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「い」


2020年鑑賞作品

生きちゃった
2020年 91分 日本 カラー
監督:石井裕也 脚本:石井裕也
撮影:加藤哲宏 音楽:河野丈洋
出演:仲野太賀 大島優子 若葉竜也 パク・ジョンボム 毎熊克哉 太田結乃 柳生みゆ レ・ロマネスク 芹澤興人 北村有起哉 原日出子 鶴見辰吾 伊佐山ひろ子 嶋田久作


2020/10/7/水 劇場(渋谷ユーロスペース)
なんというか、凄く凄く性急というか。ちょっとぐらいの粗っぽさや説明のもの足りなさや、歯がゆさにいちいち立ち止まっていられない、というか。そんな足踏みできないクリエイト欲というか、そんなものを感じる。
撮影時はコロナ禍なんてことは当然判りもしなかった訳だが、まるでそれを予測したように、今作らなければという焦燥のような勢いを感じる。

かなり面白い製作過程を経ていて、いきなり香港、アジアのお名前のクレジットがズラリと並ぶもんだから、スクリーンを間違ったかしらんと一瞬焦ったが、上海国際映画祭に端を発してアジアの気鋭の監督たちが「至上の愛」をテーマに競い合ったんだという。
なんとまあ素晴らしいこと!今はハリウッド映画日本映画なんていう単純な二極化の時代ではないことは判っていたが、そこにまさに気鋭の、若く実力があって勢いのある石井監督が飛び込んで、こんなうねまわるような作品を撮りあげたことに興奮する。

冒頭だけは、甘やかな記憶から始まる。男子二人に女子一人。中学生時代、だろうか。男子二人はギターを背負って、田舎町の小さな店先のアイスケースから迷わずパピコをそれぞれ掴んで店内に駆け込む。
いかにも白々とクソ暑そうな夏の陽光の中に飛び出してくると、女の子が体当たりするかのように彼らの前に現れ、ぽきりと折った二人のパピコを一本ずつせしめて、笑いながら駆けていく。
もうこの時点で、三人の関係性が象徴されてはいたけれど、まさかそれが、大人になってからあんなに暗闇な、シビアな展開になるとは思ってなかった。

大人、といっても、どこか少年の面影を残す、まだ20代の若き男子二人は、でもなんか既に、人生に疲れたような顔をしている。
まるで地下組織みたいにアヤシイ暗い雑居ビルの一室で、二人対一教師でつきっきりの中国語と英語のレッスンを受けている。口では、いつか二人で会社を興したい、世界を相手にしたい、だからレッスンを受けているんだと言っているけれど、そんな熱は感じられない。

ただ、「英語だと本音がスラスラ言える」と、本作の布石になるようなことを厚久は言った。起業のことよりも、妻と娘を愛していること、妻と娘のために一軒家に犬を飼いたいこと、なんていう……ほっぺたが赤くなるようなことの方こそ、だった。

厚久の親友の武田はしかし、本作においてどこか一歩引いた印象というか、むしろ狂言回しではないかと思われるぐらいである。かつては二人でストリートミュージシャンをし、デビューを目指していたこともあった、とこれも英語教師の前で語るのだが、まだ若いのに、彼らにとっては完全に過去である。
冒頭の同級生三人組のうち、厚久と女子の奈津美が結婚、幼い娘が一人いるのだが、そこまでの過程もすんなりいっていなかったことが次第に明らかになる。

厚久にはその前に婚約者がいて、それを破棄して奈津美と一緒になった。武田はどういう立ち位置だったのか……厚久と別れることになる奈津美が武田に「高校生の頃、好きだった」と告白するし、武田もその“事実”を親友のために必死に避けるような態度を見せるから、むしろ武田と奈津美の方がそういう関係に近しい感情をお互い抱いていたと思われる。
しかしそのあたりは、ていうか、本作はあらゆるところで、ご親切な説明なぞしないのだ。だからこそ不穏な不安な空気が漂う。

なぜ、厚久は奈津美と結婚したのか、奈津美を“救い出す”というのはなんだったのか。武田はその二人をどう見ていたのか。
武田自身にまるで恋愛の影が見えないのも妙に気になる。ふと、厚久のことが好きだったんじゃないかという腐女子的な妄想がよぎるぐらいである。

ある日、厚久は奈津美の浮気現場を、まさにズコバコやっているところに遭遇してしまう。
奈津美は弁解など、しなかった。それどころか、糾弾した。結婚してから5年間、ずっと苦しかったと。愛情を感じられなかったと。そう言った。
娘の学校を変えたくないから、私はここに住み続けたい、判るよね、と促した。厚久は一言も反駁せずに、判った、と言ったのだった。

奈津美がどういう状況から厚久によって“救い出された”のか、よく判らなかったけど、救い出されるより愛されたかったという奈津美の言い分は、判らなくもない。
ただ、この奈津美という女の造形は同性から見るとかなりイラッとくるヤツで(いや、男性から見てもそうかも、そうだと思いたい)、なぜなのか……言い分が正論だと判る分、余計に言い訳や正当化に聞こえるというのは訴訟体質に慣れてない日本人だからなのか。

“日本人だから”言えないのかな、泣けないのかな、というのは厚久がまるで口癖のように言っていたことだった。奈津美に言わせれば、厚久は元の婚約者に想いを残している。自分が妊娠中、その彼女が押しかけてきて、厚久は泣いており、まさにその時から厚久は変わったのだ、と奈津美は言ってはばからなかった。

彼女に言わせれば、その時からハッキリと愛情を感じられなくなったということなのだろうが、後の厚久の言い分を聞けば逆で、この時、元婚約者の彼女にハッキリと、妻を愛している、と告げた直後なのだった。
態度が変わった、というのならば、この時にギアが入って、妻と生まれ来る子供を支えなければ、とがむしゃらに働きだして、空虚になってしまった、ということなのか……なんたって説明排除の空気マンマンの本作だから、これはつまり、どちらに加担するかで見方が変わってくる。

ただね……女性陣に関しては、元婚約者にしても奈津美にしても、同性から見るとイラッとするばかりのキャラで、それは絶対計算ずくだとは思いつつ……。
二人ベクトルは全然違うけど、結局は同じな気もする。自分は男に頼らないよ、というスタンスを保ちつつ、実際は男に責任や愛情を求めて、でもいいよ、私は一人で生きて行くからさ、みたいな、結果的に男をズタボロにして罪だけ擦り付ける、みたいな。それを天使の顔をしてやるのか、悪魔の顔をしてやるのかの違いだけで、元婚約者も奈津美もさして変わらないような、気がしたのだ。

ただ……厚久の家族が、両親とお兄ちゃんなんだけど、なんというか、奇妙で……。ブキミ、と言ったらいいのか。奈津美は毛嫌いして、墓参りも行きたがらなかった。
判りやすく嫁の料理をイビる母親はまあそうなんだけど、そして引きこもりの兄も判りやすくまあそうなんだけど、意外と一番普通に見える父親、嶋田久作演じる、石のように動かずに晩酌し、とんちんかんな状況の判ってなさを露呈する、図体ばかり大きい父親こそが、ブキミなのかもと思った。

しかし判りやすく、引きこもりの兄こそが事件を起こす。厚久が奈津美と別れたことは兄にも伝えていたのに、まるでそれが伝わっていなかったかのように、お兄ちゃんは弟夫婦の元を訪ねる。すでにそこには弟はいなくて、奈津美と新しい男と娘ちゃんとで暮らしている。
……後から思えば、お兄ちゃんはそういう状況が理解しづらい感じとか、会話しててもかみ合わない感じとか、なにがしかのハンディキャップがあったのかもとも思うが、そんなことも“わざわざ”明らかにはしない。
明らかにはしないけど、お兄ちゃん激昂しちゃって、弟の仇を打つとでもいう気だったのか、この新しい男を付け回して、ボッコボコに、ガッツガツに……殴り殺してしまう、のだ。

えーっ!!そういう展開にするの!!とアゼンとする。そもそもその前に、この新しい男がひっどいクズで、働かないどころかチンピラ稼業に身を落としていて、奈津美の男を見る目のなさを露呈している訳なのだが。
でも彼女は意地があるからさ。ぜっったいに別れない。そういう覚悟であなたと一緒にいるんだからと言い放つ。でもそのウラで、厚久に養育費の振り込みを催促する。さすがにコソコソした感じで頼むけれども、ああなんて、情けない姿、である。

