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「つ」


2014年鑑賞作品

つぐない  新宿ゴールデン街の女
2014年 87分 日本 カラー
監督:いまおかしんじ 脚本:佐藤稔
撮影:花村也寸志 音楽:ビト
出演:工藤翔子 速水今日子 伊藤猛 貴山侑哉 吉岡睦雄 カブトムシゆかり 中村京子 ひろ新子 Annie 石川ゆうや 外波山文明 ビト 高宗謙三 水原香菜恵 掛田誠 史朗


2014/8/12/火 劇場(テアトル新宿/レイト)
ぎっくり腰で引っ込んでる間にチェック漏れ起こして、危うくいまおか監督の新作を見逃してしまうところだった!危ない危ない……。
テアトル新宿にかかってるし、あれ、これはピンクじゃないのかな、と思ったらピンク関係者っぽい人があちこちで挨拶交わしてる独特の雰囲気。
うわーっ、こういうのって苦手……いや実際は成人映画館には行けないチキンハートだから、こういう機会はホントにありがたいのだが。

とか言って、でもピンク?と思いながら観始めたら、製作もキャストもスタッフも、そうしたハコ自体はピンクだわ、と思ったが、じゃあピンクと一般映画の境目って??と根本的なところに突き当たって考えたりする。
新宿国際もクローズしていたし、今は一体どこでピンク映画が“正式に” かかるのだろう。チキンハートでもやはりそこは気になる。

そんなことを思ったから、普段は読まないオフィシャルサイトのインタビューなんぞをついつい覗いてしまって、企画の速水今日子氏といまおか監督の言葉に、そうした私のもやもやとした気持ちが全部晴れる感じがして、なるほどなあ、と思ってしまった。
ピンクだけで成立しなくなってきている昨今、いやそれ以前から、役者さんも監督さんもかなりクロスオーバーになってきている。それはそうならざるを得ない&垣根を作ることの無意味さ、クリエイター、演者としての自然な流れのように思う。

でもその中でもやっぱり、ピンク映画というのは一つのジャンルとして、いわば日本の映画文化の一翼を担っている訳だし、完全に垣根を壊してしまったら、ピンクで培われた自由な創作スタイルや芝居スタイルが失われてしまう危機があると思う。
本作は、そうした起点にちょうど乗っかってる感じがして、ひとつのエポックメイキングのような感じがして、とても面白いと思った、んだよね。

ゴールデン街、というのもそうなのかもしれない。いまおか監督の受け答えを読んでいると、企画の速水氏がどっぷりゴールデン街の女であるのに対し、監督はそうではなく、それは私をはじめ、ゴールデン街に触れる機会すらないその他大勢の観客、人間たちに近い感覚で、それもまたクロスオーバーなのかなと思った。
どっぷりゴールデン街されちゃうと、ツラかったかもしれない。ゴールデン街が、こうしたサブカルにも大きな影響を与える場所であることは周知の事実だし、憧れであるのは事実。

でも一方で、それこそピンク映画がそうであるように、誰もが入れて皆に支持されて大きくヒットするようなものであっては、その価値が失われてしまうのだと思う。
ピンク映画の価値を大きく上げたいまおか監督が、ゴールデン街に関しては外側から見つめて作り上げているというのも面白いと思う。確かに彼は、ピンク映画の垣根をぶっ壊した一人であったのだから。

企画に名を連ね、メインキャストで出ている速水今日子氏はピンク女優の大スターだし、勿論何度も見覚えのあるお方。でもこんなに素敵だっただろかと思う……なんて失礼なこと!
劇中、明らかに年下男子の常連客、吉岡睦雄が、ゴールデン街のスナックの和装の美女ママである彼女に岡惚れするのがなんともイイんである。

速水氏は、今回の主演に立てた、過去のある女、東子を演じる工藤翔子氏に久しぶりに再会して、「その寂しい笑顔にやられちゃって」本作を企画したというけれど、速水氏自身もなんとも言えない寂しさがにじみ出るイイ女!
ワケありの男を、そのワケを聞かずにヒモとして抱え込んで、そして自分もワケあり。
ヒモの男、郡司がなめたがるあばらの下の傷は盲腸痕なんかじゃなくって、「昔の男の女に刺された」ってんだから。
それを聞いてにわかに怯む郡司。だってそれは、まさに彼の過去そのものだったから。

郡司を演じる伊藤猛氏は……ホント彼はピンクの歴史を体現する男、と思う。ゴールデン街の常連客として登場する志朗氏(大好き!!)はロマポルの歴史を背負い、吉岡睦雄氏は若い世代の、まさにクロスオーバーを実現している役者さんだが、伊藤氏はホントどっぷり、という気がする。
そのあたりが本作の、ゴールデン街にどっぷり、と妙に重なる。見るたび心配になるぐらい老けこんでいる(爆。ゴメン!)あたりもやたら生々しいんである。
過去を背負ってヒモになった男、その手足の長い長身をもてあまし気味に、手狭な店の二階に身を縮こまらせて居候している哀愁がたまらないんである。

それに引き換えピンクの女優さんたちは、出ては消え、出ては消えなのだけれど、こうしてその記憶を残す顔で現れると、男優さんたち以上に時の流れの切なさを胸苦しいほどに感じてしまう。
速水氏が「やられちゃった」寂しさを全身にまとって登場する工藤翔子氏、演じる東子という名前自体に虚勢を張った強さを感じて、苦しくなる。

後に明かされる過去……裏切った男を刺そうとして、一緒にいた女性を刺し殺してしまった、というものは確かにキビしいんだけれど、不思議とファンタジーのようにも感じてしまう。
郡司を探して迷い込んだゴールデン街から、なぜか脱出することが出来ない。周りまわって、元の「罪ほろぼし」に戻ってきてしまう。
そしてその間、常に飲んだくれている。まるで大人になってすりきれちまった不思議の国のアリスみたい。いやいや、アリスはゴールデン街には迷い込まないか??

