home!

「け」


2016年鑑賞作品

下衆の愛
2015年 110分 日本 カラー
監督:内田英治 脚本:内田英治
撮影:野口健司 音楽:T字路s
出演:渋川清彦 でんでん 忍成修吾 岡野真也 内田慈 津田寛治 木下ほうか 古舘寛治 細田善彦 山崎祥江 川上奈々美 マツモトクラブ 新井雅人 後藤ユウミ 桜まゆみ 平岡亜紀 谷手人


2016/4/7/木 劇場(テアトル新宿)
売れない渋川清彦as映画監督、と言ったら去年のマイ・ベストワン「お盆の弟」が即座に思い浮かび、あららら、またですかという気持ちは否めなかったが、勿論渋川清彦だったら間違いないので。 冴えないカッコまで「お盆……」にクリソツだが、タイトルが示す通り「お盆……」以上にどうしようもないうだつの上がらなさで。
いや、うだつが上がらないっていう点はどちらも大して変わらないかなあ。でも彼の才能が信じられるかどうかという点では、本作のテツオはかなり、すこぶるアヤしいものがあるというか。
いや、「お盆……」だってその点は全く判らないんだけど、少なくとも別れた女房と脚本家の相棒は、こんなところでくすぶっているのはもったいないんだからもっと思い切っていけ!と彼の背中を押し出していた訳だし。その点のテツオは、自分からはかなり活動を仕掛けているんだけれど上手くいかないのは、なんかその才能そのものに問題があるような気もしたりして(爆)。

たった一回映画祭での受賞歴だけを自分のアイデンティティとして縋り付き続ける、そのたった一回の受賞歴だけで自分を監督と呼ばせ続けているニート君。
映画を作るという名目で主宰している劇団のような集まりで、そのメンバーから入会費やらいう名目でカネをとり、助監督という名目の信奉者、マモルからは彼のハメ撮りビデオの売却金をかすめ取り、怪しげなプロデューサーに企画を売りつけようとしても上手いコト言われてお茶代だけ払わされる始末。

彼や、役がもらいたくて“監督”という名がつく人種にむらがっていく人たち、その値踏みをして寝るかどうかを決める“女優”、といったメンメンを見ていると、ああ、やっぱりそうなのかなあと一般映画ファンであるワタシは笑いながらもどんどん意気消沈していく気持ちを隠せないんである。
うーむ、甘いのかなあ。それにこれはオーバーな表現であって、ちょっと表現としてはアナクロニズムな気持ちも否めないし、そんな今時ないんじゃないの、という気持ちもあるんだけど、いつだって人間の野望はアナクロニズムなんだから逆に、普遍的なものなのかなあなどとも思ったり。

特にテツオの造形は、デジタル時代の現代はもはや“監督”になるのはそれほど難しくなく、そしてうっかりマグレであまたある映画祭のひとつで“絶賛”なんかされちゃったりする、そしてその一作以降、全く名前を聞かなくなる……なぁんて人は、まあそのう、……思いつくんだよね、結構。
だって今、心配になるほどぞろぞろ新人監督さんが出てくるんだもの。そして、そのデビュー作は確かに才能を感じたけれども、という人であったって、その後出てくるのは本当に難しい。あの第一作が本当に才能であったかどうか、マグレだったんじゃないのとか(爆)、そんなことは、二作目が作れて初めて判ることで、それには何よりカネとコネが必要なのだ。

下衆の愛、というタイトル、愛は映画への愛であろうと思われる。下衆という言葉が今、こんなにも流行語みたいになってしまうことはさすがに予測できなかっただろうと思う。ちょっとだから、もったいない感じはしたかなあ。きっと、この下衆という言葉のインパクトを狙ったんじゃないかと思ったから。
下衆というより、クズ、だよね。下衆ではないと思う。下衆というと、人間として軽蔑すべきレベル。だからこそのインパクトなんだろうけれど、テツオはそうではない。せいぜいクズ、なのだ。<p> クズには、まだ愛すべき存在というニュアンスがある。だからこそ監督という言葉に乗っかりながらも役者たちも彼についているのだ。
助監督のマモルはちょっと意味合いが違うけどね……ホントは彼のことをリアルに好きだったという“オチ”は、それを“オチ”として笑いにしてしまうにはちょっと今の時代的には危なっかしいというか。だって彼の想いは本当に純粋で、報われないだけに純粋で。そして一度はついていけなくて彼の元を離れるのに、「ほっとけない」と戻ってきてくれるんだもの。

ああ、結局私、渋川清彦が好きすぎて、なんだか上手く整理がつかない!!私ね、本当はこーゆーバカなのに映画バカだからOKみたいな描写、好きじゃないのよ。ジョン・カサベテスのポスターに柏手打ったり、やたらそーゆー、アウトロー的アメリカ映画の数々を出してくる感じ、好きじゃないのよ。
だって知識がないから(爆)。日本映画の方が好きだし(爆爆)。まあだからといって、黒澤だの小津だの溝口だの言われたら同じように引くんだけど(爆爆爆)。
こういう描写って、まあたまに見かけるし、渋川清彦の見た目にも似合ってはいるんだけど、いわゆる映画マニアは喜ばせても、一般ファンはちょっと引いちゃう部分はあると思うんだよなあ……。これは難しいところで、ネライなんだろうとも思うんだけど。

最初はトンがった作品で映画青年であるテツオもうならせた監督として、古館寛治が出てくるのね。で、彼は今や商業映画監督として大成功しているから、役者たちはみんな彼にすり寄りまくる訳。
でもその役者たちもテツオ同様判っているのだ。彼がつまり“魂を売った”ってことを。でも役が欲しいから、すり寄るのだ。そして最初から俗な商売人であったであろう、ヤクザやエロのVシネ系を手掛けているプロデューサーのでんでんはもっと判り易いところ。
そして私ら平凡な観客たちは、そうした売れた先にいる人々しか知らないし、それが面白いと思って“しまう”。そしてそれを“魂を売った”とけなす“売れない人々”を、所詮負け犬だと思ってしまうのだ。……という、そこまでの計算で描いているのかがどうなのかなあと思うところもあるんだけれど……。

本作は割とまともというか、まっとうな展開があるんだよね。ポッと出の、あか抜けない新人女優に才能を見出したテツオが長年の付き合いの役者たちを全部切って、彼女を主演に映画を撮ろうとする。でも結局、その女優にも見限られ、用意していた脚本も売れっ子監督にパクリ同然に持っていかれてしまう。そして周りから誰もいなくなって何もかも失ってしまう。
結果的には助監督とその脚本家も彼のもとに残るし、売れっ子のもとに行った女優が本当に幸せになったかも疑問が残る、といった展開は、少々の甘さを感じなくもない。
しかもその売れっ子監督は一度はテツオに声をかけてくれた訳だし、“魂を売った”と言われようが、売れなければ食っていくことなど出来ないんだと。

