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「の」


2014年鑑賞作品

野のなななのか
2014年 171分 日本 カラー
監督:大林宣彦 脚本:内藤忠司   大林宣彦
撮影:三本木久城 音楽:山下康介
出演:品川徹 村田雄浩 松重豊 窪塚俊介 寺島咲 山崎紘菜 柴山智加 内田周作 細山田隆人 小笠原真理子 イ・ヨンスク 大久保運 小磯勝弥 斉藤とも子 猪股南 相澤一成 パスカルズ 根岸季衣 原田夏希 左時枝 安達祐実 伊藤孝雄 常盤貴子


2014/5/22/木 劇場(有楽町スバル座)
正直、前作の「この空の花 長岡花火物語」から、大林作品に対してはちょっと心が固まってしまっている。その前作がどんな話だったかも、どこか心から追い出してしまっていたことを、今改めて読み返して思い知らされてしまった。
あの時はどこか言いつくろうように書いていたけれど、本作に対しては私、かなり心を閉ざしてしまった自分が否めない気がしてる。

そうか、「この空の花」も、3.11と福島が色濃く投影されていたのだ。考えてみれば大林監督もかなりいち早くその題材を手掛けていたことを思う。
後からぞろぞろ現れる、クリエイターなら入れ込まなくちゃ的な3.11映画組ではなかったのだ。ちゃんと地元にも入り込んで義理を尽くしてる。だけれども……。

正直、本作に感じたのは、義理で作られるとこういうことになっちゃうのね……という思いだった。長年交流してきた芦別の映画交流会、早世してしまった立ち上げ人の鈴木さんとの約束、芦別で映画を作ること……。
ただ芦別で純粋に映画を作る、そのピュア感は正直、感じられなかった。芦別サイドの展開としては、後半になってくるとなんだか、芦別史をもれなく記載する、郷土史映画のような気がしてきてしまう。

炭鉱やその後の観光化、カナディアンワールドの失敗、いいんだけど、それらを説明する登場人物たちの台詞がどんどん、郷土史の読み上げの様に感じてきてしまうと、いくら「過疎になっても、心まで過疎になる訳じゃないから」という鈴木氏の残した言葉を台詞に仕立て上げても、ずどんと心に直球で入って来てくれない。

それでも、芦別オンリーで作られていたら、そんな描写の仕方でも、ひょっとしたらずどんときたかもしれないと思う。
実は戦争は8月15日に終わっていたのではなかった、北の果て、そして北方領土では玉音放送など聞こえていないが如くに空襲や戦闘が続いた。それが後半のメインの展開になってきて、郷土史から戦争映画の趣になってくる。
でもそれでも、それを入れても、やはり芦別オンリーでいられたと思う。確かにそこで生きてきた人たちの軌跡であり、前作から監督がこだわっている、戦争を語り継ぐこころざしでもある。
でもそこに、3.11を入れてくる。南相馬を入れてくる。私の心は固まってしまった。

先述のようにスッカリ忘れてはいたけれど、前作でも3.11は入ってくる。同じく、戦争と同時に語られる。
でも前作では少なくとも、その長岡という地が避難民をいち早く受け入れたという下地があり、そして花火が原爆とほとんど同じ作りであるというトリビアがあり、そして監督は広島出身である、という、まあ、つながらなくもないリンクがある。でもこの芦別の物語には、あるのだろうか。

正直、ね、前作でも、戦争と同時に語られる3.11に違和感がない訳ではなかった。確かに戦争の様に悲惨な出来事だとは思う。原発と原爆は重なるものもあると思う。でも、同じぐらい悲惨な出来事なら、同列に語ることが出来ないぐらい、悲惨なのだという思いを、あの時も感じていたように思う。
その後出てきた小林政広監督の「日本の悲劇」で、その思いを強くしたけれど、「この空の花……」の時既に、私はきっとそう思っていたんだ。戦争の片手間の様に3.11を、福島を語らないで、と。

