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「こ」


2019年鑑賞作品

五億円のじんせい
2019年 112分 日本 カラー
監督:文晟豪 脚本:蛭田直美
撮影:田島茂 音楽:谷口尚久
出演:望月歩 山田杏奈 森岡龍 松尾諭 芦那すみれ 吉岡睦雄 兵頭功海 小林ひかり 水澤紳吾 諏訪太朗 江本純子 坂口涼太郎 平田満 西田尚美


2019/7/28/日 劇場(渋谷ユーロスペース)
新しい才能を発掘するプロジェクトから産まれた作品ということで、監督さんも脚本さんも役者さんも全てが初見づくし。
どこか私小説的に内向しがちな日本映画からあらたな才能を発掘する時、あるいは作り手が発掘されようとするとき、やはりそこはアイディア勝負ということになるであろう。チャンスを得た先には、自分なりの表現が試せるとしても。

五億円の人生というタイトルから、その意味が語られる時、なるほどと思ったし、確かに私たちの記憶に、日本では受けられない臓器移植系の手術のために巨額のお金が必要で、世間に顔をさらして募金活動をする、という子供たち、というかその親御さんは複数回思い浮かぶのだ。
その子たちがその後どうなったのか、考えてみれば考えたことがなかった(ヘンな言い方だが)。劇中の望来(みらい)のように、成長した姿を追われても不思議はないのに、私は観た記憶がない。

まぁ、そんなにテレビをくまなく見る訳じゃないから、知らないだけかもしれないけれど。いるのかなあ、その後も追いかけられる子って。いても不思議じゃないと思ったから、このアイディアになるほど!と思ったんだけど。
五つ子ちゃんとか大家族とかは追跡しまくるのにね。そこは意外と人権保障的なものが働いていたのかもしれない。

そういう意味では、まったきフィクションではある。だからこそ重要な点はそこではなく、そう、タイトルこそだ……五億円の人生。
望来は重大な心臓病を抱えて、母親が周囲住民を巻き込み、募金運動を全国展開して、手術を実現させた。今や望来は定期的な検査を受けるのみで、普通の高校生として普通に暮らしている。普通というのがどういうことなのか、その定義は何なのかということを、観客側にさらしていく。

望来ちゃんを救う会は、もはや救われて後も、実に100回を超えて催されている。回数の数字が手貼りになっているのが、芸が細かい。お世話になった方々に、言ってしまえばカネを出してくれた方々に、ずっとずっと、お礼を言い続けなければならないシステムな訳である。
勿論それは、地元の人たちだけじゃないから、定期的に望来ちゃんの成長した姿を取材される。母親からシャツの一番上のボタンまでとめられ、、助けられた命だから人のためになる人間になりたい、と言わざるを得ない。そこまで成績が良くないのに、そのためには医者になりたいとか、言わざるを得ない。
国立の医学部の希望を出して、先生が、でもあの望来ちゃんだから直截には言えずに、これはちょっと、いや、かなり頑張らないと……と言葉を濁す。

ところで、かつては臓器移植を受けられなかった子供たちがこんな風に一縷の望みを抱いて渡航したけれども今は、どうなんだろうか??
子供の臓器が手に入らない、という言い方はあまりに直截に過ぎるかも知れないが、子供からの臓器提供が日本ではなされていない、あるいはなされていなかった、ということなのだと思うが、今はどうなのだろうか。なんか、そういう例も出始めていたような記憶もあるが……。

海外では容易、というのも、実は危険なものもはらんでいる。そりゃあこうして公的に募金を募るのなら危ない橋は渡らないだろう。危ない橋は渡らないから海外でも提供者が見つからないまま、哀しい結果になった事例もあったような。
でも、それこそ映画で阪本監督が描いたように、貧しい国ではまさに生き胆を抜かれる……人身売買ならぬ内蔵売買が行われ、子供たちが引き渡されるその先は、内蔵を抜かれる……つまり死しかないのだということも、多分真実として、あるのだ。

そんでまあちょっと、脱線したけど、五億円、なのだ。五億円は、望来の手術のために集まったお金。永遠に感謝をのべ続け、期待されるいい子でい続け、でも期待される優秀な子にはなれないことに追い詰められて、望来は旅という名の家出をする。
それには後押しする存在があった。「先輩なら、知っていると思って。命の大切さ、とか」という、なんともボンヨーなことを、しかし必死の形相で聞いてくる後輩の女子は、まさに今ひん死の状態にあった。

生きている価値が見いだせない。自分自身にも、この世界にも。ちらりと描かれる、冷たすぎる母親だけが理由ではないだろうが、望来はこの女子の言葉に、触発されるものがあったのだろう。死という選択肢があるのだと。
生かされた命だから生きなければならないと思い込んでいた彼が、リストカットの痕を見せられて、命の大切さを教えてほしいと言われて、そんなものはないと言えなかった代わりに、自分も自分で死ねるんだと、この生きづらさから解放される方法があるんだと、思ってしまった。

それは、いい子を演じ続ける望来を見透かして、イジワルなメッセージを送って来た謎の存在、キヨ丸が後押ししたこともある。そんな人生、やめれば、とまずズバリと切り込み、それを望来は人生をやめる=死ぬことだと思い込んでしまう。それ以降もひたすら口の悪いキヨ丸だからそう思うのも無理はないが、そんな人生をやめて、自由に生きろと、いう意味だったのだ。
もうオチバレで言っちゃうが、このキヨ丸というのは、望来が入院中に仲良くしてくれた優しいお姉さん、明日香の妹である。自分が旅立った後も、望来君がまた飛び降りようとしないように、見守ってて、と、まだ幼き妹に頼んだんである。

そんなことあるかー!!自分の死にゆくかもしれない(てゆーか、死んじゃった訳だが)運命よりも、幼い命を心配するなんて、あるかーい!!……あるのかもしれん……私は、優しくないな。
こんなん、ある意味残酷だ、こんな年齢の子供にまで、そんな優しさを強要するのかと、思ってしまう。大人ならいいよ。死までの時間が短くなればなるほど、そんな心境にもなりやすいと思う。でもこれは……ちょっとやりすぎな気がしたけどなあ。

で、また閑話休題になってしまうが。五億円は望来の募金に集まった、手術にかかったお金。人の一生にかかる金額は二億なにがしと算定され、それを一生かかって稼ぐのだというのが、前提になっている。だから望来はもはや何も稼がない前に、五億円の借金を負っているのだと。
それを返すまで死ぬな、とキヨ丸は、……まあ結末が判れば彼の死を阻止するためにそう言って、望来もまた自分が生かされた負い目(という言い方はイヤだけれど)があるから、意地になって、判ったよ、やってやろーじゃん!!という気になる。

高校生が出来るバイト時給1000円じゃ、休みなしにフルで働いても170年以上かかるとか、それ以前に未成年だとホテルにもマンガ喫茶にも泊まれない事実にがくぜんとする。
自分一人じゃ、何も、何も出来ない。しかもあの望来ちゃんとして面が割れているもんだから、余計に身動きが取れない。

