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「ひ」


2006年鑑賞作品

ピーナッツ
2005年 115分 日本 カラー
監督:内村光良 脚本:内村光良 益子昌一
撮影:谷川創平 音楽:ロケットマン 梅堀淳
出演:内村光良 三村マサカズ 大竹一樹 ゴルゴ松本 レッド吉田 ふかわりょう 佐藤めぐみ 桜井幸子 ベンガル 入江雅人 ウド鈴木 有田哲平 中島知子 中島ひろ子 小木茂光 松村雄基 竹中直人 原田泰造


2006/1/30/月 劇場(渋谷Q−AXシネマ)
これに関しては、もうもうもう、完全にウッチャンファンの気持ちで書いちゃうのを許してね。ま、いつもそんな感じか(爆)。
でも、もうとにかく、嬉しいんだもん!ま、今はすっかり大泉さんに陥落している私だけど、やっぱりずっとウッチャン好きだったからさあ。ウッチャンが映画好きだっていうのが自分との共通点みたいで嬉しくて、彼の監督作を、本当に、20年近く待ってたわけだもの。もう、本当に待ち望んだよ。
それに「恋人はスナイパー」で演出補佐をやったと聞いてから、ああ、ついに段階を踏んできた、次こそ単独演出の時なんだってドキドキしてた。それにその主演の彼の演技が予想に反して素晴らしくて……それまでコントやドラマで見せていたテレ気味の演技と全然違ってたから、ああ、やっぱり映画になると本気になるんだって(コントやドラマが本気じゃないというわけじゃないんだけど)、よっしゃ主演映画は叶えた、次は監督作品だってずっと待ってたんだ。
映画を観終わってオフィシャルサイトをつらつら見てると、このサイトに寄せて書いてたり、インタビューに答えてたり、撮影中の写真であったり、が、いやあ、ウッチャン、監督だよ、本当に……もう嬉しい。あー、やっぱりやっぱりイイ男なんだよなあ、ウッチャンはさあ、ともう一人でニコニコしてしまう。

「内村プロデュース」の番組の延長でもなんでもいい。スクリーンにまず出てくる「teruyoshi uchimura film」に震えてしまう。ああ、ついにこの時が来たんだ……と。でもこの、内Pの企画モンだから、などと思っていたのもあっという間に吹っ飛ばされる。そりゃあの番組の芸人さんたち総出演だし、パッケージとしてそういう趣は色濃くあるんだけど、役者としての彼らがそりゃあもう、素晴らしいんだもん。これにはビックリ。
なんていうの、語弊があるかもしれないけど、普通に上手い。まるで期待していない、どころか大丈夫かなって心配していたぐらいだったのに。誰もヘタな人がいない。凄いことに、ゲスト出演的に出てくるウドちゃんまでもが浮いてない。どうやらウドちゃんはウッチャンに「なんでオレに声かけてくれないんですか!」と直談判したらしいけど(目に浮かぶなあ……)スポーツ店でウッチャンに絡むという、ホントコント的な役割にもかかわらずしっかり笑わせはするけどキッチリ演じているのにはちょっとビックリしてしまった。

ホントに、皆上手いのよ。ウッチャンの次にメインを張る酒屋の若旦那、三村氏も(なんかホントにこういう酒屋の店主、いそう)、一人恋する青年のふかわ氏も(CD屋の店長って所が彼の音楽好きにピタシ)、外見がまんまのチンピラ役がピタシの大竹氏も(これはベタにピタシ)、割烹居酒屋の板前兼店主、ゴルゴ氏も(外国人の奥さんがいて、純和風の生活してるとか、目からウロコのドンピシャ)、奥さん思いの保父さんのレッド氏も(優しげなガッチリが似合ってるー)、ホントに皆その街に住んでいるかのように、芸人臭さが消えている。
内Pから出発したって聞いて、ウッチャンが仲間達と楽しんで作った、って感じかと思ってたの。でも違うんだ。ついにきた映画制作のチャンスに、ウッチャンが仲間を信頼して作り上げたんだって感じ。だって一人一人の役へのキャラクターが、これは信頼しててよく知り合ってなきゃこんなにドンピシャにならないもん。彼らの演技の意外な達者さは、彼らをよく知るウッチャンがきちんと当て書きし、演出を施し、そんなウッチャンの期待に応えようとみんなが頑張ったからなんだってのをひしひしと感じるんだよね。……なんてことを考えるとなんかもうそれだけで泣けちゃうなあ。

物語は、一人の男がかつての故郷に帰ってきたところから始まる。彼の名は秋吉。ベスパ風のスクーターに丸いヘルメットとサングラスをかけて、のんびり走っているその姿は、「親愛なる日記」のナンニ・モレッティみたいなのどかさである。
野球をしている子供たちをまぶしげに見やる。飛んできたボールで胸の間を転がしたり、投げ上げてくるくるっと二回転してキャッチしたり、アクロバットなワザを一人で勝手にしてる彼を子供はアゼンとして見ていて、「あのお、ボール返してもらえますか」
こうした小ネタをマメに入れてくるあたりにウッチャンだよなあ……と思いつつ、このボールワザにはすごーい!カッコイイ!ともはやファンモードでキャーキャーと心の中で騒いじゃう。野球の練習シーンでもこんな魔法みたいなワザが次々繰り広げられ、背面キャッチはお手の物、側転キャッチなんてのまで見せ、試合シーンではベンチに一回転して飛び込むダイビングキャッチまで見せる。
かつての伝説のサードという役柄だからなんだけど、いやー、ウッチャン、マジでカッコイイんである。おっと、内村監督、とここでは言った方がいいんだろうなー。内村監督、はね、CGは絶対に使いたくない、と、野球シーンも全部ホンモノにこだわったっていうし、なんたってジャッキーにあこがれ続けたアクション俳優なんだから!全部自分でやってるに決まってるわけ。

おっと早くも脱線してしまった。だから物語を書いてたんだっけ。でね、この帰ってきた街っていうのが見事にさびれてるのだ。「キラキラ商店街」なんていう看板が既に薄汚れているのが物悲しい。彼が真っ先に訪ねた酒屋でも、かつてのチームメイト、相良は実にヒマそうに「野球やりてえなあー」とひとりごと言ってる。秋吉が在籍していた頃、彼らのチーム、ピーナッツは優勝も収め、全盛期だったのだ。でも今や9名にも足りず、練習試合も出来ないありさま。

あ、そういや一人忘れてた。チームメイトではなく、いつも外野からニヤニヤ笑いながら見物しているジャージ姿の有田氏!くりいむからは彼だけの抜擢で、いかにウッチャン、もとい内村監督が有田氏を気に入ってるかが判るんだよなあ。
この有田氏のキャラは、本当は彼らのチームに入りたくて、練習に合わせて自分も外野で素振りのカッコしてみたりアピールしてるんだけど、全然気づいてもらえなくて、目の前でメンバーが決まっていくのを「……ダメかー」みたいにガックリしているのがもう実にナイスなキャラなんだよね!役名、アゴ男爵て(笑)。もしかして一番ピタシだったのがこの有田氏だったかもしれないなあ。考えてみれば彼だけがハッキリとコメディリリーフであり、それを任せるあたりに監督の信頼を感じるのよね。

