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「う」


2018年鑑賞作品


2017年 35分 日本 カラー
監督:竹内里紗 脚本:大石恵 竹内里紗
撮影:松島翔平 音楽:金光佑実
出演:馬場清子 金井浩人 鈴木幸重 根矢涼香 万田邦敏


2018/5/30/水 劇場(テアトル新宿/レイト 竹内里紗監督特集)
竹内監督特集、一本目がコレだったから結構な衝撃を受ける。「みちていく」が独特の複雑さを持ちながらみずみずしい少女たちの物語であることは間違いなかったことを考えれば、あの深淵なる作品からそのみずみずしさばかりをイメージとして保ち続けていたのかもしれない。
この30分あまりの作品は、なんていうか、ちょっとしたホラーである。てゆーか、手法がホラーである。それはいろんな意味を思わせるんである。男から見て、女から見て、当事者から見て、他者から見て、そして第三者から見て、世間というものから見て。

デートレイプ、日本ではなかなか浸透してない。「ゆるせない、逢いたい」を思い出す。あれもまた、浸透していない日本の中での挑戦である映画であった。本作もまたそうであることに変わりはないのだが、その切り込み方がホラーなんである。
冒頭、もうその場面である。数字をつぶやく声が聞こえる。横たわってピストン運動を受ける彼女のうつろな瞳に映るのは、片隅に置かれたパイプ椅子、そこに貼られた何らかの番号のシールである。
場面が変わると、彼女と対峙している男の子がいる。「何度も謝ってるし、これ以上どうしろって言うんだよ」その台詞からはこれまでの二人のやり取りを十二分に匂わせ、そしてそのやり取りをすればするほどどんどん二人の認識が離れていったであろうことも感じさせるんである。

そしてこの時点から彼女はもう、ホラーである。そりゃまぁいろんな女子大学生はいるとは思うが、地味暗の大学生当時の私だってここまで負のオーラは放ってなかっただろうという感じなんである。
服がモノトーンなだけでなく、目の下にクマのできたようなどすぐろい表情も含めて。この地味なファッションも何かやりすぎって感じで、それこそ彼氏にとってはイラつかせるものなのかもしれないとか思って。

彼氏、そう、彼氏。デートレイプだから。でも彼は、判ってない。ちょっと彼女の意向を無視しちゃったかな、というぐらいである。なんでそんなことしたのかって、好きだから、つまり彼にとってその衝動は愛情だと、迷いなく言い切るんである。
なんたって付き合っているんだから、むしろそういうことがない方がおかしいでしょ、上手くいってんじゃん、と笑い飛ばすのは彼女の友人である。二人が共通して言うのは、大げさだよ、と。むしろ、彼女からの反発に驚いたような形でとりあえずは謝罪を繰り返す彼氏の方がまだマシだったかもしれない。
女友達が言う「上手くいってんじゃん、良かったじゃん」は、同じ女側の気持ちを共有できないという点で、彼女にとっては絶望に近いような気がするんである。

彼女は、パイプ椅子を持ち歩く。この椅子だけが、目撃者なんだと、そこまで明確には言わなかったけど、明らかにそういう意味合いで、片時も離さない。
映画製作の学部らしい。ちょっと、ドキリとする。もしかしてこれは、監督の身辺で起こったことなのだろうかと。彼氏の方は教授にも覚えめでたい学生。彼女のプレゼンは、相棒の椅子をかたわらにスタートする。この椅子が見ていたことを、作品にするんだと、彼女は暗い目で言う。彼氏固まるんである。

味方というか、彼女の感覚を唯一理解してくれる人物がいる。後輩の、それも男の子というのが皮肉と言うかなんとやらである。別に先輩の彼女のことがひそかに好きだとか、そんなヤボな話ではない。
学園祭の宣伝のためにインタビュー映像を撮っていた彼は、先輩の彼女にカメラを向ける。最近の出来事、と言って、黒い暗い髪の毛に表情を隠しながら、なぜここでそんな赤裸々なことを語ってしまったのか、この時の、髪の毛で表情が隠れている彼女もまたホラーだし、それを驚愕の表情で撮り続ける後輩の表情も、ホラーな場面に出くわしたそれそのものである。
しかして後輩は正しく憤る。「あいつ、重いんだよな」などと友人に軽々しく話している彼氏に出くわして、思わず殴りつけちゃう。そして停学処分。沸点に達してしまった彼女は、彼氏のレイプを講義の最中に告発しちゃうんである……。

「君のしたことがどういうことか、判っているのか」まず、この教授の台詞に戦慄する。デートレイプ、いやさ、レイプそのものでも、つまりは男子側の見解はこういうことなんだと思う。
前述した、誰からの視点なのか、というのがあからさまに、醜くもはっきりと示されている最大の場面。男子であり、自分のクラスで問題を起こされたくないという保身であり、学校の名誉を傷つけられたくないという上からの目線であり……。

でも本作は、どんなに暗く見えても、ホラーでも、正しくエンタテインメントなのだ。これを社会派にしようという気がないのが、イイのだ。
男たちにとって、“大げさ”で“重い”女の子を、そのまんまのイメージを可視化するかのようにホラーにすることによって、彼らにとってのエンタテインメントにしてる。

でもそれは、女側、少なくとも彼女側にとっては、その見た目通り、地獄に落ちているということなのだ。ラスト、ただ一人判ってくれている後輩に独白する形で、まるでモノローグのように当時の状況を語っていく場面でブラックアウトしていくのには、本当に怪談話か、都市伝説とか、怖い話を聞かされているような、リアルな身震いを感じるのだ。
それは、男子が感じる“重い女”に対する身震いを疑似体験しているような気もして、不思議なんだけど、私は女子で、彼女の恐怖や憤りに共感している筈なのに、彼女が落ちていく闇が怖いのだ。
それは……これが大げさなことだと、重く受け止めすぎだと、ムリヤリ自分を納得させた方が、この先上手く生きていけるのだろうという予感が頭をかすめ、それがどんなに自分を欺くことかも判るから、もう、もう!!そして彼女を支えているのが、その相棒が、パイプ椅子だってのが、もう、もう!!

立教大学現代心理学部映像身体学科というかなり興味惹かれる出自から、王道の東京芸大大学院に進学したという。興味惹かれるなー。
ここにきて、シンプルな映像表現に豊かに楽しんでいる感じが凄くする。確実に才能にあふれる若き、しかも女の子(私から見たら、女の子よー)、もう、追いかけたい、追いかける!★★★☆☆


うず潮
1964年 96分 日本 カラー
監督:斎藤武市 脚本:田中澄江 小山崎公朗
撮影:岩佐一泉 音楽:小杉太一郎
出演:吉永小百合 奈良岡朋子 東野英治郎 山内賢 嵯峨善兵 平田大三郎 浜田光夫 高野由美 田代みどり 二谷英明 沢村貞子 堀恭子 石山健二郎 相原巨典 河上信夫 榎木兵衛人 林寛子 藤村有弘 天坊準 石丘伸吾 二木草之助 八代康二

2018/8/19/日 劇場(神保町シアター)
立て続けに若き日の吉永小百合&浜田光夫のカップリングを観る機会を得て、この若く可愛らしいカップルの愛らしさに、もう胸躍る心地なんである。
どちらかといえば可愛い、のは浜田光夫の方であり、吉永小百合はこれが意外にも、マニッシュと言いたいほどのカッコ良さ、勿論めちゃくちゃお顔は可愛いのだが、その独特の声の低さも相まって、実はこちらが本来の彼女の本質ではないかしらんとも思わせる。

尾道、そう、尾道なのね、林芙美子は。林芙美子、私読んでないなあ。これを機会にちょいと、手を出してみたい。
尾道といえば映画ファンにとっては大林監督だが、それよりずーっとずーっと前から、尾道は映画の神様が降りている土地だったんだなぁと思う。長い長い石段も、素朴ながら荘厳な寺社仏閣も、その隙間からきらきらと海が見えている様も、大林映画よりずーっとずーーっと前から、映画屋たちの心をとらえていたに違いないのだ。

しかしうず潮っていったら尾道ではないけど、なんだろね。タイトルバックは思いっきりうず潮なんだけど、物語にはちっとも関係してこない。
これは連続テレビ小説の映画化だというのだから、そちらでは何か関係していたのかしらん。

若き日の林芙美子は、行商の母親、出稼ぎの義父と共に、貧しい暮らしながらも明るさを失わずに暮らしていた。彼女自身のモノローグで“私のふるさとは旅であった”というのは実に印象的である。
今彼女は尾道に根を下ろし、魅力的な土地言葉で友達たちとワイキャイ楽しそうだが、その本質は根無し草の、孤独を友達にしてきた少女だったんである。彼女の明るさ、人好きのする魅力が不思議に切ない影を差すことがあるのは、その辺が原因かしらんと思う。
物語の最後、彼女は躊躇なく一人東京に向かう。これは、生まれ育った土地っ子ではなかなか出来ない行動であると思う。彼女は自分のあるべき場所をずっと探してて、それが良き友人、良き教師により指し示されたのだと思う。

