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「は」


2008年鑑賞作品

パーク アンド ラブホテル
2007年 111分 日本 カラー
監督:熊坂出 脚本:熊坂出 渡邊純也
撮影:袴田竜太郎 音楽:日比谷カタン
出演:りりィ 梶原ひかり ちはる 神農幸 越智星斗 玉野力 吉野憲輝 高木優希 津田寛治 光石研


2008/6/6/金 劇場(渋谷ユーロスペース)
これは恐らく、相当の期待度大の新人。最初からこんなに女の深い人生観を知っててどうするんだ。大丈夫か、こんなに最初から飛ばしちゃって!
いやー、もー、最初からこんなに深い深いところまで行っちゃってたら、もう今後掘り下がっていけるのか?みたいな。いったいあなたはいくつなの?それに、男性なのに!なんか悔しいじゃねーか!

いつも泰然とした存在感で、確かにいつでも人生の深さを感じさせて、しかしいつでもワキをがっちりと固めていた印象のあるりりィさんが、なんだか初めて弱々しく見えた。
いや、本作でも人から見える彼女の印象は、平然と一人で生きているババア、なのだろう。決して弱々しくなんては見えない。

だけど、年代の違う三人の女(の子)たちには、彼女の弱さが見えてくる。彼女たちは当年とって59の艶子さんから見たら、皆子供か孫のような年齢の女性ばかり。ずっと若いし、そんな年で悩むなっていうことも、一方では思ってる。
でも一方ではどんな年齢でも女の、女ゆえの心細さや弱さは、勿論そこを通ってきた艶子さんには判ってるし、同じ弱さを通して彼女たちにも艶子さんの弱さが見えてくる。
血なんてつながってはいないけど、親子よりも時にはシンパシイを感じる何かがここにはあって、子供もいなく、夫も20年行方知れずになっている艶子さんに優しい力を与えてくれる。

そう、三人、それぞれがヒロインとでもいった感じでかわるがわる出てくるのね。つまりこれって、ちょっとしたオムニバスって感じ。ううう、オムニバス苦手なんで、どうやら本作がそういう趣があるみたいだっていうのを予告編で感じてて、こんな最終日まで二の足を踏んでいたのだった。
確かにちょっとしたオムニバス。でもその三つは艶子さんを介してスムーズにつながっていく。彼女たちは艶子さんに、他の人には決して見せたことのない心の深い闇の部分を、ようやく吐き出す場所を見つけて、そして去っていく。艶子さんはそれを黙って飲み込んで、彼女たちを光ある方向へと送り出す。
いわば艶子さんはどこか、吹き溜まりみたいな状態で、たったひとりで静かな生活を送っている彼女の様子はあまりにも寂しいのだけれど、でも、いわば恩義をもらった三人の女たちは、艶子さんのことを決して忘れないのだ。

マリカは恐らく、これからも足しげく艶子さんのもとを訪れて、いつものように口げんかをしながら時を過ごすのだろうし、月は今度は、旦那さんと改めて屋上の公園でゆっくり時を過ごすのだろう。
そして最初にフラリと現われた女の子、美香はこの物語のラストで、父親の新しい家族と笑顔で写真に収まっている、その一枚を艶子さんに送ってくる。
何も書き添えられてはいないけど、このたった一枚で、艶子さんにどんなに彼女が感謝していたかが知れるのだ。その気持ちを受け取ったから、艶子さんも思わず涙を流し、ある決心を固めるのだ。

いつもいつも、艶子さんは郵便受けを覗いていた。いつもいつも、カラッポだった。誰からの手紙を待っていたのか……それは勿論、20年前に出て行った夫。
彼が愛人の元に行ったこと、彼女との間に子供までもうけていたことも知っていたのに、そして、役所から遺体を引き取ってほしいと連絡も来ているのに、それでも、艶子さんは待っていたのだ。
思えば、この夫も哀しい人だったのかもしれない、と思う。だって結局は死んじゃって、引き取ってもらえるのは妻しかいなくて、子供まで出来たのに愛人との間には本当の愛を得られたのかどうか。
ならば、妻である艶子さんがその本当の愛を得られていたかどうかっていうのまでは、ここでは語られないから判らない。でも、艶子さんからは「どうしようもない女好き」としか語られない夫が、この中では死んでしまって、20年ほったらかしにされてきた妻から引き取りを拒否されたままであることが、なんだか妙に哀しい気がしたのだ。

愛はそれぞれに、心の中にある筈なのに、どうしてそれが真っ直ぐに相手につながらないのだろう。
どうして怖がってしまうのだろう。ただ待つしか出来なかったり、ただ絶望につなげてしまうのだろう。
艶子さんが背中を押した女たちの、少なくとも二人は、ほんのちょっと勇気を出した結果、案外アッサリと幸せがその手に転がり込んできたことが描写されてる。
ほんのちょっとの勇気、でもそれが、時を重ねれば重ねるほど難しく、踏み出すことが怖くなる。
艶子さんは20年を、その恐怖に費やしてしまったのかもしれない。

あのね、この夫が、艶子さんが今一人で切り回しているラブホテルを建てたのね。ラブホテル、というのもはばかられるような、なんか思いっきりさびれた和風旅館。宿泊料金のところをテープで貼って隠していると思われる、休憩2500円のみの、ラブホというより連れ込み宿みたいな雰囲気の場所。
その路地を通りかかった一人の少女。冒頭は彼女が雑踏にのみこまれそうになって、戸惑っている様子から入る。これが非常に印象的。
演じる梶原ひかりの柔らかで繊細な存在感が、凄くいいのね。クライマックスの泣きシーンはちょっとぎこちなさを感じなくもないんだけど、非常に可能性を感じる女の子。
髪を銀白に染めている彼女、美香は、いかにも突っ張っている雰囲気。ことあるごとにポラロイドカメラのシャッターを切る。大きな荷物を抱えて、なんかワケアリな感じ。

美香は、子供たちや老人が「こんにちわ」と明るく挨拶をして、ラブホの中へ次々に入っていく様子をいぶかしげに見つめ、自分も後について入ってみる。
このシーン、さっきまで道路を楽しそうに歩いていた子供たちが、美香が振り返るとホテルの前からすっと姿を消していた、という演出もスリリング。
彼らについて屋上に上がってみると、そこには公園が広がっていた。

これは、ちょっとナルホドな設定だわと思った。艶子さんが後に、「この辺には空き地がないから、夫が子供たちのために屋上を開放しようって」という台詞を待たずとも、東京には安心して遊べる場所がないんだもの。家の中や、大人が監視している閉じられた空間では、陽の光りのもとでの開放感や、ワクワク感が失われるし、あらゆる層とのコミュニケーションも図れない。
そういった全てがここでは解決されている。林立するビルの上だから建物の圧迫感もないし、陽の光が降り注ぐ。
赤ちゃんを抱いたお母さん(おばあちゃん?ちょっと引きで判らない)や、将棋を楽しみにくる老人、ひとりゆっくり読書を楽しみに来るもう一人の老人を時には仲間に入れたりして。
秘密基地になりそうな、小さな小屋では男の子たちがナイショの相談に余念がなく、そんな男の子たちを尻目に、女の子たちはムジャキにシーソーで遊び、時には音楽家がヴァイオリンやパーカッションで自由気ままなセッションをしたりする。

なんて、ステキな空間なのだろう!

きっと、こんな場所は昔なら、当たり前にあったのだろう。物騒な世の中になって、普通に外で子供たちを遊ばせられなくなった時代。
人生の先輩とのコミュニケーションや、自分がほんのちょっと前まではそうだった赤ちゃんだって、子供たちは触れる機会が今はないのだ。町のアーティストだったチンドン屋さんや、ちり紙交換のメロディさえ、今はないのだ。
ここには、そんな素敵なことの、全てがあるのだ!

監督さんは、しかしラブホの上の公園、という図式にもっと深い意味を見い出していた。ラブホテルのセックスによって生まれ来ない子供たち。その上にはセックスをしない子供たちや老人が集う、と。
それもまたなるほどと思う。三人目の女、マリカは子供が出来ない身体で、違う男をとっかえひっかえ連れ込んでは子供にならない精子を求める。
屋上には汚水のたまった小さなコップが放置されていて、そこにも浄化できずにさまよっている何かを感じる。
無邪気に遊んでいる開放的な公園に感じる、かすかな悲哀。

美香は、自殺が頭によぎったのか、カッターナイフを見つめていた。いや、そうでなくても、なんだか異様な雰囲気があった。艶子さんはそれを見抜いていたから、恐らくワザと厳しく、「掃除するのは私なんだから」と牽制した。
ゴハン食べてく?食べてくの?とこれもかなり厳しく言って、美香は、「もう私には、食べ物なんて必要ないですから」と突っ張った。
でもカットが替わると、ガツガツゴハンを食べてる。なんか素直すぎて笑っちゃう。艶子さんは美香のお茶碗を黙って取り上げ、「まだ食べてるんですけど」という彼女を制して「おかわり、いるんでしょ」と言った。
後に、美香の置き手紙で「死ぬ気なんてありませんでした。心配かけてごめんなさい」というのを読まなくたって、艶子さんには判っていたと思う。

髪を白く染めたりして、もったいない。バカにしないでよ、と艶子さんは言う。美香は「死んだ時、髪が真っ白になっていたら、どんなに苦労していたのかって、ワイドショーのネタになるじゃん。資本主義社会に貢献してんだよ」と嘘ぶる。艶子は思わず彼女の頬を叩いた。
なんて柔らかな頬なんだろう。やっぱり若くて、あまりにも人生への時間がすんごくタップリあるのに。
美香がお風呂に入っている間に、艶子さんは彼女のバッグの中を探る。
沢山のポラロイド写真には、数多くの年老いた女性の写真、そして見知らぬ家族や路地、なんだかそんな、あったかい視線に満ち溢れていたのだ。

二人して布団を敷いた。「ピンクの方に寝ていい?」と美香は言った。最初からシーツと一緒になっているそっちが、艶子さんが普段使っている方であることは推測がついた。ならばなぜ、美香はわざわざそっちを選んだのか。
それは、布団を敷く時一瞬、そのもう一組の布団を敷こうとする時に、艶子さんの動きがしばし止まったことを、美香は見逃さなかったから。
このシーン、ローアングルで、彼女たちの足から下の画しか捕らえられていない。艶子さんから渡される次の寝具を待つ美香と、押し入れの中を見つめる艶子さんの、足だけの画。
そこから全てを悟ってしまう美香の、それが判ってしまうだけの経験をしている彼女の辛さ。
それが全て凝縮されている、ストイックかつ豊かな、秀逸なシーン。
「旦那さんの匂い、する? 私、13歳の割には気が効くでしょ」と、マセたことを言う美香。
「旦那さんの匂い、覚えてる?」「忘れちゃったわよ。……お父さんの匂い、覚えてる?」「……気づいてたんだ」何に気づいていたのか、この時点で特に明確にされはしないんだけど、なんで艶子さんは判っちゃったのか。それは、年の違いはあれ、同じく愛しい男を待ち続けている女の匂いがあったからなのか。

美香の両親は離婚して、美香は母親に引き取られて暮らしている、と思われる。
冒頭で美香が住所を書いたメモを手に、父親が今暮らしていると思しき家を探し当てているけれど、訪ねてはいけない。父親との携帯電話の会話の端々からは、彼女がお父さん子だったこと、父親もまた、今は離れて暮らす美香のことを気にかけていることが判る。
そして美香は、父親に会いたくて家を出た。多分だけど、美香の会話の感じでは、一緒に暮らす母親にはちょっとした家出っぽく家を出たんじゃないかと思う。そして連絡をとっている父親には、温泉旅行に来てるんだ、なんて言って。

だってこの銀髪、そう俄かに染めたとは思えない。ヒネている証拠で、恐らく母親には心労をかけているだろうと思われる。でも母親は、お父さん子だった娘に強く言えなくて、なんてことまで想像してしまったりして。
次の日もう一度訪ねてきた美香がね、「お母さんが心配しているから」と艶子のごはんの誘いを断わって帰ろうとするのが、そんな想像をさせてしまうのね。

