home!

「と」


2008年鑑賞作品

TOKYO!
2008年 110分 フランス=日本=韓国=ドイツ カラー
監督:ミシェル・ゴンドリー(インテリア・デザイン)レオス・カラックス(メルド)ポン・ジュノ(シェイキング東京) 脚本:ミシェル・ゴンドリー/ガブリエル・ベル(インテリア・デザイン)レオス・カラックス(メルド)/ポン・ジュノ(シェイキング東京)
撮影:猪本雅三(インテリア・デザイン)キャロリーヌ・シャンプティエ(メルド)福本淳(シェイキング東京)音楽:エティエンヌ・シャリー(インテリア・デザイン)イ・ビョンウ(シェイキング東京)
出演:藤谷文子/加瀬亮/伊藤歩/大森南朋/妻夫木聡/でんでん/光石研/入口夕布/峯村リエ/樋浦勉/森下能幸/石丸謙二郎(以上、インテリア・デザイン) 
ドニ・ラヴァン/ジャン=フランソワ・バルメール/石橋蓮司/北見敏之/嶋田久作/竹花梓/KaoRi/ジュリー・ドレフュス/児玉謙次/顔田顔彦/三原康可(以上、メルド)
香川照之/蒼井優/竹中直人/荒川良々/山本浩司/松重豊(以上、シェイキング東京)


2008/9/16/火 劇場(角川シネマ新宿)
よくもまあ、こんな個性派監督三人を揃えたもんだ。個性的だからこそ、彼らがTOKYOから何を想起するのかに興味津々。
それそれが外から見えるあるひとつのTOKYOであり、三つ合わさると、より複合的なTOKYOという魔力のある街が浮かび上がってくる。
それにしても、である。まあ当然のことではあるけれど、同じTOKYOから、よくもまあ、これだけ違うイマジネーションが産まれるもんだ!

「インテリア・デザイン」
トップバッターのミシェル・ゴンドリーは、強烈な作家性がありながら、チャーミングな映画世界でオトメ心をもくすぐる稀有な作家。それはもちろん、かつての乙女さえも魅了するんである(あ、突っ込まれる前に言ってる訳じゃないのよ(爆))。
しかし、このキャスティングは実に魅力的。加瀬亮は勿論なのだけれど、これからはスクリーンでガンガン暴れてほしい藤谷文子が、「ドモ又の死」の衝撃から間もなくもこうして観られるのが嬉しい。
確かに日本人の彼らなんだけれど、ゴンドリーが撮ると、なんだかフランス映画の中のカップルのように見えてくるから不思議。
あるいは、フランス映画の中に出てくる日本人カップル?そりゃ当たり前だけど。いや……でも彼自体はアメリカで活動しているんだけどね。
なんだか二人とも、日本映画に出ている時の感じと違うんだよね。やはり演出によって演技もまた変わってくるのかもしれないと思う。日本的繊細でもなく、アメリカ的判りやすさでもなく、どこかポップで、だけどちょっと影があるような。

アキラは、映画監督を目指しているんである。そしてアキラの恋人であるヒロコは、いろんなことに興味はあるものの、特に夢があるわけでもなく、彼にくっついて状況してくる。
二人の中学時代の同級生である、アケミの部屋に居候する。アケミは、日本では大きな会社に勤めるほど、小さな部屋になるのよ、と言うけれど、実はそんなに大きな会社でもないの、と言い直してみる。
雑多でキュウクツな1DKは、いかにも日本的ワカモンの東京での一人暮らしの図であり、しかしその中はカラフルな雑貨であふれ返っているのが、せめてオシャレに好きなものの中で暮らそうとしていることが、逆にわびしさを感じさせたりもして。

アケミを演じる伊藤歩もやはり、日本映画に出ている時と、感じが違うんだよね。こんな女の子女の子した伊藤歩は初めて見る。
彼女は最初は快く同級生の二人を迎え入れるものの、部屋捜しをすると言いつつちっとも出て行かない彼らに、次第に苛立ちを見せ始める。
っていうか、割と最初から、いつまでいるの、と牽制していた。週末には彼氏が来るから、と。でも二人は東京のあまりの住宅事情の粗悪さになかなか部屋を決められず、それにアキラの方はどこか映画への夢に酔っているようなところがあって、現実的じゃないし、ずるずると居候を続けるんである。

でもね、バイトに採用されるのはアキラの方だけだし、部屋を探し続けても全然決められないのがヒロコの方だし。
正直言って独りよがりな文化祭的映画を作っているアキラよりも、ヒロコの方がマシに見えるのに、彼女がどんどん追いつめられていくんである。
アキラからは、何かを作って人に影響を与えなければ人生に意味がないぐらいに言われ、アケミからは、仕事もしないで家の中で切り抜きばかりやってるなどと言われているのを耳にしてしまう。

そう聞いて初めて、一人苦労しているように見えているのが、あくまでヒロコの視点でだけってことに気づくんである。
部屋も決められず、車もレッカー移動されて、アキラの映画の上映の時には、こんなヒドイ映画なのに彼氏、案外チヤホヤされたりして、なんだか段々、彼女は一人、取り残されてしまうのね。
しかしその映画が上映されるのが、「ポルノ映画をやってるところだよ」っていうのが……ポルノって言い方が、なんか抵抗あったのだが。それに対してアキラが、ちゃんとした映画館だよ、暗くなるし云々、と返すからまあ、ちょっとホッとはしたけど。
ピンク映画のポスターの隣に、ちんまりと貼られた彼の自主映画のポスター。しかし彼は自信満々で、観客も参加すべきだとか言って上映中にスモークたいたりなんて、子供じみた演出したりして。
ウチに来ないかとお義理でかけられた言葉にも、別口の誘いがありますからなんて言っちゃって、もう見るからに若さだけで突っ走ってて、見てられないのだ。

ヒロコが東京の部屋を探し回る描写が、ああ、ここがまず、ゴンドリー監督の東京の印象なのかな、と思って。
狭くてうるさくて隣と接近してて、窓から覗いたら猫の死骸とか転がってて、時にはその部屋の外観が、今にもズリ落ちそうだったりして(このデザインの建物は、逆にオシャレで部屋の値段も高いと思うが……)。
「小さな先住者がいますけど」という、ウジみたいなのがワーっと湧き出ていたり、棚の扉を開けると頭にぶつかっちゃうような描写が、こんな狭いところにひしめきあうようにして暮らしてる東京の、ここまでくるとファンタジックにさえ思える異常さを示してる。

でね、ヒロコ、突然椅子になってしまうの。って、もんのすごい、唐突だけど!
でも、なんかね、追いつめられて、追いつめられて……ある日鏡を覗くと、胸に空洞があいていて(!)、焦って外に飛び出したら、足がかくんかくん言って、そしたらそれが細い木の足で、そんな具合に、どんどん身体が変化していってしまうのだ。
そして、ついに椅子になり、バス停に鎮座する。でも、ふとした拍子に、もとの身体になる。来ていた洋服はホームレスに持っていかれちゃったから、元に戻るとハダカなんである。
なんかこれってね、日本の変身モノアニメと、その矛盾点(元に戻ると服を着てるという)をついているみたいでね、なんだかちょっと、ヒヤリともきちゃうんだなあ。

ヒロコは、ある男性に拾われるのだ。もちろん、椅子のままでね。それまで自分の価値を見出せなかったヒロコは、この男性の家で、それを見つけるんである。
いや、彼女はそうモノローグするけど、それが具体的にどういうことなのか、正直ハッキリと言えはしない。でも、心地よい座りごこちの椅子としての存在を全うしている点では、そうなのかもしれない。
この男性が仕事に行くのだろう、家を空けている間に、ヒロコは彼の服を失敬し、しかしそこから出て行くのかと思ったらそうではなく、友達の家にいた時と同じように切り抜きをして壁にピンナップし、アキラに当てて手紙を書くんである。今、私は幸せだと。

男性が帰ってくるたび、椅子の姿に戻るもんだから、時にはバスタブに椅子が浸かっていたりするんだけど、男性はなぜか不思議がらずに、その椅子をそのままにするんである。
濡れた椅子をタオルで拭く場面なんて、もとのハダカの彼女を思えば、なんだか随分、エロティックに思えるんだけど、この設定自体がすんごいファンタジックでオトメチックだから、キュンとぐらい、きちゃうのだ。

アキラが、東京の街のビルの隙間に、ペラペラオバケがいるなんて、ちょっとした戯れ言っぽく言ってたじゃない。
まさしくそのままに、突然椅子になってしまったヒロコは、移動するたびにハダカになって、おっぱいを抑えながら人目を避けて移動し、ビルの隙間にも逃げ込む。
それがね、こんな狭い東京の街では、こんな場所でも人間が紛れ込んでいるかもというのを、サスペンスフルな感じと、ファンタジックな感じ、双方で示してて、しかもちょっとエロティックだったりもして!
大体、椅子がハダカの女の子だなんて、人間椅子じゃないけど、すんごいエロティックじゃない!?
ヒロコが最終的に、この男性に気付かれるのか否かは……バンジョーが趣味らしい彼は、仲間を集めて演奏している。バンジョーを弾く青年が座っている、その椅子が、彼女なんである。

ひしめく建物、狭い部屋、夢を追いかける無数の若者たち、その若者たちに圧倒され、自分を追い込むもう一方の若者たち、重層的な人間模様が、こんなファンタジーもどこかで生み出しているかもと思わせるゴンドリーマジック。

「メルド」
そしてカラックスである。いやー、カラックスだなと思わせる。それはまず、キャスティングからしてそうである。
メインはドゥニ・ラヴァン。いわずとしれた、彼の運命共同体の盟友である。しかも彼だけなんである。
勿論東京が舞台なんだから、チラチラと日本の役者も顔を見せるけれど、メインとして動くのはドゥニ・ラヴァンだけなんである。
東京を舞台にした作品を撮るということになれば、まあフツーの監督さんなら、日本の役者さんを使って東京の風景を切り取ろうとするだろうと思う。
しかしカラックスはそれをしなかった。というか、どこで撮ろうがカラックスはカラックス、特に違うことをしようとはしないのだという気がする。
いつもフランスで撮っていたのが、たまたま東京で撮らないかって話になった。ただそれだけで、だからドゥニ・ラヴァンであり、まあ、東京が舞台だから、その他は日本人を使うにしても、物語に関わるようなキャストという訳ではない。

ドゥニ・ラヴァンの怪演があまりに圧倒的なので、ワキの日本人俳優に石橋蓮司なんつー大御所を使っても、ほんっとうに脇役にしか過ぎないんである。それはもう、切ないぐらいなんである。
ここでは本当にドゥニ・ラヴァンだけ、そしてワキにしたってやはりフランス人俳優、ドゥニ・ラヴァンが演じる怪人を弁護する弁護士のヴォランド(ジャン=フランソワ・バルメール)と、この裁判を見守り続ける通訳(ジュリー・ドレフュス)がメインなんである。
マンホールから出てくる怪人、メルド(「糞」という意味)を、ドゥニ・ラヴァンはこれがあの、「ポンヌフの恋人」の繊細な役者なのかと(なんてことを持ち出すこと自体、古いことは判っているのだが)驚愕するほどに、奔放に、狂気たっぷりに演じる。
大体、この糞っていうのが……タイトルバックでいきなり、「糞」とフランス語にオーヴァーラップされたから、ジョークかと思ったら、マジだった(爆)。ビル屋上の広告ネオンに「糞」が赤々と光り輝く(爆爆)。

ゴジラのテーマをバックに(ゴジラのイメージなんだそうな)、都会の路上に突如として現われる、裸足で、ひげがヘンな形に生えていて、右目が潰れていて、赤毛で、心臓に手を当てながら、顔をピシャピシャ叩いて足を奇妙に引きずって歩く彼のことを、人々は下水道の怪人と呼んで恐れた。
突然マンホールから出てきて通行人のタバコを奪って吸ったり、女の子の顔を舐めたり、自由気ままにふるまっていたまでは良かったんだけど、ついに、彼はしてはいけないことを、してしまった。
渋谷のあの、東急側のバスターミナルのある複雑な歩道橋の上で、手榴弾を投げまくったのだ。
死屍累々、血だらけの人々が折り重なる。悲鳴のようなサイレン、その中を、彼は手榴弾のピンを抜きながら歩き続けた。

彼が根城にしている地下水道にね、あの、忌まわしき、旭日旗が破れかけて、あるのよ。そこに、彼が用いた手榴弾もダースで置かれてた。
ここは、日本軍が、いつかの戦争の時に、自決を覚悟で張っていたところだったのか……?
東京、TOKYOという素材を与えられて、しかもオムニバスの短篇でね、それを題材として想起したのが、凄いというか、凄まじいと思って……さすが、陰鬱なカラックス?いやいやいや、短篇だからって軽い題材とせず、むしろ濃く凝縮される短篇だからこそ、深いものをとりあげたということなのか。
だって、旭日旗なんて、ホント深いところまで降りているもの。

そして無差別殺人をしたこの怪人は、結局正体も判らず、ワケの判らない言葉を喋り、「日本人の目は、女性の性器に似ている」なんて暴言までも吐き、絞首刑にさらされるんである。
ここまでの厳しい描写を、短篇においてすることに、驚愕した。いくら狂気の殺人者だとしても、あまりに日本人に対してヒドイこと言わせるから。
それともそれは、寛容な日本人なら、“表現”として判ってくれるからということ?でもそれは、その時点でナメられているんじゃないの?
なんか、色んなことを考えちゃって、頭がぐるぐるしてしまう。

でもそれでも、これもまた、ファンタジーなのだ。メルドは、誰にも判らない言葉を喋ってる。例えそれを、「自分はそれが判る」と言って弁護士が出てきて、もっともらしく二重三重の通訳を介して彼の言葉を世に伝えたとしても、それが本当にその通りかなんて、彼の喋ってる言葉が判らないこっちには、永遠のナゾなのだ。
それこそが、東京というマジカルな街を、カラックスがそう描写したってことだったのかもしれない。
誰も彼もが、判らない言葉を喋ってる。それは外国人がそう思うだけでなく、東京に暮らす日本人である私たちさえもが、そう感じているんだってこと。

メルドは、彼が本当に日本に対して侮辱的なことを言って、それでも自分は裁かれるのはイヤだ、死ぬのはイヤだと、勝手なことを言っているのかさえ、真実には判らない状態のまま、絞首刑にさらされる。
白い着物を着せられる描写は、今は多分違うと思うけど……この辺は、日本のクラシックさを見せているのだろうと思う。
しかし、確かにくびられた筈の怪人は、見つめる観衆(これ自体、日本にはないし)に、心臓が止まった筈(ドクターが確かめた)なのを見せたのに、ぶらんと吊り下がったあと動きを見せて、驚愕した彼らのほんの隙をついて、姿を消した。

次はニューヨーク篇だというのは、ジョークなのか??
裁判シーンの、未知の言葉でやり取りする怪人と弁護士の場面が、ちょーっと長すぎたかな……。

「シェイキング東京」
そしてポン・ジュノ。私は彼の作品が一番好きだったかもしれない。程度の差こそあれど、彼だけがTOKYOをハコモノとしてとらえず、現象としてのTOKYOに内側から入り込んだように思える。
引きこもりというもの、そしてその言葉が果たして日本だけのものなのか、案外世界的なものなのかどうかは判らない。ある意味日本のそうした閉じたオタク的気質は、この三者の監督作品に共通しているようにも思える。この三作品のキャラすべて、引きこもりって言ってもいい位だし。
でもポン・ジュノはそれをどこか優しい視線で見つめているのが、なんだか嬉しかった。
シェイキング東京。揺れるTOKYO。それは地震の多い日本をダイレクトに示しているとも思うけど、勿論そこには、揺れる感情という意味合いも入っていると思われる。

もう10年も引きこもっている青年。しかも意外な設定は、彼が家族と暮らしている訳ではないことである。
それじゃ一体どうやって生活を成り立たせているのかと思ったら、毎月父親から分厚い現金書留が送られてくるんである。
分厚いっていうのは、中身が全部千円札だから。……これがなぜ万札じゃないかってところは意味があるのかなと、ちょっと首をかしげてしまうのだが、息子が使いやすいようになのだろうか……。

