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記憶にございません!
2019年 127分 日本 カラー
監督:三谷幸喜 脚本:三谷幸喜
撮影:山本英夫 音楽:荻野清子
出演:中井貴一 ディーン・フジオカ 石田ゆり子 草刈正雄 佐藤浩市 小池栄子 斉藤由貴 木村佳乃 吉田羊 山口崇 田中圭 梶原善 寺島進 藤本隆宏 迫田孝也 ROLLY 後藤淳平 宮澤エマ 濱田龍臣 有働由美子 飯尾和樹 小林隆 六代目市川男女蔵 小澤雄太 近藤芳正 阿南健治 栗原英雄 川平慈英
政治を舞台にしたコメディとなったら、まぁ大抵のクリエイターならシニカルたっぷりに、揶揄たっぷりに描くであろうことは容易に想像がつく。その方が社会派として評価されやすい。
時に三谷作品がいわゆるクロート筋には少々評価が低めなことがあるのは、クロートさんはそーゆー“社会派”気取りに容易に騙される傾向にあるからだと思われる。
なんかね、しみじみ、毒のなさ、誰も嫌な気持ちにさせないコメディが描けるのって、今更ながら、判っちゃいたけど、凄い才能、天才だと、改めて思ったなぁ。
それも、支持率が3パーセントにも満たない嫌われ者の総理大臣、というところからスタートさせて、一気にボルテージを上げていくこの上手さ!
勿論、“嫌われ者の総理大臣”というのが、病院のベッドの上で目を覚ますところから物語が始まっているのだから、観客がそれを実感として受け止める部分はない。過去映像として、記憶喪失になってしまったこの総理大臣が他人事みたいにテレビ画面の中に見つけるのは、そのまたスクリーンの後ろの観客である私たちとて同じことである、というところが上手い。
最初から、観客は記憶喪失におろおろしている総理大臣と一緒の気持ちだから、彼を好きにならずにはいられないのだ。
なにせ日本という国民性というか、そもそも政治に期待していない、どころか政治に関心がない、という国民性。
それは、自分たちの日々の生活こそが社会を成り立たせているという誇りがいわば政治家への軽蔑も産んで、政治家が何をしようと何も変わらない、ただ国の予算や些末な法令を決めるだけだ、と思ってる、のは、日本という国が他の国と比べて“ある程度”格差のない、豊かな国である証拠である。
もちろん“ある程度”である。格差を感じている男によって、彼は投石を受け、記憶を失った。そこまでの怒りが、大多数の国民にはないから、無関心なのだ。
そういう意味ではこの冒頭のきっかけというのは、なかなかに大きな意味を持つような気がする。嫌われ者の総理大臣はでも、その態度のデカさや政治やカネを自分勝手に使う卑怯さに向けられていて、つまりは生理的な嫌悪にとどまっていて、国のためになるとかならないとか、そういう発展性の思想はないのだ。
あったのは、投石をした鳶の男ぐらいである。生活保護の条件を引き下げる総理大臣に、下層生活をしている先輩たちのことをまず心配して、彼は怒りを覚えた。政治家としての彼にまっすぐに対峙した、ある意味ただ一人の人物なんである。
なぁんて、マジメなことを言うような話じゃないんだけど(爆)。なんたって三谷コメディなんだもの。今回が三谷組初参戦の、首相秘書官、井坂を演じるディーン・フジオカの美しいことときたら!!どうやったら福島からこんな美しい男が産出できるのだ(爆。だっていなかったよ、小中時代……)。
井坂は総理大臣の妻と不倫をしている。不倫つーても首相への面当てっつーか、かつては彼も理想に燃えて政治家を目指していたのが、現実を見て萎えて、表向きは怜悧な秘書官ながら、テキトーに首相の妻と火遊びをしている、といったところである。
その妻が石田ゆり子で、世間知らずのぽんにゃりした感じが、これが意外に彼女がそういう感じなの、見たことなかったな、と思って。意外に、と思ったのは、うわーピッタリと思ったから。
官邸料理人(てゆーか、感じとしては家政婦)の斉藤由貴はそういうぽんにゃりしたイメージというか、芝居が凄く上手い人だけど、ほんわかした美人でありながら、意外に石田ゆり子はここまで、厳しめの役柄が多かった気がしたのだ。三谷監督が嬉々として彼女にバカをやらせてる感じに、愛を感じたなあ。
ある意味一番の理想主義で、でも表向きは頭の切れる女、事務秘書官の小池栄子嬢が抜群の安定感。いわば総理大臣の気持ちを最も理解し、協力体制にいち早くなる女性。
見た目はデキる女ながら、熱い理想を隠しようもなくて、今までは嫌いぬいていただろうセクハラ首相が、でも記憶を失って一から、いやゼロから政治家として生まれ変わろうとするのにサクッとシンクロするある意味での単純さがとても愛しい。最終的には現実主義者の井坂もその波にのまれてしまうのだから、彼女の猪突猛進は裏の主人公と言いたいぐらいのものがある。
本当のところを言えば、井坂の言うとおり、そして裏のボスとして暗躍していた官房長官の鶴丸の言うとおり、きれいごとばかりでは政治は動かない、のだろう。それは真実なのだろう。
ことに外交なぞ、本作で描かれたような、本音でぶつかりあって理解し合う、なんて、おとぎ話のような理想中の理想だ。もちろん三谷監督はそれを判ってて、米国大統領役に最もフィクショナルな味付けをほどこし、コメディの魅力をここでこそ発揮させたのだろうと思う。
演じる木村佳乃がそれをどこまで理解していたのか(爆。そこが彼女のいいところ!)判らんが、サイコーである。日系というルーツにイヤな予感はしたが、やはりやはり、ワザとらしい英語を通訳を介して話していたのが突然、フツーに日本語をしゃべり始めるのには爆笑!んでもってそれが、木村佳乃というサイコーのコメディエンヌだから、マジにサイコーなのだ……。
劇中の主治医が言うように、記憶喪失は一生続くかもしれないし、途中で記憶を取り戻すかもしれない。脳の働きは未だ判らないところが多く、何とも言えないのだと。
この設定は遠く半世紀も前の少女漫画から王道中の王道で、んでもって、大抵途中で記憶を取り戻して、取り戻しちゃうと大抵、記憶をなくしていた頃のことを反対に忘れちゃうという展開が殆どだったから、正直、ハラハラしながら見ていた。
忘れたままで、生まれ変わった総理大臣のままで、っていうのは、ムリだろうなと思っていたから、そういう意味でのヨミは当たったけど、三谷監督はこっちが想像する以上にロマンチストだったのだ。
確かに総理大臣は途中、記憶を取り戻した。ただ、それを周囲に悟られることはなかった。記憶を取り戻しても、記憶をなくしていた最中の記憶を失うことはなかった。
つまりは、私たちが信じていた、“記憶を失っていた間の記憶を、記憶を取り戻したら忘れてしまう”という、半ば都市伝説のようなことを、明確に否定し、そこに彼が、生まれ変わりのチャンスを得たという、もうイイ人全開、毒のなさ全開のエンタテインメントで、観客を満足させちゃったんである。
小学校の時の恩師を呼んで、イチから政治を学びなおす総理大臣の姿に、まず事務秘書官の番場がカンドーしちゃう。首相の妻と火遊びをしていた首相秘書官の井坂も次第に彼の本気に惹かれていく。
相談の上、味方につけるのが、井坂との不倫問題を金で解決しようとしていた(ことを首相は忘れちゃってるんだけど)スキャンダルライターの古郡である。古郡を演じる佐藤浩市と中井貴一の、ベテラン同期対決とでもいいたい芝居合戦は、ワクワク以外の何物でもない!
