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劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン
2020年 140分 日本 カラー
監督:石立太一 脚本:吉田玲子
撮影:船本孝平 音楽:Evan Call
声の出演:石川由依 浪川大輔 子安武人 木内秀信 戸松遥 内山昂輝 遠藤綾 茅原実里 水橋かおり 佐藤利奈 遠藤大智 八十川真由野 松元惠 中田譲治 麦人 間宮康弘 三瓶雄樹 原島梢 桜木可奈子 齋藤綾 引坂理絵 諸星すみれ 宮本充 篠原恵美 京田尚子 川澄綾子
お気に入りの女の子がオススメしてるものならとあっさりと足を運んだら、高評価の名にふさわしいものすごい力作で、後半は嗚咽をこらえるのに必死になる。
しかしてヤハリ、基盤の知識がないからなんとなくモヤモヤしていたのが、オフィシャルサイトにあった、「5分で判る……」(実際はそれが三本だから15分なのだが)で腑に落ちて、ああやっぱり、テレビシリーズを観てないことって大きいんだな、せめてこの5分で判るを先に観ておけば良かったと後悔しきりになったりする。
無論、劇場版は一つの作品なのだから、この作品一本として観るべきとは思うのだが、ヴァイオレットのキャラクターのそもそものキモとなる部分がしっかり判ってないと、本作の本当の深さにまで理解出来てなかったかもしれない、と悔やまれるんである。
それは、ヴァイオレットが幼い少女の頃、孤児として引き取られた彼女が、たぐいまれなる戦闘能力を発揮して戦場で敵を殺しまくり、心を持たない武器人形だと恐れられた、というところである。
無論劇場版でも描かれてはいるけれど、それを回想する現在のヴァイオレットはちゃんと心を持った女の子であり、そんな残酷なことをさせてしまった、と悔やむギルベルトは生きているのか死んでいるのか判らないまま、回想で登場してから後は、クライマックスになるまでしばらく姿を見せない。
だからここんところがピンときてなかったのが、凄く悔しかった。あるいは、本作が劇場版として、つまりR指定を避けるためにもしかしたら、そういう残酷描写を避けて言葉だけでちらりと説明させるだけだったのかなとうがったことを思いたくもなる。それだけヴァイオレットが今ドールとして生きている、コアな理由の部分であるのだから。
ドール、というのは代書屋の愛称であるが、戦争で両腕を失い、精密なマシンのような義手を使いこなすヴァイオレットはまさしく“自動手記人形”そのものである。様々な大きな仕事を残して有名なドールになったヴァイオレットは、郵便社の一部署である代書屋の仲間たちと共に過ごしながら、いつもギルベルト少佐のことを忘れずにいる。彼の母親の月命日に墓所を必ず訪れるのは、少佐に会えるかもしれないと思っているからなのか。
そんな彼女を心配している人は大勢いる。ギルベルトの兄であるディートフリートは、軍人の父に反発したことで弟にしわよせがいったことを悔やんでいる。ヴァイオレットの上司である“社長”は、まるで我が娘のように心配している。社長のその心配の過程もまた、テレビシリーズを観ていないからいまいちピンと来なかった部分なのだよね……。
ところでこの世界観がなんといっても魅力的なんである。ヨーロッパのどこかにある地域のような雰囲気だけれど、場所を特定、というどころか、ありそうでなさそうな、あくまで架空の場所であるし、戦争の歴史、なんである。こういう舞台設定は、まあその、私がアニメ作品をあまり観てなかったせいもあるのかな、観た覚えがない。
どう目を凝らしても、アルファベットでもないし、幾何学的な文字とも言えない、読めそで読めない絶妙のカリグラフィーといい、孤島と内地の意識の対立といい。
でも結局戦争は誰もが傷つけるだけなのだということを、何年も経って、孤島から送り出された男たちが誰一人帰ってこなかったことを最初はウラミに思っていた島民たちもだんだんと判るところとなって……。
という、普遍的な、戦争というものがいかに無意味かということ、それを、いわば敵方であるギルベルトが正体を隠して隠遁しているこの地を、ヴァイオレットが探し当てることで、あぶりだし、観客側に提示するのが、実に巧みで。
そこに至るまでには、様々なエピソードが挟まれる。てゆーか、まず冒頭は、ぐっと新しい時間軸から始まる。忙しい両親がおばあちゃんを寂しく死なせたと思い込んで、ぶんむくれている娘っ子からスタートする。
しかし彼女は、おばあちゃんに当てたひいおばあちゃんからの手紙を発見する。ひいおばあちゃんは、早くに亡くなっている。なのに、亡くなった後も、おばあちゃんの誕生日ごとに、手紙が送られているのだ。