なぁんてところまで行くには、ほぉんとにこのちゃきちゃき娘の貧しいながらも楽しい生活なのだ!海の見える女学校、このロケーションも相当に魅力的。そこで彼女は四年間を過ごす。
個人的に教師が大好きである。どこの出身なのか、ズーズー弁が最高に可笑しい、一見すると厳しそうなおばちゃん教師。彼女はいかにもこの時代の、女は嫁に行くのが当然で一番の幸せ、だと思っている人で、そこからハズれたことをする“奔放”な生徒たちに遭遇すると、嘆かわしい、恥ずかしい、あぁ、と頭を抱えるのだが、それは生徒たちをきちんと愛しているからで。

彼女たちをいい感じにからかうようなユーモアで教室はどっかんどっかん大爆笑だし、この一見厳しく、女の道の可能性を閉ざすような女教師のことを、彼女たちがかなり好いているらしい、んだよね。勿論それは、まだまだ彼女たちは、男女同権などという時代も遥か遠く、そんな意識もないということなのだろうが、それでもこの高等女学校というところで学んでいる彼女たちだから、それなりの自意識はある筈。
卒業してすぐにお嫁に行くという人もあるにはあるが、自由恋愛に苦しんでいる者あり、卒業したらアメリカに渡る才媛ありと、その道は様々で、彼女はそんな生徒たち一人一人に、きちんと相対しているのが判るから、イイんだよなぁ。

そしてなんつっても胸キュンなのは、二谷英明扮する国語教師、森先生である。か、か、か、カッコ良すぎる。芙美子は劇中、網元の次男の二郎、質屋のぼんぼんの光平、と二人の魅力的な青年に想いを寄せられる上に、このハンサムで理解ある教師まで加わるんだから、なんつーぜーたくな!ちくしょー!!
つい最近、「センセイ君主」を観たばかりなので、頭の中で森先生と芙美子を妄想変換して見てしまう(爆)。

劇中、美人音楽教師の指導でバイオリンを奏でる場面があり、芙美子のみならず友人の女友達たちもキャーキャーなのだが、うーむ、左手が全然動いてない、ピタリと止まっている。うーむうーむ。これなら後に芙美子が質流れのバイオリンを手に入れて、ぎーこぎーこやって二郎に苦情を言われるコミカルな場面の方が、小百合さまはそれなりに左手を動かしていたのになぁ。
この森先生は、芙美子の作文の才能をかっていて、彼女が東京に出る決意を固めたきっかけとなる、懸賞童話を勧めてくれた人物なんである。それなりに事実には沿っているのだろうから、なんともこのあたりは感慨深い。

「先生は結婚したら、私みたいな貧しい生徒のことは……」的なことを芙美子は直截に言ったりするのだが(結構ビックリ。でも芙美子は常に明るく笑顔で、ビックリするような言動をするのが魅力なのだ)、これに対して森先生が返す言葉がイイの。「いい生徒のことは、忘れないものだよ」
ちょっと言い回しは違ったかもしれない、でも、彼の言い様は、いい意味であのズーズー弁女教師とは違う不公平さで、だからもー、胸キュンになるんである!!

なんていう道草をしてはいけない。芙美子はステキな若者二人の間で揺れ、そして貧しい境遇の中、ふんばって、生きている。この濃いエピソードがてんこもりの物語が、たった97分でつづられているなんて、ホントにオドロキである。
二郎、光平とのそれぞれの出会いも、それぞれに鮮烈である。登校途中に浅瀬でシジミをゲットしている芙美子に、魚を持ってってやるよ!と声をかけた二郎は、最初から潮焼けしたたくましい青年の魅力が、その笑顔と共にあふれている。遅刻しそうになって走りながら、振り返りながら彼と会話する芙美子=小百合さまの可愛さも最高である。

そして光平との出会いは、友人の付文(というのは誤解だったのだけれど)を突っ返すために勇んで乗り込んだ寺の境内である。写生をしていた彼を、インテリぶったヤツ、と決めつけて乗り込み、それは人違いで、本物の方(つっても、付文じゃなくて、絵ハガキを撮るための写真屋の男)に議論を吹っ掛けまくって食ってかかる芙美子に、寺の住職も光平も大笑い。
この二人の好青年は二人ともども芙美子を一目で気に入り、最初に出くわした時は、双方、ライバルだというのを敏感に察してやたら気まずい雰囲気になるのが可笑しくて、噴き出す!

でも、そこは男の子なんだもん。なんか、意味もなく?仲良くなっちゃうのが、素敵なの。勿論ライバルだし、特に二郎の方は、帝大生であるおぼっちゃまの光平にちょっとコンプレックスを抱いているから、目の敵にするようなところがあるんだけど、「俺がいつも一番に4月に海に入るのに、一週間早く入ってやがる」とライバル心起こして海に飛び込み、二人仲良く遠泳してる様なんか、もう可愛くって、涙が出そうである。
こういうの、男の子には勝てないな、と思う。芙美子のことが好きな同士、芙美子もそれで心揺れるのだけれど、結局は彼女はどちらと添い遂げることも出来ずに、一人、東京に向かうのだもの。

でも、本当、この二人はいいヤツなんだよなぁ!二郎の方は思い募って、正式に縁談を持ち込む。しかし芙美子は自分は学びたいことがある。まだ若いし、イエスもノーも言えない、ときっぱりと断るんである。女は嫁に行くのが唯一の幸福と考えられていたこの時代にである。
しかもそれを聞いた二郎のお父さんが即座に、女性がこれほどに学んでいるというのに、お前は遊んでばかりでいけない、と、もうホント、即座に芙美子の心意気を受け入れるのが、なんか笑っちゃうぐらいストレートで、これぞ芙美子ということなんだろうなぁ、と思う。

むしろ、女親の方がそこらへんは時代に即してねちねちしている。光平の母親は、息子が芙美子と付き合うのを快く思っていない。それは、ハッキリと身分違いだから、であり、自分の息子をたぶらかしているんではないかと、芙美子の貧しい自宅にまで乗り込んでくるんである。
うわー、である。芙美子の母親は仕事をもらっているという立場上、強くは出られないんだけれど、何よりいいのは、この芙美子の母親が、基本低姿勢でも、芙美子のことを信じて、娘の言い分を先に聞こうとするところ、なんである。この辺が、芙美子の、そしてこの親子関係を本当によく表しているんだよね……。
結局はこの光平の母親は女のカンが働いていたということなのかもしれない、芙美子も光平のことを好きだという気持に気づいて、うろたえるほどに気づいてしまって、だからこそ彼と離れる決心をしたのだもの。なんて、なんて切ないの!!

芙美子の父親も忘れてはならない。ハッキリ言って、ダメ父親である。義父という屈託がまるでないのはある意味不思議だが、芙美子にとって家族ということこそが、大事だったのかもしれない。
ニセモノの商品を売り歩いておまわりさんから逃げ回るなんていうのは序の口、売り上げをバクチでスッてしまって、溜まった家賃や修学旅行費も払えなくなっちゃう。芙美子は自ら工場でバイトして修学旅行費を稼いだのに、それを店を出したいからと畳に額をこすりつけて懇願されたら、芙美子は……出しちゃうの。でもそれも、抵当物件でむしろ借金が膨らんじゃうというていたらく。

もう、もう、なんて、ダメ父親なの!!なのにさ、芙美子は凄く、彼に対して優しいのね。母親はさ、やはり、そこはケンカしちゃうよ。彼女は負い目があったと思う。実際にそう言っていた。芙美子には自分のように男で苦労させたくないと。だから芙美子の頭の良さや才能を買っていたんだと思う。
でも惚れた弱みがあるんだなぁ。娘から言われちゃうように久しぶりに夫が帰ってくるというと、なけなしのお金できちんと髪結いで身なりを整えて、芙美子は「わぁ、お母さん、キレイ!やっぱり女は亭主を持たなきゃね!」なんて、ませたこと言ってさ!「女の子が」と母親が渋い顔をするのもかまわず、お酒を酌み交わして、お父さんを喜ばせちゃう。勿論、このダメお父さんが好きだっていうこともあるのかもしれないけど、きっときっと、お母さんのためなんだよね。

芙美子は明確にフェミニズム思想を打ち出す訳じゃない。でも、彼女の曲げない言動に、そう、例えば、光平の母親に厳しく言われても、何もやましいことはしていない、光平さんとは付き合っていきたいから、会わないということはできない、とハッキリ言ったりするところに、後の時代から考えると、凄く凄く、深いものを感じるのだ。
光平はとても優しい青年で、芙美子が友達の結婚式に着ていく着物がないと知ると、店のものをこっそり持ち出して届けちゃう。でもその優しさは、正しいものじゃないのだ。それを芙美子は判ってる。それが知れれば、お互いに傷つくことを判ってる。

