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「く」


2016年鑑賞作品

グッドモーニングショー
2016年 104分 日本 カラー
監督:君塚良一 脚本:君塚良一
撮影:栢野直樹 音楽:村松崇継
出演:中井貴一 長澤まさみ 志田未来 池内博之 林遣都 梶原善 木南晴夏 大東駿介 濱田岳 吉田羊 松重豊 時任三郎 遠山俊也 小木茂光


2016/10/30/日 劇場(TOHOシネマズ日本橋)
こういう、笑って泣けてハラハラして溜飲が下がる、ザ・エンタテインメント映画が時々無性に恋しくなる。普段はちょっと粋がってあらゆる隅っこをつついているけれど、やっぱり映画はエンタテインメントだよなぁと思う。
それも、老若男女に訴求する作品、そしてそれを作れる作り手っていうのは、これが案外といないもんなんだよなあ。エイガに妙なプライドを持っている作り手も多いし。

君塚監督はその点で、テレビという思いっきり大衆感覚に対してもプロフェッショナルな、作家性もイヤミなくある、非常にバランス感覚に長けた才人。
気楽に笑って観ていたけれど、一つのワイドショーに関わる人たちを、それぞれに思いっきりプライドがある人たちを、これだけ多くのそんな我の強い人たちを、まず見事に脚本で書き分け、演出でさばききるっていうのは、凄いことだと思う。

しかもその中で主人公のキャスターは“落ち目”。若い共演者のパワーが渦巻く中でも不利と思われるのに、ふわりと笑わせてくれる。まあそれは中井貴一という芸達者の力量でもあるけれど、でも、やっぱり凄いと思う。
そして私的には何より、困ったちゃん女子アナ、長澤まさみ嬢のはじけっぷりが嬉しいのであった。彼女にはその底抜けの笑顔をいつも見せてほしい。私が恋に落ちた「ロボコン」からそれを、ずっと思ってきた。
多感な時期にシリアスな役が集中したこともあって、凄くもったいないなあと思っていたので、ことにこの数年の、まさに花ほころぶがごとく開花した明るさと色気に、もうほんっとうに嬉しくなっちゃうんである。
彼女にしっかりとコメディをやってほしい。綾瀬はるか嬢の牙城を崩してほしい。それが出来る人だと思うもの!!

おっと、まさみ嬢ラブでついつい突っ走ってしまった(爆)。彼女がどんなにぶっ飛びでも、やっぱり花があるからさあ。
まさみちゃん扮する思い込みの激しい女子アナ、圭子ちゃんにホレられてる、っつーか、私たち愛し合ってるから!と誤解されているのが、中井貴一扮する“落ち目”のキャスター、澄田真吾。落ち目、というのは、彼がバリバリの報道キャスターだった時に、中継のはざまでヤラセと誤解される場面を抜かれてしまったから。
実際は誤解だったのだが、それを言ってしまったら傷つくのが子供だということで、彼は沈黙を貫き、そして今は朝のバラエティ番組で、スイーツに舌鼓を打ったりし、息子からもケーベツされてる始末なんである。

澄田は朝三時に起きて出勤する。家族にとっては深夜である。だから、妻や息子が“起きて”いると、「まだ起きていたのか」と彼は言う。
冒頭のシーンは、すっかりすれ違ってしまった家族の描写で、しかも一人息子は付き合っている彼女に子供が出来たから結婚するという。それを目も合わせずに、まあそんな訳だから、みたいな感じで言う。
澄田が通り一遍の、きちんとした仕事に就いてから、みたいに叱りつけようとすると、「そんなこと言えるの。スイーツ食べてはしゃいでるだけじゃん」と吐き捨てるように言われてしまうんである。

なんつーか、彼自身はそれに反論も出来ずに出社。共演者の圭子からは、「私たちの関係、生放送で発表しちゃいますから」と同じタクシー出勤でカーチェイスさながらの並走で告げられ、万事休す。
こんなことまで言われるんだからてっきりそれなりの関係まで結んでいるのかと思いきや、オフィシャルサイトの解説的には、皆と同じように優しく声をかけただけなのに、思い込みが激しくて、ということらしいが、そうかなあ……。
だって、全てが終わった後、澄田は妻に「謝らないといけない」と言ったじゃない。やはりなにがしかはあったということじゃないの?そうじゃなきゃ、つまらないなあ。