それこそドールが請け負った仕事であり、ヴァイオレットが請け負った仕事であった。両親(ことにおばあちゃんの娘である母親)に素直になれない彼女が自己嫌悪に陥り、この手紙を発見し、ヴァイオレットをたどる旅をするところからこの物語はスタートする。
だから最初は、重く垂れこめたような暗さからスタートするのだけれど、ヴァイオレットが仲間たちと共に忙しくドールの仕事をこなしている時代は、華やかで、活気にあふれているのだ。
でも、ヴァイオレットはその華やかさとは無縁で、ひどく生真面目に仕事をこなしている。その中で最も印象的なのは、病床にある少年からの依頼である。空き缶にためてある、少ない小遣い、それも小銭だけの、という到底予算に届かない金額だけれど、ヴァイオレットは彼の気持ちを汲んで承諾する。
「僕が天国に行く日に、家族に渡してほしい」という手紙はその後、滝のような涙を私ら観客に流させることになるのだが、そこにはもうひとつ、粋な仕掛けがある。
電話というものが登場し、恐らく代書ビジネスもすたれていくだろう、そんな予感がほの見える時代である。
憎々し気に、電話をくさす女子社員、確かに電話ですむのだから、手紙文化がすたれていったことは、私の時代でさえ感じていたことだし、更にインターネット、パソコン、携帯が出現して、手紙という意味なのに全く違うメールというものが出てきちゃうともう本当に……という時代になってしまったのだ。
だから本作では最後まで手紙の良さで押し通すのかと思いきや、いや、最後の最後は確かに手紙の良さで泣かせるのだが、この病気の少年のエピソードに関しては、新しい時代の、電話という文化に華を持たせた。
もう、息も絶え絶え、代書してもらう力もない彼が、てゆーかむしろ、直接気持ちを伝えるべきだと、ヴァイオレットがそもそも言っていたことを、最後の最後に、電話のケーブルを伸ばしに伸ばして、ずっとずっと仲良しだった友達に伝えるシークエンスは、手紙、電話、バトンタッチしたコミュニケーションツールの、あたたかな交感があった。
この時、ヴァイオレットは自身で駆けつけられなかったのだ。ギルベルトが生きているかもしれない。その情報を得て、社長と共にある孤島に来ていた。
確実にギルベルト、なのに彼はヴァイオレットに会おうとしない。武器として利用してしまった彼女、しかも両腕を失わせてしまった彼女に対して、彼は会わせる顔がない、ということらしいんである。
それこそテレビシリーズを観ていたなら納得した部分だったのだろうが、社長がいきなり二人を会わさずに、まず様子を見に行ったのも判るのだが、よく判ってないので、結構イライラしたりするんである。
判ってたら、判るわなあ……。社長がなぜこんなにもヴァイオレットを心配しているのかも実に判る。だって彼は、殺戮人形みたいだったヴァイオレットも知っているし、心を取り戻していった過程も見ているし、何よりギルベルトへの愛も知っている。
愛している、という言葉が、劇場版である本作はもちろん、テレビシリーズではことに重要なキーワードとして丁寧に描かれていったらしいことを知ると、実によく判るのだが、でも、ああ、イライラする!!愛しているという言葉がどんなに重く、尊いものだということを、なんか忘れかけていたというか、思い出させてくれたというか。
ヴァイオレットが心を持たない殺戮人形からスタートし、それが少佐からの命令であったからこそというのが愛であったとしたら悲しすぎて、少佐はその罪を重く重く受け止めて、死んだものとして行方をくらました。
でも、彼は、彼女に、愛している、と言葉を残した。ヴァイオレットは、まだ幼い少女だったヴァイオレットは、その言葉の意味をずっと考えていたのだろう。ドールという仕事の中で、関わる人たちの中で、その言葉の意味を、ひとつひとつ、かみしめていったのだろう。
ラストシークエンス、めっちゃ時間かけるんだよね。ヴァイオレットは、最後の手紙をしたため、学校の先生となって慕われている少佐、その教え子にその手紙を託す。この島をあとにする。
そこに、ギルベルトの兄が訪ねてきて、更にひと押しする。このお兄ちゃんも恐らくテレビシリーズではかなり怖そうな存在感だっただろうが、この短い尺の中では、おんなじ髪の色で顔も似てるし、時々混乱してしまう頭の悪い私(爆)。
遅すぎるギルベルトの覚醒、だってもう、ヴァイオレットは島を離れる船に乗ってしまっているのに!!船を追いかけて疾走するギルベルトにヴァイオレットは気づく。まあこれは、かの地についてから、連絡をとって再会するってなことよねと思ったら、まさかの、ヴァイオレット、甲板まで走って走って、そこからジャンプ!!いやマジか!思わず笑っちゃったよ!!
