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「て」


2021年鑑賞作品

テイク・イット・イージー
1986年 108分 日本 カラー
監督:大森一樹 脚本:丸山昇一
撮影:水野尾信正 音楽:後藤次利
出演: 吉川晃司 名取裕子 上杉祥三 黒沢年男 寺尾聰 つみきみほ 長門裕之 戸川京子 阿部雅彦 坂井徹 麻生肇 東山美鈴 アン・ルイス 宍戸錠


2021/1/31/日 録画(日本映画専門チャンネル)
いやーもう、本当に今更ながら、当時の吉川晃司のカッコよさ。当時私はローティーンだったからか、全く彼のカッコよさに気づけなった。特にジャニーズファンというわけでもなかったけれど、いわゆるジャニーズアイドルの人気の中に彼がぽつんと一人いるのが不思議なだけだった。
当時もしハイティーンで、たのきん映画じゃなくてこの民川裕司シリーズを観ていたらどうだっただろう。私は一気に恋に落ちちまったんじゃないか。二十歳の吉川晃司のカッコよさとミステリアスさとセクシーさと猪突猛進の若さ、少年のような純粋さをごちゃまぜにした魅力はすさまじすぎる。

スター映画だから、多少荒唐無稽だったり、ファンタジックだったりしてもちっとも構わないのだ。初めての民川裕司映画体験だった「ユー★ガッタ★チャンス」はスター民川裕司のままの、民川裕司から逃れられない作品だったが、本作は遠く北海道の果てで、まるで違う国のような世界を構築している中に放り込まれるうえに、そこで激しい恋にまで落ちてしまうのだから、民川裕司は一人の男になる、といった印象である。
その相手がおおお、名取裕子!めっちゃキレイ!めっちゃ歌上手い!彼女に天才的ジャズピアニスト&シンガーという役柄が振られているというのが意外だがメチャカッコイイ!思えば若いころの名取裕子って、あんまり観る機会がなかったかもしれない。

物語の冒頭は、ヤハリカッコイイ彼のステージングから始まる。折々挿入されるが、野外ステージに何千、何万もの観客を集めてのパフォーマンスは圧巻の一言で、“ジャパンツアーに成功した後、ニューヨーク公演に打って出る”という物語設定もあながち荒唐無稽じゃない気がしてくる。
むしろ今なら、より現実的だろう。インターネットによって世界が狭くなり、違う国、違う文化でも実力と個性があればあっという間に垣根を越えていける。
でも当時は。そしてその“打って出る”先は必ずアメリカであり、その巨大な国、アメリカの傲岸不遜な価値観で、“まだ世界に打って出られる実力はない”と判断されてしまう。つまり、アメリカが世界なんである。そういう時代。

その知らせをもらって裕司はクサる。そのそばに不思議な少女がいる。これがデビューだというつみきみほである。役名もつみき。少年のような風貌と独特の声は彼女が今も持ち続ける唯一無二の魅力。
つみきは裕司に不思議なことばかり言う。それは予言のようなものであり、まるで子供のウソのように聞こえるのに、当たっちゃうんである。

「部屋に帰れば電話がかかってくる。出ちゃだめだよ。爆発するから。」そんな訳ないと、観客も裕司も当然思う。本当に部屋に入ったとたんに電話が鳴る。出る。爆発なんてする訳がない。
その電話は先述のニューヨーク公演中止の知らせであり、ちょうど届いたニューヨークの彼女からの荷物を開けながら裕司は話をしている。その小包は愛の贈り物じゃなくて、バン!とビックリ箱的に“爆発”して、「サヨナラ」と書かれていたんである。

ニューヨーク公演のためにスケジュールをあけていたから、ヒマができてしまう。裕司は旅に出ることにする。つみきが北にはいかないでね、と言う。つみきは自由な絵の才能を持つ女の子で、しかし学校の教室から壁からところかまわず塗りたくるものだから、画一的な日本の教育事情からは浮いてしまっている。
彼女がアパートの屋上の床に描いた絵は、裕司の未来を現していた。「北にはいかないでね。死んじゃうから。」サイドカーに乗った裕司が事故に遭い、死んでしまう絵。そのそばにたたずむ少女はつみきのように見えたが、「わかんない」と彼女は言う。