そして、古だぬきの官房長官、鶴丸を演じる草刈正雄の老練な芝居に、まるで青年のような清らかな芝居をぶつける中井貴一、というぶつかり合いも、何かこう、芝居の奇跡を見るようである。
あー、この顔見たことあるけど誰だっけ!!と悶絶しながら見てて、キャストクレジットで判って驚愕した、首相の妻の兄役のROLLYの複雑な胸中かつ素直で愛らしいキャラクター。これまた見ている間はそのつけまつげに惑わされてちっとも判らなかった、まるでアメリカのテレビキャスターみたいなハデキャラの有働さん。官房長官側の部下にフツーにハマってたジャルジャルの後藤氏。
旬どころを引っ張ってこられた感はあるにしても、三谷作品によく似合った大げささでキュートな魅力を振りまいた警官からSPに抜擢された田中圭。やたら色っぽい野党第二党党首役の吉田羊から迫られた首相の中井貴一が、記憶を失ってるから訳が判らずキャーキャーとうろたえまくるのも最高に可笑しかった。
三谷作品に足を運ぶのを鈍らせる理由は、群像劇がバツグンに上手くて、やたらめったらいるキャストのどれもが言及せずにはいられない面白さで、書くのが大変だからなのよ!!
あーもう、まだ言い切れない人はたくさんいるのだ。息子役の濱田龍臣君とかさ!あ、彼だけ徹頭徹尾シリアスだったけなあ。
なんたってサイコーなのは、国会中継を使って、首相が妻に愛の告白をする場面である。この場面ではもう彼は記憶を取り戻しているんだから、つまりはそれまでの自分の所業や考え方もふまえて、でもゼロから積み上げた自分自身を優先して、「愛してるんだ。なんたって、好みのタイプなんだ!」とカメラ目線で訴える場面はサイコーである。
あの、俯瞰からの国会中継のカメラを、タイクツな映像として記憶しているわれら国民の刷り込みを、気持ちよく裏切るハッピーすぎるクライマックス。
「総理大臣に政治を教えるとは、教育者としてこれ以上の光栄はない」と突然の呼び出しに快く応じてくれた恩師が言っていたことを思い出す。嫌われ者の総理大臣だったけど、個性があって面白いと思ったよ、と。
この日本という国は、はみ出し者を嫌うけれど、こんな政治家がいても面白いじゃないかと。国会中継で愛を叫ぶなんて、マジで少女漫画だと思ったけど、そこまで突き抜けられるのは毒ナシ100%の三谷監督でしか出来ないことだと改めて思ったり。
特に明らかにはしなかったけど、首相が記憶を取り戻したのって、官邸料理人のぽんにゃり寿賀さん斉藤由貴が、夜中に台所でごそごそしている首相の頭をフライパンでカーン!殴った時、だよね?多分……。
ずっとね、どこかで記憶を取り戻してサイテー総理に戻っちゃう……と心配していたから、あのカーン!でそうなると思ったらならなくて、でもタイミング的には“記憶を取り戻したけど、記憶をなくしていた間のことも忘れてない”展開は、あそこしかなかったな、って思うからさ。いやーハラハラした。ハッピーに終わって、ホント良かったよ!!★★★★☆
本当に、岩下志麻に震撼とする。彼女はいわば、夫に裏切られた妻。7年もの間、夫の宗吉は囲っている女の存在を知られぬまま、実に三人もの隠し子を作った。
妻のお梅がそれを知って逆上するのはそりゃ無理はなく、悪いのは宗吉、彼ただ一人。しかし、お梅=岩下志麻の、まさに鬼、いや鬼だってもうちょっと優しかろうと思われるほどの恐ろしさにただただ震え上がるばかりなのだ。
その矛先が向けられるのが、幼い子供たちだから。いや勿論、宗吉にだってガンガン当たりはするのだが、その同じ当たりの強さ、いやそれ以上の強さで、頑是ない子供たちに当たり散らすのだ。
当たり散らす、だなんて言葉はあまりに優しすぎる。もう、なんと言ったらいいのか……。
最初、宗吉は子供たちに「これからはおばさんが食べさせてくれたり、洗濯してくれたりするからな、いい子でいるんだぞ」と言うが、お梅は一ミリもそんなこと、しなかった。それどころか、まだ赤ちゃんと言っていい末っ子の庄二が食事をおもちゃにしているとカンを立て、食べたいならいくらだって食べるがいい!!と横抱きにして口の中にご飯をこれでもか、これでもかと突っ込む、地獄!
真ん中の女の子、良子の頭が臭くてたまんないよ!と言って宗吉の前に突き出し、その頭からザーッ!!と粉せっけんを振りかける、地獄!!
長男の利一は一番上ということもあるが利発な子で、自分たちが招かれざる客だということを充分に理解している。そしてそれがどんなにか理不尽なことかということも含めて。
良子はまだ三つで、ただただこの状況にお兄ちゃんとお父さんを頼りにするしかなくて、おろおろびくびくするしかなくて。そして庄二はまだ、言葉も発することのできない赤ちゃんなのだ。なのになんであんなむごいことが出来るの。
仕事の傍らで慣れない育児を必死にする宗吉だったが、庄二は栄養失調で死んでしまうのだ。いや、死んでしまったのは、お梅が故意に落としたシートで息が出来なくなったからじゃないのか!!
