home!

「さ」


2021年鑑賞作品

サイダーのように言葉が湧き上がる
2020年 87分 日本 カラー
監督:イシグロキョウヘイ 脚本: イシグロキョウヘイ 佐藤大
撮影: 棚田耕平 関谷能弘 音楽:牛尾憲輔
声の出演:市川染五郎 杉咲花 潘めぐみ 花江夏樹 梅原裕一郎 中島愛 諸星すみれ 神谷浩史 坂本真綾 山寺宏一 井上喜久子


2021/8/18/水 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
もうタイトル一発で成功!!と言いたくなった。言葉、というのが俳句であることは後から知ったが、なんという素敵な表現なんだろう。
想いあふれて、とか、凡百な表現からはまるで得られない、爽快感と共に胸キュンが詰まっているような、青春そのものの言い方!

でもそんな素敵な言葉を編み出したチェリー君は、言葉ベタで、シャイで、人と上手く喋れない純情少年なんである。チェリーという呼び名からついついヤボな方向を想像したが、桜、という名前からくるニックネームで、それを彼はバイト先であるショッピングモールの中の、介護デイサービス施設の名札につけている。
なるほど、シニア利用者の方々が一発で覚えやすい名前。とも思ったが、彼だけじゃなくすべての登場人物がそんな風に、スマイル、ビーバー、タフボーイなどという呼び名が付けられているんである。

そもそもこの絵の世界観!それはまさに、そんな明るくカラフルな呼び名が、ちょっと見たことない原色系と、モダンなデザインに満ち満ちた絵の世界にピッタリである。
昨今の日本のアニメーションはなんとなくいくつかのタイプに分けられ、少女系エロ可愛さがかなりの主流を占めているように思われるが、本作の絵の世界観は、ちょっと見たことのないものであった。

キャラクター自体は、それほど奇をてらっている訳じゃない。むしろ、そうしたいくつかのタイプのどれかになんとなくおさまりがつきそうな感じではある。でも背景、というか、舞台、というか、風景、というか、空、というか!
しっかりとした基本の画作りを土台としながらも、現代美術のような愉快な遊び、ゆがみが画面いっぱいにはじけている感じ!この楽しさこそがタイトルの爽快感にもつながり、なのにキャラクターたちはそのニックネームや派手なアクションに似ずみんな純情で、優しくて、いい子たちで、結果古き良き日本的情感と初恋の物語に昇華していったことに気づき、なんとまあと驚きを隠せないのだ。

そう、ショッピングモール。確かに地方のショッピングモールっつーのは、異世界というか、ファンタジーというか、宝箱をひっくり返したようなというか。大都会のように、ある都市自体にそれが詰まっているのではない、ショッピングモール自体が、シブヤであり、シンジュクであり、みたいな。
ただただ、だだっぴろい敷地を持て余し気味に有するショッピングモールは、もちろん元からそこにあった訳じゃない。歴史は浅い。そこが本作の大きなキモになるのだ。

覚えがある。地方を転々としてきたこちとらとしては、かつて子供時代を過ごした中規模都市が、もともと何があったか思い出せないぐらい開発されちゃって、イオンだのユニクロだのしまむらだの、平たい一階か二階建て程度の広大な売り場面積を持つショッピングモールが林立する感じ。

劇中の彼らの世代にとっては産まれた時からあるんだから何の不思議もないのだろうが、そのショッピングモールの中にあるデイサービスを使っているシニア世代にとっては、当然ここにもともと何があったか知っている。そしてそれがこの物語のもう一つのキモになる。
先述したように一つのキモはシャイな男の子、チェリーの心の中に“サイダーのように言葉が湧き上がる”その俳句であり、もう一つは、このショッピングモールが建つ前にあった、この町の歴史、レコードのカッティング工場、なんである。言葉と音楽。いや、音楽は、ことに、ここで探される、埋もれたシンガーソングライターの音楽は、当然言葉こそが大事な大事なファクターである。

チェリーがバイト先の利用者、耳の遠いおじいちゃん、フジヤマがかつて、その工場に勤めていたことが知れるのはだいぶ先である。ご多分に漏れず、耳の遠い、イマイチ言ってることもビミョーなフジヤマさんは、チェリー君が持てあますように、ちょっと認知症入りかけかしらん、などと観ている側が無責任に思っちゃうような無邪気さというか。
でも違うの。ここにはメッチャ、愛の物語があるのだ。フジヤマが探しているレコードは、ショッピングモール中を探しているレコードは、なぜこのショッピングモールを探しているかというのも、まあ、もう、言っちゃったけど、ここがかつて、レコード製造工場だったからで。

その前にその前に!!ああもう、ヒロインをまだ言ってないよ!!スマイル。いわゆるユーチューバーアイドルと言えばいいだろうか。でもこのショッピングモールだけが舞台のような本作、どこの地方と限定されている訳でもないし、でもネットの中では全世界とつながれる!!みたいな。
確かにそんな未来性というか、チャンスというか、急速にSNSが広がりだした時には思ったりもしたけれど、スマイルが発信し、それを受け取る世界は、そう明確に描写する訳じゃないんだけれど、絶妙に、狭いんである。

そりゃさ、判らんよ。世界中からアクセスがあるのかもしれない。でも印象としては、動画配信しているショッピングモールがどこか判るぐらいのファン層がついていると思われる。
ネットが登場し、SNSだのそれに入りきれない様々な発信媒体が存在する昨今、確かに全世界に発信できる時代になったんだろう。でも実際は、実情は、これこそがリアルなんじゃないか。近いところに、手が届くところに、つながりたいのにつながれない、そのために、全世界に発信できるツールを使ってる。

スマイルはいわばそんな狭い地域のアイドル。動画配信にたくさんのコメントがリアルタイムでつく。チェリーは俳句男子だから、彼女のことは知らなかったんだけれど、彼の周囲のアイドル好きはしっかり知っている。

スマイルは今、ずっとマスクをつけている。出っ歯の矯正をしている口元を隠すためである。コロナが全世界猛威を振るっている今、マスクこそが当たり前になっていると、本当は可愛い笑顔の口元を見せたいのに、コンプレックスで隠しているスマイル、という描写がすんなりと受け止められないのがもったいない。
だってスマイルのマスクに対比するのがチェリーのヘッドフォンだから。チェリーは音楽を聴いてる訳じゃない。話ベタで、話しかけられないためにとつけているだけ。それを聞いたスマイルは、なるほど!頭いいね!!と予想外の反応を示す。内向的な理由として自己嫌悪ぐらいに思っていただろうチェリーはハッとしたように彼女を見つめる。

そもそもこの二人の出会いは、先述したような、周囲のカラフルな友人たちの、ショッピングモール中追っかけっこ、大暴れの果てに、二人のスマホが入れ替わってしまったからなんであった。
スマホがなければ死んじゃう!と本気でその表現を口にしているんだろうスマイルに、なるほど今のコはそうなんだろうなあ、とこの時には思ったが、最終的には……いや、明確に、スマホがなくても大丈夫、とかいう展開になった訳では、ないんだけれど、片時もスマホを手から離さない、ザ・現代の女の子であったスマイルだけど、後半はほぼ、その手にスマホを持っていることはなかったんじゃないのか。

もちろんそれは、チェリーとの出会い、そして何より、フジヤマさんとの出会いである。彼が探しまわっているレコードは、後に彼の奥さんのそれと知れ、シンガーソングライターであった奥さんのもの。
レコード工場勤務だった若かりし頃のフジヤマさんの物語が、つまり、今は見る影もなく明るく広くみんながわいわい集っているショッピングモールがあったところで、刻まれた歴史が、その青春が、立ち上がってくるのだ。

フジヤマさんは、愛妻のレコードを売るために、レコード店を立ち上げ、今まさに、閉めようとしている。チェリーたち世代には博物館的な感覚ではなかろうかと思われる、“本物のレコード店”。そこでフジヤマさんの奥さんのレコードを探し出すというのが本作のメインの盛り上がりである。
本作のエンディングを担う大貫妙子氏を意識しているのだろう、彼女の伝説的アルバムを模しているのであろうレコードジャケットもちらりと出てくるし、私には判らない、お宝レコードをほうふつとされるあれこれが、彼らが探す中に描かれているのだろうと思われる。

本作はそもそも、チェリーが主人公だし、俳句こそがメインであるし、本作の中で悪友のビーバーによってタギング(落書き)されることによって、街の中に鮮やかに浮き上がる、まさにここにも“サイダーのように湧き上がる”言葉の数々こそが本作のそもそものキモであるんだけれど。
でも正直言うと、結局フジヤマお爺さんの恋女房が残したレコード捜索、その音源が夏祭りの盆踊りで流されるというのがクライマックスになっちゃうから、あれ、俳句はそのー……と、フジヤマレコードの話に展開が寄り気味になってっちゃうと、正直そう思っちゃったのは事実かなあ。

ただ本作は、チェリー君から湧き上がる、そう、“サイダーのように湧き上がる”!!言葉のみずみずしさと、それを日本語の勉強と称して、時に誤字もまじえちゃって街中にタギングするビーバーという、俳句がストリートアートに直結するという新鮮なアイディアこそが魅力である。
当然それはフィクションの中、私が先述のように感じた、モダンアートなショッピングモールの風景、どことも知れぬフィクション味があってこそで、まあ予測はしていたし、これはしるさなきゃいかんのだろうなとは思うが、タギング(落書き)は違法行為です、と、幕切れの注意書きに記されちゃうのはなかなかに興ざめだったなあ。

判るって。みんなわかってるって。団地の壁面いっぱいにとか、そもそも不可能でしょってタギング、フィクションそのものでしょ、って、誰もが判るって。でもそれを言っとかないとダメなんだね。そーゆー時代なのかあ。

そもそもの、俳句の魅力になかなか言及できなかったのが悔しい。タイトルは、まるで自然な文章、自由律俳句のように思われたけど、ちゃんと五七五なんだと気づいた時から、ドキドキし始めるのだ。
でもね、最後は、最後は、きちんと、季語や隠された表現の中に最初こそはスマイルちゃんへの想いを潜ませながら、結局は、結局は、君が好きだ、好きだー!!と一世一代の勇気を振り絞るチェリー君、それを受け止めるスマイルちゃん。

ああ、ひっさびさにザ・少女漫画的胸キュン見たわ。出っ歯を気にして矯正して隠してて、その、君の葉(と季語に隠しといて、実際は歯!)こそが好きだ、大好きだー!!って!!
ああ、涙出る。この何度も何度もの、繰り返し繰り返しの、そんな君が好きだのリフレイン。死ぬわ。★★★★☆


ザ・ギャンブラー
1992年 93分 日本 カラー
監督:矢作俊彦 脚本:矢作俊彦
撮影:高瀬比呂志 音楽:山崎輝
出演:松田ケイジ 洞口依子 川地民夫 草薙幸二郎 杉原光輪子 ケント・フリック 原川浩明 佐藤誓 泉谷しげる 宍戸錠

2021/4/29/木 録画(チャンネルNECO)
“往年の日活アクションを蘇らせた”という惹句は正直、ピンとこなかった。大人の男たちが少年の頃夢見たような秘密基地的な映画を作った、という感覚。
作られた年はもう平成に入った1992年なのに、劇中まず示されるのは、昭和74年という文字。1992年=平成4年より、昭和74年=1999年は未来なのだという不思議と、ああそうか、世紀末を意識したのかなと、西暦に直してみて、思った。
恥ずかしながらこちとらはノストラダムスに洗脳された幼少時代、大人になってからも1999年が来るのにビクビクしていたもんだ。

そしてこの、決して存在しない昭和74年の世紀末の世界は、これはパラレルワールドでもあるのか。
ここは、日本語喋ってるし、ラスベガスから追われて日本に戻ってきたという男の会話もあるし、なるほど日本には違いないのだろうが、1992年でも、そっから予測できる程度の未来である1999年でも、もちろん現在の日本でも、こんな世界はない、アンダーグラウンドな、廃墟のような街である。戦後の荒れ果てた日本のようでもある。

この街に流れ着いた、プレイヤーなる男である。劇中でそう呼ばれる訳ではない。すべての登場人物に名前など与えられない。
いや、たった一人例外がいた。エースのジョーである。そういやあこの世界観にちらりと林海象を思い出したのは、ほかならぬジョーがいたからだったのかもしれない。

この世界では「20年前には、その名を知らないというだけで命が危なかった」という、つまりは落ちぶれた男として描かれるわびしさだが、しかし彼一人にだけ名前が与えられているということが、やはり大きな意味を感じる。
名前を持つことが、存在意義だと私たちは思っているけれど……皮肉のような、あきらめのような。

ちょっと脱線したが、そのプレイヤーなる男を演じる、つまり主人公は松田ケイジ。そしてほぼ同等の主人公、ソルジャーなる女は、洞口依子。……失礼を承知ながら、な、懐かしい……と思ってしまった。ああいたいた!と(失礼!!)
あの当時の、こういう挑戦的な映画にバリバリ出ていた感がある、のは、特に洞口氏の方は凄く記憶にある。

松田氏は一瞬、時任三郎?と思ってしまった(爆)。甘味と苦みがバランスよく、そして若く青臭い雰囲気も持つイイ男。
ラスベガスで連戦連勝だったのに、ある瞬間突然虚無に陥って、勝負を捨ててしまった。そのため、損失をこうむった海の向こうの輩から巨額の賞金が彼の首にはぶらさがっている。

ソルジャーは、その身一つで世界中の戦場をプロの兵士として渡り歩いてきた凄腕である。この寂れた街に、用心棒なんてチンケな仕事にありついたのはどういう訳か。
なんたって洞口氏が演じるぐらいだから、アイドル並みの可愛らしさなのに男以上に荒っぽい口のききかたをし、油断して近づいてくる男たちを、手りゅう弾のピンを一度抜いて刺しなおすまでの間にぶっ飛ばす(!!)という荒業で屈服させるという!!

