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マエストロ!
2015年 129分 日本 カラー
監督:小林聖太郎 脚本:奥寺佐渡子
撮影:清久素延 音楽:上野耕路
出演:松坂桃李 miwa 西田敏行 古館寛治 大石吾朗 濱田マリ 河井青葉 池田鉄洋 モロ師岡 村杉蝉之介 小林且弥 中村倫也 斉藤暁 嶋田久作 松重豊 宮下順子 淵上泰史 木下半太 中村ゆり 綾田俊樹 石井正則 でんでん
そう、正直そこ一発、だという気がする。結局のだめがあったから、どうしても分が悪くなる。
のだめの劇場版はあまりに急ぎ過ぎた感があり、成功とは言えなかったとは思うけれど、ドラマ版の成功があったからこそ観客を引き連れてこれたし、それぞれの人物のバックグラウンドがもう前提として存在していた。
まあ、いきなり劇場版に遭遇した観客にとっては同じように不満が残っただろうけれど、でも、前提がそもそもあるのとないのとではやはり大きく違ってくる。
本作は、映画の尺として一気に見せなければならない、ということに対してシュミレーションがなされたような感じがしないというか……。まあそれはね、私がバカなんだと思う(爆)。名前と顔が一致しない、役名がなかなか覚えられない、もうバカまるだし(爆爆)。
劇中、指揮者と団員との軋轢以前に、団員の中でのいざこざがあるんだけれど、楽器名と役名、それを演じる役者とのシンクロに頭を抱えてしまって、もうこれじゃダメだ、ダメなのは私(爆)。
オーボエとクラリネットの確執は一番判り易かったけど、「オーボエに合わせるのが当たり前だろ」というのが何故なのか、クラシックに詳しい人なら当然の常識なのだろうが、そういう細かい疑問符が沢山出てきて、そのたびに作劇を追う思考が止まってしまって、悩んでしまう。作劇を素直に楽しめなくなっちゃう。うぅ、単に私がバカなんだということなんだろうが……。
まあ、ぐだぐだ言っていても始まらないので始めから行くと……でも始めって、どこだろう(汗)いやいや(汗汗)。
ともかく、まあ、主人公。中規模オーケストラ、彼ら言うところの「国内ではそこそこだけど、国際的には全然」という中央交響楽団のコンマスだった香坂真一。
真一。のだめの真一と同じ名前なのは偶然なのだろうが、クラシック漫画→映画の流れを考えると、きっと誰もが真一といえば玉木宏の千秋真一を思い出してしまうだろう……と思うのは、ただ単に私がのだめファンだからなのだろうか??
でもそう思ってしまうから、どうもトーリ君が見劣りしてしまう(爆)。ゴメン(爆爆)。彼って、その鼻炎気味なお顔の雰囲気が、どーにも気になるのよー。いや、勝手な言い草だが(爆)。
若き才能の持ち主、コンマスとして、ベテランたちにも指示する立場なんだけれど、台詞ほどに彼の自信や傲慢さが立ち上ってこないのがツラい。
まあ物語の展開上、指揮者に押され気味になっているというのはあるんだろうけれど、それまでのバックグラウンドを推測すれば、彼は若き才能のあるコンマスとしての自信は絶対にあったはず、だよね?偉大なる父親という、まあこれまた千秋サマにまるかぶりする印象だけど(爆)、言ってしまえばありがちなコンプレックスがあったとしても……。
何度も言うけど、コミックスを映画化する場合のどうしても足かせになる、尺の問題はあるにしても、真一の人物像、いやざっくばらんに、キャラが、なんかしっくりと入ってこないんだよね。
ルール違反ではあるけれど、漫画原作の設定を覗いてみると、真一が今、あんな豪奢な部屋に一人暮らししているに至る環境も判るけど、映画を観ていると、それ自体が気になってしまう。家族は?一人なのになぜあんな豪華な?そんなにコンマスの経験があるって金持ち?……みたいな。
でも、少なくとも映画で説明される真一の家庭環境って、あんなゴーカな部屋に住める感じには思えないというか……。国内ではまあまあだけど、国際的には全然、と自嘲する、解散してしまったオーケストラの実情が、こと彼に関してはなんか、全然、見えてこないんだよなあ。
てゆーか、その他のメンバーとの差異があり過ぎるからか。”才能ある団員は、他のオーケストラに引き抜かれた”結果残った、人数もショボければ醸し出す雰囲気もショボい団員たちは、普通の主婦してたり、配送のバイトしてたり、もうその楽団自体定年で引退していて技術が追いついていなかったり、”普通の人以下”って感じなんだよね。
それに対して真一だけが、独身貴族を地で行くというか、妙にセレブリティな雰囲気を醸し出しているというか……。
それこそのだめの真一君みたいなんだけど、本作のトーリ君の真一君は、そのキャラ設定が他の人物たちと比べて、弱い、弱すぎる。
団員はもとより、メインキャストである新参のフルート奏者、あまねや、何より謎の指揮者……本作の真の主人公は彼だよね……天道徹三郎のたどってきた、数奇で貧しい、厳しい人生と、真一とが対照的に据えられているんだろうけれど、対照的にすることで産まれる軋轢の面白さとかが、全然なくて、なんか彼だけが、リアリティがないって感じで……。
いや、ね、天道の過去、オペラハウスの所長を助けるために詐欺まがいの罪をかぶったり、余命いくばくもない妻のために借金を重ね、しかもラストのラストは、この妻だけのためにホールを貸切り、オーケストラに演奏させるという、これ以上マンガチックなことがあるだろーか!という展開を考えると、ここにリアリティなんて言葉を持ってくること自体がマチガイだとも思うのだが(爆)。
でも西田敏行はそもそも存在自体がフィクショナルだから(爆爆)。彼だったら、どんなマンガチックなことを持ってきたって、成立してしまうんだよ。
私、本作の彼を見た途端に、佐村河内守、と思っちゃったもん。いや、インチキっていうんじゃなくて、フィクショナル、ということで(汗)。
でも、この天道という人物は、インチキくささは確かに必要、なんだよなあ。この佐村河内な髪型が一発で示しちゃうという(爆)。
なんかどうも、物語が進んでいかないけれども(汗)。この天道という人物は、真一の父親と懇意で、真一の父親は彼の才能を高く買って引き入れた。