でもまあ判らなくはない。愛されていないから辛いから別れて、愛されていると思った男はクズだからといって、早々に見限る訳にはいかない、そこは女のプライドなのだ。判らなくはないが、つまりはテメーの見る目がなさすぎだろということであり、そのことが彼女自身を破滅に追いやる訳で、……なんかなんか、ただただ女がバカだと言われているような気がしてきて、ツラい。
厚久の母親は判りやすく鬼姑だし、奈津美の母親はどうかといえば娘を殺されて元義理の息子の厚久にあんたのせいよ!と噛みつくし、先述の婚約者にしても、それぞれ方向性は違うけど、ぜんっぜん、同性として共感できない、ツラい、見てられない女ばかりでさ……。

そうなの、奈津美まで死んじゃう、彼女もまた、殺されちゃう。奈津美の新しい男が厚久の兄に殺され、奈津美はその男がこさえた借金を返すためにデリヘル嬢になった最初の派遣先で、キチガイ男に殺された。こんな、こんなのって、ある!!殺されすぎだろ!!
厚久の両親は、長男にてこずっていたこともあってか、むしろ刑務所にブチこまれて面会に行く段になると妙に穏やかである。さびれた中華屋や、刑務所が見える公園で、記念の家族写真を撮ったりしちゃう。……最後までなんか、ブキミな家族なのだ。事態が判っているのかどうなのか。

厚久は妻の葬式に武田と共に向かうけれども、口汚くののしられて追い払われる。もう、娘のことは忘れてくれ、と言われる。まるで、すべての原因が厚久にあるように言われてあまりに心外な筈なのだが、厚久自身はその通りだと、自分のせいなんだと、鉛の玉を飲み込む様に呆然としている。
これは、この場合は、どうしたらいいのか。てゆーか、こんな身内が殺し、身内が殺されなんて、そんなムチャな展開があるのか。

厚久は奈津美が殺されたラブホテルに行きたいという。ゲイカップルを装うかのように武田とガッチリと手と手を握り合って現場に向かう。線香を手向け、パピコを供える。
ずっとずっと、厚久は涙が出なかった。日本人だからな、ずっとそれを言い訳のように口にしていた。でも次のシーン、それまでは“日本人だからかな”と感情をあらわに出来ない言い訳を口にしていたのに、引き裂かれた娘に会いたくてどうしようもなくて、来ちゃったのだ。

その結末、というか、彼自身が言うように、一緒に暮らすなんて勝利は勝ち取れないに違いない。ただ、想いを伝えたい、でもそれが怖くてたまらない。そもそも、ただ想いを伝えることが出来ないことが、本当は愛していた妻にその思いが伝わらず、こんなことになってしまった。
怖くて怖くてたまらない厚久を、双方鼻水ぶったらして号泣しながら、ダメでもいいんだ、行け!行け!!!と武田は促す。娘ちゃんと厚久のぶつかり合いはどうなったのか……直前でシャットアウトされる。

日本人だから。いや、そもそも結末がどうなったかなんて、重要じゃないのだ。その想いにようやく直面出来て、泣けなかったのは日本人だからじゃなくて、真正面から正直な想いにぶつかっていなかったからなのだ。
そのために、愛していた奥さんを亡くして、大好きなお兄ちゃんを殺人犯にしてしまったのだ。
大好きだよ!!世界で一番大事だよ!!そんな当たり前ですぐ済む言葉がなぜ今まで言えなかったのか。そして……言えるかどうかの寸前でカットアウトされる。

粗削り、だからさ……。不器用という点では、中途半端なチンピラのまま厚久のお兄ちゃんにぶっ殺された奈津美の恋人の哀れさも気になるし、弟のことをまっすぐに思ってその殺しに手を染めちゃったお兄ちゃんのことも気になるのさ。
結局は、社会は、法に照らし合わせて判断するしかない。そこから漏れてしまった人間の哀しさがある。愛は確かにあった筈なのに。

愛されたいのか、愛したいのか。愛しているのにそれが伝わらないのは、なぜ??すべてをさらけ出すのなんて出来っこない。秘密は時として必要だけど、それが裏目に出てすれ違い続けることもあるのか……。
単純にキャッキャウフフと愛し合うことがなぜできないのか。中学生の時のパピコの分け方の時から、もうパワーバランスが出来ていたのかと考えると、ベタだけど運命という言葉が頭から離れない。★★★☆☆


いつくしみふかき
2018年 107分 日本 カラー
監督:大山晃一郎 脚本:安本史哉 大山晃一郎
撮影:谷康生 音楽:吉川清之
出演:渡辺いっけい 遠山雄 平栗あつみ 榎本桜 小林英樹 こいけけいこ のーでぃ 黒田勇樹 三浦浩一 眞島秀和 塚本高史 金田明夫

2020/6/24/水 劇場(テアトル新宿)
ハズす可能性の高い作品の自分だけの基準として、ラストの協力クレジットがやたら長い、というのがあって。つまりそれだけ、準備も長く、巻き込む人も多く、地元に全面バックアップしてもらい、関わった一人一人に恥じない映画を作りたい、という気合十分な映画は、どうもバランスを欠く確率が高いような気がしてならない。
これが意外にも初主演だという渡辺いっけい氏が芝居がヘタな訳もなく、いやすべてのキャストが手練れの演技巧者ばかりなのが判るだけに、なんでこんなにヘタクソに感じるのかなあと思っちゃう。

芝居がやたらデカイのはやはり演出なのであろうし、そこが“関わった一人一人に恥じない映画”を作ろうとするばかりの、バランスの悪さのように思ってしまう。
ことに閉塞感タップリの山奥の村における、それこそそっちが悪魔にとりつかれているようなヒステリックな母親や村人たちの描写は、鼓膜が痛くなるよ……と耳をふさぎたくなるほどで。

“そっちが”というのは、ここで悪魔だと言い募られるのは、糾弾され、追い払われる男の方だからである。確かにそう言われるだけのことを彼はしたのかもしれない。
でも落ち着いて考えてみると、せいぜいコソ泥気質のちっちぇ男であり、結婚して子供が出来たあたりでめんどくさくなって、じゃあ金目の物を失敬してとんずらすっか、というぐらいのヤツだったと考えれば、それを魔女狩りならぬ悪魔がりよろしく、村の青年団だか消防団だか、たいまつ持って追い詰めまくるというのも異様な気がしてくるんである。

無論、それに至るまでにはそれ相応の理由はある。最初から、外から入り込んだうさん臭いこの男がいけ好かなかった彼の妻の弟が、自分の身を犠牲にしてこの男を悪魔に追い込んだと考えることもできる。
姉が出産中、なかなか現れないこの男、広志を探しに家に行ったら金目の物を漁りまくった形跡アリアリである。
まだ現場にいた広志と彼の義弟はもみ合い、広志が手にした包丁によって義弟は足に怪我をしたが、その後、逃走した広志を村全員の男が追い、義弟はにっくき義兄に猟銃を突き付けるまでするんだから、自分がやられたことよりずいぶん飛躍するな、という気も、落ち着いて考えればするんである。

後年この義弟は、お顔は終始穏やかだが、義兄によって負わされた足の傷が「今でも古傷が痛むでのう」と甥っ子の進一に事あるごとに言っているのだろう、進一がただただぶっすりとしているのを見れば。
血ということを言いたがるのは、確かに日本の悪しき伝統文化だが、特にこうした古い因習の残る山奥の村では……などと思わせる描写は、フェアじゃない、イマドキじゃない、という気もするんである。

何か、80年代的閉鎖された村でのホラー映画でも見ているかのようである。進一の母親のヒステリックさが特に異様である。彼女は自分がウッカリホレてしまった外から入り込んだ男、そしてそのタネで産んでしまった息子に、愛憎相半ば激しすぎる反応。
そもそも最初の出産シーンから悪魔の子を産むのかと思うようなまがまがしさでリアリティからかけ離れ、正直心が離れまくってしまうんである。まあでも、悪魔を追い払った村の方が悪魔的という皮肉なのか、いやそこまで考えているようにも思えないが……。

とにかくこんな状況で育った進一は、なのに母親からめっちゃ甘やかされている(縁側で膝枕って、30の男が!!)。こらえしょうがなく、ちっとも仕事が続かず、軽トラにスピーカーで叫びながら息子を探す母親は、ここだけはちょっとコミカルで笑えると思ったが、これ自体が超マジだと後々思い知らされるので、結局笑えない。
甘やかしながらも、回想で彼女は幼い息子に、悪い血が流れている!と、鬼の形相で責め立てるシーンが用意されている。最初からそういう目で見ているから、息子の言い分を聞く余裕がてんからないんである。

