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ディアーディアー
2015年 107分 日本 カラー
監督:菊地健雄 脚本:杉原憲明
撮影:佐々木靖之 音楽:岡田拓郎
出演:中村ゆり 斉藤陽一郎 桐生コウジ 染谷将太 菊地凛子 山本剛史 松本若菜 柳憂怜 政岡泰志 佐藤誓 信川清順 川瀬陽太 木村八重子 菅野久夫 井原道 池下リリコ 村上ユキヒコ 小笠原治夫 川連廣明 隅田恵里子
やばいの、私。全然違うところで引っかかってしまって、その気持ちをずーっと引きずったまま観てしまったから。
物語は、父の危篤で兄が残るこの地元に次男と妹が戻ってくるところから始まる。バスで乗り合わせた次男と妹は、次男が気分が悪くなってしまったことで途中下車、兄が車で迎えに来てくれる。
次男が、久しぶりに車を運転したいと言い出し、慣れない運転でテンション上がってはしゃいでよそ見して、犬をはねてしまう。イラつく妹が怒鳴り散らし、次男は「なんで俺はこんなに不運なんだ!」と頭をかきむしる。
運転をかわってやった長男が、まるでこの事態を予測していたように大きな袋をトランクから出してきて、「ご近所さんの犬だと困るから。首輪もついてるし」と回収、その後、血がべったりとにじんだそのビニールバッグをずっと庭の片隅に置きっぱなし、という……。
そしてその後、狂ったようにポスター貼りまくって犬を探し回る次男の同級生、という……。この同級生が似たような太った体格の奥さんと結婚してて、センスのないTシャツ着てて、その次男を食事に呼んだりして。
作り手自体がどう思っているのかは知らんが、劇場内の、かなりピンポイントの場所から可笑しそうな笑い声が断続してあがり、ああ、やはりこれは、笑わせようとして作っているのかと思い、しかしその笑い声が妙に慣れた風で……。
つまり、なんか身内ウケのように感じ……実際、劇場内の雰囲気も、よくある、デビュー作品に集まる関係者的な感じが否めないものがあったから、そういうあれこれも相まって、凄く受け止めきれないものを感じてしまったんであった。
まあつまり、確かに私は猫派だが、コンパニオンアニマルと住んでいる立場として、この状況はどうしても笑えないものがあった。笑えない、笑えないよう、と思いながらずーーーっと見ていた。
この長男の台詞も信じられなかったし、そのまま異臭がするまで片隅に放置しているのも信じられなかった。精神を病んでいるのは弟の方、という設定だが、よっぽど長男の方がおかしいように思ってしまった。
いや、それは確かに合っていたのかもしれない。長男という立場に縛られ、にっちもさっちもいかない工場を守り続けてきた長男。
しかも彼は、父親を尊敬していた訳じゃない。いや彼だけじゃなくきょうだいみんな、父親のことは嫌っていた。笑わず、趣味もなく、子供に暴力をふるう父親。
幼い頃に母親が亡くなって以来、会話もまったくなかった。だからたまらず妹も弟も出て行った。
父親と同じ世代のプチ長老たちに愛想笑いを振りまいているうちに、長男こそが少々おかしくなってしまっていたのかもしれない、と思うのは、きょうだい全員が爆発する通夜の席で、長男の爆発が、それまで抑えてきただけにインパクトがあったから。
でも、それは、そこに至ってそうかなと思うだけで、観ている時にはこの哀れな犬のエピソードに心が痛み、笑えない、笑えないよう、これを笑えるエピソードにしないでよう、と思うばかりで……。
次男の同級生夫婦をむちむちカップルにして、ビジュアル的に笑わせようとしているのが、なんかバカにされているように感じて、ちょっと気分が悪くなってしまった。
おかしいなあ、普段だったらこういうことに素直に笑えるのに、猫と暮らし始めてから妙にクレーマーっぽくなってる。こういうのヤだなと思うんだけど、止められない。
でね、ちょいと脱線したけど、実際におかしくなっていたのは長男の方だったのかもしれない、という伏線だったのかなあと。ビニールバッグに入れた犬を放置したままなんて、ちょっと異常だもの。それに気づけなかった私がバカだったのかなあ。
でも劇中ではとにかく、精神を病んで薬をバリバリかみ砕いている次男の印象の方が強かったからさあ。演じる斉藤陽一郎は彼独特の、気弱だから強く出てしまうダメ男の様がとてもチャーミングで、あぁ、やっぱりこの人好きだなあと思うのだが、この役柄設定には若干のモヤモヤを感じなくもない。
今は、さあ……”精神がおかしくなった”とひと口でキャラ設定しちゃえるような時代じゃないと思うよ……。精神疾患は千差万別あるからさ……。