まぁ何にせよ、あの殺人的な笑顔全開で脅迫(と彼女は思っていないんだろうが)はサイコーである。女子アナ役だけれど、この作品の中で唯一、この職業だけはプライドをもって描かれていないのが、イイんである。
そんなこと言ったら怒られちゃうかもしれないけど、報道や芸能やグルメ担当のスタッフたちが、自分たちのネタこそ重要!!と目を血走らせ、中継ならオレに任せろ!とどんな危機をも乗り越えるスタッフ、他局が得てないネタを番組中に必死に収集するスタッフ、その他もう大勢、プライドのガチガチのカタマリのスタッフたちが走り回る中、女子アナ、つーかまさみちゃんは澄田との関係(妄想だけど)をバラすことしか考えてないんだもの。
でもね、でも、最後の最後、彼女はオイシイとこ持ってくのよ。そこがまた、君塚監督の上手いところなんだけど!!

そんな、プライド満タンの若きスタッフたち、芸能熱愛ネタがトップに来て歯噛みする報道熱血青年、林遣都君に萌え、その独占スクープがトップを獲ったことにガッツポーズするも、緊急ニュースに持ってかれて絶叫する木南晴夏嬢に圧倒され、しかし最もおいしいところを持ってったのは、中継ならオレに任せろ!!な大東駿介君であろう。
こういう時のために!!!と次々繰り出すウラワザメカテクに結果的には独占映像を独り占めにする訳だが、こういう状況なんて、可能性としては1パーセントだってない訳で。その情熱の愛しさ。そしてそれは、このスタッフたちに大なり小なり共通していることでさ。

物語の最初にね、澄田に引導が渡されている訳よ。プロデューサー、石山は時任三郎。私なんかの世代は、この二人を見ればおお、と思う世代なのだろうと思う。私は見てなかったけどさ……。
彼は結果的には澄田に見事な復活をさせたけれど、番組打ち切りを言い渡した時は、そんなつもりもなかっただろう。流れに任せろ、そんな感じ。決して友情に厚いという訳じゃなかっただろう。

澄田はカフェの立てこもり犯に、まあいわば逆恨みされて名指しされて、現場に向かう。局の反対を押し切って石山が澄田を現場に行かせたのは、彼の復活を願う友情なんかじゃなくって、そこはそれ、テレビマンとしてのしたたかな計算以外の何物でもなかった。
勿論それを澄田だって判っていたし、最終的にその後押しをすることになった圭子だって、同じ世界でメシを食ってんだから、判っていた筈。

自分の息子と同じような年の犯人に名指しされる形で現場に向かった澄田が、息子への想いを口にし、それをテレビ越しに見ていた息子が感激しかけたところで澄田の妻が「ウソに決まってるでしょ、アナウンサーなんだから」と切って捨てるあたりにもそれは象徴されてるよね。
この場面は、冷徹なヨーさんの物言いに思わず噴き出しちゃったけれど、確かにその通りだと思う。ヨーさんが元女子アナというのも、まるで往時が想像されるようにピタリである。中田有紀的な、ねぇ。

カフェに立てこもっている犯人は、濱田岳。彼の絶妙な背の低さと、独特の思い詰めたような顔立ちが、こういう役柄にひどく似合う。昨今社会問題になっているブラックバイト問題、勿論、ブラック企業も問題なのだが、バイトとなると、殊更にその社会的地位を侮蔑する側面が加わり、追い詰められているのだということが明瞭に現れる。
これだけのザ・エンタテインメントで、濱田岳という優秀な役者を得ていることもあるけれど、見事に現代の社会問題をあやまたず狙い撃ちしていることにも舌を巻く。

ただ、彼の本当の目的というか、心の奥底でため続けていた気持ちは、もっと個人的というか、アイデンティティの問題で、きちんとそうした、普遍的な人間の心の闇にも迫っているのが、まあもう、こうなると出来すぎと思うぐらい、上手いのよね。
彼はきっと、友人さえもいないような人だったのだろう。そこんところは明確にはされない。ただ、バイト先の火災でニュースに取り上げてもらったことから、あの人なら僕の悩みを聞いてくれるかもしれない、と思った、だから出待ち(入り待ち?)して手紙を渡そうと思った、だけどこちらを見向きもしなかった、そのことで、恨みを募らせた。

