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「ま」


2018年鑑賞作品

真っ赤な星
2018年 101分 日本 カラー
監督:井樫彩 脚本:井樫彩
撮影:萩原脩 音楽:鷹尾まさき
出演:小松未来 桜井ユキ 毎熊克哉 大原由暉 小林竜樹 菊沢将憲 西山真来 湯舟すぴか 山谷武志 若林瑠海 大重わたる 久保山智夏 高田彩花 長野こうへい 中田クルミ PANTA


2018/12/14/金 劇場(テアトル新宿/レイト)
14歳の少女が母親の恋人にレイプされ、好きになった相手は女性看護師で、その女性看護師は急に姿を消したと思ったら、夜な夜な男に身体を売り、彼女の家に転がり込み、なんかペッティングとかやっちゃったり(懐かしい表現だ……)パラグライダーとか、使われていないプラネタリウムに忍び込んで開けちゃったりとか、展開も舞台もあまりにも盛沢山すぎて、時々ついていけなくなるというのが正直なところかなぁ。

ちょっと、もったいなかった気がする。パラグライダーとプラネタリウム、二つもいらない気がする。昼と夜の空を対比させたのかなぁ。
でも、なぜ今は使われていないプラネタリウムに弥生(元看護師さん)は入れるのか、なぜ彼女が自分で鍵をかけているのか、ここに以前勤めてでもいたのか、だって大きな天窓とか開けられるんだもん。確かに映像的にはとても魅力的なのだけれど、こうした根本的な疑問が頭にわいちゃうと、うーむ、画として魅力的なだけでこのロケーションを使っちゃったんじゃないかとかつい思っちゃう。

パラグライダーはそれに比べれば確かに意味あり気な感じはしたが、弥生の恋人はつまり、パラグライダーのインストラクターなのかな。でもそれもいまいち判然としない。弥生と一緒に飛んでるシーンしか出てこない、他の生徒さんとか、観光客とか、出てこないから。
としたらただ単に趣味で飛んでるだけとか?でも彼の人となりというか、それこそ仕事がどうとかは、見えなかったから、インストラクターなのかなと思ったのだけれど。

なんかね、そんな些末なことを気にするのはつまらないのかもしれないけど、こうした設定的なことだけじゃないんだもの。感情も凄く唐突な時が何度もあって。
エモーショナルに泣きじゃくる27歳のやさぐれた女性を14歳の少女が優しく抱き留める、というのは確かにとっても画として魅力的なんだけれど、なぜ彼女が急に泣くのかよく判らなかったり。いかん、こんな何にも展開書かないまま、判らん判らん言ってもしょうがないんだけど。

いいかげん、最初から行こう。主人公、14歳の少女、陽。絶対どっかで観てるんだよなぁと思いながら見ていたが、そうか、「みつこと宇宙こぶ」かぁ。
14歳らしい14歳。ふっくらとした頬が田舎臭い印象さえ与え、そのむき出しの生足は、お母さんの恋人が欲情したのがちょっと不思議なほど、ぼってりと子供っぽい。

いや、アイツはロリコンなのか、それとも女という構造ならばなんにでも突っ込めるキチクというだけなのかもしれない。いかにも大人の威圧感を丸出しにして、からかうようにいたぶるように、しかし絶対に獲物を逃がさない調子で陽を追い詰めるこの男には吐き気がする。
しかしてその事実が母親に知れ、彼女は激怒するも、その怒りの半分は娘に行くのだ。「あんたが誘惑したんでしょ!」うーむ、こういうシチュエイションのこういう母親の対応、ちょっと古いような気もしたりして。いや、現実にあるのだろうが、このシチュエイションでの母親のこの台詞、凄く何度も聞き覚えがあるんだよなあ。

正直言うと14歳の女の子が性的虐待を受けているの自体、見たくない。そしてもっと正直言うと、こういう自体を真摯に訴えるべき作品ならば、彼女が大人の女性に恋するというのは、先述したように盛り込み過ぎじゃないかと思っちゃう。
いや……確かに14歳の少女の中には複雑で重層的なアイデンティティがあり、その全てがこの陽という女の子なのだろうが、限りのある映画という作品世界の中では、性的虐待とレズビアンへの気づきとその嫉妬とエトセトラエトセトラ……というのは、彼女のまだ未熟なセクシャリティが描き切れない気がして。

そんなことを判ったように言うから、大人はダメなのかもしれないけど(爆)。もう一つ、盛り込んじゃうんだもんなぁ。
陽には仲の良い幼なじみがいる。男の子である。じっつに、ほほえましく、本当に、仲が良い。彼は陽が無防備にさらけだす生足とか、黙って!と口を手で覆ったりするのにドキドキしているみたいなんだけど、陽は全く気付いている様子はない。

