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「ま」


2016年鑑賞作品

マンガ肉と僕
2014年 94分 日本 カラー
監督:杉野希妃 脚本:和島香太郎
撮影:高間賢治 音楽:富森星元
出演:三浦貴大 杉野希妃 徳永えり ちすん 大西信満 太賀 宮本裕子 長原成樹 徳井義実


2016/2/15/月 劇場(新宿 K’s cinema)
マンガ肉というのは、マンガに出てくるような、骨付き肉。それに食らいつくデブ女に寄生された気弱な男子大学生。そのデブ女をはじめとしたさまざまな女性遍歴で男の勝手さ、女の弱さズルさをあぶりだす。何年にもわたって。そんな物語。
ダイレクトに言ってしまうと、つまんないなあという感想が先に出てしまう。この客入りの悪さは、そのつまんなさにあるんじゃないかとか、ヒドいことをついつい思っちゃう(爆)。

杉野希妃。自分の出たい映画をプロデューサーとして作り上げてしまうという、アグレッシブかつ才覚のある美女。でも監督となると……どうなんだろう。いや、なんか玄人筋にはウケがいいようだから、単にわたしがバカなだけなのかもしれない、いやそうなんだろう(自嘲)。
でもね、まずね、美人が特殊メイクでデブになっちゃダメ。これだけはやっちゃダメ。現代映画でCGですらないというのもビックリだが(勿論、CGでもダメ!)、ある意味CGよりヒドい。

肉の動きが全くないから、本当にハリボテなんだもの。いや、そのエレファントマンのようなバケモノ感を重視しての特殊メイクなのかもしれんが、そういう意味では成功しているのかもしれんが、思いっきり美人の杉野希妃が特殊メイクでデブ&ブスになって登場してきたのには、あーあ……やっちゃいけないことやっちゃった……と、もう劇場を出たくなってしまった(爆)。
だってそうでしょ。特殊メイクで出てくるってことは、美しい彼女に戻る展開がもう見えちゃうんだもの。てことは、ここで出てくる彼女はウソだってことなんだもの。

いや、確かにそうなんだろう。その通りの台詞さえも出てくる。痩せてすっかり美しくなった彼女が、ムリして痩せなくてもよかったのに、と言われて言うのだ。「これが本当の私なんです。無理して太っていたんです。」
うわー、ダメだ、と思った。いや、この展開がダメなんじゃない。それを、美しい彼女が元に戻ること前提でやることがダメなのだ。

彼女の言葉通り、太った熊堀さんはウソの姿なのかもしれない。男を寄せ付けないために、食べて食べて太った熊堀さんは世を忍ぶ仮の姿。
だからまるでクリーチャーのように不自然なハリボテデブ。美しい彼女こそが本当の姿なのだと。
シンデレラでも描きたいのだろうか。美しい姿が本当の姿だというオチをつけられて、世の大多数の女たちは一体どういう反応を示せばいいのか。

「ハンサム★スーツ」を思い出したりする。あの作品は凄く、ムズムズした。面白かったし、原作者の愛妻、大島美幸嬢が可愛かっただけに、その美幸嬢をぶスーツを着た仮の姿だというオチに本気で激怒したことを思い出した。
痩せた美人が本当の姿、というのは、本作に奇妙なほどに一致するのだ。ただ違う点は、「ハンサム★スーツ」の彼女が可愛いデブ女だったことであり、それを肯定してくれなかったことに激怒したのだが、本作は全く違うアプローチなだけに、それがテーマと言われたら、怒るのもお門違いな気がして、でもやっぱりヤだと思う気持ちになってしまう。

デブは仮の姿。追い詰められて仕方なくなった姿。デブ=ブス。痩せている時には美人で、恋していたんだと、熊堀さんと同じ高校の同級生だったワタベ君の友達は言う。
つまりそこに、後に熊堀さんがワタベ君に喝破する「男は女のどこを見ているんだ」というテーマがある訳なんだけど、“本当の自分”に戻れば美人な彼女に言われてもなァという気持ちがしてしまう。
まぁだからこそ“本当の自分”は美人な彼女は悩んでいたんだろうが、それってつまり、デブ=ブス=存在価値ナシと言っているのと同じじゃないのと思っちゃう。