まるで記号の様に繰り返される2時46分。おじいちゃんの止まった時計も、駅の時計も、ことあるごとに誰かが時間を覗き込むと、いつもいつも2時46分。まるでどころか、本当に記号、ただの記号だ。
そりゃあ最後にはその時間が動き出し、未来に向かって時間が動き出した、と得々と言いたげではあるけど、でもそれじゃ、あんまりだ。今の今まで、そこから時間が止まっていたと言いたげじゃないか。それこそ戦争に絡めているんだもの。その昔々から、時は止まったままだと。

戦争は繰り返しちゃいけない、語り続けなければいけない。それは判る。判ってる。でも誰かが何かの形で戦争を知った後も、それを繰り返し、手を替え品を替え、忘れるな忘れるな、と言われることへの恐れと疲れを感じる。
それはそれこそ、3.11を語るあまたの作品で既に、少し感じているところでもあるが、戦争のそれはまたちょっと違ってる。
あの戦争から時が過ぎて、その悲惨さを語り尽くしてしまって、だったら何を語り継ぐべきなのかという段階に来ている気がしている。

正直、今大林監督が、語り継がなければ、という段階に遅れや曖昧さを感じるのだ。
戦争が悪いことなのは判ってる。でも戦争、ということが示すもの自体があまりに大雑把であいまいになってきてる。
確かにあの戦争は、大きな戦争は、人間が起こした愚かなものだったと思う。あるいはその後に起こったいくつかの、大国のエゴが泥沼化させた戦争もそうだと思う。

でも今もなお世界各地に起こっている戦争……紛争とかクーデターとかいう言葉に置き換えられはするが、やはり戦争……のことを子供たちに聞かれた時にどう答えるのか。あの戦争もこの戦争も同じ戦争、やっちゃいけないのだと、単純に言えるのか。その違いを私たち大人は、子供たちにきちんと説明できるのか。
自分たちの権利や、アイデンティティや、信じるものを守るために命さえ賭して闘う人たちが、今も世界中にいて、それもまた戦争で、戦争は悪いことだからやっちゃいけないよね、と言うのか。その時、戦争ってつまり何なの、なぜ起こるの、と言われて、答えられるのか。

あの大きな戦争から遠く過ぎて、戦争を描く日本映画がどんどん切実性を失っていく中で、徐々に芽生え始めた疑問だった。
そしてここ最近の世界情勢を見るにつけ、その思いは大きくなった。戦争を語り継ぐには、もう一つ大きなステージを渡らなければいけない、そう思った。
それには、語り継ぐだけじゃダメなんだと。正直、……今生き残っているクリエイター(ヒドい言い方だけど)じゃ、ダメなんだと。

芦別の鮮やかで、そして叙情的な四季の中を、楽隊たちが行き行きていく。美しいし、詩的で大林監督チックだけど、この叙情の中に閉じ込めてしまったら、芦別は、いや日本は、世界は、ダメだと思った。
原発に代わるエネルギーが石炭だと、改めて見直されて、でもそれも結局先があるし、長男の次男、松重さん演じる春彦は、様々なクリーンエネルギーの可能性が、この北海道で実現していくんだと熱く説く。

彼は原発関連の仕事についているという設定で、だからこそいろんなことが見えている。泊原発の停止なんていうあたりはリアルな状況ではあるけれど、正直、北海道は3.11、そして福島の原発事故にリアクションというか危機がちょっと薄い気がしている……。
だからかなあ、この物語に3.11が、福島が入れ込まれることへの違和感を感じるのは。そもそも東北同士や、あるいは内地と呼ばれる中でならアレだけど、北海道と福島って、あんまり結びつかないんだよね……。

そんなことばかり言っていたら進まないので、とりあえず最初から行く。舞台は当然、芦別。物語の中で鮮やかな四季が描かれるけれど、メインはこの北の果ての地の、白い白い雪景色である。
「星降る文化堂」なる古びた小さな展示館に老人と孫娘が住んでいる。……というのは、孫娘が「おじいちゃん!」と慌てて駆け込む描写で判る。
発見した時にはもう虫の息。親戚一同が集まってほどなくして、92歳の大往生を遂げる。

