火が上がる。夏祭りなのか……それを見せてやれなかったことを思ったのか、その花火が天に昇ったその子に思えたのか。涙があふれたのは、妻ではなくて見ている私の方だったかもしれない。慟哭が胸に突き上げてたまらない。
後ろから夫が静かに近寄ってきてる。でも無骨な日本の男だから、妻に慰めの言葉をかけるとか、抱き寄せてやるとかなんて出来ない。ただただ妻を見守るばかりである。
穴を掘り返す。骨を拾ってやるのだろう。その描写は途中で断ち切れ、墓が海を臨んで佇んでいるショットに切り替わる。だって、そこまで映し出すのはあまりに痛ましい。
そして、夫婦はいつものように水汲みに出かける。崖を天秤を担いで上っていく。作物にそっと水をかけてやる。いつもと同じ風景……のはずだった。
妻は、突然、憑かれたように大切な水をぶちまける。さつまいものつるを手当たり次第に引っこ抜く。そして大地に突っ伏して、身をこすりつけんばかりに泣き叫ぶ。
夫がね、夫が……そんな妻を憐憫のまなざしで見つめるばかりなの。殿山泰司のあの表情ときたらないの。台詞なんて、そりゃいらないよ。
だって前半、ちょっと水をこぼしただけで殴り飛ばしていたのに、何も言わないの。ただ黙って妻を見つめて、妻も何もしない夫に驚いたのか面を上げて彼を見つめて……この時の、泥だらけになって彼を見つめる乙羽信子の表情も、もう……役者に言葉はいらないんだ。
夫はただ黙って作業に戻る。でもそれはいつも以上に丁寧に、大切に水を根本に注いでいるように見えた。妻はしばしそのまま座り込んでいたけれど、彼女もまたいつものように淡々と作業に戻る。
水はこの痩せた土地にあっという間にしみこんでいって……あっという間に乾くから、ちゃんと面倒を見てやらなければ死んでしまうのだ。
そしてこうして、日常を続けていかなければいけない。何があっても。子供のためと思っていたかもしれない。それもそうなんだけど、それだけではない。残酷なようだけど、これしかないのだ。生きていくためには子供が死んでも、この生活を否定するわけにはいかないのだ。だって他にどうしようもないもの。
それが絶望ではなく、投げやりでもなく、悲壮だけれど強い意志によって貫かれていることにただただ呆然とするのだ。
土くれに、石にかじりついて生きていくだけの決意が果たして私にあるのか。それは一体どこから湧き上がるのか。
彼らを見ていると、汗を拭き拭き往診している医者や、二人が届ける先の立派なお屋敷の住人、そして市場の威勢のいい商人たちでさえ、やけにノンキに見えてしまう。でもそんな風に、生きることにあまりに悲壮な二人に、どうしてなの、とも問いたくなるのは、ノンキな自分を否定したくないからなのか。★★★★★
だから、「ラブ★コン」の話はいーんだってば。あ、でももう一つ共通点が。この監督も本作での長編デビュー組かあ、と思う。
最近、ホント多いな。いいのかしら、こういう商業的話題作をバンと撮らせちゃって。なんて言ってみても所詮映画ファンはいつもカヤの外だけど。で、ああこの人も……CM出身なのね。
どことなく長さを感じるのはそのせいなのかしらん。まとまり感がないというか。群像劇だから仕方ない部分もあるけど。
でも、つなぎ方っていうの?多分そういうところの問題だと思うんだよね。見せ所(予告編で使われそうな画や台詞。今回の惹句とか)はキチっと抑えてくるあたりは、CM能力を感じるけれど。
原作は知らんが、ヒロイン、はぐみを演じる蒼井優嬢はあまりにもピタリである。
あ、でも、原作とは容姿的なイメージが違うんだって。へー。でもスタッフも全員一致で希望したというし、彼女以外にいないと思う。まー、コミックスはデフォルメがキツいからね。
どこか世間におっかなびっくり、奇跡的に才能を無菌状態で保存されたまま、ここまで育った天才少女。
例えば宮アあおい嬢がリアルな少女向きであるならば、蒼井優嬢は浮き世離れしたファンタジック乙女が似合うんである。もちろん双方演技派だから、どっちでもこなせるけど、でも似合うっていえば絶対そうなの。
カラフルでオトメチックでいながら、そんなこと本人まるで気にしてないっていうのがイヤミじゃない。絵の具だらけに汚れるふわふわファッションも、わざとらしくなく似合うなんて、蒼井嬢しかありえないよねー。
ま、彼女になら誰だってひと目で恋に落ちると思うけど。予告編やテレビ告知版でも真っ先に使われる、主人公竹本がはぐみに恋に落ちる場面は、確かに印象的である。
ヘッドフォンで外界から自身を遮断し、脚立に登って巨大なキャンバスに向かい、一心不乱に絵の具をぶつける華奢な美少女、だなんて。
そして気配を感じて、ふっと振り返る。竹本と目と目が合う。横にいた真山が竹本の呆然とした表情を見て心の中でつぶやく。
「人が恋に落ちるところを初めて見てしまった」と。
さてさて。今更ながらの解説ではあるが、美大を舞台にした青春物語なのだわね、これは。
んでもって、片思いの洪水。全ての登場人物の思いがすれ違って、現時点で誰もカップルが出来上がらない。あー、もどかしい。
陶芸、デザイン、建築と、それぞれが違う分野だから、ぶつからずに群像ラブストーリーが描けるんだろうな。
天才のはぐと森田だけが、火花とも恋愛ともつかないものを散らすけれども。
冒頭の場面は、花本教授を慕う会、通称花本会の飲み会であり、花本教授宅に学生たちが集まっている。はぐみは教授のイトコの友人で、今年、浜美の油絵科に入学し、この家に居候しているんである。
ちなみに花本教授を演じるのは、堺雅人。彼もまたキーマン。だってはぐみはもちろん、天才森田や竹本など、学生たちの深き理解者であり、彼らに慕われるのが説得力がなくてはいけない人。
もう説得力ありすぎの、「日本のほほえみの貴公子」だもの。ほんっとにニコニコ教授なのね。理解者オーラ出まくり。
主人公の竹本は、建築科在籍の三年生。櫻井君演じるこの主人公がね……ちょっと、弱いかなあ。
私の勝手なイメージでは、吉沢悠君とかがいいなー、と思う。年が合わないか。ま、やっぱり似たタイプではあるけど、純粋さが最も大きな武器になる、というだけの“優しい存在感”っていうのはホントに難しいから。
そうそう、花本教授だってそういうタイプだけど、そこは堺雅人だからキッチリ抑えてくるじゃない。
周りが芸達者なだけに、彼が埋没しそうになっちゃって、ツライものがあるんだよなあ。
そして旅から突然帰ってくる学園の誰もが知ってる有名人で、もうひとりの天才、森田である。演じるのは、なんか最近よく見るなあ、伊勢谷友介。一体この大学に何年いるのっていう彼は、そういう点でひょっとしたら、やはり無菌室で育った子供だったのかもしれないと思う。
こういう、天才肌のカリスマ性のあるアーティストがよく似合うのね、伊勢谷氏は。彼のわざとらしい発声も、この破天荒なキャラにとってもよく似合う。
つーか彼、こーゆー役者になるとは思わなかったな。キザが似合いすぎだっての。
森田は天才だから、同じ天才をかぎ分ける。はぐの画をひと目見ただけで、初めて自分を越えるヤツだと見抜く。
竹本が「森田さんが他人を褒めるのを初めて聞いた」と言うと、「そんなことないよ。ピカソ君もバスキア君も結構イケてるし」と本気で言ってるトコがコワい。
で、彼も芸術という無菌室で育った子供だから、天才同士の“同志”が、恋の感情と混同してしまったことが、彼のキスが、はぐの今までの純粋無垢な感性を狂わせるのだ。でもいつかは遭遇しなければいけなかったこと。
キス一発だけってのが、少女マンガだけどねー。
そしてあと二人はまあ、脇役だけど、私としてはこの二人が最も好きである。竹本と同じ建築科の真山と、はぐみと友人になる陶芸科のあゆみ。演じるは加瀬亮と関めぐみ。
真山はバイト先のデザイン事務所の建築デザイナー、理花に恋している。その恋の仕方もヤバいんである。後つけたり彼女の痕跡の残るものをコレクションしたり、自身も認めるいわばストーカー。
こんなにフツーに魅力的な青年を演じる加瀬亮は、初めて見る気がするなあ。いや、フツーじゃないか。ストーカーだもんね。
でもその純粋な恋心が切なく思えるような役柄は、初めてって感じがするのね。
重たい髪とメガネが良く似合う。やっぱり彼は、周囲より少し重い荷物(感情)を背負っているオーラがある。
しかも彼が恋するのが、西田尚美だっていうのもイイんだよなあ。ずっとキュートな女の子だった西田尚美が、死んだ伴侶への心の傷が癒せない大人の女なんて、ちょっとグッとくるじゃない?
しかもあのニコニコ花本教授は「そんなんじゃない」とお互い言いながらも、同級生である彼女のことを……ま、心配しているだけかもしれないけど。
んでもって、真山に恋するあゆみ。関めぐみは今までの中で、一番イイかもなあ。というか、彼女は最初の印象からどんどん良くなる。
はぐみは絵に一心不乱だし、「恋する切ない女の子」を、この物語の中で彼女一人が一心に体現してるのよね。
その気持ちに真山も気づく。でも真山も理花への思いを止められない。理花から解雇通告をもらっても止められない。
でもあゆみがイイ子だってのは判るから、「他の男を見つけた方がいいよ」などと忠告したりする。この場面の、何を言われるかうすうす察知したあゆみが、追いかける真山から逃げ回るのが、切なくもカワイイんである。
でもその決着は、花本教授にナントカしろ、と言われた真山が、夜の川べりをあゆみと散歩してる。足をくじいた(のか?酔ってへたりこんだのか?)あゆみをおんぶした真山。その背中で彼女、「真山好き、大好き」と繰り返す。実はこの時、初めて気持ちを口にしたんじゃないの。
でもその思いは届かないの。
お互いとても理解する間柄ではある。理解者同士だ!と二人酔っぱらって盛り上がったことさえある。あゆみもまた真山のストーカーと言っていいほどで、彼のことを誰よりも判ってるから、元の職場に復帰する手助けもしたぐらい。理花はライバルなのに。
そしてあゆみは、天才少女はぐみと、友達になれる唯一の女の子でもあるのだ。
それはなんだったんだろう。あゆみがバイトで子供たちに絵を教えているということがあるからかな。はぐみもまた、子供の無限の可能性を、失わずに持ち続けている稀有な存在だから、その尊さがあゆみには判るんだ。
あ、それでいえば、竹本もひょっとしたらそうだよね。確かにあまりにウブすぎだもん。はぐみへの気持ちもそうだけど、自身が専攻している建築、特に城への愛を語り出したら止まんないとことかさ。
だから案外竹本は、はぐみと根本的なところで合ってるのかもね。一応ラストはイイ感じで終わってるしな。
様々な出来事が起こるんだけど一番エポックメイキングなのは、この五人が海へドライブし、ボロ車がぶっ壊れちゃって、旅館に泊まることになるエピソードだろうか。
そもそも、森田が誘われた画廊で、暇つぶしみたいな雰囲気で個展を開いたのがキッカケだった。この個展に向けての作品作りの中、森田とはぐみは急速に接近する。即興で絵を合作したりして、そのパフォーマンスに見物していた学生から拍手が起こったり。天才が二人いると、目立つもんである。
この個展でのメインになる巨大な木彫作品、その製作過程を見ていたはぐみは、「一週間前の方が良かった」と言う。「バレたか」と森田。でも個展まで時間がなく、そのまま出品せざるを得なかった。
そしてこれをケナした美術評論家にはぐみがくってかかったのを止めようと、勢いで森田がこのオッサンをぶん殴っちまったもんだから、その場を逃れるために五人、ノリで海へと向かうのだ。
無邪気に盛り上がった一夜の後、朝の海に佇んでいたはぐみに、近寄った森田がキスをした。その時からはぐみはスランプに陥ってしまう。
オスロ国際コンクールに出品予定の絵の制作が、ピタリと止まってしまうのだ。
花本教授は、はぐみならばその破天荒な才能で突っ切れると思ったんだけど、とその先行きを心配する。
でもやっぱり、無垢さだけではいつか壊れてしまうんだ。ま、キスだけのことなんだけどさ。
竹本は、はぐみを助けたいのに、何も出来ないことに呆然とする。それまでは彼女とランチを一緒に出来るだけで幸せだったのに。はぐみを救えるのは、森田だけなのだ。
一方森田も、この狭い日本で自由に翼を広げられないことに苦しんでる。個展を開いても、イケメンアーティストとして興味本位で取り上げられるのがオチである。……それにしても画廊主のオカマの双子はなんなんだ。その片方が堀部圭亮だなんて全然気づかんかった。
結局竹本は、森田に直接ぶつかる。哀しいけど自分じゃはぐみを助けられない。森田もまた、自分自身のためにはぐみと対峙しなければならなかった。
「青春バカに言われたんだよ。はぐちゃんをナントカできるのは俺しかいないんだって。考えろって」
そして、あの失敗作を燃やす。商品としての芸術に潰されそうになってた森田こそが、はぐみの「好きだから描くんだよ」という言葉に救われたのかもしれない。
森田は「オレ、この国を出ようと思う」と言い、はぐみは「そうだと思った」と返す。この狭い国ではやはり、森田の才能ははばたけないんだ。
はぐみと彼は、天才の芸術家としての同志だった。だから一瞬、恋愛を錯覚しそうになったけど、違うんだ。
でも竹本となら、恋愛の可能性がある。それは彼が天才の芸術家ではないから、というあたりは哀しい。でも美大生の中で、ホンモノの芸術家になる人はほんの一握り。それだけが価値のあることではないということなんだろう。
それに、竹本は古い建築を愛してる。劇中、彫刻作業をしている宮大工(中村獅童。似合うなー)と出会い興奮する竹本。そしてラストには、ここでバイトしている姿も描かれる。誇りある修復の仕事。竹本にとっては最上の仕事だろう。
そういや、NHKで宮大工を取り上げた番組、ついこの間観たわ。こういう修復の仕事っていうのは、その後修復に使う植樹した木が育つまでの、千年を持たせなければいけないんだって。本当に、誇り高き仕事なんだって
。
芸術は、芸術家だけではない。芸術を助ける仕事と、芸術を維持する仕事と、いろいろあって、芸術というものが成り立っている。それらが全てなければ、成り立たないんだね。
原作はまだ続いているんだよね。どんなもんなんだろう。
ギャグも冴えているというけど、この映画からは想像できないなあ。★★★☆☆
うーん、つまり私が受け取る気持ちとしては、バランスの悪さ。そりゃ私だってあおいちゃんが、彼の本当の気持ちが綴られた本のラクガキを見つけたシーンで、彼女と一緒に涙を流したかったさ。でも、ただでさえ寡黙な彼の気持ちが、こうした尺に伸ばされたバランスの悪さの中では、正直伝わりにくかったし……。
いや予測は出来るのよ。彼はきっと、彼女に恋しているんだろうなっていうことは、予測できる。でもそれはこの状況から予測してしまうことであって、彼自身の気持ちのさざなみが伝わるわけじゃないのよ。
それは彼の演技がどうこうっていうんじゃなくて、やっぱりこの、幾つもの要素が絡み合ったものをまとめるというより引き伸ばして並べてしまった中に、埋没してしまったんだと思う。だから予測は出来ても、感じることが難しいの。
その中でもさすがのあおいちゃんは奮闘して、このみすずという少女の孤独をビシビシとスクリーンに突き刺してくるけど、でもそれだって、もっと強烈にスクリーンに焼き付けることが出来たんじゃないかと思うんだよな。
それに……今までもあおいちゃんは、積極的に意欲的な単館モノに出演してきたけれど、今回は確かにミニシアターの作品ではあるものの、やけに囲い込んだメディア露出をしてるのも気になったんだよな……。やたらと著名人にコメントもらったりしてさ。
こんな風にどうもまとまらない作品だけあって、ここに着目するかなあ?みたいなトンチンカンなこと言ってるゲーノージンも結構いたりして……まあ私もトンチンカンなこと言ってるんだろうけど。ちょっとね、それも引いてしまった原因かもしれない。
映画を観る、それだけのシンプルな行為にしたいのに、なかなか難しいんだな。
誰もが知っている三億円事件。でも誰も知らないその真相。恐らく、史上最も重い意味を持って時効を迎えた事件だろう。その時生まれていない私だって、この事件とモンタージュ写真は知っている。
このモンタージュ写真。どこにでもあるような、ぼーっとした少年ぽい顔。それが見るたびにゾッとした。なんでだろう……この彼が、今もどこかで生きているんだと、まるで幽霊を思うような気分になるからだろうか。
決してその顔は、女の子には見えないし、あおいちゃんなんぞに似てはいない。でも全然似てないかと言われると、なんとも言えないような……あいまいな顔なんだよね。怖く感じるのはそのせいかもしれない。
ふっと、この顔が電車の中とかで隣りにいるかもしれないんだもん。ホント、幽霊に対するような恐怖。
あの三億円が、一枚たりとも使われていない、というところからこんな義侠的な物語を思いついたのかな、などと思う。でも一枚たりとも使われていない、なんてホントに判るの?てことは、全部のお札の番号を控えてたの?500円札だけじゃなくて?
