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酔うと化け物になる父がつらい
2019年 95分 日本 カラー
監督:片桐健滋 脚本:久馬歩 片桐健滋
撮影:一坪悠介 音楽:Soma Genda
出演:松本穂香 渋川清彦 今泉佑唯 恒松祐里 濱正悟 安藤玉恵 宇野祥平 森下能幸 星田英利 オダギリジョー 浜野謙太 ともさかりえ
朝は普通に仕事に出かけていく父親が、夜には必ず泥酔して玄関ではいつくばり、トイレで吐き、休日には友人を引っ張り込んで雀荘と化し、そこでも一日中飲み……という父親。
娘二人、特に長女にとっては嫌悪から憎悪に移り変わっていく存在であり、撮影中はコミュニケーションをとらないようにしたと語っていた松本穂香嬢は始終仏頂面のまま父親と冷ややかな関係を築いているんである。
決して間違ってはいないんだけれど、渋川氏を父親に迎えて、そのどーしよーもない笑顔でわしゃわしゃわしゃー!!とやられ、もう!お父さんは!!みたいな、渋川氏のチャーミングな酔いどれっぷりを期待したこちらとしては、あれ、ここを抑えられたら、キツいぞ……と思い始めるんである。
とゆーのも、“化け物”という言葉のイメージからは遠いというか、薄いというか、酔って暴力をふるうとか、暴れて部屋中めちゃくちゃにするとか、そういうんじゃないんだもの。
ただはいつくばって、動けなくなるだけなんだもの。確かにトイレで吐いたり、おもらししちゃったり、迷惑はかけるんだけれど、何か何か……だからこそ渋川氏を起用したんならの、“陽気な怪物”になって、でもその裏側では娘たちには見せない想いを抱えてて、みたいなものを勝手に期待しちゃっていたからさ。
一応ダブル主演とはなっているけれど、そういう感じなので長女サキを演じる松本穂香嬢のピン主演のような趣の方が強い。無論、父親側の苦悩も描かれなくはないが、正直言ってそこは描き込みが浅いというか、思い入れが深いようには思われない。
それはそもそもの原作が、長女である作者さんの視点から描かれているからに違いなく、だからダブル主演にすること自体にムリがあったような気もする。
父親は会社では人事部に勤め、“誰からも嫌われる部署”として、親友ともいえる同僚の左遷も止められないし、教えてやることも出来ないし、所詮会社側の人間か、と親友から吐き捨てられるという辛い場面が用意されていたりはする。
するのだが……なんでかなあ、会社、というか仕事場面というか、そういう描き込みがあまりに通り一遍なのでリアリティが薄いのだ。仕事が、立場が、会社がつらい、という感覚が、伝わってこない。
酔えば陽気な彼も素面の時には寡黙一辺倒で、だからこそ家族とのコミュニケーションもイマイチ取れていないということもあったりして。彼が本当は何を考えていたのかが、さっぱり伝わってこないのだ。
長女側に関しては、逆にやりすぎなぐらいに彼女の思っていることを綴ってくる。漫画原作ということもあるのだろうが、言葉に出せない心情をフキダシに台詞を書き込んでぽわんと浮かせるなんていう手法を、全編に渡って展開するんである。
ラストには親友の「だって友達じゃん」という鉄壁の台詞一発で今まで心の中にしまってきたフキダシが雲散霧消するのだから有効だったのかもしれないが、個人的には、……映画にするのなら、役者が演じるのなら、役者の芝居に任せてほしかったなあと思ってしまう。
勿論、漫画のフキダシにおける細かい心情まで、100%伝えるのはムリだとは思うが、それ以上の、それをはみ出したものを届けてくれるのが役者さんの芝居であり、それこそが映画のだいご味だと思っちゃうからさ。
頑張って芝居している彼女の肩先にぽわんぽわんとフキダシが浮かぶたび、これぐらいのこと、彼女の芝居から充分読み取れるよ、って思ってしまうのだ。父親の心情にはあんだけ淡泊だったのになあと改めて恨みがましく思ったりして。
ところで、この家族の展開はなかなかにソーゼツである。一年中酔っぱらって帰ってきて、何を考えているか判らない夫に奥さんは既にアキラメムード、休日の家が雀荘と化しても淡々とお酒の準備にそのおかわり、灰皿の始末をしたりする。
この飲み仲間たちがまったく悪びれなく、彼が飲み過ぎの結果の末期がんにかかっても「なんでこんなになるまで知らせなかったんだよ!!」と涙ながらに見舞いに訪れたりする。
このあたりの描写はどう受け取っていいか、難しいところである。あくまで長女側の視点だから、この飲み仲間たち、あるいはスナックのママなんて敵も敵に違いないのだが、面と向かってぶつかることもなく、途中からダンマリを決め込んでしまった長女からは、その心情がイマイチ読み取れない。葬式の時に、あんたたちのせいだよ!!つかみ合いぐらいしてほしいと思ったが、そんな風に思っちゃう私がベタなのかなあ。
あ、この場合の葬式は母親の葬式ね。母親は、なんとまあ……首をつってしまった。自分を顧みてくれない夫にゼツボーして、新興宗教に走った挙句、であった。