こういう、過去のトラウマと彼自身の弱さをサクッとその原因にしてしまうようなことに、かなりの抵抗を感じてしまう。で、犬はねて、クスリバリバリ飲んで、最後の最後には、精神病院のパンフレットを読みながらバスに乗ってる、だなんて、なんかそれこそ笑えないよ。
誰か救う人はいないのかなんて偽善的なことを言うつもりはないけど、”過去のトラウマで精神を病んだ”という一発で済ませようとしている気がして、そんな簡単なもんかなぁ、と思ってしまったのは事実。
そもそもリョウモウシカによって人生を狂わされた三きょうだい、なのだけれど、その展開に至るまでに凄く時間がかかる。最初にその尺を見ただけでうっと思った、のは、ただ単に私にコンジョーがなかっただけかもしれんが(爆)。
でも、幻のシカにホンローされるという面白さを主軸にするなら、人間ドラマをあそこまでてんこ盛りにしなくてもいいんじゃないか、とは思ったかなあ。
まあつまり、キモに至るまでにちょっと疲れちゃったの(爆)。正直中盤までは、まあ確かに古い看板に中傷の落書きがされていたりと、彼らのトラウマをちょこちょこ喚起させはするんだけど、危篤状態の父親が死ぬまでは、彼らはかつての同級生やらとそのキモに向かってゆっくりとウロウロしてて、長いなぁと感じてしまう。
シカはどこにいったの??と。まぁ私自身が犬ひき殺し事件にこだわっていたせいもあると思うが……。
三きょうだいの中で一番ハデに動き回るのが妹である。ダンナとの離婚問題を抱えて、故郷に帰ってきた。ベリーショートが良く似合う美人。この地元ではさぞかしぶいぶい言わせていたであろうという片りんをそこここに感じさせる。
実際、昔の恋人とのやけぼっくいに火がついたりし、その恋人の奥さん……彼女のかつての同級生でもある……と修羅場を演じたりもする。それが見事に、通夜の席で爆発し、後に元カレの逢瀬に使った高校であわや殺されかかったりもするんである。
この妹がねー……。後でオフィシャルサイトの設定を見ると、”駆け落ちの末出て行って、今は酒浸り”なんだと言う。酒浸り……?
確かに戻ってくるバスの車中でも、その晩、きょうだいたちで出来合いの総菜で簡単な夕食をとる場面でも缶ビールをすすっていたが、明らかに中身のない缶ビールを、それじゃ中身が出てこねえだろ、という角度ですする芝居で、こーゆーの、たまにあるんだけど、本当にガッカリしちゃう。そもそもビールはすするものじゃなくて、角度をつけてぐびっとあおって飲むものだもの!!
はすっぱ風にふかすたばこも、全然肺までいってなくて口先だけでオシャレに吹いてるだけ。まぁ、たばこを吸う人じゃないと難しい芝居なのかもしれんし、こーゆー描写は特に女優さんにはよく見かけるけど、酒飲みの描写には、ちょっと譲れないものを感じるなあ。
彼女を追っかけてくる旦那さんは柳憂怜。43という設定はいくらなんでもあんまりだと思う。私が子供の頃にたけし軍団の彼らはアイドル的人気を誇っていたんだから!まぁ見えなくもないからいいのかもしれんが、気になりだすと全てが気になってしまう。
彼が彼女と離婚にまで追い詰められたのは、「いまだに小説を書いていて、稼ぎがないから」だと語る。まだ書いてたんだ……とお兄さんは驚く。
しかし、小説を書いていた、と語られたのはこの一場面のみで、働くようになれば彼女は帰ってくると彼は言い、実際料理も上手い彼は気働きも出来るし、追いかけてきた先でせっせと働くのだが、だったらそもそも、小説を書いていたという設定はどこに行ったのだと……なんだったのだと……。
離婚の原因だと思われるほど彼が追求していたことだっただろうに、劇中では元奥さんを追いかけてきたダンナ、としてのキャラクターでしかない。だったらそんな設定は付すなよ……。
駆け落ち同然、ということは、彼もまたこの地の人だったんだろうかと思ったりもするが、そういう雰囲気は全然ない。町中が顔見知りのような状態、特にリョウモウシカの問題でこの村社会を騒がせたきょうだいたちは誰もが知る人物なのだが、妹のダンナに対しては完全に他人扱い。
だったら駆け落ちというのはどこからの話なんだろう……一度地元を出ていたら駆け落ちも何もないと思うのだが……。
そもそも親との関係性は、描き込み具合として不満が残る部分でもある。今や危篤状態の父親との関係は、無口で暴力までふるう父親、しかしきょうだいたちがリョウモウシカを発見した、と表彰まで受けた時には満面の笑みを浮かべていたという。
