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「つ」


2021年鑑賞作品

ツナガレラジオ〜僕らの雨降Days〜
2021年 86 分 日本 カラー
監督:川野浩司 脚本:藤咲淳一
撮影:福本淳 音楽:成田旬
出演:西銘駿 飯島寛騎 阿久津仁愛 井阪郁巳 橋本祥平 深澤大河 ゆうたろう 板垣李光人 立石俊樹 醍醐虎汰朗 田中真弓 イッセー尾形


2021/2/17/水 劇場(新宿ピカデリー)
まるでテニプリか特撮モノのように、まだまだ有名とはいいがたい若手イケメンをズラリと揃えているからどういう成り立ちの映画かしらんと思ったら、なるほど、そもそも彼ら自体がインターネットラジオで共に番組をしているパーソナリティーとしてのお仲間さんで、そこから生じた企画というのは実に納得。
ちょっと芝居的にはハラハラするところもあるし(爆)、まるで部活めいたノリの始まり方にちょっとこれはハズしたかな……とも思ったが、最後には結構、泣かされてしまった(爆爆)。

確かに芝居的にはちょっととも思ったが(再三失礼……)なんかイヤミがないというか、芝居に対する一生懸命さが伝わってくるというか(なんか言えば言うほど失礼になる気がするが……)ヨシヨシ、というお母さん的目線で見てしまううちに、息子たちの成長に泣かされるというか(爆)。

そういう意味では、お母さんどころか彼らにしてみればおじいちゃん、おばあちゃん的なベテラン、イッセー尾形氏、田中真弓氏がこの布陣に対しては超豪華なキャスティングなのだけれど、この二人、特にイッセー尾形の説得力が何より大きかったんだなあ。
彼は芝居でござい、というタイプの役者さんじゃない、喜劇の舞台人、しかも一匹狼というひょうひょうさが、この若い役者たちを自由に泳がせるだけのしめつけのなさというか、頼もしいんだけど、遠くでゆるーく見ているというか、なんかそういう相関関係がいい化学変化をもたらしたように思うんだよなあ。 かつてのラジオっ子が、このコロナ禍も一つのきっかけになって、絶賛ただいまラジオっ子に戻ってきた私としては、ラジオが題材と聞いては足を運ばずにはいられないんである。

しかしていまやマルチメディアの時代、SNSとの連動、動画配信との連携、声だけをリアルタイムで聞く世相ではなくなっている。そこに落とし穴があるのだということを重要点にした、つまり、ラジオとはそもそもなんぞや、なぜテレビでも動画配信でもなくラジオでなくてはいけないのか、という原点に立ち戻ることこそを物語の大転換点、クライマックスにきちんと示してくれた。
そのことに、私はめっちゃ泣いちゃったし、嬉しかったし、彼らのファン層である若い人たちに、ラジオの良さ楽しさを知ってもらえるのなら、こんな幸せなことはないと思ったぐらいで。

かつて父親が友人と立ち上げたコミュニティFMラジオ。それが立ち行かなくなり、友人関係も破綻し、スタジオを構えていた、父親の豆腐料理屋も倒産してしまった。その父親の息子、今その場所をカフェとして経営しているニガリがあふりラジオの発起人。雨降、と書いてあふりと読む、坂と石段の多いこの小さな田舎町に、様々な得意分野を持った若い男子が集うんである。
主人公となるのは、構成作家として参加する、元劇団員のアクト。劇団の演出家にウケを狙っているだけ、いいところじゃなく、悪いところを隠そうとしているだけ、逃げるだけ、と言われ、実際逃げて、今ここにいる、という状況。もう最初から、彼の心が折れた時に物語が大きく展開することが予感されるんである。

ここ地元の観光協会のホープとして、あふりラジオこそがこのしょぼくれた観光地の起爆剤になると鼻息荒いプロデューサー担当のジム、私の心を射抜いた、双子コーデの超絶可愛いディジェとセルガは人気ユーチューバーで、この企画に引き抜かれてきている。
ほかに人気料理ブロガー、クッパは当然料理担当、元塾講師のコーシはディレクター、この年でニューミュージック大好きのミキサー担当ミュート、神社仏閣大好きなマクロは撮影担当、ガクトばりのメイク男子なのに単なる雑用&ドライバーのバントー、以上10人があふりラジオのメンバー。