この、人の一生にかかるお金という算定と、それを一生かけて稼いで、チャラにして死んでいくんだ、という、前提、まあネタっつーか、これは判りやすいだけにかなり……危険だと思う。
凄く判る、これは判る。それだけ世知辛いとゆーか、働きづめで、なんの余裕もないまま一生を送るんだと単純に考えられればまだいい。

でもそれこそ、このアイディア映画の望来ちゃんに関しては、まず五億円の借金がある。世間様に対して、五億円の借金がある、んである。
一生稼いだお金で自分を一生食わせる、という点では、未成年の望来が未成年の内にそれを稼ぎ終われれば、そこで死んじゃえば確かにゲームオーバーだ。でも、それには170年かかる、と算定した時点で矛盾が生じるけどね。でもまあ、カワイイ矛盾点だ。

ふと、ふっと、思っちゃったのだ。ちょうどあの相模原の障害者施設の無差別殺人事件から3年の節目のニュースが流れていた。
あの時、犯人は、何も生みださない、働けない、自分を生かすためには健常者の稼ぎと税金を食いつぶすしかない、だから生きている価値がないと、そういう考えを確固として持って、コトに及んだのだ。

そしてそれが、コトに及んで捕まった後も揺るぎない信念として持ってて、……そういう考えに賛同する人は少なからずいたりして、だからこそ、あの事件はものすごく重大なことだったのに、意外なほどあっさりと流された。そう世間自体が考えている証拠のように思って、これは大変なことだと、戦慄した。
本作は、そんなところに触れる訳ではないけれど、作り手側がどこまで考えているか判らないけれど、ハンディキャッパーに触れてしまえば、その物語になってしまうということもあるけれど……でもちょっと、知りたいと思った。

健常者側から予想出来る範囲内の世界、つまり、健常者の高校生が飛び出した時に触れ得る世界、に関しては、まぁちょっとベタだけど、頑張ってはいる。まずはホームレスのおっちゃんの優しさに触れる。望来に優しくしてくれた理由として、コンビニに放置されている傘に手を出さずに、おっちゃんからボロ傘を買おうとしたから、という、ひどく筋道通った理由が泣けるんである。
このおっちゃんから日雇いの仕事を紹介され、望来は世間の厳しさ、つーか、自分の無力さを思い知る。このおっちゃんが望来を騙して貯金をおろしたと誤解して、望来はある意味、無一文とヤケクソで危ない世界に渡る訳だが、それは誤解だった訳で……でもでも、それはホントに優しすぎないか。

まあいいや、先に行く。女の子なら容易に想像できる、フーゾクの世界に飛び込むのが、男の子側の視点だから面白い。添い寝クラブ。
望来のお客になったやさぐれ女子は「(性的サービスなんて)みんなやってるよ」と彼を組伏すが、結局は望来の手術跡を見てしまったこと、そして純粋さ、そしてドーテーだと知ってしまったことで(爆)、ホントに添い寝で終わる。彼の最初で最後の客になった不器用でガサツなお姉さんから、望来は人生の奥深さを知るんである。

その後、あっさりこのクラブは摘発され、いかにも裏稼業の男がそれをチクった訳だけど、この男、森岡龍が、手練手管なんだけどさ、なんか望来には優しいというか、便宜を図るというか、人生、いや違うな、裏通りの人生を歩むにもどうしたらいいかを、教えてくれる優しさで。
勿論厳しいんだよ。望来は甘すぎるから。でも望来が惹かれるのは判る気がするんだな。心中事件の清掃にぶち込まれるシークエンスなんて、彼が望来を好ましく思っているから、鍛えるためにそうしたんじゃないかと思っちゃうぐらい。まあ、画的に映画的にインパクトがあるというのは、もちろんそうなんだけど。

自分が苦しい理由は、自分が甘やかされているから。でもそれに対して、この闇の男が苦笑して言い放つ台詞がイイのだ。しかも、もうホント望来が甘すぎて、オレオレ詐欺の受け子とかになっちゃって、詐欺グループから土中に埋められる寸前で彼に助けられるのだ。
そりゃ、不思議に思うさ。なぜそんなに優しくしてくれるのかと。彼は言うのだ。お前は優しい人間とそうじゃない人間がいると言う。でもそうじゃない。本当は、優しくされる人間と、そうじゃない人間がいるのだと。いや、優しくしたいと思う人間、だったかな。つまり、望来は優しくしたい、優しくされる人間側。ラッキーだったな、笑いかける森岡龍、か、カッコイー!!

お母さんにも、地元の人たちにも、そして日本中の人に、優しくしたいと思われる人間だった望来が、じゃあ自分はどう生きていたいのか、何をしたいのか、人の役に立つ人間なんていうアイマイなことじゃなくって、何をしたい、のか??
入院時代優しくしてくれた明日香お姉さんとの約束、「ONE PIECE」の最終巻が出る日に、病院の屋上で会おう。どちらかが死んでしまっていても。その時はそこから空に向かって叫ぼう。明日香お姉さんはそう言って、望来が海外での手術から帰ってきた時には、もういなかった。退院したなんて、看護師の言葉は聞き慣れていた。死んでしまったのだろうと、判っていた。

「ONE PIECE」はまだまだ続いていたから、望来は約束を破っちゃった。五億円は、思いがけず出来てしまったのだ。最初に優しくしてくれたおっちゃんに、未成年だから変えなかったロトを預けて、それが大当たりしていた。
おっちゃんが自分の預金を下ろしていたと誤解していて(実際は、家出した望来を心配した母親が、帰ってくるかと思って通帳で引き出していた)駆けつけた時には、そのことが原因でオヤジ狩りにあって殺されていた。
やるせない思いに駆られ、望来は五億円も得たことだし、それを、ここまで鼓舞してくれた存在である、謎の人物、キヨ丸に託し、死への旅へと出る。

キヨ丸は、明日香お姉さんの妹であり、ずっと望来を注視し、生きづらい思いをしている彼を察知し、匿名の悪口雑言で制止し、どうやらヤバい思いを抱えて、明日香お姉さんの約束の場所に行こうとしていることを予感して、咄嗟のところで飛び降りようとする望来を押しとどめる。
彼女との間に特に湿った関係が発生する訳ではないのが良くて、その想いを胸に、望来は「先輩は判っていると思って。命の大切さとか」とつぶやいた後輩が再び飛び降りようとする場面を阻止しに行く。
正直言ってそこまで上手くいくかいなとは思うけれども、優れたアイディアを思いついた時点で、これは優れたフィクションだから。

命の大切さ、ってホント、字にすると軽いね。声に乗せても軽い。どうしたことかな。本当に大切なのに。
それだけ、個々人でその重さを管理するしかない社会になったのかな。それ自体が、とても重い問題ではなかろーかと思うのだけれど……。★★★☆☆


この道
2019年 105分 日本 カラー
監督:佐々部清 脚本:坂口理子
撮影:音楽:和田薫
出演:大森南朋 EXILE AKIRA 貫地谷しほり 松本若菜 小島藤子 由紀さおり 安田祥子 津田寛治 升毅秦彦 柳沢慎吾 羽田美智子 松重豊 近藤フク  佐々木一平 稲葉友 伊嵜充則 松本卓也