1992年、この当時はでも、このあたりの描写が限界だったかなあという気がちょっとしている。そのたぐいまれなるソルジャーの身体能力で男たちに有無を言わせない彼女は確かにカッコいいのだが、口紅がキーアイテムとなり、「似合うのに、なぜしないんだ」というプレイヤーの台詞にソルジャーが言い返せなかったり。
それまではソルジャーとしての矜持をもちろんその服装にも反映させていたのが、作品の最後に急にドレスアップしてイイ女になって、プレイヤーとキスして去り行く、なんて、なんかなんか、フェミニズム野郎としては納得いかないんすけど!!

……まあその、そのくだりはすっかり何もかも終わった後なんで、まだ全然何も語ってないんで(爆)。
ああそうそう、私のだーい好きな川地民夫ご登場なのよ。役名はそう、ないから、彼はオナラブルと呼ばれる。意味はよく判んないが(爆)、いわゆるヤクザ、ではあるけれど、ニューヤクザというか、卑怯なヤクザというか(爆)、まあその、ビジネスライクなわけだよね。汚い仕事は手袋と称する外部に委託する。

オナラブルと敵対する、というか、彼を目の敵にするのが、台湾マフィアのターレンである。
あやしげな訛りの日本語を操りプレイヤーに接触するが、プレイヤーはオナラブルの元に身を寄せて、店長めいた業務に就く。
もちろんそんな彼をほっとくわけもなく、ターレン陣営や、なによりエースのジョーが欲得ありありで接触してくる。

本作のタイトルはザ・ギャンブラーだけれど、松田ケイジ扮する主人公は、劇中では明言されないものの、データベースの情報ではプレイヤーであり、劇中でもそのことを揶揄される場面が印象的に響くんだよね。
お前はプレイヤーだ。ギャンブラーじゃない、と。タイトルがザ・ギャンブラーであることを考えると、彼は主人公ではあっても、タイトルロールではない、つまり、まったき主人公を任されてはいないということなのかと思っちゃう。

そう考えると、本作に感じる、どうしても感じてしまう弱さはそこなのかもしれないと思う。主人公がギャンブラーではない、ある意味人生に青臭い悩みを抱えてこの街に迷い込み、ソルジャーから鼻で笑われているような男であるのだから。
ジョーは正しくギャンブラーであったとは思うが、主人公ではないし。ジョーはアル中を自ら手錠で排水パイプにつないでまで克服して、プレイヤーと勝負したいがために華麗なる復活を遂げる。しかしてその勝負で、それこそギャンブラーらしからぬ真向勝負を彼は望み、味方が助け舟を出したイカサマを拒否して、負けてしまうんである。

ちょっとね、ここらあたりの大事な描写が、ジョーがプレイヤーと真剣勝負したかった、だからイカサマを断った、それは判るんだけど、なんかイマイチ、なぜジョーがプレイヤーにそこまでこだわるのか、あんまりピンとこなかったんだよね。
いや、文脈では判る。充分判る。でもなんだろうなあ……プレイヤーがその点において、つまり勝負に対する思いというか、まっさらな真剣勝負しかナシなのか、イカサマもアリでの生き死にのかかったものなのか、というのが、伝わってこなかったからさあ……。

画的にはとても魅力的だし、ファンタジー、ノワール、ノスタルジックでちょっとSFなような、世界観はとても素敵なだけに、そのツメがちょこっと甘かったのは惜しかった気はしたかなあ。
だってラストはね、ちょっと私的には腐女子大爆発の、萌え萌え展開用意してくれてるんだもの。

プレイヤーと真剣勝負をしたいがためにイカサマを拒否してまで挑んだジョーは当然、彼に投資したスポンサー、台湾マフィアのボス、ターレンに撃たれる。それを直前に察知したソルジャーが飛び込んでくるものの……ターレンを倒したものの……ジョーはやっぱりそりゃ、死んじゃうよね。もう最初から、時代に取り残されたかつての伝説的存在として登場していたんだもの。

まあ、腐女子としてはここで、血だらけのジョーを抱き起すとか、ひざまずいて彼の声に耳を傾けるとかしてほしかったけど(爆)。
死にゆくジョーをソルジャーと共に哀しく見下ろすだけなのは、ラストのキスシーンで示されるように、男同士の絆より男女のラブの雰囲気の方が勝っちゃってるということなんだわなあ。うーん残念。

ギャンブラーではなくプレイヤーだ、という台詞も印象的だったけど、ソルジャーが語る、戦争ではなく戦場だ、という台詞も強いインパクトを残した。
ソルジャーの職場は、戦場だ。戦争ではない。戦争は、国家という名のワガママ勝手な都合により行われ、それによってソルジャーの職場である戦場が生成される。そこで彼女は、生き抜くことによって生きるための金を稼ぐ。
劇中で語られる彼女のそうした厳しい世界観、それこそこの閉じ込められた日本の、時空を超えているとはいえ、更に閉じ込められまくっているアングラ空間で語られるからこそ、その大きなギャップを利用して、のんきな日本と世界の厳しさのギャップを、もっとしっかりとリアルに、感じられたらなあと思う。凄く、もったいなかった気がする。

まあでも、本作はかなーり、ファンタジーというか……最初に言っちゃったけど、やあっぱ、男の子の夢の秘密基地を映画にしたかった!みたいな感覚は終始ぬぐえなかったからな。そんな感じの、可愛らしいノワール映画でいいということなんだろうな。★★★☆☆


座頭市
1989年 116分 日本 カラー
監督:勝新太郎 脚本:勝新太郎 中村努 市山達巳 中岡京平
撮影:長沼六男 音楽:渡辺敬之
出演:勝新太郎 樋口可南子 陣内孝則 片岡鶴太郎 奥村雄大 草野とよ実 泉谷しげる 三木のり平 川谷拓三 蟹江敬三 ジョー山中 安岡力也 内田裕也 緒形拳

2021/5/27/木 録画(時代劇専門チャンネル)
北野武が髪を脱色して、タップ踏んで座頭市作っちゃって、そんなねじくれた座頭市を海外に名を売っている彼が作っちまったことにめちゃくちゃハラを立てていた私であった(あまりにも腹が立ったので観てもいないので、何にも言う資格はないのだけれど)。
しかし、まさか当のカツシンがそれより前に、自身が監督して、こんな“現代的”な座頭市を作っちまっていたことは知らなんだ。ボーゼンとしてしまった。

いやそれより前に映画版では一作、テレビドラマ版でもカツシン自身の監督はあるのだし、それが未見だからこれまた私には何にも言う資格はないのだが。
ただ……それらはあくまで、シリーズとして続いていた流れの中の座頭市であり、それから10年以上も経って、80年代というイケイケの時代になって作られてしまっては、もうこれは80年代映画そのもの、空気感も何もかもが違う。あの茶目っ気あふれる市さんはどこにもいない。本当にガッカリしてしまった。

そりゃあ市さんは居合の達人だよ。これまでだって何人斬り殺したか判らない。でもその殺陣の迫力や美しさで見せていたのであり、あんな首や腕がもげたり、血しぶきが噴水のようにまき散らされたり、そんなヤボな残酷描写、しなかったよ。
これは……なんかいかにも80年代的というか、ハデにやらかすみたいなものに迎合しているみたいで。市さんは決して殺人鬼じゃないのに、斬りかかってくるのをやむを得ず払っているだけなのに、まるでこれじゃ、無差別殺人鬼だ。

しかも本作の中で尋常じゃない数を斬っている。ほとんどギネスに挑戦してるんじゃないかと思うぐらいである。それは本作の中に三つの組織があるからである。
市さんが身を寄せる漁村を束ねている五右衛門一家。お役人として幅を利かせ、ふんぞり返って見回っている八州取締役とそのとりまき。五右衛門を目の敵にする赤兵衛一家。

五右衛門を演じている白塗りのヤサ男が、奥村雄大という名前も聞き覚えがなく、誰これと思っていたら、鴈龍氏であった。おーい、息子じゃねぇか。自身が監督して息子にめっちゃいい役振るって、なんかハズかしい。

てか、本作は、当時の人気者たちを片っ端からキャスティングしたという趣がある。八州は陣内孝則氏。ああ、トレンディドラマ華やかなりし頃である。赤兵衛はシェゲナベイベーの内田裕也氏。市さんが冒頭、牢屋の中で出会う、幕府にたてついて叩き込まれたという鶴という男が、鶴って、そのまんまやんか、片岡鶴太郎氏。
市さんが五右衛門一家の賭場で起こす騒動をいさめるのが、菩薩と呼ばれる女親分おはん、演じるは樋口可南子。そして哀しき浪人緒形拳。勢ぞろいである。

正直、鶴太郎氏と樋口可南子氏はいなくても差し支えないと思う(爆)。鶴太郎氏は当時の人気者の筆頭って程度にしか思えない。それなりに登場シーンは多いし、幕府にたてついたから云々というところに意味深い雰囲気は漂わせるものの、特段それを掘り下げる訳じゃないし。
樋口可南子氏に至っては、脱げる女優としてカラミ要員で選ばれた、だなんてゲスな言い方をしたくなるほど、彼女の存在が物語に作用することが全く、まったく、ないのだ!!八州の口説きを袖にし、イカサマした市さんが袋叩きになるのを救い、その流れで温泉場で市さんとズッコンバッコンやる。それだけである。

ああ、こんな言い方したくないけどさ。でも、市さんとの濡れ場の後、彼女はすっかり姿を消し、つまりメインの展開には全く顔を出さないんだもの。
最後の最後、意味ありげに笠をかぶった一群の先頭からちらりと彼らの惨状を見やるのだが、それも意味が判らないし、一体彼女は何のために存在していたのか。エロ要員としか思えないじゃないの、これじゃあ。

八州もなあ。陣内氏は張り切って演じてるが、なんか突然狂気に取りつかれるのが、あまりに突然すぎて、はあ??と思ってしまう。
確かにオレオレな危うさはあったけど、五右衛門に取り入り、五右衛門と敵対する赤兵衛をけしかけ、特に何の支障もなくここまでの展開があったのに、次に現れた時、突然狂ってる。何それ(爆)。
赤兵衛にけしかけて鉄砲を買わせ、弾は別売りとかせこいことを言ったりして、なんか楽し気にこの二組の分裂を眺めている感じだったのに、次現れるといきなり狂ってる。ホント何それ(爆)。

まだ幼さの残るおうめという少女をモノにしようとする場面から、いきなり狂っているんである。まるで彼女を手込めにし、市さんに成敗されるために唐突に狂ったみたいに見えちゃう。
おうめは彼女同様身寄りのない幼子たちと身を寄せ合って、寺子屋のようなところで姉さん株として暮らしている少女である。まだ10代前半に見えたけれど、八州に強引に胸をひろげられて、ちらりと乳首が見えるのにドキリとする。

