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鍵穴 和服妻飼育覗き
1999年 58分 日本 カラー
監督:深町章 脚本:福俵満
撮影:清水正二 音楽:篠原さゆり
出演:葉月螢 杉本まこと 熊谷孝文 里見瑤子 かわさきひろゆき
そして彼女には和服のイメージもある。本作がまさにそれで、主演作を連発していた頃の一本。その脂の乗りよう、うっとりする美しさは、まるで藤純子の黄金時代を思い出させる、なんて言い過ぎだろうか。
でも、そんな風に言いたくなるほどの美しさ。つきたての餅の様にすべすべと粉をふいてしっとりと弾力があるような、あの雪のように白い肌、はらりとかかるさらさらとした黒髪、乱れた和服の裾からすんなりと伸びた足は、その先に包まれた足袋に負けないほど白くて、エッチ過ぎない程度にほどよくふっくらとした唇が半開きになると、女の私も凝然とするしかないほどに、夢の女の美しさなのだ。
本作は昭和の時代を、衣装から家屋から完璧に再現している。ほぼ家中の中での設定とはいえ、葉月蛍はその風貌が既に現代の女よりこっちの方が断然ハマっているし。
過去を回想するという展開で、今その衝撃の過去を振り返る彼女は、地味な色合いの、しかもところどころ虫食いの和服を着てるってあたり芸が細かく、夫の遺産を狙っていたなんてことじゃないってことを、上手く示唆してるんだよね。
他のキャストも見事なタイムスリップを見せて、ピンクを観ているというのを忘れてしまう。緻密な構成の元に作られた、ドロドロとしたミステリ劇。
時は終戦後の昭和のある時代、民江の元に失踪した夫の友人であるという男、三國が訪ねてくる。
夫の奥出周平は、猟奇的作風で好事家の間では評判の高い作家だったが、ある日突然姿を消した。しかしそれはウソで、きっとこの妻が殺したんであろうと三國は思っていた。
というのも、彼と奥出はお互いの秘密を忌憚なく告白しあっている友人同士だったのだ。三國は奥出からもらった最後の手紙を突きつける。そこには恐るべき事実が羅列されていた。
もともと戦争のトラウマで心を病んだ父親を、自分のトラウマにしているようなところのある悲観的な男、奥出は、それゆえのインポテンツに悩んでいたところへ、妻の民江が、弟子として住み込んでいる若い文学青年と不義密通を働いているのを目撃してしまったものだから。
激怒した奥出は、かつて狂った父親を閉じ込めていた古い蔵に二人を監禁し、まぐわう様子を見ては興奮していた。そしてその手紙の最後には、妻に殺されるんではないかという予感をほのめかしていた。そう、動機は充分にあったのだ。
そもそも民江が、なぜ奥出の妻になったかというと……彼が隠遁しているこの山奥にフラリと現われた彼女が首をつろうとしているところに、出くわしたんである。
民江が死のうとまで思いつめた理由を、奥出は知らなかった。ただ、戦後の混乱期に彼女が新橋のカフェの女給をしていたこと、どうやら身寄りがないらしいことぐらいで……でもそのミステリアスが返って彼の心に火をつけたのか、彼は彼女に夢中になって、妻になってほしい、と請うたのだ。
そう、奥出は民江に、事情を何も聞かなかったんだよね。この時聞いていればあるいは、事態は違う方向に行っていたかもしれない。
それは一見、理解ある男の態度のように見えて、奥出は知りたくなかった、というか、そんなことに興味がなかったという方が正しいかもしれない。
彼はミステリアスな民江に惹かれたんであって、彼女自身を愛していた訳ではなかったのかもしれない……と、後々の展開を見ると思ってしまうんである。それが、ここで傷ついた心を休めるかもしれないと思っていたであろう民江にとって、最大の不幸であったに違いない。
幸せにするとか言っておきながら、奥出は自分の不能を当たり散らすかのように、暴力的、ヘンタイ的セックスばかりを民江に強要するんだもんなあ。
しかしその場面は、ピンク的には最も見どころのあるシーンであろうと思われる。和服美人が暴力的に陵辱されるというのは、こんな設定なら盛り沢山かと思いきや、実はここだけなんだよね。
和服姿のセックスはもう一シーンあるけど、そこでは彼女は思い続けた男と高まる気持ちを抑えきれない形で交わるのだし、同じようでも、やっぱり全然違う。
だから本当は、こういう場面は女的にはイヤなハズではあるのだが……葉月螢が“和服美人が暴力的に陵辱される”というのをあまりにも完璧に見せてくれるもんだから、思わず呆然と見とれてしまうぐらいなんである。
戸惑いと嫌悪と、イキきれない恍惚みたいなせめぎあいが、彼女の雪白の肌を紅に染め出すと、その矜持の最後の砦、みたいなピンと張った足を包む真白な足袋の禁欲さが、そのせめぎあいを象徴しているようでザワザワと胸騒ぎがする。
おっぱいなんかより、オマタなんかより、ずっと心を騒がせるのだ。
奥出の元に弟子志願で現われた青年は、小説家志望なんかじゃなく、そこに民江がいると知ってのことだった。
詳しい事情は明らかにされないけれど、民江と恋仲であって、しかしどうやら彼の方はお坊ちゃまで、将来を悲観した彼女が自殺未遂を図って今に至る、ということらしいのだ。
彼が現われた時から心ここにあらずといった民江、熱い視線を送ってくる彼、いずれ爆発するのは目に見えていた。
二人がまぐわっているところを、奥出が見てしまったのだ。激怒した奥出は、二人を全裸で蔵に入れ“飼育”する。精力剤を混ぜたエサを与えられて、朝な夕なにセックスをする。それを覗き見ている奥出は、次第に自身の中の精力が復活してくるのを感じていた。そしてついに、“勃起”を獲得した彼は……。
あのね、後にこの時のことを回想した民江は、あの時が一番幸せだった、と語るんだよね。野良犬のように薄汚れて鎖につながれて、与えられた丼のエサを彼と共に犬食いするような目にあっても……鎖につながれたまま、まさにケモノのようにまぐわう様を夫に凝視されていても、幸せだったと言うんだよね。
大好きな彼と、生まれたままの姿で、誰もジャマされない密室で二人きりで、同じ皿のごはんをむさぼり、朝といわず夜といわず愛し合う。それは夫が見ていようが見てまいが、自由を奪われていようが、関係なかったのかもしれない。
そうだとすれば、この夫はなんかもの凄くアワレだけど……でも、夫もきっと判っていたと思う。判っていたからこそ、興奮したのだ。
つまり彼は、Mなんだよね、自分じゃSだと思っていたかもしれないけど……奥さんをあんな風に陵辱するんじゃさ……ある意味、自分がSだと思っていたことが、オレ様だったことが、彼の不幸を招いたのかもしれない。
あのね、第二の女優として、里見瑤子が名を連ねているんだよね。このお屋敷のお手伝いさん。民江とは、広い屋敷の中で二人でいることも多いから姉妹のような親密な関係で、だから敬愛する奥さんがこんなことになってしまって、彼女はそれを手助けできない自分に心底自己嫌悪を抱く。病気の父親への仕送りを止められてしまうことを、弱みで握られていたのだ。
彼女は実に最後の最後の最後まで、清廉可憐なオトメであり続けるのよ。文学青年が入り込んでくるんだから、彼と一戦交えるシーンがあるのかと思いきや、それもなかったから、あら、ホントにそのまま終わるかと思いきや、一番残酷な形で、その蕾を蹴散らかされるのだ。
いやさ、それこそ里見瑤子なんだから、このまま何もない訳はない、っていうのは判ってはいたけれど、ただ、彼女って、ホンキでおぼこ娘(古いな……)じゃないかと思わせるような、奇蹟的なスレてない感じがあるもんだから。
それは彼女を白鳥さき時代に見た時から変わらないトコで。だから彼女が“恐らく”処女の蕾を散らされた時、本当に本当に、胸が潰れるのだ。
処女だと言っている訳じゃないんだけど、彼女の雰囲気と悲壮な陵辱シーンがそう感じさせてしまう。
ここ、ワンカットではなかったと思うけど(定かでない)、それを思わせるぐらいの、緊迫したロング撮りをしてて、しっかり段取りが組まれていたと思われる。
でも、彼女が逃げて、奥出が追って、壁に床に押しつけて……という一連の流れも、全く予定調和を感じないんだよね。
そりゃ、この狭い一室で最後まで行っちゃうんだから、段取りは完璧に成されているハズなんだけど。
本当に、彼女が必死に逃げようとして、でも逃げられなくて、組み伏されてからも次の段階に行きそうになるたびに、今度こそはと必死に抵抗して……でもそれが毎回空しく終わって、彼女が歓喜などとは程遠い、哀しげな悲鳴をあげ続けるのが……もう本当に、本当に、辛いのだ。こんなカラミもピンクになるんだと思ってしまうぐらい、辛いのだ。
いやそりゃ、カラミには違いないんだけど、そんな、その気になるどころのシーンじゃないからさあ……ツラ過ぎて。
なもんだから、改めて里見瑤子の素晴らしさにも思い至ってしまう。ひょっとしたらこのシーンが、本作の中で最も秀逸かもしれないと思うんである。
彼女はね、奥さんである民江のことをとても慕ってて、頼りにしてて、仕送りが途切れることよりも、その気持ちの方が、この屋敷に奉公し続けている動機だったと思うんだよね。
実際、自分が奥さんを助けられずに、いわば奥出の手先に成り下がっていることに、彼女は本当に苦しんでいるし、最終的に奥出の後頭部をぶん殴ったのは彼女なんだもの。
そりゃ、自分があんな殺人的な陵辱を受けたってことが第一の理由だったにしても、少なくとも第二の理由は、奥さんを救い出すことだった筈だもの。
奥出は、狂ってしまったのだ。父親と同じように。飾られていた刀を持ち出して、振り回した。青年はその刀の元に倒れた。その背後から近寄ったお手伝いさんが、一撃の元に奥出を倒した。でも、それで奥出が死んだ訳じゃなかったのだ。
てことは、青年は死んじゃった、ってことなのかな?実はそこは明らかにされてなくて……ただ、「夫は生きています」と民江が、蔵の中の夫と三國とを引き合わせるんだよね。
そういやあ、三國はそもそも、別にこの事件を明らかにするつもりはなくて、奥出からの手紙で知った民江に恋しちゃったことが発端でここに来たんだけど、彼女に手を出そうとするも、お手伝いさんの絶妙な声かけで未遂に終わっちゃったんだよね。
