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アイ・アム まきもと
2022年 104分 日本 カラー
監督:水田伸生 脚本:倉持裕
撮影:中山光一 音楽:平野義久
出演: 阿部サダヲ 満島ひかり 宇崎竜童 松下洸平 でんでん 松尾スズキ 坪倉由幸 宮沢りえ 國村隼
ついこの間は恐るべき殺人鬼を演じた阿部サダヲ氏が、彼自身のテイストは変わらないのにまた全然違う、空気の読めない……いや、予告編ではそういう表現だったけど、劇中で言われるように、察しが悪い、と言った方が正しいであろう、打ってもまるで響かない男、牧本を、まあホントにお見事な体現で。
ホント、阿部氏であることはまるで変わらないのに、つまりカメレオン俳優というのとは違うのに、この振り幅っつーか、前作がアレだっただけにホント驚いちゃう。
牧本が勤めているのは市役所のおみおくり係なる部署。部署とはいえ、そこは彼たった一人である……ということが後に明かされる。
物語終盤に着任した新しい局長は、この部署の必要性に疑問を呈し、そもそも君はこの土地の人間じゃないのだろうと言い、牧本の上司は、この部署に牧本だけというのを、適材適所、という表現をして彼の必要性を、この部署の、そして牧本の存在意義を訴えようとしている。
このシークエンスはかなりあっという間に流れてっちゃって、あっという間に牧本死んじゃうので(爆。だからオチバレすぎるってば……)なかなかもどかしいんだけれど、もうね、今や多様性という言葉が流行語みたいになって価値観が薄れてっちゃってる気がしてそれを取り戻したい気持ちを、この牧本の人物造形に感じるのだよね。
牧本は、彼自身が自覚しているように、「牧本、こうなっちゃいました!」と頭の横で手を前方に振る、つまり周りが見えなくなっちゃう、聞こえなくなっちゃう、自分一人で突っ走っちゃう、という性質。
それこそ現代ならばなんやかんやと症状名をつけるのだろうが、それが良き方向に働くのかどうか。彼の上司のように、適材適所、とシンプルに評価するだけでいいんじゃないかとか、いろいろ考えさせられちゃう。
どこでこの事実に言及すべきかは悩むところなのだが、牧本が自分のお墓を既に購入していること。区画だけで牧本様、という印の杭が打たれているだけ。
そして彼自身は、孤独死した市民の葬儀を自腹で執り行い、自分一人だけ参列していた。自腹で、というのは、先述の、新しい局長着任の際に明らかになる。その費用がムダじゃないか、と正されて、いや、彼が自腹で……と上司がうっかり口を滑らしちゃったもんだから、余計に事態がややこしくなるのだ。
孤独死はまず警察の管轄、そしてその処理を市役所に持ち込まれる。しりぬぐい的なことになる市役所と警察の関係はバチバチだが、牧本は気にしない。
腐乱死体には慣れたもので(こーゆー作風だから生々しい現場は映さないが)、メンソレータムを鼻の下に刷り込んで、躊躇なく乗り込む。そして判る限り故人の遺志を尊重して、仏式なりキリスト教式なり神道なりの葬儀を執り行う。
局長から冷たく言われたように、葬儀は遺族が執り行うもの、遺族の感情を整理するためのもの、というのは、確かにそうなのだ。牧本は最初、その言い様に反発するけれど、もちろん、本人を悼み、せめて牧本だけでも、と葬儀を出すのはとても素晴らしいことなのだけれど。牧本だってそれは判ってた。
だから孤独死に遭遇するたび、連絡がつく親族に遺骨の引き取りをギリギリまで交渉し、だから彼のデスク周りは引き取られない遺骨で一杯なのだ。
あれ、既視感があるわ。「川っぺりムコリッタ」でも、デスク周りではなく、一室が用意されてはいたけど、でも誰からも見捨てられたような雑多な一室に押し込まれた、引き取り手のない遺骨置き場、ある一定の時間を経て無縁墓地に送られる待機場所のようなシークエンスが用意されていた。
うっわ、まさにバチッと合致する。同時期に公開された作品での、こうした共有感は今の時代のリアルな空気を感じて、ゾクッとくるものがある。遺骨を引き取りに行くのかどうなのか、と逡巡する子供側というのがまさに共通していて、めちゃめちゃグッとくる。
牧本はこれまでも必ず、親族にコンタクトを取って、葬儀に参列すること、遺骨を引き取ってもらえるかどうかを打診してきたけれど、ことごとく空振りだった。どこかそれがルーティーンになっていたけれど、新局長の、これが最後だから、ということに奮起したのか、それとも現場に残されていた、幼い女の子、恐らく娘と思しきアルバムを発見したからなのか。
蕪木なる孤独死した独居男性の係累を探す旅は、図らずも蕪木の人生をたどる旅となり、そして、牧本自身のアイデンティティに跳ね返ってくるラストが用意されているんである。
蕪木を演じるのは宇崎竜童氏だが、残された免許証の写真でそうと知れるものの、もう死んじゃってるんだから、あらら贅沢な使い方ね、と最初は思った。まさかあんなラストが……いやまあそれは、おいとこう。これだけオチバレなのに(爆)。
それまでも、なんとか葬儀に参列してもらいたい、遺骨を引き取ってもらいたい、と親族とのコンタクトをはかるあまり、遺体の引き取りが遅れてしまって、担当刑事とバトルになるのが日常であった。
警察署の冷凍庫は倉庫じゃないんだから、と吠える若手刑事、神代に上っ面で謝りながらも、自分の想いを押し通す牧村。それが最後の日である。おみおくり課が廃止される、この孤独死の例が最後になる。牧本は最初から、これが特別と扱った訳ではなかったのかもしれない。あのアルバムが、動かしたのか、判らないけど……。
結果的に蕪木は、かなりドラマティックな人物。怒りっぽくて、そのために前科もある。恐らくそうであろうという推測に至って、アルバムに写っていた娘にたどり着く訳なのだ。
理不尽なことが大嫌いだから、勤め先で問題を起こした。問題、となっちゃうのは、その正義の行動が是と出ても否と出ても、彼自身がなんだかいたたまれなくなって、姿をくらましちゃうから。
それでも不思議と女にはモテて、最終的にたどり着くアルバムの娘の前に、流れ着いた港町でイイ仲になった食堂の女将さん(宮沢りえ)との間に女の子をなしていた。ただ、蕪木はその娘の存在を知らぬまま、姿をくらましてしまったんである。
この時点で写真だけなのに、宇崎氏というのがピッタリすぎる。正義感が強くて、でもその短気がゆえに上手く行かない、女にモテるイイ男。
いや、女にモテるだけじゃない。牧本が訪ねた、蕪木のガラケーに唯一残されていた連絡先である工場の元同僚も、それ以前、年若い時に一緒に働いていた炭鉱で爆発事故に遭い、命の恩人だと、その時に負った盲目のかつての同僚も、蕪木への熱い想いを口にするのだ。
たった一人、孤独死になって、たとえ家族がいても確執があって引き取りを拒否されて、牧本のデスク周りに増え続ける骨壺。その描写はユーモラスで、ついには局長室の棚にまで侵食して、だからこそおみおくり課の廃止という決定が下される。
でも、むしろその決定が、牧本が信じてやってきた死者への想いが、ひょっとして足りなかったんじゃないかと。引き取り手は身内のみ、その身内に拒否されたら、少なくとも判っている身内にしか当たっていないのだから、そう考えて、蕪木の人生をたどる旅に出る牧本なのである。
牧本は自ら墓の区画を買うぐらいだから、そしてこんな職に就いているぐらいだから、自身は身寄りがない、あるいは家族とは断絶している、だからこそ、遺骨引き取りを拒否する遺族にそれ以上強く突っ込めない、のかもしれないと、段々と思えてくるのだ。
中盤までは正直、ただただ空気が読めない、察しが悪いキャラクターで笑わせているだけかと思っていた。でも違うんだ。彼こそが、孤独に死ぬことに怯えているからこそなのだ。
この土地の人間じゃないだろ、と勝ち誇ったように言う新局長にはカチンと来たけど、確かに、市役所勤めでその土地の生まれ育ちじゃないというのは、珍しいのかも……と思うこと自体が、めっちゃ排他的とゾッとしちゃう。
外の目がないからこそ、狭いコミュニティの中で、傷つき、理解されない人たちが産まれてしまう。牧本だって、彼自身が強靭な精神力(察しが悪い、ってな)で気づいていないだけで、彼を傷つけようと牙をむいている輩に包囲されているじゃないか。
図らずも蕪木の人生をたどる旅になり、牧本は勤めていた工場、転がり込んでいた恋人の切り盛りする食堂、そこでなした娘と孫(どちらも彼は知る由もなく去ってしまった)、そして、アルバムに映っていた娘(満島ひかり)までたどり着くんである。
宮沢りえ氏と、満島ひかり氏、という、感性たっぷりの超ド級女優のすれ違いというか、かすりあいというか、めっちゃ共有している、愛憎たっぷりの男をそれぞれの立場で共有しているってのが、ゾクゾクくる。
りえ嬢演じる、最後の恋人、娘も成したみはるは、彼との間の娘、そしてその娘が今や子をなして、蕪木の孫がいることをきっと伝えたくて、でもそんなことできないまま時が過ぎて、牧本が現れた。
ひかり嬢演じる塔子もまた……。自分と母親を捨てた蕪木を許さない、いわばそのアイデンティティをよりどころにして、今まで踏ん張って生きてきたのに、察しの悪い、とぼけた牧本が突然現れて、なんだか塔子は骨抜きにされちゃったのだ。
絶対に許さないと思っていたのに。葬儀に参列するなんて、牧本と対峙するまでは、そんな事態と提案があっても思いもよらなかった筈。
一度牧本が帰ってきて、吠えまくる刑事にまだ時間が必要だと、しれっとガチャリと電話切っちゃう。それまでは、牧本の、自分に集中しちゃって周りが見えなくなるが故の、というスタンスだったけれど、この場面では彼は明らかに、自分の意志を貫くために、神代刑事を切って捨てているのが爽快である。
鏑木が大事にしていたアルバムの中の娘、そして、蕪木が知ることのないまま産まれた娘、そして孫。それだけじゃない。時に家族以上に大切な存在になりうる友人。鏑木のホームレス時代の仲間たちが、彼らが出来る範囲の、精いっぱいのきちんとした格好で参列するのがめちゃくちゃグッとくる。
私はね……葬儀って対世間的なものでしかないと思っているから、故人がやらなくていいと指示しているのならそれが正解だと思ってる。私自身も、そう思ってはいるんだけれど……。
こと日本という国は、とにかく家族、親族、それが参列できなきゃ身寄りなし、孤独死完了!!ってスタンスでしょ。それが、本当におかしいと思うからさあ……。
牧本が死んでしまうオチは、冒頭に書いたように、それに接した瞬間は、えー!と思って、とても納得できなかった。
でも本作が、そもそも孤独死をテーマにし、それを肯定する場合も否定する場合も、あまりにも議論が深まっていないことに対する問題提起な作品なんだなと思ったら、めっちゃ納得できたし、議論バリバリしてほしいと思う。
牧本は自分で購入した墓の区画を鏑木遺族に譲り、自らは無縁墓に入ることになったというラストは、胸に迫りまくる。
これを、単なるイイ話にしてしまったら、ダメなんだよ、ホントに!!★★★★☆
作劇も役者さんたちの芝居もどれもこれも壊滅的なのだが、そもそもこの原作よね、と思う。当然、あの「バブルと寝た女たち」が原作。ラストクレジットでもそれが確認できる。
だけど当然、あのバブルじゃなくて、タイトル通りITがもてはやされだして、一部の億万長者も確かに産み出したあの頃を舞台にしている訳で……。なのにこれ、あのバブルの原作そのままを下敷きにしてるでしょ。時代を移している感じが全くしない。
豪華なホテルでパーティー、豪華クラブでねーちゃんはべらせてピンドン、ピンドンっつーのももはや昭和な響きすら漂う、それこそバブル成金用語である。
何も知らない無邪気なヒロインは、劇団か芸能事務所に所属しているのか、その描写は80年代フラッシュダンスかなんかをほうふつとさせるような、狭い稽古場でだっさいレッスン着に身を包み、誰でも練習すればそれなりにできそうなダンスをさも一生懸命にやっているイタさ。
そのヒロイン、碧(みどり)が、同郷の友人(は同じレッスン生でもある)、麻美に連れられて出会ったのが、IT革命児として時の人、小田島である。合コンと言って連れていかれたのに豪華なホテル、ピンドンである。
麻美は派手なドレスに身を包み、デニムスタイルの碧は身の置き所がない。友人同士とはいえ、最初から碧と麻美の関係はこんな具合に明白である。
麻美は自分の引き立て役として碧を連れて行ったんだろう。なのに思いがけず碧は小田島に釣られてしまい、麻美は歯噛みし嫉妬し、後に男を使って碧に事故を負わせるなんていう暴挙に出る。
こう書いてみれば、こういう展開を上手く持っていけば面白そうな感じはあったんだよな。なのになんたってすべてが古臭く、芝居がクサいもんだから(爆)。
そうそう、原作者の家田氏が劇中、テレビのコメンテーター役として出てくるのね。ITなんて虚業ですよ、と吐いて捨てるように言う。なんかピンクの髪して(爆。照明の加減で金髪なのだろうが……)。今の時間軸から見れば、彼女の言うことが全く当たらなかったことが明らかになっちゃったから、本当に、イタい。
ITがもてはやされた当初は確かに、一部のトップがもてはやされたから(今もそうだけど)なるほどバブルチックな雰囲気はあった。しかし今や、それがなくては世界が回らず、それがあってこそ世界が狭くなり、遠い国の人たちと手をつなげる。むしろいいもの、なくてはならないものになる世界を、家田氏は見通せなかったことを露呈して、本作の価値をさらに下げちゃう。
ITバブルと呼ばれるものは確かにあったのだろうけれど、その実態がまったく本作の展開に反映されてないし、先述のようにそれが淘汰されてこその今のIT社会の成熟である。ここに描かれるのは先述したようにあのバブルそのまんまの懐かしいフィルムって感じなんだもん。
小田島が畑違いの碧を釣ったのは、突然オシャレなピアノを弾き出した小田島に碧が吸い寄せられたからなんであった。うっわ、この展開でもう吐きそう(爆)。IT革命児がたわむれに、退屈なパーティーの片隅で奏でるおジャズでござい。うっわーイタすぎる。
ぱちぱちぱち、と無邪気なお顔で小田島に拍手を送る碧に、場違いなところに来たお嬢さんだと察した小田島は、運転手付きの自分の車で送り届けた。そしてその後、自分がスポンサーを務める映画のちょい役に手をまわして抜擢したり、舞台の主人公に選ばれたのもどうせそうでしょ。
なのに君には才能があるんだからとか思ってもいないことをささやいて、おめーのせいで友達の嫉妬をかって怪我をしたのに、あきらめるなとか歯の浮くような台詞を言って、そしてプロポーズの時には、「今すぐ芝居を辞めろとは言わない。でも僕だけのヒロインになってほしい」かーっ!!何この台詞!!