それを返しに行った先で芙美子が彼の母親に、「息子さんが望まないお見合いに悩んで海に身を投げた」なんて真顔で大ボラこいたことには思わず噴き出したが、でもそのまま真剣な顔で、彼への想いともう会わない決意を泣きながら吐露する彼女にはもらい泣きしてしまう。
芙美子は本当に感情豊かで、彼らの前で何かといえば泣いちゃったりなんだりするんだけど、いつでもその時には、自分の思いをハッキリと口に出している。憐れまれる自分が哀しいとか、つまりその先には自分がどうしたいかという答えを見つけ出しているのだ。バイオリンを弾きたい、文章を書きたい、東京に行きたい。めちゃくちゃカッコイイ女性。

「日本一美味しいうどん」だといって彼女自ら手打ちして出す、でもところどころだんごになっちゃってるうどん、愛しく、美味しそうで、ああ食べたい。そして必ずいつでも、ちゃんとお銚子をつける。こういう男っぽさも、好きなんだよなぁ。★★★★☆


嘘八百
2017年 105分 日本 カラー
監督:武正晴 脚本:足立紳 今井雅子
撮影:西村博光 音楽:
出演:中井貴一 佐々木蔵之介 友近 森川葵 前野朋哉 堀内敬子 坂田利夫 木下ほうか 塚地武雅 桂雀々 寺田農 芦屋小雁 近藤正臣

2018/1/17/水 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
いやー、これは確かに初春の初笑いにふさわしい痛快作だわ!お宝もの、日本人は好きだものねぇ。しかして案外それをネタにした映画はなかったんだわ。
今や最強の脚本家&監督のタッグと言ってもいいこの二人が、緻密で人間くさくていい感じにアホでとにかくむっちゃ面白い映画を作ってくれた。しかも主演は中井貴一と佐々木蔵之介!この二人のがっぷりよつとはなんと贅沢なの!

中井貴一は店を持たずに軽トラでお宝さがしてウロウロしている古物商。佐々木蔵之介は贋物茶器を作る陶芸家。どちらも目利き、職人としての才能は確かなものなのだが、どうにも不遇の日々を送っている。
偶然出会ったこの二人のその不遇の原因が同じところにあったというのが、ずっとずっと後になってから判るから、ご都合主義とかなんてことも思わない。いや、古物商と贋物陶芸家は、そりゃ出会うべくして出会う、狭い業界ということもあろうが。

でも、古物商、則夫は、お宝が眠っていそうな蔵を持つ家を訪ねた先に佐輔がいた訳で、最初は彼が贋物陶芸家なんて判らない訳。てか、そうやって佐輔は立派な蔵のある家の留守番のバイトをしながら、手ぐすね引いて待っている訳。
いかにもな感じで蔵に山積みにされているのは、みんなみんなみーんな、佐輔とその仲間たちがそれらしくもっともらしく、いやもうとにかく本格的に箱から譲り状から勿論茶器まで古美術っぽく作り上げたニセモノ!!

ただし、則夫は目利きの古物商だから、少なくとも茶器が“うつしもの”かどうかは判る。それがまさか、超現代においてのうつしものだとは思っていなかっただろうけれど。
後から思えばもっともらしくうつしもの、贋作について佐輔に対して一席ぶつ則夫は実に、愚かだった訳で。

そう、則夫は、茶器に関しての目利きは絶対に自信がある、ハズだった。それが本物の譲り状に目がくらんで判断が鈍る。勿論、譲り状だって本物じゃない。つまり、譲り状に関しては、茶器ほどには目利きじゃなかったということなのだ。
ここに目をつけたのが凄く、凄いと思う!!後にテレビにも出ている大物鑑定士、そして贋作に鑑定書をバンバンつけて大儲けしているってゆー輩が、彼もまたまず譲り状に目がくらんでしまうあたりが、そうかそうか、意外にここが落とし穴なのかも!!とか思っちゃう。

勿論、科学的判定をすれば一発でバレるさ。あーそうそう、実は私、学芸員の資格持ってるんでっ、もーのすごい昔の記憶を思い出しましたよ。博物館に収められるとゆーことになれば、当然かけられる判定、そのエピソードが最後の最後、エンドクレジットのオマケ映像みたいにつけられるのが、これがホントにミソだと思って!!
つまり、彼らはロマンという名で金儲けをしているのだ。そこには見栄や欲も大きく手伝っている。あれだけの目利きの則夫が騙されたのは、そこにまさに欲が働いたからなのだ。

譲り状は確かに本物(だと思い込まされた)、箱はいかにもな古色蒼然(これだって、贋物がホンモノの製作当時から作られている、という思い込みがなければ、見抜けたかもしれない)、後に佐輔とタッグを組む時に肝に銘じる教訓、ニード、グリード、あれ、もうひとつなんだっけ、スピードだっけ?すみません、忘れたけど……まさにそれに引っかかったのだ。

騙された悔しさもあるが、何より佐輔の腕に惚れ込んだ則夫。しかも則夫も佐輔も共に人生を狂わされたのが、樋渡開花堂。有名鑑定士をお抱えにし、無名の陶芸家に贋物を作らせて鑑定書を乱発して、あぶく銭で儲けている。本当にこういうところ、ありそうでコワい……。
そう、後から思えば、本当にそう思うんだよなあ……。博物館に収蔵されることになれば、目利きなんていうことはある意味クソみたいな価値観だ。科学的な判定がなされ、それに対して大金が支払われる。ただし、その前に個人収集家(勿論、転売によるもうけを考えている有象無象たち)との闘いがある訳だから、そうした文化的組織の人たちも、ニード、グリードの波に飲み込まれずにはいられない。

その象徴で登場するのが、利休を愛してやまない博物館の学芸員、田中で、これを演じるのがつかっちだというのがもう心躍る!!佐々木蔵之介とのクロースショットが、ああ、ああ、間宮兄弟!!もうこれをネラってキャスティングしたとしか思えなーい!!

もう、もっのすごく、利休を愛してるの。いわゆるトリビア的なものは完璧。うっれしそうに語りまくる彼にめんどくさくなって二度三度と則夫と佐輔が彼を置き去りにしちゃうシークエンスに爆笑!
つまりこーゆー人が一番騙されるんだよね。彼が語ったエピソードから贋物づくりチームが悪ふざけこいて、譲り状にかもめなんぞを描き込んじゃったんだけど、それに当然一番感激しているのが彼(爆笑!)。

なんかちょっと先走り過ぎたな(爆)。そんな大舞台に至るまでには当然、長い長い行ったり来たりがある訳さ!そもそも則夫は佐輔に騙されたことで大激怒だし。
樋渡に騙されたことで店を失い、離婚にまで至って疎遠になっていた娘と久々の再会を果たしたと思ったら、この娘、いまりは佐輔の息子、ジオラマオタクの誠治と恋に落ちちゃうという想定外。
いまりが森川葵、誠治が前野朋哉。いやー、旬の、そして何かとパンチの効いたお二人。楽しい。

佐輔は地味なジオラマを黙々と作り続ける息子にどこか呆れ気味だけど、あっきらかにあんたの血を引いてんじゃん!と言うことなんだよね。「それ食えんのか」と問いかけて息子から「食えないよ。プラスチックだもん」というボケをかまさせはするけれど、その問い自体、自分自身にそのまま跳ね返っていくことなんだもの。

確かに佐輔は食えてはいる。でも、それは自分の作品の価値ではない、まやかしのものなのだ……。そこがそう、凄く上手い、上手いんだよなー!誠治が作っているジオラマも、現実の何かをそっくりうつしているという点では同じ。いわゆるまがいものだ。でもそれが茶器の世界ではうつしもの、というジャンルが存在し、その価値も認められている。
実際、若き日の佐輔はそれで実力を認められたのだ。しかしその作品をうつしものではなく、はっきりと贋物として、つまり高値をつけられたことで彼自身の価値は失墜した。

この物語の大メイン、これまではうつしものを作り続けてケチな詐欺稼業に加担してきた佐輔に、うつしものではない、過去にはないオリジナルで、利休を作れと、則夫は言った。
けしかけた、と言うべきか、挑戦しろ、と背中を押した、と言うべきか、先述の、芸術の価値観の難しさを思うと、ほぉんとに、上手い、ここに目を付けたか!!という感じなのだ。

結果的に“騙されて”則夫も佐輔も人生を狂わされた大ウソ老舗古物商、樋渡の番頭も大物鑑定士も騙され、一億もの値がついた時、佐輔は「俺が作った茶碗が、一億……」とつぶやき、長年苦労(苦楽ではなく)を共にしてきた奥さんもうんうんとうなずいた。
それは決して、ニセモノについた値段という意味でのうなずきじゃなかった。だって何もうつしていない、利休が最後に作らせるならこれだという、考えに考え抜いた、それまで利休の茶碗として出たことのなかった、まさにオリジナルの茶器なのだもの。

この奥さん!友近!友近かー!!超ピッタリ!!佐々木蔵之介と共に若い頃の回想を、それこそイイ感じのニセモノ加減で(爆)演じているのもイイ。
ちっちゃいアパートでなけなしのすき焼きをつつきながら、則夫に「いきなり来てすき焼き食っといて」と悪態つくのとかサイコーである。

一度は佐輔にアイソつかして出て行った彼女が、一世一代の大芝居を打つダンナの勝負の場面に現れて、値を吊り上げる一声を張り上げるのには泣ける。
そして欲の皮つっぱらかして戻って来た樋渡の二人から隠れて、台の下に隠れる。高値に驚いてお互い口をふさぎ、ついに商談成立!!思わず感極まって×××!!台を隠していた布をめくった則夫が慌てて手を放す場面がサイコー!妙に裏返った声で則夫が「帰ったよー!」と叫び、そそくさと出てきた二人が、友近が、スカートが微妙にめくれているのが芸が細かい!

