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「こ」


2015年鑑賞作品

恋する ヴァンパイア
2015年 102分 日本 カラー
監督:鈴木舞 脚本:鈴木舞
撮影:梅根秀平 音楽:安藤禎央
出演:桐谷美玲 戸塚祥太 田辺誠一 大塚寧々 中川晃教 三戸なつめ 斎藤歩 モン・ガンルー チェ・ジニョク 楠人 西村大地 目代雄介 東加奈子 高橋佳大 川島鈴遥 イーキン・チェン 柄本明


2015/4/22/水 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
時間と場所だけで飛び込んだので、いつも以上に何の予備知識もなかった。まあ、いつだって何の予備知識もないのだが、普段だったらあんまり選ばないかなあ、と思われるタイプの映画だったので逆に、こういう出会いの縁で、思いがけない拾い物だったりして!などと期待したりもして。
しかし、ううむ、うぅぅむ。最初の10数分でかなりくじけそうになる。なぜこの映画を選んでしまったんだろう……という思いがちらりちらりとよぎってしまう。
いやいやいけない、映画は最後まで見なければ、判らない。何を言う資格もないじゃないかと自分を叱咤しながら観ていたけれど、うぅむ……その忍耐は最後まで続いてしまったのだった……。

監督さんの名前が見たことなかったし、しかも女性名よね、と思って、青田買い好きなんで、それこそちょっとした予備知識があれば、案外チョイスしたかもしれんとも思った。
確かに新人さん。女性の新人監督さんは歓迎したいところであるが、あまりにも経歴がなさすぎることに唖然とする。いや、そりゃまあ才能があれば経歴なんぞ必要ないけれど、それこそ残念ながら本作からは彼女の才能を感じることは出来なかった……。
原作、脚本、監督、と肩書をつけたオープニングクレジットには期待が大きく膨らんだが、結果的にはそれが、ワンマン映画を示しているように感じられた。

本当に、素朴な疑問。なぜこんな大きなバジェットの映画が、この監督さんに任されたの?北京の有名な演劇学校を出ているということでコネクションを作ったことでの、豪華なアジアスターのゲスト出演が功を奏したのだろうか??
少なくとも示された経歴だけでは、学校で演技と演劇を学んだだけとしか受け取れない。制作側についた形跡がないのがどうしても気になる。
だってだってだって、日本にはこつこつと身を削って作品を作って、才能があってもなかなか世に出られないクリエイターがいっぱいいるのに。
そりゃ、チャンスをつかむのも才能だと思うけど、この監督さんに誰かがチャンスをつかませた経緯があまりにもナゾすぎて、しかも出来上がりがこれじゃあ、そんな浪花節のグチも言いたくなるじゃないの。

……いや別に、じゃあ具体的に何が悪いという訳ではないのかもしれない。ただ単に私の好みの問題かもしれない。でもこういうキュート系の恋愛映画は、軽く楽しめそうな一方で、緻密に詰めていかないと、ツッコミどころが満載映画になってしまう危険性がある。で、その通りになっちゃってる、気がする。
それが、ある意味計算された、つまり確信犯的なツッコミどころ満載映画ならいいのだ。それこそキュート系恋愛映画は、そういうところが楽しかったりする。でもそれは実は高度な技術で、核がしっかりしていないとナンセンスな面白さというものは出ないものなのだ……。

本作はまず、ヴァンパイアをテーマにした時点で、綿密に設定を練らなければならない宿命を負っている訳で、それを成し遂げているからこそ、歴史に名を残すヴァンパイア映画を名作足らしめているんである。
血を吸われたらヴァンパイアになってしまう、という基本の部分、それではネズミ算式にヴァンパイアになってしまい、あっという間に人間は支配されてしまう、という根本的な疑問は、ヴァンパイア映画に常につきまとうところなんである。

ここからツッコんでしまうのは細かいのかもしれんが、主人公一族が人間社会に溶け込みたいがために、ヴァンパイアとしての本能を押し込めてウサギの血かなんか飲んでて、そんな一家が裏切り者として悪のヴァンパイアたちに敵視されるのなら、悪のヴァンパイアたちはさっさと人間たちを次々襲って、ヴァンパイアにしちゃえばいいんじゃないの、と思っちゃうんである。
だってその方が、手っ取り早いじゃん。まあ、それを言ってしまったらそれこそヴァンパイア映画なんてものは成立しないので……でも正直、こういう根本的な部分を認識して世界観を作っているようにはどうしても思われない。

そもそも、ヒロイン、キイラのおじいちゃんはもともと人間。ヴァンパイアのおばあちゃんと恋に落ちて、この一族の今に至る。人間とヴァンパイアの間にも子供が出来るんじゃん、という設定の始まりから考えると、なぜ人間とヴァンパイアの恋が禁断なのか、フツーに疑問に思っちゃう。
子供が出来るんなら、フツーに恋愛して結婚して、家庭を作るってことが、可能じゃん。てかこの設定を持ってくると必然的に、年を取らないヴァンパイア同志は子供が作れないんじゃないの……だって作れちゃったら赤ちゃんのまま止まっちゃうじゃん……という疑問が頭をもたげるんである。
だからヴァンパイアの家族なんてことは聞いたことがないし、家族を作りたいと思った時点で、キイラたち一族は裏切り者ということなのかもしれない。

キイラのおじいちゃんが、人間と同じように年を取る薬を開発したことで、人間社会に生きていくことができる、という設定なのだが、その薬が開発されたのは、いつなの??おじいちゃんとおばあちゃんが恋に落ちて結婚して子供が出来て……の時点で出来上がっていたの??そんなうまいこと??そうじゃなければ、赤ちゃんヴァンパイアはそのまま年を取らないんじゃ……。
いや、そもそも赤ちゃんが作れる、赤ちゃんという存在自体が、そこから年をとれるってことなんじゃないかとも思うが、キイラたち人間の血を引くヴァンパイアも年を取る薬を服用しているしなあ……。

年を取る薬が、ヴァンパイアが人間社会で生きていくための必殺アイテムみたいに掲げられているけれど、なんかアナだらけなのよね。で、これがあって赤ちゃんもできるなら、なぜ人間とヴァンパイアの恋が禁断なのか、そして何より、なぜ、人間側がヴァンパイアにならなければいけないのか、と思っちゃうわけ。
いいじゃん、人間のままヴァンパイアと恋して結婚して子供作ればいいんじゃないのと思っちゃう。人間として生きていけないからこそ、年を取らない日陰の身になるからこそ、禁断なんじゃないの。

両親を悪のヴァンパイアに殺されたキイラは、叔母さん夫婦に引き取られるんだけれど、このダンナの方が元人間。大塚寧々と田辺誠一という、実際の夫婦が演じるのは楽しいが、演出的にいろいろハズかしい感じなので、素直に楽しめない(爆)。
まあとにかく、田辺誠一演じるダンナは元高校球児で、プロ野球選手を目指していたのが、ヴァンパイアになったことであきらめたという。なぜ?だって、年を取る薬を服用して、ヴァンパイアであることを隠して、見た目普通の人間として暮らすなら、あきらめる必要ないじゃないの。

この叔父の存在が、キイラに、人間との恋をためらわせることにもなるのだが、この法則でいうと、その恋の相手、哲がヴァンパイアになることで、せっかく叶えた歌手の夢を手放すということになる訳?と思っちゃう。
そしてまさにそれを裏付けるように、ヴァンパイアとなってキイラとの間に可愛い赤ちゃんももうけた哲は、パン職人として幸せそうに働いているのだ。
あれれ、彼自身の夢であり、キイラも応援していた歌手になることが叶ったのに、まさか、それも捨て去ってしまったの??そう明確に示される訳ではないけれど、あの感じではそうとしか思えない。これって、ハッピーエンドなの……?