この新興宗教のくだりも、表面的で、……まぁ確かにウッカリ掘り下げると危険な要素ではあるけれど、彼女が本当にすがっていて、でもそれが叶えられなくて、っていうことなのだから、長女のモノローグ一発「救ってくれなかったね」というだけじゃ、そもそもこの設定を差し出しただけの着地点が見いだせないのだ。娘たちも、夫も、ただ粛々と妙な手順の葬式に参列するばかりで。
母親を演じるのがともさかりえというゴーカさなので、あっさり首つって死んじゃうという展開にかなりアゼンとしてしまった。しかもその後、母親のこの衝撃の死について夫も娘たちも特に触れることがないということも、結構衝撃である……。
ただただ、父子家庭になった大変さと、一時は断酒したものの戻ってしまった過程と、父と娘たちの距離が離れていく様が描かれるばかりで、……母親の存在の希薄さに、ボーゼンとするばかりなんである。
死を選ぶぐらいなんだから、むしろ母親の、つまり妻の立場として夫に対する、愛情とか、信頼とか、そもそものコミュニケーションの欠乏とか、そういう切実さがあった筈。
筈、なんだけど想像されるばかりで、その想像さえ断ち切る形であっさりと消え去ってしまい、しかもその存在感はまるでなく、終わった時にはそういやあお母さんいたよな、と思うぐらいなんである。
これは……マズいんではなかろうかとさすがに思う。アルコール依存症の末にガンになってあっという間に死んでしまった父親と判り合えないままだったことに焦点が当てられているにしても、もう一人の親であり、むしろ共通の敵として父親と相対した味方側だったのだから、尚更である。
ラストにわざわざ、冒頭を振り返っての幼少期を用意せずとも、娘たちはお父さんが大好きだったことは、判っておるのだ。
夏休み、プールに連れてってくれる約束を反故にされて怒ったりするのは、お父さんが好きだからなのだ。“化け物”になっても、玄関からズルズル引きずって寝どこに連れてくのも、お父さんが好きだからなのだ。キライなら、“風邪ひいて死んじゃう”ままにしておけばいいんだもの。
それが見えるからこそ、お母さんが不憫である。劇中、「愛してるってたまには言ってくれなきゃ」などとゆー、注目すべきシークエンスはあるが、ただお父さんだんまりで、もう次にはお母さん首つって死んじゃう。その後、お父さんが断酒して頑張るのは娘たちを育てなきゃという想いにしか見えず、自分のせいで死んでしまった妻への想いが全然見えないのが本当に辛い。
その辛さは、作り手側の単純な配分への違和感じゃないかと思っちゃうから、……ヤハリ、すべての登場人物に相応の思い入れを観客は持って接しているし、それは当然の大前提として、作り手側にあると信じているからこその失望なのだ……勝手だけれども。
サキは父に無関心になろうと決める。就職もせずぶらぶらしていたが、得意の画力で漫画家としてデビューする。しかしそれは奇しくも、父のネタを題材にした漫画だったんである。
カレンダーに書き込む赤のバッテンは、父が酔っぱらって帰って来た日(つまりほぼ毎日)だったのだが、無関心になろうと決めて、それもやめる。赤のバッテンは、サキの父親への関心、つまり愛情だったのだと判る。それをやめようと決意するのは、自身がそれを自覚したことに違いないのだが、サキがそれに気づいていたかどうか。
……少なくとも、ある日そのカレンダーに気づいた父はむせび泣き、カレンダーをかけている壁に、つまり取り換える時にしか気づかないところに、赤ペンでごめんなさいと書き込んだ。面と向かっては、言えないまま。本心をぶつけ合うことを一度も出来ないまま。
妹ちゃんはむしろお姉ちゃんより大人というか、達観していて、こんな酔っぱらいの父親への愛情も素直に自覚している感がある。
サキは自分を制御できず、カレシへの依頼心を強めるのだが、東大でイケメンという外側だけの、とんでもないソクバクDV男で、しかし彼と別れられないのは……愛情とはなんぞやということが、この家庭で育ったことで、判らなかった、という筋立てなのだろうか??
うーむ、なかなかキビしい。先述したが本当の意味で父が化け物になっていたら、判るのだが、割と陽気で大人しい化け物だったし。あ、だからか、それを納得させるために、なんかいきなり酔った父親がサキの首を絞めるなんてシークエンスを用意したのかなあ。
そんなこともあるまいが、そう思うぐらい、それまでのキャラ立てと違って唐突感があったから、何何、と戸惑ってしまった。翌朝、記憶にない父親に更に嫌悪感を募らせるという、いわゆる大事なシークエンスではあったのだけれど、それまでのクレシェンドがなくって唐突だったから、あれあれという感じで。
冷蔵庫の中のワインが置き去りにされたまま終わってしまったのがかなり気になる。それは、ずっと断酒をしていたお父さんがうっかりボジョレーヌーヴォーを試飲してフタを開けてしまったその時に、きっと買ったものであろうと思われる。
それはつまり、娘へのプレゼントにしようと思ったんじゃないかと思うんだけれど、次女がそれを冷蔵庫に発見し、あれ、ワインなんて飲まないのに……と言ったまま何も触れられないで終わるってーのは、どーゆーこと!!マジで、クレジット後まで待っちゃったよ!タネを蒔いたら収穫しないと絶対、ダメ!!!
