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「み」


2019年鑑賞作品

岬の兄妹
2018年 89分 日本 カラー
監督:片山慎三 脚本:片山慎三
撮影:池田直矢 春木康輔 音楽:高位妃楊子
出演:松浦祐也 和田光沙 北山雅康 中村祐太郎 岩谷健司 時任亜弓 ナガセケイ 松澤匠 芹澤興人 杉本安生 松本優夏 荒木次元 平田敬士 平岩輝海 日向峻彬 馬渕将太 保中良介 中園大雅 奥村アキラ 日方想 萱裕輔 中園さくら 春園幸宏 佐土原正紀 土田成明 谷口正浩 山本雅弘 ジャック 刈谷育子 内山知子 万徳寺あんり 市川宗二郎 橘秀樹 田口美貴 風祭ゆき


2019/4/3/水 劇場(ヒューマントラストシネマ有楽町)
おっ、監督デビュー作だ、時間も合うし、青田買い青田買い、となーんにも知らずに飛び込んで、びっくりこいた。タイトルだけから、市川監督の「東京兄妹」みたいな、しんみりしたドラマかと思っていたら、トンでもなかった。
いや、これは……喜劇と言われているけれど、そうなんだろうか??壮絶すぎる。しかしこうした“現実”が、きっと日本のそこここにあふれているに違いないのだ。そのことを判ってて、見ないようにしていたところに、遅咲きの監督さんが、切り込んだ。

今時珍しく、助監督してのキャリアを充分過ぎるぐらいに積んで、もうここで打って出なければ、そのためには生半可な作品では許されない、という気合で臨んだんじゃないかなどと、勝手に想像してしまう。
出来れば若いうちに数を打った方がいいんじゃないかという気もするが、時々こういう、才能をため込んで爆発させたような、背水の陣のデビュー作に出会うことがある。

本作は主人公が、めちゃめちゃ仕事はしてるけれど、一般的には名前と顔の一致しないワキ俳優、ピンクをのぞけば主演作というのは初めて見る気がする松浦祐也氏で、妹役の和田光沙嬢も、「菊とギロチン」と聞けば、ああそうか、とは思うが、一般的な言い方で言えば、やはり無名であろうと思われる。
でもきっと、監督自身が助監督時代に仕事をしていた中で得た、この作品のこの役にこそ、という絶対的な信頼をもってキャスティングした出会いなのだろうなどと、これもまた勝手に想像してしまうんである。
撮影所システムが崩壊して久しいが、時々こういう、そんな名残を背負って力作でドーン!とデビューする監督さんに出会うと、自己満足の映画を作り散らす若手監督の数々を思って(いやその……)、やっぱりそういうのも必要なのかもしれない、と思ったりする。

小さな海沿いの町。海、という言葉から想像されるキラキラとした明るさはまるでない。一年中曇天ではあるまいかといった、暗さを持つ町。
いやそれは、この兄妹が、人目を避けているのだろう、小さな六畳間の窓を段ボールで全部目張りして暮らしているからに他ならない。

オープニングは、足の悪い兄が妹を探し回る場面から。ちょっとフライングして言っちゃえば、ラストも、まるでこの場面に戻って来たかのようである。
その味わいがまるで違ってくることに、ラストで私たち観客は気づき、かすかな希望の光を見るんである。とてもとても、かすかなものなんだけれど。

妹は自閉症。自閉症という障害が、ある程度はきちんと知られるようになったのは、本当に、つい最近のように思える。字面からはむしろ真反対のような印象を受ける、無邪気で素直で美しいものに対しての敏感な感応を示す、というのは、まさに本作の妹、真理子そのものである。
しかし天衣無縫な妹を、足を引きずる兄が一人で抱えるのはやはりムリがある。

これがある程度の都会なら、などと思うのもイヤなのだが……兄の言葉からは、一応、そうした通いの施設のような名称も出るのだが、しっかりとしたものではないのだろう。
そもそもそうした作業所とか、施設のようなところが、NPO的な、つまりボランティア色の強いところでまかなわれているのが現実で、人口密度が低くなるほどにそれは、お粗末なものになるに決まっているのだ。そのお粗末さは、日本の福祉事業のそれに他ならない訳で。

なんていう、ツマラナイ社会風刺を頭に思い浮かべるこっちを、せっぱつまった兄妹は打ち砕いてくる。
親はいない。どうやら母子家庭だったらしく、母がいなくなるまで兄はこの家を出ていた様子である。母がいなくなり、妹を一人にしておけなくて、この岬町に帰って来た、という図式。