あー、また脱線しちゃった。戻す。秋吉は彼らとの日々を描いた「されど草野球」という原稿が認められて30にして上京、スポーツライターになった。相良は彼の出した二冊の本はもとより、深夜テレビでやってた座談会(だざんかい、とかザ、だんかいとか全然言えてない三村氏を、控えめに訂正するウッチャンという、らしいギャグが好きっ)なんてのも見ていたりして、秋吉のことをすんごい信奉してるが判るわけ。
ピーナッツがチーム崩壊の危機にあるのは、伝説のサードである秋吉が抜けたことが大きいんだろうと思うんだけど、彼にとっては秋吉はチームの、そして街の誇りであり、久しぶりに会えたことが本当に嬉しそうなのだ。で、この相良のこの態度は、チーム全員の気持ちを代弁してて、彼が帰ってきたから他のメンバーも集まってくるし、新しいチームメイトも決まり、ピーナッツは10年前の栄光を目指してまた復活するんである。

でも、秋吉が帰ってきたのには他に理由があった。彼らには、「野球、やりたくなってさ。仕事も一段落したし、長い休みでもとってこっちに住もうかな」なんて言うんだけど、実はこの一年、仕事もしていなかった。安宿に泊まり、バイト情報誌をめくる有り様である。草野球の本からスタートして数年、このあたりでメジャーを書きたい、と始めた仕事が上手くいかなかった。
というより、彼の編集者であり恋人の百合子が、その中に彼の心が宿ってないことを見抜いた。「メジャーなんてこだわらなくてもいいじゃない。あなたの書きたいと思うものを書けばいいのよ」
でも30からの遅咲きであり、彼女とのこともあるし、それに自分が何を書きたいのかも見失ってしまった秋吉は、呆然自失の一年間を過ごし、まるで逃げるように故郷に帰ってきたのだ。かつての仲間と野球をやろうとしたのはあくまでネタ探しに過ぎなかったのである。

ていうのをね、本気の気持ちで集まってきてくれた仲間たちに詫びるシーンが心に染みるんだよね。あ、ちょっとこのシーンはもっと話が展開してからなんだけど、まあいいや、書いちゃおう。
事態が、予想外に大きくなってしまったのだ。この寂れた街は再開発の計画があって、しかもその再開発を手がける建設会社は、大手の店子を入れて、商店街の店には補償金という名の手切れ金でこの街から追い出そうとしている。そのことに相良をはじめとした商店街に店を構える人たちも、商店街の組合長であるチームの監督も、みんな反対していた。
でも現時点で街はさびれていく一方だし、その補償金を元手にもっと大きな店で商売をするのも悪い話ではない、と思う人たちや、雇用が増えて街が活性化する、と思う人たちも出てきたのね。

あ、あのシーンを説明しようと思ったのになかなか到達できない(笑)。ま、ちょっと途中をはしょると、組合長はこの建設会社のチームと賭け試合をしようと独断で決めちゃったの。しかも社会人チームのトップにたつ強豪。大きなバクチだったけど、秋吉も帰ってきたし、このあたりでなにがしかの決着をつけなければならない、と思ったんだろう。
で、その話が来た時に、ああやっと、このシーンになるわけね。絶対ムリだと、そんな負けが決まってる試合なんかしたくないとチームメイトたちは言うんだけど、秋吉は、やってみないかと静かに言いそして……
「ごめん、オレ、この一年、仕事してないんだ。またみんなと野球やって、それを本に書こうかと思って戻ってきたんだ。みんなをダシに使ったんだ。本当に申し訳ない」そういって、畳に額をこすりつけて謝る……皆は何を言うことも出来ず、じっと黙り込んでしまう。

というシーンのウッチャンが、一番素晴らしく、それを迎え撃つ役者としての仲間たちもまた素晴らしく、ここは中盤のつなぎ目ともなる重要なシーンなんだけど、実にいい折り返し地点なのよね。そしてピーナッツはやってやれないことはない!とこの賭け試合に臨むことを決意、商店街をランニングしてると街のみんなも声をかけてくれて、応援されているという気持ち良さが彼らを鼓舞するんである。
このランニングのシーンは「監督ピーナッツ好きだからー!イチニ!ピーナッツ!」なんて、アメリカ映画でよくあるよね、こういうの。「愛と青春の旅立ち」だったっけ?それにチームの紅一点であり監督の愛娘のみゆきに「俺たちのテイタム・オニールになってよ」なんて言ったりして、やっぱりねーと思う。だってこの設定聞いた時、絶対「がんばれ!ベアーズ」だと思ったもん。
そんでもって町の再開発とか、ちょっと「ニューシネマ・パラダイス」っぽい空気もあり。それは結局古い町を捨て、再開発をのまなければならないという結果がね……(あ、オチ言っちゃった)。
でもそれが、ニューシネマ……のように、哀しげな懐古ではなく、自分たちの街を守るために戦って、負けても、新しく生まれ変わる町で、どっこい彼らはまた戦って生きて行くんだというのがスバラシイんである。

でもこの問題は確かに難しいよね。再開発して新しい街を作る、なんていうと、大体どこもかしこも似たようなピカピカした中規模都市になっちゃうんだもの。
でも、このままこの死んだような商店街のままでいたら、どんどんさびれていくばかりなのは目に見えている。
結局は屈する形になっても、上から押しつけられる変化を鵜呑みにするのではなく、その中で闘って、変化しても戦って、生きた自分たちの街を皆で育てていく、という結末がジンとするのだ。

だーかーらー!まだオチには早いんだって!それまでもいろいろあるのよ。特に大きいのは二つ。店をたたんだ文野(大竹氏)が借金取りに追われ、離婚した元妻からもソデにされ、ついにこの金貸し業者に乗り込んで捕まってしまうという……。
でもね、彼はパチンコの景品でもらったグローブを取り返しに、しかもピストルの形した水鉄砲で脅したに過ぎなくて、悪辣な金融業者だったこともあり、同情の声があがって情状酌量で解放されるんだけどね。
って展開がなんかウッチャンらしい優しさだな、とか思いつつ、でもここに至るまでが結構泣かせるというか……でスナックのママをしているこの元妻を演じているのが中島知子で、これもまたベタにピッタリなんだけど、金貸しにボコボコにされた彼が夜、このスナックのドアをドンドン叩いて、でも誰も出てこなくて、ズルズルとドアに背中を押しつけて座り込み、彼の顔がズームアップされる。目に涙を浮かべて無念の表情、大竹さんのこんな顔想像もつかなかったから、すんごいグッときた。うっそお、これがあの大竹さん!?すばらしかったなあ。

そしてもうひとつは乳がんの奥さんをかかえる赤岩(レッド吉田)である。彼は毎日奥さんを見舞ってるから練習にもなかなか来れない。しかも試合の日が彼女の手術の日に重なってしまう。
手術室につきそっていこうとする赤岩に彼女が言うのね。「私の手術に付き合って試合に行かないなんて、そんな赤岩君、全然かっこよくない」
赤岩君、って言い方がいいんだよねー。「私は大丈夫だから」と彼を送り出し、そんな彼女を呆然と見つめている彼に、後ろから看護婦さんが、奥さんから、と手渡した赤いバット。なるほど、秋吉がスポーツ店でウドちゃんから奪い取って買ったバットは、あかねさんから頼まれたもんだったんだ!そのからくりもわかって涙ダー!
でも彼女の言ったホームランは彼女の予想通り打てなかったけど(笑)。「あの時みたいにホームラン打ってよ」とか言いながらあかねさん、秋吉に対しては「打てるわけないのにね」と語ってフフフと笑うんである。