なんか流れでざーっと書いちゃったけど、訳判らないかな(汗)。キイラは幼い頃、台湾に住んでいた。そこで悪のヴァンパイアに両親を殺された。
その地で彼女は初恋を経験していた。ミュージシャンを夢見る日本人の男の子、哲。後から判ることだけれど、彼の父親は悪のヴァンパイアに殺されていた。
てか、それこそ後から考えると、ただヴァンパイアにすれば良かったのに、殺しちまったのはなんでなの。血を欲するたびにいちいち殺してたら、ヴァンパイア世界は成り立たないじゃないの……とまた根本の問題に戻ってしまう。だからこそキイラは苦悩するわけなんだから、それを言っちゃあおしまいなんだけどさ。

でも、やっぱりなあ、と思う。つまり哲は、ヴァンパイアに強い憎しみを持っている訳で、だからこそキイラも苦悩するのに、かなりあっさり哲は、君のためならヴァンパイアになるよ、てな展開になるもんだからさ。
いやいやいやいや、子供のころから情報を集めているほどにヴァンパイアに対する憎しみを募らせていたんでしょ、おぬし。いやそれだけ、キイラにホレたってことだろうが、そこまで行くとまたしても根本的な疑問に立ち返っちゃう。……何も彼までヴァンパイアにならずともいいんじゃないの、と……。
ヴァンパイアと恋をしたら、ヴァンパイアにならなければならない、というキモの部分の説得力がどうしても足りない気がする。それだけヴァンパイアに対する誇りがあるなら人間界で暮らしているのはなぜ?という矛盾の部分にたどりついての堂々巡り。

だからね、ヴァンパイアものっていうのは、難しいんだよ。魅力的な題材だけど、観客を納得させる緻密さがなければ、ナンセンスにもなりえない。
本作はなんたっておじいちゃん役が柄本明なんだし、大塚、田辺夫妻ののどかな雰囲気も含め、かなりコミカルな演出で進んでいくし、思いっきりナンセンスにしちゃって面白がれる要素は十分にあったと思う。でもせっかくの彼らがチープな印象のまま、終わっちゃったよね……。

キイラの初めての友人、台湾人のミキちゃんがそんなコメディエンヌとしての責を担っていたとも思うが、あれだけ重要なキャラなのに、オフィシャルサイトのキャスト紹介で彼女がのっかってない、という時点で、商品としての本作の態度が出たな、と思う。
他のアジアスターに比べたら無名なのかもしれないけど、映画作品自体を大事にするなら、これはあり得ない所業でしょ。一目ぼれした韓国人青年がキイラにプロポーズしちゃって、傷心したのに、友情を優先するなんて、わっかりやすい浪花節キャラなのにさ!
しかも、この韓国人青年が悪の手先だって判る訳ないのに、キイラの前に彼が思わせぶりに現れると、キッと眉を逆立てて、親友は私が守るのよ!みたいな。こーゆーところに、作劇の安易さが透けちゃうんだよなあ。

イーキン・チェンなんつー、信じられないほどの大スターを迎えて、彼がキイラのおばあちゃんに恋していたがために、逆恨みしてのこの事態であり。
キイラがおばあちゃんにソックリということで、彼女はさらわれてしまう。んでもって、キイラへの想いがホンモノだと自覚した哲と共に、一族はキイラ救出に向かうんである。

このシークエンスもねー。大塚寧々がバズーカ構えた時点でもう帰ろうかと思っちゃったし(爆)、そのニンニク爆弾(あーもう、ホント帰りたい)、は特に威力を発揮した風もなく、次のシーンに移っちゃうし。
イーキン扮するデレックは当然、強大な力の持ち主だからさ、哲なんかひとひねりな雰囲気でさ。
キイラはたまりかねて、「あなたのものになります!」とか言う訳。もうこの時点でうっわ、クサクサに見たことある雰囲気!とか思い、キイラが懐に剣を構えていたことにもうっわ、クサクサすぎる!!と思う。

そもそも、これだけ強力な相手が、キイラが剣を懐にしのんでいたことに気づいていないってあたりが、それまでの描写では冷酷非情でそんなことを見逃さない訳がないのに、という雰囲気満点だったのに、そりゃないだろ、と思っちゃう。
こーゆーのはツメの甘さというだけでは済まされないと思う。この描写だけでも使い古されるのにさぁ。

正直、ラストの展開も、かなり読めてしまう。一度、キイラのためにヴァンパイアになると言ってくれた哲に、その気持ちだけで十分、と、彼の記憶を消してしまうキイラ。
でも彼は深層意識下でキイラのことを覚えていて、ずっと夢に見ていたと、地元への凱旋ライブで語りかける。記憶を消せきれなかったなんて初めてだと彼女は涙を流し、はじめましてから恋が始まり、ラストクレジットの映像ではもうすっかり、パン職人としてキイラたち家族の中におさまり、赤ちゃんも生まれているんである。

ヴァンパイアになると言ってくれた気持ちだけで十分と、彼の記憶を消して、あらたな旅立ちになるとこで終わってくれた方が、個人的には好み。それじゃ恋愛モノとしては成立しないのかもしれないけど。
ちょっと「陽だまりの彼女」に似てるかなあ。叶わない恋は、叶わないからこそ美しい、という方向には、そんなストイックには、商業的に難しいのかもしれんが。

桐谷美玲嬢をヴァンパイアにしたいがための映画、という気もしちゃう。確かに彼女はヴァンパイア顔?である。彼女の可愛い口元に、小さなキバをつけたくなる気持ちはわかる気がする。でもそれはキュートアイコンとしての似合い方であって、ヴァンパイ映画を作り上げる上ではまた別問題なのだ……。
ヴァンパイアであることにあんなに苦悩してたのに、ミキちゃんにはあっさり正体バラしちゃって、そのくせ、「本当のことを言ったの、初めて」とか言うしさ。ヴァンパイアとしてのアインデンティティがどれだけあるのかと、思っちゃう。

二番手のメインキャラなのに、哲役の戸塚君に触れないままでゴメン(爆)。
子供時代はイケてる少年、大人になって再会したら、アヤしげな豊胸クリームのセールスマン。イケてないこと満点だったのに、キイラに服を選んでもらって美容院で髪を切ったら、いきなりジャニーズ全開でバック転とかしちゃう。ううう、なんなの。世のイケてない男子を敵に回すぞ!!★☆☆☆☆


恋人たち
2015年 140分 日本 カラー
監督:橋口亮輔 脚本:橋口亮輔
撮影:上野彰吾 音楽:明星/Akeboshi
出演: 篠原篤 成嶋瞳子 池田良 光石研 安藤玉恵 木野花 黒田大輔 山中聡 内田慈 山中崇 リリー・フランキー 岡安泰樹 水野小論 大津尋葵 川瀬絵梨 高橋信二朗 和田瑠子 伶音 三月達也 岩野未知 遠藤隆太 吉田征央 中山求一郎 駒井温子 梨田凛 藤原留香 田川恵美子 小出浩祐 八木橋努 竹村知美

2015/11/19/木 劇場(テアトル新宿)
この人もまた待たせすぎる監督の一人だけれど、その理由があの3.11にあったのだと聞くと、この7年間は決して長すぎるものではなかったのかもしれないと思う。繊細な感覚を持つ人。それは弱さと言われることもあるけれど、時間をかけて紡ぎなおせる強さを持つ人だとも言えると思う。
今回、オフィシャルサイトの解説に、久しぶりにヨドチョーさんのエピソードを読んで、まさにリアルタイムでそれに接したことを思い出したんであった。あの時当たり前だけど橋口監督は本当に若くて、柔らかな感性の持ち主で、それをヨドチョーさんは感覚的に愛したのだ。
それは彼もまた橋口監督と同じゲイ(ともう、言ってしまっていいんだよね?)であることは当然、避けては通れないことである。殊更にその部分を取り上げるのも違うのかもしれないけれど、監督自身がアイデンティティとして描き続けてきたことだし、何より本作にもしっかとそれは現れている。自分自身を攻撃するように痛く、でもどこか優しく着地する結末として。