ただ……母がいなくなった理由、っていうのが、最初、亡くなったのかなと思ったのだが、なんか、違う、感じがするんだよね……。ひょっとしたら、出て行っちゃったんじゃ、ないかと。それはもしかしたら……娘を持て余したんじゃ、ないかと。窓を段ボールで目張りしたのは兄ではなくて、母だったんじゃ、ないかと。
何か次々と、イヤな疑念が浮かんでは消える。母だって兄だって、この娘、この妹を愛しているのには違いないのに。いや……目をそむけたくなる兄の妹への仕打ちを考えると、ひょっとしたら母は、娘を自分の手でどうにかしてしまうかもしれないという恐怖から、逃れたかったのかもしれない、などと、またしても勝手な想像をしてしまう。

それぐらい、壮絶なのだ。誤解を恐れずに言えば、あるいは兄の目線から言えば、妹は“何も判ってない”。鍵をかけて閉じ込めても、外へと逃亡してしまい、毎回探し回るハメになる。そんなわからずやの妹を罵倒し、殴り、ついには足に鎖をつないで閉じ込める。
それというのも、外に出てしまった妹がポケットに万札、下着に粘液をつけて帰ってきたから。しかし妹は自分がされたヒドいことにも気づかず、兄からその万札を必死にとりあげて、“しげるくん”という貯金箱に大事にしまうんである。

なにか、なんともいえない書き方をしてしまったけれど。どんな映画だったのかと飲みの席で世間話で聞かれて、これこれこういう……と説明したら、上司が、本当に、それしかないね、生きていくためには、それしかないよね、みたいに言われて……。
えっと、すいません、ちょっとフライングしたんだけど、その先に、兄が妹を売り飛ばす、つまり、客を取らせることに対しての感想だったんだけど、あっさりそう言われたことが、もしかしたらそれが一般的日本人の感想なのかもしれないと思ったら、ものすごく、怖くなった、んだよね……。こんなことになる日本の福祉事情がダメなんだとか、つまり行政が、政治が、ダメなんだとは、思わないんだ、と思って……。
ハンディキャッパーに対しては家族がその任務を抱えるのが当然、という原始的な考えがいまだ横行しているのが、昨今の介護疲れの殺人にもつながっているのは判り切っているのに、その殺人に対して同情は寄せても、そうした殺人が行われないようにするにはどうしたらいいか、ということに至らないのだ。

足が悪いことだけが原因じゃなかったかもしれないが、兄は造船所をリストラされ、にっちもさっちもいかなくなる。妹が大事にしていた“しげるくん”を叩き壊し、妹が赤ちゃんのように大音響で泣きじゃくる中、そのしわだらけの万札をじっと見つめるんである。
そしてついに、妹の手を引いて夜の街に出る。最初は休憩していた長距離トラック。はじめに声をかけた運ちゃんはマトモな人だったらしく、軽蔑のまなざしで窓を閉めた。しかし「1時間1万円。最後まで」という条件に引っかかった男はやっぱり、いた訳で……。でも妹は大事にしていたマスコット人形を外すように言われて、おっぱい吸われても平気だったのに客にかみついて台無しにしてしまう。

それでもその“仕事”は案外、上手くいってしまう。一時期はごみをあさって食いつないでいたような彼らなのに(本業の?ホームレスおじさんに食べかけの宅配ピザを奪われる場面は、壮絶だがなんだか笑ってしまう……つまり、こういう場面が折々現れるのが、喜劇なのだ)、手描きのポスティングチラシが当たって、ぽつぽつ仕事が舞い込むようになる。
そして……考えてみれば当然のことなのだけれど、妹は、もう大人の女性の身体を持っているから、性の喜びを、得てしまうのだ。

一番ショッキングかつ、問題提起をされているのは、ここなのではないだろうかと思う。そもそも冒頭、兄が逃げ出した妹を見つけ出して、妹はラリラリラン♪と無邪気に風呂に入り、その間に万札と汚れた下着を発見する兄。
妹の、まるで無防備な、しかしかんっぜんに大人の女性の、つまり男を誘惑するに充分すぎる成熟したヌードに、油断しきっていた観客は、いきなり衝撃を食らうのだ。

どこか、どこかね、やっぱり思ってる訳。自閉症とか、知的障害を伴うハンディキャッパーに関して、脳年齢はいくつとかいう言い方が平気でされる向きもあるし、子供じゃん、赤ちゃんじゃん、と。
でも、大人なのだ。意思決定もする、恋もする、セックスが気持ちいいことも、それを好きな人としたいことも判ってる、大人なのだ……。なぜ、知的障害が大人と子供という価値判断と一緒だと、思われるのだろう。誰が、言い出したのだろう。