まず前段は百パーセント許せない、後段はまんま、ない。半世紀前の少女漫画であったって許せないレベルのクサクサ!!……一体この脚本はどうなってんの……マジでイタいんすけど……。
ところで、碧は町子さんという、敬語で話してる妙齢の女性と一緒に住んでいるんだけれど、この関係がまず、判らないんだよね。
叔母なのかなとも思うが、全然明言されないし、あんな億万長者と結婚しちゃって碧の親も親戚も全く出てこないってのが、ありえないが、つまり碧は天涯孤独、町子さんしか庇護者がいないってこと??だったらだったで、かなりドラマティックな境遇だと思うのだが……。
まぁこんな具合にすべてにおいて片手落ちな上に、なんなのこの芝居のクサさは。わざと演出つけてるんじゃないのかなあ。特に小田島の妻役の喜多嶋舞(!)と、小田島を陥れるためにつけられる秘書の女の芝居は、これは絶対わざと演出としか思えない。だって喜多嶋舞氏がこんなにクサい芝居する訳ないもん。
「あなたが5億の女ね〜↑」なにあの抑揚!秘書の女もくねくねしちゃって見るに堪えない。そもそも5億もの慰謝料を払って最愛の碧と一緒になったのに、こんな薄っぺらいスパイ女にあっさり陥落するとか、ありえないんですけど!!
……まぁ、碧と恋に落ちる過程も説得力なさ過ぎたからなあ。正直、一体何が気に入ったのか判らない。自分の存在を知らず、無邪気にぱちぱちしてくれたのが良かったのか。
マイフェアレディかプリティウーマンよろしく、これから食事に行くところにはちょっとカジュアルすぎるからとか言って、高級店で服を買い与え、ヘアメイクも、って、おーいー!!女のプライドはないんかーい!!
ないわ。こんなん恐縮ながら受けるとか、ないわ。逆にこの服に合う店、居酒屋に引きずっていけ!!と言いたい!!しかもなにあのヘアメイク。完全にキャバ嬢やんか、ありえん!!
なのに碧は小田島と仲を深めてっちゃう。麻美の嫉妬によって怪我を負わされても、怪我が癒えての温泉旅行で一気に小田島の離婚、碧との再婚まで決めちゃう。
てゆーかさ、そもそも麻美の嫉妬の決定的な引き金は、「高そうなブレスレットをちゃらつかせてさ」ということだった。ホンット、みるからに高そうなキラキラのブレスレットを、あんなアングラ稽古場でつけてるなんて、攻撃してくれと言わんばかりよ。
碧のそういう純粋な世間知らずさの一方で、麻美はしたたかに金にある男と付き合い、そのためには友達も利用する。最後まで碧はそのことに気づかず、なのに彼女の方が勝者になった。一度は転落しても、もう一度自分の人生をつかみなおした、だなんて、上手く行きすぎだよなあ。
おっと、先走ってしまった。温泉旅行で碧は小田島とついに結ばれるのだが、まーこれが。一応惹句では、三津谷葉子の体当たり演技とかいうからそこに救いを求めていたが、なにこれ。今まで見た中で史上最低のカラミだわ。
おっぱいを出さないのはまあ、よくある。でもこの点も、このタイトルだし、友人の麻美や秘書として陥れる女はがっつり出してるし、それでヒロインのあんたが乳首死守するって、カッコ悪すぎるでしょ!
おっぱいは一応出してる。でも小田島の手にもまれて、その全容は全く見えない。カラミシーンも全然エロくなくて、なんかうーうーうなってるだけで、乳首死守しまくるのがただ肉をもんでるだけみたいで、メチャクチャ興ざめしちゃう。ここでしょ、女優の魂の見せ所はここでしょ!!何やってんの!!
麻美の愛人であるうっかり男が投資に失敗し、自分の会社を小田島に売りつける。小田島にとっても大きな取引で悪くない話の筈だったが、ほんの小さなシークエンスで、町子の個展に碧と共に訪れた時、自分の会社の株を買いませんかとうっかり口にした小田島。
町子から、それってインサイダー取引じゃないですかとやんわりたしなめられた描写からも分かる通り、小田島はわきが甘かったのだ。だからこそあんなわっかりやすいエロエロ秘書に陥落したのか。
いやでもなあ、政略結婚のような妻を5億のカネで捨ててまで碧と結婚したのに。5億なんてはした金だったってわけ??そらそうかもしれんが、その直前まで、結婚してしばらく、M&Aで足元救われるまでは、ちゃんとラブラブだったのになあ。
うーん、でも、恋愛に至るまでの経過が、先述のようにあまりのクサさとカネ見せつけるわ!てな描写のたたみかけだったから、結局碧は金に飽かせた愛情表現を勘違いして受け取っちゃっただけなんじゃないの、という気がどうして もしちゃう。ヘリコプターとかありえんわ。酔うわ、普通に(爆)。
一度だけ庶民的な描写、小田島がカレーライスを作ってふるまうシーンがあるが、そもそもあの場所はどこなの。庶民的なアパートチックな場所で碧の部屋かなとも思うが、町子さんと住んでいる描写は何度か示されるけれどどうも違うようだし、そもそも二人きりラブラブシークエンスでそれは難しいだろうし、こんな部屋、億万長者の小田島の部屋とも思われず、本当にナゾ。
しかもカレー作って、おいしいー!!とか言うこんなイタいシーンを見せられる苦痛で、謎まで増やすなよ。なんなのよ、もう。
小田島は逮捕される。彼が焦って電話をかけている感じでは、結局は政治家に不正献金とかしていて、それもかなわずの、仲間から裏切られての、わきが甘くてのこの結果だったのだから、これはITが虚業とかバブルとかじゃなくて、単に個人の問題であろう。
驚くべきことに麻美は愛人の男のあれこれをすっぱ抜く!と吠えたせいでか、自殺に見せかけて陸橋から投げ落とされてしまい、今、碧は麻美の墓参りをしている。
おーいー。穏やかに、麻美の分まで頑張るからねとか、おーいー。この死の真相はガン無視かよ!!しかも、なんかしれっと役者復帰してるし。
そもそもそんな認められた役者でもなかったし、小田島から俺だけのヒロインになってとか言われてぐずぐずになってたくせに、キラキラなドレス着て、しゃなりしゃなりとステージに向かうとか、ないわ。
イタすぎるでしょ。役者に執着し、やり続けたかったんなら、俺だけのヒロインになってとか言われた時に、反論しろよ!!あっさり抱きついてんじゃねーよ!!
そもそもこのくだりは前もって町子さんから指摘されてたじゃねーか。自分より大きな夢を追いかけている男と付き合うってことは、そういうことよ、って。
このシークエンスをきちんと用意していたのに、俺だけのヒロインになってくれと言われてあっさり陥落、そして小田島のわきの甘さですべてを失い、その後、碧は主役の舞台に立ってる。ありえんやろ!!そんな甘い世界やないやろ!!
碧が才能があるのに運命の恋に落ちたがゆえに諦めた、という展開があったんなら判るよ。ないやん。常に小田島の後ろ盾で役もらってたやん。しかもそれを知ることもなく、だから恥ずかしく思うこともなくって、何それ!!
一体本作は、何を言いたいの、何を訴えたかったの。時代も反映してない、男女の関係も時代遅れ、ドラマティックな展開の回収もなされない、わざとらしい芝居の演出は功を奏さず寒いだけ。なんなのこれ、本当に問いただしたい!!★☆☆☆☆
ピンクでバリバリ撮っていた城定監督、そして今泉監督の才能に驚いたのはという青春Hというエロ企画だったので、なんか妙に感慨深いというか、腑に落ちるというか。
今は、特に今泉監督の方はエロは撮っていないのに(てゆーか、多分あの「終わってる」だけだと思う。ホント大好きな作品)、ここで、圧倒的な才能同士がR15プログラムでつながるというのが、面白くて。
今泉監督の脚本って凄く詩的で独特で、それを自分じゃない監督作品に提供するというのが、全然イメージできなかったんだけれど、そこはヤハリ城定監督はオールマイティーというか、フラットに何でもやれちゃう人なんだなあと思う。
だって、語弊があるかもしれないけど、まるで今泉監督作品のようなんだもの。脚本が作品の印象を支配するということもあるのかもしれないけれど、そこはやっぱり、その脚本の世界に演出を憑依させちゃう力なんだろうなあ。
このタイトルは今泉監督の出世作、「愛がなんだ」を否応なしに想起させるけれど、ホントのところはどうなんだろう。
想いがすれ違う切なさを描かせたら今泉監督は断トツのけた違いで、すべての作品において多かれ少なかれそうした彼ら彼女らの感情の機微が描かれているのだから、ことさらあの作品と共通しているという訳でもないのだけれど。
でも、愛、愛かあ。愛の定義は難しい。本作の中に、果たして愛はあったのだろうかと思う。確実に恋はあったけれど、愛はあっただろうか。
てゆーか、愛ってなんだ。愛がなんだじゃなくて、愛はなんだ、なんなんだろう。愛しているから結婚するとか結婚したいなんていうのは、いい意味で無意味(ヘンな言い方だが)なのが大人になるにつけどんどん判ってきちゃう。
人生の伴侶なんていうカッコつけた表現でさえなく、妙齢の男女が結婚に見出す価値観は、それぞれ微妙に違うのだけれど、少なくとも純粋な恋でも情熱の愛でもないことは確かなようである。
主人公は瀬戸康史氏。ドラマを観る習慣がないせいか、彼に接する機会があまりなくって、童顔の美少年キャラのままで私の中では止まっていたので、お髭を生やして、がっつりセックスシーンをやってのける彼に、まるで息子のそんな場面を見ちゃったみたいに、ちょっとうろたえてしまうおばちゃんである(爆)。
でもそうだよな、そうだよな、それなりのイイ感じの年齢になり、たくわえたお髭も案外似合ってる。レトロなフレームの眼鏡がキュートさを残し、そこんところに、彼自身の持つ、かつての童顔美少年の面影とキャラクターが見え隠れする。
そう考えると、瀬戸氏のキャスティングは絶妙中の絶妙だわと思う。ワレラ観客の勝手な思い込みでの少年ぽさは、かつてのバイト仲間にずっと片思いしてて、何度も告白しちゃって、そしていまだに忘れられないというあたりに残されている。
フツーに考えれば、イタイというかキモイというか。でも彼の童顔と少年ぽさが、そんなことを思わせない。イタイ、キモイというのが、思いがけない方向から後半のクライマックスでぶつけられるのに接すると、なんとまあ上手いこと上手いことと思っちゃう。
しかも、そんな純情ぼいキャラなのに、セックスは上手い。ずっと袖にされていた片思いの女の子を骨抜きにしちゃう。
おっと、なんかいろいろすっ飛ばして、とりあえずエロに行ってしまった(爆)。ゴメンゴメン。でも、言いかけたからまあ言っちゃうけど、きっと特段、多田(遅まきながら、これが役名である)はセックスが上手いという訳じゃない、普通、なんだろう。熱烈な片思いの相手に対するアプローチとしての情熱が加味されていたことと、背徳の行為を二度までもしてしまった、その片思いの相手、一花の複雑な心理状況も作用していただろう。
谷崎とか、団鬼六とか、性愛の相性こそが男女の大事なことと、文学ロマンティックさんは思いがちな部分もあるのだけれど、でもそれは、一生付きまとうものでもない。だけど……。
多田は古本屋の店主。今は亡き父親から引き継いだらしいことが、ひっそりと手を合わせる小さな仏壇から知れる。そこにやってくるのが女子高校生の岬。いきなり万引きして、捕まってみればいきなり告白、どころか求婚してくる。万引きも、自分の名前を知ってほしかったからというムチャクチャな理由。
若すぎる、犯罪になる、とまっとうな拒否理由を口にする多田に、そういうことをしたいんじゃないんです。好きだから、一緒にご飯食べたり、映画を見たり、一緒に過ごしたいんです、とあっさり言い返す岬。そして毎日のように、求婚の手紙を渡し続けるんである。
彼女の行為、というか、想いに、若いとか、幼いとか、判ってないとか言うのは簡単だけれど、多田、一花、一花の婚約者の亮介、亮介のセフレの美樹といったねじれた性愛事情が明かされてくると、岬の考え方が、実は一番大人で、理にかなっているのかも……と思えてきてしまう不思議である。
恋愛に、そして結婚には必ず、セックスが必須だと、そもそも性欲がなければ恋愛が成り立たないという前提は、一昔前ならば当然だったかもしれないけれど、この多様性の時代になって、それは大きく崩れつつある。
確かに一花は夫となる亮介とのセックスがいかに貧弱だったかを、彼の浮気によってじゃあ自分も!!と突っ走ったことで知ってしまう。でもそれは、多田が傷つくだけの、愛など一ミリもない、ただ気持ちいいセックスなだけなのだ……。
まことしやかに、身体の相性が夫婦となるには大事、などと言われてきたが、本当にそうなのか。だって一花は、“みこころのままに”また気持ちいいセックスがしたいがために、それだけのために、多田ともう一度会った。多田が自分のことが好きだから、それこそを亮介への当てつけにするためだったのが、セックスの気持ちよさに溺れてしまった。
それはさ、それは……多田が彼女を好きだから、それが大いに作用した“身体の相性”だっただろうと思うのに。そしてそこに、多田は気持ちが入ってたけど、彼女はその気持ちを今まで自分が経験したことない、なんかこう、アトラクション的なものとして受け止めてしまったというか。
