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「と」


2022年鑑賞作品

東京公園
2011年 119分 日本 カラー
監督:青山真治 脚本:青山真治 内田雅章 合田典彦
撮影:月永雄太 音楽:山田勲生 青山真治
出演:三浦春馬 榮倉奈々 小西真奈美 井川遥 高橋洋 染谷将太 長野里美 小林隆 宇梶剛士


2022/4/24/日 録画(TBSチャンネル1)
これが放送されたのは春馬君の死から一年ほど経ってのことだから、彼の死を悼んでのチョイスだったのだろうと思われるが、その録画をまたまた一年ほど経ってようやく観てる今、本作の監督の青山真治氏もまた早すぎる死を迎えていることに驚いてしまう。
ヘンなこじつけだけれど、本作が人の死というものをひとつのテーマに掲げていることに気づくとなおさらである。でのその死には常に彼らを愛した人たちの気持ちがあって、切なくもあたたかな気持ちでつながっている。

てゆーか、青山真治監督だったんだ、と思う。私は少々、青山作品が苦手で、その哲学的さというか、ストイックさというか、私では太刀打ちできないと思っちゃうところがあって、ひょっとして本作を見逃がしていたのは青山作品だったからなのかもしれない。
拍子抜けするほど、いい意味で、普通に素敵な映画だった。タイトルとなる東京中の公園があまりにも素晴らしくて、なんとなく知ってはいたけど、東京はこんな大都会でところによっちゃあごみごみごちゃごちゃとした街なのに、ビックリするほど広大な敷地をとった公園が、緑豊かな、突然別の国に来たような公園が、ここかしこにある、不思議な場所なのだ。
そして、そうか、そのクライマックスが、公園じゃないけど、「これでも東京都」という、大島であったのかと思う。春馬君扮する光司とこにたん扮する美咲、血のつながらない姉弟の、それぞれの母と父である夫婦が、三年前に移り住んだ島。

物語はこの姉と弟、光司の死んでしまった友達であるヒロが幽霊、というにはのんきな居候のようにのどかに存在する。そしてヒロの恋人であった美優は光司の家に家族のように行き来する。ヒロを通じての友人というにはひどく親密な、でもそこにヤボな関係性はなく、本当に何か、気のおけない幼なじみのような雰囲気である。
そして、光司に謎のバイトを強要する医者、その医者の美しき妻が幼い娘を連れて散歩に出ているところを撮影してほしいんだというのがそもそもの本作の展開。その場所が、東京中の公園であり、彼女のチョイスする公園こそが、幸福なラストへとつながっていく。愛と家族と、未来へとつながっていく。

なんたって、美優を演じる榮倉奈々嬢の超絶可愛さである。すっかり大人の女性となった今でもその可愛らしさは健在だが、10年前の彼女の、20代前半の年相応の可愛らしさは言葉を失うほどである。
恋人を突然失った哀しさ、その恋人が彼の友達である光司だけに見えている哀しさ、光司やその姉の美咲とも仲が良く、だからこそ敏感な彼女にはいろいろと人の気持ちが見えてしまう哀しさ。自身の気持ちの変化にも気づいているけれど、色々見えてしまっているからこそ、自身をどうしようも配置できない哀しさ。

深夜のビル清掃のバイト中、同僚に襲われそうになって、その武道の腕で撃退し、「あんた、リップスティックって知ってる!?」と吠えるところでもう、あーこの子好き!!と思ってしまう。
絶妙なチョイスの映画ファン、でも今は、ゾンビ映画ばかり観ているのは、行きつけのバーのマスターには、またそこに戻ってきちゃった、というものの実は違う、光司の前には幽霊として出現している元カレが、ゾンビになっていたとしても驚かないように、見慣れるためだというのが泣かせる。

女の子女の子していないのに、ボーイッシュな風もあるのに、達観した台詞を絶妙な柔らかさで着地させるその可愛さに、あーもう、光司はなぜこの子の可愛さにこんなに無頓着でいられるんだッと歯噛みしたくなる。
でもそれは当然のことなのだ……美優がお見通しだった。血のつながらない、年の離れた姉の美咲が光司を愛していることが見えていた。光司もまた、というのも見えていたに違いないのに、それを言うのはヤボだと思ったのか、自分で気づいてほしかったのか、あるいは、気づいているくせに気づかないふりをしている光司に対する優しさだったのか。

ちょっと戻る。そう、そもそもこの物語のスタートであり、基調となるのは、光司が受けた奇妙なバイトである。幼い娘を連れて東京中の公園を散歩する人妻を撮影するというバイト。
どうやらその夫は妻の浮気を疑っているらしい、しかもその相手を光司だと思い込んでいるらしい。というのも、光司がふと気を惹かれて彼女にシャッターを切ったのを見とがめられたのがそもそもだったから。

まさか、この偶然のような出来事こそが、キモになるとは思わなかった。美優はズバリ言い当てる。「同一人物、というのは言い過ぎだけど」と光司の部屋にモノクロ大判で貼ってある遠隔シャッターを手にしている女性に写真をかざすんである。ソックリ、光司の母親。同時に、彼が写真をやっていることが、母親の影響であり、そのカメラは遺品であることも知れる。
美優が光司にマザコン、と言い放ったのは、その言葉から想起される貶める意味合いではなくって、彼が無自覚を無意識に装って、美咲に対する気持ちにも向き合っていなかったことへの、指導といったところだろう。
見事、彼女の指南でずっとずっと好き合っていた姉と弟は、ついに向き合い、気持ちを確かめ合うに至るのだが……。