★★☆☆☆
恋人が、別れるところから始まる。9年前の日付である。父親の介護のために郷里に戻るという知華子を春樹はただ漫然と見送る。知華子の友人が責め立てても「だって仕事があるだろ」と当たり前のように言う。
知華子は「この人は優しい人。いい人だけど、執着しないのよ。自分にも私にも。薄情で冷たい人なのよ」と別に怒っている訳でもないように言う。淡々と、何かの本の感想でも言うかのように。
それに対して春樹は何を言うこともない。言うことも出来ないというより、彼自身これから何が起きるのか判っていないから、と後からならそう思う。
この時間軸に春樹はすべてを知った上で、戻ってくるのだ。あの大震災を経て、知華子を捕まえて、捕まえたと思ったところで唐突に戻ってくる。
そういう意味では壮大なファンタジーである。誰もが起こったことと判っている大震災を未来のこととして夢の中に見て、起こる前の“現在”に戻ってきて、今別れたばかりの彼女と“再会”するのだ。春樹はその後、どんな選択をするのか。
春樹の冷淡さというのは、オフィシャルサイトの解説で触れられているような、あんな深刻な惨状があったのに、記憶の片隅に追いやって何事もなかったように暮らしている、という、日本人特有の積極的な忘れっぽさを集約したようなキャラクターなのだろうと思う。
いくら別れた恋人だからといって、「あいつ死んだの?」というのは、知華子の友人があぜんとするのもむべなるかな、である。「あんな大きな震災があったのに、知華子が無事かどうか確かめなかったの?」確かめなかったんである……。
春樹にとって知華子は、どんな存在だったのだろう。知華子が言うように、執着しない、本当に人を好きになれない、そんな男だと斬って捨てることは簡単だが、この事実に直面して春樹がどんどん変わっていくのを見るにつけ、なかなかそうとは言い切れない。
それもまた日本人の良し悪しの気質である。忘れっぽく、無自覚過ぎるが、突き付けられると途端に目覚める。忘れてはいけないことにようやく気付く。
知華子は本当の本当は、死んでしまったのか、どうなんだろう。東日本大震災がテーマの映画なのに、舞台が横須賀で、綺譚と名付けられるこの物語の不可思議さ。
行方知れずのままの知華子の墓を建ててあげたいと春樹に相談した知華子の友人が「もしかしたらあの子、生きてるかもしれない」と連絡してきた。横須賀への転居届が出ているのだという。
春樹はあの時、仕事を理由にあっさりと知華子と別れたというのに、認知症の老人を食い物にするような詐欺まがいの仕事に疑問を感じていた。あの時から9年も経つが、当時からだったのか、今その迷いに直面したのかは判らない。
今は部下も抱え持つ立場で、その若い部下は彼の苦悩をよそにノルマという名のもとに冷淡に仕事をこなしている。冷淡に。それは春樹が知華子に言われた言葉ではなかったか。
部下に言わせれば突然正義を振りかざして自分まで巻き添えにして、勝手に有休をとって春樹は知華子を探す旅に出る。友人からの先述の知らせの前にまず、知華子が被災した海辺の町を訪れる。何の手掛かりがある筈もない。巨大な防潮堤をとぼとぼと行き交う姿が豆粒のように引きの画で描かれる。
かつての津波にさらわれた荒涼とした姿であったであろう場所は、表面上は普通の街並みを回復しつつあるように見える。そしてそこに知華子の痕跡などない。
友人からの手がかりで、横須賀へと降り立つ春樹は、教えられた住所で確かに知華子に再会する。そこは私設の老人ホームといったちんまりとした家で、知華子はそこで働いているんである。
オーナーは知華子の幼なじみ、震災の際、知華子を助けた人物である。川瀬陽太氏演じる川島は、裏社会を歩いてきた影がひたひたと迫りくるような人物が、震災から端を発する人間の業、愛、苦しみ、憎しみ、自己嫌悪、もうすべてをひっかぶっていて胸が苦しくなる。
さぞかし裏街道を歩いてきたであろうという人物で、今もこの施設の運営資金を言えないところから協力を得ているらしい。
それでも苦しい経営状態で、知華子が辞めたいと言ってきた時に涙目で、「ここは入居者が死ななきゃ黒字にならないんだよ。苦しい時、誰か死なないかって祈ってる」と知華子を引き留めようとする川島の決死の告白に絶句するんである。川島にとってこの起業は知華子の居場所を作るためであり、忌まわしき場所からも遠く離れて踏ん張ってきた。
知華子は震災を“忘れて”いる。本当は、違うんじゃないかと思われる。判らないけれど……春樹は彼女がとぼけているんじゃないかと思い、川島はあの震災の時助け出した彼女が実に半年もの間昏睡状態になっていたというし、真実は判らないけれど……。