いや、いやいやいや。一花はすごく苦しんでた。結婚式の準備に亮介が協力的でなく、追い詰められた先に知った彼の浮気に苦しんでいた。でもそこでナヤミは180度反転しちゃって、彼女の中の苦しみがなんなのか、彼の無理解なのか、浮気されたことなのか、セックスが気持ち良くないことなのか、なんかよく判らなくなっちゃって。
亮介が浮気している、彼らの結婚式を世話しているウエディングプランナーの女性が至極あっさりと、亮介のセックスのヘタさを指摘するのには笑ったが、でも、セックスのヘタさって、女性に対してはあまり言われないような気もすることを考えると、結局受け身なのかなと複雑な気持ちにもなってしまう。
結局一花はコイツとの結婚を選択し、多田は味合わなくても良かった手ひどい失恋を二重三重に味わうような形。
岬は相変わらず多田に求婚し続けていたけれど、彼女に言い寄る男子高校生なぞがいて、なかなかに重層的な展開。
岬に一度でいいから返事が欲しいと請われ、したためた手紙は、いつか君を好きになるかもしれない、なんていう内容。
これがなぜか彼女の両親の手に渡っちゃって、家に押しかけてくる。気持ち悪いんだよ、と吐き捨てる母親に多田はキレた。怒り心頭に達した。
不思議。だって、確かにそんな手紙を、返事を、岬に渡したけれど、どこかリップサービスのような内容で、多田はまだまだ一花のことをひきずりまくっていたし、でも岬のまっすぐさが好ましい、否定するとか拒否するとかいうことには当たらない、という程度であっただろうと思う。
なのにあんなにも爆発してしまったのは、そりゃ当然、自分が一花に玉砕したことや、岬が自分に寄せてくれる好意、それが誰にも否定されるべきものではない、独立した、パーソナルな、神聖なもの、だということが、……そこまで具体的にイメージされていた訳ではないにしても、爆発的に彼の中にスパークしたのが見えた気がした。
正直、この先、多田と岬が本当にそんな仲になるのか、可能性は薄そうに思える。
あれだけ情熱的に、もう私は16歳、結婚出来る年齢、何度でも求婚しますと言い、多田の読む本を読みたがり、自分に言い寄る男の子と付き合おうかななんていう駆け引きは、一花が多田に仕掛けた行為の、その芽吹きのようにも思えてドキッとさせつつ、でもやっぱりまた素直に戻ってきちゃう。
そんな女の子と多田が、すんなりゴールインするなんて、半世紀前の少女漫画ならあるかもしれないが……という切なさである。多田だって、判っているだろう。
女の子は、女性は、こうやって男を置き去りにして、自分なりの結論を得て勝手に進んでいっちゃうのだ。涙を流し、苦しむ姿を見せながらも、妥協の材料にされるのは男なのだ。でもそれが、女の子の、女性の幸せなのかどうかは判らないけど……。
一花の夫となる中島歩氏は、本当に独特の声と喋り方。彼と池松君はもうなんつーか、エロキューションだけで成立しちゃうと思っちゃう。
それがこんな風に、どこかマヌケにポイントおかれると、独特の空気感を醸し出して、ホント面白いんだよなぁ。★★★☆☆
それこそウィキなんぞを覗いてみちゃえば、この女がどうしようもない愚かさとしか思えないのだが、映画化においていろんなそぎ落としをしているせいはあるものの、明らかに作り手は、彼女が道を踏み外したのは、彼女自身の愚かさではないと言いたかったんじゃないか。
どこかでいつでも引き返せたのに、その都度出会う人たちや、社会の仕組みが、容易にこうした……まぁ結局は愚かだということなんだけど、この道を行けば幸せになれるかも、と思ってしまう人間にとって度重なるトラップとなった結果がこうなのだ、ということを描いたのだと思う。
そんな凄惨な事件もテキストで書き起こすだけでは判らないものがあって、本作の作り手は、彼女がなぜこんな愚かで短絡的な、いわば子供じみた嘘と芝居に塗り固めた犯罪の果てに殺人まで犯した(犯させた)のかという、その彼女の心に深く分け入っていく。
出会い系サイトという、今ではもはや死語となりかけた、そう、これを経てのマッチングアプリという“健全な”進化を遂げるために通過しなければならなかったような位置づけの、ネット成長期のあだ花が、その中でも幸せをつかんだ人もいるだろうに、そうではなかった究極の事件の中の人間に興味を持ったのかもしれない。
物語の冒頭、エミコは女の子を産み落とす。次のシーンではすでに、その父親がクズ男であり、勝手に産みやがってと言いながらエミコを組み伏せ、泣き続ける赤ちゃんに罵声を浴びせ、金をせびってパチンコに出かけようとして、エミコと口論になり、彼女をぶっ飛ばすんである。
その次のシーンでもう、エミコが赤ちゃんを連れて田舎に帰っていくから、私はなんだか意外な気がして……。いや、この時に意外な気がした訳じゃない。全編観て、そして実際の事件のこともちらりとだけど知って、だからこそ、意外な気がしたのだ。
本当に愚かで救いようのない女なら、この時の取捨選択は逆であった筈。いやそもそも赤ちゃんを産む選択自体してなかった筈。経済的な理由で堕ろせなかったというには、きちんとベビーベッドを用意して、あやして、いつくしんでいる様子からは母性が感じられるし、その後の母と娘の関係は常に良好なのだ。
“街で一番の女”(という歌が本作のテーマソングのようになっている)を口ずさみながら、ど田舎の故郷に戻るエミコ、その歌は後に幼い娘も口ずさみ、自慢の美しい母親であり、むしろ母親よりも気が強く育ったこの娘は、疎ましくあしらう兄夫婦に、あんたらが出てけや、と言い放つほどなのだ。
無論、エミコが後に執着することになるマッチョなイイ男、アキラとデートする時は両親にまかせっきりという都合のよさはあるし、実際の事件の経過をウィキで読んじゃうと、そこんところがまさに、いかにもな日本的価値観において批判されている部分なのだけれど、映画化となった本作においては、子供をほったらかしにしているという感覚を周到に排除している。
エミコは実家を飛び出して、子連れでしおしおと帰ってきた、という、田舎的価値観にとっては、都合のいい女、というだけなのだろうが、両親にとっては可愛い孫娘を連れてきた訳で(これもまた古い田舎的感覚なのだが)、後にこの孫の父親であるあのクズ男、エイジがカネをたかりに訪ねてきた時には、エミコは連れて行ってもいいけれど、この孫は、というあたりに、如実に表れている。
それは単なる孫可愛さではなく、血を残したい、いや、残さなければという土着的絶対的価値観があり、それを思うと、兄夫婦からは邪険にされてもエミコが迎え入れられたのは子供がいるからであり、恐ろしいことにそれを最も判っているのは当の子供、ランであり、兄夫婦は父親が脳出血で倒れた病院の、空き部屋に忍び込んで、子供を作らなければと必死にセックスするという凄まじさなのだ。
エミコはこの四面楚歌の実家で暮らしていくために、出会い系サイトのサクラを演じる仕事を始める。後にオーナーから七色の声を持つ、なんておだてられる芝居力の高さで、高収入を得ていくのだが、これもまたオーナーにおだてられ、新しいアイフォンを持たされ、ローンを組まされ、という、エミコはやっぱり、……愚かなんだよなあ。
あんたみたいなきれいな子はばんばん稼げる、七色の声を持っていると評判だと持ち上げられ、自分がいっぱしの売れっ子だと、なのに最初に提示された月収50万に四年経っても届かない不満を、二台持ちでローンを組まされたことでかわされたことに、疑問を持つこともないのだ。
先述した、出会う人間、社会の仕組み、っていうのはこういうことだ。浅はかで愚かだという、いわばそれだけのことが、結局は死刑か無期懲役かといった犯罪に手を染めるまでのトラップにはまっていくのは、こんな風にそうした彼らを上手く使って切り抜けていく、稼いでいく人間や社会の仕組みがあるからなのだ。
エミコがひっかけた中で、カモ、とケイタイの登録にするほどエミコに心酔するのが、真之助である。キャストクレジットを見た時からこれはヤバいと思った岡山天音氏。
バツイチの整備工。必死に働いて200万も稼いだが、仕事ばっかの俺がつまらんくなったらしくて、と奥さんに浮気され、捨てられた。バツイチの経験があるからこそ、次の出会いは大切にできる、とエミコとの出会いにのめりこんだ。
感じとしては、思い切って出会い系に登録して、初めて返事が来た相手、みたいなぐらいのウブさだった。そうでなければ、会う約束を袖にして、ふっつり連絡を絶ったエミコがサクラだってことを、察知しない訳がないだろう。
彼にとってエミコは最後までゆかりん。本当の名前さえ知らされてなかったことが判っても、そのことさえ知りたくない、運命の相手だと言い続けて、それを利用されて奴隷にされても、いや、むしろそれが明らかにされてからの方が、彼は幸せそうに見えた。
エミコの父親が倒れた。かつて浮気をして出ていき、自己破産しておめおめと戻ってきた、役立たずの父親である。
エミコの母親は自身の夫のそんな姿に、この役立たずを生かしておくべきか、と逡巡する、という戦慄の展開である。救急車を呼んで、生かしてしまって、あんたら面倒見れんのか、と、息子夫婦に吠えるんである。
でもそこで救急車を呼んだのは、あの、気の強いエミコの娘、ランである。ずっとずっと、彼女にはすべてが見えていたんだろうなあ。思えば、エミコが執着する男、アキラと出会ったのも、ランがきっかけだった。
これもまたエグい……エミコの兄嫁が、ボール遊びに興じているフリして、ランを車に轢かせようと、迫りくる軽トラに飛び出させようとタイミングを計るという……いやいやいや!交通量の激しい道路での話ならともかく、これはさすがにムリあるんちゃう……。
我が子の危機に飛び出して、間一髪事なきを得て、兄嫁をぶっ飛ばし、そして、この運転手であるアキラと、まさに運命的な出会い、だって愛する娘を間一髪で、そしてその後、子煩悩っぷりを発揮して、それがもとでその日のうちに急接近、チューまでしちゃうんだからさあ。
真之助にしても、アキラにしても、結局エミコはすべてをさらけだしていなかったのだ、ということなのか。
真之助に対しては、最後までゆかりんだった。ただ、名前は明かさなかったけれど、彼女自身の本性というか、それまでさんざん嘘をつきまくり、金を引き出させ、指を詰めるってところまで追い込んで、でも、正体がバレた。
むしろ、エミコが自らバレにいった。やっぱりゆかりんだったのか、と真之助は、指を詰めそこなった血の海の中で笑った。
いや、その前だ……お嬢様然としていた彼女が、はすっぱなヤンキー女として現れた時から、彼は判っていたに違いない。でもそれでも、最後まで彼にとっては本名さえも知らない、自分はイヌであるご主人様であった。
アキラにとってのエミコは、もうこれは……こんな恋愛こじらせは見たくない、ってなもんであるが、でも、一番の鬼門というか、そもそもアキラの姉が、病弱で弟に依存しているという姉の存在がなければ、本当にこの一点さえなければ、殺傷事件なんて起こらなかったのかも、ここまでの展開の、いわばチンケな子供だまし男女のもつれ、金銭問題のもつれの事件程度に収まっていたんじゃないかと思っちゃう。
いや、作り手側が、そう思ったからこその、作劇であったんじゃないかと、思っちゃう。ウィキを見ても思ったし、映画として作られた本作でも、やっぱり独特の違和感があったんだよね。
まるで牛乳の中に墨汁の一滴が落とされるような、違和感。ここだけが、浮世離れしているような。
病弱な姉がいるから、付き合えない。あれだけエミコとラブラブ、汗まみれのがっつりセックスまでしたくせに、そんなこと言うのだ。
女がいるのか、と勘繰るエミコ。女は女でもお姉ちゃん。身寄りもなく、たった二人の姉と弟。だから結婚できない。いやいやいや。もうこのテキストだけであやしさ満点だろ。実際がどうかは判らない。でも、……判らないけど、身寄りがない、病弱の姉と共に一生過ごす決意の弟、いやいやいや。これは危ないわ。どちらかが、これは違う、おかしい、お互いにとって良くない、と思わないのだとしたら、これは恋愛関係だというべきだわ。
本作においては、そこんところは、微妙である。少なくともお姉ちゃんの方は確実に、弟にそういう意味を含めても依存している。
作り手さん、イジワルだと思うんだけれど、エミコが真之助を刺客として送り込むんだけれど、リハビリさんとして送り込んだ真之助の巧みなマッサージ技術でなんかいい感じに心も身体もほぐれて、でも、なんたって殺すために乗り込んでるんだから、でもスキを突かれて、お姉ちゃん、必死に逃げて、フツーに歩けちゃうのね。
歩けないはずだった。遺伝で、手術も功を奏さなくて、弟と美しいこと、楽しいことを楽しみながら過ごすのだと、だからあなたはもう近づかないで下さいと、お姉ちゃんは言ったのだ。でも、真之助に首を絞められて、必死に逃げ出して、歩けてる、動けてるじゃん!!って!!
