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猫が変じて虎になる
1962年 73分 日本 モノクロ
監督:春原政久 脚本:若井基成 中川一
撮影:峰重義 音楽:斎藤高順
出演:小沢昭一 長門裕之 由利徹 南寿美子 久里千春 松本染升 土方弘 福田トヨ 野呂圭介 糸賀靖雄 加原武門 伊達満 片桐常雄 三船好重 久松洪介 南利明
小沢昭一扮する保険屋、久六の登場がケッサクである。彼は非常に酒が好きな社交家、それゆえに保険の成績もいいんだけど、大酒飲みが故にその成績を上回る失敗ばかり。
つまり契約はバンバンとれるんだけれど、その契約の記念にと相手にもバンバン飲ませて、契約取れてすぐに相手が死んじゃう、というすっとぼけてるにしてはブラックすぎるオープニング。
その一発で上司が頭抱えて久六をクビの皮一枚だぞと脅して不老不死の町、寿市に向かわせる。なんと会社に与えた損失は数億だっつーんだから、当時の物価を考えても、ギャグにしてもすさまじい設定。
背広からネクタイからすべて脱ぎ捨てて久六に与えてさっさと行ってこい!というこの導入部に大いに笑わせてくれるが、運命の相棒に出会うのはこれからである。
寿市に向かう駅の窓口で、ソックリのカバンを一度は間違って入れ替え、また顔を合わせた時に元に戻る。結局間違えないんかーい!!とスコーンとくる。だったらなんでソックリのカバンを設定したんだ……まあいいけど。
その相手こそが、殺し屋の半次である。ぎゅうぎゅうに乗り合わせた席には、美人の女医、葉子もいる。すでにメインキャスト勢ぞろいである。
酒さえ出しとけば事足りるこの町のお粗末な宿屋で再び二人は隣りあわせ、半次は女中にうつつをぬかし、殺しの合図を出すタイミングを逃した時に、本当に偶然に、その合図を久六が出しちゃう。
列車で葉子が親子連れの幼い子供に歌って聞かせたお馬の親子である。それですっかり久六こそが呼び寄せた殺し屋だと勘違いされて、この町の陰謀に巻き込まれちゃう。
もう一人、大事なメインキャスト。殺し屋を呼び寄せたっつーことは、そのターゲットである。ラクダと呼ばれて町中からあきれられている馬五郎。演じるは由利徹!!何この布陣、魅力的すぎる!!
半次とは網走刑務所で臭い飯を食った同志として再会。彼からもうけ話を聞いてあっさり立場を掌返しする半次。あっ、でもこの展開に至るまでにはまだいろいろあるんだった!!
でも、そう……全編ナンセンスコメディのように見えて、この不老不死の夢のような町が、だからこそ外からの何も受け付けない、それこそ保険なんて縁起でもない、そんなものは不老不死の私たちには必要ない、一見幸福そうに見えて、じわじわとほころびが見える絶妙さなのかも。
葬儀屋が自殺する、というのは、死ぬ人がいないから。死なないのはいいことなのか。葬儀屋という仕事が成立しないというのは、自然の摂理に反しているんじゃないのか。
そもそもこの町には年寄りばかり。不老不死というより、不死、子供から中年ぐらいの人たちがいないのに気づくと、ふと不気味さを感じる。ここは桃源郷のように見えて、実は呪われた町なんじゃないかと。
まあそんなシリアスな雰囲気は一ミリもないけどね。久六に仕事を奪われそうになると焦る半次、誤解ばかりを重ねて、殺し屋だと思い込まれたまま進んでっちゃう久六の可笑しさ。
そもそも半次はマジに久六が同業者だと思い込んで、オレの仕事を横取りするつもりか!!と脅しあげてみればこんなていたらくな保険屋で、このやり取りがさいっこうに可笑しいの!!
半次は銃をバンバン撃って久六を威嚇、その銃で撃たれ、哀れ空から落ちてきたキジの首を久六がずっとつかんで抱えながら、カバンに入れながら(!)勘弁、勘弁!と逃げ回るのが、シュールすぎる!!
