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「て」


2019年鑑賞作品

天気の子
2019年 114分 日本 カラー
監督:新海誠 脚本:新海誠
撮影:津田涼介 音楽:RADWIMPS
声の出演:醍醐虎汰朗 森七菜 本田翼 吉柳咲良 平泉成 梶裕貴 倍賞千恵子 小栗旬 神木隆之介 上白石萌音 谷花音 成田凌 悠木碧 花澤香菜 佐倉綾音市ノ瀬加那 木村良平


2019/8/17/土 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
それまでは素直な気持ちで見れていたのに、やはりあの爆発ヒットがあっては、「君の名は。」を境にして、その感覚が失われてしまうのは、作り手にとってはもちろん、ファンにとっても決して幸せなことではなかろう。
いや、多分、監督自体はそうした意識はないのだろうと思う。売り方が劇的に変わっただけで、彼のクリエイティビティは変わっていないのだろうと思う。

「君の名は。」でそれが変わったように思ったのは、今振り返ってみれば、単に売り方が変わっただけのようにも確かに思えるのだ。他の作家にはまねのできない圧倒的な光の美しさが、より大量に降り注ぐようになったぐらいの差異であるかもしれない。
夜の中の光から、朝や昼日中の光になったようにも思う。明るい中の光は、そりゃあより難しいに決まってる。そしてそれがより美しく表現された時、その光に託す物語をどう構築していくのか。

そう考えると、自分的にはかなり驚いた、もう太陽の光が届かなくなってしまった世界、に結果を持ってくるというのは、新海監督=光の表現とその美しさに、なんていうか、自分で自分に挑戦状をたたきつけるような激しさがあったと思う。
「君の名は。」から3年も経っているのか、と思うと今思ってもあの前作のロングビッグヒットのインパクトは凄まじいのだが、そこから三年たってのこの公開時期の状態をまるで予測したような、豪雨被害や酷暑の異常気象の今、……まあそれは、ここまでの数年でじわじわと、ひどくなっていった感はあるにしても……まるでドンピシャで、ちょっと怖いように思う。

結果的にはかなりのファンタジー要素(というか、神がかり的要素)を入れているし、それは「君の名は。」からも通じるところではあるんだけれど、もしかしたら突っ込まれるかもしれない、現実的な要素をあえて排除しているような感覚もある。
主人公の一人、帆高は離島から船に乗って東京へと家出してくる。その理由は、彼自身の中には熱く渦巻いているのだが、具体的に観客に伝わることはない。ヘタすれば、まるであいまいに、今この東京という大都会に無謀にも出てきたという印象を与えかねない。

なのにそれを感じさせないのは、彼が、なぜ帰りたくないと思っているのか判らないけれどその決心が、「東京って、こえぇ」という台詞を何度も吐かせるほどに辛い目に遭っているのに、いっかな揺るがない描写を繰り返させることで見事にその疑念を排除させてしまっているからか。

しまっている、などと書いてしまったのは、後から考えるとヤハリ、不思議だなと思うからなのだ。彼には家族のかげがまるで見えない。それは、幼い弟と二人で暮らしている陽菜と比較すると余計にそう感じる。
冒頭に余命いくばくもない母親の手を握っている陽菜の描写から始まる物語であり、困りきった帆高を助けてくれる極貧編集者の須賀は、気楽な独身生活のように見えて、死別した奥さんとの間に産まれた愛娘を引き取れずにいて、苦しんでいる。

そこここに、家族の、それも喪失した家族の愛の濃厚さが満ち満ちているのに、帆高だけにそれがないのが……これは絶対に、確信犯だろうなと思ってしまう。勿論、家出したんだから、親御さんからは捜索願が出ている。でもそれが、どういう想いで出されているのかも判らない、まるで、記号的なのだ。
あれだけ強烈な決心の描写を連ねながらも彼自身の葛藤の明確な理由が示されないまま、この東京という場所にとどまり続けるのは、陽菜と出会うため、この世界を変える、いや、変えて“しまう”ため、運命に呼ばれたのだと思うしかない。

言い忘れたけど、最初っから思いっきりオチバレしちゃったけど(爆)。そして大分脱線したけど(爆爆)、帆高の家出の理由の曖昧さ以上に、中学生の陽菜と小学生の弟、凪の二人暮らしが、一応児童福祉士の訪問を受けている描写はあるとしても、それ以前に成立してしまっている、というのも、ヘタしたらかなりのツッコミどころであると思う。
帆高には3歳も上にサバ読んでお姉さんぶっていたし、そうでなければバイトもろくに出来ない、帆高との出会いは彼女のバイト先のマックだったけど、二度目は風俗のバイトに足を踏み入れんとしたところを、帆高が助け出したのであった。しかして陽菜はまだこの時中学生なのである。

