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「く」


2008年鑑賞作品

グーグーだって猫である
2008年 116分 日本 カラー
監督:犬童一心 脚本:犬童一心
撮影:蔦井孝洋 音楽:細野晴臣
出演:小泉今日子 上野樹里 加瀬亮 林直次郎 伊阪達也 大島美幸 村上知子 黒沢かずこ マーティ・フリードマン 大後寿々花 小林亜星 松原智恵子 高部あい 柳英里紗 田中哲司 村上大樹 でんでん 山本浩司 楳図かずお 江口のりこ


2008/9/11/木 劇場(シネカノン有楽町2丁目)
あー、嬉しい、やっと書ける、やっと書ける。一度目観て、そのあまりの犬童監督の大島弓子先生への愛に打たれて、いまさらながら私は、この大いなる作家の作品をひとつも読んでいないことに罪を感じたのだった。
いつだって犬童作品の後ろには大島弓子の影響が常にあって、それは原作とか全然関係ない作品ですらそうで、そんなことは判っていたのに、読んでなかった。
漫画好きとか言いながら私、かなりムラがあるので、ちゃんと名作どころを抑えていなかったのだ。

なんかもうね、なんかもうね、なんかなんというか、ね。読んでみれば更に、いや読まなくったってそんなことはもう全然、判っていたんだけど。
もう、そこここに、犬童監督がいるんだもの。
劇中、語り部となるアシスタントの一人であるナオミちゃんが監督の分身であることは、彼自身が「実はそうなんですよ」などと後に明かしたりしなくたって、もう即座に判っちゃう。

大島弓子に憧れて、尊敬して、世界の全てで、でもその才能は自分にはない、そこに落胆して、でも尊敬しているからこそ、彼女の影響を宝物のように持って、違う道で自分の可能性を探す旅に出る。
ナオミが初めて“麻子先生”の作品「四月怪談」を読んで衝撃を受け、大声をあげて泣いた中学生の思い出。
アシスタントとして最後に関わった傑作「8月に生まれた子供」を「麻子先生にしか描けない素晴らしい作品だ」と静かに賞賛する場面。
はたまた麻子先生のガンが判明して彼女に抱きついて号泣したりする場面さえも、彼の姿が見え隠れする。
というか、なんかまんま、犬童監督を樹里ちゃんが演じてあげているような気さえする。「だから私が麻子先生のアシスタントになるなんて、まさに夢のような出来事なのだ」というモノローグは、出来ることなら本当に彼自身が実現したかった夢だったのではないかと思う。

樹里ちゃんはまさに彼女こそが猫のように、目がでっかくて、表情はくるくるとよく動いて、意外にも長い手足はしなやかで、本当に本当に、こんなに可愛かったっけ?というほどなのだ。
しかし彼女、「ジョゼ虎」でもう犬童監督とは顔合わせしてるんだよね。あの役を樹里ちゃんにふっていたとは今となってはかなり意外な、恋愛に寄りかかる女の子のイヤな部分が出てたキャラだった。
なんか今まさに、樹里ちゃんらしい、彼女の魅力が開花するチャーミングな役を、女の子映画の担い手、犬童作品で観られることが嬉しい。
そういや、そのジョゼ虎で樹里ちゃんとつまぶっきーを介して関わっている江口のりこも、アシ先輩として回想シーンで出てきたりするし、そんなつながりが今後の作品展開に非常なる期待を持たせるんである。
江口のりこを主人公にしたりしたら、どんな犬童作品が出来上がるのかなあ??

と、なんか全然話に入っていかないけど!ていうか、もう、どっから書いていいのやら、困っちゃうぐらいなんだもの。
あのね、一度目に観た時は、ほんわかした程度だった。程度っていう言い方も、アレだけど。ただ、犬童監督から、大島弓子作品読んでないの?と叱られているような気がしたのだ。だってもう、この作品は、大島弓子への愛で出来上がっているようなもんだったんだもの。
今まで、原作作品もあるし、それだけじゃなくてあらゆる作品に大島弓子の影響を公言していた犬童監督は、まさに彼女を主人公としたこの作品で、その愛を爆発させたことは想像に難くない。
この自伝的エッセイ漫画が発表されて、彼はヨッシャと思ったんじゃないだろうかなんて、なんか勝手に想像してしまう。でもそんな画さえも浮かぶんだもん。この題材を誰にも渡してたまるか、みたいな。
まあでも、オファーがあったという話ではあるんだけど。でもそのオファーはやっぱり、犬童監督にしかくるわけはないのだ!

このエッセイ漫画のタイトルをそのまま借りながら、そして勿論、その愛らしい猫、グーグーも“主人公”としてスクリーン内を縦横無尽に闊歩しながら、でもこれは、言ってしまえば、犬童監督の全くのオリジナルなんである。
思えば、以前からそうだったんじゃないかと思われる。原作作品の「金髪の草原」は未読なんでアレなんだけど、オリジナル作品にも大島弓子にインスパイアされたと公言していた犬童監督だから。
それこそが、劇中のナオミに分身として託している部分じゃないかと思うのだ。憧れているからこそ、尊敬しているからこそ、そのままなぞるなんてことはおこがましくて、恐れ多くて、とても近づけないからこそ、出来ない。
ならば自分なりのアプローチをして、自分だけが近づける大島弓子を作り上げたい。
それはまるで、その対象に恋するあまり、学者なり研究者なり評論家なりになるのに似ている気もする。壮大なる相手に対して、どんなに近づけた気がしても、その手につかまえることが出来なくて、だからこそ永遠に恋い焦がれていられる、みたいなせつなさ。

でも本作での犬童監督の、彼だけが捕まえる大島弓子は、徹底していた。
勿論自伝エッセイでは、彼女は彼女自身だから、大島弓子として語られているそれを、確信犯的に「小島麻子」という別名にし、しかし描いている作品名も飼っている猫も、住んでいる吉祥寺の街も何もかも同じだから、勿論大島弓子自身だと知れるに違いないんだけど、そうしたクッションをとりあえずおくことによって、彼だけの大島弓子を獲得することができたのだ。
それは、一歩間違えれば、ちょっとしたストーカー的愛情かもしれない(爆)。でもそう思ってしまうほど、その愛情は深くて、胸を打たれた。
彼が、こんな風に大島弓子に幸せになってほしい、こんな風に、皆があなたを愛しているんだよ、ていうのが、凄く凄く、溢れていたんだもの。

その中で特に顕著だったのが、愛してやまなかった先代猫、サバとの邂逅である。
サバの死、それはこの物語の美しい冒頭シーン。明けかけた闇の中に、繊細な木の枝が鮮やかに浮かび上がる。吉祥寺という森の中に都会があるような街の、その夜明け。麻子さんは修羅場明けでサバが旅立ったことに気づかずにいた。
その、冬枯れの枝は、後に桜となって満開になり、紅葉となってあたりを燃える様なオレンジ色に染める。常に優しい木々が人々を楽しませ、守ってくれている街。
その中で麻子さんとともに13年の間暮らし続けていたサバが死んだ。

卵巣がん手術後、鬱状態になってしまった麻子先生が、夢の中で死神と遭遇する。
この死神を演じているのが、すっかり日本人な顔になってしまったマーティ・フリードマンで(こういうのってホント不思議なんだけど、やっぱり日本人的食事や生活してると、そういう顔になるのかしら……)、樹里ちゃんが大島弓子ファンである犬童監督の分身としてナビゲートをしているのならば、彼は大島弓子が愛してやまない吉祥寺の街をナビゲートする役割を担っているんである。
普段は吉祥寺の英会話教室の先生、ポール・ワインバーグとしてオバチャンたちのアイドル的存在っぽい雰囲気。
彼自身がどこに住んでいるのかは知らないけど(案外ホントに吉祥寺だったりして)、繁華街と住宅街、戦後の雰囲気を残した飲み屋路地、ハーモニカ横丁などを嬉々として案内する彼は、本当にこの街を愛してやまない一人のように見える。
そして実際、そんな風に紹介される吉祥寺の町は、現在と過去とが入り混じり、都会と森が隣り合わせにあるような、不思議な街なのだ。

彼がそうした詩情豊かなナビをするのだとしたら、麻子先生のアシスタント三人、“森四中”こと森三中+樹里ちゃんは“腹ぺこナビ”
行列の並ぶ店、佐藤のメンチカツを美味しそうに頬張ったり(グーグーの名前の由来を当てたら、ここのメンチを一年分のハズだったのだ!)、大衆的な定食屋でビールをかっくらい、焼き鳥屋のイイ感じに雑然とした二階座敷で酔っぱらいまくる一方で、オシャレなダイニングバーやオープンカフェなんぞでも一息入れる。
それが本当に美味しそうで楽しそうで、これで吉祥寺に住みたくなっちゃう人、たくさんいるだろうなあ。
しかも森三中と樹里ちゃんは、本当に仲良さげでさ!

一歩はいると閑静な住宅街、そして広大な井の頭公園、そしてそしてその中にある動物園には、戦後孤独なままに人目にさらされて傷ついた老いた象、ハナ子さんがひっそりと暮らしている。
大島弓子自身の作品の中では、このハナ子さんは昭和の内気な大柄の女学生のように擬人化され、後ろを向いたっきりこちらを向いてくれない。ただただ心を閉ざしているばかりである。
でも当然、映画となるとハナ子さんは象としてそこにいて、“麻子さん”は、飼っている猫に対する人間の勝手さ(避妊手術の前)に打ちのめされるとハナ子さんに会いにくるのだ。
そしてハナ子さんの飼育員たちは、そんな彼女を優しく迎え入れる。老飼育員はハナ子さんに故郷のタイの言葉で話しかけ、若い飼育員は寡黙だけれど、実はずっと麻子さんのファンだったことが後に知れる。
サングラスにマスクでカメラを構えているからパパラッチかと思ったら、本当に、ファンだったとは(爆)。

ていうか、また随分話が横道それちゃったけど。サバよ、サバ。サバの話ね。夢の中で死神に導かれて麻子さんが会うのが、死んでしまったサバなのだ。
そこではサバは、人間の女の子の姿をしている。
映画の冒頭、修羅場の麻子さんに自分の死に際を告げられなかったサバは、その死に際、女の子の姿を見せていたのね。闇の中、一瞬だけど。
この夢の中での邂逅でも、薄暗い中で、鮮明にはサバの姿は映し出されない。深夜の森をさまよう麻子さんを“死神”である英語教師、ワインバーグが導き、しゅんしゅんとヤカンが湯気を立てている石油ストーブがたかれた人気のないカフェの奥で、“サバ”が麻子さんを待っているのだ。

“死神”はね、あなたはずっと私と話したがっていましたね、と言うのね。それが作品にあらわれていたと。
今回に際して何作かをやっと読んだだけだったんだけど、それだけでも大島弓子という稀有なる作家が、生死や老い、それが関わる非情なる時間というものに、尋常ならざるほどの執着を見せているのが判る。
だから犬童監督は大島弓子のファンとして、彼女が病を得た時、もの凄い心配をした一方で、彼女がそこから何を感じとるのかに、大いに興味を持ったんだと思う。
そしてここに示されているのは、彼女を愛する監督の出した、ひとつの答えなのだろうと思う。

大島作品の中でサバはね、一貫して擬人化されていた。グーグーが愛らしい猫のままで登場していたのとハッキリと違ってた。
というか、グーグーが登場するまでは、サバの周辺での世界は、サバのみならず他の猫もカラスも犬も、ハエでさえ、擬人化されていたんである。
そしてそのサバは、男性性を与えられていたのだ。
子猫の頃は怯え、戸惑った少年で、成長するにつれ、愁いを帯びた美青年の姿へと。
そういう性質を、飼い主である大島弓子自身がダイレクトに感じていたからだろうけれど、それを受けたディープな大島ファンである犬童監督は、元々の性である女の子として、それをしかもわざわざ大島的手法で擬人化して登場させている。
なんかねこれが、犬童監督がどうしてもこだわった部分のように思えて仕方なかったのだ。

もちろんもともとメスだったんだから。擬人化するとすれば女の子、元に戻しただけだ、それはそうなんだけど。
実際は大往生とも言えるほど長く生きたサバに、だけど、もっと気をつけてあげていればよかったんじゃないか、サバは本当に幸せだったのかと苦悩する大島弓子に、幸せだったよ、と言ってあげられる、納得させる表現にするには、サバは本来の姿に戻す必要があったんじゃないかと、考えたんじゃないのかって。
大島作品で擬人化されたものが、よりその“擬”が大きな意味を持つとしたら、ここではそれこそが違うのだ。

女の子のサバは、本当に優しい姿で、優しい声音で、麻子さんに話し掛けた。
麻子さんがずっとサバと話したかったと言うように、サバもまた、自分の気持ちを伝えたかった。
麻子さんが恋していた編集部の男性に、思いを寄せられていたのに上手く気持ちを伝えられなかったことも知ってて案じてたし、何より麻子さんが自分の作品をとても大事にしてること、だから長く連載していた作品が終わった日、泣いてサバを抱きしめたことを、よく覚えていた。