でもなんか、ホントにファンタジーみたいに感じるんだよね。それは軽みを誘う音楽、そして演出の故かな、と思う。
ゴールデン街という街の魅力を伝える、夜通しどころか明るいうちから飲んだくれることが許される、意識がふわふわと飛んだまま、ぐるぐると回り続けて出口が見つからない街、という定義であり、それこそが、ここにどっぷり漬かっていない、いわば傍観者としての監督の視線なのかなと思う。

サブカル好きとしては、店に貼られた寺山修二やインディペンデント映画、芝居のポスターに心躍ったりもするけれど、でもそこに漬かり込んでしまったら、それはそれで違う、という監督のドライな感覚が見え隠れする気がするんである。
全きピンクじゃないせいもあるだろうけれど、パーセンテージとしてはピンク並みのカラミを入れてくるけれど、サクッサクッと切っちゃってて、決してピンク的カラミの描写ではないよね、と思う。やはりこれは、クロスオーバーな作品なのだよね、と思う。

東子がゴールデン街の中にとらわれるように出ていけないキッカケとなったのは、「罪ほろぼし」で出会った客、山科につきまとわれたからである。
つまりはヤリたいだけの、仕事は「金の運搬。競馬場からパチンコへ、あるいはその逆も」なんていうホンキでどーしよーもない男なのだが、これが何故だか憎めない。こういうキャラクターはそれこそ、ピンク映画畑ならではのように思う。
こんな男に殺風景なボロアパートに誘われて、「一回でいいから、お願い!」と手を合わされて、「ホラ、バンザイして、バンザイ」なんて言われてうっかりそうしちゃう、最後には東子の方が馬乗りになっちゃう、なんてこと、やっぱりこの独特の、ピンクがベースになった世界観でしか難しいよなあ、と思うもの。

勿論、東子にはそれなりのバックボーンがあって、郡司とヨリを戻すつもりで訪ねて来た訳ではないけれど、酔いつぶれて泊めてもらった店の二階で、彼とママの喘ぎ声がバンバン聞こえてくるし、服役していたこの数年、当然ご無沙汰だった訳だろうし……。
まあ、そういう“だから、そうだろう”みたいな設定自体がピンクっぽいよなアとも思うが、まあでも、本域の?ピンクなら、そこんところをもっとえげつなく描写したかも。

何かね、この山科はちょっとそんな無茶ぶりを許せちゃうような人好きのする感じがあって、それは彼と一緒に飲んでいる場面から同時に登場する吉岡睦雄とは全然違って、それがまた面白いんだよね。
吉岡氏扮するサラリーマンは、そう、サラリーマン、スリムなスーツをびしっと着込んで、「どんな悪いことして貯め込んだの?」とママから言われるような、瀟洒な一軒家に住んでいる。
そこに一人の寂しさはあるものの、キッチンにひとつも食べ物がない寂しさはあるものの……。

そう、こんな吉岡氏見たことなかったから、あら、スーツが意外に似合うとか、ちょっとときめいてしまった(爆)。
スナックのママに岡惚れして、「どうしたいの?」と言われて「今すぐさらいたいです」「ならそうしてよ」と言われて、そうしちゃう、でもその先は自宅でのセックスのみという寂しさは、そう、寂しさ。ゴールデン街からは出たかもしれないけど、さらって思いを遂げるのは、そんなことでしかないという寂しさ。

それで言えば、思いを遂げるとかなんとかいう言い訳、というか最初からそんなことも考えてない山科の無邪気さは、救われるのかもしれない。実際、他の女の子にも手を出すし(爆)。
でもね、この山科にも闇があってね、それはきちんとしたバックボーンのない闇で、だからこそ何かやりきれなくて、だからこそほっておけない憎めなさに通じる。

不眠症なのだと彼は言う。連れ込んでヤッた東子をずっと部屋の片隅に寄りかかって眺めている。
誰にも言っていないけれど、昔ボヤ騒ぎがあった犯人は自分なんだと、今でもバレないかとビクビクしていると、なぜか東子にだけ打ち明けるんである。

そのうち、東子と飲んだくれているうちに、彼女が「服役中に資格を取った」という美容師の腕を発揮して、彼の髪を切ることに。
切ってもらっているうちに、不眠症の筈が、うつらうつらと眠ってしまう。ハデなドクロのブリーフいっちょの姿ってのがまたなんともマヌケというかオシャレをハズしてるというか(爆)。さっぱりした髪の毛で妙にイイ男になる感じもイイんだよなあ。

ゴールデン街というこの狭くて広い、不思議な空間を、燃やしてしまえと思う気持ちに東子もちょっとノってしまって、ノリかえした山科によって危うく実行されそうになってしまう。
でもそれはなされない。酔った勢いで石油をまいて、石油臭くなってオワリである。

その間、郡司を介して牽制しあっていた東子とママがゴールデン街とはハズれたスナックで顔を合わせる。東子は山科の髪を切った後、ママは年下サラリーマンと“ウワキ”した後。
妙にだだっ広いスナックで気まずい雰囲気の中、東子は、流しの歌手にもリクエストした、男運の悪い女のブルースを歌う。
これって、オリジナルソングだよね?私が知らないだけ??いや、著作権がめんどくさかったり、物語世界にピタリと合わせるために、それこそピンクではこうしたオリジナルソングをよく作るもの……。なぜ殺してしまった、私の男運が悪いだけ……そのまんまの世界だもの!
そして白々と夜が明け、ママと一緒に店を出た東子は、自分が殺した女性の墓参りをする。
「郡司の今の女なら、手伝ってよ」と墓石を力任せに動かして、骨を一片ゲットし、郡司に届けるんである……。

