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西鶴一代女
1952年 136分 日本 モノクロ
監督:溝口健二 脚本:依田義賢
撮影:平野好美 音楽:斎藤一郎
出演:田中絹代 山根寿子 三船敏郎 菅井一郎 松浦築枝 津路清子 近衛敏明 清水将夫 浜田百合子 草島競子 原駒子 市川春代 進藤英太郎 沢村貞子 大泉滉 加東大介 柳永二郎 宇野重吉 毛利菊枝 横山運平 玉島愛造 小川虎之助
今回は二本立ての二本目。年代は大きく離れているものの、どちらともに不幸に転落しまくりのヒロインという大きなくくりのような二本であった。んでもって一本目は戦前、しかも少女ということもあってか、不幸に転落しても貞操はしっかりと守られているといったちょっとした不自然?さがあったが、本作は18歳から老醜に落ちる年までの不幸に転落しまくり女だから当然??身も心も穢れてしまうんである。
いやいや、心は穢れてないか。この二人のヒロインとも。だからこそ不幸なのだ。心も穢れちまったら楽だったのかもしれないと思ったり。
それにしても18から演じているというのが!!!思わず引き算をしてしまった。当時田中絹代は43歳。ひえっ。モノクロで、時代が江戸時代あたりということもあってか、いやいやそもそも田中絹代の渾身の演技で確かに見えてしまうのだが!!
18歳。ヒロインが最もプライドを持っていた時。そりゃそうだ、転落しまくりなのだから。最初がとてつもなく高くなければ、いくら底なしといえども限界があるものだもの。
御所勤めのお春。若く美しい彼女に、若党の勝之介が懸想する。あまりにもまっすぐな想いの寄せ方である。
殿が呼び出しているとウソをついて、自らの思いを愚直にぶつけるシーン、次々に引き戸をあけはなち、逃げ回るお春をかき口説く若き男の思いがまぶしすぎる。
ああそうか、このあたりがワンシーン、ワンカットなのか。この作品はその多用で有名で、海外監督にも影響を与えたというんだけれど、観ている時にはそのことにちっとも気づかなかった。
というのも、私自身はロングテイクにこだわる向きが大嫌いで、あー、タイクツと思う方なのだが、それが気づかなかったというのは、まさにワンシーン、ワンカットが生み出すスリリングの魅力を、見事に使いこなしているということなのだろうなっ。
勝之介に扮するのは三船敏郎。そうなのか、やはり。いや、クレジットの最初の方に名前があったから順番からしてそうだろうとは思ったが、なんかもう若すぎて、判らない(爆)。田中絹代は確かに18に見えるんだけれど、そのあたりの貫禄はねぇ、やはり違うのだもの。
設定的にはそれほど違わないのかもしれないが、身分という以上に高嶺の花をかき口説いている、という雰囲気が満点で、お春が男の情熱にはたり、と倒れてしまい、彼が彼女を抱き上げてしずしずと運んでいく、というのが、妙に赤裸々なのだ。
でも、当然、身分違いの恋は許されない。許されないってのは判ってるけれど、それが男の斬首にまで断じられることにボーゼンなんである。ええーっ、そ、そこまでっすか!彼は彼女に幸福になってほしいと叫んで果てる。
お春は「こんなふしだらな娘に育てた両親」ともども重く注意を受け、荒れる父親とそれをなだめる母親の元に小さくなって暮らしている。そこにそんな悲報が届く。
死のうと思ったお春だけれど、母親が必死に止める。竹林の中に泣きながら走っていくお春と母親、の引きのショットが胸に迫る。
すぐに次の展開がやってくる。かなりな展開である。江戸から側室探しにやってくる老家中。京は美人がさぞかしいるだろうから、などとゆー単純な理由。掛け軸の美女を具体例にして、笑っちゃうほど細かい身体的条件をいくつも挙げ、京中の美女たちを集めてオーディション。
目が違う、鼻が違う。おしい、足の大きさが違う。身体にひとつのほくろもないこと、だなんて、あまりにムチャ。
でもその全ての条件にかなったのが、お春だった。まさしく掛け軸からぬけでたようなうりざね顔の美人。まさしくそうだ……。
両親は大喜びするけれども、子を産むためだけになんて、行きたくない、とお春は曇り顔。それを叱責するのは父親。
母親はやっぱりね、娘の気持ちが判るから……結局最後まで母親は娘の味方だった。不憫な娘をいつも心配していたんだけれど、考えてみれば転落させたのは父親だといったっておかしくないのだ。後から思えば。
お春が迎えられた時、人形浄瑠璃を見せたお殿様が「こんなところで故郷のものを観るとは思わなかっただろう」としたり顔をする。そうだよな、これは西鶴一代女、大阪、人形浄瑠璃の世界かもと思う。
したり顔のお殿様に、どこか憂鬱そうな顔を見せるお春。この当時は、いや今でもどこかにくすぶっている、新参成金の江戸への苦々しげな感覚がなんとはなしに伝わってくる。
お春は無事、お世継ぎを産む。それまでの不幸な自分に落ち込んでいたけれど、可愛い我が子の誕生に幸せをかみしめるお春。……という描写はあっという間、本当に、あっという間!!
乳母に乳をやらせます、と正妻が赤ん坊を取り上げる。私が乳をあげます!と取りすがり、泣き伏すお春。本当に、産ませることだけが目的。てか、お春を寵愛するお殿様に正妻が嫉妬した結果。
凄い理由なの。「殿さまがお春を寵愛して、寝所に通うものだから、心臓に負担がかかり、お命にかかわる」ええーーー!!!言うに事欠いてそんな言いがかり!!
ホントだとしたらスゴいが、それなら単に心臓が悪いだけだろ!!お世継ぎを産んだんだし、もういいだろ、とあっさり里に帰されてしまう。うっそ!
しかも娘がお世継ぎを産んだことですっかり有頂天になった父親が、借金までして豪気に商売の仕入れをしちゃってて、まさに捕らぬ狸の皮算用であって。
お春に落ち度など何もないんだけれど、帰ってきた娘の頬を打ってさ、あんまりなの。んでもって、「島原に行ってくれ。金が出来たら必ず受けだしに来るから」ウソだね!!!