「あんなに嫌っていたのに、死んでしまうと気になるんだね」と言う妹の台詞は、案外皮肉にも聞こえない。
そして、そのずっと前に死んでしまった母親に関しては、墓参りに行くエピソードぐらいで全く語られない。こんな人生を歩んできた彼らにとってはかなり重要なバックグラウンドだと思われるのだが、確執があった筈の父親に関しても、死を挟んでの、通夜の席できょうだいたちのストレスが爆発するための機能にしか思われない。
それならそれでいいのかもしれんが、その割にはそれなりに父親との確執を口にするもんだから、どうにも居心地が悪いんである。
この妹のキャラは、いかにも男性が考えそうな魔性の女で、ちょっとモヤッとしたなあ。元カレを屈託なく誘惑して、屋上で花火にはしゃいでくるくる回るとか、それこそ自分で言ってる30過ぎた女がやることじゃねぇだろ……と思ってしまう。
この元カレの今女房も微妙で、こういう女にピリッとくる気持ちは充分すぎるほどに判るのだが、「もうこんな時間、夕飯作らなくちゃ。主婦ってめんどくさいよね」と無邪気に言う様に、この妹じゃなくても胸がざらついてしまう。
作り手さんは、旦那の愛を無心に受け止めて生活している彼女に対しての、この妹の心のざらつき、という表現のつもりなのかもしれんが、フツーに女として、こーゆー女には胸がざらざら、ざらつくよ。
そーゆーあたりがいまいち判ってもらえていない感覚が、そこここにあるのがもやもやするのかなぁ。
出まくりの染谷君だが、本作には友情出演のテイ。ほんと、出まくりだもんね……。そういう時期はあるんだとは思うが。
同じ友情出演のクレジットを重ねてる奥さんの凛子さんが、友情出演らしいチラ出なのに対し、彼は長男の友人の息子という、設定的にもかなり近しい、そして重要なキャラクター。
長男の友人は僧侶で、政治家。つまりかなりの生臭坊主。こいつにそそのかされて投資した日本茶ビジネスで失敗した長男、という設定もまた、傾きかけた工場を何とかするために、という口実が余計にわざとらしい気がして余計な気がしたが、染谷君を引っ張り出すために必要ということだったのかな。
父親のため込んだワイロを盗み出しませんか、と誘う彼は、最近染谷君によく振られるタイプの、ダラッとやる気のないイマ風男子で、イマ風男子という時点でちょこっと古い感じがするし(爆)、スマホを黙ってサーサーなぞっているというのも、いかにもだよね。
これが一昔前ならガラケーでポチポチやってる、というところだったんだろう、そしてさらに一昔前なら……と予測出来てしまうあたりが、イマ風と言いつつ、ワカモン描写としての想定が逆に古いんじゃないかと、最近では思ったり……。
もう今は、そこでは勝負できない気がしちゃう。そして彼は定石通り、アホな大人から金を取り上げてボコボコに足蹴にしちゃう。ありがちだなあ。
しかし、あんなチラ出なのに、凛子さんのクレジットデカすぎだけどね。あれ、ひょっとして妹とバトルするあの奥さん??と思っちゃったよ……。
最終的に、兄は工場を手放し、次男は施設に入ることを決意し、妹はダンナが離婚を受け入れてそれぞれこの町を出て行く。
妹は、こんなダンナを手放しちゃもったいないと思うけどねー……最後の彼女の顔はそんな風にも見えていたように思うけれど。
そもそも、元カレの奥さんに子供が出来たことを明かされてひるむ設定に、それを盾に泣いて彼女に別れを迫る奥さんに、フェミニズム野郎としてはかなり吠えたい気分もあるのだが(爆)、もう言い過ぎたからヤメとく(爆)。
私はただ、のえち(愛猫)のことを思って、犬を愛する家族の描写が痛ましかっただけ。
それを懺悔した次男に対し、幼馴染がそれまでのいいヤツキャラから急変しても、そのインパクトが見せたかっただけじゃないかって、つい思っちゃう。
最後には三きょうだい全員で、子供の時発見した、そして嘘つき呼ばわりされたあのリョウモウシカを目撃する。そしてさらりと解散。落ち着くところに落ち着いた感は、お約束感の物足りなさもあったかなあ。
リアリティバイツのポスターは、監督さんの趣味かなあ……年代的に……ウィノナファン??★★☆☆☆
SABU監督だから、社会派だのヒューマンドラマだのを期待する訳では確かになかったけれど、それにしてもかなりキテレツな世界観でドギモを抜かれる。ええっ?SABU監督ってこんなんだっけ……みたいな。
そもそもこの舞台、雑多な強烈に湧き上がる沖縄の熱気というか熱風というか、そんなものに圧倒されて、なんで沖縄??と思ったら、監督自身が数年前から居住しているという。ええ!なんで!なんでってこともないが……。でもオドロキ!