でも、そう。一番の衝撃は、そうだよね、大人の身体になっているのだし、セックスが気持ちいいと、感じるのは当然なんだよね。それを、どう処理……という言い方はイヤだけど、するのかなぁと、なんか単純に、思ってしまって。
まさに、お兄ちゃんはそれに困惑する訳。当然、自分がサイテーのことをしているのは判ってる。だって自分だって、妹が知らないところで買われていたことに激怒していたんだから。友人からだって糾弾されるさ、そりゃあ。そしてそれに対して、逆ギレする彼はそりゃあ、サイテーさ。
でもそこで問題なのは……先述したように、仕方ないよね、生きるにはそれしか方法ないよね、などという恐ろしい世間的感覚よりも、それがヒドいことだと、妹自身が判ってない、というか、そういう価値観の中に生きていない、ということなのだ。

お得意さんである小人症の青年に、彼女ははっきりと、恋をしていたと思う。セックス自体が気持ち良くて、“仕事”に躊躇なかったのは本当だとしても、この青年には執着していた。会話やスキンシップにうっとりと身をゆだねて、帰りたくないと言って彼や兄を困らせていた。
そういうことがあったから、妊娠してしまった妹の処遇に悩んだお兄ちゃんは、この青年に妹との結婚を持ち掛ける訳なのだが……。

妹に対してだってあって、自分自身に対してもあった劣等感、ハンディキャッパーへの差別的意識が、お兄ちゃんになかった筈は、ないのだ。
だってお金が、ないんだもの。産ませるのも中絶させるのも。産ませてしまったら、そこから先は湯水のようにお金がかかることは火を見るより明らかなのだもの。もはやそこには、命に対するあれこれなどというものは存在しないのだ。今生きていくだけで精いっぱいで、あまりにも精いっぱいで。

この兄妹に唯一心を砕いてくれるのが、同級生かなと思われる駐在さんのハジメちゃんなのだが、でも彼も、なんてゆーか、いわば正直な、誠実な人ではあるんだろうなとは思うけれど。
俺たちの大変さの何が判るんだと問われて、何も判んないよ、と返す。妹の失踪にも表面上では心配そうだけど、実は大して心配してない。妹に客を取らせていると知れば友達として憤然と糾弾するけれど、だからといってじゃあ具体的に何か力になってくれる訳では、ないのだ……。

いや、これはよくない言い方かもしれない。何かしてくれる、それが前提で人を判断して、そして破たんしていく。まさに兄は、その状況に完全に陥っている。誰も何もしてくれない。判ったような顔をして、と。
それははたから見ればイラつく責任転嫁なのだが、そんなことをしなくたって生きていける平凡な人間たちが、なぜ彼らをあれこれ糾弾することができるのだろう??

もしかしたら、何一つ変わらないまま終わっているのかもしれないとは思う。先述したけれど、まるでデジャヴのように最初と同じ状況で物語は終わる。
妹は中絶をしたという、その事実を、判っているのかどうか。彼女では母親になれなかったのだろうか。しかして母親に“なれる”というのはどういうことなのだろうか。
ハジメちゃんは実に普通に、普通というのがどういうことなのか判らないけど、新婚さんで、奥さんは赤ちゃんを産んで、幸せに暮らしている。幸せとはどういうことだろうか。その赤ちゃんが、この先成長して、自分が“幸せ”だと感じるは、健常者の両親のもとに産まれたから、ということではあるまいと思う。思うのだけれど……。

松浦祐也氏だからさ、その妹なら、そりゃそれなりの年齢なんだよね。全然、判んなかったんだよね。自閉症という天衣無縫なキャラクターだからさ。「いい子いますよ」なんて売り歩く(爆)からさ……。
改めて和田光沙嬢のプロフィル見て、30代中盤、いやそうだよね、と思って……。勿論、妹自身の役設定もそうだろう。いい子がいますよ、だなんて、それを考えても、イタい。イタすぎる。

この年齢になって、セックスの目覚め、恋の目覚めを知った彼女の想い、そしてそういう意味で閉じ込められているままの、多くのハンディキャッパーのことを思ってしまう。
以前、事実を元にした、ハンディキャッパー専門の風俗店をテーマにした映画があったけれど、あれは身体の障害の方の、しかも男性専門の風俗サービスだった。恐れずに、恐れずに。こういう方面の福祉サービスや民間サービスも絶対に必要だと思う。日本は、どうかな。ムダに保守的だから。風穴を開けようとするこうした作品も、インディーズでしか産まれないのだから!!! ★★★★★


