home!

「よ」


2017年鑑賞作品

夜明け告げるルーのうた
2017年 107分 日本 カラー
監督:湯浅政明 脚本:吉田玲子 湯浅政明
撮影:バテイスト・ペロン 音楽:村松崇継
声の出演:谷花音 下田翔大 篠原信一 柄本明 斉藤壮馬 寿美菜子 大悟 ノブ


2017/7/9/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
「夜は短し歩けよ乙女」でその才能に本当にあっと驚き、この新作にギリギリセーフで劇場に滑り込んだ。正直、観客に子供連れが多いことにあれっと思い……「夜は短し」は凄く、大人向けという感じがしたから。
確かにポニョを思わせる可愛らしいキャラクターのルーの物語は、見た目キャッチーで子供を連れて観に来たくなるかもしれない……いや、そもそもかなりそういうスタンスで今回は作られているのかもしれない。「夜は短し」の時に驚いたような、奇妙で幽玄な世界観とは確実に違う。ファンタジーのように見えながら主軸は現実の人間ドラマにおいていたかの作品と違って、本作は確実にファンタジーなのだ。
それに大人向け、子供向けなどと考えること自体が大人の考えることなのかもしれない。子供の頃を考えれば、本にしても映画にしても、そんな作品選びはしていなかったではないか。

ポニョ、そうポニョね!タイトルで検索したら、ポニョのキーワードがくっついてきて、そうだ、設定、確かに凄く似てるかもしれない!と今更ながら気づく。小さな女の子の形、見つけてくれた男の子をまっすぐに大好き!と言う気持ち。
でもあのあまりにも巨大な作品に対してパクリなどを行うようなヤボな作家ではないだろうし、確信犯的なのか、オマージュなのか。

あのポニョが魅力的な作品世界ながらも最終的にはなーんとなく説教臭くなっていった(それは後年の宮崎監督に避けられない傾向でもあるし)のと反して、未来を希望を感じながらも、どことなく物悲しさを残すラストなのだ。いや……あのラストから正しくなにをつかみ取るか、ということなのだろうと思うのだけれど。

舞台は漁師町。でもそれは傾きかけている。漁師町といっても特産と言えるのはウニにアワビにアサリ、それぐらい。主人公、海(カイ)の家はさびれた船宿をやっているけれど、離婚してカイを引き取り地元に帰ってきた父親は水産会社に勤めていて、祖父は日傘職人をしている。つまり、漁師に未来はない、と断じているんである。
その理由の一つは、豊かな海産物が獲れる“筈”の、人魚島に近寄れないから。数多くの船が沈められ、人魚に食われる、祟りがある、と恐れられている。

カイが中学生だなんて、最初は思わなかった。とても大人びていて、冒頭は彼がコンピューターの打ち込みで音楽をやっている動画を投稿し、そのコメントを眺めているところから始まるんである。父親も昔はバンドをやっていて、別れた母親はダンサーという血筋が後に紹介されるに至ると、なるほど血は争えないというやつか。
この地元にとらわれずに勉強してやりたいことをやれ、という父親と、寡黙だけれど似たようなことを思っている祖父だから、カイはここを出て行くという選択をするのかなあとぼんやりと思っていた。

いや、それこそ“道徳的”には、この地に残る若者、ということはあるかなと思ったが、この時点ではどう転べば彼がそうした決断に至るのかまるで読めなかった。
それぐらい何を考えているの判らないぐらい無表情で黙り込んでいるばかりだったし、音楽のことも、「好きという訳じゃない。ただの暇つぶし」だと言うのが、ホントみたいに聞こえるぐらい、覇気がなかったから。

その台詞を引き出すのは、この動画を見つけ出して彼の正体を即座に暴いた同級生二人である。いかにもこういうアニメーションに出てきそうな(いや、いい意味でね)元気いっぱい、目立ちたい!てな女の子はカイの父親が勤めている水産会社の娘である遊歩、そして神社の息子、国夫。
二人が組んでいるセイレーン(人魚)というバンドに誘われるもカイは気乗りがしない。ただ、練習場所が人魚島と聞いて心を動かされる。入るつもりはないけれど一回だけ、と応じるんである。

おじいちゃんから人魚の目撃談を聞いていて、それがこの地に災いをもたらすと固く信じているおじいちゃんのかたくなな態度が、カイにこの時点でどういった影響を与えていたんだろう。
おじいちゃんの息子であるカイのお父さんは、頼りなげなたたずまいで最初、お父さんだとは判らずお兄ちゃんかな……とか思ったぐらいだったんだけど(爆)、でも中学生のお父さんってあれぐらい若いか、そりゃ。