これってさ……ある意味ピンクとしては掟破りじゃないかとも思う。カラミとしてお約束のひとつなのに、アッサリスルーしちゃうっていう。本作は、カラミシーンが物語に重要な意味を持っているものしか採用してない、そこが凄いと思って。
カラミのパーセンテージさえクリアしていれば、あとはある程度好きに構築できる、という作家が育つ土壌を提供していたピンクに対して、その、ある意味での甘さもクリアして世界をきっちりと構築しているのが、すっごい、凄いな……と思ったのだ。
三國が目にしたのは、正気を失った、今や人間ではない、獣でしかない奥出の姿。
その現実に驚愕した彼に待っていたのは、さっき飲んだ地酒に盛られた毒。嘔吐した彼は、ハメるつもりがハメられたことを知る。
「そっとしておいてほしかった……!」と民江が、いや、葉月螢が舞台チックに天を仰いで叫ぶ。全編ドラマチック。
お手伝いさんと奥さんとが姉妹のように信頼関係を結んでいるんだから、葉月螢と里見瑤子のステキなシーンを観たかったなー、とかも思っちゃうかも(爆)。★★★★☆
というかさ……正直、上映前に監督さんが「これは普通の映画ではないと、自分は思っています」と挨拶した時からイヤな予感は始まっていたようにも思う。大体、作者自らそんなことを言うものほど、フツーに違いないんだもん。
しかも本作は正直、普通どころか普通以下。何をもってこれを普通ではないと言ったのかが判らない。
時間軸の錯綜における描写を指していたのかなあ?それは昨今、流行りとも言えるほど多用されているし。それとも夢に導かれてって部分?夢で全てを解決させようとするほど卑怯なことはないでしょ。
それともそれとも、作劇とは関係なくキャストが思わせぶりに動き回るやり方?これもどっかで見たし、正直この役者たちがやると、うっとうしい以外の何ものでもない。
……あのね、こんなことを言うのはほんっとうにヤなんだけど、役者に華がなさすぎる時点でもう、アウトだよね。一体何を基準にしてキャスティングをしたのだろうか。
演技がザ・演技でさあ……いや、確かにそれなりに演技が出来るだけのキャリアを積んだんだろうという感じはある。ただ、少なくとも映画で見たことはない人たちだし、その“それなりに演技が出来る”ことが、逆に映像ではうっとうしいばかりに映ってしまう。
だってさ、“ダンナを責める妻”という設定で、腰に手を当てたり、腕組みをしたりして、さあ、って感じで責め立ててさ、やたらハア〜、とため息ついて台詞言ったり、あげくの果てに、「もういい」と言って出て行く……なのになぜか最初からちゃんと椅子の上にバッグを用意しているって(爆)。ベタを通り越してヤボじゃない。
大体、この夫婦喧嘩のシーン、昼日中からお互い焼酎のロックを飲みながら、はまあいいにしても、ご丁寧にアイスバケツに氷をセッティングしてまでやるか、フツー。夫婦の間がささくれ立っている雰囲気が、これじゃまるで出ないじゃん。
それ以前に、この家の中のオシャレで明るくて落ち着いた雰囲気からして、夫婦の破綻を全然感じさせないのもギモンだしさあ。
この物語は、メインに四人の人物が登場する。主人公の妻、直子はいわばその中でも一番重要度の低い位置にあり、狂言回し的な雰囲気にある。
それでもファーストカットの後の最初のエピソードは、直子と、彼女の夫でこの物語の主人公である和宏のエピソードである。酒びたりの彼を冷ややかに見つめ、直子は漁船の若い青年と刹那の関係を結ぶ。
……このシーンもありえねーよなー、と思った。展開としてはありがちだけど、直子がワザとらしくサングラスなんぞ外して、青年にくれる流し目があまりにコッテコテだし。目の下のクマといい、整えすぎた細い眉といい、疲れた肌といい、この若い青年がクラリとくるとは思えない、オバチャンっぷりなんだもん。
いや……自分より若い女性を捕まえてそんなことを言うのもアレなんだけど、年より相当オバチャンぽく見えるのは、やはりセンスの問題だと思われる。
センス、だよな、もう基本的なさ。ファッションが、イケてないのよ。ダサいというより、古い。いつの時代の映画を観ているんだろうっていう気になる。
いや、フツー過ぎるのかもしれない、なんか、ダイエーかヨーカドーあたりで(爆)で吊るしでぶら下がっているみたいなさ、衣装なんだもん。夢を媒介にする割には、そんな幻想に飛ばしてくれるにはあまりにセンスがなさすぎるんだもん。
ただでさえ役者が地味なのに、と言ったらホント不遜なんだけど、でもこの役者陣にこの衣装じゃ、観客が入り込むのを拒否しているようなモンでしょ。いくら哲学的なモノローグ言われたって、引くばかりだよなあ……。
メインの四人もヒドかったけど、夫の元を飛び出した直子を激励する友人として登場する女友達が、更にひどかった。あの年頃の女性会社員が、あんなリクルート然としたスーツなんて着ないでしょと思うし、やたらしたり顔で「直子は悪くないでしょ」という“ザ・演技”は、他の四人の演技が自然に見えちゃうほどなんである。
他の四人はまだしも、チョイ役にまでなぜこんな壊滅的なキャスティングをするのか理解に苦しむ……身内映画なんじゃないのお。
本作に対する拒否感で即座に思い出したのは、「ゼラチンシルバーLOVE」だった。
そう、“オ○ニープレイ”(爆)。「ゼラチン……」の監督のプロフィールを見た時、この年で監督第一作なのか、と思って、作品を 観て思った拒否反応と、本作に対するソレがすんごく、似てた。
そんなことを言いたくはない。どんな年だろうと、若かろうと年いこうと、映画は撮れるに決まってる。映画は、作り手に対しても観客に対しても平等であるからこそ素晴らしいハズ、なんだけど……。
でも、年いってから念願の映画を撮ることになって、もう自分の青春時代の思い入れから何から全部投入しちゃって満足しちゃう、みたいなうっとうしさを感じずにはいられなかったんだよね。
不思議なのは、「ゼラチン……」では、腹が立つほど言葉足らずで、それで判るだろ、みたいな態度だったのに対して、本作では、うるさいほどに饒舌に語るという、対照的だったのにも関わらず、同じ感覚を持ったことなんだよね。
それでも「ゼラチン……」は、さすが写真家の作り出す世界で、画にもセンスがあったし、何より役者がスターだから見せ方に華があった。映画を撮りたいんだったら、いい俳優を呼ぶぐらいの気概を見せてほしいと思う。
この日、その後観たのが市川監督の遺作だったんだけど……もう一発で、その画作りのセンスの良さに酔ってしまったんだよね。そこで判ってしまった。あんなにイラだち、タイクツだったのは、もう画作りからしてセンスがなかったんだってこと。役者が地味だとか、衣装のセンスが古いとか、台詞がうっとうしいとか以前の問題だったのだ。
つーかさ、こんな風に書いてると、いつまでたってもどんな話なのかさっぱり判んないんだけどさ。
突き詰めてしまえば、二組の夫婦のもつれ話。それを夢の導きだの、鍵穴通りの言い伝えだのともっともらしく飾り立てていくんである。
あー、私、イヤな書き方ばかりしてるな。それこそこれをイイ役者で作ったら、また違ったのかもしれないけど。
和宏と友人の島村、そして島村の妻となる霞は、不思議な連帯感で結ばれた友人同士だった。このままずっと、三人仲良く過ごしていけると思っていた。
しかし何せ、男女三人である。島村が霞と結婚してからは、当然ギクシャクし始めた。霞に懸想していた和宏は、彼女を駆け落ち同然にS町に誘った。
寂れたその町で、しかし和宏は彼女と幸せに過ごせると思っていたのだけれど、霞は、自分はこの町に受け入れられていない、世間は私に冷たくしていると言い募るばかりだった。
霞の言い様は確かに常軌を逸していて、彼女はもうこの時点で心を病んでいたのかもしれない。でも和宏はそれに気づくことが出来ず、結局彼女はこの町を去って島村の元に戻っていった。
三人の仲はその後修復されたように見えたけれど、ヤク中に陥った霞はほどなくして島村の手にかけられ、島村自身も自殺して果ててしまった……。
霞を演じる女優さんが、もちょっとファム・ファタルみたいな雰囲気があったらなあ、と思う。ニッセンで買ったのか思うような(爆)アダルトレディースなファッションの時点でアレだけれど(31歳であのファッションはねーだろと思うのだが……)、昭和の風貌なんだもんなあ、思いっきり。
彼女が和宏の元を去る時に、首のスカーフがはらりと落ちるんだけど、その描写だけで、うっわ、いつの大映ドラマ?と思っちゃう。
彼女がこだわっていたのは、このS町の“鍵穴通り”の言い伝えだった。この町で永遠の別れを口にしたら、それは現実のものとなる。“永遠の別れ”とはつまり、その二人のどちらかの死を意味する、と。
それが単なる迷信であったにせよ、彼女がその呪縛に捕らわれ続けたのは事実だった。霞が島村の元に戻ったのは、その思い込みを忘れさせてほしいと思ったからかもしれないし、島村自身もひょっとしたら全てを判って受け入れていたのかもしれない。
という推測は、ちょっと親切に過ぎるかもしれないなあ(爆)。いや、それを感じさせてほしかったというか……。
“感じさせてほしかった”というのは、なんかそういう、キーワード的な場面がやたら登場するせいもあるんだよね。滴が滴り落ちる手とか、大木のうろにこびりついた思わせぶりな赤い跡と、そこを流れ落ちる雨とか、その大木の下に佇む女子高生二人とか、霞の写真を手に娼婦宿の長い廊下を思いつめた表情でそぞろ歩く和宏、とかさ。うっとうしいぐらいに。
ああ、そうそう、この娼婦宿のシーンもね、娼婦宿って時点でアレなんだけどさ(爆)。「もう彼女はここにはいないよ。死んだんだよ。知らなかったの」と、セクシードレスを着た娼婦が和宏に語りかける。
時間軸が遡った別のシークエンスで、霞と島村が絡み合っている部屋を和宏が覗き込んでいるのを、この彼女が咎めるシーンも用意されている。
この娼婦の衣装がまたセンスなくてさ(爆)。なんかイレズミの観音様みたいなさあ、ヒドさなのさ。ここに至るまでかい。娼婦宿って時点で、古いよなあと思ったのに……。
大体この娼婦宿のシーン、霞が赤い長襦袢を着ているって時点で感覚が古すぎる気持ちをぬぐえないんだけど……。
和宏に向かって思わせぶりに視線を投げる島村が、あのオカッパみたいな不自然な髪型だからさあ。ロマンチックさのかけらもないんだもおん。
そもそも霞は、なんで娼婦に身を落としたのか、あるいはこれも夢の一部なのか?