この、恋愛未満みたいな事件は、麻子先生の全集出版パーティーでちらりと明かされるんだけど、実際の大島弓子自身は自作の中で半ば自虐的に自らの独身生活を楽しく語っているのよね。
つまり犬童監督が仕掛けた大いなるフィクションだと思われるんだけど、しかもかなり思い切ったフィクションなんだけど、プロポーズを自分から断わったのにこっちがドギマギしている風を「麻子先生らしいなあ」と周囲に言わせちゃったりするあたり、自分が一番大島弓子を判ってる!てな自信を感じさせて、ドキドキしちゃうのよね。
で、それが年下男との恋愛?模様へとつながっていくのだが……じゃなくて、そうそう、サバのことよ、またウッカリ脱線するところだった(爆)。

サバが、自分が猫だった頃(て、死んじゃった今だって猫のハズなんだけどさ)を回想するこの場面。
玄関で泣き出した麻子さんを出迎えたサバ、そのサバを抱きしめて静かに泣く麻子さん、その図画ね……ふかふかの和猫のサバが何か眠そうに目を細めて、麻子さんに抱かれるまま、されるがままにじっとしているのが、なんかもう、猫に触りたい病が慢性化している私としては、たまらんくてさあ。

いや、グーグーがさ、アメショーだからね。サバがどういう種類の猫だったのか(雑種?)その形態が(擬人化されているから)イマイチ明らかじゃないんだけど、この、縁側に丸くなっていそうなサバの穏やかな風貌が、なんかもう凄い、癒されまくってたまらんのだもの。
でね、まだ子供で、というか若くて、メス猫をせっせと追いかける元気のあるグーグーとは違って、サバは麻子さんを“追い越して”しまったのだもの。
サバを荼毘にふした煙を見上げながら、麻子さんはつぶやいていた。「サバは私の三倍の早さで生きた」と。
それを、そのことこそをね、麻子さんは、いや、大島弓子は、聞きたかったのだろうと思う。途中で年を追い越してしまったサバの気持ちを。

決して、本当の、真実のサバの気持ちが判る訳はない。そりゃそうだ。でも、熱烈な大島弓子ファンの犬童監督は、それに応えたい、それに応えなければ、この映画を作る意味がないと思ったんじゃないだろうか。
グーグーの物語をメインにしながらも、大島弓子への愛を語り、そしてサバがどんなに彼女を愛していたかを、例え虚構でも、お伽噺でも、語ることが、目的だったんじゃないだろうか。
そのためには、大島弓子が作り上げたサバではなく、彼女の知らないサバ、“本当のサバ”でなくては、ならなかったのだ。

「麻子さんと暮らして、本当に楽しかった」

号泣。

また、演じた寿々花ちゃんが、素晴らしいんだ!
彼女って、いい具合に顔立ちにクセがないよね。ちゃんとカワイイんだけど、かなり好みのカワイさなハズなんだけど、私見る度、彼女だって即座に判らない(のは、単に私の記憶力の問題か……)。
だからこそ、猫にだってなれる訳。で、クセがないのは、顔立ちだけじゃなくて、演技にも。クセのない上手さが、流れる水のような清らかさが、猫にだってなれちゃうのだ。

「いつのまにか、麻子さんの年を追い越してしまった。それに麻子さんは気付かずにいたけれど……」「ゴメンね。人間はとっても鈍感なイキモノだから……」

ずっと実際に言葉を交わしたかった、13年も一緒に暮らしてきたサバへの思いを胸いっぱいにして、彼女と温かな抱擁を交わす麻子さん=小泉今日子のこの演技に応えられる女の子、他に誰がいるというのだ!
15でこんな深さ……末恐ろしい子だ。ちゃんとサバの実際年齢に重ね合わせていて、そして3倍のスピードで生きた精神年齢も醸し出す、こんな女の子が一体他にどこにいるというのだ!!
ああ、私は彼女が犬童作品に出てきてくれたことを、この先を考えて、もうじんじんにカンドーしちゃうのだ。……彼の師匠的存在の市川監督が急逝しちゃったことを思うと余計にさあ……。

サバが麻子さんの元に来たエピソード、これまたフィクションなんだけど、凄い好きだった。
捨て猫を拾ってしまった子供たちが、神社の境内の片隅で一心不乱にネームをしていた麻子さんに声をかけた。
僕たちのウチは、皆飼っちゃいけないって、と子供たちは泣いて訴えた。麻子さんがOKを出すと、一転して子供たちは笑顔を見せる。
後に、サバと命名したことを報告する張り紙を貼った麻子さんのモノローグ、
「あれはきっとウソ泣きでしたね」
でもそれは、とても愛情あふれる言い方なのだ。だってあの時麻子さんは、震える子猫にひと目惚れしたんだし、子供たちが自分こそを見込んでくれたことを嬉しく思ったに違いないんだもの。
いやそれとも、その表現こそが、大島ファンの犬童監督の目線なんだろう。

そして、もうひとり大きな、犬童監督の姿が託された人物がいる。
麻子さんと恋愛未満ぐらいな雰囲気までいく、ぐっと年下の青年、青自さんである。
演じるのは加瀬亮。彼はやたら年上女性との相手役をつとめてるよね。しかも、そのほとんどが、恋愛にいきそうで行かない、友情(あるいは尊敬)以上、恋愛未満、みたいなさ。しっかしそういうのが、憎たらしくも似合うんだよなあ。
ホントに小泉今日子とお似合いで、それこそ、こんなカップルが大島弓子の作品の中にいそうな。
あ、小泉今日子も加瀬亮も犬童監督に負けず劣らずの大島弓子のディープなファンだっていうのには、ビックリした。加瀬亮までも!彼はやはりあなどれん青年だ……。

彼自身、今まであまり明るめの役がなかったせいなのか、あれ?加瀬亮って、こんなアッケラカンとした声だったかなあ、なんて思った。
去勢手術に連れて行くグーグーがメス猫につられて逃げ出して、それを公園でつかまえてくれたのが彼、青自さんだった。
追われていたメスの白猫が、登った木から老夫婦が乗るボートにボトリと着地した。グーグーは木に登ったまま動けなくなったと思しき……彼に助けられたのだ。
グーグーを探してさまよっていた麻子さんの頭上から「受け取って!」と言われて差し出されたのが、ぶらんと伸びきったグーグーで(笑)。
裸足の足が泥だらけになった青自さんをまぶしげに見送る麻子さんを、偶然行き会ったナオミが「こんな目をした麻子先生を見たことがない」とモノローグするのが、もう、ドキドキでさあ。

で、そんな麻子先生を見ちゃったから、もうナオミは尊敬する先生のために!と大乗り気。
彼と二人っきりになれるように画策したりして、それは結構成功したりして、青自さんは麻子さんにホレてるっぽい雰囲気があったからかなりイイ雰囲気にまでなったんだけど……。
麻子さんがオクテで、彼のアプローチをかわしちゃうもんだから(オクテのくせに、かわし方は妙にさりげなくて上手いあたりが歯がゆい!)結局は、それ以上にはいかない。

ほおんとに、ドキドキしたのよ。青自さんは麻子さんの作品を読んでくれてさ、離婚した両親の記憶と重ね合わせて、深く読み取ってくれたりする。まあ、表面上は、「あんたって、ヘンな人だな」なんて言いつつも、かなり急接近なのだ。
で、いい雰囲気で酔っぱらって麻子さんの部屋になだれ込んで、やおらベルトをゆるめようとする彼を慌てて阻止する麻子さん、するとそこに母親から電話がかかってきて……。
この母親っていうのが、娘のオクテっぷりを誰より心配している人でね、思いがけずオトコが出たことで喜んじゃって、「ファイト!」なんてメールを送ってきたりしてさ(笑)。

でも、彼、パンツいっちょで爆睡しちゃうのだ。麻子さんはグーグー相手に彼を起こさないように酒を呑む……すると彼、ふっと起きて服を身につけ、もう帰るわと言った次のひとことが、もう!
「酔ったフリしてパンツまで脱ぐのが作戦だから」!!!つまり、その作戦が失敗したから退散するってワケ!!!
それを裏付けるように、その後、一時行方不明になったグーグーを探して、最終的に家に戻ったのを確認するために彼が再び部屋に来た時も、いい雰囲気になったのにさー。
この時は、皆でまるでピクニックみたいに、グーグーが“吉祥寺の猫”になれるかどうかを見守っていた。猫ドアから無事外へと滑り出したグーグーを探偵よろしくつけていって、女子高生たちにナデナデされているグーグーを、「嬉しそうな顔しちゃって、ねえ」と言いながら、麻子さん自身が嬉しそうだった。
そして原っぱで皆して缶ビールを開け(この時の、“森四中”がなだれこむ殺陣の稽古はなんだったんだろう……面白いけど)、気持ち良さげに四肢を投げ出した青自さん、「空がひっくり返った」彼の隣に麻子さんも寝っころがって、「空を見下ろしてる」笑い合う二人。

そして、グーグーがまたしてもあの白猫を追いかけていって、行方が判らなくなっちゃう。でも結局なんということはない、日が暮れれば家に戻ってて。
ホッとした麻子さんを、彼が愛しげにじっと見つめて、その視線に気付いた彼女がふと顔を向け、思わず見つめあって、彼は吸い寄せられるように麻子さんの唇に近づいたのに、なのに……。
あああ!なぜ、そこで、まるで気づかないような顔して、冷蔵庫からビール取り出したりしちゃうのだー!!!なんてもったいない!!!

でもそれこそが、大島作品の住人だってことなんだよね。
ってことは、大島作品のシロートであった私には判らなかったことなんだけど。この作品自体、タイトルと元ネタこそは借りてても、根本的な部分で犬童監督が結構やりたい放題なんだけど、ただ、それが許される前提として、あくまで大島弓子の世界だってことなんだよね。
それは先述したサバの擬人化のことが勿論そうだし。で、この、どの作品にも出てこない青自さんは、監督が語るように「大島作品に出てくる、友人以上、恋愛未満の男の子」の象徴ではあるんだけど、それが何より大島弓子(を模した麻子さん)に当てられるんだから、たとえ恋愛未満であっても、やはり大きな意味があったと思うんだよな。
それはつまり、犬童監督が、愛する大島弓子に幸せになってほしい、その最たる人物であったと。

それは、そりゃ、あまりにもベタであり、素晴らしき芸術家として、一個の人間として生きている彼女に対してある種失礼かもとも思われるんだけど、犬童監督は劇中、その姿勢をそもそも崩していないんだよね。独り者の娘を心配する母親をわざわざ出してくるあたり、そこんとこはカタいんだもの。
でもそれが不思議と腹が立たないのが……不毛な独身女でも腹が立たないのが、憎たらしいトコなんだけど(笑)。
だって加瀬亮が、ステキすぎるんだもん。そりゃね、そりゃ、彼はこの研修医期間が終わったら、実家の小豆島に帰っちゃうわよ。
でもね、だからといって、麻子先生への、あのちょっとナマイキな言い様がイイカゲンだったとは思わないし、彼女への思いも、そしてこの吉祥寺という街への愛情も感じられたから。
そうじゃなければ、麻子さんのマンションに猫用ドアを作ってあげて「吉祥寺の猫になれ!」なんて送り出したりしないって。
なあんかね、私はいまだに東京ってコワイって思う気持ちもあるけど、そして知らない街なのにこの吉祥寺が、愛しくて、知らないのに自慢したいような気持ちで、いっぱいになっちゃうんだもんなあ。

麻子さんはガンを告知されてしまう。彼女自身の衝撃とは裏腹に、看護婦さんはアコガレの漫画家、小島麻子に大喜び、学生時代救われたんですよ、なんて話すのを聞いて、思わず麻子さんはつぶやくのだ。「でも私のマンガは、私を助けてはくれません」と。
一度は死を覚悟して、遺言書まで書いて。青自さんに、二つお願いがあります、と頼むのだ。もしものことがあったらグーグーをお願いできないか、と。
その時に彼は、実家の小豆島に帰る予定があることを告げるのね。それでもよければ、という彼の言葉を聞いて麻子さんは、「凄い。砂浜全部がグーグーのトイレですね」と言って笑う。彼も笑う。
でもこの時、これだとどちらから切り出したか判んないような感じだけど、それがズルいっつーか、切ないっつーか、やりきれないっつーか、やられた!って感じなんだけど、二人の別れが決定されたってことなんだよね……。
そして、麻子さんは二つ目のお願いは伏せたんだけど……それは、何を言うつもりだったんだろう……。

ナオミがね、応援団一団を引き連れて病院にやってくるのだ。
それは、彼氏がウワキした女の子と、いつも彼氏のバンド演奏を聞きに来ているその周辺の女の子たち。さらにはそこでボンヤリいつも座っているハゲ気味のサラリーマン男性までも。
ポンポン持って、一列に並んで、麻子先生ガンバレのボードを掲げて、笑顔で声を張り上げる。
ガラス越しで音がオフで、妙に静かで、なぜだかそれが余計に涙を誘う。
麻子さんのモノローグがもともと、すんごい静けさで、静寂の中にしんみりで。
それが効いていたせいなのか、間接的に聞こえる応援が、見えているチアリーディングがハデなだけに、つっても、つけ焼き刃でたどたどしくはあるんだけど、それだけにグッときちゃって、なんかもう……。
ガラスごしってうっすらと聞こえる声ってのが、ビデオ映像みたいな切なさもあって、でもやっぱり目の前で、っていう、二重三重のワナな感じが、なんとも感動をそそるんだよなあ。
ニコニコ見ている麻子先生と青自さんのツーショットも良くてさ!