このエピソード一発で、友人さえもいないのだろう、と推測させる描写力も上手いし、上手いだけに……辛いのだ。有名人ではあるけれど、結局は見も知らぬ他人に“無視”されたことが、自分は見えていない、抹殺されている、この世に存在さえしていない、存在を許されてもいないんだという思いに行き着くのが。
そしてね、こんな暴挙に出る彼に澄田は、しきりに家族が悲しむ、親御さんが悲しむ、と声をかけるでしょ。かなり、ヒヤヒヤした。だって彼に親がいるかどうかなんて、なぜ判るの。
澄田の感覚って、凄く昔っぽいんだよね。昔の刑事ドラマなんかだとさ、この台詞は定番というかテッパンというか。誰しも親がいて、親は子供のことを思ってて、犯罪を犯したり、死んだりしたら悲しむ、それが当然の方程式、みたいな。

結局、彼は、親が悲しむ云々という言葉に心を動かすことはなかった。友人の存在もそうだけど、親の存在も明らかにされることがないことが、そのあたりのさりげなさが、上手いなあと思って……。
親がいたとしても、悲しんでくれる親かどうかなんて、判らないじゃない?もう、そういうことが判ってしまう時代になった。いつだって、どんな時代だってきっとそうだったと思うのだけれど……。

犯人の心を溶かしたのは、日本中の視聴者の意見。こんなことをしでかす犯人は死ぬべきか否か。だけど本当の調査結果は、死ぬべきというか、テレビマンの分析結果としては“死ぬところを見たい”という……。
このアンケートを提案した圭子は、プロデューサーが調査結果を逆転させたことを知ってか知らずか、感動的な呼びかけをして、犯人の心を溶かす。いや、プロデューサーがその決断をしたのは、澄田のツーカーの合図、“ウソをついてくれ!”のアゴかきかきであったのだが。

死ぬべき、と死ぬところが見たい、てのは、大きな違いがある。劇中では死ぬところが見たい、と言い換え、それもまた人間の残酷な欲望ではあるけれども、簡単に、死ぬべき、と思うのが人間、とも思うんである。
ことにこういうワイドショー的な場面、そしてバックボーンが何も見えないまま、百パーセント悪人として中継され続ける状況で、気楽にテレビの前にいる人間は、死んだ方がいいんじゃね?ぐらいに思う、かもしれない。

いや、軽く思うならまだいいのかも。時にこうした、ただ起こったことだけを報道したり、それならまだしも、ロクに取材もしないまま、善悪の方程式を決め込んでの、それこそワイドショー的な報道は、こういう、ワレこそ正義で、悪人を裁く、みたいな感覚に陥らせやすいのだ。
それを軌道修正させる“ウソ”には人間の善意を感じてホッともするけれど、悪を主導しているのはこっちなのに、修正し、世の人たちを導く、みたいな雰囲気も感じて、ちょっとヒヤリとしたりもする。

そんなこと言って、せっかく楽しいエンタメを台無しにするのはもったいないんだけどね!あらら、なんか、せっかく楽しい貴一さんを堪能すればいいだけだったのに、ごめんごめん。 ★★★★☆


クリーピー 偽りの隣人
2016年 130分 日本 カラー
監督:黒沢清 脚本:黒沢清 池田千尋
撮影:芦澤明子 音楽:羽深由理
出演:西島秀俊 竹内結子 川口春奈 東出昌大 香川照之 藤野涼子 戸田昌宏 馬場徹 最所美咲 笹野高史

2016/7/5/火 劇場(丸の内ピカデリーA)
もう、ホントにホントに、ほんっとうに怖かった。びくびくしながら身を縮こまらせて観ていた。
それは無論、香川照之の恐ろしさである。奇妙な隣人、この男がサイコパス、連続殺人犯であることは、もうその奇妙な恐ろしさから、最初から丸わかりのようなもんなんである。つまり、もう最初から犯人が判っている、バレバレ、みたいな。
だから犯人探しも真実探しも、実はそれほど重要じゃないのだ。なぜ見るからにコイツだと思われるほどの恐ろしいこの男に、誰もかれもが蜘蛛の巣にからめとられるように落ちていってしまうのかが判らなくて、本当に怖いのだ。一体何なの、香川照之という人は。もう本当に、役者バカどころかある意味奇人だ!!