立ったまま食事して、ドアを開け放したトイレで居眠りをする。そんな生活。
アナログなダイヤル式電話で、彼は生活品の全てを注文し、配達してもらう。それでコトは成り立ってしまう。現代なのにインターネットすらないというあたりは、この“10年”というものをリアルに感じもするんである。
家族と一緒に暮らしている引きこもりという描写も勿論、家族との乖離を強く感じるけれども、その家族さえも見放したようなこの状況はいっそう、寒々としている。

しかも彼は、異様なぐらいの整頓マニアなんである。
死ぬほど時間がある中、黙々と読み続ける本の量は膨大で、それがキチンと積み重ねられている。
トイレットペーパーだって、断面をこちらに向けてキレイに並べられている。
最も顕著なのは、毎週一回必ず頼むピザの箱。ピシリと並んで、もう何列もの壁を作っている。

しかし、そのピザの箱だけが、完璧だった筈が、ひとつだけ、箱がひっくり返っていた。
それを指摘したのが、10年ぶりに彼が他人と目を合わせてしまった、配達人の女の子。
いつものように目を落とした彼の視界に入って来たのが、ジーンズの片足だけ途中で切れているのをガーターベルトで吊っている、その狭間の彼女の太ももで、「そうやっていつも人と目を合わせないんですか」という彼女の声が耳を打った。
思わず、顔をあげてしまう彼。そこには色白美少女の女の子がじっとこちらを見つめていたのだ。そして有無を言わさず部屋に入り、完璧……とつぶやきながらも、そのたった一箇所の違いを指摘したのだ。

メインの二人、引きこもっている香川照之と、ピザの配達人である蒼井優というのが、そのコラボレーション自体にもゾクゾクと来るけれど、監督自体が、その演出が、まず内側から入って演者たちを震わせているのが判って、もちろんそれに応えられる役者たちだからであって、素晴らしいんである。
もう充分に世界に名をとどろかせている香川照之が演じる、ただただ毎日を異常なぐらいに規則正しく過ごしている男の、出口の見えない生活。
それは一見静謐な修行僧のようにも見えて、しかし何か、ちょっとしたほころびですぐに崩れ落ちてしまうような危うさの上に成り立ってる。

そこにやってきたのが彼女であり、そして突然の地震。
彼女はその地震で突然、倒れた。ピクリとも動かなくなった。
どうしたらいいのか、触れることも出来ずにウロウロとする彼。階段に座って色白の彼女を眺めていたりして。
そしてふと気付く。腕に書かれたイレズミのような文字、そして、ガーターからのぞく、パソコンの電源スイッチのようなボタン。
……そういえば、10年、ネットも知らない彼が、このパソコンの電源ボタンのマークを知ってるとも思えない。けれど、彼はそれをふと押してみる。すると彼女はパチリと目をあけて、「……押した?」と言った。

多分この時、彼は彼女に対して、恋に落ちてしまった、のだろうなあ。
次の配達を頼む時、期待とヘンな不安で彼はなんだか、震えているように見えた。しかし次の配達に、彼女は来なかった。妙にハイテンションで暑苦しい男が来て、しかもいきなりズカズカと入り込んできて電話を借り、電話の向こうの誰かにガミガミとがなりたてた。そして同じように、彼の整理整頓ぶりに、完璧だな、ともらした。
この暑苦しい男を演じているのが竹中直人で、ポン・ジュノ監督がグエムルの造形の一人に彼をあげたことを思うと、ひょっとして念願のキャストは何より竹中直人だったのかしらん、などと思う。

決死の覚悟で彼女のことを聞いてみる。もうこの時の、どもりどもりの、声が震える香川照之は、見ているこっちが緊張してドキドキする。
すると、予想外の答えが返ってきた。彼女は、引きこもったと。もう長く勤めていたのにな、とその男は嘆息した。
完璧な彼の生活が、彼女の中の何かを突き動かしてしまったのか。

彼は、外に出る決心をするんである。10年ぶりの外に。
彼の引きこもりには、その完璧な生活にどこか誇りのようなものを感じさえしたのに、あの彼女が引きこもったことに、彼はショックを受けているんである。
そして、この完璧な生活に、自ら終焉を迎えようというんである。「引きこもりが引きこもりに会うには方法はひとつしかない」と。
思えば引きこもりというものが、家族がいてさえ干渉出来ないというのに、外から闖入してきたたった一人の女の子が、彼を変えたのだ。

このことは、引きこもりに対してのあるひとつの答えを示しているように思う。ここでは出てこない彼の家族も、もはや彼にとって人間関係を構築する“人”ではないのだ。もう家具みたいになって、だから言葉を交わすことさえ必要ではなくなる。
でも、他人は。一度も目を合わせない配達人たちと、彼は言葉を交わすことはなかった。ただ黙ってカネとモノの交換をするだけ。そこでも彼は強行に、そのやり方を変えなかったけれど、その関係がちょっとでも破綻し、言葉を交わさざるを得なくなると、もうその時、彼は外の世界に触れている。
ああでも、それはまた逆に、家族に対してもそうなのかもしれない。言葉を交わさなくても成立してしまう家族の中だから、引きこもりも成立してしまう。そういうことなのかもしれない。

歩くのか、どうしようか、とりあえず住んでいる場所は聞いたけれど。
10年ぶりの真っ白い太陽の光にうろたえながら、人からどう見えるのか気にしながら、一度は蔦のからまる自転車を引っ張り出そうとするけれど、動かせなくて……。
そう10年、なのだ。自転車が蔦にからまって、動かせなくなるぐらい。
あらためて自分の家を仰ぎ見ると、うっそうと蔦の緑に埋まっている。まるで森の中で小さくなっていた小動物みたいだったのだ、彼は。

必死に、彼女の居所を探して歩き出す。カメラは時に、俯瞰で彼の姿を小さくとらえる。彼は人からの視線を気にしていたけれど、この大都会、東京に人っ子一人、いないのだ。
誰もが、引きこもってしまった。
その想像を絶する事態に、彼は慄然とする。
引きこもっているのが、自分だから、自分だけだから、その世界は完璧だったのに。そういうことなのか。
その思いが、彼女もまた引きこもったことに、ショックを受けさせたのか。
窓の向こうに、様々に引きこもっている人たちが見える。その様に、アレは初心者、アレは5年前の自分……などとその程度を重ねて見てる。このあたりは妙に冷静である。
そして、ついに彼女を見つけた。必死にドアを叩く彼。すると……地震が起こるんである。

飛び出してくる人々は一様にジャージ姿で、そうみんなみんな、引きこもっているから。
ふと後ろを振り返った。彼女が立っていた。彼は必死に彼女の腕をとった。引っ張り合いになった。必死に家の中に入ろうとする彼女。彼は、彼は言ったのだ。出てこなければ、出てこなければダメだと。
なんだか、この、東京じゅうが引きこもっているという描写が、これが案外シャレにならないというか、案外リアルに感じさせるのが、痛くて。

太もものボタンが電源で、それを押すと目を覚ますなんて、まるで美少女ロボットアニメのようだと思い、蒼井優がそれにピッタリだと思うと、これって引きこもり青年の美少女育成のようにも思い、ちょっと危険な萌えも感じさせる。
でもそこには、こんな何がしかの痛みが隠れていることを、ポン・ジュノ監督だからこそ探し当てたのだとも思う。★★★★☆


東京残酷警察/TOKYO GORE POLICE
2008年 109分 アメリカ カラー
監督:西村喜廣 脚本:西村喜廣 梶研吾
撮影:Shu G 百瀬 音楽:中川孝
出演:しいなえいひ 板尾創路 菅田俊 堀部圭亮 紅井ユキヒデ 中原翔子 町田マリー 山本彩乃 澤田育子 ジジ・ぶぅ 長澤つぐみ 坂口拓

2008/10/21/火 劇場(シアターN渋谷/レイト)
さて、この日は舞台挨拶にぶつかっちゃって、あらら、やだなあ込むの、とかノンキに思っていたら、それどころじゃなかった(爆)。
そもそも本作が、「TOKYO SHOCKシリーズ」の二作目だなんてものも知らずに、その線の熱狂的ファンがついているなんてことも知らずに(この日の客層はただならぬ雰囲気だった)ただ単に「片腕マシンガール」「片腕マシンガール」の流れで観に行ったもんだから。
しかもかの作品より残酷度が高いことで、公開が危ぶまれていたとか聞いたら尚更である。
しかし私、ホント基本的なところが判ってなくて、これも井口監督かと思ってたら、同じふんどしでも、となりにいたふんどしさんが舞台に登場した(爆)。

というか、最初はフツーにTシャツ姿だったのに、なぜか脱ぎ出して、ふんどし姿になり、更に登場した三人の(監督曰く)エロ系美少女たちは、なぜかボンテージファッションで(劇中に関係あるのかと思ったら、全然関係なかった……)、監督をムチでピシピシ叩きまくり(しかもその様は完璧に堂に入ってるんである……)しかも上映終了後は更に観客にポッキーを食べさせるサービスまで行い(メガネっ娘美少女に食べさせてもらっちゃった……(汗汗))、更に更に、舞台上の美少女たちは、それでエロエロなポッキーゲームを行って(美少女ディープキス!)、観客から地底からのようなどよめきが起こるという、トンでもない舞台挨拶だったのだった。
ぶ、舞台挨拶?あれは舞台挨拶だったのだろうか、何か夢を見ていたんでは……。希望者には彼女たちに渋谷の路上でムチで打たれるサービスがあると言っていたけど、その後、路上ムチサービスを受けた人はいたんだろうか……。

てか、だからそんなことは、内容にはまあったく関係なかったんだよね。
で、うん。確かに「片腕マシンガール」より残酷だったかな?でも「片腕……」でまず凄い衝撃を受けたこともあるので、そっから二割増しだろうが五割増しだろうが、もうそんなに変わらないもので(まあこんなことに慣れたくもないのだが……)なんか結構フツーに楽しんで見てしまう。
顔や腕の斬れ方とか、今回は斬れるだけじゃなくて、バチッと破裂する感じで皮膚が割れるなんておっそろしい描写もあるんだけど、その皮膚の内部の造形とか、妙にマジマジと感心して見てしまった。ヤダヤダ。

でも、残酷というキーワードや、そのスプラッタ描写はまんま継承してはいるけど、映画としてのカラーはまるで違ってた。
「片腕……」が井口風味のナンセンスギャグをその残酷の中にも果敢に放ってきていたのに比して、本作はどこかノワールな雰囲気があったのね。「男たちの挽歌」だなんて言っちゃったら、言いすぎかな?
でも警察という“組織”や、主人公の持っている言い様のない影、容赦ない殺戮のアクション、まあそういう要素の映画も数知れずあるけど、なんか、あの傑作シリーズを思い浮かべちゃったんだよなあ。

それは勿論、この笑顔を見せないクールなヒロイン、ルカを演じるしいなえいひの存在に尽きるんである。
しいなえいひ!ビックリした。なんか凄い、久しぶりな気がするのは、私がたまたま彼女の作品に接していなかっただけだろうか。てか、名前がいつの間にかひらがなになってるし。
私にとっては実に「オーディション」以来、8年ぶりである。
思えばかの作品も、この作品に匹敵するぐらいの超恐ろしい残酷映画であり、彼女はそこで実に楽しそうに男の目ん玉に針を刺していたことを考えると、ザクザク人を斬りまくるにしても、その冷徹な表情の下に愛する父親の殉職という過去を背負っている本作の方が、数段マシなキャラなんである。それに彼女が殺しているのは悪人なんだしね……。

なんていうあたりもオソロシイのだが。なんたって設定は警察が民営化された近未来。東京警察株式会社なる組織はしかし、マークとか全然一緒だし、警視庁に怒られそう……。
「皆様の平和な生活を守ります」「逮捕しちゃうぞ」なんていうお気楽なCMは、しかしその中でリアルに連続殺人犯を容赦なく殺して、ホラ、こんな風に悪人は殺しちゃうから安心だよ、てな具合なんである。
確かに現代は、恐るべき犯罪が毎日のように起こるのに、被害者はただ増えるばかりで、加害者が塀の向こうに溢れ返って、たとえ死刑判決を受けても大抵は獄中で長生きしちゃう。
そっちこそさっさと死んでしまえばいいのにと心の中で思いながら、そんなこと、やっぱり口には出来なかった。それを、本作はあまりにもアッケラカンとやってしまうので、なんか笑うに笑えないんである。

笑うに笑えない……そう、笑うような方向で作ってるのよね。基本的なカラーはえいひ嬢のダークさにあれど、脇でちょいちょい笑わせにくるんだよね。
それはそう、先述のCM。これが色んなバージョンが出てくるの。
先の警察官募集のCMでも、もっと凄いのがあった。サッカーに興じていた小学生の男の子の目の前で、凶悪犯人が警察官の手によって殺される。と、その斬られた首が彼らの足元にポーン飛んで来て、男の子たちはその血まみれの生首でサッカーを続け(!)そして、僕も将来は警察官になりたいと夢見る瞳を輝かせるんである(!!)

通販シリーズも凄い。よく斬れる、よく斬れる!と連呼して、なんと日本刀を販売。
もっと凄いのは、痛くない!形がカワイイ!血が美味しい!リストカッター!(オイー!!)っつって、女子高生たちがまるでプリクラでも撮ってるような楽しげなノリでカラフルなカッターを手にキャイキャイ飛び跳ねているという……ある意味、壮絶なスプラッターより数段恐ろしい……。
しっかし、刀を売っている一方で、「ストップザハラキリ!ハラキリは自殺です」なんてCMまでも。そんなん、わかっとるわい!腹からデロデロ内臓出すのはヤメてくれー。

そして、最たるものは、“遠隔処刑”である。なんかそう、それこそ、裁判員制度を紹介するようなノリなんだよね。
もうまんま、あのバーチャルリアリティーゲーム機、そう、Wiiなのよ。画面を見ながら手元の刀を振り下ろすと、画面の中の男がギャーと声をあげて血しぶきをあげる。
それを、これはフィクションではなく、本当の映像だということがテレビ画面にクレジットされ、つまり、ここで家族の昼下がりに楽しげにゲームに興じているような三人は、もう一人いいた家族を殺した犯人を、“遠隔処刑”によって、彼ら自身の手で成敗しているのだ。
う、ううう。なんか、今の時代ならリアルにあり得る気がするだけに、笑えない……。
しかも彼ら、やたら楽しそうに、まるで猫がネズミをいたぶるみたいに、今度はここ、今度はあそこって、斬りつけていくんだもん。本当に楽しそうに……勿論ギャグなんだけど、マジで今の時代、笑えないからさあ……。

だからこそその中で、しいなえいひだけが超マジなんである。ホンット、彼女はフツーの?シリアスな??イイ映画に出ているような(ゴメン!)本気演技なんである。
スプラッター映画のヒロインは絶叫が付き物なのに、彼女はどんなに脱力な要素が出てこようと絶対にそのクールな表情を崩さないから、「男たちの挽歌」になっちゃうのよね。

ルカは、父親を目の前で亡くしていた。ホンットに、目の前で。
それが冒頭のシーンで、堀部圭亮の頭が瞬時に吹っ飛ばされるシーンはあまりに唐突なもんだから、ちょっと小さく笑っちゃうぐらいだったのだ。
それは「片腕マシンガール」のユーモアを頭の中に引きずっていたからなんだけど、この物語はぜんっぜん、もっとシリアスだったのだよね。

父親を殺した男は、目出し帽をかぶっていて、その後行方が知れなかった。だけどルカはその目をずっと覚えてた。
身寄りのない彼女はその後父親の同僚たちの間で育ち、だから彼女が警察官になるのは当然の成り行きだったのだ。
でも、過去の回想で、ヒステリックにノイローゼ気味の母親も登場しているんだよね。彼女のリスカ癖は母親からの遺伝によるんじゃないかとも思われるし。しかしこのリスカ場面は、明らかに血を満タンにしたゴムを切りつけてるって判っちゃったが……。
でも母親の存在はこの回想一発でふっつりと途切れるし、警察署長が彼女の父親代わりみたいに言われているから、母親も死んでしまったんだろうか。
いや、実は結構居眠っちゃった部分もあるんで、見逃してる可能性大なのだが……(爆)。