この町にはもう未来がないから、ちゃんと勉強してどんな道にでも進むようにならないと、とことあるごとに口にする彼は、この地を嫌っているのかと思っていた。そうじゃないと口では言っても、あまりピンと来てなかった。明確に、だからこの町に帰って来たとか、だからこの町が好きなんだと、彼は言う訳じゃないから。
ただ様々な騒動の後にお父さんが、「人魚が本当にいて、嬉しいと思っている」と言った時、ああ、なんか、良かったなあ、と思ったのだ。この単純な意識が、この町の人魚伝説を愛のある方向に信じている感じがするというか。東京からの転校生だったカイが、この町に戻ってくるのをそうか、そういうこともありかなと思わせる、優しくも魔法の言葉だった。

で、なかなか人魚さんが登場しませんけれども(爆)。音楽に引き寄せられて現れるという人魚。その可愛らしいフォルムといい、確かにポニョを連想させるものがあるが、かの作品の男の子がまだ幼かったのに対して、中学生の男の子ってーのは、もうヤハリセクシャルな魅力がついてくるものである。
アンニュイというか厭世的なカイは、大人の女をもキャー!と思わせる萌え萌えな魅力がある。実際、同級生である遊歩だって、「笑わない感じがカッコ良かったのに」と、明るくなったカイに文句をつけるぐらいだしね。
でもまだまだ明るく楽しいことを考えるべき年頃なのだ。アンニュイなんて、年をとってからでも遅くはない、ってゆーか、あんなのは商品的なものでしかないっての。

で、なかなか人魚さん登場しない(爆)。ルーは、カイの奏でる音楽に乗って現れる。練習に参加しようと思ったのも、ルーの歌声をみんなに聞かせたいと思っていたから。ルーは言葉も判ってるし無邪気に話もするけれども、その言語力自体は幼い女の子そのものという感じで、ただそれだけにまっすぐな、「仲良し、好き」という気持ちが揺るぎないものなんである。
町に根強く伝えられる人魚伝説を聞いて育った遊歩と国夫だから最初、ひどく動揺して怯えるけれど、そこは若さゆえの柔軟さか、すぐにルーと仲良くなる。
とゆーか、国夫はその本来のノーテンキさ、そして遊歩は後にルーばかりが注目されることに嫉妬するほどに、彼女に対していわば対等の気持ちで最初から接することが出来るのだ。それが大騒動を巻き起こすのだけれど。

遊歩のおじいちゃんというのが、かなりの大人物である。遊歩の父親、つまりおじいちゃんにとっての息子が、かなりの小人物であるのに比べれば凄まじい違いである。
突然ヘリコプターを乗り付けてどこぞから帰っていたこのおじいちゃんは、人魚伝説をいわば無邪気に信じている人物で、だからこそ過去に人魚ランドなる単純なレジャーランドを作って大失敗した過去を持つ。現状維持を念仏のように唱える小心者の息子をブッ飛ばして、大きな事業に手を伸ばそうとする。

町一番の祭りのイベントにバンドとして出演することになった三人は、カイは気が進まなかったのに、遊歩と国夫がルーを出演させちゃう。音楽が鳴り踊り始めれば尻尾の部分が足に変化してノリノリに踊り出すルーは、たちまち集まった人たちの注目の的になる。ネットにもアップされて、一躍有名になってしまう。
それだけじゃなく、彼女の踊りは周囲の人間たちをまるで魔法のように、勝手に踊り出させてしまうのだ。このシークエンスはまさしく湯浅監督の真骨頂。「夜は短し」でも驚いた、群衆ムーブメントの、しかも動きの独特さなめらかさは、まさに圧巻のひとこと!このシークエンスで突然、違う世界にブッ飛ばされてしまうほどの魅力!