「何言ってるの」「そんなことある訳ないじゃない」といった単純な返しが、何か違和感を持って響いてくるのが不思議である。彼女は何もかも判ってて、でもそれを受け入れたら自分が壊れちゃうと思って、自ら催眠をかけるように封じ込めているんじゃないかって。
入居者たちが、その鍵をこじあけてくる。ことに、忘れたくないんだと分厚いメモ帳を描き続ける静さんが一番の象徴である。
川島は過去を思い出すことが症状の悪化につながり、病院に連れていかれると言ってこのメモ帳をとりあげるのだが、静さんはそうなると腕にまで書き留める。
実は川島自身が、この静さんが心のよりどころで、自分の苦しい思いを、静さんが寝ていることを確認して独白したり、するんである。その独白は、震災の時に知華子を助け出した時のこと……切迫した状態で、寝たきりの知華子の父親を助けることはできなかった。
知華子だけをなんとか車に乗せようとしたときに、知華子の父親が足にしがみついてきた。蹴り倒した。何度も何度も。動かなくなるまで。そのことを、知華子は知らない。「何が正解だったんでしょうかね」と眠る静さんに涙目で独白、いや、懺悔する川島の姿に言葉を失う。
こういう場面が、あの震災のそこここの場面で、きっとあったんじゃないかと、思ってしまう。これまで、震災をネタにした映画は数多く作られてきたけれど、この点に切り込んだ作品は、少なくとも私は出会わなかった。見殺しにしてしまった、優先順位をつけてしまった。それが正しかったのか……。
震災、津波の凄惨さだけで充分過ぎるほど悲劇だからこそ、鎮魂の表現にとどまって、そこまで切り込んだ作品は、なかった。でも、ついに出てきたのだ。戦争をテーマにする作品がそうであるように、避けて通れない領域に入り込んだ。ついに。そう思った。それだけで、その勇気だけで、私は本作が信頼しえる心意気の映画だと、思った。
川瀬氏がその贖罪を一人引き受ける。年恰好、やさぐれ加減、すべてが、なんとなく人生を過ごしてきた青二才の春樹にとっては追いつけないものである。
春樹は詐欺まがいの商品を売り付ける証券会社に疑問を持ってここにいて、川島が「(前職は)金融業。」と詐欺まがいの商売をしてきたと自嘲気味に言うのに共感して、自分と同じ、と口にすると、川島は激しく否定する。お前はエリートだ。俺とは違う、と。
川島がやってきたことは闇金とか、それ以上にヤバい、不動産を言葉巧みに買いたたくとか、そういったことだったらしく、騙されたと言って食ってかかってくるおばちゃんとの攻防が描かれる。
確かに川島は、違法すれすれの卑怯な手口で巻き上げたのだろう。しかしその時川島がこのオバチャンを切って捨てる台詞は、世話どころか見舞いにも来なかったくせに。遺産の整理だってほったらかしなのを自分が全部やってやったんだろと。
ああ、ああ……。どこに視点を置くかだ。それこそ三文記事ならば、どちらにでも書ける。施設に預けてほったらかしだった遺族が、遺産にだけ食いつく。逆に、悪徳介護業者に囲い込まれて、遺産を安く買いたたかれた。真実なんて、真実なんてさ……!!その当人がもう何も言えないのに。判断できないのに。
そう思うとこれは、震災映画ではなく、震災によってあぶりだされた、あるいは生きなおした、人間のさまざま、ということだったのかもしれない。
でも知華子は……死んでしまったのだろうか??そもそもこの横須賀ストーリーは、知華子が春樹の部屋から去っていった後にふと居眠ってしまった時の、長い長い夢に過ぎなかったのか。
本当に、映写機の故障かと思うぐらい、唐突だったのだ。知華子が川島の庇護から抜け出るために施設を後にする、春樹と共に東京に向かう。9年前の時点で知華子は小説家のたまごで、それは単なる夢に過ぎないと、父親の介護に舵を切って春樹とも別れて東京を後にしたのだった。
横須賀パートで知華子は春樹との再会もあってか、再び小説家への夢を取り戻し、自分への想いを充分に判っていた川島を振り切った。駅に向かう途中で、突然映像が切れ、真っ暗になり、観客が不安になったところで、9年前に時間が巻き戻される。
知華子の蔵書が詰まっていた空っぽの本箱のある畳の部屋で大の字になって居眠りしていた春樹。知華子が出て行きしなに、なんか忘れてる気がする……と言ったのは、この壮大なファンタジーの思想的なことだとも思うけれど、本当に、ガチに「パソコン忘れた!」と言って戻ってくる知華子。