だからか、この見たことのない、肌の圧着感があるような、入り込んでいる感じの沖縄っていうのが!伝統芸能をふんだんに取り入れているから一歩間違うと観光映画のように見えてしまいそうになるけれど、決してそうはならない。この題材にピタリと寄り添った、まさに神に捧げる祭り。そして住んでいる人間たちの誇りを強烈に感じる、土着の祭りなのだ。
その中に、まるで真逆ともいえる展開の人間がふわりと降り立つ。それが松ケンだというのが、確かになるほどと思う。ただでさえ青森男、いや、でも彼自身はすべてを飛び越えるボーダレスだし、何より天の上の住人の筈が、いつのまにやら土佐出身のヤクザ男になっているのだから!?
こんなムチャクチャな設定を松ケンに振れるのはSABU監督ぐらいなもの!まあ確かに松ケンは、今までもムチャクチャな役をやってはきたけれども……。
彼のいいところは、それらに何の躊躇もないところ。カメレオン俳優などと言うのはカンタンだけど、なんていうのかな、白紙を通り越して無色透明、普段は田舎の気のいいあんちゃんという感じが何より好き。
そしてこういう役では如実に感じるんだけど、実に楽しそうに演じているのが何ともイイのだ。そう、松ケンでなければ多分、私はこの作品に引っかからなかった。
正直、南西地域は苦手エリアに入るので(爆)、沖縄は行ったこともないのに勝手に苦手意識(爆)。基本、酒の基本が日本酒でないところはダメなんである(爆爆)。
沖縄の祭りは、自分たちが今生きている権利をものすごく主張する圧で迫ってきて、普段のストレスを発散するような私の中での祭りのイメージと違って、これまたなかなかにハードルが高いんである。
でもその中で、天から降りてくる松ケン演じる茶助は右往左往して、そんな私の戸惑いを体現してくれる。思い切りピュア。私の中での松ケンのひとつの大切なイメージ、それが茶助にダイレクトに反映されている、気がした。
SABU監督との初タッグ「うさぎドロップ」で意気投合しての連投ということで、そのこと事態は素直に嬉しい。ちょっと作品が微妙な気はしないでもないけど……。
ざっと概要を示してみると……。基本的にはファンタジー。人間の運命は天界で、無数の脚本家によって書かれている筋書きによって決まっている。
ターン!と広げられた長い長い巻物に、白装束の無数の脚本家たちが、さらさらさらさら、と墨を含ませた筆で達筆に人々の運命を綴っていく。あたりには深い霧が立ち込め、実に神秘的なイメージである。
松ケン扮する茶助は茶番頭。脚本家たちの間を歩き、茶を提供する下っ端さん。彼は下界の人間たちの人生が、どの脚本家によってどんな風に左右されているかを熟知している。
その中で、恋に似た感情を持っている女性がいた。過去の出来事で声、というか言葉を失ってしまったユリ。彼女を書く脚本家も何とか彼女にしゃべらせ、幸せになってほしいと尽力していたが、ヨコシマな脚本家に横やりを入れられ、彼女は車にはねられて死んでしまう運命になってしまう。
このユリを演じる大野いと嬢は、初めて見る。声を失ったという設定で、最後の最後に彼のためだけに言葉を発するんだろーなー、というオチはかなりミエミエで(まさしく、その通りだった(爆))、全てはそこに収れんさせていく意識をかなり感じてしまう。つまり、それ以外の魅力を正直あまり感じられなかったので、ちょっと困ってしまった(汗)。私は基本的に女の子LOVEなので、そんなつまらないことは言いたくないのだが……。
松ケン目当てということが強く作用してしまったのかもしれないけど、でも松ケンしかり、伊勢谷友介しかり、SABU監督作品のイコン、大杉漣やら寺島進しかり、この色気も男気もタップリの男たちに女たちがどう立ち向かうのかが、大きなポイントになるのだもの。
この中では松ケンなんぞは(などという言い方をついしてしまう(爆))かなり淡白な方な筈なのだが、彼はなんたって無色透明の天才俳優だから(照)、個性の強い役者たちとの化学反応に自分から染まっている面白さがある。