父親が堀部圭亮ってだけで、暗さを遺伝子に持ち込んでいるのは確実って感じはする。
徐々に明らかにされる、父親の非業の死の真相、それは警察民営化に反対する父親を煙たがった警察組織によるもので、つまりルカはずっと、父親の仇を家族と思って生きてきたのだ。
実際に手を下した男を仇と思って、その憎しみの思いだけを支えに生きてきたのに、彼もまた被害者で、父親を撃った直後に更に上の、諸悪の根源によって殺された。父親を殺されたショックでか、ルカはそのことを忘れていたのだ。

というあたりはちょっと弱い気がしたけどねー。それともこれも私が寝ていた間に起こった出来事?(爆)
父親を殺した凄腕スナイパーが、その息子と二役で板尾創路が演じてるんだけど、この二役が判明するまでは、彼こそが犯人と思ってるから、ややこしいのよね。だってしいなえいひはそのまま彼女が高校生の時から演じてるんだもん。まあそりゃ、彼女はそれで違和感がないからそうなんだけどさ。
でも板尾創路だって父親が殺された大学生の時から演じてるんだし、ややこしいよなー。

その真相が明かされた時、もう板尾創路はルカによって顔半分を吹っ飛ばされ、目から上が脳みそ丸出しになってるんである。
で、その姿で、夕陽の差し込むボロアパートでちゃぶ台を挟んで正座した二人は、過去の真相をお互いに思い出すという、シュールなんだかノスタルジックなんだかワケわかんない画が繰り広げられるんである。

って!そうだ、言い忘れてた。メッチャ大事なことを。この近未来の世はね、エンジニアと呼ばれる半サイボーグみたいな狂った殺人鬼たちが次々と現われて人々を恐怖に陥れている世界なのね。
エンジニアと判明すれば、警察の手によって、もう容赦なくぶっ殺される。
その死体からは必ず鍵状の腫瘍が取り出されるのだ。警察内部の、解体マニアの老人がいつもニヤニヤ笑いながら、ヌチャヌチャと死体の中から血まみれの腫瘍を取り出し、間違いなくエンジニアだネ、と満足気に笑うのだ。

このエンジニアというのがどうやって生まれたのか、これもまた私、記憶が不確かなんだけど(爆)。
傷ついた体の部分が武器に変体し、無差別に殺戮する狂った存在、エンジニア。
取り出された腫瘍が肉体に差し込まれてガチャリとひねられると、エンジニアが“感染”するらしく……ルカもまた、仇の息子であるコイツにそうされてしまった。
エンジニアを根絶するのが警察官たるルカの目的だった筈なのに、今や彼女自身がエンジニアとなって、かつて家族のように温かな存在だと思っていたヤツらを相手に、壮絶な戦いを挑んでいく。エンジニアと疑わしきは、全て殺す、がモットーの彼らにとって、ルカの存在は今や絶対的な敵。

板尾創路はうっかり顔がシリアス系な役者にも見えるもんだから、ヤッカイなんだよなあ。
彼の立ち位置は、確信犯的に微妙な位置なんだもの。頭半分を吹っ飛ばされて脳みそが剥き出しで、目がスプーンみたいにビヨーンと飛び出してて、フツーに会話してるなんて。
ギャグなのかシュールなのかホラーなのか、彼の暗めのフツーさからはにわかに判断しがたくて、戸惑ってしまう。しいなえいひがまたそれをクールきわまりない演技で受けるもんだから……。

なんっか、だから、不思議な映画なんだよなあ。ノワールだし、残酷だし、ギャグだし、シリアスだし、で、基本ムチャクチャでさ。繰り返される回想シーンが妙にほろ苦い後味を残すのも、そんな戸惑いを促すし。
でも、ヒロインが介在しない場面では、かなりやりたい放題やってて、これは「片腕マシンガール」的な感じなんだよね。
シャブやってる警察官が、怪しげなクラブに入って行くと、エロティックなダンサーがクネクネと踊ってて、彼らは好みの女の子を指名するんだけど……その女の子たちってのが!
豊かなバストなのに乳首が失われてギザギザに縫われていたりなんてのは序の口で、その彼女は後に下半身がワニになり(!)、更にトリのストリッパーは椅子に座った胴体の部分だけしかなくて(!)、でもそのおっぱいと腹部がエロティックに呼吸してたりして(!!)。
そしてそんな“女の子”たちを、男たちは満足気に指名してコトに及ぼうとするんである。で、その下半身のワニに食われたりしちゃうんである!なんなんだー!!

正直、超クライマックスであったであろうラストは、もう精魂尽き果てて、かなり寝ている、私(爆)。だって多分、ずーっと署長とのアクションだったと思う……だもん。
でもやっぱり、しいなえいひに尽きたよね。そのミニスカな制服なんて、メッチャ確信犯的にSMコスプレなんだけど、でも彼女自身がホンットにマジだから、そんなウッカリしたことが言えないあたりが、更にそそるのよね。
終わってみればスプラッターの印象って案外なくて(いや、そーとー凄かったんだけどね!)彼女のストイックな美貌が脳裏に焼きついているんだよなあ。
しかもその色白の肌に、ほぼ全編返り血(肉)が浴びせかけられているから、余計に。

だってカットとか、懲りまくってんだもん。ことに印象的だったのは、バッサリ斬られた両腕を絶叫しながら天に突き上げ、その断面から噴水のように血しぶきが上がっている男を背後に、ゆっくりと彼女が画面の手前に歩いてきて見切れる場面。
しかもこのシーンは彼女、おとり捜査で痴漢をおびき寄せるために、和服風ミニスカで太ももあらわに、真っ赤な口紅でハデ目の化粧して、真っ赤な番傘まで差してるもんだから、まるで藤純子かってなカンロクで。
血しぶきを番傘で受けながら歩いて来るスローモーションが、えらい耽美でさあ……。なんか既に残酷って要素が頭から吹っ飛んでるのは、良くないこと……のような気がする……。

ドスドスと壁に釘づけにされて殺されたバラバラ死体が、小さな箱に収められるなんてのもスゴかった。でもそれは、私たち人間の恐ろしい解体願望、心の底の願望を、躊躇なく映像にしている恐ろしさなんである。
その解体願望の延長線上にあったのかな、切断された手足が刀になった、女形ペット?なんてのも登場し、その造形はゾッと鳥肌が立ってしまった。嗜虐的な美しさがあって、そのロボットのような何かが、クールなルカの後ろをひょこひょこと歩いてくる画は、この世のものとは思えなかった……。

睡魔に負けて見落としている画がきっともっとあっただろうことが、悔やまれる、残酷でナンセンスなのに不思議にノワールな逸品。★★★☆☆


トウキョウソナタ
2008年 119分 日本=オランダ=香港 カラー
監督:黒沢清 脚本:Max Mannix 黒沢清 田中幸子
撮影:芦澤明子 音楽:橋本和昌
出演:香川照之 小泉今日子 小柳友 井之脇海 井川遥 津田寛治 役所広司

2008/11/21/金 劇場(角川シネマ新宿)
意味不明というか、難解さが持ち味?だった黒沢監督が、珍しく実に判りやすい作品を出してきたので、まずその点に面食らってしまった。
リストラされたことを家族に言い出せず、会社に出かけるフリをして1日をフラフラと過ごすサラリーマン、お互いの腹のうちをさらけだすことなく、崩壊を続ける家庭。そんな、ワイドショーで取り上げられているような、はたまたあまたの私小説的映画作家たちが取り上げているような題材を、あの黒沢清が撮るだなんて。
そればかりに意外な思いというか、違和感を抱き続けながら見てしまったせいか、なんだか説教くさく思えてしまう場面もあったりして、更に戸惑った。いや、そうなりそうになると、香川照之の鬼気迫る演技でハタと払拭されもするんだけれど、何にせよ、どうにも奇妙な感じだった。

とはいえ、どんな題材でも、彼は自分の感覚でひたすら楽しんで撮っているんだろうと思わせる、黒沢監督の異質さ、ひたひたとした恐ろしさというのは、相変わらず随所に現われてはいる。
相変わらず冴え渡る艶消しのような独特の画には、乾ききった家族の救いのなさを感じさせ、ことにその黒は、どこまでもどこまでも黒い。
今回は、逆にこの黒沢ブラックがあるからこそ、ラスト、救いの光が聖なる輝きで満ち満ちるピアノシーンが際立ち、それもまた今までの黒沢作品にはなかったように思う。
黒沢作品に、聖なる視点からの救いの手が差し伸べられるなんて。

父親から突き飛ばされて階段から滑り台のように頭から落ちてくる息子の、ショッキングながらも妙にユーモラスを感じる場面や、同僚の家を訪ねた時の、「おじさんも大変ですね」と大人たちの猿芝居を何もかも見透かしている幼い娘の物陰からの見切れた画、唐突に登場する強盗が、「顔を見られた!」と狼狽するマヌケさ、ああ、黒沢監督だなあ、と思う。
ホラーとユーモラスと監督にしか判らない不条理が、フクザツにミックスしたようなこの感覚。

これまでは、その要素のみで内容もテーマも観客には難解なままつっぱしっていたのが、そこに通俗的ともいえる判りやすさを獲得した時に、これほどまでに奇妙な違和感を感じるとは思っていなかった。
……それとも、そうしたそれまでの難解さに身構えすぎて、素直に受け止められなかっただけなのかな。でもその難解さにどうにも心惹かれて、判らないのが逆に悔しくて今まで追いかけてきたのに、だから、判ってしまうと思わされているんだと、逆にワナのような気がして。
それとも今回は、ベースになっている脚本が外国の人だから、こういうある意味ベタな物語が成立したのかなあ……。

トウキョウソナタと、東京、なんて銘打ってはいるけれど、必ずしもこれは東京だけに当てはまる物語ではないと思う。むしろ、失業問題が深刻化しているのは地方の方だろうし、奥さんが純粋な専業主婦であるというのも、今時珍しいように思う。いや、そうでもないのだろうか。このぐらいの世代は、そうした家族の価値観のハザマであるのかもしれない。

家族の誰もが主人公であるようなこの物語の中でも、もっともメインで語られる(その割に共感を得にくい)この家の父親であり夫である彼は、クライマックス、“父親としての権威”を実に傲慢かつ強引に押し付けようとして、妻にその矛盾を突きつけられて冷や水を浴びたような顔をする。「そういうあなはどうなのよ。私、あなたが配給の列に並んでるの、見たのよ」と。「そんな権威、潰しちゃえ」と。
でもその権威はせいぜい、お父さんがビールを飲み干すまで、頂きますはお預け、てな幼稚なものにしか過ぎなかったのかもしれない。
最初から権威なんて失墜しているのに彼はそれに気づかず、いや、気付かないフリをしてきたことに、直面するんである。

で、ここでは父親としての権威だけに言及しているけれど、そこには勿論、夫としての権威も含まれている。妻が現代の東京で一日中家に閉じこもり、三度の食事に掃除洗濯、おやつにドーナツを作るなんていうほどの完璧な専業主婦ぶりを発揮しているのは、恐らくこの夫が、彼女に対して“女は家を守るべき”という態度を示しているからだろうと推測される。
態度……昔のように、言葉で押さえつけているとまでは、断定できない。そこまでの強さはないように思える。むしろこの奥さんが、そんな夫の弱さを見透かして、自ら彼の望むとおりしてやっているのかもしれないとさえ思う。

……ああ、だから、トウキョウソナタ、なのかもしれない。もっとずっと、厳しい現状の地方では、月給の安さや、リストラされた夫の再就職も見つからなければ、奥さんも働かざるを得ないだろう。東京は、選択肢があるだけ、男がマダマダ権威という見得を貼れる場所なのだ。それがいいことだとは思わない、ってことをこそ、描いているのかもしれない。だって夫は、プライドを捨てれば、元の会社にもしがみつけたのかもしれないと思っちゃうもの。そのプライドがあったから、友達が死ぬまでそのことに気付かず、再就職にもつけなかったのかもしれない、なんて。

そう、リストラされてからの再就職に関しては、黒沢監督の視線は冷ややかだし、これは逆に女性の目から見れば結構共感出来るものがある。
中国からの安くて能力のある人材の流入に、「あなたは会社に何を出来ますか?」と突然言われて、辞めるしかなくなった彼、再就職を探すにも、それまでのキャリアと給料にこだわってしまい、ハローワークの職員からは冷ややかに「今までと同じレベルというのは、100パーセント、ムリです」と突き放される。
大企業の総務課長を長年勤めてきた彼にとって、清掃員やコンビニの店長なんて思いも寄らぬことだったけれど、こんなのそれこそ、世界的な不況の目で見たら、何贅沢言ってんだ、ふざけんじゃねえ、ってなところだろう。働き口があるじゃないかと、斡旋してくれているじゃないかと。

そう、そうなのだ。それを示しているのが、偶然再会した彼のかつての同級生。この友達もまた同じようにリストラされたんだけど、こちらは家族どころか見知らぬ周囲の人々にまで見栄を張るために、一時間ごとに携帯の着信音を鳴らしては仕事の電話の演技をする。ユーモラスな描写なんだけど、当の本人は超マジなのが寒々しい感覚を覚える。彼を職場の同僚と偽って家に連れ帰り、一段見下した演技をして虚偽のプライドを保とうとさえするんである。
その食卓は彼の家族以上に冷ややかで、テーブルに載っているのは「あなたが家庭的な食事がいいからって」と夫人が言うのが逆に寒々しく感じる“家庭料理”だというのに、家庭的というのからは遠く離れている。
オシャレな一軒家は、誰もがうらやむ生活だけど、それを維持出来ていないのは明らかで、三ヶ月もの虚偽の生活を続けた結果、この友達は、夫人とともに心中を図ってしまったのだ。

恐らくこの友達にも、清掃員やコンビニの仕事が紹介されただろう。でも彼はそれを受け入れられなかった。それは父親の権威?夫の権威?
でもそれを、仕事でしか、つまり金を運ぶ立場でしか示せない“文化”を作ってきた日本の最大の不幸で、その“仕事”が斬られてしまうと、こんなにもアッサリとそれは崩壊してしまうのだ。
「誰のおかげで食えていると思っているんだ」という台詞を妻や子供が最も嫌うのは、無意識にその崩壊を予感しているからに他ならない。砂上の楼閣だってことを、客観的に見れば容易に推察出来るからなのだ。
なぜだかそれを、当の本人は永遠に保証されたものだと思っているんだけれど。

という、ね、本当に、どれもこれも、ワイドショー的なんだよね。あるいは、女性週刊誌的と言うか。こんな風に改めて解体するのも通俗的過ぎて、ハズかしくなるぐらい。
でもそれは勿論、黒沢監督自身も判っているに違いない。この要素にだって勿論、力を傾けてはいる。
仕事をしている夫、父親としての権威だけをおのれの存在価値にしてきた男の虚しさを、さすが香川照之は痛々しいまでに体現しているし。
一方、夫が必死に虚勢を張っているのが見えすぎて、自分の弱さをさらけだせない主婦である小泉今日子は、彼女自身がチャーミングで強い独立女性なだけに、その年齢なり女性としての弱さをさらけだしてしまうとこんなに痛々しいのかと見ていられないぐらいだし。
同時期公開となった「グーグーだって猫である」との差異を思わずにはいられない。
キャリアウーマンだけど、一人の孤独に耐えているグーグーの彼女。
主婦として家族の中にいるけど、一人の孤独に耐えている彼女。

でも、彼らはいわば判りやすい媒体であって、この家庭崩壊の主人公ではないんじゃないかとも思うのね。
というのも、彼らの息子たちが、彼ら親のみならず、観客にとっても思いも寄らぬ方向へとはみ出していくから。
長男が、「日本はアメリカに守られている。だからアメリカの軍に入って活動することが、日本、そして僕達家族を守ることだ」などと言って、アメリカ軍への入隊を決意表明する。
それはあまりにも思いがけない方向で、両親は勿論、観客も驚くんだけど、それは繊細すぎるほどに感じやすい正義感を持つ若き頃に持ちがちな、偏った正義感であり、それに彼が気づくことに時間はかからない。