本作は、夢と、アル中の意識の中で過去を回想する和宏のあいまいな記憶がジグザグで、今ひとつ判然としない部分が多いんだけど……そここそが、監督が“普通ではない”とした部分なのかもしれないけどさ、でもそれも正直“普通じゃない”というより、ゴッタ煮な感じだったかなあ。
なんかね、キチンと管理されていない感じがしたんだよね。夢なのか、アイマイな記憶なのか、都合よく解釈された記憶なのか。
そもそも、物語を牽引する和宏のモノローグがうっとうしい。やたら心理だか哲学的なことを言いたがってて。直子との夫婦喧嘩で彼女が彼の言い訳に憤るんだけど、そりゃあ、女はこんな言い分に納得する訳、ないよなあ。
ただ、男の視点で話を進めてるんで、直子がただただ、男の葛藤を理解しないステロタイプの女としてしか描かれてなくてさ。その和宏も男の葛藤を感じさせるには単純すぎる上に、役者の演技がダメダメすぎて(爆)、もうこの夫婦喧嘩のシーンは、一番サイアクで見てられないんだよね……。
島村夫婦と和宏とでキャンプに出かける場面がある。このキャンプ場は、のちに島村夫婦の一人娘を預ける、老人のすみかでもある。妻を差し置いて三人で出かけたことで直子はご立腹で、これが後の夫婦喧嘩に発展するわけなんだけど……。
このシーンで、明らかに危ない河原の急流のそばにテントを張っているのもそうなんだけどさ、三人が、あまりにベタにキャンプ用の、ポケットのいっぱいついたベストを揃って着ているのもミョーに興醒めなんである。
いや、これまでのことがなければ、そんなことも瑣末なこととスルーしたのかもしれないんだけど……ここまでくると、すべてが気になっちゃうんだもの。
夢のシーンなのかなんなのか、改心した和宏がフラフラと田んぼのあぜ道を歩き、用水路に落ちて、あわやドザエモンとなりそうなところを、白衣姿の直子に助けられるシーンもある。
このシーンもよく判らん……美しい場面に見えなくもないけど、なんか、「殺人の追憶」にこんな場面あったよなあとか思っちゃう。
白衣姿の直子はそういう、科学者的な仕事をしているのか?二人背中あわせに寄り添って、それまでの溝を深めようとするんだけど、直子の思惑に反して、和宏の方は結局は幻の女、霞に対する後悔ばかりを言うんだよね……こりゃ、女にとっては、キツいよなあ。
カフカにインスパイアされて作ったとか?そうなんですか……。
事務所で一人、酒びたりになっている和宏が、一升瓶をどんと置いているのもなんか違和感っていうか、ギャグみたいに見えて仕方なかった。★☆☆☆☆
しかし、役所さんは確かに誠実なキャラの似合う、根底に誠実さのある役者さんなんだけど、こういうぶっ飛んだ役柄をやる彼は久しぶりに見て、うーん、やっぱり上手い、というか、こういうキャラをやる役所さんの方が好きだな、と思う。
役所さんを初めて観たのが「KAMIKAZE TAXI」や「シャブ極道」だったからそのインパクトが凄く強いせいもあるけど、世の中的にはやはり「Shall we ダンス?」の役所さんのイメージを何気に引きずったままだと思われるから、こういうぶっ飛びキャラの役所さんを久しぶりに観れて、なんか嬉しかったというか。
それが彼自身の監督作品だってことが、ミソな気もするんだよなあ。ひょっとして彼自身も、こういう役にずっと飢えていたかも?
この役って、決して渡辺謙には出来ないよなーと思うんだよな。いや、なぜここで渡辺謙を出してくるって、いやそれはまあ、やはり同じ世代で同じく国際派役者だからさ。同じく誠実タイプに見えて、渡辺謙は正統派で、意外に役所広司はアナーキー派だと思うのだ。
で、彼の役どころは、息子の拓也曰く「あぶく銭のギャンブラー」矢沢拓郎。ま、つまり拓郎曰くはトレーダーってことだけど、一日にしょっちゅう携帯にアラームが「チェック、チェック、株価チェック、どんなもんじゃい!」と鳴り響くんである。
白亜の豪邸のだだっぴろい部屋には所狭しとパソコンが並んでいて、彼は億単位で儲けたり損したり、豪快な浮き沈みをガハハと笑いながら楽しんでいるのやら、なんなのやら。
そんなトンデモ夫を妻はのんびりと眺めながら「お父さんのステイタスなんだって」とひっきりなしに落ち葉が舞い落ちるプールの掃除なぞして過ごしている。そして拓也はそんな父親に呆れ、母親の掃除の手伝いなぞしつつも、実はとても壮大な夢を持っていた。それは、宇宙飛行士になること。
その夢を共有していた幼なじみのサブローが少年院から出てくる日、迎えに急いだ拓也はまるでマンガみたいにボン!と軽トラにぶつかって、ひっくり返った。
起き上がった彼は「大丈夫です。すみません」とフツーにまた走り出したけれど、少年院の敷地に入ったとたん、グラグラと揺れて、倒れてしまった。そして彼はそのまま植物状態となってしまう……。
振り返ってみれば瑛太君は、ほぼここで登場シーンは終了し、あとは回想や幻想的シーンのみはあるけど眠り続けて、割と早い段階で死んじゃうし(結構、ビックリした)、案外出番は少ないんだよね。
むしろ拓也の友達で少年院を出所したばかりのサブローが、ワキとしてはメインになってるぐらい。サブローと父親の拓郎とが、拓也の骨をどこに埋葬するか、といういわばロードムービーが後半の、というよりは全般のメインとなってて、瑛太君、ワキもワキじゃん、とちょっと驚いてしまう。
でもそれは、これ以上重要度の高い脇役もないのだ。出ずっぱりじゃない分、難しい役だと思う。彼はでも、そのいつものニュートラルな魅力でサラリと拓也を駆け抜ける。
拓也がなぜ宇宙飛行士に憧れたのかとか、どの程度までその夢に近づくところまで来ているのかとか(拓也のロケットに乗るんだとか、それは筑波でだとか、具体的な台詞が展開されるからさあ)、ちょっと歯がゆいくらい明確にはされないんだけど、なんかその辺のストイックさが役所さんらしい気もする。これを説明しちゃったら、確かに興醒めかもしれない。
幼稚園が一緒なだけなのに、ずっと親友関係を続けてきたサブローと共にし続けた夢。それだけで、充分な気がするもの。
自分を迎えに来る途中で拓也が死んじゃった訳だから、サブローはそりゃあ責任を感じちゃうのだ。というか、拓也が眠り続けている間もずっとそばにい続けていた。
拓郎は彼が息子の友達だということは知っていたけれど、なんたって少年院帰りだし、どっか疎ましい目で見てた。まあ表向きはあのテキトーな調子で、身寄りのないサブローを迎え入れようじゃないか!てな鷹揚さを見せてはいたけど、心の中では偏見マンマンだったのだ。
でもこの朴訥な青年、サブローに彼は段々、感化されて言ってしまうんだよね。それは、やはり息子が最後まで心配し続けた男だけある、っていうかさ。
そしてもう一つ、重要なエピソードが並行する。拓也にゾッコンほれ込んでいるカワイイ彼女、光の存在。
横須賀に住んでいる彼女が、拓也と渋谷で待ち合わせする最初の場面、壮絶なまでの大都会に不安げな光が、乏しい情報で彼女を必死に探し回る拓也に遭遇した時の無防備満点の笑顔!ドーン!と彼に抱きついて、超嬉しそうに顔を見上げる。
それでも彼の友情をジャマしない、なんて殊勝な心持ちも持ってて、その一方でその友情にヤキモチ焼いたりするあたりもカワイイ。なんていうか、もう100パーセント拓也へのラブで出来ているような女の子、なのだ。
拓也が事故に遭って、拓也の携帯電話に光からの電話がかかってくる。それをウッカリ受けてしまった父親の拓郎、勝手に拓也だとカン違いしたままの光に、本当のことが言えないまま、ズルズルと会話を続けてしまう。
というよりは、光の天真爛漫さに拓郎自身が惹かれていたのかもしれないし、あるいは救われていたのかもしれない。
光に部屋一杯のバラの花をプレゼントしたり、彼女に請われて「愛してる」と何度も言ってみたり……それは息子さえもしたことがないことかもしれないのに。
でもね、まだ死ぬ前の拓也にはね、眠り続けている彼に向かって、光からのメールを読み上げてやったりするんだよね。
「バカ」ばかりが何度も送られてくるメールに、「大丈夫だ。女のバカは愛してるって意味だ。オレは昔、同時に三人の女からバカバカって言われて、ホントに自分がバカなんじゃないかと思ったことがあるけどな」とほざくあたり(笑)。
「拓也のバカ、拓也のバカ……この女、お前にゾッコンだな」応える筈もない眠り続ける息子に、老眼気味にメガネをずらしながらメールを読んでやる役所さんの姿には、はあ、なんともはや、グッとくるもんがあるんだよなあ。
さすがに光にバレそうに思った拓郎は、宇宙飛行の訓練に種子島に来ているから会えないし、電波もなかなか届かなくて電話もメールもあまり出来ない、と取り繕う。光は何も疑わず、「じゃあ、合い言葉作ろ!」と言って、拓郎の口癖の“なるへそ”を採用するんである。
「うさぎはぴょん、かえるもぴょん、拓也はなるへそ……」そんな赤面しちゃうようなやり取りを、拓郎は息子の携帯ごしに繰り返す。「お前のおっちょこちょいの彼女、なるへそっていうと笑うんだぞ」と眠り続ける息子に報告する拓郎。
“おっちょこちょいの彼女”って、すんごく愛情こもった言い方だよね。まさに、おっちょこちょいにもほどがある。愛する彼氏の声も判らないなんて。
光はおばあちゃん子でね、そのおばあちゃんから遺伝子を受け取ったんだろうな。天真爛漫で、亡くなったおじいちゃんのことを今も大好きで、思い出すと涙ぐんじゃうおばあちゃん。光にソックリだもん。