正直、ルーの万人受けする……言ってみれば子供受けするキャラでひっぱっていくのは、ちょっと凡庸かなあという気もしていたので、ここで一気に溜飲が下がり、そして町の大洪水につながる後半のクライマックスからラストに至るまでは、その唯一無二の独特な動きの躍動感が途切れることはないのだ。

人魚たちは、本当は人間と仲良くしたい。でも日の光が苦手だし、うっかり噛みついてしまうと人間も人魚になってしまう。あれれれ、まるでどころかまんまドラキュラ!
過去にそうして身内を“失った”のがカイの祖父と、恋人を失ったおばあちゃん。このおばあちゃんは未だに日がな一日、にっくき人魚をぶっ殺そうと、槍を構えて海を監視して暮らしているんである。この二人が人魚を観光誘致にと沸き立つジャマになるとばかりに、老人は引っ込んでろ、と排斥されるのだが、この二人の想いは……。

結果的には誤解があり、誤解が解ければ、人魚との融和にこれ以上ない働きかけになる。いや、実際、この二人がみんなの誤解を解いて、人魚は優しい人たちだから、怖がることはないという訳じゃないのだ。それぞれが個人的に、ずっとずっと会いたかった人に、人魚の姿になって生き続けてきた人に、会うのだ。

特にあのおばあちゃんは、すっかりシワシワになって小さくなったおばあちゃんが、若き日の面影のままの美しい青年に再会して、「どうしてももっと早く来てくれなかったん」とあれほど雄々しく掲げていた槍をすっかりおろして涙を落とす場面には、彼女の何十年ものオトメの心を思って、すっかり胸がじーんとしてしまったのであった。
カイの祖父の方はね、男にとっては永遠の恋人であるお母さんの話だから、女にはあんまり興味がないので(爆)。おじいちゃんの過去回想は夏休みの絵日記みたいなタッチ。やはりそういう違いを出しているんだと思う。
おばあちゃんは恋人に噛まれて人魚になっちゃってビックリしてたけど、おじいちゃんも母親のもとに人魚となって行ってしまったのだろうなあ……。

そういう、物悲しさがあるのだ。本作はまったきファンタジーだけど、へんに現実味が交差するところがある。へんに、なんてこともないけど(爆)。
人魚を観光の目玉として誘致する大人たちが、都合のいいことばかり言って上手くいかなくなれば手の平を返すというのはありがちではあるが、その中で、最初からノリノリの楽天的な遊歩のおじいちゃんが、そんな風潮に全く動じずにハッハッハ!とばかりに構えている大人物ぶりがスバラシイんである。

あ、そうそう!ルーのパパ!篠原信一氏が声を当てているとラストクレジットで知って、めっちゃピッタリ!!と思った、まんまサメさんのお父さん!!人魚の概念じゃない!言葉喋んないし!!サメがスーツ着てるのに、皆驚くだけでなんで不思議に思わないの!!
この段に至って、それまでも薄々気づき始めていた、人魚という形態が、人魚、だけじゃなくって、犬魚だったりタコ魚だったり、とにかくなんか、融合しちゃうのね、という、てゆーか、とにかく生命力半端ないのね、ということが次第に明らかになってくる。

ルーが犬の保護施設に入り込んで片っ端から噛みついて“犬魚”にしちゃうシーンは前半だけに衝撃であった。それ以降は何が起こっても大して驚かなくなったけど(爆)。何も言葉の喋れないルーのパパは、結局人間に追われて、日に焼かれて、炎に包まれて町中を暴走する。
このシーンは胸が詰まる。パパ、死んでしまうと思った。絶対に、もうダメだと思った。捕らえられた娘のルーを助け出すために飛び込んで、燃え盛るその身体で、日の光から娘を守るために檻を包み込むのには落涙を禁じ得ないのだ……。

国夫は遊歩が好きだったんだね。岡惚れ的な雰囲気もあるけどなあ。最終的に遊歩は東京への進学を決め、秘密にバンド活動をしていた国夫は、口ではメジャーデビューとか言ってたのは、やっぱり遊歩のためだったから……。彼はこの地を愛しているのだろう。そういうのは、伝わってくる。
モデルの夢を抱いて上京したものの夢破れて帰ってきた、町内放送のお姉さんが、実はとてもパワフルに地元を愛していてこれからの未来を見据えているっていうのが、町の洪水を先頭きって救っていく場面で、もういきなりね、いきなりの後半の活躍なのよ!