一億せしめて、皆で山分けして、そしていまりと誠治の結婚も決まって、すべてがハッピーエンディング!!かと思ったら……。まさかの誠治の過去の女乱入!いやそんな訳ないだろ!あの前野朋哉……いやその(汗)誠治にそんな過去の女なんている訳ないだろ!!(つい本音が出てしまった……)。
案の定、愛娘が可愛いが故の則夫の狂言であり、えー、それにこの二人が騙されるの??と思ったら案の定さ、せっかくせしめた金をいまりと誠治がまんまと奪って姿くらます!
則夫ときたら、この狂言に使った妙に色っぽい女(堀内敬子だからさー)とどうやらねんごろらしく、もうすっかり油断しちゃってるの。慌てて空港に駆けつけた則夫と佐輔だけど、誠治に抑え込まれて、いまりはさっそうとゲートの奥へ。あぁ、なんと痛快!!

でもさ、実際則夫が言っていたように、「銀行なんかに預けられないだろ。だからマイナンバーってイヤなんだよ」ということよ。出所のアヤしい大金は、それこそ外国にでも持ち出さなければ自由にならない。それをあっさり空港で止められちゃう。
駆けつけた誠治と笑い合ういまりは、幸せならばいいが、ど、どうだろう(汗)。

その頃もう、則夫と佐輔は気持ち切り替え、空港からのまっすぐの道路をひた走っている。「また儲ければいい」「“本物の”譲り状と箱もあるし」佐輔は鑑定士の肉声をコッソリ録音さえしていたのだ。
でも則夫はそれをあっさりと消す。あんた、いい腕してるよと。このままの価値で売るんだと。わー、泣ける泣ける。正直、ちょっとおススメできないこのお話を(そらそうだ、犯罪だもの(爆))、どう決着つけるのかなと思っていたのだ。

こういう収束の仕方はいかにも日本的かもしれない。海外ならば、詐欺でもなんでもエンタメならそのままいってオッケー!とするかもしれない。でもやはり日本は、特に現代劇として描くから、やっぱりそこんところはキチンとしてるんだよなあ。
腕のある職人なのだから、彼自身の技術で勝負し、姑息な手段で一億で落としたまがいものは、巨額で博物館に転売の話も出るが、今さらながら贋物かもしれない……という恐れを抱いた樋渡たち、やいのやいのしているうちに、うっわ、ガッシャーン!!……爽快、痛快、でも日本だなあ、日本的良識できちっと収める。日本だよ、ホント。★★★★☆


嘘を愛する女
2018年 118分 日本 カラー
監督:中江和仁 脚本:中江和仁 近藤希実
撮影:長澤まさみ 高橋一生 DAIGO 川栄李奈 野波麻帆 初音映莉子 嶋田久作 奥貫薫 津嘉山正種 黒木瞳 吉田鋼太郎

2018/2/5/月 劇場(TOHOシネマズ渋谷)
新たな才能の発掘は、「TSUTAYA CREATORS' PROGRAM」なる企画の最初のグランプリなのだという。松竹ブロードキャスティングもそうだし、これからどんどんこうした企画でオリジナルな才能と映画を作り出してほしいと思う。
そう、オリジナル。もうベストセラーと人気コミックは出尽くした、とは言わないけど、映画ファンであるこちとらとしてはヤハリ、映画だけの、何にも頼らない、原作より落ちたとか言われない(爆)、オリジナルが欲しいのだ。
勿論、原作とよりよい関係を結ぶ映画はたくさんあるが、あのベストセラーの、とか、芥川賞受賞の、とか、あの人気コミックの、とかいう惹句に、昨今はちょっと食傷気味な感があるから……。しかも公開から順調に動員数を増やし、順位が落ちない。なんと頼もしいことよ。

恐らく今一番オファーが殺到していると思しき高橋一生氏と、人気女優という以上に実力を兼ね備えた長澤まさみ嬢のがっぷりよつ、これは両主演と言っていい、のだろう。
序盤かなり早めに高橋氏演じる桔平がくも膜下出血で倒れてしまって、動揺する由加利(まさみ嬢)の姿を描くシークエンスがしばらく続くので、これはまさみちゃんのピン主演かな……とも思ったが、中盤以降、彼らの出会いやその後の経過が丁寧に描かれ、だからこそじわじわと不安と焦燥を彼女と一緒に共有することとなるんである。
上手い、と思う。予告編で見た時からドキドキとしていた、刑事が訪ねてきて彼の身分証を見せて、名前も何もかもデタラメだと言うシーン、五年も付き合ってきたのに、彼の何一つ知らなかったことに茫然とする由加利。もうこのざわざわ感だけで、面白い予感がしていた。

オチバレ覚悟で(っていつもだけど(爆))言っちゃうと、正直、あんなにも穏やかで優しそうだった彼が、実はとんでもない極悪人で、何かの犯罪から逃げている、という展開を予測していた。由加利の依頼で動く探偵、海原(吉田鋼太郎)も、広島警察が桔平を探していた、という情報にぶち当たると、「本当に過去を知りたいのか。警察が出てくるなんて、最悪だぞ」と彼女にくぎを刺していたし。
海原だけではなく、そもそも名前も何もかもウソだった男の過去を探れば出てくるのは“そんな具合のこと”だというのは、誰もが想像することだろう。
海原が最初に軽く推測していたのは「安手の結婚詐欺師かな」といったところであり、それも、警察が絡んでくると極悪人かも、というのも、誰もが予想する“範囲内”だったのだ。つまり、気持ちよく裏切られるし、その哀しき真相に戦慄するし、桔平の愛は本物だったことに感動もする、のだけど。

だけどね、やっぱり心のどこかで、コイツがとんでもない男であることを期待しちゃってた感は、あるかなぁ。
感動の物語に落とし込まれた時、そして昏睡状態から彼が目覚めた時、良かった良かった、と思いはしたものの、きれいすぎるかなあ、という気持はなくも、なかった。ただ、彼が極悪人だという結果なら、それこそありがちなことだろうなとは思ったのだけれど……。

もう、全部すっ飛ばしてオチの話ばかりしてるから言っちゃうけど(いつものこと……)、桔平がなぜ名前の偽造なんかしてたかっつーと、育児ノイローゼで妻が幼い子供と無理心中を図ったから、なんである。
彼は有能な外科医で、月の半分は家を空けていた。周りから見ても仲睦まじい家族ではあったが、一人残される妻は抱えた屈託を、多忙な夫に言うことが出来なかった。そして凶行に及んだ。
……あれは、無理心中というのだろうか。殺人と事故なんじゃないだろうか。赤ちゃんを浴槽に沈め、呆然自失となっていた妻は車道に飛び出してはねられた。……時間差があるにしても自殺ということなら、無理心中なのかなぁ。ちょっとそこは気になったような。

という、オチに至るまでが勿論本作のキモであり、充分ドキドキとさせてくれる。
真相が判った時、行方をくらました“悲劇の夫”が東京にさまよい出て、自分を偽って暮らし始めたことを、「自分を消したかったんじゃないですかね。東京ならだれか一人いなくなっても、誰も気づかない」という台詞は、……それこそちょっと使い古されているかなあ、という感はある、ような気はする。

自分を偽っているから実際はその職に就けないのに、偽造身分証を作ってまで由加利に、自分が研修医であると告げていて、医者であることまでは捨てきれなかったのも若干の疑問が残る。
しかもその身分証は、由加利が桔平の本当を探りたくて狂乱の体であちこちひっくり返した末に出てきたもので、つまり彼女は見たことなかったものなのかもとも思い、そんなものを作っていた彼に、ちょっとゾッとするものも感じるんである。

由加利と桔平の出会いは、震災の混乱の時だった。人ごみの中で具合が悪くなってしゃがみ込んだ彼女に桔平は声をかけ、後から思えば医師だから、適切な処置を施した。
歩いて会社まで帰るという彼女に自分のスニーカーを貸して、裸足で去っていった。名前を聞く由加利に、小出です、と言ったのは、あとから由加利がその場所で見上げると、小出ビルという名前がでかでかと掲示してあった。

彼はまさか再会するとは思っていなかったから、そんな安直なことを言ったのだろう。正直、この東京の中で再会出来るなんて、奇跡という以上に出来すぎで、この作劇はちょっとナァと思う部分でもある。
その後付き合いだすシークエンス、熱を出した桔平に由加利の方から同棲を言いだすというのが、まあ立場的にも彼の過去からも、桔平からそれを言いだすことはないだろうとは思うが、かなりドキドキもの、なんである。