もうこのあたりまでくると、あまりの不幸の連続に、さあ次はなんだろという気になってくるんである。
島原の郭で、いかにも田舎大尽の成金、といった男に見初められる。加東大介。彼だけは顔が一発で判ったなー。
金をバラまいて、遊女たちがキャー!!と群がり、金があれば何でもできるわい!!みたいな傲岸な態度を示していたのに、その金が贋金だったという(爆)。
お春に対する身請け話に浮き立つ店の主人の掌の返しようが、ホントにコントみたいにあっさりで思わず噴き出してしまう。あんな上客に対してあの態度、お前は何もんだ!!とか言ってたのに、身請け話が出ると、お春にハハーッと土下座せん勢い(爆笑!)。
溝口健二の流麗なる大作なのに、案外こんな具合にところどころに笑いどころを仕掛けてくるから油断ならない。まぁ、加東大介だから出来ることかも!
今度は商家の住み込み女中。なんたって苦労しまくりのお春だから、細やかな心づかいが奥さんにも信頼される。
奥さんは、とっておきの秘密をお春に託す。髪が抜け落ちほとんど禿頭状態なのを、残った髪で何とか結い上げて隠していたんである。ダンナに知られたら離縁されてしまうと、女心をのぞかせてお春に髪結いを託すんである。
そこに次の展開の男である文吉が、既に顔を出しているんである。結局、お春の出自がしれっとお得意さんの顔して現れた加東大介によってバラされちゃって、何にもしてないのに遊女という経歴が奥さんのカンに触れちゃって、勝手に嫉妬に狂っちゃって、お春の美しい黒髪もカンに触っちゃって、引きずり倒してムリヤリ髪を切るとか、すんごい場面が出てくる。
ああ、女の嫉妬は怖い怖い!!しかしそれ以上に怖いのはお春で、手なづけた飼い猫にびんづけあぶらの匂いをかがせて、奥さんの整えた髪を乱させて禿頭を暴露しちゃうんだもの!!
いやいや、確かにヒドい目にはあったが、この復讐の仕方はなんとも……女はコワい!!ちょっと笑っちゃったけど、コワい!!
実家に戻ってほどなくして、お春を見初めた真面目な扇職人からの縁談が持ち込まれる。過去もすべて知っている。その上で、自分が幸せにしたいのだと。
本当に実直な男で、お春は今度こそ幸せになれる、と思った。演じるのは宇野重吉。そ、そうだったのか!!これも若すぎてよく判らなかった……(爆)。
結婚後の生活もあまりに穏やかで幸せで、こりゃー、ダンナ、死ぬなと思った(爆)。だって、だってだってだって、それしかないじゃん!!こんなところでハッピーエンド、メデタシメデタシになるわけないんだもん!!
とゆーのもそもそも本作は老夜鷹に落ちてしまったお春の、夜の街の徘徊シーンから始まる訳で、ここに戻ってくることは最初から判っているんだもの。でもまさか、その先の展開もあるとは思わなかったけどね!!
で、そう、ホントに死にやがった(爆)。ここまで不幸転落、読めちゃうと笑けてくる(爆爆)。
物盗りにあってバッサリ、しかもその手に嫁への贈り物の帯がしっかと握られていたなんてとこまで用意され過ぎ(爆爆)。
もうすっかり意気消沈したお春は尼になろうと尼寺に身を寄せ、老尼も彼女に同情して身を預かるんだけれど……どう転落するのかと思ったら、ここはお春も甘いよね、やっぱりそのあたりが、若干自覚がないのだろーか。
自分に想いを寄せていたかつての奉公先の商家の男からの貢物を、単に自分を助けてくれるお土産だとあっさり受け取っていたあたり。そりゃー、その主人から怒鳴り込まれる訳さ。そしてまあ……そういうことになる訳さ。
この主人が一緒に連れてきた小僧に、「団子でも食べてきなさい。なるべくゆっくり、ゆっくりしてきなさい」と言い含めるシーンには思わず噴き出したが、つまりはそういう展開が待っている訳で……屏風の後ろでのコトを老尼が見てしまう、という見せない描写が実に日本的で……そして生々しい。
なんてふしだらな、ってなことでお春の弁解もむなしく、寺を追い出されてしまうんである。
このあたりまでくると、お春の男好きのする気質が、本人の自覚無自覚関係なしに不幸の原因になっているのが立ち上ってきて、観てる側が単純に同情できかねてくる、という何とも言えない雰囲気になってくる。
だってすぐに、次の男が現れるんだもの。尼寺を追い出された原因になった男、店の番頭だった文吉。演じるのは大泉滉。ははぁなるほど、彼が。えっ、彼、クオーターだったの、知らなかった!!言われてみれば端正な顔つき。
お春が奉公時代から何かとボディタッチ含むちょっかいを出し、彼女に懸想しているとは言いつつ、店の者を持ち出すとか言う手口がなんとも幼稚で、そらー捕まるわな、と思う。
もうこうなると次の展開はいきなり物乞いの女(爆)。救う余地なしという感じ(爆爆)。
その前に、まるで自分のその後を見るような予感で、道端で三味線を奏でる女を見ていた。かつては相応の身分だと語るあたりも、似ていた。まるで誘い込まれるように彼女自身もそこに落ちていく。
もうその時にはね、え?これ田中絹代??と思うのよ。唯一このキャラクターがすっぴんだったんじゃないかと思う。やつれきって、本当に老いがにじみ出ていた。
偶然、自分の産んだ子供が成長して、華麗な籠から降りてくるところを目撃する。追いすがるように凝視するものの、それ以上できる訳もなく、倒れてしまう。その彼女を、通りかかった二人の老いた夜鷹が助けてくれるんである。
サバサバした気のいい女たちで、生きていかなくちゃしょうがないだろ、と笑い飛ばす。
娘のようなハデな衣装を用意してくれる。厚化粧をほどこし、夜の街に出る。田舎から出てきて女と遊ぼうとしている団体を叱責する役割でお春を連れてくるおじいちゃんのシークエンスが、なんとも切ない。
おじいちゃんは誠実に、お春にきちんと代金も支払うし、勿論身体を売らせたりしない。でも、“仕事”をさせないこの仕事の方が、どんなにかプライドを傷つかせるというか……。
だって「こんな年をいった女とでも寝たいのか」てなことを言われたんだもの。若いカッコをしていても、実際はこうだぞと。あんまりだよ、あんまりだよ。お春が見事な啖呵を切ってくれたからまだ救われたけど、でも……。
本当はここで、終わるのかと思ってた。冒頭に示された、夜鷹となったお春が羅漢堂の仏さまに最初の男、勝之介を映し出すシーンに戻っていたから、ここで終わるのかと。
しかしこの羅漢堂で倒れたお春が目覚めると、そばに長年会っていなかった老母の顔を見る。父はもう死んだ、お前が生んだお世継ぎが成人し、私とお前を呼び寄せている、と。
あの子と暮らせる、今度こそ本当に幸せになれると涙を見せたお春だったのに。……まぁさ、そう上手くはいかないとは思ったさ。ただ、リクツとしては通っていたから、ちょっとはお春が最後の最後に報われることを期待したのに、その“ふしだらな”過去が問題視されたことで呼びつけられたということが本当のところだった。
つまりお世継ぎにとっての喜ばしからぬ係累。外に放置できないから呼び寄せて永年蟄居せいと。
うわぁ、ひどい……だって、だってだって、そうさせたのはおまーらのせいじゃないですか。いやまぁ、そもそもの原因は、勝手に期待して借金つくって娘を島原に売り飛ばした父親だが……でもヒドい!!
