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凪の海
2019年 95分 日本 カラー
監督:早川大介 脚本:いながききよたか
撮影:ケイヴァン・サレプール 音楽:山下雄太
出演:永岡佑 小園優 柳英里紗 湯澤俊典 外波山文明 中井庸友 宇田川さや香 鶴来快斗 安山夢子
兄へのコンプレックスというテーマも、勿論普遍的なものではあるけれど、やはり少し、古風な気がした。先に亡くなった母も兄ばかりを愛していた。
そして父も、長男が消えた海に墓から妻の遺骨を取り出してまいて、言った。「俺よりもあいつを愛していたから」
父と一緒に小舟に乗りながらその台詞を聞いていた圭介の表情一発で、そのコンプレックスは判ってしまう。
そしてもう一組、きょうだいがいる。閉じられた兄と妹である。たった二人で寄り添うように暮らしている。貝の養殖が生業で、二人で黙々と働いている。妹は足が悪く、ひげもじゃの兄は何か罪滅ぼしでもしているような顔で妹の足をマッサージする。
そこへ帰郷してくる圭介という存在は、兄にとってはこの閉じられた世界をかき回す悪魔といった拒絶感を示す。いや、圭介に限らず、妹との生活を壊す存在は誰であろうと許さない、そんなかたくなさ。
ちょっとどころじゃなく、大分怖い。弱き妹を守る、というかたくなさは、歪んだ愛情、いやもしかして別の意味での歪んだ愛情じゃないでしょうね……と心配するが、そっちの方向にはいかないところも奥ゆかしいんである。
彼はあくまで、妹を愛し、心配している。それには両親が焼死してしまったという壮絶な過去と、実は無理心中になる予定だったという壮絶な秘密があるからなんである。
その秘密から兄は妹を守ろうとする。でも大抵そんな秘密は当人は知っているんである。このあたりの物語のカラクリも古風である。
足が悪い女の子、というのも、なんだか懐かしいような設定。確かに歩みは遅いけれども、その理由だけで熊のような兄に囲われて暮らしているというのは、彼女の言うとおり、それを言い訳にするのにはかなり弱い気がする。
それが彼女自身の弱さだといえばそれまでだが、それこそ古風に、圭介という王子様が迎えに来るのを待ってたんじゃないかと思ってしまう。
この町から出て行きたくてしょうがないのに、足が悪いこと、そしてお兄ちゃんを理由にして行動できずにいる、とつぶやくように告げたのは、圭介が東京には戻らず、この町で暮らすと言った直後のことだった。
つまり彼は、全然判っていなかった。成功してようとしてなかろうと、そんなことは関係ない。出て行ける者とそうじゃない者。行動できる者とそうじゃない者。
でもこの図式も古風な気がする。古風古風言い過ぎだけど(爆)。地方<東京という価値観が、今こうして書いてもどうしても不自然に思えてしまうのだ。
それはのうのうと東京で暮らしている元地方人の私が言うべきじゃないのかもしれないけど、実際確かに今だって、そういうギャップはないとは言わないけど、感覚としては20年ぐらい前みたいな感じがしてしまう。
いわばこの物語世界は、懐古的な美しさという感じで、嫌いぬいている故郷だけど、故郷があることの幸せというアンビバレンツが、今は逆になかなかに得難いということなのかもしれない。
元兄嫁が、柳英里紗嬢である。さすがキーマンとして物語をひっかきまわす。彼女は圭介ほどではないがヨソモノであり、いや、ある意味圭介よりヨソモノである。
近い町には住んでいるけれど、元ダンナの葬式に出張ってきただけで白い目で見られ、しかもその後、なぜ彼は死んだのか、いや、彼女自身の中にあるモヤモヤを整理したくてその死の理由を探る中で、彼女への町中からの冷たい視線がありありと描写される。
しかしそれは一方で、死んでしまった彼女の元夫が美化され、彼自身がその孤独の中で死んでいったということをも象徴している。
町中のだれからも好かれ、リーダーシップがあり、親たちにとっても自慢の息子だった。しかしその元妻であり、弟である立場からは、あまりにまぶしすぎて、自分が影になる苦しさを味合わされた人物、だと思っていたのだが、もしかして自殺かもしれないということになってくると、様相が変わってくる。
事故ではなかったのかもしれない、という情報をもたらすのは、あのひげもじゃ男、洋である。漁の道具を何も積まないで、海に出て行ったのだと。天気は良かったが、急変した。でも経験のある彼が、それを見通せない訳がなかったと。
