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傷だらけの悪魔
2017年 97分 日本 カラー
監督:山岸聖太 脚本:松井香奈
撮影:ナカムラユーキ 音楽:吉川清之 岸田勇気
出演:足立梨花 江野沢愛美 加弥乃 岡田結実 藤田富 小南光司 川原亜矢子 宮地真緒 仲谷香春 芋生悠 高野海琉 YUKINO 中島愛蘭 花影香音 吉増裕士 キタキマユ 蓑島宏美 岩井七世 伊藤万理華
今回お初にお目にかかる監督さん、実際映画監督としてのデビュー作品。冒頭、洒落た音楽に合わせて女の子たちがスロモーションで楽しげに飛び出してくる、実に楽しそうに跳ね回る。
これは楽しいスクールライフ映画かと思っちゃう。本当にそんなイイ感じなんだもの。それが、その曲が終わる頃に……ただ一人、ちっとも楽しそうじゃない女の子がスクリーンの下から這い上がる。楽しげな女の子たちは、その女の子を楽しげにトイレの流しにためた水に顔を突っ込む。
カットが替わる。主人公登場。後から思えばこの冒頭の衝撃のポップシーンのどこかに彼女もいた筈なのだが、あまりに鮮やかな切り替わりに、彼女と冒頭のシーンとの関係性にまで考えが及ばない。
ヒロイン、舞に扮するのはもう充分にメジャーシーンで活躍している足立梨花嬢。「そこそこに可愛い。そこそこが大事」だなんてね、リアルにめちゃくちゃ可愛いんだから、現実世界の女子はそりゃ生きづらくなっちゃう(爆)。
「ずっと東京で暮らしていくと思っていた」都会育ちの女の子が、父親の転勤でまさかのド田舎暮らし。見渡すばかりの田園風景を動画に撮り、SNSにアップして愚痴りまくるそれが、まさか後々彼女の首を絞めることになろうとは。
転校先での、思いがけぬ相手との再会。しかも舞自身は覚えていなかったんだから始末に悪い。舞たちグループが苛烈なイジメをしていた詩乃。つまり冒頭のアレである。
舞は実行犯ではなく、“ただ見ていただけ”。実際、後に舞はそう言い逃れしようとするが、「自分は手を下さないで、」安全なところにいる、そういうところ変わらないよねと、詩乃から言われるのは確かに、そうなのだった。
詩乃の逆襲に遭う形で舞は“いじめっ子を制裁”するという大義名分、というか勧善懲悪、悪の制裁、という形でほとんどクラス中からのイジメに遭うのだが、そもそも集団社会を冷めた目で見ていた舞は根性が座ってて、じわじわと味方を引き入れ地場を固めていく。
それが詩乃言うところの、「自分では手を下さないで、こそこそこそこそ、変わらないよね」というところであり……。
と、なんか結構先走ってしまったけれども。最初に、定期的にイジメ映画が出てくると言ったけど、それは、イジメは結局なくならない、もうなくそうとか思うのがムリだから、逃げた方がいい、というのが私の持論なのだが、そういう中で、イジメ映画が様々なバリエーションを生み出してくるというのが、凄く、印象的で。
映像をポップにするのは、まあ割とありがちだと思うのだ。例えば「告白」なんてのも映像のそうした鮮烈さに力を注いで印象を強くしていたし。
舞台がド田舎で、舞に言わせれば「ダッサイ」クラスメイト達なのだが、わたしのよーな地方育ちから見れば、皆じゅーぶんイケイケ女子たちに見えるし、もう全国津々浦々、大して変わらない気がする。でも、その中の、微細な違いこそが、彼らの価値、そして排除する要素を決定づけるのだろう。
私みたいな地方育ちのオバチャンにとってはさ、このクラスのボス、優里亜が舞から「ダッサイ」と思われている基準が、舞と何が違うのかイマイチよく判んないしさ。
舞はこの転校に際して、周りから浮かないようにとわざわざそれまで明るい色に染めていた髪を黒髪に戻して、鏡を見て「ダッサイ」と自分に突っ込んでいる訳。彼女にとって自分をダサく貶めることの方が、学校という小社会の中で孤独になるよりはマシだというのが、正直本当に意外で。