親戚一同と言ってしまったけれど、彼の奥さんと子供たちはいない。総じて、彼より早く死んでしまった。
残っているのは妹の英子、これまたもう御年82歳で、和服にソックスズック靴といういでたちで、颯爽と雪道を車を駆って現れる。
そしてあとは孫、ひ孫。長男の長男、長男の次男が50前後の感じで、次男の子供二人がその間を飛んでぐっと若く30前後。
長男の長男の娘、つまりひ孫の女の子も加わり、物語の前半はバカな私は頭の中で相関図を必死に描き続ける。

ここ数年の大林監督の描写の特異性で、カットをひっきりなしに短く割って、その中に人物の台詞も畳みかけるように重ねていって、その調子で人間関係の説明を済ませてしまうから、バカな私はかなり焦るんである。この描写のヴィヴィッドな感じはかなり、好きなんだけどさ。

長男の長男の娘、おじいちゃんのひ孫のかさねちゃんは、彼らの知らないところで、次男の息子の秋人と出会っている。
そこは遺跡発掘現場。そして彼のツレが、南相馬から故郷の芦別に帰って来て、後に、この時にどうやら彼と恋に落ちたらしい良子である。
秋人の趣味である伝書鳩に運命を託した二人、彼女は「放っておかないで」と鳩に託した。
……恋人同士に社会性メッセージ込め込めだよなあ。まあいいけど……。この時点で先述のように、3.11込め込めに心が固くなっているもんだから、どうにもいけない。

でもキャストたちは魅力的ではある。数多くの登場人物の中で、主人公である寺島咲嬢は、大林作品初登場 の時からすっかり気に入られてる感があったので、その後なかなかうまく売れないジンクス?があったのでちょっと心配してたのだが、そこそこ生き残っているようなので一安心(不遜な言い方……)。
窪塚弟君も結構、大林組常連なんだね。お兄ちゃんよりお兄ちゃんらしい固まり加減が好みである。
細山田君は、正直ここんとこ大林作品でしか観てない気が……ムダな心配だったらゴメン(爆)。

何よりオドロキなのが、柴山智加嬢!!「ふたり」「デンデケ」で恋に落ちた彼女の消息が気になって、結構探したりもしたが、大林組役者、結構その後続かない説に当てはまって(どんな説だ……)、その行方がようとして知れなかったもんだから。
あのトキメキ少女が、コワいアイメイクバッチリで、「看護師さんなら持ってるでしょ、アレ……」と生理用品を求めてお尻をモジモジさせる神経質な女だなんてショーック!
しかも常盤貴子に向かって「美人なら私もそうだけど、あなたはそれを自覚してない」なんて台詞を言うなんて!いや確かに智加嬢はかわゆいけど、美人というカテゴリでは……てか、そんな台詞を吐くようなキャラでは……ギャーッ!!

……すいません、とりみだしてしまいました……。えーと、そうそう、常盤貴子、なのよね。主人公、というか語り部が寺島咲嬢なら、一番メインのキーパーソン、こっちが真の主人公かな、と思われおるのは常盤貴子。
だが、彼女は結局幽霊とか、そーゆーことだったの??どうもよく判らない……こういうオチってあんまり好きじゃないなあ。一応オチとして説明されるのは、”よみがえり”という言葉によって。マジか。

このおじいちゃん、この地域で長く医療を務めた鈴木光男の個人病院に、後に正看護婦の資格もとるまでになる清水信子が滝川から訪れ、住み込みで働き始める。その最初から、綾乃という名前が見え隠れする。繰り返される。

その常盤貴子が登場した時から、なんか幽霊っぽいなあ、と感じてた。寺島咲嬢演じるカンナには明確に見えているし、「プロ(看護師)だし、身内ですから」と紹介した時に、それなりにザワッとはしたけれど、信子が登場するたびに、周囲に彼女が見えているんだか見えていないんだか、微妙絶妙な雰囲気を醸し出してた。
彼女がまとっている喪服も現代のスタンダードじゃなくて、アンティークモダンとでも言いたいような、模様の入ったジャケットにレースで目元を隠したベレーをかぶって、それこそ「星降る文化堂」そのままの、そこにおかれたまま忘れ去られた雰囲気満点だったんだもの。