弟は優秀な兄から逃れるように、東京に出た。だから優秀な兄を、いわば憎んでいた。今だ芽も出ずにくすぶっている自分こそが弱いと思い込んでいた。凪(足の悪い女の子ね)への想いもあってこの町にとどまろうとするんだけれども、父親にしばき倒される。お前は誰やと。誰も誰かの身代わりになんかなれない。そう綴ると陳腐だけど、この台詞は良かった。
「お前は誰や」これは人間の中での永遠のテーマであるだろうと思う。古風とか言っちゃったけど、私だって優秀な姉へのコンプレックスは、まさに劇中の圭介と同じようにあった。
この兄が“死んだ”と確定された葬式によって、圭介と元嫁は、太陽のような人であったその人と自分を引き比べてきた人生だったから、ほっとした自分を自覚し、そのことに苦悩する。
ただ、遺体も見つからない状態での葬式は、その人をある意味ムリヤリ死なせるという意味である。そして太陽のようであったその人の死の真相が自殺であったかもしれないことを聞かされても、父親は驚かないどころか、もはやそんなことは先刻承知だった風なのだ。
ぐちぐち言いやがる次男の方が実は行動力があって強く、長男は期待されていることに応えらないことへのプレッシャー、人間的弱さがあったのだと。
……この定義もまたなかなかに懐かしムードである。長子と下の子で割と語られがちな分け方で、久しぶりに聞いたなという感じがする。
お兄ちゃんへの想いよりも、愛されなかった(と勝手に思っている)両親へのウラミと、未完のままの恋に気をとられる圭介は、ちょっと甘ちゃんな気もしちゃうんである。
どうやら、この町にいた時からそれなりに想いを寄せ合っていることを自覚し合っている相手だったらしい。凪ちゃんは童顔で、最初は中学生かなと思ったぐらいだった。外部との接触を厳しく禁じる兄に奴隷のようにこうべを垂れて日々を過ごしている。
と言っちゃうと暴力でも受けて閉じ込められているみたいだが、そういうんじゃなく、ごく普通の生活を送っているんだけれど、兄は妹が外とかかわりを持つことを極度に恐れ、恋愛なんて冗談じゃなく、圭介が帰ってきてからは警戒モード全開で、ついには妹を縛り上げて監禁しちゃうなんて暴挙にまで出る。
それはあまりにも浅慮な行動だったから、圭介の元兄嫁に助け出され、それでなくても犬猿の仲の彼らはけんつくし合うのだが、“内側”にいることに劣等感というプライドを持っているようなねじくれたひげもじゃ兄ちゃんは、“ヨソモノ”である圭介や彼の元兄嫁に、古風な拒否感を示すのだ。
もちろんこの兄ちゃんだって、判っていたに違いない。むしろ、妹を連れ出す誰かか何かを待っていたのかもしれない。妹を守るということがどういうことなのか、なんだかこれじゃあ、判らなくなってしまったみたいな感じなんだもの。
妹を連れていくのか、連れていく、という問答の後、これまたなんか甘酸っぱい懐かしさの取っ組み合い。……正直、恋人に連れ出されなければ閉じられた世界から抜け出せない女なんて、今のこの世に存在するのかよと思っちゃうけどね!!
……と思った気持ちが通じた訳でもなかろうが、まさかの、凪ちゃんの死である。えー!!なんでなんで!!事故死のような雰囲気もあったが、なんか判らない。突然海中に没したような感があった。……そこまで悲劇的にする必要、なくない……悲劇の女はここから出て行くことも出来ないのかよ……。
凪ちゃんが死ぬ前に、圭介と海辺で気持ちと身体を交わし合うという、これまたなんかもう、設定からして懐かしすぎる感じで、懐かしい言い過ぎだけど(爆)。
闇の中にうっすらと見える、凪ちゃんの童女のような清らかなおっぱいが、何かこの後の痛ましい予感を感じさせるほどに、彼女がこの後、俗世界で生きていく感じが、しないんだもの。
そういう意味では、足の悪い女の子、壮絶な理由で両親を失った女の子、兄と二人静かに暮らしている女の子、でもその兄が、過剰故にねじれた愛情で閉じ込めてくる……。もうなんか、グリム童話みたいなんだもの。
その凪ちゃんが圭介に救い出されて、あのごちゃごちゃした東京で幸せに暮らしていく想像がやっぱり全然わかない。だからこれは、やっぱりやっぱり、なんか懐かしく、古風で、非現実的なのだ。言っちゃえば、女の子をカワイソウの中に閉じ込めているだけのように、思えてしまうのだ。
圭介の父親、老いた漁師の外波山文明氏が素晴らしい存在感で、時折私の中で顔を出す疑問を、ねじ伏せてくれる。
特に、お前は誰だ、と圭介をしばき倒す場面は胸に響きまくった。それはもしかしたら、私自身が言ってもらいたいことだったかもしれないから。誰かの代わりは、誰も出来ない。まさに普遍的で古風なテーマだけど、それをしっかりと刻めたのは、このベテラン俳優の土着的なリアリティこそであった。