キジ、もう放したって!カバンに入れるな!!火事の現場に駆け付ける時にもずーっと首つかんで走ってる!!そして、火事の現場ですすだらけになって、手にしているキジも黒焦げ。ヤメてよー!!!
コンプライアンスコンプライアンス(爆)。やっばいなあ、今じゃマジ考えられない……。まぁとにかく、半次との話し合いという名の脅しで(爆)、依頼主には二人のニセの決闘を見せて、久六から半次に殺しの依頼が移る。
久六は葉子の助言もあり、この町に殺し屋が現れた、つまり死の恐怖が産まれたことで、じゃんじゃん契約を取って回るんである。
拡声器を片手に選挙演説よろしく勧誘するのも笑っちゃうし、その拡声器で葉子に想いを告白しちゃうのも可笑しい。自分の心臓の鼓動を拡声器通して聞かせちゃったりさ。まんざらでもない葉子、っつーのも、おいおい、変わってんなー!!
ラクダである。馬五郎である。彼がこの土地に来たのは、金もうけ。大アジア工業なる大企業が、土地の買い上げをするのを見越して寿市にやってきた。しかしそれは土地のボス、大宅もまたもくろんでいたことだった。
大宅が所有する土地の一角に馬五郎が居座り続けていることに業を煮やして、抹殺せんと、東京から殺し屋を読んだんである。それが奇しくも、馬五郎と同じ釜のクサイ飯を食った半次だったという図式。
結局は馬五郎は死んでしまい、その死体でカンカンノウを躍らせるというあたり、ちょっとした落語風味も見られる面白さなのだけれど、なんかちょっと、現代的皮肉なところを感じさせるよね。
久六や半次が乗り込んでこなければ、いやその前に馬五郎が乗り込んでいたことで表面化する、不老不死の桃源郷だったこの町のもろさの露呈。
ただ幸福なだけの筈だったのが、保険屋の営業で、縁起でもないと、死なんてものはないんだと彼らははねつけ、でも考えもしなかったことに直面した。それを追い打ちさせる葬儀屋の自殺。殺し屋が町にいるという追い打ち。しかもそれが、自分たちが信奉して疑わない土地のボスによってすべてが呼び寄せられたことだったなんて知る由もなく。
一度は死の恐怖から久六のニコニコ保険にこぞって契約した民たちが、大宅が酒を売らぬと脅しをかけると途端にてのひらを返す。死の恐怖より酒、いや、この場合はコミュニティから排除される恐怖だよね。ついつい酒の魅力の方に私は血迷ってしまいそう(爆)。
でもその意味合いも濃厚に感じさせるよね。つまり、酒に象徴される、煩悩を禁じられることへの拒否反応。それが死への恐怖より勝っちゃうかもしれないという人間の愚かさ。
馬五郎と半次が首尾よく大宅の子飼いの瀬川を脅して、とりあえず酒と、そこにあったフグを分捕って引き上げる。イヤーな予感。フグて。キモじゃないから。卵巣は大丈夫って、卵巣は大丈夫じゃないよ!!オイー!!
かくして馬五郎はフグに当たって死んでしまう。今頃は話に聞いた儲け話が上手くいっているだろうとのんきに営業をかけてきた久六が巻き込まれちゃう。馬五郎が死んだことを、半次がもともとの依頼通り殺したことにして、しかし旧知の同志を殺したんだからその分のギャラをもらいたい、という談判に久六が向かわされるんである。
もうねぇ、久六に扮する小沢氏が愛しすぎる。岡惚れ(とも言えないか。最後にはいい雰囲気になるし)した女医の葉子に対しても、理不尽に脅しつけられる半次に対しても、冒頭の上司や、誰に対しても、ごめんなさいごめんなさい、というおどおどでありながら芯はしぶとく、めげない、やりこめられない、おきあがりこぼしみたい!!
