home!

「た」


2022年鑑賞作品

大事なことほど小声でささやく
2022年 98分 日本 カラー
監督:横尾初喜 脚本:谷碧仁
撮影:春木康輔 音楽:上田壮一
出演:後藤剛範 深水元基 遠藤久美子 田村芽実 峯岸みなみ 遠藤健慎 大橋彰(アキラ100%) 田中要次


2022/11/3/木 劇場(シネマート新宿)
「こはく」の監督さんの最新作と聞いて、アキラ100%氏の熱演がものすごく印象に残っていたので、私としては珍しくタイトルだけで即座に想い出した。ドラマを観る機会がないので、その後アキラ氏が役者としても活躍していることを改めて知って、そりゃそうだよなと嬉しく思う。
しかして物語の出だしが、なんか気恥しいコントみたいな、ジムの中での仲良し同士のわちゃわちゃで滑り出し、しかもその中央にはごっついオカマさんがおり(この言い方は今は言うべきじゃないのだろうが、本人がそう言うし、まさしくその表現こそがピタリとくるんだもの)、うっわどうしよう、なんか違うかも、と思ってドキドキしていたのだが。

あの出だしが一種の照れであったかのように、メインの物語は胸えぐられるほどの哀しさ切なさ。
タイトルが出て、その横に小っちゃく四海良一篇、みたいに出たから、うっわこれは、この仲間たちの一人一人のエピソードをオムニバス的に語るんちゃうん!と思って身構えていたら、まさにその四海良一という歯科医の物語なのであった。

きっと原作では、それぞれのキャラクターにそれぞれの深い物語が記されているのであろう。オフィシャルサイトでも“特に人気の高い”と付されていたのだから。
他のエピソードがどんなものか判らないからアレだが、最終的に明かされてみるとあまりにも悲しく辛い出来事が起こる彼の物語が一番人気が高い、というのは、どこか、人の不幸を見たがる心理、な気がしなくもないのだが。

それでも主役は、主人公は、そのマッチョなオカマさん、ゴンママということになるのだろうか。一応はそういう解説だけれど、ゴンママはあくまで狂言回しというか、皆を、ことに本作では四海氏=センセーを見守る立場のように見える。
センセ―というのはジム仲間内のニックネーム。歯医者さんだからセンセーなのだが、最初にそのニックネームを紹介された時には、端正な顔立ちに眼鏡姿が頭よさそうで、大学教授とか、政治家の秘書官とか、そんな方向を想像させた。

演じる深水氏はめちゃめちゃ出まくってるお方だが、意外にメインキャストで見るのは確かに初めてな気がする。そして改めて、なんでこんな端正なイケメンさんが、バイオレンスな作風や役柄にばかり呼ばれていたのだろうと不思議に思う。
エキゾチックな風味もあるめちゃくちゃ端正なイイ男だということに改めて気づき、改めて気づくから、このナルシスティックに見える饒舌な男が、まさかこんな重たい過去を抱えているなんて思いもよらないのだ。

でも彼が、ゴンママに吐露するのは、吐露するまでにも時間がかかるのだが、その吐露する内容にもまだ隠されている部分があり、その隠されている部分こそがキモ、なんである。
もうメンドクサイから(爆)オチバレで言っちゃうと、センセーは幼い娘を病気で亡くした。その事実を受け入れられず、仕事に逃げた。必死にコミュニケーションを図ろうとする奥さんに、言葉尻をとらえて激高し、自分が逃げているくせに奥さんこそがそうだといわんばかりの態度でなじりまくった。

娘ちゃんが亡くなったことをふせて、ただひどいことを言って奥さんを傷つけた、というぐらいのエピソードでセンセーは語ったんであった。その時に一度、このツラい場面は示されている。
この時には普通に娘ちゃんがいるものと思っていた。奥さんが娘ちゃんに読み聞かせをしている場面もあったし、娘ちゃんは家じゅうをちょろちょろとしていたから。
でもそうだ、何度も繰り返されるセンセーの帰宅場面、そっからの夫婦の場面に、娘ちゃんはいつもいなかった。食事シーンも夫婦二人が対峙しているばかりだったのだ。