正直私は、光司の方は本当に、お姉ちゃんだと、その気持ちでここまで来ていたと、思っていた。美優に促され、姉を被写体として真正面から対峙した。姉は、美咲は……ついに光司への気持ちをほとばしらせ、二人はキスを交わした。
でも光司が、姉ちゃんが姉ちゃんで良かった、と言った台詞の後に、彼女もまた同じように返したから、この図は、彼はもともとお姉ちゃんはあくまでお姉ちゃんだと思ってて、それを受けて彼女の方は気持ちの整理がついた、ということなのだと思ったのだ。
でものちのち、彼もまた、ずっとずっとお姉ちゃんのことを、お姉ちゃんとしてではなく、好きだったのだと言うのだ……。

それでも、お互い好きなのに、血はつながってないのに(かなり少女漫画的だが)、やっぱりだめなのかなあ。タイミングなのかなあ。
判らない。ただ、美優も、これまたすべてお見通しだったバーのマスターも、判っていたけど、結ばれる可能性は限りなく低い、と断じていた。姉と弟である関係の期間の長さなのか、それぞれが姉と弟であることを決心してしまってからの長さなのか。

正直言うと、何故、ダメなのか、少女漫画で育っちまった昭和女としては、いーじゃーんと思うのだがダメなのか。
それはね……お姉ちゃんの方が、気持ちを表明したことで区切りがついて、彼から距離を置くということもあって、母親の看病という名目のもとに大島に移住することを決意しちゃってさ。
なんか、哀しかった訳さ。飛び越えてほしかった、正直。美優だってそういう意味合いで光司を送り出したのだし……でも、彼女にもこの結末は見えていたのは自明なのだけれど。

なんだろう、タイミングと言ってしまったらあまりに単純だけれど。だってだって、美咲と光司は、その出会いから、ちゃんとお互いを認識していた。
これから兄弟になる、一方はすっかり大人の女性、一方はサッカーに興じている少年、その時からお互いに気持ちを育てていたとしても、少年からの気持ちと、大人の女性からのそれでは、お互い本気の気持ちだったとしても、ダメなのか。判らない、けれど……。

光司が大学生で、カメラマンを目指しているけれど何も足がかりがない今、いろんな立場の大人たちに出会っていく、そんな物語の側面もまた、重要なのだろうと思う。
その一番はもちろん、妻の浮気を疑う医者と、その妻をカメラに収めるというシチュエイション。一見センセーショナルなのに、なんたってタイトル通り心があらわれるような緑あふれる公園が舞台なもんだから、次第に次はどの公園?どんな素敵な空間??と心待ちにしちゃう。
光司が姉の紹介でバイトしているバー、そのマスターの亡き妻をしのぶパーティーも心に残る。展開上で語られるだけで、この妻は登場すらしないあたりがストイックである。マスターはゲイなんだけど、なぜだかこの妻と、絶対にこの人と一緒になるべきだと運命を感じて、彼からプロポーズした。なのに彼女は先立ってしまった。

この作品が10年前だということを考えると、今の時点でまるでハヤリのように性の多様性が叫ばれているから、この設定はどうとらえられるのか怖いのだけれど……「メゾン・ド・ヒミコ」とか大好きなんだけど、同じ理由で結構ビクビクしちゃうというか……。
でもそれこそ、これもまた多様性だと思いたいし、そういうカップルもいるんじゃないかと思うし、いてほしいと思う。マスターは美優のことを、同じ立場だと、いつくしむように言う。愛する人との間に、三途の川をかけられてしまったもの同士だと。

幽霊として光司の元に居候しているヒロが、このまま自分はどうしたらいいんだと悩んで、お祓いしたらいいのかと光司が言うのにお払い箱かよと反発したりして、そうじゃなくって、この状態がよくないことならば、どうかしたい、親友なんだから、ということでお互いしんみりしたりして。
もうね、この時点では、みんな深いところで、判ってたと思う。美優が大荷物を背負ってやってくる。部屋空いてるって言ってたじゃん、と。出迎えるのは光司とヒロ。彼女には見えていないヒロだけれど、美優はそこにヒロがいると判ってて、決死の覚悟で乗り込んできたに違いないと思う。

だからヒロは悟ったのだ。この時か、と。ずっと、何故自分がここに、死んでしまったのにここにいるのか、判らなかった。お祓いとかじゃなかったのだ。きっと彼は、美優のことが好きだから、愛してるから、彼女のことがきっと、心配だったから。
美優が、自分の意志で、ヒロを切って捨てて、光司の元に来た、きっとそれを、心のどこかで、奥底で、ずっとずっと待っていたのだ。だから、ああこの時だと、真の意味で天に召されるタイミング、そう、これこそタイミングだ……が、来たのだろう。

こうして書いてきてみれば、メインストリームは光司、美優、美咲、ヒロという、きょうだい、恋人、友達の親密なそれなのだが、最初と最後、光司が関わるすれ違い夫婦の物語で挟まれているというのが結果的に絶妙だったんだと、思う。
浮気どころじゃない。超愛し合っている。なのに、今、すれ違っているのを、他人の目でしか確認できない。ちょっと話し合えば済むことなのに!!