一番解せないのは緒形拳の処遇である。緒形拳演じる浪人は、名前さえ与えられない。市さんとは本当に偶然の出会いである。写生をしている浪人の元に、市さんが行き合う。浪人の独り言にふと市さんが立ち止まり、という出会いである。
浪人はのちに五右衛門一家に用心棒として雇われるぐらい、腕の立つ男なのだが、本来はこんな風に好きな画を描いて暮らしていたいんだろう……と親切に観てる側が予想するほどの描き方はしてくれないんである。
あの時写生をしていたことや、目の見えない市さんに色の説明をどうすべきか、という詩情豊かな、不思議な友情がはぐくまれ……そうな場面は、ただ点描として捨て置かれるのみである。

浪人は生活のために飛び入りで用心棒志願をしたのだろう。まさかその討つべき相手が市さんとは知らずに。でもこの肝心の葛藤がまーったく、まーったく描かれず、浪人は市さんを討てずにスルー、そのあとは市さんは五右衛門一家が差し向けた討ち手を次々に撃破。
てゆーか、こんな何度も、そのたびに相当の人数を市さんに斬られてたら、手持ちのコマがなくなるだろー。

しかも、その腕を買われて雇われ、市さんの首を持ってきたら更なるお手当を約束され、前金をもらったまま行方をくらました浪人を探すこともせず、ただいたずらに、ギネスの数を増やすためがごとく、市さんに斬られるためだけに五右衛門一家の刺客軍団が登場し、返り討ちに遭う繰り返し。
時に山道に伏せて待っていたり、修行僧団体のようにお題目を唱えながら登場したり、なんですか、コスプレですかこれは。

浪人は、中盤市さんと再会した時に、自分は故郷に帰る。市さん一緒に来ないか、と誘った。この時市さんがもし彼の誘いに乗っていたらどうだったんだろうか。
浪人は、なんたって緒形拳、この中では一番のゲストスターなのだから、最後の最後、すべてが終わったと思って気が緩んでいたところで、山道で市さんを待ち伏せてて、斬りかかったところを、当然市さんに返り討ちにされる。市さんは、斬りかかってきたのはそっちだから、と言い捨て、つまり相手が誰なのかもわからずに、そのむくろを改めもせず通り過ぎる。

いっぱい、言いたいことがある。そもそも五右衛門一家が雇った浪人なのに、その後の動向を気にしなさすぎ。自分のところのコマをばんばん死なせて、あの雇ったヤツは仕事もせずにどうなってんだ、となぜならない。
そして、ラストシーンの段階では、五右衛門一家は全滅している。つまり浪人はもう雇い主を失っているのだ。なのになぜ市さんを殺そうとする訳?

これがね、いろいろ考えた末とか、武士としてとか、市さんと心を通わせたから、最後真剣勝負をしたかったからとかいうんならいいよ。それこそ最後のヤツは、私が恋に落ちた座頭市の最初の作品、「座頭市物語」の市さんと平手造酒の関係性であり、なんたって緒形拳なんだから、それぐらいの萌え萌えシークエンスは期待するさ。
なのになのになのに……。浪人が市さんにこの期に及んで斬りかかるのが、タイミング的に全く理解できない。緒形拳が素晴らしい芝居をしているだけに余計になんだよ!!と思っちゃう。

てか、シリーズが終わって10数年後、当たり前だけど、市さんを演じるカツシンは老けている。でもそれは悪いことじゃないのだ。年をとった市さんを見てみたいという思いはなくもなかった。
でも……本作の市さんは、てゆーかカツシンは、かつての座頭市の雄姿を現実以上に見せたい欲にまみれて、容姿は正しく年を取っているのに、まるでファンタジー映画みたいに、その技は飛び道具的に冴え渡っているのだ。その効果として血しぶきや、生首や斬り落とされた腕が転がってくる。市さんはこんなんじゃない。こんなんじゃなかった筈なのに。

年を取ることは悪いことじゃない。そもそもカツシンが作り上げた市さんというキャラクターは、目が見えないということもあるけれど(それは現代ではちょっと難しい要素だけれど)容貌的にも決してイケてるキャラクターじゃなかった。
でも市さんは男にも女にも好かれた。ありていに言えば、モテたのだ。年を取って、髪の毛が白くなった市さんが、どんなふうにモテているのか、そんな物語を見たかった。こんな、百人斬りを自慢するおじいちゃんを見たいなんて、思わないのに。

しかも何、斬り合いの場面で提灯が燃え落ちた中を市さんが歩いてったり、なんかスタイリッシュな英語のロック歌とか流しちゃってさ。すっごい、判りやすいカッコつけさ加減。
なんかもう、悲しいというか恥ずかしいというか。北野監督が銀髪にタップで作っちゃった時の感情がよみがえった。やったった、てゆーのか。まじかこのヤロー。座頭市は座頭市はさ!あの、三隅監督の大傑作から始まったんだよ。マジ涙が出るわ……。★☆☆☆☆


座頭市と用心棒
1970年 79分 日本 カラー
監督:岡本喜八 脚本:岡本喜八 吉田哲郎
撮影:宮川一夫 音楽:伊福部昭
出演:勝新太郎 三船敏郎 米倉斉加年 岸田森 神山繁 細川俊之 嵐寛寿郎 寺田農 草野大悟 常田富士男 五味龍太郎 木村元 砂塚秀夫 田中治 木村博人 浜田雄史 新関順司郎 熱田洋子 黒木現 滝沢修 若尾文子

2021/5/19/水 録画(時代劇専門チャンネル)
もうこれは絶対そうでしょ。ゴジラ対キングギドラみたいな(そんなのないか)。いや違う、まさに今でしょの、ゴジラVSコングだわよ。
座頭市と用心棒。そのまんま。だってトシロー・ミフネは10年前の自身の代表作である用心棒そのまんまのカッコで、まさしく用心棒として本作に登場するんである。

これは座頭市シリーズなのだから彼はゲストという立場ではあるが、タイトルから見てもこれはダブル主演と言った方がよさそうな迎えっぷりだし、何よりわざわざその用心棒の製作会社、東宝から岡本喜八監督を招聘してというんだから念が入っている。
さすがに黒澤明という訳には行かなかったのだろうか(爆)、でも五社協定がまだギリギリ存在していたこの年に、これはかなり、画期的だったんじゃないのかなあ。時々役者さんをほかの会社からゲスト的に迎えているのは見かけたけど、監督のクレジットの横に(東宝)は初めて観たもの。

しかし岡本喜八とはね!!それほど彼の監督作品を観ている訳じゃないからしかとは言えないまでも、やっぱりやっぱりほかの座頭市シリーズとはなんか雰囲気が違う気が、やっぱりする!!市さんが「そよ風、せせらぎ、梅の匂い……」と詩をつぶやくように、血の匂いが充満しているこの村に舞い戻ってくる最初から、なんだか違う。
そして相対するトシロー・ミフネは、なんたって用心棒のあの時から10年が経っているのだから、その分正しくしょぼくれている。なんかそれを、意図的に、確信をもって描いたんじゃないかと思っちゃう。

やる気のない用心棒、金の亡者。でも実は隠密だったことが最後の最後に語られ、一体彼は正と悪、どちらだったのか判らない。
てゆーか、本作に出てくるメンメンは皆、結果的には、みいんな悪??そーゆーこと!?小悪党か大悪党かの違いぐらいな気がするが、それが人間の本質ということなのか。
だってあの市さんですら、本作ではまったき正の側にはいかないのだ。それはこれまで観てきた座頭市シリーズを思うとちょっと、考えられないことかも。

結構物語が入り組んでいるんだよね。登場人物も多いし、どことどこがどうつながって、どんな悪だくみがあって、隠密として潜入している奴らも次々に金に目がくらんで、結果的にはみんなして金の亡者になってくんずほぐれつ、みたいな(爆)。

その中での紅一点、市さんもこの村に帰ってきた楽しみの一つである、居酒屋の妖艶な女将、梅乃だけはそんな欲得から外れている。いや、そんな男たちの欲得の犠牲になってしまったからこそ、彼女はただただ、そこに身を横たえているんである。市さんのことを覚えていないはずなどないのに、素知らぬふりをする。
用心棒の佐々は怠け者のダンナのようにここに入り浸っている。酔って抱きたいと迫ったりするが、しかし手を出せないままでいる感じである。この二人の、思い合うっているんだけれどそれを口に出せない、お互い判っているけれど隠しているテイで相対している哀しさがある。

かつてはのんびりとした、市さんが帰って来たいと願ったようなこの村が、3年ぶりに帰ってきてみたらば、村中が殺気立っていて、市さんがかつて世話になった村人たちは、皆目を合わせない始末なのであった。
この一帯がひどい干ばつにあった二年前、いくらかたくわえがあったこの里が襲撃されるのを守るために、ヤクザの小仏一家を迎え入れたのがあだになった。

小仏、その中でも政五郎なる無法者によって多くの民が命を落とし、今も村を牛耳っている。
この政五郎を演じているのが若き日の米倉斉加年氏で、こんなこと言っちゃ失礼だけれど、虚勢を張ってキャンキャン吠えてる子犬のごとき頼りなさで、用心棒に雇った佐々に先生、先生、と泣きつくのを再三、「シェンシェー、シェンシェー」とモノマネ返しされて、うるさげに追い立てられるていたらくなんである。

いやー……このぜんっぜんショボい、肩に力はいりまくってるのに何の力もない。単なるぼんくらに米倉氏が似合いすぎるのがどどど、どうしよう(爆)。
本作にはそうした、若き日の……という楽しさがあちこちにあって、市さんと牢にぶち込まれる、梅乃に岡惚れしているチンピラ、寺田農氏もめっちゃ良かったなあ。政五郎の弟の三右衛門を演じる細川俊之氏に至っては若すぎて私の知ってる細川俊之が一ミリもない(爆)。

一見してさ、いい人そうな人たちがいるのよ。市さんは注意深くそれを審査していく感じ。でも、市さんがかつて訪れた時にも世話になっていた兵六爺さんが加担していたことが明らかになった時には衝撃だった。
演じるは 嵐寛寿郎。これまた大御所中の大御所。それこそ大いなる善か大いなる悪かを振られるぐらいの大御所。大いなる善と見せかけて……その命を不条理に奪われるもんだからいくら何でも、その先のどんでん返しはないと思っていた。まさかの!!

兵六爺さんはこの村の惨劇後に移り住んできた烏帽子屋の主人、弥助を盲目的にあがめている。そうだ、盲目的というところが、おかしいと思わなければいけなかったのだ。
市さんが会ってみれば確かにそれもありなんと思わせる柔和な人物。彼があの無法者、政五郎の父親だと知っても、逆にそのことに苦悩しているさまがイイ人感を増していた。

でも確かにおかしいのだ。あっきらかに政五郎は器じゃないし(爆)。なのにこんな分不相応な立場にいて、用心棒を立てながら震えている。父親に責めたてる金の延べ棒のありか、というのは、父親が一蹴するように、まるでこの青二才の夢見がちの妄想のように思われた。
でも違ったのだ。そもそも政五郎には彼よりずっと優秀な弟、三右衛門がいる。隠している金は三右衛門にやるんだろう!!と嫉妬に目を怒らせている。

金は延べ棒ではなかったけれど、つまりは金貨の改鋳で割合をごまかし、びんぼったらしく浮いた分をせしめていた、それに群がる有象無象なんである。
優秀な方の息子はまさにそれに直接手を染めており、その事実を追ってくるという名目の役人や隠密もみんな自分こそがその分け前にあずかろうと鵜の目鷹の目。
とゆーのが、本作の図式だからもう、中盤までは、善人も悪人も判らず、アーナンダ、全員カネの亡者じゃん!!と判るとスッキリしちゃうのだが。

その中での真打登場は、岸田森である。キャストクレジットに名前を見た時から、心の中のキャーキャーを必死に押しとどめて彼の登場を心待ちにしていた。
彼の登場によってすべてが明らかになる。にわかめくらであんまをしているなんて言っていた男が殺された事件が、すべての発端だった。その男もまた隠密であった。仕事が遅いからという理由で消されたとはあまりに飲み込みがたいスタートだった。

岸田森演じる九頭竜なる殺し屋は、もとをただせば隠密、佐々と同僚である九内という男。
大体がこの土地に着いた時から、その風貌、オーラ、もうなんかさ、手塚治虫のなんかの作品の中に出てきそうなスタイリッシュな殺し屋、色気ダダもれ、どんだけ矛盾があってもイイですイイです!!と言いたいような魅力で、ヤバすぎる。
一人飛び道具(言い方古い……ピストルさあ)を使うってのが、卑怯さも相まってこれまた背徳感漂うカッコよさで困っちゃう。

で、このあたりになると全員悪人だったのね、というのが明らかになってくる。
私ら観客が信じていた、烏帽子屋を信頼し、石地蔵を彫り続けていた兵六爺さんが、どこに隠されているのか皆が血ナマコになって探していた金が、砂金にして石地蔵の中に隠されていたことを知った時にはボーゼンとするのだ。まさかまさかまさか、彼だけは何も知らず、利用されていただけだと思っていたのに!!