香川照之ミーツ黒沢清の最初が、私にとっても二人に出会った最初だった。いや、厳密に言えば本当に最初ではない。黒沢監督のオリジナルビデオ作品やピンク時代の作品も観る機会はあった訳だし。でも、香川照之、黒沢清という才能にはっきりと打たれたのが、この二人が初めて出会った「蛇の道」だった。それは本当にはっきりと覚えている。
あの時の香川照之は、本作の圧倒的な芝居とはかなり違っていて、達者ではあるんだけれど、やっぱり若々しくって、テンション高めな感じだった。主演の哀川翔が黒沢監督と長くタッグを組んでいたこともあってしっくりきているところに、必死にぶつかっているような感じがあった。

確かあの時、香川氏自身も自分のそうした芝居に歯がゆさを感じた、みたいにインタビューに答えていた記憶がある。ただ私にとっては未知の、なんかとんでもない役者が出てきた印象が強く残っていて、だからなんか……あの時から20年近く経っての、このとんでもない役者の香川氏と黒沢監督が再び、というのが、なんか胸にすっと落ちる感じがしたのだった。
いや、「トウキョウソナタ」はあったけど、正直あの作品は全く印象に残ってなくて(爆)。その後のドラマ作品は観てないし……。

恐らく、私にとっては黒沢清という人はかなり難解な人で、よく判んない作品もいっぱいあるし(爆爆)、でも明瞭なのは、ホラー作家とさえ言われていた一時期に確立した、しんしんと迫りゆく恐ろしさ、なのだ。
そうだ、黒沢清といえば恐怖映画であると言われていた時代が確かにあったのだ……。今やヒューマンドラマを手掛けて世界的にも著名な監督さんだけれども、でもどんな映画を撮っていても、やはりどこか、彼の映画は怖かった。

画が独特の艶消し。黒が塗り込められた黒、そんな感じがするのは、彼が信頼するカメラマンとずっと同じく組んでいるからなのかもしれないけれども、やはりそれが、黒沢カラーだと思う。
それが、最も似合う役者が香川照之であり、奇妙に歪んで、ひどく恐ろしいのだ。彼の前では普通であることは通用しない。彼自身も普通を身に着けている。表面的に。だから本当に恐ろしい。

そう、もう犯人なんて最初からハッキリとしている。だってこの映画の惹句で既にバラしちゃってる。「あの人、お父さんじゃありません。全然知らない人です」この台詞自体、ゾッとするほどのインパクトがあるけれども、もうそれ、宣伝段階、ポスターでもバーン!!と示しちゃってるんだもの。
そんなことって、ある??と思うが、そんな切り札を最初から出してすら、本作の恐怖の魅力は失われないのだ。それどころか、あの“娘”がその台詞を繰り出してくることを、じりじりと待ち続けてしまう。

そうか、西島秀俊も黒沢組四度目、もはや常連といった趣だが、彼はもう認知度が定まってからの参画だったから、黒沢組というよりは、香川氏とのタッグのワクワクの方が強い。
不思議と縁があって、しかもネームバリュー的に当然とはいえるが、ダブル主演なガチ対決で楽しませてくれる。

西島氏が演じるのは元刑事。冒頭は、まだ年若い連続殺人犯の取り調べシーン。「完璧なサイコパスだ。あんな貴重なサンプルはめったにお目にかかれない」と、取り調べの延長を頼み込むシーンから既に、彼が正義としての刑事ではなく、学究肌、いや言ってしまえば俺がそのミステリーを暴くんだというような、制圧型に見えなくもなく、彼は正義側の人間ではあるんだけれど、ひょっとして一歩踏み間違えたら、案外危ない人なのかも……と思わせるような危うさがある。
そこが西島氏の端正な風貌もあいまって、絶妙なのだ。彼はこの若いサイコパスに興味と、……恐らく、それなりに研究を重ねたというおごりがあって、ミスを犯した。取り調べ中に逃げ出した彼が人質に取った一般人を助けられず、自身も手傷を負ってしまったのだ。