母親がそうだったら、村もそうである。なんたって進一の叔父が最初から彼を、村に不幸しかもたらさないという理由で嫌いぬいていることが象徴している。
村人の象徴ともいえるけれど、この叔父が先導している感覚は冒頭からある。むしろそっちを押し進めた方が物語としては面白かった気もするが……。

と思うのは、押し進める別の方向があるからなんである。村から追い出された悪魔の男、広志は、チンピラを手なづけてケチなゆすりをやり始める。そして進一は父親の汚名の元、身に覚えのない連続空き巣事件の犯人に仕立てられ、村から追われるんである。
この、進一が疑われる場面、なんですかね、横溝正史あたりの村の閉塞感ですかね、なんか壁に無数に飾られたお面とか無意味に映されたりして、無数の村人が阿鼻叫喚に叫んだりして、なんなんですかね。
もうねー、とにかく本作のヒステリックわざとらしさにはぐったりしちゃうんだけど、ここが最高潮だったね。もう劇場から出たくなっちゃったもん(爆)。

追い出された進一は、少し離れた町という雰囲気の教会に身を寄せる。タイトルのいつくしみふかき、はもちろん、讃美歌の一節であり、関西弁がそのキャラと共に絶妙に生臭くて面白い牧師さんが、しかしこれがまっとうに、キリスト教の隣人を愛せよ、という根幹として教え込む、テーマとなる言葉である。
後に判るのだけれど、広志はこの教会にたびたび無心に来ていて、そして裏切り、出て行く、ということを繰り返し、それは死ぬまで変わらないんである。
進一が身を寄せている間にも、広志は訪れ、牧師さんは親子の和解はならずとも、とにかくお互いとにかく会って、ぶつかり合わなければと、正体を明かさずに二人を一緒に生活させるんである。

なんたってタイトルになっているんだから、キリスト教の、つまり人間が考えるべき愛や憎しみの価値観というものが本作の根底に流れていると思う、思いたい。しかし、先述したヒステリックさや、父親側に更なる人間関係がモリモリに用意されすぎる。
そもそもこの広志という男が何を考えているのか、愛や憎しみなんてものはそもそもないのだろうとは思うが、時折それと似たような雰囲気を見え隠れさせるのは作り手としてそこまで断定しきれない欲を感じるし、なんかヘンにコメディタッチにするし、とっちらかることこの上なしなのよ。

広志が村を追われた後にケチな、カネのあるところにしのびよって上前をかすめ取るみたいな、本当にケチなことをしくさって、だからアッサリ尻尾をつかまれちゃって。
でも、なぜか広志のことを慕う手下たちなのよ。そのうちの一人は本当に心酔している。自分には家族がいない。でもアニキはそんな気がしてる。だから今回は俺にカッコつけさせてください、と自首する心意気を示す訳。まるで往年の任侠映画を観ている錯覚。実際同日観た、録画のCSチャンネル作品で、まるでおんなじ意味合いの台詞をサブちゃんから聞いたわ!!
しかし決定的に違うのは、この時熱いハグで子分を送り出した広志が、その後は保身に走って、自分はキリスト教に目覚めて改心したとばかりになって、子分たちを捨て去ったことなんである。

ただこのあたりも判りにくいのだ。牧師のところに来て、自分の息子がいて、なんかいきなり目が覚めた!みたいなのもそれまでの経過を見てると信じきれないものは確かにあって、その予感は大当たりだったにしても、100パーセント騙すつもりだったのか、ちょっと改心する気持ちはなくもなかったのか。
そういう微妙さがまるで解明されないままころころ行動が変わるから、コイツは単なる多重人格じゃないかと、その作劇のとっちら加減を呪いたくなるんである。
これはさあ、いっけい氏自身がどう思って演じていたのかマジ知りたいよ。核も芯も何もないじゃん。まあそういう、とっちらかり人間だと言われればそれまでなのだが……。

てか、そう、なにもチンピラ子分たちに進一と同じぐらいの親子的な葛藤を負わせることが、ムリがあったのよ。いや、それを相応の展開、演出で見せてくれるなら、両輪として見ごたえがあったかもしれん。確かに血のつながりなんてものはアホな価値観、そうじゃない方の両輪として見せるというアイディアはこうして考え直すとイイじゃんと思うが、それを見せ切るというのには、手腕が必要だったのだよなあ……。
チンピラ君が広志を慕っていたがために裏切られたと感じて、仲間をぶっ殺すまでになるという強烈な喪失感を描くには、そもそも親子間の壮烈さが描き切れてないのに、片手間以下だよね、と思っちゃう。いきなり仲間ぶっ殺して、広志に恨み言言って、撃ち殺す、って、そんなムチャな。

そして進一である。これ以上なく憎悪していた筈だったのに、自分はようやく母親の呪縛からも逃れ、就職もし、先輩からなぶられながらも、そんな自分を気にしてくれる先輩女史がカノジョとなり、結婚を意識し……なんて順調に行っていた。
なのに彼は、もう一生会うこともない、憎しみ合って別れた筈の父親と再会してしまって、なのに、前回の別れの時に父親に言われた、不動産業をやろうという言葉を進一は覚えていて、勉強して、宅建の資格をとろうとまでしていた、ことを、カノジョに愚痴みたいに言って、父親との関係を、気持ちを、整理しきれてないことを強烈に指摘されるんである。

……なぁんかさ、こうしてストーリーを追うととってもいいのよね。これが国際映画祭(出しまくってますね)でそれなりの成績を収めているのは、演技のデカさなんてものは、海外ではそりゃむしろ効果的だから、ということなんだろうなあと思ったり……。
進一が父親に教えられた住所に行った時、もうすでに父親は、くだんの子分の憎悪が振り切って、ぶっ殺された後である。立ち会った不動産屋は、使ってないまま、家賃だけ払い続けていました、と言って立ち去る。

結局、憎みきれない人で収束させるのが、親子愛はあった人として片付けちゃうのが、ブレまくっていただけに、いい話で終わらせちゃうのが逆にテキトー過ぎるだろと思っちゃう。最後まで悪人でいてくれた方が良かった。
そりゃね、人間いろんな面があるさ。だからこのラストもアリだとは思うけど、だったらそれを納得させられるだけの人物描写がなけりゃ、ほんの垣間見えるところでもなけりゃ、難しいよ。で、そーゆーのは、そーゆー人物描写は、役者さんの芝居だけに頼れない、脚本力であり、演出力がモノを言うと思うからさ……。

体格も顔つきもふてぶてしく、前半はとにかく観客をイライラさせて“くれた”進一を演じた、この作品の生産者の一人である 遠山雄氏の、でも全編を見れば実に柔軟な、演技巧者っぷり、アクの強い役者のくさみが、その存在が、一番の収穫だった。★★★☆☆


一度も撃ってません
2019年 100分 日本 カラー
監督:阪本順治 脚本:丸山昇一
撮影:儀間眞悟 音楽:安川午朗
出演: 石橋蓮司 大楠道代 岸部一徳 桃井かおり 佐藤浩市 豊川悦司 江口洋介 妻夫木聡 新崎人生 井上真央 柄本明 寛一郎 前田亜季 渋川清彦 小野武彦 柄本佑 濱田マリ 堀部圭亮 原田麻由

2020/7/8/水 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
いやー、なんか安心して楽しめるわ。そしてベテランレジェンド役者さんたちが楽しそうに演じていること!!石橋蓮司、岸部一徳、桃井かおり、大楠道代、彼らを自由に遊ばせるために、そのちょっと下の佐藤浩市、江口洋介、豊川悦司といった、これまたベテランレジェンドだけれどしっかりと後輩として支えているのが楽しい。
更に更に若い、しかしキャリアをしっかりと積んだつまぶっきーや井上真央嬢、前田亜季(!!うわ!すっごい久しぶり!めちゃ大人になってる!!)らがこちらはまた嬉しそうに支える。