まさに、それこそが本作のテーマだったのだろうと思う。そもそも舞がイジメグループに属していたのも、グループに属するということ自体が大事であって、そのグループがいじめを行っていたことは、彼女にとってはそのグループの行動のひとつにすぎなかったんじゃなかろうかと思われる。
そしてそれが……いじめられる当事者にとって、どんなに地獄かということを想像もできないというあたりは、子供、というよりも、まさにそれが日本の団体社会の恐ろしさであり。
確かに現代社会で、イジメのターゲットはくるりと入れ替わる、昨日までのいじめっ子がいじめられっ子になる、というのはよく聞かれる。イジメ女の子映画の佳作「問題のない私たち」を思い出したりする。
目立っているスター女子であるだけ、その危険性は高く、舞の周到なリサーチと人心掌握によって逆転された優里亜はまさにその典型なのだ。
それが無意識にか舞には判っていたからこそ、“そこそこ”にとどまろうとしたのだろうし、手を染めることなく、ただ見ているだけの態度を貫いたのだろう。
でもそれはもちろん同罪だし、それ以上に……実行犯以上に、助けられる位置にいるのに助けてくれない存在というのは、被害者にとって最も憎むべき存在なのかもしれない。
それにしても、東京でイジメにあっていたその相手に、地方に越してきた先で出会うなんて、あり得ないほどの可能性の偶然だけど。
でもさ、本当にゾッとする。先述したけど、もうイジメはなくせない、逃げるしかない、と私は思っていたから……逃げた先に偶然とはいえ、いじめた相手が追ってくるように現れたら、もう、恐怖だよ。
だから、私は詩乃の行動がちょっとビックリだったんだよね。予測しか出来ないけど、私だったら、かつてのいじめっ子に逃げた先でまで会っちゃったら……即引きこもっちゃう(爆)。
詩乃はさ、もう即座に復讐を決意したじゃない。そりゃ確かにもうこの土地になじんでいる彼女に利はある。でもザ・地味な女の子な詩乃がこのクラスでどういう立ち位置だったのか……。
なんか、私は詩乃のようなタイプの女の子だったと思うから(爆)。「私、葛西さんにいじめられてたのー!!」と一世一代の芝居をかましてクラスメイト達に受け入れられる彼女の度胸が凄いと思って(爆)。
正直、そこまで詩乃がクラスになじんでいたようには思えないんだよね……。なんたって、クラスはハデ系女子グループ、優里亜たちによって牛耳られていたんだし。
そうなの、これが今も昔も変わらぬ、めんどくさい女子グループという存在。めだたぬように、そこそこを目指していた舞も、ダッサと思いながらも、この優里亜たちのグループに属しておけば無難か、と接触を図っていた訳である。
で、見る限りでは優里亜グループのほかは、女子たちは特に大きなグループを持たず、2、3人が親密にしている雰囲気である。
詩乃も親しい女の子と常に行動を共にしていた。そしてその子は真面目で真摯な子だから、詩乃の“苦悩の告白”にすっかり同情しちゃって……舞をいじめる方に加担しちゃうんだよね。
もう一人、グループから離れた子がいる。優里亜グループの中にいる、ちょっとオツムが弱そうな女の子、静の幼馴染、千穂である。
彼女は実に正当な正義感で、このイジメに嫌悪感を持つんだけれど、大人しい性格で口に出すことが出来ない。
静、というのがまたなかなかのキャラで、優里亜を崇拝している。自身がいじめられた過去があり、それを救ってくれたのが優里亜だからなんだけど、その理由だけで彼女がヒーローで、優里亜がいじめの当事者になっていることには、殊更に疑問は感じないらしい。
オツムが弱そうな、というのはひょっとしたらちょっとした逃げの設定なのかもしれないと思う。こんな風に何か一つを信じたら、それこそが純粋な大事な何かと思って、客観的、冷静な視点があっさりと失われてしまうのかもしれないと思う。