ああ、書くだけで疲れたし、正直観ている間には、あれ、この子ってなんの担当だっけ……と判んなくなっちゃうし、まあそれは年のせいとも思われるが(爆)、結局はみんなでトラブルに対処していくしかなくなるから、何の部署だっけというのがどんどんあいまいになっていくのは仕方のないところなのかなあ。

その中でも、その人気と才能を見込まれていわばゲストとして迎え入れられたディジェとセルガだから、彼らからその破綻がくるのはまあそりゃあ、当然だったかもしれない。
人気ユーチューバーの彼らが、インターネットラジオということとはいえ、まずは映像配信ありき、ということに、古きラジオっ子の私も、思わず首をひねったもんね。

彼らのファンの若い女の子たちがキャーキャー押し寄せてきて、そんな観光客が来たことがなかったから役所の担当者は目を白黒させる。それを、ジムは自信たっぷりに、こうやってどんどん、ここには来ないタイプの観光客が来て、この地は潤っていきますよ、とプレゼンする。
そうかもしれない、けれども……ラジオの何たるかで胸のもやもやが消し去れない古きラジオっ子の私が感じた割り切れなさというか、イヤな予感は、見事に当たってしまうんである。

かつて、ニガリの父親とともにラジオ局を立ち上げた、豆腐職人の伊勢さん(イッセー尾形)。彼は早々とアクトに忠告していた。同じ轍を踏むなと。それはつまり、同じ轍を踏む予感マンマンなことを察知していたから。
自分たちのやる気だけでつんのめっていて、楽しい予感に目くらましされて、インターネットで世界とつながっていることで、うぬぼれた。カン違いした。
なぜここから発信しているのか、なぜあふりラジオなのか。どこから発信してもいいような、人気取りの企画は、万人受けを狙うことで凡庸と化し、コメント欄は荒れ、何より……地元の人たちの心証を悪くした。カネを落としもしない物見遊山が、ゴミや落書きをまき散らしていくだけだと。

“カネを落としもしない”というあたりに本音が垣間見えるあたりがシンラツだけれども、彼ら若者たちがそこまで解決できる訳では正直、ない。そこんところに明確に糾弾しなかったことはちょっと弱かったかなとは思う。
けれど、アクトが、主人公なのに弱虫すぎる彼が、逃げに逃げ、仲間たちの結束の崩壊は目前というぐらいにまで至って、自分の弱さに……思い出したくなかった、劇団演出家からの愛ある指摘(彼には罵倒としか聞こえていなかったんだろうが)の意味に思い至るんである。

本当にね、ラジオの良さは、距離の近さだ。リスナーの声がパーソナリティーにじかに届く感覚。リスナー同士が番組を介してつながれる感覚。直接、投稿した内容が読まれて、パーソナリティー、そしてリスナーからの反応がダイレクトに返ってくるなんて、テレビではありえない。
そのことに、かなり長い間、気づかずにいた。学生時代、特に受験期間は、本当にラジオにはお世話になっていて……。大人になって、聴かなくなっていた自分に、なんてもったいないことしてたの、と叱責したい気持ち。辛い思いを抱えていたあの頃の自分に、ラジオを聞けよ、以前みたいにさ!!と言いたい!!