つみきのようで、つみきじゃない。二役なんである。名取裕子扮する氷室麻弓に心酔している女の子、かえで。つみきもそうだが、たった一人、幼い女の子がここにいることに何の説明もない。ただ孤独で、ひどく大人びているのにひどく幼いという点が共通している女の子だ。
裕司が流れ着いたのは北の町。つみきの言うことを聞かなかった。そしてどういうツテかもわからない、ここだけの登場の宍戸錠からサイドカーを調達されて旅に出た。
一人旅なのになぜサイドカーなのか。サイドカーに荷物を載せてはいたけど、裕司はつみきの予言を重視していない、というか、今までだってほんの偶然、子供が言ったに過ぎないことと思っていたのか。

つみきは裕司にホレていたんだろうし、かえでは麻弓にホレていたんだろうと思う。そういう図式だと思う。
麻弓、地元ではマキュウを呼ばれるスター歌手。全国的スターである裕司が現れても地元の彼らは見向きもしないどころか、邪魔な奴だ、出ていけ!と怒鳴る。
ただ、最初の出会いから麻弓は彼を意識していた。一目見たら判る筈の彼に誰も気づかないのに、彼女だけは気づいてライブを中断して、「モニカ」をつま弾いた。それは彼女が、表面上はこの縛られた世界に従属しているように見えて、羽ばたきたいと願っている何よりの証拠だった。

それが、東京、そしてニューヨークに出ること、という図式は確かに当時の単純なそれであり、今はどこにいたって、どんな地方や田舎にいたって発信できる時代になったけど、当時はそうじゃなかった。才能があるなら東京に出て、そして世界(という名のアメリカ)に出るというのが定石だった。
麻弓にも東京から数々のスカウトが来たのを、この土地の有力者である青井が断ったと聞いて、裕司は憤る。この才能はここに埋もれているべきではないのにと。

青井を演じるのは黒沢年男。いやー……ザ・黒沢年男である。“三十路になっても見境ない”と言われるワンマンだが、三十路か!!五十ぐらいの存在感だわ!!あんな黄色い色眼鏡が似合っちゃうのはなかなかないわ!!
彼はなんつーか、暴力団の親分って感じ、ともちょっと違うのか……とにかくこの北の小さな街を一つの帝国にして仕切っている。

舞台となっているのが函館だというのは判るんだけど、でも函館じゃない。異世界。夜の街になるとさらに異世界感が増す。麻弓のライブがあるとそのライブ会場以外の街が死んだようになる。
それだけのスターだから、裕司にも見向きもしない。青井の信条は、今いる世界でベストを尽くすべきだ。外の世界に打って出ようなんて自惚れを持たないことだと言う。

当然裕司は、そんなことは自由を奪い縛り付けることだと反発するし、青井の下で働く若者たちは、確かに洗脳されているんだろうとは思う。この当時、今のように今いる場所から世界につながれるなんてことが、想像もできなかった時代なのだと考えると、感慨深いものを感じる。
今の時代から見れば、青井の言うことはそこから世界につながっていくものなのだ。でも当時は、井の中の蛙だということを判ったうえでそこに居続けることに他ならない。

裕司がこの地に来てずっと世話になっている牧場の青年、仲根がいるのだが、彼はボクサーで、何連勝もして満を持してランカーに挑戦して、ボッコボコに敗れた。そして帰ってきたけれど、復帰を考えていると裕司に語った。牧場経営をしているのは、ボクシングをするだけじゃなく、あらゆる経験が必要だと思ったからだと彼は語り、それは本当にそう!!と思う。
裕司はこれまでスターだけをやってきて、夢を追いかけてる筈が夢に追いかけられていたのかもしれないと思い至ったのは、この地に来てそんな人々に出会ったからだったのだった。