そして最終的に自分の甘さを痛感してこの売れっ子監督に頭を下げるテツオに、映画はヤクよりたちが悪い。これに引っかかってしまったら、もう一生こいつと付き合っていくしかない、とカッコいいことを言う監督さん。
映画の世界で生きていく難しさや、魂を売らない映画を作り続けることの難しさをホント、感じるし、面白いとは思うんだけど、じゃあだったら観客は?映画を愛するという同じ立場で作り手ではない受け手になる観客はどうすればいいの??などと思ってしまったり。

本作はね、そんな暗いところで立ち止まるような映画ではないと思うのよ。とにかくクズのテツオが、映画作りとは名ばかりで性欲に負けて、ボテボテした女優を酔わせて連れ込んでは同居する妹に蹴り飛ばされ、母親に包丁を向けられる。その妹はエロ動画を投稿して金を稼いでいることが、オナニーしようとしているテツオに見つかり(爆)、妹の彼氏の前で大ゲンカとか。
テツオに役をつけてもらおうと、他の映画監督たちに枕営業をかけながらもずっと付き合い続けてきた“女優”の悲哀や、脚本家を目指すケンに扮する忍成修吾君はこの中で最もリアルに名の売れている人だけど、一方で一筋縄ではいかない役者だから、今回の純なままいく役どころは新鮮だったしさ!
マモルがムチャな稼ぎ方して、裏社会の男たちに殺されかけるシークエンスも凄かったし。とにかく、サイドストーリーが豊富過ぎて、逆に豊富であるからこそ、実はメインストーリーはベタだったのね、ということになかなか気づかないというか(爆爆)。

でも、それでいいのかもしれない。愛すべき人物がいなければ、それこそ映画は成り立たないのだ。
本作のヒロインは、テツオに見いだされ、女優としてホレると同時に女としてもホレてしまった(そのあたりの境界線が引けないのがクズたるゆえんなのよ)ミナミちゃんな訳で。
しょぼい田舎の女の子から自ら身を売ってみるみる売れっ子女優に変貌していく様は見事だけれど、彼女がテツオに失望したのか、周囲の俗っぽさに失望したのか、あるいはここにいても抜け出せないと冷静に判断したのか、それにしては酔った勢いで売れっ子監督に身を売っちゃっただけって感じに見えて、ちょっとピンと来なかったんだよね。

テツオによって怒りの感情を芽生えさせるシーンだけは印象に残ったが、だったらテツオに感謝すべきなんじゃないのとか思ったり……。
つまりは、彼女の造形って、裏切り者としてはちょっとありがちかなという感じがしたし、他に魅力的な女優さんたちがいっぱいいたからさ……。

枕営業を重ね、テツオとの“次は主演女優”の約束をほごにされ、彼の元から去っていくも、弱ったテツオがついつい頼りに行っちゃう内田慈こそがまさに女優!!で、ああ、「サッドティー」の彼女だ、そうだよね!!ほかでもいろいろ見てはいるけど(うろ覚え(汗))でも、「サッドティー」の彼女が一番好きだなあ!!なんというかエネルギッシュだけど揺るがない安定感、きちっと芝居が出来る感。案外こういう女優さんは今、得難い気がしているのだ。

個人的にお気に入りだったのは、恋人のバンドマンが就職することに失望して、夢を追いかけているテツオに鞍替えしたカエデちゃん。なんたってトイレで女優とナニしているテツオに「映画監督―!!」とホレこみ、「今日からあなたと一緒に住みます!!」と宣言するぶっ飛び加減なんだから!
ニートのテツオにしてみれば願ったりかなったりのヒモ生活。でもそのカエデちゃんが彼の映画制作資金のために身体を売る、っていうシークエンスは、カエデちゃんのぶっとびぶりがとっても常軌を逸していてキュートだっただけに、うう、ここで日本的浪花節に行っちゃうのお、というウラミはあったかなあ。

だって本当に凄く可愛かったんだもん。テツオはグラマラスなセクシー女もヤボなぽっと出女も手当たり次第に手を出すけれども、それにしてもこんな、どこかマンガチックな女の子に手を出すのか、と思ってたところだったのね。
んで、テツオがミナミちゃんにレイプ気味に迫って、しかしばっつり振られて意気消沈したテツオがそれを目撃された(!)カエデちゃんをまっすぐ押し倒し、カエデちゃんがめっちゃ積極的に受け入れるのが、ビックリ!噴き出す!でも一方でだからこそそれが、切なくって、さあ。

忍成君演じるケンに、ミナミちゃんは恋していた。でもケンは凄くまじめで、教会通いとかして。いやそもそもミナミちゃんこそが教会に通っていたのに、もう魂を売ってしまったミナミちゃんはそこから遠ざかってしまったのだ。
でもある日、ドラマの監督に“魂を売って”ボロボロになったミナミちゃんは久しぶりに教会に行った。そこにケンがいて、「お願い、ギュッとして」と頼み込んだ。ケンはギュッとしたけど、それ以上はいかなかった。ミナミちゃんからのキスも、そのまま受け止めただけ。

後にテツオがミナミちゃんの現場で土下座をするシーンでも彼はいて、その後ろにそっと控えている。テツオはミナミちゃん主演で映画を撮りたいと土下座をする。ミナミちゃんは「プライドとかないの」と嘲笑する。
テツオが顔をあげる。「なんだよそれ、食えんのか」この時のニヤリと笑った渋川清彦のアップが素敵すぎて腰が抜けそうになった(爆)。クズで通ってきた彼が唯一カッコ良かった場面だった。
でも最後の最後まで結局、彼は映画を撮れないまま、なのだけれど。でもその後ろにはケンも、マモルもちゃんと控えているのだ。なんて幸せな人!!