父親はそんな息子を“父親としての権威”で押さえつけようとし、母親は息子の価値観を尊重したいと応援しつつも心配でたまらない。
彼女は「何人も人を殺した」と憔悴して帰ってくる息子の幻影を見るぐらいなんだけれど、結果的にこの長男が帰結する結果はあっけないほどにまっとうで「アメリカだけが正しい訳じゃないと判った。僕はこの国で、この人たちのために闘う」価値観を習得するんである。
ここが一番ビックリしたところで、あの不条理で残酷な黒沢監督が、こんなヒューマンドラマみたいなマトモな決着を用意するなんて、となんだかお尻がムズ痒い感じすらした。
それは監督が丸くなったという風にも思えず、なにかそこにも、その先の残酷な一癖も感じなくもなかったけれど、本作ではそこまでの言及はなされない。

というより、メインは次男の方なんである。彼は隣家のピアノ教室に心惹かれる。その教師が井川遥だから、美人女教師に対するアコガレかと思いきや、彼自身の才能に突き動かされてのことだったというってのは、それならなぜ、こんな色っぽい女教師を用意したのよと思うぐらいなんである。
いやいやそれよりも彼は、中学生らしく、学校での辛い立場に耐え忍んでいるんである。
中学生らしくなんて言っちゃったけど、いや、中学生はもっとも多感な時期で感じやすく、傷つきやすいけれど、それにしてもやはり、現代はこんな風にちゃんと大人になっていない教師が、子供たちを理不尽に傷つけているんだろうと思われるんである。
そりゃまあ私たちの時代にだって理不尽な教師はいたけれども、それは大人としての価値観における理不尽であって、こんなコドモみたいな、いや、コドモ以下の、自分勝手な理不尽はさすがになかったように思う。こんな教師が今の世に跋扈しているのならば、本当に現代の子供たちは不幸だ。

授業中にマンガを回している風景は今も昔も同じ、そしてそれがたまたま手元に来たその子だけを立たせるまでも同じかもしれない。
でも、彼の必死の言い分を聞かず、「先生だって、電車でエロマンガ読んでいたじゃないですか」という反駁によって、彼を「もう卒業まで一年もない。オレはお前を無視する。お前もオレを無視する。それでいいだろ」と断じるなんて、幼稚過ぎる。それどころか、給食費の未納で親を呼び出した時に、“教師に対するイジメ”だと言うなんて、更に超幼稚すぎる。
そりゃあ、このマンガ事件で生徒たちが鬼の首でもとったように教師の言うことを全く聞かなくなったにしても、それをなんとかするのが教師の仕事であって、この次男の言うように“事実を言っただけ”の子供を悪者にするなんて、ありえない。あー、でもそういう教師、いたわ、私の時代にもさ!

……などという社会性、通俗性なあたりが黒沢清らしからぬ、なのよね。
あるいは、ピアノなんていう叙情性を持ち出してきたのもそうかもしれない。けれど、そこに井川遥なんていう浮き世離れした美人を出してきて、しかも彼女が「あなたには並外れた才能があります」と言い、音楽大学付属中学の受験を勧める、なんていう飛躍が、なんとか黒沢清、なのかもしれない。
だってそれが出てくるまでは、こうした家庭崩壊、学校崩壊、子供も大人もさまよっている図式は、東京のみならず、日本のみならず、世界中のあらゆる都市で見られると思われる。その中で突然、こんな天才児が出現するなんてことが、いきなりファンタジックなのだ。

そういやあ、この美人教師が次男に家族に音楽家はいるかと聞き、いない、ならば、天賦の才能なのね、と感慨深げに言ったりする。わざわざそんな場面を儲けること自体、これが非現実的だと言っているように思う。
つまり、彼ら家族は、幸せなのだ。そうでなければ、あの夫の友達のように、猿芝居を演じた上で、死んでしまうしかなかったかもしれない。だけどそれを目の当たりにして、仕事なら何でもと清掃員につき、息子の才能も潰してしまう一歩手前で、救い出すことが出来た。
いや、救えたのは、息子の必死の、きっと一生に一度の反発があったから。もしこの息子がそんな勇気さえ出なかったら、そこまでピアノに執着していなかったら、きっと彼らにも、虚しく、悲惨な結末が待っていたに違いない。

……だから、そんな風に結末づけること自体、黒沢作品に対しては無粋のように思えて仕方ないんだけど。
でもね、あらゆる場面で、通俗性は感じるんだよね。父親に対して清掃員としてのプロフェッショナルを教え込んだ現場の先輩が、彼と同じようにトイレでビシッとスーツに着替えて帰っていったりとか。

でも、やはりいきなり予想外の展開を見せたのは、あのマヌケな強盗だったかなあ。演じるのは黒沢作品の不条理をフレキシブルに支え続けた役所広司。
この作品のメインが、その鬼気迫る演技が世界的に認められている香川照之の誠実さにあるとしたら、役所広司は黒沢作品を知り尽くして肩の力の抜けまくった演技を見せてくれる。
いやいや、私、香川照之のことは黒沢作品で強く印象に残ったんだけど、でもあの「蛇の道」で彼自身が述懐していたように、あの時彼はアコガレの黒沢作品で頑張り過ぎて、主演の哀川翔のような力の抜き加減はなかった。
そして二作目でも、彼自身の実力は十二分に発揮しているものの、黒沢作品の住人とは言えなかったのかもしれない。
それは決して悪いことじゃなく、あの時も本作も、変わらず香川照之はすばらしいんだけどさ。

で、その役所広司は、妻を人質にして逃亡を図るんだよね。随所におマヌケな描写をちりばめて。人質に運転を頼んだり、免許取り立ての彼女がウィンカーを出さないのを咎めたらワイパーを動かしちゃったり。
そして彼女は……彼から逃げないのだ。
トイレに行きたいとショッピングセンターに寄った彼女は、清掃員をしている夫と遭遇した。リストラされているのはもう知っていたから、そのことだけでうろたえることもなかったんだけど、夫は清掃中のトイレで思いがけず大金を拾ったことで動揺してて、「違うんだ、違うんだ!」と叫んで、逃げさってしまう。
このあたり、トイレでの清掃シーン、強盗が入るシーンなどが、映画の冒頭から何時間前とかモザイク状に示されてて妙に思わせぶりなのが、それもらしくないなあ、と思う。唐突な気がするんだよね。それ以降も、何ヵ月後、とかいうのも出てくるんだけど、前半の緊密さに比べて、唐突な気がするっていうかさ……。

この強盗さんと海まで逃亡を続け、廃屋で一夜を過ごすことになる。まあお約束的にちょっと襲われたりなんていう画もありつつ、でも彼女はそれを受け入れない。かといって逃げることもしない。そこらへんが女心の不思議さなのか、夜の波間に身を横たえて漂ったりする。
翌朝、目覚めてみると強盗さんも車も消えていて、砂浜には海に向かった轍がくっきりと残されていた。
ボロボロになって家に戻る彼女、強盗に襲われたままの家に、先に次男が帰っていた。ごはんを作って食べているうちに、夫も帰ってきた。夫は車に轢かれかけて路肩で倒れたまま一晩、落ち葉だらけになってた。
「お父さん、ヘンなカッコ」次男に言われても反論もしないまま、食卓につき、外で電車がガタゴト言う音を聞きながら、黙って食事をとる三人。黙ったままの食卓はいつもと同じだけど、様々な時を過ごした三人がガツガツと胃を満たすその場面は、これまでとは違っていた。

そうそう、次男もこの一晩、大変な目に遭っていたのよ。忘れてた。もう、この一晩、内容濃すぎる。
次男はね、ピアノの一件で、絶望してた。途中、友人に行き合った。この友人、親に暴力を振るわれて、家を出ていた。追って来た父親を含めた大人たち三人から逃げ惑った。
公園の茂みに身を隠し、彼は喘息の発作をおこした友人のためにジュースを買ってこようとその場を離れた。友人が必死に、一人にしないでくれと懇願したのに、すぐ戻ってくるからと……。その間に友人は、残酷にも父親を筆頭とした悪魔のような大人三人に引きずられて、連れて行かれたのだ。

次男、もう、本当に絶望してしまう。家を出ようと思い、長距離バスにもぐりこもうとして無賃乗車容疑で捕まった。頑なに黙り込む彼に、これまた大人気なく怒った刑事は、「大人と同じ扱いをするから。それでいいな」と指紋をとり、牢にぶち込んだ。
それは、イマドキのナマイキな子供に対する厳しい処置だと言ったらそうも言えるのかもしれない。でも……そのコドモがあんたら愛のない大人たちのためにどれだけ傷つけられているかということに思いが及ばない社会の、救いのなさってことなのだ。
……だからさ、そういう社会的通俗性ってのが、黒沢作品にはなかったことだから、なんか、こういうことを思えば思うほど、何か居心地が悪くて。
でも、そうした通俗性をまとったシチュエイションで、黒沢監督は残酷なまでの冷たい画を用意している訳で……だからそれは、バランスがとれているのかなあ。

そして、数ヵ月後、次男は名門音楽系中学の入試で見事な演奏を披露し、百戦錬磨の試験官たちを惹きつける。
付き添って試験の演奏を聞きに来た二人、父親は息子の弾く「月の光」の叙情的なタッチに、見開いた瞳から震えながら涙を落とした。
同じく付き添いに来ていた親たちからの刺すような視線の中、誇らしい気持ちで親子三人、その聖なる光が息子を照らし出した場所から堂々と出て行った。

うーむでも……ピアノの吹き替えが、大事な場面で明らかに判ってしまったのが辛い。大事な場面だからこそ、そこは上手く逃げてほしかった。

この家族、この大人たち、子供たちよりも、黒沢監督がこれからどこへ行くのかが、気になってしまう。★★★☆☆


同窓会
2008年 105分 日本 カラー
監督:サタケミキオ 脚本:サタケミキオ
撮影:小松原茂 音楽:矢田部正 西田和正
出演:宅間孝行 永作博美 鈴木砂羽 二階堂智 阿南敦子 飯島ぼぼぼ 尾高杏奈 兼子舜 渡辺大 西村清孝 北村一輝 佐藤めぐみ 伊藤高史 戸次重幸 片桐仁 渡辺いっけい 兵藤ゆき 中村獅童 うつみ宮土理 笑福亭鶴瓶

2008/8/29/金 劇場(シネマート新宿)
世の中的には、永作博美主演作品ととらえられているのか、それともサタケミキオ初監督作品ととらえられているのか、はたまた彼が主宰し、別名で主演、以下の役者たちを抱えるセレソン印の映画ととらえられているのか?
まあ、そう、“世間的には”最初の要素からデクレッシェンド気味というところなんだろう。私だって昨今大活躍の女優、永作氏目当てで足を運んだところがあるし。
ただ、あまりにシゲちゃんが絶賛するものだから、東京セレソンデラックスの舞台、一度観に行ったことがあるのだ。一度……一度だけ。ちょっとね、私はダメだった。
いや、素晴らしいとは思った。構成力も、物語力も、いわば完成度200パーセントなぐらい。でもそのあまりの救いのなさに、突き放された感じがして、どっと落ちてしまった。
なんつーか……ハマる人はハマるんだろうなと思うし、それこそ演劇人には響くところが多いんだろうとも思う。でも私はそれ1回でなんか、苦手印がついてしまったのだ。

で、本作はだから、なーんとなく構えた気分も持ちながら足を運んだんだけど……あれ?なあんか、あの時あんなにずっしりこられた感じは……ないなあ、なんて。
うう、なんかね、こういう言い方はヘンケンだってことは判ってるんだけど、演劇界で名を馳せた人が作る映画ってなんか……ピンとこないことが多い、ような気がするんだよね、今まで。ケラさんしかり、松尾スズキしかり。その舞台を見てみれば圧倒される面白さなのに、なんか、来ないのだ。
それこそこういう言い方はヘンケンなのだろうと思うんだけど……やっぱり演劇と映画は違うと思う。作り方もそうだけど、それに長けた才能も。演劇に才能を発揮する人が、映画に才能を発揮するとは限らない、というか、ベクトルが違う気がする……。

なんていうかね、演劇は、主宰者や演出家がいるとしても、最終的にはその舞台に立つ役者のものだって気がするのだ。板の上に乗ってしまえば、もう誰も手出しは出来ない。その役者たちのテンションやコラボレーションや、あるいは観客の反応だってその要素の中に入ってくる。
でも映画は、スクリーンの中の役者は演じたカットがどんな風に切られて使われているか判らないし、勿論それに対峙する観客が役者の演技に影響を与えるなんてこともあり得ない。
誤解を恐れずに言えば、映画は監督のもの、って思うんだよね。どんなにスターがオーラを放っていたって、結局は。
本当に根本的に、スタンスが違うものだと思うのだ。だから“役者のことを判っている監督”と言われる人が、優れた映画を作るとは限らないっていうのがそうで。あるいは役者が監督したがるのは、そうしたスクリーンの中の自分が希望通りにいかないストレスなのかもしれない。

と、なんか関係ない方向に話が行ってしまったけど……でもその観点でこの作品を考えると、なんか色々とうがった見方をしちゃうというか。
まずね、オチ、バレバレ過ぎじゃないかと思うんだよね。しかもかなり早い段階で。しかもしかも、メインオチもサブオチも。
ただ、それがまた微妙というか。私のような、ミステリに簡単に騙されるようなヤツが(ほんっと、恥ずかしいぐらい、犯人予想が苦手なの)、あまりにすっぱりオチが見えちゃったもんだから、これってそれが目的なんじゃないかと思ったんだよね。
つまり、観客の全てがオチに早々に気付いて、ただ一人気付かない主人公に、おいおい、まだ気付かないワケ?お前、バッカねー、とハラハラしつつ苦笑しつつ見守る、っていう。

そんな風に見えなくもないのよ、確かにね。でもそれならそれで、観客に対してもっとハッキリとその手の内を先に見せているかなあという気もするし……。
だって、映画が始まる前に、まずこんな言葉を提示しちゃうんだもん。
「勘違いは人生の最大の悲劇であり喜劇である」
そんなこと、最初に掲げちゃったら、それを意識して観ちゃうじゃん! だから、もう、最初から早めに気づくこと前提だったんじゃないかって思いを強くしてしまう。でも、その割には、描き方がそれに対して及び腰に見えるしなあ。

なんて言ってても、何のことやら判らないから、まあまず物語の方をね。主人公の南克之(宅間孝行)、通称“かっつ”は映画プロデューサー。冒頭はその撮影のシーンから。
一見、このシーンが物語の始まりかと思いきや、プロポーズがめでたく成就したところでカットの声がかかり、映画撮影の場だと知れる。演じた主演俳優(キザな北村一輝!)は、これって奥さんに言ったプロポーズなんでしょ、とバラし、かっつは大慌て。なぜかってーと、その相手役の女優と不倫の真っ最中だったからなのだ。
当然、その女優はブンムクレなんだけど、彼が奥さんとの離婚届を目の前にかざすと、オドロキの笑顔を浮かべる。

奥さんの雪は、かっつの初恋の相手だった。高校時代、将来映画の仕事につくことを夢見て映研に捧げた日々、いつもカメラが追っていたのは水泳部女子キャプテンで、キラキラ輝いていた雪だった。
そのかたわらにはいつも男子キャプテンの中垣がいて、やけに仲が良くて、隠し撮りは得意でも積極的にアプローチ出来ないかっつは、二人の仲の良さに歯噛みするしかなかったのだ。
しかし現時点で、かっつは雪を嫁さんにしたというのに、女優と浮気をして彼女と別れようとしている。一体何が起こったのか?