めっちゃ、ゾッとした。やっぱりそうだったのかと思った。弟と私は一心同体、だからもう弟に近づかないで、なんて、うっわーありえない。そりゃまあ私は健常者だからうっかり言うべきじゃないけど、女としてのプライドとしては、こんなことは言うべきじゃない以上に、いや、言わないでしょ、言うってことは、言うってことは……この姉弟は、それ以上の関係なんでしょ!!!と……。
言及はされないし、実際のウィキ的事実もそんなんしるされる訳もないんだけれど、恐らく作り手さんの方は、そういうことを感じ取ったからこそ、この事件を映画化したいと思ったんじゃないかと思うからさ。
このお姉ちゃんを山田真歩氏が演じてるってことが、絶妙っつーか、しかも彼女を手にかけるのが天音君っつーのも、なんつーか、たまらんのよ。
マッサージが得意、その武器を携えて、エミコからこの使命を下された。妄想かもしれんけど、弟との親密な生活だけを送ってきたお姉ちゃんが、優しいリハビリさんの、上手なマッサージに、妙齢の男子だし、なんか触られる個所とか、またこれが絶妙なカッティングと彼女の表情で。
で、この二人の絶妙感というか……普通に生きてる、その中でもがいてる、という、キャラっつーか、風貌っつーか、これ!!って感じで。
でも、だからこそ陥れられてる二人、普通に出会っていたら、いい感じの恋人同士になれたのかもと思うが、でも双方ともに、事情があるにしても、結局はパワーのある人間に依存しちゃって、今不幸な出会いをしている訳でさ……。
事件を下敷きにされてるというのは、本当に難しい。本当に、調べなければ良かったと思うけれど、でもどうなんだろう……。
改めて、事件云々じゃなくてさ、本当に、フラットな状態で、自分の思うところを怖がらずに、ってことこそだと、当たり前だけど、思ったわ。自信なさすぎ。★★★☆☆
そしてそんな時落ちた恋が、更に光明の見えないものであったならば。本作はちょっとしたオチが用意されてる。二人の出会いのシークエンスに、削られた部分がある。それが後々、実に後々になって明かされる。
親友の言葉、「来るべき時が来ましたか」は、まさにそれそのものの意味を持っていたのだ。その親友の言葉にマジで落ち込む彼に、連絡がつかなくなったのはほんのひとときであるのに、めっちゃラブラブで彼女のことが大好きだったのに、なんでそんなに簡単に??と思ったら、そうではなかったのだ。
彼女は結婚している。それを承知で、てゆーか、その前に彼女に恋に落ちちゃったから、その事実を知っても、先が見えていても彼は彼女との時間を選んだ。
ところで後から解説を見ると、二人は“彼女”と“僕”になっているんだけれど、劇中では名前を言っていなかったっけ?思い出せないので(あーやだやだ)エラく書きづらいんだけど、まあ仕方ない。
その僕が彼女と出会ったのは、学生最後の飲み会。就職が決まった勝ち組だと浮かれて騒ぐ空気についていけないのは、僕だけではなかった。視界の隅にとらえたスレンダーな美女。その横顔になぜか目が離せなかった。
こっそりこの場を抜けようとしていた彼女が何か探してなかなかその場を去らないから、思い切って声をかけた。携帯が見つからない、鳴らしてくれないかと彼女は言った。
後から僕が言うように、ベタな誘いにしか見えなかったし、その時は彼女は否定したけれど、そうだったのだろう。だって彼女は、後に白状するんだもの。夫に横顔が似ていた、と。
横顔、と言ったと思う。今こう書いてみて、僕が彼女の横顔にロックオンした最初の出会いのシーンが鮮やかに蘇って、かえってその記憶に自信がなくなってしまった。そんなベタすぎる運命だったのかと。
でも、当然、それはあまりにも不毛な運命である。だって彼女は、最初から夫の喪失を僕に求めていたのだから。だからこそ僕は、別れの時に恐る恐る確かめずにはいられなかったんだから。少しでも好きでいてくれた?と……。
彼女がひといきふたいき間を作るのが残酷すぎる。その後に発した言葉がちゃんと好きだったよ、というのもツラすぎる。ちゃんと、ってなんだよ、と。
なんかすべてをすっ飛ばしてるな。私、なんかちょっと怒ってるのだよ。こんな女子いるかよと。まあいるんだろうけれど、なぁんとなく、男子が年上女子に美しい失恋をする、けなげなボクちゃんみたいな文脈に若干イラッとするし、だからこそ正直、この彼女の造形は同性として、ないない、ないだろと思っちゃうのは、まぁひがみなのかもしれないが……。
演じる黒島結菜嬢はクラシックな美しさでどこかにあどけなさもあり、うっかりこんなことしちゃってもまあ許しちゃうかもというのがズルいなあという上手さがあるだけに、余計にもやもやとしてしまう。
結婚している大学院生。院にまで行く優秀さ、その上で結婚もしているってことは、さぞかしの夫との強い絆、と思わせる設定なのだけれど、先述したようにその謎解きは後々も後によって明かされるし、夫に似ていたから、という台詞一発だけで夫への愛の表現は終了してて、彼女が結婚している、という設定が、僕の失恋の原因のみに使われているような気がして……。
僕が学生から社会人になり、夢見ていた理想があまりにも幼かったことに直面、いや、その自覚さえなく、会社、いや、社会にその不満を転嫁する青臭さ。
同期の親友と悩みを共有し、酒を飲み、語り合い、そこに彼女が入り込み、酒を飲み、語り合う。明け方を迎える。学生時代は平気でオールしていたのに、こんなの久しぶり。昇り始める朝日を背に受けて、のぼるなー!!と叫んで走り出す。
若い日々を懐かしんでいるのに、やってることは充分若い。おっと、ついつい古代エジプト時代に戻ってしまいそうになる。
社会を、世界を変えるようなことをぶちかまそうと、親友と語り合った。この時同席してニコニコ彼らの話を聞いていた彼女は、本当はどう思っていたのだろうか。結婚していて、院から卒業して小さな個人企業のアパレルの仕事を得て。
彼らが大手の印刷会社に就職が決まった時には、彼らの方がそれこそ勝ち組に見えていた。でも実際は、当然希望する仕事になんてつけない。というか、言ってしまえば彼らの思い描いていた仕事なんて、夢か妄想だ。
僕は雑用みたいな仕事に追われる総務に配属されて、腐りまくる。同期の親友も、一見花形に見える営業に配属されるも、なぁなぁの古いやり方にへきえきして、二人して会社への不満をぶちまけまくる。
もちろん、こんな青臭い二人の妄想は後々、そんなもんじゃないと多少は回収されるが、僕の方だけだよね。その退屈に見える仕事も大事な業務であること、仕事にすべてをかけるのではなく、自分自身の生活を大事にすることで、バランスをとるのだということ。
指導役を演じる山中崇氏がそのあたりが絶妙で、冷たく見えるけど実は人情家で、みたいな、なんかとっても、ほっこりしてしまうんである。
でも正直、この指導役の会社へのスタンスというか本音なんてまるで判らないし、同期の親友は新天地を求めて辞めてしまうし、僕はこの会社にとどまって、ようやく希望する仕事が出来そうな異動届が出せるぐらいのキャリアを積むまでの年数を数えるんだけれど、なんだろう……もやもやばかりしちゃうのはなんだろう。
彼らが大会社だから、ここに就職決めたら勝ったと思ったところが、つまんない仕事にガッカリし、そのことで、仕事のやりがいや成功は大手ということではないのだと、親友は新天地を求める。一方で僕は、望まない配属と業務に我慢を重ね、社内でチャンスをつかんでのしあがろうとしている。
なんかどっちも……もやもやとしちゃうんである。小さなところでこそ、大きな責務を任せられる。親友の決断は大いに頷けるだけに、彼のその後の充実を、しっかり見せてほしかった。
僕との再会の時にちらりと話すけれど、まあ大変だけど、なんとかやってるわ、という程度で、大手企業から転職し、小さなところで任せられる大変さと充実感がまるで語られないのが、だったらそんな設定を用意する意味無いんじゃないかと思っちゃう。
そして僕の方はさらに不満が残る。私は大きな企業なんてトライすることさえ出来ないレベルだったからさ、そもそもこんな葛藤さえ判らないし、これを見たら、世の総務さんたちはモヤッと来ると思うなあ。
縁の下の力持ち、確かに能力が認められにくい総務というのはさ、むしろプライドを持つべきだし、私は持っている。花形業務がこぼしまくるすべての失態をすくい、誰も気づかずにスムーズに打ち合わせや会議が出来ること、備品が欠けることがないこと、掃除が行き届いていたり、もうあらゆることよ。それをね、それを……結局、僕はやる気なさげに、それこそ作業着を着ること自体にプライドを傷つけられているような感じでさ。
で、彼女との別れと同等なぐらいに重いエピソードが用意されていて、それが彼の仕事への意識をヴィヴィッドに示すシークエンスなんだけど……。誤植が発覚して、部署の垣根をまたいで総動員しての作業。そんな中起こる、工場の作業員が指を切断する事故。飛ばされた指を氷水にぽとんと落とされた、あの一瞬のスローモーション。
なんとか事態が落ち着いた時僕は親友に、正直に打ち明ける。実は興奮したんだと。つまりそれだけ、日々の仕事、生活が退屈だったんだという訴えであり、親友もそれには判るよと言ってくれるのだが……。なかなか危険なシークエンス。
でも、ここはその危険をおかすだけのことはあったかなと思う。なかなか言いづらいけど、まぁ判る、気はするから。でもここまでつらつら書いてきたとおり、なんかもやッとする、彼らの甘さはどうしても感じてしまうんだけれど。
でもやっぱり彼女だよな、と思う。黒島結菜嬢の絶妙な清楚な色っぽさと無邪気さで、なんかある意味、騙されてきちゃったが、これは相当、NGな女なんだもの。
夫の海外赴任、ついていけなかったのは自身の向学心、それは素晴らしい、だったら邁進しろよってところで、夫の面影を持つ年下男子をたらしこんで(イヤな言い方だが、この場合そうとしか言いようがない)、夫の目が届かないことをいいことにズコバコざんまい(……イヤな言い方だけど……以下同文)。
夫が帰ってくるのは当然なのに、まるで青天の霹靂みたいに、ゴメンね、でも大好きだったよ、ってなんなんそれ。夫がいない間、セックスしたかっただけやんか。
……すみません、口が過ぎました。観てる時にそう思っていた訳じゃない。決してそうではない。黒島結菜嬢のセンシティブな芝居は素晴らしく、僕が彼女に、未来がないと判ってても、ロマンティックな旅行先で涙を流しながらセックスしていたシーンの切なさとか、胸に迫るものは確かにあったんだけど、でも、でもでも、やっぱり後から、いろいろ思い返せば、やっぱり、やぁっぱり、ダメだよねこの女子、と思っちゃうよね。
なんていうのかな……こういうことは言いたくないけど、彼女のキャラというか造形というか、男子が考えるそれだよねと思っちゃう。こーゆー女子は、同性がハッキリ嫌悪するし、そもそも女子が想定する同性の人間性として、ないと思う。
こういう女子がいないとは言わないけど、こんな風に、アリな女子としては存在しえないし、劇中でも彼女に友達がいる雰囲気がないのが、そういうことなんだよねと思っちゃう。男子にとっての女子でしかなく、人間的存在感がない、ってことなんじゃないのかなあ。
……なんか書いていくうちに、こんなキツいこと言うつもりじゃなかったのに、自分の中にあるモヤモヤの正体を突き止めようとしていったら、なんか思いがけずというか……。切ない関係の彼らが共有する音楽のスタイリッシュな魅力とか、いろいろ言及したいところはあったのだけれど……。★★☆☆☆
そして本作の原作が、つまり自分の父と同業作家の女性との不倫を、その長女が書く、書いてしまう、ということの驚きである。
この原作も恥ずかしながら知らなかった……もちろん寂聴氏への綿密な取材、それを快く引き受ける寂聴氏、本の刊行時には心からの賛辞を送り、「娘が小説家になると信じて疑わなかったその父はさぞ喜んだことだろう」と綴るなんて、一体どうやったらこんな不思議な絆が築けるの!
この映画化のことも寂聴氏はとても楽しみにしていたという。見せてあげたかった。そしてその感想をぜひ聞いてみたかった。
現代においては特に、異様なまでに不倫というものに対する風当たりの強さ。さすがに「不倫は文化」(by石田純一)とまで言うつもりはないが、いやでもこうして、こうした作品まで到達しちゃうんだから、それもあながち当たってなくもないかも、と思っちゃう。
なんか変な方向に行っちゃったが、つまり、なんていうのかな、結婚という、いわば紙切れ一つで決まっている契約を侵すべからざる神聖なものみたいにあがめたて、配偶者がいる相手と恋に落ちるということが死に値するぐらい穢れたものだ、ぐらいの現代の感覚が、なんだろう……逆に古いというか、ああなんか、言えば言うほど間違っちゃう気がするんだけど(爆)。
つまり、結婚にしても恋愛にしても不倫にしても、その関係性は千差万別なのに、結婚こそ神の領域!みたいな言い様が、それがまさに今の、最先端の現代でさええ正義として振りかざされて、パパラッチが横行しているのが、なんと無粋な、と私は思っちゃうのだけれど、それはやっぱり私が独女だからなのかなぁ、と表立っては言い切れずにいた。
だから、溜飲が下がったというか。……それもまたちょっと違うかもしれないんだけれど。
つまりつまり、井上光晴、劇中では白木篤郎という作家は、女たらしで嘘つきの、どうしようもない男なんだけれど、そういう男は大抵モテモテなのよ。女は、嘘つきでどうしようもない、と判っていながら、いや、自分だけがそのことに気づいているのよ、という優越感もプラスされて、のめりこんでしまう。
彼の子供を二度も堕ろして自殺未遂を繰り返した女性、ファンクラブもどきの後援会旅行で関係を持ち、甘い言葉を真に受けて押しかけてきた女性、硬軟とりまぜ、常に篤郎の周りには女が群れ群れ。
でも、妻の笙子と不倫相手のみはるだけが特別の存在として残り、最終的には二人の女が篤郎の最期を看取る、そんな関係性にまでなる。
私は独女だから、結婚したことないから、この、世間的には、考えられない関係性に、そうだそうだと思うけど、それを表立って言えずにいた。今もまあ、言えないけど(爆)、こうして寂聴さんが、そして亡き井上光晴氏が、その娘さんである荒野氏が、そうだよそうだよと言ってくれている気がした。
井上氏の奥さんというのが……つまり本作における笙子、演じる広末涼子氏がまあこれが素晴らしいのだが、いわば最も興味深い人物。
不倫してる同士、この場合における篤郎とみはるは、不倫っていうのは社会的なカテゴライズで、単なる恋愛関係に過ぎない。過ぎないといったらアレだけど、つまりは、お互いパートナーがいるという障害が恋愛を燃え上がらせているという、ありがちな解釈は案外当人たちにはないんじゃないかと思う。
もう運命なのだ。古い言い方だけど、ビビッときちゃう。そんな障害で盛り上がるような薄っぺらい恋愛なら、7年も続く訳ないし、それを断ち切るために出家という究極の道を選ぶ筈もない。
そうか、そうなんだ、瀬戸内晴美から瀬戸内寂聴になったのは……。「あなたが私を殺したのよ」という、恋人同士最後の夜の台詞はなんと官能的で、そして究極の断絶であろう。
先述したけどいわばシンプルな恋愛同士だから、篤郎とみはるの関係性、展開は想像の範囲内。モテ男篤郎の、女心なんて判ろう筈のない残酷さは、冒頭いきなり自殺未遂の愛人を妻の笙子が見舞うという壮絶なシーンから示されるものの、そんなクソ男なのに、クソ男だと判ってても、女はこぞって彼に夢中になるのだ。みはるもホレた弱みでさんざん苦しめられるけれど、それは想像の範囲内。
対して、奥さんの心持は、本当に未知の領域だ。でも、ヘンな言い方だけど、カッコイイというか、こういう境地の女性に憧れてしまう気持ちは正直、ある。
もちろん、そんなこと言うべきじゃない、そんなんじゃない。演じる広末氏も、メチャクチャ苦悩する奥さんを体現している。夫に対抗するがごとく、他の男をくわえこもうとするも、その男が篤郎に心酔していて勃たなくって成立しない、なんていう、もうなんつーか、切ないつーか、情けないつーか、やりきれないつーか、こういう場合、女は男に対する報復を同じやり方ではできないのかという悔しさ、悔しさじゃないのかな……。
そのあたりのまどろっこしさ、夫を愛している、かどうかもまどうような、子供がいるからというんでもなく、夫の仕事を尊敬もしているし……この奥さんの複雑な立ち位置、めっちゃくちゃ難しい!いやぁ……デビューから惚れ込んでいる涼子ちゃん、ここまで来ちゃったか、と思って!!