秋吉も、今は一円の稼ぎもないから、大変なのだ。みゆきに紹介されて住み込みで入ったのが宮本(ふかわりょう)が店長を勤めるCD屋である。ふかわ氏のご両親がまんま出演して、父親がろうろうとバイオリンを聞かせる場面が、かしこまって、固まって聞いているウッチャンが最高に可笑しいのだ!「音楽好きの一家なんですね」とか言いながら、もうやめてくれよ、と思っているのがバレバレで吹き出しちゃう。
しかもこの宮本は彼に対して「なんで彼女と別れたんですか」とか、「本当は仕事してないんじゃないんですか」と直球で聞いてきて「……豪速球だね」と彼をアゼンとさせるんである。しかも店でコキ使われている秋吉、一緒に寝泊まりしている宮本に対して普段も店長、と敬語で呼びかけるのがミョーに可笑しい。
あ、ところでね!ふかわ氏がロケットマン名義で音楽を担当してるんだよね。これには驚いた。いや彼がピアノ弾くってことぐらいは(しかも尋常じゃない腕前)知ってたけど、まさかこんな才能まであるなんて。オーケストラ使用の盛り上げ方に、こんなスコアまで書けてなんでこんな!?仕事してんの、とさえ思っちゃう。

そしてついに試合である。パトカーで送られてきた文野がみんなの前に駆け寄ってくる。「更生した」「もうかよ!」ここだけはサービスっぽくさまぁ〜ずだったな。ウケた。
あ、ところでこの送ってきてくれたおまわりさんは原田泰造だったんだけど、なぜ皆、原田泰造が出てくると笑う?でも私もなぜか笑っちゃう。警察官のカッコがなんかベタでコントに見えちゃうからかなあ。しかもやけにいい人なおまわりさんなんだもん。
明日出られますよ、と留置所の文野に声をかけてくれる。格子からグローブを受け取ろうとする彼の手から引っ込め、「明日ですよ」と微笑むのは小ネタだがちょっと心温まっちゃう。

そして試合。試合シーンの素晴らしさは言葉であらわすのはホント、難しいんだけど……決してパーフェクトなチームじゃない。特に宮本の野球センスのなさがチームを窮地に追い込んでしまうし、ここで逆転!というところでムリをしてしまった相良がコケてアウトになって負けちゃうし……。
町の命運がかかっていた試合だったけど、でもそれでも誰も責めないの。宮本がホレているみゆきに「カッコイイとこ見せようとするな!塁に出ることだけを考えろ!」と叱咤されて、バントで行くもアウトになっちゃうんだけど、彼女が親指立ててニッコリ笑ってくれるシーンは好きだったなあ。
かつてのエースで肩を壊してやめたはずの一鉄(ゴルゴ松本)がかつての豪速球を次々に投げて、「……俺ひょっとして肩壊してなかったんじゃないか」と心の中でつぶやくのにはおおまたしても小ネタッ!と笑いながらも、このあたりでは、その試合の空気だけで、もう私ずっと泣いてて、泣きながらニコニコしてて、客観的に見たらかなりブキミだったろうなあ。

そう、負けちゃうの。善戦空しく。でもね、試合後、観衆に向かって深々と頭を下げる彼らに、みんな暖かい拍手を送ってくれるのが、ベタなんだけどもう泣けちゃって泣けちゃって……特に、相良の幼い娘が、「お父さんカッコイイ」っていうのがねー!この子は試合前に手作りのリストバンド渡してくれて、もうその時点で私は涙ウルウルだったので、ベタなんだけど、ベタなんだけどと思いながらも涙ダー!である。あー、年とったな、私。

試合後、手紙は出したけど来てないと思っていた百合子が来ていた。チームメイトが遠巻きにニヤニヤ笑いながら見守る中、二人はあの頃と同じようにキャッチボールを始める。さわやかなエンディング。
そしてエンドクレジットはね、みんなのその後が描かれていて、再開発の中戦っていたり、子供が生まれたり、宮本が失恋したり(笑)、そして秋吉はこの試合を書いた「されど草野球」で復活、今はクリケットやカーリングといったマイナースポーツの取材に燃えている。こういうエンディングも映画好きのウッチャンらしくって、もう最後までニコニコしながら涙が止まらんのだー。

専門学校時代からの盟友、入江雅人氏の出演が嬉しかったなあ。しかもチョイ出ながらイイ役。彼の原稿を見い出し、今も心配してくれている編集長。彼はいい役者なんだよねー。もっと使われていいのになとホント思う。★★★★☆


ヒストリー・オブ・バイオレンスA HISTORY OF VIORENCE
2005年 96分 アメリカ カラー
監督:デイヴィッド・クローネンバーグ 脚本:ジョシュ・オルソン
撮影:ピーター・サシツキー 音楽:ハワード・ショア
出演:ヴィゴ・モーテンセン/マリア・ベロ/エド・ハリス/ウィリアム・ハート/アシュトン・ホームズ/ハイディ・ヘイズ/スティーヴン・マクハティ/グレッグ・ブリック

2006/3/24/金 劇場(東銀座 東劇)
いい意味で、クローネンバーグらしさから距離をおいている作品って感じ。前作「スパイダー」で、あ、なんか見た目からしてそのらしさから離れちゃったな、と思ったんだけど、この作品はもともと企画・制作・脚本までが出来上がった段階でのクローネンバーグの参画だったというから、いい意味で距離があいている。
そして、それまで彼の中で培われてきたグロテスクさというのも、それが基盤にあった上でそうでないものを作った時の、秘められた面白さが今回は出てきたように思う。前作はちょっと違和感を感じていた、彼の過去や記憶への興味が、そのもともと出来上がった体制の中に上手く見いだされていて、心理サスペンスとしても社会派作品としても、緊張感を保ったままに成立している。
今回は、前回の凝ったストーリー展開と違って、今の彼が過去の彼を封印しにいく、というシンプルさで追っていったから、よりテーマがはっきりと見える。

武器を持つことの是非とか、多重人格のミステリーとか、正当防衛はどこまで成立するのかとか、いろんな見方が出来る作品ではあるんだけど、最終的にもっと大きな、人間として根源的なところでの問いかけがなされる。そしてその問いに本当に答えられないまま……それは、人間というものがその問いに答えを出せないという含みを持って、作品は締めくくられる。
つまり、人間は本当に他人を信じられるのか。
いや、他人じゃなくても、親子でも、信じられるのか。
愛していると思っていた人に自分の知らない過去があったと知った時、愛し続けることが出来るのか。

トム・ストールは穏やかな人生を送っていた。喧騒の都会でもなく、寂しすぎる田舎でもない、ほどよい街で、彼は美味しいコーヒーが人気のダイナーを経営し、弁護士の妻と二人の子供とで幸福な日常を送っていた。
でもその日常は、ダイナーに強盗が入ったことから亀裂が入り始めた。女性店員に銃を突きつけたならず者二人に、彼は決死の思いで血路を見い出し、銃を奪い、殺されそうになるところを、撃ち殺した。そう、完全な正当防衛のはずだった。
でも、“決死の思い”のはずにしては、確かに身のこなしが良すぎた。一人の男など、顔が半分崩壊されるぐらいに撃ち込まれてた。
そのとっさの正当防衛が、彼にすべてを思い出させたのかもしれない。
決別したはずの3年前の自分が、否定していたはずの自分が、今の自分の危機を救ってしまった。

そんなことには、この時点では誰一人気づいていない。町の誰もが、そして国中で、ダイナーの穏やかな主人が発揮した勇気に拍手を送った。たちまち彼はヒーローとして持ち上げられた。