いきなりファンタジー??と思ったらまだ出港してからそれほど経ってなかったらしく、浅瀬に立ち上がったヴァイオレットに近づくギルベルト。
そしてこっからが長い(爆)。お互い鼻水たらしかねないほど号泣しながら、ヴァイオレットはえっくえっくえずきながら、恐らく愛してると言いたいのにえっくえっくしすぎて言えないまま、ギルベルトも泣きながら、彼女を抱き寄せ、ずっとそばにいてほしい、という。
この尺はまあ、丁寧と言えばそうだが、相当長い(爆)。泣きながら見てるくせに、いやー、長いわ、さっさと愛してると言え!!結局言わないんかい!!とかツッコんじゃったよ。
とても繊細で美しいキャラクター、そしてもちろん背景も。意識してなかったけれど、そうか、京都アニメーションだったのだなあと思う。思う、ね……。★★★☆☆
その二人。見破られないほどの贋作を作れるほどの天才的手腕の陶芸家、野田(佐々木蔵之介)と、超目利きなのに商才がなくってうだつのあがらない古物商、小池(中井貴一)。前回既にその絶妙のコンビネーションに惚れ込んだけど、今回も素晴らしすぎる。
二人とも喜劇役者としての才能がものすっごくある人だから(勿論シリアスの才能もものすっごくあるけど)、それがバチバチぶつかり合うのが面白くってたまらない。
前回から引き続き、前野朋哉、森川葵嬢がそれぞれの子供として一段成長した姿を見せてくれるのも嬉しい。
何の役にも立たないと思われていたオタククリエイターだった野田の息子はその腕を生かして特殊メイクアーティストとなり、小池の娘は売れっ子占い師になって、その軒先を父親の骨董店に貸しているという頼もしっぷり。そして特に野田の息子は、その腕を今回のプロジェクトに大いに生かしてくれるのだから楽しすぎる!!
プロジェクト、というのは、謎の女の登場から始まる。マドンナである。涼子ちゃんである。和服姿のしっとりとした美女。
父の形見が騙されて持っていかれたと写真を携えて小池の元に相談に来る。こう書いてみるとそれだけで怪しさ満点なのに、小池、そして後には野田ともども、このしっとり美女のはかなげ、悲し気な雰囲気にヤラれてしまう。
ボケ気味の祖母を騙すだけでいいんだからと、かつて作っていた贋作を渋々ながら貸し出す野田。しかしそれがあっさりネット販売に売り出されていることを知りがくぜんとする二人。
いや……織部の茶器が売りに出されたらアラームされるようにしていたというんだから、小池はこういう事態を予測していたのかもしれないが、でも彼女のことを、嵐山堂のかつての番頭の忘れ形見であると推測したのは、そしてそれを口の端に上らせてしまったのは、それこそ彼女の策にハマってしまったということなのかもしれない。
結果的に彼女は完全なる詐欺師で、嵐山堂の番頭の娘だということさえ違ったんだよね??……それは最後の最後の話になるのでそれはさておき……。嵐山堂というのは、実にあこぎな商売をしている悪名高き美術商。まぁ現代的センスに長けている、と言えば聞こえがいいが、表向きはテレビ番組も巧みに使って、政治家に袖の下を渡し、古美術修復という大義名分のもと、公の施設の地下にちゃっかり贋作製作工場を作り、海外に密輸してばんばん儲けているんである。
この、嵐山堂の二代目主人を演じるのが加藤雅也で、そのウソくさい、ハデな押し出しの強さがマジ最高で、もう嬉しくなるぐらい憎々しい!
彼が“育てて”いるのが、そのアイドル的ルックスで若い女子のハートをつかんでいる通称“陶芸王子”であり、情報番組の生中継という形で小池の店に乗り込んできて、嵐山堂はグルの鑑定家と共に小池が差し出した野田の逸品をクソミソに評しまくって、高笑いをして去っていく……。
嵐山堂は野田が(前作で)贋作作成に手を出したことを知ってのこのイヤミくさい所業だったのだが、後から考えると自分自身が贋作商売に手を出していることを意識しての、外に目を向けたいという意識が働いていたのかもしれない。そしてそれが彼の首を絞めることになるんである。
陶芸王子に扮するのは、これまた今旬の俳優、山田裕貴。実力以上のもてはやされ方をしているのを自覚していて、苦悩している。
自覚しているからこそ、自分のとった賞が嵐山堂の根回しによることだったことを知ってショックを受けても、彼には嵐山堂に鎌首をもたげるエネルギーが残っていたんだと思う……。
おっとっと、ちょっと先走ってしまった。でもこの陶芸王子の存在は、キラキラ若手を出演させるということ以上に、いろんな、大きな意味を持っていたように思う。だってワレワレシロートには本当に陶芸の価値ってなかなか判らないからさ。解説されて、そうなんだ……とか思うぐらいで。
でも本当に好きな人や、何より作り手は、そりゃ判るのだ。だから彼にも判っていたのだ。そんな腕など持ってないって。うぬぼれていなかったのが彼の良さで、それはこれからの陶芸を担っていくという未来を感じさせる嬉しさがあった。
とはいっても、物語の本筋はコンゲームさ。謎の美女、志野は小池と野田にネット転売を追及され、しっとり美女をあっさり返上、これはテストだったのよと嫣然と微笑み、嵐山堂が手を染めているくだんの悪事をあかそうじゃないかと二人に持ちかけるんである。
そのためには彼らが手を染めている贋物を超える、もはやこれは本物であると思わせる織部の幻の逸品が必要、しかも大量に!!……この時点ではそれをどう使って鼻を明かすのか判らなかったが、CSのカルチャー番組という枠組みとはいえ、生放送でドッキドキの、嵐山堂の鼻を明かすクライマックスは……もう最高!!