麻弓もシンガーとしての顔だけでもパンクなライブ、オールドファッションなジャズ、とバリエーションがあって、ガラス工芸職人としての顔、母親の違う幼いきょうだい達の面倒を見る母親のような顔と、人間としての重層的な存在を見せていた。
一見して、青井の束縛の中に閉じ込められているように見えて、確かに青井はそのつもりなのだろうし、支配しているつもりで彼は絶対的孤独にいるのだろうが、少なくとも仲根と麻弓はそうじゃない。

仲根が夢破れて戻ってきたことを、青井はそれみたことかと、連勝したのはかませ犬をあてがわれたからだと、そうやってジムは商売を成り立たせているんだと、仲根で充分元が取れたから放り出したんだと、したり顔で言う。
それは本当なのかもしれない。去年の衝撃作品、「アンダードッグ」で初めてかませ犬ボクサーという存在を知った。スポーツというより興行、エンタテインメントであるボクシングという世界は、かませ犬というのが当然に存在していたのだ、ずっと昔から。仲根がそのことを知ってか知らずか、いやきっともう判っているのだろう。それでももう一度と思う彼を誰が止められるのか。

なんかいろいろ深堀りしだすと深いのだが、基本的にはスターエンタテインメント。驚くのは吉川氏に課せられた壮絶なアクションである。ところどころ遠目でスタント使ってると思うところもあるけど、結構顔が見えるように長い尺でワンショットで撮ってトンでもないことやらせてる。
この地から去らない駄々っ子のような裕司に怒った青井が、子分たちに命じてトンでもない断崖絶壁の山の上に置き去りにし、そこから決死の思いで下山していくシークエンスを筆頭に、麻弓を追いかけるのにバスの窓から飛び込んだり、川の流れに流されてった先からはるか下への水面に華麗に飛び込んだり、陸橋にぶら下がった状態から這い上がって列車に飛び込んだり、そんな馬鹿な!!というアクションを顔見せで披露するのには、ささ、さすが吉川晃司の身体能力……とアゼンとするしかないんである。

最後には、頭に血が上った青井が子分を引き連れて、裕司、仲根、麻弓を相手にしての銃撃戦となる。おいおいおい、ここは日本だぞと言いたくなるが、もうここまでで、青井帝国の中での物語になってるから、まあいいかと思いかけたところで……警官登場!!寺尾聡!!いや確かに警官だとは言ってたけど!!
警官やりながら片手間にバーのバーテンやってるんだという、この異世界ならではの現実感のなさで、そして寺尾聡がまたその雰囲気たっぷりだったから、そんな台詞、スルーしてたわ!!
彼の奥さんがレコードを一枚だけ出していた歌手で、いよいよその夢を断念して帰ってくる、と登場するが、めっちゃキュートなアン・ルイス!!なんとゆーゴーカな顔ぶれ!!

で、寺尾氏演じる警官がこの場をおさめ、めでたしめでたしで裕司は麻弓とともにニューヨークへ……となる筈が、そうならないの。かえでの思いつめた姿に、麻弓はこの地にとどまる決断をしちゃう。
まーじーでー。そりゃないよ!だってそれって、女に結局その決断をさせちゃうって、男に行かせてその決断をしちゃうって、やっぱりやっぱり男と女で夢を追えるか追えないか、みたいなことを言ってる気がしちゃうじゃない!!

その埋め合わせなのか、つみきが予言したように裕司が死んでしまうのにはアゼンとしたが、それはつみきとうり二つのかえでが細工したバイクによる事故であり、しかして裕司は宇宙人に助けられる!?何それ!!
いやその……私のだーいすきな長門裕之が麻弓の父親役で登場し、なんかファンタスティックなお父ちゃんでUFOを呼ぶための装置を作ってて、今までも遭遇したことがあると言ったりして。

女房、恋人に逃げられて麻弓以下、子供たちとともに不思議にのんびりとした暮らしをしている、なんかそこだけ妙に幸福なシークエンスがあって、これなんだろうなあ、と思っていたら、そんなオチに!?
そしてそっから、ニューヨークで闊歩しているのは民川裕司ではなく、「コージ・キッカワ」なのだ!!見事な夢と現実の融合。ああスター映画だわ、やっぱり!!★★★★☆