でも、だからかなぁ、そういう弱みがあったからなのかなぁ、誰が考えても不自然な、両親が早く死んだから親戚付き合いがないとかまではまだいいにしても、友人がいない、携帯を持たない、銀行と取引がない、まで行っちゃうと……そこに不審を覚えないなんて、かなり不自然だが、それも惚れた弱み、自分から行った弱みということなのか。
でも、それにしても、携帯を持たなければ今の時代、彼女とのやり取りだけでなく、仕事でだって不都合は生じるじゃない、「アルバイト程度のお給料しかもらってない」と同僚に愚痴る由加利だけれど、研修医という、少なくとも病院に勤める医者の立場で携帯を持たないでいられることに不審を持たなかったってことは、やはりさすがになあ……。

彼女が二つ契約して一つを持たすとか、出来そうだけどね。そんなこと言っちゃったらミもフタもないけど(爆)。
でも、田舎から出てきた母親と引き合わせようとしたのに彼が待ち合わせに来ず、連絡も取れない場面で、「今時、携帯を持っとらんのかねえ」と言う母親に一言もない、というのは、そりゃそうだよと思うし……つまり由加利は、彼がなぜ携帯を持たない(持てない)のか、心のどこかで怖くて聞けなかった、ということなのか。

それは、そうかもしれない。まず桔平が倒れるところから展開していくけれど、徐々に彼らの出会いから付き合っている間のエピソードが差し挟まれると、由加利がどこか、謎を抱え持つ桔平に遠慮、というか、不安を持ちながら接しているような部分はある。
長いこと付き合ってきているのに結婚を言いださない彼に、親がうるさいのだと言い訳にして、子供が好きかどうか探りを入れたりして、まぁそれはつまり、自分の妹の方が先にヨメに行って子供を産んで、アラサーの彼女は、彼氏に少し揺さぶりをかけたい、ぐらいの気持ちだったのだろう。
「ごめん」と言われた時彼女の顔はこわばったし、観てるこっちもヒヤリとしたが、彼から出てきた言葉は意外、というかよく判らないものだった。「自分にはそんな資格はない」

もうオチは言っちゃってるから、彼がそんな言葉を発した意味はよく判るのだが、そこにたどり着くまでにはなかなかに時間がかかる。由加利は超優秀なキャリアウーマン、ウーマンオブザイヤーに選ばれるほどの。毎日毎日帰りが遅く、接待なのか飲んだくれて帰る由加利を心配し、ケンカになったりもする。
桔平にとっては医者という立場もあろうが、愛する女性が精神的に追い詰められる、ということこそが最も恐ろしかった、ということは、もう最初に言っちゃったけど(しつこいが)、よく判ることなんである。

桔平は言ってみればヒモ状態で、でも裏返して言えば優秀な主夫であった。美味しい食事を用意して由加利を待ち、健康管理にも気を付けてくれた。
ヒモだという表現までは出なかったかなぁ、でもそれを言ったのは刑事だった。「結婚する前で良かったじゃないですか」そんなことを言って由加利を憤らせる。悪い予感しかその時にはしてなかったけど、由加利は探偵に依頼することに決めたんである。

探偵の海原を演じる吉田氏は無論達者だが、凄く驚いたのはその助手の木村を演じるDAIGOである。判んなかった、最初!!私、彼が芝居やってるの見るの初なの、すんません無知で……まさかこんなにお芝居達者だとは、知らんかった!本当にオドロキ!!
うっとうしい長い黒髪、神経質そうなメガネ、ぞろりとした室内着、パソコンですべての世界が判るといった風情の、産まれた時からこの部屋から出たことないぐらいの閉塞感を持つ青年を演じるDAIGO君に、ほんっとうに驚くんである。……ちょっとちょっと、助演賞候補にあげてあげたいぐらいよ、ホント!!

もう一人、気を吐いているのが、まぁ彼女の存在はいらないと言えばいらない気もする、若手女優枠を作ったという気もするが(爆)。桔平を「先生」とあがめる喫茶店のバイト嬢、普段はロリータファッションで人んちのポストのダイヤルを玄人ばりに開錠して勝手に開けちゃうというアブない女の子、心葉。
川栄李奈嬢は夢見る瞳で「芥川龍之介に似ていませんか」と“先生”を語る。つまりそれは、由加利の知らない桔平であった。小説を書いていたなんてことは無論、そのためのパソコンを持っていたことさえ。

携帯も持たない彼がパソコンを持っているなんて、彼女にとっては予想外だったが、考えてみれば携帯と違ってパソコンぐらいなら身分証なんてなくても持てる。そんなことも思い及ばず、隠して持っていたということよりも、彼は持っていなかった、持てるはずがないと、そんな風に思っていた由加利、つまり彼女は彼の身分に、最も疑いを持っていたってことじゃないのと、思ったりするんである。
倒れた桔平を見舞うことより、彼の過去を探して右往左往する由加利に、心葉は「先生が倒れたのはあなたのせい」と言って、由加利からぶたれる。ぶつということは、由加利自身にそう思うところがあるということで。

そのパソコンに残されていたのは、膨大な量の小説。彼自身の幼少期と、今現在こうでありたかった、という思いであると予測される、海原言うところの「リア充を描いてるだけ」という小説は、海原がバツイチで別れた妻子と会えてないことも手伝っているのかもしれんが(このエピソードはめんどくさいから(爆)割愛)、その小説を元に、特に子供の頃の宝物を隠した灯台を探すというシークエンスは若干のうっとうしさは、まあ感じたかなあ。
桔平のことで頭がいっぱいになって仕事もおろそかにしちゃって同僚に仕事をとられちゃって、小説の舞台になってる瀬戸内に行くしかないと猪突猛進する由加利には女としてはあまり共感できないけど(爆)、そうでなきゃ彼女が彼の過去を探す時間がとれないからなあ……。
灯台がろうそくのように見えるとか、ロマンチック過ぎて、確かに海原が面白くなさげにリア充小説というのは判る気がするというか。

どうもクサし癖があるのはよくない(爆)。まさみちゃんの必死さと、サスペンスな展開、面白かった。オリジナルでデビュー作で、スターを揃えたにしてもヒットするのは嬉しいこと。★★★☆☆


馬の骨
2018年 91分 日本 カラー
監督:桐生コウジ 脚本:桐生コウジ 坂ノ下博樹 杉原憲明
撮影:佐々木靖之 音楽:岡田拓郎
出演:小島藤子 深澤大河 しのへけい子 信太昌之 黒田大輔 大浦龍宇一 高橋洋 粟田麗 大和田健介 志田友美 茜屋日海夏 河上英里子 萩原健太 石川浩司 ベンガル 桐生コウジ

2018/6/18/月 劇場(テアトル新宿/レイト)
この馬の骨というバンドが本当に存在したか否かでこの作品の価値というか意味は全然変わってくるなぁと思って見ていたから、後から、本当にいたんだ……と知って、なんというか、感慨というか、驚愕のような思いを受ける。
イカ天はもちろん知っているけれど、私はあまりハヤリモノを見ないタイプというか……知ってはいたけれど、多分、見たことはなかった、かもしれない。

それに“かつてイカ天に出場して、審査員特別賞を受けたバンド”というのは、架空の設定だけで充分に面白く、今は過去っぽい映像もそれなりに作れちゃう時代だから、そんなうがった気持ちで見ていたんだよね。
でもでもでも、本当に本当だったのだ。馬の骨は実在し、そしてそのボーカルの彼がまさに今、しょぼくれた現在を自分で演じている。

ショックを受けた。勿論、彼自身はその後俳優に転身、映画のプロデュースなども行っているというし、劇中の熊田と同じ訳ではない。
でもあの番組のタイトルが、平成が始まったばかりに始まったあの番組のタイトルが、“平成名物テレビ”であったこと、平成、ということが新しい、若い、ということと同義語だったことを、いまだにそうだと、昭和生まれの私たちが考えてしまっていること、なのだもの。

そんな平成が終わってしまうことに、なにがしかの想いを持たない訳がなく、しかも今までみたいに突然終わっちゃうんじゃなくて、今上天皇さんが終わらせることを宣言するなんて前代未聞の話で。
私たちが若く、新しく、斬新だったと思った時代が過去のものになる、古いものになるということに、それこそ、昭和世代がまぶしく見ていた時代が終わることに、何も思わない筈はないのだ。

これが監督デビュー作となり、自分の分身を自分自身で演じた監督さんが、まさにそんな思いでいたことがひしひしと伝わってくる。そう、彼自身はその点では成功した部類だろう。彼が演じた熊田のようにはならなかった。でもこうなったんじゃないか、というあのイカ天時代のメンメン、もしかしたら彼自身が目撃した誰か、噂に聞いた誰かだったんじゃないかと思っちゃうのだ。
実際に、メンバーの一人が自殺しているということも、きっとないのだろう。それもまた、彼が見聞きした、イカ天バンドのある一つの、見逃せない出来事だったんじゃないかと思うのだ。

イカ天。勿論、あの番組から真の実力バンド、スターバンドは輩出したが、馬の骨がそう揶揄されるように、むしろキワモノであることで何とか印象に残ろうとしたバンドの方が、数多くあったんじゃないかという気がする。
見てないからアレなんだけど(爆)、でもあの番組の印象はそういうところがある。バブル絶頂期で、気軽に楽器を手にしてスタジオを借りたり出来て、バンドが無数に産まれた時代、イカ天に出たことを単純に青春のいい思い出、人生のネタにしている人たちだっていっぱいいることだろう。