正直、彼女は弾き飛ばされちゃった感があるなあ。設定的にはかなりのミューズ。茶助は恋をしているし、彼女が常連客だったラーメン屋の店主、彦村(これが伊勢谷友介)も彼女の回復を心から願う訳。
あれれ、彦村が彼女の命を救いたいと茶助に懇願するから、ここに三角関係が勃発するのかと思いきや、うやむや、にもならない(爆)。
その後は茶助が人の病を救える能力があることが話題になって全国から人が集まってしまう、という展開に慌ただしくなってしまって、あれ、そもそもユリの命を救う段取りの話じゃなかったんだっけ、とちょっとコンランしてしまう。ユリもフツーに茶助の人助け仕事を手伝ってるし。
天界から脚本でサポートする、という約束が、劇中、ハッキリと判る形で示されなかったのが、このコンランの要因だったような気がしている。ユリの命が助かった時点で大団円、というシナリオ(それこそシナリオ)がついつい観客の中で出来上がってしまっていたから、それを乗り越えた後の展開と、人物の相互関係に悩んでしまうんである。あれ?ユリが助かったのにまだ茶助はここにいるの??みたいな……。
最初の、ユリを助けるべくのタイムアクションはかなり見ごたえがあった。女にフラれてやけになった男が非情にもユリをひき逃げしていく、という場面を阻止するために、地上に降り立って出会った大杉漣扮する骨董屋の主人、種田や、ラーメン屋店主の彦村を利用(と茶助本人は思っている)形で、間一髪で助けようとするのだが、いろんな予想外が重なって、茶助ともどもユリははねられ、意識不明の重体。
その間、一緒に大けがをした茶助が意識を回復、なんかいろいろ大暴れして思いがけない自分のアイデンティティを取り戻していく、というくだりが最も戸惑いの部分。
ユリを助けられず、自暴自棄になったのか、あるいはなんか本能のまま突き進んでいったのか……。
ユリを懸命に救い出そうとした時のように、沖縄の雑多な路地をやみくもに突っ走るシークエンスは確かに躍動感タップリで、心を揺さぶられる感があったんだけど、あれ、あれれれ、なんか重大な事態に陥ったのにユリほったらかしじゃないの……と思ったり……なんかそういう感覚はそこここに感じる。細かいこと言うのはつまんないけど。
結構ナレーション過多、なのよね。それ自体面白いし、飽きることはないんだけど、これがそもそも、SABU監督自身初の長編小説がベースになっていると聞くと、ああ、それでかな……などとついつい思ってしまう。
いや、面白いんだけど。松ケン自身のナレーションの味わい深さも、良かったしさ。でもなんか、説明、説明、な気がして!!それこそ原作が小説だと聞くと、メッチャ地の文、という気がしてしまう。
茶助を最初に拾ってくれた種田、ユリとつながる彦助。それぞれに波乱万丈な物語がある。とりわけ彦助はホームレス同士の両親のもとに生まれ、父親が特定できないために10人もの父親に育てられた、という特異なエピソードを持ち、そのために強烈なトラウマを抱えてここまで来ている。
最愛の恋人を海難事故で失っているのだが、ゴーストやらタイタニックやらの描写を取り入れ、もちろんそれを茶助自身が、安易な脚本だとくさすんだけれど、それ以前にかなりのウンザリ感(爆)。
コメディは、自虐する前に観客がそれを感じてしまったら、もうダメだと思う(爆爆)。で、ゴーストコメディで作った大量の鉢で恋人との記憶を忘れないためにラーメン屋を開業した、と。うーむ。
冒頭で解決すべき問題が示されているから、てっきりユリを助ければ大団円かと思いきや、もう一つの、こっちがメインてな問題があるんである。
脚本家によって勝手に書かれた人間の不幸に茶助は激怒し、足が不自由な男の子を自らの手で治してから、治してほしいあまたの人たちが押し寄せてくるんである。
茶助は頭痛と吐き気に襲われながらも、それに従事し続ける。なんたってその能力でユリも死の淵から救い出したのだからと。勝手な脚本家たちを見返してやろうと、来る日も来る日も人を治し続けるんである。