まあとにかく……。最初から言っていたんだよね、伊勢さんはアクトに。声を届けたいのは誰なんだと。ラジオという存在意義がどこにあるのか。インターネットで聞ける、リアルタイムでなくても聞ける、違う地方の番組も聞ける、動画と連動もしている。
でも基本は……ラジオ、なんだもの。声、ながら聴きできる気安さ、仕事をしながら、勉強をしながら、だから日常で、めっちゃ寄り添ってて、テレビ番組のようにテロップやら編集やらない、ナマの親近感。それこそがラジオ。

なのにSNS連動、動画配信こそがキモとして始めた彼らに伊勢さんが、判ってねえなというのは単純な意味合いでその通りだった。
加えて伊勢さんとニガリの父親が、お互いの趣味である好きな音楽をかけ続けるだけ、そして外部からやんやと侵入してくるカネの亡者どもによって彼らの純粋な、いや、厳しく言えば幼稚な番組は取って食われ、あっという間に崩壊したのと“同じ轍”をふみかけてる訳で。

伊勢さんは豆腐職人、ニガリの父親は豆腐料理屋。料理屋は倒産したけれど、伊勢さんは細々と職人を続けている。この一件で一人娘とも疎遠となってしまった。
でも、その娘ちゃんは、10年もの間、帰ってはこないまでも、年賀状だけは送ってくるんである。ああもう、この時点で、何かの予感を感じて涙ぐんでしまう。

アクトが、なんとかなんとか、気づいてくれたから。ラジオとはなんぞや、聴かせたいと思った相手を失ったらもう取り返しがつかないということ。このバカは、そうか!!と気づくまでに、遅い!!
ディジェとセルガは、矢面に立つ立場で炎上状態になったから、今後の自分たちを危惧して逃げ出してしまう。役所からは支援打ち切りの通達……もう、四面楚歌、どうしようもない、やめるしかないのか、というところの、一発逆転!!

田中真弓がさあ、あのレジェンド声優がさあ、あっけらかんとした、土産物屋の店主として登場して、ホントかるい登場だったから、まさか彼女が起爆剤として一気に展開するとは思わなかったからさ……。
歌が大好きな彼女、ラジオで歌わせてよ、という彼女に、いやそういう番組じゃないから、と返した時点で、オヤ、と思ったよね、少なくともスクリーンのこちら側の観客は。
でも、それを言われたこの青二才君はまだ、その違和感に気づいてない。なぜこの地でラジオをやるのか。”そういう番組じゃない”のなら、ここにスタジオを構える意味なんてない、そんな単純なことに気づくまで、なぜこんなに時間がかかったのか!

でも気づいてからはさあ……、なんかもう、涙が流れっぱなし、なんだよね。単に、接骨院に行きたいんだけど膝が痛いから誰か送り迎えして!というシニア女子の声を乗せるだけで、なんで涙が出ちゃうんだろう。聴いているかもわからない相手に対してのプロボーズの言葉よりも、ぐっときちゃうんだもの(いや、このプロポーズシークエンスも良かったけどね!!)。

やっぱりさ、ラジオっていうのは、今はネットでも聞けるからリアルタイムでなくてもいいし、動画が連動していたりするけど、でも、でもやっぱり、リアルタイムの声、なんだよね。
伊勢さんが10年も会っていない娘ちゃん、そして孫に呼びかけるシークエンスは、それこそリアルタイムでその地での放送が基本のラジオということに立ち返れば、いやいや、それこそこれは、ラジコで聞いてねとかいう話になるじゃん、と言われそうなのだが……でも違うよね、やっぱり、違うよね。このリアルタイム共有した人々の魂の響きあいを共有したんだと、思いたいものなあ。

ラジオ、いいです。本当に!!★★★★☆


椿の庭
2020年 128 分 日本 カラー
監督:上田義彦 脚本:上田義彦
撮影:上田義彦 音楽:中川俊郎
出演: 富司純子 シム・ウンギョン 田辺誠一 清水紘治 内田淳子 北浦愛 三浦透子 宇野祥平 松澤匠 不破万作 チャン・チェン 鈴木京香

2021/4/18/日 劇場(シネスイッチ銀座)
これもまた、1年待たされた作品「ブルーアワーにぶっ飛ばす」「新聞記者」とすっかり魅了されたシム・ウンギョン嬢の本当にみずみずしい、可憐な、可愛さにヤラれる。
このゆったりと美しい季節の中に移ろう古い日本家屋の中に、まるでずうっと前からこのおばあちゃんと暮らしていたかのような女の子、渚である。

