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ぼくの好きな先生
2018年 85分 日本 カラー
監督:前田哲 脚本:
撮影:前田哲 音楽:スタジオアトウ
出演:瀬島匠
東北芸術工科大学で前田監督は映画を教え、本作の主人公瀬島氏は洋画を教え。前田監督が、ひょっとしたら作品として結実するかどうかも判らないまま、映画を観ている観客がそう感じるように、否応なしに引き込まれてカメラを回しだしたんじゃないかと想像してしまう。どうしようもなくホレてしまって、この人を撮りたいと思ったんじゃないかと、思ってしまう。
画家、というイメージが特にあった訳じゃないけど、でも少なくとも、こんな人は想像していない。こんなマシンガントークの、一秒たりとも黙ってない、てゆーか、睡眠なんかしてないんじゃないかと思うような。
全国、全世界飛び回り続け、クリエイトし続ける、同じような空と海の絵、でも一枚たりとも同じではない絵を何枚も何枚も描いてめちゃくちゃ楽しそうで、何なの、一体!!という……。
しかも、カッコイイの、なんとも(爆)。ベタな言い方だが、イケメンの部類に入ると思う。Tシャツにジーパンというラフなスタイルに、無造作な天パ頭にさっとサングラスを差し上げる様が、キザじゃなく自然に絵になる。イイ男かも……と思って見惚れてしまう(爆)。でもそれは当然、彼の、生き急いでいるかと思えるようなエネルギッシュさに裏打ちされていることは間違いないんである。
瀬島氏は、自分は35歳で死ぬと思い込んでいて、そこから逆算して人生を生きてきたのだと、そんなシリアスなことを超絶に明るく言うんである。そのエネルギーのまま、50歳を過ぎた今も見事に突っ走っている。
いや、本人は突っ走っているという意識すらないのかもしれない。これが彼の普通。画家としての活動をつぶさに、まさにライブペインティングを見せてくれるのも魅力なのだが、タイトル通り、彼が先生として芸大の学生たちに対峙している場面がなんといっても、魅力的なのだ。
きっと、同僚として、前田監督は、その姿をこそ皆に見てほしいと思ったんじゃないかという。指導というより、共感、共鳴、同じクリエイターとしての無邪気とさえ言いたいような反応。
斬新なアイディアに笑い転げ、時に学生の作品を無造作に触りまくり、「壊れるから!!」と怒られたりする。彼が学生に、君は画家になるべき才能と、ストレートに言うのには正直ビックリしたりする。
いや……それは多分、私が画家というものを職業として、今の時代にどう成立するのだろうかなどとヤボなことを思っているからなのだということを、突き付けられる。
それで食えるとか、絵が売れるとか、そういうことじゃないのだ。いや、勿論それは大事なことなのだが、そういうシークエンスもちゃんと出てはくるのだが、彼の父親が、そして母親がそうであったように、食い扶持をどこか別に持っていることは恥ではない。何か、そういう風に私は、そして世間的にも思いがちな気がする。
それでいて、商業的な売れっ子作家を軽蔑したりする。このつまらないギャップの意識はなんなんだろう……。そういう一般的な俗な意識を、瀬島氏は軽やかに飛び越えて学生たちに、そして私たちに教えてくれている気がする。画家として生きていくことという、その充実を、彼自身がまさに彼自身で、教えてくれる。
本当に、中盤まではね、彼の目まぐるしいクリエイティビティを見せつけられて、へとへとになるって感じなのだ。30年間続けているという、ランナーという連作シリーズは、今の段階では海と空が激しくぶつかり合うような絵で、その素材をトタンに得たことで様々なインスピレーションが産まれている。
メールで見せた絵に友人からダメ出しが来て、それをその場でフレキシブルに直していく様などをヴィヴィッドに見せてくれて、驚く。しかもその間、カメラを構える前田監督と、元同僚という気安さもあるのだろうが、まぁ、喋りっぱなしなのだ。
驚愕、である。えーっ、画家さんが絵を描くという作業を、こんな陽気に、おおっぴらに、ダメ出しまでさらけ出して、それを楽しそうに嬉しそうに受け止めて直していく作業まで描くなんて!
そしてまさに、その“改善”を、瀬島氏と共に私たち観客はまざまざと体験することができるのだ。本当に、変わっていく、その様を。こ、これは……なんという贅沢な時間!