2019/1/14/月 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
そう、こういうね、大森南朋がずーっと見たかった気がするんだなぁ。やたらと前だけど、彼のブレイク前夜という時に観た「春眠り世田谷」が鮮やかに頭に浮かんだのだ。あの時も、こういう彼が見たくて驚くほどの女子が集まってきていたのだ。
でも不思議と、その後はありそうでなかった、気がする。例えばだらしないとか、アヤしいとか、そっちに傾くことはあったけど、どうしようもないヤツなのに、やたら無邪気で、たまらなく母性本能をくすぐられる、という大森南朋は、あの20年近く前以来なのではないか!!と思ったのだった。

予告編に遭遇した時にはそこまでのことは思わなかった。でも女の膝で耳かきをさせ、感動屋ですぐ人に抱きつくわ泣くわ、予告編でも小出しにされていた大森南朋に、これ見たい!!と即座に思ったのだ。北原白秋とか全然頭に入ってなかった(爆)。

いやでも、大森南朋とAKIRA氏の化学反応、というのもものすごく興味があった。
ぜんっぜん違うフィールドの二人だし、なんたってEXILEなのだから男らしい男前なお人なのだが、でも私にとっての彼の初見はEXILEではなくなんとまぁ「山形スクリーム」なのだから、彼の柔軟な表現魂にはいつだってワクワクするんである。それを最初から竹中直人は見抜いていたんだなぁと思うと、やっぱりさすがだよなぁと思っちゃう。

ちょっと、脱線したが。しかして山田耕筰とは!!いやー、結びつかなかった。てか、山田耕作という人は童謡の作曲家であることと、そのお名前の朴訥さから、なんか地味なイメージを勝手にもっていたのだ。
でも言われてみれば、そうか。日本に西洋音楽を持ち込み、日本の歌曲を作りたいと意気込み、そして北原白秋と出会ってシンプルで美しい日本の歌を次々に作り上げた彼は、なるほどもともと音楽のエリートであったことは当たり前なのだ。
知らなかったなぁ。こんなカッコイイイメージなかった(いやそれは、AKIRA氏が演じているせいもあろうが……)。

一応、学生時代は近代文学専攻だったりしたので、小説家の方はそれなりに通ってきたけれど、思えば詩人というのは名前だけ、だったかもしれないなぁと思う。
白秋を取り巻くメンメンはそうそうたるメンバー、啄木、犀星、朔太郎エトセトラエトセトラ……皆白秋よりずっと若い印象で、取り巻きとして登場するだけで(ご丁寧に画面にお名前のクレジット付)、扮する役者さんたちもすみません、私は見知らぬお顔ばかりなのだけれど……(多分、名前と顔が一致してないだけ(爆))。
こういう、文化映画的手法は親切ではあるけれど、お名前を記されると、それなりに物語に関与してくるのかもと期待しちゃう。啄木君も犀星君も朔太郎君も、飲み屋のシーンで出てくるだけだったなぁ。それなら台詞上で紹介するだけで良かった気が……。

いや、そんなことを言いたくなるのは、こういう手法って、なんか作品をヤボにさせる気がするからさ。だって本作は、白秋と耕筰の友情物語と、そこから生み出される数々の名曲に浸れるだけでいい筈じゃない。とか言いつつ、マトモに紹介されるのは「からたちの花」と「この道」だけなんだけどね。

でもこの二曲をチョイスしたのは当然、大きな意味があるから。どちらもまごうことなき名曲だが、確かに言われてみれば、「からたちの花」には難解さがあった。まさに、歌曲であった。
知らぬ間に刷り込まれて大人になって、心にじんわり残っているのは、「この道」なのだ。

それは決して、童謡という意味合いがもたらす子供向けというものではなく、それも包括しての、頭の中に浮かぶ絵としてのこの道、言葉や概念からも浮かぶこの道、過去への道でもあり、未来への道でもあり、ただの郷愁だけにとどまらない、もー、なんつーか、そんな難しいことを言わずとも、なんか心打たれちゃう、なんか涙の出ちゃう美しい歌なのだ。
なんだろうね、この感覚。「からたちの花」は確かに名曲だ。でも確かにあれは歌曲であり、“芸術”の匂いがした。言い方悪いけどスノッブ的な。でも、「この道」には、古今東西の老若男女の涙腺を緩ませる、絶対的な肯定と、郷土や家族や友人たちへの愛があるのだ。あー、ヤバい。

どうも作品に入って行けない。北原白秋という人の人となりを、私は全然、知らなかった。もう、往時の文学者といえば、とりあえず苦悩して自殺みたいな(爆)、イメージは、少なからずあると思う。
そこへきてこの白秋という人の博愛主義(いや、単なる女好き)と、無邪気(いや、単なるガキかも)な魅力はどうであろう!!人妻に入れあげて、ソフィーなんぞと呼んじゃって、姦通罪って、なんかイメージでは女性が不当に課せられる罪だと思ってたよ!!

いやー、さすがさすが。それに彼が恋した人妻のなんとコケティッシュで魅力的なこと!!そらこの女は、白秋の妻に収まり切れる訳ないわ!「新しい世界に行く」カッコ良すぎ!!
松本若菜、なんか出てくるたび「腐女子彼女。」のあの子かぁ!と驚いちゃうんだよね。どんな役者が化けるかホント判らない。頑張って追いかけててホント良かったと思っちゃう。

二番目の妻はスルーされ、白秋と最後まで連れ添った三番目の妻に長く尺を割かれる。子供ももうけたしそれはまぁ、当然というところだろうが、彼女自身のキャラとしては、あくまで白秋の妻でしかなかったので、余計に最初の人妻のアイデンティティの強さが際立つんである。
この時代、だから。それはしょうがない。その三番目の妻、貫地谷しほり嬢が演じる妻が、妻である自分よりも子供たちと遊んでいる時の方が生き生きとしていたりすることに嫉妬したり、やはり妻だから夫が仕事をえり好みして経済的に苦境に立たされると憤然とするとか、……妻、奥さん、なんだよね、仕方ないけれど。

記録もその程度なのだろう。勝手に脚色する訳にも行かないし。時代物を見る時に感じるジレンマはここなんである。
“内助の功”という名でおさまった女たちが、本当はどう感じて、どう生きたかったのかなんて、判る訳ない。時代劇が作られる度に、女性の権利に対する意識が差し戻される気がして仕方がない。

……フェミニズム野郎が、脱線してしまいました。そういう意味で、与謝野晶子女史がいるんであった。ふんわり天然な羽田美智子氏が、そのふんわりな美しさはそのままに、しなやかで強い女文士を魅力的に演じていて、嬉しくなる。
不勉強な私は、あの反戦歌を作った彼女が、大戦時には戦意高揚に迎合する歌を詠んでいたことを知らず、衝撃を受ける。あの時代は、あまりにもあまりにも、戦争という、大戦というものが大きすぎて、それに逆らったらもう干乾しになっちゃうから、それこそ芸術系の人たちは……。

山田耕筰も早くから、軍歌の仕事をする。それをどこか、悲壮な顔で白秋に告げるのは、白秋がそんなことを考えてもいないからだということが判っていたからだろうと思う。
耕筰側の家族的事情は出てこないけれど、そもそも妻子を持つ白秋が軍からの仕事の依頼を強気に断れるような時代ではないのだ。

