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「て」


2022年鑑賞作品

デイアンドナイト
2019年 134分 日本 カラー
監督:藤井道人 脚本:小寺和久 藤井道人 山田孝之
撮影:今村圭佑 音楽:堤裕介
出演:阿部進之介 安藤政信 清原果耶 小西真奈美 佐津川愛美 深水元基 藤本涼 笠松将 池端レイナ 山中崇 淵上泰史 渡辺裕之 室井滋 田中哲司


2022/4/27/水 録画(日本映画専門チャンネル)
一気に時の監督となった「新聞記者」と本作が同じ年に公開されている、しかもこちらが先、ということを知って大いに驚いてしまう。見逃していたことが悔しいが、後から遭遇するからこそいろんな感慨が浮かぶ。
山田孝之という稀代の才能がまず、この監督にツバつけてたこと。今や一気に実力と人気を花開かせた清原果耶という女優の発見、そして私が初見だった彼女の主演作は再び藤井監督と組んだものだったことは、いかに彼女にほれ込み、そしてブレイク前夜にこれまたツバつけてたことを思うと、本作はいろんな価値に満ち満ちている。
そして欲のない役者、めったに出てこない役者である安藤政信の姿を久々に目にするという点も抑えなくてはなるまい。

主演の阿部進之介氏のことを私は知らない……訳ではない筈、フィルモグラフィに見覚えはあるんだから……。名のある豪華な役者さんたちを大向こうに主演を張る彼こそが、この企画、原案を持ち込んだというのだから、プロデューサー、山田孝之の勝負も改めて感じるんである。

あまりにも救いのない話で滅入ってしまうが、正直なところ設定、物語、キャラクターなど、ところどころに少々の古さを感じたりもする。例えばこれが、インターネットもなく、スクールカウンセラーもなく、NPO法人制度もないような……そう、例えば昭和50年代あたりならば、すんなりと成立したんじゃないかと思うし、実際、こうした要素のどれかが含まれるいくつかの映画を思い浮かべることも出来る。
どれか、と言ってしまったのも、ネタを盛り込みすぎというか……ありていに言えば、主演の阿部氏扮する明石幸次の事情と、安藤氏扮する北村氏、ヒロインの清原果耶嬢扮する奈々の事情(この二人の事情はつながるってあたりも)がそれぞれに一本の映画を作れるだろっていう重さなので、こ、これをぶつけちゃうの??と思ったりも、してしまう。

ざっと物語を追うと、こんな感じ。幸次の父親が自殺する。彼が久しぶりに故郷に帰ってみると、家の壁には悪口雑言が落書きされている。村八分にされている雰囲気マンマン。
その事情は徐々に明らかにされるものの、東京に行っていた幸次がなぁんにも知らない様子なのが、親子断絶の事情でもあるのかと思ったらそうでもなさそうだし、東京で上手く行っていないような雰囲気を醸し出すけどそういう事情が語られる訳でもなく、父親の死の裏に隠された真相を明らかにすることに血道をあげるという展開になっていっちゃう。

はて、この息子は何にも事情を知らずに東京に出て、フツーに仕事をしてたら父親の死で帰ってきたとしても戻らなきゃいけないだろうに、前述のように東京で上手く行ってないような事情も語られずに残るし、妹からはさっさと働いてよ、とせかされる始末。幸次のそもそものアイデンティティがよく判んないんだよなあ。

父親が自殺したのは、決死の思いで告発した親会社の自動車部品の欠陥についてだった。地方の小さな自動車工場。いかに正しく、いかに正義でも、握りつぶされた。いや、握りつぶされたんならいい。
逆に虚偽の告発をしたと責められ、地方都市で絶大な力を持つ企業の圧に屈し、従業員たちに申し訳もたたず……あたりは、彼らのウラギリも後に発覚するにしても、とにかく、正義を信じた故に、自殺に追い込まれ、彼の家族もまた四面楚歌に追いやられたのであった。

今の時代ならね、これはなかなか成り立たないと思う。幸次が訴え出るのは地元新聞社、それはきっと、彼の父親もそうしたんだろう。地元で絶対的な力を持つマスコミと、そこに広告を打っている、絶対的な力を持つ企業、その力で持っている地方都市。
真実は握りつぶされる。あるある、昭和の時代なら、あったと思う。今じゃ……さすがにないんじゃないかなあ。新聞社一社がその地方都市すべてをコントロールしている時代というのは、確かに昭和の時代にはあったのだ。その地方の需要をすべて担っている地元企業というのは、今でもあるだろう。でも、インターネット、ことにSNSが浸透して、一気に日本は、いや地球は狭くなった。イチ地方のネタに過ぎないものが、国内、ヘタすりゃ世界中に拡散されて糾弾される時代になったのだ。