ナオミ自体は、現代のワカモノの恋愛をきちんと?している。
同棲している彼氏はミュージシャン志望で、公園でときおりストリートライブをしている。彼には、女子高生を中心としたファンもついている。ハデに応援するナオミは、その女子高生のファンたちに、“ウザイ女”とけむたがられてもいる。しかし彼はその取り巻きの一人とウワキをしてしまうのだ……。
彼のウラギリを許せないナオミだけど、一方で彼女が彼に黙ってニューヨークへの留学を決めていたことも知れ、二人の中はこじれてしまう。
麻子さんへの応援メッセージで“共演”はするものの、結局別れてしまう二人……。それは、彼のウワキとか、彼女の秘密とかではなく、いや、それはいわば仕方なく発生した“結果”であって、やはりそこには、天才麻子さんの存在が否応なく存在したと言わざるを得ない。
彼女を崇拝しているのはナオミで、彼はいわば関係ないんだけど、ナオミの言うとおり青自さんと麻子さんを引き合わせる協力をし、麻子さんの全集を青自さんに見せる役目も買って出たし、そうでなくても麻子さんに対しては、彼の音楽の相棒もまた、当然のごとく尊敬の存在として見ているんだもの。

そう考えると、本当に、ほぼ全ての登場人物に、犬童監督の姿が見えてしまうんである。
そういう意味で言えば、それに反するのは、あからさまに「もうイヤ!」という態度を示す、相棒のカノジョである女の子ぐらいである。
しかもその子は、日傘をさして、フリフリのカッコした、非現実的アイドルみたいなキャラで、つまりは、そう“非現実”なわけで、この世界にはそぐわないのだ。実際、そう言って吉祥寺の街からタクシーで去っていってしまうし。
でもね、またそれもパラドックスというか……元々大島弓子の世界は、猫を擬人化するぐらいだから非現実な訳でさ。
ただ、同名エッセイ漫画のグーグーは、軽めに表現してはいるけど、基本、リアリティなんだよね。犬童監督は、リアリティ以前の(と言ってしまうと大いに誤解、語弊が生じるんだけど)、ファンタジーを手法とした大島作品のファンであったはずなんだよね。
なんかそういう、二重三重の縛りというか、パラドックスが、大島作品を知れば知るほど、深く深く、深みにはまってしまうんだよなあ。

ああ、なんか、壮絶に猫を飼いたくなってしまう。いや、私のような無責任が飼っちゃいけない、判ってはいても。
麻子さんが、夢遊病患者のようにフラフラ入っていったペットショップ、ぐらりと倒れこんだ視線の先にいた小さなグーグー。このグーグーの可愛さ愛らしさったらもう……。
紙袋からひょいと顔を出す姿、手術の後につけたエリザベスカラーから覗かせるとぼけた丸い顔、肉球を麻子さんの顔に押し付けて寝る様、ナオミちゃんが麻子先生の入院先にジャージの中に入れて連れて行った、そこから眠そうに顔を出したグーグーもたまらなく愛しい。
そしてラスト、すっかり元気になって戻ってきた麻子先生を、玄関先で待ち構えているグーグー。

「ただいま、グーグー」

ああ、猫にただいまって、言いたいのだ!★★★★★


クライマーズ・ハイ
2008年 145分 日本 カラー
監督:原田眞人 脚本:加藤正人 成島出 原田眞人
撮影:小林元 音楽:村松崇継
出演:堤真一 堺雅人 尾野真千子 遠藤憲一 田口トモロヲ 堀部圭亮 マギー 滝藤賢一 皆川猿時 でんでん 矢島健一 野波麻帆 西田尚美 中村育二 螢雪次朗 小澤征悦 高嶋政宏 山崎努

2008/8/5/火 劇場(錦糸町楽天地シネマズ)
このベストセラーのタイトルだけは知っていたけど、内容については全然知らなかった。話題になったというNHKでのスペシャルドラマ化のも未見。全くの前知識ナシで、原田監督だしなあ、というぐらいの気持ちで観に行く。そういやあ、「魍魎の箱」とか「伝染歌」もすっ飛ばしちゃってた。
あまりの圧倒的に、ただただ驚く。吹き飛ばされそうな思い。沈黙する。
慌てて原作を求め、読了し、二度目に足を運んだ。
ひょっとしたらこの長大な原作との差異で、小説と映画はどうとかいう、よくある議論がゴタゴタとあるのかと思って。

しかしやはり、圧倒される。それこそ小説やドラマのように、長さがあるから全てが入りきるという訳じゃない映画の尺を、しかしそれこそが魅力である映画というものに見事に爆発させている。
原田監督始め、職人成島出をも含む三人が名を連ねる、タイトな脚本の素晴らしさ。この尺だからこそ圧倒されるし、よりコアな部分を抽出し、震撼させ、戦慄させ、心を揺さぶる。
こんな映画を世界に出したいと、心から思う。

意図的な手ブレ気味のカメラや、早口で畳みかける台詞。臨場感を重視して、専門用語を解説したりせず、ちょっとぐらいの聞き取りづらさを無視して進めるあたり、そして男たちの迫力の群像劇は、「金融腐蝕列島」を思い起こさせた。あの作品で原田映画は一度大化けしたと思う。
そして「「あさま山荘」事件」があり、本作につながった。飛び飛びではあるけれど、この三作にはある流れというものを感じる。

実は正直、「あさま山荘」は直前に高橋監督の「光の雨」という血の出るような作品が存在したせいがあって、その徹底した外側からの視線に違和感を感じていた。
でもこうしてそれが本作につながってくるのを見ると、その外側の視線にあえてこだわる、というか、原田監督の力量が発揮されるのがそここそなのだということを感じる。
そういう意味でこの原作は、まるで原田監督のために用意されたようにさえ感じてしまう。しかも「あさま山荘」は本作の重要なファクターにもなってる。そう、運命的なつながり。

私にも覚えがある。まだ、子供だった。あの衝撃の大惨事。日航ジャンボ墜落事故。
それを、事故そのものや被害者や遺族、という内側ではなく、報道する新聞社、という外側から描くというのは、あの事故があまりにも衝撃的過ぎたゆえに、ちょっと思いつかない視点だった。それだけで逃げを打っているように見えかねない気がした。
しかし、当時実際に群馬の新聞記者だった横山秀夫の顕わした原作の迫力は圧倒的で、この事故を追う地元新聞社、全権デスクを任された悠木から派生する様々な事象は、事故だけに留まらず、人間の嫉妬や羨望、不安や焦燥、更に家族の関係にまで迫っていく。膨大な感情がうずまいている。

そしてそれが映画という限られた尺に、原田監督らしくブチ込んだ結果、恐るべき映像の力となって現われる。
ブチ込む、というのは、作中、とにかく日航の詳報を、という悠木のこだわりによって、何度も発せられる言葉なんだけど、奇しくもそれが、原田監督の作り自体をストレートに言い顕わす言葉になっている。
とにかくブチ込む。台詞が判りにくかろうが、説明なんかせずに、怒涛のように入れていく。その波に飲み込まれ、溺れそうになりながら、ただならぬことが起こっていることを、観客もまた肌身で感じることになる。

尺に合わせるためもあって、登場人物のキャラクターやエピソードの統廃合、あるいはよりドラマチックにするために映画だけのオリジナルを挟んだり、それが見事なまでに図に当たっているのが、原作を読んだ後にひしひしと判る。
原作者のファンというものに常にビクビクとしている映画ファンとしては、原作をチェックしてそうしたことに気付ける時が嬉しい。まさにこれが映画にするということなのだ、と。
映画だけのオリジナルなのだと驚いたのは、悠木がこだわるチェック、ダブルチェック。彼は後にそれを、一番最初に観た映画に出てきた初老の新聞記者がこだわっていたことなのだと述懐する。チェック、ダブルチェック。それが言いたくて記者になったようなものなのだと。

その映画というのは、ビリー・ワイルダーの「地獄の英雄」。映画をネタに出してくるあたりは、シネフィルの原田監督らしい。
しかしそれは、まさに悠木のキャラクターにズバリとハマるのだ。とにかく真実を、それにこだわって数々の抜き記事(スクープ)をダメにしてきたと上司に叱責される悠木。全権デスクを任されたこの日航機事故に際しても、新聞記者が夢見るスクープからはあと一歩まで迫りながら先を越され、後追い記事を社長にまで罵倒される。こんなのは塗り絵だ、恥の上塗りだ、やめちまえ、と。
しかし、悠木は最後までこだわった。地元の新聞が情報量で負けたら終わりだと。
涙をためて新聞を買い求めにきた、遺族と思われる母子の姿を見た時から、彼はそれを胸に刻み続けた。

この狂騒の中で、記者たちのキャラは皆立ちまくっている。出演俳優のすべてが、この作品の、その役に、ひとつの到達点なり分岐点と感じたであろうと思われるほどに、全ての俳優がキリキリだった。けれど、その中でより際立っている二人がいる。
佐山役の堺雅人と玉置役の尾野真千子。
二人とも、それまでは柔らかなイメージだった。堺雅人はなんたって微笑みの貴公子。そうした癒し系の役柄が多かったし。
だから、本作の彼には戦慄した。世界的に見ても類を見ない大事故の現場に、誰よりも早く駆けつけたい欲望を隠さない男、その時点で彼のらんらんと光る目に、圧倒された。
こんな堺雅人の目、こんな欲望を隠さない、押し殺した声が脅しに聞こえるほどの堺雅人は知らなかった。

そして死ぬ思いで現場の山をさまよい、地獄を見た現場雑感を決死の思いで打電してきたのに、それを「大久保赤石」の栄光にすがっている“恐竜”どもに握りつぶされてしまう。
それを知って下山し、悠木に迫る佐山には、息を飲んだ。これが本当にあの、堺雅人なのか。
ワイシャツとネクタイ姿がドロドロに汚れた姿も凄惨だけれど、その中で光っている相手を殺しそうなぐらいに睨付けた三白眼は、撮影時を振り返った堤真一が「その目は尋常じゃなかった」と語っているのが大いに頷ける。
その目に圧倒される形で堤真一の受けの演技もリアルになる。こんな恐ろしい目は見たことがない。その目の持ち主が、微笑みの貴公子の堺雅人なんて。

そして尾野真千子。彼女もまた、その柔らかな風貌につながる役が多かった。その中であがき、強くなることがあったにせよ、こんなに最初から“男らしい”彼女を見ることになるなんて、思いもしなかった。
ことに彼女に振られた役柄は、原作ではもともと男性で、しかもかなり自分の思い込みで走りたがるような男。
原作を読み始めた時、“玉置”が男性であると知って、なぜこれを女性にし、しかもあの柔らかなイメージのオノマチちゃんに振ったのかと思った。それでいったら佐山というキャラを堺雅人に振ったのだって、原作を先に知っていたらオドロキのキャスティングなのだし。

映画の玉置は、キャラの統廃合の影響を最も受けている人物である。原作で出てくる駆け出しの女性記者、依田千鶴子(下の名前を流用)や、悠木の配下の記者だった従兄弟を自殺に近い形で亡くした女子大生のキャラも投影させてある。
そういう意味で映画での玉置は確かに女性でなくてはならないのだけれど、しかし彼女の演じる玉置は女性の柔らかさからは離れている。
いや、だからこそなのかもしれない。この男たちの中でスクープをとってくるなんて大仕事を任されるのだもの。

どこか堺雅人の演じ方にも共通する、悠木にすりよって低い声で迫る場面にゾクリとくる。最終的に二人がコンビを組んで、事故原因という抜きネタに挑むのも納得で、「足が震えてます」という玉置に「オレとザイルでつながっているから」という佐山=堺雅人に、そこだけは微笑みの貴公子の片鱗を見せて、ちょっとキャーと思ってしまう。そう考えてみればお似合いかも……原作では佐山と依田千鶴子は結婚するんだしなあ。
劇中、田口トモロヲ演じる政経部の岸に「顔の割に雑なこと言うなあ」と言われた彼女がキッと睨んで「顔が雑な方が良かったですか」というシーンが印象的で、それは勿論、玉置が女という設定の映画だけのオリジナル。
そう、オノマチちゃんが演じるんだから、玉置は外見はやっぱり柔らかな印象の女の子で、でもとにかくオトコマエな彼女に打たれ続けるんである。

堺雅人と尾野真千子。これまで役者人生を重ね続けてきた二人に不遜な言い方であることは百も承知の上で、二人はこの作品で大化けしたと思う。
二人の若き記者の“野心”が、遊軍記者の名をもらいながら中間管理職の悲哀に足を突っ込みかけている悠木を揺さぶるのだもの。