篤郎を演じる豊川悦司氏は圧巻。井上光晴氏の風貌とはかなり違うと思われるが、悪びれない嘘つきモテ男、しかも作家というインテリジェンスを武器に女たちを陥落させる男。
憎たらしくもチャーミングで悔しいけれど憎めない、判り切った糾弾を、まるで幼子が思いがけないことで叱られたかのようにしゅんとする、みたいな、ズルいよ!!という男になれるのは、彼しかいないであろう!!
去年の、「子供はわかってあげない」の時には、ゆるんだ体形を見せていたのに、本作ではモテ男のシュッとしたスタイル、みはるを抱き寄せる、角度といい、服のしわの寄り方といい、あまりにも完璧で、コイツに良き父親とか、誠実な恋人とか、求めるべきじゃないと思っちゃう。
ああでも、良き父親なのだ。こーゆー男の場合、家庭を顧みないとか、暴力をふるうとか、ありがちだけど違うのだ。子煩悩だし、妻を愛している。マジで。それが両立しちゃうのだ。
特に妻に対しては、手料理の上手さをほめるのはありがちとは思ったが、予想していたよりもメチャクチャ本格的で、訪れる編集者たちを感嘆させるのを皮切りに、ラストシークエンスでは、因縁の、しかし濃密な絆を結んだみはるを、いや、出家した寂光を招いて、皮から手作りのぎょうざをメインに華やかな料理をふるまう。
それを篤郎は臆面もなくほめちぎる、のは、本当にマジに、尊敬して、彼女のことを愛しているんだということが、みはるを筆頭にさんざん女問題でトラブってきたというのに、すんなり呑み込めてしまうのだ。
これは、これはなんだろう……。めちゃくちゃ器用なのか、逆にめちゃくちゃバカなのか(爆)。
彼は100%、なんだろう。愛する奥さんの笙子にも、愛する愛人のみはるにも、その他大勢のつまみ食いのことは知られたくない。でもその他大勢と思っている女たちも本気で篤郎にホレちゃってる。ああ、もう、バカヤローである!!
この不思議な三角関係の他に、めちゃくちゃ魅力的なのは、丁寧に時間軸を追っていく、この時代の歴史だ。学生運動、東大陥落、三島の割腹……。実際、井上光晴氏の著作の中から抜粋して、三島の自決に対して、当時の感覚としての天皇制を絡めて、痛烈な主張が語られる。
そして、篤郎が講演で語る、戦時中の、朝鮮籍の人たちへのあまりにもひどい弾圧、それを見ないふりしてきた日本政府への批判。
学生運動や三島の自決に関しては、表面的なことでしか知らず、今の私たちはまだまだ理解不足であるし、今は韓国、北朝鮮、と分けて語られるがゆえに、朝鮮、という戦時中ワード自体が正直上手く呑み込めないまま、教育現場からも避けられたまま、今まで来てしまっている、と思う。
こうした、意義ある作品で、こんな風に接するたびに、問題意識は湧き上がるのに、下支えがされていない、教育が行きわたっていない現実をどうしても感じてしまう。
みはるは、出家を決意した。それまでにさまざまに、篤郎の奔放な女性関係に傷つけられていたというのはあるにしても、実際のところは……あの忘れられない台詞、あなたが私を殺したのよ、という、究極に、愛する男に責任をおしつけるじゃないけど、愛した証拠を一生胸に抱いていてね、ということだったのだろうか。
出家を決意したみはるのことを聞いた笙子は驚き、その後、その時を迎えたタイミングで、夫にみはるのもとに行ってあげた方がいい、と進言する。行ってあげて、じゃなくて、その方がいい、と。たくさんのマスコミが押しかけるのだから、見知った人がそばにいた方がいい。あなたが適任だと。
このシークエンスはホンットに駆け引きというか。結局篤郎はチキンハートだから、剃髪したみはるに平常心ではいられなくて、かつて彼女に、角瓶しかないなんて、オールドパーぐらい置いておくのが男を迎えるのには基本だ、とか言い腐っていたくせに、彼がお守りのように携帯して、不安げにあおりまくるのはミニサイズの角瓶なんである。でもね、そんな無粋な指摘は、しないよ。みはるは当然、あら、角瓶ねという顔はしていたけれども……。
みはるが出家した場面はギリギリ、スリリング。ヤリそうなキワキワだった。でも、踏みとどまったのは、その最大の理由は何だったんだろう。
夫から、ビジネスホテルに泊まってる、明日の夕方には帰る、と報告を受けても、笙子は即座にウソを見抜いた。なんの証拠もないけれども判っちゃう。確かにウソだったし、みはるがしのんではきたけれども、でも何もなかった。
何もないように、篤郎が踏ん張ったのだ。これはさ、これは……みはる、笙子双方への愛の形だと思うんだけれど、それは、不倫にアマアマな独女だからそんな風に思っちゃうのだろうか??
ラストシークエンス、篤郎の死である。ものすっごく印象的だったのは、篤郎が瀕死の状態だと観客には知らされないまま、それなりの時が経ち、笙子=広末涼子氏が、ブティックでフィッティングしている。なんたって涼子ちゃんだから、モデルさんみたい、似合ってる、という店員さんの誉め言葉もあながちオアイソじゃない。
ウキウキしながら向かうは、夫の入院している病院である。看護師から、ずっと奥さんの名前を吠えていたと言われる。奥さんじゃないとダメなんだ、それを、ステイタスと思うのか、女中や奴隷的に思われてるから、と思うのか。
私の父もまた、長年の闘病で、最後の数か月は、コミュニケーションもままならなかった。それが本当につらくて、見ていられなかった。
女である私は、女はしたたかだから、そんな事態に陥る前に、したたかに計算して、いろいろ自分の想いを通達するすべはあると思う。でも、男子はね……ホント、とーちゃんを見て思ったのだ。あんだけ賢く如才ない人だったのに、照れ屋さんがゆえに、決定的なところをぬかしていたのかもしれないと。
もー、とにかく原作読む!読みたい!!言い方気をつけないと誤解産みまくりだとは思うが、個人的にめっちゃ不倫モノ、不倫カルチャー、エロカルチャーとして不可欠な不倫、まぁあらゆる要素として、大好きなのさ(爆)。
あくまでカルチャーとして、あるいは恋愛事情として、不倫は不可欠なものだし、逆に、だったら結婚なり、夫婦なり、その意義を考えなおす、結婚や夫婦という関係に安穏すべきじゃないという提案がなされるということじゃないの??ああ、どこまで踏み込んだら、炎上のラインは、どこなんだろ。怖い怖い!!★★★★☆
そうはいってもその男は極道なんだから、ということなんだけれど、極道の妻として強くしたたかに生きていく女はやはり虚像であって、実際は女は弱く、愛する男が縛られるくだらないヤクザの掟に逆らえないのだ。
でも不思議なことに、その掟があるゆえに、男ばかりがばんばん死んでいって、女ばかりが生き残る。愛する男を死にゆくのを止められない弱さがあるにしても、生き残るのは女ばかり、だというのは皮肉なのかもしれない。
そういう図式だから、物語はぐっとシンプル。こういう組同士だの、兄貴分だの、流派だのが入り混じるヤクザものの図式は大抵の場合、頭の悪い私にはちんぷんかんぷんなのだが、本作はそういう意味ではとても判りやすい。
欲深の卑怯者、石橋蓮司演じる二階堂が諸悪の根源、コイツがすべての原因。トップを取りたいがために、次々と若いもんを使って有力者をぶっ殺していくんだから、彼を支える組織自体が崩れ、自分の首を絞めるのは目に見えているのに、それが判らないバカなんである。
てか、そーゆー親分に、親分だからと、兄貴分だからと、それだけで従わざるを得ない義理を重んじる極道の男たちがバカばかりである。
表面上は男の美学、メンツとか、そういう風に見えなくもないけれど、最終的に男が全部死んで、女が全部生き残るんだから(あ、全部じゃない、下っ端の若いカップルは二人とも騙されて死んじゃって可哀想だった)アホか、と言いたくなるわけ。
今ではすっかりベテラン俳優たちが、絶妙に若く、それが妙にドキドキしちゃう。ヒロインの桐子を演じる高橋ひとみはいつの年代でも美しいが、この妙齢の時の彼女の美しさは、見ごたえあり!特徴的な左目の下の三つのほくろが、ひどく色っぽい。
愛する男、勇との過去回想シーンはモノクロで、早稲田の学生である彼女はインテリのお嬢様、勇はヤクザになりたてのチンピラ、初々しいデートシーンや、彼女を巻き込みたくなくてヘタな芝居をうったり、ザ・青春。
でも勇は、ヒットマンとして刑に服すことになる。桐子のお腹には彼の赤ちゃんが。桐子は絶対に別れないと言い張るが、勇の親分、二階堂の目に留まって手込めにされて、極道の妻となる訳なんである。
勇を演じるのが豊原功補氏。うっわ、彼の絶妙な若さは、豊原氏自身が今見たら恥ずかしいんじゃないかなーと勝手に想像して、こっちが恥ずかしくなっちゃう(爆)。
筋の通っている男、という組内での評は聞こえがいいが、結局は使い勝手が良く、黙って鉄砲玉になってくれるというだけの男である。8年ものお勤めを終えて戻ってきても、ご苦労だったなと言われて当座の資金を渡されるだけで、ほっとかれる。そして次に呼ばれる時には、こんないい歳をしてまたしても鉄砲玉なのだ……。結局は、ヤクザの義理をピュアに重んじるヤツが損をするだけで、ビジネスと同じ、汚い手を使ってものし上がるしかない世界。
でも、二階堂はバカだったと思うけどね。だって汚い手はある程度必要にしたって、人心を掌握しなければ、自分に刃が向くのは目に見えている。それは、女に対しても同じ。かんっぜんに女をバカにしてるっつーか、これは時代だよなあ、本当に、女は自分の所有物、性のはけ口、メチャクチャわかりやすくさ。
いい女だなと言っておけば誉め言葉だと思ってるのか、極道社会の中で、姐さんとたてまつっていたとしたって、その背後のその姐さんのダンナである親分さん、時にもはや亡くなってしまっていたとしたって、その配偶者だからたてまつっているだけなんだもん。でもそれが裏目に出て男全滅、なのが溜飲が下がるんだけどね(爆)。
その全滅する男どもの中には他にも、心躍る絶妙に若い今やベテランたちが勢ぞろい。てかさ、そもそもの石橋蓮司よ。この人の変遷はホンットに面白いよね。この当時の、イヤらしく若さを残し、エロとズルさ、でもちょっとはげ散らかしだしているタイミング(爆)、派手なテロテロシャツをスラックスにインしているダサヤクザな感じが、絶妙すぎる。豊原氏が、気恥しいほどの若さで、つまり可愛いっつーか、いじらしい、っつーか、てのに比しての、もう石橋蓮司!!なんだもん。
そしてなんたって菅田俊、白竜のお二方よ。この二人もこの当時のぜっつみょうの若さ。菅田俊は二階堂の手下。白竜は跡目争いで二階堂の敵となる相手。つまりは勇はこんな中では、8年もお勤めしたのにまだまだ下っ端で、板挟みで、結局またしても鉄砲玉になるしかないのが情けなさすぎる。
そうそう!田口トモロヲ氏が!!めっちゃ若い!!彼はそもそも貫禄がつくタイプじゃないし(爆)、つるんとした毒のない感じは今も変わらないのだが、それにしても若い!!
二階堂のデータ部門の頭脳で、うっわこれも涙が出るほど懐かしい……ブラウン管パソコン、データが映し出される凸画面がちらちら波打ってる。その画面を前に、あおっちろいメガネのデータマンよ。
当時のパソコン、いや、その言葉自体、まだ一般的じゃなかったような。コンピューターによるデータ解析、みたいなさ、あーもう、エモいエモい!(こーゆーのをエモいというんじゃない??)