あのラストは、どうとらえたらいいんだろう。人魚の祟りを恐れて、人魚島に近づかなかった。大きな洪水が起きて、人魚たち、犬魚たち、もうよく判らんナントカ魚たちが人間たちを次々に救っていくスペクタクルに涙を流しながらも、ひょっとしてあのラストは悲しいラストということなの、と思った。
疲弊しながらも助けてくれたルー、ルーパパ、すべての人魚たちに励ましと感謝の歌を歌いあげるカイ、日に弱い人魚たちに無数に与えられたカラフルな傘。

でも、島がなくなってしまって、すっかり日の当たる場所になってしまったこの町に、人魚が現れる気配はない。あの最後の、ルーのことが大好きだと、ずっと一緒にいたいんだと叫んだシーンがあまり考えたくないラストだったのか。まさか。ただ、日が当たり続けるこの町に現れづらくなっただけではないのか。
なんかね……これが人間に与えられた罰なのかなって気すら、してしまった。遊歩が殊更に明るく「日の当たる町になったね」と言った言葉の本当の意味を考えてしまう。
そう言い残して彼女はこの町を出て行く。残されたカイや国夫はこの、一見明るくなった町で生きていく。そこにどういう意味が本当の意味で残されているのか、だなんて、考えすぎ、なのかもしれない。★★★★☆


映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ
2017年 108分 日本 カラー
監督:石井裕也 脚本:石井裕也
撮影:鎌苅洋一 音楽:渡邊崇
出演:石橋静河 池松壮亮 松田龍平 市川実日子 田中哲司 佐藤玲 三浦貴大ポール・マグサリン 大西力 野嵜好美

2017/5/28/日 劇場(新宿ピカデリー)
詩を映画にするという、前代未聞(ではないかもしれないけど)のチャレンジをした石井監督。でも“凡庸”(という言葉は劇中、かなり皮肉めいて使われる)な受け手の一人である私は、やっぱりそれは、かなり難しかったんじゃないかなあという気がしている。
“難解なイメージのある現代詩を判りやすい言葉で”書き、支持を得ているという原作者(と言うべきなのだろうか、この場合)、それで言うならば、その“判りやすい”言葉で書かれた詩を散りばめたことで、映画自体はかなり判りにくい印象をつけてしまったように思う。
いやいや、判りにくいのは主人公の二人だけかもしれない。詩の世界に生きているのはその二人だけ。詩を投影されているのはその二人だけ。その周囲の人たちは、空虚でありながらもそれなりのリアルで“凡庸”な現実を生きている。だから判りにくいというか、一種奇妙な印象を与えるのか。

原作の詩がどの程度作品自体に反映されているのかは、判らない。ただ何度も繰り返し挿入される、まさに“詩”は、監督自身がこの映画のメインテーマにしているとも思われる。
“誰も愛さない間……”後から原作の詩を実際に読んでみて、こんな詩だっただろうか、と思う。映画で見ている時には、違って聞こえていた。ていうか、違って言っていたような。自分のことも好きになれないのに、みたいなことを言っていなかった??
そう思い込んでいるのだとしたら、それこそ私が勝手に自分を投影していたりして(爆)。詩にはちょっとそんな、からめとられる危険を感じる。だから魅力的なのだけれど。

誰も愛さない間、君は世界を嫌いでいい。だからこそ恋愛なんてものは存在しない。そう、詩は綴られる。なのに本作は正しく恋愛映画なのだ。恋愛?未満かもしれないけど。お互いそれを否定して否定して、遠回りしまくるけど。
詩の世界に物語とか登場人物とか恋愛の盛り上がりなんてものは多分ないから、詩からインスパイアされた、これは監督のオリジナルストーリー。

日雇いの肉体労働で日々を過ごしている慎二。看護師をしながら夜はガールズバーでアルバイトしている美香。二人は不思議な偶然の出会いを繰り返す。
それでも二人とも(特に彼女の方が)ひどくクールで、凡百の恋愛映画みたいに、これは運命ネなどとすぐに恋に落ちたりしない。……正直、きっと最初から、恋に落ちていたに違いないのに。
「東京には1,000万人も人がいるのに、どうでもいい奇跡だね」これも詩だろうか。詩っぽくないけど、彼女が言うと全てが詩に聞こえる。石橋静河。有名夫婦の二世と言われても、いい意味でそういうオーラを感じさせない。

ひどく世の中を達観しているのは、後に示される、家庭環境の微妙な複雑さによるものか。微妙、と言ってしまうのは、現代では様々な家庭環境はまあ、あるから。妹がひどく楽観的に青春を謳歌しているだけに、彼女が神経質に過去……だけじゃないな、現在も、未来も、悲観しているのが気になるというか、異質に感じられるのだ。
いや、それこそがマトモなのか。彼女が後に慎二との会話の中で言う「放射能ってどれぐらい漏れてると思う。絶対漏れてるよね。知らないフリをしているだけ」とか言うのが、そーゆー話題にはひどく敏感になってしまうワタシは、いやいや、毎日放射線量計ってるし!!とかそれこそ超現実的なことを言いたくなるのだが(爆)。……うん……判るけど、このネタをこーゆー風には正直使ってほしくないんだな……。