……私って、単純かなあ。でも、この役を彼女が“熱演”しているなどと言われると、違うんじゃないのと思っちゃうんだよね。「ハンサム★スーツ」はCGですらない、全く違う人物が演じて、美幸嬢が可愛かっただけにこっちを肯定しないのかよ!!とか思った訳だが、でも、“本当の私”じゃないのなら、別の人間が演じてもいいじゃん、と思ったんだよね。
それは「バタアシ金魚」を思い出したからなんであった。あの作品で高岡早紀の激太り状態を別の女の子が演じたことは、ヤハリ否定的論が多いみたいなんだけど、でも私は、あれは凄くアリだと思っているのね。
まあ単純に松岡監督信者だからかもしれないが(爆)、それに当時アイドルだった高岡早紀にそんなデニーロアプローチというのも無茶だし(爆爆)。でも、“違う私”というのを、女優のプライドなんか関係なしに“違う私”としてあっさり提示して見せた作家の姿勢こそに、プロ意識を感じるんだよなあ。

正直、熊堀さんには、監督している杉野希妃以上に、女優としての彼女の欲の方を感じてしまう。特殊メイクのゴワゴワにばかり目が行ってしまうし、演技もこわばってしまっている気がする。
まあそれは、相手になる三浦貴大君の覇気のない芝居が影響しているのかもしれんが(爆)。いや、ゴメン(汗)。でも彼、まだまだ発展途上というか……。「ローリング」でようやくはじけたかな、と思ったが、ちょっと押される役になると、ただただもごもごしている感じになっちゃうというか(爆)。
本作のワタベ君は、熊堀さんを筆頭に、恋愛依存症の菜子ちゃん、見事司法試験に合格する優秀なさやかさん、と自分の無力さを次々と思い知らされる女たちにホンローされるという役どころだから受け身になるのはしょうがないんだけど、でもだからこそエネルギーがないと受けて立てないじゃない。

菜子ちゃんを演じるのは徳永えり嬢。なんたって徳永えり嬢だから、いくら才女でも、ごわごわ杉野希妃では太刀打ちできない熱演。まあ役柄的に熱演しやすいというのもあるだろうが……。
彼氏を束縛し、彼女の両親もまた弁護士を目指す彼を娘の将来の婿殿として束縛し、ついには彼女、発狂寸前になり、両親から別れさせられる、というか、彼自身がうんざりして、「最初から好きじゃなかった」なんていう最も言ってはいけない台詞を吐く、という……。

でもそんな、修羅場中の修羅場の場面も、なんか三浦君は覇気がなく、えり嬢だけが必死に叫んでいるという印象があると言うか……。
彼女が本格的に狂ってしまったのは、彼からクラミジアを移された、つまりフーゾクに行っていた事実が発覚したからで、友人に誘われたというのは口実で、それ以前から常習犯だったらしいのだけれど、それがさらりとスルーされるんだよね。
つまりさ、彼女にウンザリしていたということが、さらりとスルーされるんだよね。いや、そう感じるのは、彼自身の粘着度のない芝居、あるいはそうさせた演出のように思うのだが……。

だってさ、彼の立ち位置って、凄く重要じゃない。肉女や束縛女や優秀女が問題ではなくって、そんな女たちがボクを悩ませる原因なんだと受け身だけで関わって行かない、自分を否定する男こそを糾弾している、そういうテーマなんだと思うんだよね。でも、それが伝わってこない。
確かに受け身でさらさら流すからこそダメな男なんだとは思うんだけど、そこが難しいところで……そこにきちんとイラッとさせて、女が原因じゃないんだと、思わせないと、これはダメなんじゃないのかなあ。女のキャラや芝居に固執して、彼はただたださらさら受け流す男にしか見えないっていうか……。