後から思えば、冷たい奥さんになすすべもなく、家に帰るのもつらい、と訴えるかのごとく小出しにしてくるセンセーは、すべてを打ち明けてしまったら辛い現実に直面することになるという臆病さだった。いやそれよりも、奥さんが冷たくなったのは自分の不徳の致すところ、ぐらいにあいまいに逃げて、同情されたいという意識さえ、見えたかもしれない。
でもきっと、ゴンママにはお見通しだったに違いない。ジムで汗を流した後、メンバーが集う憩いの場。スナックと言いそうになるけれど、ずらりと色とりどりのお酒を置いて、知識と技術のあるバーテンダーの女の子、カオリがお客様の今の心根をズバリとアドバイスするカクテルを提供する、しっかりと、バー、なんである。

このカオリちゃんもいかにも訳アリで、後にゴンママとの会話で、死にそうに見えたから心配して受け入れた、みたいな事情があるらしく、ますます原作が気になるところなのだが、それこそこんなん、連ドラにでもしてもらわないと、登場キャラそれぞれに深い物語がありそすぎる。

それこそ、「こはく」で驚かされたアキラ氏、ニックネームはケラさんが本作の突破口を開く、ジムの新入りさんなのだが、ジムの入会理由が、思春期の娘との関係に思い悩んで、なんである。
カッコイイお父さんになったらあるいは、というところなんだろう。思春期の、反抗期の、一時的なものだと誰もが思うし、ケラさんもそれは判っているのだろうが、判っているからこそ、誰かから言われてほっとするというか、誰かから言われたいと思っていたんだろうと思う。

シャチョーと呼ばれる田中要次氏は、そんなに大きくない所帯の経営者なんだろうなと推察される。従業者間の軋轢に悩んでいるが、ジム仲間の若い女の子、ミレイちゃんを口説き落としたいという欲望の方が強い。
ただ一人未成年の高校生、シュン君は現実社会で同世代と相容れがたくここにいるのだが、シニア世代からいじくりまくられて、でもその関係性の方が心地いいらしい。しかめっつらしながらも、オジサンたちと仲良くやってるんである。

ほんっとに、それぞれの人生を深堀りしたのを見てみたいと思うが、それには一本の映画じゃそら足りないから。センセーの奥さん役がエンクミちゃん。うっわ!そうか!!私的にはひっさしぶりのお目見えでビックリ!!
センセーによって語られる当初は、必死にコミュニケーションをとろうとするセンセーに、聞こえないフリまでかまして冷たいあしらい、センセー可哀想!!と思わせた。まさにしてやられた。
少しずつ真実が明らかになる。一度提示された場面が、少しずつ二重写しされる。少しずつ、エピソードが追加され、一度提示された場面の印象がじわじわと変わってくる。これは……ヤバい!!

単純に最初は、センセーに同情していた。センセーのバカ話を冷たく聞き流す奥さんに、うっわ、センセーカワイソ、と単純に思っていた。
でも次に示されたのは、時間軸が戻って、センセーが仕事に没頭して奥さんを顧みないシークエンス。だからか!そりゃセンセーダメだよ!でも、反省したならここから挽回!!と思っていた。

挽回できると思った。隠されていたから。キモの部分が。さらに、奥さんが彼をパパと呼んだことに激高したシーンが示されても、娘ちゃんがいるからパパなのに、一個の人間だと思われなくて怒るなんて子供じみてるなあ、と思ったぐらいだった。
ただあまりのケンマクなので、奥さんカワイソと思ったのだが……まさにここに、隠された大問題があったのだ。
まぁもう、言っちゃってるからね(爆)。娘ちゃんがすでに亡くなっていることを、でもこの時点では判ってないからさ。フツーに、子供が出来てもおたがいをパパ、ママと呼ぶのは良くないよなあ、なんてのんびり思っていたもんだから……。

この時、奥さんに対してコテンパンに、もう死んでしまった娘なんだから、俺をパパと呼ぶな、から始まって、自分自身が受け入れられてないくせに、奥さんの方にそれを転嫁して罵倒して、奥さんは泣き崩れて、彼曰く、心が死んでしまったのだった。
お前がゆーなというところだし、奥さん自身は、確かにこのことでダンナにアイソをつかした部分はあっただろうけれど、どうだろう……。本作が、あくまでダンナ目線で語られているもんだから、奥さんと同性としてのワタクシとしては正直……まぁワタクシは半世紀独身を貫いているんで判らんですけど(爆)。