それには前回、いやこれからもずっと欠かせない仲間であり続けるであろう、様々な贋作づくりのエキスパートである、飲み屋の主人とその常連たちの活躍が素晴らしい訳で。
木下ほうか、坂田利夫、宇野祥平、もう見た目だけで一癖どころじゃないヤツらばっかりでしょ!!特に坂田利夫師匠は撮影エピソードを聞いても、彼そのもののパーソナリティーで暴走しっぱなしで、監督さんが何があっても、それを受け止める指示を中井貴一にしたという、なんかそんなエピソードを聞いてしまうと、坂田師匠と中井氏のすべての場面にいろいろ想像しちゃってニヤニヤしちゃう!きちんとした芝居の応酬ではなく、はみ出る人とそれを柔軟に受け止める人、それがこんなメッチャ面白い化学変化を生みだすんだと思う。
坂田師匠は生放送ドッキリで、嵐山堂の先代主人の幽霊という大役も任され、貸しスタジオまで使ってしっかりリハーサルはしたけれども、なんたって坂田師匠……いや演じてはいるのだが、まんま彼そのもののキャラだからさ、予定通りにいかないことは必須で……もう予測はしてたけどさ、ヤラれたとゆーか、持ってかれたとゆーか、爆笑で、ホント、最高!!
わたわたしている裏方にしれりと入り込み、茶碗が変更になりましたとすり替える、そしてソックリの織部が次々に運び込まれるという痛快のクライマックス、しかしてこの場面でもう一つのすり替えが行われていたことが最後の最後に明かされる痛快さ!!
それは、真の詐欺師であった志野、いやその名前も思い込んでいた小池の言うとおりに受け取っただけで、そうではなかったということだよね、涼子ちゃん演じる謎のマドンナ、プロの詐欺師は、最初からこの騒ぎに乗じて嵐山堂が、本当は外に出したくなかった本物の織部をかすめ取る作戦だった訳で。
秀逸なのは、それを実際に、娘であるあなたが持っていてくださいと一度は小池から持ちかけさせてそれを固辞し、一座が盛り上がってすっかり酔いつぶれて眠りこけたところでホンモノをかすめ取り、逃げようとしたってとこなんである。
逃げようとした、である。小池はそれを見越して高飛びしようとした彼女を呼び止める。うーん、シビれる。騙し合いはどこまで行くの!!
後ろにはこれまた気づいて追ってきた野田がいる。結局彼女にホンモノをもってかせてしまった!!と思ったところで、「すりかえておいた」マジで!!ガックリくる彼女と、それを落ち着いた態度で受け止める同行の幼き息子は……これまた本当の親子かどうか。
詐欺師コンビとしての他人同士かもしれないという雰囲気を醸しつつ、でもこの幼いながらプロ根性のある男の子が、また河岸を変えて儲けようぜってなことを言うのが、なんかさ、このお母さん(じゃないかもだけど)に対する、俺が守ってやるぜ、みたいな雰囲気を感じさせて、やりおるなあと!
あー、面白かった。これってさ、これってさ!世界に出せるんちゃう!!だってこーゆー、日本の骨董、古美術の世界って、凄く世界的に注目されているカルチャーだし、それをこんなエンタテインメントに仕立て上げられるのは、それこそ自国の強みだもの。
お茶の世界観とか、陶芸作成のスタンスとか、お着物の美しさとか、海外にアピールできる要素満載じゃん。しかも作劇の面白さ、コンゲームとしての完成度も満点で、めっちゃワクワクするしさ。これ本当に世界に出してほしい!!
★★★★☆
夢なのか妄想なのか、クラゲにつかまって夜空を漂うなんていうファンタジックなシーンもあるけれど、それもマンガチックにならず、その自然光に溶け込む美しさである。
だってつばめは普通の女子中学生。普通、という定義がなんなのかはよく言われるところだが、いわゆる一般的な意味での。でもすべての“普通”な人々が、その人の数だけの悩みや苦しみを抱えている。100%オールオッケーな人なんていない。それをそっと聞かせてよ、そんな物語に思える。
最初にちらりとこの映画の情報を、桃井さんがラジオにゲスト出演しているのを耳にして、空飛ぶ星ばあとか言うもんだから、そーゆーファンタジックは苦手だなあと正直思っていたのだが、先述のようにちっともそんなことがないのだ。
確かにつばめが書道教室の屋上で出会う星ばあは変わっている。まあなんたって桃井さんが演じているんだから(爆)そらそうである。桃井さんは空を飛ぶと言っていたが、確かにつばめは空を飛ぶ星ばあに唖然とするシーンはあるのだけれど、観客には屋上の水たまりに映りこんでいる空の星ばあが一瞬、映るだけで、ホントに飛んでる星ばあが映される訳じゃない。
そこんところがニクイと思った。私が危惧した、ファンタジックでマンガチックなのはヤだなあ、というのを、まるで見透かされたようだ。もちろんつばめはしかとその目で、星ばあが空を飛んでいるのを見たのだろう、それを疑う気はない。
星ばあが言うように、「年を取ると何でもできるようになる」というのは不思議に納得できるものがある、のは、幼い子供が生まれる前の記憶を語るように、この世ではないところに近いところにいる年齢であればありそうな、いやきっとあるであろうと思われる、天使のような力学なんだろうと思う。