原作以上に悲惨な運命を背負わされ、劇中姿を消してしまう神沢もまた、強く印象に残る。事故現場で粉々になった死体の数々を見た。しかもそこから死にもの狂いで送った現場雑感を落とされて、彼は壊れてしまう。
勿論佐山も冷たい怒りを発していたけれど、記者としてのキャリアと、「書く」という行為が、彼をなんとか抑えることが出来た。
しかし神沢は、出来なかった。猟奇的な記事を書きなぐってこれが真実だと食ってかかり、「所詮悠木さんは現場に行ってないでしょ、こんな涼しい場所にいて」という台詞はオゴリなのか優越なのか。
悠木が「お前をつけあがらせるために、520人が死んだんじゃないんだ!」と怒鳴りつけると、獣のように泣き崩れた。

ここはまさに、悠木が現場に行っていないこと、その記者としての屈辱と、この事故のとてつもない大きさを感じさせる場面で……そして原作ではその後も日航にこだわり続ける記者として生きた神沢だったけど、スクリーンの中の彼は、そのまま精神に異常をきたして、車に突っ込み、死んでしまうのだ。
それは、原作で、いわばエピソード外として語られる、悠木が死に追いやってしまった新人記者のエピソードを持ってきている。そして、同僚の死に玉置が、記者の死は記事にもならない、とつぶやくのとピタリとリンクする。
一歩間違えればご都合主義のキャラやエピソードの統廃合が、まるで最初からこうあるべきとでもいうように、ドラマチックささえも加味して成立していることに、原作を読んでから見直すと驚嘆せざるを得ない。

そして新旧の対立。螢雪次朗、エンケン、中村育二の演じる“恐竜”たちにとって、群馬の事件といえば「大久保連赤」。つまり大久保清事件と、連合赤軍という、立て続けに起こった未曾有の大事件に記者として立ち会ったことを、十数年も経った今も振りかざして新人たちを押さえつけてる。
だから通信機も入れない。電話を探して駆け回り、記事を送るのが記者としてのプライドだと言ってはばからない。
悠木は部下に、共同通信の無線を拝み倒して借りろ、という指示を出すのが精一杯で……そんなだから、行く先々道具の揃った記者たちから冷ややかな目で見られる。山までお抱えの車で来ている記者たちさえもいる。
電話を借りようと飛び込んだ民家では、各社の記者たちが牛耳っていて、「もう満杯」と追い払う。遺留品をゲットした記者たちが、慌ててガサガサとシートでくるんで隠す。
記者たちが勝手に遺留品を、スクープのために持ち帰るなんて……。これは、原作で、飛行機の破片を持ち帰ろうとした上司に激怒した神沢の描写を描けなかった部分を、乾いた描写に変換して一瞬で示している。

通信機がないことで、佐山達はかように死にそうな目に遭い、送った命がけの現場雑感は“恐竜”たちの、男の浅ましい嫉妬で落とされてしまうのだ。
この時代、当然携帯電話なぞなく、「ポケベル鳴らせ!」という台詞が何度も飛び交うのが、ポケベルというワンクッションを置かなければいけない“通信機器”の歯がゆさが、ことに強く印象づけられる。
そう、嫉妬だ。大久保連赤などはるかに凌駕する大事故にチャンスを得た若い記者たちを、この恐竜たちはあからさまに妨害してくる。その様には戦慄する。

彼らはこの事故を、不幸にも群馬に落ちちまった、所詮はもらい事故だと言い、なんだかノンキに振る舞っている。キリキリに動いている若い世代との対比が、無数に畳み掛けるカメラのカット一発、その一瞬で切り取られる鮮やかさにも唸る。
大久保連赤時代、新人として使いっぱしりさせられていた悠木と岸は「大久保連赤でメシを食ってきた連中は祈ってるさ。長野であってほしいって」「お前、ホッとしてる?」と笑い合う。数少ない、ふと笑みをもらしてしまうようなシーン。しかし、この台詞自体、勿論多分に恐ろしさを含んでいる。
そう、原作では再三、悠木の心に去来していたある考え、それがこの会話に込められている。群馬に落ちていなければ、何十人、何百人死んでも何とも思わなかっただろう、と。

しかしその中で、若干譲歩側に立つ社会部部長、等々力の存在が、かすかな化学反応を起こす。この圧倒的な物語の中で、そんな微妙な立ち位置が深い存在感を示すあたりが、演じるエンケンの凄み故と思う。
悠木があんまりトンガるもんだから、同僚の岸や田沢が等々力との一席を設けるのだ。そこで悠木は吠える。大久保連赤だって、結局は完敗だったじゃないかと。顔色を変える等々力。
いや岸や田沢だって、その事件で末席にいたから、悠木の発言に戸惑う。俺たちは全国紙に対していい戦いをした。何本も抜いたじゃないかと。
しかし悠木は、それは最初だけだ、あの熱に浮かされて、勝ったとカン違いした、それに失望して腕利きの記者も何人も離れていったじゃないかと喝破する。激昂する等々力。
この場面は凄かった。ペンの世界にも、格闘技のようなぶつかり合いがあるのだと思った。「地方新聞社が負けたと言ったら終わりだぞ!」そう、等々力は言った。つまり彼も……判っていたのだ。決して勝った訳ではなかった過去の栄光を。

その時からほんの少しではあるけれど、等々力の態度が変わる。悠木の意見を後押しするようになった。理解を示した。
ひょっとしたら最初から、彼はこの現場に加わりたかったのかもしれない、そんな風にも見えた。だから悠木はとっときの抜きネタの作戦を、局長も次長もすっ飛ばして、彼に伝えたのだ。

この場面もまた凄かった。等々力の言うように、販売局との戦争。この販売局の伊東という男がもうメッチャ腹の立つ男でさ、いつもいつもニッチャニッチャとガムをかみ続けて、ニヤニヤ笑って腹を突き出している。
販売所を黙らせる接待だとか言いながら、その接待費を湯水のように使ってふんぞり返っていると言われるブラックホール。
悠木に対して、「編集局なんてマスターベーションだろ。記事をこねくりまわして、締め切り間際になればゾクゾクする。そう見えるんだよ」と言い放ち(ムッカー!)、悠木を激昂させる。

その伊東に使われまくってクモ膜下出血で倒れ、植物状態となってしまったのが、墜落事故が起こった日、悠木と衝立山にアタックするはずだった安西だった。
見るからに豪放磊落、悠木に向かって笑顔で「逃げたら罰金だかんね!」と一足先に衝立山に向かっていた筈の安西。
色ボケ社長にセクハラを仕掛けられていた元秘書の口を封じるために、駆けずり回っていたのだ。そのほかにも接待やらなにやら、妻が「この一ヶ月、殆んど寝てなかったんです」という日々。

この社長を演じているのが山崎努で、まあこれがまた、恐らく作中でもっともカンに触る人物。車椅子状態なんだけど、世話する社長秘書の尻を触りまくり、未曾有の事件より犬に夢中。
またしても佐山の記事を一面から“都落ち”させられた悠木が社長に直談判しても、土下座しても、悠然と優良犬の吟味に没頭しているようなヤツなのだ。
山崎努の、こんなヤラしい毒々しい演技も初めて見る。なんか役者としてすんごい楽しんでいるようにも見える……だからホントに、全ての役者がキリキリなのだ。

タイトルがクライマーズ・ハイ。登山時に恐怖心がマヒしてガンガン登ってしまう境地のこと。安西は楽しそうに、「悠ちゃんみたいなのが、ガンガンやっちゃうんだよ」と言った。そしてそれを確かめることが出来ずに、一人眠りについてしまった。
この物語は、当時の日航機事故に奔走する現場と、そこから20数年後、安西の一人息子と共に、あの時実現できなかった衝立山へアタックする場面とが交錯してゆく。

事故原因のスクープをほぼ手中にしながら、完璧な確信が得られず、悠木はそれを流した。しかし翌朝、毎日新聞がその情報を一面トップに掲載した。
これを一面に採用するか否かで、販売局と編集局とで怒号の飛び交う“戦争”を演じた悠木は(この場面は、まさに映画ならではのスリリング!)、その後、それでも詳報にこだわる。それが社長からはこれ以上ない屈辱に映り、車椅子姿で編集局に乗り込んでくる。
「記者だなんだと思い上がるな!ここと営業を総とっかえにしたっていいんだぞ!」その言葉に静まり返る局内。
悠木は、ためらわず辞表を提出した。思いがけない“飼い犬”の行動にうろたえる社長。そう、飼い犬だった。悠木の母親が“洋パン”だったことを、彼の嫌がる過去を鎖にして、いつまでも「坊や」と言ってはばからなかった。
同僚の岸は、こんなことでやめるな、飼い犬がいやなら、野良犬になればいいじゃないか!と必死に止めたけれど、悠木は振り切って出て行った。

そんな悠木に、何度となく裏切られた形の佐山が歩み寄るんである。
遺書のコピーが手に入ったと。
そう、それは、確かに覚えのある文章。あんな極限の、ほんの数十分で、ここまで達観したことが書けるのか。「今までの人生は幸福だったと本当に感謝している」その言葉に、悠木は天を仰いだ。
「載せて下さいよ。一面トップで」佐山はそう囁いた。今まで自分の記事が、命を賭けた記事が、二度も一面から排除された。そのために神沢も死んだ。それでも佐山はそう言ってくれたのだ。
それは……真に命をかけていたのは、この数十分で家族への遺書を残した、御巣鷹山で粉々に散った彼らだと、あの現場に行った佐山は身を持って知っていたから、そう言いたかったんじゃないのか。

その後は、悠木が外国に住む息子に会いに行くシーンで終わる。
あの時、悠木がそのまま辞めたのか、記者を続けたのは明らかではない。現代の時間では、もう悠木は60の坂を越えて、日航機事故の著書の原稿を携えて息子に会いに行っている。
原作では、その後山間の通信部に飛ばされながらもずっと記者を続けているけれど、映画でのこの幕切れは微妙である。

でも、その直前、息子に会いに行く直前、衝立山に安西の息子、燐太郎とアタックした場面。険しい岩肌に挫けそうになった悠木に必死に声をかけた燐太郎の台詞が胸に刺さった。
「新しいハーケンが見えるでしょう。一ヶ月前、帰国していた淳と登ったんです。下見です。親父はもう年だから、ここはムリかもしれない。そう言って、淳がハーケンを足したんです。絶対に届きます。それは淳です」と。
あの時、全権デスクを任された悠木が、乗客者名簿に目を落としていた、そこで真っ先に目にした、息子と同じ年の男の子の名前。海外の仕事をしている別れた妻の元に帰る息子を見送った空港での記憶、「パパは新聞が一番好きなんでしょ!」と叫んで走っていった後ろ姿。

新聞社やテレビ局や政治家の名前まで、実名がバンバン登場するのは、原作以上に映画作品ではスリリング。いいのかと思っちゃうけど、そうでなければ意味がない。
そうしたリアルの中で、新しい言葉であるセクハラと、社長が携えるペットボトル飲料は、どこかで指摘されていたようにちょっと気になったけれど。

この映画を観た後、日航事故の詳細を改めて知りたくて、ネットを徘徊した。それはこの作品に対峙するに当たっては、正しいやり方ではなかったのかもしれない、と思う。
いわずと知れた坂本九の不運、その遺体確認の決め手の凄まじさ。最後までコントロール不能の巨大ジャンボ機と闘い続けた機長に至っては、歯しか発見されなかったという。身元確認に至らなかった無数の遺体片。
そうしたことをどこかで知りたがっている、見たがっている気持ちに対する糾弾がこの作品にはあるし、そしてそれを本当に見てしまった神沢は、耐え切れずに死んでしまった。

事故の悲惨さを充分過ぎるほどに伝えながらも、その地獄を、ナマな描写では伝えない。そのポリシーは原作から引き継ぎ、それが映像作品となると、その主張はより強く打ち出されるんである。
だってやっぱり、映像作家としては、ちょっとはそんな場面を入れときたいという欲望だって出てくるに違いない。
しかし原田監督は原作同様、ストイックを貫いた。思えば「あさま山荘」だって、そうだったのだ。撃たれた場面も、遠くから眺めてた。逆にその人形のような画が、残酷さを際立たせていた。
本当に、奇妙なぐらいに、この原作の目指す方向と原田監督のそれとが合致している。

原作でも示されてた、写真週刊誌、私も見てしまった記憶があるもの。
胴体からちぎれて、半開きの口をあけた上半身、枝に引っかかった体の一部……。
そんなのを見てしまったら返って、事故の本質や、死んでしまった人たちのこと、その遺族のことが頭から飛んでしまうのだ。
そればかりに、猟奇の魔力だけに釘づけになってしまって。
新聞の体裁なんかにかまってられるような事故ではない。
“埋め草的な記事”も読みたがる読者がいるんだと言い募る恐竜たちに、悠木は吠える。
器を大きく持って立ち向かわなければ太刀打ちできない山なのだと。