娘ちゃんはあちこち、パパとママへのメッセージを落書きするのが日常で、それを娘の死後うっかり見つけちゃってから、特にセンセーの方がそれにとりつかれちゃう。
そう考えれば、娘ちゃんが天国に召されて、どんな感じの経過で、夫婦の亀裂が産まれたんだろうと思う。視点を誰に置くかによって、この場合は奥さんに置くか、センセーに置くかによって全然違う、だから……。

センセーは隠したい部分もめっちゃあったことを吐露するけれど、奥さん側はセンセー側からしか語られないし、センセーはひたすら贖罪の気持ちだから、なんかもやもやするんだよね。
最終的に娘ちゃんの墓参りでお互いの想いをぶつけ合いはするけれど、まだ奥さんの方に分があるような感じもしつつ、奥さんの言い様も、前に進みなさいよ!!というばかりで、だったらあなたはそれが出来ているのかとか思っちゃうしさ。

でも、本作の主人公は、ゴンママ、なんでしょ??狂言回しだけれど、主人公。ザ・オカマキャラ、ジムでも経営するバーでも、イイ男をくわえこもうとして失敗し、ゴンママ大好きという客たちは沢山いるけれど、その誰もがラブアフェアにしけこみ、ゴンママはそれを、しっかりとツッコミ、フォローして、送り出すのだ。
ゴンママの一瞬見せる寂しそうな表情を、ゴンママに救われたカオリちゃんだけが察知して、心配するけれど、ゴンママの羞恥を察知してさらりとスルーするところが心憎い。

人気のある原作なのだろうし、それぞれのエピソードも気になるところだけれど、やっぱり、ゴンママ、そしてカオリちゃんの来歴が気になりまくりでしょ!!これは……各キャラのエピソード見たいでしょ!……そういうフリでの四海篇で、その後を考えているのかも。★★★☆☆


たまらん坂
2019年 86分 日本 カラー
監督:小谷忠典 脚本:土屋忍 小谷忠典
撮影:倉本光佑 小谷忠典 音楽:磯端伸一
出演:渡邊雛子 古舘寛治 小沢まゆ 渡辺真起子 七里圭 黒井千次

2022/3/30/水 劇場(新宿K's cinema)
わー!何これ、凄く不思議!こんな映画、観たことない……。時に文学と映画の乖離、原作として扱われていれば余計に、その決して幸福ではないことが多い関係性に悩まされる、文学ファンであり映画ファンである立場としたら、こんな形の作品を、まさに文学と映画をとろりと溶け合わせたようなものが作れるんだ……と驚嘆の気持ち。
文学ファンとか言って、本作の元となる黒井千次氏の作品を読んだことがないのだけれど(恥)。

劇中、決して美声でもない、普通のおじさんの声として古舘氏が朗読する物語、それは実際の直筆原稿、加筆や修正、入れ替えが頻繁に行われているその原稿用紙を時にはたどり、ひな子が読んでいる文庫本の紙面をたどり、そして時にはその文字がゆらゆらと浮いたり縦文字が横になったりする。
死んでしまったお母さんと、お母さんの妹の境目が不安定に揺らぐ。モノクロームの中、鉛筆画のアニメーションが夢のように悪夢のようにあまりにも繊細にかさりかさりと動き、気が遠くなるような世界に連れていかれる。時間と記憶、すべてが遠く曖昧模糊としている。

冒頭、ひな子は墓参りに来ている。ぽつぽつと小雨が降っている中、父親から電話が入る。台風が来て飛行機が飛ばないから行けないと。
そういえば、このお墓はどこにあるのだろうか。ひな子と父親は普通に一緒に暮らしている。お墓だけがその暮らしている土地から遠く離れているということだよね。
そのことに観ている時には気づかなかった。どうして遠く、離れたところにあったのだろう。

そして、ひな子が参る前に誰かが花を供えている。これまではこんなことはなかった。父親を責め立てるひな子。お母さんの妹か誰かだろう、とあいまいに口を濁すつもりでうっかり真相を言ってしまう父親。
そんなことでひな子が激高したのは、後から考えてもこの父子関係がどういう経過をたどっているのかを明確にしていないからちょっと不思議なのだけれど。