その後に描写される、クラゲにつかまって夜空を浮遊する、というのは、つばめがそんな星ばあにシンクロするからこそ起こる、夢のような妄想のような現象であって、決して現実ではないのだけれど、このあたりもとろりと溶け合って、実に絶妙、なんである。
つばめは三人家族。仲の良い家族。もうすぐ妹が産まれる。更に幸せ増し増し……という訳にはなぜだかいかないのには理由がある。お母さんは後妻さんなんである。つまり赤ちゃんが生まれるということは、赤ちゃんと両親は“血のつながった”リアル家族であり、自分がのけ者になってしまうんじゃないかと、つばめは思ってしまうんである。
そんな半世紀前の少女漫画みたいなことマジで思うのかとも思うが、幼い自分と父親を置いて出ていった母親、というこれまたかなり懐かしいようなフレーズが、つばめの心を痛めているらしい。つまり自分は捨てられて、一緒に捨てられたお父さんは新しいお母さんとの間に子供を得て、自分は弾き飛ばされるんじゃないか、だなんて。
この両親は本当につばめを愛しているし、見ていても涙が出るぐらいいい家族だし、なんでそんなこと思うのとも思うが、つばめが一人っ子で、この思いを吐き出す先がない、友達もどこか表面的な付き合いしか出来ていない、というあたりが引っかかっているらしい。
ちょっと、学内に事件が起きているのだ。つばめの元カレの笹川が、つばめのことをネットの学校掲示板であしざまにののしり、その後別件で停学処分になったという事件。元カレですかあ、と昭和のオバサンはついつい嘆息するが、つばめの言うことを信じれば(信じろよ……)、何もないまま別れた、ということだったらしい。
オチバレで言ってしまうが、この笹川が星ばあがずっと会いたい気持ちを心残りにしていたお孫さんである。笹川のところはどうやら母子家庭で、星ばあとは苗字が違うということは、父方の祖母だったのか。
なにかこじれたのか、ずっとこのお孫さんと会えてなくて、星ばあは、つまり余命いくばくもない状況で、そのことを心に残しながら、入院中の病院を抜け出している時に、つばめに出会ったのだ。
掲示板でののしっていたのは、彼ではなかった。ちょっと、そんな気はしていた。学内でのつばめは、無難に過ごしているといった印象で、楽しげに騒々しく近寄ってくる数人の女子とは、決して友達でもなく、グループ作ってる訳でもない感が、つばめの冷静な態度からありありと浮かんでいたから。
そうか、そういうことだったのか、と思い至る。その数人の女子の中に、あの掲示板の書き込みをしたヤツがいたのだ。笹川にアタックしてフラれて、つばめに理不尽な嫉妬を抱いて、友人のフリして、その真意は笹川への復讐だったヤツが。
そう考えると、つばめにはヤハリ、この学内で、同年代の友人はいないことになる。別に、同級生の友人がいる必要はないとは思うが、つばめ自身が、同級生に友人がいないから、自分には友人がいない、と思っているんじゃないか、というのが少し気になるんである。
星ばあは確実に友人、どころか親友だし、書道教室で共に学んでいる老若男女たちは……特に直接的な関係が描かれる訳でもないけれど、恐らくそこの先生とちょいと恋愛スタートしてるっぽいぽっちゃり女子が、先生がつばめに勧めた水墨画を、楽しいよ!私もやってるよ!!と明るく声をかけるのが、凄くいいなあ、と思って。
中学生だとかいうハードルを勝手に、むしろ大人たちの方で考えちゃって、年相応の友人を作るべきだとか考えがちだけど、そうじゃないんだ。この書道教室の先生だって、……恐らくつばめの家庭事情、彼が師事した水墨画の画家さんがつばめの実の母であることも、きっと知っていたんだろう。
もしかしたらこの先生は、その彼女のことを好きだったのかもしれない。そういうあれこれが、つばめという一人の思慮深い女子中学生に降り立って、ひとつの運命みたいなものが、凝縮されたしずくのようにぽたりと落ちたように思えてしまうんである。
そうそう、忘れていた訳ではないんだけど(爆)、つばめが恋しているお隣さんの大学生、亨の存在である。まさに今が真っただ中の旬役者、健太郎君である。彼は、お姉ちゃんがつまんない男に引っかかっていることを心配している。そういう恋愛体質であるらしく、それまでもヒドい目にあっているのに、私じゃなきゃ!みたいに思うタイプらしい。
つばめが彼女と会話しているその内容でそれは如実に表れる。「なんか感じ、変わったね……」「そお?」ホレた男に染まっちゃうタイプで、しかもそのことに気づかないという最悪のパターン、ということだろう。亨はついにはキレて、豪雨の中二人の車をバイクで追って、キックボードで飛び出してきた男の子を避けて転倒、重傷を負ってしまうんである。
キックボード、それは星ばあが孫のために買ったんだと、使い方を教えてくれとつばめに請うて、覚えてからは移動手段に嬉々として使っていたものだった。だからあの事故のシーンで、アンタだったか!!とすぐ判ってしまったが、当然、なかなかそのなぞは明かされない。