しかし、才能があるが故の傍若無人さが団員たちの反感を買い、ついに真一の父親が倒れてしまう段になってピークに達し、演奏会当日に団員たちがボイコット、それ以来天道は姿を消してしまった。
で、長い時が経って突然現れて、解散したオーケストラを再結成させて、演奏会を企画するも、途中で天道の過去の詐欺事件(事件というか、疑惑というか)が発覚して、スポンサーが降りたりする事態になって、もうダメという感じになる。
でもこの時点ではもう真一たちは天道の才能を確信しているから、ここまでまとまったオーケストラを、演奏を、終わりにしたくない、と再び集まってきて、新たにスポンサーを見つけ出したりして、チケットを手売りしたりして、ついには満員になるまでこぎつけ、見事、感動の舞台を実現するんである。
と、こう書いてみるとイイ感じなんだけど、”あらたにスポンサーを見つけ出す”というくだりが、有志二人がどこかの企業らしき応接室らしき部屋で頭を下げているシーン一発だったり、チケット手売りも、「私、300枚ならイケるよ!」という濱田マリの台詞一発だったり。
実際、この状況ではあらたにスポンサーが見つかったとしてもチケットをさばくのは至難の業だと思うのだが、……コンビニでアルバイトをしているオーボエ君は、レジ前にチケットあります、の手書きポップ付きでポスターを貼っていたしさ……。
なのにあっさりと満員、なのに身内感はほとんどなくって、「運命」の名演奏に拍手喝采、ブラボー!!とスタオベだなんて、……なんか、素直に感動出来ないよ。しかも二日目がアレじゃあ……。
という話はとりあえずおいといて。フルート奏者のヒロインに全然触れてなかったことに、今気づいた(汗)。
定食屋で天道にスカウトされたというあまね、演じるmiwa嬢の天真爛漫な大阪娘っぷりは魅力的で、別にそれだけでイイとも思われるのだが、ホンットに、定食屋で沢庵噛む音がイイというだけ、というエピソードで、その回想シーンもフルートが傍らにある訳じゃなし(いや、私が見逃してるだけの可能性は大(爆))。
彼女にメインフルートを奪われたベテランが、ただのアマチュアが、とこのエピソードでは憤るのも無理はなく、観てる側としても、このエピソードだけでは、そもそも彼女がフルートを吹くのかどうかさえ判らないんじゃないのという、根本的な疑問を抱かせてしまう。
その後も彼女の天真爛漫さ……つまりはオーケストラのルール的なもの、あるいは空気を読むことにあまりに無知なことを、それに対して同様に無知な筈の観客さえもハラハラさせることになるのだけれど、それを彼女のキャラクターに対する微笑ましさ、魅力に感じさせるには、あまりに材料が足りな過ぎて、ただ、ホンットにシロートが混じったようにしか思えないのがツラいのだ。
彼女のバックグラウンド……阪神淡路大震災で両親を亡くし、しかも目の前で大好きな父親が、フルートを教えてくれたお父さんが、自分を逃がして炎に包まれた、という壮絶な体験をしている。
天道は彼女のそのバックグラウンドこそが、天使が舞い降りたような音色を響かせるんだと。つまり、彼言うところの「人を殺すつもりで、弾いてるのか」という気持ち、この場合は逆で、今死ぬかもしれないという気持ちだろうけれど……とにかく、そんな、切羽詰まった気持ちでいつでも弾けというんだよね。
判る。それは判る。スカしたオーボエ君に、本番用にとっておいたリードで吹けと、それ以外のリードを踏みにじるという暴挙に出た天道、愛する人が、今にも死にそうな彼にとって、そんなことは当たり前の価値観なのだ。
そして演じる西田敏行が、福島出身であることも、勿論大きな意味に違いない。判ってる、判ってるんだけど……。
私はね、どうも、震災に関していまだにどう向き合っていいのか判らないの。本作に出てくるのは阪神淡路大震災であり、東日本には一言も触れてはいないんだけれど、そんな経験をしたあまねをピックアップした天道を西田敏行が演じているというのは、どうしても意味を感じずにはいられないからさ……。
そしてだからこそ、主人公である筈のトーリ君が、まるで際立たないまま終わっちゃう印象がある訳。
個人的には、今、現代、どんな物語、どんなエンタメにも、義務のように震災を入れ込んでくることに、違和感……いやもっと言ってしまえば、イヤな気持ちを感じている。本当はそんな日常に思ってないくせに、という思いと、実際、日常は日常としてあるのだと、そう生きていきたいという気持ちと。
本作に関しては阪神淡路だから、筋違いではあるんだけれど、でもやっぱり、ね……。
多分私、感動オチが、天道の余命いくばくもない妻に、オーケストラの演奏を聴かせる、そのシークエンスが、かなり微妙……だったから、それが一番腑に落ちないから、こんな奥歯に物が挟まったような言い方をしてるんだと思うのね。
妻のために再結成、演奏会を企画し、一日目は客を集めて義務を果たし、しかし二日目はこの大ホールを妻のためにがらんどうにする。
「そんな感動的な話だと思ったか。このオバハンは世界で一番耳のいい客や。このオバハンをイカせてみい!」オバハンじゃなくて、オバチャン、いやババアだったかもしれない、そのあたりの台詞回しの間違いはカンベンして(爆)。
でも結局、”そんな感動的な話”だった訳だし、これじゃ明らかに赤字になるのを知っててオペラハウスの支配人も黙認していた訳だし、赤字になるのなら団員にギャラは払えない筈だし、あの天道の状況で払える筈はない筈だし。
……真一が、いや真一のみならず、何度も、「俺たちはプロなんだから」と、その矜持だけを心の、アイデンティティのよりどころにして、だからこそお涙ちょうだいだって飲み込んできたはずなのに。
……こんなことを言ったら、興ざめ、なのだろうか??でも、感動的なら色々持ち出しでもいい、みたいな、間違ったボランティア精神が安易に横行するこの日本という国では、こういう設定、こういう展開の物語ならなおさら、その点は気を付けてほしかった、気がする。
正直、本当に正直、余命いくばくもない妻に聞かせる貸し切り演奏、には、ゾッとするほどの興ざめを感じてしまった。……そんな私は冷たい??