結局お春は息子と顔を合わせることすら、出来ないの。「私があの子を産んだのです!!」という言葉に一瞬ひるんで手を放す家臣たちにふと笑ってしまうけれど、結局お春は取り押さえられてしまう。ここも後から思えばワンシーン、ワンカット。息子よ、ここはお前が振り返らねば、さぁ……。
次のシーンでお春は、老いた尼の姿になっている。冒頭から帰ってきた、老いた哀しき、でも仲間たちに囲まれている夜鷹のところで終わっていたら哀しくも救われたのに、と思う。
それとも、一度は拒まれた尼になれたから、これは幸福なの?それにしても……。
転落しまくり女の人生。本当に田中絹代が素晴らしく、唖然とするばかりの140分あまりであった。★★★★★
でも私は、村山聖って?みたいな感じ。いや、待てよ、なんか聞き覚えが。ああそうだ、「築地魚河岸三代目」の連載が始まった時に、気になって買ったビックコミックに載っていたのが、彼を主人公にしたコミックスだった。羽生善治も出てきた、そうだそうだ、と思い出したのだった。
でも、原作はそのコミックスではない。そのコミックスの、私が読んだだけのあたりでは、まだ二人とも幼い感じで、ゆるやかな友情という感じに見えた。
本作の原作は村山氏の東京生活を支えた、将棋雑誌編集部編集長の渾身の処女作。原作は村山氏の29年の生涯を描いているのかと思われるが(これはきっといつか、読んでみようと思う!)映画化となった本作は、最後の4年間にのみ絞って描かれる。
この原作での映像化は初ではなく、15年も前にドラマ化されていたという。なんと村山氏を演じていたのは藤原竜也!デスノートの双璧の二人がこの難役を共有していたとはなんとも感慨深い。
彼が二十歳ぐらいの時に演じた村山氏がどういうものだったのかかなり気になるが、松ケン好きのこちとらとしては、これほどまでにデ・ニーロアプローチ、いやさ、松ケンアプローチで身体から心から憑依しまくってはいないだろうと誇らしい気分なんである(爆)。だって、藤原竜也はきっと太れまい(勝手な思い込み……)。
などと、どーでもいいミーハーな部分にばかり拘泥してしまうが。本作はなんたって難病モノで、最後に彼が死んでしまうことは周知の事実であるから、これは思いっきりお涙ちょうだいの展開にも出来るだろうと思ったが、そしてもしそうならかなりケッと思うところだが、そうはならなかった。多分……それを意識的に避けているんじゃないかと思われた。
ドライな感じに淡々と進んでいく。関西特有の、あるいは松ケン自身が発する、それはきっと彼が憑依した村山氏自身が持つユーモラスでチャーミングな部分を、それもまた殊更に大げさにせずに、ほの明るく見せている感じが好ましいんである。女の子が住みそうなインターホン付きのアパートを選んだりとかね!
なんたって印象的なのは、村山氏が少女漫画好きで、昇進祝賀会に遅れていく理由が「マンガが面白かったから」それも多田かおるの「いたずらなkiss」!!しかもそれを彼は「いたキス知りませんか」と、しかもしかもあの羽生善治に問うという!!
せまっ苦しい部屋、いかにも男の子の一人暮らしって感じのきったない部屋に積み上げられているのは、数々の少女漫画の名作たち。うわーうわー、萩尾望都の「マージナル」!コアだな!劇中、古本屋で購入するのも「マージナル」の続きと、私も持ってる萩尾望都作品集の赤いカバーの「11人いる!」(だったと思う、あの表紙!)ああ、なんかもう、嬉しくなっちゃう。
つーか、村山氏、リアルタイムで生きていたのに、私の三つしか上じゃなかったのに、なんでこんな面白い人を知らなかったのか!!同じ時期に萩尾望都にのめり込んでいたのに!!