艶子さんは、そんな美香を説き伏せて、屋上に上げた。そして有無を言わさず髪の毛を黒く染め出した。
美香がね、ぽつりぽつりと話し出すのだ。お父さんの新しい家族を窓ごしに見たこと。
「ベタベタしてなくて、クールで、いい感じだったんだよね」「会ったの?」「……出来なかった」
うつむいて目を真っ赤に腫らして涙を流す美香に、艶子さんは「身を引いたのね」と声をかけた。
この表現が、すんごくたまらなくてさあ……。子供でも、見を引くって表現がしっくりきちゃうなんて、切なくて悲しいことがあるんだね。それだけ子供も大人だってことなんだよね。

そして二番目のヒロイン。おっとビックリちはる嬢である。彼女を女優として観るのは初めてかもしれない。彼女自身はしっかりママになって、ステキなライフスタイルを提案しているけれど、ここでは子供もいなくて、仕事が忙しくていつも午前様の夫とすれちがいの生活をしている、心が虚無になってしまった主婦、月を演じている。
毎朝、万歩計をつけて早朝の街を歩いている。その途中で艶子さんの経営しているホテルの前を通り、路地を掃除している艶子さんと挨拶をかわすのは、恐らくもう10数年の習慣なんである。でもお互い、名前さえ知らない関係。
でもある日、月が大切にしていたノートを落としてしまったことで、思いがけず艶子さんとお近づきになるんである。
そのノートは、月が毎日記し続けていた万歩計の歩数。
月にとって、それは何より大事なものだった。それはなぜか。夫がはじめてプレゼントしてくれたものだったから。

「月の裏側まで行きたい、ヘンな女がいたのよ」ノートを拾ったのは、屋上公園にいつも遊びに来る男の子たち。ノートに並ぶ数字の意味を、カンカンガクガク秘密基地で討論していた彼らに、そう月は言った。
ノートの表紙には、月の裏側までの距離。それはSF探偵小説から割り出した、いわばファンタジーの数字。それでも彼女は、そこに行きたいと思ったのだ。
いつも1時過ぎに帰ってくる夫。食事を用意するだけで、完全にスレ違いの日々。
ある日の朝、携帯がなくて取引先に電話が出来ずに往生しているサラリーマンに携帯を貸す為にウエストポーチを開けて、恐らくその時に落としてしまったのか。
このエピソードから、彼女のお人よしな、だからこそどこか臆してしまって一歩が踏み出せなくてキズついてしまう性格が見え隠れする。

朝ごはんが用意できなくて、月がそのことを電話して謝ると、たかがノートをなくしただけで警察だなんだと取り乱しているのか、とでもいうように、電話の向こうの夫は明らかにイラだっている様子だった。
夫は、ノートのことを覚えていない。
でもある意味、それは当然だ。だって彼女は夫と会話を交わしていないんだから。
彼が帰ってくる1時過ぎ、ベッドの中で寝たフリして、きっといつでも目が覚めていたに違いないのに。

ホントはね、この携帯電話のやりとりで、観客であるこっちはちょっとイラついたんだよね。
なんか、食事を用意するためだけの妻の存在なの?って感じて。二人の間には子供もいないし、そういう雰囲気はマンマンな気もしたんだよね。
恐らく実際、そうだったんだろうけれど、でもむしろ、それだけのことだったからこそ、そこんところをクリアしてしまえば、アッサリ解決してしまえるってことだったのだ。

夫との距離を感じ、しょんぼりと艶子さんのホテルの前を通りがかった月は、心配して声をかけた艶子さんに「ここで働かせてもらえませんか?お給料はいりんません!」と突然申し出た。
「意外とキツイわよ」と、さっきまでのにこやかな感じとは一転して、突き放すように艶子さんは言う。それでも月は、「ありがとうございます!今すぐ着替えて戻ってきます!」と嬉々として走りだした。

実際艶子さんは、厳しく彼女に接して、昼ごはんの時でさえ、笑顔を見せない。「なんか艶子さん、段々私に冷たくなってません?」と月が問いかけてみると、「これから一緒に働く相手に、気を使ってたら疲れちゃうでしょ」と艶子さん。でもそう言われて、なんだか月は嬉しそうだった。
気を、使いまくっていたんだろうなあ、夫に。こんな風に冷たい空気になることさえ怖くて、だから目が覚めているのに彼に話しかけることさえ出来ずにさあ……。
こんな風に、すぐに信頼関係を作ってくれた艶子さんのことが、ありがたかったんだ、きっと。

子供たちが拾っていたノート。月は、これは呪いだから、解いちゃった方がいい、と燃やしてしまう。
本当にいいの?と艶子さんは聞いた。いいんです、とさっぱりした顔で、月は言った。
すると艶子さんは、「もう今日で月さんはクビ。あとはちゃんと片づけてね」と言い、彼女を残して階下に降りていく。
月が夫を愛していること、だから苦しんでいたことは、このノートの存在一発で判っちゃう。
そのことを恐らく彼女自身が気づいていないことが、いや、気づいてはいるんだろうけれど、その愛する相手が目の前にいるのにアクションを起こさないことが、歯がゆかったのかもしれない。
もし艶子さん自身が、それに気づいて、いや自覚して、いやいや、恐れずにアタックしていれば。

三人目のヒロイン、マリカに艶子さんは言われたのだ。どうして旦那さんを奪い返さなかったのかって。
月がしたことは、ほんのちょっと時間をずらすことだけ。1時過ぎに帰ってくる夫を、食事の支度をしながら当然のように迎えるだけ。たったそれだけで、次のシーンでは、二人でウォーキングをして、掃除をしている艶子さんに挨拶をするのだ。
そして「この上には公園があるのよ。ウソだと思うなら、今度来てみなさいよ」みたいな会話を交わして。とても仲睦まじそうなのだ。

月が一日だけの受付を担当していた時、常連の客として現われたのがマリカだった。毎回連れてくる相手はとっかえひっかえ。美人のマリカさんは、屋上の公園で遊ぶ男の子たちにもちょっとしたアコガレの存在だった。
ある日、男の子たちは、彼女が産婦人科から出てきたのを見てしまう。
「マリカさん、お母さんになるのか」「お父さんは(ここに来たことのあるうちの)誰だ?」「産むんじゃなくて、堕ろすんだろ」「おろすって?」「おまえ、堕ろすも判んないのかよ」
ここはラブホテルで、一応その意味するところも判ってるハズなのに、なんだかやっぱり男の子なロマンティックを抱えたままのこの子たちが、愛しい。
思えば女の子のナマナマシイ意見って出てこないし、このマリカのシークエンスは特にちょっと浮き世離れしたシーンも多いし、やはり男性監督だからなのだろうか。

浮き世離れしていると感じたのは、マリカが夫の死を受け入れられない艶子さんの頬を挟んで、アンタの人生はアンタで決めるんだよ!と喝破する場面や、恐るべき厳しい確率の無謀な闘いに挑む精子が恋で、どんな精子でも受け入れる卵子が愛だという意見で一致する場面。更に、そんな艶子さんに突然、マリカがおでこにキスを見舞う場面など、このエピソードに集中してるんである。
ある意味、マリカが一番、女として世間に求められることの多い年代なんだよね。恐らく20代半ば。子供が産めるとか、仕事でもバリバリやれるとか、女性としての魅力とか。
でもそれって、ホントにピンポイントの年代でさ、つまりそのこと自体が、女性に対してこれ以上ない差別であり、侮辱である訳なんだよね。
で、こんな時代だから、ことにこの点に注目されてしまう……子供が産めるかどうかって部分で、マリカは引っかかってしまうのだ。

もう17の時に、子供が産めない身体であることが判明してしまっているマリカは、その色あせた診断書をずっと持ち歩いていた。
そして、もうひとつ持ち歩いている、ナゾのアタッシュケース。
研究者であるらしい彼女、屋上にたむろしている男の子たちにエントロピーの何たるかを講義したりした。生々しく母親になれないから、とにかくドライでいたかったのか。いやでも、彼女がアタッシュケースを持ち歩いていた更に大きな理由は、いろんな男たちの精子を集めていた、のだ。

ちょっと、どころか相当異様に見えるこの理由。それを艶子さんから聞かれたマリカは、「自分が精子になりたかった」と言った。
それを聞いて、その日一緒に来ていた男は、逃げ出してしまう。
精子は恋、卵子は愛。受け入れる愛である、女のある資質を失ってしまったマリカは、ただただ恋する精子に憧れたのか。
艶子さんもまた、どこかの時点で、もう精子を受け入れる“愛”を失ってしまっている。
艶子さんは、若いというだけで、その資格があると思っていたかもしれない。でもマリカのようにそうじゃない人もいる。恋に憧れ、愛に嫉妬して生きている。

艶子さんが、マリカや美香にババアと言われる度に、「私、まだ59よ」と繰り返す台詞が、痛かった。それに対してマリカも美香も「ババアじゃん」とやはりやり返し、ちょっとした漫才のような気分さえあるんだけど。
子供に恵まれず、夫もいなくなってしまった艶子さんにとって、どの時点で自分がババアだと思えばいいのか、この20年、ずっと女として夫を待っていたのに、どこからババアという境目が出来てしまったのか、そんなの当然、認められっこないんだもの。

マリカが後輩と話している話題、おばあちゃんがいる地域は、子供が沢山いる、というのも。子供や孫を育てた経験豊富なおばあちゃんがいると、子供を育てるのに安心だから、ということなんだろう。
この屋上公園にも子供たちはたくさんいる、そして、艶子さんは確かにオバアチャンな年代なんだろう。でも皮肉にも艶子さんは子供を育てた経験はないのだし、この仮説はあてはまらないのだ。
こんなことを言い出した後輩にマリカは「うさんくさい」と切って捨て、後輩は「えー?ステキな話じゃないですか」と不満げなのが、辛い人生を歩んできた女と、まだまだ何にも判ってないワカゾーの男という対照がくっきり見えて面白い。面白いっていうのもなんだけど……でもここには、その延長線上に艶子さんもいるんだもの。

ラストは幸福な時間に満ちている。いつものように艶子さんは夕方の時間キッカリに、屋上へと上っていく。いつもなら、すぐにパンパンと手を叩いて、「自分が人間だと思っているなら、さっさと家に帰りましょう」と子供たちを追い立てるのだけれど、その時だけは一瞬、この幸福な光景に見入っている。
元気に遊ぶ子供たち、のんびり将棋をさす老人、自由なジプシー音楽を奏でる音楽家たち。自然に笑顔がこぼれる。その顔をさっとひきしめて、やはりいつものように帰路を促がす艶子さんは、でもいつもよりもずっと幸福そうに見えた。

だって多分、彼女が思っているよりも子供たちは艶子さんを慕っているし、この場所が大好きなのだ。いつまでも帰りたくないくらい。
片づけを手伝い、明日も来るねと手を振って、子供たちは帰っていく。そっけないふりをしながらも、艶子さんの心に温かいものが満ちているのが判る。

いきなり女性映画の秀作を作ってしまったこの監督が、次には一体どんな作品を作るのかしらん。楽しみに待つ。★★★★☆


パコと魔法の絵本
2008年 105分 日本 カラー
監督:中島哲也 脚本:中島哲也 門間宣裕
撮影:阿藤正一 尾澤篤史 音楽:ガブリエル・ロベルト
出演:役所広司 アヤカ・ウィルソン 妻夫木聡 土屋アンナ 阿部サダヲ 加瀬亮 小池栄子 劇団ひとり 山内圭哉 國村隼 上川隆也

2008/9/17/水 劇場(有楽座)
お芝居、観ておけば良かったなー。観るチャンス、あったんだよね。シゲちゃんが出てるやつ、再演だけど。優先予約もあったんだもん。惜しいことをした。お芝居の映画化の、そのお芝居を観てるなんてチャンス、そうそうなかったのに。
でもまあ、当然、そりゃあ伝える媒体が違うんだから、当然、全然違う訳だけど。というか、伝える媒体云々ってことを超越して、壮絶に、ぜんっぜん違うんだろうな。そりゃそうだ、こんなやり方、舞台じゃ出来ないもん。
まあ、言ってしまえば映画で出来ることを全てやって、やりつくして、これなら文句ないだろうみたいな、感じだったのよね。それがね……もう、もの凄く、疲れちゃったのだ、観てて。