新聞社に暴露して、でもそれが握りつぶされる、というのが昭和と感じちゃうのは悲しいが、昭和を感じるのは他にもある。ヒロイン、奈々が生活している施設。親から見捨てられた子供たちが集う場所はもちろん、現代にも、いつの時代にもあるし、それが舞台となったり、その問題点が指摘されたりというのも、いつの時代もある。
しかして本作で描写されるそれは……個人の好意的意志による私設施設であり、その資金は盗んだ車を売り飛ばす、大規模な窃盗集団による利益で賄われている。

そもそも狭い価値観で囲われている地方都市で、こんだけ大規模な車の窃盗が行われ続けられること自体にムリを感じてしまう。しかも、子供たちを捨てるクズ親を事故に見せかけて、というにもずさんなやり方でボッコボコにして殺し、ゴミ捨て場に捨てちゃうとか……幸次を怖気づけさせるインパクトには充分だが、いくらなんでも足がつくだろと思っちゃう非リアリティには正直引いてしまう。
施設を運営する北村には後述する、壮絶な過去があるゆえに、善行のためには悪行もやむを得ない、というムチャな信念を通すのだが……。

本作のテーマはまさにそこにある。正しいこと、正義は、いつもまかり通らない。ならば、正しいことをするために、悪いことをするしかない、みたいな。みたいな?……そう言い切れない、というか、価値の置き方のあいまいさ、いや違うな、幼稚さというか。

本作がシリアスで救いのない重さを持ちながら、なんか、なんていうか、受け入れきれないのはそこにあったのだと思う。まったき正義、正しさが通らない世の中への歯がゆさ、それはよく判る。
でもそれは、当然なのだ。劇中では悪役として扱われる、地元大手自動車会社の三宅(田中哲司)が言うように、正しいことをただ通すことで、たくさんの人生を路頭に迷わせるのだ。

本作が言いたいのは、何故正しさが通らないのか、逆に悪者にされるのか、という社会悪への批判なのだろうけれど、あまりにも判りやすく悪役にされているのが気の毒になっちゃうぐらい、そらそうだろうと思っちゃうのだ。
清いばかりのウブな政治家が選挙で勝てないのはそういうことだ。清濁併せ?む、イヤな言い方だし、だから政治はキライ!と思っちゃうが、仲間や地元への根回しもせずに、いわばうぬぼれの正義を振りかざして突っ走れば、そりゃそういうことになるということなのだ。

それでも、現代なら、こんな判りやすく村八分にならんだろう。ホントにスマホ使ってんのかよと思いたくなるほどだ。
北村の率いる車両窃盗団の、鍵解錠のエキスパート青年の手を借りて幸次は裏切った取引先から証拠資料を奪い、告発する訳だが、三宅が憤るように、なぜその資料を破棄していなかったのか、反旗を翻すつもりもなさそうだったし、そのあたりの設定も甘さを感じる。

そして奈々である。そして北村である。もう早速言っちゃうけど、奈々の父親が北村の妻を殺し、その現場に遭遇して北村は激高して、奈々の父親を殺した、という過去である。
ななな、何それ。いくら何でも盛り込みすぎじゃねーか!!本作で教会での祈りがやたらインサートされ、善と悪、モラルが説かれまくるのはそういうことかとも思うが……ちょっと直截過ぎないかなあと思ったり。

結局奈々が、北村を殺してしまった、ということなのだろうか??音が消されたシークエンス、叫んでいる彼女の口の形からは、どうしてよ!!みたいな感じには読み取れたが、よく判らない。
襟元をつかんで揺さぶられている北村は蒼白な顔、そしてその場所は、白く凍る滝が落ちる急流の川辺なんである。

そんな痛ましい出来事の後、幸次は三宅への殺人未遂で逮捕されてしまう。てか、その前に、幸次のナマイキな行動にイカった三宅が、じゃあ俺が正義を貫いてやるわ!と彼らの違法行為を次々に暴いて一網打尽にしちゃう。そう思うと……全部知ってたのに、三宅は見逃がしてくれていたということなのか。まさに清濁、である。正しいことこそを貫くべきかという葛藤に立ち返る。