★★★☆☆
せっかく娘が産まれてウキウキしている彼に終始仏頂面で、何ヘラヘラしてんの、絶対限界来るよ、とただただ決めつける嫁さんに理解が出来ず、何を根拠にそんなに彼を頭ごなしに否定するのかなあ……と思ってしまう。
娘が産まれて顔が緩むのを隠し切れないなんて、素敵じゃないの。抱いたら泣かれてしまって戸惑うなんて、可愛いじゃないの。それをもう!!とばかりに抱き取ってこれみよがしによーしよし、なんて言って、先述みたいに夫を否定しまくる彼女に疑問符ばかりがたってしまう。
確かにたすくはこのデキ婚に特にちゃんと考えもせず、なんとかなるさ的にここに至ったのかもしれないが、でもそれでもいいじゃないかと思っちゃう。子供に愛情を注げるのなら。なんか私的には最初でつまづいちゃった感がある。
ところで舞台は秋田である。そしてタイトルからも判るとおり、なまはげである。拠点をふるさとに移しているギバちゃんが出るのは大納得である。
彼はなまはげ保存会のリーダーであり、たすくがその活動をぶっ壊したことに一生許さないぐらい激怒している。これも……これはずっと後々の展開になるんだけれど、少々理解しがたく感じるところなんである。
つまりは、たすくがなまはげ行事の後の酒を断り切れず、てゆーか多分嫁さんのこともあってストレスから泥酔し、泥酔していたんだから正気ではなかったにしても、やっぱりそこはストレスから来た奇行だったんだろう……なまはげの面をつけたまま全裸になって疾走しているところを取材に来ていた全国放送のカメラがとらえちゃったんであった。
そのことで批判が殺到、それでなくても存亡の危機に瀕していたなまはげ文化、この町では存続しているよというのが誇りだったのに一年見送りになってしまう。その後、こっそりと故郷に帰ってきたたすくを、決して彼らは許さないのだ。特にこのリーダーは。死ねと言わんばかりなのだ。
そもそも、子供も生まれたばかりだし、今回は抜けたいと言っていたたすくをムリヤリ引き入れたのに。強制ではない。でもこんな大先輩から言われたら、断れるわけがない。そして奥さんから飲んでこないでよと言われたって、なんたってこれは祭りであり神事であり、酒は不可欠なのだ。
奥さんの台詞の感じでは、どうやらたすくはなまはげとセットになっている酒でこれまでに結構失態を犯しているのかなとも思ったが、それもまた特に明らかにされないので、酒に対して神経をとがらせる奥さんも形骸化されたそれのように感じてイマイチピンとこないのだ。
そもそも秋田に生まれ育って、なまはげ文化、その活動に加わっていることこそがイヤなのだろうか。
彼女はなまはげに関しては全く何の意見も言わず、秋田の人なのかどうかさえ疑われるほど関心がなく、訛りもなく、正直ちょっとキャラ設定が甘いんじゃないのかなあ……と思っちゃったりする。
で、ちょっと脱線したけど、こんな風に断り切れない立場だったのに、まあ確かにやっちまった事件ではあるにせよ、リーダーがこんな激怒するってのは……ロケーションを提供した秋田県さん側はこの作劇にどう思うのかなあとついつい思ってしまう。
確かに文化は大事、そして神事でもあるほどに歴史のある文化が、神事にはつきものの酒で、それに仕える下々のものが失態を犯したからって、神様がそんな怒るとは思えない。そして、そういう神事の理解を出来ているなら、その活動に尽力していた人を、活動を妨げるからと斬って捨てるのは理不尽というか、理にかなってない。
私は転勤族の根無し草だけど、東北に育った身としては、こんな狭い了見持ってるかなあと、なんか悔しく思っちゃうのだ。
確かに外に対する見栄っ張りなところはあるけど、神様の力こそを信じていると思うし、全国に恥をさらしたことと身内への愛情で、前者が勝つ、ってことは、郷土愛(以上に中央へのコンプレックス)が強い東北では考えにくいと思うんだけどなあ……。
まあてなわけで、2年後、たすくは東京で働いている。一人の食い扶持を稼ぐだけの生活。同僚たちの飲み会でつぶれちゃった女の子を泊めるが、朝起きた彼女からの「童貞なんですかー??」とガッツのある襲いかかりにも「俺、娘いるから!」と逃げ腰である。
彼の若さ、実年齢もそうだけど、若く見える感じは、冒頭の、娘の出生届を出しに行くシーンと、この告白にマジに驚く同僚の女の子のシーンで強く印象付けられる。それは……印象としての若さ、つまり頼りなさ、なのだろうか。こうして重ねて違う方面から念を押されるように示されるのは。
でも、そんなこと言われたってなあ、という気持になる。まるで彼の気持ちを肩代わりするかのように、思っちゃう。