この日本家屋は家自体もそうだが、とにかく庭が素晴らしく、まるで森のようである。後半に、部屋の中から渚が、庭の奥にそぞろ歩いていく祖母を眺めているシーンがある。本当に、森の中に入っていくように祖母の姿が見えなくなる。それはこの物語の展開の、実に意味ありげな描写である。
そしてここからはなんと、海さえ見渡せるのだ。それだけ小高い上に建っているということだろう。来客が坂を上ってくる描写もちらりとあるが、詳細な立地は特段、明かされない。それだけに何か……天上の城のような、もっと言ってしまえば現実味がない、あの世にほど近い場所であるかのようでさえある。

そう思うのは、この物語がまず、この家屋の中で慎ましく行われる葬儀から始まることと、その葬儀は祖母、絹子の夫であり、その後の展開においてどうやらめちゃくちゃ仲のいい、ラブラブ夫婦であったらしいことがうかがえるからである。
絹子がこの時から、いわゆる終活、夫のもとに行く準備を始めていたんだろう……いや、この時からは言い過ぎかもしれない。夫と共に幸せな時間を過ごしてきた、この家に彼女は強い執着を持っていた。
孫娘と二人、ここに住み続ける気満々の絹子を、娘の陶子は心配して、一緒に暮らそうと言う。まあ月並みな、一人残された年寄りへのいたわりという名の侮辱である。

いやいやいや、言い過ぎ言い過ぎ。陶子と絹子はいい親子関係を築いているし、やはりほっとけないと思えば、とりあえずその提案はしとかなきゃいけないってなところだろう。
それとも彼女の夫の方こそが世間的体面を考えたのか。そういう生臭い雰囲気は本作には全く出てこないんだけどね。ちょっと、拍子抜けするぐらい。いや、ラストにどばっとそれが押し寄せるんだから、帳尻は合うのかもしれないけれど。

おっと、口が滑った(爆)。ところでこの古くてイイ感じの庭付き日本家屋はしかし、京都から移築されたものだということが、ちらりと明かされる。意外に思う。てっきり、絹子さんとラブラブ夫が、愛の住みかとして建てたものなのかと思った。
何かこの時点で、すこうし不穏というか、不安な気持ちになる。蓄積された時間や歴史は、他から持ってきたもの。もちろんそこに、家族の時間は紡いだけれど、でも、すこし、波風があった。

いまここにいる渚は、日本語がすこうしたどたどしい。それほど会話量が多い訳じゃないから気にならないけど、やはり、最初から判る。
陶子は次女で、渚は長女の娘であった。長女は駆け落ちして日本から出ていった。その先が韓国だった、ということさえ、明かされない。相手が韓国の人だったのかどうかさえ。
渚は先に父親を亡くし、母親に育てられたが、彼女もまた事故でこの世を去った。そのいまわの際に日本語で「ごめんなさい」と言ったのだと、後に渚は陶子に語る。つまりそれは、結局飛び出したきり帰れなかった、両親に対しての言葉だったんであろうと思われる。

日本から飛び出していくほどに情熱的に恋をしたんであろう渚の母親、そして次女の陶子は、この実家からはそれほど遠くないにしても、新幹線を使う程度には離れた場所に暮らしている。そして陶子夫婦には子供がいない。……何かいろいろなことが、ざわざわと胸を鳴らしてくる。
陶子が母と姪を迎え入れたいのは、自分たち夫婦に子供がいないこと、一人残された老母への世間への視線がやはりなかっただろうかと、先述で否定したのについつい考えてしまう。

ただ……陶子は絹子だけでなく渚ともいい関係を築いている。葬儀のシーンで足がしびれた渚に、しびれを短時間で治す秘訣を伝授した陶子、二人はその後何度かの邂逅ですっかり仲良くなっている。叔母と姪っ子の親密な関係に頬がほころぶ。
だから渚は、絹子の重大な秘密を知ってしまった時、陶子に相談しようとしたのだ。ただその時、絹子の想いの方を優先した、のは、もうこの時、渚は絹子の想いを受け入れる覚悟をしたということなんだろう。