凄く、リアリティのある、迫力のある絵を描くのに、瀬島氏はそこにまるで広告のように「RUNNER」の文字を型を取ってスプレーで描き込んじゃう。観客である私もえーっと思うし、これに関しては皆やめろというんだけどね、と瀬島氏はあっけらかんと言い、しかもそのスタンプ文字にグラデーションを施したりとか、こだわっちゃうあたり(爆)。
でもなんか……全編見ていくと彼のそういう、なんていうのかな、独特のこだわりのなさが、逆にこだわりなんだと、判ってくるというか。
中盤まではね、とにかく瀬島氏のエネルギッシュな創作活動を、元同僚である(友人である、というべきかも)前田監督の絶妙なツッコミに笑わせられながら、見せていくのだよ。
でも、ようやく、というべきか、ついに、というべきか、瀬島氏自身のこれまでというか、画家となるまでの足跡というか、それが……それまでのあっかるい瀬島氏を見せられていたから、なんか、えーっ!というか、言っといてよ!と言いたくなるような、壮絶なエピソードが語られるからさ……。
瀬島氏が35歳で死ぬと思っていたというのは、そういうことだったのか。いや、その出来事はそう思っていた10代の頃より後に来たことだったから、それはうがちすぎか。あるいは、……こういうことは言いたくないけれど、何かその……血というものなのか。
奥歯にものの挟まったような言い方をしてても仕方ないのでまずは明かしちゃうけど、瀬島氏の弟二人が、共に自死している、んである。しかも共に、同じような年齢の時に。20そこそこの時に。
対照的な性格の二人だった。一人は、寡黙でただただ走るのが好きなランナー。ランナー、というのは、この弟から来ていたのかと知って、絶句する思い。
実業団まで進んだけれど、思うようなところではなかった、というところまでしか判らない。自死を選んだまでの事情は判らない。そんなものは、本人以外、誰も判らないだろう。
もう一人の弟は、明るい性格だった。むしろ、瀬島氏に似ていたのかもしれない。バイクで事故を起こした。賠償金だろうか、多額の金が必要になった。それを誰にも言えずに……そんなことで、と思うがつまり彼もまた、それ以上の何かを抱えていたのだろう。
双方の弟共に、直前に瀬島氏に直筆の手紙を残しているのが、胸に刺さる。瀬島氏は外国に留学中で、そこにエアメールで送っているんである。共に、その直後の自死である。
最初の弟は、まるでフォントを貼り付けたような几帳面な文字と整った文章で、縷々と綴っている。二番目の弟は、奔放な性格を示すように、書きなぐるような文字とめちゃくちゃな文章である。まさに対照的、なのだけれど……。
メールではなくて手紙で残されるというこの時代性に、そして筆を執ったその覚悟に、その血を同じくつなげている瀬島氏に、何とも、何とも言えない、本当に気持ちを感じるのだ。
きっと、瀬島氏自身の中にも、この弟たちが抱え持っていたものはあるのだ。
とにかく瀬島氏の作品は大きくて、キャンバスということだけじゃなくて、空間を作品にすることも多いので、その壮大な作品を地方の廃校になった小学校に保管していたりする。
その明るいキャラクターとは想像もつかない暗い、闇そのもののような作品を、漁港のおばあちゃんに、あんたは海を判ってるね、と言われて嬉しかったと、相変わらずの明るさで語る彼を見ていると、人間というものをなんとあさはかに、単純に私たちは見ているんだろうという恥ずかしい気持ちになってくる。
彼の中の闇と正反対のような明るさと温かさは、決して矛盾することなく、共存しているものなのだ。だからこそめちゃくちゃ魅力的で、好きになってしまうのだ。そしてそうでなければ、クリエイター、いや、ここはクラシックに画家と言いたい……というものにはなれないのだ。
今はまだ、フレッシュな感性で勝負しているだけのように思える学生たちの中に、確かに瀬島“先生”は、そうでない才能と可能性を見出して、とっても嬉しそうに“指導”していたと思う。
ぼくの好きな先生。瀬島氏と前田監督のど真ん中ストレートだというキヨシローの名曲が、まさにそのままに花開いた。
前田監督は、地味ながらも着実に足跡を残してて、「こんな夜更けにバナナかよ」でプチブレイクした感がある。「パコダテ人」があっての大泉先生との再会で、大きな花を開いたことが嬉しいし、でもその一方でインディーズで、やりたい、見せたいことを作ってくれているのが、凄く凄く、嬉しかった。★★★★☆
このあたりは玄人さんがより語られるのだろうから恥をかくのがヤなんで私は言わないけど(爆)、本当に、欲しがらないなあ、って。役者の顔や演技を、欲しがらない。ただ単にカメラが距離をとっているということ以上に、客観、というのとは違うような、カメラの置き方をしている。