これまた少々すっ飛ばしての話なのだが、2年も経って今更ながら決死の覚悟で元嫁にアタックするたすくだが、彼女はもう再婚するからとにべもないんである。
その時点で彼女はキャバ嬢で、慣れない酒にオエオエしてて、たすくはこんな仕事をさせている男に任せられないと意気込むんだけれど、まあ恐らく、そんな仕事から救い出してくれた男と思われるんである。
残酷なぐらい、外見だけでメッチャ頼りがいのある男、なんだもの。まずがっしりした体躯、人懐こい笑顔、決定打は、たすくが一目娘の姿を見たいとこっそり紛れ込んだ幼稚園の発表会、元嫁の隣でニッコニコでカメラを構えているこの男の姿に、完敗した、と思った。
しかもたすくは、赤ちゃんの時から2年も会っていないから、娘がどの子かさえ、判らないのだ。これはキツい。元嫁は写真さえくれなかったのか。キッツい。
……かなりすっ飛ばしてしまう。そうそう、たすくは東京で暮らしている。傷心は判るものの、嫁に拒絶されたからって、2年もアクション起こさずは確かに……ヘタレかもしれない。
幼なじみが訪ねてくる。元嫁の近況を知らせる。急に媚薬を嗅がされたようにハッとして、たすくは帰ってくる。でも……まるで犯罪者のようにコソコソしている。兄もまた、冷たい。兄もなまはげチームにいたから、弟がこんなしでかしをして肩身が狭いのは判るけど……。
ああでも、別れのシーンはちょっとイイ。ここから出ていけと冷たく兄は言い放ち、たすくはうなづくしかなく、その前に出て行った時にはそのままだっただろう、部屋の荷物を整理する。
運動会、とラベルの貼ったVHSテープが出てくる。お兄ちゃんは弟との永の別れを思ってか、それこそ幼い頃の運動会のホームビデオを感傷的に眺めていた。これはお兄ちゃんのかなあとたすくが見つけたテープをかけてみたら……爆笑!!なんと「水着ポロリ大運動会」だったんである!!つまり父親秘蔵の“運動会”!!
爆笑しながら兄弟見ているんだけれど、まずお兄ちゃんが、嗚咽を漏らしだす。お父さん、というのは、本作には登場しない。なまはげ面を作る職人だったらしい。
それが何も残っていない、とお兄ちゃんが漏らすと、あ、と言ってたすくが差し出した紙袋、それを覗いて、お兄ちゃんは弟に突き返した。つまり……弟がマッパになって全国放送に映っちまった時の面だったのだろう。
ラストシークエンスは、たすくが娘会いたさになまはげとして、強行突破する緊迫の場面である。どうなるのかと、かたずをのんで見守るばかりである。
幼なじみの友人が協力してくれる。だって不道徳を犯したたすくは、なまはげ団体から追放された身だからなんである。こうして考えてみると、フリー行動が許されていないなんて、ハロウィンとかに浮かれることを考えると、ああ、やっぱり日本的制約なんだな、と感じてしまう。
フリーなまはげ、なまはげコスプレ活動は許されないのだ。ギバちゃん演じるリーダーがなまはげ以上に鬼のように怒った描写を改めて考え直す。ああ、でもでも……なんと思ったらいいのか。
たすくが娘会いたさに、ぐずぐずのなまはげコスチュームで扉を叩く。元嫁がたすくを中に入れるまでには、かなりの攻防がある。なまはげであるたすくが入って行ってしまえば、秋田の伝統行事であるなまはげがキター!!とばかりに盛り上がる。
元嫁の再婚相手であるガタイが良くて感じも良くて、義理の娘ちゃんにもすっかり慕われているイイ男が、何より娘ちゃんのためになまはげが来たことに喜んで、泣きじゃくる娘ちゃんをいとおし気に、大丈夫、怖いね、とニッコニコなのだ。
たすくが、なまはげになっているたすくが、暴走してしまわないかとヒヤヒヤした。だって、この家をドンドンドン!!と訪ねる時点でサスペンスフルだったし、元嫁とのにらみ合いもかなりの尺を割いたし、その間に興奮状態がかなり頂点に達した感じだったから……。
でも、たすくは、なまはげに徹した。ただ、「泣く子はいねえが!!」という絶叫に混ぜ込む形で、泣く子、という言葉にまぎらすように、我が娘の名前、なぎ!なぎ!!と叫んだのだ。
ニッコニコの今夫は全く気づいてない。我が子に神事が来たことに素直に喜んでいる。そして元夫は、我が子はもちろん、誰も気づいてくれない、この可愛い女の子のタネ父であることに悶絶の哀しさで吠えている。
お母ちゃんの余さんがとても良かった。お母ちゃんとババヘラアイスを売り歩いたり、お母ちゃんが倒れちゃうとかいうシークエンスを書ききれなかった。余さんはどんな作品に出てても、特に母親役であると、子供に対して多大なる影響を与える。
