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「い」


2018年鑑賞作品

家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。
2018年 115分 日本 カラー
監督:李闘士男 脚本:坪田文
撮影:音楽:安達練
出演:榮倉奈々 安田顕 大谷亮平 野々すみ花 佐野由美子 浅野和之 品川徹 螢雪次朗


2018/6/28/木 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
コレが知恵袋に投稿されて話題になった時のことはよく覚えていて、本当に可愛い奥さんだと思ったし、妻のことがよく判らないと言いつつもきっと仲のいいご夫婦なんだろうな、素敵だな、とほっこり想像していたが、その後そんなにもメディアミックスが進んでて、その先にこの映画化があったとは全然知らなんだ。知恵袋からダイレクトに映画化なのかと思って、いやいやいや、だってそのネタじゃせいぜい15分で終わっちゃうよ、どうすんのと思っていた。
でも大体の人がそう思っていたんじゃないのかなぁ。投稿したお方がその後、ブログに展開したというのも今回初めて知ったから、その経過が原作に生かされているのかしらんとも思ったが、彼は今でも、奥さんがなぜ死んだふりをしていたのか知らないし、そのままでいいと考えているというし、???という感じ。

その後のコミックエッセイとなった時点でオリジナルが加えられたのか、それともこの映画化でそうなったのか……。ヤハリ2時間ともなる尺を持つ映画となれば、その“フリ”に“オチ”をつけない訳にはいかなかったということなのだろう。
判る、判るが、でも、このダンナさんがそうしたように、判らなまいままにした方が良かったんじゃないのか、だからこそ可愛らしい奥さんで、それに困惑するダンナという図式で踏ん張って、思いっきりのコメディにした方が良かったんじゃないか、という思いがどうしてもよぎってしまう。
つまり、そのオチは、夫婦愛という至極まっとうなドラマになってしまい、そしてそれは言うほど感動できるほどでもなく、まぁフツーの……そういうオチは考えつくよね、という感じだから、なんである。

ヤスケンと榮倉奈々ちゃんのカップリングには、個人的にかなり飛び上がるものはあった。だってだって、彼女が朝ドラヒロインだった時に、初めての全国区、それこそ大泉さんより先の大抜擢よ。あの時よーちゃんが悔しがっていたのを思い出すなぁ。
それ以来共演はあったのかどうか……ドラマとか見ないんでちょっとよく判らないんですけど、とにかく私はかなり盛り上がってしまったんであった。

随分年が離れてるよね、と思ったらヤハリ、ヤスケン演じるダンナの方はバツイチという設定。だから結婚生活というものに自信が持てていないという設定。
だからだから、自分が最初にダメになった三年目に、契約更新のようにお互いの考えを確かめ合おう、というのが結婚当初の約束で、そしてその三年目に起こった出来事、という展開なんである。

もうこのあたりから、せっかくのほっこりコメディにシリアスが入り込んできちゃっている。それでも夫婦二人だけの物語にしてくれたらよかったものを、ダンナが同僚(というか後輩)に相談する形で、もう一組の夫婦の形が、入り込んでくる。
この夫婦だけの物語にしてほしかったと思ったのは……もう一組入り込ませたところで、夫婦の形は千差万別、というのを補うには焼け石に水どころじゃないぐらい、物足りないから。

しかもそのもう一組の夫婦に、子供が出来ないという、まーありがちな枷を持ってきて、そしてそれが、どうやらダンナの方に原因があるらしい、それがまるで珍しい形であるかのように、奥さんは周りのプレッシャーにありがちに押しつぶされ、ダンナは男としてのプライドにありがちに押しつぶされるという……。
今の世の中の不妊の複雑さに照らし合わせたら、あまりにあまりに平凡で単純で古いこと極まりないただ一組の夫婦の形で、話し合いもしてないし、もうこの一組の夫婦の登場がジャマでジャマで。

うーうーうー、すっかり本題から離れてしまった(爆)。フェミニズム野郎は厳しいのよ、いや、そーでなくても、もうちょっと、現代の世相に気を配ってよといいたくなる単純さは、あるかなぁ。でもメインはヤスケンと榮倉奈々ちゃんの夫婦なのだから。
じゅんとちえ。サラリーマンと専業主婦のカップル。今時珍しい……。妻が死んだふりをし続けるのは、外との接点がないからと夫が考えるのもムリない、今の時代、まだ子供がいない状態で、しかも若くて、専業主婦というのは、それこそなぜ??と理由が問われるような時代なのだから。

勿論選択の自由があるんだから、余計なお世話と言うところだろうが、男やもめの父親の元で寿司屋を手伝いながら育った、ちょっと天然だけど芯はしっかり者の彼女が、専業主婦という道を選んだのは、ちょっと解せないものがあるのは事実。
幼い頃に母親を亡くし、父親を悲しませまいと幼心に思って育ってきた彼女が、同じ思いをダンナに抱いたということか、そういう意図は感じなくはないが、正直ちょっと、古臭いかなぁ、と思う。