ああなんて、日本のあらゆる年齢層の役者たちが、なんて楽しそうに参加しているんだ!!と思わせるのは、この楽しい企画に我も我もと役者たちが手を挙げた、と事前に聞いていたからだけではあるまい。こーゆー作品は、つまりはそれまで日本映画が、あるいはこの場合は阪本映画が、というべきかもしれないが、きちんと積み上げてきたからこそ、であり。
脚本に丸山昇一!という名を見つけてこれまた心躍ってしまう。彼もまたレジェンド脚本家として実に楽しそうに書き上げたのがありありと心に浮かんでしまう。

もう設定だけでオッケー!である。都市伝説のように語られる伝説の殺し屋の正体は、確かに殺す相手を指示しているという点ではそうなのかもしれないが、実行犯ではない。
しかも、別にその殺す相手に恨みがある訳でもない。依頼はあるが、特にそれに拘束力がある訳でもない。てゆーか、小説を書くために彼自身が、コイツは殺してもいいだろ、という相手を物色しているようにさえ見えてくる。

そー考えると結構ヤバい設定なのだが、昨今のコンプライアンスにがっちがちになった中で、こんなヤツ、ぶっ殺してもいいだろ、というヤツを“下請けに出して”しとめる、というアイディア一発!である。下請けという考え方が、いいんだよな。観る前にこの言葉を聞いただけで笑っちゃったもの。
これが、“腕の確かな子飼いのヒットマンにやらせる”となっちゃあ、ダメなのよ。おんなじなんだけどね。でも市川を見ているとやっぱり下請けに出してる、と見えちゃうのよ。

夜の街で旧知の仲間たちと飲み歩いている時には、トレンチコートにブラックハット、薄い色のサングラスにタバコをくゆらして、ザ・ハードボイルドだが、それもまた時代錯誤だし。
更に夫婦二人の生活で、ことに強調して描かれる朝ごはん、酒飲みの夫のために毎朝しじみの味噌汁を作って出す奥さん、そのシジミをいじましくひとつずつすする夫。もうここには、夜の街でヒットマンを気取ってカッコつけてるシブい作家先生、あるいは実はヒットマンかも、という風情は全く感じられない。

しかしこの夫婦生活にはちょっとした影がある。友達から孫とのラブラブ写真を送り付けられて憤慨している奥さん、それになんとも言えない旦那さん。そう、彼らの間には子供がいない。当然孫もいない。二人でこの先の人生を過ごしていかなきゃならないのに、夫はなんかコソコソ秘密を持っているようである。
妻がそのことに感づいているのを夫がつゆとも気づいておらず、探偵小説にかぶれてるよろしく、ドアに挟みものをして誰かが入ったらわかるように小細工している、小細工と言いたくなる、懐かしい手法で、そんなこと妻にとっくに見抜かれているんである。
これだけ多くのキャストが絡み合うから、恐らく誰にシンクロするかで、見え方が違ってくるんだろうと思うが、こうして書いてくるとどうやら私は、大楠氏扮する奥さんにシンクロしているらしい。

小説家とは名ばかりで、二冊出版した本も売れずに鳴かず飛ばず、今はハードボイルドに傾倒してるも、殺人描写とその際の心理描写にやたら固執するキモチワルイ作風。
しかし彼自身はそれがそぎ落とされた小説としての形だと信じてはばからず、長年付き合いのある編集者(佐藤浩市)はサジをなげ、若くて傍若無人の新人編集者(寛一郎)に投げちゃうんである。
おお、さらりと親子共演である。柄本親子もここで共演しているが、佐藤親子は編集者の上司と部下というがっつりさ加減で、うわー!!!と思っちゃう。

で、ちょっと脱線したけど、いわばそんなカン違い名ばかり小説家である夫を抱えて、彼女が教師をして生活を支え続けていた訳。ということが明らかになるのが、夫が浮気をしてるんじゃないかと疑って、編集者に聞き込みをして出没する先を探し回った奥さんが目にしたのが、かつてのミュージカル女優、ひかる(桃井かおり)の肩を抱いて喫茶店から出て行く姿だった。
もう頭に血が上って、“夜ならここ”というバーに乗り込んで、ひかると対峙する。この時にはもうかなり事態はひっ迫しており、市川は自身のみならず、自分に関係するあらゆる人たち……かつての検事で裏仕事を引き受けまくっている石田(岸部一徳)や、ひと芝居打つ時に協力してもらっているひかるや、もちろん“実行犯”の今西(ぶっきー)や、なにより妻が、危険にさらされていることに焦りまくって、奔走している訳で……。

なんかかなり物語をはしょっちゃったが(爆)、つまりは、自分自身は人を殺したことなどありはしない、タイトルどおり「一度も撃ってません」なのに、ハードボイルドを気取って、勧善懲悪の正義を気取ってきたツケが回ってきたのだ。
果たして石田が、市川が下請けに出しちゃってて、自分はなーんにも出来ない売れない作家でしかないということを知っていたのかどうかはちょっと明確にはされないところだろうが、うーん、知っていたんだろうな。石橋氏、岸部氏、桃井氏のトライアングルは、すべてを見通している旧知の間柄が濃厚である。

だからこそ、妻である大楠氏が嫉妬する訳である。それも特に女として。桃井氏扮するひかるは口では「あいつはこういう女が好きなのよね。端正な顔立ちで、かたゆでたまごみたいな女」と、彼女のカタさ、つまり夫のことをなーんにも知らなくって、自分が経済的に支えてるんだみたいなことをかさにきている女として揶揄するのだが、でも実は、ひかるの方がひどく嫉妬しているに違いないのだ。

夜の街でしかちやほやされる男たちに出会えない。実際、どんどん自分の存在を知っている人間が減ってきて、古くから旧知の仲が集まるこのバーが最後の砦だった。どうやらキナくさい事情で古傷を今も抱え、手をブルブルさせながら酒を注ぎ、リハビリで編みものをしているいかついマスター、ポパイが多分、最後のファンなのだ。
本作の幾多のキャストの中で、彼が最も心に残る。口下手で、台詞はほとんどなかったけど、その不器用な愛が常に満ち満ちているような男だった。最後の最後に、素晴らしい慧眼を発揮し、情けない男たちの正体を喝破する彼が一番、カッコ良かった。

その結末に至るまでには、えーと、いろいろ言い忘れていることがいっぱいあるような!結局はこれ、めっちゃ家族の物語、なんだよね。市川と石田の行きつけのバーの妙齢のバーテンダーは、実は石田の娘だということがだんだんと明らかになる。なんかまあいろいろと確執があったらしいこの親子はほぼ直接会話をすることなく、その間を市川との電話でつないでコミュニケーションをとるんである。
先述したが、ひっさしぶりの前田亜季嬢にカンドーする。いや、私が単に観る機会がなかっただけだろうが、ああ、「バトル・ロワイアル」、ああ「リンダ リンダ リンダ」、ああ「孕み-HARAMI-白い恐怖」!!と、思い出しちゃう。

市川の長年の担当編集者であった児玉(佐藤浩市)が、「定年(60ということだろう)ですよ」と嘆息するが、この超ベテラン人生先輩たちにとって、何を言っとるかというところであり、いや、会社人として安定した定年を迎える彼に、まるで自分の方が人生の後輩のような、甘ちゃんのような、焦りを彼らが感じているようにも見えて。
それは、もっともっと、まだまだ若い、下請けに出していたヒットマンのぶっきーや、彼が恋する看護師、真央嬢や、には、当然まったく及んでいない感覚、なのだ。

井上真央、なんか貫禄ついたというか、印象がイイ感じにふてぶてしくなって、え?井上真央?とか思っちゃって、ちょっと良かったなあ。こういうさらりとした芝居が出来る役者こそだと思う気持がある。
そして彼ら、今の人生、今生きているあくせくこそが大変な彼らにとって、小説家だと聞かされても、へー、私熱燗!!ぐらいなもんであり、もしその後、殺し屋だの何だの聞かされても、同じぐらいのリアクションだったのかもと思わせるたくましさを、すっかり見違えた井上真央嬢に感じたり、するんである。

どう収束するのかなと思ったら、敵のスナイパーもまた市川と同じ「一度も撃ってません」な仮面殺し屋というまさかの展開。男たちの挽歌状態の銃突きつけ合いで、やたらくるくる回るわ、目が回るわ!
これはどうやら、どっちかが撃つとかっていうことにはならないな……と観客側に充分に植え付けた上での、ポパイの喝破であり、ようやく割って入ってくれたか!!という感じなのだが、しかしこの一点だけで解決させていいんだろうかという不安も残るが、そもそもこれはコメディなのだから、まあいいのかなあ。