でも、映像の表現としては、「下妻物語」「嫌われ松子の一生」の流れは汲んでいる。思いっきりカラフルで、無意味な程にアクションで、感情が必要以上に爆発している、内に込めるなんてことはしない!みたいな。
でも正直、もういいやって気がしちゃったんだよなあ。そりゃあね、「下妻物語」ではすんごい興奮した。キャラの立ち具合も異様なぐらいだったし、ガーリーな世界がそのカラフルの中で爆発してた。
そして「嫌われ松子の一生」は、画を見て、え?また?とちょっと最初は正直思ったけど、下妻以上のキャラ立ちが、しかもゾロゾロ出てきて、しかもしかもヒロインの松子の一代記という壮大さが圧倒的だったから、もう有無を言わさずという感じだったのだ。

で、こんな流れで来たら、そりゃあ中島監督もそうした、気鋭の映画を期待される向きはあるんだろうけど、予告編で、そのカラフルで楽しい世界観にワクワクはしたけど、監督の名前を見て、正直、え?また?と思った。
それでも期待を胸に足を運んだのは、当然今までの力作があったからなんだけど……なんかね、もういいやって感じだったのね、疲れちゃったのだ。
登場人物のキャラ立ちにしても、今回に関しては、なんかムリヤリそうさせているって気がしてならない。

ことに準主人公であるガンコじじいの大貫(役所広司)なんて、魔王みたいなカッコさせて、判りやすい狼藉働かせてさ。
彼の甥のヨメである看護婦を演じる小池栄子は、吸血鬼みたいにキバ生えちゃって、カネ至上主義で、ギャーギャー叫んでダンナにガブリと噛み付いて、あー、なんかもう、すんごいキャラ作ってる!って感じで。
今は自分のなりたい女として生きている“オカマ”な木之元(國村隼)が、自分を偽っていた頃に出来た娘の結婚に心揺らしたり、実はオトメな過去のあるパンクな看護婦、タマ子(土屋アンナ)なんかは、少女マンガ的なお約束なキャラではある。
でも、妙にテンション高めでコスプレ好きのお医者さん(上川隆也)とか、子役時代の栄光が忘れられないジャンキー青年、室町(妻夫木聡)のやりすぎ気味のボロファッションとか、キャラの背景以上に押し出しすぎで、人間関係を頭に入れる前に、なんかウンザリしちゃうのだ。

その際たるものが、もうこの人だけにしとけばいいのにと思う阿部サダヲで……実は彼はこの病院の患者ではないんじゃないかと思われるぐらい(実際、そうなのかも)、皆に邪険にされているんだけど、あの阿部サダヲのテンションであらゆるところに出没しては、シュールな会話を繰り広げるのよね。
それが本当に面白く機能しているのなら、ここでいちいちそれを紹介したくもなるんだろうけど、作品世界そのものにいちいちかみあわないもんだから、彼のせっかくの頑張りが、とんがってこないのだ。
ヤゴだのタニシだのと地味な生物を言いたがる様は確かに可笑しいんだけど……もっとその可笑しさを生かせる筈なんだけど。

そうしたおかしな患者たちの中だからこそ、純真無垢な、天使のようなパコがひときわ光り輝くっていうのも、判るんだけど……この子は確かに、見てるこっちが彼女の笑顔に接して微笑んでしまうような力を持っているんだけど、でも、それこそこの子の根本的なキャラ自体に、正直またか……と思わざるをえないんであった。
ほんっとに最近、やたらと映画の中に見る、記憶障害、しかも一日だけの記憶しか持たないという設定は、これで何度目だろう?なんかその時点で、気持ちがなえてしまう。

しかもヒロイン自体が、その障害にまったく気づかず、天使の様な存在で逆に周囲を癒し、そのまんま死にゆくというのが……それまでに、こうした記憶障害の映画に接していなかったら、素直にカンドーしたのかもしれないけど、やっぱね、今まで見てきたその障害を持った主人公たちは、そのことに苦悩していたからさあ。
そりゃ天使のようなまだ幼い女の子だから、それを期待するのもなんなのかなとは思うけど……周囲のキャラに疲れきっちゃったこっちとしては、カンタンにこの子に癒しを感じるのはキビシかったのよね。

たった一人で会社を興して、大きくして、でも頑張りすぎて自分が倒れちゃって。会社の誰も、自分の復帰を望んでなくて、ムリヤリ入れられたこの病院でも、ワザと傍若無人な振る舞いをして病院中から嫌われてて……そんなクソじじい、大貫がパコと出会い、彼女の心に自分の存在を残したいと思う。
最初こそは、このジジイ自体、いかにも子供なんて大っキライ!ってタイプだし、臆せず笑顔で近寄ってくるパコに、勝手に作ったヒドイ展開の御伽噺を聞かせて、追い払うつもりだったのだろう。
でもパコは、哀しい顔はするけれど、彼に対して臆する態度は見せない。彼女が手にした立体絵本は読み込まれているようなのに、彼女は彼が読み聞かせる物語に、毎回、瞳を輝かせて聞き入るのだ。

二回目にパコに会った時、イラだった大貫は、パコの頬を殴った。それは、前日彼が落としたライターをパコが拾っていたのをムジャキに差し出したからなんだけど……パコは自分が拾ったことも覚えてないし、キラキラ光るライターをキレイだとムジャキに思っていただけなのだ。
そのライターは彼の会社が黒字になった時、初めて自分へのご褒美で買ったものだった。特別なものだった。
だから思わずカッとしたんだけど……殴られた時は火がついたように大泣きしたパコだけど、翌日にはなあんにも、覚えていないのだ。

いつも、「お前が私を知っているってだけで、腹が立つ!」と吠えていた大貫が、このパコの記憶には残らない。
大貫は、「私のことを、知っているか?」と毎度聞いてみる。するとパコはあの天使のようなムジャキな笑顔で、「知らない!」と元気良く返すのだ。
いや、いわゆる物理的な記憶は消えていても、パコには覚えている感触があった。思わず自分の殴った彼女の頬にそっと触れた大貫に彼女は言ったのだ。
「昨日も私のほっぺに触ったよね」
感触は覚えている、というのは、同じ一日だけの記憶障害がテーマだった「ガチ☆ボーイ」と同じで、正直新鮮味がないのがツラい……。
ここに驚きがないと、彼女に対して共感を持つこと自体が、ツライんだよな……。
しかも、パコが毎日口にする、「今日が私の誕生日なの」ってのも、即座に「式日」を思い出しちゃうしなあ。

クライマックスは、大貫がパコに何かを残してやりたい、と思うサマークリスマスの芝居なんである。そこで彼は、パコが大好きなガマ王子とザリガニ魔人を病院の皆で演じようと企画する。
そもそもこの絵本は、ラストにそのカラクリが示されるんだけど、パコが両親と乗った車で事故に遭って、彼女だけが助かり、目覚めた時に枕もとに置いてあったものだったのだ。
いや、目覚めた時じゃないかもしれないけど……でもとにかく、パコはあの事故の時から記憶は一日しかもたない訳だし、この一日にパパとママに会えないことも、それほど疑問に感じている風でもなくて。
表紙の裏に、「お誕生日おめでとう。毎日読んでね。ママ」と記されているのは、この絵本をパコの枕もとにそっと置いたであろう、絵本の作者である堀米であり、彼を演じる阿部サダヲがなぜあの病院で意味もなくい続けて展開を引っかき回していたのかも、そのナゾが解けるラストになって、何となく得心がいくんである。

パコの記憶障害を知った時、大貫は泣いた。泣くのなんて初めてだった。泣いたことがないから、涙の止め方が判らない。そんな大貫に医者は優しく声をかける。「涙は、いっぱい泣けば止まります」と。
この感動的なエピソードが、ヤクザと思しきお兄さん、龍門寺に引き継がれるのはまあ、ギャグなのだが。
龍門寺が始終電話して、安否を気遣っている相手はブタバコにブチ込まれた子分かと思ってたら、可愛がってたサルなんである。しかも、彼が負った銃創は、その賢いサルに銃で撃たれちゃったんである(笑)。
驚いて逃げていったサルの死に、涙に暮れる龍門寺に、大貫はそっと声をかけてやる。涙は、いっぱい泣けば止まるんだと。すると龍門寺、その言葉が終わるか終わらないかのうちに、カミナリのような大声で泣き出す。
まあつまりは、そんなことも知らなかったのは、大貫だけ、なのよね。

そもそもこの物語の始まりは、年老いた堀米が、大貫の子孫である浩二を訪ねるところから始まってて、彼に大貫の話を語る形で進行していく。
それって、まんま「嫌われ松子」なんですけど、って気もしないでもないっていうか……ホント、まんまなんだよな。現代の、テキトーな青年って図式もまんまだし。
ただ、二役として加瀬亮がメイン筋で大貫の甥、コッワイヨメに脅されまくっているマッシュルームカットの青年を演じているっていうのが、まあちょっと、面白いかな?加瀬亮って、なんかマッシュルームカットのイメージだよね……なんつーか。

でね、パコに「ガマ王子とザリガニ魔人」の芝居を見せるのがメインとなるんだけど……それまでのムリヤリなキャラ立ちとカラフルで充分疲れ果ててたんだけど、このメインの展開に至ってくると、正直もういいよっていうか……。
それまでも多用されていたCGがこれでもかと前面に出てきて、やたら躍動感はあふれてるけど……なんか正直、よく判んないのだ。
まあそれは、大貫の熱意に押されて参加することになったメンメンにしてもそうみたいで、この次はどうなるの?みたいなノリでやたら滞ったり、アドリブきかしたりするのだが。
そのアドリヴに最も活躍するのが、もともとこの病院とは関係ないと思しき堀米で、なんか物語が変わってっちゃう、ここはやっと阿部サダヲの魅力が出てて、ちょっと、若干、面白いかな?

んで、その芝居もクライマックスになり、それまでさんざヤバそうな発作を見せていた大貫が、ついに動けなくなる。それでもパコのために最後まで物語を紡いでやりたいと思い……。
しかしここがギャグなのか、どんでん返しなのか、フェイントなのか?霊安室の空調が準備されてるなんていうフリが、大貫が危ないんだと思わせていたのが、それが実はパコのことだったのだ。
……ムリヤリ立たせたキャラたちで、何とかぼかそうとしてるけど、これって、めっちゃ王道だよね……。
だってパコの障害に関して彼女自身に自覚がない以上、そしてそれを治療の過程に加える気がないらしい以上、つまり彼女はこれ以上精神的に成長しないんであって、もう死ぬしか手立てがないんだもんさ。
それこそ、天使のまま、本当の天使になるっていう、美しすぎる結末しか。

いや、そんな風に言っちゃったら、それこそ色々と問題があるであろう……でもそこが、お芝居を映画にする際に引っかかる部分だと思う。
誤解を恐れずに言えば、お芝居はその一時のテンションで作り手と観客がまとめ上げてしまうものだと思う。それは本当に素晴らしいことで、それがたとえDVDなり中継なりといった映像として収められても、そんなことでは全然、とらえきれないものなのだ。
でも、映画という媒体になってしまうと、そうもいかなくなる。ひとつの映画作品として、芝居を観に行けない人々の元にも届くし、それこそ容易に海外にだって出て行く。表現としての自由が、作り手に要求される認識が、より厳しくなるのだ。

ポップで、アナーキーなだけじゃ、正直かばいきれないものがあったように思う。
ことに、子役スターとしての過去の栄光に苦しめられた室町なんか、パコに比して自覚があるだけ、すんごい苦しんだ人生歩んだと思うしさ。
彼に関しては、つまぶっきーがかなり入って演じていただけに、そして、その彼の子役時代から恋い焦がれていたパンクな看護婦を演じる土屋アンナもまた、せっぱつまったパンクぶりを発揮していただけに、なあんかワキエピソードに埋没させるのが惜しい気がしてさ。
そんなネガティブ男の巻き添えをくって、またもや瀕死の重傷を負う消防士、滝田(劇団ひとり)もねえ、彼が一番、キャラが発揮しきれずに残念だった気がする。
彼はホント、役者としてイイ雰囲気を出しているのに、本作ではなんていうか……運が悪かったというか。出番は割と多いのに、ムダに強烈なキャラに殺されちゃうっていうかさあ……。