奥さんが、夫との出会いである考古学、アンモナイトのうずまきを、散歩する公園のルートで示していただなんて、そんなこと、わっかる訳ないわ!!
それを他人、それも依頼した医者がワカゾーとさげすむぐらいの相手に指摘された時の、これぞ鳩が豆鉄砲食らったみたいな!!

年齢なんて関係ない、というか、光司にとっては逆に、この勘違いドクターと奥さんのラブラブを、老成した、恋を置いてきてしまった遠い目をした立場で、眺めていただろう。あたたかな目線で、もはやそれは、ホンットに年齢など関係なくであろう。
いいタイミングで、愛し合っているじゃないかと。子供のように駄々をこねて、光司にくってかかるこの大人オジサンのこと、愛おしく思っただろう。

ほんとにもう、榮倉奈々ちゃんが可愛くって可愛くって可愛くって。彼女の存在が本作のすべてを物語っている。青山監督も、彼女にほれ込んだんじゃないかなあ。★★★★☆


童貞幽霊 あの世の果てでイキまくれ!
2019年 70分 日本 カラー
監督:塩出太志 脚本:塩出太志
撮影:岩川雪依 音楽:宮原周平
出演:戸田真琴 きみと歩実 しじみ 星野ゆうき 松本高士 西山真来 岡本裕輝 長岡明美 田丸大輔 加藤絵莉 香取剛 手塚けだま ほりかわひろき 田村専一 馬場泰光 鳥居みゆき

2022/8/15/月 録画(チャンネルNECO)
最終的にかなり複雑な伏線と設定を張り巡らせた物語で、クライマックスあたりで“その中の一人”に丁寧に解説させるという優しさがあるものの、まぁなんたって私はバカなのでえーと、つまり、そうか、あれ??みたいに混乱したまま終わってしまったかも。ピンクならではの短い尺にぎゅっと詰め込んだせいもあるものの……。
本作がピンク初監督であるという塩出太志監督の手掛けるその脚本は気合十分。結果的には純愛物語、あるいは人間の欲望、アイデンティティ、本質を極限まで突き詰めたテーマ性さえ感じさせる緻密さ。

コンビニ店員の歩美と信夫の、まだ始まったばかりの可愛い恋と思わせるオープニング。おずおずとしたメガネ男子の信夫に比して、リードする歩美が両親は夜にならないと帰らないから、と誘いをかける。
その場面が雨の土手で、彼女に手を引っ張られた信夫のビニール傘がぽぉんと手から離れるのを遠くから眺める画が何ともポエティックで、一気に引き込まれる。
そしてこの画はラスト、逆の形で繰り返される、いや、やり直されるというのがまた粋で、めちゃくちゃすとんと気持ちが落とされちゃうんである。

コンビニ定員の歩美と信夫、というそもそもがミソだったのかと思う。つまり、信夫の方に肩書がない。何者でもない。ただ、歩美と恐る恐るの恋を確かめ始めた童貞君に過ぎない。
コンドームを買いに行かなきゃ、と立ち上がったところで、思いがけず早く帰ってきた両親に激高され、塩をまかれて追い払われた信夫は車に轢かれて死ぬ……いや、死にかける。
何者でもないこと、塩をまかれたこと、死んだんじゃなくて死にかけたこと、序盤でいくつもの伏線がしかれまくっていて、怒涛の如く回収されるもんだから、先述のように頭の悪い私はなかなかついていくのが難しい(爆)。

病室に横たわる信夫、それを俯瞰で見ている彼自身。泣きじゃくる歩美、憮然とした両親、顔面蒼白で謝りまくる女性は、信夫を轢いた運転手らしい。
信夫は自分が死んだのかと思うが、意識を失っているだけで、どうやら生きているらしい。その女性、高田の後をなんとなく着いていったのは本能的なものだったのか。

彼女の部屋の匂いに懐かしさを感じたのは、もうオチバレで言っちゃうけど、高田も信夫も同じ一人の男から生まれた人格であり、だからこの部屋を懐かしく……うーんでも、なかなか難しい解釈。形而上学的?よく判んないけど。
工藤という一人の男から生まれた人格として、牧子であり高田であり信夫がいるのだが、工藤と牧子、工藤と高田のセックス場面が描かれたりするからコンランしちゃう。うーん、一人の人格の中で、そうした倒錯もあるということなのだろーか。

病院から勝手に出てきた、という説明で、金髪ボーダーシャツ、ダルダルな態度の、いかにも生活能力のなさそうな身勝手男、工藤が、イコールメガネ男子信夫であることが判るのだけれど、序盤で突然の提示なのでなかなか理解が追い付かない。

その前に、高田の家にふらふらとついていった信夫が、どろどろと侵入してくるお岩さんチックな女幽霊とセックスしちゃうという展開に思わず噴き出し、無駄に怨念でさまよっていたのか、と苦悩する彼女に、君が僕の初めての相手だったんだから、無意味なんてことはない、と告げると、その言葉一発で成仏しちゃうという。
まさに、セックスからの昇天、これは感動するところなのか??笑っちゃいつつも、意外にこの冒頭のエピソードが本作のすべてを貫いてるのかもと思ったり。この難しい?役を任されるのが、もはやピンク界の重鎮女優、しじみ氏で、妙に説得力があるからなあ。