先述のインタビューの中でさ、女の犯罪は男絡みが多いから、だからこんな話になった、みたいなくだりがあったのね。そうそう、と頷きかけて……最近はそうとも言い切れないかもなあ、と思った。
いや、女の方はおいといて、男の犯罪も色恋がらみが多いよな、と。そしてそれは、女のしたたかさとは違う愚直さだよな、と。

ファンタジーを感じたのは、そのあたりもあったかもしれない。まあこういう事件もなくはないけれど、基本的には女は打算的で、そうそうこういう事件は起こさない気がする。
ラスト、刺殺し損ねた男を、ジェスチャーだけでえい、と刺してみせて、長年の苦しみを共有した同志として、思い入れたっぷりの抱擁をする東子と郡司。
それはずっとゴールデン街から出られずに出口の見えなかった東子の未来に向けてふさわしいラストだけど、やっぱりどっか、ちょっと、女に対する願望がなくもないかなあ、という気はした。
裏切られた男を殺そうとするほど女は一途じゃないかもしれない、それは男の方かもしれない、と思って。

映画本編ではサブタイトルは付されてなくて、つぐない、だけなんだよね。 このサブタイトルは、確かに映画内容を補足してるけど、それこそB級感を足している気がして、それで私もチェック漏れを起こしたかも、と人のせいにしたりして(爆)。このあたりの事情はどうなっているのかなあ。
東子の事情は後から示されるからさ、封筒に無造作に入れられたお札を持って、富士そばでカレーセットをやけに美味しそうに食べたりするシーンが、後から思えばああ、そうかそうか……と思ったりするんだよね。

それで言えば、女性が料理するシーンが意識的に排除されている意味をふと感じたりするんだよなあ。いい意味ならいいんだけど。
ママは店ではメニューを紙で貼りだしているんだから、簡単なものは作ってるんだろうけれどそのシーンはないし。
朝になると店の和装を解いてラフなカッコでコンビニめしを買いに行き、郡司とイチャイチャしながらちゃぶ台を囲み、おっぱいもむ郡司に、外装をはがしてヨとせがんだりする。
ゴールデン街から出ただだっ広いスナックの若いママは、ペペロンチーノが「ゆですぎて、にゅうめんみたいになっちゃった」と悪びれず、そのにゅうめん状態が映し出されもしない。

それを思えば東子が示すのは美容師としての腕だし、フェミニズム野郎の私はついついうがった気持ちになって、嬉しくなってしまう……のは、その考え方は間違ってる??
でも、ホントに、いまだに、「40過ぎのオバサンが魚もさばけない」とか言うクソジイイがいたりするんだもん!!てめーがさばけ!やってTRYで笑ってるのはてめーらだろ!!

……おーっと、ついつい私情が混じってしまったぜ。うーむ、ピンクは女がいなくちゃ成立しない世界だけど、やっぱり男社会だと、私情を交えて思ってしまうのは、いけないいけない。ごめんなさい、こんなまとまらなさで、終わってしまった……。★★★★☆


妻二人
1967年 93分 日本 カラー
監督:増村保造 脚本:新藤兼人
撮影:宗川信夫 音楽:山内正
出演:若尾文子 岡田茉莉子 高橋幸治 伊藤孝雄 江波杏子 長谷川待子 三島雅夫 早川雄三 木村玄 村田扶実子 仲村隆 伊東光一 谷謙一 小山内淳

2014/7/11/金 京橋国立近代美術館フィルムセンター
増村監督特集三本目。今回は会場ギッチギチ。めずらしく早い回に間に合った!と思ったら、なんで平日の3時の回にギッチギチなのーっ。小学生のお子を連れた親子連れまでいてビックリ。キミは学校はどうした!
いやいいんだけど……国立の施設だからなのかここは設定温度が高くって、隣に人が座ると更に暑くて、しかもこの緊張の物語だからかなりキツいものがあった……いやいや。

まあそんなことはどうでもいいのだが、だがしかし、そう緊張の物語。おっ、脚本が新藤兼人っ。
で改めてデータベースを覗いてみると、肝心のエンディングがち、ちがーう!えーっ、てことは脚本段階でデータベース化されたものが、実際に制作された時には変えられたってことなのだろうか……かなり気になる。
確かにデータベースに残されている結末の方が衝撃的だが、しかし映画の結末になることで愛の複雑さは出たと思う。などとゆーことを言っていたらなんか含みばかりで判んないのでとにかくも始めなければ。

てかホントに、この複雑で緊張の物語が、90分そこそこの尺に収められてしまうんだから、本当に当時の映画は凄くコンパクトにまとまっているよなと改めて思う。
ドラマを丁寧に綴るから長くなるというモンでもないのだ。だってとても丁寧だもの。何一つ落としてないし、登場人物たちの心情も、人間の汚さも、そして美しさもクリアに描いている。
むしろコンパクトだからこそ、それらが鮮やかに浮かび上がる。だってあのタヌキ社長の正体があらわになった時なんてさ……あわわ、もーまた含みになっちゃう。だからだから最初から始めなきゃなんだってば、こーゆーサスペンスはっ。

劇中でも順子のことを愛人、と健三も言い、彼女自身も言っていたけれど、当時は結婚前だったのだから、普通に恋人という立場ではなかったのだろうかと思う。
道子と結婚後、関係を持つことになるのだから、そうなると愛人ともなろうが、でもそれだって一瞬の気の迷い、という感じでさしたる期間も回数もないし。

でも不思議なことに確かにこの順子は最初から愛人、という感じなんだよね。小説家を夢見る男の、恋人というよりはパトロンといった雰囲気で彼を支える女、しかも華やかな美人なんだけど報われない翳がある。
演じる岡田茉莉子がピタシである。そもそも若尾文子と二人で同列クレジットになっているのを見るだけで、その対照にワクワクしたもんなあ!