ただ……後に耕筰が述懐するように、白秋は“中途半端に戦争に関わり”その結末を見ないまま、死んだ。戦火にさらされた訳でもなく、酒毒から来る失明に端を発して、である。
いわば耕筰は、この戦争の真の残酷さを、無邪気で子供の様な白秋は結局判らないまま、……つまり、覚悟を持たないまま“中途半端に”関わったことに、憤りのような、歯がゆさのような、ひょっとしたらうらやましさのようなものを感じていたんじゃないかと思って……。

本作のそもそもの物語の起こりは、白秋没後10年のコンサートから始まるんである。耕筰が、「この道」の指揮を振り、喝さいを浴び、若い女性記者からインタビューを受ける。「白秋のことは一切語らないことにしている」とか言いながら、特にキッカケもなくあっさり語り出すのはどうなのとか思ったが(爆)。
耕筰は、私の生まれるちょっと前に亡くなっているんだ、もっとずっと昔の人だと思っていた。同時代とまでは言わないけれど、ちょっとかすっていたんだと思うと……私も年をとったということだろうけれど(爆)、ちょっと驚いてしまう。

白秋よりも年が若いように感じていたが(演じている二人の雰囲気でね)、実際はほとんど変わらなかったのか。そして白秋は戦争終結を待たずに死に、耕筰は白秋の死後、曲を書くことなく、長生きをした。
白秋は戦争に対して、なんかキョトンとしていたような気がしちゃうのだ。関東大震災の時は、凄くショックを受けていた。それは、現代、東日本大震災ということを経ての作劇に対する重きを置いた形だったのかもしれない。でも、自分の無力を感じたのが、白秋にとっては天災であり、戦争ではなかったということに、なんだか意味を感じたくなっちゃうのだ。

白秋と耕筰が初めて会った時、二人はまるで子供みたいに取っ組み合いの大ゲンカをした。もう二度と来るか!二度と来るな!!とタンカを切り合った。なのに、二人は再会した。震災があって、耕筰は白秋が心配でたまらず、駆けつけたのだ。
詩人なんて、この天災に傷ついた人たちに何の力も与えられないと、天狗になっていた自分を恥じる白秋。そういう単純な素直さが彼の最大の魅力なのだ。そこに、そんなことはない、あなたのリズムある詩と私の音楽で、みんなを癒す歌がきっと作れる!!とか言って、耕筰がバイオリンなんぞ弾きだしたら、そらー、イノセンスな白秋は勘当しまくって、耕筰に抱きついちゃうのさ、

この白秋の子供のような無邪気さは、世間に認められた詩集の出版記念パーティーで最も端的に描出されている。
もうみんながね、どうしようもないんだけれど、素直で無邪気な白秋さんが捨て置けないんだと、先輩も後輩も、等しく彼のことを愛しがっているんだというのが判って、それが、尊敬する、しかも美人の詩人、与謝野晶子に泣きながらガバリ!!と抱きつき、彼女が驚きつつ、優しく背中をさする描写で、凄く凄く、判っちゃうんだよなあ。

てなわけで、思ったほどは、二人の共作の様子が示される訳ではないのだ。「からたちの花」と「この道」絞られるのは、やはり確信犯的意味合いがあったのだろうと思う。
「この道」に関しては、売れっ子になったタッグが仕事に忙殺される描写の方が先に示され、タイトルにもなっているこの名曲がどのように生み出されたのか、まるで飛ばされるような感じなのだ。
戦争という。大戦という時代を挟んだから。音楽はとても強いものだけど、その強さを真の意味合いで示すにはどうしたらいいか。凄く、難しいのだろうと思う。やりようによっちゃ、戦争の意味合いをこの道の歌詞にムリヤリ見出すことだって、出来ちゃうのだから。だから……。

自分がこだわる詩が音楽に“まぜられる”ことに憤っていた白秋が、リズムとメロディということをアツく白秋から説かれた時の無邪気な感動顔が忘れられない。こんな風に、素直な気持ちで生きたいと思う。
鈴木三重吉訳の慎吾ちゃんが、いい感じにおさえめ演技なのがステキだったなぁ。そんな慎吾ちゃんは、初めて見たかも。★★★☆☆


こはく
2019年 104分 日本 カラー
監督:横尾初喜 脚本:守口悠介
撮影:根岸憲一 音楽:車谷浩司
出演:井浦新 大橋彰 遠藤久美子 嶋田久作 塩田みう 寿大聡 鶴田真由 石倉三郎 鶴見辰吾 木内みどり

2019/7/24/水 劇場(渋谷ユーロスペース)
私は全然お笑いに明るくないので、アキラ100%なる人のこともよく知らず、ただいかにも真面目そうな風貌の彼がやっと見つけた芸でブレイク、みたいに見えたから、役者をやると聞いて腑に落ちたというか、なるほど、そっちの方が似合ってそうな雰囲気、ぐらいに思ってた。
ので……想像をはるかに超えたイイ役者で、もうそのことにびっくらこくばかりなのであった。あの井浦新とダブル主演という形でしかも兄弟役で、どこでそんな確信をもって見事なキャスティングをされたのかと思ったら、この監督さんの長編デビュー作で既にタッグを経験済み、なのだという。
この監督さんも初見でデビュー作を観てないのはかなり悔しいのだが、彼にとってはアキラ氏はふところ刀、というような存在なのかもしれない。役者としての力量を、世間よりも先にこの監督さんが知っていたということが、今後のコンビも大いに期待させる。

物語の舞台は長崎。監督自身の故郷であり、本作自体、監督の自伝的要素が濃いのだという。どこまで反映されているのかというのも気になるところだが、その監督の期待に応えて、全編長崎弁でこの濃厚な兄弟関係を演じきった二人にも感嘆してしまうんである。
井浦氏は長崎ではないのは知ってたけど、ひょっとしてアキラ氏は長崎の人なのかしらんなどと思ってしまったのは、まあ私が真の長崎弁を知らないからなのかもしれんが、それにしても素晴らしかったと思う。

井浦氏が弟で、アキラ氏がお兄ちゃん。弟の亮太は幼い頃出て行った父親が残したガラス細工会社を受け継ぎ、父親の代には相当経営が傾いていたのを、取引先からの信頼を勝ち得るまでこつこつと存続させてきた。
お兄ちゃんの章一は役者を目指していたのか、芸能事務所を立ち上げたのか、どうも不明瞭な感じで口先ばかりで、結局はダラダラと実家暮らしである。

弟の亮太の目から見ても、客観的な観客の目から見ても、ダメなお兄ちゃんに見えそうになるのだが、でも最終的には判らなくなる。結果的に、一人になってしまったお母さんのそばにずっといたのはお兄ちゃんなのだ。弟の亮太はバツイチで、最初の結婚で子供ももうけたのに失敗してしまい、再婚した今の奥さんが身ごもったところである。
亮太は、自分も父親と同じく、最初の家族を捨てたのだという事実に苦悩している。捨てられたという認識でこの兄弟はいるのだが、父親探しというロードムービーのような趣の中で、果たしてそうだったのか、彼らは、特に弟は、あいまいな記憶をたどっていくことになる。