千穂は今は“グループ”が離れていても幼馴染の静のことを大事に思っているし、静もそうだった筈……なんだけど、結果的には千穂は舞のがわにある意味自ら飛び込んで、復讐劇に加担したんだよね。そして静を切り捨てた。強者は舞になったから。そういうことなんだよね……。
こう考えていくと、ヒロインである筈の舞は、案外周りのキャラを立たせる狂言回しなんじゃないかという気もしてくる。いやいや、かなーり執拗で強烈なイジメにあう舞を熱演する足立梨花嬢なのだから、そんなことを言うのは酷というものか。
一番強烈だったのは、文化祭の時体育用具室に閉じ込められ、トイレが我慢できずに、もらしてしまった場面。クラスメイト達の前でじわじわ漏れ出すおしっこの色が濃くて生々しい(爆)。
そりゃこんなことがあれば学校にも出てこれなくなるよね、と思うが、「群れに従うだけのイワシ人間にはならないでね」という母親の言葉に奮起したのか、舞は少しでも弱みを見せた人間を過たず見極め、周到な作戦を練って自らの立場を固めていくんである。
時に男子のももに手を置いて目を見つめたり、好きな女子を守りたいんでしょ、と正義という弱点を突いてまで。
この“イワシ人間”エピソードは、なんか唐突で、そもそも舞の母親は食卓シーンにしか出てこないし、無駄に背が高い川原亜矢子だし(爆)。
だって、父親の転勤でこっちに来たのに、まるで母子家庭みたいな雰囲気。二人きりでしか食事しないし、まー、モーレツサラリーマンなのかもしれんが、会話にすら出てこないっつーのがどーゆーことなのか。大体、川原亜矢子はとても専業主婦には見えないしなあ。
でね、なんか言い忘れてたけど、大人たちもヒドいわけ。大人たちってのは、この場合、教師。担任の女教師も教務主任っぽいベテランおじさん教師も、明らかにイジメの現場を見ているのに、真顔で通り過ぎてしまう。
おじさん教師なんか、舞が閉じ込められた用具室の前でたたずんで、助けを求める声が聞こえているのに、通り過ぎる!つまり、助けてしまって事情を聞かなきゃいけない、ってことが避けたいってことなのだろう!!
担任教師も、事態を察知した保健教諭から問われても「何かあるのはどこでも普通じゃないですか。ここは平和な職場です」と能面のような顔で言い放って去っていく。それでいて、生徒に対しては「何かあったの?大丈夫??」と友好教師のような顔をしてすり寄るのだ。
……そりゃ、教師は過酷な職業だけど、これがコミックスが原作で、誇張して描かれているのだとは思うけど、……これはキツいなあ。
ラストは、舞がクラスメイト全員に対してタンカを切り、皆死ね!!と言い渡し、まるでそれに忠実に従うかのように、芝居チックに倒れていくメンメン。舞は教壇の上に女王様のように立ち、皆に死を宣告し、教室を飛び出していく。
その前に詩乃がもう、常軌を逸してしまっているというのがちょっとズルい設定のような気もする。詩乃のような女の子は昔から、私の時代から、いじめられやすい対象だった。
勿論、何が悪い訳じゃない。ただ、つけこまれやすいのだ。つまり、舞のように“そこそこ”の計算がきかない。きかなくていいんだけど。私も似たような感じだったから、苦く判るのだ。
そしてその彼女がいじめられっ子に反転し、更には常軌を逸してしまうというのが、なんか、そりゃないでしょと思って、悲しくなってしまうのだ。
「あの子は普通じゃない」て片付けられるならそりゃ簡単だし、家庭環境にその理由を付与されるのもあまりに簡単すぎるからさあ……。★★★☆☆
でも、こんな大騒ぎになると、ついついそのヒットの要因をガラでもなくあれこれしたくなってしまう。男の子と女の子の入れ替わりという、もう即座に「転校生」をほうふつとさせる。
そしてもちろん、同じタイトルを持つあの作品と同じくすれ違いまくる、しかもちゃんと、あの名シーン、数寄屋橋の上を想起させるシーンまである!