なんたって彼は、酒飲みなのに、社命でずっと酒を我慢していて、この天国のような土地で、ずっと我慢していて!!でもタイトルよ。まさによ。猫が変じて虎になる。
我慢しすぎたんだろうなあ。フツーに営業マンだった時には、契約のための接待ぐらいにとどまっていたんだろう。それを、この酒の天国みたいな土地で封じられ続けたのが、半次から強迫気味に強制されて飲んじゃったことからバクハツしちゃった。
ずっとおどおどしていたのに、半次を逆に脅しつけて、馬五郎の死体を背負わせて大宅を脅しに向かう。半次が、演じる長門氏が逆になっちゃっちゃよ、おい、とこっからずっとすっかり立場逆転になって目を白黒させているのが、可笑しくて可愛くてたまらない。
死んでんじゃないのかよ!!とツッコまずにはいられない、馬五郎=由利徹氏の、もはやこれはモダンダンス、いやヒップホップかもとさえ思っちゃう、シュールなカンカンノウには、大笑いしながらもゾッとする不気味さ。
このラストシークエンスには、怯えながら逃げ惑う大宅の先に馬五郎が恨めしい顔つきで現れまくるという、ここだけ妙に映像マジックを使うもんだから、ホントにここだけが……意味をもって感じられちゃう。
でもラストは、イイ感じに能天気で幸福である。半次は大金、久六は全市民の契約、半次は旅館でイチャイチャしていたケイ子、久六は高根の花に見えた葉子をゲットして、四人仲良く列車に揺られて酒を飲んでいる。
ああもう、お約束。札束も契約書も、解放されたデッキの扉から威勢よく飛んで行っているのを四人とも気づかないとは。そう、二人ソックリのカバンからそれが紙吹雪のように、祝福のように、舞い散ってのラスト。
データベースを見ると、あらすじのラストが違っている。恐らくそもそもの脚本、あるいは原作が違っていたんだろうと思う。
ちょっとドン引きとゆーか、凄惨な……馬五郎の死体がもたらす中毒によって、あの町の民たちが全滅してしまうというラスト、だったらしい。うわー……それはさすがに、ハッピーなエンディングになるにはキツいわ。でもそれこそが本質だったのかも。不老不死なんて幸福なことじゃないのだから。★★★★☆
本作は一作目と逆、脚本が城定氏、監督が今泉氏。でもちょっと、意外な気がした。特にあのクライマックス口ゲンカなんて今泉脚本の真骨頂のように感じたから。最終的なクレジットでは脚本には二人の名前が連ねてあるから、どの程度の比率、というか、バランスで執筆されたのかは気になるところだけれど。
でも一作目もまるで今泉監督のようだと思ったし、この二人の、決して似たタイプの監督さんではないと思うんだけれど、不思議に溶け合う感じ、面白いなあと思って。
ところで、ああ、猫、猫映画じゃないの!!一作目と二作目をつなぐ、やっぱり同じ猫。一作目では主人公が営む古書店にふらりと訪れる猫である。そして、一作目で主人公の友人でちらっとだけ出てきた毎熊氏が本作の主人公の一人。
予告編でこの二者が二作目にも登場していることを知り、どの程度リンクするのか興味津々だったが、まったく別々の二本として、一匹の猫と一人の人間がかすっている程度なのがまた面白い。
一作目の主人公はまさか、ふらりと訪れるこの猫が、友人の飼い猫だと知る由もなく、そしてその友人が離婚問題の渦中にあるなんて更に知る由もないんだから。
毎熊氏はその初見が強烈であったから、なかなかそのコワモテなイメージが抜けないが、だからこそこんな風に優柔不断な悩める男を演じられると、逆に非常にリアリティを感じちゃう。なんか本宮泰風氏にそんなあたりが似てる気がする。顔立ちといいさ。