ちょっと記憶があいまいになりかけているところがカワイイあたりが、実に八千草薫って感じのこのおばあちゃんと光は、凄く仲がいいのね。どうやら両親(というか、お母さんの話題しか出てこないから、ひょっとしたら母子家庭なのかも……)は忙しいらしく、光はおばあちゃんの家にべったりなんである。
おばあちゃんの家の縁側からは、海に浮かぶ見事な軍艦が見える。おばあちゃんはそこに大好きだったおじいちゃんの記憶を留めているのだ。
光がガマの油なんていうアナクロなことを知っていたのも、おばあちゃん子だったから。
タイトルにもなっているガマの油は、拓郎の子供の頃の記憶に遡るんである。
明らかに終戦前後って感じだけど……役所さん、そんな年じゃないよなあ……。
ざんばら髪の浪人風いでたちの男(益岡徹の眉毛がコワすぎる……)と、その連れ合いの女郎風の女は、拓郎の妻を演じる小林聡美が二役を担っている。
艶めいたメイクをしても、やっぱり小林聡美だからなんだか可愛くて、母性というよりお姉ちゃんみたいなあったかさで、子供の頃の拓郎をギュッとしてくれるのだ。
そして、拓郎とサブローのロードムービーの最中、山の中でこの二人に遭遇する。それは幻想だったのか……ちゃんとサブローにも見えていたんだもの。
子供の頃の自分と同じように「イイ子だ」と女にかき抱かれるサブローを見て、拓郎はなんだかフクザツな顔をする、のは、あの場所は自分だけのところだと思っていたのかなあ。
でもそれで、彼を同志だと認めたキッカケになったのかもしれない……だってあれって、当然、幻想なんだもん……。
このシークエンスで熊との対決とか、超リアルなCGを使いながら、その動きはギャグ満載、という、メッチャ確信犯的なシーンがかなりの長尺で用意されている。こ、こんなことを役所さんがするとはちょっくら意外だったなあ。
背後に熊が迫っているのを、熊と同じ目線の角度にして、振り返ってギャー!みたいなさ、往年の子供娯楽映画の王道中の王道って感じだよねー。
しかも熊の股間まで蹴り上げちゃって熊、悶絶してさ。なのに後で「あれはメスだな。オレに抱きつこうとした」ってオイ!大体、そこで巴投げしてたべさ!もおー。
なんかやっぱり男は、男同士のロードムービーが好きなんだなって感じがするわ……。拓郎はここで、息子に対する、あるいはそれを通して自分の人生に対するわだかまりを全部昇華しちゃうんだもん。
むしろ苦悩はサブローの方が大きいと思うんだけど、彼は結局、拓郎の触媒に過ぎないんだよね。サブローを自分の息子として迎え入れる決心をした拓郎、「拓也の代わりなんかじゃない!そんなに言うなら死ね!」みたいな、半ば逆ギレみたいにさ……でもそれが、サブローにとって必要なことだし、何より拓郎にとって、とてもとても、重要なことなんだよね。
サブローが光のために作った、ハート型に削った拓也の骨、それを受け取って、彼女はきっと、ようやく彼の死を認識した。
そして、ずっと彼氏と話していたと思っていた、父親の拓郎と会う。
なんか、あの場面は、何とも言い難かったなあ。
勿論、恋人同士の邂逅の筈はない。かといって、額面どおり、死んでしまった恋人とその親の面会でもない。
半分恋人感覚を共有した同志で、そして愛する者を失った同志……。
拓郎は光に、人間には二つの死があるんだと諭す。一つは肉体が無くなる死、もうひとつは人々から忘れ去られる死。だから自分たちが拓也を覚えていてやれば、いつまでも生き続けるんだと。光は、絶対に忘れない、と拓郎に約束した。
この話って、「トーマの心臓」で出会ってそれ以来、何かと思い出す機会の多い、私にとっては非常に大切な価値感だったから、かなりカンドーしたのであった。
天真爛漫な彼女の頬に伝う涙には、なんか素直に心を打たれた。
ヤハリ、拓也の友達、サブロー君がすべてを持って行っちゃった気がするなあ。
いかにも朴訥風、だけど、確かに若い頃にウッカリグレちゃって心から後悔したタチ。
彼が、拓也も、光も、拓郎も、拓郎の奥さんさえも、癒してくれる、つまりそれだけ、必要以上に罪の意識を誰に対しても感じてて、なんか、じーんとくるんである。★★★☆☆
まあね、でもね、どんなに大作であろうと、どんなに監督や役者の思い入れが深かろうと、どんなに撮影が大変だったり、そうしたトラブルがあったりといった、産みの苦しみが深かろうと、そんなの、観客にとっては全然関係のないコトなんだよね……。
時としてそのことに惑わされてしまって、これをイイと言わなければ人間としてどうなのと思われそうな気がしてしまって臆してしまうことがあるんだけれど、でもつまりはそれだけお金も時間もかけたんだし、それをペイさせるためのお金を払って私たち観客は対峙するんだし、一人のそれがわずかなオカネでも、やっぱりそんなことに臆して言えないのは、違うと思うんだよなあ。
……なんか私、すんごいおどおどしてるけど(爆)。なんかね、正直ね、松ケンのカムイ像が良かったのかどうかさえ、しかと確信出来かねるぐらいだったんだよね。
松ケンはいつも役に没頭して、作品がどうあれ彼の演じる姿に物足りなさを感じることなどなかったんだけど……いや別に、今回だって物足りなさを感じたって訳じゃないんだけど……なんかね、彼が間近に見えない感じがしたというか……。
カムイの生きた世界、リアルな生々しさを持つ忍者の世界観、ことにその中でも特殊な、忍者に追われる忍者の脱落者、抜け忍という世界観をとにかく見せようということに対する執着が、松ケンの演じるカムイ自体を見えにくくしているように感じてしまったのだ。
それはね、同じ抜け忍として常に追われる恐怖におののいているスガルや、彼女の夫で何もかも飲み込んで彼女を愛している半兵衛、そして彼らが逃亡した先で出会う、海賊のような渡り衆(実は抜け忍)などなどを配し、それがいずれも豪華キャストで、カムイは常に彼らの反射鏡となっている感が強くて、彼自身の苦悩が今ひとつ見えてこないせいかもしれない。
あるいは単純に、そうした豪華キャストが配置されているせいで、タイトルロールでありピンの主役である筈の松ケンに、肉薄するというまでは行っていないせいかもしれない。
いや別に、ほかのワキにも大御所がたんといる訳だし、遠慮しているように見えるっていう訳では……多分ない……と思うんだけど。
多分私ね、もっとずっぽし、ガッツリ、“カムイ”を見たかったんだと思うんだよね。あの時代の世界観や、抜け忍のリアルさとかじゃなくて、スター映画としての松ケン=カムイを見たかったんだと思う。なんか、松ケンがスクリーンの中で遠くに感じるんだよ。
うーんそれにやっぱり、カムイ自身のキャラの掘り下げも浅かった気がするんだよな……。
なぜカムイが抜け忍になったのか。忍の世界、あるいは人間社会そのものに嫌気がさしたのか、とにかく、彼がこんな刹那な人生を送っている、そこまでのせっぱつまったものがイマイチ判んないのよね。
それは、彼と同じく抜け忍として逃げ回るスガルにしても同じ。
彼女もまた、ただ仲間からの追っ手に怯えるばかりで、彼女が抜け忍を決意するまでの、それほどまでの大きな理由が見えてこない。
忍者世界のリアルさとか、生々しさには腐心しているだけに、それだけ見え方は完璧なだけに、なんか……置いてかれる感じがするんだよなあ。
そういう見え方、っていうのは、つまりはエンタメ領域であって、正直、あったよね、他にもそういう映画って。まあ、よりエンタメ過剰な描写だったかもしれないけど、でもそれで、私たち単純な観客は満足しちゃう。だって別に忍者のドキュメンタリーを見たい訳じゃないんだもん。
クドカンが脚本に参加しているというので、それも大いなる興味の対象だったんだけど、およそクドカンカラーとは違うのよね。
いや、それを言うのは違うんだけどさ。だって彼は一人の脚本家、こっちが勝手にユーモラスなクドカンワールドを期待するのは筋違いだと思う。
だけど……。
これがクドカンの脚本だという、そういうチャームというか、しるしみたいなものが、見えなかったんだよね……。
まあそれはまんま、いわゆる“クドカンワールド”を期待していた、と言われればそうなんだろうけれど……でもね、まあ正直、意外な気がしたんだよね。なんか全然、ヌケがない、っていうか。
唯一、小林薫演じる半兵衛はそうしたヌケを感じさせるキャラだったけど、ヌケのキャラに対しては最低一人はその受けを担当するキャラが必要でさ、それがいなかったから、それこそヌケきらないまま終わってしまった気がする。
そうなんだよな、半兵衛って、いかにもクドカンが得意とするキャラじゃないかなと思う。愛する妻や子供たちを養うために、お殿様の愛馬の足を斬り落とすなんていう、トンでもないことをやってのける(馬のひづめで、擬餌針を作るんである)。
その事件でカムイから助けられたのに、彼を荒波にもまれる小船から突き落とし、しかしカムイが命からがら浜辺に辿り着いて息を吹き返すと、「俺が命の恩人だ!」と悪びれもせず豪快に笑い飛ばすんだから。
しかもそんなゴーカイな役を最近とみに純情中年なイメージの(笑)小林薫が演じるというのも意外な面白さだったし、彼が妻の素性を知っていながら、だからこそ全力で守ろうとしているのがステキだったんだけれど……。
やっぱりクドカンだけが脚本を任されているんじゃないせいなのかなあ……監督自身も名を連ねていたら、そりゃ監督の意向の方が強くなってしまうかも。