本作は三人の主人公がいて、それぞれの人間関係は微妙に交錯するけれど、ほぼほぼ単独したエピソードと言える。まあつまり、私の苦手なオムニバスに似たタイプの作品(爆)。140分という尺にも若干の怖気を感じたし(爆爆)。
でも、いい意味で本当にさらさらと、流れるようだった。こんなに痛い”恋人たち”なのに、映画が終わってしまうのが惜しいと思える(のは久しぶりの感覚だった)”面白さ”があって、映画というのが基本はエンタメだということをしっかりとつかんでいるのが橋口監督の強さだということを改めて思い出した。
おかしみがあるのだ。こんなに重たい中なのに時々くすっと笑ってしまうような。そして時々、笑い泣きしてしまう。人の優しさに。優しさっていうのは過酷な人生にとってあまりにも弱いものだけど、でも時に、ふっと風穴をあけてしまうような奇跡があるのだ。

で、そう、三人の主人公。その誰もが見たことがないことに、うろたえてしまった。監督の本気を感じて、これはしっかと対峙しなくてはいけないと思った。
しかもメインともいえる、妻を通り魔事件で亡くしたアツシ(篠原篤氏。今、気づいた。そのうち二人は、役名も投影されてるんだ!)は、一本の映画、以上の役割を張れるような重たい設定。
何かね、あえて、三人にバラしたような気がしたのだ。この一人でも映画は作れる。橋口監督は、こうした事件に不条理を感じてきっとこの役を設定したんだろうけれど、それだけに絞ってしまうときっと違う、と思ったんじゃないかと思うのだ。
彼に明確な救済は現れない。まだ結婚したばかりの妻を亡くし、仕事も手につかず、裁判を起こそうにも犯人は心神耗弱との認定、犯人家族への損害賠償ならと、何かこう、何かこう……見ていられない悲壮感。実際彼は、妻を供養する、ということ自体が、出来ないほどなのだもの。

後から、3.11以降に映画が作れなくなったという話を聞くと、震災の映画を作りそうなもんだよねとも思ったが、そうではないところに、個人に向き合ってきた橋口監督の姿勢を思ったりもする。
でも、通り魔事件、頭に浮かぶだけでも様々なあれこれが思い浮かぶそれをピックアップするというのは、それだけで社会派映画になりかねないのだ。なりかねない、なんて、なんか言い方、ヘン??でもきっと、そうなっちゃいけない、ていうか、なんていうのかな……。
彼は確かに救済はされないよ。彼がどんなに、犯人を殺したいと、神様は許してくれると思うんスよ、と慟哭しても、どうしようもないのだ。どうしようもないってことが、世の中には確かにあるんだ。……世の中、と言ったら、彼はきっと、怒るのだろうけれど。

予告編でも最も印象的に挿入された、そんな彼を涙が出るほどあたたかな笑顔で受け止める職場の先輩。「……殺しちゃダメだよ。そしたらこうして話せなくなっちゃうじゃん。もっと君と話したいと思うよ」
彼の痛々しい思いに比すれば、あまりに弱い感覚と言えるのかもしれない。でもさ、そういうことなんだよね。
この先輩を演じる黒田大輔が凄くイイの。役名も黒田大輔!監督のホレこみぶりが判る。片腕を失っている彼のバックグラウンドはずっと気になっていたが、それをようやっとアツシが聞くと、「皇居にロケットを打ち込もうと思って、腕を吹っ飛ばした」という、その穏やかな笑顔からは想像もつかない強烈なひとこと!しかもそのひとことだけ!!
私は愚かにもね、アツシみたいな重たいエピソードに対抗する、哀しい出来事がこの先輩にもあって、だから受け止められるんだとか、甘っちょろいことを考えていたらなんという!

でもさ、そういうことなのさ。この職場、アツシの天才的な耳を発揮できる建設安全系?の会社のみんな、なんともイイやつばっかなの。新人君はアツシを尊敬してやまない純粋すぎるヤツ、アツシの暗さを心配して、「うちのママが連れて来いって」と声をかける女子事務員。なんかみんな今一つズレてる感じもするけど(笑)、そこがまた、ホッとするんだよなあ。
そしてこの先輩が最後に言う言葉もイイ。社員みんなでバーベキューやって「お腹いっぱいになって、笑っていたら、なんとかなるよ」って。
なんか、「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」を思い出すのだ。いや、そんな簡単に比較するアレじゃないけど、でも子供の頃ならば、哀しいシチュエイションを外に置いておいて、楽しさや幸せをちゃんと別で受け止めることが出来た。不条理とは、大人になることかもしれないと思うのだ。確かに不条理だけど。こんな世の中イヤだけど。

アツシの義姉が訪ねてくるシークエンスがイイ。義弟を心配して、紙袋一杯の手造りお惣菜をバカバカ取り出すのが、妙におかしく、優しい気持ちになる。
やたら明るくふるまうおこのお姉さん、「私のヘンな顔が好きだって言ってくれたの」という婚約者は、事件の後、彼女を捨てた。「妹を殺されたんだよ、私。妹を殺されたら、フラれたの。そして、友達もいなくなったの」
……これは、日本という国のせいなのだろうか、それとも、こうしたことを不吉さとして忌み嫌う残酷さは、どこの国でも共通しているのだろうか……??

本作の一番最後に出てくる、アツシがほほえましく、涙目になりながら見守っている、たちしょんする彼氏とじゃれ合ってる彼女、という、その彼女の方はそのお姉さんではなかったの?そう見えたけど……。
お姉さんがツカミ直せた幸せは、でもアツシはまだ、それを手にするには、今やっとリセットできたところで、遠そうだけど……。

で、先述した、この純粋すぎる新人君が引っかかった、ミネラルウォーターの詐欺商法、そのスナックのママ、やたら「準ミス」を強調する、なんの準ミスだかも判らないってあたりがサイコーな安藤玉枝、そのヒモっぽい男が精肉会社の社員である光石研。
彼が肉を届ける弁当屋の従業員が、二人目の主人公。この弁当屋の女主人がやたらヒステリックで、ご主人がひたすらなだめているのも妙に気になったけれど、そこは楽しいワキ役に過ぎなかったのか??その割にはすんごいキョーレツだったけど……。

三人の主人公の中ではただ一人の女性、つまりヒロイン、しかして年恰好が私に近くって。それはね、彼女がハダカになった時に如実に実感したのだった(爆)。ああ、私のハダカにそっくりな腹のたるみようだ、って(爆爆)。
設定としては、夫と姑とともに狭いコーポラスってな感じのトコに住んでいる主婦。子供はいない。だって避妊してるから。
あの生活スタイルじゃ、セックスレスなのかとも思われたが、決してそうじゃない。いまどき後片付けも何にも手伝わず、食ったら寝転がってタバコすってる夫が、おこたを台拭きで拭いてる彼女の肩にそっと手を置いたり、とんと手をぶつからせたり、それが合図。
そして彼女、役名は瞳子、「ちょうど切れてるから」と言って、買いに出かけるのだ。コンビニかと思ったら、今でもこんなんあるの、という明るい家族計画の自販機。いや、私も一台だけは近所にその場所知ってる(爆爆)。
この舞台設定は明確にはされてないけど、車が春日部ナンバーだったり、自転車で疾走する風景の感じとか、明るい家族計画、な環境なのかもしれない。いやそれよりやはり、コンドームを買うところを人に見られたくないということなのか。