でも音楽が好きだからこそ、音楽を愛しているからこそ、たった一人に贈る音楽に、こんな疑念を差し挟んでほしくないのだ。これならたった一人、ピアノを、バイオリンを、そんな楽器すらないなら歌を聞かせる方がよっぽど素敵だと思う、思ってしまう。
それは、ほんの少しの登場であっても、こんなにも重要な役柄なら、それなりにネームバリューのある女優さんを、フンパツしてほしかったという不満もある。だって本作がそれなりのバジェットの作品なのだからさ!
このオバサン誰?とついつい思ってしまった時点で、感動モードは止まってしまうんだよ。
本来作劇とは、そうであるべきだとは思う、それこそ、これが外国映画だったら、そんなつまらない問題はないさ。でもやっぱり、今の、現代の日本の観客に見せることを考えてほしいと思う。誰、このオバサンと思ってしまったらもうおしまいだよ。
昔、某映画で、監督は音楽家だったのに、弦楽器を弾く左手がぜっんぜん動いてなくて、いくら白目むいて演奏シーンを演じても、興ざめしまくった記憶があった。
本作のトーリ君はじめ、役者さんたちはきちんと手が動いていたからちょっとホッとしたけど、回想シーンの真一の父親とかはちょっと微妙だったかもしれない。いや、私が見逃したのかもしれないけど(爆)。
やっぱり、厳しく見ちゃうよね。特に日本人は、クラシックに対して厳格な気持ちがあるから。それこそ昔に色々言われたから、現代ではちゃんとトレーナー揃えて、そんなヘマはしないかな(爆)。
でも本作では、音楽をちゃんと感じられる場面がある……最も好きだった場面、クサされまくっていた一度引退した、リズムについていけなかったバイオリンのオジサン。
天道に強いられて、駅のホームで、初めてオーディションに受かった曲、ロンド・カプリチオーソを天道の指揮で演奏するシーン、居合わせて集まってきたホームの客たちの拍手を聞かなくたって、ゾクゾクとする、ライブの音楽の力を感じる。そんなシーンがあるだけで、充分かもしれない。そうかもしれない。★★☆☆☆
とはいえ、私も「踊る」以外に本広監督のアイデンティティがピンと来ていなかった部分はある。しかし勿論「踊る」以外の彼の監督した映画作品も観ている訳なんだけど、つまりピンと来ていなかった、のだ。
物語冒頭、地区予選で砕け散った冨士ヶ丘高校演劇部の彼女たちが手にしていた台本は「ウィンターマシンブルース」あれ?「サマータイムマシン・ブルース」のパロディじゃんと思ったらさにあらず、いやその通りか、サマータイムマシンブルースの映画化作品こそが、本広監督だったんだと、後になって気づく。
つまり彼は、あれだけドラマエンタテインメントの世界で成功しているにも関わらず、コテコテの演劇大好き人だったんである。
コテコテの演劇人、ではないあたりがミソだと思う。彼は外側から演劇のファンとして仕事に入ってきた人であり、そこが、舞台こそすべてと思っている演劇人のフィールドとは大きく違う。そしてそれこそが、彼の魅力であるのかもしれないと、今回思ったところなんである。
まあそれは、私がここで再三言ってきたように、舞台人のピュアすぎるプライドにアレルギーを持っているところがあるからかもしれない(爆)。だってさ、これが、あの平田オリザの戯曲である、なんてことを知ってしまったら、余計にそんな、怖気づく気持ちを持つじゃない。
これから先、映画監督としての道に悩んでいた本広監督が自らのアイデンティティに立ち返って、平田オリザとその戯曲との出会いが本作を産んだにしても、やはりこれは、本広監督の作品なのだもの、と思うのだ。そしてだからこそのももクロちゃんであるのだと、思うのだ。
原作を読んだ時に、ももクロに当て書きしたんじゃないかと監督は思ったんだという。それは監督がももクロちゃんと仕事をしたことがあるのか、あるいはファンだったのか、その辺は不勉強ながら判然としないながらも、この出会いは本当に面白いと思った。
アイドル戦国時代と言われる現在ながらも、ももクロだけは、そのすべてに特異性がある。それは単に私が、まだ名前だけをちらりと知っている程度だった時に初めて目にしたのが「NINIFUNI」
だったという、そのインディペンデントに素直に、太陽のように光り輝きながら入り込むという、信じられない柔軟さに衝撃を受けたという、大きな突破口は確かにあるかもしれない。
でもその後の彼女たちの活躍の仕方を考えてみるにつけても、彼女たち、あるいは彼女たちを育てる周囲が、あらゆる壁をぶち壊そうとしているのがよく判る。オタク向けでも国民的アイドルでもない、こんなアイドルは今までにも、これからにもないように思う。
彼女たちから一人脱退して、今、実力ある若手女優になっている存在があることも、妙に符合したこととして考えられる……などと言ってしまうのはさすがに言い過ぎだろうか??
とにかくなんにしても、今のタイミングだったことは間違いない。高校演劇という世界。勿論ばっちりのリアルタイムの年代という訳にはいかないけれども、ほんの2~3年前には高校生だった、というのは充分にリアルになりうる。最近はホント、25過ぎて高校生やらせるとかザラにあるからねえ。
そこに、実際に高校演劇からここまで成り上がってきた黒木華という、近年まれにみる叩き上げ女優が、まるで自分自身の変遷をたどるような人物として加わり、彼女だって充分に若いのに、そのまさしくのリアリティを逆にパロディチックにさえ変換させるキュートなたくましさで支える。
顧問のムロツヨシなんつーのは、コメディリリーフにさえならない、お気の毒さ、ってなモンである。だってこれは女の子たちの戦場の話。男は必要ないんだから!!