うーん、なんだろ、あまりにも淡々と進んでいってしまうから、拍子抜けしてしまうんだろうか。
でもそれは、崔作品がもともとそうだと言ってしまえばそうなんだけど、なんたって忍者活劇で、主人公の大いなる苦悩を描くんだったら……。
うぅ、原作未読だから何とも言えない……今回、先に原作読んどくべきかかなり悩んだんだけど、カムイ伝、カムイ外伝共々膨大な量があるので、ヤケドするのを控えといた(爆)。
そうなんだよね、これはあくまで外伝であり、カムイ伝が前提となったものなんだよね。
でもさ、ちょっとかじったところによると(そういうのがいけないのかもしれない……)、カムイ外伝こそがカムイの内面を掘り下げたものだっていうじゃない。それなのに……カムイの周囲ばかりに気をとられちゃうんだよなあ。
それこそ本作は、カムイが今ここに至るまでの解説をナレーションでご丁寧にしてくれちゃうんだよね。それこそが「カムイ伝」が語っているところなんだろうけれど……今のカムイの苦悩からは……つまり忍者そのものへの嫌悪からは離れすぎちゃって、根本的過ぎちゃって、せっぱ詰まらない、っていうか。
カムイ外伝一発で、カムイ伝を含めた彼のバックグラウンドも何もかも判らせちゃおう、ということにムリがあるのかもしれない。いや、原作未読なんでホント何とも言いようがないんだけど(爆)。
だからつまり、それだけ、松ケンをリクツなく、ズッパリ見たかったんだよなあ。
最もそれを感じたのは、伊藤秀明扮する渡り衆のボス、不動とカムイとの対決が、メッチャメインエピソードに据えられている点に関してである。
正直、渡り衆が登場してからは更にカムイは食われまくっている。ていうか、それ以前に半兵衛にも食われまくってたし。
お殿様の愛馬を襲った犯人として捕らえられた半兵衛を救って、カムイと半兵衛一家が逃亡の果て辿り着いたのが幸島。
そこで遭遇したのが渡り衆で、幸島が人食い鮫に悩まされているのを、たぐい稀なる狩猟能力で救ったのが彼らだった。
その腕前に感嘆する一方で、どこか引っかかるものを感じているカムイ。しかし不動が、自分たちも抜け忍だ、と明かしてカムイを仲間として受け入れたことで、カムイは彼らを信じようと思ったのだけれど……。
渡り衆がサメを豪快に仕留めたり、いやその前から、漁名人の半兵衛が大きなスズキを何匹も釣り上げるシーンからね、CG臭さがどうにも気になっていたんだよね……。
もうね、撮影所で水張って撮ってるってのがメッチャ判っちゃって、もうそうなると、ロケの筈の沖縄の青い海ですらウソくさく感じちゃうんだもん。
ことに渡り衆とサメが絡む場面は多くて、彼らの蛮勇っぷりを示すためにかなり掘り下げるんだけど、これが掘り下げれば掘り下げるほど、ウソくささが増しちゃって……。
いや、確かに見事なCGで、見事なCG合成ではあるんだけど、見事であればあるほど、ありえないことだって判っちゃうんだもん。それこそCGが可能な程度の引きの場面だしさあ。
唯一心躍ったのは、松ケンと大後寿々花嬢の待望の再共演。なんかのインタビューで、松ケンがもう一度共演したい相手として彼女をあげててさ、彼が共演してきた並み居るビッグネームを抑えて寿々花嬢をあげたのが、そうでしょう!そうでしょう!と嬉しかったから、ホントに今回はそれが嬉しかったなあ。
しかも今回は、寿々花嬢演じるサヤカがカムイにほのかな恋心を抱くという設定。二人が共演したドラマ「セクシーボイス&ロボ」の時は、兄妹のような雰囲気が微笑ましく、しかも傑作だったから、なんか、今回の共演実現は感慨深いと共に……うーん、次の機会を待ちたいとも思ったかなあ(爆)。
でもね、正直、ワイドショー的な話題を含めて“相手役”として喧伝されてた小雪さんよりも(しかも全然、相手役じゃないしさ)、松ケンにガップリ対峙して、女の子のキュンキュンを響かせて、不動に殺された死に姿までが可憐で印象を強く残したのは、寿々花嬢だったんだよなあ。
小雪さん演じるスガルは、ヒロインよろしくカムイが駆けつけるまで息があって、彼の腕の中で最後の言葉なんぞを残すけど、なんて言ったかさえ覚えてないもん(爆)。
松ケンの走る姿の美しさは、ステキだった。元々走る人とそうじゃない人では、走りの姿は全然違うよね。元々走らない人に、この美しさは出ない。 ★★★☆☆
舞台は彼の故郷、旭川は神居古潭。私にとっても懐かしい響きの地名。主人公の“じいちゃん”に大御所、夏八木勲を迎えるという気合いの入れよう。
時は彼の妻の十三回忌の法事の日。いつものように出かける彼に孫娘が驚いて声をかけた。「じいちゃん、今日も行くの」
つまり彼は恐らく、毎日欠かさず出かけているのだ。それは恐らく……妻が歩いた散歩道を。
音尾さんが自慢してやまない、一面緑のサイクリングロードを、じいちゃんはてくてくと歩き、孫娘は自転車で追いかける。
そこで彼は、小さな女の子と若いお父さんに出くわし……。
ところでこの孫娘は、東京で暮らしてるんだよね。おばあちゃんの十三回忌で帰って来ているという設定。うるさい親戚から離れて、おばあちゃんの仏壇があるガランとした部屋に逃げてきている。
そこに彼女のお兄ちゃんも入ってきて、「俺、今日札幌帰るわ。ライブあるし」と言う。つまりこの二人とも、旭川の実家を離れているってことで。
孫娘は、自然のある場所にこだわるじいちゃんに「東京だって緑あるよ。明治神宮とか、新宿御苑とか」と言い「東京だって楽しいんだけどな。買い物するところとか何でもあるし。旭川で買い物とかムリだもん。札幌ならまだ……」などと言う。
そ、それはいくらなんでも……旭川で買い物だって全然出来るだろ……。買い物公園で買い物出来るだろ(爆)。
ていうか、この東京に対する言い様は、対・地方で語るにしても、ちょっとあまりに単純に過ぎてうーーーん、と思っちゃうなあ。
いや、私が東京で暮らしているから、ではないのよ。だって東京にいたって私、買い物なんてしないもん(ほとんどネットショッピングの引きこもり系(笑))。東京=大都会、みたいにクリスタルキングのように(古い……)言われると困っちゃう。私の棲息範囲は下町系だしさー。まあ、この設定じゃしょうがないのかもしれないけど……。
で、ですね、じいちゃんと孫娘が出くわした幼い女の子とお父さん、このお父さんの方に、音尾さんはルールをきっちり守って、モリーダーを起用している。
そりゃメンバーの中では、一番年かさの彼だからというのもあるけど、彼のあったかい雰囲気は、ああこんなお父さんになるんだろうな、と思わせてちょっとほっこりする。
うん、モリーダーが確かに一番、お父さん役にハマっているだろうな。
この幼い女の子、ひなたちゃんは、壊れた自転車を直そうと悪戦苦闘しているお父さんのそばで、お絵かきをしていた。じいちゃんは手馴れた手つきで自転車を直して上げる。
と、ひなたちゃんは立ち去ろうとするじいちゃんに駆け寄って手をつないだ。戸惑う若いお父さんにじいちゃんは「かまわんよ」とゆっくりと歩き出した。
じいちゃんにまとわりついては、行く先々でお絵かきをするひなたちゃん。
「人見知りなハズなんだけどなあ」とお父さんは不思議そうに言い、しかもお絵かきだってそんなに好きというわけじゃなかったと言う。
行く道々、孫娘は今日がおばあちゃんの十三回忌だということ、13年前の今日、この神居古潭で心筋梗塞で倒れたことを話す。
そう、もうすぐ、その場所が近づいてくる……。
じいちゃんは、ずっと気に病んでいた。あの時一緒にいてやったら、助けられたのかもしれないのに、と。定年間近だった。第二の人生を共に過ごそうと思っていた。なのに……。
という回想を孫娘はじいちゃんの替わりに話す。「人生って、判らないものですよね」と。
ところでね、その13年前、倒れたおばあちゃんを「夜通し探した」と回想するんだけど……その回想で見つかった場面が全然明るい、真っ昼間っていうのが、ちょーっと気になったかなあ。
まあ、瑣末なことといえばそうなんだけど……つまり夜通し探して、見つかったのが朝だったのかしらん?でもあれは昼間の光だよな……。
まあいいや、とにかく。おじいちゃんと孫娘がふとベンチで話し込んでいる時に、ひなたちゃんの姿が見えなくなってしまうのね。必死に探し回る三人。
じいちゃんは途中から完全に……13年前に戻っていた。彼は気づいていたのかどうなのか……ひなたちゃんが行く先々で描くたどたどしい絵は、その場所もアングルも、亡き妻が描いていた場所、だったのだ。
じいちゃんはまっすぐに、亡き妻が倒れていた場所へと走り出す。トンネルの向こう。真っ暗い穴の向こうから、光が漏れている。
あの時と同じように、同じ角度で、ひなたちゃんは倒れていた。じいちゃんは必死に声をかける。でもそれは……「ハルエ、ハルエ!」と亡き妻の名前を。
うっすらと目を開けたひなたちゃん、いや、ハルエさんは「ありがとう」とつぶやき「会えて良かった」とくしゃりとした泣き顔を見せた。ただただうなづくじいちゃん……。
とまあ、ここがクライマックスで、一番重要な場面ではあるんだけど……。ちょっとね、やはりね、さすがに、この女の子に、乗り移ったハルエさんをやらせるのはやっぱりちょっと……キビシかったかなあ。
いや、上手く演じていたとは思うけど、この幼い声で、ああこの子が台詞を言って演技している、と思うとヒヤリとしてしまう。
それまでが、ほとんど演技らしい演技もなく、“じいちゃんにまとわりつく幼い女の子”なだけであったから、なおさらなんだよね……。