蜜蜂と遠雷
2019年 118分 日本 カラー
監督:石川慶 脚本:石川慶
撮影:ピオトル・ニエミイスキ 音楽:篠田大介 杉田寿宏 藤倉大 円光寺雅彦 河村尚子 福間洸太朗 金子三勇士 藤田真央 東京フィルハーモニー交響楽団
出演:松岡茉優 松坂桃李 森崎ウィン 鈴鹿央士 臼田あさ美 ブルゾンちえみ 福島リラ 眞島秀和 片桐はいり 光石研 平田満 アンジェイ・ヒラ 斉藤由貴 鹿賀丈史

2019/10/29/火 劇場(TOHOシネマズ日比谷)
映画となったものを観てしまえば、どのあたりを指して映画化不可能と言われたのか、そもそも原作者自体が、小説でしか出来ないことをやったという自負があるというぐらいなのだから、それはそれこそ、原作を読まなければ判らないところ、なのだろう。
でも音楽であり、ピアニストであり、オーケストラであり、聴衆であり、才能のありなしで葛藤する物語はあまりにも映画にふさわしい題材と思ってしまうものだから、なんだか不思議、だったんである。
若い才能がキラキラと跋扈する中に一回り上のお兄さん的立場で、庶民的立場で臨戦するトーリ君や、昔天才少女と言われた過去から大きな挫折を経て挑む茉優嬢、他の二人ももちろん、それぞれに個性的なバックグラウンドがあって、役者としてトライしてみたいと思わせる役であっただろうことは、その熱演から推して知るべしというところである。

そもそも音楽を小説という、音など鳴る訳のない、誤解を恐れずに言えば、いわば閉じられた芸術でどう表現し、映画化など不可能だと言わしめたのかの方に興味がわいてしまうのは、恐らく本作が、こと映画にしか出来ない表現……この場合はつまり、どれだけ本格的なピアノ演奏を用意するか、というところにひたすら腐心したのがアリアリ、というか、隠そうともせずに“吹き替え”演奏者に一流どころをずらりとクレジットさせたところからも判るんである。

そこんところが、どっちに転ぶか、である。作風も何もかも全然違うが、例えばあの大ヒットクラシックドラマ&映画、のだめは、演奏自体は完全に登場人物の陰に隠れていた。音さえも、よく聞こえなかったぐらい。天才的演奏だということは物語の要素として用意されればよくて、重要なのはキャラクターの個性であり、それを演じる役者の芝居の面白さこそであった。
勿論、ここぞという時、オーケストラの演奏シーンなどには本気を出すんだけれども、それも一瞬で、むしろ演奏者がどれだけ情熱を傾けているか、という“映像”の方にきちんとシフトしていた。
きちんと、だなんておかしな言い方だろうか。でも、音楽を題材にした映像作品、というのは、シフトのかけ方、かじ取りの仕方のチョイスで大きく変わってくるんじゃないかという気持がある。それは、本作を観ている時になんども頭をよぎった、「羊と鋼の森」があったからであった。

なんか奥歯にものが挟まったような言い方をし続けるのがアレだから、早々に本作に対する自分の印象を言っちゃうと、演奏の吹き替え映像と、演奏の芝居をしている演者とのギャップが、かなり気になってしまったんである。
これだけハッキリと吹き替え演奏に一流演奏者を揃えたことを公言していれば、そりゃ音だけという訳にはいかない。これだけがっつりピアニストの物語なんだから、演奏シーンがモノを言うんだから、鍵盤をたたく手元は、言ってみれば本作におけるメインの出し物なのだ。

だから、手元だけの映像に切り替わるたびに、これは吹き替えの演奏者なのねと思ってしまうし、だからこそ演者に切り替わる時にギャップが大きかったというか……。手元の演奏をバストから下のショットで捕らえる映像は、まるで教材映像のようにフィックスなのに、演者の演奏シーンに切り替わると、大きく上体を動かして“演奏”している。
しかも、それがワンセットみたいになってて、どの演者に対しても繰り返されるもんだから、物語はどんどん盛り上がるのに、なんだか気持ちがどんどん後退していくのが否めなくて……。