最初はね、最初は……囲い者の菊代が三人の子供を抱えて乗り込んでくるところから始まり、菊代を演じるのがこれまた小川真由美だったりするから、岩下志麻とのバトルはすさまじく、もうどっちもどっちっつーか、どっちの言い分もその通りというか。
そらま宗吉がすべての原因なんだからこの女二人がどうぶつかったってどうしようもない訳なのだが、どっちもどっち、と言いたくなるほど素晴らしい強さを見せた小川真由美が、お梅言うところの「最初から計算づくだった」と、三人の子供を置き去りに姿を消したから、もう結局、岩下志麻の独壇場を許す形になってしまうのだ。
むしろ強い女二人に挟まれてこの先の判断が決まらないままの時の方が、地獄は地獄でも宗吉はまだ、楽観視していたところが、あったと思う。しかし菊代が消えてから、お梅の恐ろしさ、本性というか、その想像以上のすさまじさに、宗吉は、自分が原因だという以上にすくんでしまって、何も言えもしないしさぁ。
庄二を見殺しにした時だって……お梅が殺してしまうんじゃないかって、薄々思っていたくせに、何も、言えないし、何も、出来なかったんだ!!
いや、そうだ、お梅が「これであんたも、ひとつ気が楽になったでしょ」というあのヒドい言葉を、彼は否定できなかったんだ。いわば、自分が手を下せないから、見て見ぬふりをして、妻の作戦に加担をしたんだ。……なんということだ……。
もうそれ以降は、残り二人の子供たちがどう殺されてしまうのかと、ビクビクしながら見守ることになる。その間、宗吉は一応はお梅の行方なぞ探してみたりもするのだが、どこまで本気だったのやら、である。
子供たちは不要になった紙に落書きをしただけで、お梅に地獄の鉄槌を落とされるような、もう身の置き所のない生活なんである。
あ、ここは小さな印刷工場で、そもそも宗吉の浮気がバレたのは、工場が火事に見舞われて首が回らなくなり、菊代へのお手当てが滞ったから。
どうやら奥さんが首根っこをひっつかまえているこの状況、宗吉はいかにも経営に無能そうであり(銀行で、大滝秀治に融資を断られる場面なんかが出てくる)、早晩こんな状況には陥ったであろうと思われるんである。
言うのが遅れたが、宗吉を演じるのは緒形拳。この脂の乗り切った時期の彼はどうしても、「復讐するは我にあり」の恐ろしい彼を思い出してしまい、こんな気弱な役がなんとなく意外にも感じられるが、思えばこんなに柔軟な役者さんもいなかったかもしれないと思う。
しかし、自分が蒔いた種とはいえ、女たちに押し切られる形、をいわば言い訳にして、子殺しまで手を染めてしまうという男は、確かに気弱といえばそうなのだが、どこか女たちを言い訳にして、自分が弱く、どうしようもない男だから仕方がなかった、という風に持っていったように思えなくも、ないんである。
お梅はあまりに極端な鬼女だが、そう、菊代が指摘したように、この二人の間に子供がいないことは、どうしたって気になったのだ。ふとした欲情から料理屋の女、菊代に手を出した宗吉が、妊娠したと言われて「子供が欲しかったんだ、産んでくれ!」と相好を崩して即答するあの場面を思い出すと、この超絶鬼女を、百パーセント糾弾出来ない自分を感じて、そのことに恐ろしくなってしまうのだ。
どんなに鬼でも、実質的に手を下していない、というのが卑怯なのか、あるいは彼女を言い訳に手を下した宗吉が卑怯なのか、私はにわかに判断が出来なくなってしまうのだ……。
むしろ、良子を東京タワーに置き去りにした時、凄くほっとしたのだ。ああ、これで彼女は生き延びられる。しかるべき手に渡されて、保護されると。
なぜ乳児院とか養護施設とか、彼らがまず考えなかったのかとも思うが、それはヤハリ現代の視点から見るからなのだろうか。いや、最終的に殺し損ねた(イヤな言い方だが)利一が、そうした施設に送られていくことを考えると、最初からそうしてくれればこんな地獄にはならなかったにと思っちゃう。
しかし、曲がりなりにも親がいて、養育できる環境に物理的にあるのなら、そう簡単には、特に当時は、いかないということなのだろう。
物理的には、なのだ。本当に大事なのは精神的なところであり、これが実際の事件を元にして松本清張氏が書いたのが原作だというのだから、少しずつでも今の日本の子供たちに対する保護状況が整えられているのだとしたら、こういった作品の影響も少なからずあったのではないかと思われるのだ。
利一の目が、忘れられない。彼はいつも、大人を見通していた。そして妹、弟たちを、思っていた。庄二が死んだ時、彼は子供なりにお兄ちゃんとしての責任と、そして……これから起こる悲劇を、予測していたことだろう。
お梅は利一の目を、あの女の目だと、嫌いぬいていた。良子のように置き去りにする訳には行かない、あの子はもう六つで、所番地も父親の名前も言えるのだからと。
これはオチに対する見事な伏線になるのだが、お梅はつまり、利一を対等に見ていたのだ。イコール、菊代だったから。
これは逆に、利一に対してひどく無礼なことだ。だって、利一は菊代じゃないんだもの。お梅は利一の中に菊代を見て、だからヒドいことをしても当然と思って、青酸カリまで用意して(!!!!!)。
上野の動物園に連れていって、途中で買った菓子パンの中に宗吉が青酸カリを仕込んで利一に食べさせようとする場面で、ああもう、ダメだと思った。偶然や置き去りに目をつむる程度の気弱さではない。妻に言い訳する形でのハッキリとした殺意。
それ以降はもう、利一は殺される、殺されちゃうんだと、ただただビクビクしながら見守ることになる。火サスに出てくるような見事な崖の上から、そして見事な夕日に照らされて、遊び疲れて眠ってしまった利一が宗吉に落とされた時、その画の完璧さで、もうダメだと思った。
そして次のシーンで大竹しのぶが出てきて、私は一気に思い出しちゃうんである、この映画のこと、そして、利一が生きていたことを!!
お梅が恐れていた、所番地も父親の名前も言える、置き去りにしても帰ってこれるから、それは使えない、殺すしかないんだと、というのは、その前に利一が一回家出というか、お母さんに会いに行きたくて、元いた家を訪ねて、帰ってきた時に証明されちゃってるんだよね。
このシークエンスは伏線以上に、利一が、そこにはお母さんはいないどころか、見も知らぬ家族、しかもメッチャ幸せそうな、若夫婦に幼いきょうだいが遊んでいるという、もう彼にとってはうらやましすぎてまさにこれこそが地獄じゃないかという風景が繰り広げられていて。
で、彼は、近隣の顔見知りにさえ会うことが出来ずにさまよっていたところを警官に保護され、所番地と父親の名前を言い、帰ってきちゃう。
えらかったよ、坊や、と送り届けるのが田中邦衛!そういや、印刷工場で働いていて、なんとなく幼い子供たちを目にかけてくれているのが蟹江敬三!邦衛さんはまだご存命だが、なんていうか、今はもうお見掛けできない名優たち、という感じがして……。
そう、所番地もお父さんの名前も言えた筈の利一が、捕まったお父さんと顔合わせしても、こんな人知らない、お父さんじゃない!と叫ぶのが、もうたまらない、哀しい、切ない、そんな感情じゃ追いつかない!!