それは愛の営みというにはほど遠い。服さえ脱がない。電気だけ消して。瞳子は下の下着だけ脱いで、またがるだけ。
なんて、寂しいのだ。それは、姑を気にしているという感じさえもない。だってまたがって上下して果てるだけじゃ、離れた部屋でテレビを見ている姑に気づかれる心配もほぼ、ないのだもの。
でも、気づいているのだろう、きっと姑は。コトが終わった後、これ見よがしに水を飲みに出てきたりする。

瞳子は、運命の相手?に出会ってしまう。先述した、肉屋の配送員である。あやしげなミネラルウォーターを愛人が売っているけれど、彼自身は瞳子を他の設定で誘い込む。二人して逃げた鶏を追いかけてじゃれ合っただけで、瞳子はまるで、10代の女の子みたいにはしゃいでしまった。
恐らくそれで、つけこまれたか……いや、彼自身も彼女に魅力を、なんて思うのは、ヤハリ同じ年代の女の妄想だろうか(爆爆)。だって、少しは信じたいんだもの。彼もまた、瞳子の無邪気な笑顔にそそられたって。

だって、思いがけなかった。瞳子が一人、自分の書いた小説をもとにイラストを描き散らしている時に、突然訪ねてきた。見ちゃイヤ、読んじゃイヤ!!と嬉しげにじゃれ合う瞳子はもう完全に、恋する乙女、10代の女の子みたいだった。短めのタイトスカートが、まるで彼の来訪を予期していたようにさえ、思えたんだもの。
しかもあの、ひと時代昔のレディースコミックのようなイラスト!!年代的にイタすぎて、もぞもぞしてしまう。あのイラストのもととなる小説というのも想像出来すぎて、なんか涙目っぽくなってしまうのだ。
しかもさ、彼女、すんごくオシャレするんだもん。彼のために。どう考えても年不相応なカッコするんだもん。ミニ丈のワンピにブーツとかはいて、見てられないの。年でファッションを決めるなんてそれこそ不遜かもしれないけど、本当に、見てられないの。

それは彼女が普段、あまりにもオバハンくさい状況でいるからなのかもしれない。ホントにね、私みたいな独女は彼女の状況に、だっから結婚なんてするもんじゃないって!!などと毒づきたくなるのだ。
職場の同僚が、仲の良かった姑の死に涙することに、信じられない表情を浮かべる瞳子が、一体なぜこの生活にしがみついているのか、理解できないのだ。パンツ脱いでまたがるだけのセックスだなんて!!
だから恋に破れた瞳子が、夫から「(ゴムがなくて、子供が出来ても)いいじゃないか。夫婦なんだから」と言われて、意外そうな中にもふっと幸せそうな片りんを見せるのが、なんか、えーっ、と思っちゃうのだっ。しかもダンナ、薄毛!(いや、関係ないけど)。

子供を作ることを、なんとなく禁じられていた状況にこそ、そして姑との同居と、自分とはまたがるだけのセックス、母親の方こそを尊重、の夫への絶望、ということだったのだろう、ということは推測されるのだけれど……。
まあ、私はフェミニズム野郎だからさ、ちょっとまあ、その解決策にはさらっと納得できないものを感じるのよ。恋にウキウキして、ここから逃げたいと、半ば本気で、いや、メッチャ本気でスーツケース転がした瞳子を見るとさ……。

ただ、瞳子が語るこれまでの遍歴……派遣社員時代の、使えない女、てゆーか、使えない労働者であった彼女のさまが、彼女自身の劣等感を支えてきた、と言ったらヘンだけど、それを感じて何とも言えない気分になってしまうのだ。
それを言えば夫だってきっと、似たり寄ったりだと思う。なんたって職場結婚。子供を作らず姑の同居ってのは、経済的な理由に違いないんだもの。
絵に描いたような、姑と夫との気づまりな生活、なんだけど、エピソードを突破してみると、実は姑はからりとした性格で、日々のキツめの言葉も、あっさりとした性格ゆえだと思えば、すんなりと納得できるのが不思議なのよね。
つまり夫がそれに乗っかってなかっただけさ。今日も今日とてゲートボールの試合に勝つぞ!とハツラツと出かけるのがカワイイし。夫のたった一言で見えていなかったことがぱーっと見えてくるのが凄い!と思って……。

そして三人目の主人公。橋口監督のアイデンティティがにじむ、ゲイの弁護士。見た目も中世的な美青年で、やおい好きの女の子がキャーキャー言いそうなタイプ。実歴もマジなエリート人生!なぜそこで俳優になろうとか思ったのだ!!とイカリたくなるぐらいな!!
今までの、橋口監督の経験を投影してきた人物像の中に、こういう男はいなかった。つまり、ヤなヤツなのだ。エリートで、成功者で、ゲイであることもきちんと公表してて、で、その”相方”である年下と思しきカワイイ恋人に、つらく当たる。判り易く。判り易く、という部分が、今回ちょっと、乗り越えきれない壁であったかもしれないと思う。

橋口監督が描くアイデンティティ、言い換えれば、テーマにしているマイノリティ、マイノリティを描く場合に、世間一般的にどうしても陥りがちな、イイ人キャラ。一生懸命生きてる、悪い人である筈がない、つまり言い換えれば、カワイソウ、という上から目線が見え隠れするキャラ設定。
マイノリティであったって普通の人間、つまり悪人だっている筈だということに、時に挑戦的に描く作品もあったけれど、挑戦的から抜け出られなかった。普通のこと、当然のこと、改めて議論するまでもないこと、というところに至るには、この日本という国は、あまりにもすべてを隠し過ぎたのだ。

その点においていえば、本作の彼、超エリートな企業弁護士、四ノ宮のキャラクターはいい意味での挑戦的、をクリアしているんだよね。
最もメインのアツシの相談を受ける弁護士。彼の必死さに、つまり下層の人間のそれに自分のキャリアが傷つくことを恐れる。それを相手にヘーキで伝えちゃう。そんな男。恋人に対して笑顔を絶やさないのにそんな具合に高圧的な、そして周囲に対して判るような侮蔑的な態度をとる男、というのはさ。
ただ、なぜ彼がそんなことをするのかっていうと、本当に好きな相手は他にいるから。その相手はノンケで結婚して子供もいる。でもその相手には自分がゲイということは言っていて、その上で友情関係を続けていたという自負があった。
まあつまり、四ノ宮にとっては自分のアイデンティティを満たすだけの存在が年下の恋人であり、当然それを察知した恋人は、去っていき、四ノ宮はそれに対して傷つくことさえないのだ。

と、ここまで書いてきてふと思い当たった。見ている時にはマイノリティを単純に善人に設定してカンドー系に収める風潮に、監督自身がイラッときていたのかなぁ、と思っていたのだ。いやそれも、確かにあるのかもしれないと思う。でもそうじゃなくって……。
四ノ宮は、自分が恋することに精いっぱいで、恋されることに、愛されることに、愛されていたかもしれないことに……その幸せの可能性に、気づいていない、んだよね?なんてもったいない!!
つまりさ、四ノ宮はズルいのだ。ゲイであることを公言することに安住して、その上にあった、一番言うべき本心を、言わずにいた。男同士という、ノンケならば成立する友達という安住に逃げ込んだのだ。
いや、勿論、一番ズルいのはその友達だ。演じる山中聡は、もごもごごまかしまくる芝居がいかにもそういう一般的価値観の持ち主を体現していて、本気で卑怯なヤツで、ぶっ殺したくなるぐらいだが、でもそんな恋する彼との”友情”を壊してたくなくて、本心を言わずにほかのパートナーをクサしていた四ノ宮こそが、卑怯なヤツなのだ……。