ほんの数分と思われる居眠りの中で、9年間の旅をした春樹は呆然と知華子を迎える。東日本大震災が、まだ起こっていない“現在”に引き戻される。これから起こるいろんなことが、“ありえない”ことではないことを、彼は夢で見ただけとはいえ、知ってしまったのだ。そして、今ここで捕まえておかなければ永遠に失ってしまうものがあるということも。
横須賀に舞台を持ってきたり、個性豊かな人生のベテランさんたちのチャーミングさや、そう……彼らに幼少期の戦争体験を語らせたりと、この一本にかける監督さんの意気込みがもうね……これは、一生一本だからこそ作れる映画。それに呼応する役者さんたち、ことに人生の先輩の役者さんたちの支えがあってこそ。
戦争と震災を同列の価値観で語るのは、ありそうだけどかなり難しいと思う。それを、しっかり構想を練った脚本で作り上げたことも、素晴らしい。★★★★☆
そして本作のナカミもかなり攻めているというか、これは優作氏自身が原案としてクレジットされているし、スタッフもその世界を思う存分表現しまくれるだろうというしびれるメンツがラインナップされているから、優作氏肝いり、といった雰囲気マンマンなんである。
その攻めている、というところはなんといっても、全編に漂う同性愛、という言い方を当時はしたのであろう、もっとガチに、ゲイの世界観である。
それは、精神的にも肉体的にも、である。実際はそうではない組み合わせであっても、もしかしたらこことここもそうだったんじゃないかと腐女子的に邪推させるほどに、その空気が充満している。
そしてブルースであり、結構ビックリのどんでん返しであり、しかも映像はブルーグレーでクール極まりなく、どこに見どころを置けばいいのか、ついていくだけでへとへとになるクセモンである。
優作氏演じるBJはブルースバンドのシンガーだが、食えないので合間に私立探偵をやっている。しかも前身は刑事である。なかなかのムチャクチャ設定である。
宇崎竜童氏が友情出演という贅沢極まりないキャスティングで、物語に特に関係なく、ピンクフロイドのレア盤が手に入ったとかいう会話がなされたりして、優作氏の音楽に対する傾倒が垣間見られるのも楽しい。
そしてなんたって、この設定をかませるぐらいだから、全編通してシンガー優作の、時にけだるく、時に吠え、時に噛みつくような、クールなブルースを聴くことが出来るんである。
これは現代の今聴いても相当にカッコよく、宇崎氏がかんでいるというのもあって、ホンモノという感じがする。
最初の依頼は、単に彼の仕事事情を紹介する程度なのかと思っていたが、最初から重要人物がバンバン登場していたことに気づくんである。
だって、最初は家出息子の捜索の依頼だったのだ。その家出息子は闇組織に入り込んでボスに寵愛されていた。
そもそもなんで単なる家出息子がこんな重要な組織に飛び込んでいるのか、こーゆーツッコミどころは本作には散見されまくるのだが、もうそんなところを詰めていくつもりは最初からなかったのかもしれんと最終的にはだんだんと思いはじめる感じである。
怪しげな中国風なまりの坊主頭で小太りのボスが、もういかにもな目つきでこの美少年を視線で嘗め回す。ボスを演じる財津一郎がキショいこと極まりないし、ザ・紅顔の美少年、明(田中浩二。私、知らない……めっちゃ美少年……)は、もう見た目からして、いわばなんつーか、餌食、である、弱いマライヒである(爆)。
本作はその感覚に満ち満ちてはいるものの、不思議とその濡れ場はないのだが、明の風貌はその想像をついついしてしまうほどのそんな感じ、なんである。
この時点ではBJ自身にゲイの気質をまとわせてくるとは思わなかったが、そのあたりはちょっとアイマイにしている。
少なくともBJもまた、若い頃にそういう立場にあったことはあるらしく、明との会話の中で、「俺も昔はギリシャ神話の美青年だった」とたわむれのように言う。それは、明の「醜くなりたい」という意味深な台詞と呼応している。
兄弟というには遠く、親子というには近い年代のこの美しき男二人は、まるで子犬のようにじゃれまくる。「俺とお前は、なんだか知っているような気がする。犬と飼い主、競走馬と馬主、直接口をきけない半端な関係……」BJの口にする、この運命めいた台詞は、愛の告白に聞こえなくもない。
しかして先走って書いてしまったが、この展開はずーっと後である。家出息子として探索した冒頭から遠く隔たって、再会したこの時には、二人の間にはどうしようもない運命の溝が深く横たわっているのだ。
BJにひそかに接触してきた親友は、刑事の椋。ほほお、内田裕也でありやんすよ!!