でも馬の骨の、熊田のように、一見してそんな部類とみられがちなのに実は本気で、ウケを狙っていると思われていた観念的な詩の世界や衣装も実はめちゃめちゃ本気で、だから審査員特別賞にいまだにぶら下がって生きていなければならない、そんな人たちも……実は少なからずいるのだ、ということなのかもしれない。

前置きがかなり長くなってしまった。だからこれは監督さん自身に思い切り近い分身を描きながらも、でもやはり虚構なのだ。ある意味では、ファンタジーでもあるかもしれない。逆説的な、痛い、ファンタジーだけど。
平成の最初の華やかさをスタートダッシュしてみたら、平成の最後には音楽シーンもすっかり変わって、おじさん戸惑っている、みたいな。
そういう意味では、まぁ、いつの時代もそうだとはいえるけれど、平成もまた、バンドブームが最初にあって、最後は地下も含めた無数の群衆女子アイドル時代で幕を閉じつつある、というのは、かなり特殊な感じはするんである。

しかもその活動場所が、つい最近閉じられたという、私でさえ聞いたことがある伝説のライブハウス、新宿JAMであるということが、このタイムマシンのような物語を効果的に演出する。
そして平成の新名物??オシャレな生活スタイルとしてもてはやされているシェアハウスが、全く思いもよらない、ド田舎の、土砂崩れが今にも襲いそうな場所の、熊田のようなおじさんやら、キモヲタやらが跋扈する、どちらかとゆーと木賃宿みたいな、なんとも言いようのない昭和感の漂う雰囲気の舞台なのだ。

昭和感。ああそうだ。平成ですらない。一人でこんなだだっぴろい家に住むのは寂しいから、とシェアハウスを始めたオーナー夫人といい、日がな一日キノコ狩りをしているベンガルといい、昭和の人間に居心地のいい場所。
キモヲタ青年、垣内がここにいるのは、地下アイドル女子、ユカの存在のためである。今の時代、あらゆる事件が頭をよぎり、こんな状況はかなり危ないんじゃないかと思われ……ただ、しばらくは判らなかったんだよね。垣内君がそこまでディープにユカのファンだってことがさ。この設定は……かなり危ないよねえ。

人生の目的が見つけられないままここまで来てしまった熊田は、日雇い生活で口を糊しているのだが、そんなやる気のなさが災いしてトラブルを起こし、会社の寮を追い出されてしまう。そんでこのあやしげなシェアハウスに転がり込むんだけれど、自意識がジャマして、職業は音楽関係だと言ってしまうんである。
それに敏感に反応したのが、地下アイドルをやりながらもシンガーソングライターを目指しているユカ。しかしてそんなウソは当然早晩バレる訳で、つーか、垣内君がこの時も、その後も、二人の仲をやたら嫉妬して中傷的な書き込みとかしちゃったりしてさ。ホント、今の時代、こういう男子は怖い存在だよ。この映画はいわばそういう側面、ファンタジーだから平和に収めちゃうけどさ、怖いよ、ホントに。

ユカのアイドル活動は、彼女自身の自尊心がかなりジャマをして、メンバーとは関係最悪である。こーゆーのがアイドルのリアルなんだろうなあ……と思って、かなり見ているのがツラくなる。ユカだけじゃなく、全員の自尊心が高すぎる(まだこんな場所なのに(爆))ということなんだろうなあ。
ユカは、本当は追い出される形なのに、自分では卒業と言い張ってギター一本で勝負することを決意するんである。ベッドの下から封印してきたアコギと書きためた詩を取り出して。

一人で、自分の表現する世界で勝負する。その勇気と難しさを、ユカは当然判っていて、今まで出来ていなかったに違いない。ウソをついていた熊田を最初は軽蔑するけれども、彼に何とか教えを請いたいと思うのは、そういうことなんじゃないのかなぁ、と思ったりする。
そんなユカに接して熊田も変わる。それまではただ、自分の鬱屈したプライドを抱えているだけだったのが、一夜だけでいいから、馬の骨を復活したいと仲間たちに接触しだす。
キワモノだったんじゃない、本気の思いで音楽をやっていたんだということを、これからの人生を生きる自分に、言い聞かせたかったんじゃないかと思う。垣内君が吐き捨てるように、オジサンの趣味、青春の回顧なんてことでは、決してないのだ。

垣内君は大学生で、“卒業”したユカのためにレコード会社に就職を決めて、彼女の活動をバックアップしたいという夢を抱く。しかし当然、そんなに現実は甘くないし、それは何より、自分のための人生ではないのだから。
彼の暴れっぷりはまさしく平成生まれの若者そのもので見ていて痛ましいが、昭和生まれの熊田も、誰もが、そんな風に、夢なんか当然実現できると思って生きて来た時代があったのだから。

熊田が、キノコ狩り名人のシェアハウス住人、宝部さんを誘うのがイイんだよね。祭りの和太鼓をやっていると聞いて、「LUNA SEAの真矢も和太鼓出身なんですから!」「誰それ」噴き出す!!てゆーか、そうだったんだ、となんか感心しちゃう!!
すべてが終わった最後には、ベンガル、楽器店で真矢さんのドラムマニュアル本を手にしているし!きっと監督さんが真矢さんと交流があるんだろうなぁ、そんな気がする。

ライブの日が近づいてくる。元メンバーの中で、一人は自殺してしまい、一人はエリートサラリーマンになって、でも他のメンバーの情報をもたらしてくれた。
二人の元メンバーと、宝部さん。思い出の喫茶店メニュー、400円の“ピッツァ”をニコニコしながら頬張る場面がなんともイイ。トッピングはいらないから300円にしろとか言ってたよな、とか言いながら。彼はさ、私と同世代だから、友達との喫茶店メニューとか、凄く判るのよ、シンクロするのよ。だって私らの時代、まだマクドナルドすらなかったんだから!!(うわー!!)

ユカがムリヤリ強行してかつてのファンや元メンバーにジャマされ、ボロボロに終わったソロライブから、馬の骨の復活ライブは企画され、この日を迎えた。
前座となるユカはもちろん、メンバーたちもめちゃくちゃ緊張していたけれども、予想外だったのは、熊田が物語の冒頭、トラブルを起こした同僚に襲われボコボコに殴られてしまったこと。

そもそも熊田のかつての最後のステージは、客とトラブルを起こして、自らステージを去ってしまったことにあった。ユカもまたソロのステージから逃げ出して、そんな自分を変えたいと思ってた。
てゆーかさ、熊田は実に30年間、その出来事から逃げ続け、メンバーとも連絡を取らないまま、自殺したメンバーがいることも知らないまま、ここまで来たわけだしさ!そりゃ、娘の方に年若いユカに叱咤されても当然っていうかさ!!

音楽って、やっぱめちゃくちゃ強力だな、って思う。ユカは熊田にアドバイスをもらって特訓したメロウな自作曲で、見事外野を黙らせる。
そしてギリギリ熊田が飛び込んできたステージが圧巻で!あの当時には、ただ目立ちたがり屋のキワモノだと思われていたその楽曲が、それは平成冒頭の時代ということもあってのことだけれど、実はそうじゃないんだと。
熊田の解説によって、その深淵さがユカに、メンバーに(!)伝わったことで、こぶし突き上げ大盛り上がりのライブシーンが、何より胸に迫るものになるんである。

ああ、何より平成、平成、昭和は大変な時代だったけど、その本当の大変さに無知なまま、昭和生まれの私は過ごしてしまった。平成生まれの“若者”(ですらないのだろう、そりゃ。)はそうならずに生きていってほしいと思ったり。

熊田さん、いやさ、監督さんは本当に、もらった審査員特別賞の受賞盾を劇中、マジに燃やしてしまったのだろうか。
でもそうかもしれない。それだけの覚悟を感じる作品だったから。★★★★☆


海の呼ぶ声
1945年 64分 日本 モノクロ
監督:伊賀山正徳 脚本:小崎政房
撮影:高橋通夫 音楽:
出演:高山徳右衛門 杉村春子

2018/11/6/火 劇場(国立映画アーカイブ)
いやーぁいやーぁ、こんなにデータが出てこないことってあるかしら。あの、あの!美術監督木村威夫のデビュー作!!!!改めてフィルモグラフィーを見てみると本当に本当にすさまじい。生涯現役、しかもその仕事の先鋭的で美しく、アヴァンギャルドなこと!!!
そんな凄い人のデビュー作なのに、全然、情報が出てこないー。データベースのスタッフクレジットに彼の名前すら見つけられない。てゆーか、数人しか載ってない感じ(爆)。今の情報化社会でそんなことってあるかしら。それだけそれだけ、レアなものを見ることが出来たということ!