勇が獄中にいる時に、彼にもその存在を告げ、娘が産まれたらこの名前を付けると彼自身が言っていた、そんな幸せな時があった、桜という8歳の娘である。出所した勇は、桐子が言っていた娘の存在に遭遇し、動揺する。結局、父親らしいことどころか、父親と明かすことも出来ぬままである。
その前に、桐子が自分の親分の妻に、つまり自分は彼女を姐さんと呼ばなければいけない立場になってしまった訳で……。こここそが、本作のもっともキモとなる部分で、系列の組の姐さん、それこそ二階堂の謀略によって殺された親分の妻は桐子に対して、自分のダンナがぶち込まれている間に、その親分とデキた女、と吐き捨てる。まさに、事実だけ見ればそうなんだけど、それはどっちの男も、ダメ男で、クズ男だったからで、桐子はただただ、被害者なのだ。
勇はヤクザの義理を優先して、子供がいると訴える桐子を突き放し、離縁した。二階堂はイイ女であるということは大前提だったけれど、きっとそれ以上に、刑務所に追い払った、使い捨ての鉄砲玉の元妻なんて組み伏せられる、というぐらいに、レイプまがいに、いや、レイプして、次の日には桐子は極道の親分の妻、姐さんにさせられていた。
高橋ひとみ氏の美しさは、確かに岩下志麻やかたせ梨乃とは違って、どこかに弱さやはかなさがある。でも、やっぱり彼女はスタイルの良いカッコいい女性だし、このままでは済まない、済んでほしくないという思いはすっごく、あった。
もうね、とっかえひっかえ見せてくれる姐さんとしての和服姿が、そのデザインのカッコよさもあいまって、ほれぼれするのよ。当然、洋服姿も幾通りも見せてくれるけれど、やっぱり時代性というか、バブルの影響もあって、お洋服は古さを感じたりもするじゃない??でも和服は、すっばらしいんだよなあ。
とてもスタイリッシュで、思いがけないデザインの和服を着こなす高橋ひとみ氏のカッコよさである。彼女自身のキャラのイメージと、役柄の弱々しさはなんかマッチしないなあと思いながら観ていたから、和服を着こなす姐さんとしてのカッコよさが、それを補って余りあるのよね。
そーゆー意味では、男どもはやっぱ見た目がつまんないよね(爆)。そういや、ヤクザ映画ではマストな、背中全面の刺青をこれ見よがしに、バーン!!と見せる、っていう場面が、なかった。いや、なかった訳じゃない。勇が、鉄砲玉としてドスの準備とか入念にしている時、その姿を見せていた、けど、そうするしかない哀しさ哀愁だったから。
力を持ってる、トップのヤクザさんたちは、スーツに身を固め、シャツの襟もとも崩すことない固い感じが、チンピラ感をいまだ残す勇の、シャツの襟もとを開けてる無防備さとは確実に違って、ああ、勇は、もう、そういう位置から上には行けない、最初からそうだったんだと、思わせるというか……。
若い組員が鉄砲玉に使われる、その恋人である女の子を説得するために、桐子は、男にしてやりなさいという。でもその言葉に、そのシステムに、桐子自身が苦しめられていたし、先述の、極道の男を愛したんじゃない、という女の子の言葉が、タイトルの意味合い、桐子の心情をクライマックス、ラストまで引き連れていく。
桐子は二階堂を、ぶっ殺す。銃をまっすぐに向けて、間をたっぷりとって、迷いなくぶっ殺す。ナメてかかってるこのクズ男に、容赦なくぶっ放した後に、彼女が言う、女になったんだという台詞、つまんない義理で鉄砲玉となり、それが男になるとされるヤクザ社会に翻弄される女が、桐子が、そんなことが男になる道ならば、そんな元凶の男をぶっ殺すのが女になる道だと、そういう、そういうことだよね!!と言いたい!!
だって、本作の男社会、あまりにもアホすぎる。崩壊するのが客観的に目に見えているのに、これでマジで行けると思ってるの、このアホ男??だもん。でもそういうのが、はびこっているから、こんな映画が出来るし、世間に事件も起きるっつーことかなあ。
高橋ひとみ氏の絶妙の年齢の美しさにほれぼれし、豊原功補氏の絶妙の年齢の気恥しさにハラハラし、こうして今も活躍している役者さんたちの足跡を観るのは楽しいね!ジェンダーの価値観もこの年代から飛躍的に変わったことを実感して、面白かったなあ。★★★☆☆
奈々はその彼女のことを覚えていた。覚えていたどころか、なにかのシンパシィを感じたのか、一緒に近所の小さなスナックに飲みに行ったりさえしていたから。
警察が聞きに来たから(覚えていた)と俊太郎に言った最初の理由だけではなかった。そして、警察が聞きに来た、というのは、事故でも自殺でもどちらでもありうるし、どちらとも決めがたいということも考えられる。
どちらかに限定するつもりが、もともとないんだろう。俊太郎は彼女の死の真相を知りたくてこの地を訪れたんじゃないんだろう。彼女がいないということへの整理がつかなくて、表向きそんなことを理由に旅に出たのだろう。
後に語られる哀しすぎる理由で、結婚も考えていた二人は、彼女の方がことさらにそれを重く受け止めて、引き裂かれてしまった。その理由は「彼女の親から良く思われてなかったから」ということさえも導き出す。
あー、めんどくさいから、言っちゃう。子供が出来ない身体、しかも双方ともに、だったのだ。双方ともに、というのはかなり奇跡的な確率だと思われるし、この作劇にそこまで用意するのはやりすぎのような気もしたが……。
例えば俊太郎の側だけなら、彼女の親から良く思われないのは判る。でも、彼女の方もそうならば、その場合の事件の発展性、ってなんだろうか。愛し合っていればいい、養子を育てたっていいじゃないかという俊太郎の意見に私はめちゃくちゃ賛成なんだけど、いまだに女子は子供が産めないことに苦悩するのか、でもそれは彼の方だってその可能性がないのに??
双方ともに、という設定に、やりすぎ感を感じたのは正直なところ。自分の方だけ原因があったら、養子という提案は傷つくだろうしイラッとするだろうけれど、彼の方もなのになあ。
そこはお互い愛が深まるように思うのだが。なぜ双方にしたのだろう……シンプルに疑問。
そもそも、結婚前に検査をしておけ、と言ったのが彼側の親だったというのも、上手く呑み込めない。「彼女だけ受けさせるわけにいかないから」という台詞からして、彼の親が、嫁がウマズメ(言いたくない言葉だが)でないことを証明できなければ結婚を認められない、というスタンスだと感じさせる。
それだけでフェミニズム野郎は許せないと思っちゃうが、それをやすやすと受けちゃう彼にも疑問が残る。本作はあくまでも死んでしまった彼女への鎮魂歌がベースになっているから、こんなことに噛みつきたくはないのだけれど、こんな古びた価値観を作劇に持ってくるのなら、納得のいく説明なり葛藤なりを見せてほしいと思ってしまう。
でもすべては、終わってしまったことなのだ、この時間軸では。俊太郎はだからこそやりきれない思いを抱えて、心の決着をどうにかしてつけたくて、やってきた。
彼女の親からは何も教えてもらえなかったというから、そしてこの地にたどり着いた時には、「ここのところろくに食べていなかったから」と、奈々の朝食のご相伴にがつがつとありつく姿からも、辛い道行きがあったのだろう。
陽炎がたつぐらいの暑さ、Tシャツにハーフパンツ、首筋には汗が流れる俊太郎のいでたちからも真夏を思わせるが、奈々が営む小さな旅館に貼られたお休みの通知は、9月の初旬、つまりかき入れ時が終わってほっと一息ついての、旅館の遅い夏休みなのだ。
なのにまだ夏の名残が根強く居座っていて、それはまるで、俊太郎の、そして封印していた奈々の喪失の心がまだ燃え盛っている、取り逃したお盆の魂みたいな感じもして。
とぎれとぎれの情報って感じだけど、奈々は両親と祖母と共にこの旅館で生まれ育って、かなり年若い時、幼い時、なのかなあ、交通事故で一気にこの三人の家族を失ってしまった、らしい。
いくつぐらいの時だったのか。そして今、宿の女将として切りまわしているけれど、幼い時じゃムリだろうし、今は長年のなじみって感じのおっちゃんとおばちゃんがスタッフに入っているけれど、いつごろからこの形態になっているのか。
彼らのかかわりが奈々の幼い頃からのようにも思うけれど、そもそも奈々が子供の頃に身内を亡くしてしまったならば、彼女がそれなりに大人になるまでに、少なくとも高校卒業するぐらいまでに、彼女や旅館はどういう経緯を歩んだのか、気になりだしたら仕方がない。
ヤボは承知だけど、半世紀前の少女漫画のようには今はいかないのよ。作劇の矛盾のなさはとても重要なのだもの。
ああ、やだやだ、重箱の隅つっつきまくりおばちゃん(爆)。奈々に関してはそんな些末なツッコミなんてどうでもよくって、重要なファクターがある。この狭いコミュニティの中で、小さなスナックに飲みに行くだけで、高校時代の同級生と出くわしちゃう。
その当時の子供じみた噂話を無神経に言い立てる彼ら。レズだったのに、男もいくのかよ、と一緒にいた俊太郎を野卑な目で見て嘲笑った。事情がよく判らずとも憤った俊太郎は、死んだ彼女の情報を聞きかけたところだったのに、奈々の手を引いて憤然とその店を出るんである。
俊太郎と奈々は、奈々が同性愛者であることが、こんな野卑な形ではなく、俊太郎にきちんと対峙する形で表明することもあいまって、こういう設定にありがちな、傷ついた者同士が響き合って云々、みたいなヤボな展開にはならないところが一番のポイントである。
正直言うと、そのためには奈々が同性愛者であるという鉄壁の理由が必要なんだなと思っちゃったりして……。そんなことに引っ掛かることこそが、多様性が叫ばれる現代ヤボだとは思うけれど、逆に、そんな社会情勢で安易に設定すべきでもないのかなと思って……。
奈々が同性愛者であることが明らかになる前に、俊太郎が休業中の旅館に無理を言って宿泊をさせてもらった。常識的に考えれば、若い女子一人の旅館、休業中の旅館に若い男子を受け入れるなんて、というところである。ピンク映画の設定とか思い浮かんじゃう(爆)。
旅館の休業期間が終了し、戻ってきたスタッフのおっちゃんおばちゃん、特におっちゃんは、頑なな奈々の心を開いたらしい俊太郎に好意的だが、二人きりでいたその期間のことを、孫娘のような彼女を心配しなかったのかしらんと思うのは、あまりにも俗っぽい考え方なのだろうか。
だって、そういう思いを起こさせる地方都市、そしてスナックで出くわすかつての同級生たちはいかにもそれを示してるからさ。もちろん、奈々のことを幼い頃からよく知っているからこそ、という信頼があるのかもしれないけど、だからこそ逆に、心配になるんじゃないの。
だって奈々は、俊太郎にも語っていたけれど、この町から、出ることはなかった。出られなかった。出会いもなさそうなこの町で、かつていろいろあったらしい美人の先輩と遭遇して動揺する場面などあって、狭い町で、性的嗜好の理解も得られず、その先輩も一時期の気の迷いみたいな達観した顔して、子供産めば変わるよ、と言い放った、らしい。
そう言われた、と奈々が俊太郎に苦々し気に告白することでそう知れる。こちら側には、車の後部座席に無邪気に眠ってる幼い男の子の構図だけで充分である。子供を産めば変わる。うっわ、久々に聞いた。30年ぶりぐらいに聞いた(爆)。
いまだにこの構文あるんだ。結婚すれば変わる、子供を産めば変わる。私の時代にはなかった表現だが、まさしく、“マウントをとる”だ。無意味な、自分が満足するだけの意味のマウントだということを、こいつらは一生、気づきはしないのだ!!
子供をなすか否か、ということがキーポイントになるからこそ、俊太郎の側もがっつりそういう設定だったのかと、今更ながら思い当たる。そうか……気づかなくてごめんなさい(爆)。フェミニズム野郎を自負している自分、女に子供を産むことを強要する社会に憤っているくせに、気づけなかった、恥ずかしい、ごめんなさい……。
俊太郎と死んでしまった彼女は、男女の恋愛だけれど身体的に子供を成せず、奈々は同性愛で子供を成せない。俊太郎が彼女さんに、養子でも、と言った、その時の気持ちや彼女へのスタンスも気になるところだけれど、本当にこの問題は、凄く凄く重く思っている。
興味、といったらアレなんだけど、愛や絆と、血筋や実子というものが、どうぶつかるのか、この国では全然議論されないし、腫れ物に触るように、美談みたいにして遠くに置かれたりするし、それがすんごく、やだ!!と思い続けているのだけれど。
こういう、センシティブな、若い世代の、だからこそ死という喪失感がことさらに重く重くのしかかるテーマ性の中でこそ、しっかりと議論してほしかったし、本作に関しては、いろいろ物足りない歯がゆい部分があったんだけど、この問題が一番、歯がゆかったかなあ。
俊太郎と奈々の、性や恋愛の嗜好性が違うからこそ、微妙でつかず離れずな道行きが何とも言えず、ムズムズとする。奈々の性自認は作中じわじわと観客に対して示されるスタンスなので、俊太郎との微妙なやりとりが、え??これは、彼との恋愛の萌芽じゃないの??とか思ったりして、うずうずしちゃう。
でも、違うんだよね……。二人は、お互い、愛する人を喪失した同士。でも違う。俊太郎は恋人を近々で、奈々は両親と祖母を幼い頃に亡くした。その違いが、時にぶつかり合い、時に波が引くように、二人ともどう対処していいか判らず、時には、お互い、特に俊太郎は酒に弱いのに、酔いつぶれちゃって、ゴミ置き場に倒れ込んで、うっかりチューとかしちゃって。
でもそれをお互い、飲んで記憶が飛んでた、酒に弱くて、と言い訳して、寝ぐせも言い訳にして、朝ご飯を迎えたりするのだ。こういう絶妙な挿入の繰り返しに、次第次第に、じわじわと信頼関係が築かれていくのが上手い。
花が、重要だった。俊太郎が旅館を訪れた時に携えていた、質素な花束。死んだ彼女に供えるための、花束だった。ラストシーンで、この地を後にする俊太郎が、仕事に出かけていた奈々に、おっちゃんスタッフに託したのが、この旅館を訪れた時に携えていた花だったのだ。
奈々を演じる福地桃子嬢の、何ものにも染められていない、なのにきちんと大人の女性の葛藤と苦悩を持ち合わせている、見通しがきかない透明感というか、この年頃、その経験値感がたまらんであった。
もどかしさと、物足りなさは正直かなりある。でも、桃子嬢、そして、もはやこの年代の超ベテランの天音君の素晴らしさで,すべてが帳消しにされちゃう。★★★☆☆
短い刑務所内でのシークエンスで、ぎゅぎゅっとその後の展開に深く関係する人物を配置するのは、後から思ってもさすがとしか言いようがない。
仮出所してからのロードムービーとなる頼みごとをした、胸を患った青年、葉山が千葉ちゃん。組の罪を背負わされ、女房を親分に寝取られ、病身の母親に送金が止まったままだということ。
あのムキムキ千葉ちゃんが青白い病身の青年で、女房を寝取られたりしちゃって、弱々しい姿でいるなんて。でも意外に似合っている。実は端正で甘いマスクだってことを、ついつい忘れがちだからさ。
そしてなんたって嵐寛壽郎である。なんという渋さ。なんというカッコよさ。この刑務所内では重鎮中の重鎮、鬼寅と呼ばれる彼は、その凄みと渋みで、料理当番と看守の癒着を見事に蹴散らしてみせるんである。か、カッコイイ……。もちろん、看守の弱みを握っているという手の内があるにしても、でもあのアラカンににらまれたらもうそりゃ、蛇ににらまれた蛙とはこのこと!