亨はバンジョー奏者でライブも控えていたけれど、演奏の際に踏ん張る足がズタズタに骨折してしまったことで意気消沈していた。つばめは毎日見舞いに行き、亨のリハビリに付き合う。亨も段々元気を取り戻す。
決して決して、恋愛関係に発展するという感じじゃない。もちろんつばめは亨に恋してるけど、大学生の亨にとって中学生のつばめはやっぱり、隣に住んでる、昔から知ってる女の子に過ぎない。そこには一点の曇りもない。
だからこそ、見えるものがある。二人は笹川に行き合う。いきがっているように見えて、実はつばめのことを思い切れていない、純粋な男の子であることを、亨は一瞬の邂逅で見て取って、「彼、つばめちゃんのこと大好きなんだな」とさらりと言ってのける。
笹川が、自分の事故の原因になった相手だと気づかないまま、なんである。この感じがいいなあ、と思う。つばめも、笹川と亨の関係性を知らぬままだし、それでいいんだと思う。
笹川は自分の家の屋根が、つばめたちが探しているえんじ色だということに気づく。そして笹川の下の名前が星ばあの言っている孫息子の名前と一致したんである。
星ばあは、自分のことは見えてる人と見えてない人がいると言った。まるで幽霊のような言い分だし、それこそファンタジックだし、その通りに受け取るべきなのか悩むところなのだが、つばめが連れていった、笹川との邂逅で、星ばあは、あの子には見えてなかった、と判断する。
確かにそう見えもしなくもなかったけれど、実際はどうだっただろう。見えていたんじゃないか。
お前の言うとおりだった、ほしのとよという名前の祖母がいて、死ぬ直前に親戚から連絡もらって会いに行ったんだ、と写真を見せてくれた。
この場面、つばめと亨がなごやかに散歩しているところを、笹川が引きはがすようにつばめをファミレスに連れていって、この話をあかしたこの場面のなんというスリリングさ。かなりなワンカットで、気まずげな空気が死ぬほど流れるのだよ。
でも、でも……。星ばあの幸せそうな笑顔と笹川のツーショット、涙を抑えきれないつばめにおずおずと紙ナプキンを差し出しては引っ込める笹川、ああ……笹川イイヤツ!そしてつばめにとっても、恋人同士にはなり切れなかったけどかけがえのない存在じゃん。
この後、笹川は引っ越してしまうというから、彼はどうしてもこのことをつばめに伝えなくてはと来たのだった。なんてイイ奴……。
星ばあが姿を消したから、つばめは心配していたのだ。その間にもめっちゃいろんなことがある。実母に会った。素晴らしい水墨画を描く人。感銘を受けたけれど、自分の実母だということは、判ってた。
展覧会に行く。話しかけられる。決して、自分の娘だと判っていた訳じゃない、珍しい若い観客だから声をかけたに過ぎない。彼女の幼い娘と夫を目撃したつばめは、会場を飛び出してしまう。
自分を捨てた母親が自分のことを気づかずに、新しい家族と幸福に暮らしている、ああなんて、少女マンガチックな。でも演じる清原果耶嬢の繊細な演技にヤラれてはいるんだけれど。
だってだって、つばめ、愛されてるのに。めっちゃ、愛されてるのに!!つばめ自身もそのこと判ってるから、すんごく時間がかかったけど、ヒドイこと言っちゃったお母さんに謝った。涙を流して、つばめを抱きしめた母親。
その後、つばめの部屋をひかえめに訪れて父親が、お母さんがつばめと出会った時一目惚れして、その後実母が引き取りたいと言ってきてもガンとして応じなかったエピソードを語る。
継母だと判ってからでも、つばめのことをめっちゃ愛しているのが判ってたし、そうだよね!!と思っても涙があふれるエピソード。血のつながり、この言葉が死語になってほしい。マジで。ホントに意味ないと思うもん。
今、日本の家族の価値観、家族像って、過渡期に差し掛かっていると思う。正直言えば、本作で登場人物たちが感じる想いって、半世紀前ぐらいの古さを感じるし、ここから進まなきゃと思うのだ。★★★☆☆
遺作になってしまった本作に関しては、ヤハリ遺作になってしまったからいろんな想いは去来するけれど……。うーん、難しいな。
まずは、監督は途中にちゃんと休憩をとれるインターミッションを設けているんだから、それに乗っ取って休憩をはさむ上映形態にしてほしかったと思う。もちろんこれは劇場によって判断をゆだねられるのだろうが、作り手自身がそういう構成で作っているのが明らかなら、それはそうすべきだと思ったのだけれど……まあ私が休憩したかっただけだろうが……。
そして毎回そうだけど、特に晩年の作品に至れば至るほど、これがどういう映画か、というのは非常に難しい。まあどういう映画か、なんていうことを言いたがることこそ不遜なのだろうとは思うが、大林作品の中にずっと失われずにあった、遊び心、どころか映画で遊ぶ、という自由さが、最後の数本でまさに爆発した感がある。後にも先にも、こんなトリッキーで自由な映画人は現れないんじゃないかと思われる。