天外者
2020年 1.09分 日本 カラー
監督: 田中光敏 脚本:小松江里子
撮影:山本浩太郎 音楽:大谷幸
出演: 三浦春馬 三浦翔平 西川貴教 森永悠希 森川葵 迫田孝也 宅間孝行 丸山智己 徳重聡 榎木孝明 筒井真理子 内田朝陽 八木優希 ロバート・アンダーソン かたせ梨乃 蓮佛美沙子 生瀬勝久

2021/1/10/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
なんでなんで、こんな素晴らしい役に出会えて、堂々主演で、絶対に手ごたえがあった筈なのに、なんでなんで春馬君は死んでしまったの。それはその歌とダンスに震えた新曲発売直前だったあの時にも思ったけれど、なんでなんで、と。
でも……ある種残酷なことだが、作品は作品なのだ。役者の実人生とは切り分けて考えられるべき。今はそれがとても難しく辛い。特に、予告編でもその最後に心に深く刻まれるように印象的に示された、あの穏やかな笑顔で終わるもんだから……。

春馬君主演でなかったら。あるいは春馬君があんな形で突然死んでなかったら。正直私は本作に足を運ぶのは躊躇したかもしれない。
オムニバスと同じぐらい苦手な歴史もの。学生時代、歴史の時間はぐうぐう寝ていた私にとって、エンタメの世界でも大人気な坂本龍馬や新撰組さえも、うーむ……と避けてしまうぐらいのものなのだ。

その坂本龍馬と親友だったというのが、春馬君演じる本作の主人公、五代友厚(若き日は才助)。知らない知らない、知−らない!初めて聞く名前!!……と言ってしまうのはハジにならないか。いやでも、本作が作られた理由がまさにそここそにあり、“歴史に埋もれてた”のが再評価される昨今だというんだから、ハジにはならないよね!!(汗)。
それこそ歴史に関しては旧式日本的暗記システムでなんとか試験も乗り越えてきたから(とーぜん、受験では科目選択せず!)、その一人一人のことをなーんにも知らないなあ、というのは、大人になって、様々な形で歴史上の人物なり、文学者なりに触れてきて痛切に感じること。これを若い時に触れていれば……とも思うが、いつ出会ったって、いつ触れたって、その時の出会いが大切なこと。

だから、知られざるひと、あるいは知る人ぞ知る人に臆する必要はないのだっ。それはまるで朝ドラのよう。ああほんと、朝ドラのよう!!こないだの「エール」の古関裕而なんて地元で近すぎてそのすごさを判ってなくて、朝ドラに接してそのすごさを初めて知ったぐらいでびっくらこいていた無知さだったんだもの。
五代友厚もそんな風に興味深く私の心を浸していった。坂本龍馬のことは誰もが知るのに、そして伊藤博文のことも誰もが知るのに、その二人と親友同士だった五代友厚という人物のことは、それこそ福島における古関裕而みたいに地元では旧知の人なのかもしれないが、きっと全国的には知られてないに違いない(多分……私だけではないと思いたい)。

そこにもう一人いっちょかみの岩崎弥太郎も何となく聞いたことがあるような気はするが……という感じでピンとこないが、三菱財閥を築いた、と聞けばああ!!と思うような人物で、その感覚は、坂本龍馬や伊藤博文といった、確実に歴史(の教科書、そして試験)に名を刻む人と少し離れるというか。それは何故だろうと考えると……公的な人物じゃないからなんだよね。
誰がどう国を支配したり、整備したりするか、という側に坂本龍馬と伊藤博文は違う立場として関わって、片方は非業の死を遂げもしたのだけれど、友厚も弥太郎もそこからはハズれている。

つまり商人。しかも舞台は大阪とくれば、ああなるほど!!と思う。友厚はその商人の基盤を作った人である。
この激動の時代に日本で武器商人としてならしていたあのグラバー(試験のために名前だけは知ってる……)と堂々渡り合ってスポンサーにつかせ、海の向こうに単身わたって蒸気船を買い付けた、頭も良く語学もならし行動力のハンパない人物だったんである!!