そんな映画伝説にきちんとオマージュを捧げつつ、オマージュという言葉が時に持つオタクっぽさはなく、とても基本的な、いい意味での大衆性があるというか。
そして、今回は色々外部のヒットメーカーを呼んでるのね、とこの期に及んで知るんである。
ジブリだのなんだのと、超有名どころである。キャラというか画から受ける明るさというか、なんとなく今までの(少なくとも私が見た限りでの)新海監督とは少し違うように思った、そう、このメジャー感はそこから出ているのね、とはたと膝を打つんである。
新海監督は光の描写が圧倒的に素晴らしいお人だけれど、それは逆に闇というか、闇の中の光というか、夜の中の光というか、具体的に言えば夜の電車の描写とかね……そういう、美しいけれど孤独や寂しさをたまらなく感じさせる印象があったんだけれど、本作はそうしたメジャー感のせいか、光り輝いている。
こんな風に大ヒットするとMVみたいだとか映画老人たちはすぐ揶揄したがるわねと思っていたが、確かにそうした印象を受ける新海作品というのも今までにはなかった。
作風にピタリの曲やミュージシャンを現代の中から絶妙にチョイスするというのも新海作品の魅力だけれど、それが今回はより先鋭的に若々しくパーンとはじけた感じがあって。
やっぱり何か、確実に、今までの新海作品とは、違ったのだ。彼自身は変わらないと言うかもしれないけれど、少なくとも見え方、売り方は、確実に違った。
でも、やはり、というか、当然、というか。新海監督はいつでもオリジナルなのだからまあ当然、ああ、新海監督だなあ、という肌合いは隠しようもないんである。
実は、未見なのに言うのもアレなんだけど、その伝説のデビュー作「ほしのこえ」のコンセプトには凄く強い印象があって、だからスクリーンにかかる機会を待ち続けているのだが……。
つまりね、時間差の恋よ。遠距離どころの騒ぎじゃない。決定的に離れすぎ。すれ違っているどころの騒ぎじゃない筈なのに、なのに二人はつながってて、どうしようもなくつながってて、でもどうしようもなく会えなくて、だからどうしようもなく切ない。
観てないのに語るなって感じだが(爆)、でも本作を観ている間中頭の中をよぎりまくって、これだけメジャー感たっぷりに打って出て見事成功してのメガヒットだけれど、実は原点に戻って来たんじゃないか、という気がしたのだ。
なんて言っちゃうと、いわばオチバレなんだけど、もうこれだけヒットしているんだから、いいでしょ(爆)。
最初は、というかかなり後半になるまで当事者である三葉と瀧も、彼らを隔てているのは距離だけだと思っていたのだ。いや、むしろ距離もない。だって二人は身体が入れ替わってしまうのだから。
遠い山村の少女と東京の少年は、確かに距離以上に環境も全然違うけれど、入れ替わりというファンタジックによって、その距離もゼロになってしまっていると、無意識に思っていた。
なのに実際は、少女、三葉は瀧の時間軸より三年前、つまり瀧から見ると……更に言うと観客の視点から見ると、ここで描写される三葉はいないのだ。
もっと言ってしまうと、三葉はもう、いない。この三年のズレの間に、死んでしまっているのだ。しかも死んでしまったのは彼女だけではなく、彼女の暮らすつつましやかな神道芸能が息づくこの村の、殆どの人たちが、千年に一度の彗星のかけらの墜落によって村が壊滅、死んでしまったのだ!!