母親の恋人にレイプされ、弥生の客を虐待するために自ら相手になるような陽はもはや、同じ年頃の男の子なんて、そんな対象に見られないのかもしれない。そういうところは確かに女子にはあるかもしれないけど……。
弥生のところに逃げ込んでいた陽が、彼女からも拒絶されてどうしようもなくなって、大祐の家に身を寄せる。彼の両親も全てを含んで陽をかくまってくれる。

「噂を聞いていたから心配していた」という言い方をする彼の母親は、何を聞いていたのか。弥生が身を売っている女だということなのかなとも思い、大祐もそう受け取って勝手なこと言うなと声を荒げたけど、本当にそうだったのか。陽の家庭の不自然さを読み取っていたのではないのか。
うーん、でも、それはいいように解釈しすぎなのかなぁ。ただ、このお母さんが凄く陽をいたわって、親身になって、いつまででもいていいよ、とまで言うから、ただ単にアヤシゲな女性と一緒にいた、というには事情を知ってる感がアリアリだったからさぁ。

てな具合に、なんていうか、いろんなところで踏み込み不足なような気がしてしょうがないの。
一番気になったのは、弥生のキャラ設定。そもそも彼女が看護師をやめて、突然夜の女に、しかもカーセックスだけという状態に身を落とした、そこまでの理由がよく判らない。
つまりは、家庭のある男との恋愛関係、どうやらその男との子供を堕ろした。えーと、“子供が産める身体に戻りたい”てゆーのは、堕胎が原因だということなのだろーか??ちょっとランボーなような……。

いや勿論、それが原因になることは確かにある。充分にあるだろう。でも……今の医療技術で、一回の堕胎で、そうなる??それとも彼女は彼との間の子供を何回も堕ろしたの??そういう風には見えなかったよね。隠していたエコー写真は一枚きり、なのだし。
なんだろう、なんだろう……フェミニズム野郎の私だが、こーゆー女性の造形は好きじゃないのだ。妻子ある男と付き合うなら、それぐらいの覚悟はもってほしい。看護師からいきなり夜の女、しかも夜道のカーセックス売春に身を落として電気まで止められちゃうなんて、アテツケとしたってムリがありすぎる。

中盤、しつこい客に家まで押しかけられたところを助けに入った賢吾(弥生の恋人の妻子持ち)が、こんなことやめろって言っただろ、と頬を殴って激怒するのには、いやいやいや、そもそもいくらなんでもこんな極端な生活態度になったこと自体、観客がついていけてないんですけど。
そしてどうやらそれはあなたのせいらしいじゃないですか??ともう戸惑いまくってしまう。しかもその修羅場の後、「お願い、抱いて」と弥生は号泣しながら懇願、それに応えるか、お前、バカか!納得できないなぁ。

うーむうーむ、つまり私は、女が弱い立場に甘んじていることがガマン出来ないだけなのかもしれない。そしてそれは、陽もある意味そうではあるんだけれど、彼女の年齢、環境ではどうしても逃れられないこの、庇護者からの暴力から逃げる形で弥生の元に行き、それはもともと弥生が好きだったから、という展開。
でも、レズビアンとしてのアイデンティティが、この辛い現状から逃げる先にあるという弱さが、彼女たちの中にある愛、愛なのかもしれないものに、いまいち首肯できないものをどうしても感じるのだ。

そもそもなんで弥生は陽とペッティングなんてしたのか。ペッティングなんて、今は言わないのか。あれはいわば、セックスなのか。陽にキスして、おっぱい触らせて、あそこを触らせて……「気持ちよかったよ」なんて。
陽は最初から弥生に好意を寄せていたから素直なレズビアン性質を持っていると思われたが、弥生にはそれは感じられなかったから、かなり唐突な感じがした。陽の嗜好性をキャッチしたように思われたが、でもストレートの人が、そんな簡単に“セックス”するのかなぁ。だってそれって、ことによっては凄く相手を傷つけるじゃん……。

で、先述したけど、なんか突然弥生は悟ったように賢吾と別れ、なのに勝手にどん底に落ち込んで、心配した陽が探しに行くと身も世もない感じで泣きじゃくって、あなたはいずれ、好きな男の子が出来て、私から離れていく、とか言う訳。あれれれれ、だったら弥生はそもそも陽のことが最初から好きだったの??……そんな風には見えなかったけどなあ。
陽は絶対に弥生ちゃんから離れない、とまるで立場逆転、保護者みたいに、マリア様みたいな微笑み浮かべて、プラネタリウムに逃げ込んだ弥生を抱きしめる。