そもそも彼女が死んだふりをし出したきっかけもなく唐突、三年目ということなのかなとも思ったが、進んでいくと、そういう感じもなさそうなんだよね。お母さんに死なれたお父さんが悲しんでいた時、かくれんぼをしてお父さんを笑わせた、愛する人に笑ってほしいという気持ち。まぁ判らなくもないが。
そして、お母さんに死なれた、つまりお父さんが奥さんに死なれた経験を持って、「絶対に私より先に死なないでくださいね」と言うちえは確かに切実だし、可愛いのだが、だったら自分が死んだ後のダンナが苦しむのはどーでもいいのかなぁ、結構勝手だなぁと思ったり(爆)。
これって、関白宣言の逆だよね。俺より先に死ぬなとかつては夫が言った。ここでは妻がそれを言う。そういう意味では女性の権利が向上したということなのか(爆爆)。

まぁ、ともかく、知恵袋で読んでいた時にもワクワクした様々な死んだふりパターンを見られるのは、まぁ楽しい。
もうちょっと死んだふりしているちえさんが耐えてくれて、じゅんさんが頑張って付き合う寸劇が続けばいいのになぁと思うが、そのあたりはそれこそリアリティというものか。役者同士でもなければ、そんなガマンして芝居なんかできないで、すぐ噴き出しちゃうもんなぁ。

特にちえさんのキャラクター造形には、そういうところがある。ここまで頑張って作り込んだのに、披露する段になるとかなりあっという間に噴き出しちゃって、「さ、ごはんにしましょ♪」とウキウキと台所に立っちゃう。
そんなもんだから尺もかせげなくなってきて、知恵袋で読んでいたバリエーションはあっという間になくなり、ウルトラマンになって「大気圏を脱したか……」とじゅんを困惑させ、50年先の未来から来たピコピコしたちえさんに「その時も、僕たちは一緒にいますか?」と聞いたりする。
うーん、タイトルのネタが尽きるの早いよとも思うが、50年先未来の奥さんに聞くこの質問は、オチをこしらえたこの物語の、まさに確信を突いてくることなんである。

なんのためにこんなことをするのか、困惑するじゅんは、勇気をもってその質問をダイレクトに奥さんに浴びせもする。何か言いたいことがあるんだったら言ってほしい、と。本来はそういうことじゃなくって、ただ単にイチャイチャしたいだけという可愛い奥さんだったんじゃないかとも思うんだけど(爆)。
いや、判らんが……とにかく男の人は対処できないことに対して、理由(というか、自分が対処できないことへの言い訳)を求めたがるところがあるからさあ。
劇中の奥さんは、それに対して黙ったままである。不機嫌な訳じゃなく、何か含んだような、困ったような、今は言えないみたいな顔で、黙ったまま。そして「月がきれいですね」と言ったりする。月なんか、出てないのに。

あれぇ、聞き覚えある、聞き覚えあるぞ。てゆーか、同じ年の公開で、こんなに公開も間近い二つの作品 で、同じセリフを同じ展開で使うなんて、そんな偶然、アリなの!!
夏目漱石がアイラブユーをそう訳したというこの台詞を、当然、そんな意味だなんて判る訳ないから、その意味が判明して大団円になるまで時間がかかるというところまで、おんなじ!こんな偶然、アリなの!!

日本文学好きのちえさんは、三年目の危機に怯えているじゅんに、彼がその意味に気づくまで、我慢強くただただその台詞を与え続ける。
そんな中で実家で寿司屋を営む父親が倒れるという事態が起こる。そこでじゅんは、今の自分と同じように、舅が娘から仕掛けられたことを知るんである。投げかけられた言葉も、出会った頃に聞き覚えのある言葉。「探せば私は絶対にいるから」

家の中に閉じこもってばかりだからと決めつけて、じゅんがちえさんをパートに出させる、そのパート先の、こじんまりしたクリーニング店のエピソードはなかなかに素敵である。品川徹はこういうしんみりした老人が切なく胸に迫りまくる。役者はヤハリ、長生きしなければダメである。
この人も奥さんに先立たれた人。心配してお弁当なんぞを作って持っていくちえ。ご主人はちえに言うんである。まだお子さんがいないのなら、今の旦那さんとの時間を大切にしなさいと。
特に日本がそうだってこともあるのだろうと思う。子供が出来ると、夫婦まで家族になってしまう。家族は家族だけど、お互い好き合って一緒になった同志ということを忘れてしまう。きっとそういうことなのだろうと思う。
月がきれいですね、の意味も判明し、二人はめでたく三年目の危機を乗り越えて、スタートラインに。

うーん、でもねぇでもねぇ。物語以外でも、なんかしっくりこないところがいくつかあるのさ。大体、彼が勤めているのは何やってる会社??さっぱり判らない。パソコンの前に座ってる、コーヒーを飲みに休憩所に行く。それだけでさ。
こういうところのリアリティがないと、物語自体に深さが全然出てこないのよ。取引先とのやり取りとか、ちょっとでもあれば全然違うんだもの。