よく言われることだけれど、映画会社、撮影所で育てられたそれまでの王道じゃない、今では当たり前になった、映画が好きだから映画を作ってきた、そういう人。
脚本、編集、それは作り手である監督が担うべきだという考え方も、私は大林監督から学んだし、今でもその考えに多大なる影響を受けている。そして最後の最後の作品でもそれが炸裂して、脚本も、編集も、編集っつーか、映像のデザイン、自由自在に切り刻む画面の構成、ついにはサイレントでもないのに台詞を追随する形で字幕(しかもカラフルな)が挿入される。
こんなん見たことない!!の連続で、これが戦争をテーマにしているということが判っていながらも、前半ぐらいまでは、これはただただ楽しい、ミュージカルみたいな映画なんじゃないか……と錯覚しそうになる。そんな訳は、ないのに。
ただ……どういう映画か、というのが不遜だと言いつつこんなことを言うのもアレだけれど、本作は戦争をテーマにはしているけれど戦争映画ではない。そして導入が、尾道の“海辺の映画館”が閉館の日、戦争映画オールナイトで終了すると言いつつ、戦争映画の名作が挿入される訳ではない。
観客である三人の男子がスクリーンの中に入り込んで戦争時代を体験する、という構成なのだけれど、戦争映画の中に入り込むんじゃなくて、スクリーンの中では各時代、各場所のリアル戦争が繰り広げられている、という趣なんである。
戦争、と言って即座に想像するのはいわゆる第二次世界大戦、広島、長崎に原爆が投下されて日本が敗戦に至るあの戦争なのだが、これは戦争とはなんぞや、日本の戦争史、ともいうべきスタンスで構成されている。新撰組やら、白虎隊やら、白虎隊と共に全滅した婦女隊やらの歴史が、男子三人がその場に放り込まれて描かれる。
そしてそこには、繰り返し繰り返し、10代、20代、30代の女性たちが、違う役割で現れる。特にメインで繰り返し繰り返し、まるでスクリーンの、いや、戦争の中を渡り歩くように登場するのは、左目の下のホクロが印象的な少女、男子三人の中のメインである毬男がノリちゃん、と親し気に呼びかける女の子である。
長い黒髪でセーラー服、小さな連絡船で島を渡る。ああ、さびしんぼうの富田靖子嬢を思い出すのは私だけではあるまいて。
目の下のホクロは、そうか……もう登場シーンで示されていたんだ。演劇界の妖怪……いや伝説、白石加代子先生がチケット売り場に鎮座するおばばとしてすべてを見ている。
ピカドンを笑顔で言わせるだなんて、大林監督でしか出来ない。ただし、ピカ、とドン、は、区別する。ピカだけを聞いて訳も分からず死んでしまった人たちと、ドン、まで聞いて、訳も判らずだけど苦しんで死んでいった人たちと。
最終的にはやはり、大林監督が描きたかったのは、日本においては最後の戦争だった太平洋戦争であった筈だと判るからこそ、新撰組やら薩長やら白虎隊やら入れられると、とっちらかってしまう印象があるんである。戦争というものがどういうものなのかを、描きたかったのかなあとは思うけど、描きたい軸が観客側にもハッキリと見えているだけに……。
いや、それよりも、戦争、という言葉がシンプルなだけに曖昧になってしまう嫌いがあるというか、戦争は良くないこと、それはパワーワードに聞こえるけれど、これ以上曖昧な表現はないような気もするのよ。それが、結局国同士の欲得ずくだったんじゃん、と思える太平洋戦争の無残な終わり方に対して言えば、凄く判りやすいんだけれど、新撰組やら薩長やら白虎隊やら出されると。
……あのね、こんなことはホンット、言いたくないし、これから先の歴史では絶対に相当しないことだけれど、戦争によって時代や文化や思想が進んだことは否めないのだ。闘って、正義や権利を勝ち取る、そのために犠牲が出なければいけない哀しい時代はあったけど、それを戦争として否定するのは違うよねと思うのだ。
だから……戦争の歴史のレクチャーとして、つまりは残酷さを示すってことなのかもしれないけど、結局はそれ以前にもあまたの戦争はあった訳だし、どうして新撰組から始めたのか……ああそうか……映画になっているからなのかなあ。
そうだ、ウッカリ忘れていた。これは前提として、海辺の映画館の閉館オールナイトがとば口になっている、一夜限りのファンタジーなのであった。
戦争映画を観てくださいよ、というアピールなのかなという気もしたのだ。戦争映画は今だって作られている。夏公開に向けて、義務のように製作されている。その中には大ヒットを記録したものもあったけれど、時代が新しくなればなるほど、観る気が起こらない、観てもないのにこんなことを言うのは良くないのかもしれないけれど、どんどんリアリティが薄れている気がしていたのだ。
いや、今の技術ならどんなリアルな戦場の描写も出来るだろう。それは、“昔の戦争映画”より素晴らしいかもしれない。でも、そういうことじゃない気がする。やはり記憶のリアルさという点では、戦後近いところで作られていた戦争映画の、言い様のない切実さにはかなわないんだと思う。