お梅は用意周到で、溺死体が発見されても身元が判らないようにと、衣服のメーカータグを切り取ることさえ、してたの(超鬼!!!)。警察はその残酷さに憤然とするんだけど肝腎の利一が口を割らないから、本当に身元が判らない。
それが意外なところから突破口が。利一のポケットに入っていた、石けりに使っていた石板、そこに刻み込まれていた版の文字から特定されちゃったのだ。うわー、ミステリ、サスペンス、松本清張!!いや、これは実際の事件からというんだから、本当にそういう経緯だったんだろうか!!
しかしさ、しかしさ、最初は父親をかばうためかと思われた黙秘が、本当はそうじゃなかったのか、母親が消え、きょうだいたちも姿を消し、たった一人の身内、味方であった筈の父親への絶望だったのかと思うと……慟哭!!
児童施設へと送られる利一が、メッチャカワイイ笑顔の大竹しのぶに「男の子なんだから、しっかり頑張んなさい!」なんて手を振って見送られちゃって、しかし彼のトラウマのいかばかりかと思うと、もう壮絶すぎて……。
でもそういう意味で、あっけらかんと可愛い婦警さん、大竹しのぶは確かに救いだったかもしれないなぁ。
だって、岩下志麻が怖すぎるんだもん。美しいお顔立ちだから、余計かもしれない。
この当時の、エアコンなんて気の利いたものがある訳のない、夏のあっつい、いつもいつも全身にじっとりと汗をかいている、それ自体の苛立ち、そして末っ子が死んだ時の罪悪感からの高ぶりのこの夫婦の激しいセックスに戦慄!なんでなんで、私はこの作品を、さらりと見逃していたのか!!
★★★★★
改良、と言いたいのは、上野駅での雑踏の中で争いなんぞになってしまったら、アクションとしては派手なものになるだろうけれど、実際の本作の、ピストルを突き付けられているのを外にいる刑事にどうやって知らせたらいいのか、という、静寂の中でのすさまじい緊迫感は得られないに違いないからだ。
ということは、もう最初から、本作のカラー自体を描きなおしたんではなかろうかと思われる。だってこれは、オリジナルシナリオだというんだもの。そして本作はまさに最初から、この静寂の緊迫感にあふれているんだもの。
この当時の音楽はことごとくに芥川也寸志。その才能は疑いなきところだが、まるでヒッチコックのサスペンスを思わせる緊張感のあるサウンドに、改めて脱帽の思いがする。この当時だからのモノクロだが、このモノクロがあえてのモノクロに思える緊張感。
事件が起きるのは夜中。商店街は早々にシャッターを閉め、蒸気機関車がうるさい音を立てて通り過ぎる7時10分過ぎ以外は、しんと静まり返るばかりなのだ。怪しい、というか恐ろしい男がカーテンの隙間から藤崎の店を、そのぎょろりとした目でのぞき込んでいる様、カーテンに映るシルエットから、モノクロの美しさ怖さが存分に発揮されている。
それは昼間の場面でさえ……犯人一味に嗅ぎつかれているのではと、商売の届け物をしている最中も気が気ではない藤崎。何もジャマするものがない、しらじらと太陽が照り付けるばかりの明るい昼日中なのに、ひとけがなくて、恐怖がせりあがってくる。
たまらず駆けだす。追いかけてくる。その追いかけてくるのが、護衛係の刑事さんだったというオチはつくが、昼のしらじらとしたモノクロも、夜の不気味なモノクロも、とにかく、怖いんである。
てゆーか、どういう話じゃ。ラジオ修理工の藤崎は木村功。顔も名前も一致しているが、あまり観る機会がなかった役者さんのように思う。うんうん、七人の侍、だよね。でも、主演で観たのは初のような。
そのお腹に彼の子供を宿している、洋裁の腕で夫婦の生活を成り立たせているしっかり奥さんが津島恵子。うーむ、これまたご同様。
二人はごくごく普通の、慎ましく暮らしている夫婦、というのを実にしっかりと体現している。冒頭、夫が昔の友人に偶然出会い、銀行員かなにかで出世している、テレビも買ったそうだとか聞きつけて、ふがいない自分に落ち込んでいるシーンから始まるんである。もうすぐ子供も産まれるのにと。就職活動(運動、と言っていたが)をあてもなくしようかとつぶやく夫を明るく叱咤激励する奥さん。
共働き、という価値観がまだなく、「君の稼ぎで助けられているけれど」という夫の言葉が弱々しく響く時代、お互い手に職を持って、手に手を取ってむつまじく暮らしている夫婦の姿がどれだけ理想か、数十年後から彼らに言ってやりたい気持ちになる。
夫を元気づけたいと思って、奥さんはもらった招待券で映画に行こうと誘う。たまにはいいじゃない、と。品物を届ける奥さんが先に出て、戸締りをして後から追いかける夫と時間差になる。
これだけでもうヤバい気がしたが、直前に「7時半からの拳闘の中継が聞きたいから」急いで直してほしい、とラジオを抱えて飛び込んでくるご近所さん。ご近所さんだから無下にも出来ない。そして彼は優秀な腕を持っているから、中継時間に間に合わせる。
ただ、奥さんとの待ち合わせはその10分前。正直そのことですれ違うとか、ケンカになるとか思ったのだが、そのまま翌日に事件が報じられるのでちょっと拍子抜け。ただ……修理をしている時、藤崎はカーテンの隙間からこちらをうかがいみている、明らかにアヤしい、恐ろしい風貌の男と、目が合ったのだ。
結果的には彼は殺人犯(かあるいは一味)で、藤崎の店のお向かいさんの不動産屋さんを、どうやら麻薬がらみのゴタゴタで始末したらしいのだが、そもそもなぜ藤崎の店を覗いたり、したのだろう。目撃されたと思ったのか。あの時、機関車が通った前だったか後だったか。どっちだったかなぁ。
機関車が通る時間、待ち合わせの時間、直前に持ち込まれたラジオの修理、それに間に合わせた拳闘の中継時間、と、この事件の目撃者を血眼になって探している刑事たちにとっては、藤崎夫婦の証言がこの曖昧さを見事についているのが、コレだーっ!!てんである。