最後、ガマ王子は死ぬ。それを大貫は渾身の力をふりしぼって、パコの前で演じた。
絵本は子供に死の概念を教えてる。そのページの、なんかリアルなガマ王子の死に顔がちょっとゾッとさせるものがあった。

CGになったり、生身の役者になったり。その衝撃が、斬新さが、イマイチ伝わらなかった、のは、最初からもう、画面がただただうるさすぎたからかなあ……。★★★☆☆


ハッピーフライト
2008年 103分 日本 カラー
監督:矢口史靖 脚本:矢口史靖
撮影:喜久村徳章 音楽:ミッキー吉野
出演:田辺誠一 時任三郎 小日向文世 綾瀬はるか 寺島しのぶ 吹石一恵 田畑智子 平岩紙 田山涼成 岸部一徳 中村靖日 田中哲司 江口のりこ 笹野高史 ベンガル 柄本明 木野花 森岡龍 坂井三恵 長谷部瞳 華城季帆 高松いく 野沢和香 海老瀬はな 巽よしこ 美帆 松田珠希 濱崎茜 伊藤久美子 神崎詩織 佐藤めぐみ 入山法子 肘井美佳 宮田早苗 長谷川朝晴 いとうあいこ 竹井亮介 菅原大吉 正名僕蔵 藤本静 竹中直人 森下能幸 明星真由美 川村亮介 石井智也

2008/12/8/月 劇場(錦糸町TOHOシネマズ)
いやー、ビックリしたなあ。だって、矢口作品で私、初めて面白いと思ったんだもん(爆)。
そりゃ世間的にはね、評価されてるしヒットもしてるんだけど、そして「ウォーターボーイズ」「スウィングガールズ」はそのクライマックスの発表場面では確かに私だってグッときたけれど、基本、コメディ映画だったわけじゃない。んで、そのコメディを形成するギャグ部分、それが常に私のツボをハズしまくっていたのよね(爆)。まるで、笑えなかった。
まあだからそれは、単に笑いのツボの問題、感覚、好き嫌いの問題であって、それが作品の出来不出来じゃないっていうのは判ってたつもりだったんだけど……ただ、やっぱり“基本、コメディ映画”だったもんだから、私はとにかく矢口作品というのは苦手意識を持っちゃってたのだ。

んー、だから正直、足を運ぶことさえも悩んでしまった訳だが、ただ今回のヒロインが綾瀬はるか嬢だということでね、そのツボがハマるような気がしたのよね。彼女は確かに今が旬の女優さんで、その流れでの抜擢だったのかもしれないけど、矢口作品のヒロイン、と聞いて大いに頷ける、はっちゃけたキュートさを持っているからさあ。
あまりドラマを見ない私的には、ドラマで花開いた女優さんにはついつい先入観というかヘンケンを持っちゃうんだけど、彼女のくるくると変わるヘン顔も含めた豊かな表情には、スクリーンの女優としての大きな可能性を感じたし、矢口作品のヒロインとしては、本当にピッタリだと思った。……そう、西田尚美、上野樹里にまさに続く系譜だと。

と、思ってたんだけど、いや、彼女は期待に違わずその豊かな表情をドジなCAというキャラに(それは決して、堀ちえみとは違うんである!!)十二分に反映させて、とっても可愛くて魅力的だったんだけど、決して彼女は“ヒロイン”“主役”ではなかったんだよね。宣伝展開ではどこか客寄せパンダのようにそうした役割りを担っていたんだけど、違ったんだよね。
ならば狂言回しかといえば、そうでもない。そして主役ではないというのも、語弊があるかもしれない。
この作品では登場するキャラ全員が主役といっても過言ではない。いや、それが過言だとしても、パイロット、CA、グランドスタッフ、整備士、オペレーションセンターや管制塔のスタッフに至るまで、部門ごとの“主役”がそれぞれ存在していて、それぞれのエピソードで波があって大きなクライマックスも迎えるし、そしてその部門は全て、飛行機に乗客を乗せて目的地まで安全に航行させる、という目的に向かって集約されているのだ。

しかし本作では、その目的が全うされない、てとこがミソなんである。それが事件であり、映画になりうるトコなんである。
あるアクシデントが発生して、この飛行機は目的のホノルルに行くことが出来ず、羽田に引き返すことになる。それまでの手に汗握る経過が見事な大波となっているんである。
そういやあ、このアクシデントの原因であるバードパトロールさんだけは、“部門”としてはたった一人の登場で、しかも雑誌の取材などに浮かれて自分の仕事を全うしなかったがために、こんなおおごとを引き起こすことになっているのよね。バードパトロールさんたちから、自分たちはもっとちゃんと仕事してるゾと批判されないのかしらなどとも思うけど、そもそもこんな仕事……飛行機に群がる鳥を空砲で散らす……なんていう部門が存在することさえ、知らなかった。

ことほど左様に、その取材の膨大さを想像するだけでめまいがするほど、一機の飛行機を飛ばすためにどれだけの専門家があらゆる分野から支えているかというのを、詳細に追っていくのには驚嘆する。
もともと群像劇の専門家である矢口監督だけど、これは実に理系のソレを要求される。正直、見ていても専門用語が飛び交って、今どう危機に陥っているか正確に判るかといったらアレなんだけど、でも監督がそれを正確に掌握しているんだというのは、判るし、だからこそ、擬似的感覚でこちらもパニックを体感することが出来るんだよね。

冒頭は、パイロットの昇進試験中である鈴木副操縦士(田辺誠一)がシュミレーションテストを受けている場面からはじまる。これはシュミレーションだなと予想は出来るものの、機首をあげろ、パワー、パワーと叫んで海面に突っ込むパニックのやりとりには、「クライマーズ・ハイ」で思い出したあの悲惨な事故を思い出してヒヤリとする。
でもそれもまた、織り込み済みだったのかもしれない、と思う。劇中、飛行機におびえて新婚旅行を前にトイレに閉じこもってしまう女性に「大丈夫ですよ、飛行機はめったなことでは落ちませんから」「あなたが普通に生活して、四百年に一回(うろおぼえ。多分間違ってる(爆))遭遇する確率んです」と説得する場面なぞもあるけれども、そんな言葉じゃ怯える乗客を説得することは出来ないんである(説得できる言葉は、その新婚旅行の相手である夫との出会いの奇蹟の確率の方(笑))。
そう、やはり私たちの頭には、あの悲惨な事故がこびりついているんだもの。
だからあえて、安全に航行するのではなく、あわや大事故、という中でのクルーたちの奮闘を描いたのかな、と思うのだ。
でもそれって、完全タイアップのANAの提灯映画のようにも思えなくもないけど(爆)、でもそんな思いも吹き飛ばすほどの綿密な取材によるイキイキとした彼らの姿に、ただただワクワクするしかないのだ。

その中でもやっぱり、CAたちが素晴らしかったかなあ。その点では確かに、はるか嬢はヒロインだったのかもしれない。
アコガレの国際線に初めて配属された彼女、斎藤悦子は、「その便のチケットが取れなかった」とわざわざ上京してきた両親からお守りと正露丸を渡されて涙する。この正露丸は実に矢口的脱力ギャグに使われて、相変わらず私は笑えなかったけど(爆)、その他の場面が素晴らしかったのでアッサリスルーすることができたんである(爆爆)。
堀ちえみじゃないと言ったけど、でも要素としてはやはり堀ちえみだったかもしれないな。
慣れない国際線勤務で、ベテランたちに完全に遅れをとる彼女は、リンゴジュースを所望した子供にワインを手渡し、酔い止めの薬を頼まれたことを忘れてそのお客のゲーをエプロンいっぱいに受けてしまう(!!)

で、チーフに怒られて、キャビンから出ないように指示されるのだが……。このチーフを演じる寺島しのぶが最高にカッコ良かったよなあ!「華やかな世界だとでも思った!?」とはるか嬢を叱責する場面、それまで国内線は経験している相手に言うってことは、国際線CAとしてのプライドをあらわにしているともいえ、かなりシンラツではあるんだけど、でも確かに、こんなに過酷なの!?とCAたちの裏側には大いに驚いてしまう。
それを乗客には一切見せず、ただ優雅で“華やか”にしか見えないのは、まるで白鳥の水面下の必死の泳ぎのよう?カーテンの裏側で「エネルギー入れとかないと、もたないわよ!」と、餓鬼のごとく口いっぱいにほおばるシーンにはドギモを抜かれて大爆笑!皆が憧れるスッチーの姿とは思えない!

で、斎藤悦子は一度は泣きながらこもっちゃって、修学旅行で来ていたCAに憧れている女の子に泣きはらした顔で「諦めた方がいいわよ」などと言うぐらいにまで一時は落ち込んでしまう。
しかし突然、「あなた、料理は得意?」と叱られたチーフから呼び出され、何ごとかと思ったら、同僚がビジネスクラスのデザート作成に大失敗しちゃってて。で彼女がありあわせの果物やらビスケットやらを使って、炊飯器で見事タルト・タタンを作り上げるのには拍手喝采の気持ち!
もー、それ以外にもいろいろ、いろいろ、いろいろ!あるんだけどさ、肉料理と魚料理をいかにバランス良く配るか、とかね(ナルホドなのだ!)もー、言い切れないので、この辺でヤメとく。

CAと同じぐらい印象的なのが、地上勤務のグランドスタッフ。田畑智子と平岩紙というコンビが、大好きな女優さん二人なので、それだけで心躍る。この二人も、いかにも矢口作品に抜擢されるわ、って感じの表情豊かなチャーミングな女優さんたちで、もう、本当に大好き。
先輩である田畑智子は、流れ作業で受付業務をするこの仕事に「出会いもないし」ともう辞める気でいて、その下につく後輩の平岩紙は、「出会いありますよおー、もう芸能人、ナマで見られなくなりますよ」とノーテンキに言うもんだから、「あんたは気楽でいいわね」と適齢期が気になる田畑智子は嘆息するんである。

確かに長い時間機内にいるCAさんが、そこで出会ったゲーノージンとゴールインすることもある一方、チケットをさばくことが主な業務の彼女が、そう嘆息するのもムリはなく、こういうところにも女心のヒダにまで入り込んだ綿密な取材が行き届いていて感心しちゃう。
しかし本作の中で彼女にステキな出会いが用意され、それがこの映画の最後の最後に提示されているのが実に素晴らしく、なんだかんだ言ってやあっぱ、ラブな部分に女は反応してしまうんだなー!

それは、スーツケースを間違って持っていかれた男性客。間違って持っていった若い女性が急ぎバスに乗り込むのを必死に追いかける木村(田畑智子)が、スッ転んで、それでも拡声器を使って「そのバス、止まってー!!!」と叫んで取り返すのだ。
彼が感じ入って、ぜひお礼をしたいから仕事の後に空港の喫茶室で待ってます、と名刺を渡したんである。ヨッシャ!とガッツポーズをした木村だけど、ホノルル便のアクシデントがあって一度は諦め、渡された名刺をシュレッダーにかけてしまう……そこまでせんでも……。
けど、最後の最後、まだいるかもと駆けつけた喫茶室、でもいなくて、ガッカリして席に座り込んだ彼女を、店の外から見つけたピントの合っていない、だけどあの黄色のスーツケースを引いたあの彼が、立ち止まるんである!いやー、色々ドキドキする場面はあったものの、ここが一番ドキドキしたかも!