若干の、違和感がある。こういう設定は今まで、なかった訳じゃない。結構聞いた覚えがある。いわゆる超能力的な力を持った人が、人々の病気を治す。でもそれはその病を自分が受け入れているだけで、本人が次第に疲弊し、衰弱して、ついには死に至ってしまう。
自己犠牲の精神を、非常に皮肉な形で明確に示す。つまり本末転倒とか、自分が元気でいなければ何にもならないとか、そういうシンプルなこと。
それを本作は、人間が襲われる不幸(主に不治の病)が神の仕業だと考える時に、それに対する反発、としてメッチャクリアに示すんだけれども、だったら茶助はどうなるの、という部分がアイマイのままになってしまった感がしなくもない。
途中、茶助は人間であった記憶をよみがえらせる。つまり彼は純粋な天上の人ではなく、下界の俗世にまみれた人間だったのだと。だからこそ脚本に描かれているだけの理想的なユリに恋をして、ムリをして下界に降りてくる決心もついたのだろう。
脚本家たちだって、きっとそうだろうと思う。茶助と同様にユリを助けたいと思うから、茶助を下界に下ろしたのだ。そういう場合、当然彼らの上に立つ強大な力が存在することで翻弄され、本作にもその存在への恐れは描かれている……一応。
……一応、って感じかなあ。かなり、行き当たりばったり感が強かった気がする。途中からは完全に天上の存在を忘れているし、脈絡もなく殺し屋が登場したりする。
まあこの殺し屋も脚本の中、あるいはその強大な存在の中に隠されていたのだろうとは思うけれど、病やケガを救う天使様としてあがめられるようになってから、茶助はスッカリ天上の存在を忘れているような感じになるし……というか、展開自体が、天上からの人のファンタジーから、奇跡を起こす人のファンタジーにすり替わってしまっているというか。
個人的には、ユリの運命を邪魔する存在、双方白塗りのキンコメ、オラキオにかなりの衝撃を受ける。キンコメ君は「くそガキの告白」で既にノックアウトされており、こんな隠し玉を、他のクリエイターはなんで使わないの!!と思っているが、まあドラマとかでは充分売れっ子なのね(無知のよくあるパターン(爆))。
本当に、この芸人さん二人の異様な白塗りのインパクトが、本作をファンタジー以上の異様さに化学変化させたと思う。特に今野君のキンキン高い声と、自分以外の正義はないと思わせるような雰囲気が圧巻で、見えない強大な力より、不気味なヒットマンより、彼からは逃れられないという恐怖に満たされる。
頭ぶち抜かれた後ですら、その不気味な白塗り死に顔(粉吹いてる感じ)がよみがえり感満載で、ゾワッとくるのよね……。こんな先天的素質を持ってる役者さん、なかなかいない!!
全ての人を治しきれなくなって、雑踏に迷い出て、祭りに巻き込まれる茶助。ヒットマンに撃たれる。それをかばってユリが撃たれる。最後の力を振り絞って彼女の命を取り戻し、茶助自身が息絶える。その彼を何とか救おうと、祭りのみこしにのせて行こうとするもなかなか進まない。ユリがたまらずみこしによじ登る。茶助を揺さぶる。ついに声を出す。「茶助さん、茶助さん、茶助さん!!」
かなーり予測していた展開だったので、落ち着いて見ている。そして彼女の声で目を覚ますというのは、それ以上に予測している展開である。うーむ、かなりキツい(爆)。いや、ファンタジーというのはお約束でなければいけない。いけないとは思うが……。
茶助の妹として、土佐から出張ってくるメチャ子こと早乙女茶子に扮する玉城ティナの豪快な土佐弁がカッコ良かった。彼女が最も真実を言っていた。日本中からお兄ちゃんに治してほしいとやってくる。治せない人がいれば、お兄ちゃんのせいになるんだよ、と。
順番を待たされて激昂する人たち、という描写は人間の自分勝手さを示す上でかなり凡庸だと思ったが、メチャ子の言葉は判ってそうで判ってなかった事実だと思った。★★★☆☆