若尾文子演じる道子は、大きな出版社の社長の娘。ヒット雑誌「主婦の世界」のまさに世界を構築している有能スタッフであり、健三が結婚して事業部の副部長となるんだけれど、彼女は部長としてその敏腕ぶりを発揮しているんである。
しかも和服がしっとりと似合い、出しゃばったキャリアウーマンという風でもない。実際彼女は物語の中盤で、父親である社長が夫を部長に昇格させる人事を「あなたの実力が認められたからよ」と妻らしく喜んだりするんである。

でも何より、健三自身がそれを飲み込めない。実際有能なのは彼女の方であり、自分が部長になるのは日本的風土、つまり男のメンツが立たないという社長の考えに他ならないからだ。
そう考えると健三はリベラルな感覚の持ち主であり、それは小説家の夢を抱いていたという部分から来るものなのかもしれないとも思う。
でも彼は世間的成功を選んで、順子を捨てて道子と結婚したんだしなあ……でも何より何より、彼自身に小説家としての才能がなかったことに直面したからであり、そこんところはなかなかフクザツなんである。

男の才能を、夢を、信じて支える女と、現実を見て社会での成功を支える女とどっちが男にとって理想の女か、そんな究極の選択であって、で、まあ結果的に……結局私はガマンしきれずにオチバレしちゃうんですけれども、健三は道子を選ぶんだけど、一方で順子への気持ちも捨てきれない。
健三はハッキリと道子に、君のことは尊敬している、と言う。愛しているとは言えない。道子は、私が欲しいのは愛情よ、と落胆し、やはり夫はまだ順子を愛しているのだと思う訳であり、健三もそれを否定しきれない訳であり。

そこんところがひょっとしたら、データベースと実際の製作、あるいは更にひょっとしたら、元になった外国原作との相違になったのかもしれないなあ。
実際に結末を迎えてみるとね、一緒にイチから人生をやり直すことを選択した道子に、順子に対する愛とは違う形の愛を、きっと健三はこれからはぐくむ形で持っているのだろうと思うし……。

おいおいおいおい、これはサスペンスなんだってば!もう女としての結末にすっかり心が行っちゃって、本作の肝心なストーリーはどこ行ったのよ!
だってもう、心躍るキーマンが沢山いるんだから!これは人間の汚さ愚かさを描く物語でもあるんだから!
何よりのキーマンは第三のヒロイン、いやファムファタルとでも言うべき利恵。道子の妹。演じるは江波杏子っ。

独特の低い声と喋り方が今とおんなじ!胸を寄せて大きく開いた総レースの赤いミニドレスを着た姿のなんとエロエロなこと!「こうなったら既成事実を作んなきゃ」とばかりにさっさと脱ぎだす威勢の良さ(いさぎの良さじゃなくて!)。
彼女ならそのまますんなり脱いでくれそうでワクワクしたけど、まあこれはそっちがウリの物語じゃないもんですから……(ちょっと残念)。

彼女は、もう一人の何よりのキーマン(一体キーマンが何人いるんだっつーの)、順子のヒモである章太郎にホレちゃう。順子が健三にフラれた後に、彼と同じ形で小説家への夢を支えた男である。
才能がないのはおんなじだったが(爆)、コイツは更にタチが悪かった。まあコイツが言うように、「先輩も僕もおんなじ。小説の夢を見限って、金持ちの女と結婚して成功する。同志じゃないですか」まあここまで直截な言い方はしてなかったかな、でもとにかくいやらしい笑顔を浮かべてズケズケと入り込んでくるイヤな男。
道子は妹に取り入ってきたこの男を最初から好かなくて、別れさせようとやっきになるのだけれど、それが悲劇的事件を巻き起こすんである。

この章太郎を演じる伊藤孝雄氏、うーん、知らない……とか思っていたら、「野のなななのか」 にメインキャストで出ていた!ビックリ!
さすが往年の役者好きの大林監督……いや、ずっと現役で活躍していたお方なのだから、私が認識していなかったのが恥ずかしいことなのだ……ゴメン……。

いやだってさ、ビックリしちゃったんだもの。健三を演じる高橋幸治氏はさすがに知ってた。いやー、鼻が高くて眉毛と目の間が狭くって、すらりと背が高くって、日本人離れしたイイ男!
そのスマートな彼と対峙する、策略家でずうずうしいイヤな男の章太郎を演じる伊藤孝雄氏のインパクトに本当に驚いちゃったんだもの!
順子がショウちゃん、と呼びかけるのも判る、ちょっと人好きのする可愛らしい顔をしていて、そこんところがウッカリ母性本能をくすぐっちゃいそうな感じもあって、危ないの!

実際は最初から危険な男であることは提示されている。冒頭はとても印象的なのだ。
深夜、仕事帰りの健三がタクシーに乗って帰宅途中、エンコしちゃって途中下車、たまたま立ち寄ったバーで待ち人来たらずの順子と久々の再会をするんである。そんな偶然ってあるかよとも思うが、まあ気にしない気にしない。
彼女の首には包帯が巻かれていて、その時にはスルーするんだけれど、次に会う場面、やけぼっくいに火が付きそうになっている場面で、彼女の首のアザがあらわになる。

首を絞めた相手は当然章太郎で、もうこの時には彼はずうずうしく健三の元に押しかけて才能のない原稿をクサされてもめげず、「先輩の真似をしているだけ」と利恵に近づくんである。
まあ近づくっつーか、この時物理的に「おにいさま」と言って近づいてきたのは利恵の方であり、健三が一緒に行くはずだったコンサートに自分が替わりにお供しますよ、という突然の赤の他人のコイツの誘いにアッサリ乗ったのも彼女であり。
利恵は章太郎が自分のバックボーンを目当てにしていることなんぞは先刻ご承知なんだよね。彼女はただ、自分が自由になるための、彼は手段に過ぎないのだ。それがこの二人のヒロインと対照的で突き抜けていて、凄いインパクトなの!