ようまあ、こんな決定的なネタが、これほどの大ヒットをしてて私の耳に入ってこなかったもんだと、みんなエラいな、ネタバレせずに広めるのね(爆)。
彗星がまるで、降る雨のように夜空を突き刺していく描写はまさに新海監督の真骨頂であると同時に、散々先述した未見のデビュー作が織りなす、遠い遠い、光線の先の星の世界を思わせた。
彗星の激突によって村が壊滅する、つまりは未曽有の大災害であり、かなりリアリスティックに村が壊れ行くさまを描写するので、やはり様々な大災害に接している日本人たちとしては、少し身のすくむ思いがする。
これは、悲しく胸が潰れる物語なのかと思う。二人は再会出来ないのかと思う。会えばすぐに判る。絶対に、と確信しあっていたのに、三葉は死んでしまって村は壊滅して終わりなのかと。
タイムパラドックス。この言葉をこれほどまでに肯定的に感じたことはなかった。本来ならばタイムワープものを否定するためだけにある言葉だ。結局はファンタジーだと。
村が壊滅することを二人が知った時、なんとかそれを食い止めたいと思った。それは……数々の大災害を経験した日本に住む人たちにとって、誰もが見る夢であり、あるいは見てはいけない夢と言ってもいいかもしれない。
そういう意味でこのアイディアはかなり諸刃の剣なのだけれど、臆面もなく言ってしまえば、二人の想い、会いたいという思いがそれを乗り越えてしまった、のだろう。
ただ、その代わりに、二人はお互いの記憶を失う。
もっと正確に言えば、名前を忘れてしまう。
いや、顔とか人間関係とか、そういう詳細も含めてのことなのだけれど、なんたって「君の名は。」なのであり、そう言って二人が時空を超えて探し合うのだから。
そして結果的にお互いを見つけるのは、決して姿かたちの記憶ではない。まさに、「会えば絶対に判る」
入れ替わっていたんだから姿かたちと思えなくもないけど、違うと思う。それは、運命の人だから、世界でたった一人の運命の人だから判る、ということなのだ。
ひょっとしたら、これこそが、大ヒットの要因だったのかもしれない。
こんなほっぺたが赤くなるようなことを、本気で信じさせて涙させるほどの、つまりもう、これ以上ない大ホラ話。映画ってそういうことだけど、それをどれだけ真に迫って信じさせてくれるかと、いうことなのだ。
なんかここまで彼らの詳細をすっとばしてしまったが、ことに女の子、三葉の方はかなり特殊なキャラ設定である。単に田舎の女の子ではない。山深い村の伝統ある神社の跡取り娘である。
まあ、跡取りをしろと言われている訳じゃない。本人はこの何にもない田舎町と、皆に嫌われてる町長の父親、何より巫女の勤めがクラスメイト達に陰口叩かれていることに本気で嫌気がさしてて、「生まれ変わったら、東京のイケメンになりたーい!!」と叫んで妹にあきれ顔をされる。
これが一つの伏線と言えなくもないけれど、でも違うよね。代々、この巫女の家系はそんな経験をしてきたのだと、入れ替わった中身が三葉ではないと見抜いたおばあちゃんの言葉で明らかになる。
「夢の中で入れ替わっている」という二人の言い分なので、それが夢の中の出来事なのか、あるいは現実なのか、結局はタイムパラドックスを調整する意味合いによって二人の記憶が失われてしまうので、霧の中なのだけれど。
でも……女の子は。特に女になる前の女の子は、そんな能力がある、そんなナマな言い方はしなかったけど、きっとそういうことなのだ。
だからこそ何かと穢れと言われる女なのに、巫女は神の前でかしずくことが出来るのは、当然そういう意味。しかもくちかみ酒(口の中で米を噛んで吐き出して発酵させた酒)なんて、いかにも処女の穢れなき捧げものじゃないの!!