更にショックなのは、特段物語には重要性を感じていなかった、おまけみたいな男の子たち、加勢してカネを稼げるって聞いたからさあ、と参戦してくる。
その場ではアホみたいに戦力にならない彼らが、実は九頭竜が連れてきた配下で、市さんもすっかり騙されて彼らを砂金発掘の労働力として雇うのだから、そのあとの寝返りにもうびっくり!!

すべて悪人にしちゃうっていう徹底ぶりのために、よーく考えるとつじつまが合わないような気もするが、それはきっと私の理解力が足りないせいであろう(爆)。
とにかくとにかく、紅一点の若尾文子である。佐々は九頭竜もまた隠密としての立場から金の亡者に鞍替えしたことで、彼との対峙であわや銃弾に倒れるところである。そこに割って入ったのが、梅乃であった。イヤー!!これで彼女が死んじゃうとか、マジヤダ!!

てか、彼女が撃たれたことでうわー!!と突入してって無慈悲に殺されちゃった余吾(寺田農)が一番悲しすぎる(泣)。佐々は九頭竜を一撃で仕留め、九頭竜の配下の攻撃はあっさり市さんに丸投げ(爆)。
えー、死なないよね梅乃さん、そんなバッドエンドやだよ、だって息あったから運び込んだんじゃん!と思ったら、九頭竜の配下を全員切り捨てまくった市さんの前に佐々が静かに姿を現す。

「梅乃はもう死ぬ、梅乃が生きていたら、隠密を抜けると決めていた。だけれど、梅乃は死ぬ」そう言って、佐々は市さんと対決するのだ。砂嵐。いや、雪嵐だろうか。よく覚えてないけど(爆)「用心棒」っぽい(爆爆)。
びゅうびゅうと風の音が吹き荒れる中……「生きとるだよー!梅乃さんが生きとるだよ!!」決着はついた。いや、つける必要がなかった。市さんは「この里に来た甲斐がありました」と言い残して、二人を背に去っていく。
佐々は市さんをバケモノと言い、市さんは佐々をケダモノと言った。その言い合いが何度も繰り返されるうち、まるで二人が親友のように思えてきたのだった。

感動的な別れをしたのに、ラストは二人して地面の砂金をかき集めて頭を突き合わせて苦笑するのは、ふっと心を和ませる。
そして市さんは去っていく。やっぱり、これまで観てきた座頭市シリーズとは、なんか違った気がする!!★★★★☆


サマーフィルムにのって
2020年 97分 日本 カラー
監督:松本壮史 脚本:松本壮史 三浦直之
撮影:岩永洋 音楽:剣持学人
出演:伊藤万理華 金子大地 河合優実 祷キララ 小日向星一 池田永吉 篠田諒 甲田まひる ゆうたろう 篠原悠伸 板橋駿谷

2021/8/25/水 劇場(TOHOシネマズ錦糸町楽天地)
キャーッ!!なにこれなにこれなにこれ!最高!ハダシたちの年齢に戻って友達になりたい!「座頭市物語」の話で盛り上がりたい!!
「座頭市の中ではやっぱり座頭市物語がベスト」うんうん、そうそうそう!「私の中ではベストワンの映画」判る判る判る!!なんとまあ奇しくも午前10時の映画祭で、同じ劇場でかかってるのが「4K版座頭市物語」とは。奇跡じゃないの。もう一回観ようかなあ……。

それにしてもこのヒロインの可愛さ!こないだの「子供はわかってあげない」といい、ショートカット美少女JKムービー目白押しで倒れそうなんですけど!!しかも映画好きで時代劇好きでカツシン好きの座頭市好き。あー、まじで高校生に戻って友達になりたい……いや今だって、おばちゃんを友達にしてほしい。彼女たちの中に入って、映画談義を繰り広げたいっ!
乃木坂さんだったのか。そうなのか。どうもその辺には疎いもんですから……しかしまあ、なんというかわゆさ。しかもそのかわゆさに全然自覚がない。むしろ、同じ映研のキラキラ系女子こそが皆が認める可愛さであって、自分はさえない女の子とでも思っているようで、あーはがゆい。あんたほどの生き生きとした可愛い女の子、見たことないっつーの!

興奮しすぎて、全然話に入っていけない。そうつまりこれは、映画研究部に属しているものの、キラキラ恋愛映画企画に自身の時代劇企画が負けてしまって、すっかり腐ってるハダシから始まるんである。
ハダシっつーのも凄い名前だが、後に登場する、なんと!タイムトラベラーである男の子、凛太郎がハダシ監督、と最初から呼びかけるから名字なのか名前なのか、とにかくホントの名前なのかなあ。他の登場人物たちが、ビート板だのブルーハワイだのダディボーイだのと、ニックネームで呼ばれるもんだから判然としないが。

そうなの。なんとSFまで絡んでくるの。予告編でそのことは示唆されていたからえーっ、と思って、いくらなんでもムジャキすぎないか、と思ったら、この設定こそが切なく胸を焦がし、ラストには涙涙になるんである。ああ困った。
おてんばな美少女、その友達は天文部と剣道部という両極端の萌え萌え、そんな女の子同士のわちゃわちゃ。廃車の秘密基地、座頭市、タイムトラベラー、海辺の撮影合宿、ライバルとの対決と友情、文化祭の上映会での最高に胸アツのラスト。
私の大好物がみっちり詰まって、まじで死にそう。私の希望を全部叶えてくれちゃったんじゃないの??

どうしよう、進まない(爆)。えーとね、ハダシがその、時代劇映画に愛を燃やす女の子で、処女作の脚本が映研の企画に通らずに腐っている。
ビート板が天文部。凛太郎がタイムトラベラーであることを見抜いたのが彼女である。ビート板は天文部であるとともにSFが大好きで、劇中では「時をかける少女」を読んでいる。カバーを外した文庫本というのが、昭和世代の心を妙にくすぐる(なんでだ)。
そもそも原作が小説だということさえ、確かに平成世代は知らないのかもしれない。凛太郎を演じる金子大地君はそういわれれば、最初の映画版、大林監督の時かけの高柳良一氏が演じた深町君に雰囲気が似ているかもしれない、と思う。

剣道部女子、女の子にモテそうなブルーハワイは、ハダシの映画製作に殺陣指導という実に実際的な、頼もしい役割で活躍する。
彼女はなんたって剣士だし、ハダシと話が盛り上がるぐらい剣士系時代劇やスターには詳しいのだが、実はハダシの映研のライバル、というか天敵というか、キラキラ系女子、花鈴が製作しているような、好き好きしか言わないような胸キュンラブが大好きなんである。
電子コミックでニヤニヤしながら見ているのを二人にひた隠しにしている。ハダシが、リア充な彼女を敵対視しているのを知っているから、言い出せないんである。何それ、可愛すぎるんですけど。

そんな具合に、いわば学園のマドンナである花鈴という存在。さぞかしイヤな女子かと思いきや、である。
いや、その雰囲気はあった。かなり後半に至るまであった。ちやほやされまくりで、取り巻きだらけで、彼女主演の相手を務める美少年(ゆうたろう君。まじかわいい)をはじめ、皆彼女をほめそやす。

そんな中じゃそらあハダシは居づらい訳。花鈴は屈託なくハダシに接するけれど、ハダシが自分の作品に敵対していると知ると、ライバルとしての態度をしっかりと見せた上で、だったら勝負しようよ、受けて立つ!と言うんである。
これはかなり意外で……大して中身のない胸キュン映画をみんなのチヤホヤで作ってるだけの女の子かと思いきや(ヒドい言い方だな……)、胸キュンものが大好きなブルーハワイをはじめ、上映会に詰めかけた観客たちを見事に陥落させたのだから、ハダシにないものを持っているクリエイターだったということなのだ。
むしろ花鈴の方がハダシの才能に気づいていたからこそであろうライバルのような友情のような、文化祭の追い込みのあの感じといい、たまらんのだ。

てか、おーっと!!すっ飛ばしすぎだぞ!!いきなりラスト行ってどうする!!ハダシが凛太郎と出会わなければ話にならないじゃないの!!
凛太郎は“ハダシ監督”のファン、文化祭での上映記録しかない、失われた処女作を観たいがために、はるか未来からやってきたんである。
どれぐらい未来だったんだか言ってたかなあ……。彼の時代ではハダシ監督は巨匠も巨匠、ただ……映画は失われた存在であるというんである。映像はせいぜい5秒が限度、映画というメディアは凛太郎の生きている時代にはもう死んでいるんだと。

これは、タイムトラベラーということよりも、荒唐無稽とは言い切れない設定だと思う。このコロナ禍で一気に配信が主流になり、映画どころかテレビでさえも、その存在意義を問われだした。見やすい短さのYouTubeが、それまでも台頭はしてきていたけれど、存在感をゆるぎないものにした。映画やテレビが失われた訳じゃないけれど、それが配信という場所に移ったことでどうなるのか、ということは確かに危機感を覚えることだった。
逆にいくらでも長い作品が発表できる場所になったんじゃないかとも思うけれど、覚悟を決めて映画館に足を運ぶ、あるいは一本のソフトをデッキにかけるのではなければ、もしかしたらどんどんこらえ性がなくなって、映像は5秒が限界、なんていう世界があながち荒唐無稽でもないのかもしれないと思わされた。

でもどんな時代にも、それこそハダシのような年代の女の子が時代劇ラブなのが珍しいように、どんな時代でもさ、そういうユーザーは必ずいて、そういうユーザーこそが、つまらなくなりかけた世界を面白くする使命感を持って生きていってくれると、信じている。
ハダシは凛太郎と出会ったからこそ、この処女作からつながる人生をこれから歩んでいくんだろうけれど、凛太郎はその先のハダシ作品のファンだからこそここに降り立って、彼女の生きていく人生の圧倒的なきっかけを作った訳だ。

SFの図式というか、タイムパラドックスの危険性やらなんやらを、天文部のビート板とタイムトラベルしてる凛太郎を見守っている、なんかアラジンの魔法のランプのランプの精みたいな男性が皆に指導するのだが、理系の講義みたいで、難しすぎる(爆)。
このあたりの、ファンタジーなのに理系攻めにして妙にリアリティがある感じが、何とも絶妙なのも面白いのだ。

凛太郎はあくまで、後の大巨匠であるハダシ監督に対するリスペクトなんだけど、ハダシの方は、まずは自分が書いた脚本の主役として運命的なほどにピッタリの凛太郎にホレこんで、押して押して押して、橋から飛び降りた彼を追っかけて飛び降りて濡れネズミになるぐらいにしつこく勧誘して、彼を主演に映画を撮るまでにこぎつける。
脚本が企画を通らなかった時点でクサってた彼女が、凛太郎を一目見て、もう一目ぼれで、彼がやらなきゃ映画は撮らない、というもんだから、凛太郎はそもそもその映画を観に来たのに、こんがらがってるのか、そういうことだと飲み込んでいるのか、そもそもファンだから、ハダシ監督が処女作を撮らないなんてことになってはならない、しかも自分主役!!とゆー感じに盛り上がっちゃって、承諾。スタッフの異色の才能をあちこちからスカウトして、青春そのもの、映画製作スタート!!

劇中、カツシンだけではなく、あらゆる時代劇スターの話で盛り上がるんだけれど、やっぱりキモは「座頭市」、それもその最初である「座頭市物語」に基本が置かれ、キラキラ恋愛映画にもしっかりつながってくることに、そもそも腐女子として「座頭市物語」にそーゆーテイストをこそ感じていたからこそ大好きであり、傑作であると思っていたこちとらとしては、そらそーね!そーゆ―ことさ!!と溜飲が下がり、そしてすっかり嬉しくなっちゃうんである。
そーよそーよ。カツシンと我が愛する天知茂が演じた運命の二人、市さんと平手造酒は、斬り合うことでこそ愛をかわしたんだもの。あー忘れられない。「貴公に斬られたかった……」と市さんの刀に崩れゆく造酒よ。キャーッ!!いまんとここれ以上、腐女子なわたくしを死なせるシーンはないっすよ。斬られたかった、ですよ!!