でもとにかく、これは、男の意地を張りとおす作品、なのよね。奥さんから「あなたは誰なの!」「私は何なの!!」と涙ながらに糾弾され、落ち込んだ描写をはさみながら、そして窮地のシーンに奥さんが居合わせて、涙ながらに無事を喜んで抱き合いながらも、飲み明かした筈のその夜の続きをムリクリ彼は続けたくて、奥さんをタクシーに押し込んで、自宅に送り届けちゃう。
はいはい、男の子だね、70過ぎても(爆)。なかなかつかないやっすいライターをカチカチ鳴らして、やっとついたタバコをくゆらしてのラストクレジット。お疲れさまー。改めて思い直すと、少年から続く男の夢の、いわゆるマッチョ映画だったね! ★★★☆☆



2020年 130分 日本 カラー
監督: 瀬々敬久 脚本:林民夫
撮影:斉藤幸一 音楽:亀田誠治
出演:菅田将暉 小松菜奈 山本美月 高杉真宙 馬場ふみか 倍賞美津子 永島敏行 竹原ピストル 二階堂ふみ 松重豊 田中美佐子 山口紗弥加 成田凌 斎藤工 榮倉奈々 石崎ひゅーい 片寄涼太

2020/9/21/月 劇場(TOHOシネマズ錦糸町楽天地)
みゆきさんの「糸」を原作、という形だけれど、無論のことあの歌詞には明確なストーリーがある訳じゃないから、千人いたら千人が思い浮かべる、あるいは創作しうる物語がある。そーゆー意味では早いもん勝ちというか作ったもん勝ちというか、もしかしたら何人ものクリエイターが、取られた!やられた!!と思っているかもしれないと思う。
人の出会いのあやなす人生、その奇跡、その不思議さ。ただそれだけをどういう人間模様にするかなんて、これが「糸」が着想だなんていうのが後付けだって成立しちゃうようなもんなんだから。

などとついつい硬い言い方になってしまったのは、ちょっと色々気になってしまった部分があったから。平成という30年を綴る物語、というのもいわば撮ったもん勝ちである。
そういう作品がなかった訳ではないけれど、これだけ大きな商業映画では恐らく初めてじゃないかと思う。だってまだ令和も2年なのに、令和元年になった瞬間を描写するなんて、まさに早いもん勝ちという気がする。

そして平成元年生まれの二人の男女、しかもお互いが初恋同志。当然ずっと一緒にいられる訳もなく、それ以上に彼女の方に過酷な運命が待ち受けていたもんだから引き裂かれるように別れる。
さてこの二人が、なんたってケツは平成が終わる時だと判っているのだから、どうなるのか、結ばれるのか、それとも大事な想いを共有する同志としてそれぞれの人生を歩んでいくのか、それがこの作品の意味を大きく作用すると最初から思っていた。

なんか硬い書き方になっちまうな。つまり私は、後者であってほしかったんだろう。初恋は結ばれない、なんて言うつもりはない。結ばれる例も沢山あるだろうし、二人は再会するまでに様々な出会い、彼の方は結婚して子供を持つって経緯もある。初恋が結ばれたというのとは少し、違うだろうとは思う。
でも、あの「糸」という歌から受ける、人の出会いの妙、出会いと別れ、縦糸と横糸が半永久的に連なって大きな布という人生や宇宙になっていく感じから、私は、結婚という結末はあんまり考えなかった、のだ。

それは私の相変わらずのフェミニズム野郎っぷりが顔を出しているのは、そらー否めないさ。結婚がゴールって古臭すぎるって思っちゃうあたりにね。
しかも葵の方は長年信頼関係にあり、また一緒に仕事をするために踏ん張って彼女に声をかけてくれた男の子がいたのに、あの感じでは漣との結婚(&彼との生活に引っ込む)ことを選んだようにしか感じられなくて、なーんか、ガッカリしちゃったのだ。

だってそれまで葵は、漣に宣言したことをまさに有言実行して、海外でのビジネスチャンスをつかんで羽ばたいた。確かに友人の裏切りによって躓いたけど、彼女を支えてくれた人がいたのに、そしてもう一度やりたいと言ってきたのに、その彼が言うように、運命の相手(恋っていうんじゃなくてもよ)だと思ったのになあ。

いや、むしろ葵より漣の方が私的にはかなり気になる。義父からの暴力、それを母親も見ぬふり、という葵の現状を知って二人して逃げようとするが、そんな小さな恋のメロディは上手くいくはずもなく、引き裂かれる。
漣は地元のチーズ工房に就職する。後から考えると、地元から出ないことををかたくなに自分に強いていたのは、ここを動いてしまったら、葵が自分を探し出せないと思ったからだろうと思われる。葵の行方は杳として知れないのだから……。

チーズ工房の先輩女子、香が彼を気にかける。実際にも、見た目的にもまあまあな年の差だから単に後輩を心配してるだけかな、と思ったら、なんとなく距離が近づいてて、同棲、結婚、とあいなる。
一緒に暮らす、という段になって、葵と再会しちゃうってのは皮肉なのかなんなのか。でもこの時点では、救えなかった初恋の相手、という甘苦い気持ちにとどまっていたのか。それとも……。
そもそも漣と葵は花火大会で偶然出会った。お互い友人連れの男子二人、女子二人での出会い。漣と葵のみならず、残り(てゆーのもアレだが)二人、直樹と弓も接近し、彼らはハタチそこそこで結婚に至る。その結婚式で漣と葵は再会を果たすんである。

弓も葵とずっと連絡とれてなかったのに、「この間、偶然渋谷で会ったんだ」っつって結婚式に招待するっつーのは、それは……どど、どうなの。そんな偶然あるかい。渋谷で偶然出会うってのは、恐らく地球上で一番ありえないと思うんだけど、どど、どうなんだろう……。
なーんか本作にはちょいちょい、おいっ!と突っ込みたくなるようなこーゆー展開があるんだけれど、そしてそれはとっても昭和的な気がするんだけれど……。

で、まあ、早めに私の違和感を言っちゃうと、初恋の純愛の相手が、いろんな恋愛も含めた出会いもそれまた運命であり、でもその運命は二人が結ばれるための運命だったのね!!みたいに見える、見えてしまう、気がする!!
のは……まあその、だから、結婚がゴールなのかよ!!とフェミニズム野郎の私は思っちゃうから、まずそこに噛みつきたくなるが故であって……。

判ってる、判ってるよ。それまでの、出会ってから実に 10数年、恋愛、仕事、裏切り、海外展開もし、葵の方は愛憎深すぎる母親がひっそり死んでいたなんていう深すぎる展開もあるさ。まさに人生さ。
平成元年生まれ、とても若いけれど、双方、特に葵の方は壮絶な人生。いや、漣だって壮絶。奥さんが妊娠している時に腫瘍が発覚、でも彼女は産むことを譲らず、結局その後、死んでしまうんである。

私はこの経過こそが最も受け入れられなかった。子供より親が大事。太宰のあの言葉をことあるごとに思い出す。現代の医療技術があるから、私は生き延びるから、と香は言っていたけれど、多分、絶対、予期していただろう。
いや、この言い方は適切じゃない。作り手側が、香が死ぬこと前提に物語を作り上げているのが気に入らないのだ。子供が生まれてしまえば、そりゃあ大切な未来への命だもの。タラレバを言う訳にはいかない。でも……。

いまだに、令和のいまだに、こういう選択をする女性を賛美するような物語を書くのかと落胆する。愛する人の子供を産むために、自分の命を犠牲にする女性を美徳とするような。
でもそれを、周到にそうじゃないんだよと、現代の医療なら大丈夫だと彼女が納得してやったんだよと語りながら、結局は、多分再発という形でなんだろうけれど、死なせてしまうっていうのは、私は納得できない。子供より親が大事。でも子供が産まれてしまったらそれは言えないのだ。

しかしこれはあくまで漣側の事情。葵には関係がないのだ。葵がキャバクラでバイトしていた時代に知り合った同僚と立ち上げた、シンガポールでのネイルサロンの成功物語は胸がすいた。
友人が恐らく葵への劣等感から隠れてやっていた投資に失敗して会社がつぶれてしまっても、一緒に頑張っていた男の子は葵のふんばりを忘れなかったから、自分自身がまた踏ん張って彼女を逆スカウトしに来た。
凄くその展開にカンドーしたのに、漣との再会、結婚という道を選ぶのかあ……と思って……。