彼が命を削って対局に臨んだ部分こそがメインだと思うが、まあそこは後半に譲るとして、そんな男の子、村山クンの有様はなんとも気になるんである。
常連で通っている古本屋に、恐らく彼の意中であろうと思われる女の子がいる。思えばそれこそいたキスは当時連載中の人気漫画であり、古本屋で買うというのはちょっとおかしな話なのだが、彼はその新刊が古本屋に“落ちてくる”のを予約して待っているんである。
彼自身がとてもストイック、というか生活に頓着しないビンボー生活を送っているという意味合いもあるんだろうけれど、やはりこのカワイイ店員さんに心惹かれているに違いない訳でさ。
彼女の方はどうか、判らない。多分、男の子には珍しく少女漫画が好きで、常連さんで、毎度有り難うございます、ぐらいな、その程度だったのだろうとは思う。
後に病気が進行した村山君は言う。それも、羽生善治に言うんである。恋愛がしたいと。一度でいいから女を抱いてみたいと、夢見るような瞳で言うんである。
もうその時には羽生氏はご承知の通り、そこそこなアイドル、畠田理恵と結婚していて、そのニュースに接した先輩棋士、柄本時生君演じる荒崎君が「俺ファンだったのにー!!」と絶叫するというほほえましいシーンが用意されていたりする。その時には村山氏は特に動じる様子も見せなかったのだが……。
この台詞は、ドキリとしてしまう。だってつまり、彼は、恐らくきっと、童貞のまま死んでしまったのだということだから。
観ている時には原作の来歴とかもよく判らなかったから、こんなキャラクターづくりしていいの、とか思ってしまったが、村山氏を一から十まで知っていると言ったって過言ではない人が著者であるものが原作なのだから、きっときっと、そういうことなのだろう。
女を知らないから純粋だとか、つまんないことを言うつもりはないけれど、ただ……何かそれがたまらなく切ないのだ。棋士の世界、男同士の友情は、彼自身の破天荒な突き進み方も相まってぶつかることもあったけど、チャーミングな人だから、皆彼を好きになったし、心配したし、凄く育まれるんだよね。
でも、恋愛は……恋愛にさえ、行かないままだったのかと思うと、まあ恋愛がそんな大事なもんかという訳じゃないけど、あの時、羽生氏を目の前に夢見る少年の目つきでそうつぶやいた彼が忘れられないんだもの。
そのシーンは、羽生氏との死闘の末に勝利をおさめた対局の直後、雪深い山村の小さな飲み屋で酌み交わす場面なんである。
今も昔も変わらぬ、世間ずれしていない、上品な雰囲気の羽生氏は、関西の大衆文化、少女漫画、B級グルメにどっぷり漬かった村山氏とは本当に対照的。
そうそう、村山氏はこだわらない食にこだわる、といった感じも印象的で、「牛丼なら吉野家、お好み焼きならみっちゃん、シュークリームならミニヨン。決まってるんや」と譲らないんである。
チェーン店文化にゾクされてるのかと思いきや、ふるさとグルメに愛を傾けるこの感じ、確かに確かに羽生氏のイメージにはないのよね、と思う。セレブとまでは言わないけど、羽生氏にはなんとも、育ちのいいイメージがある。
それを、東出君が実に見事に体現していて、それにもちょっと、驚いたんであった。いや正直彼は、私にはあまりピンと来てなかったし(爆)、イケメンと簡単に言われるご時世、あまたいる「別にイケメンじゃないのにイケメンと言われるフツーの子」って感じが否めていなかったので(爆爆)。
今回のこの大役の抜擢も、どーせ将棋好きってだけの話だったんじゃないの、そーゆー役者って珍しいだろうし、みたいな失礼なことを思っていたんである。
本作のクライマックスは、お互いライバルと認め合っている二人の、歴史に残る名勝負、それは二つあるんだけど、そのうちの最初は、村山氏が勝つ。それもものすごく鮮烈な指し方で、仲間たちも、将棋ファンも驚かせるんである。
その後が飲み屋でのシーンで、羽生氏は「あなたに負けて、死にたいほど悔しい」と吐露する。それは、なぜ将棋を指すのか、という村山氏に対する答えとして、答えにはなっていないのかもしれないけれど、彼はそう答えるんである。
こんな場末の、雪国の飲み屋にそぐわぬ、きちんと背筋を伸ばして、几帳面に眼鏡を鼻筋で押さえて。それしかないのだ。ただその勝負の世界で、深い深い海の中に潜っていくような感覚、どこまで行くのか時に怖くなるんだと言い、村山氏と羽生氏は、お互い二人ならどこまでも潜っていける、いつか一緒に行きましょう、と語り合うのだ。
なんという、愛の言葉なのだ。こんなの、女と寝るよりずっとずっとエクスタシーじゃんか。
まあ、薄々感づいていたけどさ、棋士の世界は、女人禁制。いや、勿論女流棋士もいるが、まず、女流、という言葉が阻んでいるし、“男流”と“女流”の世界は決して交わらず、本作の中には微塵も出てきやしないし。
彼にとっての女は、「健康に産んであげられなくてごめんね」と泣く母親であり、まずこの言葉自体、我ら世代には当然のように、今の時代にすらまだまだある、子供の責任はみんな母親、というヒドイ偏見なのであって。
そして初恋にさえたどり着かない、古本屋の女の子。このたった二人が、彼の人生の中の女性なのだ。
実際はそこまで大げさではなかったにしても、映画作品としてそこまで絞ったのは、やはり村山氏自身のパーソナリティーを掘り下げようとする上で賢明な選択だったと思うし……やはりやはり、女の入る余地はないんだと思い知らされるのだ。
絶対の存在である母親と、憧れの存在である初恋以前の相手。本当はどろどろした女の正体を見ないまま、彼は逝ってしまった。
進行性膀胱がん。手術のための麻酔が脳を鈍らせるとして拒否するほどの、生まれながらの勝負師。でもだからこそ、勝負をするために手術をしたけれど、再発してしまった。もう、本当に、バカ!!