なんかね、かつての同級生、その過去の純粋な思い、それまでの時間で築かれた過去や謎とか、ちょっと「アフスク」っぽいよなと思いつつ、でもその仕掛けられたナゾはバレバレなんだけどね。
雪と別れてから、かっつが故郷で映画制作のために奔走する場面、そして雪が入院する場面、二人が青春を過ごした高校時代、そして再会し、結婚、苦労した時代等々が、モザイク状に示される。
それらはメインオチ、サブオチを次第に明らかにしていくためのキーワードを徐々に徐々に示しているわけだけど、それが早すぎたのか、あるいはそれも含めて確信犯なのか?
あるいは単に、80年代の懐かしい雰囲気を描くことが目的だったんだろうか。チンピラ学生とのケンカ、チェリオ、「元気が出るテレビ」の「勇気を出して初めての告白」なんてコーナーまで絡めてくるあたり。

もう、メンドくさいから、言っちゃうね。かっつは雪がもう三ヶ月の命だと思い込んで、彼女が高校時代から思い続けていた中垣に会わせてやろうと奔走するんだけど、その二つともがカン違いだったわけ。
高校からの親友である石川えり(鈴木砂羽)、通称“ひめ”がかっつに「雪は言わないつもりみたいだけど」とせっぱ詰まってかけてきた電話。「医者から、三ヶ月だって言われたって」と彼女は告げる。
ただ三ヶ月、ってだけで、「あと三ヶ月の命」とも言ってない。そしてひめは絶句する彼に、「何迷ってんの。大事な命じゃない」とも言う。これも、普通なら「残りわずかな時間」とかいう言い方をするよな、とこの時点で既に違和感を感じてしまう。三ヶ月だって言われたら、妊娠でしょとフツーに思ってしまう。
つまりね、最初からヒント与えすぎなんだもん。

それどころかかっつが、みんなに大人気だった雪となぜ別れたかって責められる場面、やっぱり子供が出来ないからか、と言われて、それもある、と認めるでしょ。
そこにあまり印象を残さないようになのか、別れ話を切り出した時、アッサリ受け入れられて、こっちがフラれたような気分だった、なんて方向性を強引に変えるけど、これってさ……男性は判んないけど女性は、この台詞は聞き捨てならないからさ、やっぱり印象に残っちゃうからさ。
子供が出来ないから、自分の分身が欲しいから、他の女に移るのかよ!とか思っちゃうからさ、その感覚が頭にずーっと残っているから、オチに早めに気付いてしまうのかもしれない。

そう、雪は妊娠して倒れたんだよね。もういい年になってる。かつての同級生たちはフツー?に子供を持っている人たちも多い。同じ水泳部のマネージャーだったメガネッ娘のわだまさなんて、自分にソックリのメガネ娘二人と旅館を切り盛りしている様子が実にユーモラス。
でもその描写も、女はこうあるべきと言われているみたいで、うう、私、ちょっとヒガミ過ぎか……でもさ、雪の親友のひめだって、私の目からは凄いカッコ良く見えるけど(砂羽さん、カッコイイ!)上司と付き合ってる彼女を、さすがたくましい、上昇志向だよな、なんて言い方するのも、ちょっとムカつくのだ。
確かにそういうキャラ設定ではあるけれど……なんかね、女は幸せに結婚して子供作って収まるべきだろ、みたいな視線をついつい感じてしまうのよね。……ホントに私、ヒガミ根性だな……。

でね、だから、かっつが子供が欲しいと思っていたこととか、そのことに雪も気づいていたとかいう描写が結構ふんだんに取り入れられるから、ヒント出しすぎだってさ。
でもさー、世の中不妊症に苦しむ話題も多いのに、子供が出来ない=女が原因みたいに別れるっつー設定も、どうよ。だってこのコメディの中じゃ、不妊の原因がどちらにあるのか調べるような場面も入り込んでこないしさ。
いくら最終的にナゾが解けてハッピーエンドでも、納得出来ない気持ちしか起こらないよ。なんつーか……ウカツだって気がする。

でね、もうひとつのオチ。かっつがずっと、雪が思い続けてきた相手だと思い込んでいた中垣君が、実は心は女の子な男の子だったってこと。これは、雪が実は妊娠していたっていうのに気付いちゃうと、芋づる式みたいな感じで?判ってしまう。
まずかっつが、雪が心に思い続けてきた男がいる、っていうのを、自分が雪と別れた言い訳みたいに使っているところから、それは違うだろ、って目で見始めると、容易に判っちゃうんだよね。
まあ、その青春時代を演じる若い二人が、ちゃんとそうした、女の子同士な感じをかもし出しているっていうのが大きくて。中垣君は常にかっつに接触を図ろうとしているし。

そして一番大きいのは、雪に会わせてあげようと、かっつが中垣君を探し出すに至ってから。
雪は中垣君を結婚式に呼んでいた。しかし、当日も、そしてビデオを何回見ても、かっつは中垣君を確認することが出来なかった。そのことに雪は「気付かなかったでしょ」とほくそえむ。
この時点で、もうパズルがピタッと合っちゃうんだもん。ああ、中垣君は女の子のカッコで来ていたんだろうって。判るの早過ぎるんじゃないかなあ……。
そうなると、かっつが勝手にカン違いをしていた、「中垣君からもらった万年筆」を雪が大事そうに使い続けていることも、実はこれもかっつが覚えていないだけで、アンタがやったんじゃないのとか思ってると、その通りではないにしても、割と当たってて。
中垣君がかっつの筆箱からコッソリ失敬したのを、結婚式の時に雪に返してきた、というエピソードが、後に示されるのだ。

その後も、そうした確信を後押しする要素が続出でさ。
「中垣健太郎」の名前でネット検索してもヒットしないし、実家の寺に行ってみても「あいつは勘当した!」と住職である父親が苦々しげに言うし(私はここで、「あいつは息子じゃない!」とか言わせるのかと思ったんだけど、さすがにそこまでベタなことはしなかった(爆))、転出した先は新宿だし。
もうとっくにバレてるって!と心の中でバッテンマークを出しちゃうのよね。

で、まあ最終的に、この二つのオチがキレイにクリーンヒットするわけで……。かっつが音頭をとった同窓会に来た中垣君は、ハデな厚化粧で中垣アンナという名前を披露し、「私、アンタにホレてた。雪だけが私の理解者で、親友で、同じ相手を好きなライバルだった」ことを告白し、かっつは全ての誤解にぶち当たり愕然とする。
雪の容態が急変したと聞いて、泣きながら駆けつけたかっつは、再び彼女にプロポーズし、それは雪がもう死んでしまうと思ったからなのに、あれほど望んだ赤ちゃんが授かったことを知るんである。呆然としつつも、めでたいハッピーエンド。
で、でも、これでいいのか??

なんかね、こんな、今の時代にね、あんなアナクロな“オカマ”チックな姿で中垣君を登場させるのはどうかと思ったんだよね。中垣君は青春時代の描写からも、純粋なる性同一性障害でしょ?壇上で挨拶する“彼女”もハッキリそう言っているし。でもあれって、世間のイメージする“オカマ”という偏見アリアリな姿じゃないかなあ……同性愛とも混同してるし。
コメディだって前提でも、ちょっと特に今は、マズいんじゃないの。ノドボトケ、くっきり過ぎじゃん。それこそ舞台ならいいんだろうけど……なんて思っちゃうのこそ、偏見なのだろうか。でもフィルムは半永久的に残るもんだからさあ……。

かっつが青春時代から映画を愛して、長じた今、夢をかなえて映画プロデューサーとして奔走しててさ、で、その夢を奥さんになった雪が支えてるでしょ。
でも彼女は高校時代、弁護士になりたいって夢を卒業アルバムに書き残してて、彼と再会した時も、弁護士事務所に勤めながらアルバイトをしていた。
そのことを彼女が来なかった同窓会で聞きつけて、助監督をしながらもアルバイトをしないと生活できない自分と同じだ!と勇気を得て、憧れの彼女と連絡をとるわけだけど……。
この、雪が弁護士になりたかったという夢を、同じアルバイト仲間だ、って潰したのかと思うと……だってその後、彼女は彼の映画制作会社で頑張りすぎて体調を崩したりする訳だし……なんっか、納得いかないんだよなあ。

ところで、妊娠三ヶ月だった雪を、あと三ヶ月の命だとカン違いして、同窓会開催にこぎつける、てことは、その三ヶ月以内でコトは運んでいる訳でしょ。それで出産しちゃうって……凄い早産だよね!まあ、いいか……。

全編九州弁なのは、凄くイイ感じだった。特に永作氏がこういう言葉を喋るとメチャキュート。
確かにその魅力、そして80年代のオクテな学生達の甘酸っぱい魅力はあるんだよなあ。兵藤ゆき姉も、年をとらないからそのまま「勇気を出して初めての告白」をやれちゃうんだもんね。★★★☆☆


闘茶 tea fight
2008年 102分 日本=台湾 カラー
監督:ワン・イェミン 脚本:山田あかね
撮影:陳志英 音楽:ショーン・レノン
出演:香川照之/戸田恵梨香/ヴィック・チョウ/細田よしひこ/エリック・チャン

2008/7/22/火 劇場(渋谷シネマライズ)
タイトルからも、ポスターを見ても、どんな内容なのか想像もつかなかった。残念ながら予告編には遭遇できなかったので、久しぶりに完全に未知の状態で足を運ぶワクワクを味わう。
んー、本来映画はこうあるべきだなと思いつつ……前宣伝で露出の多い映画は、もうそれだけでお腹いっぱいで観た気になっちゃうし、観た後ですら印象に影響を与えてくるからなあ。

中華圏の映画に出演する日本人俳優として、ある意味その存在を確立させたとでも言いたい香川照之が、しかしその意味では初めて全般的に日本語を話す日本人としてそこにいるという新鮮さ、そして、香川照之が西の言葉を話すという更なる新鮮さに喜んでしまう。
いやー、これは想像だにしなかった。でも日本で、茶道で、伝統のある家とくれば、そりゃ京都ということになるもんなあ。
しかし彼の喋りは京言葉というより“関西弁”と言った方がしっくりとくる。まあ、言ってしまえばガラが悪いんである。いまや茶の道を捨てたフリーターのダメ親父である彼に、伝統のある茶の道の血筋は見られない。

そんなダメ親父にため息をつきつつ、茶の道に進みたいと思っている娘、いやそれ以上にダメ親父に立ち直ってほしい、そのために自分が茶の道を勉強したいと思っている美希子に戸田恵梨香。
今までワキで見てきた彼女はどうもピンとこなかったが、メインを張る時は気合いが入るのか、なかなかに凛々しい美少女ぶり。笑顔のアップで若干歯茎が出るのが気にはなるけれども。

冒頭はね、いわば前フリとも言うべきアニメーションから突入するんだよね。流麗な水墨アニメーション。茶を飲むのは人間だけ、そのルーツを探る、遠い遠い昔々の物語。
中国の山奥と思しき、とある地域に生まれた黒金茶の呪われた歴史。高級茶とされた黒金茶は更に雄黒金茶と雌黒金茶に別れ、前者を飲むと凶暴で攻撃的に、後者を飲むと穏やかで優しくなれた。だから双方が交わることはなかった。
しかしある日、雄黒金茶の権威をかさにきた男が、雌黒金茶を蹴散らしたところから端を発した争いが起こった。そこに居合わせた仲介者は日本人、八木宗右衛門だった。
八木が審判員となった「闘茶」で、彼はどちらの茶も、ひと味足りないとつぶやいた。雄黒金茶を立てた男は激昂し、火を放ち、雌黒金茶とその集落は絶滅した。

しかし、命からがら逃げ延びた八木は、奇跡的に雌黒金茶の芽を守り、日本に持ち帰った。その祖先が八木圭(香川照之)であり、その呪われた歴史によって、妻が死んでしまったと彼は信じている。
雄黒金茶は争いを生む危険な茶だとされ、表の市場には出てこない。台湾に渡り、闇取り引きで法外な冨を産んでいるという。そしてその取り引きの若きボスであるヤン(ヴィック・チョウ)は、雌黒金茶を探していた。 父親を立ち直らせたいと、黒金茶の存在を口にしてネットを徘徊していた美希子が、このボスに引っかかっちまうんである。

かなり、ポップな描写なんだよね。物語が茶で、茶道で、いわば静だから、展開が落ちすぎないよう、意識的にそう施している感はある。もうこういう描写も王道になった、チャットの文字がカシャカシャとタイプするのとか、そのチャットの二人が分割場面になったりとか。
しかし美希子が、ノンキに仲間を見つけたとか思っていたその雄黒金茶の持ち主であるヤンは、そんな危ない男だった訳だが。
そのチャットの要望に応えてメイド服姿の画像を送ってみたり、それどころかその姿でバイト先の古風な和菓子屋の店先に立ってみたり。

茶席での親子喧嘩も強烈。お茶とは関係を切った、勿論娘にもそんなことはさせないと息巻いて、台湾のお茶の学校の資料を破り捨てた父親に反発し、黙って茶会に出席した美希子、そこに乗り込んでくる父親。
若くてイイ男の茶人にのぼせたのか突然倒れる娘に(?まあ、理由はさだかじゃないけど)、乗り込んできた父親は頭に血がのぼっちゃって、これぞ黒金茶の呪いだ!と叫ぶのね。
目を覚ました美希子は、もうイイカゲンにして!だったら私がその呪いを解くから!と、茶室で父親と大立ち回り。優雅な着物の裾が割れてドーン!とすっ転んだり、ハデに喧嘩しちゃう。

んでもって、飛び出した美希子を探して、彼女に恋するバイト先の男の子、村野(細田よしひこ)がマヌケな探し方する描写も、妙に好きである。
美希子がいつもエサをあげてた錦鯉に「見なかった?」と聞いてみたり、甘味屋のオバチャンには「昨日来たよ」と言われて、昨日じゃなくてー!と叫んでびゅーんと走ってゆくあたりのアホ加減が、もー、可愛くてね。
村野はかなりヨワ系の男子で、美希子に対して積極的な割には頼りないことこの上ないんだけど、一心に彼女にホレている感じが、イイんだよなあ。
でね、父娘がケンカするこの大仰な場面が、後に父親が茶室は宇宙である、その深遠なる世界の魅力を思い出す場面を際立たせるために、大いに役立っているのだ。

それは、この映画の立ち方自体がそうかもしれない。こんなこと言ったら、全然違うよ!って言われちゃいそうなんだけど、なんかふとね、「孔雀王」なんか思い出しちゃったのだ。勿論、映画版の、三上博史の方のよ。
東洋の所作の美しさ、静の美しさが、ポップやアクションを押し出した作りにすると、ギャップの強さで際立つっていうのが。クライマックスでは台湾の若い男女の茶人と香川照之が闘茶で激突するんだけど、日本代表である香川氏一人が、静の茶道を粛々と進めてて、カット割なりスローモーションやCGの多用はあれど、彼一人が、非常に静の魅力に溢れているのよ。

まあ、そこに至るまでには色々とあり、この若い男女はかつての恋人同士だったりして、この闘茶に関しては様々な葛藤がある。
なんかかつての「チャイニーズゴーストストーリー」を思わせるような、流麗なアクションで茶に挑む二人と(勿論男女の違いで、茶道の個性は違うんだけど)、ひたすら侘びの、静の世界を追及する香川照之とでは、ハッキリと違ったんだよね。それを描いたのが日本人監督ではなかったのが、なんか悔しかったんだよなあ。

でも、この映画の成り立ちは、日本人の脚本賞を受賞した作品なのだから!
いや、ナゾだったのよ、こんな不思議な映画がどうして産まれたんだろうって。凄く興味の惹かれる世界ではあるけど、いわゆる国際的規模で映画という大きなプロジェクトを進めるのに、よく通ったなというような……。でもそれだけに、本当に興味を惹かれた。
アジア間で作られる映画、キャストの比率がほぼガップリであるというのは、意外に今までなかったこと。どちらかが一人乗り込むとか、他の国をただ舞台にして日本人だけで作っちゃうとかはよくあるけど。
しかも近いアジア人同士だから、見た目ではカルチャーギャップなんて判らない。その不思議さが、一層不思議感覚を際立たせる。