ラストは皮肉なのか悲惨なのか、口八丁のプロデューサーがボコボコにされて、それに気づかず歩いているテツオとマモルに刺客が襲い掛かってくる瞬間でラスト。
揶揄なのかなあ、判らない。でも、私は映画の愛を信じていたい。それが下衆の愛なのだとしても。★★★★☆


月光
2016年 111分 日本 カラー
監督:小澤雅人 脚本:小澤雅人
撮影:谷川創平 音楽:上田健司
出演:佐藤乃莉 石橋宇輪 古山憲太郎 遠山景織子 上野優華 鳴神綾香 瑞生桜子 秋月三佳 川瀬陽太 高川裕也 黒沢あすか 美保純

2016/6/27/月 劇場(新宿K’scinema)
「風切羽」の監督さんの新作だということで、飛び上がってスケジュールを入れた。「風切羽」も時間的なほんの偶然で観ることが出来た映画だし、本作も決して上映環境がいい訳ではない、と思う。確実に力のある監督さんの作品にうまく客足が伸びない感じに苛立ちを感じながらも、これをギュウギュウの映画館で観るというのも……それはそれで、ツラい気がした。

魂の殺人。そうだ、そういう風に言われている。いつから言われ始めたのだろう、レイプのことを。身体は死ななくても、その中の心、いやもっともっと芯の部分、尊厳、いやそんな言葉じゃ追いつかない、女のもっともっと芯の部分を叩き壊される。
……経験者な訳じゃないけれど、こればかりは想像するだけで吐き気がしてしまうから。殺人事件にまで発展したあらゆるおぞましい事件が頭をよぎる。そう、だから、女は抵抗などできないのだ。合意なぞあり得ないのだ。殺されてしまうかもしれないのだから。

……などというところから書き始めてしまったのは、オフィシャルサイトの弁護士さんのコメントなんぞをついつい読んでしまったから。いけないいけない。どんな場合でも、映画はただ一つの映画としてだけ対峙しようとしているのに。
でもその弁護士さんが言うとおり、こんなに辛い映画なのにシックな手触りの映像とかき鳴らされるピアノ(ピアノだからそんないい方はおかしいのかもしれないけど、そんな感じなのだ)に心揺さぶられてしまう。魔の手にかかるピアノ教師はまるで女優のように美しく(いや、女優なんだけど……そういう意味じゃなくて(汗))、まるでそれが男側のエクスキューズにされそうな感じ。
そうだ、レイプだけじゃなくって、痴漢の被害者に対してだって、そんな短いスカートはいてるからとか、胸元を強調する服を着ているからだとか、言われるのだ。性的被害に遭わないために、女は尼僧の格好でもしていろというのかっ。

……だから、ついフェミニズム野郎が爆発してしまう。そういう意味では、この作品が男性の作り手によって作られたのは少々悔しいが、そういう意味では客観的にとらえられるからいいのかもしれない、とも思う。
でも男性はどう思うんだろう……ごく一般的に言えばレイプの被害者は女性である。もちろん、男性だってなりうるけれども、一般的に言えば女性、あるいは女の子、時には幼女でさえある……。ほとんどの場合の加害者が男性であるということに、作り手になる男性はどう思うんだろうと思ってしまう。

例えばこれが、被害者が娘だったら、というんなら男性は最も想像しやすいんだろう。妻だったら、恋人だったら、お母さんだったら、おばあちゃんだったら、クラスメイトだったら、顔だけ知ってるぐらいの人だったら……どんどんその想像の比重は下がっていくだろう。
決定的なことなのだ。だからどんなに女が声をあげても、レイプがなくならないのは、性器で刺される想像が男には出来ないからなのだ。

……うーむ、どうも映画そのものに入って行けない。論戦をはりたい訳じゃないのに。
ヒロインは二人、と言っていいよね?ピアニストになりたかったのに、音大の教授との不倫スキャンダルでその可能性を追われたカオリ。自宅と実家で細々とピアノ教師をするその教え子の一人のユウ。ダブルヒロイン。
カオリはピアニストになりたい夢を捨てきれない。いや、彼女自身がというより、親が、ということなのかもしれない。同級生のリサイタルのチラシを持ってきて、あんなことがなければあんただってねえ、とため息をつく。

そんな無神経なことを言うカオリの母親が美保純。あのコケティッシュ女優が、娘が幼い頃から性的虐待を受け、大人になって非道なレイプにさらされたことに直面する母親役、だなんて、ちょっとビックリする。
「あんたのために、お母さん、どれだけ恥かいたと思ってるの!」とあの美保純が言うなんて、と。それだけ彼女もこの作品に賛同して参加したいと思ったということだろうなあ。

そしてもう一人のヒロイン、はっきりとした年齢設定はされていなかったと思うけれど……ランドセルを背負っているところから見ると、小学生。父親からレイプされちゃうところからすると(ヤだ!!!)、高学年、なのかなあ……。いくつでもヤだけど、三年生や四年生の女の子だったら更にイヤだ……。
このキチクな父親は、一見とても優しそうなのだ。写真館の主人で、昔はポートレートを撮ってたんですよ、と美しいカオリにモデルになってくれないかとリクエストする……のは、別の目的があったんだけれど。
とにかく凄く優しそうな印象で、なぜか靴を履かずに来たユウをおぶって帰る感じとか、凄くなごんだ……ことに後から自分をぶんなぐりたくなった。

そうして写真館に帰ってくると、マニキュアを塗っている最中の母親が、「また靴をどこかにやって!靴下のまま外を歩いちゃだめだって言ったでしょ!また髪を抜いて!やめなさい!やめなさい!!」と……立て続けに娘を責め立てる訳。
この図式があるから、虐待しているのは母親、理解ある父親、と見えかける、んだけれど、このヒステリックな母親の所業に父親が止めに入らないから、あれっと思うんである。何かがおかしい、と。
そして母親はユウのピアノの発表会の直前に風呂場で手首を切って自殺未遂をおかし、ユウはそのショックからか、発表会で一音も弾けずに飛び出してしまう。でもそのショックなんかじゃない。もっともっとショックがあったんだもの。

またフェミニズム野郎が爆発しそうだから(汗)。もう一人の、牽引する方のヒロインのカオリ。後から判ることだけれど、幼少期、預けられた先の祖父母宅で、叔父に性的虐待を受けた。そして大人になり、今度はレイプされた。……。
オフィシャルサイトでイントロダクションなんぞを読んでいると、カオリに対しては性的暴行、ユウに対しては性的虐待、という表現を使っている。この、的、という言葉のアイマイさが私はキライである。別にエーゴを気取りたい訳じゃないけど、レイプという言葉のハッキリとした印象が、逆に女性を救う気がしている。
ナントカ的、なんかじゃないのだ。これはレイプであり、人を、しかも何時間にも、何日にも、いや、一生の時間をかけて、殺しているのだと。

カオリがレイプされたその相手の娘がユウ。母親から疎まれ、父親にレイプされるユウがその点では判りやすいというか……男の卑怯さがね!
教育評論家とかその手の人がね、虐待とか受けても、子供というのは親のことが大好きなんだと。だからこそ親となったら自覚を持ちましょう、みたいなことを言うけれども、私はその意見には反対なの。いや、虐待受けた経験もないし、教育の知識もないからアレなんだけれども(爆)、ただ単純に女の立場として、子供であっても女の、いや、人間の立場として、親だから大好きだから、なんてこと言ってる場合じゃないっての!と思っちゃうの。