そしてまさにそれが、二人の時空をつなぐカギになるんだからさ……。というのは後の話だが、入れ替わりといい、この処女性といい、お互いまだ男と女になる前の、ユニセックス的な魅力、つまり穢れなさ、純愛、なんていうのが死語にならない奇跡、というのもヒットの要因だったのかしらん、と思っちゃう。
お互いが自分の身体にはないソレに戸惑いまくるという青い描写は必須であるにしても、それはそれこそクラシックに見覚えのあるもので、そこじゃない、と思うんだよね。
いくら自分にはないおっぱいをもみもみして、三葉の妹にいぶかしがられても、トイレに入って「生々しすぎる……」と青くなっても、それはセックスの生々しさにまでは至らないのだ。
結局二人は、キスどころか、手さえつなげない。究極のプラトニック。勿論、運命の人として再会した後の含みは持たせるにしても。そして特に男子側を演じるのが神木君ってのが、女子言葉になっても違和感が少ないからさ!
本作は、大ヒットの後、聖地巡礼が社会現象となったことでも大きな話題となった。勿論、舞台となった場所はあるけれども、劇中の地名は架空だし、オフィシャルサイトでさえ、ここが舞台になったと明言している訳ではない。
あくまでオプション情報として流布したということだし、壊滅した村という展開もあいまって、やはりこれは、現実には実在しない場所、という気持ちで見るべきなんじゃないかという気持ちがしている。
三年前に消え去った村。タイムパラドックスによって村人たちを大量に救うことが出来たにしても、村は、消え去ったのだ。夢のように降り注ぐ彗星によって。
最後の最後に、二人が出会う前に三葉が瀧に会いに行っていた事実が明かされて、ズギュドーン!と胸を撃ち抜かれる。つまり、この三年のタイムラグに気づいていない二人、というか三葉が出会う前に出会ったことによって、すべての奇跡が始まったんである。
電車のドアや家の障子戸などが閉まったり開いたりを、至近距離のアングルでひどくヴィヴィッドに映し出す。「私は三葉!」そう言って、電車の中の瀧に、髪を結っていた組紐を投げ出した。
組紐というのも、このロケーションを限定させる郷土文化であり、結びの文化ってのは確かに日本独特の……時に怨念さえ感じさせるような感じがある。
おばあちゃんが二人の姉妹を連れていく。「ここから、あの世だよ」とおばあちゃんが明言する場所。ご神体を収めに自ら仕込んだくちかみ酒を携えた姉妹は、おばあちゃんと共にこの場所に赴く。ただ、この時三葉と瀧は入れ替わってて、それが、二人の運命を、そして村人たちの運命を大きく変えることになるのだ。
あの世とこの世の境界とか、生まれ変わりとか。日本は特にそういう、結界みたいな文化があって、穢れとか思春期前の男の子と女の子とか、処女とかセックスの経験の有無とか、いろいろあって。
彗星というのも天の意思というか。天の意思によって運命が決まるハッピーエンドに皆が熱狂したことに、少々の怖さを感じつつ、でもみんな、奇跡を信じたいのかもしれない、と思う。
素敵な友人たちに言及するだけの余裕がなかった!!★★★★☆
でも、そうか、京都で、で、この年頃の男の子と女の子でこんなにゆるりとした、だなんて、それこそちょっと、どころでなく普通ではない、のかもしれない。赤田君が冒頭、ゆるゆると夢から覚めたような感じで目覚め、やっべ!と慌ててズボンをはき損ねてドタリと倒れて両足さかさまとか、なんか懐かしい描写があって、それが全然わたわたに感じない。