毎熊氏演じる広重は週刊誌記者だが、もともと作家志望で、それを諦める代わりにと出版社に入ったから、有名人のスクープをおっかける仕事に上手くついていけない。彼の妻、亜子は漫画家の夢をかなえている、そのことが彼の自尊心を傷つけていることが後に明かされる。
この夫婦はそれぞれに恋人がいる。離婚問題は、広重のそれが発覚したからだが、広重も妻に恋人がいることは感づいている。つまり夫婦プラスそれぞれの恋人の四人の物語、すべてが主人公、ダブル主演ならぬ、クワド主演なんである。
R15作品だし、一作目でも結構なカラミを見せてくれたから、本作でもおぉう、という感じなのだが、一作目では性愛、セックスの気持ちよさ、という、もうダイレクトにそれを追求して、その先の夫婦関係、恋愛関係、人間関係を見つめていたと思う。
それに対して、本作は、夫婦間のセックスは描かれず、いわば不倫関係の二組のセックスが描写されるんだけれど、それはまぁ一作目と同じではあるんだけれど、セックスの気持ちよさとか、相手への想いがセックスにのっかるとか、それゆえに傷つくとか、一作目で濃厚に立ち昇っていたセックスそのものの蠱惑的魅力とは全く違うのが面白いんだよね。そしてこれが、脚本が城定氏だというのが……ホント、逆な気がして、面白い。
広重はもともと小説家志望だった。亜子にプロポーズはしたものの、就職と夢とのはざまで思い悩んでいた。というのは、後半、時間がさかのぼって二人の出会いが描かれることで明かされる。
この時亜子は,漫画家の夢をかなえ、連載も決まったタイミング、私が支えるよ、と言った。そこまでは良かった。先を焦っていたのか、子供が出来たかも、とことさら軽い調子を装って口走った。軽い調子なのだと裏付けるように明るくカラオケを歌った。
でもこの時、二人ともしまったと思ったのであり、捨てられた子猫、カンタが登場しなければ、まさにこの時、二人は別れてしまっていただろう。
猫、ああ猫。そう、猫はかすがい。二人に子供は出来なかった、結局。でも猫が二人をつないでいた。
物語は離婚寸前にまで壊れた二人が、猫のカンタの親権をめぐって、離婚届の書類まで完璧にそろえたのに、その一点で決めきれないところから始まる。もうこの時点で、二人がきっとよりを戻すんだろうと予感させる。
よりを戻す、という言い方はなぁんとなくこの場合はしっくりこないんだけどね。そもそもきっと二人は最初からスタート地点に立ててなかったんじゃないかと思うのだ。最初の一押しも、スタート地点に立ちなおしたきっかけも、カンタだったのだ、きっと。
広重の恋人は同僚で、こちらはバリバリスクープをとってくる真実子。亜子の恋人は担当編集者である俊也。それぞれに本気だったのはそうだろうが、この手近で済ませている感じは、ことに広重と亜子夫妻に感じるところがあり、特に亜子の方は夫の浮気への当てつけというのが確実にあったから……。
広重の方も、きっとそうなんだよね。妻への嫉妬が、その縮こまってしまった心が、若くて可愛くて積極的な同僚(ちょっと後輩チックなところが余計に)に向いたんだろうことは想像に難くない。そしてあっという間にマウントをとられてしまっただろうことも。
それなりに本気になったにしても、この夫妻のそれぞれの恋人との関係は、やっぱりスタートに夫への、妻へのジレンマがあった訳だから、やっぱりやっぱり、そりゃもとに戻るんだろう。
愛と恋の違いというものを考える。この二つの言葉は、少なくともイングリッシュでは分けられない。二つともラブである。
恋をライクにしちゃうんじゃ、恋の価値というか、あの独特の甘苦さは説明できない。この二つがあるから、日本人は、あるいは二つともラブじゃない文化圏は、苦しむのかもしれないと思う。
広重の恋人の真実子、亜子の恋人の俊也。彼らは確かにめっちゃ苦しんだのだけれど、修羅場の後、最後の最後、この二人がなんとまあ恋人同士になってしまうというのが、かなり予測できた。