……と言ってしまうと……。舞台となっている冨士ヶ丘高校は女子校という訳ではなく、授業中などにちらちらと映る風情では普通に男子生徒もいる。地区大会で砕け散って、次こそはの闘いのために新入生歓迎のオリエンテーリングを開く場面では、運動部、柔道部とか男臭さの迫力満点で惹きつけてるし、いや、文化部だって、文化部の花である吹奏楽部は当然、ねえ。
その中で女子ばかりの演劇部は、「ロミオとジュリエット 抜粋」の寸劇では誰一人足を止めてもくれず、ガッカリするばかり。文化部は女子が多いイメージはあれど、演劇部の大会の上位進出する高校のリアル描写では、むしろ男子の方が多い感じもあるんだし、そして実際、実力の差を見せつけられることを考えると、なぁんか、この女子ばかりの演劇部の弱さを感じてしまうのは事実、なんだよね。
そしてそのことは、男女共学なら当然出てきて当然な、恋愛話も排除することになる。まあ確かにこの物語展開では入れ込むこと自体が難しいかなと思うけれど、ならば最初から女子校の話にすればよかったじゃんと思わなくもない(爆)。
だってさ、後にさおりのモノローグで付け足しのように、恋愛にも悩んだ的なことが付け加えられるけど、一ミリもかすらないよね。
私、言ってることが矛盾してるな、男は必要ないとか言いながら(爆)。でも、彼女たちと闘うことになる高校演劇の現状がどれだけレベルが高いか、実際の高校演劇の彼らを招へいして見せるからこそ、あくまで断片的でも、ももクロちゃんたちが演じる冨士ヶ丘高校がこれに勝てる訳ないじゃんと、ついつい思ってしまうところがあるからさ……。
勿論、問題点はそんなところではない。まあこれは、言ってしまえばスポコンさ。スポーツではないけれど、文化部だって、勝ちたい、負けたくない、そのためにはボロボロになるまで稽古して、努力して、そういうことを見せたい。
それは判るけど、やっぱりやっぱり、難しいんだよね。運動部ほどそれをカンタンに、リアルに見せられない。やっぱり内面の、苦しさなんだもの。
むしろその、スポコンの部分は灰皿が飛ぶとか、灼熱の中でのけいこが延々リプレイされる地獄の妄想とか、どこかコメディタッチに示すしかなくて、やっぱり限界があるよな、と思う。そしていわばほんの一瞬であるその場面を、宣伝の予告で大々的に使っているというあたりも、その限界をより強く感じたりするんである。
やっぱり文化芸術部の厳しさ苦しさというのは、なんだかんだ言って内面性や、そこからくるチームワークの難しさにあるんであって、むしろそれは、運動部から一歩上がって社会に近づいている難しさであると思う。
ももクロメンバーの中で一人だけ後輩役を仰せつかっている、実際にも最年少の
佐々木彩夏嬢が行き詰ってしまうシークエンスがあり、そここそが、演劇、芝居、あるいは文化芸術部のあるべき姿を示す部分だと思うんだけど、運動部に拮抗するほどのスポコンを追求しようとするが故に、そのツッコミ度合いはちょっと弱かったようにも思う。
結局は先輩後輩の信頼チェックに終わった気もするしさ。まあそれはそれで、女の子同士の可愛らしさでキュンとくるんではあるけれども。
冨士ヶ丘高校演劇部の突出した“女優”であるユッコ=玉井詩織嬢と、演劇部強豪校から転校してきた中西=有安嬢との、繊細同士だからぶつかり合いはしないけれども、意識しまくり、牽制しまくりの関係性と、その二人を取り持つ、部長として、演出家として大きな成長を遂げる、ももクロの中でもピン主演と言ってしまってもいい百田夏菜子嬢、その三人のいろいろな組み合わせの関係性の妙こそが、実に女の子らしくって、イイ。
あれれ、ここまで書いてくると、ももクロの中では私はこの子イチオシの高城れに嬢が出てこないが(爆)、彼女は確かにそれこそコメディリリーフで、その立ち位置が似合うし上手いし、そういうポジションっていうのは絶対に、必要なんだよね。凄くそれが、良かったと思うんだよなあ。
冒頭、地区予選で砕け散り、先輩たちを見送った後、さおり(百田夏菜子)たち2年生は今度こそ勝ちたいと願う。
そこに、学生演劇の女王と呼ばれた過去を持つ美術教師の吉岡先生がやってくる。そして強豪校からの転校生の中西さん。
吉岡先生から大きな影響を受けながらも、部長のさおりは、中西さんと共に参加した演劇大会のボランティアで、演劇に打ち込む高校生のレベルの高さに打ちのめされたりもし、そもそも自分が流れでこの場所にいることも理解したりするんである。
全国を目指すなら、時期的に受験勉強にだって影響が出る。それをやり通せるのか……そもそも脚本を彼女自身で書き上げることなど出来るのか……。
尊敬していた先輩は、東京に出て劇団を立ち上げる夢を既に持っているような猛者、東京の夏休み合宿で再会した先輩は、小さな劇場で必死にもがいていた。そんな先輩に比べて自分は何ができるのか……。
なあんていう、大きな流れがあったのよ。なんか、物語そのものをそっちのけで話しちゃったけれども(爆)。でもね、まあどうでもいいのよ、いろんなことが。いや、投げてる訳じゃないけど(爆)。
なんかね、久々に、優れたアイドル映画が観られて嬉しかったから。アイドル映画という言い方は誤解を招く部分もあるとは思うけど、でも、必要だと思う。いつの時代も、優れたアイドル映画、がさ。その当時は言ってしまえばただのアイドルだった人たちが、後に素晴らしい役者になる、その楽しみを観客が享受する道筋を作るためにも。
それにやっぱり優れたアイドル映画とそうでないものは、ある訳よ。古くは美空ひばりとかさ、私の原体験の中でも薬師丸ひろ子、原田知世の角川映画、斉藤由貴、たのきん映画の中でも田原俊彦(彼はいろいろとこだわらずに、役者の方で残っていってくれればよかったのにと思ったりもする……)とか、優れたアイドル映画というものは正しく存在し、間違いなく映画史に名を刻んでいくものなのだもの。★★★☆☆
まず冒頭、その問題の信号のない十字路、いきなりドッカーン!とトラックが店先に突っ込む。積んでいたのか鶏がばたばたその辺を逃げ回る。それを民衆たちがやっきになって捕まえようとするあたり(つまり、捕まえて自分のものにしてやろうというあたり!)戦後間もない厳しい世相を感じるんである。
モリシゲ扮する小さな町工場も見るからに流行ってなくて、ザ・家族経営。まずローラースケートはいた娘がシャーッと滑り込んでくるツカミはOK!なんともキュートな野添ひとみなんである。
息子は三遊亭小金馬。小ぶりな感じがそれだけで笑いを誘うが、なんといってもサイコーなのは、モリシゲ扮する久吉の妻とその妹二人の三姉妹、なんである。
まず妻、はつ枝はいかにもやり手なおかみさん。冒頭も、一人掛け取りに精を出している。でも一軒も集金できないんだけど(爆)。でもいかにもバリバリやり手……のように見えつつ、これが案外と、ダンナにはメロメロである。
後半、税務署員との闘いに挑んだダンナの雄姿にホレボレ、一杯つけてしなだれかかり、胸元あたりをこちょぐりだしてユーワクするのにはかなりビックリ!いやそれまでもかなり、ラブな雰囲気はあったけどさ、基本はこの時代の喜劇の中の、恐妻と言ってもいいようなバリバリのおかみさんなんだもん!