何かもう、奥歯にものが挟まりまくってるけど(爆)。とにかく、この日本家屋の美しさと、絹子の演じる富司純子様のお美しさである。彼女所有のお着物をお召しになっているという。そうでしょうそうでしょう!!と思う。
手早く着替える場面さえ見せてくれて、ドキドキしてしまう。日本の伝統をナマで体現する彼女の、凛とした美しさと、そして富司純子様がもともとおもちである無邪気な可愛らしさ、まさにこれは、ギャップ萌えとゆーヤツである。

こんな大きな邸宅を庭付きで持っていると、相続税が払いきれない状態になる、ということで、税理士さんが売却するように勧めてくる。なんとこの税理士、ファンがチャン・チェン!!うわあ!そして彼が連れてくる買い手が田辺誠一!キャー!!!
……田辺誠一が、じゃなくて、田辺誠一扮する買い手の戸倉が最初からそんなよこしまな気持ちだった訳じゃないと、思いたいけど、どうなんだろう。もうオチバレで言っちゃうと、戸倉はさ、すんごくこの家が気に入って、大事に使うっていうことだからこそ、税理士のファンも信用して絹子に売るように勧めたし、絹子はファンを信用していたから、それ以外のもろもろも考えて、それに応じた訳だし。なのに、なのにさ……。

それはまた、最後にとっとく。絹子と渚の生活は、なにかもう、これを教科書として、日本の美しき生活として差し出したいぐらいである。
物語の冒頭、庭のささやかな池に、ささやかに泳いでいる金魚を絹子が、そして渚が眺めている。何の変哲もない、見慣れた赤い金魚、でも郷愁を誘うというか、何かこう、見てるだけで涙が出ちゃうような気持になる。

死んでしまった金魚を、椿の花びらにのせて埋葬するシーンから始まることが、そしてそれを祖母が孫娘に教えるように粛々と行うことが、……そうか、後から思えば、絹子さんは、意識していたんだかどうだかわかんないけど、すでに示していたのだ。
タイトルである椿は、すでに象徴しているとは、思っていた。ただそれはあまりに判りやすすぎるかなとも感じた。ポトリと落ちる、潔い死に際。まさに絹子さんはそれを体現したのだけれど、金魚は、そして多くの生命、人間の死にざまは、実はそう簡単に理想的にいかないものだ。

絹子さんの愛する娘、そして夫の死にざまは判りようもないし、ここではそれは、それほど意味のないことだとは思う。ただ絹子さんは、明らかにそれを選び取ったのだろうと思う。
渚が見る絹子さんは、優しい、時に可愛いおばあちゃんだった。食事シーンが頻繁に現れるんだけれど、渚の箸使いが時々ヤバいのが、絹子さん、何も言わないんだな、と思った。そんなことは些末なことだと、もはや絹子さんレベルに至ると達しているのかもしれない。

ただただ可愛い孫娘として、渚と親密な生活を過ごした。寒いときは寒い、暑いときは暑い、この古い日本家屋で、窓を素通しに入れ替えたり、スイカを冷やしたり、雨戸の開けたて、いろんな工夫がある。工夫、である。面倒なことじゃなくて。

日本語学校に通っている渚が、ただいま!と帰ってくると、こうしたイベントに遭遇する。税理士さんや、家を買いたいお客さんにも遭遇する。……不便ながら、この愛すべき古き家が、税金的にも、この後のことを考えても、もうどうしようもないってことを、絹子さんから聞かずとも、渚は知ってしまう。

陶子はそもそも、もちろん、それは判っていただろう。ファンを差し向けたのは陶子の夫ではないかと思う。結局は姉が帰ってこなかった家、次女も結婚して出てしまった家。愛着はあるけれど……そもそもは古い記憶をまとって見も知らぬこの地に移動させられた家屋なのだと思うと……。 絹子さんが夫の古い友人の訪問に少女のようにはしゃいで、おしゃれして出迎えたり、もう最期の時をなんとなく感じて身辺整理して、陶子と渚に生前形見分けをしたり、その間ずっと、妙に明るくテンション上がってて、陶子も渚も心配するんである。