なんたって戦前だもんなー。昭和19年。そんな、日本国中が疲弊しまくっている時にでもそれでも、映画製作って出来てたんだ……などとも思うし、そういう時って、大抵戦意高揚映画だったりしたんじゃないのかしらんと(勝手な推測)思うのに、全然、そんなかけらも、戦争ってかけらもないし。凄く驚きで。
でも、当時、上映不許可になり、公開は戦後だったという。どのあたりが??親子の美しいドラマであるだけなのにと思うが、それこそ戦意高揚のかけらもないとか、そういうことだったのかなぁ(これまた勝手な推測)。
しかし、とっても状態がイイのだ。フィルムも鮮明だし、飛びもない。音声もくっきりと聞こえる。うーむ、何何これは、上映される機会が少なかったっていうこと??

杉村春子、なんである。うっそ!この時いくつ?彼女!いや、もう既にこの時でほぼ40歳、なんだ!!オドロキ!!だってだって彼女って、凄く長く活躍した人なのに、戦前の、この若いお母さんの時点で40歳、なんだ!!!
10歳ぐらいの一人息子を女手一つで育てているお母さんは、海の事故で漁師の夫を亡くしたこともあって凄く気弱になってて、わんぱくざかりの息子を海に近づけることさえしたくない、そんな、ちょっと、弱い心を持ったお母さん。

うわー、ないわないわ、そんなイメージ、杉村春子にないわー。もう、私の中ではこの人はちょいと斜に構えて、超意地悪なことを直球でぶつけてくる、もー、イヤなヤツ!!というイメージ。
それは超絶有名な「東京物語」からくるイメージが何より先行していて、私のように思っている人は数多くいるに違いない(爆)。その出っ歯気味の風貌がさらにその雰囲気を引き立てるのだが、このお母さんは、全然違うの!!

お顔はもちろんそのまんま杉村春子。たまに若い頃に遭遇すると、誰だか判んないぐらいの人もいるが、もう一目見て一発で判る杉村春子。なのに、なんていうか、凄くいじらしいの。
そりゃその水難事故で命を落としたのは彼女の夫だけではない。冒頭、かがり火をたきながら港の住人たちが帰ってこない船を待ち続けている。とても印象的なオープニングである。こういうところも、美術監督っていうことなのだろうな。

そう、彼女の夫だけではない、そのことは自分自身判っている。そう口にも出す。でもどうしてもどうしても彼女は、一人息子の一郎を海に近づけたくないのだ。むしろ、一郎がわんぱく坊主で海で遊びたがるから余計に、不安になるのかもしれない。
周りの大人たちにまで、頼むから海に入れてくれるなと頼み込む。10歳かそこらの男の子の母親だから、しかもこの当時だったら、せいぜい30代前半そこそこのイメージだと思うし、そのぐらいに見えるんだけど、もう40だったとは……本当に驚き!!

そう、可愛いんだもの。信じられない、杉村春子が可愛いなんて(爆)。そして、お母さんの想いを充分に汲んで、海で遊びたくて仕方ないし、実際遊んじゃうんだけど、それを必死に隠そうとする一郎の、実に子供らしい輝きに胸を打たれる。
この当時の子役たちって、イイな。愛すべき棒読み(爆)。でも一生懸命で。いやでも、一郎を演じる彼は、芝居は上手かった。あの杉村春子と一騎打ちみたいなクライマックスでも、一歩も引かない迫力。

一郎はね、泳ぎが上手いから、水泳大会にどうしても出てほしい、と校長から駐在さんまで駆り出されて母親の説得に当たるぐらいなの。母親の元に向かう、校長と駐在さんののどかな二人乗りが心和むなー。
でも、お母さん、どうしても首を縦に振れない。この貧乏暮らしに、一人息子がいつか、大成して抜け出せる時も来よう。でもそれは、漁師ではない。頑張って勉強して、えらい職業にだってつけるのだからと、彼女は一人息子に言って聞かす。

でもそれは、言い訳に過ぎないに決まってる。そんなきれいごとを言って、息子が夫と同じように彼女の前からいなくなってしまうことが、恐ろしいのだ。
きっと夫婦仲が良かったのだろう。夫も一人息子を、可愛がってくれたのだろう。それは後に一郎が、母親の言いつけを聞かずに友達たちと共に船で沖に漕ぎ出て、日も暮れて暗くなって、そこにお父さんの幻影を見る、もう一度、おっとうに会いたいな!と素直に言うシーンで知れるんである。

ラブラブな夫婦と一人息子、だなんていうのもこの当時のイメージにはないんで、これまた驚き、……この作品を、このせっぱつまった時代に作った気概をものすごく感じるのだ。また、方言が、イイんだよね。北の方な感じがするなあ。だっぺ、とか言って。
そしてこれは“浪曲映画”なのだという。そういうジャンル自体があることさえ、知らなかった。当時は浪曲が、ずっと身近に、心をダイレクトに説明する表現として受け入れられていたんだろう。いや、今見ても、いわゆるナレーションの代わりになるような感じなんだけど、朗々と、朗々と……胸にしみいるの。それを杉村春子がもう渾身の芝居を見せ、それに一郎君も見事にこたえ、胸が震えるの。

周囲の、なんか仙人みたいなおじいちゃんとか、おっちゃんたちとかが言うのは、至極まっとうなんだよね。ここは漁師の町。身内を失った人たちは先祖代々沢山いる。だからこそその仇を討ってやると、海に立ち向かうんだ、そうやって漁師を続けてきたんだと、説得するのは判る。
でもさ、この愛しき一郎君は、そんな気持じゃなく、単純に海が好きなんだ。そしてそれは、きっとお父さんもそうだったんだ。仲間たちと一緒に海に出て、お日様を追いかけよう、と友達の提案に乗った時に、ヒヤリとした。もしかして、もしかして、一郎もまた、海に飲まれてしまうんじゃないか、って。凄く怖かった。

お母さんはもちろん、日が暮れても帰ってこない息子に半狂乱、周囲のおっちゃんたちにくってかかるんだけれど、あの仙人みたいな老人が泰然として、一郎は飲まれたりしない。わしの目に狂いはない、とか言ってさ。それは一つの記号的表現であって、何より一郎が、父親が没した海に、夜の怖い海に漕ぎ出し、何かを見て、帰ってきたことこそが、何より大事なのだ。
お母さんだってね、判ってる筈なんだもの。この当時ということもあるし、夫婦の愛より親子の愛を重視するのが日本だけど、この息子との相対の中に、彼女の夫への愛を凄く感じられて、それこそが胸にしみいるのだ。

ラストシーン、華やかに彩られた船に男衆と共に一郎が誇らしげに乗り込んでいる。それを港のみんなと一緒に、笑顔で手を振って見送る杉村春子に、もう、ほんとほんと、彼女は上手すぎる、素晴らしすぎるんだもんなぁ! ★★★★☆


海を駆ける
2018年 107分 日本 カラー
監督:深田晃司 脚本:深田晃司
撮影:芦澤明子 音楽:小野川浩行
出演:ディーン・フジオカ 太賀 阿部純子 アディパティ・ドルケン セカール・サリ 鶴田真由

2018/5/27/日 劇場(有楽町スバル座)
きっと誰もが、まさかこのタイトルがそのままの画となってラストを結ぶとは思っていなかっただろう。ファンタジーとはこういうことだったのか。どちらかと言えば厳しい社会性、人間性を感じていた深田監督作品に、ファンタジーという惹句がついていることが不思議だったが、それが文字通りの意味だったとは思いもよらなかった。
ディーン・フジオカ氏が謎の男、というのは、彼の線の細い美しい風貌で客寄せ的キャラクターと感じたが、それでもオチを待ち続けていた。この男の正体が明かされ、そうだったのか、と納得するのか衝撃を受けるのか、それを待ち続けていた。
時折、こういう目に遭う。オチを待つ、平凡な収束を待ってしまう慣習というか、結局こんなもんだろうという受け手の浅ましさをピシリと押さえつけるようなそんな映画に。彼は謎のままであり、果たして存在していたかどうかさえ。悪魔だったのかもしれないとさえ。

そもそも舞台がインドネシアだということにビックリする。ディーン・フジオカ氏ありきでその企画が通ったのかとも思ったが、監督7年越しの企画だというから、そういう訳ではないのか。
2004年に甚大な津波被害のあったアチェ地区を舞台にする。きっとその時にはそのニュースを聞いていたに違いないのだが、恥ずかしながら記憶からはすっぽりと抜け落ちている。自分の国の津波被害は世界中が知っているに違いないと思っているくせに、なんという傲慢なことだろうと思う。

津波、という言葉がインドネシアの人たちから出ることに不思議を感じるというのも傲慢なことだろう。しかしやはりツナミ、なのだと改めて感じたりもし。日本はそれだけ昔から多かったということなのか。
なんとなく身構えて、東日本大震災のことも語られるのだろうかとも思ったが、それもまた受け手の浅ましさ。ひとことぐらいはあったかもしれないが、全く、である。津波被害は世界中にあり、その傷跡は世界中のあちこちに残っているのだ、あの震災だけではないのだと、当たり前のことを突き付けられて何か恥ずかしく思う。