ユウに対して作り手側がどう考えて構築していたかは、判らない。ユウは父親からのレイプのみならず、母親からの精神的抑圧プラス肉体的な暴力も受けていた。母親から始終、髪の抜くのはやめなさい!と言われたその行為こそが、彼女の行き場のないストレスを端的に示していた。
母親は、娘が自分の夫にレイプされていたことを知っていたんだろうか……知っていたような気もする。娘の方に興味を移したから荒れたようにも見える。でも、そんなのって、なんて辛いの。

ユウが時に、父親に流し目をくれたりするのよ。何か、望むものがある時……母親の病室に入りたいとかさ……それはきっと、作り手側はリサーチはきちんとしているだろうし、つまり、被害を受けているのに、子供はそんな風にしか自分の希望を通すことが出来ないってことでさ!!
現像する暗室で父親は娘をバックから(!!!!)犯す。犯す、という認識すら、彼はないのかもしれない。恐ろしいの、恐ろしすぎるのよ、彼は。
娘の前で、娘のピアノ教師を犯す。それをビデオで撮り、誰かに言ったらこの映像をばらまくと脅す。しかもそれを、娘に撮らせるのだ。娘が習っているピアノ教師をレイプしている姿を!!!

ユウは父親の顔を映した。俺の顔を映すなって言っただろ!!と父親は激昂した。満月がこうこうと照らし出す、それ以外は漆黒の闇に包まれた、うっそうとした林の中。
この一連の状況が観客側に示されるのはかなり後になってから。何が起きたかもこちらには判らず、朝もやが立ち込める中、ボロボロの状態でカオリは起き上がり、その後見えない恐怖におののき続けるのだ。

先述した弁護士さんのコメントの話。申告してくる被害者はほんの数パーセント。つまり何十倍の被害者が潜んでいるのだと。
カオリは証拠の動画や写真で脅された。それはとても判りやすい、申告できない理由。実際は恐怖や羞恥や、もっともっと大きな重圧から、言いだすことなど出来ないのだ。それこそ、合意だったんだろうと言われるかもしれないという社会なのだから。

でも、でもでもでもでも、ぶっちゃけちゃうと、女の性器の中に男の精液が残っているその証拠が、一番の証拠なのだ。言い逃れできないDNAなのだ。世の中のキチクたちを引っ張り出すには、それしかないのだ!!
ああ、女たちよ、お願いだから声をあげてほしい。魂を殺されたんだから無理もないが、男を社会的にでも抹殺しなければ、このスパイラルは終わらないのだ。お願いだから、歯を食いしばってその証拠を提出してほしい。

……また激しく脱線してしまった。終盤は、この被害者二人の濃厚な物語である。カオリは過去、叔父から受けた性的虐待の経験を母親にぶつけ、ギクシャクしていた親子の関係にある意味でのくさびを打ち込む。
学生時代不倫関係にあった教授とは、その息子が教え子として送り込まれたことで復活しそうになったが、したたかな目論見で息子を送り込んだ教授の妻とのバトルで、更なる泥沼に陥る。
この教授の妻、黒沢あすかが、なんつーか、もう彼女はこんな感じね(爆)。当の教授役、高川裕也氏が、私にとっては「凛凛と」の人なので、いや、フィルモグラフィーを見れば凄く活躍しているのは判っているんだけれど、なんか名前をメインで見るっていうのがなかなかなかったから、なんか心臓がバクバクしてしまった。ああ、彼も無名塾だったのねと、今更ながら(爆)。

枯れた音大教授がイイ感じで、息子のレッスンの陰に隠れてこっそり唇を奪う感じ、息子の発表会の裏側で激しく唇をむさぼる感じ、不倫!!!って感じの隠微さがたまらなかった。
女はこーゆー男におぼれちゃうのかなあ。レイプする男は間違いなく最悪で死ぬべきだが、こーゆー、間違いなくズルい立場にいる男は、どうなんだろうか。ピンポイントで彼女のチャンスを助けようとする動きをしたりさ!凄く、ズルいんだもの。

レイプのトラウマにおののくカオリの元へと、母親が出て行き、父親の魔の手から逃れたユウが立ち尽くしている。最初は恐れるカオリだけれど、彼女が同じ相手の被害者だというのは……判る。その身体を見れば。
シャワーを浴びさせる。自身が一人きり、咆哮しながら浴びたシャワーを、ユウは先生に洗われながらじっと黙っている。身体中の傷だけじゃなくって、絶妙に見切れさせた大事な部分の異変に当然、同じ女だから気づく。

カオリはピアノを売り払い、ユウを連れて彼女の母親がいるであろう土地に向かう。相変わらず暴力的な母親である。カオリも黙り込んだまま何も出来ない。
こっそり帰ろうとしたが、ユウの叫ぶような泣き声で引き戻される。まるで母親のように寄り添う。でもその時、ユウがじゃれるように仕掛けたプロレスごっここそが、ユウの抱えたおぞましい体験だった。
玄人女のようにユウはカオリの首筋に軽く歯を当てた。ゾッとした。ユウはひどい目にあった筈なのに。それが生きるすべだったんだろうと思ったら……あまりにひどい。

メッチャ脇役なんだけど、彼女たちの深いトラウマをあぶりだす役目として、この土地のほんの通りすがりとして川瀬陽太氏が出てくる。イッちゃった目でカオリが誘いをかけるが、そんな彼女を助けにユウが大きな石を男に振り下ろす。カオリはすっかり正気を失って、ユウの首を絞めにかかる……。
結局ね、カオリはユウのことを助けられるなんて浪花節はないのよ。二人とも深く傷ついていて、その気持ちが共有できるだけで、その先の力なんて、ないのよ。
カオリは遠いトラウマがフラッシュバックし、絹を裂いたような叫び声をあげる。ユウは……それすらできないの。きっとごくごく幼い頃からの日常だったから。魂が殺され続けていることに慣れてしまった、なんて、そんなこと、あるの?