東京に近い地方の、しかもマスメディアのあがきと苦しみは、今まで見たことのない世界だった。
それは、もっともっと遠い地方とは、全く違ったものだろう。
東京で起こった殺人事件の、その死体を遺棄される場所、尻拭いをさせられる“もらい事件”の数々に、翻弄され続けた。
記者としての華を上げられると思った大久保連赤も、結局は東京の警察での事件解明や発表によって、地元のマスメディアは置いてきぼりにされた。

遠い北の地方で生まれ育った人間としては、それが遠い地方だったから、どこか当然というか、当然の諦めのように、東京が全てを決定する事態をボンヤリと見ていたけれど、東京に近い地方は、アンビバレンツというには強すぎる、複雑な思いが内包されていることに、初めて思い当たる。
そして、未曾有の大舞台が与えられたのが、日航機事故だった。
どこか皮肉な思いを感じながらも……だってそれは、520人という人数、しかもそのあまたの人間の肉体が粉々に砕け散るという悲惨な事故だったのだから。★★★★★


狂った触覚(激愛!ロリータ密猟)
1985年 63分 日本 カラー
監督:佐藤寿保 脚本:佐藤寿保
撮影:志賀葉一 音楽:
出演:伊藤清美 渡剛敏 萩尾なおみ 下元史朗 港雄一 池島ゆたか 外波山文明 藤冴子 清川鮎 姫川艶

2008/4/22/火 劇場(ポレポレ東中野/R18 LOVE CINEMA SHOWCASE Vol.5/レイト)
この日の舞台挨拶の新旧の顔合わせは、実に興味深かった。10数年ぶりの本作の上映に、デビュー作の気恥ずかしさを語りながらも饒舌な佐藤監督に対して、現代のピンクの最前線にいる大西監督が「その時僕は10歳でしたから」と寡黙に繰り返すのが可笑しく(インタビュアーさんも、「普通に学生生活を送っていたという感じですか」なんて言うんだもん(笑))。それでいて、「最初から世界観というか、やりたいことが定まっていたのが凄い。ナイフがキラリとか」と案外本質をついたことをボソリと言うので更に可笑しくて。
作品や作家の対照性だけでなく、ああ、ここに確かに、ピンクの歴史が横たわっているんだなあと感じる。

で、まあ私も、10歳とは言わないまでも似たようなタイムラグはあり、しかも佐藤監督の作品はなんかあまり観る機会も少なく、四天王の一人、という名前は入ってるんだけど、といった感じで。
で、そうそう、大西監督がボソリとつぶやいた、ナイフがキラリとか、っていう感じ、そこがひょっとしたら佐藤監督自身も気恥ずかしいと感じるところなのかもしれないけど、一見ドバドバ出る血や正視に耐えないレイプ場面、新宿の喧騒の中でいきなり女優を脱がせたりする野心的なゲリラ撮影など、バイオレンスを絶えず提示しながらも、そういう、こういうシーンを撮りたいとか、こういう小道具を提示したいっていう思いが、ああなんか、判るなあって気がしたのだ。生意気な言い方だけど(汗)。
例えばそれは、孤独な一人の少女、というのもそうだし、それとは対照的に大人の女を示す赤いハイヒール、男が孤独を癒す無数のポラロイド写真、あるいは夜のトンネルを抜けるという場面などもそうかもしれない。そうした小道具的なキーワードやアイテムが、案外キチンキチンと押さえられている、そんな感じは凄く受けた。

まあ、少女というアイテムは、最初からタイトルが決まっていたというんだから、当然出てこなくてはいけないのかもしれないんだけど。そういえば監督は、途中でタイトルが「激愛!」に変更されて、凄く困ったというか、戸惑ったとも言っていて、それもとても印象的だった。
激愛、という言葉にそれほど反応するのもへーっという感じだけど、愛どころか激愛だなんてというハズかしさがあったのかな。
「セックスは究極の激愛だ」と監督は語っていたけれど、でもこの孤独な男と孤独な少女が結局セックスすることはないし、少女は処女のまま、三人の男にかわるがわるレイプされてしまうんである……。

というか、人間関係、いや、キャラ設定が若干判りづらい気持ちもあったのだけど。
そもそもこの青年は、どういう生活を送っているのか。なんか地下みたいな暗いじめじめしたところに女をムリヤリ縛り上げて拉致っては(しかも、唐草模様の風呂式で包んで、背負って運んでくるというのが……)、レイプし、ポラ写真を撮り、そのポラが壁じゅうに貼られているんである。
この青年と、夜のコンビニで出会う少女。彼女の万引きが見つかって店員に咎められているのを、青年が店員をボコボコにしてくれちゃって、その隙に逃げ出してしまう少女。
帰ってきた家は、食べ物が散乱する汚物にまみれた状態で、縛られているのか(暗くてよく見えない)部屋の奥で野獣のような声を上げている父親らしき男に「食べる?」とまるでエサでも与えるようにスプーンを差し出す。
そして彼女が目覚めると、その野獣男と化粧のケバイ女がセックスしているんである。そっと襖を閉める少女。
この時には、この女が少女の姉であることも、そして“パンパン”であることも(子の言い様も古いが)まだ明らかにはされていない。玄関に脱ぎ散らかされた赤いハイヒールを、裁ちばさみで切りつける少女。

そして青年と再会したのは、成人映画館。少女は「いいもの見せてあげる」と彼を女性トイレに連れ込み、個室の中で姉が男とセックスしているのを覗き見させた。じっと見つめ続ける青年。
青年はトイレから出てきた男に「お楽しみですか」と因縁をつけ、ボコボコに蹴り倒した。少女もまた一発ケリを入れる。
この少女の気持ちというのは寂しさなのか、嫉妬なのか。いかにも少女少女したカッコと口調の彼女は、大人の女の武器を使って金を稼いでいる姉に憧れているのか、自分がエサを与えている父親も、恐らくセックスをする姉の方に価値を置いていることを辛く思っているのか?

そして、新宿の喧騒にさまよいだす二人。少女は靴屋で赤いハイヒールを手にじっと固まっていた。「君にはまだ早い、似合わないよ」と青年は言う。彼女はかまわずにその赤いハイヒールを買った。
しつこく青年につきまとう少女。青年は少女に向かって、ジェスチャーでシャッターを切った。カシャリ、カシャリと。少女ははにかみながら、今度は彼に向かってシャッターを切る。カシャリ、カシャリ。
なんかこの場面も、ちょっとした気恥ずかしさを覚える。でも二人の心が一瞬でも交差した、たった一つのピュアなラブシーンだったのかもしれない。

それにこの少女っていうのが、少女って言いながらもかなり老け顔で、しかもしかもそのカッコが……まあこういうデザインのニットって確かに当時流行ったけど、目も覚めるピンクのだぼっとしたカーディガンに、これまた目も覚めるレモン色の膝丈のフレアースカート、パステルカラーのタイツという凄まじいカッコなんだもん。
更にこれも当時ハヤリの、幅広のふわっとしたリボンでアップした髪を結っているという……正直正視に耐えかねる凄まじさで、しかもほんっと老け顔だから、なんかイタイコスプレに見えてしまうのがツラい……(うう、すいません……)。

少女はその赤いハイヒールを、姉にプレゼントした。いつも自分の“仕事場”を覗かれるのをうざがって、一度は妹の頬を張った姉だけれど、赤いハイヒールを買ってきた妹に、「(元の赤いハイヒールを切ったのは)やっぱりあんただったの」と言いながら、しょうがないなあ、なんて感じのちょっとお姉さんっぽい笑みをもらす。似合うよ、と少女。
それまで姉がはいていた黒いハイヒールを「これ、捨てとくね」と、映画館のゴミ箱に無造作に放り込んだ。

少女は、レイプされてしまうんだよね。姉の客だった三人の男たちに。「パンパンの妹にはこれしかないでしょう」とかわるがわる押さえつけられて。
このシーンは、ホント辛い。そのうちの一人がステキな下元氏だったりするので、余計にフクザツ。突っ込んだ指先が真っ赤に染まったのを見て、ニヤリとする男。三人の男にムリヤリねじ込まれて、彼女の下半身は真っ赤に汚れていく。
地獄のような時間が終わって、大の字になったまま床に倒れていた少女はムクリと起き出す。また、新宿の喧騒に這い出す。
喧騒の中で彼女は無表情のまま上衣を脱ぎ、その小さな乳房を無造作に喧騒の中にさらした。カシャリ、と見えないカメラのシャッターを押した。

一方の青年。なんか彼は狂っちゃったのかなんなのか、女装して少女の姉を襲うんである。あの地下室みたいなところに連れ込んで、ナイフを取り出す。
やれるもんならやってみなさいよ、の台詞に挑発される青年。女も負けてなく、手首を縛られたまま何度となく彼をもんどり押し返す。そんなことをしているうちに、女にナイフがぐさりと刺さる。抵抗を見せる女。しかし次第にグサリ、グサリという音と血まみれの度合いが凄まじくなってくる。 青年はついに、人殺しになってしまった。

家に帰った少女の元に、青年はこの死体を風呂敷で包んで運んでくるのね。風呂敷の中身に息を飲む少女。
あの野獣のような父親もいよいよ狂って、もう姉の体は冷たくなっているのに、血まみれの死体とヤリ始めるのだ。
少女はただ黙ってへたり込んで、自分の股にグリグリと何かを突っ込む。あれは、何?天狗のお面?少女の座り込んだ床に血だまりが出来、それがどんどん広がっていく。
ベルイマンの、「処女の泉」はやはり、意識されているのだろうか。
もう処女の血を流してしまった彼女がもう一度流すこの血は、一体どんな血なの?処女の血を自分で傷つける血で否定しているのか、それとも……。

ラストは大きな風呂敷包みを背負った青年が、歌舞伎町の映画街のあたりをどんどん突き進んでいるのを俯瞰で捉えるショット。
あの中に入っているのは、少女、だったのだろうか。★★★☆☆


ぐるりのこと。
2008年 140分 日本 カラー
監督:橋口亮輔 脚本:橋口亮輔
撮影:上野彰吾 音楽:北原京子
出演:木村多江 リリー・フランキー 倍賞美津子 寺島進 安藤玉恵 八嶋智人 寺田農 柄本明

2008/6/10/火 劇場(シネスイッチ銀座)
寡作だってことは判ってるから、気長に待ってはいたけど、それにしてももうあの「ハッシュ!」から6年も経っていたのか、と思う。久しぶりに見る監督の顔は、まるで長い修行を終えた僧のようだった。
と、思ったら、ええ!監督うつだったの。この長き6年間、そんな苦しみに耐えていたなんて。「考えることといえば、死ぬことばかり」ショック!何で橋口監督が死ななきゃいけないの!
でも、監督は言った。“ちょうどうつの妻の話を考えていたので、これは映画の神様が勉強しろと言っているんだと思い、自分が何を感じるのか心に留めておこうとじっと踏ん張りました”……なんて強い人なんだ。だからこんな、煩悩を全て捨てきったような、ある種精悍な風貌に変身していたんだね。彼は、生まれ変わったんだ。

「ハッシュ!」でも充分堂々とした監督さんではあったけど、本作ではもっと、突き抜けた感じ。どっしりと構えている感じ。
人物を見守るあたたかな包容力も今までよりずっと安心感があったし、そして作品の別の本流として流れている世間に対して厳しく切り込んでいく目線も、確信と自信に満ちたものがあった。

ある夫婦の10年間を見つめる物語。しっかり者の妻と、女たらしで頼りない夫。でもその妻の方が心を病んでしまったら……?その10年を、90年代に入ってますます残酷化していく犯罪を、裁判という形で振り返りながら進んでいく。
主人公夫婦の夫、カナオは法廷画家。様々な犯罪者が彼の前に入れ替わりたち替わり現われる。それらの犯罪は、現実に起こっている事件をほうふつとさせる。ほうふつとさせるどころか、ストレートに想起させる。

池田小学校児童殺傷事件、宮ア勤幼女誘拐殺人事件、地下鉄サリン事件といった、世間を震撼させた異様な犯罪。極悪人を体現する加瀬亮や新井浩文に戦慄する。
そして、そういえばこういう事件あったなと思うような、公金横領や、上流奥様たちになじめない主婦が彼女たちの子供たちを殺してしまった事件など、現代社会を映す鏡のようなものまで。
違法に外国人売春婦の稼ぎをピンハネしていた裁判などは、唯一コミカルに描かれたりする。糾弾するフィリピン系と思しき女性と、彼女の雇い主の、まるで吉原の遣り手婆を思わせる自信たっぷりの化粧オバサンのバトルは、たった一人の傍聴人であるカナオを、思わず笑顔にさせてしまう。
そんな息抜きの場面も用意されている一方で、裁判シーンはその殆んどが、当然重苦しさに満ちている。なんだか社会派映画のような趣さえあるのだ。