でもダンナの留守中に差し押さえされるとおろおろしまくるばかりだったり、なんだか案外、カワイイところがあるんだよね。演じる望月優子、って私あんまり聞き覚えない……いやきっと見ているんだろうが(爆)、凄く、素敵だったなあ。
二人の妹は、有名どころ、そしてモリシゲと連れ添う名作のあれこれが思い浮かぶもんだから、彼女たちが彼を兄さん、と呼ぶのはなんだか不思議で楽しいんである。
次女のお仙はすし屋の職人兼女将さん。演じるのは絶世の美女、淡島千景。女一人、その細腕で男を寄せ付けず、キリリと生きてるカッコよさ。でも彼女の店には身内しか来ないんだけど(爆)。とゆーあたりの、さっきの長女の方の設定にしても、なんか可愛らしい部分を残すっていうのが、絶妙だと思う。
この店に来る、身内以外の客は、久吉を悩ます税吏の松井である。小林桂樹!!そうだ、小林桂樹だわっ。このインテリふてぶてしさをバリバリ出しながらも、なんか憎めない部分をぽこっと入れてくるあたりが、ズルい、ズルいのよーっ。
民衆からは冷酷に税金を取り立てる彼、次女夫婦なんかは誠実に税金を払っているのに、個人的に借金をしているところをつっついて追加徴税しようとするあたりの、いかにも嫌われるエリートお役人。
一方、自分はすし屋のツケは払わないし、税務署に収めに来るハンコ屋の請求も、すべての書類にハンコを押してからだと突っぱねる。ホントにヤなヤツ!
なんだけど、最終的には税務署を離れて、夜間学校を卒業して弁護士になって、あなたたちの力になりますよ、なんて、ズルい、ズルいよ!!
でも、この松井とけんつくやりつつ、色仕掛けで抜け道を聞き出したりして、彼の恋心をもてあそんだ形になったお仙さんが、自ら隠微なお宿に誘い込む場面は、おおおーっと!!
「(手伝いの娘は)おませだから、聞き耳立ててるから、店じゃダメだからさ」てなことである。何をするんだ、ナニをするんだろーっ。
……なんか全然進まないまま、コーフンして違う方向に行ってる……。もう一人、重要な妹よ。三女の乙羽信子。本当にチャーミングで、本当に大好き。
彼女の夫がバンジュンだというのもイイ。戦争のトラウマで、酒を飲むと(というだけではない感じ……何かの拍子に)分裂症が出てしまう、というこの夫の描写は、コミカルに描いているけれど、実はかなり深刻、なのだよなあ。
彼らは布団の打ち直し屋をしていて、小さな工場は埃だらけ。一人息子はそこに入れないんである。ほこりを吸い込んで肺にたまってしまうから。つまり、ご主人はもうすっかりそんな状態で仕事をしているんである。
酒を飲んで分裂症になって暴れまわる場面とか、モリシゲが必死に止めるのにもうぶっ壊しまくる、そしてバンジュンのその小柄な感じとかコミカルで、笑っちゃうんだけど、なんか、哀愁というか、胸に迫る切なさがあるんだよね。
妻である乙羽信子扮するお玉が、この、つまりは正気を失っている夫に何ごともないように、明るく連れ添っているのが、なんか改めて考えると泣けるんだよね。
そして息子も判ってるのよ、なんか……。お父ちゃんために、軍隊ラッパをマスターしてるのさ。借金している相手が元の上官で、彼が訪ねてくるとビシッ!と敬礼するのさ。このリアルタイムにはナマな感じがして、でもそれをコミカルにバンジュン、ていうのがさあ……。
でもね、奥さんの乙羽信子はキュートなの。イジワルな税吏から追加徴税を匂わされて焦ってワイロを握らせようとする場面でさえ、その必死さがカワイイのだ。
なんかね、ダンナを愛してるなーって感じ。それは、先述したように長女もそうだし、劇中、恋に落ちちゃう次女のお仙もそうだし。なんか何気にね、ラブな物語なんだなーって!
この三姉妹はとても結束が固いのよ。長女が差し押さえに遭った時に真っ先に電話するのは妹たちで、久吉は勿論闘っている訳なんだけど、実戦的なのは彼女たちなの!