ほんっとに、その記憶が私の頭どころか体中に刷り込まれていたからさ。正直、映画好きの中で盛り上がるだけの話かと思っていたのだよ。
でも、まさかのタイムトラベラー。タイムパラドックスを起こさないためには、ハダシ監督の処女作に彼女のファンである、時代が違う凛太郎が出演しているのはおおいにマズい。

なぜこの処女作が存在しないかというのは、そういう理由によるものだったのだ。ふーしーぎー。
鶏が先か卵が先か、みたいな、SF的理不尽さに頭を悩ます訳だが、ただ、ただ……もうさ、そこからの、クライマックスがさ!いやさ、追い込みの撮影合宿の青春もかなりヤバかったけど、やっぱりやっぱり、文化祭はヤバすぎたね!!!

「座頭市物語」、このヤバすぎる腐女子大爆発の、私もだいっ好きな、天知茂にホレた出会いでもあるこの大傑作が、映画好き女子の話のネタだけかと思いきや、本作のテーマに深く根差し、ラストの涙涙のリアル殺陣にバチッ!!とつながるんだから、もう私は……感無量どころじゃないんである。
カツシンと天知茂が、お互いを認め合って、でも敵対するしかなくて迎えるラスト、それまでの二人が、めっちゃくちゃ静謐な場面の中で、哲学的とさえ言いたい友情を育んだからこそ、斬り合うしかないクライマックスも静かで美しくて、もう……言葉なんて寄せ付けない素晴らしさだったからさ。

あの傑作のクライマックスを前提にするとは、心臓強いわ!と、何も知らなければ、情報だけ得てれば、思っただろう。でも、もうここに至ったらね!!そらさ、前提だわさ!
カツシンと天知茂。男同士、剣士同士だから、腐女子がキャーキャー言ったのさ。でも、というか、つまり、というか、そこには、信頼し合うからこそ真剣勝負するしかないという結論がある。

ハダシは撮影中もずっとラストに悩んでて、相手と斬り合うか否かを模索していた。斬り合わないことを選択して、文化祭に臨んだ。
でも最後の最後で、ハダシは考えを覆す。それは、彼女が、凛太郎に、自分が作った映画のラストが斬り合わなかったように、決着をつけてなかったから。
いやさそれは、単純に、想いを伝えればいいんちゃうと思ったのに、なんとまあ、ハダシ監督はそれを、このラストシーンは見せられない。今ここで、ライブで見せます!!と言い出すんである。

めっちゃイイのは、この直前あたりから、なんかさあ、一生のトモダチになりそうな雰囲気の、ハダシにライバル意識と共に、だからこその協力を惜しまない、でもプライドもきちんと維持してふるまう、キラキラ女子の花鈴の助力なんである。
ハダシがラストシーンに納得いかなくって、つまりうやむやにせず、凛太郎に告白したいんだと察知すると、子飼いの(爆)部員たちを斬られ役としてブチ込み、集まった観客をあっためてからの、ハダシと凛太郎の、愛の決闘。そしてそれは……このフィルムをなきものにし、凛太郎は帰らなければならない永遠の別れということ。

「座頭市物語」の、市さんと平手造酒の、静謐な愛の、愛でしかないあの、あの……胸を震わす斬り合い。全然違うのよ。ぜんっぜん違うさ。あれは越えられない。触れられない。
改めて思い出して、奇跡の作品だと確信するからこそ、本作がいい度胸だと思ったし、あのラストは、ヤバすぎた。フィルムには残らない。あの場所、あの時にいた人にしか判らないのだ。★★★★★


  さらば愛しき大地
1982年 130分 日本 カラー
監督:柳町光男 脚本:柳町光男
撮影:田村正毅 音楽:横田年昭 
出演:根津甚八 秋吉久美子 矢吹二朗 山口美也子 蟹江敬三 中島葵 日高澄子 奥村公延 草薙幸二郎 佐々木すみ江 松山政路 猪俣光世 白川和子 岡本麗 志方亜紀子 石山雄大 港雄一 粟津號 三重街恒二

2021/8/9/月 録画(チャンネルNECO)
……もう!!なんでこんなクズ男、さっさと捨ててしまえや!ひがみ根性、怠け者、悪いのは全部他人のせい、女をぶん殴り、食卓ひっくり返し、しまいにはシャブ中だとぅ!?あーもう、なんでこんな男、捨ててしまわないの!!

……と、ずーっと思いながら見てしまう。それだけ圧倒的なエネルギーのある男。根津甚八がすさまじい熱量。茨城なのか。かなり訛りがキツくて、なんども巻き戻しながら台詞に耳を澄ます。
ことに根津氏演じるクズ男、幸雄は短気でけんかっ早くて早口だから、余計に聞き取りづらい。しかしもう冒頭から、彼が家族中、いや、この町中と言った方がいいかもしれない、鼻つまみ者であることは知れる。

冒頭も冒頭だもの。家の柱に縛り付けられているんだもの。シャツのボタン全開(なのは全編に渡ってそうなので、暴れたから、という訳ではないことが後に判るんだけど)で、縛られていても悪態をつきまくっているこの男がやったということが判る、部屋中の惨憺たる荒れよう。
食卓ひっくり返しはこの冒頭だけではないのだ。ああなんというバチ当たりが!女が手間ひまかけて作った料理をなんということ!しかも納豆が貧乏くさい、次男の方が可愛いんだろうとこの暴挙に及んだというんだから、何それ、ガキか!!

……いやさ、つまりもう、この冒頭でほぼほぼ事態は判明しているのだ。幸雄は長男。だからこのショボい田舎に残ってる。
一日汗水たらしてダンプに乗って家に金を入れているというのに、東京に出している次男坊の方が可愛いんだろ、と吠えている幸雄が、働き手として以上にその人間性の悪さで疎まれていることが一目瞭然なんである。

そもそもこの家自体のなりわいは農業であり(豚も飼ってるが)、一日中はいつくばって働いているのは彼の老いた両親と腹ぼての奥さんなのだ。
なぜここに彼がいないのか。農業が性に合わないのか、それはそうな気がするが、そもそも家族から浮きまくっている。ただ、二人の幼い息子たちはお父さんが大好きらしい。騒ぎがひと段落すると、縛られたお父さんをほどきにやってくる。幸雄も幼い息子二人をぎゅっと抱きしめるのだ。

ある意味これが、タチ悪いんである。後にコイツは愛人に子供を産ませ、そちらに入り浸りになる。つまり二つの家庭を持つっつー、身の程知らずのことをするのだけれど、不思議に子供に対しては愛情表現を惜しまないのだ。
愛人家庭に本妻との間に産まれた子供を連れ込んで、まるでフツーの家族のように一家だんらんを過ごしたりする。デリカシーがあるんだかないんだか、である。あんなに女や周囲に対して傍若無人なのに。

だから憎めない、というまでには至らないほどにクズ男なんだけれど、でも彼が早々に遭遇する事件はあまりにも残酷なものだった。
彼が、というか、この家族が、なんだけれど、幸雄の態度は自分だけがその不幸に舞われたみたいに当たり散らすからイラッとしちゃうのだ。

……いやいやまずは、その何が起こったのか、だよ。その二人の息子が、死んでしまうのだ。こうした、あくせく働かなければ日々生活していけない田舎町では、子供は外で遊んでおけば、というスタンスはそうであろう。それなりの中規模都市に住んでいた私ら昭和世代だって、そうだったんだから。
幼い兄弟はボートで漕ぎ出している。うっわ、子供二人でボートはヤバいよ!ボート……貸し出すとか、そういんでもなく、勝手に拝借して乗っちゃったんだろうか。今では考えられないけど、そういうことも、昭和時代には確かにあった気がするし、それによって本作で描かれるような悲惨な事故もあったように思う。

幼い兄弟は、弟かな、うっかり転落しちゃったのは。それを助けようとしてお兄ちゃんが飛び込んで、それっきり。責めさいなむかのように降りしきる豪雨の中、むなしい捜索作業に駆けつけて、幸雄は奥さんをぶん殴り、つまりお前のせいだという訳。
……昭和時代は、子供の世話は奥さんの仕事、てな横暴な価値観が確かに横行していたが、奥さんも身重の身体で農作業に出ていたというのにさ!しかも身重の奥さんを豪雨の中ボッコボコに殴る蹴るだなんて……人間じゃない!!産まれてくれば子供は可愛がるのに、なんなんだろう……。

幸雄は奥さんにも、後に愛人になる順子にも、ヒドいことをしまくるのに、なぜかこの二人の女は、最後まで幸雄を見捨てないのだ。見捨てろよ!!と観てるこっちはめっちゃ叫んでるんだけど。
単純に考えれば、バッチバチの関係である筈の二人が、そらまあ二人顔を合わせる場面なんてそうそうないんだけど、不思議とバチバチにならない。
幸雄がまたまた自分勝手な大暴れで傷害事件になっちゃって拘留されたところに駆けつけて、二人は顔を合わせたのだった。若干気まずそうではあったけれど、お互い何か、同志みたいな感じで挨拶を交わした。

順子はそりゃ子供も産まれたし、籍を入れてほしいとは思っていたけれど、だからといって正妻側の家族をぶっ壊したいと思っていた訳じゃなかった。ただ、これからが不安だっただけだ。
それは確かに、この時代の不安定な女としての打算だったのかもしれない。でもそれを、奥さん側も口には出さないながらも、理解しているからこそ、気まずいながらも、同志のような目配せをかわすことになるのだ、きっと。

でも当然、双方ともに、色々、色々、たいへんである。その前に、再三話に出ていた次男坊である。パンチパーマに半裸状態で暴れまくる幸雄に比して、その登場からなるほど、美丈夫、落ち着き、すべてが違う。
これは幸雄はかなわない。いわば長男であるからというだけの理由で、跡取りとして留め置かれただけで、次男坊である明彦が東京に出されたのは、むしろ東京に出しても成果を収めるだろうという安心感であり、幸雄がどうしようもなくなって明彦を呼び戻すという図式が、最初から出来上がっていたんじゃないかという勘繰りをしたくなるぐらいである。

外野から見てそう思うんだから、当の幸雄がひしひしとそう感じるのも無理からぬことと思うと、……つまりは彼自身のいたらなさっつーか、能力のなさからくることなんだけれど、でもまあそれは彼の責任ではない、当主となる器じゃなかったというのはさ。
これが日本の悪しき価値観であるということなのだろう。フェミニズム野郎の私は、いつもそこに、女が虐げられる図式ばかりを見出して、あー男社会、家父長社会、ヤだヤだ!!とばかり言いがちだし、本作もまさに女たちが直面するのはその図式のオンパレードなのだが。

でも、そうか、長男として生まれたばかりに直面するこういう理不尽があるのか……次男坊が優秀だったりすると、余計に。
きっと最初から次男坊に跡を継がせたかったんだろうが、この長男坊じゃダメだね、という“実績”を作らなければそれがムラ社会的に通らないから、役立たずの長男を世間(つったって、このムラ社会だけだが)に知らしめたのだとしたら、そのために幼い子供二人が死に、二つの家族が苦しむ羽目になったのだとしたら……。

幸雄と対照的にするかのように、描かれるのが蟹江敬三演じる大尽の夫婦の描写である。大尽は吃音があり、仲間たちから愛のあるイジリをされているような存在。現代ならば、なかなかにコンプライアンスが気になる描写だけれど、大尽は仲間内からいわばバカにされていながら、実は一番しっかりと家庭を、人生を、生活を、立てているんである。
幸雄からシャブを伝授された時にはヒヤっとするし、その後奇行で精神病院にまでブチこまれちゃうんだからサイアクだが、それを経ると彼はつきものが落ちたように足を洗い、逆に幸雄を心配するようになる。

酒好きだった幸雄が、シャブ中になって酒を欲さなくなった、というのが、まるでイイことみたいに彼自身も、周囲にも見えてしまって、これはヤバい……と思う。このあたりになってくると、東京から呼び戻された弟の明彦とのエピソードも煮詰まってくる。
明彦はね、完璧なんだよ。人間としても弟としても。うさんくさいぐらいにさ。だなんて思ったのは今初めて。観てる時には幸雄のクズさにしか目がいかなかったし、その兄貴に翻弄される弟君が気の毒だなとしか思わなかった。