ただひな子は、大学での就活セミナーで示されるように、自分が何者なのかを、ああ、こんな言い方をしてしまったら、あまりにも平凡なんだけど、なんだろう、自分自身がどことつながっているのか判らなくて、その空洞を持て余して、着地点が判らなくてふわふわしている感じなのだ。 渡辺真起子氏扮する大学の教授に、エントリーシートを見てもらう。この教授はかなりきわどい、ドライな作戦を学生たちに授けている。嘘も方便だと。追及される?じゃなければ、例えば世界中を旅して100人の友達を得たというぐらいのことを言え、と教えるような先生なんである。
ひな子が自分をどう表現していいのか困って相談したら、彼女が幼い頃に母を亡くしていると知った先生、何とビックリ、それを震災チルドレンというキャラにしてみてはどうかと提案した。震災チルドレンは今後、その経験を力に変える存在として期待されているからだと。

自分をどうアピールするかに悩むのなら、まず虚構でもいいからキャラを作るのが有効という考え方は、なるほどとも思う。時には有効だとも思う。ただこの場合は……アイデンティティの根っこの部分にウソをつく訳だから。
アイデンティティというのは実に難しい問題だ。すっかりババアになった私ですら、よく判ってないんだから。成人そこそこの彼女にとって、それを持て余す苦しさは思い出したくないよく判る感覚である。

先述のように、文学と映画が溶け合った作品だから、こと活字に関する場面はふんだんに登場する。ことに魅力的なのは、ひな子が根城にしていると思われるのが登場シーンから即座に判るような、不思議にインターナショナルな古書店である。中国人のお客さんが店主と英語でやりとりして、能と歌舞伎の違いを伝授されたりしている。
ひな子にふるさとに関する本をとリクエストされて見繕ってくれたスタッフの男の子は、顔をハッキリ映されなかったし流暢だったから気づかなかったけれど、この本で日本語を勉強した、みたいな台詞があって、この店の雰囲気が、ほぉんとに不思議な魅力。店主もどこの国のお方なのか……。

タイトルになっている坂、そのルーツが、あらゆる角度から、ドラマ性をもって語られていくんである。タモリさんが喜びそうである(爆)。たまらん坂、だなんて、そりゃ音だけで聞いたらなんかコミカルな雰囲気を感じちゃう。
でも正式というか、地名としては多摩蘭坂。私鉄の駅名でしっかとその名が刻まれている。なぁんだ、と思っちゃうけれど、ひな子は、いや、ひな子を通した父親であり、ひな子がたどり着いた黒井氏の短編小説であり、多摩蘭坂じゃなくって、たまらん坂なんだと、きっとそうであるに違いないと。

ひな子は父親の口癖がたまらん、であることもあって、妙にこだわって、多摩蘭、じゃなくて、たまらん坂である歴史を探している。
そして不思議とそれが、物心つく前に亡くなってしまった、母親の記憶と、記憶にないけれど自分のことを当然知っている、母の妹、つまり叔母という存在へとつながっていく。

多摩蘭坂をモティーフにした曲があった。アナログレコードが劇中でかけられる。RCサクセション。キヨシローの声が、爆音で響き渡る。
そうか、キヨシローはこの付近の出身だったのか。なんか妙に納得しちゃう気がする。牧歌的さ、でも東京、そしてアートな土壌。めちゃめちゃ納得しちゃう。

でもキヨシローは、その土地で正式に呼ばれているとおりに、多摩蘭坂、と歌った。それが納得できなかったのが、原作中の主人公であった。ひな子がその短編を読んでいる。作中の奥さんは、後にひな子の叔母として出てくる女性??
もうなんだか、このあたりから、いや最初からだ……ひな子が読み、彼女の父親役の古舘氏が朗読し、夢幻のような鉛筆画アニメーションがその間をつなぐ世界観で、脳内麻痺を起こしちゃうのだ。