映像処理とか声の処理とかまったくしないで、つまり逃げを打たないでまっすぐに、真っ当にこの子にそれをやらせた音尾さんは、ほおんと最後まで直球勝負だったと思うけど、でも逃げを打てるところは打っといた方が……と思っちゃったなあ。返ってリアリティが失われてしまうんだもん。
まあ、この設定自体リアリティなんてもんじゃなく、ファンタジーに相違ないといやあ、そうなんだけど……。
ふと意識を失った後、目覚めたひなたちゃんは、元の幼い女の子に戻って泣きじゃくった。夢から覚めたような顔をしたじいちゃん。
孫娘はひなたちゃんが描いた絵を持ち帰り、おばあちゃんのスケッチを一枚一枚並べてみると、そのアングル、色使い、ひなたちゃんの絵は確かにたどたどしいけど、カッチリと一致している。ひなたちゃんの最後の絵には「おじいちゃん、ありがとう」とこれまたたどたどしい字で書かれてた。
その最後に、おばあちゃんだけが描いた一枚が出てくる。ニッコリとする孫娘。
カットが替わり、彼女が東京へ帰るべく旭川空港に着いたシャトルバスから降りてくる。彼女がバッグから取り出したその一枚を裏返して見ると、彼女の幼き笑顔が描かれていた。そしておばあちゃんは、その笑顔が皆を元気にしてくれるよ、と書き添えていた。
勇気をりんりんもらって、彼女は東京へと帰って行く……。
うーむ、まともだ。ある意味音尾さんだけがあまりにまともなので、返って浮いているぐらいである(爆)。
でもまともなだけに……そんないろんな、気になるところも見えてきちゃうかなあ。
ある意味ファン向けでもなんでも、気の緩むところを作ってしまった方が、ズルい方法ではあるけど、そういうのが気にならないのかもしれない。
でも彼が、豊かな緑の故郷を自慢したい気持ちは、すんごく伝わったけどね。★★★☆☆
とか思うのは、やっぱりこれが大スクリーンにかかるのが、逆にもったいない気がしてならかったからに他ならない。そもそもこの監督自身が松竹のお抱えってのがね、ヘンよね。
いやお抱えはヘンじゃないけど、松竹のお抱えだからイコール大スクリーンっていうのが、やっぱりどーにもヘンな気がする……でも松竹だからこそ、こんなにゆるゆるなのにコストはやたらとかかる映画をほいと作っちゃえるんだろうけれど。
本作を観た時、彼のデビュー作「てなもんや商社」を思い出した。ようやくここに彼が戻ってきてくれた気がした。やたらとお金がかかる技術を、何の力みもなくゆるく使っちゃえるほどの、いい意味でのあつかましさを身につけて。
あの「てなもんや商社」の脱力にホレて以降、しかし彼は松竹の大看板作品を任され続けて、あのふてぶてしいほどの脱力をデビュー作以降、ついぞ発揮出来ないまま今日に至ってしまった気がする。
でもその間、ゲゲゲの鬼太郎なんぞを任されるに至って、彼は大掛かりでコストのかかるCGを、いい意味でウソくさく、ウソくさいセンスで使うことを身につけたのなら、それも良かったのかもしれないなあ。
ゲゲゲではそれでも、実写としてのリアリティにこだわっていた感があったけれど、本作では、確信犯的なウソくささこそが魅力なのだもの。
それが一般的ヒットには結びつかないだろうと思われる理由でもあるのだが……だって、彼ら大学生が操る“オニ”は、氏神という神聖なものである筈なのに、その造形ときたらもう思いっきりウソくさいんだもん。
それはでも、ちょっと懐かしさ漂うウソくささでもある……ゴジラやモスラを経由し、あるいは納涼怪奇映画などなど、日本特撮映画史が受け継いできた大いなるフィクションの世界が、どこかパロディとしての趣も感じさせながらここにある、みたいな。
だってさ、これを見ていると、演じている役者が、ああ、何もないところで演じるのって大変よネ、などとつい想像しちゃうんだもんなあ。でもそれも勿論、製作側は折り込み済みに違いないのよね。
勿論、役者たちはだからと言って手を抜いている訳もない。それどころか大真面目である。
これが喜劇系の役者を揃えているならまだしも、少なくともメインはシリアス系の役者だから余計におかしいんである。
山田孝之、栗山千明、石田卓也(はちょっとその点は微妙だが)、芦名星と、しかし“少なくともメインは”なんだよね。そこんところがミソである。
ワキを固めるメンメンは、喜劇を得意とする役者が揃う。荒川良々はその最たるもの、石橋蓮司は両刀使いだけど、あのコワモテだから喜劇をやると冴え渡るし、何より主人公の“親友”役である濱田岳は、トボけた顔が実に喜劇向きの、なかなか得難い若手俳優。本作でもマジメな顔してちょんまげサムライになって、周囲をコンランに陥れる。
この役者の布陣のバランスが実に絶妙なのだよね。だから一歩間違えるとユルユルなばかりでタイクツになりそうなところを、なんか、ノセられて見てしまう。何気に上手いんだよなあ、こんなところは。
んでもって、これがどんな物語かっていうと……正直よく判んない(爆)。だってさ、“ホルモー”って事態が最後まで見ても全然判んないし(爆爆)、しかも“鴨川”が「鴨が輪になる」から来ているだなんてどーゆーことって感じだし(爆爆爆)。
まあつまり、これは、神様の言葉であり、劇中の大学生たちは、必死になって神様の言葉を学び、神聖なる戦闘ゲームに挑む。うーむ、これをゲームと言ってよろしいものなのか。でも、聖なる戦、聖戦ということなのかな?
主人公は二浪の末、ようやっと名門の京都大学に入った安倍。彼が友人の高村と共に青竜会なるサークルに勧誘される場面から始まる。
この場面からして、彼らはお祭りのバイトで白装束だし、勧誘してくる荒川良々扮する菅原も、昭和の学生かってな学生帽にハカマの出で立ちである。
まあ、つーか、安倍たちはともかく、荒川良々のカッコは最後までそんな感じで、明らかにおかしいと思うけどさ(爆)。しかしそれはいかにも荒川良々、なんだよなあ。
この勧誘の場面は、最後の最後、今度は安倍たちが新入生たちを勧誘するようになり、あの頃は僕たちが……と回想する形で繰り返される。あの頃彼らには見えなかった“オニ”たちが、彼らの周りを楽しげに跋扈している。
「フツーのサークルですよ、あくまでフツーの」などという言葉にダマされて、あわよくばカワイイ女の子をゲットしようなどと考えていた安倍の様な単純な学生がうっかりはまり込み、この恐るべき神事サークルから抜け出せなくなってしまうんである。
まあ、とは言っても基本的にはやはりユルユルなんだけどね。
とゆーか、現代の大学生のキャンパスライフ(という言葉自体古いだろうか……)とは思えない、ムサくてダサくてやるせない、昭和かってな描写がたまらない。ま、安倍の一人暮らしの生活は、今でもこの程度ムサい男子学生はいるだろうとは思うけれども、彼の“親友”の高村が住んでいる“百万遍寮”の凄まじさといったらない。
寮の前には大量のママチャリが溢れ、玄関といわず廊下といわず、ダラダラと呆けている男子学生がワラワラ。コタツまで侵食している。
当然のように二人の先輩と相部屋である高村の、プライバシーなんていう言葉はどこの宇宙のかなたであるかという有り様で、「今、風呂に行っている」と同室の先輩に言われて安倍が向かってみると、彼はタライに身を沈めて慎ましく身体を洗っているんである!風呂じゃねーだろ!しかも彼の頭は既に潔いチョンマゲ姿で……。
てゆーか、これじゃ、何の話か全然判んないけどさ(爆)。
そもそも主人公の安倍が、なぜこの怪しげなサークルに入ろうと思ったかっていうと、見るも麗しい美女、早良がいたからなんであった。
勧誘コンパの帰り、橋のたもとで彼女は思わせぶりに涙を見せて、しかもその後、安倍の部屋に泊まった。
気弱な安倍は彼女に手を出すことなど出来なかったけど、彼女に淡い想いを抱き続けてきたのだ。
しっかし、安倍も純情すぎるっつーかさ、早良に思いを寄せながら、そして最初にはニアミスとも言うべき最大のチャンスも迎えながら、その後も彼女に思いを打ち明けることもせず、つーか、彼女の思わせぶりな態度だけでお腹いっぱい、満足しちゃってさ。
早良がサークル一のアピール男、芦屋とつき合っていることを安倍だけが知らずにいたっていうのが不憫で……。
山田孝之ってさ、人気ドラマで顔を売った若手売れっ子なのに、古くて地味で暗いっていう、珍しいタイプの役者だよね。だから彼が次に何に挑戦するのかっていうの、凄くワクワクする。
今回の役は、彼の“古くて地味で暗い”ってのが、まー、三拍子揃ってビッタシきちゃったわ、てな役だったのよね。
彼のあのつながりそうな濃い眉と、眼光鋭い瞳、そしてひげの濃い感じも、草食男子だの、イケメンだのが跋扈する今の世の中に得難いキャラなんである。
二浪して京大に入ってもうそれだけで満足しちゃって、美女がいるってだけでアヤしげなサークルに入っちゃう単純さがカルさというよりはニブさって感じで、なんか昭和なのよねー、と思っちゃう。
勉強しないし、恋愛か酒かバイトかって生活だしっていう、日本の大学生事情ってのを、本作はかなり皮肉っていると思うんだけど、その一方で京大生であることに対する過剰なまでの誇りと、法学部、理学部、総合人間学部という所属によっての差別意識、ひいては神々を巻き込んでまでの戦いになるっていうのが、その大げさな帰結に至るのが、日本の大学至上主義、学部至上主義、だけどその大学生活の中身は、(勿論、マジメにやっている学生が大半だと思うけど!)こんな怠惰でユルユルであるっていう、大いなる皮肉に思えるのよね。