結局二人は元の街に帰ってくる。ユウは父親が先生を映したビデオを見ながらオナッて、そのまま死んでしまったのか、眠っているだけなのか、とにかくだらしない全裸で椅子に座ったまま動かない姿を冷たく眺めやる。
戻ってきた彼女は、先生に欲しい欲しいと常々ねだってきたセクシーなヒールの靴をもらう。黙って受け取る。ピアノを売った金と思しき、20万ほどの札束が入った封筒も入っている。
ユウはブカブカのハイヒールを履いて、写真館へと帰っていく。ユウは、これからどうするのだろう、どうなるのだろう。まだ小学生。社会から子供と定義されている間は、どんなに自活能力があっても、くだらない保護監督の下に押し込められてしまう。

ラストはね、折り合いの悪かった母親に、カオリがレイプされた証拠を(ユウが持ち出してくれたのだ)渡して、お願い、と頼み込み、トラウマの精神不安定に苦しみながらも、母親が娘を車に乗せて、どこかに……これは、告発するために、だと、思う、そうでなければいけない!!……に出かけていくところで終わる。
娘にとって、こんな目に合ってしまった娘にとって、母親だけしか味方になれないから……それまでなれないかもと、ハラハラしたけれども。★★★☆☆


けものみち
1965年 140分 日本 モノクロ
監督:須川栄三 脚本:須川栄三 白坂依志夫
撮影:福沢康道 音楽:武満徹
出演:池内淳子 小林桂樹 森塚敏 池部良 宮田芳子 小沢栄太郎 伊藤雄之助 大塚道子 黒部進 菅井きん 千田是也 竜岡晋 千草みどり 矢野宣 青野平義 秋月竜 土屋嘉男 有馬昌彦 田武謙三 森今日子 平井岐代子 千石規子 浜路由美 清水由記 高原とり子 勝本圭一郎 手塚勝巳 谷晃 伊吹徹 権藤幸彦 堤康久 渋谷英男 小松方正 庄司一郎 佐々木孝丸 松本染升 清水元 倉橋宏明 西条竜介 稲葉義男 中丸忠雄

2016/7/28/木 劇場(渋谷シネマヴェーラ)
140分の尺にかなり怖気づいたが、その尺がなければ確かにこれはダメだ、それだってギュウギュウでもう……圧倒的だった。素晴らしかった。
監督さんの名前、あんまり知らないなあと思ったが、フィルモグラフィを見ればいくつかの印象的な題名を見つけることが出来る。遺作が「飛ぶ夢をしばらく見ない」であったことに感銘を受ける。あの作品は細川俊之氏にとっても最後の主演作品となったものであったが、彼が後年、ちっともヒットしなかった、と冗談交じりに言っていたけれど、でも彼だってきっと愛着があったに違いない作品で、私も何とも言えず強い印象に残っていたのだった。
若くして監督に昇進した理由というのが、石原慎太郎の監督起用反対運動の解決策だったというエピソードに思わず手を叩いちゃう。そらそーだ、あんなヤツに監督なんかやらせてはいけない!この当時からそんなことがあったんだなあ。

それはさておき。今回の二本立ては池内淳子と池部良のカップリングで、一本目で彼の出番は少なめであったが、本作ではまさにキーマン、ミステリアスな色男を素晴らしい存在感で演じ、ああやっぱり大好き!!ここがねー、高倉健と違うところなのよ(いや、クサす気はありません)。
少し恰幅がよくなってくる中年以降の彼は、本当に素敵。苦み走りが出てきて端正な顔立ちに影を落とす。そして女とがっぷりな艶事シーンも実に色っぽく、やらしく、ロマンチックで、実に画になる。池内淳子があまりにも美しすぎて、二人のラブシーンは生唾のみ込んで見てしまうんであった。

物語としては、凄く壮大。政財界を巻き込んだ、どろどろした人間ミステリー。大物が次々に出てきて、謎の死が次々に遂げられ、ヒロインの民子がどうなるのか、池部良扮する、彼女をこの道に引き込んだ小滝は何者なのか、先が見えずにじりじりする140分。
さすが松本清張のミステリー、細部まで緻密に作られていて、アリバイが崩れるシーンが、一瞬映った引きの画の、二階の窓のさんに腰かけている男が通りに水を放つ、あ、あれかぁ!と膝を打ったり、もうとにかく息を詰めて見守るしか、ないの!!

池内淳子。この二本立てで私が、“出会った”と言ってもいい素晴らしさ。テレビドラマ女優だと思っていた自分が、ハズかしい。
この二本とも、彼女が演じるヒロインは愚かである。凄く愚かなんだけど、一本目の彼女はそれが何か、いじらしいようなところがあった。二本目の彼女は……最初が凄く清貧で、お顔もすっぴんで、あれ?あの一本目の美しき池内淳子??と思ったぐらい。
それが、小滝に見いだされて政界の大物のお相手(というかおもちゃというか)になり、小滝にホレて彼を追いかけまわすようになってくると……、どんどん、ひどく美しくなり、美しくなるごとに……愚かさが増してくるのだ。

なぜ自分がこんな役割なのか、こんな役割の本当の理由はどこなのか、小滝はなぜそんなあっせんをしているのか、そのことに彼のメリットはどこにあるのか、そもそも彼は何者なのか……。
彼女は一切考えず、ただ、この生活から抜け出すチャンスだと、あなたみたいな人がこんなところにいるのはもったいないという言葉と彼自身の甘い魅力に誘われて、夫を殺し、大物の手慰みものになる。
そのことに屈辱を感じながらも女としての優越感を感じて、屋敷の女中頭を見下し、夫殺しの嫌疑で追われているのを判っているのに小滝に会いたいがため、不用意に出歩いて逢瀬を重ねる。

……ホント、愚かだよ、何から何まで、バカ!でもその過程を経るごとに、彼女はどんどん美しくなるのだ。夫を殺して深夜タクシーを飛ばし、アリバイ作りのために旅館で彼女を待っていた小滝に、恐怖と欲望があいまざって迫るシーンでも充分に美しさが飛躍した。
でもその後は……もう、どんどんと。眉尻がぴんと跳ね上がるように描かれた印象的なメイクが、和服ながらもモダンな美しさを与え、暗く沈みこんだ女中……きっとそれまでには手慰みものになっていたのは彼女だったに違いない……に対して、あんたはお払い箱ね、と侮蔑の笑みを浮かべたあの顔!!

それがどんなに愚かなことか、手慰みものにとってかわったことが女としてのプライドだったなんて、そんなことにも気づいていないなんて。
女中、米子さんはきっとこの大物おじいちゃん、鬼頭のことが本当に好きだったに違いないのだ。その哀しさが漂っている。暗くて陰気な女なんだけど……演じる大塚道子という女優さん、私知らなくて……とても素晴らしくて、役者!!!という感じだった。まさに美しき女優、池内淳子と対照にあって。

ああ、なんか、興奮のあまり、色んなことをすっ飛ばしてしまう。そもそも民子が小滝に見いだされた勤め先の旅館。本当にすっぴんで地味な女。だけどやっぱり、こんな場末の旅館では、「あの人、あれで本当に独り者なの?」と同僚たちにささやかれている。
本当は夫持ち。だけど脳軟化症で寝たきりなもんだから、彼女が外に働きに出ているんである。帰宅した時の描写がゾッとする。
まず、留守を任せていたお手伝いの女である。おせきという、見るからに頭の弱そうな女。現代ならばなかなかこういう人物造形はしにくいが、当時はいい意味にしろ悪い意味にしろ、そういうタガがなかった時代。

下半身もいかにもゆるそうなこの女の、女主人の帰宅にハッとしてスカートの裾を抑えながらも、特に悪びれてもいない様子がすさまじい。
この、ほんの一瞬の出演なのに彼女の存在が、後の事件の証言に関わってくるにしても、圧倒的な印象を残す。えっ、マジ、あれが菅井きん、まじで!すごっ、凄い、やっぱり彼女は凄い女優だったんだなあ……。

そして、この夫がまた凄い。黒ずんだ前歯でニヤリと笑い、病気のためと思われるはっきりとしない発音の喋り方と、寝たきりになったためなのか本来の性格なのか、ひがみっぽく恨みがましいねちっこさと、「俺はお前の夫なんだから」とそれまでお手伝いさんに手を出していたのもどこへやら、汗と油でギトギトっぽい風情で絡んでくる様にほんっとうに、……ゾッとしてしまうんである。
特に、民子の長じゅばんを身にまとったあの姿!!それでなくても、長じゅばんを衣紋掛けにかけて眺めて、お前のことを想像していたなんて言われただけでゾッとするのに!!