まー、普通に考えたら、まず親戚をたらいまわし(という表現はいかにも昭和だが)がないにしても、義務教育の彼女だったら行政側から手を回されて、こんな状態が成立する訳ないよなと思ってしまう。でもそれも、彼女が3歳のサバを突き通していることと、先述した帆高の事例と並列に語られることによって、なんだか納得させられてしまう。
途中までは割と現実的な描写で進むから危ういところもあるんだけれど、……なんたって、晴れ女が世界を救う人柱になる、というキモに突入するんだから、そうした現実的なツッコミがヤボになるというか、無用になるというか、お前そこでそんなこと言ってくるか、という雰囲気になっちゃう。

晴れ女とか雨男とかいうのは、日本以外にはあるのだろうか、と思ったりする。劇中、これは実際の場所なのか判らないけど(すみません、調べる根性がなくて……)、そうした巫女的存在が、いにしえの日本にはあった、と、古い天井画を示しながら熱弁するおじいちゃんの描写がある。
この時帆高は、船で出会ったアヤシゲテキトーな編集者の須賀の元で働きだして、怪奇雑誌の下請け記事の取材に赴いている訳である。

新海作品に限らず、日本のアニメーションは、こうした神的、神話的、因果応報とか、そういう物語が好きな傾向があるように思う。陽菜は圧倒的な晴れ女で、それは多分、神的なものを彼女自身が持っていて。
この狂ってしまった東京(地球、かもしれない)が雨に降り込められるのは必然だったのに、そこに人々の希望を見出せる力を神様から頂いちゃって、それは……ほんのちょっと、希望を振りまくだけでよかったのかもしれないのに、口に糊するためにネットに出したら、思いがけず引っ張りだこになっちゃって。

陽菜がその能力を身に着けたのは、余命いくばくもない母親と、もう一度お日様の下歩きたいと、廃ビルの上の小さな鳥居にお祈りした時の、一瞬の晴れ間ののちに上空に吹きあげられた、不思議な夢のような体験の後であった。
私、晴れ女なんだよ、と帆高に証明して以降、仕事であちこちに駆り出されるうちに、「空とつながっちゃった」身体が次第に透明になっていく、つまりこの世での生命が失われていく事態になる。

相手の病気やけがを治す能力がある代わりに、自分の生命を削っていって、結果死んでしまう、というエピソードを読んだ覚えがある。思春期に読んだこともあって、ことあるごとにそれを思い出す。ギブアンドテイクどころか、ギブギブギブだと。
それは……とても宗教的犠牲の精神で、しかしそれに私たちはあっさりとお金という対価を払えばテイクだと思っている、という非常なる警鐘であったと、大人になってずいぶん経って、痛切に思うんである。

帆高がバイトする編集部で追っているカルト記事で、この異常気象を収めるための晴れ女は、結果人柱になるのだと、取材中、そんな結論に至る。
それを受けたのは須賀の姪で、なんつーか不二子ちゃん的なセクシーお姉さんで、思春期の帆高にそーゆー意味で大いなる影響を与える女子なんである。
声が本田翼ちゃんだったって??へーっ!全然そんな感じ(いい意味で!)しなかった!セクシーで素敵なお声だったわ。

人柱、だなんて、久しぶりに聞いたワードだったが、そのワード自体を久しぶりに聞いただけで、今の世の中、結果的にはそういうことになっているのに、それに気づかず、当然のように、そしてなのに改善もされずに続いていく現実があるように思う。
うーん……上手く言えないけど、例えば、いじめで自殺者が出ても、それを人柱として生かせず(よくない表現であることは判ってる)、それ以降も延々と続く。

陽菜は結果的に人柱にはならず、帆高が、リアル現実から勇気と情熱でファンタジーワールドへと突っ切って、世界よりも君が大事だと絶叫して、連れ戻す。結果、世界は太陽の光が差さない雨に埋め尽くされる。
そうなることを陽菜は恐れていたし、だから自分の運命はそっちなんじゃないかと思っていたし、帆高も半信半疑ながら、その先行きを予測していて……自分たちが世界を変えた、変えてしまった、と、想うに至る。
もんのすごい展開。10代の男の子と女の子二人が、世界の運命を変えるか否かで悩んで、自分のそれさえも諦めかけるなんて。