そんな、ハッキリとした爪痕が残る場所を舞台にしながら、しかし物語は極めて不思議なファンタジー、なんである。ディーン・フジオカ氏演じるすっ裸の男が、海の波間から現れる。ものすごくきれいな海で、この時点で日本じゃないな、と判る。いや、沖縄とかも想像できたけど、でもやっぱり、違うんである。
寄せては返す波、をじっくりと映していたのは、ヤハリ津波を想起させていたんだろうか。いつ彼が波間から現れたのか、寄せては返す波に気をとられて気づかなかった。まるでアラビアのロレンスみたい、と思った。古いけど。砂漠の彼方からいつ現れたのか判らないみたいに、小さく小さく、波間から彼は現れて、徐々に近づいて、波打ち際まできて、バッタリと倒れる。大きく引いた俯瞰で、すっ裸。うーん、寄って映せよ、と思ったのは私だけではあるまい(爆)。

彼を預かることになるのは、現地でNPO活動をしている貴子と息子のタカシ。演じるは鶴田真由と太賀君である。ディーン氏がインドネシア語を喋れるのは当然なのだが、むしろディーン氏はなんたって謎の男なので、その謎度を高めるためなのかなんなのか、とにかく寡黙でほっとんど喋らず、最初はインドネシア語が判ることさえ判明してなかったほどなんである。
だから鶴田氏と太賀君がディーン氏の100倍バリバリインドネシア語を喋ることに、すっごーい、と単純に感心しちゃうんである。まーそれは役者の仕事ということなんだろうけれど。

別にシングルマザーということではなく、インドネシア人の夫は国内の別の場所で働いているという設定なのだが、これはちょっと惜しい気がする。インドネシア人の夫であり父親との、彼らとの対話なり関係性が見てみたかった気がする。
タカシが、インドネシアで生まれ育ったから迷わずインドネシア国籍を選んだことに、イトコのサチコは率直に疑問をぶつける。逆に問われて、「なんでって?私なら日本を選ぶと思ったから……」何かこの単純な問答に、日本人の無意識のおごりというか、豊かな国は日本であり、そっちを選ぶのが当然でしょ、みたいな雰囲気を感じてヒヤリとする。

タカシは純粋に、生まれ育ったからそりゃインドネシア選ぶでしょ、と言い、なぜそれが不思議なのだということが、不思議そうである。そりゃそうなのだよね……でもその一方で、インドネシア語も日本語も完璧ではない自分のアイデンティティにうっすらと苛立ちも覚えている。
母親がサチコに持ってこさせた日本の小説、母親は、あんたも少しは日本の文化に触れなさい、ということで。それは彼女にとってはごくごく何気ない言い様だったのかもしれないけれど、そしてそれに対して彼の反応も薄かったしそれほど気にしてなかったのかもと思っていたけれど、そうではなかったのか。

タカシは夏目漱石がアイラブユーを「月がきれいですね」と奥ゆかしく訳したと聞いて、それをまんま友人に伝授しちゃう。凄くほほえましいエピソードであるとともに、彼がアンデンティティをどこに置くかということを、見せないようにしながら悩んでいるということを感じさせる。
太賀君のバリバリインドネシア語と、風貌含めてぜんっぜんインドネシア人違和感ないのが凄いなあと思う。監督お気に入りも判るし、彼は本当に素晴らしい役者。

ディーン氏演じる謎の男は、ラウと名付けられる。インドネシア語で海を意味する。日本人らしい、というのは、貴子の日本語にわずかに反応する様子を見せていたからだけで、記憶喪失と診断された彼の身元も何も、判ったもんじゃ、ないんである。
この事件が勃発した時、貴子とタカシは、記者を目指すイルマと、彼女の幼馴染であるクリスと共に、取材活動をしている。タカシ、イルマ、クリスは同じ年頃の仲良しさんなのだが、既にここに津波被害の傷跡が押し寄せている。
優秀で家も裕福だったイルマは津波ですべてを失い、進学できずに独学で学んでアルバイトをしながら記者を目指している。クリスは内陸に家があったためにまぬがれ、大学に行くことが出来ている。そのことが幼なじみの二人の間に、微妙な溝を作っているんである。

タカシはその点では割とのほほんと学生生活を謳歌しているように見える。クリスともバディという感じである。本当にインドネシア人にしか見えない太賀君に驚愕する。もちょっとディーン氏に、インドネシア台詞与えろよと思うぐらいである。
てゆーか、ホントに、ディーン氏はポスターをはじめとした宣材写真も予告編も、主役みたいに扱われているのだが、いや、主役なんだろうが、ビックリするほど出番が少ないんである。どちらかとゆーと、タカシ、イルマ、クリス、サチコの四人の若者たちの青春物語ではないかと思われるんである。
そうそう、サチコだよ。何か思うところがあってなのか、日本の大学を中退してインドネシアにやってきたサチコ。その理由も明かされない。いちいち理由や結末を追い求めたがるのは、ホント、ヤボかもしれない(爆)。

英文学を専攻していたとはいうものの、そんなにすんなり英語が喋れるのか、今の学生は。いやいや、私の時代が喋れなかっただけなのか、ヒガミか(爆)。
サチコとクリスはお互い惹かれ合うが、そこは青春モノなのでなんかすれ違っちゃう。その一番の原因は、タカシが伝授した「ツキガキレイデスネ」伝わるかー!!このエピソードは深田監督らしからぬ??ほほえましさ。

ただこの時、サチコは亡くなった父親の遺骨を散骨するために、その想い出の場所を探していた。そこは、戦争の傷跡の残る場所だったのだった。貴子やイルマは取材でお年寄りに戦争の話を聞いたりしてるし、イルマの父親はそのせいで足に障害を負っている。
若い世代は屈託がないとは言わないけれど、未来への希望に進めようとしているけれど、そこにはまだまだ乖離がある。お年寄りが日本の兵士に教えてもらったという軍歌を明るく歌う場面には何とも言えない気持ちになる。仲良くなった兵隊さん、そこには友情があったということだろうが……。

そんな訳なんで、ディーン氏演じる謎の男、ラウはあんまり、触れられないんだよね。イルマがラウの不思議な力に気づいて、その映像を収めるんだけど、それを貴子の友人である記者に手柄として盗られちゃうなんていう、なんかありがちな生臭いエピソードがあったりし、ちょっとつまんないなぁ、でもこれ、どうするんだろ、と思ったら、何にもなし。うーむ、だったらそんなエピソード作るな(爆)。
記者になりたくてあちこちに売り込んでいたイルマが、こんなことされて、悔しいどころの騒ぎじゃなかったに違いないのに……ここはさ、一般的ヤボな見解かもしれんがさ、見逃さないでよう。

つまりね、その記者さんは、ラウを救うみたいな名目で記者会見を開いて、つまりは、自分のジャーナリストとしての手腕を見せつけたいだけで。
それを知ってか知らずか、ラウはそもそもとにかくゴーイングマイウェイなんだけど、究極よ。生中継のインタビュー場面から、突然、タカシとサチコの目の前に現れる。ドアをバタンと閉めたテレビ画面から、ドアを開けて、現れる。まさに、どこでもドアである。

だからさ、ラウの物語と、若者四人の青春物語が、完全に乖離しているんだよね。彼らは確かにラウのことは気にはしているけれど、でもそんなに気にしてない。気にしているのは自らのアイデンティティ、これから先の未来、恋心の行く末。そこにラウの不思議さがスパイスを加えているといった程度なのだ。
確かに最後の最後、衝撃的なエピソードは待っている。それまでは寡黙ながらも、枯れた花をよみがえらせたり、熱中症になった女の子に空気中の水を集めて飲ませたり、イイ人なイイ奇跡、を見せていたのが、段々不穏になり……。貴子を昏倒させた、あれはその先が示されず、まさか殺した訳じゃ??

そして、「子供たちを川に引き入れた」と村人たちから糾弾される。あの時、滝の前でうららかなボーイソプラノで歌っていた少年は、ラウがトラックの荷台で歌っていた姿に重なるけれど、でもどういう訳なの??判らない、判らない!!決着をつけようと思うほどに、遠のく。
ラウはいつものようにうららかな笑顔のまま、海を駆ける。海を、駆けるのだ。波の上を、まるでトビウオのように走っていく。タカシ、サチコ、クリス、イルマも後を追う。彼らもまた、トビウオのように海の上を駆けていく。

その奇跡に子供の様にはしゃぐ。ラウを追いかけていたことなどすっかり忘れてしまったかのように。そして、ラウがふっと海中に沈んで……彼らも足場をなくしたように沈んじゃう。
ラウだけが、浮かばなかった。遠く引いた波間に、四人の頭が豆粒のように浮かび、急に現実が押し寄せた。そしてエンド。何、何、何だったの。そう思うことさえ、ヤボなの?

おじいちゃんが歌っていた戦争中の、いかにもな軍歌に手を叩いて嬉し気にしているのは何とも言えず胸に迫ったが、若者四人がインドネシア語、日本語のちゃんぽんで、幸せなら手をたたこうを一緒に歌っているのには、あたたかな気持ちになった。
不思議でどうとらえていいか判らない映画だったけど、つい判りやすさを探してしまうにしても、素敵な場面だった。★★★☆☆


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