確かに、悪いヤツを殺したからって、人を殺したのにヒーローに奉られるのは悪趣味で、なんだかいかにもアメリカっぽい。でも彼にはそれ以上に深い意味があったのだ。
トム・ストールが殺したこの強盗は、冒頭に登場してくるもんだから、メインのキャストなのかとカン違いするぐらいである。車で放浪の旅を続けてる、みたいな二人組。カネのためならまだしも、水をくみに行って顔を見られただけで小さな子供をブチ殺すことも厭わない、サイテーなヤローたちだ。
その男たちが、全くの偶然で彼のダイナーに入り、強盗を働いた。つまりはコイツらは殺しても全然ヘイキ、みたいな価値観を最初に植えつけられてるから、そんな彼らに立ち向かったトムに対して、ヒーローで全然オッケーみたいに、私たち観客も仕向けられてしまう。

でも、やっぱり違和感があった。それはトムが、ヒーロー扱いされるのに居心地悪そうにしてたから。
これはアメリカ人がそうかどうかは判らないけど、日本人のこちらとしてはふと、銃を持つことの是非とか思いついて、そういやあ日本では銃の携帯が許されてる警官の発砲すら問題になるもんな、と思い、いくら正当防衛でも人を、しかも二人も撃ち殺してしまうのは気分が悪いに決まってるよな、と思い……果たして本当に正当防衛だったんだろうかという罪悪感に彼がさいなまれてるんじゃないか、というところまで思い当たる。
まあそれは確かに当たってはいたんだろうけれど、それがこの、今だけではなかったんだということには、さすがに思い当たるはずもない。

妻や子供は、メディアの反応と同じく、わが夫、わがパパを誇りに思うんである。
特に長男は、日ごろ学校でいじめられているもんだから、普段穏やかなパパの活躍には相当スカッとしたらしい。
でも、そんな風に言う息子をトムはたしなめる。不服そうな息子。
この息子、今まではいじめっこに対して、絶対に立ち向かわなかった。私はそれを、腕力がないから、勝てないからだと思ってた。それに挑発にのるのは負けと同じだし、一見弱虫に見える彼の回避は、勇気あることだと思ってた。
それは恐らく、父親の教えだったんだろうと思う。今から思えば。正当防衛がことごとに成功してしまう自分を、苦々しく思っていたに違いないんだもの、トムは。
でも息子は、ずっとそれを屈辱に思っていたんだ。周りのクラスメイトも、いじめられっこの彼を軽んじているのを感じてた。

いじめっこはある日、彼の父親の事件に触れてきた。本当に核心部分、正当防衛なんてキレイごと、殺人じゃないかと挑発してきたのだ。
ついに逆上する息子。彼の腕力は威勢だけはイイいじめっこたちをアッサリのしてしまった。驚く。そんなに強いなら最初から立ち向かえばよかったのに……いやでも、それをしなかったことが彼の強さだったのだ。だから、のしてしまったけれど、本当の意味で、彼は負けてしまったんだ、きっと。
父親のトムが、正当防衛という名のもとの殺人行為と、そんな風にとっさに自分の身体が反応してしまうことに苦悩していることを、息子はまだ知らないけれど……。

父親がヒーローになったことを、息子は最初、本当に単純に喜んでた。自分がいつもいじめられている立場だったから、自分もこんな風にいじめっこたちをのしたいと思っていたからだと思う。
でも父親の過去が明らかになった時、息子の中で正当防衛だったはずのことが、急に恐ろしく思えてきたのだ。
だって自分の中に、この父親の血が流れているんだもの。

トムが正義のヒーローとして有名になって、繁盛しているダイナーに、いかにも闇の世界といった風情の男たちがやってくる。
そして、トムに、ジョーイ、と呼びかけるんである。
片目がえぐられ、頬にざっくりと傷のある男が、親しげに、しかし大いなる含みを持って。お前はジョーイ・キューザックじゃないか、と。忘れるわけがないだろう、と言うんである。さすが人殺しが上手いよな、と。
トムは戸惑って、自分はトム・ストールだと、そんな名前は知らない、と言う。その様子にはおかしなところはないように見えた。本当に人違いされて困っているように見えた。

たまたま店にいた妻のエディも、無礼なその男たちに怒って、追い出す。友達の保安官に頼んでこの男たちにクギをさしてもらうんだけど、エディと幼い娘がショッピングモールで買い物をしていた時、またこの片目男たちが現われたもんだから、弁護士の彼女はこの男たちに接近禁止令を出すのね。でもそれにも関わらず彼らはやってきて、息子を人質に、腕づくでトムを連れ去ろうとする。
トムは、妻を家の中に戻らせる。幼い娘を守っていてくれという理由はもっともらしかったけれど、自分の中のジョーイが出てくるところを見せたくなかったことは想像に固くない。

そうだ、トムは忘れてなんかなかったんだと思うんだ。多重人格者は、その別の人格を認識している人と、全く知らない人の両方いるというけれど、後の台詞でトムは、三年前にジョーイは死んだはずだ、と言っていた……ということは少なくとも今のトムの人格は、ジョーイの存在を知っているわけだし、恐らく自分でそのジョーイを封じ込めたんだろうし。
それにしても、三年前って……つい最近じゃない。彼はエディと結婚して20年。その間に二人の子供をもうけ、家族の中での彼は、何ひとつ変わっていないはず。なのに……つまりは彼は、ジョーイという強烈な人格を消すために、ずっとずっと苦しんで、それだけの年月がかかったということなのか。
ジョーイがオリジナルの人格ではあるだろう。でもその人格を憎むトムという人格が生まれて、穏やかなトムだから、ジョーイを制圧するのに、きっととてつもない苦労をしたんだと思う。
でも、ジョーイは消え去ってはいなかった。……いや、そうだろうか。
トムがジョーイを忘れられずにいただけで、そしてその筋肉の中にジョーイを留めていただけで、やはりあれは、トムだったんじゃないのか。
そう、思いたいんだけれど……。

連れて行かれそうになる父親を救ったのは、一度はこの悪党どもにつかまってしまった息子だった。背後から片目の男を撃ち殺した。その前に一緒にいた男をブチ殺していた父親の姿を息子は見ていて……“正当防衛”を目の前で見ていた息子は、それが、それだけでは片付けられないことを肌身で感じる。
そして、妻のエディも、その様子を窓から見ていた。ジョーイに変わる瞬間を見てしまった。
実際、とっさのリアクションで身体が動いて、悪党をぶっ殺すトムは、背筋が寒くなる様相である。返り血を浴びたトム、いや、ジョーイ=ヴィゴ・モーテンセンの鬼の形相は、この映画で最も強烈に頭に刻み込まれる。見終わった後も、あの顔がいつまでも頭にこびりついて離れないで、夢に出てきそうで、困った。
必死に、“トム”の顔を取り戻そうとしながらも、なかなかできず、銃をぶっ放してしまった息子を抱きしめるシーンは、この映画の全てを内包している、静かながら凄まじいシーンだ。
いじめっこに立ち向かったことを叱られて不服だった息子が、父親の危険を救う形、つまり“正当防衛”で初めて人を殺してしまった。その意味に、後に全ての真実を知ることによって、息子はより打ちのめされるのだろう。