……てゆーか、観客はしてやられたのだ。この夫の描写で、小滝から「このチャンスをつかむために、係累は捨てなければいけない」と暗に夫殺しを示唆された時、ああ、確かに彼女はこのままでは一生抜け出せない、あんなろくでなしなら死んでもしょうがない、とついつい……ついついよ!そんなことを思わせちゃうんだもの!!
何も殺すまでしなくてもと思ったけれど……逃げ出すだけではダメなもんなんだろうか。ああ、でも、ダメか。夫を捨てた女では、大物のお世話係にはなれないんだ。気の毒に夫を亡くした女でなければ。

だからこそ、その後の不用意な民子の行動が愚かなのだが、鬼頭は「浮気ならいい。裏切りは許さない」と寛容なんだか厳しいんだかよく判らない判定を下す。小滝にご執心なことも見抜いていて、「あのホテルマンに会ってきたのか。浮気をしてきた女は肌の感じが違う」とベロベロベロンチョ(爆)。なんつーかもう、ヘンタイである。
でも鬼頭は、小滝に会ったことはない。いや、そう言ったのは小滝側だから、本当はどうだか判らない。

小滝が仲介となって、引き合わせたのはまず、弁護士の秦野という男である。指輪一個に札束を惜しげもなく差し出す、その出会いの時には民子にとって得体のしれぬ男であった。
でもそんな使い方が出来るのはバックに鬼頭という大物がいるからであって、結果的には秦野もまた野望を表に出したとたんに消されてしまうのだけれど。

秦野は最初に民子が接する、見知らぬ世界の住人(なのは本当は小滝が最初なんだけど、ホレちゃうから、目がくらんじゃっているからね)で、その期待?にたがわぬ怪しげな風貌。怪異、というのはこーゆー人をいうのであろうか。
確かに見たことのある役者さん、伊藤雄之助。風貌怪異、まさしくそんな感じ。出てきたとたんに、この人は普通の社会で生きている訳はない、と思っちゃう。民子に襲い掛かるんじゃないかと単純な心配をしたが、そんな頭の悪い男ではない。そういう意味では民子のアタックに(計算ずくであっても)屈してしまった小滝の方が、やっぱり格が低かったのか。

忘れてはいけないのが、失火だと思われた火事が民子の放火であったのではと見抜き、彼女を執拗に追跡する刑事、久垣である。演じるのは小林桂樹。大好き!!!
確かにあんな油振りまいて火をつけたら、いくら長じゅばんに火が移るように細工しても、いくら最後に後始末をしていったお手伝いさんが頭の弱い女でも、いくらお客さんと飲み続けていたというアリバイを用意しても……さすがに難しいんじゃないかと思ったが、まあそれは現代の論理かな。

何より民子のその後の、先述したような不用意な行動……アリバイ作りのためだけの相手の小滝に接触しまくる、ってことが、この敏腕刑事のカンに響かせちゃったのだもの。
いや、そもそも事件の後すぐに勤め先を辞めるとか、親切にしてくれたこの刑事に何の連絡もなく行方をくらませるとかいうあたりも不用意で、そのあたりは彼女をスカウトした小滝側にも落ち度があったかもしれないけど。

いやいや、何より何より、この久垣が最初こそ刑事のカンで捜査を進め、次第にキナくさい大物事件に関係してくることに興奮を感じていたのが、その過程でこの美しき謎の女の魅力に引きずり込まれてしまったことこそが、誤算であったのだ。
迫って、ムリヤリチューして、押し倒して、バーン!と跳ね返されて、メッチャ恥ずかしい目に遭う。ちょっとね、ビックリした。だってずっと、久垣は刑事としての正義感と好奇心で、彼女を追っていたのだと思っていたから。

いや、キッカケはあった。事件の核心に迫ったことで、鬼頭の、というか秦野というべきかな、その手が回ったのだ。彼は突然、解雇を言い渡されてしまう。
警察トップの人間たちは、まるで能面の人形のように、依願退職という形をとらせてあげるだけありがたく思え、的な圧力。あと一歩まで追い詰めたのに。これが手柄になるぐらいの雰囲気だったのに。

その後久垣は懇意にしている新聞記者を当たって記事にしてくれるよう働きかけるが、そこもまたクサイ息がかかっていて「根拠がない、私的感情の強い記事」として却下されてしまう。
まぁ確かに民子に目がくらんだ状態の部分もあったから突っ込みは甘かったかもしれない。けれども……。
報道の自由さえも圧力、というより買収という腐った因習で簡単に失われている衝撃。そしてたった一人捜査を続ける久垣だけれど、黒幕の使用人にうっかり接触してしまって、あっさりと殺されてしまった。うそぉ!!

ああもう、こうなると、民子がなぜ、ここに至るまで何も気づかないのか、その愚かさに茫然となるのよ。
いかにも大物くさい、大物だけど鬼頭にヘコヘコしてるあたりがキナくさい老人政治家が出入りする。ヤクザ(とは言わない。右翼団体)の大物が死に、その葬儀には多くの政治家が参列する。
いつの間にか小滝が姿を消す。ホテルマンの職をしていた時にも不可解な殺人事件が起き、それも利権やら何やらが絡んだ末のことだったらしく、絶対に彼もそれに関与しているのだが……民子が勝手に嫉妬しただけで、大物をホテルの部屋に案内していたシーンとかね……民子は小滝の潔白(というのもヘンだけれど)が証明されただけで満足しちゃうあたりがね……。