残業続きの上司がヘトヘトに疲れて、だから家庭でも忘れ去られている、って愚痴るのも、どういう仕事で大変なのか判らなければピンとこないし、「なぜ別れないって、それは奥さんを愛しているから」という台詞にグッとくるのも、その辺の信ぴょう性に打たれなければ難しいのだ。
何よりなんかなぁ、と思ったのは、音楽の入れ方がヒド過ぎる。何だろう、お互いマジメにぶつけ合ってるところにとぼけた音楽入れたりして、その会話に先にオチがあるのかなと待ってみたりするが、全然そうじゃなかったりして。
コメディだけで押してほしいとは思ったが結局はそうじゃないんだから、音楽だけがコメディですよ!!と主張しても、困っちゃう。映画は総合芸術なんだからさぁ。★★☆☆☆


生きてるだけで、愛。
2018年 109分 日本 カラー
監督:関根光才 脚本:関根光才
撮影:重森豊太郎 音楽:世武裕子
出演:趣里 菅田将暉 田中哲司 西田尚美 松重豊 石橋静河 織田梨沙 仲里依紗

2018/11/11/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
ヒロインの趣里嬢。確かに名前には見覚えがあるし、いくつか観ている筈なのだがやはりドラマをなかなか観れないからか、まるで初めてのような印象で、そして強烈な印象。
何かの記事でバレエダンサーの夢からの転身、と読んだ気がした。ラストに見せる鮮烈な裸身は、まさにその鍛え上げられた余韻を充分に感じさせた。草刈さんもそうだが、何かバレエをやっていた女性っていうのは、ヌードに対してさしたる抵抗がないように思える。自分の身体が隅々まで表現だという意識があるからだろうか。

それにしても、鬱で過眠症でコンビニ弁当だけで過ごしているような女の子が、あんな引き締まった見事な裸身かしらんなどとツッコミたくなるが、そこは映画的美学というところであろう。
裸身、と言いたくなる。相対する彼女の恋人である菅田君は「なんで全裸なの」と言ったが、全裸、という言葉が醸す下衆というか俗な感じは全然なかった。それまではもーう、この子にイライラしっぱなし!!とか思いながら見ていたのだが、この神々しい裸身にすっかりひれ伏してしまう気持だった。

イライラしっぱなし、なのは、普通という平均値の価値観の中から、逃れられないからだ。
この普通、というのは実に便利で、これがあるからこそいろいろ快適な生活が送れるのが間違いなく、もしかしたら私たちは、それがためにいろんなものを封印したり知らずに我慢しているのかもしれないと、鬱に苦しむこの爆裂彼女、寧子を見ていて思うんである。

壊れゆく女、というのは古今東西、映画的魅力の一つとして繰り返し描かれる。名作もある。大好きな作品もある。でも、基本的にはあまり、好きじゃないのだ。女の白痴美というものが、男には置き換えられないことを(基本的に)考えると、ヤハリ蔑視だよなーと思ってしまうフェミニズム野郎(爆)。
それこそ本作の彼女が男だったら、見るに堪えないであろう。いや、本作の彼女も見るに堪えないのだが(爆)、それは私がフェミニズム野郎だから(爆爆)。

それに……鬱に苦しむ彼女が病院に行っている風が全然なく、彼氏の津奈木も彼女の鬱期が過ぎ去るのをじっと待っているだけにしか見えず、いやー、今はさ、いい薬もあるでしょ、これじゃ鬱に対する差別を助長するだけじゃないの、とかマトモなことを言ってしまったら、それこそ作品を作ることも出来ないことは判ってるんだけど(爆爆)。
社会生活が出来ない寧子が、津奈木の元カノにムリヤリ引っ張り出される形でアルバイトを始め、そこの人たちがメッチャイイ人たちなのだが、イイ人たち、というのが、これまたクセモノなのだ。
「鬱って、寂しいからなるんでしょ。私たち家族みたいなものだから、ここで働いてたら、大丈夫よ!!」うわーうわー、全然判ってないー。てか、寧子もそれに嬉し気に頷くんだから、彼女も判ってないんだ……ということに戦慄する。

これは、それを社会の無知として描いているのか、それとも作り手自身が判ってないのか、判断に苦しむ。壊れ行く女、の魅力が充満している本作だから、作り手自身の意図だとしても、それが受け手に正しく伝わるのかしらん、と思っちゃう。
そもそも原作自体はコミカルな雰囲気で、いわば自虐コミカルという感じらしく、恋人の津奈木もこれほどクローズアップされていなかったという。とすると、相当、どころか180度、原作とは違うということなんだ。まぁそもそも、映画は別物ではあるとは思うが……。逆に興味は沸くけれども、鬱に関するスタンスはどうなっているんだろう??

鬱、過眠症、という以上に寧子を強いキャラクターたらしめているのは、恋人を自分の論理に引き寄せたがる自己中さと、なのに彼以外の他人にはろくに口もきけない社会性のなさと、自分が理解されてないとか、自分の至らなさが見透かされている、ということを妄想的に敏感に察知し、何もかもぶち壊してしまうという、まさに壊れゆく、どころか、壊れてる女、なんである。
描写的に上手いのかそうじゃないのかよく判んないんだけど、八割方、寧子には共感できない。先述したように、今はいい薬もあるんだし、いいカウンセリングもあるんだからさ……と超マトモなことを思ってしまう。