でもまあ、確かに、この事実は、犯人のヒーロー性やロマンチックな想像を高めるには充分な要素である。しかも時は学生運動華やかなりし頃。時代に絶望しながらも、だからこそ自分の理想に基づく行動が、もしや世界を変えるのではないかと、天井知らずに希望も持てた頃。
前半は当然、この事件のことなどおくびにも出さずに話が進行する。この前半部分で、三億円強奪に至る経緯を納得させてくれなければいけないわけだから、重要な部分である。
まず特筆すべきは、あおいちゃんの実兄で今回が三度目の共演、三回とも兄妹役でご出演の宮ア将である。ま、ね。恋人役ってわけにはいかないだろうからそれはいいんだけど。
「理由」ではほんのチョイだったから、印象的だったのは何たってあの「ユリイカ」だった。あの作品での、自分を持て余していたような少年の残酷さが成長し、その部分を残しながら、男も女もホレずにはいられないカリスマ性がある青年。でもその強さがあまりに直線的すぎて、ポッキリと折れてしまうようなもろさが、なんとも心かき乱させるものを感じた。なんていうのかな……若かりし頃の尾崎豊を想像させるような。
私、彼はあおいちゃん絡みでしか見たことないんだよね。あおいちゃんが大人気の今、彼もまた別の顔を見たいわ。
で、そもそもあおいちゃん扮するみすずが新宿のジャズ喫茶を訪ねたのは、その将君扮する亮が妹の前に久しぶりに現われ、その店のカードを渡したからだった。ある日、母親が兄を連れて出て行って以来だった。つまり、みすずは母親に捨てられたのだ。
みすずが引き取られた叔母の家では、「やっぱりあの女の娘。血は争えない」などと蔑まれ、彼女は居心地が悪くて、孤独にさいなまれていた。
でも……みすずがどう夢想していたのかは知らないけど、連れて行かれた兄も決して幸福じゃなかった。母親は男に頼りっきりの酒びたり。彼が言い寄ってくる女を拒絶しないのは、決して“血”ではなく、そんな母親に対するアテツケだったのかもしれないと思う。俺は、お前の息子だからな、と。
でもこの母親も、みすずを引き取った叔母夫婦も顔を見せない。彼女たち若者の話に集中するためかもしれないけど、なんか彼らに正義を持たせる安易なやり方のようにも思えて、切実感が飛ぶのも事実なんだよね。こういうカワイソウな境遇の彼らが必死に生きているんだよ、みたいな。
やっぱり、大人になっちゃったからさ、私。顔の隠された大人にひとことでは言えないフクザツな事情があったんだろうなとか、思っちゃうわけ。こんな風に隠されると余計に。
それだったら鬼のような顔を一発バーン!と出してくれた方が、彼らの純粋な物語に没頭できたのに。
仲間は他にも数人いるんだけど、正直印象に残るのはみすずと運命をともにする岸と、兄である亮ぐらいなもんである。
もったいないんだけどね。ラストクレジットで“芥川賞を受賞し、精力的に作品を発表……”などと後付けされるタケシ役の柄本佑なんて、興味深い役だよ。解説上では“積極的にデモに参加”とされてる、そうだったかなー?ぐらいな感じ。
お調子者でムードメーカーのヤス(松浦祐也)だの、 けんかっぱやい肉体派のテツ(青木崇高)なんて、まあ頭数はそれぐらいいたけど、そこまでキャラ分けして頭に入ってこないし。バーの場面や夜が多いので、仕方ないんだけどずっと画面が暗くて、キャラの判別がしんどいし。
というか、このキャラは、みすずが彼らの仲間に入った時、タケシがひととおりみすずに解説したマンマで、その後、そのキャラが生かされてどうこうって感じは正直なくてワキでさらっと流され、すぐに亮や岸の描写にシフトしちゃうからなあ。
その当時の時代性にも適度に目配せしちゃうからだと思うけど。「ツィッギー様様だよな」などとタケシが鼻の下を伸ばすミニスカートの流行とかさ。こんな記号的なこと、わざわざ解説的に入れなくてもいいのにとか思っちゃう。
ま、「あの時代」がもっとも似合う女優、あおいちゃんはそんな当時のミニスカもバッチリ似合うのだが……ちょっと細すぎかな。
でもこういう風に台詞に示したり、ことさらに映したりしなくても、みすずがミニスカはいてるだけで充分じゃん。こういうあたりが無粋というか、クドいんだよなあ。
まあだから……男は影が薄いんだよね。それは岸も含めてかもしれないとさえ思う。最後に、この仲間たちの消息が示されるのね。ありがちな形態だけど。消息不明の岸は死んではいないだろうけど、その他全員、死んでんのよ。なにもここまで殺さなくてもいいじゃんと思うぐらい、とってつけた理由で。
作家として活躍してたのにガンで、とか、車椅子で旅行中にひき逃げ、とか。で、女はみすず含めて二人なんだけど、二人とも、生き残ってる。女は強し、ということを言いたいのかもしれんが、あまりにもワザとらしすぎる。
そしていよいよ、三億円強奪である。ある日、岸は思いつめた表情でみすずをラブホに誘う。「カン違いするな。誰にも聞かれたくない話をするからだ」と彼は言うけど、やっぱこの、ラブホというのはそれなりの意味があると思うわけ。ま、気持ちの問題だけで終わっちゃったけどさ。
岸は、確実に世の中を変えたいことをみすずに語り、「お前が必要なんだ」と言う。
それ以上の意味はないと岸は言うけど、みすずは「そんなこと、初めて言われたから」と感激し……つーか岸のことが好きだから、この計画にノるのだ。
ここまで、確かにじっくり描かれてはいるんだけど、やっぱり正直、この三億円強奪計画を表明する場面では唐突感は否めなかった。
まんまと三億円をせしめた後、岸は通し番号が控えられていたと報じられた500円札を送りつけて脅迫するけれど、通し番号が控えられていなかったら、ただの強盗で終わってたじゃん。
それともやっぱり、全て岸がその立場で情報を得ていたのかなあ。ボーナスを積んだ現金輸送車のルートも、そのお札の番号が控えられていることも。
だとしたら結局やっぱり、岸が政治家の息子っていうおぼっちゃんだから得られた情報なんだよね。だから最初から彼は、掌の上で踊らされていただけなんだ。
彼だけが、ヤサグレた仲間の仲で違ってた。東大生で頭が良くて、エリート。なぜここにいるのか不思議だった。
仲間たちには、思想があったわけじゃない。タケシは作家になりたいというのが第一で、その糧としてデモに参加していたんだし、他の皆も面白がって見物して、衝突に巻き込まれたってだけ。
でもそのあやふやさが命取りだった。お調子者のヤスは警察に捕まってリンチを受け、足がダメになってしまった。
そのことが、きっかけになってしまう。言ってみれば、全然本気じゃなかったことから発生したことが。このあたりも弱い。関係ない弱い者を巻き込んだという憤りなんだろうけど、意志を持って巻き込まれたんじゃないならやっぱり弱い。それに、その設定自体、時代性には関係ないし、逃げ腰だって気がする。
「角材を振り回したって、何も変わらない。俺は頭で勝負したい」
仲間たちへのリベンジも含め、岸は体制への挑戦を決意する。でもそんな具合に本気じゃないのに巻き込まれたという形にしてしまったため、あの時代の若者の熱さはさらっと回避されてしまった。これじゃあの時代の意味がない。“初恋”に集中したかったのかもしれないけど、ならばあの時代にする意味はない。
決行の日は色々とトラブルがある。まず、雨が降った。雨天決行。
前を走るトラックから外れたシートがオートバイのタイヤに絡まった。それでもみすずは諦めず疾走した。
計画より時間は押してたけれど、輸送車は彼女の目の前に現われた。「うそ……」とみすずは思わずつぶやく。まさに、運命。
後にみすずが、「間違えちゃった。爆破しましたじゃなくて、爆破されましただった」といった些細なミスはあったものの、豪雨の中、見事三億円強奪を成功させるのである。
でも、強奪しただけでは、彼らの中で終わらなかった。
別荘地に行って、どこでも買ってやるよなんてはしゃいだりした二人だけど、この時が終われば会えなくなることは知っていたし、それに何より、この強奪事件は世の中を変えるために行ったんだもの。
そして、やっぱり、そう簡単に世の中は変えられやしない。そして恋の感情はあまりに純粋すぎて、赤子の手をねじるようにその間は引き裂かれてしまうんだ。
大人になってしまったから、そんな永遠のピュアは信じられない。みすずがいつまでも待つと言っても、彼女はどこかの時点できっと愛する人を見つけて、子供をもうけて、それなりに幸せな人生を歩むんだと思う。
彼女はきっと、心の中では永遠に岸を忘れない、と思ってるだろうけれど、そんなこと言ったら、誰だって初恋の人は忘れないもの。
岸は消息不明になった。確かに彼はとらざるをえない選択だった。協力してくれたバイク屋のおっちゃんが見せしめのために殺されてしまい、みすずの命も危険にさらされていた。
世の中を変えることよりも、愛する人を守るために永遠に彼女と会わない選択をした彼は、そりゃ哀しい。そりゃ切ない。
でもね、そこに思うのはそうした恋のはかなさや切なさより、人一人が世の中を変えるなんて、やっぱりそう簡単には行かない、ましてやこんな青二才が、っていう虚無感なのよ。それにこう言っちゃなんだけど、これで岸は全ての枷から解き放たれたんだもの。みすずを置いて。
そうしたやりきれなさを感じそうになっても、ここの時点ではセツナ系に物語の流れがいってて、みすずは岸の書き残したラクガキを見つけて落涙してるし、なんか、ちゅうぶらりんで終わっちゃうんだよね。
こういうところが、バランスの悪さだと思うのよ。
“「大人になんかなりたくない」まっすぐな目でそう言った少女に僕は恋をした。一生に一度の恋だった。”
「初恋」は、彼にとってのそれだった。本当は彼だってまだまだ大人じゃないのに、彼女の隣にいる時は大人でなくてはいけなかった。彼女に触れたかったのに。
その辛さをここだけで明かして二人でいる時に描写しないのも、もったいない気がするよなあ。
キモの現金輸送車強奪までも長いんだけど、この後も長いのがツラいんだよね。そこがヤマだと思ってるから、さらに続く部分が長いってのがツラい。
つーか、素直に感銘を受けられない私がいけないのかなあ……やっぱり。★★★☆☆
今回ばかりは小林作品だからということではなくて、どういう気持ちになるのか、ちょっと、怖かったから。あの時私は、勇気を持てなかった。
その頃のことは「華氏911」の感想を書いた時なんかに散々書いたんで割愛するけど、それにまあ、あの時二度と行けないと思った居酒屋にも同じ相手とその後しょっちゅう行ってるけど、あの時、絶対おかしい、間違っていると思ってたのに、それを言えなくて、凄く落ち込んだから。
そしてその後、その人とはそういうシリアスな話題は避けるようになってしまった。いつもあたりさわりのない世間話に終始してる。
会社でね、皆が話してるじゃない。あれは自己責任だろー、みたいに。絶対違うよと思ってるのに、じっと黙ってやり過ごして、反論できなかった。そんなことで意地になっていづらくなりたくなかった。クビになるまでは思わなくても、それもありえかねない排他的な雰囲気が怖かった。
でも、“そんなこと”じゃないのに。直接関わりあう人間じゃなくても、私は、この作品で主人公家族をハブにする人たちと同じことしてたんじゃないかと思う。
ようやく溜飲を下げられると思ったけど、あの時の絶望を思い出してただただ沈むばかり。
ただ、これはフィクションである。役名も違うし、家族構成も違うし、実際にモデルになった彼女のその後を取材したわけではない(よね?)。
彼女自身をモデルにするならばドキュメンタリーとして撮ればいいわけで、って私もエラくカンタンに言ってるけど。そうじゃなくて、あの事件から時を待たずして作品を送り出す重要性と、フィクションにすることの意味が、ここにはあったと思うんだ。
“あの事件から待たずして”ってあたりは、制作、カンヌへの出品ではなされたものの、肝心の自国での公開では遅れまくったのは歯がゆいところではあるんだけど……。
でもフィクションなんだ。そのことと、あの“事件”に絶望した自分を、どう折り合いをつけたらいいのかと思いながら観ていた。あの時いろんなことを考えて、人間不信どころか日本人不信ぐらいに陥ってしまったから、この作品を観る自分の位置づけが、凄く難しかった。
これはあくまでフィクション。そう思っても、あの時の日本や日本人への絶望をどうしても思い出しちゃうし、この作品も当然、それを前提として語っているんだもん。
それは本作が、彼女にどんな非難の嵐がふりかかったのかを、さして説明せずに突入してしまことも関係してる。
正直な印象では、物語は全く動かない。あんなことがあった彼女が陥るであろう想像の範囲内で、閉塞的な片田舎での、村八分の状況が停滞したままである。だからこそ、追いつめられていく彼女の、そして家族の気持ちがキツい。
フィクションとはいえ、あの彼女をモデルにしているんだから、誰もがあの時起こったこと、その後のバッシングの嵐を知ってる。だからこそのはしょりである。でもそれは、フィクションという前提をくつがえしてしまうし、海外で公開された時に、どれだけ理解してもらえるのかなという危惧もある。
ううん、そんな小難しいことではなくただ……思い出しちゃったのだ。そのことで、自分が忘れようとしていたことに気づいた。
劇中にヒロイン、有子の若い継母が「待つのよ。時間がきっと解決してくれる」と言うシーンがある。あの時、居酒屋で上司とケンカした私も、そうなってくれるのかなと思ってた。
でもどうだろう、今の現状は。ただ、あの時のことに関してモノを言わなくなっただけじゃないの?あの時のバッシングはおかしかったと認める人は、ほとんどいない。ただ過去のこととして、静かにやりすごすだけ。
あの事件の後、イラクで拘束され、首を切られて死んでしまった香田さん。