でも彼は、本当に恵まれていたのだ。人格も将来性も最初からすべて肯定されていた。いわば、次男なのが惜しいね、という具合に東京に出された。役立たずの兄貴を助けるために帰ってきた。もともと才覚があったから、見事に立て直しちゃう。
……そらまあ、“役立たずの兄貴”にさんざん苦労させられる。本当に同情する。でも結果的には、この優秀な弟君は、ちっとも印象に残らないのだ。いい人だったね、苦労したね、ご苦労様、ぐらいな……。

おかしい、おかしい!!だってそもそも、幸雄の愛人となった順子は、明彦のかつての恋人だったのだ。
だからぐちゃぐちゃな感情はあった筈なのだ。払い下げ、だなんて言っちゃったらそれこそフェミニズム野郎のこちとらとしては、なにい!!と吠えちゃうが、でもそういう感覚があったからこそ、幸雄はつまらない八つ当たりを思い出したように彼女にぶつけたんじゃないの。
弟の恋人に岡惚れしていた(表現がヘンだけど、だって弟君の方が優秀だったんだもの)自分へのいら立ちが、理不尽に順子にぶつかっちゃうっていう……。

本作は、日本のこうした、嫁、姑、婿、舅、子供、籍、愛人……といった、もうほんっとうに、あらゆるドロドロが躊躇なく描かれているんである。
田舎町のおばあちゃんたちが、縁側で寄り集まって井戸端会議してる。のんびりした風情に見えるが、次の場面では一人欠けている。「ネコイラズを飲んで自殺したんだよ」息子が嫁と結託して出ていっちゃったからだというんである。

この文脈だけ聞けば、フツーにおかしい。家族の単体として息子と嫁は夫婦であり、家族なのだから。なのに……。
昔から嫁と姑が上手くいかない、息子は嫁に味方する(あるいはどっちつかずでモメる)という展開ははいはい、ありますあります、というテッパンだが、それが自殺にまで発展すると、ハッとする。ありますね、と言ってる場合じゃなく、本当にそういうことが少なからず起こっているんだろうことに直面する。

井戸端会議メンバーであるオバちゃん連中は、負けちゃダメ、下手に出たら負けなんだから、とけしかけた結果がこの事態なのに、大してショックを受けてる風もなく、自分たちの責任なんかある訳もない、香典ばかりが出ていくねえ、と笑い飛ばすという恐ろしさ。ああ、ああ!!こんなバアサンになるのか、誰もが。私もなるのか!!

一方で、嫁と姑は上手くいかないのに、嫁と舅は不思議とうまくいくんだよね、という台詞がこぼれる。実際、幸雄の父と嫁である文江は、キツい農作業もいたわりながら分担してこなしてる描写一発だけでも、それが垣間見られる。
ヤボな見方をすれば、そーゆー、エロなことになってんじゃないのとか言えなくもないけど、この事例に関しては決してそんなことはないと断言できるし、だったらなぜ、嫁と舅が信頼関係を築けるのかと考えると、考えるまでもないさ。答えは簡単、お互い、配偶者にソデにされているからに他ならないのだ。

嫁は夫に。舅は姑(自分の嫁)に。そして同じ身内ならば、そりゃ、信頼関係を築くだろう。男子が複数同時進行で女を持っちゃう習性に対して、子供を持つこともあって一対一の恋愛感情より、家庭を持つという同じ価値観、先輩としての信頼の元に近づく関係性と。あー、ヤだヤだ、結局私、フェミニズム野郎方向にしかいかないからなあ。

ただこれは、やっぱり、さ。時代、そして当時の地方状況が大きく関係する物語だから、私みたいな単純なフェミニズム野郎論では、終われないんだよね。
ほんっとうに、幸雄は勝手な男。死んだ息子二人の戒名を背中に彫っちゃうなんて、愛情だけと思われるが、彼から罵倒される奥さんにとっては、刺青入れたことで満足してんちゃう、私が苦しんでないとでも思ってんの!!と、当然のお怒りである。
男はいいさ。そんな自己満足の先に、秋吉久美子なんつー、超イイ女をくわえこんじゃうんだから!!秋吉久美子、マジヤバイっす。しかも根津氏とかなーりエロエロのセックスシーンもあるしさ!!

でもさぁ、彼女、結局おかしくなった幸雄に刺されちゃうの。彼女は死んでしまったのかどうかさえ判らない。何もなかったかのように、子供も大人も逃げた豚を追い回し、カメラが引き、終わる。何もなかったかのように!

結局、幸雄を愛せるのか愛せないのか、許せるのか許せないのか。結局幸雄が許容できるかどうかって、今の時代のコンプライアンスにかかわって来るしかないのだ。それって、さみしい?判らないけど……。 ★★★★☆


  猿楽町で会いましょう
2019年 122分 日本 カラー
監督:児山隆 脚本:児山隆 渋谷悠
撮影:松石洪介 音楽:橋本竜樹
出演: 金子大地 石川瑠華 柳俊太郎 小西桜子 長友郁真 大窪人衛 呉城久美  岩瀬亮 前野健太

2021/6/17/木 劇場(シネ・リーブル池袋)
かんっぜんに油断した。情報を入れないのはいつものことだが、宣伝の写真、楽しげな若い二人のカップルの躍動感のあるデート最中のような笑顔全開、そしてこのタイトル、ライトな気軽に見られるラブストーリーだと思って足を運んだら、奈落の底に叩き落された。
ヤラれた。このヒロインの子、何者!!見た目は私好みの可憐な、ぽってりくちびるとぽよぽよとしたほっぺた、漆黒のボブヘアといいきゅんきゅんくるかっわいい女の子が、まさかの、まさかの!!

惹句ですでに、彼女が嘘だらけの女の子であることが明かされているんだから、単に私が何にも知らずに対峙しただけなのだけれど、でもさでもさでもさ。
嘘をつかない人間なんていないし、本当のことしか言わない人間なんていないじゃないか。彼女のことを糾弾するアンタだって、?をついて彼女の嘘をおびき出そうとしたじゃないか、なのになのになのに!!

ああ、興奮しすぎて。どっから行ったらいいのか。構成がまず、見事なんである。チャプターが三つほどに分かれている。
最初に示されるのは宣伝写真で私が騙された、いかにも好感の持てる若々しいカップルの、その出会いである。そしていったん時間軸がさかのぼり、次には最初のチャプターのその先に行く。

ジグザグの構成は、今までありそうでなかった気がする。いったん現在を提示して過去に戻り、最初に示した地点に戻ってくるというのはよくある(ありすぎて時々うんざりする……)が、その先に行くというのは。
そしてその先が、あまりにも恐ろしいのだ。何もそんなに彼女が糾弾されるべきなのか。ほんの運や出会いの、チャンスの、もつれた先がこんな風に違っただけではないのか。

……どうも興奮して脱線してしまう。最初に示されるチャプター、二人の出会い、その前に、金髪青年の小山田修司は鬱々としている。スタジオアシスタントから独立したばかり。今はいわゆる商品撮影を請け負っているかたわら、作品ファイルをもって方々に売り込みに出かけるも冷たくあしらわれるばかり。
彼としては何でもできる、どんな写真も撮れるということを示したいところが、何をやりたいんだから判らない、パッションが感じられないと、いかにもギョーカイ人然とした、ふんぞり返った色眼鏡のオッサンに言い放たれてしまい、一言もない。

しかし思いがけず、このオッサンは思い付きのように修司にに仕事をくれた。仕事、というか、ボランティアのようなものだ。知り合いのタレントの卵がインスタ用の写真を撮影してくれる人を探している、と。
それがユカだった。知り合い、というところがミソというかなんというか、後に明らかになるが、このクッソ業界オッサンの通うエロマッサージクラブのホステスとして働いていたのがユカであり、ユカはこのオッサンに、チャンスを餌に身体を売ることになるっつー図式である。

もちろんこの時点で、修司はそんなことは知る由もない。観客もまた、次のチャプターでそれを示されて死ぬほどビックリするはめになる。
つまりこの時点で、修司と観客は同じ条件で彼女を見ている。修司の向けるカメラに、いちいち顔を作るユカは売れたい一心の痛々しさが見え隠れした。修司は普通にしていた方が可愛い。お腹がすいたとか考えてみて、とリラックスさせた。

この一言が、ユカにとっても修司にとっても運命の分岐点になった。この時撮ったユカの写真はどこに見せても評判が良く、ついにはある写真賞に入選するまでになる。でもそこで引き揚げられたのは、修司だけだったんである。

ああ、難しいな。とっても見事な構成なのに、紐づきのオチを判っちゃってると、ついついそこに言及してしまう。全然、そんな未来は後なのだ。そしてその未来は、彼らに、少なくともカップルとしての彼らには暗雲をもたらすばかりなのだ。
ああ言えば言うほど泥沼だ(爆)。最初のチャプターではね、何も判らないままだから、ユカに一目ぼれしちゃった修司の、彼女に翻弄される楽しさなのよ。現場の先輩にからかわれながら、ユカに触れたいのに上手くかわされてても足も出ない修司。本当にこの時点では、可愛らしい恋人のラブストーリーとしか見えなかったし、そんなつもりで気楽に見ていたのだ。

なのに、ある夜、ずぶぬれのユカが修司のアパートを突然訪れ、一人にしないで、と震えながら抱き着いてきたところから急激に物語が展開しだす。
いや、この言い方も適当ではない。チャプター1ではやはりまだ何も判らない。この時修司は、重要なチャンスとなる仕事の電話を受けていたのに、ユカに抱き疲れて猛然と肉欲に溺れてしまった。

観客側としてはおいおい、女に溺れてチャンスをふいにするのかよ、とかなり心配したが、それは後々、その時の荒天が味方して彼の嘘で相手を言いくるめられてしまった。
そうだよ、修司だって、いや誰だって、嘘はつきまくっている。そんなのは呑み込んだうえでの人間関係だ。でも……そうか、状況やタイミング、人間関係で、ついていい嘘とそうじゃないそれがあるということなのか。

この時、ユカに何があったのかも質さないまま、めくるめくセックスをしてしまってから、二人は途端にラブラブになってしまって、つまりうやむやになってしまった。付き合う、という正式な儀式を、今時珍しく通過してはいたにしても、このセックスは何かこう……決定的なものだった。
可憐な美少女アイドルのようなユカ、私の心をキュンキュンさせた彼女が、おっぱいだって決して大きくはないのに、そのセックス、そして何より事後、うろたえるほど官能的な余韻を漂わせた。

この子は危ない。恋人に依存し、侵食し、毒の花を咲かせていくタイプの子だ。そしてそれを、本人が自覚していない。どこまでも自分は被害者なのだと思うタイプの子だ、そう直感させるものがあった。

そしてチャプター2、時間が巻き戻る。ユカは田舎から上京している。夜行バスの中で知り合ったのが、後々、結局修司と二股をかけていたことが判明する元カレの北村良平である。
見るからに渋くてイイ男。正直、修司の青臭さに比べたら勝ち目がない気もする。ただ……のちに修司が実にこの良平と同じ台詞をたたきつけてユカを振ったことを考えると、良平もまた、ユカの見た目と雰囲気でくらんだにすぎないのだ。でもそれって、ユカにとってはあまりな男たちの勝手な言い草ではないか。

ユカは、あるオーディションで、自分はどういう人間なのかと問われて絶句する。彼女の空虚さは、チャプターを行きつ戻りつする間に、残酷な形でどんどんと露呈していくんである。
最初のうちは、何の色もない、何の色にも染まれることは、武器に思えた。レッスン生で友達も出来て、一緒に売れようねとはしゃぎあった。

しかしその友達、久子は先にチャンスをつかんだ。久子がユカにエロホステスの仕事を紹介したことが、ユカにねじくれた感情を植え付けた。久子自身は決して汚い仕事はせず、紹介料をもらっていた(それもウワサで確かではない)ことが、ユカの恨みに火をつけて、久子のあることないことの中傷をネットに書き込んでしまう。
このあたりから、チャプターが変わってから、ユカの、本性といったらアレだけれど、自分には何もない、何色もないことに、焦りだす絶望の描写が重なりだして、見るに堪えなくなるのだ。

何色もないことが、絶対の武器だったのに。それをユカは、ああなんだろう、これは、運が悪いのか、彼女自身の意志が弱いのか、依頼心が強いというのが大きな問題だったのかもしれない……。
他人の言葉を、自分の考えとして語り始めたことが、それは実は絶対にやっちゃいけないことだってことを、判ってなくてやっちゃったことが、運命の岐路だったように思う。