深読みすれば、いかようにだって壮大な深読みは出来ると思う。生きていくのはそれだけの覚悟が必要だとか、他人の痛みをそれだけ思わなければならないとか。ここで何を読み取るかは、かなり難しい。
でも、やはりやはり、それまでもそれだけは失われなかったように、これは10代の男の子と女の子の、たまらない、青春の物語だと思う。

陽菜は帆高に、もうすぐ18歳だとウソをついた。女の子の方が先に大人っぽくなることを差し引いても、帆高は「とてもそう見えない!!」と最初から思っていたんだから、陽菜は年相応の中、必死に戦っていたんだろう。
でも、すっかりオバチャンになったこちとらからすれば、3歳差なんてなきも同然、でも確かに、確かに……ティーンエイジャーの頃は、その差が永遠のように遠く、年上か年下かが、頼れるか頼られるか、甘えるか甘えられるかの差であり……。

陽菜の手料理を頂いたり、なんたって弟と二人暮らしで奮闘している陽菜は、家出少年である帆高にとってまぶしい存在、だったのに、結果的に彼女が年齢を偽って、自分より年下だと知って……陽菜の弟のモテモテ小学生凪をセンパイ、なんて言っていたことも手伝って「オレが一番年上じゃねえかよ」と愕然として号泣する帆高の姿が、すごく、刺さるんだよね……。
たった3歳差だよ。そんなの、40や50になったら、なきに等しい。でも……この時にはそれが、ものすごく、大きく、頼られるべきだったのに頼ってしまったという、そして失ってしまったという……。

帆高は、偶然捨てられた拳銃を拾っちゃって、それで事態がややこしくなって、お尋ね者になっちゃったりして、コトが全部終わって、保護観察処分を三年もくらっちゃう。だから、陽菜と再会できるのは、高校卒業を待つんである。
そうか……高校1年生だったんだよね。この3年は大きい。そして再び訪れる東京は、あの時から3年間、ずーーーーっと、雨に降り込められている。これで良かったのかと帆高はきっと思い続け、陽菜に会いたいと思っていても、恐れている。

須賀が、いいんだよね。再会した須賀は、それまではかなりテキトーな編集会社だったのが、きちんとこぎれいなオフィスを立ち上げている。帆高が拾った子猫も、でっぷりと太ってニャーニャーと迎える。
お前たちが世界を変えてしまったって??うぬぼれるなよ。もともと世界は狂ってたんだ、といつもの仏頂面で言う須賀がステキである。一人の力で世界を変えられるなんて思うなと。
……変えてしまったのかもしれないとは思うけれど、大人として、これは子供に伝えるべき言葉だ。いい意味で自分の身の丈を考えろ。いい意味で。そのあんばいを学べと。

二人が決死に手を取り合って空を舞う描写に、ラピュタを思い出したが、考えてみれば私はラピュタちゃんと観てないんだよな。アレレ。★★★☆☆


天然☆生活
2018年 96分 日本 カラー
監督:永山正史 脚本:鈴木由理子 永山正史
撮影:神野誉晃 音楽:Eriya Ishikawa
出演:川瀬陽太 津田寛治 谷川昭一朗 鶴忠博 三枝奈都紀 秋枝一愛 岡田亜矢 関口篤 はやしだみき 百元夏繪 才藤了介 諏訪瑞樹 木村知貴 満利江 湯舟すぴか 長尾卓磨

2019/4/1/月 劇場(新宿K's cinema/レイト)
いやー、なんつーか、ビックリした。なんだこれ(笑。いやいい意味で……いい意味って、なんだろう??)。
後半手前までは田舎の実情とそれに無責任に憧れるナチュラル系家族の攻防とか、なんか啓発的な雰囲気もあったのに、いきなり後半スプラッタ!そして光輝く神様!!えーっ!!どーゆーこと!

……いやいや、深く考えるのは、やめておこう(及び腰)。なんつっても、川瀬陽太氏が主人公だとゆーので、足を運んだようなもの。
しっかし彼はまー、働くね。今一番働いている役者じゃないかと思っちゃうぐらい。主人公というのはなかなかお目にかかれないので……とか言いながら、こないだから立て続けだった。来たか、来たか、時代が。いやもう、ドラマとかではブレイクしてるの?見ないから知らないもんだから。

川瀬氏が扮するのは、なんとまぁかやぶき屋根の大きな一軒家で、伯父を介護しながら暮らしている無職の独身男、タカシ。いかにも、うらぶれている。
のどかな田舎の風景に冗談みたいに広々としているかやぶきの一軒家だから忘れそうになるが、まぁ確かに、彼はニート、ということなんだろうと思う。ボケ気味の伯父にどなられながら車で伯母のところに車を運転して送り届けたりはするが、それ以外は基本、この大きなかやぶき屋根の家でじっとしている。
この広々とした田舎に知り合いは幼なじみの雑貨屋(ほとんど開店休業。しなびたキャベツとか売ってる)のショウぐらいなもの。