で、なぜ「羊と鋼の森」を持ち出したかというと、上白石姉妹が演じた対照的な、しかしどちらも天才演奏者、をそりゃある程度は吹き替えはあっただろうし、音は完全に吹き替えだっただろうが、それを全く感じさせない、素晴らしい演奏シーンを見せてくれたから、なんである。
あまりに素晴らしいので、昨今の吹き替え技術(合成技術)はそこまで進化したのか、とその時はちらと思ったが、今本作を見ると改めて、いややっぱり違う、彼女たちはもともとピアノの素養があって、この役を得て猛練習したと言っていたし、やっぱりあれはホントだったんだ、例え音が吹き替えでも、演奏者の個性の違いをキャラクターの性質から演じぬいた二人だからこそ、彼女たちの指から音が聞こえたのだ、と改めて思ったのだった。
そしてホント、改めて……音楽映画、演奏者が題材になっている映画っていうものの難しさを痛感したんである。

そのことばかりに拘泥していても仕方ないので、物語の方に行く。元天才少女という松岡茉優嬢の演じる亜夜という役どころは、どこか少女漫画的雰囲気を漂わせる。天才少女と言われた時代に、ステージへのドアを開けたステージマネージャーが、当時と同じ人物、演じるは平田満で、大人になってからはあっという間の10年に満たない月日が、彼女にとっては大きな時間だったことが、幼い亜夜を送り出した平田満と今の彼が殆ど変わりなく、慈しみ深いあたたかさから知れるんである。

亜夜は、母親からピアノの手ほどきを受けていた。ピアノ教師だった母親は、亜夜が才能を開花させた途上で突然、死んでしまった。……これはヤハリ映画の尺の問題の哀しさで、たったこれだけで、母親しか出てこないとか、母親から受けたピアノの手ほどきがほぼほぼ遊びのような連弾と「世界は音楽に満ちている」という観念的なささやきだけとか。
彼女が突然の母親の死でステージで固まってしまって、それ以来姿を消してしまった、という経緯は判るんだけど、それだけ?と思ってしまう。彼女の人生は母親と二人きりの連弾だけ?と。あまりにもムリがある。

コンクールで再会した幼なじみの男の子、マサルが、亜夜のお母さんに習ってて、だから亜夜の才能にも触れてて、そんな思い出話をするのだけれど、その思い出は……彼の言葉の中にしかなく、回想シーンは……尺の足りなさ、なんだろうなあ。
言葉だけで、お互い懐かしがられても、彼が亜夜の幼い頃に関わっている実感が感じられないまま終わってしまって、……何かね、全編、そんな感じなのだ。亜夜がかつての天才少女として囁かれるのとかも、言葉ばかりでピンと来ない。設定、説明してます、という感じがしてしまう。

これは仕方のないことだとは思うんだけど、それこそのだめでもそうだったけど、日本における作劇でこういう物語を作ると、日本人ばかりが才能ある人として上位を占めちゃう、みたいな違和感もある。
本作で最終的に優勝したのは、亜夜の幼馴染のマサル、森崎ウィン氏が演じるマサル・カルロス・レヴィ・アナトールであり、日本人、とは言い切れないのかもしれないが、そうやって周到に逃げている気もしないでもない。
で、亜夜が二位で、本作の台風の目、やたら可愛く無邪気で天衣無縫な風間塵が三位(多分(爆))。で、決選には進めなかった、トーリ君演じる明石は作曲賞みたいな、特別な賞をもらってる。

日本のある地方で行われているコンクールだけれど、国際コンクールであり、その受賞者がその後ブレイクするという実績によって、世界中から有望な演奏者が集まってくる、という設定の中で、日本の小説という展開の中では、やっぱりこうなっちゃうのかぁ……という感がある。
しかも、塵君が携えてきた、並み居る審査員を黙らせた紹介状の名前は、世界的音楽家のそれなんだけど、ファーストネームははっきりと、日本人名。名前だけで、写真とか、過去映像とか示さなかったことに安堵しちゃったぐらい。

決戦に残ってオーケストラとの共演、という難題に挑む若きピアニストたちを威圧する、これまた“世界的指揮者”にも、思いっきり日本人である。いや、鹿賀丈史はピッタリだし、世界中に世界的な日本人指揮者はいるだろうし、国際コンクールと言っても日本が舞台なんだから、別に無理がある訳じゃないんだけどさ……。
あらゆる垣根がなくなっているエンタテインメントの世界で、本作を果たして外に持っていけるかと思ったら、なんだかそんな、色々を考えちゃったんだよなあ。

恐らく本作のウリは、誰この子!と思わせる作戦、みたいな、風間塵役の鈴鹿央士君であろう。この役柄そのものの可愛らしさと天衣無縫さを兼ね備えていて、並み居る先輩方を押さえて、恐らく彼が最も、本作のウリになってしまうであろう。
こういう、「誰、この子!」的作戦は時々あって、ついこないだ「タロウのバカ」であったわ。昔なら(新人)てキャストクレジットされたものだが、もう今は、最初からの勝負である。彼が今後、どこまで役者として勝負できるのか、見届けたい。