なんてことを、言ってちゃいけない(爆)。だってなんたって、これはパニックを無事回避する飛行機の物語なんだから。それは勿論、パイロットこそがそのパニックに最も直接的に直面するんである。
ダメダメなパイロット、鈴木を演じる田辺誠一、美しくハンサムな彼だけど、もともとこーいう天然な可愛らしい部分を持っているお人だから、こういう役はなんか、嬉しくなっちゃう。
で、彼を審査する試験官に、時任三郎。優しくてラクそうな試験官でラッキーと思っていた小日向さんが(ピッタリ!)風邪を引いてしまって、そのかわりにと、任命したのが彼だったのだ。
鈴木が最も苦手な「威圧感のある」試験官。彼はこの便が遭遇するパニック以前に、この威圧感のある試験官にパニクッていたわけで。

機長と副操縦士、二人共に食中毒を起こさないために、洋食と和食、別々の機内食を食べる、なんていうトリビアを、「カニ飯か。オレも和食食べたかったな」と食事の手配違いに恨めしそうに言う機長に、冷や汗タラタラな鈴木、と、そんなところにまできめ細かくユーモアを織り交ぜてくる貪欲さには驚嘆する。
ジャマとしか思えない帽子を義務付けられているのが、点検時に上から垂れてきた機械油があわや目に入りそうになった鈴木を例にとって実にナルホドと思わせるのも、上手い。
そしてこの機械油のエピソードは、これまた同様に大きな“部門”である整備士チームへとつながっていくんである。

若い整備士の中村(森岡龍)は、「出来る限り完璧な状態で送り出したいじゃないですか」とベテラン整備士の小泉(田中哲司 )に反発する。しかし小泉は「バランスってもんが大事だろ。それで離陸を遅らせてどうするつもりだ」と叱責する。
知られざる航空機業界の物語で最も驚いたのがここで、実は飛行機は常に完璧な状態で飛んでいる訳ではないっていうのがね。パイロットは、今この機がどういう状態なのか、右側のナントカは今アウトブレークだけど、左側のナントカで持ち応えられるだろうとか判断して、航行を決断してるんだよね(ナントカだらけでゴメン)。
これには本当にビックリした。完全な状態じゃないんだ、と思って……まあ、そのことが最終的にはひとつの要因になってエンジントラブルを起こし、ユーターンしてしまうことにはなるんだけど……あるべきじゃないバードストライクさえなければ、無事にホノルルまで飛べる筈だった訳で。

で、若いゆえに完璧主義な中村は作業に没頭して小泉に指示された制限時間もオーバーして叱責され、この機のトラブルを耳にしてまさかと思って工具箱を調べたら……一つ、工具がなくなっていたのだ。
スタッフ総出で作業場をくまなく調べる中を、真っ青になってスタッフたちに頭を下げる中村。ゴミ箱をあさっている小泉に「まさかエンジンの中じゃないだろうな」と言われ、更に顔色をなくす彼。
最終的にはその日見学に来ていた小学生の男の子がちょろまかしたことが発覚して安堵のため息をもらすんだけど、でも、完璧はどこに求めるべきなのか、心がけること、バランスの良さの意味を若き彼はこの事件で思い知るわけで、そして観客もまた目からウロコなんである。

そりゃあ、こんな、落ちたら大事故になるような大きな飛行機、常に完璧な状態で飛ぶべきに違いない。
でも私たち勝手な乗客たちは、豊富な便数、行き届いたサービス、正確な発着を、当然のように求める。それがいかにあまたの人々の手によって、送り出されているかも知らずに。
これってホント、皮肉なんだけど、でも、完璧なだけが正解じゃないんだということも、教えられるんだよね。それを補って完璧じゃないものを完璧にするのが、それ以外のスペシャリストであり、まさに、チームなのだ。

こうした飛行機モノでちらちらと出てくることもある、いわば“管制塔”がこれほどまでに詳細に描かれたのも初ではなかろうかと思われる。
管制塔、というだけでは括りきれない様々な部署があって、もう、どれがどう機能しているのか正直サッパリなんだけど(爆)天気、風向きは勿論、操縦のテクニカルなことも含めて、最善の方法を指示する頭脳チームのスリリングは格別。
パソコンに慣れなくて「以前はもっとシュッとしていたのに……」とやり手の女性部下から嘆息されていた岸部氏が、この想定外の事態に、あらゆる過去の経験を駆使し、カミナリが落ちてパソコンが使えなくなると空港ロビーの模型まで持ち出して指示を出すシーンは、圧巻。
しかも全てが終わった後、その部下の女性に、パソコンの使い方を習っている場面もほほえましい(笑)。
その他にも、まるで知らなかった様々な部署が色々と、色々と出てきて、もうそれが全て絡み合っててさ、無事離陸した時にはもうカタルシスなんてもんじゃない。まさにこれが、群像劇!なわけよねー。

乗客にもドラマがある。先述した新婚カップルもそうなんだけど、最も大きかったのは、オーバーセール(チケットが座席以上に販売されてしまっていること)でビジネスからエコノミーにチェンジしたサラリーマンと思しき男性。
グランドスタッフの二人は、優しくそうで、文句をつけそうにない人、ということでチョイスしたんだけど、平岩紙嬢扮する吉田はチェンジの条件として、通常は持ち込み不可能な手荷物をオッケーにしたことで後々トラブルが発生してしまうんである。

まず、搭乗の時にCAから止められたのを、事情を知った木村が何とか処理、この時にグランドスタッフとCAとのプライドたっぷりの火花が散るのが興味深い。
しかしそれ以上に、“優しそうで文句をつけそうにない”と見えた彼が、実はぜんっぜんキャラが違って、恐るべき強硬なクレーマーだったことが、この場面を伏線に、後に盛り上げる大きな要素となってくるのがまた上手いんだよね。
大きくて重い荷物が激しい揺れで荷物入れから滑り出してくる恐ろしさもそうなんだけど、その後、ホノルルにこのまま向かえと凄む彼に手を焼いたCAの田中(吹石一恵)に変わって、毅然とした態度で説き伏せるチーフ、寺島しのぶに、物陰から「おおー!」と感動する後輩CAたちならずとも、感動!
カッコイイよねー。こういうオンナになりたいよ!「謝ればなんとかなると、思ったんでしょう。でもそれは間違ってました。このままでは彼女のためにもなりません」キツいけど、部下を立派に育てようと真に思ってる、こんな先輩が私も欲しいよー!

ラストにね、CAに憧れてたあの女の子から、「やっぱりCA目指します」と言われた斎藤が、笑顔で彼女を見送りながら、「キッビシイわよおー!」とつぶやく、というか嬉しげに宣言するって感じなのが、もうこの時のはるか嬢の可愛さときたら、ないんだよなあ!★★★★☆


羽田へ行ってみろ そこには海賊になったガキどもが今やと出発を待っている(課外授業 暴行)
1989年 63分 日本 カラー
監督:瀬々敬久 脚本:佐々木宏 瀬々敬久
撮影:斉藤幸一 音楽:
出演:中島小夜子 松永久仁彦 清野歴史 小川真実 佐野和宏 下元史朗 加藤海彦 山本竜二 島田由香 伊藤清美

2008/4/15/火 劇場(ポレポレ東中野/R18 LOVE CINEMA SHOWCASE Vol.5/レイト)
瀬々監督のデビュー作!と聞けば、そりゃーもう観たいに決まってる……うう、このピンク特集があるたびに、レイトを呪いながら何とか身体を叱咤して足を運ぶんである。
いやー、しかししかし、瀬々監督、なんかもう、作品に若さ!がみなぎっている!なんというか、こんなことを言うのはおこがましいんだけど、観ているこっちがちょっとテレてしまうような若さが。
そりゃ瀬々監督だからデビュー作から完成度は高いし、このギラギラした沢山の登場人物を60分余りのピンクの尺の中でむんずとばかりにふんづかまえて、まとめあげている。でも、若いの、凄く、若いんだよなあ。
いやー、ビックリした。なんか勝手に、瀬々監督は達観した哲学者のようなイメージ?があったからさあ。

そりゃー、だって、80年代なんだもの。まだバブルまっさかりなんだもの。でも恐らくこの登場人物たちは、そんな世間の浮かれたところから完全に離れた場所にいる。いわば、捨てられてる。
でも一方で、そうした華やかな時代が存在していることを何となく気配で感じられるから、打ち捨てられた彼らの哀切もより際立つ。
舞台は羽田。雑多な工業地帯は、一方で廃棄場のような荒みようも感じる。そして頭上にはひっきりなしに飛行機が飛び交っている。まるで香港映画みたいに、もう頭上スレスレって感じで、大きなジャンボ機が飛び交う迫力。モノレールもすぐそこに見える。それもまた、ジャンボ機へとつながって、遠くキラキラした未来へ飛び立つような、ここに吹きだまっている彼らとは無関係である対照をより際立たせる。
世の中が、未来はより明るいのだと、どんどん高い建物を建て、どんどん外国へ行き、豊かな暮らしをするのだと天井知らずに望みを持っている一方で、ここに集まっている“ガキども”は、未来があるハズなのに、何だか行き詰まっているのだ。

でも、決して暗くない。暗くないどころか、根拠もなく明るい。卒業を控えた高校生、在日韓国人、ジャパゆきさんとして日本に来た台湾女性、そして彼らとトラブルを起こすザ・ヤクザの面々も、なんかもうハジけまくって、スクリーン狭しと暴れまくる。でも、その躍動感は、ものすごい躍動感は、ハジければハジけるほど、ああ、なんか未来がない哀しさに満ちているのだ。
なんかこういう、ね、在日さんやヤクザさんを交えた群像アクションって趣が、ちょっと懐かしい感じがしたのだ。こういうの、それこそロマンポルノあたりであったような感触がした。その流れをピンクとして瀬々監督が受け継いで、それを再現しようとしているようにも感じた。その感触が、気概が、彼の若さとして感じたのだ。

それに、やっぱり役者の風貌の若さっていうのも。こういう顔の感じとか、ああ、今はいないよなあ、って思う。だってセーラー服がリアルに通用しなくなっているもの、今。もうセーラー服は殆んどコスプレになっているものなあ。
女子高生のモモが同級生の男子二人と結託して、担任教師を美人局にかけようとする場面から始まる。この教師が下元史朗。うっ、彼も若い。若いけど、若い頃から素敵。
最初からピンクらしい画で始まったわねと思うんだけど、モモのおっぱいがようやくめくれたところでもう、男子学生が車のドアをコンコンと叩き、ポラ写真を撮るもんだから、先生焦って車から降りると……ううう、下元氏、ズボンを半分下ろしたパンツ姿でよれよれと追いかける情けなさが(涙)それでも素敵だけど。

でね、その後ずーっとカラミが出てこないから、あらら、大丈夫なのかしらといらぬ心配をする。いや、なんか後半に固まっては出てくるんだけど、なんかこの辺も若いのかしら、などと勝手に思ったりして。
だってピンクって、まあカラミのパーセンテージは決まってるんだろうけど、それもある程度バラけて出てくるもんだから……なんか、中盤まで登場人物や設定を大忙しで語ってて、その間、カラミに手が回らないのかしらと感じたり。
でもその中盤まで、というか全般に渡って登場人物たちは走りまくり、はじけまくり、こっちを飽きさせることはないのだけれど。

彼らは教師に、一千万という法外なカネを要求する。悄然と立ち去る教師。一応モモは就職が決まっているようなんだけど、後の二人は三日後の卒業式が終わってからの進路は定まっていないらしい。
父親のあとをついで漁師になろうとも思ったけれど……と一人の青年は言う。でも、このよどんだ羽田の海では確かに、漁師になろうという夢も、決してバラ色の未来には見えない。
彼らは、このボロい船で海賊になろうと夢見る。海賊というにはあまりにボロいし、海賊という夢自体がなんだか刹那的で、少年ぽくて、現実味があまりになくて、聞いてるだけで切なくなってくる。
でも彼らは、結構本気らしいのだ。あんなに頭上に飛行機がバンバン飛んでいるのに、それにさえ乗れなくて、このよどんだ海にボロ船で、冒険に旅立とうと夢見ているのだ。

ここを根城にしているのがもう一人。在日韓国人のキンギョと呼ばれる男。これもまた凄まじく若い佐野和宏。ちょうど「追悼のざわめき」の頃なので、あの時にはキャストクレジットを見るまで彼と気づかなかったけれど、今回は一発で判る。
彼は台湾人女性のヤンと偽装結婚をして、彼女がここで働きやすいようにしてやっていたのだけれど、母国に帰りたい彼女に手を貸したことで、ヤクザとトラブルを起こしていたんであった。
そのヤンは、不思議な穏やかさを持つ女性で、男子高校生二人は彼女に夢中になる。

拳銃をぶっ放すヤクザから小船で逃げ回る最中、彼らに見せ付けるようにいきなりヤンに覆い被さる一人の男子、もう一人に押さえているように命じるんだけど、やっぱり彼女が好きな彼は、途中で手を放したりしちゃって、どうしてもそのレイプに手を貸せない。
そのうち、抵抗しまくっていたヤンが急に諦めたような無表情で反応しなくなるもんだから、そんな暴挙に出た男子も「チクショウ!」と言ってただ彼女の上でピストン運動を繰り返すだけ……。
ここらでとりあえずカラミを入れておかなくては、みたいな唐突さも感じたけど、でも哀しい出し入れを繰り返す友達の隣で、切なく背を丸めているもう一方の男子の画とか、なんか胸をつかれるものがあるのよね。