!!!!である。こーゆー人こそ、歴史(の教科書や試験)に名を残すべきだと思う。かっこ書きで書くのは、歴史の時間にぐうぐう寝ていた後ろめたさであるが……でも本当にそう思う。
お国の決め事やら、他国とのいざこざやらが遠く現実味がなく、何やってんのと思うことが常々である時に、国を、世界を、動かしているのは経済であり、古い言葉で言えば商人、あきんどだと思ってきたし。
国民、という言いかたさえ固い、たみが働いて生活(固い言い方をすれば経済活動)を回していけば、政府という名のおかみなんかなくっても、国は、人間は、回って行けると常々思ってきたから。それこそが、真の人間の生活だと思ってきたから。

でもその中でもやはり、トップは必要なのだ。こうなると政府のトップは必要ないような気がしてきちゃう(爆)。ワレワレが必要とするのは、まさにこの五代氏のような、素手で世の中をひっかきまわすような素肌感覚を持つ人なんじゃないかと思う。
友厚はもともと武士の家柄。まあそういうそれなりに学べる立場にあったからこそどんどん挑戦してこれたんだろうが、しかし実家からは勘当同然である。実家どころか、同じ武士仲間からは裏切り者扱いされ、扱いされるだけでなく、裏切り者はぶっ殺す!!と常に命を狙われてる。

それをどこかコミカルに、おっかけっこアクションで龍馬と共に逃げ惑う描写で冒頭華やかに目を引くものの、これは笑い事じゃなくマジだということを、くりかえし、次第に深刻度を増して描いてくる。
そう、実家では……お兄ちゃんはもう来るな!!と吠えたてる。お母さんは慈悲深くお前の思うとおりにして、日本の未来を見せてくれ、という。お父さんは……どうだったのかなあ。その死にめに会えなかった。その時にお兄ちゃんから、もう金輪際敷居をまたぐな、と言い渡されたのだ。

まさにこの時、友厚が来ていることを聞きつけた、まあつまり今でいえば右翼とゆーか、天皇バンザイな奴らだろうなあ、殺気バリバリで取り囲む。
友厚はこーゆー奴らにもうウンザリしている。天皇さまさまを神格化して、世界は広い、広すぎるほどに広いのに、そのことが見えていない。それは、友厚ほどの度量を持つ青年に対してさえ、グラバーが「井の中の蛙」だと笑ったほどに、当時の日本人たちは海の向こうの世界があることさえ判っていなかったのだ。

こう書いてみて、思う。ならば今の日本人がそれを判っているのかと。ネットで世界中とつながり、世界中の情報を得ていると思い込んでいるけれど、それがバーチャルであるという意味では、当時とさほど変わらないんじゃないか。海の向こうの世界があることは、漠然と知っていた程度の当時とそれほど変わらないんじゃないのか。

友厚の才能が見出されたのは、そもそも父親に託された地球儀を作る仕事だった。地球という概念すら、ほぼなかったであろう当時、父親が頭を抱えたのは当然だった。それをうっすらとそばで聞いていた友厚が、提灯型に張り付けた地球儀を作った。
特にその過程は示されなかったけど、メルカトル図法から巧みに縮尺を計算して自分で描きなおして作ったんだろう。なんたってこの偉大な人物の一代記を一本の映画にするんだからあちこち尺を縮めまくるんだけど、ここはちょこっと、その苦労を見せてほしかった気はする。だって、友厚が世界というものを、地球規模で理解した瞬間だったに違いないんだから。

友厚は、一人の遊女と懇意になる。しかしてそれは、いわゆる性愛ではない。ホントにそうだったのかどうかは判らんが、見た目にはプラトニックラブ。友厚は遊んでいる描写も一切ないし、童貞だったんちゃう??と思っちゃうぐらいの男なのだが、彼が彼女に惹かれたのは、遊女でも学びたい。夢を見たい、と仲間たちに字を教え、それをからかわれたことに食って掛かったところに遭遇したからだった。
まさにそれは友厚の考える理想の世界だったから。義務教育とか、男女平等とか、今では当たり前になりすぎて、それがどれだけ尊いことか、逆に判らなくなっちゃってる。でも昭和世代のワレワレにすれば、男女平等とわざわざ言わなければならないぐらい、実はその当たり前がつい最近の出来事であり、ジェンダーという意識さえ存在しなかったのだから今思うとボーゼンとしてしまう。