それは、……今は危険な価値観としての言い方かもしれない、お母さんという絶対的存在を象徴的に揺らがせているからなのだろうか。
小沢まゆ!この名前で飛び上がって足を運んだというのもあった。もう女優はしていないのかと思っていた。
てか、お名前で足を運んだけれど、あまりにも時が経ちすぎて、面影がなさ過ぎて、クレジット順では確かにあの役の筈だけど……とオフィシャルサイトで確認するまで信じられない気持ちだった。大人になりすぎて、顔が違いすぎる……時の流れ(爆)。まじか……。

彼女が一番、文学的存在というか、まるで定まらなくってドキドキする。ひな子のお父さんからプロポーズされたというのが、彼の妻としてなのか、お姉ちゃんが死んでしまった後にその旦那さんからのそれなのか、私の理解力のなさのせいが大いにあるとは思うが(爆)。

でも、なんだろうな……モノクロームの中、多摩ののどかな自然、彼女が一人切り盛りしている養蜂場、廃校の校舎を使っている、そのがらんとした空間の所在なさや、なのにやっぱり東京だから、ガーガー車が通ってたり。
さっきまでは川の中の飛び石を踏んで歩いてわちゃわちゃ楽しそうだったのに、車の騒音の中、お互い聴こえない声に耳を澄ますように、思いのたけをぶつけるように、お母さんじゃないのに、お母さんと叫び、ひな子ごめんねと返す。

叔母さんでしょ?でももう、判らない。それこそが、本作の魅力。原作者の黒井氏(だよね?)を登場させて、私の中の想像上の人物でしょう、とひな子と会話する場面までもがあった。
人間の意識なんてこんなにも曖昧模糊としていて、だから、だからこそたまらなく美しいのだと思う。

次第次第に、非現実的というか、いわゆる映画のストーリーを気にしない、映像の表現を追求していく。川の水の流れの中に、目をつむり、ひたと沈んでいるひな子の画は、美しいながらも、……死を表現しているんじゃないし、だって、彼女はこれからも生きていくわけだし。

若い彼女のアイデンティティの不確かさ、不安さを冒頭で示しての本作だったけれど、結果的には、最終的には、それをかきまぜちゃって、不確かさ、不安さを強調させちゃって、でもそれで成立させちゃう。それでいいと思わせちゃう。
ひな子は、教授から提案された、震災チルドレンという設定を拒否し、誰も知らない、小さなささやかな、読み方すらもあいまいだった、地名を口にする。

子守歌、おぼろげな母親の記憶。何をよりどころにするのか、私は彼女が見つけた道筋は見つけられないけれども、てゆーか、それを考えることすらなかったことに、気づかされちゃって、今ボーゼンとしているところ。

こんなんで、大丈夫だろうか。トンチンカンなこと書いてるような気がして不安。それぐらい、今までに見たことのないアプローチと構成、成り立ちの作品だったから。ババアは頭が固くなっちゃってるからさ……。★★★☆☆


誰かの花
2021年 115分 日本 カラー
監督: 奥田裕介 脚本:奥田裕介
撮影: 野口高遠 音楽:伴正人
出演:カトウシンスケ 吉行和子 高橋長英 和田光沙 村上穂乃佳 篠原篤 太田琉星 大石吾朗 テイ龍進 渡辺梓 加藤満 寉岡萌希 富岡英里子

2022/2/14/月 劇場(渋谷ユーロスペース)
タイトルの意味のことなど特段考えずに観ていた。そんな意味など考えなくても十二分に重く深い作品だったし、登場するすべての人のただならぬ思いを見つめ続けていると思っていた。
それは傲慢だったのか。ただ一人、見逃していたではないか。もうボケちゃったんだからと、その心のうちなど想像もしなかった、理解することも、考えることも出来ていないと思っていた、その傲慢にラストのラストに、まさしく大オチとしてガツン!と突きつけられる。

お父さん。

お父さんのことを、私のお父さんのことを、思い出してしまう。このお父さんのように認知症になった訳じゃなかった。病気になって、言葉が喋れなくなって、だんだんぼんやりしているように見えていることを、ついついそんな風に解釈していた。
でも理解していたのではないか、考えていたのではないか。伝えるすべがなくもどかしく、でもこのお父さんのように、私たちを愛してくれていたんじゃないのか。