一番爽快だったのは、お仙がビシッと上等の和服を着てお化粧も髪もキメキメにして、税務署に乗り込む場面。手続きでごった返す民衆をすらりと押しのけて、松井のツケを大声で言い立てて、署員を慌てさせる。
その民衆の中にいた長女と三女はすっかり感心、これからも闘おうや、まずはご苦労さん!と、お仙のすし屋に結集して、一升瓶からコップにナミナミ次いで、ご苦労さん、ご苦労さん、とカチリと合わせるのが、メッチャ可愛くてカッコよくて可笑しくって、最高なの!
ああ、こういうの、メッチャ理想。女として、メッチャ理想!それぞれイイ感じに立場が違うのも、イイのよねーっ。
てゆーか、女たちがチャーミングなもんで、肝心なモリシゲが置き去りに(爆)。いけないいけない、モリシゲ、モリシゲですとも!!
何気にここまで述べてきた他の二人の男……税吏の松井に扮する小林桂樹と、三女の夫のバンジュン、女三人が描き分けされている以上に、男三人はホント、違う訳。
当然、取り立てる側の松井は違うのは当たり前なんだけど、バンジュン扮する直助は、税金は国民の義務として当然支払うべき、不当な取り立てであっても、という考え方。
一方の久吉は、徹底抗戦。去年患った病気というのは明らかにされないけれど、今の彼を悩ませているのは、激昂すると出てしまうしゃっくり。しかもこれがどうにもこうにも止まらず、始終それを止めることに心を砕いている。だからなんか始終風呂に入っているんである(爆)。
しまいにはそこで晩酌しだして、奥さんがラブラブに付き添う(照)。さらに奥さんにもしゃっくりが移って、奥さんも風呂につかり出し、煙突で上手いこと芋までふかしちゃう(笑)。
妹たちから、夫婦は似るっていうからねえ、と茶化されるんだけど、それはまさに、仲がいいから。てゆーか、奥さんがダンナラブ!この感じを、ここで上手く書き表せられないんだよなあ。
現代におけるラブな感じと違うのよ。おかみさんとしてバリバリしてるし、ダンナにもバリバリ言うんだけど、ツンデレっていうのかなあ、それと反する形で、ちょっとハッとするぐらい、ダンナの男ぶりを褒めたてる言葉を臆面もなく(まさに臆面もなく!)口にする、満面の笑顔で!!っていうのがね!
で、モリシゲだからさ、あの独特の、テレを戸惑いに隠したような表情で、何言ってんだ……とか言いながらも、妻のデレデレをそのまま受け止める、みたいなさ!
モリシゲのことを言おうとしてたのに、結局女に脱線しちゃうなあ(爆)。彼の見せ場は様々、あるのよ。一番は、差し押さえされた後に、税吏たちと対決せんと、こう言われればこう、という、綿密なノートを何冊も用意して臨む場面。
その何冊ものノートの、この言葉が来たらこう、といういわゆるナンセンスさも可笑しいし、何よりメッチャ正装して臨むモリシゲが最高!だってこの勲章付きのモーニングみたいな衣装を借りたのが、三女の夫、つまりバンジュンだっていうんだもの!
つまりつまり、チンチクリンのバンジュンだから、モリシゲが着るとベストのボタンがはまらない(笑)。それだけでメッチャ可笑しいっていうの、今はなかなか醸し出せないと思う。
そうだ、その前にさ、その打ち合わせをする「株主総会」ってのも最高なのよ。株主、ってみんな家族よ。なのに仰々しく筆で書いて貼りだして、だから妹たちは思わず笑っちゃう。
そんでノンキにそばの出前とか頼んじゃって、娘も息子もそのそばは自分のだとか、こりゃウマイとか、まるで文化祭のノリ。
一人、まさに株主総会のテイを示さんがごとき気炎をあげる久吉に対して、ハイハイみたいにいなしてワイワイそばをすすってるお気楽家族のこの感じ!もうー、癒されるー。
久吉が妻と共に税務署に乗り込む場面もイイ。いわばお約束な場面が満載、役人たちはみんなやる気がなくて、一番下っ端はヘタクソな俳句なんか読んでる始末で、次々と上司を紹介されて、昼休みになってオワリ、みたいな。
食事中、のプレートを自分の前にデン!と置いて、床に座り込んで夫婦で持参した弁当なんか喰らうふてぶてしさが不思議に可愛くって可笑しくって。
しっかりとお役人批判をしつつ、柔らかく笑わせる、これぞ昭和の喜劇役者の上手さ!
競輪で、実は大穴当ててたのに……的なところはそれこそベタ中のベタなお約束。でも有島一郎のトボけ加減が絶妙で、本気で蹴り飛ばしたくなっちゃう(爆)。
こういうのって、見たい!ていうところにピタッとはまる気持ちよさ。待ってました!!ナントカ家!って感じ。それこそが今ない、寂しさのように思う。
結局はアレかな、女が強くて、なのに弱くてチャーミングで、だからすべてが成り立つんだよね。そして男に花を持たせる。民衆を困らせる税務署を辞めて弁護士になる松井、自らの先導で見事信号設置にこぎつける久吉。
あ、でもバンジュンは最後までカワイソウな感じ(爆)。でもそれも、この時代ゆえの、ナマな描写ということなのかもしれない。
戦争というトラウマに苦しみ続ける男、バンジュンという、小さな男のユーモラスと哀切が、泣き笑いのような風になって、なんとも絶妙なリアリティなのよね……。
個人的には、「生き物は差し押さえられないから、私と猫だけが大丈夫だった」というくだりが好きっ。
車の内張りの内側に潜んでオシッコした子猫から物語がスタートし、こたつに入りながらその子猫をスリスリする乙羽信子、というのが猫も彼女も可愛くて、めっちゃ和むんだもの!★★★★★
でも言い訳めいて言うけれども、眠くなくても、この”よく判んなかった”感はあったかもしれない。うわー、言い訳だよね、言い訳だよね。でもでも……。
果たしてこれは純愛なのか、ファンタジーなのか、ミステリーなのか、ひょっとしたらホラーなのだろうか??