鬼寅は満了出所で、その後は山奥で狩りをしながらひっそりと生きていくという。てことは、きっとその後、網走の雪山の中で再会するであろう!……なんてことはバカな私の頭にはなかったけれど、そう予測していたとしても、あまりにもつぎからつぎへと人間ドラマが連なっていくから、鬼寅との再会のシーンにはやっぱり、ああ!と驚いただろうなぁ。
橘はまず、葉山の母親への送金を頼んでいたという王子運送を訪ねる。いかにも食えない社長だったけれど、危険な雪道の運転手がいないんだというのを、橘が引き受け、しっかり前金をふんだくるんである。
この社長の娘、弓子が、本作のヒロインたる大原麗子。うわー!私のイメージの中にある大原麗子のどれでもない!ショートカットで、ちゃきちゃきしてて、時にはチンピラ男の急所をギューッ!と握ってレイプから脱する気の強さ!!
父子家庭、なのかなあ。母親の影がなかった。父親の姑息さはきっと娘は判ってて、だから、危険な仕事を引き受けた橘に、父親のことも心配だし、と、こっそりトラックに乗り込んじゃったのだ。
本当に、危険だった。何が何でも運ばなければならない荷物がある、いくらでもふっかけられるという客ってのは、その荷物の危険さ、それを運ぶだけの役割であっても、どんな目に合わされるか判らない危険さであり。
まあそのあたりは百戦錬磨の橘はなんとなく予測していただろうが、この雪道は橘のドライブテクニックでなければ到底切り抜けられない。途中、心中未遂の片割れの女を救出している間に、この悪党どもは橘を置いてけぼりにするものの、結局雪にはまってしまって、おめおめと助けを請いに来ちゃう始末なんである。
その間に、まず謎のヒッチハイカーを、拾いたくないのにムリヤリ乗り込んでこられて、次には離村で骨折してしまった少女とその母親が病院のある街への足を請うて、村と村との連携で乗り込んでくる。
うしろめたいことのある運び屋とヒッチハイカーの男は、互いにこの時点では牽制しあっている。男は、この母子に優しく接する。実は、観客にも、そして橘にもこの男の素性は予測がついている。
序盤に脱走騒動があった、浦上という男だ。自分を裏切った受刑者をおってわざわざ網走に入り、そしてそいつをぶっ殺して、脱走した。
橘は、この網走では逃げられるわけがない。人家もないし、凍死しかない、と言っていた。その浦上であった。彼はきっと、橘が言うように、生き延びる気などなかったんだろうと思う。橘のトラックに行き合ったのはほんの偶然、あんな雪道を行く車など、本来ないんだもの。
だからかなあ。けがをした幼い女の子、その子につきそう母親に彼は優しく、浦上だろうと観客は思っていても、彼の心情はどういった具合であるんだろうと思って見ていた。でも、そもそも死ぬつもりだったんなら……なんか納得しちゃうのだ。
彼が死んでしまったのは、橘をバカにしくさっている、運び屋二人のうちのワカモンの方、雪にはまったトラックを押し出すのに、楽な役割とばかりに鼻歌交じりに運転席に座った彼が、踏みそこなったアクセル、いや、ブレーキだったのか、とにかく、浦上が巻き込まれた。
明らかに内臓をヤラれて、口から血を噴き出して、もうダメだった。浦上は捨て置いて行ってくれ、自分の身体は雪に埋めてくれと告げて、死んだ。
宿の女中だと言っていた母子の母、雪江は、本当は身体も売っていたんだと吐露して、でもそんな女だと判っても、あなたならきっと優しくしてくれたわね、と言って泣いた。
そして、心中の片割れの話である。もう、どんどん出てくる。心中未遂の女が乗り込み、浦上の死があって、そして街に着く。ケガをした母子を送り届け、心中未遂の女も降りる。
運び屋の男の若い方が、その出会いから妙にこの、心中未遂の女にご執心なんである。ただ単に好みの美人だからかと思いきや、彼の亡くなった妹にソックリで、しかもその妹も同じように、恋愛をこじらせて自殺してしまったんだという……。
このロマンティックな青年が、こんな危ない稼業に手を染めてて、しかもなんだか頼りなくて、橘を置いてけぼりにした筈が、自身が雪にはまって助けを求めてきたり、浦上を轢いて殺してしまったのだって、根拠のない自信マンマンで上から目線のくせに、何一つ満足に仕上がらない青二才でさ。
二人の悪党どちらもイラッとくるものの、弓子をレイプしようとした兄貴分の方はクズ以外の何ものでもないけれど、この青二才の方はなんだか……頼りないな、お前!!悪党するキャラじゃないだろ!!と言いたくなっちゃうのだ。
そしてホントにそのとおりで……彼は運び屋としての足に過ぎなくて、仲間内で足手まといだと斬って捨てられ、窮地の場面であっさり仲間から殺されちゃうのだ。そらー、あんまりじゃないの……。
ちょっと先走ってしまった。軌道修正。なんだかんだありながら、まぁなんとか街まで着き、母子と心中未遂の女を降ろす。荷下ろしするのはまだ先だが、葉山との約束がある橘は、葉山が罪をかぶった組の親分さん、寝取られた女房にナシをつけにいく。
そらーまあ、健さんだからさ、その男気の迫力に負けるのは判るが、判るが??……言ってしまえば出所上がりのヤクザもんの迫力に屈して、指一本つめさせられるまでになっちゃうってのは、組を構える親分さんとして、ど、どうなの……。
だって、後ろ盾もなく、たった一人で乗り込んできた一人の男の迫力に、指詰めさせられるまで追いつめられるって、改めて考えてみると、ムチャクチャやわ。だってさ、若い組員にすべての罪を負わせてムショ送りにして、その女房を寝取ったほどのあくどい男なのに、ヨワ過ぎない??
でもね、違うの。このシーンで印象的だったのはそんなことじゃなくて……寝取られた葉山の女房。橘は、葉山の母親を看病しろと、寝取られ女房に言い渡すけれど、そんなのまっぴらごめんだわ、と女房は返す。
……当時ならね、夫を裏切り、金持ち親分に囲われ、姑なんぞ知らんわ、なんていうキャラは、悪女以外の何ものでもなかっただろうと思う。でも今の時代から見ればさ……。
そもそも組の罪をすべて負ってしまうという夫のふがいなさであり、当時の女の立場として、力のある男のものになるしか生き伸びることはできない訳であり、夫の母親、つまり姑なんぞ、自分にとっては他人であってさ、自分が生き延びることに精一杯なんだもの。
それは、姑だって、彼女だって、同じ条件なのに、嫁と姑、若者と年寄り、みたいなカテゴリーに押し込められて糾弾されるのは、嫁である若い方のみならず、姑であるベテランの方こそ迷惑千万じゃないのぉ。と思っちゃう。
姑さんはね、出てこないのよ。話の上だけ。キャラ設定だけ。当時だから、本当にキャラ設定だけだったのかもしれない。でも現代なら、これは許されないよね。だって、橘の言い様は、嫁は姑の面倒を見るべき、という価値観に貫かれてるんだもの。
あーでも!!ここで、本作で、それを語るのは、危険すぎる。橘は嫁さんいないし、どころか、シャバの事情判ってないし。そうね、確かに、橘は、健さんそのものというか……だからこそ出会う人たち、俗まみれの人たちに希望を与えるんだろうなあ。
橘=健さんの中では、嫁姑問題など、想像もつかないんだろう。考えてみれば、旦那舅問題なんて聞いたことがないんだから、やぁっぱ、男社会の、家父長社会の、弊害がこの時は当然だし、今でも、21世紀の今でも!厳然と存在することに、戦慄しちゃったり、するんだよなあ。
橘は、会ったこともない葉山の母親、つまり、葉山の女房にとっては姑を、会ったこともないのに、寂しく哀しく、打ち捨てられた、可哀想な存在として、その価値観として親分さんに、葉山の女房に、対峙する。当時ならさらりと受け入れられたんだろうと思うと、当時ヤバッ!と思っちゃう。
葉山の奥さんのキャラの薄さもそうだが(そりゃさ、他人のばあさんの面倒なんてみたくないわさ!)、何より、これだけ話の中心に据えられているのに、可哀想な、老いた、病身の、嫁からも見捨てられたおばあちゃん、として、登場もしないまま据えられる見捨てられ感つーか、それ以上に、バカにしてんだろ!!と言いたくなっちゃうしさぁ。
難しいよね。だって時代が違うし。序盤でコンプラのことを言ったけど、本作はかなりビックリのコンプラシークエンス、あります。
なんとまぁ、あの、タンチョウヅル。特別天然記念物。それに向かって、バンバン拳銃撃つヤクザさん。健さんが、いやさ、橘さんが、射程距離50mだから当たりっこない、とたしなめるにしても、いやいやいや、ダメでしょ!と冷や汗かいちゃう。
次々繰り出される役者投入、人間ドラマ、息つく暇もない。さすがの石井輝男。すげー。「駅馬車」がベースと言われても観てないからなあ。でも判らんけど、観てないと思うけど、なんかもう、ドキドキする。ドキドキするなぁ!★★★☆☆
あれからもう10年近くも経っているのか。どんなスタンスで創作活動をしているのか気になる。だってこんな風に突然現れた新作は、祖谷物語の壮大なロケーションとは対照的で、尺も短くて、モノクロームで、全然違ったから。
でも自然と共に生きる、というテーマ性はしっかりと共通しているし、自然と共に生きるということと近代社会の相容れなさ、という点も継承している。こうして書くとさもありなんな題材のようにも思えるけれど、それを真の、マジの、リアル自然生活を映し出して近代社会への皮肉に直球でぶつける、そんな画が撮れる人を、私は他に知らない。
祖谷物語の、と思っていたから、この尺でモノクロでぎゅっとした自然生活、というテーマ性に驚き、でもなんか、御伽噺みたいで。それは、きっと、皮肉の意味を込めているんじゃないかという点でも。
須森隆文氏。やっぱりそうだ。一度見たら忘れられない。でも今までは、容貌魁偉というか、怪人というか、そんな強烈な印象があった。もちろん役柄的にも、というのはあっただろうけれど。やっぱりそうだ、と思ったのは、須森氏だよね?と思いながら確信が持てないほど、それまでの印象とは全然、違ったから。
ふっとジャイアント馬場氏が思い浮かんだ。大きな体でお顔もインパクトがあるけれど、まるで草食動物、お馬さんのように優しくて、静かに本を読むのが日課、それこそが至福の時間、もしかしたらそれ以外はそれほど重視してない、生きるために食べることも、同居しているテラさんほどには重要視してなかったのかもしれない、なんて。
須森氏が演じるのはジンさんという、恐らく都会から理想の生活を求めて、この地に移住してきたとおぼしき人物である。
こうして物語を語るのは、本作に対してはあまり適当じゃないような気もする。登場人物はいるんだし、その生活が描かれるんだから物語はあるんだけれど、なんていうのかな……神、というのは単純すぎるかな、なにか、第三者というのとも違う、天空からの視点みたいな感じというか。何が起こるか眺めている、そんな感じ。
モノクロで、彼らが住んでいるのが、説明するところによると降雨を循環させるシステムで成り立っている家で、野菜を育て、川でウナギやすっぽんを捕獲しての自給自足の生活を実践している。
金さえ出せばなんでも手に入る、その金さえ現金という目に見えるものではなく、急速に電子決済にとってかわりつつある現代へのアンチテーゼ、と言うのはそれこそ簡単だけれど、そう単純にも言えない。
ジンさんはある意味無邪気に、そんな理想が実現できると信じて、ここに来たんだろう。地元民と思われるテラさんとどういう経緯でこの理想生活を共にすることになったのかは気になるところだが、そんなヤボな追及はしない。テラさんとは真逆のキャラだけれど、どこかで意気投合してこの共同生活を始めたんじゃないかという雰囲気が感じられる。
理想の時給生活を追い求めるジンさんを、テラさんが指導するような形もあるけれど、基本的にはやわやわと、ゆるく生活している。
でも、そうだ、夜、なのかもしれない。暗闇の中、ウナギ漁に突進するテラさんに、ジンさんはついていけなくなった。
それまでは、むしろジンさんが、このナチュラル生活を先導しているような雰囲気もあった。テラさんは、技術者、みたいな。都会からきた知識人のジンさんが、彼が求める生活を実践できる技術を持つテラさんを雇った、みたいな。
つまり、ジンさんは危ないことはしないのだ。そんなことは念頭にさえなかったのかもしれない。真っ暗、暗闇の中を、どんどん、憑かれたように獲物を追い求めるテラさんに、危ないよ!!と声をかけながら必死に追いすがるジンさんは、自分が恐怖に駆られているだけだった。
暗闇の川の中も慣れているテラさんが、危ない訳がない。自然の中の自給自足、それを実践するために来たのに。相棒に選んだテラさんを、雇い人のように下にみていたのか、そんなつもりはなかっただろうけれど。
ジンさんはまさに晴耕雨読、むしろこの尋常じゃない雨、スコールを、待ってましたとばかりに、風情たっぷりに、窓に叩きつける雨をバックに、彼自身はまったき静寂の中で、本を開いている。
本当にこの画だけでね、モノクロームと雨の音とあいまって、ものすごく詩的で、美しくて、画になっていた。それだけで、映像叙事詩として成立すると思った。
でもそこに参画するのがテラさん。彼は当たり前に、生きるために、どんどんジンさんの静寂をおかしていく。まるで悪気なく。そりゃ当然だ。彼はむしろ、ジンさんが求めた生活を提示してくれているだけ。
ウナギやスッポンをさばくってのは、なかなかに見るのがツラいもんである。もうお亡くなりになっているお魚をさばくのとは雲泥の差だし、ウナギもスッポンも生命力が強いから、首を落とした後も、身を真っ二つに開いた後も、めちゃくちゃ動いてる。引くぐらいである。
そう……ワタクシが勤務している仲卸の、向かいのお店がまさに、ウナギやらスッポンやらをさばいていて、まーえげつない、日常だったのに、全然慣れなかった。さばいている人の人格を疑っちゃうほど(爆)、凄い精神力だと思った。
本作では、ウナギもそうなんだけれど、やっぱりスッポンのそれが強烈である。役を演じているとはいえ、須森氏お気の毒……と思う。目の前でスッポンの首を切り落とされる衝撃は、……絶対に体験したくない。
でもそれこそが、人間のエゴイズムだ。こういう判りやすい、抵抗する獰猛な相手に対しては恐怖とか対決とか、憐みとか、沸くけれども、日々屠殺される鶏さん豚さん牛さんに、それを思うのか。そういう映像とか作品を見たならその時は神妙になるけれど、それだけ。
むしろここに描かれるようなウナギやスッポンの残酷なさばかれ方にショックを受け、でもそれがエンタテインメントになっちゃって、見て見て!とネタにしちゃったり。
結局人間て、他の命を頂いているというありがたみを、一瞬判った気になるだけ、なんじゃないの。
そう思うと、静かに読書するジンさんのたたずまいが途端にエセに見えてくる。無駄なエネルギーを使わない生活、スコールのような雨が降るこの地に住んで、つまり水さえ掌中にすれば、理想の生活が手に入ると思った、のかもしれない。
それは確かに理想的だ。血なまぐさくないし、ミニマリストっぽいし、日本人がちょいちょい憧れる、欧米のベジタリアンカルチャー、意味なくオシャレに思って憧れちゃうアレですかい、と思っちゃったり。
でもそれは、あくまで都会で成立することだ。野菜はスーパーに売ってるし、たんぱく質が足りないと思ったら、サプリメントでも飲めばいい。
でもこの地では。彼らの生活の中に、買い物というスタンスはない。てゆーか、水は循環している、それは解決している住居と、まさにたんぱく源をとりに、川、というか、湿地に出かける二点だけ。
都会に暮らして金で買う方がよっぽど楽だ、というのは覚悟の上だったにしてその覚悟の上、想像の上を行っていたんだろうと思う。そしてテラさんは、ジンさんが臆しているのを全く判ってなくて、むしろ親愛の情を感じているからこそのグイグイであり……。
中盤、このナチュラル生活を取材するマスコミ媒体とジンさん、というシークエンスがある。こういう事態が発生すること事態、フツーにこの生活を営んできたテラさんにとってははぁ??てなもんだっただろう。
知的なたたずまいでインタビューを受けるジンさんは、そのスタンスこそが、テラさんと決定的な溝を作っていることが判ってない。
ラストが気になる。お互いのライフスタイルがなんとなくかみ合わない中、まあそれでも、いつもの日常、いつもの朝を迎える。窓を挟んでゆるゆると手を振りあうジンさんとテラさん。
そして、背後に、火山が噴火している。なにこれ!!このラスト、なにこれ!!