お向かいさんが殺されたこともそうだが、何より夫婦にとって衝撃だったのは、ご近所さんで仲良くしている夫婦、夫がタクシー運転手をしているのがあだになって、二度目の殺人の目撃者となったばかりに巻き添えになって殺されてしまったこと、なのだ。
顔を見てしまったことが、こういう結果を招く、そりゃぁ、目撃したことを隠蔽したくもなるが……それにしても仲のいい二人がいつもぴったりくっついて、何も知りません!!とカワイイ奥さんが吠えまくっちゃうんじゃぁ、これは疑いも起きちまうってことだわよね。
彼らの気持ちは判るが、事件が解決しない限り、この恐怖は続く訳だし、さっさと警察に協力して、そして保護してもらって、事件解決を急いだほうがいいじゃん、と観客はノンキにそう思っちゃう。
まぁ、夫が、犯人からの牽制の手紙、自分ばかりじゃなく、奥さんもどうなるかしれないぞという、卑怯な文面で送ってきたことにひるんだというのは判るにしても、奥さんはそのことは知らないし、ただただ、関わり合いにならない方がいいのよ!!とばかりの単純回路で(爆)。
いや、いいんだけどね。何より心配なのは、彼女が妊娠していること。極度の緊張状態におかれ、一時は床についてしまったりもするから、観客側も心配してしまう。
でも結局、出産の時期までには展開は至らないからあれれと思うが……せっかく大団円を迎えたんだから、カワイイ赤ちゃんを見せるまで、行ってほしかったけどねぇ。
刑事側には、まず、この人の名前で安心して足を運んだと言いたい、志村喬。いわばこの捜査チームのリーダーである。穏やかで、しかし厳しく、藤崎夫婦を守り、しかししたたかに利用もする。
彼らの証言の矛盾を部下が頬を紅潮させて報告に来るのを柔らかく受け止め、呼び出した彼らが怯えながら否定するのを優しく受け止めつつ、何かと顔を出したり奥さんの見舞に果物を届けたりと、優しくも穏やかも、一筋縄ではいかないしたたかさである。
だってさ、もう逃げようがない、彼らの元に飛び込んできた藤崎がモンタージュ作りに協力し、すぐに新聞に載せなければ!そりゃそうだよねと思ったら、なんとモンタージュだけでなく、藤崎の顔と名前まで載っちゃうという!!彼に何も言わずによ!
えーっ!!何それ!!と思ったがつまり、犯人をおびき寄せるエサにした訳で、そしてそれを藤崎には言わなかった訳で!!ひ、ヒドい、志村喬!!藤崎は奥さんになんとか知られないようにと心を砕くハメになり……ムチャな!!
でも肝心なところでドンカンだったけどねー。それまではさ、第二の殺人も起きて、もう藤崎夫婦のところに現れるのを待つしかない、と張ってたのに、「普通の客のようですよ」なぜそう思ったー!!気づくの、遅すぎ!!
だってさ、だってだって、その直前に、様子伺いよろしく、チンドン屋になって商店街を練り歩き、皆その楽しさに頬が緩んでいたのに、オーボエ吹きのピエロが、藤崎が見た、あの恐ろしい男!しかもそれに気づいたのが、新聞に載ったモンタージュを見た商店街のお隣さんが、藤崎に耳打ちした、っていう!なぜその時点で刑事さんに通告しない!
このシーンは、ホントによく出来てたというか、なんというか……チンドン屋の気の抜けたような明るさの、延々と続く節回し、一見明るく吹き鳴らすオーボエ、そのピエロの顔に迫っていくと……吹き鳴らしながら、その恐ろしい瞳は油断なくこちらを見据え、ピエロの顔立ちにメイクしているそれも、なんだか妙に雑で、だからこそ余計にドアップになる、オーボエを吹きながら目を離さないままの彼の顔が恐ろしく……。
だからさ、だから、ラジオ修理を頼みに来た実行犯?が別人だったことに拍子抜けしたが。どっちも恐ろしい面相には違いないんだけど(爆)。ピエロの堺左千夫もクライマックスを独り占めしちゃう宮口精二も共に恐ろしいことには違いないんだけど。
宮口氏扮する、ラジオ修理を持ち込む男に刑事たちがしばらく気づかぬまま、藤崎が冷や汗をかきながら修理を延長し、なんとか妻を逃がそうとし、表の刑事に事態を知らせようと看板の明滅を繰り返してみたりの、これがかなりの尺をとる緊迫感のシーン。
7時10分の機関車が通り過ぎる時間をにらみながらのこのクライマックスシーンの素晴らしさは、それまでも充分に見事な心理描写でうならせたが、もうこのクライマックスシーンだけで、この映画が語り継がれてよし!と思える素晴らしさ。刑事たちのドンカンも許しちゃう!
しかして、この場面で結局、堺左千夫も宮口精二も銃撃戦で死んじゃうってことは、「麻薬組織を一網打尽」って出来ないんじゃないの……とか思っちゃうが、出来ちゃったらしい。うーむ。
そして町の電気修理屋さん、藤崎氏の勇気ある活躍は新聞紙上で大いに称えられ、一躍ヒーローに。へ、平和だなー。★★★★☆
とはいえ、結構中盤までは正直タイクツモードなんである(爆)。九ちゃん演じる三五郎はおっそろしいほどのものぐさだからさぁ。
ド田舎で老いた両親と暮らす彼は、しかし横になったまま起き上がる気配がない。手探りでおかずをつまみ、客が草鞋を買いに来ても、おつりまで客にとらせてグースカ寝ている。
働いてくれなければ飢え死にすると両親が訴えても、金を稼ぐのは好きだが働くことは好きになれねぇ、飢え死にするのもやぶさかでなし、などと言い腐る始末なんである。
ここ、こんなヤツ、通常の私なら、コメディと判っていても、キーッ!許せん、働け働けーッ!!と心の中でどつき倒すところだが、九ちゃんの邪気のない笑顔と、のんびりした仕草、横になろうとするたび母親につっかえ棒されても何度も懲りずに居眠ろうとする、あつかましいのになんか愛しくて笑っちゃうのは、ヤハリこれは九ちゃんのキャラだよなーっ。
江戸を出てからはその可愛いお顔を侠客に買われて、吉原一の花魁にも一目で惚れられるという彼は、親からも「私(母親)に似て、器量はいいから(……お母さん、結構な素朴なお顔立ちですけど(爆))」と認められていて、その可愛いお顔はものぐさな性質を補って余りある……かもしれない??