この設定って、すんごい、すごいと思う。だって、だって、だって……これは、友情は同性同士でしか成立しない、などとゆーことをヘーキで言う遅れまくっているこの国のヘンクツを糾弾することでもあるし、そして何より……こんなにも本心を言えないの、人間って、っていうことなんだもの。
そしてこの場合、マジョリティは家庭だの社会だのに逃げ込むことが出来る。もごもごと、奥さんや子供のせいにして。いや、この場合、自身の嫌悪感を、確かに不勉強、無責任ながらも、ありありと表明した奥さんの方が、奥さんこそが、最も”正当”なのだ。マイノリティをただただカワイソがり、イイ人に仕立てることはカンタンなのだもの。つまり今の日本社会は奥さんの”正当”を崩せる力がないのだ。

あぁ、なんか、フェミニズム野郎のまま終わってしまう気がしちゃう(爆)。でもね、つまりそういうことじゃなくってさ!ただ、ただ優しいのだ。どうしようもないことがあるけど、どうしようもないけど、優しい人がいるから。
他にもね、いろいろ楽しい脇役がいるのよね。セレブ感をやたら押し出して離婚相談をする女子アナとか、橋口監督の前作で意外な演技派の名誉をほしいままにしたリリー氏は、傲慢でテキトーな有力者の役でアツシをガックリさせたり。
メインの三人は、橋口監督作品!と思いながらも企画系、短編系で我ながら情けなくもスルーしてしまった「ゼンタイ」に関わっていたと知り、メッチャ悔しい。それこそ言い訳だけど、ホントに観ようかどうしようか悩んでたんだよ!! ★★★★☆


心が叫びたがってるんだ。
2015年 119分 日本 カラー
監督:長井龍雪 脚本:岡田磨里
撮影監督:森山博幸 音楽:ミト 横山克
声の出演:水瀬いのり 内山昂輝 雨宮天 細谷佳正 藤原啓治 吉田羊 村田太志 高橋李依 石上静香 大山鎬則 古川慎 津田英三 宮沢きよこ 野島裕史 河西健吾 柳田淳一 手塚ヒロミチ 葉山いくみ 加隈亜衣 天崎滉平 田澤茉純 西谷修一 山下誠一郎 芳野由奈 諏訪彩花 東内マリ子 木村珠莉 榎木淳弥 木島隆一 久保ユリカ 前川涼子 石谷春貴 三宅麻理恵

2015/11/11/水 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
ヒットもし、何かと話題にもなっていた「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」を見逃したことが本当に悔やまれる。見逃した、んじゃない。意識的にスルーしていた。やはり心のどこかで、アニメかぁ、と思っていた気持ちは否定できなかった。
なぜ、なぜ。表現手段が違うだけで、そんなことは関係ないことぐらい、今までの経験で判っている筈なのに、やはり私は何か差別とゆーか、偏見を持っていたことを心から恥ずかしく思うのだ。

今回だって、スルー寸前だった。あの「あの花」の……という惹句が必ず付くせいで怖気づいていたせいもあるだろうし、いやヤハリ、そんな偏見がやっぱりあったんだ、私!!
でもでも言い訳のように言わせてもらうと、久しぶりにアニメ作品に足を運ぶと、予告編まですべてアニメ作品(爆)。ヤハリ客層の囲い込みは確実に行われていて、こーゆーことが優れた作品から幅広い客層を遠ざけていると思っちゃう。いやホント、言い訳なんだけどさ!!

そう、映画を観る予定の日が一日ずれた、ただそれだけで、もう公開も終わりかけ、午前中一回のみがちょうど休日に当たり、こんなことでもなければ足を運ばないというのも縁かも……と思って出かけたのであった。
あぁ、神様、本当に感謝します、などと大げさな表現を出したくなるぐらい。いや、大げさではない。これをスルーしようとしていたとは私は本当にバカだった。
えずきながらの号泣(恥)。ラストクレジットでもこみ上げる涙を抑えきれずだーだー泣く。結構簡単に涙が出るたちだが、こんなに涙腺崩壊したのは久しぶりかもしれない。

いや別に、泣ける映画だからいい映画だと言うつもりはない。でも人の心を揺さぶるということは、それはそう簡単なことではないのだ。
お涙ちょうだいに慣れ過ぎて、泣くもんかと構えて観るようになってからのここ最近は、特にその機会は減っていた。いや、あのヘンケンがヤハリ、ギャップとなって波を大きくしたのか。それはあるかもしれないけど、心震えるという体験を久しぶりにしたのだ、本当に。

舞台は秩父であるという。「あの花」もそうだったのだという。近年は、クリエイター自身のゆかりの地を舞台にした秀作がどんどん産まれていて嬉しく思う。そしてそれが、アニメ作品でも当然可なのだということにも。
私がついついアニメ作品を避けてしまうのは、ヒロインの声が往々にしてやたらと高い、いわゆるアニメ声であることが原因でもあり、本作でもちょっとその部分はある。ただ、幼少時代から始まる本作は、この子供の頃の彼女もそのままスライドして演じているみたいだし、まぁ良しとしておこう(ムダにエラそう(爆))。

とにかく明るくおしゃべりで、少々夢見がちでおしゃまな女の子、というのは、それこそアニメにはありがちよね、と思ったが、よもやそのキャラ付けこそが彼女を深い闇に閉じ込めるとは思ってもみない。これもまた、ギャップの妙なんである。
おしゃまな女の子、順は山の上のお城に憧れている。そこでは舞踏会が開かれているに違いないと思う。いつか自分も、その舞踏会に王子様と共に参加するのだと。

現代の日本に西洋風のお城があるとすれば、それは当然ラブホテルで、そこから出てきた父親を見て王子様だったんだ!と順ははしゃいで母親に話してしまう。
そして両親は離婚。追い出された父親は、「お前は本当におしゃべりだな。みんなお前のせいじゃないか」と優しい笑顔を貼り付けたまま言い残し、去って行った。
順は玉子の妖精?に言われる。そのおしゃべりをやめなければ不幸が訪れる。王子様も現れない、と。口にチャックを仕掛けられ、それ以来順は声が出なくなった。

という、イントロダクション。玉子の妖精は近在の神社で祭られている玉子の飾りにも似ていて、そうした地元信仰と少女の妄想(というかトラウマ)が上手く結びつき、いわゆるアニメの少女が陥りがちな闇ファンタジーを避けることに成功している。
なぁんて、ね。そんな分析的なことを言いたいんじゃない。本作は大人が子供を傷つける残酷さ、その柔らかな感性の10代の力、その可能性を力強く信じていて、そのことこそが心震わせる原動力なんだもの。
ああ、なんかいちいちこんな風に回り道しそう。なぜ、どうして心が動かされたかをどう説明したらいいのか、あらゆるところにそれは潜んでいるんだもの。

順は勿論主人公だけれど、同じぐらいの重さを割かれる同級生たちがあと三人いる。
フレコウと呼ばれる、「地域ふれあい交流会」の実行委員。生徒たちは全くやる気がなく、担任の先生から半ば強引に指名された順を含めた四人。
この担任の先生がまたイイのだ。いかにもカルい、生徒とタメ口で話すようなタイプの先生なんだけど、そういう先生にありがちな、クラスの花形とばかりつるむんじゃなくて、しっかり生徒たちを見ている。
だからこそ選んだ四人。確かに誰かが言ったように、喋らない順、甲子園の夢破れた田崎、しっかり者のチア部の部長、仁藤、一見してなんだかヒマそうな、つまり覇気のない坂上、と問題児たちを仁藤がまとめる、という図式に見えなくもない。