小さなイエス様なんて、最後まで全然顔がはっきり見えない。チャド・マレーンであった意味があったのかしらと思うぐらい(爆)。
なんということはないシーンにハッとさせられたりする。私は、なぜだか妙に、学校で飼っているにわとりが雪面を、その軽い体重、その細い足がさくり、さくりと雪面を絶妙に踏み抜きながら歩いているシーンが、心惹かれた。
なんだろうなあ、こういうの、これはセンスというしかないのか。
この映画は、亡き友に捧げられている、とクレジットが入る。ドキリとする。ひょっとして監督の実体験なんだろうかとも思う。しかしそんなことを詮索するのはそれこそヤボというものだろう。
物語は、主人公の由来が雪深い田舎町にやってくるところから始まる。その引っ越しの理由が観てる時には今一つピンとこなかったが、祖父が亡くなって一人になってしまった祖母と一緒に暮らすため、ということだったらしい。
冒頭は、この祖父のシーンから始まる。ボケてでもいたのか、障子に無数に穴をあけ、そこから外を眺めていたおじいちゃん。彼の世界はこの和室にしかなかったのだろうか。部屋の片隅にぺたりと座って、ぷすりと障子に穴をあける。
……この雪国の世界観が、外界からの隔絶感を殊更に煽り立てるから、その中の和室の一室、というのが、更にそれを募らせる。
だって、この小さな家族は、食事をとる時もテレビをつけるでもない(そもそも、テレビがある雰囲気すらない)、由来が仲良くなった和馬と遊ぶのはテレビゲームじゃなくボードゲーム(信じられない!!)、通信、ということがここにはないんじゃないかと思うぐらいである。
あ、電話はしてたか……でもそれもこのエリアだけのことだったりして!!……なんて夢想を起こさせるぐらい、まるでパラレルワールドに入り込んだような、気がした。
和馬、である。由来と仲良くなった、内向的に見える由来とは対照的な、明るく活発な少年である。そもそも由来が東京からの転校生ということに、不思議なほどにクラスメイトがさほどの関心を示さないことが気になったりして。
でもそれは、昭和な感覚なのかなあ、今は世界が小さくなっているのだし……とも思いかけたが、先述のように、この閉ざされた感満載の地で、むしろ東京というワードが、彼らの生活にとってどれほどの価値があるのかということを、思ったりもしてしまうのだ。
由来は別に、いじめられている訳でも、無視されている訳でもないんだけれど、そんな具合なので、しばらくちょっと、一人である。
この感覚も、私世代にはなかったものなので、面白い。昭和世代はこーゆー場合、とにかく世話を焼く学級委員長とか、目の敵にするクラスの花形とか、あるいは東京っ子といじめられるとか、ゆーことを想像する(ベタすぎる……)。それが一切ない、というのが、なんだか不思議である。
由来が戸惑ったのはそんな人間関係ではなくって、ミッション系の学校の風習(という言い方はおかしいのだろうか…)、礼拝に始まり、礼拝に終わる学校生活、なのであった。
きちんとした礼拝堂があり、生徒たちはマイ聖書を持っていて、そらで聖歌をうたいあげちゃう。お祈りする時素直に目をつぶり、無条件に、本当に無条件に、イエス様のご加護を信じている、というより、当たり前の思想として受け止めている。それまではフツーの小学生だったと思しき由来の戸惑いは、想像するに難くないんである。
でも、彼のおじいちゃん、それほど関わりないままに亡くなってしまったおじいちゃんは、礼拝に通っていたんだと、礼拝を仕切っている先生が、言うんである。これが、不思議で……この地はどういう宗教的関わり合いをしているのかなあと。フツーに仏壇におじいちゃんおさまってるし。
でもそういう混沌が日本の特徴であり、いいところでもあるのだが、でも、気になる。きっとおじいちゃんは、何か悩めることがあって教会に来ていたに違いないのだ。
それは、結局明らかにされない。それが本作の主題ではないということもあるが、なんたって物語の冒頭に示されたおじいちゃんだから、めっちゃ気になる。でもそういうイエス様への葛藤が、孫息子に引き継がれたのかもしれない。
由来は、イエス様が見えちゃう。小さなイエス様。まるで一時期流行った小さいおじさんみたいな(爆)。何にも言わない。ただ登場するだけ。アナログレコード盤の上を走ってみたり、由来のしかけた紙相撲に興じてみたり、由来と一緒にお風呂に入ってひよこちゃんにまたがったりする。
叶えてくれるお願い事もしょぼくて、お金が欲しいといったらおじいちゃんのへそくりの1000円が手に入ったりする程度。このイエス様が、一般的見解では、子供の妄想だという風にされる向きもあるらしいのだが、私は全くそう思わなくって、本当にイエス様が見えていると思って……。