タイトルで探るとヤハリ皆”本当のところ”が気になっているらしく、どっち、だのネタバレ、だの、と検索候補が続々と出てくる。
そして原作が、日本の小説であることを知り、更に言うとside-A、side-Bという二冊に分かれていることを知り、更に更に言うと、それぞれのテイストが全く違うことも知る。
映画となった本作はほぼほぼside-Bによるものと思われるけれども、side-Aで哀しい恋の結末を味わったことがきちんと語られ、それが主人公のバックグラウンドとして、恋愛の、そして人生の価値観、礎となっていることもあるので、単純に分けては考えられないけど……。
ただ、原作ファンや原作者はどう思うんだろうとついつい思ってしまう。うっ、このことを言ったらもうホント、キリがないんだけど、でもこうまでハッキリ分かれているらしい原作(らしい、というあたり。もう未読はツラいよ……読めって(爆))をひとつにくくってしまうんだから、やっぱり気になるよ。
観てる時のモヤモヤ感も、ひょっとしたらそのあたりに起因するものがあったのかもしれない、などとも思う。ねむねむだったくせに(爆)。
でもね、主人公のリョウが死んでしまった過去の恋人の記憶を胸に刻みながら、この遠い地で時計職人として働いている、その静謐な雰囲気の中に組み込まれるミステリ、あるいはひょっとしたらホラー的な要素に、画面上は静謐で私的な雰囲気を最後まで失わないんだけど、やっぱりなんとなく、違和感めいたことは、あったかもしれない。いや、完全に後付けだけどさ(爆)。
てゆーか、なぜ中国だったんだろう。原作は完全に日本で、春馬君に中国語の台詞を覚えさせる大変さを課してまで、中国に舞台を置いたのはなぜだったんだろう。
ミステリ要素を神秘的に示すためだったのか、恋人に死なれた主人公が孤独に生きる背景として、カタコトでこの地にひっそりと暮らす異国の地が魅力的に映えると思ったのか、それとも単にマーケット的な問題??
……個人的にはミステリ要素、いや、本作の雰囲気としてはファンタジー要素と言った方がピタリとくるかもしれない、それをすんなりと受け入れさせるため、というのが一番、効果的に作用していたように思う。
まあ、昨今の技術はスゴイから、双子役に双子を揃えなくたって見事に違和感のない画を作り上げるが、それだけに、どうやって撮ってるんだろう……といらん詮索をし、そればかりが気になって、内容に集中できないことは、まあままある訳さ。
え?そんなのは私だけ??と、とにかく(汗)、中国役者事情に詳しくないこちとらとしては、結構最後まで、マジに双子の女優が演じているのかしらんと、思っていた訳(爆)。
いやー、そりゃないよね、こんな大きなバジェットの映画で、スターさんが双子だなんて、そりゃないよね。とは思うんだけど、そう、知らないからさ。
これが日本映画で、日本の女優さんがCG技術で双子を演じるとなれば、やっぱりその撮影技法ばかりが気になるじゃない。そんなこと言っちゃえば、彼女のことを知ってる中華圏の観客はどうなのさと言われちゃうトコなんだけど……(汗)。
てか、ネタを書かないと、全然判んないから(爆)。主人公のリョウは時計修理工。言葉もろくに通じない中国の片隅の古い時計店でひっそりと働いている。
昼間、体をほぐしにいくプールで出会う美女に、プレゼントを選んでほしいと頼まれる。そのプレゼントを贈る相手は、彼女の一卵性の双子。
プールの美女、ルオランは静かな趣だが、その妹であるルーメイは、女優であるというだけあって華やかな雰囲気。
ルーメイの婚約者の映画プロデューサー、ティエルンも加わり、ダブルデートのようなひとときが訪れる。中国映画は観るのかと聞かれて、もう一昔前どころではないジャッキー・チェンの話をするリョウに皆が微笑(ちょっと失笑かもしれない……)するのがヒヤリとする。
こ、これは、文化交流がきちんとなされていないという、指摘なんだろうか??確かに中国映画でジャッキーと言うのはアレかもしれない。香港映画というべきなんだろうし、香港が中国か否かということは、それこそ現代、今においてすんごい重要な問題なんだもの。
いやいや、そんなこと言って、私はそんな国際とか政治とか、まるまる無知なくせに(爆)。
そんな中でもルオランとルーメイの感じは何とも不思議というか、ある意味微妙である。
ルオランはリョウに、私が先に女優になりたかった。ティエルンとは私が先に出会っていた。ルーメイは私の何もかもを奪っていく、と愚痴をこぼす。
そう、この時点では、翳のあるルオランと、自由奔放なルーメイは、明らかにキャラが違っていたんだよね。だからさ……。
ティエルンの存在が何となく微妙な影を落としながらも、ルオランとリョウは確実に距離を縮めていたし、その恋の進行は、久々にドキドキする趣があった。
イヤー、春馬君がこんなに美しい男子になっているとはね!いやもともと美しい男子ではあったんだろうけれど、ついこの間まで高校生役だったのに、という思いもあって、なんかニキビくさい印象がずっとあったんで(爆)、ちょっと、驚いてしまった。
まあ、中国語の台詞をマスターするとかいうことは、役者はそんなトコをほめられたい訳ではないと思うしさ。そもそもなぜ、中国を舞台にするのかっていう疑問が、先述のようにちょこっとあったもんだから(爆)。
春馬君って、こんなに目が魅力的な男の子だったんだね。まるでアイラインをきっちりとひいたかのような、細かいまつげに目の周囲が丁寧に縁どられている瞳、その黒目が本当に漆黒の黒の美しさで、ホンキで驚いてしまった。
普段は女の子、女の子ばかり言っているから(爆)、たまーに、男の子の美しさに気づくとマジにうろたえてしまう(恥)。
いや、ホントに、彼は、この一瞬が、一番美しい時ではなかろうかと思ってしまう。青臭さが抜け、かといって成熟した男の魅力、といった脂臭さの手前にいて、恋と愛とその先のセックスが、純愛という形で矛盾なく溶け込める、奇跡の一瞬。
時計の修理工という設定もイイ。職人に女はヨワいもんである。
その先が、この店の主人のように揺り椅子に始終居眠りしている未来だとしても、この一瞬の、古い時計、つまり古い時間を愛する美しい青年に、そりゃー女子はメロメロであろう。あの細く、しかしイイ感じに骨ばった手でチョメチョメされたーい!!と(おいっ)。
フツ―に考えたら、こんな坐ったっきりの仕事は身体がなまりまくりそうだが、日中の空いた時間にプールに通ってすっきりとした、マッチョ過ぎない締まった身体をも見せる。ズルいくらいに完璧すぎだっつーの!