私なんぞはミステリ苦手の推理ヘタなので、最初に無残に殺されてしまった椋がまさか生きていて、すべての黒幕だったというオチに素直に驚いたのだが(てゆーか、椋の顔も忘れかけてたところに突然現れたから、あれ、この人誰だっけと一瞬思ってしまった……)、結構親切に、ヒントは与えてくれていたのだよね。
椋の後輩刑事の紅屋は、椋のことをBJが殺したか、誰かに頼んで殺させたとバカの一つ覚えみたいに、こんな拷問刑事頭が悪いだけじゃんと思うぐらい執拗にBJを責め立てていた。
その執拗さがあまりにもやりすぎな感じだったので、これは時代的なものにしてもヒドいな……なんか疑われないために焦って先手を打っている感じが私程度の人間にも透けて見えていた。
そしてなんといっても、BJがぽろっとこぼした、「本当に死んでるかどうかわからないんだから、救急車を呼べ」と言った台詞に、即座に激昂して紅屋が殴りつけたことだったんであった。
その前もその後も激昂しまくりボコボコにしまくりの紅屋だからうっかり埋もれそうになるんだけれど、この台詞はやはり頭に引っかかっていて、ボコボコにされたBJが警察の取調室で目を覚ました時には「もう骨になってるよ」てんだから、その時点で観客にある程度の答えを渡したようなもんだったのだろう。後からそう思っただけで、実際は素直に驚いたんだけどさ。
椋の奥さんがBJの元恋人、というのが、紅屋(と椋と椋の奥さん)がBJを犯人に仕立て上げる大きな言い訳というか武器というか。
でもBJはその事実は事実としてあるんだろうけれど、その元恋人である民子にまるで興味を示さない。元恋人、という設定が紙っぺらのように思えるほどである。
彼が執着するのは、椋の死である。この時点では、BJはまさか親友に騙されているとは思ってない。それは明らかに思える。本当に、クライマックスで気づいたという感じである。紅屋に「なんで俺が親友を殺さなきゃいけないんだ」と、実にストレートな物言いで問いかける雰囲気でも察せられる。
先述した、こことここにはないだろうとは思いつつ、なんとなくBLチックに妄想してしまう関係がまず、ここにあるんである。椋が、決して頭が悪い訳じゃないBJを騙せると思ったのは、そーゆー間柄でもあったからと思わせなくもない。
そして、後輩の紅屋も充分妄想に値する。勿論、椋に持ちかけられて、グルで、最終的に椋に裏切られて非業の死を遂げるにしても、椋の親友だと思って安住しているBJを、オレは椋の仲間でお前を陥れてるんだもんね!!みたいな空気を、あの執拗なボッコボコに感じなくもない。
いや、だからそれは腐女子的妄想なのだが(爆)、ああまでゲイの関係性を時に濃厚に、時に初恋のように淡く、メリハリつけて突き付けられると、あらゆる関係性にそれを見出したくなる腐女子なのよー。
そういう意味では椋の女房はある程度は蚊帳の外なのだが、椋が、親友も、作戦に加担させた後輩も裏切って、亡き者にさえして(BJはそこから逃れたが)、闇組織からぶんどったクスリの売買金を持って女房と一緒に海外逃亡しようとしていた、という事実がラストに明かされると、なんか……この時代には夫婦の愛なんていうのはフツーに、異性愛がフツーに思われていたんだから何の不思議もないんだけど、なーんとなく裏切られたような気分になっちゃう(爆)。
ゲイをガチで、本当の意味でリアリティをもって描いた、という訳じゃない。それには当時も今も、日本のクリエイティビティはそこまでは追いついていない。優作氏がどの程度、その責を思って企画したのかも正直判らない。どことなく、私ら現代の腐女子のファンタジーっぽさの方を感じたりもする。
それは、本作で最も印象に残ったのが、明とBJの、まるで中学生の兄弟のようにじゃれあうシーンであるからなのだ。しかしその時点で、明とBJの関係は、捜索して見つかった家出息子と探偵、ではなく、親友の死(死んでなかったけどね)の真相を探るために行き着いた先の、組織のボスの愛人、という立場なんである。
つまりこの時点で、出会った時には貞操が破られていなかったかもしれない明だが、もう今は……退廃の美を思わせるどこか疲れた美しさで、でもそれが、BJとの他愛ないふれあいで、小学生の男の子みたいな無邪気さに戻り、でもそれが、無防備な性愛のように見えて、見ててなんか……危険だし、純粋だし、どうしよう、と思っちゃうのだ。
この二人は何にもしなかった、何にもしなかったのに……こんな濃厚な愛があっただろうかとさえ、思うぐらい。
紅屋がクスリの取引場所に現れて金をぶんどった時点でようやく、BJはことの真相を読み取ったのだろう。しかも紅屋も椋が仕掛けたであろう細工で車ごと爆死、BJがその修羅場を飛び出したその肩に、こと切れた明をかついでいるのだ。
明は、明は……寵愛されたからこそ、それだけの男の子だったからこそ……。ボスが、言い訳のように言った、自分の娘に手を出されたから、という台詞がBJの鼓膜によみがえったのは、存在しない娘に置き換えてボスが本気で悔しそうに言ったその台詞が、ナマな響きを持っていたことを、改めて思い出してしまう。