もちろん、この先にどういう道があるのかは判らない。漣と結婚して、漣はチーズ職人としてこれからも頑張っていくだろうけれど。
葵がネイリストとしてこれまでは海外のビジネス展開もし、今はしがない雇われネイリストなところにかつての仲間からお声がかかっていたタイミングだった。それを受けるか否かだったのだが、あの感じではなーんか……結婚のゴール、オールオッケーにしか見えない。
漣の娘ちゃんが、亡き母親からの教えを守って、泣いている人、悲しんでいる人は抱きしめてあげなさい、というのを葵がくらったのは感動的ではあるんだけれど……。

香の父親が、律儀に訪ねてくる漣に、自分たちは香の思い出だけを頼りに生きている。でも君は若い。もうここには来るな、と言い放つんである。わっかりやすく、酒浸りである。
このシーンも何となく、納得がいかない、というか、大映ドラマかなんかを見ているような気がする古ぼけさである。香の思い出だけを頼りに生きている、って……。孫もいるのに、その孫の父親である漣にそんなこと、言うなんて……。

まだ若いんだからという台詞は一見して、彼のことを慮っているようにも思えるが、こんな残酷な台詞はない。自分たちは愛する娘を思って生きて行くが、血のつながってない君にはその資格はないと言っているようなものだ。
だって他人なんだから。孫まで含めて突き放しているようなものいいだ。それで、ラスト、漣と葵の結婚パーティーに満面の笑顔でこの両親含め、皆が屈託なく集結しているなんて、ちょっとないと思っちゃう。

漣と葵の友人同士でハタチそこそこで結婚した弓と直樹は早々に離婚してしまったが、その後、直樹は職場の後輩、利子と結婚する。利子は岩手の出身で、あの3.11の時にたまたま帰省していてあの場面に遭遇してしまう。
「生きてた、あいつ、生きてたよ」と直樹が漣に電話した時には震えるような安堵を感じたけれど、その後彼女はノイローゼのような状況になって、しゃべりまくりと黙りまくりを繰り返すようになる、と直樹が利子を連れて漣と飲んでいる行きつけの店で吐露するんである。

「生きているだけいいだろ」という台詞は、漣が言うように、言い過ぎだっただろうけれど、でも、これ以上の言葉はなかった気がする。
香を亡くしたばかりだった。香がこの店で、二人に初めて出会った時、直樹が離婚したての時、歌った「ファイト!」そんな暗い歌やめてくれよと漣が言った、それは香が今やいない今も同じだったが、あの時香は明るく歌い、今、直樹は、叫ぶように、歌った。

漣はどちらの時も、笑顔で手を叩いて合いの手を入れたけれど、意味合いはそれぞれ全然、違った。いや、違ったのかな、同じく重かったようにも思う。
ただ香が歌った時は、それを判っていたのは彼女自身だけで、今彼女亡き後、直樹が歌った「ファイト!」は、妻を亡くした漣、津波を経験した利子、その利子の想いを抱える直樹、にパンパンに感情が充満する。瀬々監督は、むしろ「糸」よりも、この「ファイト!」を語りたかったんじゃないかと思っちゃう。

平成30年を二人の男女で描いたまさに壮大な大河ドラマ、ロングランヒットしているのも判る出来具合。個人的には色々引っかかっちゃったけど(爆)。★★☆☆☆


癒しのこころみ〜自分を好きになる方法〜
2020年 120分 日本 カラー
監督:篠原哲雄 脚本:鹿目けい子 ますもとたくや 錦織伊代
撮影:長田勇市 音楽:GEN
出演:松井愛莉 八木将康 水野勝 中島ひろ子 秋沢健太朗 寒川綾奈 佐々木みゆ 矢柴俊博 橋本マナミ 渡辺裕之 藤原紀香

2020/7/19/日 劇場(シネリーブル池袋)
言われなくてもいかにも持ち込み企画という感じはマンマンだし、カリスマセラピストとして藤原紀香嬢がご登場するに至っては新興宗教のごときうさん臭さが立ち込めて不安になったが(彼女にウラミはないが、なんかそういう空気を醸すのだよねえ。完璧美女過ぎるからだろうか)、対照的な主人公二人の化学変化の面白さによって、見事に乗り切ったという感じ。
一応ピンの主演は一ノ瀬さん役の松井愛莉嬢には違いないのだが、新人セラピストとしての彼女がいわば鍛えられる気難しい客としての、元プロ野球選手、碓氷があてがわれるという意外さで、一気に広がりを見せる。

その見事なスイングや、現役時代の映像がリアルに作り込まれていることや、何より実際の球団の千葉ロッテマリーンズの名前を使っていることから、えっひょっとしてマジで本人役とか??(いやその、選手とか全然知らないからさ……)と思うぐらいだった。
その碓氷を演じる劇団EXILEの八木将康氏はなな、なあんと駒大苫小牧出身で、マー君と共に甲子園に出てた、ということは、私も夢中こいて見ていた試合に出ていたということではないか!ビックリ!!そっから役者になる人がいるとは思わなかった!!そら実際の選手にしては芝居が上手いと思った(爆。失礼すぎる……)。

一ノ瀬さんは冒頭、ひどいブラック企業で働いている。てゆーか、彼女一人がブラック仕事させられているという感じである。オフィスで一人パソコンを叩いているところにパワハラ上司がどさっとファイルを投げ出して、今日中にデータ化な、と言って帰っていく。なんと帰宅は翌朝である。
同僚には彼女の仕事を認めている人もいるのだけれど、このパワハラ上司は公衆の面前でバチーン!と彼女の頭を書類でぶっ叩き、俺に恥をかかせるなとか、なんだその顔は、態度だけは一人前だなとか、憎々し気に吐き捨てる。
……こんなん会社で問題にならない方が問題だと思うが、自分に火の粉が降りかからないように見て見ぬふりをするのが現代日本社会なのか。耐え切れず、一ノ瀬さんは自ら退社願を出してしまう。

これが、負けを認めたことなのか、辞めてやったったということなのか。あのパワハラ上司はどうせ、次に下に来る部下にも同じことを繰り返すだろうし、一ノ瀬さんが我慢する必要は確かになかったのだろうが、ほんの少し、チクリとした気持ちにはなる。
それは、認めてくれていた同僚がいたからである。しかしなんにもできないのなら、そんな存在は描写してくれるなという気持にもなる。だって転職先で、クセの強い客、碓氷さんにぶつかるにしても、結局彼と親密な関係を築くのだし、職場の人たちはみんないい人たちだし、仕事としての大変さ、という点での比較がちょっと甘いような気もしている。

一ノ瀬さんの直属の先輩としてひかえる橋本マナミ嬢が、結局は大した助言をせず、クライマックスで「好きだったんでしょ、このままでいいの?」とか仕事とは関係ない世話を焼くあたりにガックリきたりしちゃうしな。これだけのビッグネームを指導係として据えているのに、橋本マナミ嬢、特に一ノ瀬さんに影響与えてなかったよな……。
それ以外のスタッフがそれぞれに一ノ瀬さんにアドバイスなり(スポーツ施術の西野君)、顧客の取り合いになってぶつかったり(ベテランの篠崎さん)、温かく見守って的確な目配せをくれたり(店長さん)するのに比して、橋本マナミ嬢扮する伊藤さんは「一ノ瀬さんが思っているより、セラピストって簡単な仕事じゃないかも」ぐらいしか言わないんだよなあ。しかも決して一ノ瀬さんはそんな甘く考えている訳じゃないと思うのだが……。

前職を辞めた直後に転職フェアのチラシを配られて、そこで出会ったカリスマセラピストの紀香嬢に身体だけでなく心も解きほぐされ、その後たった一か月後に新人セラピストとしてデビューするというくだりには、ええ、そら早すぎねーか、資格とかどうなってるの?あるいはそんな簡単にとれるの?とかなりアゼンとしたので、伊藤さんが発したその台詞はそのあたりに起因するのかなと思うが、そうした経験なり資格なりといった部分が見えにくかったのは本作の歯がゆい部分だったかもしれない。
一ノ瀬さんが一生懸命なのはわかるけれども、セラピストという職業に出会ってたった一ヶ月で、どういう研修なりを受けたのかは判らないながらも、セラピストというからにはマッサージだけではない心にも寄り添う心理療法的なことも関わってくる仕事が、一ヶ月で現場に出れちゃうんだ……という不信感をちょいと観客に残すのは事実である。