でも最終的に、結果的に、もし奈々が北村を殺しちゃってたんだとすれば……彼女が、あるいは周囲もそれを飲み込んで、彼女を送り出したのだとしたら。
美術の才能がある奈々を、しかし学校側は保護者不明であることを理由に進学に難色を示した(だからこれも、時代錯誤だと思う)。彼女に同情した幸次は親を探す手伝いをしたいと思い、戸籍を取らせたらすでに親は死んでいた。そしてその死の真相は先述のとおりであり……。

本作の中でただひとつ、現代的シビアさがあったとしたら、ひょっとして幸次は、奈々が北村を殺したなんて思ってない、彼女のことをピュアな愛すべき存在だと思ったまま、自身は愚直なまでに親父譲りの正義を貫いて刑務所に入ったのだ、という見せ方をしつつ、彼女にそう思わせたまま、実は彼もすべてを判ってる、奈々がそのことに気づいているかどうかは判らないけれど、お互い目を見合って、了解しあっている、というところかなあと思った……。
幸次の母親や妹は最初から最後まで嘆くばかりでつまんないなあと思っちゃったが……。★★★☆☆


天間荘の三姉妹
2022年 150分 日本 カラー
監督:北村龍平 脚本:嶋田うれ葉
撮影:柳島克己 音楽:松本晃彦
出演:のん 門脇麦 大島優子 高良健吾 山谷花純 萩原利久 平山浩行 柳葉敏郎 中村雅俊 三田佳子 永瀬正敏 寺島しのぶ 柴咲コウ

2022/11/7/月 劇場(新宿バルト9)
おいきなさい、なぁるほど、スカイハイかぁ。ドラマを観ていた訳じゃなかったけれど、この台詞はかなり流行った記憶があるので。
このキャラクターがイズコというのも知らなかった。本作では柴咲コウ氏が演じていて、鑑賞後後ろから聞こえてきた、「人間じゃないような感じがぴったり」というのは、私も内心、まさしく!!とうなづいたのであった。

そして本作は、そのスカイハイのスピンオフで描かれた原作であり、もともとたまえ役がのん嬢をモデルにしていたということを知り驚く。それが実際に、映画化された時にかなうなんて。
それは無論、原作の発表当時、あまちゃんで彼女が世を席巻していたことと、そのあまちゃんのなかで彼女が演じた主人公がまさに、東日本大震災に直面したからに違いない。

正直、この原作が2013年、震災からそれほど遠くない時期に発表されているという事実にちょっと驚いたが、でも考えてみると、震災から2、3年あたりがまずドキュメンタリー作品が数多くつくられてた。
本当に数多くつくられ、玉石混合で、なんつーか、このまたとない題材を、みたいな感じで、時にヤラセ作品さえ出て、胸が痛いこともあった。

フィクションに関しては、実写となると、やはり厳しいものがあったと思う。ドキュメンタリーという”正義”のもとでは強引にビデオを回せても、フィクションとして、いわば娯楽として差し出すことへのしり込みというか。
でもそうか、確かに漫画でならば。小説とも違う、やっぱり絵の力という点では、映像と拮抗し、それとは違う力がある。でも映像が想起させちゃうリアルさと違って、やはりそこは作画の力というか、表現の緩急というか、漫画ならではの描き方があって、だからこそ震災からほんの2年で成立したんじゃないかと想像してしまう。

だって、本作に接して、ああやっと、こんな風に、ファンタジーというフィルターを通してあの震災を描く余裕が出来たんだなと、思ったんだもの。なんか皮肉っぽく聞こえるかもしれないけれど、本当に素直に、そう思った。
原作と同じく2年後ぐらいに本作が映像化されていたら、とてもこんな気持ちにはなれなかっただろう。あの惨事をファンタジーにして、無残に津波に飲み込まれた人たちをさまよえる魂にするとかふざけんな、と思ったかもしれない。

本作に、東北にゆかりのある、まさに故郷を津波で流された役者さんたちが多数参加していることが心打たれる。特に中村雅俊氏は本当に当時、彼の故郷である女川市が跡形もなくなったことを赤裸々に語っていたから……。
だからやっぱり、映像化となると、しかもフィクションのエンタテインメント、しかもしかもファンタジーとなると、これだけの時間がそりゃかかったんだと、思うなあ。原作から10年近く経っていても、その時キャラクターモデルとなっていたのん嬢がたまえを100%の魅力で演じられるというのは、もしかしたら年齢設定の変更とかあったのかもしれないけれど、めちゃくちゃ胸いっぱいになる。
いや、てか、たまえの年齢設定って特になされてなかったような気もするし。二十歳は越えているかな、ぐらいな。それぐらいの振り幅、天才のん嬢ならあっさり納得させられちゃうのだ。