てーことは、えーと、明は、ボス以外の誰にやられたの??椋?……もう候補者がいすぎるからワケわかんないわ。
こうやって思い返してみると、見ている時以上に、これは男同士の愛情と憎悪こもごも巻き起こる、本格的なゲイムービーな気がしてきた。優作氏が、本気でそれに取り組んだんではないかという気もしてきた。
ブルースが全編彩る音楽映画としても見事だし、ハードボイルド、フィルムノワールとしてのクールな映像美も見事。ゲイを隠すという気持ではなく、すべてを完璧に美しく仕立て上げなければ、性根を据えて彼らの愛憎を表現できないと思ったんじゃないかと思ってしまった。ツッコミどころとか言っちゃったけど、そんな展開上の些末さはどうでもいいような気がしてきちゃった。★★★★☆
三姉妹だけで住んでいる、まるでリゾートロッジのような一軒家。ピンク映画では時々、ロケーションの関係上かリアリティをぶっ飛んだような家に住んでいたりするがこれもナカナカである。
中も全面ロッジのような木目である。スキー場に来ているような錯覚になる。三姉妹だけで住んでいる、というその理由が、「お父さんが淡路島に最初単身赴任で行ってたんだけど、食べ物がおいしいからってお母さんもついて行っちゃった」とゆー、なんかちゃんとしてんだかしてないんだかよく判らん設定が、一応ちゃんと用意されているのが可笑しい。
そして主人公となる次女のユキはとにかくホレっぽい。ホレっぽいが勇気がないから一歩が踏み出せず、いつも始まる前に終わってしまう。
それをアドバイスするのが和田光沙嬢扮するお姉ちゃんのカツコなんだけど、恋愛上級者を自任してやまない彼女もまた始まる前に終わりまくっているお人なんである。
デートと言っても彼氏じゃない、「デートっていうのは男の器を見定めて、男の懐見定めて、男の夜を見極める」とウッキウキで男を釣りに出かけるも玉砕、「そして男の価値を見誤る。」と妹に言われちゃう。
てか、ストリッパーかよ!!とツッコミたくなる、太ももまでのスゲー網タイツはいて、極彩色のファッションに80年代当たりかと思われるふっわふわのパーマスタイル。男をベッドに組みしだいて腰をくねらせながら下着姿になると、ブラとおパンツはトロピカル!すごい、あんなんどこで売ってるのかしら!!
ジョギングしたり部屋でエクササイズしたりするそのカッコも、レオタードってそれこそいつの時代だよ!!しかもレオタードで外を走るな!!もう、いっちいち面白すぎて、和田光沙ばかりに目が言っちゃうんだよーう。
ところで引きこもりの三女である。次女が心配していつもドアの外に食事を置いておく。ラップもしないのが若干気になる……乾いちゃうよなー。だって手を付けずにそのまま放置されたりもするんだもん。
感じとしては高校生ぐらいな雰囲気かなぁ。ハッキリとは見せないけどどうやらハードコアな腐女子。しかもあのうっすい冊子はいわゆる商業作品じゃなく、彼女自身の好みのものをコミケあたりで手に入れたものと思しきである。
姉たちに言われずとも自分の今の状態を脱したいとは思っている彼女は、時に姉の優しさに応えようとこの大事な冊子を冷蔵庫(!)に入れて「ご自由にお使いください」なんてメモを張っといたりする。
なんて優しい妹……なのかぁ??「すっごいのよ、これは想像以上にあの子ヤバいかも!!」と寝ている三女の寝床に侵入してまでコーフンさめやらぬお姉ちゃんが可笑しすぎる。「で、使ったの?」でへへ、と顔ゆるゆるの和田光沙可笑しすぎる!!
てか、次女の失恋事情はかなり尋常ではない。そもそも最初のオトコがマズかった。ザ・ヒモである。確かにイケメンである。そして「母性あるよな」が彼の口癖、というか、言い訳である。
母性で手作り料理を頬張り、母性で家事をやらせ、母性で金を都合させ、そして……「寝てたら背が伸びちゃって」!!どう考えても尋常じゃない長さで布団から足が出てる!!「母性あるよな」そこでその台詞は意味不明すぎる!!
……こんな経験があったからなのか、一歩が踏み出せないのは。「自然に会話が出来た」というだけでウキウキしている妹を、“恋愛上級者”お姉ちゃんは心配する訳である。そしたらその惚れた相手がいきなり突然死て!どーゆー設定!!
「人は遅かれ早かれ死ぬのよ」そりゃそうだけど!!「だからって今死ななくてもいいじゃん」そりゃそうだ!!それをエイサホイサと極彩色レオタード姿で股おっぴろげてエクササイズしながら泣きじゃくる妹を慰めるって、どーゆー画なの!!
ほんっとに、このおねーちゃんが最高過ぎて、話が進まないわ(爆)。また新たな恋の予感を得た妹の様子に喜んじゃって、その様子が「不動産関係の上客にビル丸ごともらったクラブのママみたいに見える」とかっていうのが、もうそういうとらえどころのない例えがマジで最高なんだけど!