……私、絶対間違ってると思うんだけれど、なんか、可愛い、と思っちゃったんだよね。なんかね、切り絵的というか、背後の山がどーん!みたいに噴火しているのが、絵本とか、映画の超初期、メリエスあたりの可愛らしい合成の図式とか、感じちゃったというか。
でもそうじゃないよね。ジンさんの田舎生活の理想がどんどん崩されていった先の、火山の噴火、うわ、これは……。どこに逃げても、人間関係からは逃げられても!
祖谷物語からあまりにも時間が経っての邂逅だったのでびっくりしたし、長編作品が公開待機中だというので楽しみ楽しみ。
ホント思いがけない。祖谷物語がとてもとても素晴らしかったので、新作の本作が嬉しかったし、新作公開がめっちゃ楽しみ!!!★★★☆☆
ラスト、里枝(安藤サクラ)が、知ってしまえば、知らなくても良かったような気がする、と言う言葉の深さ。
夫の大祐(実は「大祐」じゃなかったのだけれど)が不慮の事故で死んでしまわなければ判らなかったことと言ってしまえばそうだが、3年余りの結婚生活は、ただそれだけでまごうことなき本物の幸福だったからだ。
なんだか胸がいっぱいになってしまって、ラストまで突っ走ってしまった。原作は有名だそうだし、オチバレしてもいいよね。
その人生が壮絶すぎて、別の人生を歩みたい、そのために仲介人を介して、大祐という人格を手に入れた。
人格、というとジキルとハイドみたいだな、そうじゃない。戸籍、というか、バックボーン、というか。身分を証明するものを全とっかえ。
大祐と名乗っていた、本当は原誠という人物は、大祐になる前にも一度替えている、というところが本作のミステリたるところで、上手いなあ、とうなってしまう。
だから三つの名前が浮上して、Xと仮名をつけた、実際は原誠である男と実際の大祐、なかなか真実にたどり着けないのだ。
でもそれは、あくまでミステリ的面白さの部分だ。私はもう……窪田氏に打たれてしまった。彼がなぜ別人の人生を買ったのか、その謎が解き明かされる前にすでに、彼の中に充満する悲哀と、そしてどうしようもない優しさが、立ち昇っていて、この人に幸せになってほしいと、そう思った。
ここでは大祐、と呼んでいいよね、彼が死んでしまうまでは真実、里枝にとっては大祐だったのだから。
伊香保の老舗旅館の次男坊だという彼が、山深いこの地にやってきて、林業に従事する。気味悪がる土地の者もいたけれども、大祐を雇った社長(きたろう。もうこの人見るだけで涙出ちゃう)は、寡黙な彼の仕事を覚える早さ、つまり真面目さをまっすぐに買ってくれる。
これもさ、色眼鏡がないからなんだよね。それこそが、本作のテーマなんだもの。社長にしても里枝にしても、彼に対して余計な情報を持たなかった、というか、必要としなかった。今目の前にいる彼を信じることができた。
後に大祐の兄、つまり本当の大祐の兄、伊香保温泉旅館を経営している兄が、弟のことも、弟とすり替わった男のことも、上っ面の偏見や情報だけで単純に差別するのと、はっきりと対照をなす。でも残念ながら、この兄の造形は判りやすく、私たち世間というものが単純に陥りやすいそれなのだ。無能な弟、死刑囚の息子、一発で断じられる単純な形容が、いかに世の中に横行し、人と人とを断絶しているか。
そう、死刑囚の息子、だったのだ、大祐ならぬ原誠は。里枝から身元捜索を依頼された弁護士の城戸(妻夫木聡)がその事実に行きついたのは偶然だった。
死刑囚たちが描いた絵の展覧会のイベント。そこに、里枝から提供されたXの描いたスケッチと酷似したものがあった。パンフレットに載っていた写真がXソックリだった。年齢的に合わない。そう、つまり、Xは息子、母方の性を名乗った原誠、だったんである。
絵心も、風貌もソックリ。彼の父親が死刑になってしまうほどの残虐な強盗殺人を犯した理由は判らない。そこをつまびらかにしてしまうと、この物語の意味合いも違ってくるだろうというのもあると思う。
そして多分、息子である彼は、それを知らない、知りたくない、だって自分は父親ソックリで、そんなことを知ってしまったらますます、自分にもそんな血が流れているのでは、と思いそうで怖かったんじゃないか。
これはね、これは……日本だけじゃない、恐らく全世界的に、悪しき考え方だと思う。犯罪者の遺伝子とか、ギャンブラーの遺伝子とか、怠け者の遺伝子とか、いろごとにだらしない遺伝子とか。そんなことが実際にあるだろうと、まことしやかにささやかれる。
だから、犯罪者の、ギャンブラーの、怠け者の、セックスマシーンの子供たちは、幼い頃から色眼鏡でみられ、幼い頃からだから洗脳めいてそう思い込んでしまう。
X、いや、原誠は顔もソックリだったんだからなおさらだろう。彼がボクシングにのめり込んだのは、自分を殴るためだったんだと、会長(でんでん)に語った。
鏡に映る自分を彼は恐れた。その自分をぶん殴るためにボクシングを極めて、注目されるところまで行って、そうなると途端に怖くなった。こんな自分が表舞台に出てはいけないんだと。
……なんか物語を追っていくと、私がキュンキュンきた、里枝との物語になかなか行きつかないんだよな。それだけ、本当の彼、原誠であった人生が壮絶だった。
最初に彼が取り替えた人生から更に大祐になった経過も気になる。一度取り替えた人生では彼の苦悩は取り払われなかったのか。あるいは、同様に人生を刷新したい大祐という人物が現れたからなのか。
最後の最後にほんのちょっと登場するだけなのにさらってしまう、この実際の大祐、伊香保温泉旅館の次男坊、演じるは仲野太賀氏。腐れ縁の元カノ(いや、この場合、別れたというより彼が姿を消しただけなんだから、今カノと言うべきか)に発見されて、呆然として見開いた瞳から涙をこぼす、このワンシーンだけで、彼の苦しさが伝わる。
本物の大祐、大祐になった原誠、二人が実際、邂逅したかは判らないけれど、この二人の優しく寂しい魂が、こんな風に彼らを愛する人たちを引き寄せたように思ってしまう。
弁護士の城戸にもまた、バックボーンがある。在日三世。別に隠している訳でもないし、帰化しているから日本名。何の問題もない。なのにちょっとずつちょっとずつ、彼の神経がざわざわとしてくる。
妻の両親の世間話の、デリカシーのなさ。それでもあなたは三世だからもう日本人よ、だなんて、フォローにも何もなってない。この妻の両親のシークエンスは判りやすく提示しているんであって、彼はずっと、そうしたざわざわにさらされながら、それでも自分は帰化して、日本人なんだから、と信じ続けていたんだろう。
そこに里枝の依頼、キーマンとなる、戸籍とっかえを仲介した詐欺師、服役している小見浦なる男である。演じる柄本明氏の強烈な憎たらしさ!まさに柄本明節炸裂。
小見浦から、在日でしょう!と喝破され、もういろいろいろいろ、怒らせる目的だろ!!とあからさまに挑発、でもそれに城戸は乗っかってしまった。キレてしまった。
落ち着いて考えれば、確かに柄本氏の真骨頂、憎たらしい偏見百パーセントの言い様なのだが、城戸が自身のアイデンティティをきちんと誇りをもって、コントロールできていれば、小見浦にイラつくこともないのだ。
でも、世の中不条理で、日本という国の狭い価値観、ヘイトスピーチが社会問題になり、ニュースになるのは自分の出自を攻撃されるもの。帰化したから、日本人だからと言い聞かせて、それでも心揺れてしまう現実社会と、それをズバリと指摘した小見浦。
小見浦が、自分が詐欺師なのに、イケメン先生(城戸のことだ)は何故、自分が小見浦だと信じられるのか、と問うた。
ハッとした。まさにそうだ……。詐欺師である彼が、数々の戸籍交換の仲介をしたのに、なぜ彼自身が小見浦本人だと信じられるのか。このノーテンキな日和見主義よ!!
ああでも、でもでも、やっぱりやっぱり、里枝と出会って幸せな生活を送った“大祐”のことこそを、語りたい。実際は原誠、だけれど、大祐、なのだもの。
オープニング、文具店で店番をする里枝。外は雨、客も来ない、所在なげに売り場のペンを抜き差しなどしていた里枝は、ほろほろと涙をこぼした。
後にその原因は明らかになる……幼くして病死した息子、その後離婚、自身の父親もほどなくして亡くなり、母親は孫と夫の死に悲嘆にくれている、そんな時だった。
豪雨の中、ふっと入ってきた客。スケッチブックを買い求めた、そのとたんに落雷、照明が落ちたのを、ブレーカーの位置を確認して解決してくれた。
次に訪れた時には、地元のおばちゃんに、スケッチしてるあんちゃん、と認識されていた。そして三回目……友達になってくれませんか、という決死の告白。妙齢の男子から女子に、友達になってほしい、とは……当然、友達、ってんじゃなかったに違いない。家族がいるんですもんね、とおずおず探りを入れたんだから。
そこで里枝の家庭事情が明らかになり、ぎこちない“友達”交際がスタートする。幼い息子が懐くのもあっという間だった。何か深い事情がありそうだというのはアリアリだったけれど、彼女は聞かなかった、のだろう。そんなことを聞いても意味がない、相手が、あるいはお互いが傷つくだけだということを、里枝自身が辛い経験を経ていたから、判っていたから、聞かなかったんだろう。
これはね、これは……実際、パートナー、結婚していてもしてなくても、あるいは友人同士とかでも、どこまで判っているのか、判っている必要があるのか、という大問題である。
もしかしたら、諸外国ではこんなことを気にするなんてオーノー!なのかもしれないと思い、そっちの方が健全なのかも、と思う。だって、それをめっちゃ気にする象徴である、ホンモノ大祐の兄、演じる眞島秀和氏がサイコーでさ、ほんっとに、こーゆー、自分優越感バリバリのお兄ちゃん、いるよね!!みたいな。
ボクサー時代の原誠の苦悩、彼に想いを寄せていたであろうバイト先の女子、ジムの先輩を演じるカトウシンスケ氏がファーストインプレッションの違和感を正直に語りながら、自殺じゃなかったんですよね、とか(その前に、自殺未遂があったのだ……)、あいつと話したいことたくさんありましたよ、とか、初対面の違和感があったからこそ、それが払しょくされて、彼の苦悩を理解して、守りたいと思って、なのに……という、なんかもう、泣いちゃう、泣けるよ。
どうにかして生き直したいんだ、という彼の気持ちを代弁して、冷たいばかりのお兄ちゃんにぶつけたのは城戸弁護士だったが、そうした、ジムの同僚や、彼のことを思ってうつにまでなってしまったというジムの社長や、みんなが、みんながさ……。
だから、大祐、いや、X、いや、……彼は捨てたかったかもしれないけれど、原誠は、優しく、誠実な男として、めちゃくちゃ愛されて、それは、彼の事情を知ったとしても誰もがそうに違いなかった。
本作は里枝側の視点で展開していくから、そのミステリ感が面白い訳。里枝がXと出会った時にはシングルマザー、長男はXになつき、その後、Xとの間に長女が生まれる。そしてXの死、中学生ともなっている長男は、父親のアイデンティティの不審さに、さすがに気づく。
中学生かあ、と心が痛む。こんな複雑な、壮絶なキャリアを、長男ちゃんに解き明かしても大丈夫なのかなとも思うが、考えてみれば、原誠がまさにその年頃の壮絶な体験であり、原誠が人生をとっかえた大祐だって、そうそう変わりはないんだよね。
長男ちゃんが、僕が妹にこの事実をいつか伝えるよ、と、お母さんにキリリと言ったのが、メチャクチャぐっと来た。何度も名字が替わる、自身のアイデンティティもそうだし、母親が好きになった相手にリスペクトするのかどうかとか。面白い!まさに今の時代にマッチングしてる。どうやって自分自身を承認させらるのかと。
どう、終着させればいいのだろうか。なるべく幸福の道を。里枝と、前夫の長男坊の濃密なシークエンスは見ごたえがあった。そしてお兄ちゃんが、タネ違いの幼い妹にいつか、自分が、この事実を告げるよと母親と約束するんである。
とにかくとにかく、安藤サクラ氏、窪田正孝氏、妻夫木聡氏、眞島秀和氏、柄本明氏、キャストすべてが素晴らしく、深く心に刺さりまくった。★★★★☆