こはく、というのは、その記憶にかぶさる色合いのことなのか。琥珀色、セピア色、なんていって、今通じるのだろうか、などと思ったり。
それぐらい、二人の父親に対する記憶はあいまいだということなんだろうけれど、なぜそれを、二人は、というか、お兄ちゃんは急に思いついて、父親をさがそうと、弟を巻き込んでまで思ったのか。

結局、お兄ちゃんが、街中で父親を見かけた、というのは、結果的にはウソだったということなんだよね。
この捜索中に母親が倒れ、父親が見つからないまま亡くなってしまうという展開があるんだけれど、例えば母親が余命いくばくもないから、父親を探し出したいというのだったらよくある話だと思う。でも、そうではない。母親は突然倒れてしまうのだし。

お兄ちゃんは、どうやら結婚の経験がないまま実家にいる気配がある。弟の方は、二度目で、どちらでも家族を得ている。弟の方が会社を継いでいるという事実だけ見ても、なにかこう、お兄ちゃんの弟に対するコンプレックスをどうしても感じてしまう。
劇中、そんなことを口にすることはないし、周囲からそういう評価を受ける訳ではないんだけれど、少なくとも弟の方はいつまでもブラブラしている兄、と苦々しく思って母親に忠告もしているし、お兄ちゃん側も、そう言われている、思われていることは十二分に察しているだろうと思われる、微妙絶妙な空気感なんである。
お兄ちゃん役のアキラ氏の方が井浦氏より背が低いという絶妙感もあいまって、なんとも、なんとも言えないのだ。

弟は、この父親探しの中で、フラッシュバックのように、父親との別れの場面を思い出す。そして、その時の父親が、今の自分の姿になってくるんである。自分たちを捨てた父親を恨んでいる自分が、離婚した前妻の元に置いてきた子供たちと重なるんじゃないかという恐れに他ならない。
そして……お兄ちゃんがいつも真っ先にお父さんの胸に飛び込んでいた記憶もまた、彼を苦しめていたんだと思う。弟である自分は、兄ほどには愛されていないと思っていたんじゃないか。

ここが曖昧だったらどーしょーもないんだけど、両親が別れる時、どちらについていくかと問われた時、先にお母さん、と言ったのは、お兄ちゃんだったのか、弟だったのか、ごめんなさい、私、ちょっとアレルギーの薬飲んでて眠くって(サイアク……)。
そう言われたら仕方ない、という感じで二人目も、お母さん、と言って、お母さんは感極まって二人の息子を抱きしめ、お父さんは哀しげにうつむくばかり、という記憶を、弟はようやく思い出す訳で。
つまり、お父さんが勝手に二人を捨てて出て行った訳ではなかったのだ。彼らがこだわっているのは、必ず迎えに来るから、という父親の約束が果たされなかった点なのだけれど、実は子供たちの方で、父親を捨てていたのだ……。

父親を街中で見かけた、ということがウソであったと後から発覚してから思うと、兄弟しての父親探索は、かなりコミカルとゆーか、お兄ちゃんは弟との絆を再確認したくて、この冒険を仕掛けたんじゃないの、とちょっと思ったりするんである。
ファミレスの女の子に壁ドンして情報提供をお願いしたり、ヤクザアジトで私立探偵を気取って虚勢を張ったり、父親の愛人の足取りを追った先の文化住宅で、なんの情報も持ってない色っぽいお姉さんの部屋に転がり込んだり、お、お兄ちゃん、やるやん……とアゼンである。

アキラ氏のそのあたりの軽妙なダメさが実に絶妙でさ。弟君はバツイチとは言え、今の奥さんと生まれ来る子供に対して真摯でいることに凄くこだわってて、マジメ君だからさ。
お兄ちゃんは、実家の片づけをしてる時、幼い頃のおもちゃを捨てられないような、大人になり切れない部分を持っている感じを描かれるんだけど、でもそれは……弟君が忘れていた、あるいは幼すぎて記憶が鮮明じゃなかった、父親への想いの兄弟間の差異が産んだものだったのかもしれないと、最終的に思わせちゃうんだから、なんか、ズルい、ズルい!!とか思っちゃって。

お兄ちゃんが捨てたくなかったおもちゃは、最後の最後、お父さんとの別れの時に買ってもらったものだった。そのことを、弟君は忘れていた……記憶を封印していたのか。なぜ別れたのか。なぜお父さんは迎えに来るという約束をほごにしたのか。お母さんはそのことを語りたがらない内に倒れてしまう。
古くからいる従業員に、どうやら愛人めいた存在がいることを知り、そっちから攻める。お兄ちゃんの父親の目撃証言がどうやら虚言だったことを考えると、この愛人の存在は確かにカギになる。虚言で父親を見たと言ったお兄ちゃんは、それは、本意だったのだろうか。

お兄ちゃんは、ただ単に兄弟間、家族間の溝を埋めたかっただけだったのかもしれないと考えると、この愛人(実際に愛人だったかどうかは……)の存在は、出てきてほしくないものだったのかもしれない、などと思ってしまう。
アキコさんなる女性の存在が明らかになって、かつて彼女が住んでいたアパートに訪ねていったって、先述したようにマジメに探索する感じではなかったんだもの。

アキコさんとお父さんがそういう関係であったかどうかは、明確にはされない。そうであったかもしれないし、そうじゃなかったかもしれない。
奇しくもお母さんもアキコさんも同じ台詞を使った。あの人は、優しすぎたのだと。それが、アキコさんの家庭の事情にかんがみて、借金の保証人になったりというだけのことだったのかもしれないし、それ以上のことだったのかもしれない。
ただ……ひっそりと、彼らのお母さんの葬儀に出席したアキコさんは、青ざめたすっぴん顔で、呆然と立ちすくむ、かつての幼ききょうだいに言ったのだ。「私が、あなたたちの家庭を壊してしまったのね」と。

この時の、特にお兄ちゃんは、まるで幼い子供のように見えた。いや、ずっと彼は、幼い子供のようだった。
お兄ちゃんなのに。ウソをついて弟を探索につき合わせたり、いやそれ以前に、お父さんの会社を立て直したのは弟で、お兄ちゃんはずっとずっと……負い目を感じていたのかもしれない。

アキコさんから聞いて、二人はさびれた漁村に降り立つ。修理工としてこの村にずっといるんだという父親の元に、足を進める。
父親の居場所を教えてくれたアキコさんは、会って話をしたらいい、と言った。どんな話をするのかと思った。なじるのか、問いただすのか。

多分、二人が父親の姿を見たとたん、それまであいまいだった記憶がバシン!とよみがえったのだと、思った。特に、弟君の方は、自分に置き換えて自己嫌悪にさいなまれていた父親の姿が、確かに自分たちを愛してくれていた父親の姿に、瞬時に入れ替わった。
すぐに、子供のように泣きじゃくって、母親の死を告げながら父親の胸に飛び込むお兄ちゃんの姿に、もらい泣きしながらようやく素直な子供の自分自身に戻る弟。
本来世間的に想像されるきょうだいの姿と逆転する関係性だから、井浦氏以上にアキラ氏は難しかったと思うんだけれど、本当に素晴らしくて、赤裸々で、迷いがなくて、ここに一人、役者を発見した!と思っちゃったのだ。