「好きだったこととか、会いたかったこととか、人って忘れちゃうじゃん」
可憐なユカが言えば、ひどく意味のある、過去の辛い恋愛でも思い出す言葉に思えた。でもそれはエロマッサージの客、あの色眼鏡ギョーカイオッサンが、ユカの真剣さをかわすために、卑怯にも意味ありげに発した空虚な台詞でしかなかったのだ。

ユカは、自分の言葉を最後まで持つことがなかった。いつでも、男たちの空虚な言葉を、時には武器にして、それが自覚的だったのか無自覚なのかも判らずに、何とか自分を防御してここまで来た。
それが、嘘ばかりついていると修司に責められるのなら、それはあんまりだ。だってアンタはユカをだしにして売れっ子カメラマンの地位を獲得したじゃないか。しかも贅沢なことに、そんな欲しくて欲しくてたまらなかった地位に疑問を抱いたりしてさ。

ユカの元カレの良平の存在をかぎつけて、一時は剣呑になった二人だが、今は一緒に暮らしている。しかし修司は今も疑っている。
彼の仕事が忙しくなる一方で、ユカはなかなか芽が出ないことが二人の距離を生み出していることを、修司がキチンと向かい合っていなかったことが原因、とか思っちゃうのは、ついつい女の子側に味方しちゃう私の悪い癖かもしれない……。

ユカが、かつての親友、いまや売れっ子になった久子と、現場で、ユカは彼女のスタンドインとして久しぶりに出会う場面が強烈である。
久子はユカが自分の中傷を書き込んでいたことを知っていた。容赦なく罵倒し、コーヒーを頭からぶっかけた。
気持ちは判るが、アンタは売れたんだからそんな心の狭いことするかと思うのは、ああなぜ、ユカの方を、こんなに今や、愚かでしかない、男に依存し、人に嫉妬し、バイト先の人たちに居丈高に見栄を張るイヤな女である彼女を、かばう気持ちになっちゃうのだろう。

そう、ユカがバイトしている洋服屋さん。大事なオーディションだからと急に休んだユカを叱責したら、逆に、シフトが自由だと言われていると噛みつかれる、この女主人がユカにイラッとする気持ち、めっちゃ判る。
だって、今の時代、ちょっと調べればわかる。ユカが言うように、仕事が忙しい訳がないこと。鳴かず飛ばすなこと。SNSのフォローも微々たるものだということ……。
難しい。めっちゃ難しい。それでも見栄を張らなければこの先いけないユカ、大人の女、経営者として、そして同性の、同属嫌悪としてどうしても捨て置けない女主人。

その間に入るのが、ユカに岡惚れしている妙に声の高いバイトの男の子なのだが、これまた哀しすぎる立ち位置なのだ。本当に心配している。それはそりゃ本当だろう。でも、ユカがエロバイトをしているらしいというのを、その心配の言い訳の元に客として潜入するのは、やっぱりルール違反だ。
ユカのプロらしからぬ態度こそがダメだったとは思うけれど、これはやっぱりダメだ。信頼している、心配しているという鎧の元に、ユカが愚かでみだらな女だと暴くために、今までは立ち得なかった上から目線を得て恍惚としているのだもの!!

最後はあまりにも悲しい。修司はユカのスマホを覗き見ていて、彼女が元カレに未練を残していたのを判っていた。
それを白状させたいと思って、彼自身彼女に対して嘘を重ねて暴こうと画策していたのに、いざその現場を、まさしく犯行現場を、まあさすがにセックスの現場じゃなかったにしても、目撃してしまったら。

男が部屋から立ち去り、裸の彼女が事後の物憂さで横たわり、ゴミ箱には使用済みコンドームが捨ててある。これ以上なく申し開きのない状況なのに、泣きながら、ユカは、修司に、最後まで、何もない、知らない、ヤってない、と言い続けた。
明らかに嘘なのに。状況証拠、物的証拠、こんなにも明らかなことはないのに。ユカのスマホを修司が覗き見ていたことこそが決定的な証拠だったが、卑怯なことに彼はそれを言わなかった。この決定的な状況と物的な証拠で彼女を、……もう殺すってまでに追い詰めた。

チャプターが行きつ戻りつする間に、どんどんとユカが、あんなにも可憐で可愛くて魅力的だったユカが、何の価値もない女に急速に落ちていく様を見せつけられる。
でも、それはあくまで、世間からの評価に過ぎないのだということを、誰も判ってくれないままに、ユカは何物にもなれないままどこかに姿を消してしまう。

辛すぎる。ユカにかかわる修司、良平、久子、彼らが成功したのは、実力はそりゃあっただろうけれど、こういう世界、運のめぐりあわせ、タイミング、そういうことだったんじゃないかとしみじみと感じてしまう。

判らない、判らないけど、ユカは決して、意地悪いとか、性格悪いとか、そんな子じゃなかった。なのに結果的にそんな子になってしまった。
マスコミ業界という世界に、特段の思いも持たずに飛び込んだことが、それこそがまるで罪悪のように彼女を奈落に突き落としてしまった。
ユカを演じた石川瑠華嬢、本当に素晴らしかった。彼女にもう一度、すぐにでも会いたい。本当にすごい才能だと思う。★★★★★


さんかく窓の外側は夜
2020年 102分 日本 カラー
監督:森ガキ侑大 脚本:相沢友子
撮影:近藤哲也 音楽:山口由馬
出演:岡田将生 志尊淳 平手友梨奈 マキタスポーツ 新納慎也 桜井ユキ 和久井映見 筒井道隆 滝藤賢一

2021/2/7/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
あああの!「おじいちゃん、死んじゃったって。」がデビュー作なんだ!なぁるほど、あの作品を経ればこうした大きなバジェットの作品を任されるのも納得である。圧倒的構成力、それは役者を魅力的に輝かせる力になる。
マットな手触りの硬質な色味の画も、ひどく魅力的だ。それは三人の主役というべき中でもオドロキの美しさを放つ、岡田将生君演じる冷川がそのものが持つ謎めいた魅力というべきかもしれない。

いやー、驚いた。最近の岡田君はめちゃくちゃ美しい男になっとるなあとは思っていたが……。だってやっぱり、デビューから今まではおばちゃん的にはあっという間すぎて、あの天真爛漫で可愛い男の子がこんな美しい男になっちまって……とショックにも似た感慨無量、なのである。

その岡田君に対峙する志尊淳君はまだそこまでには至ってないものの、彼も初めて見た時の印象からはかなり違っている。キラキラ男子というイメージだったのが、いい意味で普通に落とし込まれて、本作の三角はまさしくそんな男の子である。霊が見えるという特殊能力を、呪われた欠陥のように隠し持って、おびえながら暮らしている。

三角の少年の頃の記憶から始まる。彼には浅瀬の川の中にたたずむ不穏な霊が見えている。同級生たちに言っても信じてもらえない。それどころかウソつき呼ばわりされ、死ねと言われ、遠ざけられる。
同級生たちは川の中に遊びに入っていった。止められない。一人の少年が、その霊に連れ去られたのか、一緒に遊んでいた同級生たちは度を失って助けを求めた。でも三角にはどうすることもできない。その場を逃げさった。

この場面は……まるでタイムリープを繰り返すようにその後何度も登場する。今の時間軸の三角がそこに居合わせたり、冷川がそこに居合わせたりする。
ここが起点。三角の起点。そして冷川にもそれはあったのだが、彼はそのことをきれいに忘れ去っている。それはあまりにも辛すぎる過去だったから。それを、冷川に仕事を依頼する刑事の半澤(滝藤賢一)だけが知っている。

仕事、冷川の仕事は除霊探偵とでもいったところか。突然三角をスカウトする場面は忘れられない。三角は本屋で働いているのだが、その前に、交差点で、冷川と遭遇している。ともに同じ霊を見ている。
同じ霊が見えている三角のもとに、冷川は現れた。「素晴らしい。こんなにはっきり視覚化できるなんて」その後何度も繰り返される、冷川が三角の背後からバックハグの形で胸元に手を当てる除霊ポーズ?は、美しいオノコ二人のこの形はヤバすぎるだろ!!しかもバックハグしてる岡田君が冷たい美しさで、その胸の中で、霊におびえているからなんだけど、可愛い男の子の志尊君がハァハァ言ってるのが萌えすぎる(爆)。ああ腐女子大爆発。

……落ち着け、私。うううでも、本作の魅力はこの美しいオノコ二人の画を堪能することに尽きるんだもん!……いやそれはあまりにも言い過ぎ(爆)。
三人目のメインキャスト、平手友梨奈嬢がまた、素晴らしすぎる。彼女の映画デビュー作は気になりつつも見逃してしまったので、女優、平手友梨奈を見るのは初。
彼女はその目力、なんて言ってしまうには平凡な描写すぎるが、もうとにかく、お顔一発のインパクト、カリスマ性がハンパなさすぎる。学校で女の子からバンバン告白されるタイプのカッコよさでありながら、独特の女くささも兼ね備えている。

平手譲演じるヒウラエリカと冷川には思いがけぬ共通点があって、それが物語のキモとなっている。早々にオチバレで言ってしまうと、冷川は少年のころ、ある新興宗教団体の教祖に奉られていた。その霊的能力が神の子として利用されたのだった。
半澤との出会いは、その新興宗教施設での大量惨殺事件でのこと。信者たちが全員、死んでいた。殺し合いだったのか、自殺もいたのか、とにかく、血だらけの、凄惨な現場だった。

ただ一人生き残っていたのが冷川だった。震えていた。あまりの衝撃だったせいか、冷川はきれいにそのことを忘れている。だからこそ半澤は常に気にかけていた。冷川の特殊能力をたびたび事件解決の手助けに使うのは、そんなオカルトを信じているわけじゃなくって、冷川を心配しているからなのだ。
事件直後の冷川が言った、「あなたの信じないという強さを持ち続けてください」という台詞はのちにたびたび持ち出される。冷川は潜在意識下に当時の記憶がやはりあって、信じられ奉られていた自分を呪うばかりに、信じない半澤を信頼していたんだろう。

つまりは半澤は超現実主義者で、霊だのなんだのということを信じてはいないんだけれど、冷川のことは信じている。
矛盾しているようで矛盾していない、この心が今の冷川には届いていない。すべてを計算づくで除霊探偵の仕事を進めている冷川に、半澤ともかかわりながら、三角は疑問と不安を抱くんである。

あ、そうそう、三角はスカウトされるのさ。今の時給の倍出すから、自分の助手になってくれと冷川に言われて。
決定的な殺し文句は二つあった。三角が霊を見る能力があることを恥じていることに対して「自分が見ていることを否定するのですか」そして、「大丈夫、僕といれば怖くなくなりますよ」この二つ、である。
見えている霊がただただ恐ろしいものだと、三角はおびえていた。そして、そんなものが見える自分を否定していた。三角は自分自身を否定していた……抹殺していたも同じこと。死んだように生きていたのだ。生きているのに。

連続バラバラ殺人の遺体の一部が、人間一体分行方不明になっているなんていう、オエーな事件の真相解明から始まる。もうこの時点で三角君は息も絶え絶えである。つぎはぎされた遺体は見つかるが、なぜか腐っていない。ゾゾゾである。
もうこの時点で冷川はこれが呪いのエネルギーをためるための事件、実行犯は操られていただけだと見抜いているのだが、「呪いを立件することは出来ません」「それは僕たちの仕事ではありません」とただただビジネスライク、ついには呪いを生み出して除霊するという詐欺みたいなビジネスをやりだそうとして、純粋ボーイの三角を怒らせ、二人は決裂してしまうんである。

冷川には、心がなかった。それは半澤が指摘するところである。神の子として、教祖として、隔離され、教育さえ受けさせられなかった。「物事の善悪が、だから判らないんだよ」と半澤は言った。
……そうだろうか。あの出来事を心の中に封印することで、判らないふりを、自分でも判らずにしていたんじゃないだろうか。霊が見える、除霊ができる、呪いを解くことだってできる。それは確かに尋常じゃない能力だが……。