とにかく妹ちゃんは「大した話じゃないんだけど」と言うのに、しかも家に帰る途中だったのをムリヤリなんかよく判んない原っぱに連れ込んで、ご丁寧にシートまで敷いて、おつまみいろいろ買いこんで、なのにホントに大した話はないのだ。だって彼女はちょっと普通に話せただけで喜んじゃうような子なんだもん。
でもお姉ちゃんは大爆発。「だって、恋の話は長くなるからと思ったからじゃない。大した話じゃないって言ったって、そういう場合は大した話なのよ! ガッカリゲッソリげっそり痩せちゃう!」(爆笑!)
と勝手ばっかり言いまくるが、もうこの自分勝手な言い様が可笑しすぎて可愛くて、ああこういうお姉ちゃん欲しいと思っちゃう。イヤイヤ、私のお姉ちゃんもとっても素敵な人だけどね!!
でもとにかくこのお姉ちゃん、名言だらけなんだよなあ。
「恋のタイミングは時速じゃなく音速」「火の回りで言えば出火!ボーボー!恋はスピード重視これまじだから」「車とかバイク、野球とかサッカー。男は好きでしょ。それはスピード出るからだから」ムチャなようなウッカリ納得しちゃうような。
そしてなんたってのクライマックスである。次女の新しい恋は職場の先輩である。……先輩??年齢のカッコとしてはどー考えても上司に見えるが。
どー考えても相手には悟られないような、会社の飲み会には必ず参加するとか、その時には微妙にメイクを変えるとか、ムダとしか思えない努力を彼女はしてるのね。
そしてそのまさに飲み会でチャンスが訪れる。酔いつぶれたその先輩、ミツルを、どうしたらいいか判らず、彼女は自分の家に連れてきてしまう、のだ!!
喜んじゃったのはお姉ちゃんで、喜びながらも、「こんなチャンス、なんでホテルに連れ込まなかったのよ!!」とか説教し、じくじく悩んでいる妹をしり目に、「あらあら、ゴリッパ」と勝手に××××をいじくったり(!!絶対ダメ!!!)
「起きたの?」「一部だけ……いや」とか、もうやりたい放題なんだけど、和田光沙嬢のカラリとしたコメディエンヌっぷりが最高でもう笑っちゃうの。ワハハ本舗に推薦したくなるわ、マジで!!
でもこのシークエンスは実は、ウラがあるんである。二重のウラというかね。一歩を踏み出せない次女のためにお姉ちゃんと妹が一肌脱いだ、というステキな設定で、それは確かにその通りなんだけど、まさかのドンデン返しというか、ラストには口あんぐりで!!
……とゆーには、ちょっと先走ってしまったが、この場面でじくじく言い募る妹にカツを入れるお姉ちゃんの場面が、私の最もお気に入りなんである。
ミツルと打ち合わせしてうじうじしている次女を揺り動かす計画、「現実は認めるためにあるんじゃなく、変えるためにある」という台詞はフツーに感動的だし、ウソでミツルに女がいるという設定にして次女を焦らせ、「遠慮は人生の障壁。ぶ・ん・ど・れ」と楽しそうに言うお姉ちゃんが最高!
そのために、シャー!と気合を入れてステップを踏んで準備をし、オーラ!とばかりにバチコーン!!と妹をしばき倒す場面が、面白すぎて何度も巻き戻しちゃったよ!これを見て、いいお姉ちゃんだなあ……と泣き笑いする私はおかしいのだろーか。いやこの時点では確かに姉妹愛を感じていたのに!!
……あの後設定は必要だったのかなあ。姉と妹の尽力で純愛が実ってのハッピーエンドじゃダメだったのかなあ。それでいいじゃんと、次女自ら言うように、ちょっとキビしいかなあという気持がしたんだけど。
男にアタックしまくっているお姉ちゃんが、ついうっかりとかいってつまみ食いしちゃうのはまあ判らんでもないが(こーゆーあたり、ピンクは価値観が狂いまくる……)、引きこもりの妹ちゃんが、2次元のBLのもっさりおじさんにミツルを投影しちゃったとか、まぁ判らなくもないというか面白い設定だけど、いきなり最後の最後にひっくり返す形でウラギリなんて、マジかよと思うし。
その事実を知った次女が、急に鬼の女になって、地獄びよりねとか言って、姉と妹を縛り上げ、愛するミツルを料理を作りながら待っているという……なんかいきなり作品カラーが変わっちゃってるんですけど!!
三姉妹、っていうのは魅力的な題材なれど……結果、姉妹どんぶりになるってのもピンクっぽいし、でも、三女ちゃんが設定の強さの割にはキャラが弱くて、それを最後の最後にムチャなどんでん返しでなんとか平等に引き戻させたいみたいな無理感があったかなあ。
いや、和田光沙嬢が強力過ぎるのよ。めちゃめちゃ彼女好きな役者だわ!★★★★☆