ただ、ハッとするところはある。寧子は津奈木に無理無体ばかり言う。私のあげた手袋をなぜ使わないの。今はめて。ふざけてんの?なんで手袋だけはめてんの。ごめん、て。そのごめんてどういう意味。……もういいよ。
前半戦に示されるこんなくだりには、そりゃぁ津奈木の方に同情したさ。なんでこんなめんどくさい女と一緒に暮らし続けてるんだよと思ったさ。でも……ゴシップ週刊誌の記者という、相容れない仕事にしかし忙殺される彼が、彼女に対してのみならず、仕事に対しても、すべてに対して、今この時を回避する言葉を選んでいることにこそ、寧子は怒っているんであり、そして津奈木は……そのことに、気づいていない訳では、なかったのだ。

あまりにも対照的な二人、お互いの気持ちを通じ合えない不器用さ、というか、そもそもぶつかるすべさえないぐらい違っていた二人だった。本当に、彼がなぜ、彼女と一緒に暮らしているのか、凄く不思議だったし、津奈木の元カノが現れて、それを不思議がるのも道理だった。
この元カノを演じるのが仲里依紗嬢で、あの整ったお顔の、上下長いまつ毛に精緻に縁どられた瞳をガッ!と見開いて、なめてんでしょ、と、威嚇するあのコワさ!!

ダブル主演という形だけれど、ヤハリ趣里嬢が大きく踏み出ているのは、そもそもの原作がそうだったからというのも、あるのかなぁ。ただ、菅田君演じる津奈木が、最近なかなかに取り上げられる、ゲスなのはおめーらの方だと言いたくなるゴシップ週刊誌の記者であり、そのモラルのなさと多忙に追い詰められて、寧子さながらに壊れてしまう、という、つまり後半じわじわと、彼が彼女に近づいていく、というのが、これは、そういう意味ではラブストーリーとして究極なのかもしれないと思ったりする。
病気に対する正しい対処云々というのは、確かに映画的美学においては、ちょっと違う部分に位置しているのかもしれない。壊れていく彼女に彼が壊れていって近づく。考えてみれば、そういうラブストーリーは今までなかったかもしれないと思う。

周囲の人たちはアプローチの仕方はそれぞれだけど、皆“普通”に心配したり、悪態をついたり、つまり“普通”が基準になっているのだ。彼がその“普通”をその手から取り落とすほどの仕事環境の劣悪さと、同時に彼女に対してどうしようも出来ない自分があったのだとしたら……。
“普通”に安住していられるのは、そんな必死さの外側にいるからなのか。心配しているような顔をして、でも必死じゃないから、本当には判ってない。津奈木は、壊れたから、壊れた彼女のそばにいけたのかなぁ。

実際、この作品を、鬱病当事者さんたちがどう見るのかなぁというのが、気になる。確かに、過眠症なんていうことも初めて知ったし、そういう症状に苦しんでいる人たちをクローズアップするということは出来たのかなぁという気はする。でも、でもでも……。
この鬱(躁鬱なのだろうな、そこまでは描いてなかったけど)の彼女の症状を、本人も含めて正確に把握している人物は誰一人として登場せず、それはスマホの向こう側のお姉ちゃんやら、そのまた向こうの両親やらもそうであり……つまりはそれが、リアルな現実ということなのだろうが、そういうスタンスの映画でもない、じゃない?

こういうこと言うの、つまんないことだってことは判ってるんだけど、凄く映像的にも美しい映画で、こんなこと言うの、ヤボだってことは判ってるんだけど、やっぱりやっぱり、壊れゆく恋人たちの美しさで終わらせるには、今の時代厳しいんだもの。
作品の美学を壊さない程度に、そこはきちんとした指針がほしい、……やっぱり、私、つまんないこと、言ってる??でもさ、やっぱり、精神にしても肉体にしても、病をそのままエンタメの材料にするだけの時代は、終わったんだと思うのだもの。★★★☆☆


生きる街
2018年 124分 日本 カラー
監督:榊英雄 脚本:清水匡 秋山命
撮影:早坂伸 音楽:榊いずみ
出演:夏木マリ 佐津川愛美 堀井新太 イ・ジョンヒョン 岡野真也 吉沢悠 石田法嗣 小柳友 ラサール石井 斎藤工 内田理央 新津ちせ 菅原大吉 石倉三郎(写真) 仲間由紀恵(声) 原日出子 升毅

2018/3/14/水 劇場(新宿武蔵野館)
本当は震災モノはもうあんまり観たくないと思っているのだが、榊監督なら足を運ばねばならない。このチャレンジングな信頼のおける監督さんの作品は目につく限りは足を運ぶようにしていたつもりだが、フィルモグラフィーを見たら、ええっ、去年だけでそんなに撮ってるの!……全然観れてない、悔しーい!
しかし今回の作品は、ひょっとしたら夏木マリありきというか、主導の企画だったのかもしれない。彼女が震災復興に尽力しているというのは恥ずかしながら知らなかったが、10年ぶりの主演作に“選んだ”というのは、そういうことなのかもしれない。