そこをつかれて、八木から「向いてないんじゃないの。全然届いてないよ」と糾弾されるのはそりゃ当たり前だと思うし、こんな態勢を映画で描いていいのかな、という気もする。
まあそりゃ、経験こそがキャリアだし、現場に出てナンボだとは思うが、まさか一ヶ月で、そもそもの技術はどうなってるのかしらんと思わざるを得ないじゃないのお。

それをごまかすって訳じゃないけど、一ノ瀬さんがこの碓氷氏に執着することで、ムリヤリ成長物語にしちゃっている感覚は正直あるかなあ、という気はしている。先述したように、持ち込み企画ありきの感じがこの対照的な二人の出会いによる化学変化によって面白い展開にはなっているとは思うのだけれど、結構その根本的なところが引っかかったままなのは、持ち込み企画そもそもの根幹を揺るがすんじゃないのかなあという懸念もある。
とゆーか、途中から人間同士の関わり合いの物語になる、のは、そもそもきっと、セラピストという職業の本質がそこなのだということを言いたいのは判るんだけど、疑似親子関係はまだいいとして、恋愛関係を絡ませてくるのは逆効果でしかないような気がする……。

でもそれこそ、それを伊藤さんが言いださなければ、本人同士も周囲も観客も薄々気づきながら、でもそれは明らかにすべきじゃないもんね、というところにあったのに、「このままでいいの??」とか無粋な台詞を伊藤さんが吐き、それに応じて一ノ瀬さん、この地を離れてしまう碓氷さんにダッシュ!!という展開になって、ええーっ、と思っちゃって。
でも結局、好きでしたとも告げず、なぜか伊藤さんと西野君が見守りに駆けつけて、共に碓氷さん応援歌を大合唱するという……なんだそらなんだそら。だったら好きだったんでしょとかこのままでいいのとか、ヘンなあおり方、すな!!……マナミ嬢の役柄はホント意味判んなかったなあ……。

そんなオチに不満が残ったのでかなり途中はしょっちゃったけど、そんな思いをお互いぼんやりと共有するまでに、客とセラピストという以上に二人は接近する。
てゆーか、一ノ瀬さんの方からめちゃめちゃアプローチする。碓氷さんが子どもたちを指導しているバッティングセンターに押しかけ、その理由は、お客様を知るにはその人となりを知ること、とか、ただ個人的に知り合いたいだけじゃねーか、としか思えないが、松井愛莉嬢の真剣な愛らしさでついつい納得させられてしまう。

碓氷さんのそばにはいつもパパ大好きな愛娘、ハナがいて、その後、入団テストの試合観戦にも一ノ瀬さんは出かけて、奥さんとも顔を合わせる。一ノ瀬さんのことをお姉ちゃん、お姉ちゃんと慕うハナを、手なづけて後ろ暗い関係じゃないですよと描写しているように見えなくもなく、……その感覚はだんだんと強まっていくもんだから、ハラハラする。
ことに、頭部へのデッドボールのトラウマがなかなか克服できない碓氷さんを誘って森林セラピーに二人して出かけるくだりになると、……持ち込み企画だというのは判っていても、森林セラピー、うっわそれこそ宗教的じゃんと文字面だけでつい思っちゃうし、決してそうではなく、自然に身を任せて碓氷さんがリラックスしている描写を見せられても、決定的な説得力がないというか。

だって結局、一ノ瀬さんとイチャイチャデートをしているようにしか見えない(爆)。足元の悪い山道を一ノ瀬さんの手を取ってエスコートしたり、清流の水を汲んで飲ませてやったり。最終的には青く苔むした大木に二人して抱き着いて自然の息吹を感じるという、それこそなんかの宗教映像のように見えてきちゃう。
判るけど。確かに、こういう大自然、気の遠くなるほど昔から息づいてきた大木の前にちっちゃい自分とその生命を感じるのは判るけど、でも、……記号的過ぎるし、彼一人で悟りを開くんじゃなくてそばに可愛い女の子がいるという煩悩だらけに感じちゃうし、でも結局妻子のある彼は、そして彼女も一線を超えることはないし、どっちに転んでも中途半端な気がしてならないんである。

まあだからといって、何がどうなったら正解だったかは判らないのだけれど……。ただ、この持ち込み企画が、セラピスト、その施術場所を舞台にすると、あまりに閉鎖的だという判断だったのか。
野球選手という広がりがそこを突破し、そもそもの、人間関係こそがセラピストの重要事項だということ、そうしたもろもろの試みが、あるところでは成功したとは思うけど、あるところではモヤモヤするというか……。

つまり、恋愛をちらつかせたのが、やっぱりマズかったと思うのよ。判るよ、二人がほんのり惹かれ合ってることぐらい。でもほんのり、なのよ。二人の共通点は恋愛感情ではない、彼の人生が復活するか否かという点であり、そういう意味では疑似恋愛感情と言った方が良かったかもしれない。そこを伊藤さんに「好きなんでしょ?」と言わせた時点で破たんしてしまった気がしてならない。
一ノ瀬さんは父子家庭で育ち、幼い頃死んだ母親に肩もみした記憶がこの職業につながっている。繰り返し回想で描かれる母の笑顔と幼い一ノ瀬さん、むしろこっちを大事にしてほしかった気がする。父親が男手ひとつで育てて今も親子二人暮らしなのだという魅力的な設定も、中途半端な恋愛感情で生かしきれなかった気がして。

ただ、見てたら、めっちゃ行ってみたいとは思った。ひどい肩こりもちで今は整形外科のリハビリさんに通っているが、こういう場所は気になってはいたが、二の足を踏んでいた。
実際、劇中で描かれているように高齢の方も、家族のようなつながりで多く通っているんだろう。行ってみたい、と思った。 ★★☆☆☆


色ごと師春団治
1965年 89分 日本 モノクロ
監督:マキノ雅弘 脚本:館直志 中島貞夫
撮影: 鈴木重平 音楽:菊池俊輔
出演:藤山寛美 長門裕之 南田洋子 丘さとみ 富司純子 藤山直子 富永佳代子 浅茅しのぶ 林家染丸 田中春男 茶川一郎 神戸瓢介 山城新伍 天王寺虎之助 人見きよし 遠藤辰雄 佐々五郎 国一太郎 名護屋一 松代章子 高橋漣 日高綾子 尾上華丈 浅草四郎 岡八郎 汐路章 平参平 内田朝雄 山乃美七子

2020/8/10/月 録画(東映チャンネル)
なんとなく名前は聞いたことあるなあと思ってちらっとwikiを覗いたら、あら、ちょっと本作で演じた寛美さんに似てる、かも!!写真一枚だからホントのとこは判らないけれど……でも、なんたって本作は寛美さんの名前一発で観たぐらいだから、やっぱり藤山寛美は藤山寛美、もうなんだろ、この人懐っこくてこ憎たらしいような魅力は!!
春団治は吉本の人なのに松竹のスターだった寛美さんが演じるという不思議はあるけれど、でもきっと彼以外に考えられなかったんだろうなあ。

後に彼曰く、「大阪の古い落語全部つぶしたけど、新しいの残すの忘れた」というぐらいの革命家だった噺家さん。劇中でもまるでアイドルスターのように拍手喝采で迎えられる春団治の、じっくり噺を聞かせるということはないものの(これは彼の人生を描く映画だから、その必要はない、という英断と言える)ほんのサワリ、というか、寛美さんのおちゃめな表情とちょっとした台詞一発で観客の心をグッとつかんだことがこれ以上ない説得力で判っちゃう。
観客だけじゃない。もう女心をつかみまくる、つまりはタイトル通りの女たらし。劇中では三人の女が泣かされるが、きっとそんなもんじゃなかったに違いない。三人の女たちは自分にとってたった一人の男を愛しているのに、春団治は誰一人も愛しきらない、だなんてそう考えるとなんだか寂しい男だったようにも思える。