犯罪者には被害者のプライバシーが公開されているといった屈辱的矛盾や、新興宗教に対する本能的な拒否反応、犯罪は犯罪だけど、一般人はどーでもいいと思ってしまう公金横領事件(カナオが描く「こんな感じだろ」ってなマンガチックな画が物語ってる)。
あるいは確かに許されない犯罪なんだけど、監督が唯一犯罪者の方に対して同情的というか、自分たちもこっちの側になりかねないと正直に描写している、セレブな奥様たちの中で孤独を募らせた女がその子供たちを殺した判決が、最も印象に残ってる。
それを演じているのが監督のミューズである片岡礼子だってこともそうなんだけど、そして彼女があまりにもみすぼらしい主婦をスッピンで体現しているのにも驚くんだけれど。何より彼女を糾弾する主婦たちが、子供たちを殺されて彼女を憎むのは当然ながら、キッチリ化粧してキレイなカッコをして、ハンカチで上品に口元を押さえながら「極刑を望みます」と涙ながらに言ってはいるものの、そっちにこそ押さえようのない拒否反応を充分に感じるのだ。

しかもこのセレブ奥様は犯人の女をあれ、と呼ぶ。明らかに侮蔑した態度。そしてその犯人の女も彼女をMさんと呼ぶ。名前を呼ぶのさえイヤなのだ。
とても後悔している、反省している、子供に罪はない、それは彼女には充分過ぎるほど判っているのだけれど、それでも自分をあれと呼ぶ女の名前も呼びたくない気持ちが、ひしひしと伝わってくる。
そしてそれを描いているカナオも、まず目に入るのが涙をこらえながら証言するセレブ奥様の足元の、オシャレなアンクレットなんである。危険度ギリギリの、しかし正直な描写。確かに監督は死のふちを越えたのだ。

なんて、物語の本筋から離れたところからのめりこんでしまったけれど、確かに本作にはこうして、夫婦の10年の物語に寄り添う形で夫が勤め続ける法廷がもうひとつの舞台になってて、それがこの10年という時間の流れを、私たちに覚えのある悲惨な事件が頻発するのを目の当たりにすることによって、感じさせる作りになっている。
そしてそれらの中で心に刻み込まれるのは、子供の命や、女の哀しさなんである。関係なさそうに見えて、子供を失ってしまったこの夫婦の10年を映し出すウラ鏡のようになっている。

橋口監督がゲイカップルではなく異性同士のカップル、しかも一気に飛び越えて夫婦を描くということが、非常にスリリングだった。確かに前回の「ハッシュ!」で、今度は夫婦を描いてみたいとインタビューで答えていた記憶があるし、本作に際して監督自身が「ゲイの映画にはある種の到達感を感じた」と語っていたけれど、実際にどうなるのかなんて、想像もつかなかった。
でもやはり、橋口監督が、橋口監督しか描けない夫婦像なのだ。こういう言い方をしてしまったら語弊があるのかもしれないけれど、ゲイだからこそ、結局は受け身になる場合が多い女の哀しさや苦しさがよく判ってる。そしてその哀しさや苦しさが、ちょっとしたドラマや映画みたいにそう簡単にハッピーエンドに解決されるもんじゃなくて、こんな風に10年もかかってしまうことも。
もちろん、“映画の神様が与えた試練”だという、彼自身のうつが反映されているにしたって。

「ハッシュ!」も、恋愛や結婚は絡まないけれど、子供を望み、映画の中ではそれがまだ叶えられないままに終わる女性が主人公だった。その先には、彼女に協力するゲイのカップルとの新しい家族の形が見え隠れしていた。それはこれからの時代、ありえる形かもしれないと思わせたし、監督のひとつの理想だったとも思う。
でも実際は、女はやはり愛する人の子供を産んで、幸せな結婚生活を持ちたいと思うのだろう。一人はラクでも、異端になることは、心身ともに辛いことだ。好きな人がいて、その人と子供が持てるなら、その相手がどんなダメ男でもそっちの道を選ぶのだろう。いや判んない。私もピン者だから。単なる想像。

でも、今はフツーの出来ちゃった結婚をして、その子供が不幸にもほどなくして死んでしまったら?
こういう例は、それこそ今の世、結構あるのではないか。あるいは本作の夫婦のように、充分に愛を持っての出来ちゃった結婚ではなく、本当に出来ちゃったから結婚して、でも不幸にも子供を失い、ただ心の傷だけを残して別れちゃう、なんて例も多いのではないか。子はかすがいというのが、本当にそうなのかが判らないままの結末を迎えてしまった夫婦だって、多いのではないか。

監督はね、子供を理由に、あるいは言い訳に、夫婦になったり夫婦を続けたりすることに対しての、やっぱり本能的な違和感や嫌悪感を持っているんじゃないかと思う。そしてそれは、ストレートである私たちがまあそれもしょうがないじゃん、としていることへの痛烈な批判であるとも思う。
人が人を愛して、一緒にいるって、どういうことなのか。何かを言い訳にして、それで自分をカワイソがって、それでいいのか。
本当の自分の気持ちを、どこかに置き忘れてはいないのか?

この夫、カナオはね、テレビ関係に勤める友人から法廷画家の仕事をもらうまでは靴修理屋さんで、お客の美人さんに色目を使うようなテキトーな男だったわけ。で、妻、翔子の方は小さな出版社に勤めてる。彼女の母親はことあるごとに、あんな男はヤメた方がいいよと言い続ける。
ちなみに翔子の母親の、行方知れずになっている夫は元野球選手で、今は愛人の元にシケこんでいるらしのね。
でもそれも、後に明らかになることなんだけど、先にウワキをして裏切ったのはこの母親の方だった。母親曰く、「マジメで真っ直ぐな人だから、私のことをどうしても許せなかったのね」と言った。子供たちはそのことを知らなくて、父親が女たらしだとばかり思ってた。母親はずっと前に夫から送られてきていた離婚届にずっと判を押さないまましまいこんでいたのだ。
そんな夫にずっと尽くし続けている愛人に対して、母親は「あの人にそこまでさせるなんて、よっぽどいい女なんだね」と言った。
そのエピソードはずっとずっと、先の話なんだけど。

でね、またまた脱線しまくっちゃったけど、物語の最初では、ウダツの上がらないテキトーな夫を、きっちりとした妻がしきってる、という図式なんだよね。そしてこの前半部分は、ケンカするほど仲がいい、とノンキに言たいぐらい、とっても幸せな二人だった。おなかの中で動く赤ちゃんに微笑みながら、夫の背中をぎゅっとつかんでそぞろ歩く夜道の、幸せそうなことといったら!
翔子が足ツボマッサージを受けにいったトコで、マッサージ師から妻が夫のウワキを見抜く方法を伝授されるシーンが印象的である。遅くなって帰ってきた夫の手の甲をペロリとなめてみる。
「女の人とそういうことになったら、シャワーを浴びるでしょ。手がしょっぱくないか、確認するわけ」「なるほど!」
こういう男と女の生々しさをアッサリと軽く描写するウィットは、橋口節と言いたい洒脱さ。

翔子はすんごい仕切り屋さんというか、マジメというか、そのきっちりさは異常な位で、門限は勿論、エッチをする日にちまでしっかり決めてる。もう妊娠してるのに、週に三日のエッチは欠かさない。
その日は大学時代の先輩が訪ねてきて、飲んで遅くなったカナオ、しかしそれも、門限の10時(!)から40分過ぎただけなんである。午前様というわけじゃないんである。でも決めたことを守らないカナオに得々と諭す妻は、そのことですっかり興ざめの状態になっても、今日はする日だから、と寝室をアゴでうながす。
そんな気になれないよ、じゃあせめて口紅して、とカナオが恐る恐る言うと、なんで口紅しなきゃいけないの、と翔子。それはもてなしの心だよ。料理も紙皿じゃ興醒めだろ、と彼が例え話を言っても、なんでここで紙皿が出てくるのか判らない、とマジメな彼女には通じない。
しまいには「こっちの穴はイヤだって言ったでしょ!」「いや、たまには別の穴も……」「バカ!」「バカっていうな」……(笑)。

このアドリヴかと思うような会話のスリリングは、さっすが橋口作品の真骨頂。「ハッシュ!」では確信犯的に見せた移動のあるワンカットを、ここではじっくりフィックスに据えてとらえる。
しかもこうしたフィックスのスリリングな会話場面は、時間を違えて何度も現われ、それがその時ごとのエポックとして印象的に機能している。
ことに、その後出来た子供を中絶してしまった彼女が、もうずっぽり心の闇に落ちてしまって、そんな自分を死ぬほど嫌悪して夫に泣きながら訴える場面のフィックスは、最大のクライマックス。
あの最初のカルいコミカルさがあるからこそ、この静かに見守るフィックスが心にじんじん響くのだ。

カレンダーに書かれていた、週に三日の“する日”の印が消えて、小さな戒名に飴玉が転がった仏前が置かれている。
思えば、写真がなかった。後にこの短い命だった赤ちゃんのスケッチが、引っ越し荷物の間から出てくる。それを見て、翔子は夫もまた小さな命に嬉しさを爆発させていたことを知る。
写真を撮ることが出来ない裁判での法廷画家という設定も、ここにつながってくる。写真はありのままを映すように見えて、実は表面しか見えない。一筆一筆心を入れて描く絵には、描き手の愛情や、対象物の心のうちが見えてくるのだと思う。
だから、翔子が、何年も絵から遠ざかっていた彼女が、数年かかってお寺の天井画を心を込めて描いていく内に、徐々に心の光を取り戻していけたのだろうと思う。勿論そばにずっとずっと、カナオがいてくれたから、だけれど。そしてそれは、またずっと先の話なんだけれど。

いちいち脱線してごめんなさい。でね、そうなんだよね。子供を亡くして、それでも悲しみを押し隠して今まで通りの生活を送ってた翔子。次に子供が出来ればそこから脱出できたかもしれないのに、彼女はその出来た子供を夫に黙って中絶してしまうんだよね。
この場面には、唖然とした。どうして?どうして!せっかく授かったのに。あんなに子供を失ったことを悲しんで、見ていられないほどだったのに。どうして!?って。でも……子供を失うってことは、次の子供を自らの手で送ってしまう程の、想像もつかないほどの、悲しみだっていう、ことなのか。

あれ以来、翔子は凄く弱くなってた。締め切りに間に合わないからと批評家の原稿を勝手に書き換えるなんてタブーを犯した、後輩のナマイキな開き直りにも、耐え切れなかった。編集者の何たるかを教えようとしても、後輩は自分のプライドを傷つけられたことで「なんか、グレちゃいますよ」とお門違いに逆ギレして憤然と出て行った。
子供を失う前の彼女なら、こんなことでへこたれなかったかもしれない。
あるいは、子供の大切さを書いた外国人女性作家のサイン会、次々に並んでいる幸せそうな女性たち、そしてこの作家の大ファンらしい女の子が大仰に感動して作家と写真に収まっている。そのそばで黙々と表紙を開ける作業をしている翔子の顔には、表情がない。

でも、トイレから出てきた彼女がふと小さな女の子にぶつかって、火がついたようにこのコが泣き始めた時、翔子の心も一気に崩れ去った。ごめんね、ごめんねと謝る翔子の声など聞かず、そのコは母親に抱き抱えられていった。みるみるゆがんでいく翔子の顔。
もうガマンしきれず、仕事を放り出し、こみ上げる涙を必死にこらえて本屋の中を小走りに走っていく。やっとなんとか人気のいないコーナーで、大判の地図帳に顔をうずめて嗚咽をもらす。
このシーン、「ハッシュ!」で見せたあの時はワクワクさせた横移動のカメラが、ここでは胸が張り裂けそうな翔子の心をスクリーンに鼓動のごとく刻み付けて、観客の胸もつぶれそうだった。

そして、こんなちょっとした場面も。家の中に紛れ込んだ小さなクモが殺されそうになると、自分が死にそうな悲鳴をあげる翔子。家グモは家を守るんだからと。でもそれも、死んでしまった子供のことをきっと思っていたに違いない。
結局最後まで、カナオは翔子が二番目の命を彼女自身の手であやめてしまったことを、知らないのだ。
その後、翔子は心療内科に通うほどに、心の闇に突き落とされていた。その時の彼女の心理状態がどうだったのかは、これはもう、そういう状態に陥ってしまわなければ判らない。橋口監督は、そこを説明的に明確にしようとはしない。ただ、今度は自ら手を下してしまった彼女を、静かに見守るだけ。

翔子は仕事を辞めた。そしてカナオは法廷画家を続ける。世間にはイヤな事件が勃発し続ける。壊れ続ける妻を、夫はどうすることも出来ないでいた。
カナオが最初に法廷画家として裁判所に来た時、何も判らない彼を世話してくれたベテラン記者、柄本明が凄く印象的なのね。あ、ちなみに、なんでそんな状態になったかっていうと、世話係は八嶋智人。もうそれだけで、ああナルホドって思っちゃうでしょ(笑)。超軽くて、周りに迎合しまくる男を演じさせたら、八嶋さんの右に出る人はいないもん(笑)。
対照的に柄本明は、もう外見から対照的だから(笑)、職人気質で、困ってるカナオをほっとけなかったことからも判る、マジメな人なのね。