しかもヤンはそんなことした彼らにも、というか彼ったら「オレのこと、嫌いになった?」などとカワイイことを聞くもんだから、「好きだよ、二人とも」と穏やかな笑顔を見せる。
二人は一緒くたにされたことに軽く失望の表情も浮かべるんだけど、ヤンはそうやって自分の上を数多く通り過ぎてきた男たちを「好き」になることで、ここまで何とか生き抜いて来たのだ。
でも、もう疲れた。母国に帰りたいのだ。

でもね、ヤンは、偽装結婚をしていたキンギョとは寝てないんだよね。
というのはラスト近くに明かされる。キンギョとかつて、いわくがあったらしい韓国人の女に出国の手筈を整えてもらった日、ヤンは「私、毎月クリニック行ってる。大丈夫だよ」と言ってキンギョを誘うのだ。キンギョはどこか苦笑いして「オレの方が危ないかもな」と言い、彼女を抱く。
これはつまり、サヨナラのキスならぬ、サヨナラのセックスなんだけど、なんか二人が、偽装結婚だったけど実はお互いに思いあってて、だから関係を持たずにきたようにも思えちゃうのだ。でもその思いは、愛とか恋とかそんなもんじゃなくて、この冷たい日本という国で異邦人として生きていく同士の、同朋のような心持ちだったのかもしれない。

でもそれが、ある意味皮肉な形で決着をつけてしまうことになる。と、その前にモモが捕まったりもして、結構ヤヤこしいことになるし。
もー私は頭の中がコンランして、しかも古いフィルムで状態も良くないから台詞も聞き取りづらく(いや、この血気盛んなワカモンたちの早口のせいかもしれないけど)、ようやっとという感じでついていったのだけれど。
このあたりでカラミも消化されている。捕らえられたモモはかなりオレサマな感じのヤクザに犯されてしまうから……でもこのシーンも、監督の、理不尽なことへの怒りの方を強く感じて、それをモモに託している感じがして、エロというより強者の奢りが満ち満ちていて、身を、心を震わせるのだ。

と、それと並行してあの担任教師の話も語られるんだから、ホントにもう、盛り沢山すぎるほどなんである。
しっかしこれがね、むしろ息がつけるコメディリリーフというか。ドラえもんの面をかぶった強盗が銀行(郵便局?)に押し入る。これが彼かと思いきや、カットが変わり、同じドラえもんの面をかぶったこちらがあの教師が、「カネを出せ!」と言う練習をしている(笑)。
そこへ、カネを奪って逃走してきた強盗が彼に激しくぶつかり、逃げ去っていく。ひと束落ちたカネを手にボーゼンとする教師。
折りしも銀行から追いかけてきた行員たちが、ドラえもんの面をつけた教師を見つけて……ていうか、同じドラえもんの面をつけて一方は強盗、一方は強盗未遂の二人がニアミスするなんて、ないだろー!!そのナンセンスも凄いけど、追いかけてきた行員の中に教師のかつての教え子がいるっていうのも哀しすぎる(笑)。
この一件で彼は、もう恐らく教師としては生きていけなくなるんであり、脅されていた筈のモモたちに合流して、逆に彼らになぐさめられる始末なんである。

キンギョに出国の手筈を整えてくれた韓国人女性は、その電話を置いた直後、同胞の女に殺された。彼女は韓国語で、「ニセ韓国人、ホレた男を売った」とかつぶやいていた(ちょっと記憶があいまい)。今は日本人として生きていたこの女には、そのしたたかさゆえに様々な過去があったらしいんだけど、この同胞の女のつぶやきひとつで匂わせるだけ。
なもんで、クライマックスは、当然出国など出来なくなったキンギョたちと韓国人女性、ヤクザたちとの銃撃戦なのだ。
キンギョは、殺されてしまうのだ。ヤンが悲痛な叫びをあげる。彼を撃った韓国人女性は、その直後、同じ銃で自らの頭をふっ飛ばす。荒涼とした砂漠のような原っぱで死んだ彼らのことなど、きっと誰も気にしないのだ……。

モモたちは、海賊になることを本当に決意した。ヤンをこの船で母国に送り届けるのだと。
そんなムチャなと心の中で思いながらも、その先に破滅が待っていることを痛烈に感じながらも、どこかで、彼らのそんなムチャで無邪気な夢が、叶ってほしいように願っているんだから。
この一種の虚しさが放つ不思議なカタルシスが、ああ確かに瀬々監督なんだわ、と思う。

ところでこれは元ネタは「ションベン・ライダー」!?そ、そうなんだ!★★★☆☆


遙かなり母の國
1950年 98分 日本 モノクロ
監督:伊藤大輔 脚本:依田義賢
撮影:石本秀雄 音楽:伊福部昭
出演:早川雪洲 山田五十鈴 京マチ子 加東大介 三島雅夫 山本礼三郎 遠山満 牧嗣人 斎藤達雄 二本柳寛 上田寛 大伴千春 伊達三郎 六條奈美子

2008/10/12/日 東京国立近代美術館フィルムセンター(大河内傳次郎 伊藤大輔監督特集)
うおお、久しぶりに、データがないっ(いつもgooデータに頼りすぎ……)。ううう、つたない記憶を元に書くしかないか(自信ないなあ……(爆))。
はて、まずは、私はこの伝説のスター、早川雪洲の映画を観たことはあったかしらん。いや、多分、初見だと思う(言い切れないあたりが、記憶力に自信がないことを露呈してる(爆爆))。

長らくハリウッドで活躍していた彼は、伊藤監督にとって憧れのスターだったということで、振った役も、まあなんともバタくさいんである。
キャラもバタくさければ、立ち回りもいちいちバタくさい。なんたって南米の日本人街で恐れられていた狼のジョーこと速水ジョーである。
握手を拒んでイスを持ち上げるから投げつけられるかと思いきや、くるりと椅子の背を前にして座り、背もたれの上で腕を組みながら、「やあ、ジョー、だと?それで今までのことが水に流せると思ってるのかい。狼のジョーを怒らせたらどうなるか、判ってるんだろう?」とかなんとか(台詞、絶対、全然合ってないな……)もうベタベタなセリフをビシビシきめまくるもんだから、まあこっちはテレてる余裕もないというか……ちょっとテレるけどさ。

でまあ、どういう話かってーと……(また全然関係ないところから切り込んでしまった(大爆))。
そうなのよね、なんか、最初から最後までバタくさいのよね。最終的に舞台は日本に移るけど、いきなり南米の日本人街から始まってドンパチをおっぱじめるし、日本に移ったら移ったで、バレエ団の創設だ、遺産相続して大金持ちだ、海辺の瀟洒な城のような大豪邸だと、なんかもう、西洋趣味溢れまくりっつーか……。
でもさ、早川雪洲自体のお顔立ちは割と日本人そのものって感じに思えるんで、彼のハリウッド時代を未学習のまま突入してしまうと、なんともこう、咀嚼するのが難しいというか……。

でも、内容としてはかなりお涙頂戴というか、浪花節は入ってるんだよね。
罪を犯してしまった男に、真っ当にお裁きを受けてほしいと、逃亡を図ろうとしている彼に対して子供が出来たとウソをつく女。もう一生監獄から出て来れないと思っていた男が(懲役99年ってあたりが、向こうっぽい)、思いがけず特赦で出てきて、しかも彼の男気気質を高く買っていた富豪から財産まで相続していきなり大金持ちになって、その女の前に現われるという……昼メロチックな展開。
ただその舞台が南米であり、娘はバレエ団のスターであり(いや、やっぱり昼メロかな)、女はその娘にまで本当の父親はこれから南米から帰ってくる彼だ、と二重のウソをついて(昼メロ……にはキツいかな)、混乱する娘という状況も生み出し、もう二重三重のドロドロになっていくわけで。

ジョーとともに過酷な運命に巻き込まれる女、満紗子を演じるのは山田五十鈴で、彼女の登場シーンから映画はスタートする。
南米の日本人街のある劇場、時は大晦日、遠く祖国から離れた日本人たちが、祖国の伝統芸、水芸の舞台に拍手喝采を送っている。
そう、満紗子はスターなんだよね。でも、こういう大衆芸能じゃなくって、本格的な芸術を見せるのが彼女の夢だった。その夢を娘の萬里がかなえることになるのだが、それが大きな運命の歯車となっていくんだよね。

街の顔役、というよりも暴れん坊と言った方がいいか、狼のジョーこと速水ジョーは、街のチンピラには恐れられてるけど、満紗子にとってはかけがえのない人だし、後に出所した彼に財産を与える富豪紳士の目からも、見どころのある大きな男だと認められていた。
ジョーが起こしてしまった殺人事件は、貧しい人たちから搾取するチンピラを粛清した、いわば義侠心からきた決闘だったんだけど、それまでに暴れた数々の余罪もあってか、ジョーは99年なんて刑をくらってしまうのね。

いや、ジョーは最初はトンズラするつもりだった。人を殺してしまったことに動揺して、満紗子のアパートになだれ込んだ時、自首してほしいと懇願する彼女に逆ギレして、羽毛枕をズタズタにして叩きつけ(羽掃除がタイヘンだよ……)、椅子もテーブルもひっくり返して、お前は俺に死刑を食らわせたいのか、と当たり散らした。
こういうところもなんかバタくさいっていうかね……。当時の日本映画で女に対して男がここまで暴れる描写があったかどうかは、不勉強ながら明らかではないんだけど、でもそれにしても、羽毛枕の羽を散らしながらっていうのがね、なんかいかにもアメリカ映画に出てきそうな描写じゃない。
なんかそのあたりに、ハリウッドで活躍した早川氏に憧れている伊藤監督、の図式が見えるのかなあ、なんてね。
なんて言いつつ、そんな彼に涙ながらに彼の故郷の味であるおすましのお雑煮を作ってあげる女、という図はメチャメチャ日本的だけど。タマネギから伸びた葉(芽?)をネギ替わりに使っているってあたりが芸が細かい。

それを考えれば、そんな男に対峙する女たちも、必要以上に感情豊か過ぎかも?
いや、私、この映画の印象って、もうとにかく女の号泣の声の激しさで、それがとにかく耳につきまくっちゃってさ(爆)。
まず、ジョーを送り出す満紗子の号泣っぷりが凄まじく、そして実は子供が出来たなんてウソだったと、仲間たちに告白する場面の号泣も凄まじい。しかし、「ジョーが真に受けちゃって……」なんて言い方するのはヒドくないか……キミのウソは真に迫りまくりでジョークにする男がいたら、そっちの方がヒドかろう……。
更にそれを娘までもが引き継いで、私に本当のパパがいる、だとしたら、その人は私たち母娘を捨てたんだわ!と激昂、号泣し、真実を告げられるとまた号泣、もちろんそれに合わせて母もポイント、ポイントで号泣。
とにかく女の泣き声がスクリーンに溢れる、ちょっと途中からうっとうしくなるのは否めなかったりして(爆爆爆)。

でも、娘の方は存外に立ち直りが早いのよね。本当の父親(じゃないんだけど)が人殺しだったことにも、実は本当の父親じゃなかったことにも、それにショックを受けてる期間も真実を受け入れる期間も、まあ驚くほど短いのだ。
そのあたりが現代娘を表わしてるのか、っていうか、今の現代娘よりタフかも。
演じるのは京マチ子で、私、ビックリしちゃった。いや、結局大して観てないせいで、彼女の代表作からイメージを勝手に作り上げちゃってたんだよね。
こんな、まだ見ぬ父親から溺愛されてて、生きる糧にされているような、可憐な娘だなんてさ。いや、むしろ、そのイメージもアッサリ破られるんだけど。