で、そう、順子は結局今でもそんな、男に夢を託すのが自分の夢、なんて生活をしてて。護身用のピストルをこっそり持っているぐらい危険な男なのに、入れ込んじゃってる。
でも利恵と結婚するためにアッサリ捨てられ、まさに身一つで放り出されて、田舎に帰る金も何もなかった利恵は健三に助けを求める。
まさかその同時刻に章太郎が道子に殺されているなんてことも知らずに。しかも自分のピストルで。章太郎が奪った、健三からプレゼントされた指輪を現場に残されていることも知らずに!

そうそう、道子が章太郎を殺しちゃうのよ!そんなことになるまでにも勿論色々ある訳で、すっ飛ばし過ぎな訳で(爆)。
章太郎が殺されるのは半ば自業自得の感あれど、でもそもそもはあのタヌキ社長よ。
彼は男やもめで、道子から、亡くなったお母様を一生愛して過ごしてねと言われて、表面上はマイッタナとなごやかに笑いながら、裏では愛人とヨロシクやっている。
まあそれはいいのだ。後に彼が娘に当たり気味に言うように、男が女なしにやっていけるかと、まあ男の生理現象は少しは認めてやらなくちゃならない。

しかし問題は、その相手、主婦の世界のグラビアモデルであった女にカクレミノとして元伯爵をあてがい、障害児基金の会計を任せていたことなんである。
劇中ではそれもコミコミでの愛人契約、とまでは読み取れなかったけど、この落ちぶれた伯爵が形だけの結婚で、形だけの妻とタヌキ社長の“ハッスル”を覗き見ることを酒の肴の楽しみにしているというこのゆがんだ図式よ!

品行方正、清く明るく美しく、を雑誌のスローガンに掲げていた道子はショックを受け、父親を責め立てるとこのタヌキ、逆ギレにもほどがある主張!
「そもそもお前が悪いんだ。俺には母さんが死んだ後、その思い出だけで過ごせと言い、利恵だってお前がうるさく言うからあんな男に引っかかって、こんな事態になるんだ」
!!!逆ギレにしたってなんとゆー理不尽度100、いやもはや1000%の言いがかり!あまりにまっすぐ理不尽過ぎるので、観客から笑いが起こったぐらい!

でもマジメマジメな道子さんは、それをそのまんま受け止めちゃう。夫が順子とヨリを戻しそうになってるのも、自分に妻、いや女の魅力がないからだと思っちゃう。
実際、そういう対照の描写にしているんだよね。品行方正、きっちりとした道子と、男の見る目がない、男に自分をささげていなければ生きていけない順子と。

でも女としての魅力、色っぽさは若尾文子だって充分に持っていると思うんだけど!描き方の違いでさ、順子はもう既に、セックスの匂いがするんだよね。道子はなんだか……まるで処女チックなの。
勿論結婚しているんだし、ベッドに一緒に入った夫に「抱いて」と清冽なスリップ姿で請う場面も何度となく用意されている。
でも言ってしまえばそれどまりで、それこそ言ってしまえばその結果、証拠となる子供の存在もないし、「抱いて」と言われて抱きしめられる、そこで描写のみならず実際も止まっている気がしちゃう。

おっかしいなあ、若尾文子はすんごいエロなのにさ!そのきっちり着つけた和服の襟元が開かれるだけで、むっちりとエロなのにさ!
そう、開かれちゃう、あの鬼畜章太郎に開かれちゃう。社長の愛人契約や、会計の横領の事実を握られた章太郎に大金の小切手を渡して口止めしようとするも、彼から更なる恐喝を受けてレイプされそうになって、そう、襟元を開かれた道子は、彼を射殺してしまいう。

ものすごくきっちりと着つけているから、ただ胸元を開くだけで力がいって、ギュッギュッて感じで、大して開くことは出来ないんだけど、それが何ともエロチックなの!
それだけに突破されない堅牢さを感じ(もはやそれは貞淑とか清純とかも超えているってこと)、それが突破されそうになるのはもはや、凌辱というより彼女自身のプライドって感じで。
ピストルというアイテム自体、日本にはそぐわないものなのにあっさりと使っちゃって、しかも何発もこのキチク男に撃ち込む非情さ!

お互いにかばう気持ち、あるいは体面を保つエゴで、アリバイを測り合ったことが崩壊につながる。
当然、対面というのはあのタヌキ社長な訳で。最も疑われやすい、その晩章太郎のアパートに泊まっていた利恵を救うために、健三のマンションに泊まっていたことにする。
最初に嫌疑がかかる順子が身一つで助けを求めてきていたこと、最終的には健三自身がたどり着く真犯人、道子が自身のアリバイを作るために無茶なトンボ返り出張をしていたこと、もうボロボロに判っちゃう。

んであのタヌキ社長の逆ギレである。ある意味この社長はコメディリリーフと言っていいほどの単純バカ、大体、伯爵夫人との関係がバレちゃうのも、合いかぎで這入り込んでくつろいで、鍵もかけてなくて。
麻雀をしようと繰り出してきた利恵、章太郎、伯爵夫妻の四人の目の前でだらしなくソファでくつろいでる場面を発見されちゃうんだもの。な、なんてバカ。