しかして伯父がついにいけなくなって、その息子、つまりタカシのイトコであるミツアキが帰ってくる。彼の実家に居候しているということもあろうが、なんか彼には頭が上がらないというか、おどおどとした態度をとるタカシ。
ミツアキがほっといた父親を、息子でもない、甥であるタカシが介護していたという事実はその通りで、親戚たちもタカシをほめたたえるが、ミツアキは当たり散らす。俺だってそうしたかったと。なんだお前、偉そうに、と、不遜な態度アリアリで。
なんでタカシ、こんなこと言われても怒らないで、むしろ謝ってるの、と思うが、つまりタカシは行くところがないから、家族もないし職もないから、伯父の介護を引き受けたのであって、ここを追い出されたら、生きるか死ぬかの瀬戸際なのであった。

いやー、川瀬氏のこーゆーうらぶれリアリティは、他の追随を許さない。タカシに関してはここまでどういう人生を送って来たかとか、独り身であることも職がないことも、それまでの経過は全く明確にされないんだけれど、彼の風貌一発で、さもありなんと思わせちゃうんである。
今まで、きっと、特になんにもなしにここまでたどり着いちゃったんだろう、とでもいうような。だから人生の先達という態度をミツアキからとられると何も言えなくなっちゃうし、周りから介護のことを褒められてもいえいえ、そんなそんな……とどこか逃げ回るように言うばかりなのだ。

幼なじみのショウはかなり強烈で、ああ、やっぱり奄美の人なんだ。訛りがね、そうじゃないかと思ったが、ここは絶対、奄美じゃなさそうだし……そーゆー、テキトーさがいいんだけど(爆)。
彼もまた、冴えない雑貨屋で食い詰めていて(そらー、しなびた野菜にガラガラの陳列棚じゃ、郊外のスーパーにかなう訳ない……)、タカシに便乗してミツアキの経営する釣り堀で働かせてもらうことになる。

つーか、それまでは伯母さん(ミツアキの姉かな?)が切り盛りしていたところに、ミツアキが、まぁつまり、離婚してね、実家に戻って来たって訳。結局ミツアキは虚勢を張っているだけで、人手が足りないからなんていうのはきっと言い訳で、寂しいから、二人を雇い入れたんじゃないかと思う。だってめっちゃヒマそうだもん、あの釣り堀(爆)。
いっときこの三人は、まるで小学生時代に戻ったかのように、楽し気に日々を過ごす。子供の頃捕まえたカメが大きくなっているのに驚いたり、ビーチボールに興じたり、リモコンでモータージェットを走らせたり、本当に、子供みたい!!
いいおっさんなのだが(爆。だって50は超えてる……)ほほえましく見てしまう、が、だからこそ、このままじゃ済まないのは予測できる訳で。

外来種。言い得て妙、である。外から来た、オシャレなナチュラリスト家族を、タカシは結果的にそう罵倒するんである。その前に、その家族の、夫が、タカシたちが子供の頃に捕まえてショウが大きく育てたカメを、これは外来種だと、始末すべきだと言って、本当に踏み殺してしまうという戦慄の場面があって、そのエピソードを受けての言葉なのだが……。
うーむ、先走ってしまったな。このナチュラリスト夫がツダカンで、なんつーか、いわば彼一人がメジャー系なのでドキドキとしてしまうが、最終的に顔爆発しちゃうからホント驚くし。いや、もう、それを今言っちゃってどうする。動揺しているな、私(汗汗)。

この、外来種家族は、本当に恐ろしい。雑誌から抜け出たようなとはよく言ったもので、それがいかにニセモノ臭ぷんぷんとしているか、判るってもんである。
無印良品でそろえたような生成りファッション、古民家でカフェをやるのが夢なんです、と開口一番、タカシがだらだら暮らしているかやぶき一軒家に狙いを定めて勝手におさんどんに入り込む厚顔無恥さに、タカシと同じように恐怖を感じるんである。

タカシはここで全然、ナチュラリストな生活なんてしてない。寝て起きて、カップ麺をすするだけの生活である。当然このナチュラリスト家族は、完璧なナチュラリスト料理を作り、それをミツアキにふるまって彼を懐柔してしまう。
あのかやぶき一軒家を、借りられないだろうかと。しかもなんかワケアリな女子を使って、色仕掛けまでさせて!!