で、まあ脱線したが(爆)。本作の中には死が満ち満ちている。まず、この美香の母親は彼女が幼い頃に亡くなっている。その死の理由はあいまいで、美香は自殺したんだと、なぜそれを隠すのかと、正直に言ってくれた方が親切だと言い募るのだけれど、結局のところはそれは明確にされない。
看護師である美香の職場には当然死があふれかえっていて、当事者にとっては非日常でも、美香にとってはもはや日常である。

慎二の先輩に松田龍平扮する智之。彼と、フィリピンからの出稼ぎ青年アンドレス、田中哲司扮するもう腰が痛くて肉体労働が限界の岩下がおり、なんとはなしにこの四人でたわむれている。
智之が、突然、死ぬ。本作に満ち満ちている死の中で、一番最初の、唐突に訪れる死である。松田龍平の持つひょうひょうとした雰囲気と、後輩の慎二に対する、時にドキリとするぐらいの厳しい態度が印象的で、唐突に訪れる死がひどくインパクトを残す。
その後に、慎二が懇意にしていたアパートの隣に住む独居老人の死などは、現代社会の現実を目の当たりにするようなショックを与えるのに、なぜだか、智之の死がずっと頭から離れないのだ。

それは、智之がまるで普通に生活している、何も問題ない青年のように見えていたのに、そうではなかったからなのかもしれない。葬儀には家族は誰も来ない。それは、こうした派遣労働者にはありがちのことらしい雰囲気が満ち満ちている。
遺影は飲みパーティーで撮られたブレブレのもの。派遣の現場責任者はおざなりに出席して、場をしきることになった慎二にこれで飲みにでも行けと万札を渡しながら「それと、仕事中に死ぬなって言っとけ」と言った。ジョークの様には聞こえなかった。マジな響きだった。
アンドレスが、フィリピンに残してきた妻と子供の写真を持っていることが、奇跡に感じられるほど、彼らはまるで一人きりなのだ。慎二も、岩下も、きっと死んだらこんな風になる。智之の家族が来ないことに、何も驚いていないんだもの。

だから、美香は、慎二から見れば、幸せに感じたのかもしれない。どうだろう、判らないけれど。
慎二と美香は、美香のバイトするガールズバーに彼ら仲間たちが乗り込む前に、居酒屋で遭遇していた。ほんのすれ違いだったのに、お互いが覚えていた、という時点で、そりゃあヤボに運命、と言いたくなるじゃない。
でも二人はどこまでもクールで、偶然、偶然、とつぶやいているようにしか見えない。でも、慎二の方は割と早めにソワソワとしていたかなあ。

慎二は、左耳が聞こえない。かつての同級生に「私、気づいてたよ」と囁かれるも、だからと言って理解して、判りあえたという訳じゃない。気づいているだけじゃ、ダメなんである。それは理解じゃ、ないんである。
……などというのは、現代福祉の観点から見ちゃう話であり、これは詩であり映画であるのだから、それはやっぱり、違うかな。
彼にとっては左耳が“死んでいる”という感覚なのかもしれない。本作の、詩の気配が満ち満ちた状況においては、そう言うのが正しいのかもしれない。
成績優秀で、かつての同級生から今の状況を驚かれるような彼が現状を選択した理由は今一つ判らないが、それこそ“障害があっても優秀なのにネ”などとゆー、今の日本の未熟な理解度のせいなのか。

でも正直、そこまでのことは感じられなかったかな。彼の左耳が聞こえないこと、日雇い労働者のこと、不器用な性格で、まるで沈黙が怖いかのごとくに、喋り上手でもないのにいきなりまくしたてる感じとか、現代、あるいは都会と上手く折り合いが付けない感じ、を演出しているように見えた。
その味付けとしての“左耳が聞こえにくい”に思えたから、ちょっと引っかかるような気がしなくもなかったのだけれど。

個人的に好きだったのは、若い年代の彼らの中でただ一人の中年労働者、腰の痛みで何度も離脱してしまう岩下さんである。演じる田中哲司氏のしょぼくれたオッサンのリアリズムに、涙が出そうになる。いつも行っているコンビニの可愛い店員と恋愛成就寸前まで行くエピソードに、本気で応援してしまう。
腕がパンパンになっているからズボンのチャックも(この場合はヤハリ、ボトムじゃなくてズボン、ファスナーじゃなくてチャックよね!)あげられないの!ああ、コンビニちゃんと、本当に上手くいってほしかった。不思議なことにね、コンビニちゃんが登場することすらなかったのに、そう思っちゃうの!!
腰痛のせいで日雇いも厳しく、いつもすまなそうにしながら後輩にタカる岩下さん、なのに憎めないのは、その後輩たちの話をちゃんと聞いてくれるからなんだ。ああ、私もこんな先輩になりたい(たからないよ!)。