そんで、自分の幼い子供を交通事故で亡くしてて、だから交通事故犯罪には異様な執着を示してる。
そのやっかいな性格ゆえに地方に飛ばされたり、肺気腫で入院したりと(なのにタバコは吸う)、しばらく画面から姿を消すんだけど、カナオに最も影響を与えたのは、この人かもしれない。
「ここ、使ってるか?」と股間を掴んでカナオに言う。「いや、最近全然ですね」彼は返す。「奥さん、いるんだろ?大事にしてやれよ」まるで見透かされているよう。
少なくとも劇中では、カナオがこの記者に自分たちに起こったことを話している場面はないし、雰囲気やこの台詞からしてもそれはないだろうと思う。それでも、なんか、百戦錬磨の柄本明にはバレバレなんだよね。

カナオの父親は首吊り自殺をしてた。そのことは台詞でさらっと流されるだけである。翔子の母親が、結婚の際、カナオの方の家族が全然出てこないことに異議を申してたてていて、翔子はそれを、家族と疎遠だからとだけ言っていた。
翔子が夫の家族の事情をどれだけ判っていたのかも、明確ではない。彼の告白シーンで、彼女もまた初めてそのことを知らされたのかもとも思う。
翔子が最も辛い時期に入ってて、こんな自分がイヤなのに、嫌われたくないのに、どうしようもない、どうしたらいいのか判らないと、夫に訴える。
それはある台風の晩。窓を開けっ放しにしてビショヌレになった彼女を、帰宅した彼はただただ受け止める。正直、ここら辺りの証拠は確かに正直、かなーりキツくて、もうこんなうっとうしい女捨てて逃げたいわ!と、私が男なら思っちゃうだろうと思う(私、絶対人間失格やわ……)。

でもね、カナオは、もうここまで数年が経過してて、この物語はほんとそのピンポイントで、そんなずっと辛い状況が続いていた訳ではないとは思うんだけど、でもきっと何度も、こんな辛い状況に直面していたに違いないんだよね。
翔子自身でどうしていいのか判らない、自分自身をもてあましているんだから、彼にどうしていいのか判る筈もない。
だからこの数年、カナオはただただ見守るしかなかったのだ。もしかしたら、この瞬間を待っていたのかもしれない。翔子が、辛いながらも自分の現状に直面して、それを直接彼にぶつける瞬間を。

ホントにこの場面の長回しは、まばたきをするのもはばかられるテンションに満ち満ちている。
翔子を演じる木村多江は、全編とにかく素晴らしいんだけど、この場面はホンット入っちゃって、泣きすぎて、鼻水ズルズルで、なんとか落ち着いた彼女に彼が「キスしようと思ったのに、鼻水でベチャベチャやん」と言うのがアドリヴではないかと思われるほどに、顔もメッチャぶっさいくになってるし、そう、だからこそ、本気モード全開だからこそ、心打たれまくるのだ。
ここで解決する訳じゃないんだよね。確かに翔子はこの時、すべての思いを吐き出した。「私、子供ダメにした……」と絶対に口に出したくなかった、出せなかった言葉を搾り出して。「もう子供出来ないかもしれない」「どうしていいか、判らない」って。明確には告白せずとも、自分が子供を殺してしまったことも、その罪悪感にさいなまれ続けている辛さもぶつけて。嫌われる怖さ、一人になる怖さを。

ああそうだ、それこそが、現代の犯罪、カナオが職場で直面し続けている犯罪の根底にあることで、でもそれは、たった一人、誰からも嫌われてもいい、たった一人に、たくさん好きだと思われればいいじゃないかってカナオが言ってくれる、その一点なんだ。
「どうして一緒にいてくれるの?」と泣きながら聞く翔子に「好きだから。一緒にいたいと思ってるよ」と優しく髪を撫でるカナオに涙が溢れる。
でもそれが、どんなに難しいことか。出来ちゃった結婚が安易に幸せを呼び込むのか。ならばそれが破綻した時、いわば強制的にでも自分とつながってくれていた子供さえも失われた時、どうするのか。
でもねそれは、かつてはそうしてつながっていた筈の家族さえも、自分の味方であると信じられなくなっている今の時代を反映してて。
自分が存在しているってことは、親がいる。その親は無条件に自分を愛してくれている筈、という、昔なら何の疑いもなしに常識だったことが、今はそうじゃない。
自分が存在しているってだけで当然ある筈の愛が、ないのだ。あるいはなくなってしまっているのだ。更にあるいは、そう錯覚、誤解しているのだ。さらにさらにあるいは、親の側でさえもそれを、忘れてしまっているのだ。

翔子の兄夫婦が、非常に印象的である。印象的?ほとんど、小憎らしいくらいである。小憎らしいどころか、メッチャど突きたいほどに、憎ったらしい。
バブル真っ只中の不動産をイケイケで切り回している彼女の兄は、美大になんか行くやつの気が知れない、などと言う。更にアタマ来るのがこの兄の妻、つまり翔子の義姉に当たる女で、まさに子供を言い訳に、盾に、尊大な態度でそっくりかえっているようなアッタマくる女なのだ。
翔子が黙々と作っているテンプラを指先でつまみあげながら、「私、魚嫌いなんだよね」なんてデリカシーのない言い方をするのにもハラが立つし、今まさに心の闇の中に入り込んでいる翔子に、こともあろうに「精神科に通ってるの?」などと言いやがる。翔子が静かに「心療内科」と返すと、「それってどう違うの?ウチの子供の進学に、そういうのって影響するんだよね」ううう、なんてハラの立つ女なんだっ。

「子供、産んでみればいいよ。全然違うよ。私だって、汚いもの全部出てキレイになったと思ったもん」
何それ!翔子が汚いって言いたいの?ていうか、お前、全然キレイじゃないだろ!世俗の価値観にまみれまくって、汚すぎ!
でも、この女が、ってんじゃなくて、世の中の、子供を手に入れた女の中には、こうした視線や態度で子供がいない女に対する人たちが、少なからずいるんだろう。そしてその辛さの本質を描ける男性監督は、やはり橋口監督しかいないのだ。

そしてこの兄は今や、アッサリバブル崩壊の負け組になってしまった。しかしその後も、立居振る舞いや態度がそうした往年の態度の大きさを感じさせて、じっつにイヤーな感じなんである。
でも結局は、単純なヤツだったということなのか。上から目線で面倒をみていた、父親の幼なじみのとんかつ屋に金を持ち逃げされて今やクビが回らない。
あ、ちなみにこの店のとんかつは見るからにマズそうで、翔子とこの店に入った彼はこんなとんかつ食えるかよと大声で言うんだけど、その二代目のやる気のなさそーな息子はイヤーな顔して、こっそり味噌汁に自分の唾をたらすのだ。
うえええ。なんつーか、もう彼が負け組に転落する布石は打たれてたんだよな……。
ついには兄夫婦、これまたエッラそうに、同居している母親の家を売り飛ばそうとするんだけど、母親が言う。ここは売らない。どこでも好きなところに行けばいいと。あー、なんか溜飲が下がるんである。

対照的に妹夫婦である主人公の二人は、もう最初から食えない芸大出の、芸術家にもなれないヘタレ夫婦ってな位置関係を保ってて、でも結局はそれが、幸せを呼び込むんだよね。
こんなこと言うの、ホントベタなんだけど、人間の幸せってお金じゃないし、家族ですらない。いや、家族はとても大事で、自分がここにいるってことは、親がいるってことで、本当に大事なことだけど、それは言ってしまえば過去のこと、自分がこれから生きていく先のことではないんだもの。
やっぱり大事なことは、自分が生きていくその先に、愛する誰かがそばにいるかってこと。
それは、家族じゃなくてもいいし、家族にならなくてもいい。子供が出来るかどうかは、そりゃ出来れば違う系列の幸せが生まれるけれども、それが前提ではない。そしてそれは、焦って手に入れるものでもないし、いつ訪れるものかも判らないし、自分自身の価値観や幸福感を確立した上でしか手に入れられないものなのだ。

犯罪の理由に自分が孤独だとか、自分を判ってくれる人や愛してくれる人がいないっていうものが散見されることに、判るような気もしながらも(でもそう言ってしまうのも、当事者にとってはケッと思うのだろうけれど)、やはりその前提があればと思ってしまう。そしてそれは、案外教えられてこなかったのではないかと思う。
オタクでいいんだよ。幸せなオタクであれば、いいんだよ。
オタクが犯罪を生むように見える現在だから、それは強く言いたい。
だって本作の夫婦、芸術、美術、というカテゴリーだけで、十分オタクだよ。いや、世の中の人全てが、何かひとつ好きなことがあるだけで充分その資格があると思う。
それを、自分自身の幸せとして確立できるだけで、孤独になんか陥らなくてすむんだよ。
だって、こう言ってしまえばそれこそ寂しいのかもしれないけど、その価値観だけが、自分を支えてくれているのだから。それだけで孤独ではないのだから。

今は、サブカルがあまりに発達しすぎてて、それぞれに込める思いにそれぞれが自信がなくなっているのだろうか。 確かに、サブカルが細分化されすぎてて、仲間を見つけるのは難しくなってる。だから、余計にオタクたちは孤独の闇に陥っていく。
でも、何かを信じることに、仲間って必要なの?
細分化され、なのに世の中は常識からちょっとハズれると死ぬほどバッシングされ、だから人間はどんどん脆弱になっている気がする。
何かを信じることに仲間を必要だと思うことは、それこそ危険な宗教だ。
記憶に残るあの新興宗教を法廷場面に再現されたことを、改めて思う。そこには、やはりそれ以上の意味があったんじゃないかと。
本作を作った監督に対してあまりこういうことを言うのはフェアじゃないのかもしれないけど、やはりゲイというアイデンティティを持つ監督が、マイノリティや孤独に対して、人一倍の敏感さ、深い洞察力を持っていると、思うんだもの。

心の落ち着きを取り戻した翔子が、医者から紹介された寺での茶席で、女の子にお点前をしてもらいながら、穏やかな表情を見せている。ここまでに何年かかったのか。ここに来た頃とは随分変わったわね、と剃髪した尼僧がアイスをごちそうしてくれた。
そして、ここで翔子に天井画の依頼をするのだ。立派な画家が描く画になんか興味はない。死を知った人の境地に興味があるんだと、でも笑顔で。プレッシャーだな、と言いながらも翔子も笑顔で。

カナオも背中を押してくれる。そして翔子は描き始めた。穏やかに見つめる植物たち。ベランダで育てたトマトをかぶりつく場面も印象的だったし、恐らくここまで彼女、いやカナオもそうかもしれない、二人の心を支えてくれた、“子供たち”なのだろうと思う。
色とりどりの絵の具に心を躍らせ、一枚一枚に心を注いで描き続ける。その間もカナオは法廷に出かけていき、様々な事件が世の中に起こっている。
ここからだって数年がかかる。時間が解決すると言うけれど、それは本当に長い長い時間。
出来上がった天井画を、仰向けに寝転んで二人眺めながら、いいね、と言い合いながら、二人ゆっくりと手をつなぐのには、単純だけどやられたー!と胸が熱く、熱くなる。その後の、ちょっとふざけあった足の蹴り合いよりもずっとジンとくるのだ。

末期ガンになったという翔子の父親に、カナオと二人で会いに行く。実は父親は全然元気で、その元気な顔をカナオはスケッチして戻ってくるんだけど、この地で、二人は幸せそうな結婚式に遭遇する。「こういうの、やりたかった?」とカナオは聞く。「ううん」と笑顔で翔子は首を振る。しかし、その空気をもらうように、二人の写真を撮るんだよね。
写真は、この一枚、なんだよね。死んでしまった娘の写真も、法廷の写真もないのに、このたった一枚の写真。
でもこのたった一枚の写真には、二人が心を込めて描いた絵のように、幸せな心が映し出されている。
それは、今まさに幸福の絶頂であろうと思われる、結婚式の新婚さんよりも。何年も辛い時間を二人で歩いてきたから。

この時点になってようやく、翔子の母親が、カナオにありがとうって、翔子をよろしくって言って、翔子が思わず顔をくしゃくしゃにして泣いた場面も感動的だったけど、この一枚の写真にこめられた思いを感じる。
一枚の絵、一枚の写真。そこに映し出された10年の日々。
この映画のために苦しんだ橋口監督の6年間もまた、そこに見えた気がした。★★★★★


クレヨンしんちゃん ちょー嵐を呼ぶ 金矛の勇者
2008年 93分 日本 カラー
監督:本郷みつる 脚本:本郷みつる
撮影:梅田俊之 音楽:若草恵 荒川敏行 丸尾稔
声の出演:矢島晶子 ならはしみき 藤原啓治 こおろぎさとみ 真柴摩利 堀江由衣 林玉緒 一龍斎貞友 佐藤智恵 高田由美 納谷六朗 宮本充 佐久間レイ 本田貴子 飯塚昭三 茶風林 郷里大輔 玄田哲章 小桜エツ子 大西健晴 川村拓央 福崎正之 東龍一 野宮いずみ 咲乃藍里 下平さやか 小島よしお 間宮くるみ 金田朋子 屋良有作 銀河万丈