でもそれも、昭和かってぐらいの慎ましやかな生活の描写なんだから、ある意味ストイックではあるのかもしれないなあ。この少子化、大学生き残りの時代、実際の大学生はもっと優雅な生活をしているんじゃないの……というのはあくまでヘンケンな推測だけど(笑)。
しかも原作者が実際に京大卒であるってあたりが、皮肉なリアリティがあるんだよなあ。
さて、彼らが根城にする居酒屋、「べろべろばあ」は、青竜会OBの店長(石橋蓮司 )が実に40数年の長きに渡って経営している店である。
店先の、べえと舌を出した巨大な提灯が目印。これっていかにも妖怪チック、ゲゲゲの鬼太郎の遺産だよな(笑)。
しかし妖怪ではなく神であるっていうのが、本作のミソであり、これはある意味、神聖な日本文化を匂わせる作品なのかもしれないのだ。
だってこれ、ハリウッドでだって公開されちゃうんでしょー!?こんなユルユルの価値観が判ってもらえるのか非常に不安だけど……。
でもさ、日本人ってやっぱりどっかに、神聖な神への意識って、根底にあるよね。この作品自体、陰陽道がネタ元(安倍をはじめとしたキャラ達の名前はいかにも)だし。
神社でガラガラと鈴を鳴らして手を合わせる、その慣習だけかもしれないけど、やっぱりどこかに、見えない神様がいるって感覚がある。そうでなければこの物語は成立しないもの。だから、外に持っていって大丈夫なのかな……と思っちゃう訳で。
加えてね、日本の神様って寛容っていうかさ、これがダメ、あれがダメっていうのがない、厳格じゃないから、こんな風にある意味おちょくっても大丈夫みたいな、身近さがあるんだよね。
だってこれっていわば、ゲームムービーって言っちゃっていいじゃない。勝手に“神様語”まで作っちゃって、「ゲロンチョリー!」なんて絶叫してオトボケポーズを超マジにとっちゃったりしてさあ。
でもそれも、“寛容な神様”があってこそなんだよな。フツー、神様って禁欲的で、厳格よ。だってさ、これっていわば、男女の痴話喧嘩から発展した聖なる神事の分裂だったのにさあ、まあ、いろいろあったにせよ、収まっちゃうんだもん。
安倍がホレた早良が、栗山千明扮する楠木曰く、「タチの悪い女」だったことから、青竜会は分裂しちゃうんだよね。
まあ、“タチの悪い女”ってのも、楠木のダサイい女っぷりも、あまりにも単純すぎるといえばそうなのだが……。
芦名星扮する早良は、いかにも男好きのする女子大生として登場する。彼女の相手となる安倍のライバル、芦屋はいかにも女好きのする男子大生である。このカップルは三角関係も含めて何度となく修羅場を繰り広げるんだけど、いわゆる腐れ縁で、物語の最後になってもまだホレてるの、別れるのやってるのね。
早良にホレていた安倍が最初こそ振り回されて、壮大な神様バトルにまで発展したわけだけど、結局は安倍を一途に思い続けていた楠木とイイ感じになる。
この楠木ってのは、一見、“大木凡人似の女”として凡ちゃんと呼ばれるほどの非女子キャラなんだけど超王道に、“メガネを外したらカワイイ”少女マンガ系キャラなんである。
つーかさ、栗山千明にいくらおかっぱ頭にダサいカッコさせて大木凡人メガネをかけさせたって、明らかに美少女じゃんか……。
むしろさ、物語の最後、安倍と一緒に後輩を勧誘する、コンタクトにした“フツーの女子大生”の栗山千明の方が凡庸に見えちゃうんだよね。
クライマックス、安倍と一緒に目を向いて“ゲロンチョリー!”と叫んでた彼女の方がよっぽど可愛く思えちゃうんだもん。
これは女子が女子を見るからそう思うのかしらん?
……てゆーか、そもそもこれってどーゆー映画、っつーか、どーゆー話だったのかしらん?(笑)
大学生活のユルさ、ユルすぎて非現実さ、もうオニも祭りも全部アリのようなナシのような?訳の判らなさでさ。
ただ、やはり根底にある日本文化、というより伝統の京文化がこの映画の“ありえなさそうでありえるかも”という微妙なニュアンスを、意外に強固に支えていたのかもと思う。
京都四大大学の交差点ガチンコ対決、大文字焼、鶴光さんのローカルホルモー中継、何より、神社における神様との直接交渉?レナウン娘のダンスで神様の機嫌を取るなんて、しかもフルチンでって!
……まあしかし、“性器”は“聖器”って意識もある……のかも……日本は結構、あるかも……うーん、うーん。
こういう、新旧フクザツな文化を判ってもらった故の、海外進出だと思うんだけど、うーん、大丈夫、かなあ??
あ、ところで青竜会メンバーの中に藤間宇宙君がいるではないか!彼の名前、久しく聞かなかったから嬉しいなあ。★★★★☆☆
もともと、家族とか兄弟とか仲間とか、そういう親密な関係のあったかいドラマを得手とする大泉先生だから、これは当然の選択。
しかもそれぞれが本人役(名前だけで、ナックスとしてじゃないけど)で、それぞれの個性やキャラをひとつひとつ丁寧に掘り下げていくので、そりゃまー、ファンにはたまらんもんなんである。
……とゆーか、だからこそファンイベント上映では異様なまでの盛り上がりを見せ、私は若干引いてしまったぐらいなのだが(爆)。「裸の安田さん」「残念なシゲちゃん」「目と目の間が離れてる音尾さん」「声と勢いがやたら大きいモリーダー」という、それだけでファンはドッカンドッカンウケちゃうんだもん……。
で、今回は劇場で、ま、来ているのは確かにファンなんだけど、そこはフツーの映画館の観客程度のウケだったので、かなーりホッとして、リラックスして観ることが出来た(爆)。いやー、あのイベントはある意味……映画を観る場としては……かなり……ゴーモン状態だったからさあ。
なもんだから、今回このフィルムたちが一般公開されるってことで、こんなファン向けの内容で大丈夫なのかと思ったけど、ああいう場で観ていたからそれを強烈に感じただけで、案外フツーに観られたことにも安堵しちゃったりしてね(爆)。
おっと、話が脱線したが……。えーとね、これはタイトルから判る(かな?)とおり、バスケチームの男たちの話。
高校時代の悔いの残った決勝戦をやり直そうと、突然シゲちゃんが皆を招集し出す。「24」のジャック・バウアーをまんまでやるあたり、ちょっと大学生の演劇同好会ならぬ、映画同好会的ノリ。まあ、大泉さんは最初からそのつもりで作っていたのかもしれないなあ。
大泉さんはカリー軒の三代目(!)まさしく、シェフ大泉。ゴルフのインストラクターのモリーダー、目と目の間が離れているホストの音尾さん、とそれぞれに絶妙なキャラ設定で笑わせてくれるんだけど、やはり出色は“裸神(はだかみ)”様のヤスケン。
ハダカというだけでヤスケンなのは、言わずもがなではあるのだけれど、怪しげな新興宗教の教祖様が、「俺、雇われ教祖だからさ」と言うのには思わず笑ってしまう。
いや、というより、その教祖様のいでたちが、かつてよーちゃんが「これがヤスダケンの理想の姿」として造形した「さよなら朝日荘」の“安田先輩”ソックリだというのがなんたってサイコーなんだもん。
ボサボサのワンレン(と言うのさえハズかしい)に大きなアナクロの眼鏡かけてさ、もうそれだけでキョーレツなオーラを放っているってのがスゴイんだもんなあ。
なるほど、だから教祖なのか。この理不尽な?意味のない??オーラを放っておくのはもったいないもん(笑)。
で、なぜシゲちゃんが皆を召集したかというと……彼は近々、死ぬんだというんである。疲れやすくなったから病院に行ってみたら、末期ガンで、あと半年の命だと言われたというんである。
「病院なんか、行っちゃダメだよ。死んじゃうから!」と、必死に笑顔を作って冗談めかすシゲちゃんは、ここ一番の演技を見せる。こんないい演技を見せちゃうのがもったいないぐらい??いやいやいや!他意はないんですよ、他意はね!
でもなんだかんだ言って、大泉さんは彼がステキに見える役をいつも用意するよなー。
彼の壮絶な決意に大会での勝利を誓った仲間達。「俺、死んでも勝つから!」というシゲちゃんに「シゲ、笑えないよ」と大泉さんは絶妙にツッコミはするけれど、本気である。
大会は二ヵ月後、どんどん憔悴していくシゲちゃんを気遣いながら練習を重ねるメンメン、しかし大会が翌日に迫ったという日、モリーダーが怪しげなサイトに載った「満月の翌日に咲く、不治の病に効く薬草」という情報を持ってくるんである。
ちなみにそれは、彼らの後輩、オクラホマの河野のブログなわけで。ううう、あくまで内輪ネタなのだ……。
満月の翌日といったら、大会にぶつかってしまう。もうシゲは腹をくくっているんだからとたしなめる大泉さんにメンバーたちも納得、モリーダーは、余計なことして悪かった、みたいなしんみりした様子でシゲちゃんに謝ろうとしたら……シゲちゃんはうつむいていた顔をあげて言ったのだ。
「その花、どこに咲いてるの!!」
ちなみにこの時点で、既に伏線が敷かれていて、ですね。シゲちゃんが“残念”なのは大前提だとしてもですよ、その“残念”をしかけるのは、ナックスさんの末っ子、音尾さんなんですねー。
モリーダーが持ってきたノートバソコンをうっかり落っことしちゃって、モリーダーがあの調子で「おぉぉおいー!危ねって!」と咆哮してたことを、私、こうして二回目観るまでスッカリ忘れてたよ。
その台詞を、シゲちゃんが、実に心を込めて繰り返す、だからこそ、より可笑しいっていうことをさ!