しかして両親はもう切羽詰まって、子供を置いて夜逃げするか、いやそんな話は聞いたことない、三五郎に出来る仕事は侠客ぐらいしかないという、かなり無謀な考えで、侠客にならなければお前を殺す!と包丁突き付けて懇願するというムチャクチャさ。
顔がいいなら役者という意見も出たが、芸の稽古に三五郎が耐えられる訳がない、というくだりは、まがりなりにも役者たちでエンタテインメントを作っているということへの自負が感じられるところはイイが……それにしてもムチャクチャ!
死にたくはなかったのか、親の気持ちが通じたのか、刃物を突き付けられてもノンビリとしている三五郎からはイマイチその真意は計り知れなかったが、まぁとにかく江戸へと出ることになる。
まさに馬子にも衣裳というか、いやかなりとってつけたというか、逆に田舎者丸出しというか(爆)、ハデな尻っぱしょりで江戸へと歩いて行く三五郎は、金がもったいないからと立ち寄る茶店ではいつも水しか頼まない。ものを食ってる様子がない。いやいや、死んじまうだろと思うが、そこはさすが、ここまでものぐさで寝てばかりいた三五郎の意外な身体的特技なのかもしれない??
江戸へ着いたはいいが、侠客になり方が判らない。しかしてそこに侠客と旗本の小競り合いが。きっぷのいい侠客、唐犬権兵衛に惚れ込んだはいいが、パーッとハデなことをやれば侠客として名が挙がると聞いていきなり辻斬りを志すあたりが三五郎(笑)。
その赤鰯で斬れる訳ないじゃんか……という、観客の心の中のつぶやきが、その後にずうっと展開していくという訳だ!
顔と愛嬌の良さだけで子分にしちゃう権兵衛(東千代之介。すごいもみあげ、尾崎紀世彦……)はスゴいが、彼の計算が見事に当たるあたりはもっとスゴい。
吉原一の花魁、高窓が、くだんの旗本のなまっちろい水野十郎左がネラって金をつみまくっているというのが権兵衛のみならず、彼の上となる親分も面白くなかった訳。
このカワイイ顔が案外高窓を落とせるかも??そんなムチャな!と思ったら、本当に一発で高窓はこの無邪気な三五郎にホレちゃうんだから、マジですか、だよ!
そもそも権兵衛の子分にいきなりなれて、てことは権兵衛の手下の親分にいきなりなる訳で。その手下が全然クサらず、すぐに三五郎を親分、親分!!と慕うってーのがバカ同志というか(爆)。そうでなきゃ、こーゆー話は進んでいかないわな。
で、高窓は今や吉原一の売れっ子だが、もともとは旗本の娘。沢庵禅師を見張る役割を得ていた父親が、ハゲ頭をやかんに置き換えられて切腹の憂き目にあい、幼い妹のお礼は母親と共に川に身を投げたという。もう一人、ヒロインが出てきていたから、かなりバレバレ。
銀風呂なる、なんつーか、まんまトルコ風呂(爆)みたいなフーゾク場所に売り飛ばされているのがお礼で、これまた旗本一味のエロエロ中年男にネラわれているんである。
なんか、なんつーか、ロマポルでも見ているような気分。おっぱいぽろりで男たちの背中を流す(そしてその後が当然あるのであろう)女たちが、背後にウロウロしている。妙に顔やおっぱいをぼんやりと遠目にしてあるあたりが、九ちゃんのエンタメ時代劇ミュージカルとして突破するため、という感じがするが、しかし結構挑戦的だよなぁ。
そう、ミュージカルと化してくると、もう九ちゃんの魅力大爆発になる訳。やっぱり、さすがだよなぁ、と思う!!その愛らしい笑顔、あばた肌さえ愛しい九ちゃんの歌声は、しかしのびやかでさわやかなセクシーささえもあって、ナンセンスなコメディであるのに、歌になった途端、なんか聞きほれちゃう。
そうかそうか、高窓は南田洋子、なのかぁ!!なんか若い頃過ぎて、全然ピンときてなかった!
彼女もまた、歌うし、なんたって高窓はその、ギャグかと思われるほどわっざとらしく高低差をつけた花魁言葉「ありんすなぁ〜」が最高!それが歌声につながっていくのが楽しいし、あい惚れ、吉原なのに、そういうエッチな雰囲気なく、本当に純愛なのもキュンとくる。
別れ際、高窓から請われて門の陰に隠れて再三チューするのがメッチャカワイイ。チューは見せない。九ちゃんの、乙女みたいにはねあげられた片足にそのタイミングが判るだけである。三回はしただろー、カワイイけど、想像すると結構、エッチだぞ!!
彼女の生き別れた妹を、ひょんなことから三五郎は引き当てる。もうこういう偶然の連続を、ご都合主義と言ってはいけない(爆)。
考えてみれば、三五郎は江戸に出てから定住を持たず、溺れた川で助けてくれた(でも有り金ふんだくられた(爆))、とっつぁんのところにずーっと居候していたんだよなあ。
その事情をよく聞くと、桃太郎よろしく川で拾い上げた幼い女の子が、お礼!そんなこと、あるかねぇ……(それを言ってはいけない!!)。
で、もう、高窓のためにも、そのとっつぁん夫婦のためにも当然、一肌脱ぐ決意の三五郎。
ところで、思い詰めたとっつぁんが辻斬りになろうとしたり(三五郎は伏線かよ!)、首をくくろうとしたらあばら家が倒れそうになったり(ドリフか!)、しんみりしそうなところを巧妙に笑いに変えていくあたりは、さすがといおうか。
コメディらしく、侠客と旗本が、お互い認知していない場所で、寒中我慢大会とか意味のないことやったりして笑わせつつ、しかしその中でこそシリアスな展開が進行する(お礼救出作戦)なのは重要と思うが、肝心の高窓との感動の再会シーンは、お互いイマイチ顔を覚えていない雰囲気で、これはワザとなのか、芝居の問題なのか??