だって、子供って、私たちに見えないものが、見える能力が確かにあって、それは、この現実の世界に来る前にいた世界への時間的距離が短いから、感覚というか、そういうことが起こりうるとやっぱり、思うんだもの。
ただこのことを、由来が誰にも言わなかった、っていうあたりが、これまた現代的作劇だな、と思う。言ったら絶対に、そんなの妄想だよと言われるに違いない、と思う。それを判ってて言わなかったのか、言う気がなかったのか、判らないけど……。
でも、確かに、誰かに言う、っていうのは、その時点でその存在を信じてない、というか、誰かに認めてもらいたいと思っていることなんじゃないかと思う。
つまり、由来はイエス様を信じている、んじゃなくて、本当に見えている、んだと、私は思ったけどなあ。
決してキリスト教徒ではないし、その教えすらよく判ってない由来が、それが見えているというのが、おじいちゃんが教会に通っていた、ということを考えると、この世との時間的距離の話をまたしても、思っちゃうんである。
おじいちゃんにも見えていたんじゃないかって。由来とは逆の意味の近さのおじいちゃんには。
和馬の家は、というかお母さんが敬虔なキリスト教徒で、“別荘”に遊びに行った時も、その夕食前にきちんとお祈りする。目があいていた、とはしゃぐ息子たちを叱り、お祈りしなおすその様は、まさしくの、キリスト教徒である。
和馬は母子家庭で、後に和馬が交通事故に遭って入院している病院で彼女が苛立たしげに交わしている電話の相手は、離婚した夫、なのだろう。どんなに神様を信じていても、望むべき相手には巡り合えないし、愛する息子は神様に召し上げられてしまうのだ。
先走ってしまった。正直、和馬が死んでしまうなんて、思わなかった。「サッカー、好き?」「うん」のやりとりで一気に仲良くなった二人、俯瞰で撮った静かな、雪面でのドリブル遊びは忘れられない。
こんな雪国なのに、東京から来た由来の方が雪国育ちみたいに雪白で、和馬は南国の少年のように健康的に日焼けしていた。
ある日、なんだろう、あれは……雪の校庭でのサッカーの授業に、いつの間にか由来が姿を消していたのは、上手くできなくてサボっちゃったのか。
そのまま着替えの教室にもいなくて、和馬は由来を探しに行った。あれは……その道行での出来事だったんだよね??え?違う?そう見えたんだけど……。
サッカーボールをドリブルしながら坂道を下ってくる和馬は、前なんて見てなかったんだろう、坂下の横切ってくる車に見事に衝突する。それまでほのぼのとした展開だったから、えーっ!!と思い……しばらく、予断を許さない状態がアナウンスされた後に、死んでしまう、死んでしまう、のだ!!!
和馬のお母さんは由来に弔辞を依頼する。まあそりゃ……フツーに考えて、息子が一番仲良くしていた友達、というチョイスで、決しておかしくはないんだけど、こんないたいけな幼い子供に、死んでしまった友人への手紙を書けだなんて、随分残酷だし、病院でも夫に激昂している彼女とコンタクトをとれていなかったからさ……。
なんか、怖かったのだ。別荘で息子とその友人ににこやかに接している彼女は、確かに素敵だったけど、どこかよそよそしいというか、違う気がした。
イエス様に対する気持ちは確かに本物なんだけど……なにか、それにとらわれているというか、由来から「いつもにこにこしている」と言われて嬉しそうにしていたけれど、それって人間としてまぁその、やっぱ不自然だと思うし、無理してた感満載だな、と思った。
「お別れの会」で、息子の一番の親友だからと、由来に依頼して、でもその由来を、少々首を傾き加減にして、ぼっさぼさの髪とスッピンで見つめているお母さん=佐伯日菜子、めっちゃ、怖い!!
由来は気づいていないだろうけど……彼が怒りを感じているのは、ショボいお願いは聞いてくれたのに、大事な友人を救えなかったイエス様に対してであり。
信仰を持つヒマもなく、巻き込まれてイエス様に出会って、裏切られて、弔辞の場面にノンキに出てきたイエス様を、ドン!とお祈り握りの両手で、由来はつぶした。キリスト教のなんたるかも判らないまま、慣れない土地に来て、友人を得て、そして失って。
観てる時には、これはどーゆースタンスの物語なのと思い、教会が協力しているのに心配になったりし(爆)、でも実は、こんなに宗教的なお話はないのかもしれないとも思う。
人間の生と死は、キリスト教でも仏教でも、教祖の誕生のエピソードにおいて、まず説かれるものなのだから。監督さんがどの立ち位置にあるのかは判らないけれども……。★★★☆☆