次に出てくる女幽霊である。貞子よろしく床を張ってくる。もう慣れたもんで、信夫は彼女も食っちまうが、昇天した先の女幽霊とは違い、彼女は思いがけずずっと相棒となって信夫と共ににっくき工藤を呪ってやる、という展開になる。かぎ手をかざしてヤー!!とばかり呪う図には笑っちゃうが、そんな場面を挟みつつ、どんどん事実が明らかになってくる。
面白いのは、この女幽霊(実際は信夫と同じく幽霊ではなく、人格なんだけど)と信夫とが、信夫がそもそも会得した、気を失った人間に入り込めるという術を使い合って、「転校生」よろしくお互い違う性に入り込んで、その良さを謳歌しちゃう、ってなところなんである。

まずは信夫が愛する歩美ちゃんに入り込んじゃう、ってところがミソである。まさしく「転校生」よろしく、自分のおっぱいをつかんでうわ!と目を見開き、てことは、とパンツの中に手を突っ込んで、うわ、女ヤバい!!とゴシゴシ(コラッ!)。
その発展形が、牧子と信夫がある夫婦のお互い違う性に入り込んで、違う性の官能をむさぼりあいながらセックスをするという場面で、うーわー、「転校生」が完全に下敷きにあるということが判るだけに、確かに「転校生」には、その先の妄想を観客の誰もが感じ取っていただけに、それをまさしく指摘された気がして、顔が赤くなっちゃう。

まさしく「転校生」の中に、女である、男であるという、原始的なアイデンティティが盛り込まれていた訳だけれど、それから40年も経つと、そう簡単なことも言えなくなる。性自認というそれが、当然の価値観として加えられているからである。
一つの人格の中で男性性と女性性が入り混じり、どういう事態になっているのか判らないうちは、私の恋人が同性にとられた、というスタンスでそれが語れる本作においては、性自認、というアイデンティティに対しては弱いのかもしれないと思う。
自身の中にある男性的なもの、女性的なもの、それはもちろん性自認においても、というのは振れ幅がある、という、悪く言っちゃえば理解あるフリをしていると言われかねない考え方だが、でも、うん、判る。そういうのは、あるとは思うし。でも難しいな。そんなん気分やろと言われたらそれまでだし。

工藤の中にある何人もの人格を説明するために、徐々に、夢なのか、妄想ではない、異次元のような、薄暗い波打ち際のような場面に、フラッシュバックよろしく何度も何度も立ち返る。
時にトンネルの中のような、でもその先には海があるんだけど、妙に息苦しい洞窟のような場所で、押し問答したりする。

信夫にとっては、……後から考えれば本当に、信夫の記憶は歩美のコンビニバイトの後に彼女の部屋でセックス未遂になっただけであり、彼はそれ以前果たして生きていたのかと、学生なのか、フリーターなのか、社会人なのか、ぼんやり彼女のバイト終わりを待っている彼の立ち位置はどこにあるのか。
でもそんなことを言ってしまえば、信夫たち多数の人格を抱え込んだ工藤自身がそうなのだ。すべてが明らかになるまでは、金髪ボーダーダルダル態度、恋人を殴ってレイプまがいのセックスをし、その動画を脅しに使うクズ男の彼は、ぶっ殺しても飽き足らないヤツでさ。そこまで究極にクズを描写しながら、じゃあこの男を救済するのか、っていうと……。

微妙な落としどころだと思う。結果的に、工藤のアイデンティティはどこにあったのか。救えたのか。良心の人格を救っただけじゃないのか。
良心の人格、それは判りやすく信夫である。ポエティックなあの冒頭を思い出す。女子なら誰もが、信夫のような恋人を持ちたいと思うだろう。自身にそんなに経験がなくても、ちょっとお姉さんぶっていられる可愛い男子。でもいつかは、私で経験を積んで、男らしく組み伏せてもらいたい、みたいなさ。

まさにここにも妄想が百パーセント充満してる。でも実際は……まさにそんな彼女の欲望が産み出した人格だったということなのだろう、信夫は。
歩美を愛するばかりに、工藤が次々に理想の人格を産み出し、そもそもの核の自分が判らなくなったということだとしたら……こんなクズ男、殺しても飽き足らんと思ったが、む、難しい……。

恐らくさ、監督さんはもう、いろんな映画のエンタメを入れたい人なんだと思うんさ。コンビニのオッサン店長とエンコウよろしくの歩美ちゃんとのセックスシーンはまあピンク必須のカラミ要員としても、店長の奥さんが見える人で、信夫に霊能者を紹介したり、その呪術に苦しむ工藤とか。
フラッシュバックというか、人格の話し合いの場みたいに不思議な海辺に引き戻される、それも何度も何度も、という悪夢のような繰り返し。段々と、幻想、妄想ループに入っていっちゃう感じ。様々なジャンルの映画要素をぶち込んでいる。

でもそのループを引き戻す存在があった、あったわ。閻魔様。まさかの。確かに日本的文化の価値観で物語ってきたにしても、閻魔様ご登場は、一気に非現実的になったわ。
うーわー、やっぱ鳥居みゆき氏だったんだ!そうかなそうかなとは思ったが……まさか、彼女がピンク映画に降臨するとは!!カラミがあった訳じゃないにしても(爆)なんか感動したなあ。しかもピッタリ!!