ジョーイへの変貌を見てしまったエディは、うろたえ、拒否反応を示す。今愛している彼は自分の知っている彼ではない。
でも、友人である保安官が事情を聞きに来ると、つい助け舟を出してしまう。妻に疑われているんではないかと思っていたトムは感謝しかけるんだけど……でも妻の身体は拒否反応を示す。でも、彼女に何とか判ってもらいたい、と必死に彼女にとりすがろうとするトムが、次第に暴力的スレスレまでいっちゃって、あっ、ヤバい、これはひょっとしてジョーイが出てきた?とハラハラして観ていると、これがちょっと驚いちゃうんだけど、翻った彼女もまた、獣のようにトムに挑みかかるのね。そして階段での狂おしいセックス。ものすごい緊迫感のあるシーンで、見ているだけで身体が固まる。後に示されるけれど、彼女の背中にアザがつくほどに激しく求め合う。
でもそれは、なんだか、哀しい。
彼女にとって、その時の彼が、愛するダンナのトムなのか、得体のしれない殺人鬼、ジョーイなのか、判然としなかったから。
トムなら、あんなに執拗に首を締めんばかりに彼女を制圧しようとはしなかっただろう。彼女はそれを半ば恐怖に感じて……でもその中に抗いきれない欲望を感じて、あんなことになったのかな、って。それは本当に、ギリギリのせめぎあいで、理屈も説明もつかないことなんだけど。

トムは、自らリッチーの元に赴くことを決意する。
リッチーというのは、ジョーイの兄であり、闇の世界のボスである。しかし暴れ者の弟、ジョーイにずっと悩まされ続けていたらしい。
詳細はそれほど明かされないんだけれど、ジョーイ自身もそんな自分にヘキエキして、トムという人格を作り出したような節がある。
深夜の、漆黒の闇の中到着するリッチーの豪邸は、トムの、明るく、柔らかで、幸福な小さな家や、住民のオアシスである彼のダイナーとはひどく対照的だ。冷たく暗く不幸な家。

リッチーはことごとく自分の地位を脅かした弟を、たとえ他の人格によって制圧されているからといえど、ずっと脅威に思ってて、見つけ出したが百年目、この世から消そうと思って、刺客を送り込んだんだけど、こんな具合に、返り討ちにされちまったわけで。
そしてリッチーに久しぶりに会ったトム、いやジョーイ、兄のそんな思惑を充分に判ってて、封印していたジョーイを解き放ち、そのたぐいまれなる殺戮に対する身体能力で、皆殺しにする。もともとそうしなければ、トムとして再スタートを切ることは出来なかったのかもしれない。その思いが、二つ目の“正当防衛”。

本当に、身体が勝手に動いたという感じだった。もし、もし、リッチーが弟との和解を申し出たら、こんなことにはならなかったのかもしれないけど、そんなことはありえないことも、判ってただろう。
判ってたけど、あくまで身体が勝手に反応したという感覚で、つまりは“正当防衛”で次々に敵を倒してゆく。そして、最後には実兄のリッチーを。
このリッチーの豪邸はね、トムの家やダイナーと違って、本当に森の奥深くにあって、まるでお伽噺みたいに現実味がなく人から離れてて、そのたたずまいだけで寂寥感を感じて死にたくなるぐらいなんだよね。

その中で、メンツだけがすべて、で生きてきたリッチー、それは違うんじゃないかと感じてたと思われるジョーイ。
それをお兄さんに教えてあげられればよかったけど、でも。ヘタに戦闘能力に長けちゃってたりしたもんだから……。
でも、あの時、リッチーに対峙して、ジョーイと呼びかけられていたのは、100パーセントのジョーイではなかったでしょ。
ジョーイの存在を否定し続けていたトムが、ジョーイの肉体だけを身体に思い出させてそこにいたと、思いたいんだよね。
そうでなければ、全てが終わって、漆黒の闇から、しらじらと明けた朝、静かに、哀しげに、水辺で身を清める彼なんて出てこないよ。それに……やっぱり帰る場所は、どんなに行きづらくたって、トム・ストールの家でしかない、そこに帰ってきた彼は、やっぱり、トムだったもの。

多重人格なら、今の自分を正解として、他の自分がやった過去は問われない、ってことは、……ないよね?
あ、責任能力があったかどうか、とかいうことになるのかなあ。でも違う人格だっただけで、責任能力はなかったわけじゃないし。
今の人格にとっては責任能力がないってことかなあ……トムはこれから、どうなるんだろう。
慎ましやかな、居心地の良さそうなダイナーで、コーヒーを淹れている姿が似合ってる、穏やかなハンサムな夫だったはずなのに。
「相変わらず人殺しが上手いな」
あの片目男のフォガティ(エド・ハリス)で全てが覆されてしまった。
ストールを演じるヴィゴ・モーテンセンが非常に魅力的。「ロード・オブ・ザ・リング」は観てないんでアレなんだけどね。自分自身に翻弄される、繊細で緊張感に満ちた演技に魅せられる。

ラストシーン、悄然と帰ってくる(ジョーイをその中に含んだ)トムである。
固まり、黙り込む食卓。誰も何も言わない。
ただ一人、まだ事態が判っていない幼い娘が、パパのための皿を用意してくれる。
息子も、大皿を寄せてくれる。
でも、誰も、何にも言わず、なんともいえないラストだ。
決して前には戻れない。けれど、必死にこれからの幸福を作っていこうという決意の見える、希望と過酷に満ちたラスト。

知らない過去なら誰にでもある。いや、これは違う人格なんだもん、全然話が違うよ、とも言えるけど、でも、やはりそういうことを言ってるんでしょ?だって彼は、ジョーイである自分を、多分ずっと忘れてなかったんだと思うもの。ただ心の引き出しにしまって、厳重にカギをかけていただけで。
あるいは、人間は自分をも本当に信じられるのか、ってことが何より重いテーマだったのかもしれない。
生きていくために、自分を否定する人間を殺すしかない、それだけの能力を備えてしまっている自分を肯定して生きていくことが出来るのか。
そしてそこには、最初に言ったような、アメリカの抱える銃社会や、自分を守るアイデンティティの問題やらが、複雑に入り組んでいるのだ。

それにしても、これがグラフィック・ノベル(コミックス)だということに、驚く。マンガ大国、日本も負けてられない!「オールド・ボーイ」みたいに他国に権利売るなんてこと、マジでしないで!★★★☆☆


人妻を濡らす蛇 −SM至極編−
2005年 分 日本 カラー
監督:池島ゆたか 脚本:五代暁子
撮影:清水正二 音楽:大場一魅
出演:山口真里 水沢ゆりな 華沢レモン 紅蘭 牧村耕次 竹本泰志 中川大輔

2006/4/16/日 劇場(池袋新文芸座/第十八回ピンク大賞AN)
今回ベストテン9位のこの作品、もともと10位に入った「開華編」に続く二部作だという。
ところで今回、なんで普通にベスト5の上映じゃなかったのかしらん?3位作品の上映はなぜなかったのか、しかもそこを埋めるのに6,7,8位も飛び越えて9位作品の上映だったのは何でなのかしらん……別にいいんだけど、うーん、何となく気になる!
しかもだからこれ、二部作の、二部目っていうのが、観るに当たっても一部目が気になるじゃん!いやちゃんと判るようにはしてあるんだけどさ……解説読む限りでは、趣がだいぶ違うみたいだから……。