で、まあ、春馬君のセックスアピールは物語には関係ないんで(爆)。そう、双子、双子よ。つまりね、結果的にはね、おい、もうオチバレするんか、でも言うしかないじゃない(自嘲)。
ルオランとルーメイは、なんかさ、同化しちゃってるの。もうどっちがどっちか、本人さえも判らないの。そんなのって、あるのかーい。
と、まあフツーならツッコミたくなるところであるが、いや、観終った後も充分ツッコミたくなるし、原作の読者はどうだったんだろうなあ……。
あれだけ、二人が存在していた部分ではハッキリとキャラ分けされていたのに、旅行先の事故でどちらか一人だけが残されてからは、一応生き残ったのはルーメイの方だとされていたけれど、最後まで明確に結論づけられないまま。なんたって本人がアイマイなんだから。そ、そんなあ……。
確かに、ね。一卵性双生児に対するファンタジーというか、この場合はミステリと言った方がいいだろうな。都市伝説めいた、まことしやかにささやかれていることはあり、リョウがそんな俗世間の気持ちを代表してルオランに聞いてくれたりもする。
双子に憧れていた。テレパシーっていうのがあるんでしょ?お互いの気持が判るとか……。それに対してルオランはあいまいなリアクションではあったけど、同じ服を買っちゃってたりしたわ、だからあなたに妹のプレゼントを選んでもらったのよ、と言った。
この、同じ服、てのが、後にルーメイの婚約者の疑惑の一要素となり、観客にも、あれ……と思わせる有効な小道具にもなるのだが……。
そう、まあ、確かに一卵性双生児に対する俗っぽい興味は、今も昔も尽きない。でもやっぱり違う人間だもの、と思い、実際の一卵性の双子の方たちや、その周囲の家族や友人なぞは、本作の、あるいは原作の時点で、これはいくらなんでもないだろ、と思ったんじゃないかと思ったりする……。
キケンだよね、この描写って。双子、しかも一卵性だから、しかも子供時代からいろんなことをとっかえっこして、罪さえもなすりつけるというよりとっかえっこという感じで、それでどっちがどっちかお互い判らなくなっているだなんて。
まあ半世紀ぐらい前のファンタジーなら許容できたかもしれないけど、現代で、いくらエンタメの世界でもそれを描くのは、難しいよ……。
それを、双子の絆の深さ、不可思議さというだけで示せるならまだしも、結構女の業が入り込んでくるし、それこそがこの物語の大ネタって感じが、あるじゃない。
最初は、私ばかりがソンしてると、少なくともルオランの方は思ってて、それを思いそうないかにもネガの部分を担ってて、ルーメイはポジの部分で、でも”どちらか”が死んでしまった後は、ルーメイもまた同じように思っていたことが明らかになる。
明らかになる……?今生き残っているのがどちらかによって、その意味合いは大きく変わってくるとは思うんだけど、今生き残っているどちらかが言う、記憶が溶け合っている、ってことをファンタジーとして受け入れてしまえば、どうにもこうにも明らかになってる筈がないのだが。
そう、ファンタジーとしてしか、この展開は受け入れられないよな……。でも前述したように、観客の、あるいは読者の誰もが、でもそもそもどっちが生き残ったの?と思うに違いない訳でさ……。
ラストの、リョウが贈った腕時計を旅行先の教会のロザリオと取り換えたオチが判明したことを考えると、やはりルオランだったという結末?
でもそれじゃ、ティエルンの直感が最初から正しかったって訳で、リョウからもルーメイ(だかルオランだか)からも彼女の両親からも冷たい視線を注がれ続けたのは気の毒すぎる……。
一体、監督の意図はどこにあるのかなあ。確かに画は凄く美しいのさ。中国というイメージとは違う、いや、画自体はその喧騒を伝えているけれど、伝えているからこその、リョウの働く時計店の静謐さ。
ルオランもルーメイも、いやどちらもルオランだった可能性高しだけど(爆)、彼女たちをすんなりと受け入れる老主人も、時間が止まったようなこの世界観を堪能させてくれる。
双子の命を分けた、腕時計とロザリオの秘密が明かされて、ミステリというよりは、ルオランもルーメイも溶け合った彼女をリョウが受け入れたという趣のラストだけど、やっぱり……違和感、あるよなあ。
双子さんたちから、大クレーム来そうだし(爆)、双子さんじゃなくても、そりゃないわな、と思っちゃう。イメージ差別っていうかさ。
双子のホラーといえば、シャイニング(爆)。いやー、マジに思い出したのよ。本作のオープニング、ちょうどシャイニングに出てきたエレベーターの双子の年頃じゃん。
しかも、服を取り換えると親ですら見分けがつかない、というエピソードでしょ。で、そんなワルい顔して妹だかお姉ちゃんだかを陥れてる訳でしょ。ある意味シャイニングと並ぶホラーだよ!
そんな風に思うほど、オープニングでしれっと着替えを提案したどちらかの、罪を逃れた顔がプチ恐怖だったんだもの。
でもそれを飲み込んで、もはや二人の人格として生き残った彼女、というのは、リアル恐怖かもしれない……あれ?ラストは、やっぱりキミだった、見つけた!とゆーよーな、純愛雰囲気だったんだけどな……。
“五分前”の定義はイマイチ判らんかったけれども……。★★★☆☆