2008/5/5/月・祝 劇場(錦糸町TOHOシネマズ)
うう、稀に見るつまらなさだ。原監督の手を離れて数年、毎年、観るのやめようか、どうしようかと思いつつ、ずるずると観続け、昨年あたりはちょっと持ち直したかな、とも思ったのだがまた監督が変わり、しかしその監督は初期のシリーズを支えた人というので、おっ、と思ったんだけど、うわあ、どーんと落とされてしまった。

なんだろう、この集中の出来なさは。劇場の子供たちの気配もなんだか居心地が悪そうだった。後半のギャグシーンに集中して笑う子供たちに私の方が、え、エライ……と思ってしまうほどだった。ウンコでもチンチンでもなんでもいいから、子供たちだけでもひきつけておいてほしい。というか、大人だってそうしたベタな子供ギャグに結構ウケて、ガッチリ掴まされるもんなのに。
物語もそうなんだけど、台詞のリズムが悪すぎて、というか、センスが古すぎて、どんどん取り残されてしまう。

なぜしんのすけが勇者なのかをひろしとみさえに説明する、それは偶然の確率が必然になったと説明する場面、ロボットを操る少年と魔法少女を例に出しての説明に、お互いに理解しがたい、それはファンタジーじゃないのかなどと二人がダルダルな言い合いをするところなんか、以前ならもっと面白く出来たと思うんだけどなあ。
ことにしんのすけが相手の言葉をことごとく取り違える会話場面、こういうところはしんのすけのオバカな面白さの真骨頂のはずなのに、どうにもこうにもリズムが悪い。なんかこんなのしんのすけじゃないような気がするんだよなあ。

ドン・クラーイ世界の闇の扉を開いてしまったしんのすけ。この世界には古くからの言い伝えがある。金の矛と銀の盾、そして銅の鐸が互いに呼び合い、その時選ばれし者が現われるのだという。
つまるところそれがしんのすけであり、アクション仮面のアクションサードが竹定規の姿に変わってそれが金の矛であり、シロとソックリな黒い犬としてしんのすけに拾われて野原一家の一員となるクロが、銀の盾なんである。
銅の鐸は最後の最後、思いっきり付け足し状態で出てくるのが興醒めで(しかもオカマっぽいキャラも寒いし)それぐらいなら出してくるなと思っちゃう。結局、最後のキャラまで、ノリきれないままだったんだよなあ。

まあ、いつものように野原一家が地球の危機を救う、てな展開なのだけど、かなり中盤になるまで野原一家、というより両親はしんのすけの言うことを信用しない。
夜になると襲ってくる摩訶不思議な世界、まるで魔法の夜の世界に紛れ込んでしまったようなしんのすけは、最初こそその世界を「面白ーい!」とはしゃいで走り回るのだけれど、妙に長細いマックという男にコワい顔で追いかけられたり、巨乳のおねいさん、プリリンにビデオを返しに一緒に来てほしいと言われてホイホイついていったら、ドアを入った途端にそのビデオショップが陰も形もなく消えてしまったり、おかしなことがつぎつぎに起こる。
つまるところ、そのビデオショップが闇の世界の扉を開けてしまったことになるのだけれど。

彼らはドン・、クラーイ世界の帝王であるアセ・ダク・ダークの命の元に動いている。お前たちの変わりになるヤツはいくらでもいる、と一応ダークは脅しをかけてはいるけれど、それもその台詞一発の場面だけで、マックやプリリンがダークに圧力をかけられているという感じが全然しないのも辛い。
だってマックやプリリンは自分の能力や野望に忠実なようにしか、つまりダークの身勝手さとさして変わらないようにしか見えないんだもん。ここに主従関係を見い出すのが難しいから、結果的にしんのすけがマックやプリリンをはねのけて悪の中枢に乗り込んだにしても、そうした物語の盛り上がりを感じることが出来ない。根本的な部分なんだもん。

夜の恐怖や冒険を、しんのすけがいくら説明しても、皆夢を見ているんだろうと一笑に付す。それは、いつもは一緒になって危機に立ち向かう春日部防衛隊のメンメン(まあそれも、最近はあまりないのが寂しかったのだが)も同様で、あの達観したぼーちゃんまでもが、しんのすけ言うことを一蹴し、「いつもと変わらないと思う」などと言うのには激しく失望する。
しんのすけのいつものギャグ……おしりをぶりぶり出して歩き回ったりするのを、ことごとく仲間たちに「面白くない」と言われる。しんのすけがしんのすけたることを封印されてしまっては、それを観に来ている観客自体を否定されている気がして、一気に気持ちが遠のいてしまう。

なあんか、ね。まあ最終的にはいつもの野原一家、野原家の団結によってこの世界を救う!という風になるんだけど、それまでにあまりに彼らの心が離れっぱなしなので、いつものようなひろしの台詞、普通のサラリーマンが普通の家庭をもつことの幸せを力説する台詞もちっとも心にしみないんだよね。
あ、そう考えてみればいつだってこういう、ベタな台詞を言ってたんだなあ、とも気づかされるんだけど、いつもだったらそこに至るまでにかなりウルウル来てて、この台詞でどわーっと涙腺が大全開しているはずなのになあ、と思う。
それに、敵に向かう彼らの変身した姿、合体ロボみたいになって、股間のところにひろしがいるっていうのも、どうにも古くさくセンスが悪く、見ていてハズかしくなってしまう……しかもここはほんの前座で、結局はしんのすけが一人で戦うのがメインだなんてさ!

ああ、でもつまり、いつも家族一緒に戦ってきたしんのすけが、ひとり立ちということなのかなあ。いやいやいや、そんなことない。今までのしんのすけだって、たった一人で戦わなければならない場面はいつでもあった。でもその時には常に家族の思いを、心配を、愛を、背に受けての戦いで、だからこそ感動的だったのに。
本作では、両親は自分たちの戦いで悪が滅ぼせたと思ってて、その後のしんのすけの苦闘は彼らのあずかり知らぬところになっている。それはいつもスーパー能力を発揮しているひまわりさえも、知らないんである。

でもここに、しんのすけの孤独を感じて共感するという風にはならないんだよなあ。まあここまで金の矛と銀の盾を引っ張ってきてて、やっと登場し、彼らがしんのすけを助ける訳だからまさにクライマックスなんだけど、この金の矛と銀の盾、登場が遅すぎるのよ。
冒頭から言葉だけで示されて、ずーっとビジュアルがないから、なんか言葉だけで頭の片隅においておくのもしんどいし、やっと登場したと思ったら、これがまたサムいキャラなの。大体、「キンキンがギンギン!」だなんて既にオヤジギャグで引きまくり。しんのすけが喜ぶようなギャグとも思えん。

この場面、ダークと対峙するしんのすけが彼の口上を待たずにいきなり切り込んで彼を縦にまっ二つにし、「不意打ちとは卑怯だぞ!」「ゴメン、まだ幼稚園で習ってないから」というやり取りのブラックさには思わず笑ってしまったけど、笑えたのはそこぐらいかなあ。
この「習ってないから」という台詞はかなり執拗に使われていて、お金を持たされたことがないから使い方が判らない、というのもその範疇に含まれると思うんだけど、しんのすけが悪に染まらずに突破していく理由づけにされているのね。まあ一方でいつものようにみさえに反抗する口答えにも使われてはいるけど。

大体、この悪が侵食していく過程が判りづらいというか、説教臭いというか。
それまでの過程で、みさえが訳もなく怒りっぽくなったり、ひろしが電車の中でのヘッドフォンの音漏れや携帯電話の使用に、眉をひそめている描写が描かれる。あるいは、会社の昇進に失敗して人知れず悔し泣きしていたり。
でもみさえの描写は単にいつもの彼女だったのか、おかしくなる世界の前兆だったのか判らないほどの中途半端さなんだけど(こういうどっちつかずが凄く多くて、集中力がそがれるのよ)。

で、世界がおかしくなった時、まあ、いきなりひろしが重役に抜擢されるのはアレだけれども、テレビのニュースでは、犯罪も何もかもがない、大変よい一日でしょう、とアナウンサーが笑顔で言い、驚いてチャンネルを変えると、マナー法が適用されて、電車内での携帯電話やヘッドフォンの音もれは死刑!と役人が言ってるもんだから、野原一家は大いに驚くんである。
そして更にチャンネルを変えてみると、しんのすけの大好きなアクション仮面は、もう倒すべき悪はいない、世の中は平和になったといって、テレビの中で微積分を教え出す始末。

だけどね、この、なんかヘンな感じには全く一貫性がなくって、というか、中途半端なヘンさで、ことにひろしの抱えたわだかまりに偏っているのが、この作品に対する集中力をなくしている一番の原因のように感じたんだよね。
もう会話の感じ、台詞の感じからして、そういう、言っちゃ悪いけど、おじさんぽいノリの悪さ、センスの古さっていうのが横溢してて、しんのすけも、あるいはひろしでさえも、その台詞を言葉にするのにノリきれないものを感じていたんだけど。

マナーの悪さにひろしがいくらかの引っ掛かりを感じていたとしても、彼がそれで何か行動を起こした訳でもない。そのマナー違反には死刑、というのはヘンだと感じても、そのことに対してじゃあひろしが「いくらなんでも……」と言ったりすることもなく、他のヘンさ、アクション仮面が微積分を教えたり、なんて部分に逃げられちゃうんである。
しかもこのマナー違反のネタは、彼らが悪と戦う場面にも引きずり、必死に逃げる野原一家を鼻歌交じりで追いつめるセクシー美女、プリリンは、携帯をかけながら化粧をしながら、運転していて、ひろしのカンに触るのだ。
でもそれも一瞬で、一体ひろしが、というか作者がこのマナー違反をネタに物語を転がしたいのかサッパリ判らなくて、中途半端なだけに、このヘンな世界のマジカルな魅力ももんのすごく中途半端で、もう居心地が悪いったらないのだ。

中途半端といえば、キャラごとに挿入されるちょっとしたミュージカル風場面も中途半端で、もう観てられない。
ことに最初にしんのすけを取り込もうとした痩せぎすの男、マックの、お金がすべて、何でも買える……などという歌は、人の弱みに付け込むにはあまりに……そう、王道というより古すぎて、直球というよりも使いまわされすぎた表現で、なんていうか、選ぶ言葉やリズムがことごとく古い、ノリが悪いのがもうここで露呈されまくってるんだもん。

いちいちひまわりの言葉を「こう言っている」とひろしやみさえが翻訳するのも凄おく、ガッカリしてしまう。えー?今まではそんなこと、しなかったじゃない。ひまわりは何を言っているのか判らなくても、でも何となく判る、赤ちゃんながらも正義感や怒りに満ち溢れた女の子だってことを、わざわざ台詞に変換なぞしなくたって判るからこそ、ひまわりなのに!
しかもそれを軽くギャグとしてやっているらしいことにもカチンとくるのだ。
それにやっぱり、そんなことすると凄くリズムが滞っちゃうんだもの。

そしてしんのすけを助けるマタちゃん、彼の父親がダークたちに殺されたというのも、言葉上だけで流されるのが、マタがここに存在する、しんのすけを助ける説得力ある理由づけとして全く機能しない。
まあ父親の仇をうってこの世を平和にする、なんてのは口に出しちゃえばそりゃあヒドいベタさなんだけど、でも彼女からは父親を殺された憎しみや、それをバネにして闘いに挑む力強さが感じられない。
だってマタはとにかく「ぼくがしんちゃんを守る」の一点張りで、本当の目的は自分たちの世界をまっとうなものに戻すことの筈なのに、それが結局は最後まで見えなくて、じゃあ彼女は何のためにしんのすけを守ろうとしているのか、しんのすけとの結びつきが凄く弱くて、集中力をそがれる理由はここにもあるんだよね。

なんかね、結局は彼女と一緒になって戦う場面のためだけって感じっていうか、それも飛行機でのおっかけっこ、いかにも戦闘機バトルみたいな、これも一世代昔の人がやりたがりそうな画で、しかもちょっと戦争を思わせて、居心地が悪い。
しかもしかもこの場面はCGで、それはしんのすけの顔までもがCGというのが丸判りで、興醒めしてしまうんだもん。

一見少年に見えるマタちゃんが、実は女の子だったなんていうキャラ設定も古いといえば、古い。しかもその、実は女の子だった、という設定が上手く使われているとも思えない。
結局「男の子なのにお胸があるぞ!」としんのすけが狼狽する場面と、固まってたマタちゃんを助けてそのお胸にスリスリするところ、更に最後の別れにマタちゃんからキスされて赤くなる場面、それだけなんだもん。
一応台詞では「オラの大好きなおねいさん」と言ってはいるものの……うーん、どうせこの台詞を言わせるなら、ホント、もっと感動的な展開になってなくちゃ、もったいない!

空間や身体を自在に変化させたり、どこか不思議の国のアリスのトランプの世界を思わせる世界観は魅力的ではあるんだけど、その世界観だけで引っ張っていくには、あまりに厳しいんだよなあ……。
毎回ゲストになるその次期の旬な人は、小島よしお。テレビ画面の中のお兄さんで、物語の筋には全く関係ナシ。いささか寒い登場は、彼自身のサムさも思わせもする(爆)。★★☆☆☆


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