“自己責任”の嵐が吹き荒れた後だから、彼の親は何を言うことも出来ず、積極的に政府に助けを求める言葉も言えずに小さくなるばかりで、そして彼は殺されてしまった。そしてあの総理大臣は、遺憾に思う、と言っただけだった。
おかしいよ、おかしいよね。今、なんのトラブルもなかったかのように、ぬくぬくと任期を満了しようとしているあの総理大臣に、辞めてからでいいから、本当の気持ちを聞きたい。
映画から離れた部分でガタガタ言っちゃったけど、そう、これは基本的にはフィクションなんである。
実際、高遠さんはどうしてるのかなあ、と思って検索してみたら、彼女のブログに行き当たった。今でも信念を失わず、しっかりと活動してる。映画で再現されたフィクションの彼女より、ずっと強い人だった。カッコよかった。なんかホッとした……なんて無責任だけど。
あの時、三人の中で、ただ一人の女性である彼女が一番攻撃されていた。女がエラそうに、イイふりこくなと言っているかのように。
そして本作では、人質になったのが三人、というのはフィクションだから特に取り上げられず、彼女と彼女の家族が理不尽に排除されていく様子が、寒々しい冬の苫小牧の、ひと気のない中に点描されてゆく。
当時の高遠さんはいくら世間から非難されても、彼女を支持する団体や組織はあるわけだし、こんな極端な状況ではなかったんじゃないかとは思う。
ここでデフォルメされている有子のキャラは、「今まで何も上手くいかなかった、友達もいない、今、皆から嫌われている、イラクでしか自分の居場所はなかった、妊婦の手を引いたりするだけで喜ばれた、子供たちに日本の駄菓子を持っていくととても喜ぶの、抱きついてくるの」等々という表現の仕方で、フィクションとはいえ、高遠さんの活動や彼女自身の信念を薄めているような気が、正直する。
ただ、そう、これはフィクションだから、そんな違いに引っかかるのは無意味だし、フィクションだからこその意味があるんだよね、と思いつつ……あの“事件”があまりに強烈だったから、そこから離れて考えるのが難しくて。
でもそうだ、演じた占部房子が言うように、これは家族の物語ってことなのかもしれないね。
彼女も、カンヌであの事件のことばかりを聞かれて驚いたと語ってた。自分はそこに重点を置いて演じていたんじゃないから、と。
彼女の、おもっきし到達してる、顔面ビクビクの演技はスゴかった……。
ここで描かれるのは、有子のことを応援してくれていた父親と、彼女と10も違わないであろう年若い継母である。この父親は娘のことで本社にクレームがひっきりなしだという理由で不当に解雇され、酒びたりになり、自殺してしまう。
ちなみにこのシーン、外から帰ってきた有子が部屋にいない父親をいぶかしむ表情をすると、あいている窓から入ってくる風でカーテンが揺れてる。ベランダに出た有子、カメラがベランダの外の海にパンして、彼女が静かに窓を閉める場面で暗示される。
私は叩きつけられた遺体か、部屋でぶら下がっているのなんかを映し出されるんじゃないかってハラハラしたけど、そんな場面は映されず、有子と継母二人だけがぽつんと読経を聞いている葬式の場面に移るんである。
ところで、この有子のキャラは追いつめられているとはいえ、ちょっとビミョウというか……観客にまず距離を与えるんだよね。
ラブホの清掃員のバイトをクビになった彼女、コンビニでおでんを買い求める。数種類のおでんだねを全部別々の容器に入れて、それぞれにひたひたにつゆを入れろというんである。
いや、確かにどう注文しようと自由なんだけど、観客に有子に対してイラつかせる意図があるのが明白なんだよね。
彼女が何者かに気づいたワカモンたちが、店の外で彼女の買ったおでんを踏みつけにする場面はヒドいけど、この描写はまず、彼女自身の、他を考えない自分勝手さを強調してる。そしてそれが父親の言う、世間的にはボランティアは自分勝手なことをやってると攻撃されるだけだ、という台詞につながり、それは、日本人として日本で暮らすんならマナーを守って大人しくしてろよ、ということを言わせるキャラ設定みたいで、見ててちょっと……キビしいんだ。
こんな事件が起こる前までは恋人同士だった、市役所職員のカレと会う場面がある。この半年間、有子は彼と会うことを拒み続けた。このバッシングの嵐の中では、とてもそんな気になれなかった。
どうせ別れ話でしょと言いつつも突然会う気になった有子は、クビになったりイタ電がかかってきたりと辛いばかりの生活の自分を、どっちの方向でもいいから振り切ってほしかったのかもしれない。フラれるならフラれるでいい。この関係もハッキリさせておきたい。
でも彼の口から出た言葉は、彼自身の言葉じゃなかった。「お前、皆に迷惑かけたの判ってんかよ」「皆って何」「皆だよ。国の皆に迷惑かけて平気なのかよ」
彼の言葉は、当時席巻していた世間の言葉そのままなのだ。強圧的な世間は、人間が自分の頭で考えることさえ、失わせる。
“国民に迷惑をかけた”女を恋人にするのがイヤなんだろう。
彼女だって国民なのに。
彼女は「あなたの言葉とは思えない」と言う。そうだろう。この手の言葉が、あの時日本中に蔓延してた。こんな言葉、言いそうにない人も平気で口にした。国の皆って、どんな立場に立って言えるというのか。
あのトンデモ総理大臣から出てくる言葉だっただけなのに。国民に迷惑をかけた?そう思わされただけなのに。
直接自分に迷惑がふりかかってるわけない。普段は何も考えないくせに、こういう時だけ、自分の払った税金がどうとか言い出す。いや、言わされる。
国民って、同じ国民なのに。問題を起こさずムダに生きてる“国民”を生かすために、“自己責任の欠けた”“国民”を助けたことがムダだという、あの時の日本に、絶望した。日本人がキライになった。日本人である自分が恥ずかしかった。世界から見たら、絶対、おかしかったはずだもの。
監督は、“聖母マリアではない”生身の人間としてのヒロインのキャラ作りをしたという。ただ清いヒロインでは動いていかなかったからと。それにしてもあのおでんの描写は形作りすぎだとちょっと思ったけど……。
有子の父親が死んだ後、コンビニにおでんを買いに来た有子に、店員は冷たく言い放つ。
「自分の父親殺しといてよく平気だな。二度と来んな」
そこで、はっと気づいた。あくまで、おでんで形作ったキャラは、観客の注意を引いたに過ぎなかったんだ。
この程度のこだわりで、彼女へのバッシングを容認するきっかけにさせようとするなんて。父親を殺したのは、追いつめた周囲だ。でもそれさえも、娘の勝手な行動のせいだと、周囲は勝ち誇ったように言う。父親は娘を応援していた。こんな事態になっても、そのことは曲げなかった。ただ、周囲からの圧力に耐えられなかった……。
年若い継母の典子は、有子に冷たいというわけではなかった。夫の考えに従って理解ある態度をとってた。でも、打ち解けられなかった。
父親が死んで、初めて本音で対峙する二人。父親の保険金で、イラクに戻りたいと言う有子に典子はキレ、あの人を返してよ!」と有子に殴りかかる。
でも、この時、有子は初めて典子を、お母さん、と呼んでいたのだ。
そして典子も、今までは有子さん、だったのが、初めて有子、と呼び捨てにした。
そして、二人、涙顔で笑いあった。
イラクへ行く旅準備をした有子は、故郷の海を見つめながら、泣き顔ながらも穏やかにスイッチしていく。
それまでの有子は、表情があまりにこわばっていたのね。もう、ビクビクと引きつってた。アルバイトをクビになった時や、恋人に冷たい言葉を浴びせられた時や、おでんを断わられた時や、お父さんのお葬式の時や……。
そう、こんな場面もあった。やることもない有子が、帽子を深くかぶってメガネかけて本屋に行く。店から出ると、学生時代の友人と思しき二人に行き会う。二人とも子供を連れている。
「有子も結婚すればいいのよ」「ダメよ。有子は私たちと世界が違うんだから。ずっとあの活動続けるんでしょ?」「あの彼氏は?別れたの?」「彼、カノジョがいるのよね」「ゴメンね、ヘンなこと言って」
有子だって小さな子供に安らぎを覚えて、その柔らかな肌をつっついたりして笑顔を浮かべてたんだ。それなのに……。
これは子供を持たない女のヒガミの見方なんだろうけど、子供を生んだ女は、凄く勝ち誇ったように見えるの。
そう、あの台詞、一見ホメてるように聞こえる“私たちと世界が違う”は、“アンタとは住む世界が違うのよ”という侮蔑に他ならないのだ。
それに気づいたから、有子は黙ってその場を去る。
ノンキにお茶なんかする気にはとてもならない。
物語の最後、有子は、飛行機の予約を入れ、イラクに戻ることを決意する。
「この国じゃ、皆が怖い顔してる。私も、怖い顔しているんだと思う」
それを聞いた典子は、「私も怖い顔していたのかもしれないわね」とぽつりと言い、「お母さんって言ってくれて嬉しかった」と言い、餞別を渡して彼女を送り出す。
本当は、愛しい相手を共有する二人の関係を、もっと掘り下げてほしかったけれど。だって二人は、この時点で一番大切な人を失った同志なんだもの。
でも、そのあたりのストイックがいいのかもしれない。
有子の決断を逃げだというんならそれでもいい。逃げた先に、本当に生きられる道があるなら、それでいいと思う。
自分が生きられない場所に、居続ける義務はないもの。
“自己責任”に対する反論が出来ないまま、自己嫌悪にさいなまれていたけど、その後、久しぶりに会ったねーちゃんと、あれはおかしいよねと意気投合できたのが、嬉しかった。
あの風潮をそのまま思っている人ばかりじゃないよ。
そして、今やっと、自衛隊がイラクから撤退した。★★★☆☆
まあでも、確かにこのコはウマイし、篠原涼子が出ているとなったら観ないわけにはいかないし、更に言うとこれは私の好きな「少年の永遠の夏休みモノ」であったりするので、割と喜んで観てたりするんである。幽霊っていうのも、夏休みの少年の、センチメンタルには必須アイテムだしね。
ことに大好きな人たちが幽霊になって現われる日本の夏休みモノは、きゅんと切ない秀作映画が数多くあるのだもんなあ。
これ、原作コミックスは未読だけど、深夜にアニメになっていたのは何度か観たことがあって、実はちょっと好きで、今回の実写映画化は気になっていたりしたんであった(爆。素直じゃない私)。
「ALWAYS」とはうってかわって、ワンパクでクソガキな一路を演じる須賀君にも大いに満足する。あの一路を「ALWAYS」のあの子が、っていうのはイメージ沸かなかったけど、予告編で充分にトバしていたから期待はしてた。
そして、やっぱり素晴らしい篠原涼子。キレイな彼女が、こんな肝っ玉母さんがビシッとハマってわざとらしさがないんだから、やっぱり彼女はスバラシイんである。
それに本作、ギャグが非常に映えていたのが良かったな。特に前半は、絶妙の間で笑いを取る場面が目白押しで、ことに須賀君はそのあたり実に達者にこなすので、何度も爆笑させられてしまうんである。
決して裕福ではない、この花田家。見るからにアナクロなテレビに対する、伏線張りまくりのギャグが一番好き。
冒頭、一路はこのボロテレビを母ちゃんのギターでぶん殴ってしまう。「よくも私の、青春の遺産をー!」ってことで母親と一戦交える。一路はネコを人質に、いやネコ質に臨戦態勢。
母ちゃんの構えたほうきには電気コードとスイッチがついてる。「掃除機を買えばいいだろ!」とツッコむ一路。「これがユーモアってもんなんだよ!」
そこへトイレから出てきたじいちゃん、「ちゃんと手を洗ったの?」「洗ったさ」ニッコリ笑ってじいちゃん両手をベロリとなめる。ひえっ。
とまあ、ここまでのリズムに何度も笑わせられるのだが、この場面が伏線となり、幽霊が花田家の居間でバトルになってテレビが粉々になってしまった時、呆然と見下ろした一路が「母ちゃん……テレビ買って」とやけに切なげに言うもんだから、この冒頭のワンパクぶりの伏線が効いていて、もう大爆笑。
かようにギャグに関しては、枚挙にいとまないほど秀逸なんだな。
須賀君は、本当に間がウマイのね。幽霊を見て脱力気味にエヘヘヘ……と笑ってしまうトコとか、「俺も幽霊見た……のかな?」と皆に相手にされないと自信がなくなって引いちゃうところとか。子役らしい素直さと、天性のカンがあるんだなあ。
冒頭のシーンから外へ飛び出した一路は、友達の壮太と自転車で山へと向かう。豊富な自然が残るこの地で育った一路、慣れた風に木にキックかませば、リッパなカブトムシがぼとぼと落ちてくる。なるほど、こんな土地で暮らせば、こんなスナオなワンパクも育つってもんである。
一路はしかし、山から降りてきた出会い頭の道路で、猛スピードで走ってきたトラックにはねられてしまう。
このトラックのおっちゃんはトンネルの中で女子高生の幽霊を見てしまい、それを振り切るようにトンネルから走り出てきたのだった。そしてこの女子高生の幽霊に、一路は天国に行こうとするところをぶん、と地上に投げ返される。
「人をはねちゃうトラックのおっちゃん」を演じる六平さん、やはり幽霊モノであった「ふたり」でも同様のキャラだったのよねえ、と関係ないことを思い出したりする。
さて、この女子高生、名前を香取聖子と申しまして、実は一路と深い関わりがある。というか、一路の両親と。
彼女を筆頭にゾクゾクと現われてくる幽霊たちによって、大人の切ない事情ってヤツが明らかになっていくんである。
この聖子の幽霊、何年か前からトンネルに現われるようになって、しかも最初は指をくわえた少女だったのがだんだんと成長を遂げていた。そして今、セーラー服を着ているのは実は大きな意味があったのだ。
聖子のおかげで息を吹き返した一路、っていうこの場面も爆笑。意識レベルが低い一路に「覚悟してください」と女医が神妙な顔で母ちゃんたちに告げ、手術室に入っていこうとする……と!一路、ガバッと起き上がるんだもん!