だから本作は、そういう戦争映画をぜひ見てほしい、というアピールもあるのかなと思った。なんたって戦争映画オールナイトなんだから。でもタイトルすらも出てこないんだから、そういうことでもなかったのかなあ……。
海辺の映画館。そしてその最終日。集まる人々は現代の人たちのようではなく、まさに映画黄金期のそれのようにしか見えない。
ふと、「ニュー・シネマ・パラダイス」などを想起してしまう。壊されてしまうところまで描かれちゃうのかと身構えもする。しかしそんなことはない。
しかしなんと、いとおしいたたずまいだろう!!客席は決して多くないのに、それに比して小さなオーケストラピットはちゃんと用意されている。ほんの5、6人の楽隊が、この海辺の映画館の最後の日に生音を聞かせる。
スクリーンの中で往年のミュージカルよろしくタップダンスを見せるダンサーたちに導かれるように、客席にいた男子三人が入り込む。そして映画への、いや……戦争への旅に連れまわされるんである。
成海璃子嬢がレイプされかける場面があったり、奔放な女性たちがヌードで群れになって笑いさざめいている場面もあるのに、乳首の部分がボカされているのがめちゃくちゃ気になる。
R指定を逃れるためなのか、万人に見てもらうためなのかとも思ったが、女優を脱がすことには定評のあった、つまりは女性としての自然な姿にもこだわっていたと思われるそれまでの大林監督ではちょっと考えられないことだったので、かなり落胆する。
それともおっぱい出しちゃったらテーマがぼやけるとかそういうことなのかなあ……だったら最初から映らないようなカットにすればよかったのに……。
璃子嬢もまた様々な立場で時代を経てスクリーンに登場するのだが、最も印象的なのはやはり移動劇団。そこには、様々な時代に様々な運命の女として登場してきた常盤貴子女史、山崎紘菜嬢も集結している。
そのままのスケジュールなら広島の原爆投下には居合わせない筈だが、もし公演が飛んだらそのまま広島の宿舎に投宿する予定であるという。この移動劇団の歴史からいって、そうなるんである。歴史は変えられない。だけど……。
このシークエンスには貴子女史のダンナである長塚圭史氏もあの小山内薫氏役として参戦しているし、映画ではないけど、その元となっている演劇というエンタテインメントが戦争に巻き込まれたことへの大林監督の想いを感じずにはいられないんである。
正直、ね、戦争、ことにこの太平洋戦争をネタにするのなら、現代の世界的情勢という視点からは物足りないなと思う部分はいっぱいある。
監督が最終的に選んだこの戦争の凄惨さの結末は、沖縄と広島だった。充分に、描き切ったと思う。
ことに、沖縄における、味方同士の殺戮、いや、琉球人が日本人に殺されたのだ、日本人になった筈なのに、という深い問いかけは、いまだに解消されないことだし、敵ではなく味方同士が殺し合うことが戦争の最終的な悲惨さであるという持っていきかたは決して間違ってはいないとは思うんだけれど……。
トレンドという言い方はしたくないが、それこそリアルな記憶が残っているうちにリアルな戦争映画が作られていた時代には、想像もつかなかった後から知れる事実にこそ目を向けることが、現代において戦争映画、あるいは戦争をテーマにする映画を作る義務だと、私は思うから……。
日本人同士でさえ、殺し合ったんだよ、というところに“落ち着く”ことに、この映画が、植民地にされたアジア各国に生ぬるい描写だと思われはしないかと、ついつい思ってしまうのだ。
本作は、新撰組、白虎隊まで登場させることで、結果的に、日本、日本人同士、日本だけが被った悲惨さだけに終わってしまっている。
いや、それだけで充分だということは重々承知している。でも、だったら、新撰組、白虎隊まで広げてしまったら、逆効果だったんじゃないかという気がする。戦争という定義を、あの太平洋戦争においても、日本国民だけが苦しんだと描いているように思われても仕方ない。気がするのだけれど……。
こんなこと、つまんない言いがかりだと判ってるし、遺作だし、大林監督大好きだし。でも、少し、少し……。戦争を記憶の片隅に残している作り手は、最後の最後にはそれにこだわるのかなと思ったりする。
新藤兼人監督も、晩年は繰り返し、自身の戦争の記憶を作品に刻んだけれど、これほどその作り方が違うかと思う。自由闊達な楽しさは共通しているけれど、新藤監督は外の感覚を一切遮断し、自身の記憶と感覚という内省にこだわりながらも、しっかりエンタテインメントに仕上げていた。
しっかりエンタテインメントは共通しているけれど、ベクトルが全然違う。それがクリエイトの面白さ。映画で純文学を作る、という冒頭の宣言がまさにだと思ったし、やたら敵国言語を指摘させながらも、大林監督自身がアメリカ文化、アメリカ映画に心酔していたことは劇中でジョン・フォードに扮せずとも明らかな事実であり、やっぱり、さあ。
敵国なのは判っててもその文化を愛しちゃった監督さんだから、対アメリカ、対戦争からははみ出られなかったのかな、なんても思ったりする。★★★☆☆