しかも彼女がいつも携えている中原中也、夏の真昼の青い空のまま止まってしまったその詩を、時を超えて伝えたのは、よみがえりのその祖である、山中綾乃(キャスト紹介ではこの字なのだが、ストーリー解説では綾野。どっちなんだろう……まあいいや)。
おっとびっくり、予想してなかったキャスティングの安達祐実。この人はまるで子役の時代を閉じ込めたように、その身長といいボブカットといい、まんま雰囲気を閉じ込めていて、それなりに赤裸々な役柄なんだけど、そのあたり妙に皮肉な感じがしたりもするんである。

だってこの年で16歳の役だもんなー。それこそまさに、時の止まった安達祐実だよ。
戦争が当時の青年たちの青春だった、贅沢なものだってあったんだと、おじいちゃんが入れる美味しいコーヒーは、残された妹や孫たちを残らず魅了する。
そのコーヒーを人生最初に飲んで、「苦い……でも好きになりそう」と右耳に髪をかき上げた綾乃。そのよみがえりの信子。
綾乃はおじいちゃん=光男の友人の思い人で、戦争がその運命を分ける。樺太に渡った友人を探しに彼女と共に渡った光男は、そこで友人を見捨て、裏切る。
彼女に乗っかるソ連兵の首をはね、そして、「殺して」という彼女の懇願に負ける形で、その血に濡れた武器をそのまま彼女に突き刺す。

て、あたりの描写はいかにも大林監督的で、はだけられた胸も、裸になった姿も、炎やグラデーションでポップ(というのもナンだが)隠されてしまう。
まあ、戦争の残酷さを生々しく描くタイプのお人じゃないにしても、女優はなんなく脱がせてきた手腕があるだけに、結構ガッカリする。
だってさ、台詞では結構生々しく言ってるし、それが実際、説得力あるじゃない。あるがままの姿を描くのに、衣服を着ているなんて、ていうの、まさに絵画に裸婦が描かれる明確な理由だし、裸婦のみならず、人間としてなんだし、そして何よりラブとしてなんだし……。

でも安達祐実は、そして常盤貴子も大林監督でも脱がないのね。なんということ(爆)。
あんな、エマニエル夫人みたいな籐椅子に座ってポーズとってたのに。あれって絶対、エマニエル夫人想起させる椅子でしょ!それで脱がないってことに、憤慨を感じるのはおかしい??
それに常盤貴子は愛するセンセーの前でヌードモデルやってたのに、ソファの影でニアミスって!あれ?常盤貴子はどっかで脱いでた過去があったように思うが……。

結局信子は、実体じゃなかったのか、判らない。最後までなんだか、曖昧模糊としている。
なななのか=49日を花咲き乱れる丘で、「大人だから」とポットに入れた熱燗を酌み交わす。でもやっぱり、おじいちゃんのこだわってたコーヒーも持ってきている。やっぱりこれよね、と酌み交わす。
冬になると綿帽子をかぶったようになる墓地の景色に、カンナの言うように叙情を感じはするけれど、かさねの言うように、女は結婚してしまえば別の家の人、なのだ。

私なんかはね、そういう日本的事情を否定的に感じるフェミニズム女だから、なんかザワザワ……。
早くに”美男の”ダンナを亡くした英子さんが、私は田中だからと言い、かさねちゃんが、私も結婚したら別かあ、と言い、カンナが、私はこのままだから、守っていくという含みを持って言う。
しかしその後、最後のシークエンスで、それまでカンナとの関係を考えると何とも思わせぶりな登場の仕方だった主治医の若杉先生がニコニコ丘を登ってきたりして、うーむ、これを女的ハッピーエンドと言う気なら納得出来んぞ。私のよーなフェミニズム女を最も逆なでするエンディングじゃ!★★☆☆☆


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