私はさ、調律師さんラブだから(爆)、練習場所を探していた亜夜に明石が紹介した、ピアノ工房、その片隅、ストーブがあかあかと灯されて、みたいな感じにキューンとくるのさ。
その場に明石はおらず、ピアノ修理をしていた職人さんが応対する。眞島秀和ー!!彼には折々、いろんなところでドキッとさせられるわ。

調律師さんといえば、あまりにも顔が濃い芹澤興人氏&プラスアルファがコンクールの調律チームとして登場するのだが、せっかく顔の濃い芹沢氏なのに(爆)、調律の面白さがほぼ伝わらなくて残念。うーむ、やはり「羊と鋼……」にひきずられているかも。
でもでも、調律って、ことにこういう、一発勝負の場で、自分の専属を連れてこれないのって、ドラマだからさ。あ、マサルに付きまとってる女の子が調律に不満でキイキイ言ってるシーンはあったが、あれじゃ逆に、調律師さんを貶めているじゃないかあ。

“元天才少女”としての先輩、このコンクールの審査委員長として一番の存在感を発揮する斉藤由貴とか、明石の同級生としてドキュメンタリーを撮ってるブルゾンちえみとか、臼田あさ美嬢が奥さんの明石の家庭のあたたかさの様子とか、言い切れないことは数々あるが、つまりは、私にとっては……ハマらなかったということ、なのだろう。
音楽モノは難しいよ。そもそも映画に内包されている、ということが、内包、ということをどう尊重して描けるのか、それがこんなに難しいことなのだと、改めて思った。★★★☆☆


宮本から君へ
2019年 129分 日本 カラー
監督:真利子哲也 脚本:真利子哲也 港岳彦
撮影:四宮秀俊 音楽:池永正二
出演:池松壮亮 蒼井優 井浦新 一ノ瀬ワタル 柄本時生 星田英利 古舘寛治 ピエール瀧 佐藤二朗 松山ケンイチ 新井英樹 工藤時子 螢雪次朗 梅沢昌代 小野花梨

2019/10/10/木 劇場(角川シネマ有楽町)
ここ、これは、ドラマを観といた方が良かったのかなあ!てゆーか、池松君主演でこんな内容のものが地上波に乗っていたということがまず信じがたい。池松君、ドラマ出るんだ……などとまで思ってしまう(爆)。
いや、ドラマ版ではまた全く違うアプローチ、というか違うエピソードなのかもしれない。そもそも靖子とのエピソードはどの程度に詰まっていたのか??ああ、気になる気になる。
でも基本的に私はやっぱり、映画は映画で観たいのだ。映画独立の作品として見たい。そりゃさぁ、映画版ではあまりにあっさりワキ役で松ケンがさらりと出てきちゃあ、こここれはきっとドラマでは……などと胸がざわつくけどもさあ。

むしろ、原作やドラマでは、サラリーマンとしての宮本のクローズアップ、なのだろうか。少なくとも映画の本作は、ものすっごく濃い、濃密な、恋愛映画だった。
その見方が正しいのかどうか、正直自信はない。でも私はこんな濃密な恋愛映画を、いつぶりかに観ただろうかと思った。肉体のみならず、心も丸裸でぶつかり合うような。

蒼井優嬢がナマお尻を出したから、おっ、おおっ、と思ったが、やっぱりおっぱいは出さないのねと軽く失望はまぁしたが。なんでなのかなぁ。お尻はだいじょぶでおっぱいがダメな理由って、何かなぁ。まさかあのお尻がフキカエってことはないと思うのだが。
なんか私、蒼井優嬢がおっぱいを出してくれる日をずっと待ってる気がする……だってあんだけの生々しい芝居を見せてくれるのに、なんでおっぱいだけダメなの……。

まぁ、ともかく。「斬、」の時にも言ったような気がするが、池松君と蒼井優嬢っていうと私にとってはどうしても「鉄人28号」なんである。まるで封印されているかのように二人とも口にしないけど(爆)。
もう何歳差なんて関係なくなるぐらい二人ともキャリアを重ねたけれど、でも池松君が殊更に童顔だということも手伝って、実際の年齢差を感じさせる宮本と靖子の関係差、というのが赤裸々である。
てゆーか、そもそも二人は、恋愛関係にさえ、陥っていたのか。いや、最終的にはこれ以上ない濃密な愛情で結ばれたとは思うが、一体どこからか。ひょっとして宮本は元から年上の女、靖子に岡惚れしていたのか。