やっぱり、即座に思い出すのは団鬼六先生の世界よねー。というか、それを完全に意識して作り上げているとしか思えない。
富も名声もある老人が若い女を縛り上げていたぶる。いや、いたぶるっていうのは喜悦の意味であり、サディスティックに見えながら、実はひたすら女を喜ばせることに快感を得ているわけで、実は奴隷は男の方だという逆説的な意味合いを持つあたりも、実に団鬼六的である。
しかも、劇中の人物たちはSM女王様しようと、どんなアラレもないカッコをしようと至って真剣であるところが、客観的に見ているこっちとしては時々クスッと笑ってしまうような不思議なユーモアがあってね。
これが例えば、団原作で何本も秀作を撮った小沼作品なんかは最初からギャグにしちゃうぞっていう確信犯的な演出(演者は至ってマジメに演じるから余計可笑しい)があったんだけど、本作の場合、演出まで至って真剣で、時々感じるそんな可笑しさに、笑っていいものやら、可笑しく感じるこっちがスカして見ているせいなのかなとかちょっと悩んじゃう。

今は人妻となって穏やかな生活を送っているゆうなが、かつて縄の味を教え込まれた美術の大家である“先生”の元を訪れるところから物語は始まる。
一部目を観ていないんで断片的に解説される中から推測するに、女子大生だった彼女をはじめ、さまざまな若い女たちがこの先生の元で縄の味を仕込まれ、官能の日々を送っていたらしい。
この、女子大生ってあたりもまた団的である。高校生でもOLでもなくってところが。あとは小料理屋の若女将か、今回のテーマである人妻かってところよね。
ある程度性的にも経験や成熟も遂げているんだけど、常識的なところで満足している、というか、それ以上のことなど知る由もない女たちに、本当の性の喜びを“わざわざ”教える、しかもこれが人生の命題だとでもいうようにやたらスパルタに、真剣に、というあたりに団的、あるいはSMモノの絶妙な可笑しみがあり、それは人生の味わいとでもいうようなものにも思えるのよね。

で、今回、その真剣の可笑しさを最も感じるのは、この“先生”の弟子である真悦である。
冒頭、このヒロインとは別の女性が、彼を裏切って玉の輿に乗った、とのことで、先生は彼のウラミを存分にはらさせるために、ビデオカメラに撮りながら彼女を縛り上げた上でいたぶる、という場面がある。もちろんそれによって弱みを握ろうというわけだけど、彼女をはずかしめるとか言いながら、無論暴力をふるうわけでもなく丁寧に舌で愛撫なんかしちゃって、彼女をしっかりイカせるあたりがこれぞSMよね、と思うんである。
SMは見えている関係と実際は逆転していることこそが魅力。本当にかしずいているのは男の方なのだよね、やっぱり。
で、そんな前提が用意されているし、今回先生は交通事故に遭って車椅子生活、ということもあり、すべてを弟子に指示してやらせるんである。という関係性も、団的よねー。見ることしか出来ない、いやそれこそに悦楽を感じる不能者、という悲しきM。そう、弟子にSを指示しながらも、先生はここで果てしないMなのである。ああ、哀しき美しさ。

そして、このセンセにひたすら、シンエツ!シンエツ!と呼ばれる彼、なぜかシンエツ!と呼びかけられる度に、あの独特の可笑しみが口元までこみ上げてしまうのはどうしたことだろうか。古風な名家の師弟関係をそこに表現していながら、指示していることがこんな、実は男どもの方がアワレなMになるコトだからなのだろうか。
あるいはなんつーかね、もしこの先があるのだとしたら、やけに信頼関係を結び合っているこの先生と真悦の……行き着く先を不謹慎にも想像しちまうからなのかもしれないなあ。うーん、考えすぎか?
でも真悦は女を憎んでいるんだし、そのウラミを果たすためにSMのワザを仕込んでくれた先生を尊敬たてまつっているんだし、なんかそういうのありそうじゃん。それにこの可笑しみは多分、そんなやたらと信頼関係に結ばれた二人、の姿にあるって感じもするんだもん。

ほんでもって、女王様も出てくる。この日女優賞を獲得して壇上にあがった華沢レモン嬢は、Sの女王様から一転して、縛り上げられはずかしめを受ける今回のリョウ役を、女王様やってる時はカイカンだったけど、縛り上げられた時は、なんでこんな目にあわなきゃいけないの?とカメラが回る前から涙が止まらなかったと語っていた。
「あの涙は本当の涙ですから!」と言うだけあって、このシーンの彼女の痛々しさが非常に生々しく、奇しくもリアルな迫力を生むことになってるんである。
レモン嬢自身は当然そこからの愉悦なんぞ感じたわけはないけれど、この本気で泣いてイヤがっている彼女の姿があるからこそ、泣き声がイキ声に変わってゆくのが、いっそうアワレで……。

ゆうなはこの様子をただ見つめさせられている。妙に冷静な顔で。私も彼女みたいにもっとイジめてください、とか台詞上では欲望を抑えられないようなコトを言ってるけど、そう、妙に冷静な顔で見てるんである。
というか、私より哀れな女がここにいる、と。ゆうなは判っててここに来た。先生が言うように、心の底では縄の味を忘れられなかったからだ。
一方のリョウは真悦と同じように、それも身内にうけた仕打ちによって男嫌いになってしまったわけで、Mになること、しかもその相手が男であることは非常なる恐怖で、恐怖だったはずが身体が反応してしまった屈辱と哀れは、自ら求めたゆうなの比ではない。
でもそれこそがSMの究極。ゆうなは自分では決して味わえないその醍醐味を、心と身体いっぱいに味わえているリョウをうらやましく思うからこその、あの妙に冷静な表情だったのかしらん。

んで、その埋め合わせをするかのように、あのすさまじい滑車吊りが待っているわけだが……。

それにしても、確かにこんなに本格的な緊縛モノは久しぶりに見る。ロマンポルノなら何本もあったけど、ピンクでは、以前一本ぐらい観たことがあるぐらい。しかもそれは細ひもで、しかも縛り上げるというよりは、縛りの造形を見せるといった趣で、しかもなんだか洋風だし、どーも今ひとつ物足りなかった。
やっぱり縛りは荒縄で、和風で、肉に食い込んで痕になるぐらいじゃないとね!谷ナオミを思い出せばその肉体のふくよかさも物足りないけど、割とムチムチと食い込んでくれてるから、まあ満足である。

しかも!縛りが戸外に連れ出されるのには驚嘆だし!ここは最大のクライマックス。滑車で吊り上げられるヒロイン、この図ってやはり小沼=谷ナオミコンビの作品で観たことあるような気がするけど(タイトルが思い出せん)、でも、そのスケールを3倍は壮大にしたような、もはやこうなるとSMとかエロとか超越しちゃってて、いわばスペクタクルな迫力にまでなってしまっているのが凄い。
西日(?いや朝日だったのかな、あれは)の差す中を、バレエダンサーのポーズのような形に縛り上げられたまま、天高く釣り上げられるその図の嗜虐的な美しさ、いや、嗜虐的というのさえ忘れてしまうほどの迫力の美しさを呆然と見上げてしまう。本当に失神してたってことだけど、こりゃするわな……このシーンだけでも語る価値はあるほど。

ラスト、すっかり身も心も奪われた女二人。しかし余命いくばくもない先生は最期の時を「SMの本場」である欧州(凄い言い方だなー。さすがにちょっと笑った)で過ごすことを決断、真悦とともに二人を残して旅立ってしまった。真悦がネットで奴隷を既に集めてくれている、という言い様も、やけに可笑しく感じるのはなぜなのかしらん。
これから私、どうしたらいいの、とろくに歩けないほどに傷む身体をよじって悲嘆にくれるゆうな、リョウはサバサバした表情で、縁側でひと吸い煙草をくゆらしながら(可憐な美少女なのに、こういうところが妙にカッコイイ)私のオネエサマ(先輩の女王様ね)のところに一緒に来ればいいわ、と誘う。
リョウの吸う煙草の煙が涙にくれるゆうなにゆらゆらとふりそそぎ、朝の光りのさわやかさとあいまって、不思議に突き抜けた爽快感。