慎二は、後に明かされるところによると、“こんな仕事”をするようなタイプではない、成績優秀だったんだという。というのは、“ニューヨークで司法試験に合格した”と久しぶりに会いに来た同級生が言う言葉だったが、その同級生は実はこれからニューヨークに行くってんだから、もうあちこちにウソが満ち満ちているんである。
「慎二君、年収いくら?」とあっけらかんと聞く彼女は、ここで安定した永久就職するつもりだったのかなあ。ラブホテルで何をすることもない。慎二が望んでいるのはただ、今のどこにも行けない自分を抱き留めてほしいだけ。

慎二の饒舌さはいかにもわざとらしく、彼自身のパーソナリティーではないだろうなというのが明確だった。だから、美香との運命が始まった途端、彼は無口になる。“運命”と定義したくなるのは、必定。彼らはそんなこと何も言わないけど。
むしろ美香の方がひどく饒舌になる時が可愛い。可愛いというか、胸が苦しい。美香が饒舌に喋り始めるのは、本作の最初の死、智之の葬儀のシーンから。慎二に、「今日は、喋んないんだね」それを皮切りにせきを切ったように喋り出す美香と、黙り込む慎二。喪服同士だというのが、妙に生々しさを感じさせた。

明らかに惹かれ合っているのが、見ているこっちに伝わるのに、それを認めない。認めない態度をとる。それは、美香の故郷に慎二を連れていく、なんていう決定的な場面に置いてすら。
慎二は、いわゆる“彼女の家族にご挨拶”なんて手順を踏まない。ただ黙って飯を食むだけである。ベタな東京に憧れる妹からすれば、そらあ頼りない“姉の恋人”であろう。
妹ちゃんも、生きるために東京に出れば死や諦念に満ち満ちた東京のことがうんざりするほど判るだろうが、彼女はきっとそれはしない。ある意味お姉ちゃんより大人で、東京が別の場所だと判っている、そんな感じがする。美香は“世間知らず”な妹に尊大な態度をとるけど、実は逆なんじゃないか、って気が、とってもしてしまう。

美香と慎二はお互い、元カレ、元カノ(とゆーか、慎二の場合は勝手に片思いされてた相手)に、愛してる、愛してた、という言葉を使われる。二人ともがその想定外の言葉に驚き、愛という言葉をどう使うべきかと悩む風なのが、本作の最も重要な要素のように思える。
愛を現在形と過去形で描き、その違いが残酷なまでのそれをもたらしているように思わせつつ実は対して違わない。当事者の美香と慎二にとっては、どちらも過去形であり、むしろ今さら言いだされてオドロキ!なぐらいの過去であることに気づくのは……そう、ベタだけど、ベタだけど、二人が、この奇妙に合致する二人が、何やら、どうやら、恋に落ちたようだから、なのだ。

詩は、難しい。正直、映画世界よりずっとずっと、ずーっと深いと思う。物語にしてしまったとたん、詩は薄れてしまう。それは物語が詩より劣っているってんじゃなくて、表現の手法が違うから。
映画は物語に非常に近い世界感を持っているから、時々は失敗するけど(爆)、奇跡が起こる確率は高いのだ。詩は……難しいなあ。よほどの奇跡が起こらなければ、難しい。キャストはとっても魅力的だったんだけれども。★★☆☆☆


夜は短し歩けよ乙女
2017年 93分 日本 カラー
監督:湯浅政明 脚本:上田誠
撮影:バティスト・ペロン 音楽:大島ミチル
声の出演: 星野源 花澤香菜 神谷浩史 秋山竜次 中井和哉 甲斐田裕子 吉野裕行 新妻聖子 諏訪部順一 悠木碧 檜山修之 山路和弘 麦人