で、すったもんだあって、会社の崩壊を覚悟で道子が健三に懺悔、皆に嫌われている私なんて死んだ方がいいんだと、窓から身を投げようとして健三が押しとどめる。
先述したデータベース、そこで道子は死んじゃってる訳で!それって大元になった外国原作がそうなのかなあ、などと推測したりもし……どうなんだろう。
妻に対しては尊敬しているという言葉しかひねり出せなかった健三だけど、でも自分を信じてほしい、イチから生き直そうといい、拘留されていた順子と引き換えに道子が投獄される。

その順子を見送る健三の後ろ姿でエンド。これを見て、男はつらいよと世の男性諸氏は悦に入るんだろうが、やっぱり女は切ない!
一生の相手に恵まれない順子も、激しい恋の相手を忘れきれずに自分と生きることを選択した夫を持つ道子も。対照的だけどどこか似ているその哀れさ。

タヌキ社長の絶対の信頼にこたえて、決して口外しない、必要な時でさえも!な女中ばーさんが、彼女が真剣なだけに可笑しくて、この可笑しさは不謹慎なんだろうと思いながらも可笑しくて!あの仏頂面、真剣さ、何かコントみたいでさあ。★★★★☆


鶴八鶴次郎
1938年 89分 日本 モノクロ
監督:成瀬巳喜男 脚本:成瀬巳喜男
撮影:伊藤武夫 音楽:飯田信夫
出演:長谷川一夫 山田五十鈴 藤原釜足 大川平八郎 三島雅夫 横山運平 中村健峯 柳谷寛 山形凡平 福地悟朗 椿澄枝 清川玉枝 伊藤智子 松岡綾子 山田長正 榊田敬治 真木順 藤輪欣司 丘寵児 渥美君子 美沢由紀子 香川澄子 三條正子 三浦矢柄子 臼井サキ子 春本助次郎 文の家かしく 竹本小和光 鶴沢清三

2014/9/10/水 劇場(池袋新文芸坐)
使い慣れてるデータベースを探るも、20年近く後の再映画化の方しか出てこなくて結構焦る。えーっ、天下の成瀬巳喜男監督なのにぃ。とか言いながら、その天下の成瀬巳喜男を、この年になって細々と追いかけているところ。
このお話、原作はなんとまあ、第一回の直木賞受賞作品なのだという!へーっ!そうなんだ……高田浩吉&淡島千景のコンビの再映画化の方のあらすじ見てみると、本作よりもちょっとワキエピソードが追加されているようだから、ひょっとしたら原作に近いのはそっちなのかも……。

でもなんたって長谷川一夫だもの!それに山田五十鈴というのも、勿論お名前は、勿論!!存じ上げておりますけれども、あまり見る機会がなく……ひょっとしたら、初……?いやいや、そんなこと言ってきっと見ていて忘れているだけの可能性高いから、あまり言わないでおこう(爆)。
でもこんな、輝くばかりの可愛さ(美しさというより、可愛さ!)の頃の山田五十鈴はきっときっと初、かも!しれない……(結局自信ない(爆))。

この日の二本立てはどちらもヒロインが同時期の山田五十鈴で、まあー、本当に、可憐というかもう、白黒でもお肌の美しさが判る!
いや白黒だと、当時だからドーラン塗りたくりと思うところだけど、それでも透き通るように色白の美しさが目に見えるよう!
うりざね顔というのはこーゆーことを言うのだろうなあ。目がつぶらで愛らしく、口元も慎ましく小さく、日本髪がすっくりと似合うこんな女優は、やはり現代ではとてもとても望めない!!

だけど。可憐で大人しやかに見えるのに、まー、このお豊さん、芸名鶴八は、気が強いったらないの。コンビを組んでる鶴次郎に注意されるとすぐにブンむくれて大ゲンカ。
あ、コンビっつーのは、新内語り。今の時代で新内語りと言っても、スッとは通じないよなあ。実際私だって、知らんかったし(爆)。
朗々と語る太夫が鶴次郎、演じるは長谷川一夫。それに絶妙に息を合わせる三味線が鶴八、山田五十鈴。

長谷川一夫、しかも人気の芸人、しかもガマンが効かないおぼっちゃまキャラ、しかも、我を張って飛び出しちゃって落ちぶれちゃって地方ドサ回り、ああ、なんて見覚えがあり過ぎる……半年ほど前観た、「残菊物語」の彼自身にソックリ!なんと妙なることに、その時の相手は淡島千景だったのだ……。
しかし本作の鶴八は、「残菊物語」の淡島千景のようにひたと耐えて彼に寄り添い、果ては別れ別れの身になっても彼のためにと耐え忍び、ついには病を得て息絶える……なあんてタマじゃないのだ。
確かに別れ別れにはなるけれども、それはお互い似た者同士の、プライドの高い、しかも意地っ張りだからなのだ。
彼が地方ドサ回りをしている間、落ちぶれている間、彼女はお金持ちの奥さんになっちゃってるのだ。

おーっと、またしてもまたしても、先走り過ぎだって(爆)。いや、あまりのデジャブだったもんだからつい盛り上がってしまった(爆爆)。
天下の美形の誉れ高い長谷川一夫なんだけど、どうも私はまだまだ経験値が浅くて、こーゆー出会い方しかしてないあたりが。
でもだからこそ面白いけど。今んとこ私の中では、長谷川一夫はお坊ちゃまで、色恋に不器用で、結果愛する女を失っちゃうバカな青二才なの(爆)。