これはクライマックス、本当に一路が死にそうになり、心電図もピーと真っ直ぐになってしまった場面でも、「一路ー!」と突っ伏しそうになった母ちゃんを交わすようにガバリと起き上がるシーンがある。
こーゆー、繰り返しギャグってのはね、重要なのよね。一度目があるから二度目は思い出し笑いも含めてより笑っちゃう。また須賀君のバネのあるタイミングが絶妙なんだよなあ。
と、話がそれてしまったけど。次に一路が見た幽霊は、突然死んでしまった吉川のばあちゃん。一路に愛犬を託す一方、両親の、特に父親の抱えるヒミツに苦悩する一路に、過去への案内人となってくれるんである。
この吉川のばあちゃんを演じるのがもたいまさこで、キッタナイ離れの便所の便器からぬうっと現われるトコなんて、似合いすぎて、って……似合うなんて言っちゃうのもアレなんだけどさ。
一路の父ちゃんはね、なんか街の漁師たちからつまはじきにされているのだ。以前は父ちゃんも漁師だったらしいんだけど、今はタクシーの運転手をしてる。それを昔の仲間たちは冷ややかな目で見ている。
……というのには理由があって、父ちゃんが漁師をやめた理由は、昔々、嵐の夜に漁に出て、一緒にいた親友が死んでしまったことにある。それを、仲間たちは、彼を見捨てて自分だけ逃げ帰ってきたんだと、口さがなく言っているってワケなんである。
ちなみにこの死んでしまった親友というのは壮太のお父さんであり、今、壮太はお母さんの再婚話に揺れているんである。その相手というのが、クラスのワンパク女子、桂のお父さんだから。
あ、この桂ちゃんと一路の、ガキ大将を巡るバトルがまた、イイのよねー。この年頃はまだ女の子の方が身体が大きいから、一路が幽霊の聖子にジャマされている間に、見事な回転ドロップキック!
彼女もまた父子家庭で、しかも一路がウッカリ口を滑らしたところによると、看護婦のお母さんは患者さんと一緒に逃げてしまったらしく、かなりトラウマがあるようなんである。
父子家庭だと、食事の用意なんかもお父さん、なかなかうまく出来なくて、彼女の唯一の好物は壮太のお母さんの勤める肉屋さんのハムカツ。そこで二人は出会ったに違いないのだが、彼女がこんな辛いトラウマもあって、新しいお母さんなんかいらない!とつっぱねる気持ちが、痛いほど判ってさあ……。
壮太のお母さんの手作り弁当も突っ返しちゃったり。その間でウロウロ困っている壮太がまた、カワイイのよね。
壮太だって、大好きなお父さんを忘れたくないし、すっごくフクザツに悩んでいるのだ。それが感動的に解決されるのが運動会の日。壮太は障害物競走で「お父さん」のカードを引き当てて、逡巡していた。
聖子に言われて壮太のお父さんに身体を貸してやった一路、「お父さんじゃない人を、お父さんって言っても、怒らない?」と涙ながらに言う壮太に思わずもらい泣き。
「そんなこと、気にするな!広い心を持つんだ。お父さんはいつもお前と一緒に走ってるよ」
その言葉に後押しされ、まっすぐに、桂のお父さんに向かって走る壮太。しゃくりあげながら、「おじさん、お願いします」彼はこの敬語がカワイイのよねー。驚く桂のお父さん、カードを見て、一瞬驚き、そして慌てて、だけど嬉しそうに、「よし、判った!」あーん、単純だけどちょっと感動。
そしてその場面を桂のお父さんの替わりに、ビデオにおさめてやっているのが一路の父ちゃん。一路の父ちゃんは、あの海難事故から生還してから、なにくれとなく壮太親子を見守ってくれている。それが親友の遺言だったから。
父ちゃんは、周囲から何を言われても一切弁明しない。でも一路から、「父ちゃんは人を殺したんか!?」と問われた時だけは、ハッキリとこう言う。「誰が何を言ったのか知らないが、父ちゃんは一路や母ちゃんに恥ずかしいことだけはしていないつもりだ」
一路がこの台詞を言った時にはまだ全ての事情が判ってないから、あまりに突飛で思わず吹き出しちゃったんだけど、実際仲間たちからは人殺し扱いされていたし、海難事故のことを壮太が漁師たちから聞いてしまって、一路を激しく拒絶するんである。
一路がこんな考えに頭を悩ますようになったのは、またしても現われた新たな幽霊、沢井の吹き込みによってであった。あの男はヒドイヤツなんだ。実は一路はボクの子供なんだよ、と。
この沢井を演じるのは北村一輝。実際はヒドい逆恨みで、彼こそ、バブル時代に調子に乗った悪徳弁護士だった。こーゆー役をやらせると、ヤラしい程にピッタリくる北村一輝っ。
で、このあたりで、一路は真実を知るために、吉川のばあちゃんと過去へとスリップ。
そこで明かされる、若き日の両親、聖子や沢井との関係、そしてあの海難事故。
さる資産家がお妾さんに産ませた子供だった一路の母ちゃん、その遺産に目をつけて母ちゃんに近づいた沢井、母ちゃんにホレていた父ちゃん、そして沢井の娘であった聖子、という図式。
聖子の身を案じて、彼女を預かることになった母ちゃん、そして父ちゃんと共に過ごした時間は聖子にとって生まれて初めての楽しい時間だった。その後、やむなく沢井に返されることとなり、病気なのをほっとかれた聖子は幼い命を散らしてしまう。
そして同じ時、沢井もまた交通事故に遭って死んだ。バブルがはじけて首が回らなくなっていた彼は、母ちゃんが遺産相続を拒否し、父ちゃんと親密になったことで、父ちゃんを逆恨みして死んで、悪霊になったのだった。
唯一、自分を大切にしてくれたこの二人を守るために、聖子もまた幽霊となって一緒に田舎についてきて、トンネルに住み着くようになるんである。
幽霊ながら徐々に成長し、やっと着られるようになったセーラー服は、母ちゃんからもらった、聖子の大切な宝物だった。
そして一路は、あの海難事故の時に何があったのかも、その目で目撃することになる。
ギリギリまで壮太のお父さんを助けようとした父ちゃん、でもどうしようもなくて。親友から、二人一緒に死んでどうする、と叱られた。大切な家族を投げ出すわけにはいかない、と父ちゃんに託す言葉を残した時、船が大きく転覆し、彼の姿は水中に飲み込まれてしまった。
なんてやりとりがあったことを、父ちゃんはひとことも言わなかった。ただ、すまない……と泣きながら頭を下げるだけだった。そしてその時から壮太親子の面倒をさりげなく見るようになった。
そして、あの時を思い出させる事態が発生。沢井が桂のお父さんにとりつき、父ちゃんを連れて嵐の海に船を出してしまったのだ。
嵐の怖さはアイツが一番よく判ってるだろ、と皮肉交じりに言って助けに出ようとしない漁師仲間たちに、壮太のお母さん、涙が込み上げながらもキッとなって、必死に、必死に、こう言う。
「あの人を見捨てたと、あなたたちが思っているんだとしたら、大間違いです。大路郎さんは何も言わなかった。でもだんだん判ったんです。あの人は大路郎さんと一緒に帰ってきたんです。壮太のランドセルも、みんな大路郎さんが買ってくれたんです」
この時の、中島ひろ子の涙をこらえながら振り絞るシーン、ちょいと泣けたなー。
まあでもね、当然だけど、過去をその目で確かめることは出来ないんだよね。どんなにコトバで説明しても、言い訳にしかならないことが判ってるから、父ちゃんだって何も言わなかった。
だからこれはつまり、これは大人の願望なんだよね。本当は実際のところをタイムマシンに乗ってでも、その目で確かめてほしい。オレは後ろめたいことはやってないんだあ!っていうね。
本当は、子供にとっては大人のやんどころない事情なんてどうでもいいことだと思うんだよな。彼らが父ちゃん母ちゃんが大好きで、信じていればそれでいい。
わけにはいかないのが、人間社会の愚かで哀しいところってコトなんだけど。実際にこうして過去に行って確かめるワケにもいかないしね。
果たして最後は、荒れ狂う嵐の海でのバトルである。沢井と聖子が相対する。「情けない……あんたみたいなヤツが親だなんて。まだ判らないの?私、聖子よ」そして「もう、やめよう。一緒に成仏しよう」一瞬、心が緩んだ沢井に突進した聖子、「地獄に落ちさらせー!」そう言ってしっかと抱き合い、スパークする。
この台詞には、そりゃないよと思ったけど……まあ地獄に落としても問題ない男ではあったけど、やっぱりこれが現代の、様々にヒドイ親子関係がある時代には仕方ない決着なのかなあ。
でも、本当に沢井のこと、地獄に落としたんだろうか。あんな台詞は言ったけど、この父親をしっかりと抱擁する形でスパークしたから、台詞とはうらはらに……と思いたい。
そして聖子は一路に別れを告げ、ゆっくりと海中に沈んでゆく……幼女の姿に戻りながら。
しかしこのキーパーソンとなる聖子を演じる安藤希は相変わらずイマイチ下手くそで、何で彼女がスクリーンで何気に使われるのか、私にはイマイチ判らん。相変わらず聖子泣きだしさ(まさしく!)。
そしてガバッと意識を取り戻す一路。お姉ちゃんが、「泣いて損した」とつぶやくのが可愛くてね。
このおねえちゃん、紺サージのジャンスカにメガネ、いつも本を片手にクールで、いかにも反抗期の可愛くない女の子なんだけど、そこがね、カワイイのよ。
このクソガキの弟のことももちろん両親やじいちゃんも大好きなんだけど、まだまだスナオになれないお年頃なのよねー。
最後、とーちゃんは漁師に戻る。うんうん、そうだと思ったよ。嬉しいね。そして一路は、壮太、桂と一緒に、自転車で山に向かってる。ノロい壮太に向かって桂が、「遅い!」と一喝すると、「すみません!」と謝る壮太がカワイイ……同い年なのに、すっかり姉、弟の順列って感じである。
そうそう、ここも大団円で、再婚はうまく行ったらしく、仲むつまじい家族写真がラストに現われるんである。いや、良かったね。しかしこの嵐の海から生還する場面で、沢井にとりつかれた桂のお父さんと一路のじいちゃんは、すっかり場面の外に置かれて、どうなったんだかって感じだったけどさ。
一路は、トンネルに花を供えに行く。聖子姉ちゃんとまた会えるよね、と。と!何か不穏な空気が……悲鳴をあげて一路が走り出す。このトンネルに巣食っていたのか、無数の幽霊が一路に助けを求めて追いかけてくる!