本作は、ある不運な事故によって、加害者と被害者が産まれる。つまりは誰も悪くない、どう考えても、突き詰めても、そうとしか思えない。なのに被害者と加害者が産まれてしまう。正義が持ち込まれてしまう。
加害者側と被害者側が同時に描かれるというのは、珍しいような気がする。加害者や加害者家族、被害者や被害者家族、それぞれの苦しみを単体で描く物語は今まで幾度も目にしてきた。
でも考えてみれば、どちらかが単体に存在する訳がないのだ。その苦しみは必ず両方存在するはずであり、もし正義というものをムリヤリにでも明らかにするのならば、その両方を等分に理解しなければならないのだ。

むしろ、何故そのことに今まで気づかなかったのだろう。

しかし本作の凄いところは、更に、真の加害者というものが存在してしまう(かもしれない)ところにあるんである。私たちが単純に考える、加害者と被害者という両極だけで成り立っているという思い込みを、ぶった切ってくる。
そしてその事実に直面すると確かにそうだと思うのだ。なんでも両極に分けられる訳がないのが世界のすべてなのに、なぜ事件や事故に対して私たちは、あるいは司法は、それ以外の選択肢を求めず、敵と味方を作ってしまうのだろう。そしてそれが、さらなる憎しみと争いの種を産むことになぜ気づかないのだろう。

いや、彼は気づいていたのだ。そして、思いがけずまたしても、その渦中にのまれた。
主人公の孝秋。兄を事故で亡くしている。それが彼がいくつぐらいの時だったのか明確にはされないけれど、後に母親が「あんたは裁判に行かなかったから知らないのね」という台詞からすると、まだ現実を受け止め切れないと両親が判断するぐらいの幼さだったのかもしれない。

孝秋だけが、被害者家族が想いを語り合う会に通っている。後に彼の母親が、いわば同じ哀しみを背負った団地のご近所さんの奥さんに「まだあの子が通っているかは判らないけど」とその会のチラシを渡す。
つまり、両親は通っていないんである。通う必要がなかった。今はすっかり恍惚の人となった父親がくだした、ある決意によるものだった。

被害者家族の会、ただただ喋りたいことを喋って、決して否定しない。理想的な会に見える。
でも実際は、決して加害者を許さないことを、私たちの苦しみを知らずにノウノウと生きている加害者を決して許さないことを、確認しあうような場だった。それを敏感に察知したからこそ、突然夫を亡くした楠本夫人は戸惑ったんだろうと思う。

事故だった。完全に事故だったのだ。その日はあり得ないぐらいの強風が吹き荒れていた。パンジーの植木鉢が、落ちた。それが下を通った男性、楠本さんを直撃した。
後に夫人が言うように、コントみたいで恥ずかしい、目覚めたら笑ってやろうと思ったんです、と言うのは、本当にその通りだったろう。だから彼女は、ベランダに植木鉢を置いていたというだけで加害者になってしまった男性を憎むことが“正義”なのか判らず、戸惑っているように見えるのだ。

そしてここに、先述したカラクリが存在する。ベランダに置いていただけで、いくら強風でも植木鉢が落ちるだろうか、というのは、確かに考えそうなことなのに。この植木鉢の持ち主というのが不愛想な独り者の男、だというのが、更に不幸な方向に行ってしまった。

ここは、団地なのね。本当に、ザ・団地。古くからある団地だから、ずっと住み続けている孝秋の両親世代の感覚では、今のマンション事情とは違って、上下両隣とはご近所づきあいしとかなきゃ、ぐらいの気持ちが当然のように働き、引っ越し作業をしている若夫婦と幼い男の子に気さくに声をかける。
これが運命の出会いで、この旦那さんが不幸な事故に遭い、不愛想な独り者、というのがその真上に住んでいる男で、人づきあいのなさと態度の不愛想さから、単なる事故であるのに人殺しくらいの扱いを受け、葬式で罵倒され、息子君からは生卵をぶつけられ、「缶コーヒーを飲んでた。普通だった」というだけでこの息子君は彼のことが許せない。しかもその後、ケーキ屋で遭遇しちゃうんだから重ね重ねである。