実際、夫の友人が訪ねてきた時は、庭先で倒れてしまう。この時、絹子さんがつぶやいていた言葉が、忘れられないのね。彼女がこの家に執着しているのは、ここに彼女の思い出のすべてが詰まっているから。この場所が失われ、そして自分もこの世を去ったら、自分が大切にしている記憶のなにもかもが、失われるのかと。

……これはさあ、もう私はここで何度も言及している、二度目の死(by「トーマの心臓」)、だよね。人から忘れられた時の死。
私最近、考えるのだ。もうそれでいいじゃんと。若いころは、二度目の死が怖くて仕方なかった。誰からも忘れられる、誰からも思い出されない永遠の死が、怖かった。

でも、覚えていてくれるとしたら身内と数人の友人がなんぼ、友人なんて同世代だから大体同じ時期よね、一緒一緒!!とか考えて、あーもういいや、お骨になっちまえ!と思えたのね。
絹子さんは本当に、自分自身の死が怖かったのだろうか。やっぱり彼女は悔いがあって、長女のこと、渚のこと、があったんじゃないのか……。

今となっては、判らない。絹子さんは処方された薬を飲まずに、それを渚から 糾弾はされたけれど渚だって、きっと判っていた筈。
その直後ぐらいだ……狐の嫁入りがあった。晴れているのに雨が降ってる。絹子に口答えしながらも、結局言われた通り、一緒に落ち葉を掃いた。
先に部屋に入った絹子。晴れているのに雨が降ってるよ!!と渚は声をかけた。返事がない。もう、判ってしまう。渚も判ってからも、静かにおばあちゃんのそばに寄り添い続けた。……何としあわせな、終焉だろう。

結局、この家は、取り壊されてしまうというラストシークエンスには唖然とする。沈痛な表情で渚に寄り添うファン税理士。
でも結局、結局結局、買った人の自由になるのだ。売ってしまえば、つまりは猫や犬を捨てたと一緒なのだ。売った相手が殺処理しようと、文句は言えないのだ……。

でも、あまりにも衝撃的だった。ショベルカーで無情にがつがつ取り壊される。渚は、金魚を、救い出した。
その前、この家から完全に引き上げた時、陶子と共に家を後にする時、陶子から確認するように問われたのは、自分たちと一緒に住まないかということだったんだろう。渚はそれを笑顔でかわし、今は一人暮らしをしているということなんだろう。

絹子さんが恐れてやまなかった、記憶がぶち壊されてしまうさまを、茫然と、しかしどこか予測していたように眺めながら、渚は絹子さんと共にいつも愛でていた金魚を、手ですくって、持ち帰った。
小さな金魚鉢に、一緒に入っていた水草と共にするりと入れて……あまりにも狭い、でも、あのささやかな池も、似た世界観だったかもしれない。金魚鉢の中を、今までと変わらない様子でひらひらとゆらゆらと泳いでいる金魚を渚はじっと眺める。

シム・ウンギョン嬢の可憐なみずみずしさ、彼女が抱える絶対的孤独さを叔母や祖母が柔らかく包み込む感じがたまらない。
男子も出てくるけど、男子は……まあその、役立たず&イーヴィルだわよね。かなりフェミニズム野郎の留飲を下げさせるが、一方で切なさやりきれなさにたまらなくなる。★★★☆☆


ツンデレ娘 奥手な初体験
2019年 71分 日本 カラー
監督:小関裕次郎 脚本:井上淳一
撮影:創優和 音楽:どるたん+しゃあみん
出演:あべみかこ 月ヶ瀬ゆま 美原すみれ 市川洋平 ダーリン石川 西本竜樹 山本宗介 可児正光 安藤ヒロキオ しじみ 佐倉萌 須藤未悠 和田光沙 森羅万象