いやいや、毎回その作品に強い意志の力を感じる榊監督なのだから、やはりやはり、彼の想うところはあるに違いない。榊監督が五島列島出身だということが、ふと頭に浮かぶ。海に囲まれた島国育ちの彼が、海への愛を持っていない筈の彼が、あの震災、あの津波になにがしかを思わない訳がない、と思ってしまう。
あの震災は、原発ということが絡むと社会的にも政治的にも人の心情的にも、難しくなってしまう。津波さえ、後回しみたいな感覚になってしまう。今回石巻に舞台を設定し、あの震災では避けては通れない筈の原発を、あえて入れてこなかったのは、タイトルからハッキリとしているテーマをぶれずに示したかったのかもしれない、などとうがって思ってしまったりする。

生きる街。これはひょっとしたらダブルミーニングだろうか。街自体が生きている、そしてこの街で生きる。それこそ……原発がらみだともうこの街は死んでしまったぐらいに、少なくとも外野からは思われがちであり、そうじゃないんだということで突破するのは本当に難しい。そして津波の被害に遭った街だって、そういう見られ方は確かにしている訳で……。
私たちの記憶の中で、あの映像のまま時が止まっているのだ。そしてそれは、その場所を故郷にして、外に出てしまった人たちにとってもそうであったりする。本作の主人公の娘、佐津川愛美嬢扮する香苗がまさにそうである。皮肉なことにというか、いや健全なことかもしれない、そうではない、“生きる街”なんだということを、愛する人から彼女は教えてもらうんである。

とまぁ、なんとなく先走ってしまいましたけれども(爆)。主人公は夏木マリ御大。彼女が東北訛りバリバリのおばちゃんを演じるなんて、違和感ありまくり……とも思う一方、こういう東北おばちゃんもいるな、と思ったりする。
水泳選手だった息子が、やたら声のデカいハデで目立つお母さんが応援に来るのが恥ずかしかった、というエピソードは、まさにまさに、夏木マリにピッタリである。まぁ正直、やたら濁点発音を気にして喋る台詞回しは、うっ違和感……と思うが、そりゃあ、ネイティブでなければどの方言だって、そう思うのは仕方ない。
それは彼女だけじゃなく、ほとんどすべてのキャストにおいて(爆)。あれれれれ、もちょっと東北ネイティブのキャスティングをしても良かった気がするなあ。

彼女扮する千恵子さんは、震災で夫が津波に流されて行方不明のまま。今も「帰ってこない」という表現をし、それを聞いた外国人旅行者は、きっと釣りに言ってるんですネ、と笑う。
千恵子さんは震災の時に譲り受けた丘の上の大きな家で民泊を営んでいる。震災時、避難していた人たちを出来る限り受け入れ、ある意味その時のエネルギーで乗り切った。しかし仮設住宅へと、あるいは他の土地へとだんだんと人が減っていき、どの時点で民泊を経営する決意をしたのか……。

何か、心のよりどころにしていた助け合い、人と寄り添っていたのが、どんどん減っていく、一人になってしまう、しかも夫はいない、というのが想像されると、何かたまらない思いにもなるのだ。
だからかもしれない、本当に母はこの地に残って幸せなのか、無理をしているんじゃないか、もう帰ってこない自分の夫を待ち続けているなんて、と子供たちは思って、そしてもちろん自分も充分に傷ついているから、この土地に帰ってこれなくて。

実際、千恵子さんだって子供たち同様、吹っ切れてなぞいなかったのだろう。いや、それは、震災を経験し、その土地にとどまるにしても離れるにしても、どういう決断をしたとしたって、忘れ去ることなぞ出来やしないのだから。
劇中、息子の哲也はちょっと付き合っていた同郷の女の子に「震災まだ引きずっちゃってる系?津波で身内結構流されちゃった系??」などと無神経な問いを発せられて激昂する。当然吹っ切れることなど出来てない彼は、「それで悪いかよ!あれだけのことが起きたんだぞ!!」と至極まっとうな、まっとうな……。

でもこの彼女、みゆきだってね、いわば、「山の方だったから、身内も全部無事だったし」という、震災でショック受けてるなんて言えない、みたいな葛藤を抱えているのだ。本当に、ヘンなんだけど。無事でよかったに違いないんだけど。誰一人亡くしてなくて、無事で、申し訳ない、みたいな感覚、あれだけの震災があると、なんか、起こっちゃうんだよ、そういうのが。山の方にいたから、無事だったから、申し訳ない、みたいな。
様々な複合被害が起きた東日本大震災は、先述したように、一方からではとても語れないから、難しいのだ。語り方を間違えると、人の気持ちを置き去りにしてしまう。今回の作品はそれをとても大事にしていると思う。多面的にするのは人物の方。状況の方ではないのだ。

娘の香苗は看護師をしている。今は夫との結婚を機に、名古屋に住んでいる。新人看護師の女の子が、患者さんが亡くなっても冷静な香苗の仕事ぶりに、あんなふうに慣れるようになるのかな……と口にする。先輩看護師がたしなめる。何も考えてないと思ってる?彼女、震災を経験してるのよ、と……。
震災って、いつのですか、と返す新人看護師の台詞に、そ、そうか、日本って、それだけ震災、と名のつくだけの大きな地震があるんだよなぁ……と震撼とさえ、しちゃうんである。東北に実家を持つ自分にとっては当然、震災といえば東日本でしょう!とか思っちゃうのは、つまりは奢りなのかということに思い至るんである。