そして、仕切り直しのように、一年後から話は始まる。西島氏演じる元刑事、高倉は刑事を辞め、大学で犯罪心理学を教えている。
生活拠点も改めた。一年後の始まりは、引っ越しの片付けのシーンから。そして隣近所へのあいさつ。隣も、隣の隣も、何か奇妙に取りつくしまがなかった。特にお隣……香川照之扮する西野とその娘と思しき少女の出入りしか確認できない家は特に。

高倉の妻、康子は挨拶に行って対峙した西野の奇妙な言動に不快感を持つ。なんていうか、整合性が合わない感じなのだ。彼女はただ、「感じの悪い人」と言ったけれど、そんな単純な感じではない。かみ合わない、というか、こうした社交辞令の流れから予測されるような台詞が返ってこない感じ。
だからそれは、ある意味では形式化された日本社会の悪しき習慣を糾弾するようにも思えるのだが、そこを突いただけで西野のような奇妙さが現れてくる、という日本という国こそが、恐ろしいことなのかもしれない。
分厚くはためくビニールカーテンが何ともブキミで、そこからうわっと何かが出てくるビクビクを、始終感じていた。そこからは何も出なかったけど。

……という、冒頭からツカミはOKな感じである。この西野の奇妙さに引きずられて実は気づきにくくなっているのだが、高倉夫妻も決して、いわゆるフツーな夫婦ではない、のかもしれない、ということを、観終わってからようやく、気づくんである。それが、このサイコパスにつけこまれる隙であったということなのか……。
冒頭、引っ越してくるシーンから始まる。夫があの失態にトラウマを抱えていることは明らかである。なんたってそれで、刑事を辞めて転職したぐらいなんだから。

まるで観客に対する説明的な台詞のように、今の職場環境の心地よさを説明する高倉。つまりその時点で、不自然なのだ。彼は刑事を辞めたって、犯罪者の心理への興味から離れられない。
でもそれが容疑者に対する刑事という立場とか、データとしての犯罪者を研究する学者という立場ではなく、隣人、というプライベートに立ち入ってしまうことによって、それどころじゃなくなる、んである。

一家失踪事件、一人だけ残された娘。大学の同僚の研究テーマと、かつての同僚であった後輩刑事からの依頼によって動き出した真相究明が、まさか彼自身の奇妙な隣人に結び付くだなんて……思わず、そりゃないだろ、ご都合主義にもほどがある、と言いたくなるが、黒沢節に押し切られて、てゆーか、香川氏、西島氏双方の鬼気迫る芝居に押し切られて、そんなことも言えなくなっちゃうんである。

一人残された娘から真実を引き出すことに彼は没頭しだす。最初に、これは自分の趣味だ、でも本気です、とハッキリ言い渡すのは潔いとは思ったが、趣味で本気、というのが抑えきれなくなって、彼女からも拒否反応を示されてしまう。
そうしているうちに、妻がからめとられていることも知らずに……である。妻の康子は竹内結子。彼女がなぜ、決定的に、西野にからめとられたのか。不思議ではあるが、不思議というより、そここそが恐怖なのかもしれないと思う。
そもそも先述したけれど、高倉夫婦そのものが、どこか不自然なのだ。不自然、というのは、黒沢恐怖の一つのキーワードであるとも思う。何かがおかしい、かみ合わない、普通そうに見えて絶対に何かが違う、とじわじわ感じさせる恐怖。

瀟洒な一軒家、おっきくて優しそうな犬、向かい合って食べるオシャレ夕食、お互いの異変にすぐ気づく距離の近さ……。でもそれは、何か、出来すぎているのだ。
異変に気付いたとしても、彼らは相手に負担をかかることを恐れてなのか、もわっとしたところだけで明確な真実を言わない。そのことが、西野という怪物を追い詰めることを遅らせた。
そしてそれは……、今の日本の、子供を持たない(持ちたいのかもしれない、ということも含めて)夫婦の、秩序だっているがゆえに、無秩序というぶつかり合いを生み出さない、あるいは避けて通る弊害なのかもしれない、などと思う。何でも話し合うなんて、一人対一人では所詮無理なのかもしれない。子はかすがいとはよく言ったものだと。

ちょっと話はズレましたけれども(爆)。てか、西野、とうっかり言ったけれども、西野じゃないんだもん。本当の名前なんて、最後まで判らない。そういう意味では真のモンスター。
便宜的に西野、と言うけれども……西野は、犯罪者になりたくない犯罪者。サイコパス。連続殺人犯。実際にはからめとった他の人物に手を下させるんだから、殺人犯、という呼び方にはならないの?