この遊女は友厚が敵国の艦隊につかまり、いわば国の情報を流す形で、最悪の事態をまぬがれたのだが、そんな事情は分かろうはずもなく裏切り者として幽閉されているのを、その敵国の、実力者に、身を売る形で友厚を解放させた。
それをのちに知った友厚は、本当に打ちのめされる。女が売るものは身しかないのだと、彼の甘さを女郎屋の女将に冷たく指摘された時、決してそんなことはないんだけれども、自分が単なる理想論者だったのではないかと、彼の底力が本当に試されるきっかけになった出来事だったんじゃないかと思うのだ。
しかもその後再会を果たした彼女はすでに余命いくばくもなかった。海が見たいという彼女を友厚は背負って連れ出した。その背中で彼女は息を引き取った。何も、何も彼女に恩返しができずに……。

一度は政府役人となるものの、お上にいては世の中を変えられないと思った友厚は、民に下る。昨今良く言われる天下りなんかじゃない。民に下ることで名誉も失うし、それどころかその抜本改革はいつだって民から反発を食らうし、私財を投げ打つから最後は借金しか残らなかったのだ。
だからこそ、名が残らず、だからこそ世は変わった。裏切り者、憎まれ役、それを背負って、私財をなげうって。その死には誰一人参列しない、と思われたのが……。

まず伊藤博文が来て、子供たちの叫び声で妻(おっと、言い忘れてた。蓮佛美沙子嬢扮する、理解ある奥様だ)が外に出てみると、……最初は数十人ぐらいかと思った。それでもビックリしたのに、カメラが次第に上空に上がっていく。夜道が、市街地へと、延々と、永遠かと思われるほど続く、提灯のその、無数の行列!!
おいおい、これはいくらなんでも大げさな描写じゃねーかと一瞬思ったが、市民の参列が何千人、大阪の街の機能が止まった、とわざわざ付されるというのはつまりそれが事実として語り継がれているということ、なのか!!

本当に、最後の、穏やかなほほえみを浮かべる、その洋装がりりしく美しい友厚=春馬君の笑顔が忘れられない。友厚と違って、彼の素晴らしさは誰もが知るところだったのに。なぜ……。★★★☆☆


天使のいる図書館
2017年 108分 日本 カラー
監督: ウエダアツシ 脚本:狗飼恭子
撮影: 松井宏樹 音楽:佐藤和生
出演: 小芝風花 横浜流星 森永悠希 小牧芽美 飯島順子 吉川莉早 籠谷さくら 松田岳 美智子 内場勝則 森本レオ 香川京子

2021/1/20/水 録画(日本映画専門チャンネル)
結局この図書館に天使がいるとか、そんな布石はまるでないし、天使のいる図書館というイマジネーションはヒロインのさくらの弟がもたらすヴェンダースの「ベルリン天使の詩」からきているのに過ぎないのだが、物語の始めと終わりに、いかにも天使の羽、といった白く大きな羽毛がひらひらと舞い降りてくるのは、一体何を示しているのかなあ、と思ったり。
舞台は奈良だし、さくらの実家は神社だし、議論されるのは神様の存在の証明、それも天使を従える西欧の神様の感じではまったく語られない、日本古来の、八百万の神について最終的に父親との深い話になるんだから、天使のモティーフいるかなあ……とどうしても気になってしまう。

だってお話自体、天使なんて全然関係ないんだもの。言ってしまえば初恋の人に人生の最後に会いたいという話。めちゃくちゃドセンチメンタルな話。さくらの言葉を借りれば、私の主観的な好みで言えばあんまり好きじゃない話。
年を取って、結婚した夫はだいぶ前に亡くなっていて、つまりその前、いわば“本当に好きだった人”に死ぬ前に会いたいと、つまり死期が迫っているのを知って会いに来るだなんて。