たすくに対してもそうだが、結局は登場しない、なまはげの面を作った父親が、気になった。状況説明だけでさらりとだったし、妻であるたすくの母親が特に言及することもなかったのに、先述したように兄弟で父親が秘蔵していたポロリ運動会のビデオに爆笑したりするからさ。見えそで見えないというか、全然見えないのに突然重要参考人みたいに兄弟にエピソードに出てくるのが説明不足な気がしちゃって……。
本作は凄く凄く、魅力的な要素がいっぱいあるのに、なんとゆーか、もったいない準備不足がいろいろある感じがしちゃった。おばちゃんがつつきすぎかなあ。 ★★★☆☆
物語は二つの時間を交互する。現代の時間軸で、容子(嶋村かおり)はいかにも俗世間といった感じの清掃のアルバイトをしている。そう思うと彼女が熱烈な恋に落ちたほんの数年前の描写が、いかにファンタジックに美しく描かれているかが判る。
現代の時間軸では労働という時間が容赦ない昼の日の光にさらされ、汗水流して働き、同僚から手作り弁当を300円で買う。その同僚は「女子大生なんてみんなちゃらちゃら遊んでるんでしょ。私、大卒の女って嫌い。だって四年間遊び惚けて後から入ってきて、あっという間に給料を追い抜いていくんだから」といかにもひねくれたことを言う。
友人の由梨子(中島ひろ子)と共に黙って聞いているが、この清掃場所は容子の出身大学である。恐らく、花世と鮮烈な愛をはぐくんだ時に通っていたんじゃないかと思われる。
今の容子は“無掲載分の原稿料”のかつかつの漫画家生活。「前借じゃないの。前借は描いてない原稿で借りること」つまり、描いてもそうそうは載らない売れない漫画家だ。しかもひねくれたエロ漫画ばかりを描いていて、よけいに売れない。
その根っこは花世とぶつかりあったアマチュア漫画家時代にあり、ちょっと見ているだけでは判然としなくって、アングラ雑誌なのか、単なる同人誌なのか、なんかそういうちんまりとした趣味編集部みたいなところの、花形作家が花世だったんであった。
彼女のファンだった容子がそこに原稿を持ち込み、散々に罵倒されまくりながら、それなのに徐々に近づいていった。
花世は過去作に執着せず、自分の生原稿にライターで火をつけて窓から放り投げるような女だった。誤解を恐れずに言えば、ちょっとした精神分裂、もろい女、そんな気は最初からしていた。
美人だから男から言い寄られまくり、散々につまみ食いをしては捨てる。でもその理由は、「男とヤるものだと思ってた。女に産まれた以上は」と、容子と結ばれた後に語る。そのガマンがきかないから、次から次へ男を捨てたのだと。
「セックスはSMみたいなものよ」という花世の台詞は、どんな性的嗜好を持っていても、たとえストレートでも、女ならちょっと判っちゃうと思うんじゃないだろうかと思う。やっぱり肉体的、筋力的、どうしても組み伏せられる男に、強いられる感覚は、悔しい気持ちは、少なからず、ある。
そして容子と結ばれた後も、花世は自分の女性器を愛撫どころか触らせることすら強硬に拒むのだ。「あなたの手が腐る」「そんなことをされたら、男にヤラれている気になってしまう」と言って。
あんなにもきれいな女で、ひどく傲慢で、容子を高飛車に扱うのに、まるでレイプされた経験のある少女のように、女という器官をもつ自分を穢れているのだと、容子を穢れさせたくないと言い募る花世=緒川たまきが、もうこれは彼女しか演じられないリアリティとファンタジアの行ったり来たりである。
彼女は浮世離れした美人と思っていたが、こうしておっぱいまで見せられちゃうと(爆)濃厚な女としての色香が立ち上る一方で、やっぱりどこか夢の女で、話の上では男をつまみ食いしては捨てまくる肉食女なのに、ふっと、怯えた幼い少女のように思えてしまうのは、そのわがままで容子を組み伏せようとする“弱さ”があるからなのだろう。
そして、現代の時間軸で容子と友達以上恋人未満状態にある由梨子が、演じるのが中島ひろ子というのだけでも明確なように、ファンタジアどころか超リアリスティック、しっかり3D、生きている女!!という存在力だからこそである。
由梨子はプロボクサーを目指している。今はどうなのかな、当時は「女のプロボクサーなんていないよ」と由梨子は自嘲しながらも、自分がパイオニアになるべく頑張っているんである。容子にとって、同じ夢を追いかけ、その先を行っていた憧れの花世とは正反対の、生きている実感のある女の子で、それは先述のように、過去と現在の映像自体の描き方で、ぜんっぜん、違うんである。
惜しむらくは、容子や花世が描いている漫画原稿が、遠目に映すだけで、全然こっちに見せてくれないことなんである。