2021/7/8/木 録画(日本映画専門チャンネル)
「線路は続くよどこまでも」なんていうのがウソだってことを私は知っている、というちひろのモノローグから始まる。物語の最初と最後は、その同じ場所である。
田舎の温泉町の、さびれた駅のホーム。線路はそこで断たれている。つまりその先はない。そこから先には行けない、地方の突端。
ピンク映画では不思議と地方率が高い。地方のロケの方が撮影がしやすいのかなとも思うが、男女の情緒というか、気持ちをじっくりと映し出すのに、静かで、人の少ない、俗世間から断絶されたロケーションが似合っているのかもしれない。

ちひろはその場所に役場の同僚で幼なじみである恭平を呼び出していた。「行こう、とにかく行こう」と戸惑う彼と自転車の二人乗りして行きつく先はラブホテルなのだが、物語の意味合い的にも、そしてこの時のちひろの心情も、ラブホテルに行こう、ではなかったに違いない。
実はずっとずっと好きだった恭平と、ここではないどこかに行きたい、いやその前に、素直じゃない自分を突破するために、この閉じられた場所から脱皮したい。あるいはもっと詩的な感覚、ロマンティックな感覚も思い起こさせる、印象的なオープニング。

そこからラブホに突入するのはいかにもピンク映画的とも言えるけれど、二人は処女と童貞である。ちひろは、えり好みしているうちに処女をこじらせたから処女を捨てたいと、ここに連れ込んだ理由を説明し、それには、害のなさそうな恭平が適任、と言う。
観客にはもちろん、劇中の同僚にだって、二人が好き合っていることはバレバレなのだが、当の二人がそのことに気づいていない。今も昔も変わらぬ胸キュンの少女漫画のようである。

恭平もまた、ちひろのことを子供の頃からずっとずっと好きで、彼もまたそのために童貞をこじらせていた訳で、処女と童貞のセックスは、やはりなかなかに上手くいかない。
何度かアフターファイブの“クラブ活動”を試みるのだけれど、お互いの気持ちが交錯しあうだけに、ぎこちないままである。

これは胸キュンラブストーリーとしては魅力的でも、ピンク映画のエロとしては難しいよなあと思っていたら、ちゃあんとそこを補う部門が用意されている。
一つはまあありがちな、同じ職場のもう一組のカップル、これは男子側に妻子がいる不倫カップルという王道なヤツで、でも意外にエロよりも、妻子ある上司への想いが本気になってしまった女子の苦悩が色濃く描かれるので、これは本作の中のもう一つのドラマになってるんである。

エロ部門を担当するのは、これは、なるほどなアイディア、ちひろ、恭平、それぞれにネットで“勉強”しているエロ動画、まあつまり、AVである。しかもその主演男優、主演女優がそれぞれ、ちひろと恭平に指南してくれる。
ただ単に妄想セックスなのだが、現実世界の二組のカップルが、心理戦の方に重きが置かれてエロはなんかいじましいというか、歯がゆいからさ。ピンク映画である程度求められるエロの尺度を、セックスを学ぶセンセーとしてのAV役者たちにご登場願うとは、これは、アイディアだと思って!!
だってそのことで、現実社会で思い悩んでいる彼らに対しては、エロにしてもあくまでリアルなエロ描写にすることで、切なさを倍増させることができるんだもの。

もう一組のカップル、妻子ある上司と不倫関係にある根本さん。ちひろや恭平よりちょっと先輩で、お姉さん格の彼女は、三十路を迎えて焦っている彼ら以上に、不倫して先行きのない自分に焦っている。
不倫相手にワガママ言うようになってきちゃって、この田舎町で結婚相手とか考えられないとか思っていたけれど、なんか急角度に考えを変えつつある。