高校生同士だから、そう、こんな風に名字で呼び合うのよね、男子も女子も。だから順、ではなくて、成瀬と呼ぼうと思う。
先生はミュージカルをやりたがる。成瀬が声を出すことを期待して言っていたのか、テキトーだったのか、坂上のピアノの腕や音楽の知識を知って言っていたのか、テキトーだったのか(汗)、定かではない。
甲子園の夢破れ、けがをした腕を抱えて練習に顔を出すしかない田崎は当然反発するし、他の生徒もやる気ゼロパーセント。

しかし坂上の即興の弾き語りにドキュンときてしまった成瀬は、ミュージカルをやりたいと、声を出し、言いたいことを声に出して言いたいと思う。
そして、ホームルームで勇気を振り絞って歌いだす。喋れないと思っていたクラスメイト達はそりゃー、ビックリする。そんな成瀬をクソミソに言っていた田崎君が最もビックリする。
歌なら声が出せるのかもしれない。呪いが解けるのかもしれない。そう思って、成瀬は自分の想いをストーリーに書き起こす。これを坂上君に歌にしてほしい、と。

もうさぁ、この時点で、あぁ、この子が舞台に立ち、それまでの姿が別人のように見事に歌ったらそりゃ感動する、もう、これは間違いない!と思って、半ば待っていたような状態だった。
結果的にはまぁその通りではあったんだけど、予想外の回り道があった。つまり、私はまだまだ、ナメていたんである。これで、カラを破って、まさしく、玉子の妖精にかけられていた呪いだから、カラを破って、見事に舞台をつとめて、こっちは号泣して、はー、スッキリ感動!!でしょ!!と。
それで充分だと思っていた、正直。でもそんなんで終わるならば、こんなにしっかりと、一緒に頑張る実行委員たちのキャラを作り込んでる筈もなかったのだ。

でも当然、成瀬である。成瀬の闇は、ここまでで描いた以上に深い。娘によって夫の不義理が明らかになった母親は、それっきり声が出なくなった娘を持て余す。自分を責めているのかと問いただす。
生命保険のセールスレディをしている母親は、外聞も悪いからと、誰か訪ねてきても外には出ないように言い含める。声が出ないことといい、まるで人魚姫みたいだ……。玉子の妖精といい、実際はラブホとはいえ、幼い成瀬が憧れていたお城といい、おとぎ話が本来持つ哀しさが、本作にはあふれている。
だから歌なら声が出るという成瀬に喜びつつも、再び闇に閉ざされた成瀬が「歌なら大丈夫なんて、やっぱりダメだったんだ!!」と落ちていくのが、ああ、その人魚姫だってそうだったし、そんな哀しさなのかとも思ったんだけど……。

で、まあ脱線したけど、後輩たちに疎まれている田崎君、中学時代坂上君とつきあっていたんだけれど、彼の両親が離婚し、幼さゆえに上手く手を差し伸べてあげられなかった仁藤、そんな彼女の気持ちを判っているだけに、そして両親の離婚が自分のせいだったと思っている状態から抜け出せていない坂上、とそれぞれの状況が見事に、過不足なく描かれているのだ。
それが坂上に恋してしまった成瀬、言葉が人を傷つけることを深く判っている成瀬、友達という存在がいなかった成瀬、……に見事にリンクしていって、いちいち心震わせられてしまう。

いち早く成瀬の心の闇に気づけたのは、両親の離婚、それが自分のせいではないか、という共通項を持つ坂上。そんな坂上に成瀬が恋をしたのは、同じ境遇を判ってもらえたからじゃない。ただ、彼がキラキラしていたからだ。
本当に純粋な恋だった。坂上が成瀬を気にかけたのは、それとは逆に自分と同志のような思いがあったからかもしれないし、坂上は仁藤とお互い想い合ったままだったから、成瀬の想いは成就されないのだ。

見ていてね、それは判ったし、だからといって坂上や仁藤を糾弾する気にはなれなかった。
言葉が人を傷つけることを何より判っている成瀬が、それでも成瀬の気持ちを聞きたいと、言いたいことを言ってほしいといった坂上に対して爆発させた言葉の中に、特に仁藤に対して、凄く判るナァ、と思う部分があったのだ。

仁藤はキラキラ系女子。高校時代の私は言ってしまえば成瀬系女子の側だったから、なんだかすごく、判るのだ。こういうクラスのスター、キラキラ系、まとめ役系の女子が、そうではない女子たちに向ける視線。イジワルというんじゃない、そうじゃないんだけど、クラスをまとめるために、こんな子たちもなんとかしなきゃ!仲良くできるよ!!みたいな。そんな圧を感じて萎縮と自己嫌悪を感じてしまう感じが。

大人になれば、全ての子供が等しく、それなりのナヤミを抱えていると判るんだけれど、当時はそうじゃなかった。だから、クライマックスで仁藤のことを、イイ人ぶって!と罵倒するのが、もちろんそれは、恋敵ということもあるけれども、なんか判る判ると思って……途中からずっと泣いてたけど、ここでは違うタイプの涙が流れたなあ。

ああ、なんか脱線しまくってしまう。物語の筋道が立てられない(爆爆)。
とにかくね、最初はチア部の部長と野球部のエースという間柄で、仁藤さんに気があった田崎君が、「あまり早く帰ると両親が心配するから」と夕暮れのホームで時間つぶししたついで?に、自分と付き合えよ、と言い放つシーンやら、やる気のないクラスメイトたちを、最初はぶんむくれていた田崎君をはじめとして実行委員みんなで説き伏せたホームルームやら。
いや、ここは説き伏せたんじゃない、一人、二人、と、彼らの友達たちが手を挙げてくれたことに涙が吹き出し、実はこんな風に何かを作り上げること……振付やら衣装やら舞台美術やら音楽やら、という、クリエイティブな表現を彼らが欲していたことに、心動かされるのだ。ああ、こんなん、ホント、ベタだと思う。思うけど、こんなこと、なかなかまっすぐに表現できないよ。

ミュージカルを作るといってもあまり時間もない。坂上君が父親の影響で音楽の知識が豊富なことで、既存の曲に成瀬の書いた物語から紡いだ歌詞をのせて作り上げることにする。これがまた、イイんだ!
置きっぱなしのピアノの蓋に指を這わせた坂上君が「……ばあちゃんか」とひとこと言うだけで、ピアノが好きだったのにずっと手を触れないでいた孫のために、ホコリをかぶらせたりしないでおいてくれた、ってことが判って、それがまたグッとくるのだ。

最後の最後、ベートーベンの悲愴とオーバーザレインボウを同時に合わせるアイディアに心震える。
それを編み出したのは、「それも父親が教えてくれた」と、傷つけられても、自分のせいだと悩んでも、それでも親のことが好きだと、そう明言する訳じゃないけど、言い換える形で、今の自分があるということを示す坂上の言葉だというのがね……。

確かにここまでも声が出てなくて、メールで会話していた成瀬だけれど、まさかまた玉子が出てくるとは思っていなかった。
母親が出てくる。吉田羊が演じるだけあって、どシリアスである。なんで喋らないんだと。私を責めているのかと。もう疲れたと、言い募る。
声が出ないから反論も出来ずに涙を流すだけの成瀬に、そのズタズタの心を思って、涙が止まらない。きっと、絶対、舞台ですべてが氷解すると信じていても、涙が止まらない。