2017/4/30/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
これが、原作が小説だというのがにわかに信じがたいほど、大正ロマンのような非常に独特の絵柄と、ベタリとしたカラフルなのにレトロな色合い、自在にめまぐるしく動くのに、いわゆる既存のアニメーション的なそれとは全く違った、なんていうのか……現代アートのような(いやまさに、この手法はアートかもしれない!)魅力に心をつかまれる。
原作は未読だけれど、この原作を、“いわゆる既存の”アニメーションで作ってしまったら、もうガックリと、その魅力は失われるのであろう。こーゆーのを奇跡の出会いというのかもしれない。
今回お初の監督さんは、それ以前に同じ原作者の短編を手掛けて大きな評価を受けているという、それを踏まえてのベストセラー原作のアニメ化であり、原作者もきっと、大きな信頼を寄せているだろうと思われるんである。

正直、ホンットに、このアニメーションの世界観があってのこの物語の世界観があるとしか思えなくってさ。だって本作ってなんというか……現代なんだけど、現代じゃないみたい。
でも何時代というよりは、タイムパラドックスの淵に陥っているみたいな、妖怪かオバケか、出てこないんだけどそんな雰囲気が凄くあって。あ、そうそう……百鬼夜行、みたいな?そんな感じ!
アニメーションにすると人間のキャラクターもそういう雰囲気がビシバシで。特に李白さん、三階建ての電車と呼ばれる車でやってきて、ちっちゃいおじいさんでウワバミで、もうこれは妖怪としか思えないじゃないの!!

舞台は京都、と明確に言っている訳じゃない。京都大学、とも明確に言っていない。地名もなにもかも、京都っぽい雰囲気はあるけど、明確じゃない。それがタイムパラドックス的雰囲気をむんむんに醸し出しているんである。
それにしても京都というのはそーゆー場所なのだろうか。ふっと頭に浮かんだのは「鴨川ホルモー」そんなメジャー作品から小さな作品に至るまで、時々は頭を抱えるような“摩訶不思議”感満載の作品が時折登場する。神様が昔から跋扈していたところだからなあ。単なるオバケのいるお江戸とは違うのかもしれない。

出てくる登場人物は総じて、殆ど名前を与えられていない。主人公は二人。共に名前がなく、先輩、黒髪の乙女、というのはお互いに対する呼称で、二人がそれ以外の人たちから呼ばれる名前が存在しない、というのがスゴいのだが。特に“先輩”側は、友人たちと結構やりとりするのになあ。
物語の冒頭は、二人の共通の知り合いの結婚式。先輩は、乙女に恋していて、これまでに外堀を埋めまくっている。というのは、ナカメ作戦と呼ばれるもの。「なるべく、彼女の、目に止まる」……一歩間違えればストーカーである。
てか、完全にこれはストーカーじゃなかろーかと思われるが、それを思ったのは観終わってからで、天真爛漫な乙女はホントーに“奇遇”だと思っていて、それが運命だなんて思いもよらない。そらそーだ、その“奇遇”から先輩は一歩も出ないんだもの。

これって、一夜限りの物語なんだね!信じらんない!!終盤、京都中に蔓延した風邪に倒れた李白さんが「君と飲み比べして何年経った」なんていうのが真実味を帯びるほど、時間感覚が狂いまくっているんである。実際、数日ぐらいは経っているのかと思ったら、この信じられない一夜を、彼らは駆け抜けているんである!!
その結婚式からの二次会に、乙女は行かなかった。ウワバミの彼女は、めくるめく大人の酒の世界へと足を踏み出す方を選択したのだ。怪しいバーで出会ったのは錦鯉を飼育して生計を立てている東堂さん。
……こうして見てみると、ワキキャラには結構ちゃんと名前が付されているんだよな。二人とそれを取り巻く学生たちを中心にしたメインキャラに名前がないのが、不思議。決して普遍的なものを追っている訳じゃないのになあ。

乙女の飲みっぷりは実に爽快である。アニメーションならではの爽快さである。ひざ上の真っ赤なワンピースが実にチャーミングで、からり、からりと飲み干していく乙女に、酒飲みにつきものな、すれた感じが全くない。まるでポカリスエットでも飲む様にさわやかに、“たしなんで”ゆく。
東堂さんに乳をもまれれば、“お友達パンチ”でさわやかにのしてしまう。天狗を自称する樋口さんと、ただ酒飲みの達人の美女、羽貫さんに気にいられて、京都の街中を飲み歩き、李白さんと対決するに至る。そしてその間、先輩はと言えば、李白さんにパンツを奪われ、その窮地を東堂さんに救われ、不思議なところで乙女と再会するんである。