鶴八と鶴次郎はまだ20代なんだけど、大変な人気なのね。この若さで名人会出演の大抜擢、人気も実力も折り紙付きなんだけど、ケンカばっかりしているのがタマにキズ。
だからといって仲が悪い訳じゃない。むしろ逆。物語の冒頭は、二人仲良くお寺のお参り、屋台なんぞをひやかしたりして、つまりはデートしている様子。
電車の中でも仲良くぴったりとくっついて座り、おみくじが良かったから、きっと名人会に出られるわよ、と鶴八。おやお前、こんなところにほくろがあったかい、と鶴次郎が鶴八のうなじを覗き込み、周りの目を気にした鶴八があからさまにつんとするのがも、萌えるー!!だってこのシークエンス、かなりエロっぽいじゃん!
二人がもうそういう関係にあるのかと思わせるぐらいだったけど……違うか……でもこの時代は、そういう推測で結構進ませちゃうからなあ。

実際は、本当にプラトニックだったんだろうか、などと考えるのはヤボだろうか(爆)。だって意地を張った末に他の男の元に鶴八は嫁いじゃったんだから、そうなるともう、人妻だったらもう……じゃん(爆)。
……すいません、またしても勇み足。えーとえーとえーとね、そうそう、鶴八にはパトロンがいる訳。パトロンっつっても、清い意味での。
「親父の代から後援者だったんだから」と鷹揚に構える、これぞ真のおぼっちゃま。舞台がハネた鶴八の楽屋に訪ねる様もなんとも粋で、嫉妬してむくれる鶴次郎のガキっぷりが如実に鮮やかになっちゃう。
小粋な料理屋の窓の桟にもたれかかる、なあんてこれまた粋な姐さんの鶴八に、「鶴次郎さんと一緒にならないんなら、私があなたをもらっちゃおうかな」
き、き、きゃーっ!!この松崎を演じる大川平八郎、えっ、知らない、私(汗)。凄く素敵で、そりゃー、こいつにとられても仕方ないと思っちゃう。

でもさ、いつもいつもケンカはしてるけど、そんな決定的なケンカ?と思うほど、もう軽々とケンカしちゃうんだもん。
それでも前半は、その軽妙さが確かに面白かったかなあ。あまりにも鶴八とのケンカ別れがしょっちゅうだから、贔屓筋から縁談を持ち込まれるのね。
でもその娘さん、三味線がヒドくて、鶴次郎、閉口しちゃう。そんなところに、ケンカしてた筈なのに余裕ぶっかまして鶴八がやってくる。

縁談?三味線が上手いって?あら、いいじゃないの。良かったわね、お貰いなさいよ。意地っ張りな鶴次郎が貰うさ、と返すと、そうよ、お貰いなさいよ、とこのキャッチボール?がしれっと何度も続く訳!
当然、焦っているのは鶴次郎の方で、鶴八はもう余裕の表情で、お貰いなさいよ、と繰り返す、そのテンポ感が最高におかしいの!
こういう場面は何度も繰り返されて、上質のコミカルで、まさにこの二人の相性の良さを示しているようなもんだったのに……。

興行主の計らいで、慰労の温泉旅行が組まれる。そこで二人はようやっと、お互いの気持を確かめ合う。
つってもあれは鶴八がカマかけたんだよな。パトロンの松崎さんとの結婚話がある、って。
それでようやく鶴次郎は自分の気持ちを打ち明けて、一緒になろうと言った訳だが、「これからは、もう松崎には会わないでほしい」うーわ、うーわ、こーれは明確に暗雲立ち込めたぞーう。

結果的には邪心なく本当に紳士な松崎に嫉妬したことで、二人の関係は崩壊した訳で、本当に鶴次郎がバカとしか言いようがないんだが。
しかしこれだけ彼が嫉妬していることを判ってるんだから、金を融通してもらったことがバレた時のことを考えないっつーのも……この辺は原作ではツメの甘さはないんだろーか……。

あ、えーとね、二人は一緒になることを決意して、それならば先を見据えて、寄席を持ちたいと考えるのね。それは鶴次郎の考えだったからこそ、やっぱり鶴八は、全てを打ち明けるべきだったよなあ。
鶴八のお母さんの遺産を合わせれば、居抜きの寄席を何とか持てる、鶴八はそう言ったけれど、実際は松崎から金を借りての実現であった。

あ、重要なこと言い忘れてた。鶴次郎は鶴八のお母さんがおっしょさんなのさ。つまりこの微妙な力関係(爆)。二人が喧嘩になるのはいつも、鶴次郎が鶴八の三味線を、「お師匠はこう弾いた」と言うから。
私はアンタの師匠の娘なんだよ!というプライドの鶴八で、毎回修復できないほどの大ゲンカになっちゃう。
そのたび、鶴次郎の番頭と興行主の竹野が二人を必死に説得して何とか元に戻していたんだけど、二人が結婚を決め、寄席を買うことを決め、看板をかけ替えて挨拶状を出す段になって隠れていた爆弾が大爆発。

松崎への挨拶状からことの次第を知った鶴次郎は、もう男の嫉妬の手の付けられない大嵐、なんで黙っていたんだと鶴八に怒鳴り込み、まあ話していたってそうなっただろうけれど、やっぱ黙っていたのはマズかったよな……。
でもそこは、アンタがそうなるから黙ってたのに、とまたしても似た者同士の鶴八も突っぱね、ここまで話が整っていたのに、もう周りはどうすることも出来ないほどに二人は意固地になっちゃう。
鶴八は松崎の元に片付くときかなくて、鶴次郎も自分ひとりでやっていけるときかなくて、別れ別れになっちゃうの!信じられない!!