香苗は夫との仲は良好なんだけど、名古屋に来てからは夫曰く「笑わなくなった」。夫は長距離ドライバー。香苗とはボランティアで駆けつけた先で知り合った。だから彼だってその惨状は目にしている。でも香苗は「いつ見たの??二日後?三日後!?」と声を荒げてしまう。
そりゃ、無理ないけど。津波が荒れ狂う様を、そりゃ夫は見てない。その絶望は、判りようもない。だけど、だけど……香苗の中であの街の時が止まっていることを、彼は何とか動かしたいと思い、未来を、幸福を、その象徴となる子供を作ることを恐れる愛する妻を、本当に本当に心配してね……。

この夫、演じるの、えっ、吉沢悠だったか!なんか彼、どんどん男臭くなって、イイ男になってるね!!
妻が突然、石巻に一人降り立ち、恐らくそのことを彼女は夫に告げてなかったんだろう、でも彼が妻に今の石巻を見るように勧めていた訳だし。
それを察して、トラックを転がして妻を迎えに来る、自分の家の跡に家族と共にいた妻を見つけ、転げ落ちるように運転席から降りて、香苗ちゃーん!!と叫ぶこの愛しい夫に、もう心温まりまくる。ずっと笑ってなかった香苗が、思わず噴き出すように笑うのがまた泣けるんだよなあ!

って、もうそこまでにいろいろあるんだけど!そう弟君の方もたっぷりさ。以前は有望な水泳選手だったらしい哲也は、オリンピック選手となった先輩が訪ねてきて、叱咤激励されたりもするも、どうもぐずぐずとしている。付き合い始めたキャバ嬢から先述のようにぐずぐずした態度を叱責されたりする。
その先輩が同席したキャバクラでの席で、イラついた彼は洗面所の鏡をブチ割ってしまう。「昨日のキミは最低だったよ」52万円の請求書を突き付けてその彼女、みゆきは言うんである。

みゆきはその後、哲也にとっての重要な客人を携えて現れる。こんな偶然あるかいなと思うが、彼女の“親戚のお兄ちゃん”ドヒョン君が、哲也の父親とマブダチだったんである。
しかも韓国の人。いや、鮎川という苗字ということは、お母さんが韓国の人??いやでも、彼のお父さんは外国人だから苦労したと言っていたよな、よく判らんが……。ドヒョン君は病気で亡くなってしまったお父さんが書いた手紙を携えて日本の、この東北の地に降り立った。

送った手紙が帰ってきてしまったのは当然……震災で家々が流されてしまったから。その佐藤さんが亡くなったということを地元の食堂で聞き及んだドヒョン君は千恵子さんを訪ねるも不在、諦めて帰りかけたところに、哲也に遭遇するんである。
みゆきと縁戚関係というのもそうだが、この偶然遭遇も、そ、そんなことあるかいと思うが、そーゆー細かいことは気にしない、気にしない。結果的にこのドヒョン君、演じるイ・ジョンヒョン君はとても素敵だった。
実際、外国籍の人たちだってあの震災の被害に遭っていたに違いなく、これはそういうスタンスではないけれど、なにか日本の、一地方の中だけで閉じられた被害、みたいな見られ方をしている感じがしていたのが、そうじゃないんだというのを、新鮮な切り口で示してもらえた気がした。

もう一つある。外国からの観光客が千恵子の民泊に泊まるシークエンスである。これは全く逆、日本で大きな震災があったのは知っている、その被害が、“ツナミ”がここでもあったのですか!!と驚くアニメオタクの女の子二人組、なんである。
こういう場所に泊まりに来るんだから当然、それを知ってて、津波の被害をある意味では観光ととらえてきているんだよねと思っていたこっちを、何とも言えぬ予想の裏切り方をするんで、衝撃なんである。
つまり、やっぱり閉じられたところにいると、ここだけが大変な目に遭ったのだと思う一方で、世界中でみんな知ってるでしょ、という思いもあるというか、奢りのようなものが、あったのかと思って……。

ドヒョン君が持ってきた手紙、外国人だからと辛い目に遭っていた彼の父親の心の友になっていた千恵子の夫への、震災のことを聞いて心配を綴るその文面も充分に感動的なのだが、やはりそこに挟まれていた一葉の写真、なんである。
二人行きつけのスナックで撮られた、まぁ酔っぱらいおじさん二人の写真、なのだが、これがなんでそんなに泣けるのかなぁ、と思った、ぼろぼろ出る涙の理由を、自分で気づいてなかった。

写真、そうだ、すべて流されて、千恵子の手元に、勿論子供たちの手元にも、何一つ、残されていなかったのだ。人間の記憶というのは頼りないもので、ずっと一緒にいたのに、写真ひとつないままいなくなってしまうと、その顔を覚えていられる自信がなくなる。おぼろげになる。だからかえって、いなくなったという感覚すら失せる。
写真が“帰って来た”ことで、香苗は泣きながら「おかえりなさい」と言った。お父さん、帰って来たね、と。お父さんが呼び寄せたかのように、香苗と哲也が久しぶりの帰郷を果たし、皆が集まってにぎやかなパーティーが行われたその夜、千恵子はこっそり夜中にむせび泣いていた。