とゆー、とっても夏休み映画らしい結末で、割と私は満足したのであった。
須賀君と篠原涼子がとにかく素晴らしかったしね!あ、父ちゃん役の西村雅彦にも案外泣かされちゃったし。
いやいや、彼に関しては笑わせられる場面の方が多かったかしらん。またウマイのよね、彼はさすが、そういうコメディ演技が。★★★☆☆
フィクションとはいいつつも、赤穂浪士の討ち入りの直前であり、その赤穂浪士たちが舞台となる長屋に潜んでいるという、歴史上の事実を遊び心で取り入れてもいる。でもその存在は、これまでの時代劇で描かれていたように、忠誠心や義侠心が大前提になっていないあたりがミソである。
そもそもこの物語は主人公のへなちょこ侍の、果たせずに終わるあだ討ちの話であり、全編、あだ討ちとはなんぞや、その是非についてさまざまに問われる。その中の一つとして、この歴史上の事実である赤穂浪士の討ち入りが取り上げられ、「寝込みを襲った卑怯なあだ討ち」として片付けられちまうんである。
歴史にとんと疎い私なので、こんな解釈にもへー、そうなんだとカンタンに思ってしまうんだけど、これって元々、そういう見方もあったの?なんにせよ、ここに紛れ込んでいる数人の赤穂浪士たちは、そろいもそろってアホっぽくマヌケで、歴史ファンに対しては、結構挑戦的な描き方なのかなあ。
まあ、赤穂浪士はどうでもいい。主人公は、父を殺した男を追ってあだ討ちを果たそうと、田舎から江戸へと出てきた侍、青木宗左衛門である。
これを演じるのが岡田准一で、彼は上手くこなす役者だと思うんだけど、ここではそのキャラがどうも弱いのは……まあ、周りにかなりキョーレツどころが揃っているせいもある。でも一番の原因は、この、ケンカにめっぽう弱くて逃げ足だけはめっぽう早いという、まあつまりはへなちょこ侍が、このやけに端正な顔立ちの彼だと、訴える力が弱いんだよね。
あまりに整いすぎて、ヌケどころがなく、周囲がその腕っ節の弱さや逃げ足の速さを揶揄しても、クスッとこないんだもん。だからこそ彼は、表面上は無敵のキャラである「フライ,ダディ,フライ」なんかはしっくりくるんだけどね。
そしておさえさんとの恋もね……演じる宮沢りえは、時代劇の妙齢美人といったら、今やこの人以外には考えられない。まさにハキダメに鶴なんだけど、岡田准一=へなちょこ侍、が成立してないから、ただ単にお似合いの美男美女カップルになっちゃってて、この二人の間に色々と用意されている、小さな障害があまり生きてこないウラミがあるのよね。
まあ、障害っていうか、二人を運命的に結びつけるといった方がいいネタなんだけど……。宗左はあだ討ちを、本当はしたくないんだよね。
ただ、剛健な父の期待に応えられなかった長男としての自分がずっと歯がゆくて、だから父が自分の仇を討ってくれ、といまわの際に彼に言い残したことが、嬉しかったのだ。
これが父の残してくれた、たった一つの大事な形見。それを自分は果たすことで親孝行するんだと。
お父さんの言葉が嬉しかっただけで、本当はあだ討ちなんてしたくない。侍らしく死なせてやりたかったというのは、通説で言われている価値観をなぞってみただけで、自分はそう思ってないことにうすうす気づいていたはず。
ことの次第を聞いたおさえは、眉を曇らせる。本当にお父さんから教わったことはそれだけだったのかと。憎しみの心だけを伝えられたなんて悲しすぎると。
あだ討ちが正当に認められる世の中、それを果たせば一躍名をあげられ、ふところも豊かになるという時代に、おさえの言葉はあまりに意外だった。
しかし、江戸に出て二年もたつのに、いまだに相手を探し出せてもいないということは、自分の心の奥底で同じようなことを思っていたんじゃないかって、彼は気づいたのかもしれない。
でも一方で、おさえの夫は誰かに殺され、彼女もまた人相書きを持ち歩いていることを、宗左は知るのである。
この人相書きを、忘れ形見の幼い息子が、父の似顔絵だと思っているのが切ない。
彼女、最初は本当にあだ討ちをするつもりだったのかもしれない。でも憎しみの心を抱いていることが、苦しくなっていったんだろうと思う。憎しみの感情に子供を巻き込みたくないと思ったんだろう。
そして同じ境遇の宗左に出会って、自分の気持ちを確認するために、彼をあだ討ちの道に行かせないようにしたんじゃないのかなあ。
という……ま、ちっと長くなっちまったけど、この小ネタがね、いや、小ネタどころじゃない、この物語の根幹をなすテーマともいえるものなんだけどさ。
おさえの秘密を知ったことで、宗左は自分のあだ討ちを断念することになるんだけど、その間に、この貧乏長屋の他の登場人物たちのエピソードが挿入してきたりすることもあって、あまりこれが重く響かないんだよなあ。
メインを最もジャマ?することになるのが、やっぱりねー、って感じの加瀬亮である。彼はいつも独特の重い空気をまとってて、さらっちゃうのよね。
本作では今までのひきずるイメージとちょっと違って、風来坊の軽みを身につけながら、でもその中に閉じ込めているものはやっぱり、重いんだよなあ。
彼の演じるそで吉、この長屋に住んではいるんだろうけど、なんか、あんまりキチンといないっていうか、うん、風来坊って感じなんだよなあ。ケンカ殺法にやけに長けているあたりも、これまでの人生の波乱万丈を物語っている。
宗左にケンカの実践を教える(というか、その名のもとに叩きのめす)シーンで、そで吉があっという間に存在感をグーンとあげちゃう。
長屋のアイドル、おのぶ(田畑智子)は彼にホレてるし、大家が身請けしたおりょう(夏川結衣)がかつて彼とやんごとない仲だったりするし。
おりょうとの運命の再会と、たまらない思いを交わす雨のシーンなんか、もう彼の重い空気感でさらっちゃってさらっちゃって、岡田准一がヘタにイケメンなだけに、加瀬亮の重さに持ってかれちゃうのよね。
まあ、そう言いつつも、岡田准一を引き立てる役割のキャストもたくさんいる。まず、彼に始終くっついてたかりまくる貞四郎(古田新太)である。
テキトーな人間を見つくろっては、宗左の探している仇が見つかった!と彼を連れて行き、風呂代やらくずもちやらをおごらせる、しかしミョーにシャレたカッコしてる、ザ・うさんくさい男である。
でも彼、本当は宗左が見つけるより先に、本当の仇を見つけてたのだ。でもあだ討ちの無為さを彼はリクツヌキの部分で感じてるから、それを宗左にずっと教えないでいるんだよね。案外、宗左に友情を感じてて、彼にムダに命を散らしてほしくないと思っているのかもしれない。
そして、その仇の張本人、金沢十兵衛を演じる浅野忠信である。
彼が登場して、みごもっている妻と血のつながらない息子とともに、穏やかで幸福そうな人生を送っている様子を見せつけられると、それだけで何の説明がなくても、ひょっとしたら語られている事実とは違ったんじゃないか。何かやんごとなき事情があって、宗左の父親を手にかけてしまったんじゃないか、などと観客は、いや多分、宗左も思ってしまっている。
その風情だけでそう思わせてしまうあたりが、さすがスクリーンで存在を刻み続けている浅野忠信である。どっちかっつーと、彼ってコワいイメージの方が強いのにさ。そして、本当は何があったのか、突っ込んではあばかれないあたりが是枝流品の良さ。
まあ、そう思わせるのも、この物語の中で、侍とはなんぞやと、侍らしく死ぬことに執着することへの懐疑を、打ち出しているからなんだけどね。
宗左は、一度里帰りする。江戸で偶然、叔父の青木庄三郎(石橋蓮司)と再会したこともあって……この石橋蓮司がまた、サイコーなんだよなあ。
おさえを目にしたとたん、いやー、あのオクテの宗左がのう、とスッカリ喜んじゃう。「筆の方はどうかの」とおさえに聞くと、おさえはそれが宗左が手習いを教えていることだとカンちがいして、おのぶちゃんも、この子も上手になりましたなどと言うもんだから、庄三郎、目をむいちゃうし……って、下ネタだろーが!
おさえの幼い息子を、どう考えても年数が合わないのに、宗左との息子だと郷里で吹聴しちゃうしさあ。
いやでも、ある程度判ってて、やってんだよね。宗左があだ討ちなんてガラじゃないってこと、この叔父が一番よく判ってて、愁いていたんだと思う。宗左が江戸に帰り際、あだ討ちばかりが人生じゃないぞ、と声をかけて、ニッコリ笑ってきびすを返すんだもん。ちょっとカッチョイイ。
この叔父と対照的なのが、郷里に残っている宗左の弟である。三年もたって仇の目星もつかない兄にあからさまに失望し、「兄上は変わられた」と軽蔑むき出しに言う。
でも彼だって、戦のない穏やかな世の中、侍の価値観が失われて剣術を習う子供たちが減っていることに気づいているのにさ。それが何を示しているかの本質的な部分には目を向けようとしていないのだ。
戦のない時代は更に侍は生きにくい。故郷でも剣術を学ぶ者が減った。それでも侍の美学にしがみつこうとする。その意味を本当に判っていない。
宗左は変わったのではない。全然変わってない。江戸に出て、本当の自分の思いが出せるようになっただけだ。
そしてそんな古い価値観をコミカルに示しているのが、まさに侍にしがみついているといった感アリアリの、平野次郎左衛門(香川照之)である。
彼はもー、かなりキッタナイんだけど、それでも侍のカッコだけは崩すまいとし、仕官の道が開けただの、コネがあるだのと、ウソ八百がどんどん話が大きくなるんである。
彼は最後の最後まで、“侍としての美学”が揺るがないんだよね。その点、宗左の弟と似ているような気もするんだけど、田舎にいる弟が、世間が見えていないから成立してしまう哀れさがある一方、この次郎左衛門の無為なしがみつきはただ滑稽なばかりで、それが返ってアワレなんだよなあ。
宗左の父親は、碁会所で勝負をめぐる諍いで命を落とした。侍の美学に命をかけていた父親の思いも寄らぬ死に様に、宗左はせめて侍らしく死なせてやりたかったとあだ討ちを決意するわけだけど、それまでは宗左のことを省みることもなかった父親が、自分の死をカッコ良く仕立てるために、息子にあだ討ちを言い残した……んじゃないんだろうか。
だからこそ、宗左は仇の金沢十兵衛が穏やかに幸せそうに暮らしていることに動揺したんじゃないかと思うんだよね。しかも上の子は、血がつながっていないというのに。
結局、金沢に何も告げることなく、宗左はあだ討ちを諦める。
諦めるというか……それじゃ故郷に対しても言い訳がたたないし、しかもあだ討ちはなんたって成立すれば大金が手に入るわけだから、デッチアゲの芝居を思いつくわけだ。
もともと、この天下泰平の世の中、人々の好奇心を満たすためのあだ討ち芝居が、花見の時期なんかにハヤっていたんである。この長屋の住人たちも小金を得るため、長老の重八(中村嘉葎雄)の手がけた台本の元、花見客相手に見世物をしていたのだった。
そこに宗左はヒントを得たんだよね。ここに到るには、それにもう一つ、寺坂吉右衛門(寺島進)との出会いも忘れてはいけない。
この作品以前は、ひたすらナマな感触を追及するドキュ・ドラマを描いてきた是枝監督が、究極のフィクションエンタメである時代劇を作ると聞いて、どうなることかと思ったんだよね。
基本的な部分では割とハチャメチャで、ウンコ集めに命かけてるアタマのネジが数本飛んでる感じの孫三郎(木村祐一)や、ケンカをやり過ごすには痛くなく殴られることが一番だと語る乙吉(上島竜兵)など、オチキャラが引っ掻き回してはいるんだけど、やっぱりどことなく静かで、そしてここぞというところで、是枝作品らしく、ホントに静謐になるのよ。
それが最も顕著に現われるのが、この寺坂との場面なわけだ。
彼は、赤穂浪士で、最終的にたった一人、きびすを返して脱してしまう一人である。
そのために散々卑怯者呼ばわりされるんだけど、彼が宗左と何度も囲碁を指している場面の、これぞ是枝作品って感じの静謐さから、彼がその静かな時間の中で、宗左とのささやかな会話の中で、何を考えて何を重要と思って選択したかが判るのだ。そしてそれこそがこの物語のテーマだから。
それは、寝込みを襲うあだ討ちが卑怯だとかいう瑣末な部分じゃなくて、もっと大きな部分。
宗左は、おさえに言われて考えていた。憎しみ以外に、父親から教わったものってあったのかって。
期待されてない息子だったから、そんなのないと思ってたんだけど、あったんだ。それは軽んじて思われるものかもしれない。でも小さな頃からシッカリと教えられて、こうして寺坂を負かすぐらいの腕は持っている、囲碁。
「父から教えてもらったことがありました」そう、本当にハタと気づいて言う宗左。「良かったじゃないですか」そう返してくれる寺坂。
この場面は本当に本当に静かで、マリオンの大スクリーンでこんなに静かでいいのかと心配になるくらいで、ああ、是枝作品だなあと思うのだ。