……んん?こうして書いてみると、私は何が気に入らないのだろう。別にいいじゃんと思う一方で、彼女が家族をなし、今は孫もいる、亡くなった夫のことを一言も口にしない、まるで存在さえしなかったかのように、ただただ、好きだった人に会いたい一心でここにきているのが……ごめんね、こういうことを言うべきじゃないんだけれど、いい年して気持ち悪い、と思っちゃうのが本音で……。
いや私だってそういう相手がいて、死期が迫ったら、そんな気持ちになって会いに行きたいと思うのかもしれない。そうだ、きっと、私がそうだったらと思うからゾゾっとしてしまうのだ。

香川京子サマのような美しい老婦人ならば、なるほど成立しちゃう。そしてなんたってお相手が森本レオ氏だったりするんだから、教え子と生徒の、手も握らなかったプラトニックラブは画になるのだ。
でも、……私はヤだったなあ。確かにさ、日本という国はたぶん今だに、結婚は別、みたいな、生活のための手段、みたいな、そういうものさしが存在する。この老婦人、礼子さんにとって、心から好きだった相手と別れたのは、その相手がその手段になりえなかったという切り捨てであり、結婚した夫はその手段なりえたということだったのだろう。

残酷だったのはつまり双方の男に対してであって、今、礼子さんが「あの人には憎まれても仕方ない」とか殊勝めいて言うのが、ええ……ならばダンナに対してはどうなの。心に好きな人のことをずっと思い続けて、人生の最後に会いたいと願うのは、まあそりゃ死んだ人には会えないけど、でもダンナのことは一言も言わないのが、どうしても気になってしまって……。
だって、孫が登場するじゃない。おばあちゃんが実は余命いくばくもない、と明かすためにだけ現れるような(爆)孫が。早くに死んだじいちゃんとの間の一粒種が彼の父親で、突然故郷に帰りたいと、家族のもとを離れて一人暮らしの部屋まで借りたおばあちゃんのことを心配した息子が、そのまた息子に、様子を見るように言いつけてきたのが、今を時めく横浜流星君演じる田村カフカとあだ名されている孫息子。

でまあ……気になることを一気にばーっと言っちゃったもんだから、基本情報が全然……すみません。さくらはヒロインだけど、そういう意味では狂言回しというか語り部側というか、真の主人公はヤハリ礼子さんだったのではないかと思う。
さくらは図書館の新米司書。ものすごく立派できれいな図書館で、途中さくらが説明するスタッフ数の多さにもビックリ。地方都市の中でもかなりのどかなところで、俯瞰でとらえる画でもおっきな図書館の周りは田んぼだの畑だの、みたいな、なんかそれだけで異次元というか、めちゃくちゃ不思議な感覚がする。ガラス張りがキラキラしてるような図書館なんだもの。

そんなステキなハコを舞台にするならば、それこそそこにホントに天使がいるかも??みたいな展開だったらそれはステキだったかもしれないが……先述のように皆無なので……。
で、さくらのキャラクターがかなり独特である。合理的、というよりはなにか……ロボットみたい。知識欲が凄くて、司書だけど好きな本は地図帳、辞書、図鑑。まあ確かに本には違いないが……。

小説はしょせん、人の主観で書かれているだけ。何が面白いのか理解に苦しむ、というスタンス。自分の中に蓄積されている知識を取り出すときには、まさにロボットのようにセンテンスを区切って、無機質にせりふを繰り出す。
風花嬢の可愛さで乗り切れるものの、だんだんと食傷気味になってくる。主観だけで書かれている小説への嫌悪感っていうのは、判らなくはないだけに、それをこんなロボットキャラにして、そりゃロボットならわかんないよねみたいに観客に感じさせちゃったら、共感する隙がなくなっちゃう。