他の人物、というのは圧倒的に身内の人間。家族ごとからめとって、クスリを使って、身内の人間によって殺させるんである。
そして死体は布団圧縮袋。ではないのかもしれない……人間が入る布団圧縮袋なんて、ないよね。つまりはそういう仕組みで、でっかくて丈夫そうなビニール袋に押し込んで、業務用掃除機みたいなので完璧に真空状態にする。
いや、完璧というのはあり得ない。燻製みたいな生乾き状態の死体が発見された現場で、捜索した刑事は、その異臭に必死に鼻を押さえていたんだもの。

その刑事、というのが、家族失踪事件の一人残された娘への聞き取りを、高倉に依頼した野上。扮するのはこれぞ旬な役者、東出君で、何かかつての香川氏のような、一生懸命芝居な感じがほほえましいんである。
彼こそが、西野が西野ではないことを突き止めるのだが、なぜかそれを高倉に報告せず、単身乗り込んで、からめとられて死んでしまう。

こうした、なんで??という箇所はちょこちょことあって……最も顕著なのは、自身もイヤな思いに遭い、夫からも関わらない方がいい、と言われた康子が、「シチューが余ったから」などとゆー、しんっじられない、昭和かよ!!てな理由で隣家を訪れるというシーン。
まぁ、そういう不条理な恐怖こそがキモなのかもしれんが……えぇ!?あんたらなんで、行っちゃうの!!と心の中で絶叫しちゃったもん!!

康子がなぜからめとられてしまったのか、それこそホントにミステリーなのだよね。先述したけど、何かキレイすぎる夫婦生活。いやさ、今時、この年頃の夫婦で子供がいないのは不自然、などとは言わないよ。言わないけど、そのことには一切触れないのは、やっぱり不自然だと思っちゃう。
で、それこそ今時、子供もいないのに(爆。ゴメン!これは言っちゃいけない台詞!!)、ザ・専業主婦で、いつでもオシャレエプロンしてたりする、ってのが……なんか、恐怖なほどの、不自然、なのだ。それこそ今の日本だから、なんだけど……。

結果、西野(仮にね)は、クスリを使ってコントロールしてた訳で、ちょっと、なぁんだ、と思わなくもない。いやその、香川照之があまりに恐ろしいので、なんか本当に怪人というか、奇術的な犯罪者のように見える感も、あったから。
むしろ、彼に家族ごとからめとられ、父親の死体を真空パックにし、クスリ漬けにされた母親を殺せと強要される“娘”の運命の凄まじさの方が、さぁ……。そして最後の最後、“西野”が高倉に逆転でぶっ殺されて、狂喜に舞い上がる凄まじさが、さあ……。

高倉の妻、竹内結子嬢に関しては、どのタイミングで落ちたのか、なんか結構生々しい言葉で口説かれていたりしたし、なんたってワンコを手なづけられたという、ハタから見れば最も恐ろしい手口だから、見せてはいないけど、これは寝てんじゃないのと思ったけれども、微塵も出さないね。どうなんだろう……。

なんかね、映画となった本作は、原作とは違うオリジナルの展開だっていうのを、知っちゃったからさあ。もしかしてあちこちで感じる、なんでそこでその行動??ってのは、恐怖を作り出す緻密な計算なのかしらんと思っていたが、案外そういうところに原因が??
小説という深い世界に敬意を表しているから、映画化っていうのは、その原作を借りるってことだから、“原作とは違う”ってフレーズを聞くと、もうそれだけで凍り付いちゃうんだよなあ。黒沢監督の手腕だから、勿論そんなアレ(アレ?)はないとは思うんだけど……。★★★★☆


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