ホテルマンを辞職して骨董屋になったことも、その行く先も民子に知らせていない時点でいいかげん気づけよと思うのだが、まだ利用価値があると思ったんだろう、秦野は小滝の行く先を教えてくれる。
そしてその事務所にいた女事務員を横柄な態度で追い払い(こーゆーあたりが、判ってないとゆーのだ。ホント、見てられない)、私に会いたかったでしょ、冷たいのね、アンタ、てな雰囲気バリバリで待ち構えているんである。
……なんでそんなに、自信満々なの、ジャマになってきたと思われたから何も言わずに行方をくらましたのが、なぜ判らないの。小滝はそんなことをおくびにも出さず、彼女を抱く。深夜になる。電話が鳴る。鬼頭が死んだという。

あのね、この逢瀬の時に、民子は、あのおじいちゃんの目が黒いうちに、ちゃんともらうものはもらわなきゃ、と余裕たっぷりに言ったのだった。口約束に違いないのに、小料理屋の一つぐらい、簡単にもらえるから、という余裕だったのだ。
小滝は相変わらず表情には全く出さずに、あまり甘く考えない方がいい、とひとこと忠告しただけだった。目が黒いうちどころか、この夜のうちにおじいちゃんは死んでしまった。

まさしく甘く考えていたということだけど、甘かったのはそんな時間の問題ではなくて……結末から言えば小滝も彼女のことをジャマに思っていたのはそうなんだけど、鬼頭だってさ……。
小料理屋も、ひとつぐらいはくれたかも。でもそれ以上の価値を、手慰みものに本当に考えていたのか。その前の手慰みものは飽きたらあっさりと捨てられ、しかも彼女が思い余って敵の手に落ちたと知るや、容赦なく惨殺されたのだ。その事実を知ってさえ、なぜ民子はこんなに甘かったのか。

愚かな女。恋とうぬぼれに堕ちた女。哀れすぎる。だって最後は、好きな男と遠くに逃げましょうというロマンチックな(彼女の妄想の中だけの)状況の中、手下である鬼頭家の下男によって入浴中の湯の中に油と火を投げ入れられ、焼き殺されてしまうんだもの!!
この結末だけでもアゼンとしたが、更にアゼンなのは、手下の男もその中に閉じ込められて、出してくれ!!!と断末魔の叫びをあげ、その様子を見て小滝が悪魔のような哄笑を響かせることなのよ。
……確かに私は池部良が大好きで、素晴らしい俳優さんだと思ってはいるが、しかししかし……本当に凄かった。怖かったよ!!!★★★★★


ケンとカズ
2016年 96分 日本 カラー
監督:小路紘史 脚本:小路紘史
撮影:山本周平 音楽:
出演:カトウシンスケ 毎熊克也 飯島珠奈 藤原季節 高野春樹 江原大介 杉山拓也

2016/8/21/日 劇場(渋谷ユーロスペース)
いつもならこの手のジャンルはちょっと避けがちなんだけど、青田買い欲が出てついつい足を運んでしまう。
キャストスタッフ全員新人!というのは最近よく聞く惹句のような。裏社会やヤクの密売や堕ちていく男たち、というのは今も昔も男子のいわばロマン、なのかなあ。

などと思ってしまったのはそれに伴う女の位置加減まで、そんな、妙に懐かしいロマンチシズムを感じたからなのであった。
確かに若さのエネルギーは満ち溢れているし、スタイリッシュな都会での闇社会ではなく、古ぼけた町工場を足掛かりにしているという裏さびれた“裏社会”っぷりは、現代社会っぽいのかもしれない。でも構図というか、この世界でしか生きられない底辺の男たちとか、その男たちとでは決して幸せになれない女とか、赤ちゃんにはちゃんとした父親が必要とか、ああなんか、なつかしー、ロマンチシズム!!とか思っちゃう。

フェミニズム野郎の私がそう思うんだから、これはかなり根強いジャンルものと思われる。多分、この若き監督さんはそうした脈々と受け継がれる名画が心底、好きなんだと思う。それを現代社会に咀嚼しなおす力があるということだと思う。
そこについつい、そんな古めかしい甘いにおいを嗅ぎつけちゃうと、ああ、確かにそんないい時代が映画にはあったよなあ、と思ったり。

だから、レジェンド監督(なのかなあ)長谷川和彦氏が絶賛するっていうのが、判りすぎるくらい判る気がするのよね。
画的には凄く泥臭いし、俳優も、現代の若い役者とは思えぬ素晴らしい泥臭さで、これはキャスティングの時点で半ば成功していると思われるぐらいなんだけど……でもやっぱり、男(の子)が夢見る、ロマンチシズム、なんだよなあ。

もうここまで来たらネタバレオチバレだから言っちゃうけど、このタイトルロールのケンとカズ、妊娠した恋人がいるのはケンの方だが、彼は結局、恋人より相棒のカズを選ぶことになるんだよね。いや、そういう訳じゃない、恋人の元に戻るつもりであったとしても、結果的にはよ。
まるで「昭和残侠伝 死んで貰います」のように、カズの腕の中でこと切れるのよ。その前のシークエンスで、裏切った形になったヤクザの親分から冗談めかした直球の皮肉で「お前ら仲良すぎだもんな。ゲイだったのか」と揶揄されるのがあながち冗談ではないんじゃないかと、それこそ現代の映画描写ならば思ってしまうぐらいに。
つまり、これは男映画なのよ。マッチョ映画であり、誤解を恐れずに言えば女はいらないと言っている、男尊女卑映画なの。そういう映画が確かに甘やかに存在した時代があったことを、懐かしく思い出させるような。

カズの方には認知症の母親がいる。ケンから「結局お前はマザコンなんだよ」と言われるのもナットクで、いくら首を絞めて殺しかけたりしたって、家を出て行ってしまった姉と違って彼は母親を放っておけず、「施設に入れなければいけない」ことで、ルール違反の裏取引に手を染めるんである。
ケンとは違う意味での大切な女の存在は、うっかりすると涙腺を緩ませそうだけれど、これまた単純に“無力な女”としての描写に過ぎないと言っちゃえば、そうかもしれない。

カズがこの捨てきれない母親に、幼い頃虐待を受けていたという設定までご丁寧にくっつけているあたりに、現代社会の云々、ということなのかもしれない。
でも、これがまた殊更に、なのに母親だから捨てきれない、もっと言っちゃえば、こんなことされても母親大好き!!みたいな、これまたこうした闇社会の男たちを描く時に折々見受けられる、それこそが闇を抱えた男のよりどころ、みたいな懐かしズムを感じてしまう。

私はここで折々書いてるんだけれど、虐待を受けた親でも親だから大好きなんでス、みたいなしたり顔の評論家みたいなことは、もう言うべきじゃないというか、そういうことが子供を追い詰めるんじゃないかと思っているので、ちょっとネ、と思っちゃう。
いや、これはやはり、男は総じてマザコンということを言いたいのだろーか。女は総じてファザコンではないのになあ。思えばケンの恋人の描写だって、最初から妊娠した女としての、つまり母としての女、という描写だった。結局ケンも父親にはなれないまま死んでしまう訳で。