獄中でドレスをまとった娘の写真に、「いいとこのお嬢さんみたいじゃないか」と目を細めて見ているジョー、その写真が実際の映像になってみたら、いきなり手を釣り上げられ、清楚なドレスもどんどん脱がされて、ビキニスタイルの露出度大なプリプリ姿になって、ナイフを投げられるという、見世物エロ的な舞台の人気スターに早変わりなのだ。
ていうか私ね、彼女がこんな、本格的なダンサーだなんて、知らなかった。こういう、大衆的なダイナミックな舞台から見せて、しかし彼女の夢は本格的なバレエの舞台であって、まぶたの父親が大富豪だったことから、それがかなえられることになり……。

京マチ子が、バレエを踊りまくるのよ。私ね、京マチ子って、肉感的な、女の色香そのもののイメージだったから、バレエなんてストイックなイメージ、全然、なかった。
いや、この劇中での京マチ子も充分に肉感的で、いわゆるバレエのストイックで華奢なイメージからは遠いんだけど、でもちゃんと踊りも体の柔らかさも本格的に見せるんだもの。しっかり床にベタリの開脚だもの!
いやー、知らなかった。こんなことも知らないなんて、私ホントにダメダメだな……。

ドラマチックでドロドロな物語の割には、ちょっとクスリと笑わせる場面も用意されてる。でもそれは、このドラマチックに飲み込まれてると、ウッカリ見過ごしそうになるぐらい、ちょっとしたことなんだけどさ。
ジョーが初めて娘の萬里に対峙する場面、秘密を抱えた満紗子がうろたえて、積んであった籐椅子を彼のために用意しようとして、まず彼の頭にぶつけてしまう場面から、その椅子に座ろうとしたらボロで底が抜けてしまってひっくり返っちゃうとか、このシリアスな場面に、ええっ!?と思うほどのベタなギャグに笑うより前に、なんか驚いちゃうのだ。
それまでそういう雰囲気がなかっただけに……なんか、ちょっとこの期に及んでテレちゃったのかなあ、なんて思うほどにね。

彼だけが西洋式に椅子に座って、母子は正座して鍋だかスキヤキだかをつつくのもおかしいけど、いい具合に酔っぱらって、その椅子から転げ落ちるようにして、この幸せに浸って満紗子の膝に甘えるように寝入ってしまうジョー、なんていう場面は、こういうのはホント日本映画ではさ、この時代ならなおさら、ありえないもんね。
事情を全て飲み込んで、パパとして慕うようになった萬里が、パパに日本のいいところを見せてあげたいと、親子三人で京都や奈良や四国のお遍路のなんかをそぞろ歩く。

日本の良さよりもジョーは、家族三人一緒はいいもんだよなあ、てことばかりを言うもんだから、萬里は呆れて最後にはそんなパパのモノマネして、ジョーが娘をコラッとばかりに追いかけて、てな、もー、それこそ往年のハリウッド映画ってな描写がバリバリ描かれるあたりが、ちょ、ちょっとその、うんまあその、ハズかしいかも(笑)。もう京マチ子、“年頃の娘の笑い声”をここぞとばかりにハジけさせまくってるんだもん。
でさらに、王道の繰り返しギャグ、真相を知ってしまったジョーが母娘の前から姿を消し、しかし娘の晴れ姿は見に来ていたという場面、パパが来てたよと聞かされたマリが慌てて探しに出ようとするところで、アンコールだと再三引き戻されるトコなんか、ほおんと、王道だよね。

あ、そうそう、王道ベタといえば、悪役もまた、王道でさ。むしろこの悪役描写は、仁侠映画のそれにも通じるかもしれんなあ。
南米時代、ジョーが20年の辛酸をなめることになった、その敵のボスについていた男が、今は神戸で満紗子を雇い入れて舞踊団を結成してるのね。で、そこの人気スターが満紗子の娘、萬里であり、満紗子の夫は先ごろほど無くして死んでしまったのだった。
この夫が死んでなかったら、ジョーが帰ってきてどうなったんだと思わなくもないけど(爆)、そんなことを言っちゃったらこのベタな物語が成り立たなくなるから(爆爆)。
で、その秘密を握られていることで、萬里のためのバレエ団を作るために彼女をはじめ、多くの団員を引き抜いたことで更に弱みを握られて、ついにはジョーに秘密をばらされてしまうことになるわけで……。

その展開もベタなら、全ての真実を知ったジョーが、このかつての敵役を、なりふり構わず殺そうとし、しかしその切な、本当の娘ではないけれども、自分をパパと慕ってくれた、そして何より20年間娘だと信じて心の支えにしてきた萬里の顔がよぎり、ジョーは思いとどまる展開ってのも、ベタベタで。
いや、それがイイのよ、勿論(汗)。たとえその後、殺されかけた男が、それまでの20年も含めた万感の思いと、勿論謝罪の念を込めて、ジョー!と思い入れタップリに呼びかけ、それに対してジョーが、静かに振り向いて、うん、判ってる、とばかりにゆっくりと頷く、なんて、ベタベタベタベタな場面が用意されているにしてもさ(爆も言い尽くしたな……って、私、失礼極まりないけど(爆!))

もうここまでくると、ベタが最後まで貫かれることに疑問を持たなくてもいいようなもんだけど、でも心配しちゃった。
ずっと自分の娘だと思っていたのが、そうじゃなかった。そのことに絶望してジョーが姿を消してしまうじゃない。いや、ジョーは南米にいた頃とは違って大人になった、と思いつつも、その事実を知って、まるであの若い頃みたいに、満紗子と萬里のために買い求めた豪邸の中で、写真はブチ割るわ、大暴れした姿が、まるであの、羽毛枕を蹴散らかした時みたいだったから……。
んでもって、全ての真実を知った萬里が、へたりこんで動けない母親の替わりに、ジョーの元に駆けつけて、でも彼は姿を消した後でさ。
カットが変わると、彼がその豪邸のそばの、波打ち際をガックリと歩いている姿で。それも俯瞰ショットで。なあんかこういうのも、ハリウッドっぽいよね。現代のハリウッド映画でも、こういう画って見たことあるような気がするもん。

で、彼が姿を消したことで、萬里のバレエ団は先行かなくなりそうになるんだけど、思いがけず、その費用が先払いされていることを知り、そしてそのジョーが南米に再び戻ろうとしていることを知り、公演から急ぎ、波止場へと駆けつけるんである。
船室にはいない、甲板にもいない。ジョーを兄貴と慕う、南米時代からの子分であるトミイと共に必死に探し回る。出発の時間が迫る。ハラハラしちゃう。だってこのまま、ウッカリこの船に取り残されてしまったら!?なあんてね。
見送りの人の下船を促がすアナウンスに、悄然と降りて、しゃがみこんで号泣する(またこれがスゴイ……)萬里。
しかしそこに、いつも口笛が聞こえてくる。ってのが、キザなんだけど、ジョーが大事な場面でいつも口ずさんでいた口笛を、萬里が聞いたのは初めてだったかもしれない。船から降りていたジョーを見つけて、涙ながらに抱きつく萬里。そして、ジョーに会わせる顔がないと、ひっそり来ていた満紗子を、ジョーは万感の思いで抱き締める。娘の萬里をいい子に育ててくれたと。まー、ここでも絶叫の号泣なんである。

しかしね、そう、うっかり書き忘れるトコだったけどさ、満紗子もまた正直で、かなり赤裸々だったよね。ジョーに、萬里が本当の娘じゃないことが知れた時、あなたがもう一生、出てこられないと思ったからと、ジョーのためにウソをつき続けたその共犯者の一人のダンナと結婚したことを、「私、女なんだもの」と、こともあろうに、そんな赤裸々な理由(つーか、言い訳っつーか、なんつーか!」)を、ただでさえ大ショックを受けてるジョーにぶつけるなんて、オイオイオイ!って!
だってそれって、それって……女としてのアレがあったって、ことやん!いや、単に心細さとかそういう風に言い換えることも出来るけど、いやいやそれは……そうじゃないやん!と思っちゃうのは、ゾクな現代人だからなのか?
いや、そうじゃないから、ジョーはあれだけのショックを受けて、長いこと姿を消したんだよね??
ま、最終的にはハッピーエンドでホント、良かったけどさ……ハラハラしちゃったよ、マジでさあ。

両親をパパ、ママと呼ぶのが結局は一番バタくさかったかもしれない。呼ぶかなあ、パパ、ママって……まあ、いいけど。
トミイ役の加東大介が、彼だけは徹頭徹尾迷いのないコメディリリーフで、ま、顔からしてコメディリリーフなんだけど(笑)なんか、気楽に見られたなあ。★★★☆☆


ハンサム★スーツ
2008年 115分 日本 カラー
監督:英勉 脚本:鈴木おさむ
撮影:小宮山充 北川聡 音楽:川口大輔
出演:谷原章介 塚地武雅 北川景子 佐田真由美 大島美幸 池内博之 本上まなみ 佐々木希 山本裕典 ブラザートム 温水洋一 中条きよし 伊武雅刀 伊藤明賢 住田隆

2008/11/23/日 劇場(シネカノン有楽町1丁目)
あのねえ、もうこれはねえ、最初からオチバレで書くしかないのよ。もう、最初からそれを了承してくだされませね。だって、このオチを受け入れられるか否かで、この映画への印象や好悪がガラリと変わっちゃうんだもん。
本来は、映画はそういうもんではないと思ってる。一本の尺の中に無数に存在する、言ってしまえば一秒一秒の要素に、色んなことを感じるものなんだもの。
でも……うん、もう、言っちゃえ。このオチに、正直ガッカリしたのだ。ガッカリなんて不遜な言葉、大嫌いだけど、言いたくないけど、なんか、そのオチが提示された途端に、身体がヒヤリとする思いがしたのだ。今まで感じてきたあったかいもの全てが、否定された気がした。
恐らく作り手側は、そんなつもりはないのだろう。きっとこれこそが、あたたかいものの最上級だとして提示してきたんだろう。でも違う。こんなのってない、ヒドイよ、と思ったんだもの。

で、そのオチっていうのはね……というかまず設定自体をつまびらかにしなきゃ、オチも何も判らないんだけどさ。
ブサイクと言われて30余年を過ごしてきた男が、“ハンサム・スーツ”なる、着るだけでハンサムになれるスーツを手に入れる。マシュマロマンみたいな外観のそのスーツを着て、布団圧縮機みたいに掃除機でガーッと空気を吸い出すとあら不思議、見る間にハンサムに!ブサイクな琢郎を見込んで、モニターになってくれないかと言うのだ。ひと時、華やかな人生を送るんだけど、本当に大事なものに気付いて、元の自分に戻る物語、な訳よね。
彼は冒頭、美少女に恋して告白するんだけどフラれ、それが自分の外見のせいだと思ってる。で、彼女の替わりに現われたふとっちょの女性に、自分への憐れみを鏡のように映して最初は見ているんだけど、彼女の清らかで温かな心に次第に惹かれていく。
で、そのオチというのが……ふとっちょの彼女は“ぶスーツ”を着ていた、あの美少女だったという訳なのだ。外見だけで判断されて傷ついた彼女は、自分の内面を見てほしくて、敢えてブサイクになって彼に近づいた、と。ハンサム・スーツの開発者は、彼女のお父さんなのだ、と。

……これってさ、あんまりだと思うのは、女だからなのだろうか?これをどんでん返しでビックリさせて、なおかつ心温まるオチだと、作り手は本気で思っているんだろうか?
ぶスーツなんていう発想が出てくること自体、ヒドすぎる。ハンサム・スーツなら判るのよ。美人スーツとかね。人間には変身願望がある。さしてブサイクとも思われない、フツーにカワイかったり魅力的だったりする人たちが、殊更に自分の外見にコンプレックスを持ち、非現実的なモデルやらスターやらに憧れる。
でもそんなのは結局は“非現実的な”つまり自分が築いてきたものが何ひとつない世界なんであり、一見おトクな人生に憧れるあまりに自分が確かに築いてきたことに気付いていないってことが、重要なんである。

で、本作の中でブサイク(だから、そんなことないのに!)な男、大木琢郎(塚地武雅)は、一度ハンサムの世界を体験してそのことに気づくんだよね。
それは、母親の代からの味を守ってきた彼の店の料理を、こよなく愛して集まってくれるかけがえのない仲間であり、その延長線上にいる、彼のあたたかな心が料理に乗り移っているようなところにこそホレた女の子だったのだ。
で、それが、ウッカリ彼女の外見に参ってしまって告白し、フラれてしまった寛子ちゃん(北川景子)だったんだけど、なんとまあそれが、後に現われた本江さん(大島美幸)と同一人物だったわけで。

……あのね、このオチにイラッとくるのは色々理由があるのよ。まず、琢郎から告白された寛子ちゃんが“外見だけで好きになられた”と感じ(決してそれだけのニュアンスでは言ってなかったと思う)「ガッカリしました」と彼をフる場面。
それは、彼女が自分の外見を美少女だと断定して最初から構えているとしか思えず、それって正直どーかねーと思うしさ、それに百歩譲ってそこはスルーするにしても、もともと彼のことが好きで近づいたんなら、そこから自分の思いをぶつけて内面を好きになってもらえれば良かったじゃん、とか思う訳。
ぶスーツなんてさ、ヒドいよ。だってそんな勝手なキズつき方をしたあんたこそが、ブサイクをバカにしているんじゃない。こんな外見でも、アタシを好きになれる?てなもんよ。あるいは、こんな外見でも好きになってもらえる自信がある、だって私、中身もカワイイもん!てなもんよ。
言いすぎ?ひがみすぎ?でもそうじゃん。だって彼女、そのヒミツを明かした時、「私の内面を見てほしかったから」って言ったんだよ!