でもこの時点で、孝秋は、そしてこの事故当日居合わせたヘルパーの里美も気づいているのだ。緊急の、偶然の、重なり合いで、父親が一人残された。事故が起こりもしやと駆けつけると、父親は無事、ただベランダの窓が開いていた。そして、スリッパと共に土くれが散乱、父親の手袋も土で汚れていた。

ベランダ越しに、すぐそこに見えていたのだ。隣の植木鉢が。

父親が故意に落としたのかもしれない。引っ越してきた家族がうるさいと文句を言っていた描写が挿入されていることが、観客にしっかりと刻み込まれている。そうかそういうことなのかと、孝秋と里美と共に、その事実とどう向き合ったらいいのか苦悩する。
つまりは、あの不愛想な男に無実の罪が着せられた、いや、でも事故としての処理なのだから、でも事故じゃない、他の人間によって故意に落とされた。それは明らかにすべきなのか。
それを明らかにしても“真の加害者”はもはや恍惚の人、責任能力が問えず、傷つく人が増えるだけ。息子である孝秋がそう考えたのは無理からぬことだけれど……。

この、強風が本当に……あの時のあの事故を、どこか非現実の世界に吹き飛ばすようなんである。息子ちゃんが、息子ちゃんを演じる太田琉星君が妙にクールで、彼はあくまで「あの殺人犯」を許せなくて仕方ない、自分の心の整理がつかないからこそ、被害者の会の集いに母親に頼んで参加した、というスタンスなのだが、どうにもそう見えないんである。
彼にはすべてが……すべての真実が見えているようにどうしても感じちゃうのは、神様の世界に近い子供の持つ、オーラなのかもしれないけれども。

意外、いや、やっぱりそうだったのか、と思ったのは、お母さんも、もしかしたらのその可能性に気づいていたってことだった。いや、当然かも、当然、だろう。彼女がずっと、夫に寄り添っていたのだから。
息子から、出かける時には縛り付けておけ、なんていうひっどいことを言われて、つまり、親切めかした理解のないことを言われても、すぐに怒ったりしない。そんなことできない、ていうか、しちゃだめだってことを、若い世代の息子が判っていないことを糾弾することもなく、やんわりとそうだねぇ……でもねぇ……とやり過ごすのがさ……。

先述したように、もうすっかりあちらさんはボケちまって何も判らないんだからさ、こっちのメーワクにならないようにちょいとね、するだけなんだから、と考えるのはカンタンだ。一見理にかなってる。家族に介護の負担が重くかかる日本において、それが言い訳になるという悪癖である。
でも、そう……冒頭でふと、私の記憶がよみがえったように、本当に判ってないのか。ボケちゃってるのか。何もかも恍惚なのか。なぜそれが当事者ではない側から言えるのか、っていうことなのだ。そんな風に明確に言語化出来てなくても、お母さんは、妻として夫のことを、そんなんじゃないって、判ってたんじゃないのか??

でも、それでも、だからこそか、新入りご近所さんの騒音にイラついて、植木鉢を落としてしまったのかもと、ボケ老人じゃないからこそ、判っててやったのかもしれないと、思っていたのか。
このあたりの様々な関係者のねじれと隠匿のごちゃごちゃが、被害者家族、加害者家族というキッツい衝突構図にあいまって、辛くて辛くて。

夫を亡くした楠本夫人、演じる和田光沙嬢の、彼女は知らずに、本当の加害者の息子である孝秋に、ここでしか、あなたにしか言えないんですと、無意味に上下するエレベーターの中で苦しい胸の内を吐露するシーンが、本当に辛いのだ。耐えられない。
同情されるのも、理解してるよと言われるのも腹立たしいのに、だったらどう思われたいのか。自分だって、彼らの気持ちは想像できるじゃないか。そうするしか対処のしようがないこと、心配してくれていることも、判っているじゃないか……この、もう吐いちゃうような、誰にもぶつけられない想いを、彼女にとっては同じ被害者家族だと思っている孝秋に、上下に行き来し続けるエレベーターの中で吐き出し続ける。孝秋の言えない立場といい、このシーンはもう、拷問というか……。

団地のエレベーターという、独特の閉鎖空間は、その後も効果的に使われる。父親の罪かもしれない目撃をしたヘルパーの里美を、理不尽なウソの中傷で辞めさせた孝秋。
その後、しばらくして里美がやってくる。母親にお茶を飲みに誘われただけだと言いつつ、孝秋をまっすぐに見て言うのだ。このまま言わないでいるのは、間違っていることだと。