しかもケンの妄想の中で、恋人の早紀は一足先に母親になっており、紗のかかったシーンの中で赤ちゃんを抱きながら菩薩の笑顔でミルクをあげているのだ。
……この描写もねー、あぁ、今でもこーゆー描写を若い人でも思いつくのか、と思った。これもめちゃめちゃ懐かしズム。
やっぱりね、女性=母親、しかも絶対的なゴッドマザーのイメージを与えてるよね。それは嬉しい部分もあるけど、でも女は母でなければ価値がないの?みたいな……。

難しいと思う。こういう闇社会男社会ノワール映画では。男社会だけで描いてほしいとか、まあいろどりとしてホステス的な女が出てくるぐらいは仕方ないかな、と思ったりもするが、大切な存在とか、彼らの行動を左右するという意味での女が現れると、やはりこういうことになってしまうのかな、と思う。
早紀もカズの母親も、恋人であり母親であるという以上の生活の仕方が見えてこない、全く。家の中にいる、常に。何かそれが……ムズムズとしてしまう。

しょうがない、これは男の物語なんだもの……。そういやあ、全然物語自体をほったらかしたまま来てしまった(爆)。まぁ、ここまでで大体判ったと思うけど(爆)。
ケンとカズは高校時代からの相棒。ついでに言うと、ヤクの元締めである小さな組の親分さんも、高校の先輩らしい。
この親分さんが優しげで、ビールやらプリンやら(しかもプッチンプリン!)やたら差し入れてくれる癒し系なのだが、でもその笑顔の後ろに、どんな小さな組の親分さんでも親分さんなんだから、という緊張感が保たれていて……それは見ている時にはふんわりと感じさせているだけなんだけど、クライマックスで畳みかけてくる時にはゾクッとしてしまう。

得な役だが、そういう意味では単純明快なカズは見た目はコワいのに結局ケンがいなきゃ動けない、しかもマザコンという優しさで、これもまた得な役だったのもかもしれない。

ケン役が一番、難しかったのかもしれないなあ。妊娠した恋人のために金を稼がなきゃいけない、という名目はあったけど、その前からヤクの密売はしていた訳だし、何よりその仕事にカズを誘ったのはケンの方だったというしさ。
カズは母親を施設に入れる金を稼ぐために、今まで与えられるばかりだった密売から、ショバを取り合う敵方に乗り込む形で接触して、販売ルートを一気に広げる。
ケンは驚き、自分は降りるというけれども、カズは承知しない。脅される形でカズとの相棒を続けるんだけれど……。

なんか腑に落ちないんだよね。先述したように、妊娠した恋人のためにヤクの密売に手を染めた訳ではなかった。もうそれは最初から。
自動車修理工として働いているその社長さんが、地元の取引みたいな和やかな感じで彼らの先輩である親分さんが仕切る販売ルートを手伝い、給料に上乗せしてもらっている、みたいな、ホントに仕事の一つみたいな感じだった。こんな危ない橋渡っててこれっぽっちじゃ、なんてグチはこぼすけれども、その位。
ただ、その会話が交わされる冒頭、お前と俺でなんで15万も違うんだよ、とカズが唇を尖らせたところから不穏な展開は始まった。それはカズが本来の仕事、修理工に身が入ってなかったためなんだけれど、カズはそうとらなかった訳で。

この冒頭シーン、まず印象的なのはケンとカズに頭を小突かれるようにして使われる後輩、テルであり、いかにも後輩肌というか、天真爛漫なバカみたいな可愛さが最後まで強い印象を残す。
だって最後には、ケンよりも先に死んでしまうんだもの、その可愛い後輩の亡骸をかき抱いて、ケンは泣きむせぶんだもの!!
……萌えるのは後に置いといて(爆)、彼が「ライチ☆光クラブ」に出ていたと知り、慌てて検索にかかる。「ライチ☆光クラブ」は今年のベストワンになりそうなぐらいの怪作なんだもの!なるほど、カネダ役の彼、さすがライチに呼ばれる才能だ!

本当、彼は、ほっと一息つける存在というか。人懐こい子犬みたいに懐に入ってきて、なんすかなんすか、俺を仲間はずれにしないでくださいよ、みたいな(笑)。
なんとも可愛くて、だから、二人の先輩の板挟みになる感じで彼は……死んでしまうんだよね。ヤクの密売だってさ、彼は本格的に絡んでいる訳じゃなかった。ただ、先輩たちと一緒にいたくて。それだけなのにさあ……。

正直、見ている間は人間関係がよく判らなくて混乱しているところもあって(爆)。彼らが勤めている工場にやってきて、やたらビールをおごってくれる佐々木健介みたいなニコニコの藤堂さんがヤクザの親分さんだと判ったのは、彼が「小さな組だけど……」と最後の最後、ケンににこやかに脅す場面でようやく、であった(爆)。
藤堂さんにバレたらどうする、という台詞は何度となく様々な人物によって発せられるのだが、このクライマックスまではとにかくニコニコ佐々木健介状態で通してくるので、その怯えっぷりと彼とがつながらないのよ、なかなか(やっぱり私だけかなあ)。

藤堂さんにピタリとついている、ザ、右腕って感じの田上さんも、田上さん、という名前と彼とが一致しないまま展開していくから、いや、それは確かに私だけの事情だが(爆)。
こーゆー、無表情なボディーガード的キャラってよくあるけれども、行動的にでも感情的にでも大きく出る部分がないと、彼って結局なんだったの?みたいな……何かロボット的な印象しかないままになっちゃうから、田上、という名前が人間的なそれに引き起こされてこないんだよなあ。親分の藤堂さんに心底惚れていたとかさ、まぁそーゆーのは私の好きな世界なだけだけど(爆)。

敵方の方も、皆似たようなむさくるしい風貌だから(爆)、相手方も含めて認識分けが出来ないまま終わっちゃう。
カズが「株で儲けてるんだろ」とそのエリート然とした風貌で勝手に推測した敵方のボスが、そのシーンだけで登場しなくなってしまったのが、あれ?その後彼登場してないよね?私誰かとカン違いしてる??とか、思っちゃって……。
こーゆーあたりが、“新人だけで”という展開での弱みで、誰かほかのキャストと混同してる??とか不安になっちゃうのよねー、というのは恐らく私だけの話だろうけれど……ゴメン!!

カズがケンの恋人、早紀に「ゴメン」と謝りに行く場面は、いらなかったと思う。これはホントに。お定まりに彼女に頬を張られたりしてさぁ。男二人のおめーらがデキてたんだからさ!こんな侮辱は、ないわけ。★★☆☆☆


トップに戻る