本作は、妄想やら異次元感覚で貫かれてるけど、案外ファンタジックではなくって、辛いほどの現実感覚があってさ。鳥居氏の閻魔様は、そらあフィクションそのものだし、笑っちゃうほどCGバーン!!なんだけど、なんていうのかな……。
なんか、彼女が閻魔様なら、一生懸命な、こんな米粒みたいな男の子と女の子の必死の恋愛を、判ってくれる気がしたんだなあ。

でね、先述したように、くるりとオープニングがひっくり返る。信夫が歩美の手を引く。歩美が持っていたビニール傘が宙を舞う。コンドームをきちんと用意して、自分の部屋に愛する恋人を招くのだ。
そして幸せなセックス。この時にはもう、工藤なのだ。金髪でボーダーシャツ。でもその中に残っているのは、純朴なメガネ男子の信夫だけだっていうことなの?それは……工藤にしても信夫にしても、それ以外の、彼の中にいたすべての人格にとって、哀しく切ない。★★★☆☆


ときめきに死す
1984年 105分 日本 カラー
監督:森田芳光 脚本:森田芳光
撮影:前田米造 音楽:塩村修
出演:沢田研二 杉浦直樹 樋口可南子 岡本真 日下武史 矢崎滋 加藤治子 吉川遊土 宮本信子 岸部一徳

2022/4/21/木 録画(日本映画専門チャンネル)
なんとまあ、不思議な世界観だろう。森田芳光監督は、「家族ゲーム」はリアルタイムではなかったし、スター映画も数多く撮ったけれどその時期はホラー方向にシフトしていたりするし、後年の「(ハル)」や「間宮兄弟」は大好きだけれど、それはことさらに私が、なんとかその中にキャッチ―なものを見つけ出そうとしていたのかもしれないと思う。

こういう異世界感覚にあらすじなんぞを追っても意味ないとは思いつつ、ついついさまよっていると、案の定というかなんというか、やっぱり原作とは設定を大きく変えていることを知る。
ターゲットは政治家から宗教家へ。しかも新宗教と呼ばれる、まんまやんかの新興宗教臭ぷんぷん。

しかしもはやその新宗教がこんな小さな田舎町にも信仰するのが当然のように浸透しているのは、自民党が当選するのが当然、と田舎町ほど浸透しているのと同じような気がしてくる。
そうすると、現実的な政治家から新興宗教家に変更させ、北の、北欧のようなブルーグレーの空気に満ちた、森の中の田舎町の異世界感が、裏返しに当時の(今もか)現実日本の生臭さを鏡映しにしているような気がしてくる。

沢田研二特集、なんである。後から判るが、彼扮する工藤はつまり、殺し屋だったのだ。でも、ホント?と思うぐらい、そのクライマックスの襲撃シーンは一糸さえ報えずとらえられてしまう。
その後あっさり、橋の上からの正確な銃撃でターゲットは殺されてしまうんだから、一体工藤の役割はなんだったのだろう。いや、そもそも彼は本当に殺し屋だったのか。目くらましのおとりに使われるだけの、弱みを握られていたのか。

一見した異世界感と同様に、すべてが謎だらけなのだ。そもそも工藤がこの小さな町の小さな駅に降り立った最初から、不思議感が満ち満ちていた。
迎えに出ていた、彼を世話する役目をおった大倉が、ふと居眠りをしている間に工藤を瞬時見失うオープニングが、後から思えば(後から思えばばっかり言いそう……)この世界観すべてを暗示しているように思えるのだ。
ふと目を離せば、どこかに行ってしまいそうな工藤。「涼しいですね……」ばかり口にする工藤のその言葉の真意は、単純に身体感覚的意味合いだけではなさそうである。

なんたってこの年頃の、中年期に差し掛かる直前ぐらいの、年を取っていくことへの恐怖とあきらめを内包したようなジュリーの、何ともまあ、言い様のない色気が圧倒的。
工藤の面倒を見る大倉もその人生にかなりの事情がありそうではあるが、工藤に対してその人生相談をしたがるあたりは、彼はまだまだ、俗世間に未練があるのだ。と、思ったとたんに、じゃあ工藤はそうじゃないんだ、と思い至って、だからこの時のジュリーなんだと思い至って、ひどく得心が行くのだ。

大倉が、この奇妙な仕事を引き受けた経緯はなんだったのか。ただ単純に熟年離婚をして落ち込んでいるというぐらいのことしか彼は口にしなかったが、なにか重大な弱みを組織に握られていたのか。
組織。それはつまり、この新宗教自体のこととも思われるが、アナログなパチンコみたいなゲームと緻密なコンピューター解析を交互に挿入し、下からのゆがんだ奇妙な画角で男たちがゲーム機の弾をはじいたり、コンピューター少年みたいな幼い男の子がディスプレイを凝視しながら解析を進めていて、その口もとにスプーンでキャビアを運んだり、何何、何これ、って。

未来感、いや違う、異世界感、うーんでも、こういうことが、しれっと行われているのかもしれない。頭脳明晰な幼い男の子に、公平な判断をさせる。その公平な判断は、この組織にいらない人間をはじき出して抹殺すること。新興宗教の考えそうなことだ。より純度の高い、組織に隷属するメンバーで固めて、神の国を作る、みたいな。
しかしそのオチは予想外、いやある意味予想通りだったのかもしれない。代表、つまりトップが、コンピューターによって排除すべき人物としてはじき出された。