彼女にしてもちひろにしても、女優さんの芝居はかなりキビしいのがピンク映画の常なのだが、男優さんたちは芝居のできる役者、というのも常であり、女優さん同士、女優さんと男優さん、集団芝居、と違和感、親和感が急角度で変わるので、なかなかキビしいものがあるのは正直なところ。
本作には婚活パーティーのためのアドバイザーとして和田光沙嬢がちらっと出演しているのだが、近年のピンク映画を支える、名女優、怪女優である彼女がこんなチラリであるのは本当にもったいないなあ!!彼女がそれなりに展開に絡むと、芝居の弱めな女優さんがメインに据えられていてもビシッとしまるからさあ。

おっと、なんかちょっと脱線してしまった。そうそう、この田舎町の、嫁とり作戦、婚活パーティーが企画されているんである。かつて、農村にフィリピンあたりからムリヤリ嫁に来させた、イタいバブル時代のエピソードを思い起こしてしまう。
そういう雰囲気は充分に意識していると思う。不倫女子である根本さんは、こんなところに嫁に来たいと思う女がいる訳がないと吠え、恋人への当てつけに恭平をくわえこんだりするが、そのあてつけの延長線上のように、婚活パーティーに参加するんである。そしてちひろも、である。結果的に顔なじみの、幼なじみパーティーのようになってしまう。

一人、キーマンがいる。恭平のぐっと年上のいとこの勇之介である。きょうだいのように仲がいい二人の雰囲気は、ちょっとしたやりとりで巧みに描かれている。
勇之介はこの婚活パーティーに賭けていて、老親のためにも結婚を決めて孫の顔を見せてやると意気込んでいるんだけれど、結果的には若い二人、ちひろと恭介のキューピッドになっちゃうお人よし。

そしてそれは、根本さんもしかりである。根本さん、勇之介と結びつけばいいのにと、観てる側では勝手にカップリングを妄想するんだけれど、なかったなあ、残念。
根本さんは、不倫している上司に心を残しまくっているままに、恭介をくわえこんじゃったりして、でもちひろと恭介が思い合っているのを感じ取っていて、二人にとってあたたかな理解者、なんだよね。恭平とヤッちゃう訳だけど、事情を知ると、童貞奪っちゃってゴメン、と気にしたりさ。

かなり行き当たりばったりな印象はあれど、基本的には若い二人(つっても、ちょこっとの違いだろうが、この年頃の年齢差と恋愛経験の差は大きいということだろうな)を後押しする優しいお姉さまである。ちょっとお顔の大きさが観てる間中、気になっちゃったけど(爆)。

根本さん、勇之介、ちひろ、恭介が婚活パーティーでまあいろいろ入り乱れ、ラブホで二組が鉢合わせするもんだから、うわー、これは修羅場!!と思ったが、不思議にそうならない。
まあねえ、恭介は根本さんに筆おろしされちゃってたから、この時点で恋人同士ですらないちひろを責め立てる権利も何もない訳なんだけれど。

結果的にちひろは処女を守ったままであった。処女の定義がどこにあるのかというのもふと考えちゃったけれどさ。
いわゆる破瓜、その証拠としての出血、が本作では示され、あららら、いまだになの。血が出なければおめー処女じゃなかったのかよとか、いまだに言われるのかなーとか思って、そんな、皆血は出ないよとか思って(爆)。
まあある意味処女の証拠はそーゆー定義があるけど、童貞の定義はないよなとか思っちゃって(爆)。申告するだけだよなと思って(爆爆)。

また脱線してしまった。先述したように、線路が断たれた寂れたホームに戻ってくるんである。
そこでちひろと恭平は、高校卒業の時を思い出す。やっぱりこのホームに二人はいたのだった。二人とも、この先のどこかには行けなかった。恭平は写真を勉強するためにこの町を離れたかったけれど、家庭の事情で足止めされた。

地方あるある。ここでワガママだと言われても振り切って出ていくのか、どうなのか。その判断材料として、この故郷がそれだけの引き留め材料になるのか。
本作はそれがとても大きなテーマであり、考えさせられる部分はめっちゃあったけれど、その先を断たれた線路、という、大きなテーマを掲げた割には、という歯がゆさは、正直あったかなあ、とは思う。★★★☆☆


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