だって、将棋の世界がそういう世界なんだもの。私にはまるで判らない、棋盤に命を賭けるなんて、判らない。
でも、時間が刻々と迫ってくるあの描写、まるで短距離ランナーのスタート前のように身を乗り出し、緊張なのか考えまくっているのか、小刻みに震えながら本当に穴が開くんじゃないかと思えるほどの眼光の鋭さを盤上に注ぐ。
何手も、何十手も先まで考えているんだというのはよく言われるけど、そのさまを、あの前かがみのビリビリに張り詰めた対局場面で、示すのだ。
村山氏と羽生氏の最後の対局で、完全に村山氏優勢、羽生氏はもう次で投了かと思われたのに、信じられない落手で村山氏は散った。この頃、病をおして、医師は大反対、看護師がムリヤリついてくるほどの状況で対局を続けていた、その先での運命の対決。
あの時の、震える手で指した手が信じられない落手であったこと、その松ケンの表情以上に、迎える羽生氏、それを演じる東出君の、驚きというか、落胆とも違う、なんだろう……。
負けるのが死にたいほど悔しいと言っていたのに、この対局は勝つべきではない、もう負けるべきだったのにという思いだろうか。
いや、そんな単純ではない、なんだろう、とにかくとにかく、もう、ね、目を真っ赤に充血させて、ぐっとこらえてるんだけど流れ落ちる涙の筋は抑えられず、村山君の「負けました」というかすれた声を受ける、あの場面は、もう、耐えられないの。
深いところまで、一緒に行きましょう。そう言っていた。でも、……行けなかったんだよね。その悔しさなのか、判らない。村山氏も泣いていた。でも二人とも、声を出さず、ただ涙が流れてた。
なんかねぇ、結局はこの二人の話になっちゃうね。実際はさ、村山氏の将棋にかけた最後の4年間であり、羽生氏はスター棋士としてのゲスト的な扱いの筈。
村山氏と実際に関わる、彼にナメられまくってる師匠、森氏を演じるリリー氏や、プロに上がれなかった同僚棋士を演じる染谷君や、これはかなり嬉しかった、村山君を心配して、彼にはバカにされながらも何かと面倒見てくれる先輩棋士のヤスケンや、……凄くね、仲間を温かく描いている映画だと思うし、まさにそこが、女の入れない悔しさもあるんだけど、結局は村山氏と羽生氏の運命的な相手同士の話だったんだよね。
同い年の天才棋士同士。今となってはタラレバに過ぎないことは判っているけれど、村山氏が今生きていたならばと、思わずにはいられない。羽生氏は、将棋に疎い私でさえ聞こえてくる天才棋士で、つまりそれは……孤独だということなんだよね。彼は勝つのが当たり前で、対抗できる人がいない。
あの時、村山氏に負けた羽生氏は、死にたいほど悔しいと言った。そう思わせる棋士が、いない、と言ってしまったらアレだけれど、そういうことだと思うのだ。
難病モノは、薄幸の運命に同情して涙して、そういう物語構成はホントにキライだし、まあそりゃね、あまり世の中に知られてない病気を知らせる意味とかもあるのだろうとは思うけど。
でもこれが、誰もが出会えるかどうか判らない運命の相手、恋愛でもいいけど、そうじゃない相手に出会えることを描いている映画だと思ったら、凄く、凄く、好きだなあと思った。★★★☆☆
彼のもともと持ついい意味での普通の人、おだやかな風貌と熱い気持ちのギャップ、といったものは確かにサブイボマスク=春雄にピタリだし、彼のイメージから先行してお話が作られたんじゃないかと思うほど。役者として色がついていないこともあって、それをネラっていたんだろうと思う。
しかしあのスキャンダルが、役者として真っ白なイメージに色がつく前にミソをつけてしまった。もともと役者でいろんな役を演じている姿を見ていれば、こんなスキャンダルなど見る側にとっては大した問題ではないんだけれど、役者として初めて見る顔を先にワイドショーで散々見てしまうと……、もうちらついちゃって仕方なくなっちゃうんである。
これが非常に困った。そんなに私、心の狭い人だったかなと、いや狭いが(爆)。別に不倫を殊更にバッシングする気なんてない、むしろあれは恋愛のひとつだと思ってるから。彼の対応は立派だったとも思う。でもそれだけに……そうした印象が強く植え付けられちゃって、なかなか春雄に見えてこないのだ。
それは無論、役者経験ゼロの彼の芝居力の問題もある(爆)。彼が色のついていない役者のままだったら、むしろその初々しい芝居が武器になっただろうと思う。しかし今回は……あまりに運が悪すぎたなあ。
集客にも逆効果に働いた気がした。だってキャラが、消滅寸前の村に活気を取り戻そうとする純粋な魂の持ち主、っていう、もう直球の正義の味方、なんだもの。私の見た回はあとはカップル一組の三人のみだった。ツラすぎる……。
と、いう前置きは、映画そのものにとっては全く関係のない話なので。長すぎる前置きでスマン(爆)。でも映画そのものも、ちょっと弱い感じが否めない気がしたけれど。
ざざっとプロローグを示すと、こう。今や日本全国各地で問題になっているシャッター商店街。都会への若者の流出が止まらない。郊外に出来るショッピングタウンは時にこうした地方都市の切り札だが、それも隣町の所有物で、働き手を始めますます流出が止まらないんである。
もはや来年にはダムの底に沈むと噂されているこの道半町(みちなかばまち。名前が象徴している……)、街の予算がないからゆるキャラコンテストにもお粗末な手作りキャラクター、元気くんで登場するも、子供たちを固まらせるだけ。
そのコンテストに出場していたのが本作の主人公、コンビニ(という名のよろづや)で働く春雄(ファンキー加藤)と、幼馴染の弟分、天真爛漫な自閉症の青年、権助(小池徹平)。いつもシャッター商店街で数人のお年寄りを相手にマメカラ(うーむ、昭和の産物というのは言い過ぎか?しかし今でもあるのだろうか……)でアツいライブを開催している春雄と、その春雄が大好きな権助。そんな中、春雄の元カノ、雪(平愛梨)が東京の夢破れて帰ってくる。しかもシングルマザーとして。
そして春雄の単純な熱意を、雪の経験値が支える形で、町おこし運動がスタートする。謎の覆面シンガー、サブイボマスクは、春雄の父が同じように覆面レスラーとして町を盛り上げていた、その意思をマスクと共に継ぐものである。
雪は元恋人で子供の父親でもある東京のプロデューサーを巧みに使い、ネットやテレビのメディア戦略でサブイボマスクの知名度を着実に挙げていく。しかし集まる客たちのモラルやら、春雄自身のカン違いやらが問題になってきて……。
主人公に役者経験浅いこうした人物を招く場合、いかに周りを固めるのかが重要になってくる。町長に泉谷しげる、商店街のメンメンに斉木しげるや温水洋一といった知名度も芝居も安定感のある役者を揃えてくるのはなかなかに気合の入れようである。
平愛梨は、彼女も奇しくも同時期に逆ベクトルの幸せスキャンダルでにぎわしたが、「20世紀少年」で復活してからの、自身のほんわかキャラでテレビ界をも席巻しているのは周知のところである。