ぴこぴこのコンピューター画面、後の「(ハル)」をやっぱり想起しちゃう。リアルタイムで観ていないからこそのヤボな感想なのだけれども。でもそれが、過去作品を観て勝手なことを言える、今の観客のぜいたくであろうとも思うし。

工藤を世話する大倉を演じる、杉浦直樹氏ときたら!こんな大ベテランが、柔軟に森田色に染まっている。
彼は正しく女好き。でもむしろそれを、意図的に示しまくっている気もする。ビーチの水着ギャルを卑猥な言葉でナンパし、組織から工藤へ送り込まれたセックスしたいしたいオーラの美女を、工藤の前に手を出すわけにはいかないと、我慢たまらず女を買いに町に出る。
そこで工藤に関わる不穏な情勢を知るのだから必要なシークエンスではあるんだけれど。そして結局、工藤の前に、挿入しなければいいだろとばかりに、送り込まれた美女、ひろみ(樋口可南子!)とギリギリまでよろしくやっちゃうんだけれど。

でもそんな風に、ことさらに、自分は女を欲してるんだ!!という空気を出していたのは、そらまああっきらかに、この妙に色気のある、謎めいた、酒も飲まず女も抱かない、控えめなのに時折そこで?というところで怒りを表明する(表明する、という言い方をしたいぐらい、その時にも口調は控えめなのだ)工藤に、どうしようもなく惹かれたに違いないのだ。
だってさあ、なんかワキもあらわに懸垂トレーニングとかしちゃって、あの美しい退廃的なお顔に汗ダラダラ、日常的な常識が通用しないミステリアス、そりゃあ、そりゃあ、まずは単純に気になって、そして、それ以上の興味を持ったって当然でしょ!!

まあその、そうしたセクシャルのどうこうが描かれる訳じゃない。大倉は組織からそーゆー意味で送り込まれた女子には手を付けず、海辺でナンパした女の子たちにも、そのシークエンスで工藤がちょっとトラブルを起こしちゃったからであろう、追っかけてきた彼女たちを追い払ってしまう。そして、公正に性欲を発散できる場所で娼婦を抱く。

でもそれはまさしく、ただ、発射してるだけだし、その町で得られた情報で彼は、工藤が、そして自分がどういう立場に置かれているかを知るのだ……。
大倉の工藤に対する感覚というか感情というか。海辺で海パン姿になったり、なんかこう、この妙齢の男子同士としては、まず服装が無防備なのに、食事の世話をするシーンなんかでは妙にきっちりしてて、ホテルみたいで。

でもそれは、彼らに送り込まれる一人の女によって、少しずつ崩れる。前述したひろみである。樋口可南子氏とは信じられない……当時の、エロ無邪気な女子である。
組織からチョイスされて送り込まれたんだから、彼女も信者なのか、いや、そもそも大倉がそうではなさそうなんだから判らないけれど……。

この三人がなんかやたらゴーカな食事をレストランでしているその背後で、窓から見えてるビルの屋上で、二人の男がずーっと殴り合いのけんかをしてるのよ。これはさ……まあいくらだって、意味付けは出来るんだろうけれど、なんつーか、これを深読みして!意味づけしてみて!!とネラわれてるいるような気もするというか、遊び心なのかなというか……。

ああ、森田芳光は、そういうとこ素直に受け取れないから、ホントムズい!!でも結局、結局、なのだよね。なんかだんだん、大倉にも判ってくる。女を買いに出た町の様子、すっかり新宗教で固められた、脅迫に近い形で固められているのにそれにイマイチ気づいていない住民たちの様子。
大倉はまるで駆け落ちに誘うように、「一緒に逃げましょうよ」と言った。逃げて逃げて逃げまくるのも面白いじゃないですか、と。

どうやら彼は、死ぬぐらいの任務を担っているらしい。彼を死なせたくない。大倉はそれを強く思っていた。でも、表向きは女好きの、ただ工藤に興味があるだけの立ち位置の彼は、そんな風に冗談めいてしか、言えない。ヤリたい女、そしてその先で恋しちゃうひろみを巻き込んで、ゲームみたいな口調で言うしかない。女にそんな役回りをさせるのは、今の時代ならば、双方に対してバカにしてる、やっちゃいけない表現なのだろうと思う。
大倉が海辺のナンパや女を買ったり、あるいは工藤に対しての質問にしたって今のコンプラを考えれば完全にNGのことばかりなのだけれど、でもそれをストレートに聞かなければ、そりゃあ相手の性的嗜好や恋愛感情も判らないんだもの。

工藤自身は結局、どうだったんだろう。工藤を演じるジュリーの作り上げるいろっぽ過ぎるキャラに、杉浦氏演じる大倉がくらまされる退廃感は狙い通りだったろうと思うが、工藤が計算づくだったとは思えないというか、切羽詰まってて、何も考えてないのに、男も女もくらませる、って、ジュリーにしかできない芸当だもの!!