三五郎はメッチャ感動してたけど、観客側はあれ、あれれ?と膝カックンされたような気分(爆)。名匠、マキノ作品だが、全編通して結構ハラハラしちゃうところがあるような。
なんか流れで、重要な人物を言い忘れていた。チラリと触れたが、高窓の、いわば家族の仇、沢庵禅師である。演じるは西村晃。後に黄門様を演じたとは信じられない濃厚な悪フェイス(失礼!)、しかも白髪というより金髪で、インパクト抜群。
しかし誰もが知っている徳の篤い禅師様、という設定と雰囲気バツグン。三五郎が権兵衛に出会った、橋の上でのケンカの時に仲裁したのが彼で、その時も沢庵をネタにしていた。
最後、親の仇だという高窓とお礼の姉妹をかわしたのも沢庵、あくまでそれは彼女たちの父親の早とちりだとして、しかしおわびとして長年研究した沢庵の漬け方レシピを伝授して進ぜようという結末。うーん、正直、なんじゃそりゃ!!そもそも姉妹に同情して沢庵禅師を成敗しようとしていた三五郎が真っ先に懐柔されているあたりが(爆。それでこそ九ちゃん……)。
ラストは禅師から頂いた沢庵が大ヒットし、高窓は三五郎と添い遂げ、お礼と共に漬物屋を切り盛りし、侠客も旗本も沢庵一本つかんで振り回しながら踊り歌うミュージカル大団円!ハッピーすぎだろ!★★★☆☆
松本清張自身が脚色、映画化に際して撮影台本というスタッフは増えるにしても、それだけ、これぞザ・松本清張、という作品なのだろう。そこはもしかしたら、映画の脚本家じゃないから、映画に際しては難しい部分はあったのかもしれない。
などと思うのは後から思い返すと本作って、ほとんどが裁判の場面と言ってもいい作りになっていて、フツーの裁判映画だってこんなに裁判の場面に時間を割かないんじゃないの、というほどのこだわりがそこにあって、そうなると、その一個の空間のみで展開されることに重きを置かれた脚本を、映画として面白くどう見せるか、っていうのは、きっと凄く……大変なんじゃないかと思ったから。
最初のうちはね、あら、随分裁判シーンだけで押していくな、という気持がちらりと芽生えたから持った印象なんだけど、終わってしまえばその場面こそが人間ドラマになるという手腕は、松本清張はもちろん、やはりここは、野村芳太郎という実力によるものなのだろう。
きっと松本清張もだからこそ、自ら脚本を書いてまで彼に任せたいと思ったのだろうし。
それにしても球磨子である。悪女、毒女、どんな言い方をもってしても言い足りないとんでもない女。それを演じる桃井かおりの凄まじさ!あの、ザ・桃井かおりの粘っこい口吻が、彼女を取り巻くすべての人たちをイラつかせるんである。
いや、彼女に参っちゃう情夫たちは別である。夫でさえ、情夫、と言いたくなっちゃう。まさに男好きのする女、なんである。
でも……後に証言台に立った、腐れ縁の元カレ、てかヒモであった豊崎(鹿賀丈史!!わっかい!!なんかアホっぽくてカワイイ!!さすがこの頃から変わらぬダンサー体形!)が言うように、いつも激情のままに生きてて、傷害事件でブチこまれたことさえあったし、ワガママでどうしようもない女といえばその通り。
でも、「保険金をかけて、計画を立てて殺すなんて、そんなことができるヤツじゃなかったんだよなあ」と彼が思い至ったのは、球磨子を担当する弁護士が、彼女がやっていないと私は思っている、と毅然と告げたから。
そう言われてみれば、球磨子は弁はたつけど根は単純で、男好きはするけど計算の上でたらし込むとかいうことが出来るタイプじゃない。それが出来てたら、上手く立ち回って、前科を重ねることなんてなかった訳で。
前科が相当数あって、ヒモの存在があって、となると、世間は当然、そーゆー色眼鏡で見る。でもでも、本当の悪女というものは、自身がそうだと悟られないように行動するもの、なんだよね。
結果的に球磨子は無実を与えられたけれど、同じように悪女だ毒女だと断じられて、人間的イメージで世間でも、あり得ないことに司法でも裁かれて、どうやら無実らしいのに、という案件がこの映画の後に発生していたことを考えると……。
球磨子の弁護を担当することになったのは、数々の弁護士に逃げられた球磨子が、国選弁護人として与えられた、本来は民事専門である女性弁護士、佐原であった。“本来は民事専門”というのは、現代ならいざ知らず、この時代にはまだ、まだまだ、女性弁護士というのが珍しく、刑事事件の依頼がなかなか来なかったんではないか、と推測されるんである。
今だって正直、女の弁護士かあ、みたいな世間の空気感は感じるし、女性の弁護士は、女性である柔らかさを武器にして、もしかしたら持っている自身の冷徹さや闘争心は封印しているような気もする。……いや、勝手な妄想。男社会に生きる女性は、時にそういう武装でのしあがっていくものだからさ。
しかして、まだまだ、どこか物語の中の存在である“女弁護士”は、期待通りの鉄の女っぷりをしかと見せてくれる。岩下志麻なんだから、完璧突き抜けて、君は1000%!(byカルロストシキ)と叫びたくなる。
少しだけ胸元を開けたブラウスで女らしさは出しているけれど、ひざ丈のかっちりとしたタイトスカートからのぞく筋肉質のふくらはぎに、ヒールをかっつんかっつんならして、ねばっこく、女くさい球磨子とアクリル板越しに接見するシークエンスの節目ごとの場面は、どれもこれも見ものである。
弁護士である佐原は当然、依頼人である球磨子が不利益にならないように、周到に準備しているのに、球磨子は打ち合わせしているにもかからわず、てゆーか、そんなの聞いちゃいないんだろうな(爆)、球磨子をあしざまに言う証人たちに食ってかかって、つかみかかって、時には退廷させられもしちゃう。
桃井かおり全開である。スゲー……。フィクションなのに、思わず岩下志麻に同情しちゃうぐらいなんである。
結果的に言えば、球磨子側に立って証言したのは、それも最初からそうだった人は、一人もいないんだよな。最終的には球磨子の側に立って証言した、彼女のヒモだった豊崎にしても、取材合戦だったマスコミの中の、地元新聞記者に、まあありていに言えば買収されて、テキトーに脚色してペラペラしゃべっちゃってたし。
その新聞記者というのが柄本明で、若い!というのもそうだが、なんか、今の彼の声じゃない、息子の声に似てる……とか思っちゃう。どっちと言われると、どっちかな(爆)佑君の方かな……。
この新聞記者の立ち位置も、今の時代から見るとかなり危険というか。松本清張氏は球磨子を無実の女として描き切ったのだから、とも思うけれども、映画作品を見る限りでは、結果的には無実になったけれど、それは運が良かっただけ。こんなヒドイ女は糾弾されてしかるべきだ、という感覚がかなり色濃く感じられて、ヒヤヒヤした。
しかもそれが、きっとリアルタイムでは当然の感覚で受け入れられていたんじゃないかと思われるから、余計である。
それこそ、確かに無実だったのだろうが、こんな女は冤罪でも有罪になって死ぬべきだ、ぐらいな、空気感。それは球磨子が最初から最後まで不遜な態度を崩さず、勿論無実だということはそうなんだけど、自身の生活態度というか、なんつーか……日本人ならどことなーくやってしまう、根回しというものが出来ないというか、そういう知識さえない人だったからに、他ならない。
そう考えれば、彼女になんら失点などある訳はない。自分は男に請われたからここに来たんだ。この男が自分の人生を保障してくれないのだったら保険をかけるのは当然だ、という言葉にイラッときても、そこにはなんら、失点は確かにないのだ……ああ!