ヒロインとして初主演の加藤氏を支えるところではあるのだが、彼女の芝居も若干、微妙というか……。私自身は「20世紀……」を観なかったので、平愛梨嬢の芝居をみるのはそれこそ彼女が10代の頃以来かも、みたいな……。一生懸命な感じ、では加藤氏とそれほど変わらないかなあ。
それは、彼女のバックグラウンドをさらりと流す程度にとどめてしまったのも原因かと思われる。
雪は東京でモデルの仕事をしていたけれど、せいぜいが尿漏れ下着の仕事以上に行かなくて、しかもプロデューサーに手を付けられてシングルマザーとなって帰ってくるというイタさであった。
でもそのイタさ、生々しさがイマイチ伝わってこない。いかにもザ・東京のギョーカイ人、という役どころのそのプロデューサーが、子供という弱みを握られているという条件上、話の展開の都合のいいところ……サブイボマスクの曲アレンジとか、情報番組へのぶっこみとか……で使われるだけで、生々しい存在として関わってこないのがおしい、というより弱い、というより、ズルい、というか……。
淡い気持ちではあるけれど、一応は恋のライバル、憎むべき相手なんだからさあ、という気がする。さびれゆく地方と華やかな東京の対照の要素としてあまりにもベタで、逆に古い気がするんだよなあ。人間ドラマが見たいのに、東京のギョーカイ人!!みたいなことで流されちゃって。
その中で意外な救いの主が、春雄とタッグを組んでいる、と言ってもいい、幼馴染の権助の存在、演じる小池徹平君、なのであった。
自閉症の青年。こういう、いわゆる障害者を、しかもピュアな存在として投入して感動を誘うというやり方は、24時間テレビの例をとるまでもなく日本のマスメディアの悪しき習慣で、正直好きではない。好きではないんだけれども……思いがけず徹平君の芝居が素晴らしくて、加藤氏のワイドショー汚染に悩まされていた頭が、徹平君によって洗い流された、というところがあったのであった。
彼は言うまでもなく美しい風貌の持ち主。もっと若い頃はこんな美少年がいていいのか!!と萌えまくったほどのお人で、それだけに役者として年を重ねていくのは難しいのかもしれないという余計な心配もしていた。
しかして、その天真爛漫な美しさこそが確かに彼の武器であり、それに役者としての経験値が重なると、こんな素晴らしい結果をもたらすのかと驚いた。
権助は春雄が大好き。春雄だけじゃなく、周りにいるみんなが大好き。たとえその障害故に心無い仕打ちを受けたとしても、それは彼を知らない外部からのもので、権助のことを知っている人たちならば、そんなことをする筈はないのだ。権助のことを、理解しているから。
……という部分も正直、物足りない書き込みではあったと思う。ニコニコ動画で盛り上がり、テレビにまで取り上げられたサブイボマスク、女の子にチヤホヤされ、プレゼントだというファッションであか抜けた格好をし出して、明らかに春雄は調子に乗り出してしまう。
一方で権助は彼を知らない人たちによって標的にされてしまう。……この図式はとても判り易いが、言い方を替えれば単純極まりなく、権助を知らない人間だから標的にされる。だったら町おこしって、どうすればいいの??という根本的な解決はまるで気づかないことのように放棄されてしまうんである。
どんなコミュニティにも権助のような存在はいる筈。明らかなパーセンテージでいる筈。のような、などという曖昧な言い方もよくない。様々なパーソナリティーが存在する筈。
問題なのは、権助がこの土地では支えきれなくなり、つまり親や近在の人間たちも、権助よりも早く死ぬということを理由として、隣町の“しっかりとした施設”に送られてしまうことなのだ。
これこそが、過疎町のみならず日本社会そのものの問題であるのだが、そこまできちんと言及していないのが気になるんである。いかにも、この町はその予算が削られてしまったから、施設がなくなってしまったから、という言い様である。
コミュニティで権助と共に生きてきたのに、である。結果的にサブイボマスク効果によって町の予算も増え、メデタシメデタシになるのに……。
社会問題をそれなりにとらえているだけに、ちょっと不満足が残るのよね。徹平君がとても素晴らしかっただけにさ……。
天真爛漫。一点の曇りのない瞳。本当に、彼のそうした良さが出たと思う。勿論、素晴らしく緻密に計算された芝居もそうである。
構成的に物足りない部分はあったけれど、彼がとても絵が上手いこと……彼の描いたサブイボマスクのキャラクターはTシャツになって大いに貢献するし、その他にも実に達者な画力を見せる。自閉症を持つ人たちの、特化した芸術的センスをきちんと示しているという点では、素敵だと思った。
春雄はこの町を救いたいと思う気持ちにアツく、まっすぐなだけに、調子に乗るのも早くて、オシャレな恰好をしたりジャラジャラアクセサリーをつけたり、勝手にブログを始めて気取った記事を書いたりして、雪を怒らせてしまう。
そうした単純な部分……本来的には笑わせなきゃいけない部分が、やっぱりさ、コメディっていうの、コメディ演技っていうのって、難しいんだよ。いやこれは、演出の問題かもしれない(爆)、それとも脚本の(爆爆)。
そうした落差が上手く出なくって、調子乗ってるバカなヤツ、という感じがなかなか出なくって、コイツ、バカだなー、って感じがそもそも最初から上手く出てなくって……。ウザくてサムくて、空気読めない、って感じが、そもそも最初から上手く出てないんだよね。
普通に穏やかないい青年、っていう感じ。別にウザくもサムくも空気読めない感じにも感じない。だから調子乗ってるっていう描写もピンとこない。更にそこから立ち直る描写もピンと来なくなっちゃう。
隣町のゆるキャラの中身だった青年が、サブイボマスクのカッコして空き巣や放火を繰り返し、春雄が疑われるというシークエンスが出てくる。いかにもな展開ではある。春雄が調子に乗っているところだったから、町の皆がフツーに春雄を疑ってしまう。
そして分裂し、町の予算は無事とれたからみんなが喜び、雪が激怒する。そして真犯人がつかまり……みたいな。
その間に、目を離したすきに権助がヒドい目にあったり、なかなか社会派を見せてくることはあるのだが、この濡れ衣シークエンスは、隣町の青年もまた違う苦しい立場に立たされているというのが、台詞上では言うけれども結局、春雄が負けるな!戻ってきたらここに来い!道半町で一緒に頑張ろう!とか言っちゃって、つまりは彼に故郷を捨てろと言っているようなもんだよねと思うと……。
作劇上の盛り上がりや、表面的なハートフルを安易に選択してしまったゆえの空虚さで、これはちょっとマズいんじゃないのと思った。
実は、そういう甘さがあちこちに見られる。ネットでの盛り上がりで暴走族まで押し寄せて、商店街の人たちが暴力振るわれたりとかヒドイめにあったりとかいう展開があって、しかし彼らはそれを問題提起できない。
なぜ?と思うが、それはこの盛り上がった機運を壊したくないのかな、と親切に解釈しているところに、実はこういうことがあって、メーワクしてる、とかいって春雄を糾弾するもんだから、そらおかしいだろ、と……。言わなかったオメーが問題なんだろ、と……。