可愛らしい舞妓さん二人の隣を自転車で疾走していく、真夏のまぶしすぎる白い光の中を。模試に間に合わへん、と口では焦っているのに、途中、同級生が模試をさぼってライブの練習に行くのに行き合ってのんびり会話を交わしたり。
学校に向かう筈の道もひどく閑静で、氷ののれんがのどかにはためいていたりして、まるでこの世界に彼がたった一人取り残されているみたいなのだ。とてもとても、模試に行くようには、見えない。学校に向かう道筋には、見えない。
実際、この最初のエピソードで、赤田君は模試には行かないんである。模試の様子はその後ちらりと挿入されるけれど、赤田君がその後学校にいる時はやはり大抵一人で、夜だったりして、なんだか現実味がない。
大体、この最初のエピソードでの彼の登場具合は、そうしたゆらり加減をドンピシャにあらわしている。もう目覚めている筈なのに、もう一度目を閉じて、瞼の中に焼き付いた輪郭と、実際の障子の格子の輪郭を重ね合わせてみたりする。
彼自身のモノローグによる、夢とうつつの間の夏の朝。いや、夏休みの朝。そうだ、夏休みだからなのだ、この現実味のなさは。その後、赤田君が幼なじみの少女、みことから、「来年の今頃は受験生」と言われるシーンでそれは明確になる。
高校入って初めての夏休みとも、受験に専念しなければならない三年生の夏休みとも違う、どこか緩慢に、でも将来のことを考えなければいけないのかなぁ、というかすかな焦りを感じるこの季節、ああ、そんな季節があったかな、遠すぎて私は、忘れてしまった。
原作から三つピックアップされているという。だからラストのオリジナルは衝撃のラスト??なんか最後の方は眠くって(爆)そんなんあったかなとも思っちゃうが、覚えている限り行く(爆爆)。
この最初のエピソード「僕は歪んだ瓦の上で」は、特に考えもせずに模試に行ったり行かなかったりの赤田君と対照的に、ライブハウスでの演奏を選ぶ同級生の公平の姿が描かれる。
この保守的な京都の町で、ライブハウスの肩身は狭いらしく、良心的なこのコヤも閉じられる運命にある。そして公平君は東京へ出て行く決意をするんである。
赤田君との邂逅はだから、このワンエピソードだけで、なのに青春のきらめきそのものの強い印象を残す。
ライブハウスで生真面目にソフトドリンクを頼む赤田君、土手で缶ビールをおいしそうに飲み干す公平君、じゃぶじゃぶと川の中に入って二人戯れる、ちょっと顔が赤くなっちゃうようなザ・青春のシーンの後に、公平君はこの地を出て行った。
赤田君はぼんやりと五山の送り火を眺めている。その文字を映して飲み込むという風習を、みことが盃を携えて持ってくる。瓦屋根の上で大文字焼きそのままに大の字になっていた赤田君は、彼女に差し出されるままにごくりと飲み込み「酒やないか!」ほがらかに笑うみこと。
ああ、近頃お目にかかれないほどの青春!二人の制服姿も、セーラーと白シャツ黒ボトムでめっちゃ固い。それこそ現実味がないぐらいだ……。この精霊が生きていそうな京都の町で、クラシックすぎる、清楚すぎる彼らが、現実じゃないみたいだ。
最初のエピソードで、瓦屋根の上のアニメーションの猫にあれっと思った。部分的アニメーションは、目を凝らさなければ気づかないぐらい。次のエピソードは、「銀河系星電気」セイ、が星の字になっているのがニクいんである。
京都というと都会なイメージもあるけど、やはりこうこうとした照明は嫌っているのかなあ、と思う。夜になると、突然に暗くなる。学校で自習をしていた赤田君が居眠りをしているうちに夜になっちゃう。帰ってこない弟を心配する、小料理屋の女将が佐津川愛美。まあ!