もしかしたら本作を、アメリカあたりの観客に見せたら、オーノー!彼女のどこに悪いところがあるの?悪いのは男であり、旧態依然とした周囲なんじゃないの??と、言うかもしれない……。
だってなんたって、彼女にメロメロになっちゃった夫は、資産家のおぼっちゃんで家族を説得しきれなくて、もう共に死ぬしかない、なんて、それは愛しているんだ、彼女を守り切るんだ、という思想からは正反対にある訳で。
そうか……もしかしたら現代では、見方は変わるかもしれない。こういう、絵に描いたような資産家のお坊ちゃん、まるで童貞かというぐらいに女に慣れていなくて、東京のキャバレーですっかり骨抜きにされる、なんて、今では成立しない設定かもしれない。
仲谷昇扮するこのおぼっちゃん、福太郎(いかにもお坊ちゃん的な名前だ……白河福太郎とは。)が、これまたもーほんと……。奥さんと死別して7年、7年童貞、だったんだろうな、ホント。
一粒種の一人息子は、当然というべきか、球磨子と折り合いがつかず、てゆーか、この一族が一人息子を案じて、父親とも離して暮らさせている。球磨子を嫌いぬいている親族はことあるごとに福太郎に、あの女をどうにかせいと、糾弾していたのだから、言ってみれば彼らこそが、福太郎を追い詰め、心中という手段を択ばせたのかもしれないとも言える。
あまりにも球磨子が判りやすく悪女だから、演じる桃井かおりがまたそれをかんっぺきに体現するから、劇中のマスコミがまず彼女を100%クロだと責め立て、そして観客もなんてヤな女!!とか思うのだが……よーく、落ち着いて考えてみると、この大元の事件が、心中だったということを考えるとさ……彼は、ふがいない自分をこそ、思ったわけでしょ??
息子に当てた手紙には、球磨子への愛と自責にかこつけた心中の理由を書き連ねていて、だからこそそれまで以上に息子は球磨子への憎しみを募らせ、この“証拠”を握りつぶそうとしたけれど、つまり結局……。
結局結局、人間の良心はこうあるべきだとか、妻や母親はこうあるべきだとか、そういう範疇からロケットのごとく外れていた球磨子を、親族のみならず世間も糾弾し、その結果、追い詰められるのは球磨子ではなく、そんな彼女を理解していた男の方だったとは、なんという皮肉というか、これを世間の未成熟というのさえ、現代においてもはばかられるのこそが、問題なんだろうか。
それを際立たせるために、被告人桃井かおりと弁護士岩下志麻は、180度どころじゃないぐらい、ねじれて宇宙空間に飛んでっちゃうぐらい、真反対以上、なんである。同じ女であるのが不思議なぐらい。いわば、マンガチックなぐらいの定型を二人に課しているけれど、この役柄を交換するのは、ぜえったいにあり得ない。
今の女優さんだったら、ここまでのそのイメージというか、おのおのに期待されるキャラクターが違うというのは、なかなかないんではないかと思う。イメージと違う役に挑戦、とかいうのが、この桃井かおりと岩下志麻ではありえないし、だからこそ強力に過ぎるのだ。
球磨子はめちゃくちゃ女くさくて、男を渡り歩いたけれど、子供を持つことはなかった。佐原弁護士はバツイチ、月に一度は娘に会えていたけれど、元夫の再婚相手から、理不尽は承知だけれど、今後の私たち家族のために、もう娘とは会ってくれるなと通告され、絶句する。
……結婚や子供の有無で女の幸せをうんぬんするのは、ほんっとうに、私はキライだし、バカにすんなって、思う。だって同じ条件で、男性側にはそういう描写を見たことがほとんどないもの。
でも……本作の中で何より、心打たれたというか、やっぱり見逃せないというか、だったのは、やっぱりやっぱり、女としてどう生きるべき、どういう立場で生きるべきという、その部分だったのだ。
佐原弁護士が、すべてを論破したあの鉄の女が、夫の再婚相手であるつつましやかな美女(そらーそうだ、真野響子じゃそらーそうだ)から決死の覚悟で言われて絶句する、家庭を持って、自分がそれを差配すると決心した女に、娘に会う権利を持っている筈なのに、結局自分一人で生きていく覚悟を決めた女は、覚悟を決めているのにこんなにも弱い、なんて。
裁判で球磨子は勝ち、意気揚々と佐原弁護士を勤めてるキャバレーと思しき場所に招待する。でも保険金が取れなかったのよ。心中ってことになったからサ。しくじったわね、とかもう、言いたい放題。
佐原はいつも冷静に球磨子のムチャさを、不利益になるんだからといさめていたし、つまり仕事として冷静に対応していたんだけれど、この最後の最後では、赤ワインのかけあいの修羅場になる。そうか、だからこんな不自然な白のツーピースだったのかと(爆)。
これは1982年の映画。そうか、私はもう、10歳だったのかと思う。ひょっとしたら、子供だった当時の私が見ていたら、球磨子にこそ、影響を受けていたかもと思ったりする。今やフェミニズム野郎だからさ(爆)。基本的な考え方は、私、球磨子と同じかもしれない……。
「オニクマ(旧姓鬼塚)ってサイテーだよね」と笑い飛ばす球磨子に、法廷で自分の不利益になることも考えずに、自分の正義を通そうとくってかかる球磨子に、桃井かおり氏の魅力というのは当然そうなんだけど、それ以上に、どうしようも抗いがたい魅力を感じずにはいられなかったのだ。
もちろん、岩下志麻の演じる鉄の女も、この時代にはなかなかに受け入れがたい女性像だっただろうが、それが判っているから、佐原弁護士は殊更に武装していたってことが判っちゃうから。
それを球磨子は全然してないってことが、もうクヤシー!!というか、それで世間に立ち向かう鋼のような強さが、あり得ないっていうかさ……。
なんか、女の強さに打たれて、ミステリーの謎解きをすっ飛ばしてしまったが、まあいいや(爆)。かんっぜんにゲストでチョイ出演の丹波哲郎氏や森田健作氏のテキトー登場が面白かったりして。
とにかく、球磨子は無罪で、夫は妻を抱え切れる度量がなくて心中を失敗、それを有能な佐原弁護士に見破られたと。
ラストは不敵な笑みをたたえて、どことなく旅立っていく、くわえタバコの球磨子=桃井かおり。くーッ!めっちゃムカつく女だけど、カッコ良すぎだろ!!★★★★★