のん嬢扮するたまえが降り立つのは、三ツ瀬という町。彼女をいざなうイズコという不思議な女性は、あなたは臨死状態にあるのだと言った。そしてこれから向かう先は、天界と地上の間にあるところで、あなたを迎えるのは、父親の元妻、腹違いの姉二人だと。
タクシーの中で訳も分からずそんな情報を浴びせられて、飲み込めぬまま立派な旅館に着いたたまえ。長女はのぞみ(大島優子)、和服をビシッと着た若女将。次女はかなえ(門脇麦)。水族館でイルカのトレーナーとして勤務しており、漁師の一馬と絶賛ラブラブ中である。彼女たちの母親である大女将(寺島しのぶ)は、ほとんどアル中状態。毒舌オバサン。

腹違いの姉妹、ということはつまり、たまえの母親は彼女にとっては夫を奪った女であり、それはだいぶ遠い過去だと思われるのだが、いまだに恨み節である。
それは、残された長女と次女も悩ませている。この姉二人はだからこそ、突然やってきた妹に緊張気味ながらも、好意的である。この野獣のような母親に対して、ある意味同志だから。

それまでの母と娘二人の関係はなんとなく察せられるからこそ、たまえが訳も判らずこの中にぶっこまれて、彼女の、誰をも魅了する天真爛漫さでこの母と娘二人、特にまず娘二人を一瞬でトリコにしちゃうのが判る気がして。
母親が荒れていた原因である妹が、こともあろうに臨死状態でここにやってきた。つまり、この町にいる住民は皆、あの惨事で死んでしまって、魂が天界に行けないままとどまっている。宿にやってくる客たちは彼らとは違って、生と死が半分ずつ、生きるも死ぬも、自分自身の決心によるのだ。

この宿にずるずるととどまっている、いかにもメンドくさい高齢の女性。ぴしっと背筋が伸びて、サングラスをかけているから表情がうかがえない。
サングラスをかけているのは、現世では視力が失われているから。ここに来て、思いがけず景色が見えることに戸惑っている、いや、ちょっと恐怖を感じているのかもしれない。美しい景色ってなんなのか。めぐって見ても彼女の心にはイマイチ響かない。たまえが来るまでは、若女将であるのぞみも扱いかねていた。

でも、この女性、玲子さん、たまえには最初っから陥落しちゃってた。いや、最初は、あつかいかねるのぞみに対する揶揄のような気持があったからかもしれない。後に、良くしてくれたのにごめんなさいと謝るのだから。
そんな風に利用されたことを知ってか知らずか、てかもうホント、確かにのん嬢をそもそもモデルにしているというのが判る、天然というのとも違う、天真爛漫、うん、そうだけど、でも彼女の中では凄く辛い過去もあって、哀しい経験もいっぱいしてきて、そして今、いきなり腹違いの姉たちやら、義理の母やらと言われても、プラスの感情の方を信じちゃう、信じる力がある。

実際の現世での彼女は、母親の病死、父親の失踪、施設で育って、就職もままならぬ、そんな辛い人生だった。父親の失踪と聞いて、また逃げたのかと、大女将は苦々し気に吐き捨てた。
でも違ったのだ。父親はこの地に、イズコが使ってるタクシーの運転手として従事している。濃いサングラスにマスク姿がいかにもアヤしいとは思っていたけれど、そういうことだったのか。

つまり彼もまた、この地で死んでしまったけれど魂がとどまった状態の一人なのだ。なぜ。この町の住人じゃなかった筈なのに。たまえを捨てて失踪した筈なのに。
そうじゃなかった。自身の病を知って、たまえを託すために、決死の思いで頭を下げに、元妻たちのもとに来ていたのだった。そこで震災があり、津波に飲み込まれた。一人、幼い男の子を助けて。

この父親を演じるのが永瀬正敏氏。売れないカメラマンだったということが、すべての事情が明らかになって、娘や元妻の口から明らかになる。家族写真、一眼レフ。あれだけ悪態をつきながら、元妻の大女将が捨てられないままとっておいた愛の形見だ。愛の形見、ふっと浮かんだ言葉だけれど、なんかそんなことに満ち満ちている気がする。