……いや、アカラサマなアレはなかったけれども、このワケアリ女子が一体どういうバックグラウンドを経てこーゆーことになったのかは、ちょっと気になるところなのだが……ちょっとナチュラリスト妻に洗脳というか、脅しに近いものをかけられてる感じ、だよね??
いや、このナチュラリスト妻は夫に対してもそういう感じがあって……なんか、なんか、人形がパカッと笑っているような、急に人形に戻るような、凄い、コワいのよ!!見た目は木村佳乃風の美女なのだが……。

なんか最初からのこの家族の作り物感はヘンだったが、それはこの妻が支配していたものだったのだ。娘は最初から、アイソもヘタで、この家族にヘキエキしているのはアリアリだった。むしろ、それを見抜いていた筈のタカシが彼女に陥れられちゃうのが意外なぐらい。
なんつーか、こういうこと言うとアレなんだけど、古民家カフェっていうのって……地方再生の鍵みたいな、そしてオシャレみたいな、感じでブーム的に聞くけど、改めてこうして突き付けられると、なんてうさんくさいのと(爆爆)。いやその……大抵のところはそんな、ちゃんとしているんだろうけれど(爆爆)。

夫はかなり早めにその正体を露呈する。それは妻を愛しているからだろう……ていうか、妻を愛しているのに、きっと妻は夫を愛していないからだろう。
妻、宇宙人みたいなんだもん。怖いんだもん(涙)。妻がスクール水着で夫とセックスする場面があるが、なんつーか、夫がいかにも調教されてるっつーか、つまりこういう幼い性欲というか、ツダカン!!!

ここに至るまでには、タカシはこの一家にかなり追い詰められていて、てゆーのもミツアキがすっかり取り込まれちゃってるからなんだけど、必死に抵抗して、立てこもって、しかし油断したのが娘、なんである。
するりと入ってきて、いかにも両親と私は関係ないから、というクールないでたちで、カップ麺食べてみたかったんだ、と無造作にタカシの備蓄をすする。

しかしひと口だけで去って行ったことにおかしいと感ずるべきだったのだ。彼女はタカシにいたずらされそうになったと触れ回り、タカシはこの閉鎖的社会から追放されてしまうのである。
誰もがこのいたいけ、に見える少女の方を信じてしまう。伯父の介護を続けて信頼を得ていた筈のタカシはあっさり追放されてしまう。

でも後に、“神様”となった彼に対して言うように、彼女からしてみれば「追い出してやったのに」という、本当に親切心だったのかもしれない。
苦々し気にいうその口吻はまるでクサいオッサンを嫌悪するようにも聞こえるけれど……うーん、そのあたりが、本当に女の子心の判らないところ!!

でもさ、結局、タカシは死んでしまった、んでしょ??この展開の飛躍も、本当に驚く。追われたタカシがたどりついた、バックに高層ビルの夜景が見える場所は、東京か大阪か横浜か名古屋か……判らないけれど、きっと大都会で、そこで彼は、ナワバリを知らずに荒らしてしまって、同業のホームレスおっちゃんに、まぁその、殺されてしまって、で、で、……神様に、なるんである!!
……ここまでウッカリ言い忘れてたが、タカシはボンゴを手放さず、いつも叩いては歌って、それが彼の、きっと、心のやすらぎ、なんである。「見上げてごらん夜の星を」とか「バラが咲いた」とか、数々の昭和歌謡の名曲が、彼のボンゴから仲間の合唱から、バックの演奏が追加されて、何か、妙にセンチメンタルに歌い上げられるんである。

ボンゴ、ってのがねぇ。私、大好きな「ヒモのひろし」を思い出しちゃう。平沢里菜子嬢が持ち歩いて……たのは、ボンゴじゃなくて、ジャンベだったか!でも似たようなもんでしょ(爆)。叩いては歌って、そこに、その都度刹那的ではあるけれど、仲間たちが集うのだ。

そのボンゴが、ホームレスのおっちゃんにブチ破られたのが、だから凄く……本当に、殺されたがごとく、胸に刺さって。実際、タカシはまるで、ボンゴと共に死んでしまったかのように、しかしその後、光り輝く神様になって(!!!)、小さないさかいをしている人間たちを、一人ひとり、照らしていくんである。
この時点でナンダコレだが(爆)、田舎に凱旋?して、まるで復讐するかのようにナチュラリスト家族を襲い、なんとまぁ、夫の顔をズルむけにして殺し(マジか!!うっわ、ツダカン!!!)、ショウとミツアキのそばはただすーっと通り過ぎていくという(爆)。うーむ、なんだか判らんが、とにかく凄い。凄いものを見てしまったかも。 ★★★☆☆


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