結果的に、宗左の見事な(デッチアゲ芝居の)あだ討ちと、赤穂浪士の幾人かが潜んでいた長屋というのでスッカリ観光名所となってしまった。土産のまんじゅうが飛ぶように売れる。
そして一人脱走した寺坂、なぜ彼が逃げ出したか、それは宗左が父親から碁を教えてもらった話から来ていた。「息子にわらじの作り方も教えてやってない」と。歴史的には逃げ出した一人こそが一般的には卑怯な評価をされるのだろうけれど、ここでは彼の価値観こそが正当になる。
それは現代の価値観としては当然なんだけど、そしてここで描かれる侍らしさの美学は確かに愚かとしか映らないんだけど、ちょっとだけ寂しさを感じてしまうのは、私も古い日本人ってことなのかなあ。
でも、仇であった金沢の幼い息子が、宗左の営む寺子屋に訪ねてきて、宗左の端正な笑顔のどアップでシメられるラストには希望を感じずいはいられないわけだから、やっぱりそんな古いこと言ってちゃいけないのよね。
音楽がタブラトゥーラ!ちょっと驚く。10年ぐらい前の若かりし頃、当時バイトしてた先の、とあるお花見パーティーでメンバーの一人と遭遇したことがあったのよー。
CDにサインをと頼むと、なぜかテレ気味の彼は、ジャケットに小さく映ったメンバーの写真のうちの一人に、ちっちゃく矢印を書き込んだだけで渡してくれたのでした。だから名前も知らないのさ……。★★★☆☆
いや、そもそも私自身が、こういうタイプの作家って苦手ってだけなのかもしれんのよね。石井克人とか三木聡とか、あるいは矢口史靖も入るかもしれない。彼らの描く、いわゆる「オフビートな面白さ」って、私とツボが違うせいなのか、全然面白く思えないんだよね。ただ自己満足に思えちゃう。小手先で面白がってる感じっていうか。
オフビートをそんなカンタンに扱ってほしくない、と思っちゃう。
山椒魚、レントゲン技師、山椒魚を抱える美少女、と新鮮でシュールな予告編には心躍ったのになあ……。
でも、この「予告編はいつでもバツグンに面白いのに」という部分も、「オフビートにガッカリ」に共通している。多分そこで感じたり、期待したりする作品のリズムと実際が違い過ぎるんだろうと思う。
今回は、タイトルロールともなっている山椒魚、これが、そう、タイトルロールだし、予告編でもまずバン!と存在感を示しているのに、なんか結局彼?は横におかれてしまっている、という印象が、私の「つまらん……」という気分を更に拡大させたのであった。
結局この物語に、彼?はどう役割を果たしてるの?2世紀近くを生きていて、フランス万博の資料にも残ってる、なんてナイスなのに。結局はとっつきというか、まあ確かにインパクトはあるんだけどそれだけで、結局物語の中身は、異母姉妹とかヤクザの陰謀とか従前の泥臭い世界でしかないってのがつまんない。
主人公にヘンなロシア訛りみたいな言葉喋らせてみたり(相当力入れてるみたいなんだけど、ただ寒い)、突然話が夢のような方向に飛んでみたり、そんなことでごまかされるかー!みたいに思っちゃうんだよね。思い出したように引き戻されるシュールさが、思いつきで楽しがってる感じしかしない。シュールな面白さは、中身の、本質の部分でそうじゃないとシュールである意味がない。ワキでガチャガチャシュールっぽいことをやられても、なんか引いちゃうんだもん。
うー、そうよ、この回は観客も少なかったけど、なんかどんどん観客ドン引きって感じに思えたのは、ただ単に私が引いていただけなのかなあ。でも静まり返ってたよ……笑いは一切起きなかったし。まあ、笑わせようとしている、と思っているのはこっちだけで、作り手はそんな意図はなかったのかもしれないけど。
1867年のパリ万博に紹介されたのが、レントゲン技術。そのウィルヘルム・コンラード・レントゲン博士をリスペクトする自称天才?レントゲン技師の飛島芳一。彼が「第二農響」というどー考えてもヤクザな組織の男に依頼を受けるところから物語は始まる。
その同じ万博で、お披露目された山椒魚。実に150年も生き続けている、生ける国宝のオオサンショウウオのキンジローをひそかに奪ってきてほしい、というんである。
なんでも、このキンジローにはニセモノの疑いがある。しかし管理しているサラマンドル・キンジロー財団は、国から何十億もの助成金をもらって裕福な生活をし、そのことを隠蔽している。ホンモノのキンジローならば、万博の時に骨折した治療跡があるハズだ。それをレントゲン技師のあなたに確認してもらいたい、という話なのである。
レントゲン技師に天才もなにもあるのかいな、という部分で脱力なのかもしれないが(っていうのは偏見?)そこんところはアッサリと通り過ぎ、芳一は妹の結婚資金が足りない弱みにつけこまれて、前金を受け取ってしまう。
そして投網の特訓を行い(これも脱力なのかもしれないが……以下同)、キンジロー生誕150年パーティーに潜り込む。
しかし彼より先にキンジローを奪い出し、レントゲン車に潜んでいる美少女がいた。「悪い奴らが狙っているキンジローを救い出してほしい」と父親から頼まれて行動を起こした、この財団の次女、あづきである。
果たしてここで、飛島芳一=オダギリジョーと、あづき=香椎由宇が出会い、彼らは後に恋へと落ちるわけだが、そのワキで、この財団の長女と言われていたアキノ(麻生祐未)が実は、あづきが会いたくてたまらなかった母親であり、そして借金を作って財団から追い出された父親(高田純次)もあいまって、ゴタゴタと浪花節な世界が繰り広げられるんである。シュールな割には話の中身はまぶたの母モノ。
んでもってこのアキノ、芳一が依頼を受けた第二農響の会長、香川(光石研)と結婚を考えている。それはこの財団の借金をなくすためでもあったのだけれど、彼が実はヤクザまがいの汚い男だと知った時、彼女は……殺されてしまうんである。ここで今度は、まぶたの母の敵討ちモノに変わる。うう、なんか結局どこまで行っても、話の芯はやけにカビくさい気がして仕方ないんだけど。
そんな展開だから、山椒魚がどうこうというのは殆んど重要ではない。しかもこの山椒魚君、予告編でも使われていた、香椎由宇に抱かれている場面でしか造形のリアルさを発揮してなくて、その後は水槽に入れられっぱなしだし、途中で電気仕掛けのやっすいニセモノにスイッチしちゃうし、効果というか存在感をまるであげてないんだよな。まあ、最初からそのつもりだったのかもしれないけど……。
そうなると、芳一の「慣れると結構カワイイね」などとゆー言葉もやけにとってつけたように聞こえる。芳一とあづきのメイク・ラブのシーンに、キンジローの口からぶくぶくとあぶくが発生するショットが繰り返し挿入されるのも、せめてこのあたりまでは何とかキンジローの存在感を保ってやろうという程度の描写にしか思えず、なんか意味ない。
意味ないか……うーん、意味がないのは最初から判ってるけど、というか、こっからどんどん意味ない描写が連発されるもんだけど、判っちゃいるけど、何の意味があるの?と言いたくなっちゃう。なんか劇場がどんどん引いていってるんですけど……。
まあ、その破綻の前にはまだいろいろと展開はあるわけだが。しかしこの芳一の造形もねえ。キテレツなレントゲン技師、ってな趣なのだが、「息を吸って、吸って、吸って……ハイ、ドーン!」と、このハイ、ドーンを唐突に叫ぶあたりがギャグなんだろうが、うー、なんか、寒い……。寒いぞー!この寒さはなんだー!
それでも、オダギリジョーは自分なりにこなしてる感じはする(かなり“俺って上手いだろ”系が入っててツラいが)、しかし香椎由宇嬢の方は、もはや戸惑いが見られるような気がして仕方がない。
オダギリジョーよりも、結局は話のメインは彼女だからなあ。彼女から戸惑いを感じちゃうと、結構厳しいものがある……。
でも二人が結ばれるシーンは、お互いの駆け引き(というより、彼女の駆け引きに彼が引きずられる感じ)がなかなかドキドキとさせる。
バツイチだと言う芳一が、奥さんとはこのレントゲン車で患者として会ったと聞き(ま、それはウソだったんだけど)、私のレントゲンも撮ってみてよ、と言うあづき。スリップ姿の彼女にドギマギとしてハイ、ドーン!をただただ繰り返す芳一。
しかし「ダメだよ、ブラジャーは取らなくちゃ、やり直し!」と言ったのは、必死の切り返しだったのか、しかし彼女は「めんどくさい」彼はまたドギマギと、「じゃあ俺がブラジャー取っちゃうぞ!」「いいよ、取っても」もう完全に彼の負けである。
いいよなー、30男が女子高生と恋に落ちたって、違和感ないんだもん。まあ、自虐的に「30歳で悪かったな」ってシーンはあるけど、男の30は全然若いよ……女と違ってさっ。これが年齢逆だったらサムいもんな……。
財団にはあづきと腹違いの姉妹がいる。しっかり者のみはり(KIKI)と、吃音気味の日々子(キタキマユ)である。
吃音というのも、ちょっと変わったキャラを造形する時さんざん採用されてきた要素で、正直ちょっとウンザリとする。まあ、その彼女がそれでも内向的にならずに、外に男を漁りに行くあたりが新しいのかもしれんが。
しかし彼女はテレビカメラの前ではなぜか流暢になり、みはりの方が緊張のあまりにどもってしまう、というオチ?もあったりして。
二人は、アキノが自分たちの姉などではなく、あづきの母親であることを知っている。つまり、アキノが父親の愛人であることを。だから香川と結婚してこの財団を乗っ取ろうとする(乗っ取ろうと思っているのは香川だけだが)アキノをひたすら拒否する。アキノはあづきに自分が母親だと言えないでいることにずっと苦しんでいた。
そんな中、アキノが殺されてしまう。この時点では、急性薬物中毒で死亡としか判らない。あ、ちなみにアキノは有名女優なので新聞にもそう報道されて、あづきたちの父親は慌てて財団に駆けつけるも中に入れてももらえず、門の前で焼香させられてオワリなんである。
この父親、みはりと日々子の姉妹には疎ましがられているし、アキノとはこんな複雑な関係だもんだから険悪ムードなのだけれど、あづきとは不思議に仲がいいのね。だから今回のキンジロー救出作戦を父親は頼んだわけだし。
でね、この父親に高田純次などという飛び道具を持ってくるから、私としてはもっとぶっ飛んだモンを、ここにも期待しちゃってたのよ。アキノが長女、という形をとってたから、でアキノがあづきの母親っつーことは、鬼畜にも娘に手をつけて産ませた子なのかとかさ、思ってたわけ。高田純次ならありそうじゃーん(失礼!)。
でも、結局はかなりフツーな父親の造形なのよね。せっかく高田純次なのにぃ、なんかつまんない。オダギリジョーとのタイでのシーンも、この二人なら、と期待する部分はあったのだが……芳一のレントゲン車に乗り込んで、二人ナベをつつく場面が出てくるんだけど、湯気で曇ったフロントグラスをしきりにお互い拭いている描写だけが繰り返される。繰り返しだけじゃ、ギャグにもならんのよ。逆に繰り返されすぎてしつこい。
この二人の会話尻を切ってつないでいくという手法が、この場面だけでとられているのも唐突。まあ、掛け合い感を出してるんだろうけど、この場面だけだから唐突感だけが強い。
そういう、そこここで試されるオフビートがいちいちツボから外れるのは、ただ単に私のセンスの問題なんだろうか。
でもさ、例えばあづきが携帯を受けている後ろで、芳一が画面から見切れている亀田(財団からの追っ手)をふん縛ろうと格闘している描写とかも、面白くなりそうで、面白くならないのよ。もったいない気がする。ちょっとね、わざとらしく長すぎるんだもん。
あるいは、この亀田が携帯電話をかけながら、知らずに歩いていって崖から落ちるシーン、これも彼が歩いていく部分が長いから、結果が容易に予測出来ちゃって、間延びしちゃって、面白くない。
これも見切れのギャグで(見切れのギャグは好きなだけに……)、芳一とあづきが画面からは見えない亀田を下に見下ろして、「大丈夫ー?」と声をかけているんだけど、やっぱその前のフリがね、長いのよ。そんな風に、しつこかったり長かったり、間が悪いし、潔くないんだもん。なんかリズムをハズしまくるんだよなあ。
で、後半、アキノの死の真相やら、香川の本当の目的やら、山椒魚の蒲焼き缶やら?まあいろいろ出てきて、その中に、あのワケ判らんロシア風訛りの兄弟が登場し、これが香川の部下とまぶたの兄弟(またかよ……)だったりして、もはや展開を追う気も失せてくるんだけど……。
とにかく香川をぶちのめし(殺し?)、大団円になったかと思いきや、これが最も意味の判らん、芳一の妹の結婚相手は山椒魚のキンジローだったとか、夢だか何だか判んない一場面がシュールに挿入されたりし……。
シュールで押しているわけではないので、唐突に入ってくるシュールがどこまでホントなのか、というか、どういう位置関係にあるのか、ただただこちらはコンラン、というより引くばかり。