……あのね、私途中で、あ、これオチ見えちゃった、と思ったのね。なあんだー、これって寛子ちゃんが本江さんなんでしょ、って。でもそれは半分は当たっていたけど、その半分こそが決定的な違いで、期待していた“温かな結末”が一気に氷点下に突き落とされたのだった。
そう、私、逆だと思ってたのだ。寛子ちゃんの姿が、美少女のスーツを着た本江さんの、かりそめの姿だって思っていたのだ。琢郎を好きになった本江さんが、自分を好きになってほしくて美少女の姿になって訪れたんだと……。
まあ、そう仮定してしまえば、彼女が高校生の時に琢郎の店に訪れたという回想シーンがおかしくなってしまう訳で、そこに気付かなきゃいけなかったんだろうけど……そして私の予想はある意味予想しやすいもので、逆にそうした観客の予想を裏切るオチだったのかもしれないけど、でもそれって物語の本質の部分だから、気持ちよく裏切られた、なんて喜べるものじゃないんだもん……。

などと、やたらそのオチにばかりこだわってしまうのは、ひがんでいるから……もあるかもしれないけど(爆)、ぶスーツを着た姿、という設定の本江さん=大島美幸嬢がとっても、カワイかったからなんだよね。
ちっともブサイクなんかじゃない。そりゃ、美少女さんを演じた北川景子の女優さん然とした佇まいとは全然違う、本当にリアルに生きている女の子、だけど、だからこそ、そのイキイキとした笑顔、温かな雰囲気、ふくよかな感触に至るまで、とても可愛くて、チャーミングで、ステキだったからなんだよね。
琢郎が彼女にホレたのは、中身が寛子ちゃんと同じだったからな訳じゃないでしょ。本江さんだったからでしょ。そりゃまあ、こういうオチが用意されている以上、そんなことを言っても意味のないことではあるんだけど……でも、どー見ても、大島美幸嬢のチャーミングな存在感が、北川嬢よりも圧倒的に大きかったからさあ……。

だから、そういうことなんだよん。外見と中身なんて、そんなカンタンに分離できるもんじゃないでしょ。人を好きになるっていうのはさ、本当に理由なんてつけられなくて、一度好きになっちゃうと、外見なんていう単純な言い方も出来ないぐらい、細胞のひとつひとつまでもがたまらなく愛しくなっちゃう、そういうもんじゃないの。
その人となりと、姿なりとは、細胞レベルでつながっているもんでさ、それだけの魅力を大島美幸嬢には感じたからさ、それをぶスーツで変身してましたなんて言われて、シャンシャンだなんて、納得いかないよ。

判んないけど……脚本家である鈴木おさむ氏は、この本江さんに奥さんを当て書きしたのかなあ。彼は恐らく奥さんにベタ惚れだから、その魅力を充分に判ってのことだったと思う。
でもそうだとしたら、それが裏目に出た、のかもしれない。本江さんが予想以上に魅力的だったから、そのオチに単純に拍手できなくなってしまったのは皮肉なのか。
本当にね、大島美幸嬢は可愛かった。それは夫が自分の女房を自慢している目線にも感じた。だからこそ、やっちゃいけないオチだったと思うんだよなあ……。

ほおんと、大島美幸嬢と塚地さんの場面は穏やかに愛を育んでて、ステキだったのよ。
「人の小さな幸せを携帯のカメラに収めたら、10歩進みましょう」というゲームの幸福感ときたらない。それが、それこそが、琢郎を変えたと、彼女にホレたと、言っていい場面なんだもん。
これを、美少女のままの寛子ちゃんが言っていたらここまでの説得力はなく、ふくよかで穏やかな、そう、大島美幸嬢だからこそであり、それは単なる外見だけの問題ではなく、その中身は決して寛子ちゃんではないんだもの。……いや、映画的にはそうなんだけどさ。

そういえばさ、「ラブ★コン」と同様本作も、脚本家の鈴木氏のネームバリューで押してて、監督の存在がすんごい、薄いんだよね。「ラブ★コン」はそれでも、ハデな演出やきらびやかな画面構成に若い二人が負けじと頑張って、小細工ナシに王道の青春を突っ走ったからスッキリしまくったんだけど、……ある意味この物語って、小細工だらけなんだよなあ。
ギャグありきの「洋服の青山」との完全コラボも、一般庶民が想像するとおりのウソくさいファッションモデルの世界も。一方でそれをモデルとしてのプライドで斬って捨てる佐田真由美演じる來香(ライカ)もいて、彼女の存在感がザ・モデル!てな感じでバツグンなだけに、ここは見応えがあるんだけどねー。

そういやあ、「ラブ★コン」でも谷原章介だったんだよなあ。彼は“自分がハンサムだと判っていて、メチャ自信も持ってて、だけどそれが客観的には滑稽に映り、最後にはフツーの男にさらわれてしまう”ってな役どころがピッタリなんだよねー。
ていうか、そんな役が出来るのは彼しかいないっつーか。そういう要素を持っている役者が彼しかいないっつーか?なにげにフシギだよね、彼ってさ。それでいてイヤミが全然ないんだもん。
この役に関しては、「塚地さんが着る着ぐるみだから」と、琢郎のチャーミングさを再現することにとにかく腐心しているのが、見ているこっちにも伝わってくる。それが、イヤミがないのが、スゴイんだよね。
確かに外見は“ハンサム”な杏仁(この名前がまず、フザけてるんだけど(笑))なんだけど、確かに中身は、絶品定食を街の人々に提供している「こころ屋」を切り盛りしている琢郎なんだもん!
考え事をする時には鼻をほじる仕草から、歩き方から、「コマネチ!」なんていう古くてサムいギャグから、いやいや、そんな脚本上のことを越えて、歩き方、表情の作り方、雰囲気、“ハンサム”な外見を越えて、確かに琢郎=塚地さんそのものになれるなんて、谷原氏しかいないって!

琢郎には、自分ではその価値に気付いていないけど、大事な友達がたっくさんいる。
その代表的なのが、近々結婚を控えている工場の息子、真介とその恋人、久恵。彼らが、杏仁が一緒に仕事をするトップモデルの來香と友達同志だというのはあまりにも出来すぎだけど、琢郎とキャラがソックリの(当たり前だ)杏仁と意気投合して、琢郎を呼び出そうとするあたり、つまり全然外見的、対面的なことなんか気にしてない、そんなこと気にしているのは琢郎だけだってことを示唆しているんだよね。
そのことに杏仁=琢郎はこの危機的状況を脱することに必死で気付いていないんだけど……。でもね、この真介が“ハンサムだけど車椅子(身障者)”という設定も、意図は判るけどこの状況ではちょっと、やりすぎかなあ。
いや、逆にフツーの状況でそういう人物を出せるほどに、日本の映画界は(世界の映画界もかな……)成熟していないってことなのかもしれないけど。だって、この車椅子のにーちゃんが、ウッカリ琢郎よりブサイクだったらどうすんのよ、ってことだって考えられるじゃない。

だからね、ウッカリこういう設定を入れ込んじゃったことも、ある意味逆効果でさ、必要以上に差別的意識がちらついてしまった結果になっちゃったんだよね。
ブサイクな男女も、美しい男女も、そして身障者やその人たちを支えている人たちも、傷つくと思う。
そういうことじゃないんだ、好きだから、大事に思ってるから、理屈じゃないから。なのに、それを外見、内面なんてブロックみたいにカチリとカテゴライズされて、そんな単純じゃないでしょ、人間ってさあ。

こんな、ヘンに怒るなんてことしたくないほど、作品自体はポップで軽やかな笑いに満ちている。
モデルの世界なんてウットリするほどに華やかだしさ。“お湯に濡れたら弱い”なんていうハンサムスーツの軟弱さゆえに、濡れ場に行きそうなドキドキの場面がベタな特撮ギャグに突き落とされたり。その濡れてダメになった生々しいスーツを軒先に干している場面なんか、それ、まんま抜け殻でコワイよ!と爆笑してしまうしさ。笑い、楽しませる、エンタメ、に関しては、ほおんと、スキを与えないのよね。
その最たるものが、実際の会場で撮影したという「東京ガールズコレクション」であり、その臨場感たるや、すばらしい。
素晴らしいだけに、その要素の方が突出しちゃっている気がして、だからこそ、あのオチに必要以上にこだわってしまうのかなあ……。

そのショーの直前、本江さんが交通事故に遭ったという連絡が入る。
琢郎は、一度は永久に杏仁になることを決意して、“パーフェクトスーツ”を着たんだけれど、すんでのところで切り裂いてもとの姿に。
それは、本江さんがプレゼントしてくれた、マイレボリューションを奏でるリストバンドの感触がまだ手首にあったから、そこから自分を見つけ出して切り裂いて、まさに脱皮して、本当の彼を取り戻したのだ。
急ぎ病院に駆けつけた琢郎、しかしそこにいたのは、逆にお尻でバイクをぶっ飛ばしてケガさせちゃったという、ニコニコしたいつもの本江さん。琢郎は今度こそ自分の気持ちに気付き、本江さんにプロポーズすると、あのオチが待っているのだ……。

「洋服の青山」のハンサム店長が「すいません、ハンサムで」と言った後にその“スーツ”を脱ぎ捨てると、温水さんになるのには、笑った。
でも、あんなマユゲハッキリの“ハンサム”より、温水さんの方が魅力的なのは明らかで、でもそのことに、なぜか温水さんの娘なのに?美少女である寛子ちゃんは気づかなかったっつーのもね……。 なんか、親子関係にも支障がないかい?

「ハンサムとイケメンは違います」という鈴木氏の言葉。ハンサムって、ちょっと死語なのかも……。
彼の定義で言えば、ハンサムはより外見的な言葉。 だけど、この映画の中ではイケメンとの違いを感じられないのが、一番の失敗要因だったかも。
だって、その定義で行けば、イケメンは努力すればなれるって域でしょ。ハンサムが生まれつきの造作であるのに対して。だからこそ、“着ただけでハンサムになれる”スーツという発想が出てくる訳で。
でも、今はイケメンを乱発し過ぎてて、こんな人にまでイケメンって言うの、っていうぐらいだから、イケメンの価値が下がってる。ハンサムとの定義の違いを論議する以前に、ハンサムの方が、上に来ているというか、単に古き良きみたいな感覚も加えつつ、つまり、鈴木氏の考えているハンサムとイケメンの定義が、必ずしも浸透していない、どころか、逆転しているんじゃないかって気がするんだよね。

それこそが、この映画の弱さなのかもしれない。
ヒューマンな映画ってカンタンそうだけど、大事なところを間違えたら、本当に台無しになってしまうのだ。人間の、根源、プライドだから。

あの事件でミソがついてしまったのが残念なテーマソング「マイ・レボリューション」にホロ苦い気分を抱きつつ、そしてオチのオチ、ラストクレジット、琢郎の替わりにターゲットになった“ブサイク”がバナナマンの日村さんだっていうのが(爆)。うっ、なんか、カワイソ。★★☆☆☆


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