そしてラストシーンは、弥生ちゃんこそ、恋人が出来て、離れていく。切ないよ、と二人、目を見つめ交わすでもなく、夕暮れの中、お互いどこともしれないどこかを見ている。……ストレートだ、レズビアンだとカテゴライズしたがること自体がヤボなのかもしれないとも思ったが、今は特にアイデンティティというものにとてもそれは重要事項として含まれるから。
そう……例えばこれが、10年前だったら有効だったかもしれないとは思うが、深刻そうな割には、セクシュアリティの部分は乙女な感覚のままのように思っちゃう。これで監督さん自身が当事者だったらどうしよう、そうだったら、ゴメン。まだまだ判らない部分だらけだからさ……。★★☆☆☆


万引き家族
2018年 120分 日本 カラー
監督:是枝裕和 脚本:是枝裕和
撮影:近藤龍人 音楽:細野晴臣
出演:リリー・フランキー 安藤サクラ 松岡茉優 池松壮亮 城桧吏 佐々木みゆ 緒形直人 森口瑤子 山田裕貴 片山萌美 柄本明 高良健吾 池脇千鶴 樹木希林 毎熊克哉 堀春菜

2018/7/29/日 劇場(TOHOシネマズ上野)
信代と亜紀の関係に??初代は誰の母親でえーと??といつもの通り人物関係図に頭を悩ませていたので、相関図で検索してしまった。私と同じ疑問を持った人は結構いたみたいで、ちょっとホッとする。なるほどなーるほど、亜紀は初代の孫、それだけで、あとは全部他人の集まり。息子というのも妹というのも対面的なものなのかぁ、なーっとく!とスッキリする。
いやいや、つまりはそういう映画だということは判っていた筈なのに、初代が亡くなった亭主の後妻の息子夫婦を訪ねて、その娘が亜紀ということが明らかになると、悩まなくていいことを悩んでしまったから、さぁ。

しかして常日頃、ここでも散々、日本の実子至上主義にイラッと来ている自分なもんだから、共鳴する部分がたくさん、あった。ただ、いまだに今の日本はこうだから、幸せだった筈の“家族”はこういう経路しかたどれないんだということも。
万引き家族というタイトル、実際、万引きをしている場面も折々現れるけれど、冒頭、親子(じゃないんだけれどね、本当は)で万引きをしたシーンのすぐ後に、商店街でコロッケを買っている描写で、すぐに観客をあれっと思わせるのが上手いなぁと思うんである。

万引きだけで生計を立てている家族だと思って観始めた観客が多いだろうと思う。そうじゃなくて、父親(役、というべきか。こういうことを言い出すとキリがないが)の治は日雇いの仕事に出ているし、母親の信代はクリーニングのベテラン従業員、ともに後にケガとリストラで仕事から退くものの、仕事に対しては割と真摯に向き合っている。なんたって、極貧生活で、一人暮らしの“祖母”の家に身を隠すようにして暮らしているわけだから……。
信代の“妹”初代の孫(これは本当)の亜紀は、女子高生イメクラで働いている。おっきなおっぱいの谷間を見せるぐらいで、お仕事の描写が大人しめなのはちょっと不満足。それこそこの年頃の安藤サクラだったら、がっつりやっただろうになぁ。

ちょっと話がそれてしまった。で、そう、きちんと(かどうかは判らんが)働いているんだよね、この家族は。でも基本的には祖母の年金を当てにし、足りない生活消耗品を万引きであがなっている、という図式。つまり、これなら子供でもできる“仕事”ということだったのかな、と後からちらりと思う。
最終的に捕まってしまったこの家族、父親である治が翔太になぜ万引きをさせたのかと問われ、それしか自分が教えられることはなかったという言葉には、センセーショナルな印象を与えるけれども、そういう実際的な感覚もすごく、感じるのだ。

虐待されて戸外に出されっぱなしだった幼女、ゆりを連れ帰り、万引きのメンバーに加えた時、治は、「そうすれば、ゆりがここにいやすくなるだろ」と言った。
何か、とても心にしみた。その言葉に、翔太が素直にうんとうなずいた時、なぜそんなに素直だったのか、私はまだ判っていなかった。翔太もまた、ゆりと同じように親に捨てられた子供だったのだということを。