物語の冒頭は、恋人同士というにはぎこちない様子の二人が、靖子のアパートで手料理を頂く場面から始まる。恋の始まりかしらん、とほのぼのと見ていると、そこに靖子の元カレが乱入する。
鍵まで変えていたのに、なんとベランダから侵入する。ベランダの鍵かけてなかったの?というツッコミを思わず飲み込む。ここは一階じゃないのだ。つまりコイツは、どうにかこうにか外側からよじ登って、侵入してきた。

えへらえへら笑いながら、靖子に迫るこの元カレ、裕二は、やだー、こんな役やらないで、井浦新!!とこの時には確かに、思った。
度重なる浮気で靖子を泣かせてきた彼と、関係を断つ決心を靖子はしていた。もう来ないで、出てって、私、この人と寝たんだから!!と叫ぶ靖子を裕二はボッコボコに殴りつけるんだもん。サイテーなんだもん。

なのに、物語の展開に従って、そもそも腐れ縁の裕二となかなか切れられなかった靖子、というのが判るような、ズルい優しさと、憎めない愛嬌を見せる裕二に、演じる新氏がまたあまりにも素敵なもんだから、女を殴るなんてサイテーなのに、憎めなくなってくる、少なくとも宮本、お前、負けてるよ!!と思ってくるのが……もうなんつーかさ。

てか、宮本は、すっごくまっすぐなヤツだし、先輩たちにも可愛がられているし、決死の覚悟で飛び込み営業した先のコワモテおじさんたちからも一発で気に入られちゃうし、なんつーか、イジられ、イジくりまわされキャラかなぁと思う。
靖子にとっても年下のカワイイ男の子、というのに過ぎなかったのかもしれない。あくまで、裕二と切れるために呼んだ、そのことを泣きながら詫びた、けれども、裕二にたちはだかった宮本が「靖子は俺が守る!!」と叫んだことに、その言葉に、一瞬に、彼女はヤラれちゃったのだ。

女だったら一度は言われたい言葉、という言い様はベタだが、ツボをつかれたというか、膝カックンというか、もう二人はむさぼり合うようにお互いを求めて、中出しまでしちゃって、次のシークエンスではつわりを抱えて彼女の田舎にあいさつに出向いているんである。

……展開が早すぎてついていけないようにも思うのだけれど、何度となく時間を引き戻し、前後させながら物語は進んでいくんである。
そもそも、お互いの実家にあいさつに行く時に、宮本は腕を骨折している。その前、あいさつに行く直前には見事に前歯が三本失われており、靖子から「歯医者予約したから」とケツを叩かれているんである。

つわりを隠し切れず、宮本の両親、特に母親はどうやら何か事情があるらしいことを二人の様子から察知し、息子に不安と不満をぶつける。靖子側は、地方の、まだまだ家父長的気分が残る個人商店経営で、母親は心配しながらも寛容だけれど、父親はただ黙って、「東京に出す時に、こういうことはしない約束だった筈だ」と娘の顔も見ずに言う。
……まだいるのかな、と思う。今30ぐらいの娘を持つ父親にしては、かなり時代錯誤な気はするけれど、原作自体が少し前なんだろうことを思うと、地方の個人経営者のオヤジというのは、そんなものかもしれない。

しかして、そんな家族間の問題っつーのは大したことではない。本作の大きな、あまりにも大きな……正直なかったことにして忘れたい大きな出来事というか、事件というか、犯罪、お前死ね!!と女なら100%、男でも愛する女を持つヤツなら100%思うような、事件が起きる。
レイプ。見たくない。ほんっとうに、見たくない。しかもサイアクの状況。そばに、宮本はいたのだ。すぐそばにだ。なのに酒に弱い彼は、泥酔爆睡、気持ちよさそうな軽いいびきを立てて、ピクリとも動かなかった。

そらまぁ、靖子をレイプした相手が、元ラガーマンでめちゃくちゃガタイがよく、叫ぼうとあがく靖子の口元をがっちりとそのゴツい手で抑え込んでいたこともあるにしても、恋人が寝息を立てているそのすぐ横で、恋人がそのことに一ミリも気づかず、カノジョがレイプされているなんて状況……地獄以上の地獄、こんな最悪な状況を考えついた原作者を呪いたくなるぐらい。