次女のかなえ、恋人である一馬とラブラブなだけに、そういう存在がいるだけに、お互いがもう死んでいると判っているだけに、考えてしまう。納得して、天界に行くしかない。それしかないのは判ってる。それしかないのが判っているのは、この町の住民の中で、天間荘に選択を与えられた客を迎えられる場面に関わる、数人だけだ。
大女将、のぞみとかなえ、料理長(中村雅俊)ぐらい。水族館の館長はどうなんだろう。ここに登場するいがぐり坊主は、結局幻というか、現実社会では震災から10数年が経ち、かなえの後を継ぐ形でイルカトレーナーとして頑張っている。

当初はどういう設定かよく判らなかったのが、段々と……いがぐり坊主君である海斗は現実社会でイルカトレーナーとなり、職場にかなえたち、津波にのまれてしまったスタッフたちの写真を貼ってある。
ギバちゃん演じる老漁師は、かなえの恋人、一馬の父親。老いた身が残されてしまったと思い悩み続け、海斗に叱咤されている。

三ツ瀬の、天界と地上の間で、たまえが出会う、玲子さんであり、優那であり、という、かけがえのない同輩。玲子さんはたまえの無邪気さに心あらわれた。
優那はたまえと同年配か、いや、年下かな。派手なメイクにパンクなファッション。ザ・武装だと判っちゃう。SNSの炎上、追い詰められた。発表したイラストが盗作だと決めつけられた。

本当はどうなのと、直球で聞いちゃうあたりがたまえ=のん嬢であるが、その問いには明言しなかった。それは、やっちまったのか、否定したって信じてもらえないからと諦めちゃっていたのか。
意外と、意外じゃないかもしれないけど、後者だったんじゃないかと、思う。ホントに思いがけず似てしまう、あるいは、過去に観た記憶はあり、盗作するつもりはなく、無意識に似てしまう、そんなことはいくらもあると思うけれど、本当に、現代では、それが厳しくて、あまりにも厳しくて……。

それこそさ、文章でも一言一句オリジナルであれなんて不可能に近いと思うし、絵の構図なんてそれ以上に……。
攻撃する側は、気づかないんだよね。それが攻撃、誹謗中傷だということに。マジに正義だと思ってるから。違う方向から検証されて初めて、傍観していたこちとらも気づき、うっわ、誹謗中傷しちゃってた彼らはどう矛を収めるんだろと思うが、収めるんじゃなく、ただ姿を消す。それがSNSの恐ろしさで……なんの責任も生じず、なかったことにされちゃう、っていうのが……。

その優那である。たまえから友達になった、と宣言されて有頂天、一緒に現世に帰ろうという。当然、受けてくれると思ったのに、たまえはここで得た家族を失いたくなくて、断っちゃう。
幻なのに。彼らは死んでいるのに。判ってる。でもそれを第三者に言われても反発しちゃう。
優那はかわいそうだった。友達という言葉は蜜の言葉だ。たまえが優那にそう言った時は本気だったし、後々実際にそうなる訳だからと思っても、現実社会で、友達と定義する存在がいかに難しいかと思い知らされている優那にとって、一緒に現世に帰ろうというのを、家族の方が大事と拒否されたら、そりゃあ、さあ……。

優那は玲子さんと共に現世に帰る。たまえはその後逡巡しまくり、イルカトレーナーとしてかなえに学び、そのデビューで緊張しまくって失敗しちゃう。
その時に、お母ちゃんが、大女将が、集まった住民、つまり、津波に飲み込まれて死んじまったことを受け入れられず、この中間地帯にさまよっている魂たちである彼らに吠えるのだ。もうここが潮時だと。認めてみんなで天界に行こう、って。

こここそがザ・ファンタジーで、実際に震災を思わせる描写もある一方、魂が蛍の光みたいに浄化されていく美しいシーンは、それこそ、なかなか、10年以上経った今でも、提示するのは勇気がいったと、思う。今見ても、私は、ざわざわする。
ただ……本作に、中村雅俊氏、柳葉敏郎氏という、二大東北巨頭がいて、他にもたっくさん、カメオ出演の東北民がいて……。東北にルーツを持った人が、この映画の、この着地点を納得して飲み込んで、ファンタジーとしての、エンタテインメントとしての、昇華されたあの出来事として提示されているのが、凄いことだと思うし、なんか、泣けてしまった。

なんていうのかな……区切りをつけて前に進む、そんな当たり前のことを、むしろ外側の人間が、否定していたんじゃないかって。
もうこうして、ファンタジーにもエンタテインメントにも昇華出来て、実際、街も生まれ変わって、その新しい形をこそ発信していかなくっちゃ、っていうこと、だよね!と思う。★★★★☆


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