リリー氏と安藤サクラは大分年齢が開いているし、しばらくの間、二人が夫婦(ではないんだけれど、正式には)だということが判らないでいた。二人と亜紀が、仲は良いけれどどこか一線があるような関係であることも、なんだかんだいって家族という価値観に縛られて観ていたもんだから、多少の混乱を招いていた。
「信代さんとは、いつしてるの」この亜紀のセリフで、信代“さん”という言い方と、親しい叔父さんに対するような言いようで、あぁ、そうなのかと、判ったのだ。

心でつながっているんだよ、とカッコつけたことを言った治だったが、その後、信代と暑い夏の昼下がり、汗をかきかきそうめんをすすり、雨が降り、雷が鳴り、そして……というシーンがある。
二人とも素裸で、本当になんというか原始的で、美しいなと思う。子供たちが帰ってきて慌てるところもベタだけど、なんだかツンとする。

ゆりは、本当はじゅりという名前だった。舌足らずだったからそう受けてしまったのか、それを否定もしなかったのは、幼いながらも彼女自身の中に何か考えうるところがあったのか。
ネグレクト&虐待といった感じ。娘がいなくなっても捜索願も出していない。そこにマスコミも食いつくけれども、結果的にウソの家族生活、埋葬費用が出せなくて亡くなった初代を埋めていたことで、この両親に対する非難が一斉に弱まるところが、いかにも日本のマスメディアだと思う。

もちろん、そういう皮肉をものすっごく込めて監督は描いているのだろうが、それをフジテレビ制作で、実際フジテレビのアナウンサーまで使ってニュース映像を作っていることが、フジ側はそれを受け止めているのか、売れる監督だから協力しているだけなのか、なんとなくもやもやとしたことは感じるんである。
ドキュメンタリー出身で、作劇や芝居にもそれを重視している監督であることは広く知られているところだけれど、この、ニュースなところをすんごく意図的に、劇的に、フィクショナルに描いているのが、なんか挑戦だなぁ、と思って。フジへの、マスメディアへの挑戦だなぁと思って。

事実だけを並べ立てれば、ゆりの両親はヒドイ奴らであり、治たち疑似夫婦は、年金暮らしのお年寄りをたらしこみ、幼い子供に万引きをさせるヒドイ奴らである、のだろう。
そして治たちから見てゆりの両親は、マスメディアが当初報道していた印象とさして変わらない、ヒドイ奴らである。いや、別に虐待両親を擁護する気はないけれども(汗)、のちにすべてが明らかになって、治たちが一人一人、取り調べのように話を、自分たちのこれまでを明かす段に至って、いろんなことが判ってくるからさ……。

先述したように、私は日本の、実子至上主義が大嫌い。自分で産んだ子供でなければ認めないくせに、産んだら産んだで正しい母親であることを強要する(この場合、父親がほとんど絡んでこないことも腹立たしい)。
授かった命を絶つことも女を責めるくせに、なんなん!!と思う訳。何度も言ってるけどね……。授かった命を、なぜ社会が、国が、守ることができないのか。産んだ母親にだけそれを強要し、できなければ責めるのか。

だから、私は、この母親に対して、ベタにネガな評価を与えることはできない。フェミニズム野郎だから(爆)。信代やゆりのように、親に虐待された経験もなければ、それどころか平和な家庭で育ったからだと言われればそれまでだが、だからこそ言えることはあると思うのだ。
小さな子供が親を選べないのは当然。それでもゆりは、幼いながらも、拾ってくれた治たち家族を選んで、りんという新しい名前も受け入れて、髪もさっぱりと切って、この大家族の中で生き生きと、そう、最初はまるで言葉も発せず、おねしょもしちゃうような幼い子供だったのが、おしゃべりになって、子供らしい子供を取り戻した。

でも、この事態が発覚し、ゆりは本当の両親のもとに戻っていく。ゆり自身がそれを望んだと言ったことを信代は信じなかったけれど、実際はどうなのか判らないけれど、やはり、やはり子供は選べないのだ。
だからこそ、親側が、社会に縛られずに、選ぶ権利があるべきだと思う。自分が正しい親になれる自信がないのなら、手放すだけの社会があるべきだと思うし、そんな社会じゃないのに、できなかった親たちを責めるばかりでは何も解決しないと思う。

確かにゆりは、本当の両親のことも好きだったのだろう。どんなにひどいことをされても。でもそれは刷り込みなのだ。生まれて初めて見た動くものが親というヒヨコ状態。
だから、治たち家族に出会って彼女はその選択肢が揺れたのだ。子供はみんな母親が大好き、だなんて、無責任に言う“社会”は本当に大嫌い。