そんなわけで、あづきが不思議な声に導かれて屋上に行くと、そこに死んだはずのアキノがいる、という描写も、あら?彼女、死んでなかったの?それともこれはフツーにちょっと感動的な心の再会というヤツ?それともこれもシュールの一環?と、これまた位置関係に悩むんである。
うーむ、私も昔はもっと素直にダイレクトに受け止めて、面白がることが出来てたような気もするのだが……。
あらためてオフィシャルサイトを見てみると、この監督を絶賛してるのは、私の知らない人と苦手な人なんだよな……。
しかもその解説、「笛午村版の『ワイルド・アット・ハート』」だの『殺しの烙印』や『ブルジョワジーの密かな愉しみ』が公開された時のように物議を醸すだのと、やたら過去の名作、問題作を引き合いに出してて、これも引いちゃう。
本当に才能のある人なら、そんな過去作品の引き合いなんていらないじゃん。それだけで唯一無比、勝負できるんじゃないの?そーゆー、通好みみたいに仕立て上げるのって、なんかヤだな。★★☆☆☆
確かに、画のイメージはもの凄い。アニメーション、というより画のイメージ。これは人の夢に介入する物語。意識レベルの届かない、無限に広がる夢の世界。人間の才能で考えうる境界線を越えた、祝祭的で、シュールで、残酷で、狂った、画のイメージが洪水のようにあふれ出てくる。
これは全くもって、今敏監督の才能が疑問の余地がないことを充分に証明してあまりある。この魅力はどうしたって言葉じゃ追いかけられない。言葉じゃ太刀打ちできないもの。
でもね、今までの彼の作品にあった人間の心理的深さが、本作ではただただこの素晴らしい夢の描写に忙殺されているような気がして、ちょっと肩透かしをくらったような気もしたんだ。
と思ってオフィシャルサイトを繰ってみたら、監督自身、こう言ってた。
「今回はストーリーを語ることよりも画を見せることに重点を置きました。画を紹介するためのストーリー」
まさしく私が引っかかった部分をズバリ、先んじて言ってくれちゃってる。
そうかー。監督自身がそう思って作ってるんじゃ、しょうがないな……。確かに内容の深さを追及するあまり、主張が何様よって感じに傲慢になっていくアニメは正直、あるもんね。誰とは言わんが。
アニメーターが一度はやりたい、そう、アニメーターの誇りを賭けた、画の表現への挑戦ってことなんだろうと思う。
並行して別のことまではやれない。片手間にしたくない、ってことなんだろうと思う。
そんなこと言っちゃ、原作者が怒りそうな気もするけど。ダシに使われたみたいだもんなあ。ただ、筒井氏が今監督をじきじきに指名した(!)んだし、観念的な原作を映像にするにあたって大胆にバッサリやったことを、筒井氏は歓迎しているらしい。さすが御大だな。
いきなり出てくるのは、タイトルロールとなるパプリカ。赤いショートボブを揺らし、夢の中を駆け回るコケティッシュな女性。
トラウマ的な夢に苦しむ中年男性を、夢の中で助け出す。彼の身体の中にもぐりこんでいって……夢だからこその描写なんだけど、凄くダイレクトにセクシャルを感じさせる。
ハッと目覚めた部屋は、ホテルと思しき一室。隣には、さっきまで彼を助けて大活躍していたパプリカがいる。ちょっとエロティックに思えるこの状況は、この先を思えば結構伏線である。そう、ちょっとエロティックなのよね。時々エグさも入るような、大人のエロティシズム。
この中年男性は粉川刑事。そしてこのセラピーは実は、今んとこ違法なんである。粉川は精神医療研究所の所長と友達で、特別にパプリカのセラピーを紹介されているのだった。
彼は今、殺人事件を追っている。その被害者が床に倒れるシーンを繰り返し繰り返し夢に見る。サーカス団に捕らえられたり、列車で殺されそうになったり、ターザンになったり、映画さながらの冒険シーンが満載である(名画へのオマージュが結構あるらしいのだけど、私はそーゆーことにてんでニブい)。
でもその中で人に裏切られたり、死にそうになったりすることに、彼は苦悩している。なんだかハタから見ているとそれこそ映画みたいで、ちょっと楽しそうなんだけどね。
でも、この映画みたい、という部分が実はクセモノだったんである。
というのはひとまず置いといて。この、人の夢を共有できるシステムが、この物語のカギとなる。クールで知的な美女、敦子は、精神医療研究所でセラピー機器の研究、開発に取り組んでいる。その最新の機器がDCミニ。「頭部に装着するだけで互いの夢が共有できるモバイルユニット」である。
このあたりの設定は、さすがSFの巨匠、筒井氏の豊かなイマジネーションだよなあ、と思う。
このDCミニが盗まれてしまった。まだ開発途中の段階で、アクセス制御がされていなかった。つまり、悪用すれば人格が破壊できるほどの武器が、それを知る内部の者によって盗み出されたのだ。
しかしそれを“悪用”するには、自身もその、人格を破壊するほどの悪夢を共有しなければいけないのである。
「捨て身のテロだな」
「テロは捨て身ですよ」
実はこの敦子、優秀なサイコセラピストである彼女は、パプリカと同一人物なのね。パプリカっていうのは、敦子が極秘の治療を行う時のコードネームなんである。
でも、同一人物と言い切ってしまうのも、うーん、いいのかなあ。まあいわば、パプリカは敦子の分身なわけね。実際、そう言ってる。自身そのものではない、と断言してるってことだよね。
つまり、それって別人格だとも言えるわけじゃない。あるいは敦子が抑制している自分、と言えるのかもしれない。実際、敦子はパプリカが自分自身であることを、あまり明確に認めようとしないんだよね。彼女のことなんか知らない、みたいに、パプリカに対してあからさまに客観的な態度をとるしさ。
確かに、敦子とパプリカは明らかに違う。分身というにも違い過ぎるぐらい。ちょっと、二重人格な趣だよね。敦子は自分から離れていくパプリカを、どこかいまいましげに見ている様子さえあるし。分身なら私の言うこと聞きなさいよ!みたいな言い方さえする。
今までは現実と夢とが完全に分離していたから良かったんだけど、“テロ”によってDCミニが盗まれ、周囲の人々の人格が次々に破壊されてゆくと、その境界線も危うくなっていく。
ついには所長さえ、その毒牙にかかる。突然、何かを声高に主張し始めるのよ。ぶわーっと、とめどなく、政治演説みたいに。
それがね、全然意味が判らないの。難解な単語がばんばん飛び交ってて、一見深遠なことを言っているように聞こえるのに、まるで支離滅裂なのだ。
それはまるで、人間が高度になればなるほど、人を見下せば見下すほど、怪物になっていく、っていう主張に思えなくもない。
所長を助けようと、彼の夢の中に入っていくパプリカ。何とか彼は助け出したものの、絶対に仲間内にいるはずの、その犯人が判らないのだ。
ついにはあり得ないことに、夢が現実に混入するなんて事態まで起きてしまったもんだから、現実の敦子の目の前に現われたパプリカを、マスターであるハズの敦子がコントロール出来なくなってしまうのね。それどころか、分身であるパプリカの方が、敦子を操るような感じになっていく。
でもそのことで、敦子はようやく素直になれるのだ。
ようやく、好きな人に素直になれるのだ。
おっと。またいつものよーに先走ってしまったけれども。そうよね、これって夢のイメージにあふれているけど、最終的には人が素直になるべき、ってな物語なのかもって思うのよね。敦子の、時田君への思い。粉川刑事の、映画青年だった過去。
冒頭、敦子がエレベーターの扉の隙間に挟まった時田君を引っ張り入れるシーンがある。時田君は「違う、そうじゃないんだ」と言う。何がそうじゃないのか。この時には彼の異様なでぶっちょにばかり目がいって、そんなことまで気が回らない。
後に、この感じがデジャヴのように再現される。夢のテロにハメれらた時田君が、巨大ロボになって街を闊歩し、ビルとビルの隙間に挟まってしまう場面。危険だというのを振り切って彼を助けに行った敦子の脳裏に、エレベーターの場面が甦る。
そして粉川刑事の方はというと、執拗に、映画はキライだ、と繰り返す。とにかく、否定する。
そこにこそ彼のトラウマを解くカギを見つけたパプリカは、夢の中で粉川刑事を映画に誘うんだけど、「映画はキライなんだ!」と彼は叫び、そのとたんにクラシカルな映画街がバン!と暗闇に包まれる。
でもね、可笑しいの。夢の中で、その自分の夢を劇場で映画として観ている彼(ややこしいな)、やたら詳しい映画専門用語を駆使してパプリカに解説してるのよ。
「映画に詳しいのね」パプリカは微笑む……と、そこにあの狂った夢の祝祭がなだれ込んでくる!人形や冷蔵庫やポストや……そんな無機質な者たちが紙ふぶきが舞う中、楽しげにパレードしているのは……そう、一見楽しげなんだけど、特に人形の無表情さに、ゾッとするものを覚えるんである。
おかっぱ頭の市松人形、金色の巻き毛のフランス人形……それらが、夢を見ているオッサンの顔に乗り移られるキモチワルさ。
粉川刑事は、親友と一緒に映画監督になる夢を追いかけていた。だけど、それを諦めてしまった。今は亡き親友に合わせる顔がないと、ずっと思っていた。
でも夢の中で、この死んでしまった友人は言ってくれる。
「お前はちゃんと夢をかなえたじゃないか」
未完成の刑事映画を、自分の人生で完成させたじゃないかと、笑ってくれた。
時田君っていうのは、このDCミニを作りあげた、“子供のまま大人になった天才”なのね。彼は敦子のことをあっちゃん、と呼ぶ。クールな彼女はそのことをあからさまに嫌がる。
でもその一方で、時田君の才能を凄く買ってるんだよね。口では、そういう無責任な大人子供に責任をとってもらうんだとか言ったりもするんだけど。
ちょっと、嫉妬があったのかもしれない。どんな事態になっても自分の好きなことに没頭出来ることと、没頭することによって他の人のこと……つまり自分のことなんか考えもしない彼に。
彼女はそんな彼に、いつまでもマスターベーションしてんじゃないわよ!みたいなキッツイ言い方するんだけど……それもまた事実なんだけど、そんな時にもある意味マスかける彼は、自分の好きなことには揺るぎない、強い精神の持ち主だとも言えるんだよな。
でも、敦子にそう言われて、彼はとても傷ついた顔をする。
元々、夢に侵入されて狂っていく人々が続出したその発端は、時田君と仲良しで似た者同士だった同僚が仕掛けたと思われていた。
彼を犯人として追いかけていたんだけど、彼は時田君と思い出を共有したさびれた遊園地で、自ら命を断ったのだ。
自ら……?
この事件を追いかけている最中、敦子も危ない目に遭った。自分では真相を追いかけているハズだったのが、いつのまにか夢の中に迷い込み、柵を越えたところで空気がぐにゃりと曲がり……小山内君に止められてハッと気づくと、高層マンションのベランダから落ちる寸前だったのだ。
実は、この小山内君ってのが、黒幕の手下だったのよ。
いかにも優秀な部下って感じの冷静な青年。まさか彼が、って思った。思いっきりワキだと思ってたから。でも彼の声が山寺宏一だとちゃんと認識してれば、そんなハズはないのよね。
んでもって、黒幕は、まさに灯台もと暗し、この研究所の社長だった。これにはそれほど驚かない。だって行く先々に思わせぶりに車椅子をキュッとたどり着かせては、「夢をコントロールするなんて、冒涜だ」とか無表情に言ってたんだもの。
パプリカが彼らに捕らえられるトコは、かなりアダルティーである。
採集した蝶をピンで止めて標本を作っているイメージが示されたりするのが、非常に蠱惑的なのよね。なんかね、これってネクロフィリアまではいかないにしても、かなりアブないイメージじゃない?まさに大人のアニメだよなー。
んでもって、捕らえた(っつっても夢の中だけど)パプリカを、小山内君はモノにしようとするのね。元々、敦子のことがずっと好きだった。自身の心の弱さで社長の手先になんぞなっちまったけど、彼女への思いは抑えられなかった。
小山内君、パプリカのイケナイ部分に手を差し入れる。悲痛な叫びをあげる彼女。その手は、衣服ではなく、その肉体の中を潜り込んでゆく。豊かな胸にもメリメリと潜り込む。
なんというエロティック!表面的に揉みさするより、エグイくらいのエロである。そしてついにはパプリカの表皮の下に、敦子の一糸まとわぬ身体が現われるんである。でも彼は、その輝く肢体にはついに手を触れられない。
というのは、怒った社長によりジャマされてしまったから。
このあたりも、豊かなイマジネーションのアニメーションが織り成すキモチワルサ(!)である。欲望のためにあさましいことをしようとする小山内に、社長がその身体に潜り込んで、彼を止めるんである。こんな屈辱的でキモチワルイ陵辱感もあるまい。うー、だって、自分の首の横からオッサンの顔が生えてくるんだよ!
結局、その場に粉川刑事が飛び込んできて彼女を助けてくれるんだけど、このことでスッカリトラウマが解決されちゃった刑事、未完成の映画のハッピーエンドを完成せんとばかりに、彼女に口づけ!