結局ゆうなはその誘いには乗らず、夫の元に帰る。コートの下に緊縛された肉体を隠して。
フツーのマンションのドア口でその身体をさらすのも笑っちゃうが、そんな妻の思いも寄らない姿に、まるで猛獣を目の前にしたかのようにひどくおびえて、腰砕けにあとずさりするばかりの夫は更に笑える。
ここだけはきっちり笑かしにいってるよね。これはMだった彼女が、そのMの快楽を夫に強要することによって、見えている画と立場が逆転しているSMの境地をここで更に展開しようとする趣であり、やはりどんな立場でも女は女王様なのよ。そうでなければSMはただイタいだけだもんね。

しかしこの夫婦の行く末より、センセと真悦の冥土の土産への悦楽旅行の方がよっぽど気になってしまうんだわ。★★★☆☆


ヒモのひろし (SEXマシン 卑猥な季節)
2005年 65分 日本 カラー
監督:田尻裕司 脚本:守屋文男
撮影:飯岡聖英 音楽:
出演:吉岡睦雄 平沢里菜子 佐野和宏 川屋せっちん 小林節彦 伊藤猛 平沢昭乃 松浦祐也 藍山みなみ 中村方隆

2006/5/24/水 劇場(ポレポレ東中野/R18 LOVE CINEMA SHOWCASE Vol.1/レイト)
不思議な舞台設定と、突然の不条理。こういうの、ピンク作品で時々出てくるけど、まさにピンク映画の魅力のひとつだと思う。「デメキング」とかもそうだったなあ。だってこんなの、一般映画じゃありえないもの。
深夜番組で実験的に流されてるドラマに偶然出会って、ナンダコリャ、おもしれー!って興奮するような、って、判りにくい?でもそういう、つまりはかなりコアな世界が、ピンク映画というひとつに括ったジャンルの中では、普遍的な物語のものと一緒に平然と同列に出てくるところが素晴らしく、うらやましい。

大体、最初のタイトルバックからしびれちゃうんだよなあ。原題の「SEX……」が、飛び上がるひろしのストップモーションにレトロな文字体で描かれるでしょ。なんか日活あたりで黄金期に作られた青春映画みたいな面持ちなんだもん。
まず、このタイトルロールでもあるひろしの存在がなんとも不思議で心惹かれる。ハッキリ言ってぜえんぜんイイ男なんかじゃないところがイイ。それどころかかなりイケてない部類の男である。この吉岡氏は「たまもの」などでも観てるんだけど、イケてないレベルはこっちが最高峰である(ゴメンね!)。やせっぽちだし、歯は出てるし、弱気そうだし。

で、彼がバスに乗っていて、いねむりしている美女に釘づけになるところから始まる。その様のイケてなさ加減もかなりヤバイ。そこで男の子が差し出した箱を跳ね飛ばしてしまったら中から大量のコオロギが!?えっ?何、それ!と予想外の展開に目を丸くしていると、慌てて這いまわってコオロギを捕まえようとしているひろしとこの男の子をこの美女は冷ややかに見ているんである。
「おい、手伝えよ」業を煮やしてひろしは言う。
「あんた、ワザとやったでしょ」彼女は平然と返す。
そしてバスを降りた三人、さっそく迫るひろしに彼女は「ねえ、家に帰ってからじゃダメなの」と繰り返す。どうやら、もうそういう算段が出来上がっているらしい。
つまりひろしの行為はこの彼女、はるかの気を引くためのものであり、はるかもそれを了承、ひろしが家に行くのを躊躇したのは、この男の子、雄一郎の存在であり、彼女の夫が家にいるんではないかと思ったからだ。

「それが何?」と冷ややかにはるかは言う。その言葉で、彼女は一人でこの子を育てていることが判る。そして子供がいようと男を引き入れることに全く問題を感じてない、らしい。
それがね、淫蕩な女という感じではなくて……いや、彼女は劇中、昔の男とセックスする場面も出てくるし、何よりこのひろしと何回ヤんだよ!ってなぐらい何度も交わるんだけど、でもやっぱりそういう感じはしないのだ。
これは演じる平沢里菜子自身の資質というか魅力だとも思うんだけど、孤高、そんな言い方がピタリとくる。彼女は彼女なりに誇りを持って雄一郎を育ててて、そのことをこの子も幼いなりに判っているから、ママが男とセックスする間は一階の喫茶店で待たされてても、スネている様子などない。それどころかヒモとして転がり込んだこのひろしにすっかりなついて、一緒にコオロギ相撲に熱中するんである。

そう、このコオロギ相撲というのがいっちばん不思議で、心惹かれるメインな設定なのよね。
ちなみにこの喫茶店のマスターや、はるかが住んでいるアパートの住人たちもコオロギ相撲仲間である。この子供のような男たち、でもシングルマザーのはるかのことを理解し、雄一郎を一緒に慈しんでくれている男たちが、ちょっとどころかかなりヘンなヤツらなんだけど、なんかあったかくてジンときちゃうんだなあ。伊藤猛扮する喫茶店のマスターなんて、シャレたベストや帽子でキメたりしておしゃれさんなのに、コオロギ相撲だもん!
河原に古ぼけたパラソル立てて、ブリキのバケツの中に二匹の雄コオロギを入れて闘わせるという光景は、なぜか子供の頃に体験したような錯覚を感じる懐かしさ。なんだろう、この感覚……コオロギ相撲なんてやったことないのに。

で、このコオロギ相撲にいっぺんで夢中になるヒロシを、「お前、イイ奴だな」と彼らは迎え入れるんである。このあたりの、小学生の男の子の価値観となんら変わらないあたりも、好きっ。ひろしがどこから来た、どういうヤツなのか、そんなことは一切関係ナシに、コオロギ相撲を分かち合えるという価値観だけで仲間になってしまうというのがね。
そう……ひろしは本当に、出自が判らないんだよなあ。いや、それを言ったらここの登場人物たちは、どいつもこいつもワケ判らん怪しさに満ちているんだけど、ひろしはふっとこの中に入ってきて、その最初から違和感がなくて、雄一郎にもなつかれてるし、一緒になって本気で遊ぶし、で、ある日いきなり高波にさらわれて(ここの場面もケッサクなんだが、後述)戻ってこないから一度死んだってことにまでなるし。
どこから来た何者かも判らないから、彼らが葬式をあげることになるってあたりも、本当にいたのかって思うような、夢のような存在なんだよね。しかも、漁船に釣り上げられて(!!!)帰ってくるし!海から直接川に漁船が入ってくるあたりもナンセンスだが、帰ってきたぞー!と手を振るひろしも彼らしいマヌケさで、さいっこうなんだよなあ。

あっと、キャラのこと言ってたら思いっきり先走ってしまった。修正。
で、はるかのことをちょっと補足すると……彼女もまたフシギなのが、ジャンベ(あの民族太鼓ね)を抱えているのよ、いつも。この設定は一体……?音はアフレコだろうけど、ジャンベにまたがって軽やかにリズムを刻む里菜子嬢はかなりサマになってるんである。この物語に別に必要性はない、んだけど、これがなんとも不条理な雰囲気を漂わせて、すっごく、イイのよ。
彼女ね、かなり気ィ強いし、彼らと和やかにコミュニケーションをとるという感じがあまりないんだけど、でもそれを替わりにジャンベでやってるって感じなのよね。皆で焼き肉をつっつき合ってるときに突然ジャンベを鳴らし始めたりとか。このフシギな連帯感はなんとも心惹かれるんだよなあ。