タイトルから即座に、コメディを想像した単純さが間違っていたんだろうとは思うが、せっかくマンガ肉という面白いキーワードがあるのに、それが全く生かされていない、気がする。
確かに熊堀さんが喰らう肉は、ギャートルズに出てくるような“マンガ肉”の形状だけれど、割とありそうな感じのリアルな作りにしていて、しかも喰らうと言ってもヤハリ実は細身の希妃嬢だから、ひと口のボリュームも全然豪快じゃないんだよね。
だからいっそ、他の女優にやらせた方が良かったんじゃないかと思っちゃうところなのだ……。単に女優欲を見せられただけっつーのはキツいよ。結局美しいアナタを見せたいだけだったのでは、って思っちゃうもの。

本作は大学生時代の彼らから始まって、三年後、五年後、とシークエンスを区切って描かれる。実はこれも私、苦手で(爆)。
これは本当に好みの問題。こういう、何年後、とか飛ばされるの、キライなんだよね(爆爆)。なんかズルい気がしちゃうのだ。ひとつの時間軸だけで闘って完結できないのか、と思っちゃうのだ。

原作がどうなっているのかは知らないけれど、さらっとオフィシャルサイトの解説を読むと、この構成は監督自身のものっぽい気がする。原作と映画は別物でしかるべきだからそれは構わないとは思うが、私自身は、ちょっと好きじゃないんだなあ。
大体、熊堀さんのバックグラウンドがざっくりしすぎだし。母親の恋人にいじめられるから、とスポンサーである吉本の役者系イケメン、とっくんを出してくるのも一瞬で、その肝心の母親すらも出てこない。つまり熊堀さんの台詞と一瞬のとっくんだけでは、彼女の心の傷を理解し共感するのはあまりに難しいんである。
つまり、観客に理解させ共感させる気持ちがないってことなのかもしれない(爆)。まあ確かに親切すぎる映画が多すぎるからね(爆爆)。でもねぇ……それ以前の問題だと思うんだけれども……。

ワタベ君は相馬の出身ということになっている。これも個人的に引っかかる部分である。原作では……と思うのはよそう。多分、監督がプラスした要素だろうという確信がある。
これまで執拗なほどに、彼女が手掛ける作品に震災の要素を入れてきているから。そう、執拗なほど。必要がないんじゃないかと思うほど。
震災を忘れないことは必要だし、あえて避けるのも不自然だとは思うけれど、本作にそれが果たして必要だったのだろうかと思っちゃう。
ワタベ君が相馬出身で、地元に母親を一人残して、いずれ母親を自分のもとに呼んで暮らすために弁護士になることを目指しているという設定が、相対する相手に言わせるばかりなのがワタベ君自身の弱さ曖昧さを示すための意図的なのかどうかすら、それこそ曖昧なのだもの。

彼女の映画製作の中で一貫して語られている、ホーシャノー=悪がなぜ判らないのか、そんなところに住み続ける神経が判らない!みたいな意識がスケスケに見えるあまりに正当な主張は、そこに故郷があり家族があり友達がいる人たちの気持ちを本当に汲んでいるとは到底思えない。
エサを与えれば生きられる訳じゃない、人間なんだから、ということぐらい、映画作家なら判る筈じゃないのか。

“地元”で暮らす人たちは、折り合いをつけて暮らしている、という台詞も相対の相手だけに言わせるのは本当に意図的なのか。ただ、震災という要素を、入れ込みたいだけなんじゃないかと、ここまでくると疑いたくなってしまう。
だって、この物語には、本当に関係ない、作用しない、現代を描くために避けようがない、とまでの必須さも感じない。それなのに入れてくる“社会派”は、本当の社会派じゃないよ。
折り合いをつけて暮らしている人たちのことを、目にして話をして判って入れ込んできているとは思えないよ。全く見えないんだもの、母親が。
モンスターなデブスより、見えない存在にしてまで語ることが、意味あることなんて到底思えない。被災者をモンスターにしかねない。そんなの、哀しすぎる。★★☆☆☆


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