なぜ、バレたのか。それは翔太が意図的に、捕まってしまったから。「誰も知らない」の時の柳楽君をほうふつとさせる、孤独な目をした美少年は、一時はゆりの存在をヤキモチにも似た態度で拒否しようともするけれども、自分の妹として、受け入れるし、可愛がってもいた。
あの“事件”の時、その直前に「妹にはそんなことさせるな」と駄菓子屋の親父さんに静かに諭されたエピソードがあって、だから、妹を捕まらせないために自分が捕まったのかなとも思ったけれど……。

いや、実際は、どうなんだろう。プロフェッショナルな翔太らしからぬ、ワザと商品を落として、店員の目の前でミカンの袋を奪って逃げた。追い詰められて、橋の上から飛び降りた。
うわ、まさか彼死ぬのでは……とヒヤリとしたが、病院に運び込まれた。警察もからむし、当然、身元だのなんだのという話になる。病院にいればメシにも困らないだろうと、後から迎えに行こうと、ちょっと弁解めいた言葉にも聞こえる会話をせわしなくしながら、家族は逃げる準備をした。

その前に祖母が死んでいて、埋葬するお金もないからこっそりと埋めていた。「もう一度こんなことをするなんて」と治と信代は話していた。
今まで一切明らかにされなかった夫婦の秘密がちらりと垣間見えた直後の事件だった。あっさりとつかまって、この“家族”はバラバラになってしまう。

亜紀が盲目的に信頼していた祖母が、自分の両親からいわば自分をネタにして金をせびっていたことや、何より翔太を置き去りにして彼らが逃げようとしたことなどは、亜紀や翔太にショックを与えはするし、マスコミを始めとしたいわゆる一般社会の目線的には格好の対象であるとは思うけれど、実はそんなでもないんじゃないのかなぁという気がしている。
亜紀は結構ショックを受けていた様子だったけれど、翔太は、後にその事実を改めて治にただしはするけれど、淡々としている。彼に関しては、万引きや車上荒らしで生計を立てていることを、そろそろ疑問に思い始めていた時だったから。

「スーパーに置いてあるのは、まだ誰ものものでもない」という軽い言い訳が、車上荒らしでは通用しない。翔太はきっと、頭のいい子で、思慮深い子で、いい意味で治にはそれがなくって、だから、乖離してしまった、のだ。
いわば、翔太が治を捨てたのだ。逆なのだ。だからそれを、最後に彼は言い渡す。わざと捕まったのだと。自分が置き去りにされたことを確認した後に、そう言ったのは、やっぱりやっぱり、さ、自分が先にあんたを捨てたんだよと、言いたかったのかなと思ってさ。

すべての罪?をかぶって、信代が刑務所に入っている。信代の元夫を殺した罪がある治をおもんぱかってのことである。翔太を連れて面会に来るよう頼んだ信代が、翔太を連れ去った時の、つまり両親の手がかりを教える場面は、最後の最後の衝撃である。
こんなことを言うために連れてこいと言ったのかと動揺する治に「そうだよ、私たちじゃ、ダメなんだよ」と言った信代の、安藤サクラの笑顔は、ひどくひどくキレイで、なんだか私は、逆に、逆に?無性に、腹が立ってしまった。

なぜダメなの、そんなことない、絶対にないって!でも、それが今の日本の姿なのだ。家族になろうとしたら犯罪になっちゃう。ちーちゃん演じる刑務官が「子供が産めないのは辛かったと思うけれども」といかにもしたり顔で信代をいさめる場面にマグマが沸騰する。
だから!これだよ!!と。産まなければ母親じゃないのか、ああ、それを、そう言ったわ、信代は。私や、産めない色んな立場の、女性&女性でもない立場の色んな人が、マグマ沸騰したに違いないのだ。だから、だから、さぁ!!

信代に面会する場面、それまで延びっぱなしの髪をさっぱりと切って、翔太は現れる。キャップなんぞかぶって、あか抜けている。髪が延びっぱなしの時は、本当に、「誰も知らない」の柳楽君をほうふつとさせた。むしろ、その時の方が大人びて見えた。悲しい大人びた感じだけど。
年相応の男の子の“あか抜けた”感じになって、でもその中身はさらに悲しく大人になって、治に別れを告げたのだ。
信代はきっとそれをもう判ってて、翔太に両親のヒントを教えたのだろう。ゆりは、両親のもとに戻って、やはり寒い生活で、静かに一人、大人になるのを待っている。ふと、マンションの柵の向こうを、遠い目で、眺めた。★★★★☆


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