結局は作劇の盛り上がりを優先するがゆえに起こる、矛盾とまでは言わないけど都合よく登場人物の感情を配分しているのが気になるんだよ。ただ単純な人間の感情と言い切れない。
時折挿入されるアニメーションは、そうか、鷹の爪の。どっかで見た絵柄だと思った。まぁこれが功を奏したかどうかは微妙なところのような感じだけど(爆)。
アニメーションは別に、いらなかったんじゃないの?それとも加藤氏の芝居の物足りなさをフォローする意味合いってんじゃないでしょうね(汗)。
あっ、いとうあさこさんのことを言い忘れた。もう疲れた(爆)。コメディエンヌかと思ったら終始シリアス芝居(爆)。シングルマザーとして生きるために、生活保護を死守している役柄。
なかなかに深遠な役どころと思うが、結果的に商店街で働き始めちゃうし、どうやら春雄にホレちゃったらしい、が、そうしたボケたところは全く感じず、まさにシリアス女優。
いや、いいんだけど、その辺の切り分けが見てる側にはぼんやりしていて、彼女のことをどう見たらいいのやらと……あの妙にリアルな巨乳もマジに見ていいのかしらん、とか。誰のツッコミもなかったもんなあ。★★☆☆☆
確かに戦時中の占領地となった場所としては、なぜか台湾は親日感情が多くて不思議だなあとは思っていたのだが……だって考えにくいじゃない。いわゆる植民地であった、占領された相手国に対してそういう感情を持つのって。中国や韓国の人たちが持つ感情の方が普通だと思うもの。
私は特に歴史には無知なんであんまり深く突っ込めないんだけど(爆)、実際、この実話となった事故のことを検索して初めて、宣撫という言葉も知ったぐらい。誤解を恐れずに言えば、戦争、っていう歴史は、奥が深い……。
国策映画、と思ったのはそんな具合に、台湾の人たち(ここでは高砂族と言われるいわゆる先住民族、だろうか)が、統治されていることにひどく素直に従い、日本語をすんなり話し、日本の駐在さんたちを慕い、日本人の奥さんが彼らの赤ちゃんを次々取り上げている、みたいな描写があっけらかんと示されるから。
いや、それ以前に、まずサヨンが登場する前に、日本から派遣された軍人さんは、教師であり土木監督であり上官であった、みたいな、彼らの生活の面倒を見てレベルを引き上げたんだみたいな感じに、それが教科書のようにニュース映像のように字幕説明つきで描かれるもんだから、やっぱりそう感じちゃうのは否めない。
時代的に仕方ない部分はあると思う。国策映画というのも、歴史の教科書である。当時リアルに暮らしていた高砂族の生活が活写されているなんてはさすがに思わないし、日本人賛美を日本人の作り手が作る愚かさ恥ずかしさは、今の時代から見れば当然、ある。
でもある意味生み出されてしまうのは仕方ない上で、じゃあ作家はどこに彼らの個性やメッセージを発揮するのか、という部分を、映画ファンとしては見たい訳である。ヤハリそれは、歴史研究家とか、戦争の罪とかを前提にして国策映画を見る人たちとは違う視点であり、そうでなきゃ映画ファンなんてやってられない。
清水宏監督はこの時代に監督になって“しまった”。彼が生み出したのちの数々の映画を見れば、ただ国策映画に乗っかって心無い映画を作るような人ではないことは、判るんだもの。
サヨンに扮するのは李香蘭。李香蘭!!つまり山口淑子だが、李香蘭、とクレジットされた映画を見たのはひょっとして私、初かもしれない(いや、覚えが悪いんで、違うかもしれない(爆))。
彼女は高砂族の村の娘。村中にぼこぼこ生まれる赤ちゃんたちを世話しつつ、もうちょっと大きな子供たちにその世話を手伝わせつつ、飼っている豚やらヤギやらアヒルやらを追い回して暮らしている。
ちょっと、正確じゃないな。最初は豚で、それを売ってヤギを飼い、アヒルに至り、アヒルの群れが最後のサヨンの葬列に参加するというオチ(というには切な哀しい)になるんである。
豚の出産を見守るサヨンと子供たち、という描写がイイ。駐在所に慌てて駆け込んでくる子供に、赤ちゃんはぼこぼこ生まれる村だけれどその予定がある妊婦はいないのに、首をかしげると、豚の出産だと知って大笑いする駐在さんたち。
でもサヨンと子供たちはかたずをのんで、柵のこちら側から見守っているのだ。その出産そのもののシーンは映されない。ただ単にそんな都合よく出産する豚を用意できなかったというのもあるのかもしれないが、そのものを映しときゃカンドーするという現代の風潮を考えると、作り手の腕と演者の力量のほどが知れるというものなんである。
ちょっと脱線したけど(爆)。やっぱりそんな具合にね、戦争や戦時中や国同士のことを語るのは専門家さんに任せて、映画ファンは映画として見たいなあと思うんである。
そりゃあ、いくら占領下とはいえ、普通に日常会話もすんなり日本語はねえだろうと思うよ。逃げた豚を捕まえて帰る途中、子供たちに日本語の復習をさせる場面がちらりと示されるだけで、その他は日本人だろう!!という……いわば開き直りの感じなんだもの。
まあ予算とか、いや、国策映画だから、というのはあるんだろうとは思うが……。だからね、もうそーゆー部分は専門家さんに任せて(爆)。
李香蘭の映画、なんだもの。それが観られるというのはやっぱりカンドーする。若くてハツラツとしている彼女は、村の子供たちにめっちゃ慕われている。豚からヤギにいってアヒルを飼う、とレベルアップを図る彼女に、野球の道具が欲しいなあ、と子供たちは無邪気に言う。
サヨンは村の繁栄を思っているのだ。豚を育てて売り、ヤギを飼うのはミルクがあまたいる赤ちゃんたちに必要だから。水道を引く山あいの湖に放し飼いにするアヒルを買って意気揚々と帰ってくるシーンは、うららかに歌う李香蘭の魅力も相まって、のどかに彼女の先頭をわらわら歩くアヒルたちが幸福感満載で、なんだか頬が自然とゆるんでしまう。
そう、冒頭の説明的シーンの羅列で国策映画!!と身構えたけど、きっとあれは、監督自身が関与できない部分だったんじゃないかと思ってしまう。不自然なまでの日本語での作劇は、もう割り切っていたんじゃないかと思う。台詞が何語なんてのは関係ない、生き生きとした人間を撮りたいのだと。
だって子供たちがとてもかわいいのだもの。みんないがぐり坊主。あれ、そういや女の子がいなかったような。まさか(爆)。ほんの数年しか年の違わない赤ちゃんをそれぞれ背中にくくりつけて面倒を見る群れが、ほほえましくけなげで胸がきゅんと締め付けられる。
豚やアヒルと同じように赤ちゃんたちもうじゃうじゃいるので、で、親たちは畑仕事や機織りや家事に忙しいので、サヨンや子供たちにその世話が任されているんである。
うじゃうじゃいる赤ちゃんをホントにアヒルみたいにかき集めて、あれ、足りない、どこいった、みたいな(笑)。ちょっとの間木に括り付けて豚を探しに行ったいがぐり坊主が、忘れてた!!と戻ってみたらいない!!カット替わって駐在さんが「道に落ちてたんだよ」落ちてた!!