坂の多い、路面電車も走る、美しい長崎の街並み、俯瞰でもふんだんに描写され、監督さんの思い入れもたっぷりと感じられる作品に仕上がっていると思う。
アキラ氏との今後のタッグも見たいと思う。いやー……芸人さんが、というギャップの衝撃以上に、素晴らしき役者に出会ったという嬉しさが大きい。 ★★★☆☆


殺さない彼と死なない彼女
2018年 123分 日本 カラー
監督:小林啓一 脚本:小林啓一
撮影:野村昌平 音楽:奥華子
出演:間宮祥太朗 箭内夢菜 佐藤玲 桜井日奈子 ゆうたろう 佐津川愛美 恒松祐里 金子大地 森口瑤子 堀田真由 中尾暢樹

2019/12/4/水 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
間宮祥太朗君は気になっていたが、桜井日奈子ちゃんはCMでしか知らず、なんたってそのタイトルといかにも少女コミックが原作となっていそうなパッケージで目の片端に入りながらスルーしていたのだが、その目の片端に……あれっ……この監督さんの名前って……。
なんつーか、難解な判りやすさというか、透明な超インディーズというか、ティーンズ映画を撮り続けているから一見とっかかりやすそうに見えて、ものすごく孤高の作家さんだと思っていたので、この大バジェットに抜擢されたことにまずものすごくビックリし……そして、えっ……どう撮ったの、と単純に興味がわいた。
ひょっとして彼自身の感性を封印しちゃって、大バジェットの監督として単純に収まっちゃったんじゃないかって思って、でもそうじゃなければどうなるんだろうと思って、長めの尺にはおののいたが(爆)、足を運ぶ気になったんであった。

前置きが長いな(爆)。つまりそれだけ、覆されたということだ。全くの杞憂だった。この監督さんの感性をそのままに、見事に今の旬の役者たちを自由に羽ばたかせ、みずみずしいことこの上ない、せつな苦しいあの一瞬を切り取った。
いやーしかし、なぜ、どういう経緯で、この企画が立ち上がったんだろう。どういう経緯でこの監督さんになったのかが凄く知りたい。少女コミックかと思っていた原作が、なんと4コマ漫画だったというのも、まるで想像がつかない。

そして長めの尺には理由があったのだ。そらさ、宣材写真では間宮君と日奈子ちゃんのツートップで、彼らだけで進行していくだろうと信じて疑わない。しかし実際は、もうふた組のエピソードがほぼ並列に進行し、決して間宮君と日奈子ちゃんの、つまりはタイトルロールの二人が重きを置かれる訳ではないのだ。
いや、オチを考えれば、むしろ狂言回しのような雰囲気さえ漂う。むしろあと二組の人間関係の方に心惹かれる人も多かろうと思う。私もそう。女の子大好きなので(爆)、勿論日奈子ちゃんも、片想いにばく進する夢菜ちゃんも可愛くて仕方ないが、女の子同士の友情と、そこに女としての性のどうしようもなさを……それは女が一生抱えるものを、傷だらけになって受け止めるきゃぴ子と地味子のシークエンスがたまらなく、好きだった。

ああ、もうそう考えればこれは、私の超苦手なオムニバス形式のようなもんなんだよー!丁寧に追っていかなければ、崩壊してしまう(爆)。
もうルール違反承知で言っちゃうと、タイトルロールの二人、小坂君と鹿野さんのシークエンスは、現在の時間軸ではないんである。他の二組とまるで並列に語られるから、同じ校舎内で起こっている出来事のように見えるが、実はそうじゃないのだ。

小坂君はクラスの中でザ・一匹狼である。キャピキャピ寄ってくる女子にも「殺すぞ」のひとことで追い返す。先輩、と呼ばれる。留年しているんである。そのあたりの事情が明らかにされなかったのはちょっともの足りなかったかなと思う。
同時に、鹿野さんがなぜリスカを繰り返すほどの自殺願望を募らせている女の子なのかも、まるで明らかにされず、正直この二人の描き込みには不足感をどうしても感じてしまうのだが、じゃあだからといって、他の二組のキャラたちにそれを感じる訳じゃないというのが不思議なところで……。

ヤハリ、死にたいとか、実際にリスカとかされちゃうと、そこに明確な理由が欲しいと思っちゃうのは、単純なのかなあ。そういう意味では鹿野さんはリアル女子というよりは、そうしたどうしようもない不安を抱えている10代女子のひとつのパッケージなのかもしれないとも思う。
感受性が強すぎてクラスメイトに疎まれているとか、結構観客側に対しても、うーむ、こーゆー子、実際苦手かも……と思わせるのだが、それはそうした弱さを器用に隠して抱え込んで、追い詰められちゃう多くの女の子の、手前の姿なのかもしれないと思ったりする。

で、オチバレで言うと、この二人は惹かれ合い、死にたがる彼女を、死ねないくせに、と彼は言い、殺すぞと口癖のように言う彼に、殺さないくせに、と彼女は言う。もう最初から、お互いの核心に飛び込んでいる。
しかし彼、小坂君は、殺さないけれど、全然関係ない他人に殺されてしまうのだ。しかもそれが、この殺人者が恋人を殺すために、「恋している男」を練習台として探していた、という狂った殺人犯によってである。
この事件は早い段階から劇中で語られている。きゃぴ子と地味子が参列した葬式、面識はなく学校の生徒として列席しただけだったが、この事件は観客の頭に、不穏な予感を引きずらせ続けていたから、そういうことだったのか……と思う。

先述したが、私が好きなのは、このきゃぴ子と地味子である。ニックネームに違いないが、お互いも自身でもそう言い合っているのだから、しかも幼稚園時代からの幼なじみってーんだから、筋金入りである。
そらまぁ、地味子を演じる恒松祐里嬢だって間違いなく美少女なのはその通りなのだが、きゃぴ子を演じる堀田真由嬢の見事なきゃぴ子っぷりにヤラれてしまうんである。

そらまぁフツーに考えれば、この二人がなぜ親友同士なのか、他から見れば理解に苦しむだろう。きゃぴ子はモテモテで、男と付き合っては自分から振るくせに、そのたびに傷ついて、地味子の元に泣きついてくる。時には好きでもない男にモーションすらかける。
わっかりやすく、女の敵であり、当然、同級生たちからは白い目で見られるし、地味子に同情めいた視線も送られる。

この二人の描写を、見事に、二人の友情の確かさと、女としていかに生きるべきかの辛さと、周囲から翻弄されないこの女の子たちの素晴らしさと!!……あー、女の子の友情にメッチャ弱い、私(爆)。
きゃぴ子、ってのが、いいじゃない。自分でも言ってるんだもん(爆)。彼女が大学生の男から「俺がフラフラしてると、泣く女がいるんだよ」と言われるシーンが、秀逸である。それまでのきゃぴ子は、嫌われたくなくて、決定的なことを決して口にしなかったのに、この時だけは「なんで?きゃぴ子の方が可愛いよ」と言ってしまうのだ……。「きゃぴ子は可愛いよ。でもそれだけなんだよ。」