彼らはその薬草を探しに行く訳さ。大会をほっぽってね。これは大泉大先生自身が言ってたことだけど……バスケのテーマのハズが、結局アッサリそれを回避しちゃったってのが、おっかしいんだよね。
で、夜通し探し回って、崖に咲いている薬草をやっと見つけて狂喜したメンメン、音尾さんが知らずにフラフラのシゲちゃんをどん、と突き飛ばしちゃって、引きの画面で絶景の崖の上から、実に美しく人影がひゅるる、と海面に落下(笑)。やたら引きの場面ってのが、ミョーに可笑しいんである。
しかも、シゲちゃんが吸い込まれた海面からは、美しい虹が立ち昇っているっていうのが(笑)。
しかもこれが、ホントに撮影時に、実際に現われた虹だっていうんだからスゴい。大泉さんは雨男のハズなのにい。雨男の大泉さんと晴れ男のモリーダーの化学変化が、こんなマジックを引き起こしたのね。しかも、それがバカバカしくて、実に可笑しいのだよね。
で、てっきりシゲちゃんは死んじゃったと思って四人がしょんぼりと山を降りていったところに、彼がワカメやらなにやらぞろりと垂れさげて、ぐったりと皆の前に現われる。で、あの台詞よ。
「音尾、お前、あぶねって!」
あ、危ないどころじゃないでしょ(大笑)。もー、絶妙だなあ。
なんかね、大スターの大泉さんが一番、このナックスが大好きで、拠り所にしてるってのが凄おく伝わるのが、グッときちゃうんだなあ。★★★☆☆
それにしても一体、加護ちゃんをキャスティングするに至っては、どんな経緯があったのか実に知りたいところなんだよなあ。なぜ?どうやって彼らは加護ちゃんを知ったのかしらん?
一時期、富田靖子が立て続けに香港映画に出た頃は、事務所であるアミューズが提携しているんだろうと察しもついたけど、今回は本当に判らない。
まあ何にせよ、私的には加護ちゃんが消えないでくれて嬉しかったけど。彼女は稀にみるフォトジェニックな女の子。演技力がどうこうとかいう以前に、世の女優だって獲得出来そうで出来ない、画面に映える魅力の持ち主なのだもの。
加護ちゃんをひと目見て気に入ったらしい岩井俊二が、いつか彼女をヒロインに迎えて撮ってくれないかなあと夢想したりする……これはあくまでその一歩に過ぎないのだ。
おっと、話が脱線してしまった。ところでさ、とりあえずの設定と、あとはカンフー&ワイヤー・アクションがあれば成立してしまう香港映画を、ああ、これこれ、となんつーか、懐かしい思いで見てしまうのであった。
でね、私、この設定を最初に聞いた時、即座に思い出したのがチャウ・シンチーの「食神」だったんだよね。私が最初にシンチーショックを受けたあのドえらい映画。カリスマ的な料理人、そしてその料理人の腕を競う大会、と本作とやけに似ている気がするのは気のせいかしらん?
でも似ているのはその要素だけで、とにかくひたすらナンセンスコメディだった「食神」と違って、本作は基本的にはシリアス、なんだよな。でもそのシリアスも思いっきりベタなんだけど(爆)。
兄弟の確執、今は亡き親の愛情、料理人同士の妬みとワナ、ああ、なんてベタベタなのかしら(爆)。まるで昼メロを見ているようだわーとか思いつつ、その辺は無論、作り手側も判ってて、それはそれで基本的に抑えながら、あとはアクションと、この作品のモティーフである料理で引っ張っていく。
さすが四千年の歴史の中国、見た目の華やかさは勿論、料理自体に哲学的な意味を持たせる多彩な料理が次々出てくる。アヒル(鴨だったかな……忘れた)の中に鶏を仕込み、更にその中に鶉を仕込みというマジックみたいな料理は、ストイックな日本料理にはなかなかお目にかかれない(まあ、あるけどね)。
でも一方で素材の良さを生かすことこそが大事、という点はしっかり共通していて、彼らが大会で勝つ料理が、ありふれた食材である白菜の、しかしその柔らかい芯の部分だけを丁寧に使ったシンプルかつ奥の深い料理ってのが、おお、まるで美味しんぼの境地ではないか、とか思っちゃう(笑。実際キャベツ対決でそんなのがあったような……)。
ま、つーか、これがどういう話かってことなんだけど(笑)。冒頭は、いかにもこーゆー物語にありがちな、主人公が陥れられる場面から始まるのね。サモ・ハン演じるカリスマ料理人、ホアン・ピンイーが、さる祝宴の料理責任者を任されているんだけど、そこで体調不良者を数多く出してしまう。
どうやら最後に足した塩が原因らしい……その前に豚料理をワザとらしく焦がされてしまったことで、新たに作り直した料理に弟子が差し出した塩を改める余裕はなかった。明らかに陰謀だったけれど、ピンイーの信頼は失墜し、村を追われてしまう。
流れ流れたピンイーが行き着いたのは、四海一品という店だった。広東料理店であるその店に、四川料理の「開水白菜」を頼み、プライドをかけて受けてたった料理人をアッサリと喝破した。
その店に居合わせていたケンという若者は、この店のシェフを師匠と仰ぐために訪れていたんだけれど、このシェフはピンイーとの闘いに敗れて出て行ってしまったし、何より彼のオーラにホレこんで、彼の元で修行することを決意するんである。
で、加護ちゃんはこの店を切り盛りする姉妹の、妹の方としてご登場な訳よね。料理のことなんてまるきり判んないし、経営にもキョーミはないんだけど、とにかく勝ち気で負けず嫌いのイン。
そして料理には無知でも、その料理の味を左右する中華醤にはコダワリを持っているという女の子。コダワリを持っているワリには、「どれも同じ味だよね」と従業員に言われておかんむりなのだが。
それもピンイーにアドヴァイスをもらうことで、美味しい中華醤のコツがつかめたもんだから、なかばふくれながらも、インも彼に一目おくようになっていく。
てゆーか、姉の方が冷静にこの状況に対応しているのだが。彼女たち姉妹の亡き父が、ピンイーの兄の師匠であり、彼はその兄に料理を習った。
だから姉はピンイーに大いに敬意を表していて、料理長が去った後、いわば道場破りをした彼をアッサリ替わりに迎え入れたのは、そういう経緯を知っていることもあるけれども、多分にしたたかさも感じるんである。
でね、兄の師匠の天才料理人、その兄を師匠にした弟、などという、妙なワンクッションが引っかかると思ったら案の定でさ、この兄弟の間にはふかーい溝があるんだよなあ。でもそれが、兄の酒癖の悪さで身を持ち崩したから、っていう単純さがアレーって感じはするけど(爆)。
そこに“龍頭刀”なる秘剣ならぬ秘包丁が介在するのも、いかにもよね(笑)。なんかだんだん、ハリポタかドラゴンボールみたいな気になってきた(爆)。
この秘包丁は、そもそも兄弟の確執の原因になってて、兄の息子、つまりピンイーの甥である、絵に描いた様なワガママ実業家のジョーにとって、ピンイーはメッチャ仇なんである。
でもそれも、父を傷つけたというより、秘包丁を奪ったという点においてらしいのが、コイツの底の浅さを露呈してるんだよなー。大体、見た目からして浅いし(爆)。
だってさ、料理大会にこっそり駆けつけていた兄とピンイーは、アッサリ長年の確執を乗り越えて和解しちゃうしさ、それをテレビで見ていたジョーは長年苦しんでいたオレは何だったんだー!みたいなね(笑)。
この辺はかなりテキトーだと思うけど、サモ・ハンとコイツのファイトシーンが恐らくアクションのメインであることを考えると、まあ彼の役割はその程度でいいのかもしれない。
山積みのコーラ缶にドカンと墜落して、破裂した無数のコーラがブシュー!と噴き出す……あれは、噴き出すインパクトに重点を置いているんだろうケド、実際は相当、痛いんだろうなあ……。
というか、こうして書いていると、加護ちゃんが一体どう関わってくるのかさっぱり判んないけど(笑)。
でも実際、加護ちゃんはいわば華を添える役どころで、物語に特に関与してる訳じゃないかもしれないんだよなあ。そりゃまあ、人質になって冷凍室に閉じ込められたりもするけど、それだって救出の場面さえ描かれずに、次の場面ではフツーに登場しちゃうしさ。
でもまあ、彼女と若き料理人、ケンとの間の淡い恋愛感情(までも行ってないと思うが……)はあるにしてもねえ。
大体彼の登場シーンはなんつーか、「少林少女」っぽいよね。料理の修業に来ている筈なのに、寺社の元で多くの仲間とともにカンフー修行に明け暮れているっていうのが。
あ、「少林少女」は、ホントにカンフーのための修行だったか(爆)。でもうーん、やけに似ている気がした……パロディではないのか?それを言ったら、少林少女自体が「少林サッカー」のパロディっぽいんだから、パロディのパロディのパロディ……ややこしいな。
料理大会のシーンはなんか、料理の鉄人ぽかったけど(笑)。まあでもこれは、それこそ最初に思い起こさせた「食神」にもこういうシーンはあったし。
本作の場合はシリアスとコメディが同居していて、どっちにウエイトを置いていいのか、悩むところもあったかもしれないなあ。
でも、確かに加護ちゃんはホントにフォトジェニック。最初に見た時の印象が変わらないほどにキューピーちゃんみたいなベビーフェイス(ベビースキン)を保っているのに、一方でやけに巨乳で、色白の肌もそうなると吸いつく餅肌のエロに見えてきて、丈の短いパンツなんかはかれちゃうと太ももとかかなりヤバイし、彼女こそが究極のエロかもしれない、なんて思う。この赤ちゃん顔には騙されちゃうし、その柔らかそうな白い肌には触ってみたくなるしさ。
しっかし、香港映画は吹き替えが常識だとはいうものの、もうちょっといなかったのかと思っちゃうよなー。このエロ可憐な美少女に、こんなとんがった声ってどうなのよ……そりゃ、この年頃を連想させる声ではあるけど、もうちょっと柔らかで舌足らずな声とかさあ、なんか、ないわけ、とか思っちゃうよなあ、ついつい。
まあ、とにかく、加護ちゃんが準メインとしては初のスクリーンお目見えとして、記録的な作品だったと思う。加護ちゃん、ホンット、可愛かったしね。★★★☆☆