それは、特に真実子の方があんなにも、猫を誘拐するなんていう暴挙に出るほどに、広重に執着していたのは、結局恋に過ぎなかったからだと、かなり誤解を生むというか、語弊がある言い方なんだけど、そういうことだったのかなあと思うのだ。
真実子は猫の存在が、二人がなかなか離婚に至れない原因と断じて、猫誘拐に手を染める。早々に俊也に発見されても、後に広重に問い詰められても、これは私の飼い猫タマだと言い張る。猫アレルギーのくしゃみに苦しみながら。
どんなに似ている猫でも、そう……確かに猫は、客観的に見れば、模様や体格が似ている猫は、見分けがつかないと思うのだろう。でも、飼い主からすればバカにすんな!!である。見分けがつかない訳がない。
でも、時折亜子の家に原稿を取りに来る名目で訪れ、カンタとはたわむれる程度の俊也が判るぐらい、確かに独特の模様(特にしっぽと口元)をしている。それは共に暮らす夫妻や、俊也にとっては明白なことだけれど、じっと見なければ判らない違い。
だから、カンタがいなくなった時、捜索のためのチラシを、亜子は写真ではなく、得意の画力で特徴をよく判るようにイラストで描く。それを見た広重が、見たよ、いいね、特徴が判るよ、と伝えた。
この時にはもうすっかり、冷え切ってる筈の二人なのに、カンタの行方不明で、変化してきていた。出会いの回想が示されたのも、このタイミングだったんじゃないかな(自信がない(爆))。
そう……真実子がカンタを誘拐したのはさ、逆効果だったんだよ、結局はさ。愛猫と暮らしてる人間としては、ぜえったい許せない!!コロス!!ぐらいの所業だが、私にはしてあげたくても出来ない、外への散歩が出来る環境、そこでカンタは恋人ともデートしているという、そう……私は愛猫にしてやれないことだからさ(涙)何も言えんさ(涙涙)。
かなり修羅場な感じに押し詰まった時、スクープ待ちの広重と真実子のシークエンス、広重が、小説家になりたかった過去を吐露する。真実子は「私だって、写真家になりたかったんですよ」と返すんである。
それまでは真実子に対して、いかにもな不倫相手の結婚急ぐ女子、ってな感じに見えたし、猫を誘拐とかありえない!!とかなりイカっていたとこだったんで、ひょっとしたら劇中の彼以上に、あっ……と思ったかもしれなかった。
夢破れた先でも、かつて抱いていた理想がかなわなくても、自分の才能を信じて、それが生かせる、社会に認めさせる仕事をするんだと、彼女はこの時も、時間が経って四人の関係性が変わった時には更にステップアップして、結果を残し続けていたのだった。
広重が、観客であるこっちと同様に、あっ……と、ようやく自分がただ逃げて、ただしょぼくれて、ただふてくされていただけだと気づくに至る。そして、違う形で夢をかなえる、いや、これも安っぽい言い方だな、自分に納得のいく仕事、納得のいく人生を勝ち取って、今の時間軸、亜子と共に夫婦を保っていることが示されるんである。
猫を出されると本当に弱い。それだけで泣いちゃう気持ちになる。しかもカンタは、……きっとこれは、愛猫家たちに配慮したと思っちゃうけど、腎臓病を患って、あっという間に死んでしまったことがモノローグで駆け足で伝えられる。
もうねぇ、猫が死んじゃう映画は、映画に限らず小説とかでも、ほんっとうに、ヤなのよ、見たくない。それなりのシニアちゃんを抱えてるんで、すぐ想像しちゃうからさ……。
ラストの、カンタの彼女が産んだ子猫たちを、四人の主人公がそれぞれ引き取るのは未来ある展望で素敵だけれど、その展望のためにカンタが死んじゃう設定にされたのかもと思うと、かもだけど、すこぅし、それはないよぅ、と、泣きたい気分になっちゃう。★★★★☆