はるかは川向こうにある、コオロギの販売であくどく財をなした安西の元に金を返しに行く。どうやら別れた夫が作った借金らしい。少しずつ返しているらしくて、その時に差し出したのもほんの5、6万であるあたりが、どんなにキツくてもキッチリ返していく、誰の力も借りない、という彼女の気の強さを感じさせて、なんだかそれが痛々しくも思える。
だってこの安西、カネのことはチャラにしていいから、俺のところに雄一郎ともども身を寄せればいいのに、と言い寄っているんだもの。それをはるかはキッパリとはねつける。でも……安西の誘いに途中からは自分からも誘惑するような形でヤッちゃうんだけどね。それが彼女の弱さをちょっと現わしているようで逆に胸が痛いんだよなあ……かつては好きだった男、なんだもの。
この安西を演じる佐野和宏、さっすが。こーゆーアヤしい男を演じさせたら彼の右に出る人はいないであろう。髪を金髪に染めて、小さなサングラスで目を隠して、「まわしをしめたコオロギ」を図案化したハッピを着ている彼は、そのコオロギのロゴがミョーにカワイイあたりが絶妙のマヌケさをかもし出しつつも、もう見たまんまのヤクザ者、といった趣なんである。
彼はまだはるかにホレているんだろうな。はるかのヒモであるひろしにコオロギ相撲の勝負を挑んだのは、だからじゃないの。

数多くのツワモノを持っている安西にかないっこない、と仲間たちは心配するんだけど、ひろしは自慢の「高山」を2週間、水のみの断食で鍛えている、と自信満々。
しかしその「高山」が入っているはずの缶を開けると、いない!うろたえた彼は仲間も総動員で探すも、いない。どこかにいるはずだからもっと真剣に探してくれ、というひろしに仲間たちが、ぜえったいムリに決まってると思っているに違いないんだけど、土手を行き来しながら「たかやまー!たかやまー!」と探しているシーンには爆笑。だって!コオロギに高山なんつー名前をつけること自体可笑しいのに、そのコオロギに高山と呼びかけたって、出てくるかっての!

しかも、更なる最高のオチが。諦めかけた仲間たちはふとひろしの前歯にひっついているモノが気になる。ガバッと押さえつけて取り出してみるとそれは……どう見てもコオロギの足(ウエェッ!)。
「お前、何食った」側から雄一郎が替わりに答える「てんぷらそばだよね」ひろしが受けて「そうだよ、てんぷらだよ。タラの芽のてんぷら」
そのひろしに高山であろう足を見せてやる、驚愕のひろしは当然激しい吐き気をもよおす。
「この時期にタラの芽があるかよ。似てるんだよ苦みが。俺も食ったことある」!!!やっ、ヤメテヤメテ!タラの芽のてんぷら食べられなくなっちゃうー!!
しかもまだオチは終わらない。手塩にかけて育てた高山を、こともあろうにてんぷらにして食べさせたはるかに「あのアマー!」と怒りの矛先が向かったひろし、すると……
「寿命だったのよ。自分から油に飛び込んだんだもん。かわいそうだからもう一回衣をつけて揚げてやったわよ。二度揚げよ!」!!!しかもその挑発するような言い方は何なのー!(爆笑っ)
「どおりで一晩たってるのにカリカリだった……って、そういうことじゃないだろ!」!!!!なんとゆー、不条理なボケツッコミなんだ!(大爆笑ッ!)もうこの場面だけで、既に、もの凄く、サイコーなんだけど!

強いコオロギがほしいなら、太郎のところに行け、とはるかは言う。太郎というのは、彼女の元夫、つまり雄一郎の父親である。フクザツな思いを抱えながらひろしは太郎に会いに行く。
敵意むき出しにするかと思いきや、息子の雄一郎になかなか会わせてもらえないらしい太郎は、雄一郎と二人きりにしてくれないか、と殊勝に頼むんである。で、その間にひろしは太郎の女と一発ヤッちゃう。
このあたりはいかにもピンクゆえのカラミの数こなしにも思えるけれど、この女が、はるかが来るんじゃないかと思って勝負モードだったというのがしおらしいし、しかもひろしに……ホレちゃうらしいんだよね。ナゼ?とか思うが(笑)、元妻や息子のいる太郎に、こんな風に嫉妬とかして、疲れちゃったのかもしれない。

実はここらあたりから、レイトの疲れで不覚にも眠くなっちゃってちょっと記憶が飛んでんだけど(ゴメンー!)、えーと、はるかが安西のところにいるのね。あれ?勝負はどうなったんだっけ……太郎からせっかく譲り受けたコオロギを逃がしちゃったんだっけ?(あ、ゴキブリだったんだって!)
とにかく、安西のお屋敷で宴会が催されてて、そこにはるかがぽつんと座っている。庭にある、土管にムシロをかけたような、実に不自然な(笑)トコにこしかけるはるか、とそこから突然ひろしが顔を出す!?
「どうしたの?」「俺、泳げないからさ、掘ってきた」!?そしてひろしははるかに“断食し、更に欲求不満のメスコオロギ”を大量に手渡し、これをブチまけて逃げてこいよ、と言うんである!!??「じゃ、また川向こうで会おうぜ」と引っ込んでしまうひろし。えっ、ええっ?

あまりの不条理な会話に頭がついていかないでいると、はるかはさして驚きもせずにそのコオロギを受け取って、彼の言うとおり安西の屋敷にブチまける。そしてパニックになっている安西たちを尻目に、雄一郎の手を引き、橋を渡って逃げてくる(そうよね……橋があるのに、なぜひろしは掘ってくるんだよ!もー、この不条理、好きすぎる!)。
そしてはるか、川岸にひろしの掘ったトンネルの穴を見つける。「これがひろしが掘ったトンネルよ」と雄一郎に見せてやるはるかの表情は、どこか誇らしげで……って、オイ!しかあも!トンネルを戻ってくる途中のひろし、川の水が浸食したか、トンネルの穴からは噴水のように水が吹き出て(無意味なスペクタクル(笑))、ひろしは行方知れずになってしまう……。

ああ、ようやく、先述した地点に来たわ。でね、葬式も全部済ませたトコで、ひろしは漁船に乗って無事帰還するわけだが、このオマヌケなリターンを仲間たちが実に嬉しそうに、川岸を走って迎えるのも笑えるし、万感の思いでこのひろしを見つめるはるかの表情も、万感こもってるだけになんだか妙に可笑しくて、でもそれが、不思議に胸を打つ感覚も交じってて……なんともいえんのだよ。

平沢里菜子嬢、「かえるのうた」に続いて二度目に観るけれど、すっごく、イイのね。そういやあベストテン表彰式で、プレゼンターの池島監督が相好を崩して「小沢真珠かと思ったでしょ」などと紹介してたのが、確かにナルホドの目力の強い女王様的な美女っぷりなんだけど、でも気が強いとか女王様っていうより、ホント、孤高の潔さって感じなのよね。
訪ねてきた夫の太郎を、はるかがドアのとこで全裸で追い返す場面(ひろしとセックスしてたからね)の、一歩も引かないカッコよさときたらなかったなあ。ハダカでタンカ切るのがマジでカッコイイ女なんて、そうそういないよ。★★★★★


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