「もう、お父さんは帰ってこない……」写真が、帰ってきちゃった。記憶が、帰ってきちゃった。一枚も残っていなかった写真、彼女の中の記憶をよみがえらせるためには、夫がどういう形でも帰ってこなければならなかった訳で、生身の夫ではなく、写真が帰ってきて……生身の夫は帰ってこないと、もう思い知らされちゃったのだ。
確かにそれが、彼女の心のよりどころだった。だから娘は、夫からも勧められていた、名古屋で一緒に暮らすことを再三かき口説くのだが……。

それまでもきちんと見せてはいたけれど、ラストシークエンスでは丁寧に、“今”の石巻の浜を見せる。区画だけがハッキリと残された、かつてあった家々がなくなっている様は、もはや見慣れた風景……だけれど、そこにはふてぶてしいほどに雑草が生えまくり、空き地大好きな子供たちにとっては、空き地のない現代社会にとっては、皮肉というには広大な、ここは未来の時間がたっぷり詰まった空き地が連綿と広がっているんである。
震災とかその悲惨さとか全く考えずに遊んでいる幼い姉妹二人の姿に、千恵子は“生きる街”を思い、目を細める。娘は名古屋に戻るし、息子も自分の足で立つために、ただこの地に帰るのではなく、することがあるだろう。

“どこも工事現場みたい”というこの街は、まさに生きているのだ。それをね、そういうのをね、見たいと思っていた、気がする。これから生きていく街、震災のあった街、というのはそりゃそうなんだけど、生きていく街。
一時期、頑張れ、っていうのは酷だと、頑張らなくてもいいんだという風潮があって、それもその時期には必要なことではあったと思う。でも今、写真の裏に書かれた、千恵子さんのオハコの台詞「ケッパレ」にひどくひどく心打たれるのは、ハレモノに触るようなことはもういいんだと。
生きる街、生きていく街、街も生きているし、そこで生きていく人もいるんだから、普通に、頑張れと、背中を押していいんだと、そう言ってくれている気がしたんだよなあ。★★★★★


愛しのデコトラ天使
2018年 82分 日本 カラー
監督:柿原利幸 脚本:川崎龍太 唐戸悠 木村洋輔
撮影:高橋まなぶ 音楽:與語一平
出演:天使もえ 桜ちなみ 遠藤留奈 可児正光 難波拓也 森羅万象 佐藤日出夫 佐藤良洋 染井佳之 吉田祐健 宮内龍二 服部康樹 板橋正樹

2018/9/6/木 劇場(テアトル新宿/レイト)
有楽町の劇場に貼られていたポスターで今回の特集上映に初めて気づいて、慌てて予定に入れる。製作本数は激減しているであろうピンクだが、今は一体何本作られているんだろう?この企画は毎年OP映画だということだけれど、他の製作会社はどうなっているんだろう??
ここ数年、こうした一般向け上映の際に尺を長くしてエロ度をR15まで落とすということをやっているけれど、60分がピンク映画(あるいはロマポル)だという実感が染み付いているので、なんだか長いなぁと思ってしまう。いや、というか、この一発目が、ちょっとハズした(爆。ゴメン!)

デコトラものは、ピンクの一ジャンルになっていると思う。そんなに本数を観ている訳ではないのだが、例えば吉沢明歩嬢のデコトラもの(それともアレはピンクではなかったかもしれない)などがかなりの印象に残っているので、本作のヒロインさんがちょっと薄い印象を持ってしまったのかもしれない。
いや、アレだな、なかなか継続して見られないこともあって、すっかり新顔ばかりになってしまっているのがついてけてないのかもしれない。それこそ女優さんはどんどん代替わりしちゃうのは仕方ないのだが、ワキとして残っていく女優さんたちにいつも心強さを見出していたし、男優さんはほぼレギュラーだし……。

今回の男優さんはあんまり判らない。特にメインの“スーツ野郎”氏は完全に未見だと思う。ピンクの男優さんのある意味必須の、たよりなさげで押しが弱そうで、でもよく見るとイケメン、いや、私多分、誰かをイメージしているな、あの人だな、岡田智宏!

出てくるデコトラが一台だけだっていうのが、寂しいのかもしれない。デコトラは大集合しての迫力、というのはそれこそ東映時代のノスタルジーで今持ち出すべきではないのかもしれないが。
例えばさ、市場とかにドカーン!と乗り付ければ、そちこちにデコトラさんはいる訳だし(築地にいれば、そらぁ、見慣れてるもんさ)、一台だけが、何か森閑とした出張所みたいなところにぽつんと乗りつけても、デコトラの魅力はキラキラしない、と思う。

それに、そう、それこそ荷物の搬入とか、そういう出先のやり取りとか一切ないから、デコトラが“生きて”いるというリアリティがないのだ。これは仕方ないことなのかもしれないけど、運転シーンと外から映す疾走シーンは切り返しで、そらーまー、運転してないですよね、というのが、判りやすく判っちゃう。
予算の少ないピンクさんにそこまで望むのはそれは難しいことは判ってるけど、映し方っていうかさ、編集っていうかさ、これじゃ丸わかりなんだもん、もう少し騙してほしいと思って……。