まあ……なんて、これは一体、どういう物語??不思議なところは深夜に開催されている古本市、そこに跋扈している小鬼のような“古本市の神様”、李白が開催する、希少本をゲットするための激辛闇鍋……一体、一体、次から次へと何が起こっているの??
乙女の方はといえば、その次々と起こる不可思議に特に疑問も抱かず対応していく。京大生に受け継がれている(のか?ホントに??)奇妙な“詭弁踊り”も見事にマスターする(でもあれは、女の子はやっちゃいけないと思う……)。
先輩は、ひたすら乙女を追うために、この奇妙な一夜を駆け抜けるのだ。乙女が欲しがっている、小さなころ愛読していた「ラ・タ・タ・タム」なる絵本をゲットするために激辛闇鍋を勝ち抜き、そして乙女が巻き込まれた(てゆーか、自ら飛び込んだ)学園祭のゲリラ演劇に突撃する。それまでは外堀を埋めまくっていただけとは思えない積極っぷり。

何日か経っていると思っちゃっていたのは、この学園祭のくだりがあるからなんだよね。結婚式の二次会から流れて、古本市にも行って、どー考えても超深夜の筈なのに、フツーに学園祭が行われている。
この学園祭の世界観がまたとてつもない。先輩の友人二人が大きな役割を果たしている。
一人は学園祭事務局長ってんだから、まさにそれを仕切る立場。この一夜限りの物語のせいか、学園祭というよりはまるで学園そのものを牛耳っているようにさえ思われる、緻密な地下組織がまるで旧共産主義のどこかの国を思わせるような……いや、それよりはかなり近未来的だが……ちょっとコワい感じが、あるんである。

もう一人の友人は、“パンツ総番長”なる異名をとる、ひげの濃いいかつい大男。しかしこれが非常なるロマンチストで、なぜこの名前がついたかといえば、運命の一目ぼれの相手に再会するまではパンツをはきかえない、と決心し、実行しているから。それで“下半身の病気”にかかっているという……はきかえてー!!!
この運命の相手が、女装した学園祭事務局長だったというくだりは原作とは大きく違えているらしいのだが、映画的ダイナミズムがあって、その後の本当の運命の相手との早急さはかなり早急すぎるが(爆)、でもヨイのである。

なにがヨイって、このゲリラ演劇のスリリングさである。こーゆーのが、映像化した時のだいご味だと思われる。SNSで次の台本をアップしていくというのはいかにも現代的だけれど、それを行うのが“韋駄天こたつ”なる移動鍋の出し物だというのが!!
浴衣に下駄姿の、一見粋な風流人のような“天狗”なる樋口さんと、大正時代の豪傑学生のような風貌のパンツ総番長が、追手がかかるとすちゃらかさっさと鍋の乗ったこたつを移動していくスリリング!そしてその後にすちゃっとゲリラ演劇のやぐらが立てられる更なるスリリング!そしてこれが、たった一夜の、夢のような深夜に行われているっていうのが、たまらない!!

その演劇に乙女は飛び込み、先輩も突撃し、パンツ総番長の恋も成就し。しかしよく判らないうちに京都中に風邪が蔓延し、乙女はその見舞いに奔走することになる。……もう展開が目まぐるしすぎて、ついていけない(爆)。
乙女だけは、風邪にかからない。「私は風邪の神様に嫌われているみたい」とケロリとしている。ウワバミっぷりといい、乙女の何も寄せ付けないさわやかな強さが、なんともいえず魅力的なんである。
一方で、先輩の方は風邪に倒れてしまう。今まで外堀ばかりを埋めまくっていたけれど、ゲリラ演劇に突撃したことで、乙女の方もようやく先輩に対する気持ちに自覚し……なぁんて展開を解説することは、ほぉんとに、ヤボなの!!

この“展開”はまたしても、てゆーか本作はずーっとそうだけど、妄想?異次元??風邪の蔓延でまるで廃墟のようになった京都(多分)の街を、びゅうびゅう吹きすさぶ強風の中を、飛ばされそうになりながら先輩の元に向かう。
でもあれは、それこそ先輩の妄想だったのだろうか。すべてにおいて現実味のない描写ではあったけれど、あのクライマックスが一番それが強かった。乙女が、何をおいても自分の元に駆けつけてくれるという彼自身の無意識の希望が働いたのかなあ。現実に戻ると、すごーくオーソドックスな形で恋愛の始まりが描かれるのが妙に気恥ずかしく可愛らしくて。

知らなかった才能に脱帽した。とにかく絵とキャラクターと世界感が素敵すぎる。新作の予告がもう出ていた。今までにないタイプのアニメ作家に出会えて、期待でもうドキドキなのだっ。★★★★☆


トップに戻る