実際、先述したけれど、すんなりと舞台でカンドー!!という訳にはいかないんだもの。
あ、そうそう、その母親とのシーンで、実行委員たちが集結し、坂上君が必死に状況を説明しようとした、そのことに彼女はびっくりして、「……友達、いたのね」とぼそりとつぶやくのだ。
なんということだ。つまり、娘は自分を困らせるし、友達もいない、語弊を恐れずに言えば、カタワモノぐらいに思っていたんじゃないの。
でも、でも実際きっと、成瀬にはこの時点まで友達はいなかったに違いないのだ。それは離婚が娘のせいだと言い放った父親、そうは言わなかったけど、夫の不義理を無邪気に報告した娘のせいだと思っていたと思しき母親、その圧のせいだったに違いないのに。

本番前日、坂上と仁藤のお互いの想いを聞いてしまった成瀬は、再び玉子の呪いに閉じ込められる。時間になっても来ない。決死の思いで母親を誘ったのに、来ないのだ。
クラスメイト達は口々に、痴話げんかでここまで頑張ったのをブチ壊しにする訳、サイテー、となじる。まあ当然である。観客側だって、それまでの成瀬の心の闇を充分知っていながら、さすがにこれはなぁ、などと思っちゃうんだもの。

でもそれは、忘れているのだ。あの頃の恋というものが本当に、かけがえのないものであることを。
勿論それが判っているからこそ、坂上君が誰を想っているのか、その本当の気持ちを聞いた時に、成瀬は「判ってたよ」と吹っ切れた訳だし、何より、成瀬が彼に思いを伝えられたことこそが、キモだった訳だし。

ああ、もう!!こんな風になんだかもう、脱線しまくりなんだもの!!
正直なことを言えば、ここまでみんなで準備して、声が出ないままながらそれまで成瀬をバカにしていたクラスメイトたちと奇跡のきずなが深まったのに、ここで坂上君に失恋してボイコットかよ!!と、クラスメイト以上にアゼンとし、憤ったのが本当のところなんだよ。玉子の妖精、ここにきて言うか!と……。

だから、一番ビックリだったのは、その成瀬の自分勝手を確かにそうだと認めながらも、でも猶予をくれと、成瀬は凄く頑張っていたし、この事態の原因は自分にあるから、と頭を下げた、坂上、そして仁藤、そして田崎のメンメンにあるのだ。
そうかそうか、坂上が成瀬を探し出して、最後の最後の場面に間に合う、という感動の作り方かっ、と後から思えばナットクなのだが、もうハラハラして、涙も止まらないし、どうしてくれるのって!

成瀬の代役を仁藤が、坂上の代役を音楽を作ったDTI研究部の友達が担って、皆がサポートする姿に涙止まらぬ!
そして何より、娘から誘われて足を運び、娘の姿がないことにやっぱりダメなんじゃない……と落胆しかけた成瀬の母親が、娘の魂の叫びが乗せられた歌詞と、最後の最後に登場した娘にボロボロ泣くのには、もう立ち直れないぐらい号泣!!

……なんだろうなあ。後から考えればさ、結構王道なのよ。ストレートだと思う。でもそんな王道のストレートを描くには、それだけの力が必要なんだよね、そういうことなんだと思う。
なぜこんなに心が震えるのか。それは策を弄してないからなんだよ。彼ら彼女らの想いが混じりけなくて、怖いぐらい透明だから。でなきゃ、玉子の妖精なんか、現れないよ。

何より嬉しかったのは、田崎君が、違う種類だけど、孤独の闇を共鳴し合って、全く別の世界の人間だと思ってた成瀬を、尊敬の形から好きになって、最後告白するシーンで終わるところ!
告白されて、音はオフで、赤くなった成瀬から空にパンする、玉子の妖精の帽子が吹き飛ぶシーンで終わるところ!
こういう、いわばアニメでしか出来ない素敵なファンタジー、それがあるってこと、判ってた筈なのにさ!!★★★★★


子連れ狼 冥府魔道
1973年 89分 日本 カラー
監督:三隅研次 脚本:小池一夫 中村努
撮影:森田富士郎 音楽:桜井英顕
出演:若山富三郎 富川晶宏 大楠道代 佐藤友美 潮健児 山内明 大滝秀治 須賀不二男 田中浩 藤山浩二 加藤嘉 岡田英次 戸浦六宏 志賀勝 石山律 天津敏 山城新伍 守田学哉 石橋蓮司 大木実

2015/7/12/日 劇場(神保町シアター)
私、子連れ狼、初!こんなに有名なシリーズなのに初で、しかもあのビジュアル以外はまるで、全然知らないもんだから、観ている間は何が起こっているかかなり判らなかった模様(爆)。
いや無論、一話完結でしっかりと楽しめる内容であるのは確かなのだが。「柳生一族に、妻を始め親族を皆殺しにされ、その復讐のために放浪の旅を続けながら、一殺五百両(標的一人につき五百両の報酬)を請け負っている」とゆー、まあつまり殺し屋だわよね。
ところで本作中ではしきゃく、と発音するんだけど、私的には刺客はしかく……でもどっちでもいいの??ずっと“しかく”オンリーだと思っていたから違和感があった。まあどうでもいいけど。

で、そう。この設定を知らないと、ちょっとツラいものがある。いや、知ってても、依頼に来ている筈の人たちを次々に殺すのはいまだに??の部分があるけれど……。言っていることは判る。
つまり、それだけの大金を投じて、お家の恥をさらした殺しを依頼するのだから、その腕を見極めることが必要だと。五百両を五等分して五人の、それこそこちらも刺客を放ち、その力量を試される。つまり、相手は命を賭けて殺しを依頼するんである。見込んだ力があるかどうかを、5人の命を賭けて。
だから次々と依頼者が死んじゃう。んなばかな!とついつい思ってしまうが、だからこそ、拝一刀の非情さがクリアに示されるということなのだろう。

そして、あんな年端もゆかぬ、それこそ乳母車(正確には箱車か)に乗せられるほど幼い男の子もまた、父親のその非情な運命を理解している、というのが。
何一つ設定を知らない私でも、そして大五郎はほとんど何も喋らないのに、じっと父親の殺戮を(という言い方はちょっとニュアンスが違うかもしれないが……)見つめるこの子の様子で、それが判ってしまう、というのが凄いと思う!
昨今の名子役たちも確かに凄いと思うが、シンプルなだけに深いものを感じるこの子の演技は、演出の妙もあるのだろうが……。

演出の妙、そう、そうよ!足を運ぶ動機になったのはもー、間違いないと思ったんだもの、三隅監督だったからよ!
私多分、そんなには観てないと思うんだけど、座頭市の最初、「座頭市物語」がひれ伏したいぐらい大好きで、ああ、こんな静謐な、切ない美しさの、男の物語が、ああ、もう、ダメダメ!と今思い出しても涙が出ちゃいそうになるぐらい。
久しぶりだった、三隅作品に再び遭遇して、ああ、そうだ、この感じだと思い出した。こんな静謐な時代劇を撮る監督は、他にはいないのではないだろーか。
だって時代劇よ、チャンバラよ、ふつー、思いっきりにぎやかじゃないですかっ。なんでこの人はこんなにもストイックなのだろう。あまりに静けさ満ち満ち過ぎて、昼食前の私はぐーぐーなるお腹が劇場中に響き渡って、かなりハズかしかった(爆)。ああ、でも、三隅監督だと思ったなあ!