ヒロインの凛虎(りんこ。すげー名前。それこそデコトラぽい)は、今は一人でデコトラを転がしているが、これは恋人と共同出資してローンを組んで買ったものなのだ。その恋人は若い女を作って出て行ってしまった。彼女の元にはローンだけが残り、働いていた運送会社も閉鎖になってしまった。
そんな時に出会ったのが、“スーツ野郎” 廉太郎である。仕事が欲しい凛虎とここで一発カマして本社に戻りたい廉太郎の利害が一致したんである。

廉太郎はこのさびれた田舎町に出向でやって来た。まぁ、左遷と思われる。自己紹介に「国立大学卒業の……」と言うのが可笑しいというより奇妙である。
普通、大学名を言うよね。ピンクを一般映画としてかけることを考えてぼやかしたのだろうか。架空の大学を言ったらその凄さが伝わらないとか??忖度ってヤツですかねぇ、つまんない。

ピンク映画らしいところは、さっそくあらわれる。ここの所長が覗き魔で、今まではセクシー事務員の着替えを覗いているだけにとどまっていたのが、廉太郎が来たことで、若いモンどうしのセックスを覗くことにシフトしちゃう。
このセクシー事務員は、わっかりやすくザ・カラミ要員で、豊満なおっぱいをゆらして事務所のそこここで、いろんな体位で廉太郎とヤリまくりである。後に廉太郎が凛虎と心通わせて、聖域と言ってもいいデコトラの中で心震えるセックスをするシーンは実に素敵だが、素敵だからこそ、めちゃくちゃカラミ要員よね、と思っちゃう。

いや、別にいいんだけど、逆にこれだけ判りやすい図式も昨今珍しいかもしれない、と思って。
しかもこのセクシー事務員は、オツムが弱いかと思いきや、実は多言語堪能で、クライマックス、インドネシアからの視察団に見事な通訳で廉太郎の危機を救うんである。それはちょっと、良かったかもしれないなあ。

つまりは、こんなカラミ要員に負けちゃってるかもしれないってことなのよ、ヒロインが。彼女は別れた彼氏を、あしざまに言いつつ、実は忘れられなくて、待っている。帰ってくる筈ないと思ってたのに、帰ってきちゃう。
ちょっと話を戻すと、凛虎はドライバーだけじゃローンが返しきれないからスナックでアルバイトもしているのだが、そこのママが「私もダンナが出て行っちゃったの、同じよね」と凛虎を巻き込もうとしてたところが、帰ってきちゃうから、ぶんむくれちゃう。

てゆーか、ママが当たり散らす運送おっちゃんは完全にママにホレてるのだが、まるで相手にされないのが、可哀相なんだよね、笑っちゃうんだよね。「今日はお客さんいないから、早く上がって」いやいやいや、おっちゃん、いるでしょうと!
そういう場面が箸休めのように現れて心和むが、実はこのおっちゃんが裏社会(?まではいかないのかな)に顔が効いて、凛虎の元カレの窮地を救っちゃう場面には、驚いたなぁ。

で、そう、彼氏が帰ってきちゃうのよ。でも廉太郎の出現でもう心が移っている凛虎は……それでもちょっと迷いながら、とりあえず彼氏を追い出して、トラックで寝泊まりさせる。でもこのデコトラを、彼氏は自分の借金をチャラにするために、売り飛ばすつもりなんである。
かなりお約束で、酔いつぶれて廉太郎に送ってもらった凛虎が、みたいなシーンがあるが、その時にはありそうで、ない。廉太郎を帰らせた後、凛虎がモヤモヤして自分で慰めちゃうんである。うーむ、男子はこういうの観たいのかな。まぁ、一度ぐらいはいいかと思ったら、凛虎に彼氏が帰ってきたことを嫉妬するような形で、スナックのママまでシコシコやっちゃう(爆)。

供給先が基本男子だからその気持ちはよく判らないんだけれど、セックスシーンと同じぐらい、女子のオナニーは興奮するの……?なんかしっくりこなくて、居心地悪いばかりなんだけれどなぁ(これがフェミニズム発言というヤツ)。
だって、女子は男子のオナニーに興奮は、……多分……しないと思う。判らん。少なくとも私はしない。でも確かに女子のそれにはするかも(爆)。

帰って来た彼氏はそんな具合にヘタレだし、廉太郎はすっかり凛虎に心奪われているので、クライマックスはデコトラを売り飛ばそうとした元カレと廉太郎の一騎打ち、だが、廉太郎はエリート君なのでケンカ弱し、しかもこの日は大事な海外との契約の日!
駈けつけた凛虎は満身創痍の廉太郎を病院に連れて行こうとするも、そりゃー、なぁんか、イイ雰囲気になるわさ、路肩に止めて、カーテン下ろして、はいはい、さ!

あのセクシー事務員と全然違って、なんていうか、ストイックな、小ぶりのおっぱいが、それまでセクシー事務員の巨乳をもみまくっていた廉太郎だからさ、なんか心を感じるというか(爆)。
契約の日、しかも時間があと15分!と知った凛虎がハダカのまま、おっぱい丸出しのまま!デコトラを、ぐわーっ!と動かすのが、ちょっと笑っちゃうけど、カッコイイんだなぁ。★★☆☆☆


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