だってさ、その直前まで、それまでのケンカを乗り越えてのラブラブだったのに。新しい寄席に新聞の取材も来てさ、「好きあった同士で新しい寄席」なんて写真入りの記事に、鶴八の若い娘さんのお弟子さんたちがキャーキャー言って喜んでいるのが可愛くて、それに照れてる鶴八も可愛かったのにさ!そこからあっという間の転落なんだもん!
先述したけど、ドサ回りで落ちぶれ、ついには酒浸りにまでなる鶴次郎=長谷川一夫の姿は「残菊物語」のデジャブかと思うほどであり、田舎町に貼られた興行ポスターを、子供たちが無邪気に破って小川に浮かべる紙船にするなんてシークエンスは、その小川を流れる紙船を追うショットのわびしさとか、なるほど、こーゆーあたりが名匠の腕なのかしらんと(爆)。

いや実際、それこそ「残菊物語」ではさ、落ちぶれに落ちぶれても、その傍にはこんなやさぐれダメ男なのにそばにい続けてくれる、その才能を信じてくれているけなげな女がいる訳なんだが……ここにはいない。ある意味、そーゆー意味、本作は、現代的な女の強さがあるのかもしれん、と思う。
「残菊物語」は確かに美しかったが、あれはヤハリ、前時代的な日本の男女の価値観だったと思うしさ……。

本作で、愛し合っているのに、ようやくその気持ちを確かめ合ったのに、その未来を形作る寄席の契約も、もう挨拶状を配るまで、ほぼ完結するまでこぎつけたのに、いわば男の嫉妬だけで、しかもそれを女側が、自分のプライド、アイデンティティを尊重しない、汚された、という観点で許さず、崩壊する、なんてさ、凄い、ある意味、ある意味、めっちゃ、フェミニズム的展開よ!
まあ、本作の時代設定では、その展開だと女は金持ちの奥さんになるしかないんだけど、でもそれにもちゃんとオチが待っている。

番頭さんが凄いイイ人でさ、更に言うといい具合のコメディリリーフ。特に好きなのは、新しい寄席の名前をいくつも考える鶴次郎の問いかけに、ポカン気味で応対してズレまくる感じ、これはなかなかの高等技術っすよ。
主従関係なんだけど、アホなお坊ちゃまをたしなめる番頭さん、なんともいいコンビなんだよなあ。

落ちぶれまくった鶴次郎を心配して探して探して、もう一度、チャンスをと奔走する。ドサ回りをして、酒浸りになっても、その芸は衰えていないと、彼だけが信じて。なんでそんなにこんなクズ男に(爆)。
で、もう悠々自適の人妻である鶴八に声をかけ、もう一度彼と組んでくれないかと頼み込む。もう彼女は余裕があるから、なのか……、とにかくその申し出を了承。

すっかり大人になって分別のついた二人は、名人会を見事成功させ、帝劇?帝国ホテル?どっちだったかな……(爆)とにかく、晴れ舞台のクチが舞い込む。
当然やる気の二人、と思いきや……当然やる気ではあったんだけれど、もう人妻、堅気の奥さんである鶴八に遠慮する鶴次郎に、「芸人の血を思い出したの。あの人がダメだと言うなら、別れる」と言い放つ鶴八。

ば、ば、ばか野郎……。松崎の旦那がひとかどの人物であり、芸人である二人の才能を応援していたのは最初から明らかだったじゃない。
反対なんかする筈ないと、何より鶴八こそが請け合っていたのにこんなことを言ったのは、それは、そりゃ絶対、今も鶴八は鶴次郎にホレているからに他ならないじゃない。

そんなことは言わないさ、そんなヤボなことは。でも鶴次郎は、ヤボなお坊ちゃまだから、彼女への思いを断ち切れないままここまで来た雰囲気マンマンなんだもの。
……まあこの当時だからか、尺の問題か判らなんだが、松崎氏は常に粋人として高みにいて、鶴八にホレているがゆえの生身の部分を出さないところが物足りないトコなんだけど、それがないからこそ、鶴八が人妻となっても、二人の関係は純愛でいられるのかなあ。

結局ね、二人は別れる。大人になった筈なのに、あの頃のように鶴次郎が子供っぽいケンカを仕掛けるから、そんでまんまそれを受けてブンむくれて鶴八が出ていくから、おいおいおい、成長ないにもほどがあるぞ!と思ったら……。
「せっかく堅気の奥さんになったのに、芸人を許されなければ別れるとあいつは言ったから」芝居を打ったというんである!その涙酒に番頭さんが涙ながらに付き合って、エンド、いきなり!

ええ、ええー!!そんな余韻もなしに、もういきなり哀しい結末って、そんなそんな!アゼン!!そりゃ、この当時はそういう終わり方もあるけどさあ、それにしても……。
だって鶴八がただ怒ったまんまで、久しぶりの再会、久しぶりの舞台、その昂揚、なのに理不尽なケンカ……なのに、ただただ単純に怒ったまんまで幕切れだなんて!!
あー、……判った判った、つまりはこれは男側の物語であり、男の辛さ切なさを描いている訳ね。なーるほど、なるほど。フェミニズムさんは納得しましたよっ。

二人が別れる中盤まではね、確かに二人、凄く若いの!そんな痴話げんかもしょうがないかな、と思う。でも数年の時を経て再会する二人は、実際はそのまんまの年齢な筈だけれど、きちんと年をとってて、大人になってて、役者やのう、と思う。
女性の場合は化粧の仕方……口紅の、唇の形とか、やっぱり当時はそういう部分が明確で、大人になった彼女の方が、形式的な唇の形をしててね、映画って、文化風俗を映すなあ、と思う。
勿論着物、種類、着方、襟足の抜き方とかさ、違うから、女の方が形として明確なんだけど、彼がそうじゃない部分で大人になった姿を見せるから、ああ確かに、成瀬巳喜男、そして長谷川一夫は凄いんだなあ、と思う。そしてかつての日本文化も。やっぱり今、これは出来ないよ!!★★★★☆


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