結局はね、この重たい事実かも知れない事実が、明らかにされることはないんだよ。孝秋は、本当に、楠本夫人に言おうっていう段階にまで、行った。孝秋は、ずっと兄の代理というか、恍惚の人になった父親は兄の名前しか言わないし、まるで亡霊のように生きてきたんだと思う。
彼だけが被害者家族の会に参加していたのは、両親に加害者を憎ませたくなかったから、自分だけが憎んでいればいいと思ったからと楠本夫人に語るが、それ自体がお門違いだったというか。
両親、いや父親が、まだ幼い次男坊のために、妻のために、つまり家族のために、もうあなたを許します。これから私たちが幸せな生活を築くために、あなたを許しますと、事故の加害者に言ったというのだ。

言えよ、言ってよ、教えといてくれよと思っちゃう。このあたりが……間違った家族間の思いやりっつーか、忖度っつーか、何なんだろうね。
お互い思いやっての措置が通じてなくて、相手を憎まずに済まそうと思ってお互いにやったことが、話し合いがされないまま、勝手な思いやりのままなされたことが、逆効果になるとは……いかにも、いかにも、日本人的逆効果!!

不幸にも加害者となってしまった、あの武骨な独り者の男性は、しかし実は家族がいたんである。でもそれは言えない家族だったらしく、訪ねてきた女性は幼い娘に、お父さんと呼んじゃダメって言ったでしょ、くぎを刺す。
彼が評判のスイーツ店で並んでまで買っていたのは、この、公には言えない愛する娘ちゃんのためだったんである。呼び鈴を鳴らされても外に出ることも出来ず、娘ちゃんが大事にしていたパンジーの植木鉢がそんなことになってしまったことを、枯れちゃった、ゴメンね、と書き置きすることしかできない、なんて!!

もう、オチバレ、いいですか。もう、泣きそうなんだけど。お父さんはね、お父さんは、……メッチャ家族を愛してた、いや、愛してるんだよ。いつもいつも、長男の名前ばかりを言うのを、孝秋は責任と嫉妬を感じていたけれど、そうじゃないんだよ。
あの場面、忘れられない。テレビのリモコンを電話の受話器と思い込んで、いや……本当に天上の長男君と喋っていたんじゃないかと思う。母親に替わり、孝秋に替わる。その日は長男君の誕生日で、母親はケーキを買って来ていて、いい年してケーキかよと孝秋は言ったけれど、いい年して、って、死んだ時の年?もうきっと、孝秋は兄の年を超えているのだろう、だからそんな言葉が出たんだろうけれど。

この時に父親から出た、お母さんと孝秋に、花をプレゼントするよ、という、なんかもう、子供のような無邪気な言葉だった。お母さんは恋人のように夫の腕をとって喜び、孝秋は、涙涙でいたたまれず、その部屋を辞した。いつも父親が、何気なく持ち物を入れてしまう冷蔵庫。その中に、あったのだ。花が。

パンジーが。あの植木鉢の花が。愛する妻に、息子に、プレゼントしようと、隣のベランダに手を伸ばして植木鉢のパンジーの花をむしりとった。そして、そういうことなのだ!!!

ヘルパーの里美ちゃんが、正義のために、真実を明らかにしなければいけないと、若い純粋さで思い募っていた気持ちが、そうだよね、そのとおりだよと重々判ってて、でも、と思っていた。こんな形で収拾されるとは思いもよらなかったけど、でもそういうことなのだと思った。
でも……これを知っても里美ちゃんは、そして世間としては、正義はジャッジされるべきと考えるのだろう。だってそのことによって人生の起動が狂ってしまうあの武骨な男性のような人が発生してしまうのだから。
これは、これは……本当に深い問題意識を投げかける物語だ。孝秋を演じるカトウシンスケ氏の陰鬱な濃いめのビジュアルがまた、絶妙に圧をかけてくる。すべてを理解していたのにきっと知らないふりをしていたであろう、こういうピュアな老練を演じさせたら間違いない吉行和子先生が素晴らしすぎる。★★★★★


トップに戻る