見た目にギャップがないから、娘はイケメンのヤンにひと目で惹かれてしまうのだし、父親の方も巧みにボディータッチをしてくるルーファ(ニン・チャン)に「道を踏み外すところでした」というところまでいっちゃう。
ことにこの八木とルーファとのシーンはかなり妄想系に深いタッチで描かれているので、見ているこっちが道を踏み外しそうになってしまう(爆)。
水槽の中で徐々に開いていくドライフラワー舐めの画や、魔力のありそうなハーブティー、多面鏡を使った麻薬的効果のある画など、アーティスティックなカッティングに酔いしれる。
美希子の方に多用されるポップなそれと対照的に、こちらは明らかにアダルトで、非常に緩急が効いてて、飽きさせないのだ。

そうなの、ちょっと油断すりゃ、飽きそうな題材ではあるのよね。なんたって静の、茶道なんだもん。でも呪いの歴史というファンタジーと、マフィアばりの闇取り引きのヤバさ、異国の地というスリリング等々、いろんな要素が絡み合って、非常に魅力的。
呪いの歴史にとらわれていたのは、むしろこの八木ではなく、恐らくこの若いカップルの方。ヤンは、家系が携わってきた、茶が汚い金儲けに利用されているのに心を痛めて、茶を知りたいと思った。純粋な気持ちだった。
そして、お茶の学校で出会ったルーファと恋に落ちた。彼女は雌黒金茶の祖先だったのかな?なんか劇中では明確にされてなかった気もするんだけど……だから、彼が雄黒金茶の跡とりであることを知って呆然とする。

でも、この歴史にはもうひとつの伝説があったのだ。闘茶の場に居合わせた幼い子供が、残された二つの茶を混ぜて飲んだら、龍になって天高く昇っていったという伝説。
それは、何を意味していたのだろうか。下世話なことを思ってしまうのは、やはり下世話な大人だからなのだろうか。
やっぱりね、思っちゃうよね。男と女の、幸せな合体を。
龍が天に昇るなんて、まんまオルガスムス、エクスタシーじゃないの。
それを幼い子供に託すなんて、いや逆に、そこへとつながっていくなんて深読みもしたくなる。
どうしてヤンは、雌黒金茶を探し出すことにこだわったのか。究極の茶を作ることか、それとも雄黒金茶をナンバーワンにするために、改めて潰すつもりだったのか。
いやきっと、雌黒金茶は、やっぱり愛する彼女につながっていたんだよね。

一方、八木は、黒金茶とは離れて、天下一の茶を作ることに没頭していた。
出来上がったら、愛する妻に一番に飲んでもらうつもりだった。でも、没頭して家族を顧みない間に、不幸な事故で妻は死んでしまう。
それを彼は黒金茶の呪いだと思ったけど、自分の過ちに目を向けたくなかっただけかもしれない。
最後の最後にね、物語はこう締めくくるのだ。茶はただの茶だと。呪いなんて、ないんだと。
呪いの伝説はきっと、人間の弱い心が生み出したもの。
それを、まあ、ベタな言い方だけど、娘の愛が溶かした。

クライマックスは三つ巴の闘茶。台湾に渡った美希子が入学しようとして拒否されたお茶の学校の先生、ヤンとルーファを育てた先生が、それを見守っている。
更に、いつも物語の端々に現われて、彼らの騒動をニコニコ見ている不思議なオッチャンが、やはりスルリと入り込んで、この場を見守ってる。演じるのは私大好き、才人エリック・ツァン。彼はなんか、時空を超越したオーラがある。
闘茶は、過去に語られた歴史でも、れっきとしたファイトで、第三者が競技者の作る茶の、味や香りのみならず、気泡の立ち具合、所作までをも審判する闘い。現代の時間でも、ヤンが一世一代の大勝負で高い茶を売りにきた貧乏夫婦を、闘茶でコテンパンにやっつける場面が用意されている。
そんな風に競技としての厳しい場面が用意されてはいるけれど、でもなんとなく違和感を感じていた観客の気持ちを、最後には溜飲を下げてくれる。
茶は、茶道は、あくまで静であり、静とは、まず個である、一人であることなのだと。
闘いがあるとすれば、それは己との闘いなのだと。

最初は、八木が作った最強のお茶で、娘の美希子が闘いの舞台に立った。しかし、石臼を引いているうちに手が震えてきて、この茶で闘うのは自分であるべきだと、八木が交代した。
それは勿論、愛していたのに今まで背を向けてきた茶への思い。

茶をたてる所作は、三人それぞれ非常に美しいのだけど、やはり、一人、静である香川照之に釘づけになってしまう。
石臼で茶葉を抹茶になるまで挽く。羽根で丁寧にはき寄せる。そんなのを見ていると、胸の辺りが官能に似たときめきでザワザワうごめいてしまう。
たて終わった茶を、八木は審判員に差し出さず、お前のためにたてたのだと、娘に差し出した。
見守り続けていた美希子は、躊躇なく口にした。
彼女は父親がいれてくれるお茶が、大好きだったのだ。だから、彼が茶から離れたことが悲しかった。
茶をたてている父親の姿だけで、カッコよかった!と満面の笑みの彼女は、茶を喫し、父親に抱きついた。
あー、いいなー、なんか、スゲー、萌える!
その後に、同じように自分自身の抑えてきた気持ちと闘ってきたかつての恋人同士、ヤンとルーファが、お互いの気持ちを解放して確かめ合う場面より、萌え萌え!
だって、やっぱりそこはかとなく、香川氏は色っぽいんだもん。静かに茶をたてる姿、ゾクゾクきたわー。

闘茶の敗者は、一生屈辱を負うというのがね。
ひょっとしたら祖先の八木宗右衛門は、それを懸念して双方にひと味足りないと言ったのかも。
ひどく日本的な発想だけど、かえって残酷で、血塗られた呪いを作り出してしまった?
でも、お茶はただのお茶、闘いは他人とではなく、己との闘いなのだと結論づけられる。
そして八木は京都に戻り、それまでのフリーター生活から足を洗って、先祖代々のお茶の店を復活させた。
湯を注ぐ音は川の流れの音。
茶せんの音は、せせらぎ。
茶室の中で一人瞑想するように茶をたてる八木は、この狭くて、しかし不思議に解放的な空間に宇宙を感じている。
香川照之が、美しい!

このアジアンミックスな映画、更にどちらの言葉も判らない欧米から見たら、一体どんな風に見えているのだろうという興味も沸く。
しかも茶の本場の中国じゃなくて、台湾っていうのがね!

しっかし制作日記を書いているのはプロデューサー?本作の監督が部下の夫で、いとこがショーン・レノン!?スゴすぎる!★★★☆☆


東南角部屋二階の女
2008年 104分 日本 カラー
監督:池田千尋 脚本:大石三知子
撮影:たむらまさき 音楽:長嶌寛幸
出演:西島秀俊 加瀬亮 竹花梓 塩見三省 高橋昌也 香川京子 大谷英子 赤堀雅秋 浜田晃 利重剛

2008/10/3/金 劇場(渋谷ユーロスペース)
新しい作家のデビュー作を観るのはいつもワクワクする。その作家さんがとても才能ある人で、あるいはとてもファンになっちゃって、その後大きくなっていく様をリアルタイムで追いかけられる幸せを、先に予測して噛み締めて悦に入れるから。
一年に何人もの作家さんがデビューして、その後を追いかけられる人が一握りであることが判っていても、それでもいつでも、ワクワクするんである。

この監督さんは、黒沢監督の肝いりだという。その時点でちょっと腰が引ける。
黒沢監督は追いかけている監督の一人だけど、時々、というかいつも大なり小なり難解で突き放される作家さんであるから。
しかもその彼が“戦慄した”という“不可解な長回し”があるなどと聞けば、ただでさえ長回し恐怖症の私は腰が引けまくりだったのだが。
……でもその“不可解な長回し”って実際、どこにあったの……?(気付いてないあたり……)
まあそれはともかく、それでも西島秀俊と加瀬亮の顔合わせという、あまりにも魅力的過ぎるキャスティングと、不思議に心惹かれる文学的なタイトルにつられて、劇場のシートに身を沈めた。

実際には加瀬亮と西島秀俊は劇中設定ほどには年は離れていないけど、やはり新旧の映画俳優共演、というスリリングを感じる。
映画の黄金時代がすっかり今は昔になった昨今は、舞台出身の俳優こそが実力派であるみたいな風潮になった。でもそうした役者さんたちは、スクリーンの中だとなんかちょっと大味で胃もたれ気味でね。
この二人は数少ない、映像で純粋培養された役者さんなんだよね。それは、観客に伝える演技ではなく、スクリーンに焼き付ける演技をするっていうことで。
映画バカな私としては、舞台の芝居に圧倒される一方で、やっぱりやっぱり、こういう役者さんじゃなければ映画はダメだと思ってしまうんである。ことに、こうした日本的な映画では。

そう、これは良かれ悪かれ、日本的な映画だ。役者の演技も、そうしたものが要求される。観客に伝える演技じゃなくて、スクリーンに焼き付ける演技を。
良かれ悪かれなどと言ってしまったのは、なんかそういう、映像至上主義みたいな感じがあって、判りにくい物語じゃないと思うのに、なんか根本的なところで伝わりにくいというか、そんな感じがしたのだ。なぜだろう。

この物語は、古いアパートを介在させて、そのアパートに思い出のある世代と、その孫である青年世代とが時間を共有し、あるいは乖離させ、最後には共に溶け合っていく様を描いている。
タイトルとなっている二階の女とは、その部屋にかつて住んでいた、オーナーの老婦人だということが中盤あたりになって知れるのだけど、それが明かされるまでその部屋はカギのかかったままの開かずの部屋で、その部屋に通じている押し入れの中の穴は、願い事がかなうと言い伝えられていた。
つまりなんだか、異次元的な、時にはホラー的な雰囲気さえ、あるんである。

そうなの、私はホラーかと思った。だってあの黒沢監督に師事している人なんだもん。その開かずの間の、誰もいないはずの窓にうっすらと人影が映るんじゃないかと、なんだか緊張して見ちゃったもん。
でもそういう方向ではなかったのだ。その部屋は、あるいはアパートは、この婦人、藤子さんの、あるいは西島秀俊扮する野上の祖父の、そして彼の戦死してしまった弟で藤子さんの許婚であった男性も含めて、青春の友情と愛の満ち満ちた、特別な場所だった。
女子アパートとして機能し続けたことも、そんな甘美で苦い青春の日々の賑やかさを、想像させた。

そういえばね、このアパートに越してくることになった、加瀬亮扮する三崎が、押し入れのドアの裏にびっちりと貼られているポスターに、「なんですか、このカラフルな人たちは」と笑うのね。すると西島秀俊が、「……CCBだ……」とつぶやく。
実際は加瀬亮だってCCBは知ってる年だろうと思うんだけど、ここで恐らく加瀬亮が西島秀俊とは10ぐらいの年の差の設定であるだろうと察しがつくんである。
それはとりもなおさず、この新旧の映画俳優の間に横たわる10年であり、その10年は、CCBを未知のものにしてしまうのかと、感慨を持たずにはいられないのだ。
なんかこの、CCBっていう選択がまた、絶妙というかなんといか……私最近、彼らのベストCD、買っちゃったりしてたから、余計にヘンに感慨深くてさ。

あ、これじゃ、彼らの関係も何も全然判んないわな(爆)。
三崎は野上の会社の後輩なんだよね。なんかこの先輩を、理由もなく盲目的に崇拝しているような感じ。
冒頭で三崎は、カノジョとのデートの最中、野上の見合い場面を目撃する。そのデートっつーのもなんかビミョーで、湖にスワンボート浮かべてっつー、ホントビミョーで。
ていうのも、その前の博物館デートにカノジョが飽きちゃって場所換えしたんだけど、もうこの時点で二人の距離をアリアリと感じるんである。

というか、この時点で三崎の浮き世離れしたというか、ちょっと夢見がちで子供っぽい部分を感じもするんだけど。
でも、それが現代の社会人としてただ弱いと断じられる社会こそがおかしいんである、みたいな、彼がアフリカへと旅立つラストは、なにかこそばゆい思いもある。
一方で、ああ確かに、そんなつまんない社会の価値観に私たちは毒されているのかもな、とも思い。

そのカノジョは、会社の同僚なんだよね。野上の辞職に乗る形で辞めちゃった三崎を、聞いてないよ!と糾弾しまくる。
居候していたカノジョの部屋にいづらくなった三崎は、野上のいるアパートに越してくることになる。
しかも、野上と見合いした涼子(竹花梓)も、ちょうどマンションの更新料が払えなくなって困ってた、などと言い出して、便乗してくるもんだから、野上は大いにあせるのだ。
彼はこのアパートのある土地を売ってしまおうと思っていたから。というのも、亡くなった父親の残した莫大な借金が彼に重くのしかかっていたのだ。
もう貯金も使い果たして、この後の人生、利息だけでもバカにならない借金を返し続けなければいけない。

野上の祖父が持っているこのアパートが建っている土地を売れば、借金が返せる。しかし祖父はボケているんだかそんなフリをしているんだか、何を言われてもまるで動きを見せないのだ。
いや、最終的には聞こえないフリをしていたんだと判るんだけど、それは野上にだって最初から判っていたんだろうけど。
イラだった不動産屋が、「本当は聞こえているんだろ、イイカゲンにしろよ」と暴言を吐くと、野上自身がその言い様にガマン出来なくなって、追い払ったりする。むしろ、そうして揺さぶりをかけてほしいと野上こそが望んでいた筈なのに。
それが、最終的にはこのアパートを残すことを決断することにつながっていくんだけど、ただ……なんかね、見る限りでは、その思いを感じさせるには弱かった気がするのだ。

野上が涼子と見合いをしたのは、彼女が庭付き一戸建てに住んでいるとウソのプロフィールを出していたから。
つまり、借金だらけの彼が会社を辞めてもやっていけると踏んだから。彼は彼女に、自分が会社を辞めるつもりだとは言わなかった。
涼子のプロフィールは全然ウソで、実家は地方で、自分はフードコーディネーターとして女ひとりのキリキリの生活をしてる。
田舎の両親を安心させるために見合いサイトを通じて野上と会った涼子は、勿論安定した経済状態の男を望んでいたわけで、会社を辞めた彼に失望するんである。

つまり双方、実に勝手な思い込みでお互いにガッカリする訳なんだけど、ここでひとつ気になるのは、彼の方が会社を辞めて、ヒモ的な生活に入れるかもと思っていたことでね、それは、この土地を本気で売るつもりがあったのかな、っていうね。
うーん、でも、土地を売っても借金がチャラになるだけで、その後の生活が保障される訳じゃないから、しばらくヒモになってゆっくりしたい、みたいなナゲヤリな気持ちだったのかもしれないけど。
でも、もしかして、土地は売らなくていいなら売らない方向で、そしたらヒモとなったらやっていけるかも、みたいなことを考えていたのか……。

だって野上は、藤子さんが祖父を、夫婦でもないのにずっと世話し続けているのを、もちろんただの昔馴染みの関係ってだけじゃないことは、判っていた訳じゃない。
どこかの時点、それはきっとかなり昔から、二人が思いを通じ合わせていたことを、判っていた筈だから。
それをうっすらと匂わせながらも、観客に示されるのは最後の最後になってからなんだけど。

しばらくゆっくりしよう、と藤子さんが祖父を温泉旅行に誘いだす。孫や不動産屋にはボケたフリこいていた祖父も、この問いかけには即頷く。
そう、ボケてなんていないんである、このおじいちゃんは。
そして、温泉旅行に行く間柄なんである。勿論二人は、ただならぬ仲なのだ。
この密やかな関係に、人生の機微もまだ判ってないような三崎は、おじいちゃんのカノジョですか?なんて心ない言い方をして、周囲を凍りつかせた。
そりゃそれは、その通りではあるんだけど、でも、そんなこと、言っちゃいけないのだ。

二人が温泉旅行に行っている間、襲いかかった嵐の日、窓をふさぐために開かずの間への外からの侵入を試みた三人、その中に、藤子さんの秘密をたくさん見つけてしまった。
戦死した許婚から送られた花嫁道具の豪華な手作り箪笥、そしてその中に大切にしまわれていた白地に真っ赤な花があしらわれた可憐ながらも豪華な着物は、おじいちゃんから贈られたものだったのだ。
まさか、孫たちがこの部屋に入ったとは思わず、このアパートがもう壊されてしまうと思って思い出の部屋に入った藤子さんは、その着物が部屋に大きく吊るされているのを見て、がくりと膝をついて号泣する。
そしてその思い出を語るのだ。