みことが、多分学校にいるだろうと、探しに来る。そうそう、この夏休みの学校で遭遇するその前のエピソードが、イイのだ。
みことの方は部活なのか遊びなのか、バトミントンをやってて、赤田君の自習している教室の窓にシャトルが飛び込んでくる。そこにほどなくして息を弾ませて駆け込んでくるみこと。こんなの、今成立するのかと疑いたくなるほど、清冽な青春の一ページ。
その後、夜の学校で二人きりになる彼と彼女なのに、もう、信じられないほどに清冽なのだ。「見つかったら誤解される。融通が利かないから」と警備員から隠れるくせに、彼らが共有するのはハグでもキスでもなくて(爆)、窓からこうこうと差し込む大きな月に二人して見とれること、なんである。それも、銀河系には地球よりずっと優れた文明があるに違いない、何にもできてないのに、地球人はあの月に足跡は残したんだなと語り合った後での、まぶしいほどの月の光。
あ、ちょっとだけ、手はつないだか。みことが立ち上がる時、手を差し出した……でもそれだけなの!!いや、つーか、本作は別にラブがメインじゃないから、いやでもでも、だったら一体何がメインと言われると困るんだけど(爆)。
赤田君とみことは、想い合っているというほどのきちんとしたラブじゃないのよ。むしろ、私は第三のエピソードが一番、好きだったかもしれない。
「金の糸」それは、赤田君のお父さんのお仕事の伝統工芸。細く細く切った金箔の“糸”を工芸品に貼りつけていく仕事。しんっじられないぐらい、繊細な仕事。お父さんは息子に、仕事を継げとか、やってみろとか、そんなことは言わないの。まだ二年生で受験生ではないからなのか、勉強に関してうるさく言うこともない。むしろ、赤田君の方が、今から勉強するところやった、などとわたわたするぐらい。
赤田君には、サッと東京に行ってしまった公平君のようなハッキリとした目標はない。少し、公平君の潔さに対して焦っているようなところはあるけれど、「でも、京都が好きやしなあ」てな感じなんである。
家業を継ぐとかいうことも、ぼんやりとは考えていたのかもしれないけれど、「初めて仕事を教えてもらった」というモノローグのニュアンスは、先述したような高校二年生という独特の緩慢さにしたって、随分とのんびりさんだなあ、という気もする。それこそが、本作の独特の緩やかさなのだろうけれど。
この、仕事を教えてもらうっていうシーンは、赤田君がガラの悪い同級生とケンカするシーンを、時間軸を少しずらして繰り返して、丁寧に描かれる。顔に大きなくまをつくって帰ってきた息子に、「ケンカしたんか」「うん」というやり取りだけで、「やってみるか」と促す寡黙な父親が、なんとも素敵なんである。
この時は、あの穏やかな赤田君がいきなりアザ作って帰ってきて、いきなりお父さんに仕事習いだすから、何何何、と思ったが、好きな女の子のために悪い奴とケンカする、というお父さんの伝説?をなぞる形で、時間軸を前後させて、丁寧に描いていくんである。
てことは、これがオリジナルのエピソード??確かにいきなり明確な展開な気はしたが……。威圧的な同級生、判りやすくジャイアン風な小島君にみことは憤り、相手にしないままやり過ごそうとする赤田君にも憤り、「ポカン!とかやれへんの!」と言い捨てて、駆けていく。うーむ、なんかミナミちゃんみたいである(?)。
その小島君に、土砂降りの中突然闘いを挑むのは、映画的クライマックスを用意したというところなのかなあ。あの土砂降りはいきなりベタな映画的な感じは確かにしたかもしれない。
「重ね合わせるのです。いつかの僕と、ここにいる僕を。」印象的に刻印されるモノローグ。いつかの僕は決して選ばなかった様々な選択と行動。何より印象的だったのは、見えないぐらいにひそやかに河原でリラックスしてたり、身体をなめたり、そしてその猫目をキラキラと輝かせている猫たちのアニメーションだった。
突然猫だけがアニメーションで紛れ込んでくることで、ここが現実じゃない、のかもしれない、という独特の緊張感と、それとは対照的なノスタルジックさを同時に置き去っていった。
ずっと、時間が止まったような、かき回されているような京都の森閑とした幻想的な空間にいたのに、みことと繁華街でデートする段に至って、急に現実に帰ってくる。寂しいような、気もする。それでも彼は、このまま京都で生きていくのだろうけれど。★★★☆☆