で、そう、刺客依頼だと言いながら、その依頼する相手がどんどん拝一刀に殺されていくので、かなり戸惑いながら観ていく前半戦。依頼人たちが笠の下にぞろりとさげる、牛頭馬頭(ごずめず)図柄の手拭いがいかにも異様な不気味さを感じさせ、これから起こる不穏さを感じさせる。
拝一刀が依頼されたのは黒田藩のお家騒動。側室に産ませた姫君を、正妻が生んだ跡継ぎの若君だと偽っている。その秘密が記された“お墨付き”とそれを持っている僧侶を抹殺するのが依頼内容。

放たれた依頼人であり刺客は、次々と拝一刀によって鮮やかに倒されてゆき、それを大五郎はぎゅっと口を真一文字に引き結んで見守っている。
時に真っ向勝負ではなく、熱いお茶をどうぞとか言って毒を飲まそうとする輩も現れる。それも見事に拝一刀は騙されたフリして返り討ちにする。
でもあれは、あきらかにアヤしかったけどね。「スキがあった」だなんて、フツー、思わないって。

でも、確かに拝一刀にもスキがあったのかもしれない。女刺客に不覚を取ったのだから。それまでの刺客がどちらかといえば正攻法に挑んできたのに対して、鎖を振り回して一刀を見事からめとってしまう女刺客、不知火は、見事な腕前と同じく、見事な覚悟の持ち主でもあったのだった。
演じる安田道代、つまり大楠道代さ!あ、確か彼女の旧姓は……と思って、タイトルクレジットで目にしてからドキドキしながら待っていたが、メッチャイイ女!
本作には何人かの女優が登場し、それぞれに運命を背負ったイイ女なのだが、お家の存続を思うからこそ主君を裏切り、それがために結末を見届けてから、潔く命を絶つ、この女殺し屋がひどく美しくて、うろたえてしまうほどだった。

まるで、裏切った誰かを愛していたんじゃないかと思われるほどの刹那な美しさ。でもそれが、この時代の、主君に殉ずるということなのだろう。
先に放たれた男たちが次々と倒されていくだけに、拝一刀と唯一対等に張り合い、彼の信頼を得る形で(そんな風情はツユとも見せないけどね!)、一刀に黒田藩の秘密を暴く依頼を受けさせる彼女が際立つのは当然なのだ。

もう一人、印象的な美女が登場する。正直言って、この話の流れの中ではあまり関係ないように思える(爆)、女スリのお葉。あんまりどころか、全然関係ない気がする(爆爆)。
お祭りの喧騒にまぎれちゃう大五郎。大がかりな手配がかかった女スリ、お葉から紙入れを預けられ、「絶対にナイショだよ」とくぎを刺される。
そしてお役人たちにとらわれてしまう。でも、お葉との約束を守って、大五郎は決して口を割らない。大観衆の中で、見世物にされる形で、服を脱がされ叩きの刑にあっても、黙ったまま。
たまりかねたお葉が名乗り出ても、違うと言い張り、お葉が涙ながらに「もういいんだよ、お願いだから本当のことを言っておくれ!」と訴えても、ぎゅっと口を引き結んだまま、叩きの刑に耐えているんである。

メインの物語にはほぼ関係ないシークエンスだけれど、大五郎がいかに父の教えを、というか生き方をこの幼さにして心に、体に染みつかせているかということを示すもので、一見して気丈な幼子に拍手喝さいを送る民衆たちと同じ感慨を持ちそうになるんだけれど、いや違う、違うんだ!と思う。
この非情な、ピカレスクというのも非情すぎる物語の中で一見、ヒューマニズムな物語に見えそう。実際、百戦錬磨の女スリ、お葉はこの子の仁義に一発で参っちまったんだし(演じる佐藤友美が姐御肌=ホロリと弱い感じが、ありありに出てる!)、子連れ狼という設定の中のいわば癒し系である大五郎が、まんまそういう存在だと言えなくもないんだけど、でも違うんだ、違うんだよなあ。
彼は、そう、子供だけど、彼、と一人前に言っちゃう、あくまで契約を守ったのだ。いい子だからとか、そんなことではないのだ。

民衆から拍手喝さいされても、たたたと走り去る。ちゃんの元へ。そうした教えを授けてくれたちゃんの元へ。そしてその教えは、人としての教訓なんてものではなく、刺客として生きる、非情なプロとしての契約遂行の基本なのだ。なんてこと!!
まあその、事態を納得してくれて、お役人からも無罪放免、よく我慢したなとか褒められている、いわばちょっと中だるみのあたりで、腹掛けだけの姿で、つまりおちんちんあらわな彼が、手持無沙汰みたいにおちんちん触りまくりなのが(爆)、ちょっと、大五郎から離れた普通の男の子に戻っちゃってったけどね。

ところで、黒田藩の秘密を知ってしまっているキーマンの和尚は大滝秀治。相変わらずまんまで素敵すぎる。拝一刀ほどの手練れが、あの若山富三郎が、無の境地に達しているこの僧侶、いや何より大滝秀治に手出しができず、脂汗ダラダラ流して歯噛みする。そんなことが説得力あるのは、大滝秀治を置いて、他になし!
一刀は、船で恭しく川を渡る一行を水中から襲撃、和尚の乗った船の底を鮮やかに丸く切り取って、すぽん!と和尚を水中に沈ませ、密書を奪い、和尚の命を奪うんである。

それまでも、これ以降も、様々に鮮やかな殺しが行われ、水中のそれも本当に鮮やかで、水にみるみる広がる鮮血、相手に事情を説明するだけの余裕を残した殺し方(爆。お約束とは言うまい……)といい、ただただ見とれる(というのとは違うのだろうが……)ばかりだったのだが、このシークエンスは、大滝秀治御大は何も言わないからさ。
いつだって悟りを開いているの、この人は。この時も、直前にその運命を自覚しているんだけれど、口の端に歌なんぞ口ずさんで、すぽん!と水中に没しちゃうんだもの。大滝秀治だよ……本当に唯一無二の存在!!

拝一刀はついに、修羅場に到達するんである。本来ならば、刺客の依頼を果たして終わりの筈が、事態を明らかにし、引導を渡す役目まで買って出る。
だって、殺しの依頼は、幼い姫君(若君と偽ってる)、その母、その父、なんだもの。その父こそがすべての元凶、側室を寵愛するあまりに、その姫君を跡継ぎに仕立て上げた。
つまり、側室と姫君は被害者。この父、つまり藩主がいかにもなスケベジジイといった趣なのがかなり判り易い趣で、つまり側室と姫君は巻き込まれた哀れな存在だと、そーゆーことなのかと思ったら、ちょっとゾッとする展開があった。

側室は、そのキャラはあまり深く掘り下げられている感はなかった。ただ哀れに殺されてしまった。ただ姫君は……。「斬れ」と言ったのだ。何の躊躇もなく、この“狼藉者”の一刀を。
でもその直前には、無言でタイクツ気に座っている彼女は、一刀の隣に座っている大五郎のおちゃめなヘン顔に無邪気な笑顔を見せていた。無邪気な女の子だと思っていた。なのに。これもまた、大五郎とは対照的な形とはいえ、大人に価値観をしつけられた幼子の姿なのか。

この幼子さえ、一刀は手にかけるんだもの。今の日本映画でそういう描写が出来るだろうか……と思っちゃう。冥府魔道、本当に冥府魔道だ。この親子は冥府魔道に覚悟で落ちているのだ。
ラストシーンは、あの女刺客、不知火が、白装束(にちょっと柄が入っている感じが色っぽい)で一刀と大五郎を迎えて、彼らが船で去っていくのを見送って、鮮血を海中に漂わせて、息絶えるんである。
海が青くて。この当時のフィルムでは信じられないぐらい青くて。

一刀=若山富三郎の、ストイックな殺し屋像、和服の似合う恰幅のいい体型が水中シーンなどで時にあらわになり、さらし一丁、ざんばら髪にドキドキする。こういう色気は今の役者さんではなかなか得られない!★★★★☆


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