またしてもオチバレだけれど、三角がずっとずっと、たった一人の母親にも隠していた霊が見える能力をラストに打ち明けた時、母親はちょっと驚いたけれども全然動揺はしなかった。その理由は、「だって、それは康介がほかの人よりちょっと良く見えるというだけでしょ?」
まるで、ぽろりと目からうろこが落ちるのが見えたようだった。信頼している人は、難なく受け入れる。それだけのこと。冷川にだって半澤というそういう存在がいたのに、「いくら心を砕いても判ってもらえない」と半澤がつぶやいたのは、あの新興宗教の残党が今まさに起こしている、人類全部を滅ぼしかねない陰謀に際して、冷川はいつものように冷たく合理的に、動こうとしないから。半澤の奥さんが巻き込まれてしまったというのに。

エリカは呪いをコントロールする、いわば実行犯。彼女自身が望んでやってることじゃない。政治が絡んで、次々に人が呪い殺される。ほんのチョイ役で殺される中に北川景子がいるというゴーカさである。呪いなんてものは立件できないから、どんなに不自然でも野放しである。
呪い殺すためのエネルギーを貯蔵している場所がある。長年の、計画である。冷川と三角にかぎつかれて、エリカは焦る。かなり最後の方になるまで、彼女は、なんたってそのカリスマ性ばつぐんの風貌だし、もう女王様って感じだったから、彼女こそが陰謀を操ってると思っていたのだが、違った。

彼女と冷川がその能力を利用され、存在を否定されたのが同じ宗教団体であり、呪いのシステムを生み出し、冷川は……忘れてしまうしかないぐらいの、事態を犯してしまった、のだろう。
エリカはずっとずっと、自分を見つけてほしかった。自分がやらされている呪い殺しを、罰してほしかった。だから、呪いをかけた相手に自分の名前をわざわざ刷り込んだ。まさか本当に、見つけてくれる人がいるなんて思わずに。

実行犯ではないから、立件は出来ない。でも殺人者としてのどうしようもない罪悪感を、冷川とエリカは共有している。でも最後まで、二人はそれを、認識し合うことがないのだ。それぞれの問題、ではあるのだけれど……。
ダムのように人の負の思いをため込んだ場所に、一人乗り込む三角。従うエリカ。ずっとクールに構えていた冷川だけれど、何度も何度も、三角から愚直に懐に入られて、なんかそのたびきょとんとしながら、目覚めていくんだよね。ああそれこそ、腐女子の待ち望んでいたもの!!死ぬ気ですか、と冷川の腕の中に抱かれた三角にキャー!!ああやばし!!

この濃厚な負の呪いを解くには、もともとの原因ともいうべき、冷川の過去に向き合う必要があった。殺し合い、自ら命を絶つ、阿鼻叫喚の施設内。それは、神としてここに閉じ込められ、母を母とも呼べない苦しい冷川少年の能力を持って生み出してしまった地獄だった。
なんというトラウマ。三角少年が同級生に信じてもらえなくて一人死なせてしまったのも充分なトラウマだけど、これはあまりにも……。その強大な力が子供の欲求を満たされないことで爆発したというのは、あまりに辛すぎる。大人になった彼が、あの時は子供だったからだと、言い訳するには事件が大きすぎる。

でも、思いは同じだったのだと思う。冷川も三角も。冷川は三角に出会ったとき、運命だと言った。腐女子をコーフンさせるには充分な言葉で、でもそれは、こうして思い返せば、もっともっと、重い言葉だった。
同じ罪を犯した運命の相手。でもそんなつもりはなかった。ただ寂しかった。愛されたかった。それを……三角の母親は受け入れてくれたし、冷川は三角が受け入れた。ああもう、腐女子!爆発!!

しかしてラストのラストは、めっちゃ頑張ったエリカが、腕にビキビキ呪いの血筋が現れるところでカットアウトってゆーのは、どど、どうなの。えーそれは……彼女だけそんな、許されないとか悲しすぎない!!やめてよー……。★★★☆☆


サンチョー
2021年 99分 日本 カラー
監督:倉本美津留 脚本:
撮影:音楽:窪田渡
出演:後藤淳平 福徳秀介

2021/11/22/月 劇場(新宿バルト9)
吉本興業は積極的に映画製作にも乗り出していて、好感の持てるチャレンジな作品も続々誕生しているけれど、これは意表を突かれた。毎度全く情報を入れず飛び込んだから余計に。
これはジャルジャルのファンでなければ来ちゃいけない映画だったんじゃないかと序盤は不安を抱えつつ、なんか後半には笑ってほろりとして、素直に満足してしまった。

つまりジャルジャルのコントなのだ。映画の尺で、彼らの秀逸なコント作品を見せる。見せ切る。だから当然、登場人物はすべて彼ら二人が演じる。
時に三人以上にもなるが、そこは現代の映像編集ではなんなくクリアしてしまう。そういう意味では彼らが舞台の上でさえやれないコントを、映画作品として作り上げてしまったのだ!これは……これは確かに、ちょっと事件かもしれない。

コロナ禍以降は特に、なんかテレビがいとわしくなっちゃって、ホンットに昨今のテレビ事情、お笑いやタレントさんが誰が売れてるのか事情にとんと疎いのだが、ジャルジャルは知っていた。若手芸人を見守る優しきウッチャンが仕切っていた番組「爆笑レッドシアター」の、何組かの若手たちの一組。その中でも当時の印象としては地味というか、それほど押し出しが強いような感じではなかったから、つい最近、キングオブコントで優勝したニュースをラジオで(爆)聞いて、へえーっ、と思ったところだったんであった。
本作に接したのはそれがきっかけという訳でもなかったんだけれど、なんか久しぶりに、それこそレッドシアター以来(てことはもう10年以上になるのか!)に彼らのコントを観て、凄い、これはコントなのか、お芝居じゃないのか、物語じゃないのか、確かに笑っちゃう、笑わせることが前提なのは判ってるけど、なんか人生じゃん、と思っちゃったんである。

時に芸人さんの中からとんでもない演技派役者が産まれたりするのが、本作を見ると、当然の帰結なんだなと思ってしまったりする。
舞台上で自由自在に、年齢、性差さえも超えて、それも繊細さと大胆さの絶妙なライン、ちょっとしたわざとらしさもスパイスに加えてすべての登場人物を演じ分ける二人に驚嘆してしまう。

ちょっとしたわざとらしさ、というのは、彼らの親ぐらいの年齢の教師を演じる時のカツラの感じだったり、コンビの相方が女性なんだけど、そこは男性が女装している、といういかつさを特に隠すこともしないあたりとか。
不自然な自然さ、自然な不自然さ。きっとそれが、舞台でも映像でもない、コントならではのすべてを乗り越えちゃうマジックなんじゃないかって気がする。

タイトルの「サンチョー」が、物語の基調を成している。これは二人とも思いっきりザ・コントの高校生である。
詰襟自体が平成ですら存在してないんじゃないかと思えば、彼ら世代が高校生、というものをちょっとおちょくって、というか、いい意味で記号的に演じているのが面白いと思っちゃう。

詰襟のみならず、彼ら二人はそれぞれ、友達が出来ない運命の二人が出会う、ってな訳なのだが、一方は前髪が顔の半分を隠していて、一方は長髪パーマヘアという、70年代にも微妙だったかも……と思わせるスタイルなんである。
つぶれかけた山岳部に所属するこの二人が、後々山登りのことしか歌わないという、しかし超絶カッコイイバンドでブレイクして大きな舞台に立っている。それがまず冒頭で示され、ラストに帰ってくるという、いっちゃん気持ちいい回収なのだが、まさかその間を二人だけでずっと埋め続けるとは!!

前髪で顔半分を隠した安田(福徳秀介)が、顧問(後藤淳平)に呼び出されて、部員が一人だけなんだから、お前もつまんなそうだし、退部届を出してくれないか、というところから始まる。土日が部活動でつぶされることがいかにもダルそうな顧問の先生は、無口で何を考えているか判らない安田を、登山が好きそうでもないし、という勝手な解釈でそんな提案をしたのだが、安田から泣いて拒否されてうろたえ、部は存続。
安田はさらに運命の出会い、やはり友達が出来ないままだった生徒から声をかけられる。後にスターバンドとしてブレイクする”相方”である。

その相方の姉ちゃんが、その当時はまだ売れないコンビ芸人としてくすぶっていて、解散するしないで延々とコント的問答を繰り広げる。この場面がまず序盤で観客の心をぐっとつかむ。
女性の相方として登場する福徳氏は、顔の骨格がいかついし、特段女性メイクをきっちり化けるようにやっている訳じゃないのだが、だけど、確かにこういう女性もいるな……という絶妙なリアリティのバランスにいて、こういうバランスがすべてのキャラクターにあるんだよね。
普段、リアリティが大事、それがなければならない、という無意識の価値観に縛られていたことに気づかされる。こんな風に、絶妙に“わざとらしい”ことが、逆にリアルな感情やらあらゆることをあぶりだし、そして、くすくす笑わせちゃうという玄人ワザ!!

様々なキャラクターが紡ぎ出されるように、つながれるように現れてくるのだが、私が一番好きだったのは、マジックを修行していると言いつつ、中身を聞くと単なる?超能力であるという、お隣さんである。
レモンの中にある筈のトランプがなかった、お隣さんのレモンの中にあるかもしれない。そして、実際あった、しかしグレープフルーツの中に!!という衝撃の展開。コントとして考えれば、ただただ笑っちゃえばいいんだろうが、映画として対峙しているから、驚く安田の気持ちに素直にシンクロしちゃう。
その時、安田は共同生活していた友人に、一人だけ温泉にゆかりのない名前だからという意味不明の理由で退去を迫られているんである。この超能力マジシャンに温泉にちなんだ名前に変えられないかと懇願して、いろいろ修正した上に、力尽きて彼に与えられたのが、「安田ゲロゲロガエル」!

なんで私、この、自分の超能力に自覚がなくて、あくまでマジシャンの修行に上手く行かないと思い込んでる青年にグッと来ちゃってるのかよく判んないんだけど(爆)。
舞台の台本を練習していた安田がさ、突然の隣人の来訪に戸惑いながらも、まっすぐに純粋なその瞳の美しさに打たれちゃって、実際そういう台詞も口にする。
この超能力者マジシャンは、安田の相方の姉ちゃんのパートナーであることが後に示されるんだけど、彼女もまた、またやったの??と慌てて、すんごく心配して、この純粋培養みたいな彼氏をすごく愛してる感じが伝わってきて。
絶妙なわざとらしいキャラと、絶妙にリアリティがある繊細なキャラと、こういうの、”普通”の映画作品では絶対に出会えないよなあ、と思って。

いっちばん笑っちゃったのは、鏡のない理容室である。客に自分の目を見つめさせ続けて、しまいには、ないだろ、というポーズをとらせて髪を切り、出来上がりは自分の目の中に映る画で確認させるという徹底ぶりである。
これぞコント、荒唐無稽と思わせるのだが、しかし妙に現実味がある。イヤな言い方になっちゃうかもしれんが、いわゆる一般映画、不条理的描写で観客を惹きつけようとして、なんかハズしちゃう、失敗しちゃう、ってなところを、プロはこうですよ!!とばっちり示してくれた感、というか。

確かに全編コントだし、彼らの実力を見せつけられるんだけれど、なんたってタイトルからして山岳部だし、山登りだし。
見た目的にはどー考えても地味なインドアな二人が顧問の先生と三人で山登りをした高校時代の青春。そして安田は高校を卒業してからも、顧問の先生と週一で山登りを続け、ロックスターとなった今でも続け、今の時間軸に戻るのだ。

あれから一体何年、いや、何十年経ったのか。見た目はイケてる金髪ロックスター、でも顔半分を覆った状態で目が見えないのは同じ。
気を許した相手にだけふざけまくって、しつこいぐらいボケかましまくって、イケイケな舞台上で、前日顧問の先生との登山で背中を虫さされて、大事なライブで、盛り上がってるアドリブに見せかけて背中かいかい、って!!

悔しいというか、やっぱりというか、女の子はそこに介在できないのだ。物語上は出てくるよ。そりゃ彼女は欲しいしさ。だけど、上手く行きかけてる女の子より、温泉つながりの名字になるために婿養子を目指してノリの悪い女の子と会ってみたり。
そもそもジャルジャル以外の登場人物がどうしても出ざるを得ない時には後ろ姿、女の子もそうなんだよね。仲の良い男友達といるために、苗字が欲しい女の子も後ろ姿なのか、というのはさすがに、さみしいかなと思ったり。

気づいてみれば、安田だけが役名を最初から最後までハッキリと刻まれていたのか。いや単に私が覚えきれなかっただけだろうけど(爆)。★★★☆☆


トップに戻る