現在の時間軸で容子が描いているのはどうやらエログロっぽいのだが、花世と競い合っていた頃にはどうだったのか、漫画という表現こそが二人の結びつきであり、なにより容子のアイデンティティそのものであったに違いないのだから、それを見せてくれないのは歯がゆいというより、フツーになんで??と思っちゃう感じ。
原稿を持ち込んだ時には雲の上の存在だった花世と、恋仲になり、さらには共同作品集を作るまでに、つまり容子は追いつく訳だが、そのあたりから花世は明らかに創作意欲を失っていく。
いや、そもそも創作意欲なんてものを彼女は持ち合わせていたのか。著作に執着がなく、容子との共作という企画にも、読者におもねる妥協に唾棄するばかりだった。かといって、自分が描きたいものが強烈にあるようにも思えなかった。
……このあたりは、ちょっと弱いかな、という気がする。漫画家というフィールドを下敷きにするには、容子にしても花世にしても、描きたい衝動がまるで見えてこない。彼女たちを結び付ける単なるアイテムにほかならず、それがこの90年代ファッション映画的な中で、アンダーグラウンドの漫画家、というのがひとつのファッションとしてしか機能していないことを露呈していて、かなり残念なんである。
時代的にしょうがないのかなあという気もするが、どんな絵なのか、どんな原稿なのか、どんな漫画かなのかすらカメラに映さないのなら、漫画家設定意味ないだろと思っちゃう。漫画で育った年代としては。そして彼女たちだって、そういう年代でしょう。
当時の容子と花世の同僚であり、性別不詳といった感じのセリ。演じている役者さんの名前で検索してもちっとも出てこない、この作品だけにふっと登場した、という感がある。
彼女というべきだろうが、役名からは恐らく男性である彼が、現代のLGBTQの価値観にとても近い人であると思われる。だからちょっと、扱いがもったいなかった気がする。
まるで夢のようだった過去の時代から、タイムスリップしてきたかのように彼女だけが変わらず容子のそばにいる。セリの恋人だった女の子は「ウラギリよね」という結婚を控えている。
セリが容子に、かつてのアングラ編集部のあったビルが取り壊されることを耳に入れる。容子が、当時のロングヘアから手入れのしやすいショートカットになって、清掃員なんていう俗っぽいバイトして、当時のお嬢様女子大生みたいな風情から、大人になったのか、あるいは生活に疲れたのか、人生を投げ出したのか、そんな感じになっているのに対して、セリは当時のままの、ちょっとセレブ感のある、ゴージャスな女のままである。
でもだからこそ、ちょっとこの生活感の中で違和感がある。時代って、生活って、なんだろうと思ったりする。
容子は過去の記憶の清算にとりかかる。それには、自分に想いを寄せてくれる由梨子、そして自分も彼女に思いを寄せているけれど、花世の亡霊にとりつかれて抜け出せない自分を自覚しているから。
その前に、容子は原稿の依頼を受ける。これまた浮世離れした、風のように現れ、風のように去っていく石橋凌である。才能があるのにプロとして踏み出せずにくすぶっている容子をスカウトしにくる。
そして、容子と一対のように彼は花世の行方を問う。つまりこの時点で、まだ容子は花世ありきの自分なのだ。だから、決別を決意したのは、漫画を描きたいと、自分自身で漫画を描きたいと、思ったからに違いない。そしてそれは、全く違うフィールドながら、自分のアイデンティティを模索してボクシングにまい進する由梨子の存在があったからに違いなく。
取り壊されるというビルに、踏み込む。由梨子は外で待っている。そこで、セリが“地縛霊”だと言っていた、花世に出会う。「私が死んだのは、あなたに別れたいと言われたからじゃない。なぜなのかは、あなたが考えて」うーわー、投げっぱなしだわー。
容子が花世に別れ話を持ち掛けたのは、どこか駆け引きというか、「あなたの邪魔にならないために別れようって言ったのに」うーむ、昭和な感覚ね。平成の筈だが。
ここんところが双方あいまいなまま、甘美な雰囲気を出しときゃいいだろというまま終わっちゃったのは残念だったかなあ。やっぱり、そこはリアリティがないのよ。緒川たまきがおっぱい出したことでビックリしてちゃいけないのよ。
ただレズビアンというだけじゃなく、相対する二人が好きになって、衝突し合い、別れるに至るに、なぜなのか、だって数年後まで引きずり、幽霊を見ちゃうまでに引きずるんだから、「それはあなたが考えて」なんて収束されるなんて、そりゃないよ!!