寛美さんはもちろん生粋の大阪人だし、松竹新喜劇のスターだから百パーセントネイティブのオオサカ言葉がぽんぽんと飛び出し、正直私のようなローカル野郎には聞き取れないことも多くって、ビデオ鑑賞だということもあって折々巻き戻してしまったりもしたが、でもそれは多分、意味ないことなのだ。
いや、彼の言ってることが意味ないということじゃなく(爆)、ちょっとそうかもしれんが(爆爆)、オオサカ言葉のキャッチボールというのは、いわばラップのような、リズムや言葉の音遊び(ダジャレのようだが、駄ではない)が根底にあって、時々ドキッとするような名言めいたことも確かに言うけれど、どこかその場しのぎというところが春団治そのものを表現しているようでも、あるのだ。
寛美さん以外の共演者は、ネイティブオオサカは少ないんじゃないかなあ。一見、というか、一聴してみんな達者なオオサカ言葉に聞こえるんだけれど、寛美さん以外は、クリアに理解出来る、つまり、私のようなローカル耳にも標準語のように意味が入ってくるんだよね。やっぱり違うということなんだなあと思って……。

最初から最後まで、別れてからも春団治を支え続けたのは、南田洋子演じるおたまである。彼女をひそかに想っている車引きのリキさんが長門裕之だというのがなんとまあ、感慨深いではないか。まあ長門裕之はこーゆー役回りは多いけどね(爆)。
春さんが女にとってはヒドい男だということが判っていながら、そのチャーミングな人間性と噺家としての実力を尊敬しているリキさんは、たしなめ続けながらも最後まで友人としてあり続ける。

そういう意味では女たちよりも辛抱強い、とゆーか、そうか、それこそ彼の実際の愛妻である南田洋子演じるおたまもまた、別れてからもずっと春さんを愛し、心配し続け、最後には自分を身売りしてまで金を作って春さんを助けた。
何かこの二人が、実際の生活上ではおしどり夫婦だった二人が、春団治を支え続けたように見えて、なんか後の世から見るとグッときてしまう。

二番目の女は、どっちと言えばいいのだろう。後家のお千代か、「昼間の興業がないからヒマで」手を出してしまったおときか。
お千代に関しては最後の女房となるし、春団治自体、最も執着しているように見える。彼女には大枚をつぎ込んで首が回らなくなったことでおたまが苦しんだ事実もあった訳だし。

ただその間に、おぼこ娘と言うべき藤純子演じるおときが挟まって、しかも春さんは彼女をはらませちゃってて、古女房のおたまが潔く身を引いたし、いくらなんでも年貢の納め時となるかと思いきやそうはならなかった。
おときが子供を産んでからぜんっぜん、春さんは彼女の元に寄りつかなくなり、お千代の元にすっかり入りびたりになるという体たらく。リキさんが見かねて、お千代さんに談判する。「女なら女の気持ちが判るやろ。師匠と別れてくれってリキさんから言われた」とお千代が春さんに言うと、「アホなこといいな。あの年していまだに嫁さん一人貰わんとうろうろしている男の言うことなんて」と春団治は一笑に付す。

……この場面で決定的に、あーあ、この男、ダメだわ、と思った。いや、ダメなのは元から判ってる。この場面で決定的にダメだっていうのは、それを彼はお千代さんが喜ぶ言葉だと思って発している、つまりはピロートークだからさ、愛撫の言葉だと思ってる、実際愛撫しながら言ってるし(爆)、ってことなんだよね。
でもここでもう、お千代さん、コイツのクズ度合い判っちゃったよね、ってことなんだよね。ただ……。だからといって、離れられない。いや、離れられない理由が、ここからちょっと変わったんじゃないかと思う。このクズ男が自分のところにいる以上、責任を持たなければいけない、って。

そういう観点から考えると、三人の女たちは春団治に関わり合う自分の立場というか立ち位置が、それぞれ全然違うんだよね。おたまは最初の責任、みたいな、あるいは初恋の相手は最後まで何があっても想いが変わらないみたいな、いや、もはや女の意地みたいな、気持ち。
おときさんはただ一人春さんの子供をなしたけれど、一番幼く、当時のめっちゃカワイイ藤純子の醸し出す世間知らず感がハンパなく出てて、一人、違うかなという感じがする。

いや、彼女が一番苦しめられたといえばそうだろう。なんたって出会って五ヶ月で、四か月の身重の身体で春団治を訪ねて来た。
「女房にしてくれると言ってくれた」と。「色町の女や後家さんとは訳が違う」と血相を変えるおたまに、「判ってる仕立て下ろしや」と知れっと返す春さんには噴き出すが、まさにそんな感じのまっさらなおぼこ娘(妊娠してるけど……)。

春さんがおたまに、勘定は合ってるやろ、と言うのには噴き出してどつきたくなるが、……もうなんともはや、である。一番やっちゃいけないことをやった上に、おたまが身を引いたにもかかわらずおときにも産まれた子供にも寄り付かず、相変わらずお千代に入り浸りというのが……。
単純にお千代さんに一番ホレていたんじゃなくって、常に今の窮屈な状況から逃れられていたのがお千代さんだということなのだ。お千代さんだって、そのことに気づいていない筈はなかっただろう。でも彼女もまた、首ったけに春さんにホレていたから……。

春団治が胃がんで死んだことは歴史上の事実としてある訳だが、同じ病で先に逝ってしまったリキさんの存在はどうだったんだろう。フィクションのような気もするが……それは、リキさんの存在、演じる長門裕之の水晶玉のように透明純粋な男の存在が、春団治という特殊キャラを時にまっすぐに映し、時に乱反射させる存在のように思えたから。
リキさんの死は春団治のみならず、彼の愛した女たちを軒並みショックに陥れる。春団治のような男にホレたことで苦しむ女たちの、これ以上ない理解者であり相談者であったからである。
ホンット、こーゆー切ない役が長門裕之は似合っちゃう。弟の津川雅彦は似合わないんだけど(爆。ホントに兄弟……??)。リキさんの臨終シーンはホントに哀しいんだけど、それがまさか、ラストに笑いに変わるとは!!

春さんが言う台詞でね、一番印象的、というか、むしろショックだったのは、「短い一生を上手に使いたい。子供を膝に乗せた姿で笑われたくない芸で笑われたい。芸人は独りぼっちがええのや」というものだった。
判らなくはない、と思ってしまう自分もまた、ショックだった。つまりそこには、ひどくマッチョな思想が充満している。“女子供”はジャマだということだ。独りぼっちなんてカッコイイ言い方してるけど、男一生の仕事に“女子供”はジャマだと言っているのだ!!

あんなに女好きのくせに。お母ちゃんの股の間から産まれて来たくせに。なのに、なのに……!!
それでも彼が渡り歩かずにはおれない女たちは、結局、甘えさせてくれる、褒めてくれる、お母ちゃんのような女たちだったということなのかと思い当たると……だから年若いおときに手を出して失敗したと思ったんだろうし、ちょっかい出している間は楽しかったであろうおたまが女房になった途端に居心地が悪くなったのはそういうことなのだ……なんということ!!

でも……芸人じゃなくても、ひとりもんの女でも、こういう感覚はうっかり判っちゃう。だから少子化が進んでる(爆)。男たちがワガママでそんな感覚で生きていた間は女が我慢するだけで回っていたが、女が気づいちゃってその立場を謳歌しだすと、恐らく人類は滅びる方向である(爆)。
おっと、いつものフェミニズム野郎が出ちゃったが、ラストの春さんご臨終の場面はしんみりどころかいきなりのコメディである。勝手ばかりの春さんを心配し続けて先に逝ってしまったリキさんが額に三角つけたお決まりの幽霊スタイルで、生業の車を引いて春さんをお迎えに上がるんである。

春さんを愛した三人の女たち、そして娘の春子が恩讐を超えて集まり、春さんはもう死ぬ間際なのに、お迎えに来たリキさんと、臨終の席に来てくれた愛した女たちとの間で右往左往。
おめーいーかげんにしろよ!とツッコミたくなる状況ではあるが、双方おでこに三角の布というまぬけなカッコ、しんしんと雪が降り積もる神聖な空気というギャップが本当に可笑しく、結局はこの男子親友二人で締められちゃうのかと思うと、女としては悔しい気持ちになってしまうなあ。

春団治そのものに関しては、私は無知で落語の世界は全然知らないんだけど、先述したこれまでの形をぶっ潰したという春団治の自嘲と、彼の人気に嫉妬する同輩たちの、「あんなえげつない真似させたらほんものの落語が潰れる」という、本気の危機感とも単なるヤキモチともつかない告げ口とが、リンクしていると思ったし、そして今、現在、何十年後かの今、どうなっているんだろうと思うと……誰に聞いたらその答えが判るの?スミマセン、無知なもんで……。★★★☆☆


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