思わず頬を叩いたところで飛び起きたらパプリカから敦子に戻ってて、アワレにも殴られたのは彼女を助けようと必死に頑張ってた所長。もー、ほっぺたに赤い手の跡がくっきりついちゃって、カワイソ。
でも、目覚めた今が、本当に現実なのかどうか、それさえも確信出来ないのだ。
「これは現実?」「恐らくな」暗い床に並んで座り込む二人。
そうして、とりあえず今、現実だと思われるこの場所に、夢がなだれ込んでくる。時田君はすっかり改造ロボみたいになっちゃって、街を破壊しまくっている。
敦子から完全に分離してしまったパプリカが、この破壊活動の中を誘導しながらも敦子を挑発する。そして敦子は、どうしても時田君を見殺しには出来ないと、無謀にも一人引き返してしまうのだ。好きな彼を助けるために。
「やっと素直になったわね」と笑うパプリカ。
あー、やっと、先に言っちゃったこの部分に戻ってきた。
もはやここまでくると、結末がどうなったかなんてどーでもいい気分になってくるけど(疲れた)。
敦子は、もはや何を言ってもまるで聞こえていないような時田君に、「あなたの大好きなあっちゃんよ」と何度も何度も問い掛ける。
……あれだけ、あっちゃんと呼ばれるのを嫌ってたのに。うーん、ちょっとグッとくる。
なだれ込んでいた夢が消え、いつもの現実が戻ってきた。敦子は苗字が時田に変わることになり、彼女にちょっとホレてた粉川は苦笑する。でも今や、敦子にホレてたのか、パプリカにホレてたのか判らない。
パソコンから入ることが出来る、夢の中でパプリカとこっそり会っていたバー、全てが終わって、粉川はまたそのサイトを訪れてみる。と、マスターとバーテンダーが、あの破壊活動でケガして、ちゃっかり包帯をぐるぐる巻きにしているからちょっと笑ってしまう。
確かに夢ではなかった、でも夢だった、なんだかコンランしちゃうな。だってこのサイトの中だって現実じゃないのに。でも確かに起こったことなのに、誰もがみんな、記憶から抜け落ちているんだけど。
ラスト、今監督の作品群が看板にずらりと並ぶ映画街が登場するってあたりが、遊び心だけど、これまたチャッカリしてるよなー、と笑っちゃう。
でもこれは、今まで今作品を追っかけ続けてきた人にしか判らない、ちょっとマニアックなお楽しみだけどね。★★★☆☆
本作に関してのそのアイディアの部分は、「図書館の画集に残されたメッセージ」である。ちょっと少女マンガ的な匂いのする、チャーミングなアイディア。まあどっかで聞いたことがあるような気もしないでもないけどね。
で“凝った部分”というのが、そのメッセージが一年前に残されているということなんである。故に時間のすれ違いの妙が発生するわけなのだが……それを明かすのがね、遅いのよ。
一体誰が残したメッセージなのか、そこで何があったのか、それをクライマックスでバババッ!と明かしちゃうから、しかもシーンだけで示すから、頭の悪い私は、え?え?ちょっと待って、それはあの人がこーであーで、こういうことなのかな?と思っているうちにメインの物語の方もどんどん進行するもんだから、ホント困るのよねー……っていうようなこと、私、よく言うよね。やっぱり私が頭悪いだけの話なのかなあ……(凹)。
でもこれ、ホント最近よく観る韓国映画のパッケージって感じ。ペ・ドゥナの特異な存在があるから、ちょっと風変わりなラブストーリーとして印象に残るけど、これが続々出てくる韓国美女女優の一人が演じてたら、ホントに凡作になってたろうなという気がするんだな。
そこそこの年になってるのに、あいっ変わらずカワイイんだよなー。という彼女のキャラをきちんと使ってもいる。どこか風変わりで不器用なままこの年まで来てしまった、恋愛オクテなスーパー店員。
同僚に化粧バッチリの色っぽいコや、恋愛体質のコなど結構エロ系が揃っている中、彼女だけが“女の子”なんだもん。不ぞろいな前髪のボブカットがサラサラとなびき、まあるい目がくるくると動く。本当に表情豊かな女優。私、彼女のまばたきの仕方が好きなんだよなー。静かで、ふわっとまばたきするのさ。
こんなロリさを残しながら、スラリと背が高くてやけに美脚だったりするのも意外でヨイのよね。
彼女は父子家庭。でもお父ちゃんはただいま入院中である。この娘にしてこの父ありといった、芸術家はこうだ!みたいな、カワリモノのお父ちゃんは小説家。
仕事に必要だからといって、娘に遠くの図書館から画集を借りてきてもらう。冒頭は、彼女がこの画集を抱えて電車に乗り込み、通り過ぎようとした車内販売のお兄さんをはっしと捕まえて(こーゆーところがカワイイのよ)ゆで卵を買い、それをむさぼり食いながら画集を広げて眺めるシーンから始まる。そしてそこに、愛のメッセージが残されているのだ。
以降、彼女はその画集のメッセージに従って次の画集、次の画集とメッセージを辿っていくことになるのだけれど……。
もうメンドくさいからオチバレしながら書くけど、これがね、彼女自身がメッセージを辿っていったのか、父親から次はこれ、と常に指定されて借りていたのか、ちょっと判断しかねるところがあるんだよね。
まあどっちでもいいっちゃいいんだけど、ただ、なぜ父親がわざわざ遠い図書館から画集を借りて来いと言ったのかには理由があったはずだから……ってとこで私が既に間違った解釈してたらどうしよう(笑)。
でもお父さん、病院でひと目惚れした聴覚障害者の女性のために、借りたんだよね?
んでもってそこに残されていたメッセージは恐らく一年前のもので、その彼とは最後の画集を取り違えたことで、すれ違ったまま会えなかった。
でも途中から、ヒョンチェ(ペ・ドゥナ)が借りようとすると先に借りてる人がなかなか返さなかったりして……あ、でもそれはヒョンチェと同じようにこのメッセージを自分当てだと思って辿っていってるオバチャンだったな。
じゃあ、やっぱりヒョンチェが一人で暴走して自分当てのメッセージだ!と思って辿ってってるのかなあ。
そうだよね。全部父親に指定されてたら、そこに意味があると気づくもんね。でも本来そのメッセージを久しぶりに辿ってくはずのその女性はじゃあ、最初の一冊しか渡されてないんだろうか……うーん。
まあ、そんなことで悩んでもしょうがないのかもしれない。物語はどんどん進むのだから。
で、ヒョンチェは冒頭、憧れのハンサム社員とデートするんだけど、ガサツな物言い(本人は気づいてない)で彼女はフラれてしまう。
デートで二人、「春の日は過ぎゆく」を観ていて、ヒョンチェは隣りの彼に、「新車にキズつけちゃダメですよね」とか「あ、キスしますよ!キャー!」みたいに、この映画でそんな騒いでたら確かにメーワク千万なはしゃぎっぷりなんである。
そしてレストランに場所を移すと「コーリング・ユー」がかかっており、男はその映画の話をする……「バグダット・カフェ」だね。うーん、監督、好きな映画を出したい一心って感じ。判るけど、なんかちょっと、うっとおしい。
うっとおしいといえば、このヒョンチェがね、夢見がちな少女さながらに、妄想めいたカットがいちいち挿入されるんだよね。これがね、非常にうっとおしいの。
この映画に関する言及もそうだけど、なんか他と差異をつけるためにと、この新人監督さんがこんなヤボったいことをいちいち入れてきてる感じがするんだよなあ。
……せっかくアイディアがカワイイんだから、もっとスルリと語ってくれていいのにさあ。
さて。ある日ヒョンチェがいつものように画集を抱えて電車に乗っていると、聞き覚えのある声で車内アナウンスが。降りて運転席をのぞきこんでみると、そこには幼なじみのドンハがいた。
思わぬ再会。ドンハはヒョンチェに大仰に抱きついて再会を喜ぶ。まるで少年のまま時間が止まったようなドンハ。兵役を終えたドンハは、ヒョンチェに会いたい一心でソウルに出てきたというのだ。
このドンハが、途中から画集メッセージのカラクリに入り込むことになる。ドンハ自身がヒョンチェの前に数年ぶりに現われたわけで、そして彼は、あの頃彼女と共に語っていた夢を実現しているんだよね。
いまだにムジャキなドンハに子供っぽさを感じるヒョンチェだけれど、実際夢を叶えられないまま変わりばえのない日常を送っているのはヒョンチェの方であり、彼女はその風貌のまま、少女のまま、時の経過を拒否しているようにも見えるのだ。
あの時、学生時代、ヒョンチェは客室乗務員になりたい、そしてドンハは地下鉄の運転手になりたいと夢を語り合った。君が空を飛び、僕が地下を走るんだ、とドンハはニコニコとして言っていた。
そして今、ドンハは見事夢をかなえているけれど、ヒョンチェはしがないスーパー店員で、恋の一つも実らない。
ヒョンチェは画集のメッセージを残している相手を、勝手にヴィンセントと呼び、同僚のミラン協力のもと、捜索開始である。
最初は図書館のオタクっぽい司書の男性だと思って、動物園でデートまでするんだけど、コイツはただの熊マニアだった。
そうこうしているうちにミランはドンハに目をつけ、ヒョンチェも二人の中をとりもとうとする、もんだから、ドンハはちょっとヘコみ気味なんである。
ミランから、ヒョンチェがヴィンセントを探していることを知り、そのメッセージの中に入り込むドンハ。ヒョンチェはアッサリ信じ込んでしまう。
今まではただの幼なじみだと、ドンハをさんざんソデにしてきたのに、ヴィンセントがドンハだと思い込むとあっという間にラブラブモードになって、愛してるとか平気で言うのだ。
彼女が自分の方を向いてくれたことに喜びながらも、そのことに違和感と、騙したことに対する罪悪感を覚えるドンハ。
だって、彼は芸術には全然疎いし、こんな甘い言葉なんて、ホントは書けないんだもん。あとからさかのぼって復習する彼だけれど、なんだかその言葉が身につかなくてぎこちないばかりで……。
それにヴィンセントのことをドンハがミランから聞いたこと、ヒョンチェは知っちゃって、結局バレちゃうのだ。
ドンハは、聞きたかったけれど、聞けなかったことをぶつける。君は僕を本当に愛しているのかと。ヴィンセントだから愛していると言ったのかと。
黙り込む彼女にドンハは失望する。ヒョンチェはヴィンセントが好きなんだ、自分じゃないんだ。一度も会ったことがないのに。幻なのに。
このドンハを演じている男優に、あまりピンと来ないのもつまらない。つーか、こういう顔の男優、韓国に多いよな……ユ・ジテ風味というか。
こういう顔が好かれる、という感覚がイマイチ判らんのよね。劇中、ドンハに言い寄るエロ系美女のミランが、彼のことカワイイとか言うのもピンとこないんだよなあ。
あ、そうそう、ミランは結構手当たりしだいの女で、ドンハに一度はチョッカイ出すもののすぐ見切っちゃう。
「私だって運命の相手を探すのに必死なのよ」てな言い方をし、それは、アンタにはいるのに、何で気づいてないのよ、とヒョンチェをさりげなく後押ししているようにも思える。
そうよ、そうそう自分のことをこんなに無償に愛してくれる相手なんていないのさ。自分が心許せる相手っていうのもね。その二つの条件が重なってるのに、なぜにアンタはドンハが運命の相手だと気づかんのよ、とミランは遠まわしに言ってたのかもしれない。
だって、そもそもヒョンチェは冒頭から電車に乗ってるし、もう電車に縁があるのよね。そして缶コーヒーのプルトップが開けられないことも、ドンハだけが知っている。
それになんたって“一緒に寝た”仲だしねー。ホントに寝ただけだが。ドンハが帰ってきたヒョンチェを驚かそうとタンスの中に入ったまま出られず、ウッカリ泊まっちゃった日、彼女のベッドに潜り込んでスースー寝込んでしもうた。
目覚めたヒョンチェが近眼のせいで、なかなか気づかないのがカワイイのよね。まずトイレに行って、あれ、ベッドになんかいるなあ、みたいに寝ぼけまなこでメガネをかけると……その時のペ・ドゥナの、花柄のスリップ姿のキュートなこと!
彼女、家でのカッコがいちいちカワイイのよ。ま、この年だとかなりギリギリの少女っぽさではあるんだけど、でも腹ばいで本を読んだりしてると、うっかりおっぱいの形が目に付いたりする。あれは絶対ワザとだっ!(嬉)。でも基本華奢で、ほんっとキュートなのよねー。
また脱線してるが。でね、このあたりでようやくタネあかしがされるのだ。ドンハは図書館の本棚の奥に押しやられた、本当の最後の画集を見つけた。一年前、ホンモノの“ヴィンセント”があの聴覚障害者の彼女に向けて、会いたいと記したメッセージが残された画集。
彼女も、そして途中から割り込んだドンハもヒョンチェもそれに気づかなかった。その手前に、同じタイトルの新版の画集があったから。
おそらく彼女は最後の画集に何も書かれていないことに失望したんだろうし、ドンハはそこに何も書かれていなかったから、自分の思いをヒョンチェにぶつけて書いたのだろう(違う?この辺から私、コンランしてんのよ)。
耳の聞こえない彼女には、“画集に書かれたメモ”がことに染みたんだと思うんだなあ。つまりそのメモを追体験したヒョンチェはキューピッドってことになるかしらん。
ドンハは勤務地が変わることになり、最後の別れにヒョンチェにこの、本当の画集を渡しに来る。
この時点ではこのメモが一年前のものだと、彼らは気づいていない。だからヴィンセントは君に会いたがっている、と言って渡し、ドンハは去ってゆくのだ。
ヒョンチェは自分の気持ちに薄々気づきながらも、メモのとおりの日時に行ってみる。そこには見知らぬ男性が……そして全てが明らかになる。
彼がなぜ、ここにいるのかもちょっとね。一年後、もしかしたら彼女が今年は思いなおして来てるかもしれないと思って、来たのかなとも思うが……それとも一年後、というのも私のうがちすぎ?でも同時進行はちょっと時間的にキツイ気もしたから……うー、この辺もちょっとコンランするんだけど。まあいいや。
このメッセージがヒョンチェではなく彼女に当てられたもので、表で進行しているラブストーリーから隠れた形でひっそりと思いが綴られていた、ってあたりはまあ、上手いけど、でももうちょっと早く明かしてくれよとやっぱり思う。
お父さんが片思いしている相手としてちらっとだけ出てくる彼女、あのまま終わるには印象的に布石を打ちすぎだとは思ったけど、それだけにその思わせぶりが明かされるまでに時間があきすぎるんだもん。
彼女はもう一度画集に書かれたあのメモを読みたいと思って、ヒョンチェのお父さんに頼んだのかな。お父さんもメモの存在を知っていたのかもしれない。でももう終わった恋なんだと思ってたのかな。だからヒョンチェに、彼女と結婚する、なんて言ってたのかな。
このお父さん、男手一つで育てたヒョンチェが可愛くて仕方ないって感じで、すっごいベタベタに仲良しだし、娘がもうこんなイイ年になってるのに、「お前にママを作ってやる」なんてさ、言ってたんだもん。
ラスト、ホンモノのヴィンセントの個展に来ている彼女の姿。ベンチの絵の前で、ようやく二人は出会うのだ。
それにしても、この個展に飾られている絵はなぜかかなりヘタクソだが。
とすると、お父さんだけが失恋かあ……。
そ。ヒョンチェはようやく、ようやく自分の気持ちに気づき、ドンハの最後の勤務の日、終着点で彼を待ってる。そうメールをもらったドンハは、どきどきしながらホームに降り立つ。
彼女はいない……と思ったら、電車からとん、と降り立つヒョンチェ。泣きそうな顔をしてドンハを振り向く。万面の笑みで駆け寄るドンハ。ひとしずく涙を流し、「あのね、私……」そう言いかけるヒョンチェに何も言わせずぎゅっと抱きしめる。
彼と顔を見合わせたヒョンチェ、いやさペ・ドゥナの泣き顔と恥じらったような絶妙の表情にハートがわしづかみにされるのよー。
フィルムの手触りが心地いい。デジタル全盛の昨今、この手触りの落ち着きはなかなかお目にかかれないからな。そして80年代ポップスを思い出させるような、さわやかで、居心地のいい音楽もステキ。これも今やなかなか聞けないタイプの音楽。
いちいちチャプターに分ける必要はなかったんじゃないのかしらん……それも気持ちが集中できなかった要因かも。絵に託したメッセージにひっかけたのかもしれないけど。★★★☆☆