森の奥、山深い小さな町、静まり返った無人駅。寒々とした小さなリゾート町。でも町中は閑散としていて、そこにつまんないデザインの旗を掲げて、よく考えず、なんか偉い人がやってきて、この町を良くしてくれるらしいとかいう漠然とした雰囲気が漂っている。
ああ、このことこそを、森田監督は言いたかったのかな。いや、そんな風に想像すること自体ヤボだろうな。

神秘的ジュリーにどうしようもなく惹かれちゃう、彼を守っちゃうナイトになっちゃう杉浦直樹氏が、むしろ主人公。哀しいのは、現代ならメインを張りもはや御大である樋口可南子氏が、この物語の中では、ザ昭和の映画の女の頭の悪さっつーか(爆)。
重要なキャラの位置づけではあるんだけど、他のキャーキャー女子と価値観も印象も変わらんのが、この時代、なのかもしれんなあ。

男たちが女子化しているというのは、今では当たり前のことだけれど、この当時のこの描写は、女子化というよりオネエ化である。
キャラクター、アイデンティティ、性的嗜好、今語られる全てのことに比すれば物足りないんだけれど、逆に、それだけの問題提起を現代に対して出来ている映画作品って、無いんだよね。やっぱり森田監督は凄い、凄いんだよなあ。★★★☆☆


トップガン マーヴェリック Top Gun: Maverick
2022年 131分 アメリカ カラー
監督:ジョセフ・コジンスキー 脚本:アーレン・クルーガー エリック・ウォーレン・シンガー クリストファー・マッカリー
撮影:クラウディオ・ミランダ 音楽:ハロルド・フォルターメイヤー ハンス・ジマー ローン・バルフェ
出演:トム・クルーズ マイルズ・テラー ジェニファー・コネリー ジョン・ハム グレン・パウエル ルイス・プルマン チャールズ・パーネル バシール・サラディン モニカ・バルバロ ジェイ・エリス ダニー・ラミレス グレッグ・ターザン・デイビス エド・ハリス バル・キルマー リリアナ・ウレイ アンソニー・エドワーズ メグ・ライアン

2022/7/27/水 劇場(TOHOシネマズ六本木ヒルズ)
ザ・ハリウッド映画を観るのが久しぶりすぎて、どう糸口を見つけて書いたらいいのかしらんと思って。久しぶりにお会いする友人と鑑賞といういわばイベント的な要素でもあったし、感想文スルーしようかとまで思っちまったが、もったいないので(爆)。
そもそも私、86年のもともとを観てないもんなあ。観てない、と思う。多分(爆)。いや、恐る恐る調べた。オタクさんは映画を観始めた中学生時代からの感想カードを保管してあるから(恥)。

観てない観てない。なんで観てなかったのかなと思うぐらい、当時爆発的にヒットしていたのに、なんでかな。トム・クルーズの他の……それこそ作品自体がアカデミックに評価された「レインマン」とか以降は観てるのに。
そういやその意味で言えば「カクテル」も観てない。なんかキラキラすぎて、当時も今も陰キャ(とゆーのは当然今の言葉だが、まさにピタリとくる表現だ)だった私は、思わず知らず避けて通ったのかも。

観てる間は、わー、ハリウッド映画。わー、判りやすい。絶対死なないって判っちゃうもんねとか、心中ツッコミも楽しく観ていたのだが、改めてウィキペディアなんぞで詳細なストーリーを眺めてみると、まあ当然なんだけど、専門的な知識に深く根差し、現代の世界情勢をしっかり見据え、荒唐無稽に見えながらリアリティを感じさせるだけのバックボーンを意識している、しっかりとしたストーリーテリング。
なのになぜ、こんなに、わー、わっかりやすハリウッド映画と思ってしまうのか。私がひねくれているのか。むしろ、もったいない気がしちゃう。そんな風に見えちゃうのが。だってトム・クルーズが死ぬわけないし、彼が見込んで、共に闘う若き相棒が死ぬわけないんだものと思っちゃう。

まぁそこは、私がひねくれてるってことでカンベンしてくれ。ところで今回、鑑賞後に知って驚いたのは、続編製作権をトム自身が持ってて、実に36年後となる本作まで時期をうかがっていたという事実である。
さぞかしその権利は高く売れたであろうに……いやその(爆)、そうじゃなくて、当時のトム・クルーズのキャリア年数と若さを考えるとさ!ってことさ!!さっすがハリウッド、いやさアメリカンドリーム。成功したものに判りやすく与える名誉とカネ(爆)。

本作のラストクレジット前に、もともとの監督だったトニー・スコットに追悼が寄せられてて、そうか、確かに記憶をたどれば、自殺というショッキングな最期を遂げたんだっけ、と思い出す。
そんな哀しすぎる経過を経てトムが、驚くべき肉体を保持したまま、自分自身の老害を自嘲しながらも結果的には一人カッコよく勝ち逃げする本作を作り上げたのは、そらまあ、もう、ただただひれ伏すしかないさ。
いっくら若手スターがエリートパイロットとして大挙出演しても、そのメンツにブラックアメリカンや女性やおどおどしたメガネ男子やを配置したって、そうした多様性への目配せもあまりにも判りやすすぎるのもアレだし、まぁとにかく、いくつになっても、背が低くても、なで肩でも、結局マッチョでカッコいいトムに持ってかれるのさあ。

36年前の第一作の時にも、きっとその議論はあったであろう、好戦的というか、戦争したがりというか、どこかとの戦いありきというか。
その第一作を観てないからなかなか言いづらいものがあるんだけれど、戦争をヒロイックに、正義とか、聖戦とかとらえることへの危惧みたいな、そういうのはアメリカの、ハリウッド映画への、語られ方として常にある。