なぜこんな状況になっちまったかっつーと、宮本が飛び込み営業した先のおっちゃんたちに気に入られて、靖子まで呼ばれて宴会になり、飲めないのに宮本は気合を入れて一気飲みして正体をなくしちゃって、心配したそのおっちゃんが息子の拓馬を呼んで二人を車で送らせる。
で、宮本を運び込んで、靖子は彼にコーヒーをふるまう。……確かに不用意だったかもしれない。油断はあったかもしれない。でもでも、女一人のところに男を招き入れた訳じゃない。このキチク男が、宮本が起きるかもしれないと考えた上でコトに及んだかどうか……いや、起きてもこんな華奢なヤツはボッコボコにすればいいと思ったに違いない、実際その後、宮本はボッコボコにされるのだから。

でもでもそこまで想定しなくてはいけなかったのか。靖子に非があったのか。そんなのそんなの、あんまりだ!!なんていうか……靖子って、決して薄幸だとか悲劇を招き寄せるとか、そういうキャラ造形をしている訳では決して、ないんだけど、なんか、こういう具合になっちゃう!!みたいな感じがある。その絶妙さが、まさに蒼井優である。
決して責められはしないけど、でもつけ入れられる無防備さ、女優としての上手さは無論だが、彼女自身の醸す、匂い立つオンナが見え隠れする、気がする。

自分が犯されている間、爆睡し、まるで気づかなかった宮本をこそを、レイプされた相手と同じぐらい憎悪してしまう靖子が、その状況を想像すると、想像してしまうと、その気持ちが判ってしまうだけに……あまりにも哀しく辛い。
しかして宮本は、宮本は……。こんな男の子がいたら、紹介してほしい。ここまでできる子が、実際どれだけいるだろうかと思う。自分の三倍ぐらいのガタイの男。ぶつかったら死ぬかもしれない。しかも、まるで自分こそが宮本に付きまとわれてメーワクしているような態度をとるような、したたかで頭のいい男。サイッアクのサイテー男。そいつに死をも恐れぬ闘いを挑む。

自分が飛び込んだ営業先の、自分を気に入ってくれた相手の、息子である。その相手、このサイテー男の親ってのが、ピエール瀧氏である。すんなりと公開され、彼にしか出来ない味わい深い役柄を、相棒の佐藤二朗氏と絶妙なかけあいで見せてくれる、これを見ることができる、キャストクレジットにも何も関係なく、フツーに載っていることに、本当になんつーか……たまらない喜びを感じる。
良かった、良かった。これから活動再開も大変だろうけれど、彼にしか出来ない芝居があるのだ。多くの人が待っている。戻ってきてくれる日を心待ちにする気持ちがあらたになる。

自分の息子がサイテーのことをしでかしたってことを、すぐに認めきれなかったことを、彼はものすごく後悔し、つまりそれは、宮本を信頼したからこそであり、親バカということをきちんと自覚して、自らも息子にぶつかり、自爆。
宮本はいよいよ、いよいよ……もう殺す覚悟、討ち死にする覚悟、刺し違える覚悟で拓馬の元に向かう。靖子から望まれた訳じゃない。宮本が自分の問題のようにして、私をカワイソがるのはメーワクだと、靖子は言い募り、宮本の決死のプロポーズも跳ねのける。

そう、ここには、靖子の妊娠の問題もあり、そのタネが宮本と裕二のどちらかかタイミング的に判らない、という展開もあり、盛り込むわー!!という感じで……。
映画だと尺が限られているからさあ、あの展開だと、レイプされた拓馬のタネだったらどうしよう、でもあのタイミングで病院に行って告げられているから違う、病院に言ったのは、不正出血だったから?それとも拓馬にレイプされたことで病気のこととか心配したから??

先述したように時間軸がジグザグに前後することもあって、このあたりの事実認識はかなりハラハラとするが、拓馬のタネでないことがハッキリしてるんなら、どっちのタネでもいいじゃん、と思うのはあまりにランボーかしらん(爆)。そらま男子は気になるだろうが……。

忘れてた訳じゃないけど(爆)本作の演出は真利子哲也監督であり、恐らく今、若手俳優が最もこの監督の作品に出たいと思っている存在だと思う。この原作となっている漫画は未読ながらも相当のインパクトを読者に与えたことは想像に難くなく、この双方のクリエイターのぶつかりあいに、これ以上ない気合で臨んだキャスト陣に深く打たれる。
池松君が感情爆発、ボロボロになるまで突っ込む、っていうのが最近の彼のイメージから言ってもちょっと意外で、まだまだ若いんだし、こういう意味合いでの体当たり役柄をどんどんやってほしいと思っちゃう。なんか彼って、哲学的なんだもん。もっと泥臭く、アホみたいなぶつかりを見てみたい。★★★☆☆


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