もちょっとはっきりと、今現実に、容子を支えられるであろう由梨子との愛の始まりを確信出来たらなあ。やはりちょっと、90年代的ファンタジア。でもここにも、何かの始まりはあったのだ、きっと。 ★★☆☆☆
なんたって売れっ子写真家さんの初監督作品だというのだから、女の子を、そして女の子同士のラブシーンをいかに美しく撮るかという点については、当然前作を超えてやるという意識は働いただろうし、前作と違って主人公の女の子の職業をカメラマンにしたというところから、彼女が撮ったという訳ではないいわゆる挿入ショットでも、オレの写真!!みたいな美しい画をばんばん入れてくる。
それでなくても映像自体がものすごくクリアで、そして深い色合いで美しい。つまりそこに、同性愛のリアリティとかドロドロは必要ない、といったところなんである。
別に皮肉ではなくて、現代のBL作品がそうであるように、それは一つのジャンルとして成り立っていていいのかもしれないという気がしている。
2010年度版の花世は前作の緒川たまきと全く違う、ベリーショートにエキゾチックな瞳でしっかりめの眉とアイメイク、スレンダーでパンキッシュなパンツスタイルという、女子校でキャーキャー言われそうな、判りやすくビアンのタチの方、というキャラである。
そういう意味では前作のキャラよりも単純明快に、受けの立場の女の子が好きになっちゃうだろうなと思わせ、むしろこの花世が男をつまみ食いしまくっている、男からモテモテというのがピンとこないというか、不思議な気がするんである。緒川たまきだったら男からも女からもモテそうなのはよく判るんだけどね……。
漫画描きとして切磋琢磨し合う、というのは本作も同様で、ならば原作からそれがあったんだろうな。前作ではインディーズ編集社なのか同人編集なのかよく判らないような浮世離れしたサロンみたいな場所だったが、本作ではそこはリアリティがある、大学のサークル。しかも漫研じゃなくて、“裏新聞部”という、あらゆる表現者が集まる場所、というのが心憎い。
本作でも容子と花世が描く漫画は対照的ながら共に天才的な個性、と語られるのみでちっとも見せてくれない(スケッチ程度しか)のが歯がゆい。こーゆー設定なのになぜ見せてくれないのかなあ。二人分の個性の原稿を作るのはそりゃ大変だろうけど……。
漫画の中の画をよりしっかりと描くために写真が必要、というのを勧めたのは花世の方だったし、彼女の方が容子より写真の技術にも詳しかった。
容子は最初は資料作りのためだった写真の面白さの方にのめり込んでいく、のは、後に花世とのいさかいのタネになる、作品作りに対する姿勢の決定的な違いが根底にあった。
一見して反対に見えるんだけれど、自由気ままに見える花世は常に考えた上で作り上げる。奥手でマジメそうに見える容子の方が本能のまま感性のまま、やりたいと思うことをやる。
違う個性だからこそ惹かれ合ったということもあるに違いないのに、結局はその違いが別れの原因になるというのは、お互いの才能に嫉妬する部分が(特に花世の方に)大きいのだと思われる。
これが異性愛だと、日本はまだまだ男性優位社会だから、お互い違うベクトルで諦めている部分はあるから折り合いがつけられる。でも同性、特に女同士は……現実社会で男たちに虐げられているからこそ、女同士の中で負けるわけにはいかなくて。
前作もそうだったけど、本作も現在の時間軸と過去時間を行ったり来たりして描く。
容子の少女っぽさは大学生時代とまるで変わらない感じで髪型も同じだし、特に外見で分けてる感じはないのに、雰囲気でバッチリと年齢とキャリアの違いを醸し出しているのは凄い。
容子はなんとか独り立ちのカメラマンとして生活している。物撮り専門である。感性と本能で漫画を描いていたのに、まるで自分の才能を封じ込めているようである。
それを敏感に察知したのは、気の合う編集者の由梨子である。撮影の助手も買って出る彼女はあうんの呼吸で、一緒に飲みに行っても楽しい相手。容子に人物は撮らないのか、セルフポートレイトを撮ったら面白いんじゃないか、風景写真はどうか、それなら取材旅行の話があるんだけれど、と積極的に畳みかけてくる。
役名からして、前作における、ボクシングをやっている清掃の同僚、随分と変えて来たなあと思う。職業も、キャラも、風貌も、まるで違う。
いかにも華やかな女の子なのにブラジリアン柔術で鍛えているという本作の由梨子は、同じ鍛えているのでも前作の中島ひろ子が外見を女の子として武装せずに、まんま時代に歯向かっていたのと全然違ってて、なんかそれが……胸に刺さった。