……あのね、凡百のストーリーならば、可愛いだけの自分を武器にして男と付き合っている女に対する、これは溜飲が下がる台詞だったろう。私のよーな不毛な女子なら、よけいにである(爆)。
でもこの時、見ている誰もが、ふっざけんな、ばかやろー、きゃぴ子はお前のために可愛くいる努力をしてたのが判んねーのか!!と立ち上がって彼をボッコボコにしたくなるんである。

潔く引き下がるきゃぴ子もカッコイイが、泣く女が一人だけだと思っているのかと泣きながら述懐するのには、ほんっと、そうだよ!うぬぼれんなバーロー!!と叫びたくなる(……女の子の味方なの……)。
そしてそんなきゃぴ子に、地味子は、きゃぴ子は可愛いんだから大丈夫、と言い続けるのだ。イジワルなクラスメイトに、きゃぴ子は地味子を利用しているだけだと言われても、揺らぐことなんてないのだ。きゃぴ子は可愛いんだと。

ちょっと感動したのは、きゃぴ子が、でも女の子は皆可愛いんだよと言ったこと。これもまた私の座右の銘?で、女の子は皆、可愛いんです!!でもそれに対して地味子が言う台詞が最高である。「遠めに見ればね。でもきゃぴ子は近くで見ても可愛い」
……愛しかないじゃないの。てゆーか、この二人は恋人同士になるべきじゃない??と腐女子の私はついつい思い……でもどっちでもいい!

そしてもうひと組。片想いの相手の男子に、好きだと言い続ける女子。ああ、もうこれだけで死にそう(爆)。
この三組の男女、あるいは女同士の会話はそれぞれに全く違う個性が設けられていて、小坂君と鹿野さんの殺すぞ、死にたいの殺伐としたやり取りが生み出すツンデレ会話、きゃぴ子と地味子はまさにキャピキャピ語と地味で冷静な女の子のこれまたツンデレ会話。
そして一番個性的なのが、大好きな男の子、八千代君に好きだと言い続ける撫子ちゃん、この二人の会話、というか、口吻、というか。なんだろう……文学作品の朗読を聞いているような。

女の子が「……だわ」という言い方って、今は特に、ほとんどないじゃない?それが、わざとらしさというよりは、まるでひとつの舞台の作品を演じているように聞こえてくる独特さで。受ける八千代君も、でも僕は好きじゃないんだよ、みたいに、なんてゆーか、二人、詩を朗読しているみたい!!
そしてなんかちょっと、そう、これ角川映画なのよね、80年代の角川映画の、あの当時の10代の感じなのかもしれない、とかも思ったりする。こういう、女の子らしい語尾の喋り方、今は本当に、しなくなった。私の時代ですら、気恥ずかしかった、のは、やはりそれは、女の子としての自覚がありなしに重要なポイントがあったからなのかもしれない、と思う。

八千代君を好きで好きでたまらない撫子ちゃんは、何度も何度もその想いを口にする。いわばその気持ちに押し切られた形で、いや、八千代君の心のトラウマを彼女の好き好き攻撃がとかす感じで、二人は美しい田園風景の中でお互いの気持ちを確かめ合うのだが、ここにも、きゃぴ子と地味子のシークエンス以上の、小坂君と鹿野さんのかかわりが、あったんである。

鹿野さんは既に、大学生になっている。落ちこぼれだった彼女は、小坂君の死によって落ち込んだけれども、再三夢に出てきて励ましてくれた彼によって、桜咲く春、大学生となった。
鹿野さんが歩くその土手に、すすり泣く母校の後輩女子の姿。しかもかつての自分と同じように手首にカミソリを当てている!……おもわず声をかける鹿野さん……。

なるほど、撫子ちゃんが、あんなにも、何度も何度も、八千代君にアタックできたのは、一回目の失恋で、もう絶望的になってしまって、死にたいぐらいに思って、実際軽くリスカしてしまった時に、鹿野さんに出会ったからだったのだった。
そうだ、今から思えば、「私のことを好きにならない八千代君が好き」だなんて、そんなこと、ある筈ない。いや、それだけ彼女自身に自信が持ててなかったことを、自覚しながら前に進んでいくってことを、鹿野さんとの出会いで気づけたということなのだ。
そのことを知ると、八千代君に好きと言い続ける彼女の覚悟と純粋な気持ちに、本当にじんわりとくる。文芸調の言い方も、なんだか段々クセになってくる。逆にこれを、リアル女子高生の言い方でされたら、じんわりしなかったかもなぁとか思っちゃう。

こうして書いていくと、結果的にやっぱり、タイトルロールの二人のかげが薄くなってしまうのだが(爆。いや、最後はかなり、こて入れしているのだが……)いわばだまし討ちのようなこの構成はかなりの冒険で、ヤラれちゃったんだから、そらー仕方ない。
夢のようなソフトフォーカスっつーかなんつーか、霧の中のような画面が効果的に使われているのだが、意味があったのかなかったのか結構な多用で、うーむ、私かすみ目?とか悩んじゃったりしたけどね(爆)。★★★★☆


こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話
2018年 120分 日本 カラー
監督:前田哲 脚本:橋本裕志
撮影:藤澤順一 音楽:富貴晴美
出演:大泉洋 高畑充希 三浦春馬 萩原聖人 渡辺真起子 宇野祥平 韓英恵 竜雷太 綾戸智恵 佐藤浩市 原田美枝子

2019/1/6/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
もちろんこれは30年ほど前の話だし、ちゃんとその舞台設定を貫いているし、今はそれが当然……とまでは言わないにしても、自立生活を実現している障害者さんたちはいる訳で。いやむしろ、その実現の度合いがあまりに遅々としすぎるところが問題な訳で。
そりゃま、私はこの素晴らしい鹿野さんという人を知らなかった。まさにハンディキャッパーの自立生活を実現したパイオニアなのだろう。しかしパイオニアから30年もたって、それが当たり前になっていないことの方が問題なのだ。天国に行った彼だってきっと、そう思っていることだろうと思う。

恐らくこの鹿野さんの物語を、映画という広く伝わるメディアで触れた多くの人々が、彼はスペシャルな人だと思うだろう。
勿論その通りなのだが、ハンディキャッパーのみならずすべての人が、自分の望む生活を出来ることが当たり前である社会でなければいけない、ということが実にこの30年前から遅々として進んでいないことこそが問題なのだと痛烈に思う。
彼が貫き通した自立生活は特別なことじゃない。特別なことにしちゃいけないのだと。

でも、確かに驚きではある。自立生活の実現を、当事者である一人の障害者が信念を持って切り開いた、というそのことが、である。
そしてそれまた問題なんである。政治でもなく、行政でもなく、一人の当事者が声を上げなければいけなかった、という言い方をしてはダメだろうか。でもやっぱり、そう思っちゃう。そしてそれ以降も、政治も、行政も、それはただの特別な例とばかりに、遅々として進んでいないのが現状なのが困りものなんである。