なんかね、最大のクライマックスである筈の、この場面、このエピソードこそが、なあんか……伝える力が弱かった気がするのだ。
ていうか、西島秀俊、加瀬亮という、繊細な持ち味でスクリーンに身体を焼き付けてきた二人が、まさにそうした演技を続けて、なんか突然、そんなダイナミズムを感じさせる壮大な恋物語を見せられる側に置かれても、違和感があるっていうか……。

というか、この歴史的な時間を感じさせる恋物語は、ドラマチックであるだけに、なんていうか……この物語が西島秀俊なり加瀬亮なりといった世代の目線で基本的に牽引していたせいもあって、なんか浮いているというか、ムリがあったんだよね。
それはむしろ作り手の方にあったかもしれない。そりゃベテランの香川京子であり高橋昌也であり、キッチリ演じてはいるんだけど、なんか見てるこっちが、ハズかしくなるというか、凄い、作られた感があったんだよなあ。
そう、若いモンが考えたドラマチック、みたいなハズかしさ。

正直、このことで孫が土地を売ることを思いとどまるのも、弱いし。
むしろ、そんな理由で思いとどまるなら、それこそ舞台俳優の大味気味な演技の方が適役だよね。
西島秀俊も加瀬亮もそれまで通りの水の流れのような、自分の世界に集中した演技だったから、第三者である老カップルにそんな思い入れをしてるなんていうのが、あまりに突然ぽい感じがしたんだよなあ。

土地を売ることが、自分の人生を建て直すことだと野上が信じていた、みたいに解説されているのがどうにも?マークで仕方ないのは私だけなのかなあ、そんなの、伝わらないよ、と思っちゃうのは。
んでもって、会社を辞めたり、このアパートを売ったりしようとしていることに「野上さん、逃げてるだけじゃないですか!」と三崎が青年らしく憤るのも、応えて野上が「逃げて何が悪いんだよ!」と激昂するのも、きっとこのつらい借金人生からの逃避を指しているんだろうとは思っても、なんか伝わらないし。

藤子さんが切り盛りする小料理屋の常連、ロクさん。いつも酔いどれてる。
実は腕利き職人の畳屋である彼の店を、野上と三崎は一度訪れる。年がいってから出来た子供だと言う女子高生が、お父さんの友人を、「カッコいいじゃん」とはにかみながら、お父さんを讃えるように言う。それをまたはにかみながら受けるロクさんがカワイイ。
でもね、彼が野上達に言う台詞が、深そうで、だけど心に残らない。それは台詞の力なのか、それとも……。
演じるのが大好きな塩見さんだから、余計に辛い。
彼が三崎に言う、なぜ会社を辞めようと思ったのか、それに向き合ってみなければとかいう台詞はでも、その結果があれじゃねえ。
やっぱりね、彼にしても、畳職人である彼の人となりが口先で語られるだけだから、その台詞にも重みを持たせることができなくなっちゃうんだよね。

結局、野上はこのアパートを、元の藤野女子アパートとして復活させることを決意する。この先の人生、借金の利息払いに追われても、二人の思い出のためにそうすることに決めたんである。
「野上さん、ハーレムじゃないですか」と、こちらはアフリカに旅立つことに決めた三崎は笑う。
三崎が会社を辞めたのは、自分の管轄外の取引先の会社のクレームに、当たらされていたこと。自分の責任じゃないのに、と憤っていた三崎。しかしラスト、アフリカに行く前に、もう会社も辞めて本当に責任もないのに、会って謝罪したいと思い立つ。

……こういうあたりが、描写が甘いのよ。あまりにリアルじゃなさすぎる。
だって彼はその取り引きにタッチしてない、ただのクレーム処理だったんでしょ。その立場に憤って辞めたのは短絡的だったにしても、この収め方はないと思う。
彼が解決すべきなのは、取引先に対してじゃなくて、そんな立場にさせた会社に対してじゃないの。日本的社会の悪しき問題を肯定してるようなもんじゃないの。そういうのって、許せない。
だったら彼は、一体この一連の経験から何を学んだのよ。このアパートから巣立って、アフリカに何を求めに行くの?日本的理不尽を肯定して、アフリカに何を求めに行くんだよー。

見た目は、日本映画伝統の静かで深い人間模様に見えるのだが……。★★★☆☆


どこに行くの?
2007年 100分 日本 カラー
監督:松井良彦 脚本:松井良彦
撮影:田辺司 音楽:上田現
出演:柏原収史 あんず 佐野和宏 朱源実 村松恭子 長澤奈央 三浦誠己

2008/3/11/火 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
松井監督がついに新作を撮った、と聞いた時は、にわかには信じられない気がした。だって、「追悼のざわめき」から20年だよ?彼はこの作品を生涯の一本にしてしまうのかと思っていたぐらいだったから。
あの作品の衝撃と、そして長い長い間が、一体どんな作品を生み出すのか、なんだか期待というよりは、怖い気がした。
そんなこっちの思惑を絶妙に外すように、ある種の軽さが支配している作品だった。見終わった時には何だか気が抜けてしまった。いやそれは、期待はずれだったとかそういうんじゃなくて、何と言ったらいいんだろう、この感覚は。

さびれた町。さびれた工場。どろりと溶けた熱い鉄。全てが灰色。その中で灰色の作業着を着て働く、主人公の立花アキラ(柏原収史)。
後から思えば、鉄、そして鉄を固めるイメージは、ある意味を含んでいたように思う。熱いものの屹立。それが冷めた時の、壊しようのない冷たい硬さ。性的イメージや、破壊や暴力の象徴。付随する汗や汚れが、すがすがしくなく彼の心を侵食していく感じ。

アキラの周りには、奇妙なぐらい女性が存在しない。いや、存在しても、近づかない。こんなにハンサムなのに。
アキラ自身がゲイというんじゃなさそうなのに。中年刑事、福田のムスコをしゃぶっては金をもらい、工場の社長、木下からは思いを寄せられている。
ついでに言うと、何となく同僚の視線も危ないような気がする。彼は特に具体的な行動に出る訳ではないんだけど、社長に気に入られているアキラに対して疎ましい目を向けるでもなく、優しい先輩として、彼の心に取り入ろうとしているかのようにも見える。

そして、極めつけは、アキラが出会った“彼女”の存在。
そう、“彼女”の筈だったのだ。こんな灰色の生活にイラだったアキラがバイクを急カーブさせた時に、接触してしまった女の子、香里。足はきれいだし、きゅっとしまったウエストはセクシー、顔だってまあまあ可愛い方。
しかし、“彼女”はアキラの問いかけに全く声を出そうとせず、ふとつかんだ腕の力は「案外、力強いんだね」とアキラを驚かせた。何の仕事をしているのか言いたがらず、そしてようやく発した声は妙に低かった。
それでも気づかずにアキラが、ある恐怖を彼女にぶつける形でコトに及ぼうとした時、判明したのだ。

「ゴメンね判ったでしょ」と香里は言った。でもアキラは不思議と、思ったよりも取り乱さなかった。そのまま彼女を抱いた。
「女の子とはやっぱり違った?」「うん。それでも香里さんが好きだ」二人は、思いを共有する。
そもそもアキラは、女の子と普通に関係を持ったことがあるのだろうか、などと素朴な疑問も頭をもたげる。この閉じられた町で、社長の色目を浴び続け、福田のムスコをしゃぶることで、彼は囲い込まれてしまっていたんじゃないのか。香里は初恋だったんじゃないのか?

“ある恐怖”それは、思いがけず、社長を殺してしまったことだ。
それでなくても、気色悪い社長だった。毎朝、アキラに自分の飲みさしの缶コーヒーを差し出した。そして飲み干すアキラのノド仏のあたりをじっと見つめていた。時にはアキラからもう一度缶を奪って、なめるように飲み直すことさえあった。
常に猫なで声で「アキラくん、アキラくん」とつきまとい、意味のないボーナスをポケットにねじ込んだりする。
そしてある日、社長の奥さんから呼び出された。解雇を言い渡された。社長がアキラの作業着を着てオナニーしていたというのだ。あまりにもささやかな退職金を突きつけられて、アキラは追い出された。

しかし翌日、社長が訪ねてきた。あの猫なで声で、会社に戻ってきてほしいと言った。「アキラくん、他に仕事してるんだって?カラオケ屋で……評判だよ」社長の目は尋常ならざるものがあった。
怯えからアキラは逆上し、社長を引き倒し、蹴りまくった。ヘンタイの正体がいよいよ出た社長は、アキラに蹴られながらもだえまくる。しかしそこは台所、流しに置いてあった包丁がするりと落下し、社長の目に突き刺さる。
一瞬の間。永遠のような間。アキラは社長の顔にタオルをかぶせ、ぐぐっと包丁を突き刺し、ぐりぐりと回転させた。しばらく痙攣していた社長の体、最後まで右手が床をリズミカルに叩いていたけれど、次第に動かなくなった。
その死体を隠しながら、アキラは香里とセックスしたのだ。アキラに何か料理を作ってあげようと買い物してきた香里が、「包丁がないんだけど」という口をふさごうとして。

死体が、グロテスクなただの物体になってしまう。それは、「追悼のざわめき」でも感じたことだった。
なんて、ついつい無意味な比較をしてしまうのは、私の悪い癖だけど。でも20年も経ての新作だもの。そりゃあ振り返ってみたくもなるじゃない。
「追悼……」でのそれは、身も心も全てを愛した相手だった。愛する妹。そんな相手でさえ、息をしなくなると腐った、目も当てられない、腐臭を放つ、物体になってしまった。
本作では、一刻も早く目の前から消え去ってほしい“物体”である。
これが、なかなか本当の、ただの、“物体”になってくれない。
追悼では、土の中から掘り出した愛する妹のむくろが変わり果てた姿になっていることに悲哀を感じたけれど、ここでは、早く“無”になってほしいと思っている、どーでもいいヤツなのに、なかなかそうなってくれない。

アキラから事の次第を打ち明けられて、香里は率先して証拠隠滅に協力した。
後に判ることだけれど、彼女はこの道のプロだったのだ。自分が女として生きると決めた時に、その道も捨てたのだろう。アキラは香里の部屋を訊ねた時、鑑識課の同窓会のハガキが来ているのを目にしている。福田刑事も、男だった彼女のことを知っていた。
どうやったら、人間が無に返るのか。それがどんなに難しいことなのかを、彼女はよく知っている。

山奥の、産業廃棄物の不法投棄場に彼らは向かった。死体にガソリンをかけて焼いた。一度では足らずに二度も。それでも形はソックリ残ったまま。黒焦げの死体に大きな石を落としてグシャリグシャリと潰した。あんな業火に包まれたのに、黒焦げの固まりは中から深紅の血を吹き出した。そしてようやく形がある程度壊れたそれを、二人は夜の海に放り投げる。
でもそれを、福田、見ていたよね?この辺はちょっと判然としない感じがあったんだけど、執拗に彼、アキラを付け回してた。最初は勿論、アキラへの私怨だったけど、途中から、久しぶりの自分の仕事を思い出した、って感じで。

この福田刑事を演じているのが、「追悼……」の盟友、佐野和宏。私は「追悼……」を初めて観た時、彼があまりに若くて、観ている時には気づかなかったぐらいだった。髪の後退が刻々と激しい(爆)。目の下のたるみもやけに激しい(爆爆)。
それでも佐野氏は、私にとってのスター。エロと退廃のムードに満ち満ちている。不摂生な生活に今にも倒れそうなのに、そのムスコは確実に屹立してるだろーってな、おかしな矛盾を感じさせるお人。
その佐野氏を柏原君がしゃぶるなんて、それだけでうおーってなもんだが、しゃぶられてる佐野氏のお顔演技が、ものすごーく入っちゃってるのが、見てて居心地が悪い(爆爆爆)。

いつもカラオケボックスでアキラにしゃぶらせてるんだけど、コトを察知した店側に拒否されてキレまくる福田はあまりに哀れだし、それ以降アキラから避けられて、彼をストーキングする様もあまりに哀れだ。
しかも、巡回中のおまわりさんに見咎められ、しかもこのおまわりさんに刑事さんだとバレてなんかのヤマを張り込んでるんだとカン違いされ(めっちゃ酒呑んでるのに)、虚しく彼を追い払う福田が、ホンット、虚しくてさあ……。
しかもこのカラオケボックスが、「サイコ」のモーテルみたいというか、田舎によくある個人経営の形、外側にドアがいくつも面しているひなびた感じがまた、哀愁をそそるんだよね……。

アキラの罪は、結局白日の元にさらされることになるのだろうか?あの時、訪ねてきた社長と時間差で「会社、行こうぜ」と迎えに来た同僚は、窓の隙間から全てを見た筈だった。
しかし彼は、社長の奥さんに何も言わなかった。奥さんは一応ダンナの行方を気にして、アキラのアパートにも訪ねてはきたけど、もともと好きで一緒になった訳ではないと言って途中から諦め、むしろせいせいした顔をしていた。そして、理不尽に解雇してしまったアキラに悔恨の念が沸き、戻ってきてほしいと考え出す。

この同僚の存在は、なんか最後まであいまいなままって気がしててね。彼は何度も、奥さんに言いそうなそぶりを見せるんだよね。でも結局、社長が買ってくれなかった効率のあがる高価な機械を、奥さんが買ってくれたことに対する感謝の言葉を繰り返し述べるだけで、終わってしまう。
彼はホント、ナゾなんだよなあ。アキラの家まで訪ねて、何が起こったかもその目にしているのに。彼は、アキラを助けるためにはどうしたらいいのかを、逡巡していたのかなあ。奥さんに事実を言うことがアキラを助けるのか、それとも言わない方がいいのか、と……。
こんな具合に、本当に不思議なぐらい、アキラの周りには女がいない。この社長の奥さんや同僚の若い女子事務員は存在するけど、アキラからは一定の距離をとっている。彼の事情に積極的に関わろうとはしないんだよね。どこかハレモノに触るような態度を取り続けてる。

そもそもアキラはなんで、この片田舎の工場で働いていたのだろうか。同僚の方は、社長の蔑んだ言い様からどうやらムショ帰りだと思われるけど、アキラに関しては、社長と奥さんの息子同然に育てられた、としか言われないんだよね。
それってやけにシンプルな説明だけど、これほどディープなものもない。つまり、子供の頃からやっかいになってたってことだよね。里子だったのかなあ?
確かに、アキラに親や家族の影はない。社長を殺した後、香里と共に姿を消した彼を福田刑事が追うシークエンスで、記録に残っているアキラの実家について奥さんがまず「でもあそこは……」と口ごもるし、そこを調べさせていた福田は、部下の調査結果を聞いて、思わず沈黙するのだ。その事実が一体なんだったのか、こっちには結局明らかにされないのが歯がゆいんだけどさ。

つまり、アキラはどこにも行けないのだ。彼が住んでいるボロアパートが「いづこ荘」だなんて名前なのも、妙な可笑しみを感じる寂しさでそれを示唆してる。ここも、彼にとってはいづこ。それを一緒にいる香里も何となく感じとっていたんじゃないのか。
香里も、どこにも行くところなんてある訳がなかった。「私がこんなだから……」と彼女は実家から足が遠のいていることを辛そうに言った。

刑事からの執拗な連絡を気にする香里だけれど、アキラはきっぱりと言い切る。帰る場所はあの灰色の町ではないのだと。宝石店に飛び込み、福田をしゃぶってためた70万の大金をはたいて(どうやらぼったくられたようだけど)香里に立派なダイヤの結婚指輪を買ってやる。小さな神社で二人手を合わせる。