この村の赤ちゃんを軒並み取り上げてる奥さんに「どこの子か判らないかい?」多すぎて判らない顔する奥さん(笑笑)。何ともうららかなんだよなあ。
後に清水監督が子供映画のマエストロになり、子供たちの問題に現実にかかわったことを考えると、ただの国策映画と言いたくない気持ちが、映画ファンとしては更に高まってしまうのだよね。見てる時にはそう思ってたくせに(爆)。
いやさ、いわゆるストーリーとなる部分が、おそまつとまでは言わないけど(爆)、ちょっとありがちな単純さがあったせいかもしれない。恋物語。それって、入れなければいけないのかな、やはり若い娘の物語だから(爆)。
サヨンは選ばれて内地の学校で学んでいたサブロをずっと待っている。帰ってきたサブロはいわばエリートで、二番手だったモーナはじくじくとした思いを抱えている。
モーナに恋するサヨンの友達の女の子もいたりして、モテるサヨンのことをモーナもまた恋しているからサブロにわざとケガさせたんじゃないかなんていう、小事件が起きたりする。
でも正直、そんな恋のさやあてのエピソードは、尺をさかれる割にはあまり重要ではないというか、印象には残らない。
てか、サブロもモーナも、言ってしまえば国策映画として重要な、彼らに慕われている駐在さんだのは、それほど印象には残らないのだ。本作はやはりサヨンであり、そして子供たちであり、素敵な脇役の動物たち。
サヨンは、山あいの湖に子供たちを連れていく。恋人のサブロも一緒である。女は行っちゃいけない場所と、頭の固い年寄りたちは言い募り、サヨンはいけにえの動物が捕まるまで身代わりとして湖畔にこもることになる。
それを宣告されるシーンは、土俗的な恐ろしさに満ちていてゾクリとする。でも腹を据えてこもるサヨンは、彼女を慕う子供たちからの差し入れを頬張って実に元気である。そんな迷信のことも信じていない、村を豊かにしたいために水道を引く湖も見に行った彼女なんだもの。
サヨンの存在は、日本軍によって豊かになった村というんじゃなくって、彼女自身がそれを引き寄せた、という風に感じる。実話だというのを知らなかったから、サヨンが死んでしまう結末にはだから、唖然とするのだ。だって生命力に満ち満ちていたんだもの。そんなにあの日本人駐在さんは慕われていたのかなあと(爆)。
でも、彼を豪雨の中送っていく場面は、これぞ映画的、と言いたいスリリングな美しさに満ちている。
送り出す宴は大きな火がたかれる。それぞれにかがり火を掲げている。皆が火を囲み、輪になって踊る様も幻想的である。
雨が降ってくる。豪雨になる。心配してサヨンもかがり火を手についていく。暗闇の中、遠くに一行のかがり火の列が見える。手を振るサヨン。川を渡る橋になっている丸太が増水した激流に流される。ハッとする顔、こっちがヒヤリとする間もなくサヨンは激流にのまれる。
まるで予感してなかった。実話だと知らなかったってこともあるけど、サヨンは生命力のかたまりだったから。あまりにも生き生きとしていたから。
お国のために出征したいと願う男たちの感情の揺れ動きも、確かに重要ではある。でもそれは、現代の目から見れば“国策映画”としてはあまりに出来すぎだし、いや、本当にそう思っていた、正確に言えば思っていると思い込まされる時代だった、ということなのだろうとは思う。
しかも、お国のため、って、彼らにとってのお国は日本ではないのに、“日本人として”招集を待ちわびている、という洗脳に、今の時代から見ればゾワリとはする。でも先述のように、その描写は国策映画として通り過ぎていくだけ。
だってそもそも、実話から始まったのだもの。それは、愛国心ということで広まったのかもしれないけれど、サヨンという一人の闊達な女の子として、清水監督は描いたのだと思う。そう思いたい。
男たちがお国のためにと言い募り、それを待つ間はこの村のために働く、と言うのはサブロ。サヨンは一瞬ひるみながらも、私も赤ちゃんの面倒を見て、豚やヤギを飼っているの!と胸を張る。それはいいネ、とサブロは言う。えっへん、とばかりに胸を張るサヨン。
今なら判る。真実の意味で“お国のため”になっているのはサヨンなのだ。本当の、お国のためになっているのは。この時には、誰もそんなことは言うまい。ただ、女子供は待って支えて、それが美徳だと。
実際、サブロも言っていた。日本で学んだ日々で、戦時下の日本人女性たちが、女工や何やらで銃後を支えていると。銃後。イヤな言葉だが、それがあの時代。そしてサブロの言葉こそがあの時代の美徳。
でもね、……私が清水監督のこと好きだからそう思うのかもしれないけど、清水監督も、サヨンの送る生活こそが、真実のお国のためだと、そう思って描いていたんじゃないかと、思うのだ。
だってラスト、彼女をたたえるのは子供たち。実際の美談話の流布とは違う。サヨンと共にずっと過ごしていた子供たち、なんだもの。
サヨンの葬列にアヒルたちがよちよちついていく切ない可笑しさも胸に迫るけど、子供たちが湖に分け入ってサヨンに呼びかけ、鐘が鳴り響くラストシーン、絶妙の引きの画がとても叙情的で。
古いフィルムで、どうやら欠落もあるらしく(確かにえっ、と思うような飛躍があった)、台詞もめちゃめちゃ聞き取りづらくって、もう書くのやめようかと思ったけど(爆)、バックグラウンドを知るにつけ、映画としての本作だからこそ、清水監督特集できちんと取り上げたんだと実感する。
これを国策映画のみの側面で語られたくない、という上映側の想いが伝わってくるのだ。★★★☆☆