まあ、隙はあるさ。逆にこんなコチコチだから、隙だらけともいえる。でも周囲が優しすぎるかなあ……という気もしてる。
さくらを指導する図書館のベテラン司書女史は、すべてを合理的に処理するさくらに、利用者が求めていることをくみ取ることが司書の仕事だとかなり強めに叱りモードで言い含めるのだが、さくらにはなかなか届かない。

困ったことに、反抗してるわけでも、反省してないわけでもなく、向学心旺盛で、言われた失態を直すのだ!!という気合は十分なのだが、根本的なことが判ってない。
そしてそれはやっぱり……実際的な経験を経なければ判らないことなのだ。それを、まあ……結果的には礼子さんが教えてくれたわけで。

礼子さんはさ、本当はさっさと、この図書館に勤めている筈(そこまでは突き止めていたんだろう)の田中さんに会いたかったんだろう。現れるのをただただ待ってた。
それをさくらが不審に思ってしまう。もう2時間8分もあの椅子に座ったきりだと。それを先輩司書女史は、いろんな理由で図書館に来るのよ、と諭したが、合理的女子のさくらには判らない。

いや……さくらは合理的という武装の中に、自分を閉じ込めていたのかな。大好きなおばあちゃんの死が彼女にとっての転換点であっただろうことは、作中で意味ありげに何度か触れられる。
でもそのおばあちゃんとどんな時を過ごしたかとか、どんな関係だったとか描かれないので、正直観客側には表面的データでしか入ってこないウラミがある。礼子さんに対しておばあちゃんを思い出す気持ちは当然あっただろうが、そもそも観客側にさくらのおばあちゃん像がイメージできないので、なんかピンとこないままなんだよなあ。

さくらの、司書という仕事に対する未熟さも、ベテラン司書さんに指導され、叱責され、さくらなりに学び、奮闘はするんだけれど、なんか一転突破できていないというか……。
まあ、これからじゃん、みたいなことなのかもしれんが、正直新人の彼女の頭の固さに対して、甘いよな、と思う。叱責する場面はあるけれど、なぜ叱責されているのかさくらには届いていないし、ぽかんとして、全く違う方向に進んじゃってるし。
しかもこの、ヘンな女の子であるさくらに対して、ヘンだよね、ズレてるよねと言いながらめっちゃ優しい。優しすぎる。フツーの社会、世間なら、めんどくさい子としてシカトされたっておかしくないところよ。

さくらを変えたのは田中さんだった。つまり……彼だけは、さくらに対して事なかれ主義でいた。他の女性スタッフが、このヘンテコでポンコツな女の子を心配し、関わろう関わろうとしていたが、この田中さんは、まるで厭世人。争いごとを好まず、まあまあと割っては入るけれど、それ以上がない。

田中さんは、あの恋愛未満が壊れてから、ずっと独り身だったということなのだろうか。一人、居酒屋でほかの客の家族の楽しそうな様子を聞きながら、思い出の小説を手すさびに酒を傾けるシーンがある。それ以外にも、彼に家族がいる描写は、ないのだ。うっわうわ、こわ、キショッ!いや、独女の私が言うことじゃないけど!!
彼女の方は結婚して子供を得て孫もいて、なのに。でも彼女もダンナのことは言わなかったし、彼も家族を得ないままここまで来たとしたら……うっわ、どうなの、これは……。
私はこーゆー、あの青春のあの愛こそが永遠だったとかいうの、それこそ“主観的”に好きじゃないなあ……。だってそれは甘やかな記憶だけで人生じゃないんだもの。

さくらがその知識欲のもとに、地元のデータは完ぺきに入ってる。それゆえに、本当は田中に会いたくてこの地に帰ってきたのに、思い出の写真を出されるごとに見事にその場所を言い当てて案内するのがメインの展開。
一度だけ判らない場所にひいひい言いながら探し当てたり、奈良中の神社仏閣めぐりであり、これは地元が協力しますよなあ、と思わせる。地元紹介プログラムみたいに見えちゃう。
ひとつ言いたいのは、図書館司書の資格は学校で得られても、就職先はホントないですよ!!人気の資格だが、これほど求人がないものはないのだ……そこんとこは、言っておきたいさ!★★☆☆☆


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