しかし、悲劇が起こってしまった。
二人乗りのバイク、隣を走っている車の窓から、飲み終わったコーヒーの空き缶が何気なく投げ捨てられた。突然飛んできた物体を、驚いて避けようとしたアキラ、バイクが横転した。
ああ、缶コーヒーだ……社長が毎朝差し出していた缶コーヒーが脳裏によみがえる。ベタな言い方だけど、天罰がくらったのか。
一瞬の静寂。死んだように横たわったバイク。
永遠のように何度も何度も「行こうよ、ねえ、行こうよ」と繰り返しているアキラの声。
あまりに繰り返すので、「どこへ?」と問いたくなる。
それが、このタイトルなのだ。

繰り返し現われる、水の波紋のイメージが、この灰色の世界に不思議な聖性をもたらす。アキラや香里が一人風呂に入っている時、あるいは天からぽちゃんとしずくがおちて、どこまでも波紋が広がっていく。
でもそれは、不安の波紋だったのだろうか。★★★☆☆


ドモ又の死
2007年 80分 日本 カラー
監督:奥秀太郎 脚本:奥秀太郎
撮影:与那覇政之 蔭山周 音楽:つるうちはな
出演:江本純子 三輪明日美 藤谷文子 野村恵里 高野ゆらこ つるうちはな 柳英里紗 片桐はいり 萩尾望都 大塚寧々

2008/7/1/火 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
何年ぶりだろう、三輪明日美嬢の名前を見つけ、更にこれまた「式日」でドップリはまった藤谷文子の名前も久々に見つけ(たのは、単にその後の作品を私が観てなかっただけだけど)、更に更に、出演者で萩尾望都!?もう、個性的な魅力的な作品が出来ないワケがないメンツにドキドキして、タイトルの不思議さにも、この監督さんが初見であることも頭から吹っ飛んで、足を運んだ。そして、衝撃を受ける。
これは一体……。一体、何が起こっているの?
気づいてみれば、メインの登場人物は全て女性。しかも何人かは男言葉で喋っていて、しかもそれが妙にクラシカルな言葉遣い。
更に更に、その世界は劇中劇へとリンクして行き、しかし彼女らがリアルを劇に持ち込んでいるのか、それとも劇をリアルに持ち込んでいるのか、あるいはそのどちらでもないのかが、まるで渾然一体、境目がないのだ。

そうした不思議さや、手持ちカメラの映像をノイズ気味のモノクロでかぶせたりと、一見一人よがりが鼻につくインディーズ映画になりそうな要素はあるのに、そんなイヤミもなく、ただただ心に吸い付く吸引力に圧倒されることに、驚く。
判んないながらも、心の中で惹かれる思いがどんどん膨れ上がってしまう。
一体、何なのだ。この監督は、一体何者?
どことなく敷居の高いタイトルに、知らず知らず避けていたことを心底後悔する。この作品だって、キャスト名に惹かれなければきっと観に行っていなかっただろうと思うし。
しかし、初見だと思っていたこの監督さん、「壊音」は観てた。私こういうことが多い……これで苦手印が頭に植え付けられて、無意識に避けていたのかもしれない。

しかし、主演の江本純子なのだ。
他の映画で観ている筈なのに、このパンクでキケンな姐さんのこと、私、全然知らずにいた。
マニッシュなワイルドさが危険な匂いを発しているのに、どこか、そう……戯曲の中でとも子がドモ又に言う「強がりなくせに、変に寂しい方ね」というのが、不思議に、切なく、胸に迫るほどにピタリとくる。
一人で、強がって強がって、死んでしまった。
死んでしまってから、とも子の愛に気づいた。
いや、死んでしまっていた、のだろうか?

ラストクレジットで、原作が有島武郎だと知って更に驚き、原作を手に入れようとしたら、文庫にも何にも全然なっていないことに更に驚いた。古書でやっと手に入れる。
奥監督、前作でも有島の「カインの末裔」を使っているというし、決してメジャーとはいえない、というか相当マイナーなこの作品で映画を作ろうなんて、かなりコアなファンだろうと思われる。
原作は短篇戯曲。売れない画家の卵たちが集うサロンに紛れ込んだ、紅一点のマドンナがとも子。そして彼らが今後画家として生きていくために、この中の一人に“死んで”もらうことを計画する物語。
それは実際に死ぬのではなく、彼の存在を死んだことにして、絵の価値、画家の価値を上げようという作戦。「若くして死にさえすれば、大抵のヤツは天才になるに決まってるんだ」と。
この台詞が一番のメインとなって、短い戯曲ながらも、死生感、厭世感の満ち満ちた、どこか異様な、しかし青春の切ないようなキラメキに満ちた作品になっている。

いや、異様だと思ったのは、この映画化作品を先に観たからかもしれない。原作ではその死は実際の死ではないのに、本作では、選ばれた一人は本当に死ぬことになるのだから。
いやそれもまた、どこかどっちにも取れる曖昧さもある。とも子によって選ばれたドモ又が、選ばれたことによって死んでしまったのか、ドモ又が死んでしまったことに抗議する様な形でこの芝居を始めたのか、あるいはドモ又が死んでしまったこと自体が芝居なのか……もうどこに現実が芝居に入り込んでいるのか、本当に判らないのだ。
だって彼女らは、ヤク中なのだもの。ここに集ってきている、もう少女という年も越えた、自分だけでは抑制のきかないヤク中の女たちが更生という目的で集っている施設、「ハマー・ナナの家」。芝居は更生のために取り入れたひとつ。
そう、確かにこれは“芝居”なのだ。クリスマス公演のために彼女たちがどこかダルそうに稽古をしている芝居。

でも、それが稽古なのかどうかさえ……だってところかまわずその“台詞”を繰り返しているし。
この施設のスポンサーである女を、芝居の中に出てくる鼻持ちならない画商に見立てて、実際にその女を施設存続のための話し合いで訪ねたりする。巧みに戯曲の中の一場面に刷りかえられるような演出がなされていて、本当にどこからどこまでが芝居で、リアルなのかが判らずに、それが妙に魅力的で、翻弄されてしまう。

だって、皆女の子なのに、一人の女の子に対して他の数人は男言葉を使って、男の役割で、「ともちゃん、僕たちは皆、君を崇拝しているんだ」なんて言われたらそりゃあ、クラッとくるじゃない。なんだか少年愛が反転しているような、ビアン的蠱惑な魅力。
その崇拝される“ともちゃん”が、母となり、変わらぬキュートさの中にも凛々しさたくましさを備えた明日美ちゃんなんだもの。ていうか、明日美ちゃんてば、いつの間に二人め産んでたの!今や二児の母かあ……。
ジャージの上に、役柄のイメージなのかだらりと着物を羽織っているのも、ナチュラルな妖艶さとでもいった雰囲気でゾクゾクとくる。
しかもその彼女の“相手役”である、トモ子が自分の夫として選ぶ“ドモ又”=戸部が、汚れたツナギに三白眼気味の視線がワイルドな、ちょっと同性がクラッとくるようなワル系の女なのだもの。本当に、妄想系、ビアンな魅力が炸裂なんである。

しかし本当に、どこからどこまでが……だってフィクションであるハズのこの戯曲の役名が、彼女たちの名前そのままなのだもの。
最初のうちは、ダルダルながらも確かにその手に台本らしきものを持って、えーと……って感じで台詞を重ねていたから稽古っぽい感じもあったけれど、そのうち、居眠りしながらの台詞の応酬になり、先述したように施設のスポンサーを訪ねる場面なぞも巧みに織り込まれるものだから、本当に判らなくなってくる。
それは、ウッカリ原作を確認してしまったから、彼女たちがこの戯曲の稽古をしているのだろうという境目がある程度はハッキリとしたけれど、それも判らなかったら、彼女たちが本当にそういう関係で、それをクリスマス公演の劇中に持ち込んだと思ってしまうこともあったかもしれない。

この、クリスマス公演の描写は、割と早い段階から、時間をモザイク状に前後させて忍び込まされている。いや、全ての時間がモザイク状になっていたのかもしれない。
ドモ又=戸部は、ひょっとしたら最初から“死んだ”状態だったのかもしれないとさえ思う。
冒頭、宅配便の荷物が届く場面で、血だらけの自分の歯に指をぐりぐりやって、“捺印”する場面の戸部。それは、極寒の施設に追いやられて孤独死した遺体を仲間が引き取りに行き、棺に納められた、そのかわいた唇の中の、血だらけの歯にソックリなんだもの。
そう考えたら、本当に時間の前後が判らなくなってしまう。

この「ハマー・ナナの家」で、彼女たちがトライしていたのは芝居だけじゃなかった。片桐はいり演じる新しい先生が突然持ち込んだレスリングには笑っちゃったし、この戯曲が演じられる元となった絵画をはじめ、木工、ドライフラワー、さまざまなことが試された。
でも恐らく彼女たちの心を最もとらえたのは、彼女たち自身が提案したというボディピアッシング。
クスリによって感覚を失った身体を、刺し貫くことで生きている実感を取り戻そうとする。その描写は短いし、画面もアヴァンギャルドに手を加えられているからそんな残酷に生々しい訳ではないんだけれど、その短い尺の描写が鮮烈で、心に焼き付いてしまう。
だから、過激な方向に行こうとする彼女たちをおさめるには、木工でお茶を濁すしかなかったのだ、という。

そして、「若くして死んだ奴は天才になる」という戯曲の台詞と呼応しているのが、「どうして若くして死んだ天才は、ジャンキーなの?」と子供の声で投げかけられる問いなのだ。
それこそ太宰や芥川、あるいはその事実が明らかになってはいない、遠い昔の夭折の天才も、ひょっとしたらそうだったのかもしれないと夢想してしまう。そしてここにいる、まだ死んでいないから天才と定義されない彼女たちも?

ドモ又=戸部を演じる江本純子が本当に圧倒的で。クスリがないことで苦しんでいるのかどうかさえ判らないんだけど、胸をかきむしって苦しんでいて、無造作に服も脱ぎ捨てるのね。
外見は本当にマニッシュなので、その下から、当然とはいえ柔らかな胸が出てくるとなんだか刺し貫かれるようにドキリとしてしまう。傷つきやすい魂が、本当に判りやすい形でそこに提示されているような気がして。
「ハマー・ナナの家」と外との世界は、フェンスで仕切られている。小さな開き門からようやっと入ってくる外の世界。車椅子の院長先生や、宅配便の配達人が、頭をくぐらせ、身をかがめ、ギリギリで入ってこれるほどの小さなスペース。
その門番をしている警備員をフェラすることで、外の世界とつながっていようとしているかに見える戸部。だからか、「今日はいいよ」と言われると、ひどく絶望した顔で沈黙する。

「ハマー・ナナの家」のスポンサーである九頭龍という女性、演じているのは大塚寧々。メジャー感のある女優なのに、これだけ個性的な映画に出続けている人も凄い。
彼女の一人娘が、原作でもちらりと出てくる、「アレは処女だよ」とその聖性を絶賛される少女なんである。
「ハマー・ナナの家」のお姉さんたちを妙に慕っているらしい彼女は、施設に行きたがる。一緒にレスリングやりたいな、とつぶやいて、母親に「あんなの、生娘のやるスポーツじゃありません!」と激怒されるんである。生娘って……と思うが、ここにも彼女の聖性が崇められているのを感じる。

しかし一方で、母親に反発するあまりなのか、風呂場に閉じこもって自傷行為に及んだり、「知恵遅れの男の子とエッチした」なんて告白したりする。一瞬、差別的な心が頭に浮かんだのだろう、取り乱した自分をとりつくろい、必死に理解しようという体を崩さない母親。
果たして彼女が本当に“処女”ではなかったのかどうかは判らないけれど、あれほどまでに施設に執着していたのは、単に戸部に恋していたのかもしれない、と思う。フェンス越しにキスする場面も用意されているし。
少なくともこの作品自体に、男と女の色の匂いは感じられないのだ。だからこそ、ひどく魅惑的で、蠱惑的なのだ。

戯曲から外れたところでの日常生活の、料理をしたりザリガニを捕まえたり食事をしたり、そんな描写と、戯曲の台詞がかわされる場面とが全く境目がない。そういう設定を、演技をさせることが、その思いつきが、凄いと思って。
美味しそうに出来たクリームシチューを、「ほらほら、見てごらんなさい」とカメラに差し出す明日美ちゃん、「味見してミソラシド」と言うリズムも、まるで素みたいなんだもの。そのクリームシチューをパンですくって食べる戸部の、幸せそうな表情も!
あるいは彼女たちが、(誤解を恐れずに言えば)ジャンキーゆえの天才だから、その境目が段々、判らなくなっていったということなのか。
本当に、とも子は戸部を愛しているように見えたし、戸部も、とも子に選ばれることで自分が死んでしまっても本望だぐらいな顔をしていた。
それは戯曲なのに、フィクションなのに。戸部が死んでしまうのは、この施設が閉鎖されることによって、遠い、過酷な場所に移籍させられるからなのに。
でもそれも、ともちゃんに選ばれることによって「死んでしまうことになる」範疇に入っていたのだろうか。

クライマックスは、それまでも折々挿入されていた、クリスマス公演本番の舞台である。画学生風の衣装に身を包んだ彼女たち、ことに紅一点の役を演じる明日美ちゃんはきっちりとメイクをしてあでやかな着物を着込み、まるで日本人形のよう。印象が、まるで違う。
この戯曲が基調になっているってこともあるんだけれど、いわば仕切り役となっている花田役の藤谷文子の妙に落ち着いた貫禄っぷりが、ある意味マニッシュな魅力の戸部よりも、全編を支配していて、怖いぐらい。
普段は長くて重たいぐらいの黒髪で、男言葉の花田になりきっている彼女が、舞台ではショートヘアのウィッグをかぶり、迷いのない目で、ともちゃんの夫になる男は死んでしまうことになるのだ、と言い放つ。
それは原作の、ウソの死ではなく、本当の死であることを確信している目で、それこそが死後成功する天才画家として、そしてみんなのマドンナであるともちゃんを妻にする幸せを得る男として、決して重くはない代償なのだ、と言ってはばからない目なのだ。
そのことに、戦慄する。

確かにその時、戸部は死んでいる、のだろう、多分。寒い寒い地面の上で息絶えた戸部を、彼女たちは引き取りに行った。寂しく哀しい葬列。戸板に乗せた戸部を運び、シャランシャランと追悼の鳴り物を地面に突き刺して歩いた。死ぬしかなかった、とも子の夫である戸部の死。
もう本当に、どこまでがリアルなのか。
だから、公演の時には、誰か一人を夫に選んでくれという芝居でも戸部は舞台上にいないし、とも子が戸部を選ぶ段になったら、棺に入れられた、半分石膏の仮面をかぶった、死んでしまった戸部に向かって、とも子は「あなたのおかみさんになる」と言うのだもの。
二人結ばれたハッピーエンドの先の、画商を騙す芝居が待っている、という場面で、原作ではすっかりラブラブの二人の描写なのに、スクリーンの中の戸部は何も言わずに棺に横たわり、とも子は涙を流している。
でも、時には花田が代わりに言う台詞ながら、戸部は柔らかい光の中、とも子を優しく見つめながら、愛の言葉をささやくのだ。
「僕は君を二度殴った。でももう殴らない……」

でもオフィシャルサイトの解説見ると、この戯曲がハッキリと与えられた物だって、それに彼女たちが没頭していったんだって、書かれてるんだよね。
でも、観てる限りでは、それを確信することは出来ないのだ。その大きな理由のひとつは、彼女たちと戯曲の役名がおんなじだってこと!
若くして死ぬしかない、そのテーマに、彼女たちが絶望を感じながらも根底では大きく共感していることを感じざるを得ない。

携帯禁止、撮影禁止、と映画鑑賞の警告マニュアルかと思ったら、煙草禁止、大麻禁止……とどんどんエスカレートして、もう本編に入っていることに気づく凝った導入部から、するりと別世界にいざなわれた。
何度も耳につく、ガランスという言葉。劇中でハッキリと意味をつかまえられなかった。まるで彼女たちが拠り所にしているような、呪文のような、祈りのような言葉。公演ではミュージカルよろしくそろって歌にまで歌う。
その詩は、実際に夭折した画家、村山槐多のもの。院長先生、萩尾望都によって「大切なお話」としてもたらされる。
ガランスは、茜色。茜……早く来過ぎてしまった、人生のたそがれ。★★★★☆


トップに戻る