みんな、当然のように、“障害者は家族で抱える”と思ってる。当事者ですら、である。ひどい時にはそれが感動物語にさえ、なる。
本作でも、ちょっとハラハラとはした。ボランティアによって自立生活を実現したというコンセプトである本作なら、もう思い切って親は登場させなくてもいいんじゃないかとさえ、思った。
むしろ、今現在自立生活を実現させている人たちは、意識的か無意識的かは判らないが、親のことは口にしていないように思う。やはり、意識的なのだろうかと思う。

きっと鹿野さんもそうだったのだろう。勿論大好きだし、切り離しなど出来ない親でも、その存在を口にし、認めたとたん、彼の自立生活は根本から崩れてしまうとさえ、言いたげなのだ。
とにかく、自分の力(魅力、と言い換えてもいいかもしれない)だけで、傲慢でワガママなキャラクターさえ作り上げて(という言い方は語弊があるかな)、最終的にはのべ500人にものぼるボランティアたちによって自立生活を実現した鹿野さんは、一人の人間として当たり前の生活を得るために行動した、そのことを何より誇りに思っていたのだろう。

ボランティアだけ、というのは個人の力的にも、いかにも難しい。それこそが、法整備ということなのだろうと思う。ヘルパーさんの不足と、彼らの待遇の悪さ、それこそが自立生活の実現を妨げている。
そういう現代の現実的な問題を、提起してほしかったとも思ったりする。ボランティア、と言っちゃうとやはりカンドー物語になっちゃうんだもの。

いや、本作はそれを慎重に避けているのは判るのだ。
鹿野さんという人は、大泉氏が彼の地を出しただけかと思われるほど(爆)奔放に演じた、そんな人だったんだろうと思うし、彼に振り回されつつ、イラッとしつつ、どうしようもなく彼が好きになっちゃう、というのは、まさに大泉氏にうってつけのキャラクターなのだ。この映画の企画と彼の年回りが出会ったのが奇跡だと思っちゃうぐらい!(でもちょっと年齢サバ読んでるかな)

最初はその傍若無人ぶりに腹を立てて、二度と来ない!とプンスカしていた高畑充希嬢演じる美咲ちゃんが、最終的には「鹿野ボラ、なめないでください」とタンカを切って、研修が必要な医療行為を認めさせるまでになる、つまりボラは家族だと、というのはいかにも感動的で、パイオニアだから、最初はこれでいいとは思うけど、生涯のある人の自立生活自体がへぇーっ、と思われているぐらいの一般認識では、ここから先の、今、を提示しないと、やっぱりツラいと思うのだ。

だってボランティアだって、ヘルパーさんだって、彼らにとってかけがえのない人たちではあるけれど、でもやっぱり、他人だもの。いい意味でも、悪い意味でも。
家族という言葉は、凄く縛りがあると思う。鹿野さんだって、「こんな身体に産んでごめんね」なんていう母親に対して、言いようのないコンプレックスを持っていた筈。そんな彼がボランティアさんたちを躊躇なく、家族ですというのが、そこを踏まえてなのかというのがちょっと気になったりもし……。

そしてもう一つ。本当は、本当は……死んでほしく、なかった訳。そら仕方ないわ。これは実話を元にしているんだから。そして鹿野さんは“不死身伝説”とその強靭な精神力で、子供の頃は二十歳までは生きられないと言われていたのが、実にその倍以上の人生を生きたのだから、それだけでも凄いのかもしれないが……でもやはり、死をゴールにしてほしくはなかった、正直。
判る、判るのよ。そういう深刻さを本当に、慎重に、避けているのは凄く判る。死にそう死にそうと何度もトラップをかけて、その度に症状は重くなるけど、人工呼吸器サイコー!と叫んでみたり、声が出なかったのが訓練して出るようになったり、美咲ちゃんにプロポーズして撃沈したり(爆。しかも退院パーティーで、公衆の面前で!)、もう、そりゃもう、ある意味なかなか死なない(爆)。

でも、やっぱり死がゴールにあるんだよね……。筋ジスは症状の程度やスピードは千差万別だし、それは筋ジスのみならずだからさ。本当は、当たり前に生きている彼らを見たいと思う訳さ。ゴールに死がある障害者じゃなくてね。
そりゃ、しょうがないと言われるのは判る。実際、鹿野さんは亡くなっているのだし、その後に、彼を愛したボランティアたちの活動をまとめた原作が出て、評価されたのだし。でも、そうだとしても、映画という形にするのなら、死をゴールにしないやり方も出来たと思う。

死をゴールにしたとたんに、もうなんか、24時間テレビとか思っちゃう(爆)。お母ちゃんを演じる綾戸智恵はとっても良かったし、控えめな出番のさせ方はやはりそういう見られ方を考えてのことだろうなとは思ったけど、やっぱり遺影が出たとたんに、なんていうか……空気が変わっちゃうんだもの。
今もふてぶてしく、生きて生活して、ボラたちにぷんすか言われている鹿野さんでエンドしてほしかった、というのは、……作劇の選択というものだろうけれど。

むしろね、鹿野さんの物語じゃないと思うんだよね、本作は。鹿野さんはだって、なんたって大泉氏が演じているだけあって(爆)、まー、ぶれない、変わらない。本当によーちゃんピッタリのイラッとするのに、ほっとけないカワイイヤツ(照)。
その彼に恋寸前まで行ってしまう美咲ちゃん、でもちゃんと断るところが素晴らしい(鹿野さん、可哀相……)。そして、彼女の恋人である、大病院の跡継ぎ息子の北大医学生、田中君(三浦春馬)は優しい性格故に、彼女との関係も、鹿野さんのボランティアも、自らの進路も、とにかく悩める悩める。

その二人の恋と人生の葛藤を筆頭に、ボランティアとして彼に関わる人すべてが、人生観というか、自分が見ている景色そのものが、変わっていく。ベテランボランティアとして最初からかかわっている高村(萩原聖人)、前木(渡辺真起子)、塚田(宇野祥平)たちだって、きっとそうだったに違いないというのを感じさせるのだ。
彼らはそれぞれに仕事や家庭があり、決して鹿野にベッタリの生活はしていない。そしてそれを鹿野も判ってて、ワガママを言うのはむしろ、新人ボランティアの収集と育成に関してだというのが面白い。

対等、それが百パーセントの価値観。それが実現できていることこそが彼の凄さであり、理想だが、やはりこれは、難しいよね、出来ないよね。だから、ヘルパーさんであるべきだと思うし、その手も予算も、あまりにも足りないのだ。
とにかく、私たちはあまりにも出会うきっかけがない。出会えば多かれ少なかれ、人は影響し合うと思う。そのチャンスが失われていると思う。安倍首相が本作を夫妻で観たというニュースを聞いた。現実の問題として、しっかりと受け止め、変えていってほしい。

あー、なんか、映画そのもののこと、全然触れなかったな(爆)。でも、楽しかった。当たり前に享受するべき生活を、大泉氏の絶妙なイラッと感(爆)と愛すべくユーモラスで見事に表現していたと思う。
とにかくこれをただのお涙頂戴の感動物語にしてほしくはないし、作り手のそういう意思は確かに感じた。★★★☆☆


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