どっちがどうというんじゃなくて、武装の仕方が違うだけで、世間と、社会と、そして自分と闘っているのは同じ、という気がして……。
その中で、実は意外にメインの二人の中身的には変わっていなかったのかもしれない気がする。
大きな違いは、前作の花世は自ら命を絶ったことであり、本作の花世はしばらく行方知れずにはなっているけれど、唐突に、しかもかつてのエキセントリック美女の花世とは駆けなはれた俗世タップリの姿で、偶然の再会を果たすんである。
これは大きな、そして意味ある違いだと思う。16年後の違いを探し続けて来たし、それはヤハリ、性的マイノリティに対する理解において感じたかったが、それには10年前はまだ時が熟していなくて、違うところで……。
性的マイノリティまで行き着かない、男社会に闘いを挑まなくてはいけない、そして疲れ果てる女社会の辛さが描かれることにボーゼンとするんである。
あんなに、カッコよく、美しく、シベリアンハスキーみたいな、もう噛まれたい!!みたいな、男たちをみんなソデにして、女の子もみんなメロメロにしちゃうような、しかも才能のカタマリである花世が、世に出ると、潰されてしまう。
そもそも、注目される才能の二人が作品集を出さないかと外部から打診された時の二人の反応が、すべてを物語ってた。容子は単純に喜んだ。才能が認められたというのも嬉しいし、しかもそれが愛する花世と共にであり、少ない部数でも世に出ることは大きな喜びだった。
でも花世は、変わった漫画を描く女子大生がたまたま二人、イロモノとして扱われているだけでしょ、と斬って捨てた。このあたりから二人の仲に暗雲が立ち込め始めた。
容子は花世の言う俗世間の思惑は判ってる前提で、つまりしたたかにこの話を喜んでいた訳で、花世は容子が世間知らずのように言うけれども、逆なんだよね。
それが花世も判ってくるからこそ……容子に向かってアンタこそインランでしょ、無防備なのを判ってない、ともうこうなるとヤツアタリだよねということをぶつけてくる訳で。
そう思うと、前作の花世が命を絶ってしまったのが、その弱さが、判っちゃうんだよね。本作の花世は、まず現在の時間軸で生きている、というのが絶対的な違い。
そして、シベリアンハスキーみたいに動物的&エキゾチック&性別不能予測不可能な魅力が期間限定で、今の時間軸で容子が出会う花世は、ペットショップの店員として、エプロンして犬の散歩している、もう、180度どころかねじれて一万度ぐらい違ってるのだ。髪も長くて普通に女性的である。容子があまりにも変わらないこととひどく対照的。
裏新聞部の部長が俳句の賞を受賞し、パーティーを開く段になって、思いがけず花世が現れる。思いがけず、というのは、容子のみならず当時の部員たちが花世に対して抱いていた印象であり、その美貌は変わらずとも、年相応のドレッシーな美女として現れる花世はインパクト絶大なのだ。
ただ、そう……別人、なんだよね。なんか、言いにくいな。前作の緒川たまきの浮世離れ感が現実の生命感覚に合致できずに、彼女は命を絶ち、その美しさにこそ魅せられたなんて、言いにくいことこの上ない。
だから、そういう意味では、今リアルに生きて行っている花世、というのは現実的であり、そうであるべきなんだけど、ビアンのリアルを追及できないならなあとか思っちゃうのは良くないわなあ。
女の性欲、男とヤらなきゃいけないようなプレッシャー、そもそも性的嗜好をよく考えたことがない、女に産まれたからには女を演じ、男とセックスするもんだという思想、その中で入り込んでくるビアンへの入り口……。
井戸端会議みたいに同僚女子たちが忌憚なくおしゃべりする内容こそが、リアリティ全開な気がする。
男とセックスしたいと思う前提がまず、ない。女に産まれたから、とりあえず女を生きてる。特に花世はこの点に重要な台詞を残した。「私にも性欲があるんだって思った」女だから男とセックスするんだと思って、つまみ食いの旅の中に必死に自分を見出そうとしていた。
あまたの男の子たちを傷つけたことも判ってた。その先に出会った容子に感じた性欲が彼女を変えて、容子も変えて、すべてを変えたのだ。
男性のことは判らないけど、オンナは恋愛、セックス、もっと言っちゃえば、人生そのもの、アイデンティティってことかな、すべてを、ひどくパーソナルに、濃密に、ここを突き詰めなければ死んじゃうぐらいに、価値観を設定している、と思う。
逆に、男性は、なぜそれをスルー出来るんだろうと思う。スルーしてるつもりで出来てないから、闇に堕ちちゃうんじゃないのかなあ。いや、これは性差別な言い方よね。ゴメンゴメン。★★★☆☆