もしかしたらそれは、敗戦国であるこちとらのヒガミなのかもしれんが、もちろんその立場で、言わなければいけない部分はあると思ってる。
本作のキモとなる作戦、とある国、という、その国名は明示されないものの、あっさり想像されちゃう、日本もめちゃくちゃ悩まされてるあの国。勝手に作ってる核施設の脅威こそが、本作の、トップガンたちの、エリートパイロット達に課せられたミッションなんである。

これはアメリカのみならず、全世界的な脅威。世界中で慎重に議論して対応すべき危機だと思われるが、ここがまさにハリウッド映画、すっ飛ばす。自国内だから、という言及もされていなかったような気がする。自国内じゃない雰囲気の方があった気がするなあ。
どっちにしろこの、世界の危機はアメリカが救うぜ!と無邪気に信じ込んで作劇するのはまさにハリウッド映画のお家芸ともいえるっつーか、お、まだその伝統?残ってるんだと思ったぐらいで。「インディペンデンスデイ」あたりでやんなっちゃったような記憶があるんだよね。世界中をアメリカが勝手に救ってんのかよ、とか思っちゃって。

ハリウッドエンタテインメントにそんなことを言うのはヤボヤボ。個人的には、そらまぁ、私がティーン時代の、トップガンオリジナルは観ていなかったものの、そりゃあ色々、エモい(この使い方は合ってる?)キャストに心躍るのさあ。
個人的一番は、ヴァル・キルマー!!キャー!大っ好きだった!正直、その大好きだったハイティーンの頃に観ていた彼以来の再会であった。ヴァル・キルマーが出てるって知ったなら、トップガン第一作、観たのになあ。

そして、当時の青春スター、呆れるほどの美少女だったジェニファー・コネリー。うっわ!ジェニファー・コネリーじゃん!って!!
年相応の美しさっつーものを百パーセント実現してる、理想!!眉毛の形がそのまんまで、わージェニファー・コネリー!!って一発で判っちゃう。

妙齢、いや、それ以上の男女が、元カレ元カノ同士とはいえ、再会した瞬間から予感の火花を散らすのは、まぁやっぱり……文化の違いよねと思っちゃうところはあるけど。
オリジナルを見てないからなあ、ジェニファー・コネリー演じるペニーがシングルマザー、娘の父親である元夫との物語がそこで語られていたのか、ならばそこに、トム演じるマーヴェリックはどう関わっていたのか……調べるのはカンタンだが、そうなるともう、キリがないので、ジェニファー・コネリーにエモったってことだけで、留めておこう(言い訳ばかり……)。

後はねー、エド・ハリスかな。彼も、私の青春時代の、トップガンは観てなかったけど、ハリウッド映画全盛の頃に青春時代を過ごし、映画ファンになった私にとっての、カリスマの一人。
結局懐かし大会にしかなってないのが気になったりして。マーヴェリックに熱血指導される若いエリートパイロットたちこそがメインになるべきなのに、私が懐かしモードになっているせいかなあ、若手さんたちが、粒だって来ない気がしちゃう。

改めて思い返してみれば、それぞれにしっかりとしたパーソナリティが与えられているし、葛藤も描かれるし、充分に濃厚なキャラ付けなんだけど、トムに負けちゃう、ヴァルに負けちゃう。
ジェニファーには……どうかな(爆)ペニーとマーヴェリックのやけぼっくいシークエンスは、それこそ王道、お約束、期待を裏切らない、エモいを通り越して伝統芸能と言いたいぐらいだから、これはちょっと別かなと(爆)。

そう……ワカモンチームが、チームで団子になってる感じ。一応、一人だけ、かつてマーヴェリックと相棒だった、あるミッションで一緒に乗り込んだ、彼が死んでしまった。その息子、という、まーわっかりやすい図式さ。
この息子ちゃんを心配している母親の思いもくんで、憎まれ役に徹するしかないマーヴェリック、という、ひさっしぶりに、こんな判りやすい人情シークエンス見たわ。寅さんあたりにどっか、似たようなエピソードありそうな気がしちゃう。

そうね、結局、この息子ちゃん、ルースターを軸に展開するのはいいんだけど、ルースター君のキャラがそれほど……若いのに口ひげ生やしてる割には、老成してる感じもなく、その髭のアイデンティティがボケボケすぎる。
エリートパイロットの中のメイン中のメインの彼がそうだから、正直皆、そんな感じに思えちゃうというか……。
フェミニズム野郎としては紅一点のフェニックスのキャラ立ちに期待したが、今一つ。みんなからバカにされている雰囲気が最初からアリアリのメガネ男子、ボブにしたって、まぁ主要メンバーに思いがけず選ばれたという場面はあるけれど、彼自身の能力に対して、おーっ!と思わせることもないしなあ。

だから、結局、スター映画だったなあ、と思う。絶対的スターであるトム・クルーズが、老いを自嘲しながらも、結局誰一人、若いもんなんかキャラも立ててやるか、ぐらいの圧倒的排除感。
その根底のプライドには、マーヴェリックが頑なに昇進を拒み、いまだ大佐にとどまっているという事実がある(大佐がどれぐらいの位置づけなのかがよく判らん。割と偉そうだが)。
これにね、私、兵隊やくざシリーズの有田上等兵を即座に思い起こしちゃったんだよなあ。ぜんっぜんタイプ違うけど、でもどうなんだろう……出世したくないという理由は、似ているのかいないのか??

何度も言うけど、そもそもの第一作を観てないからさ……でも、私のだーい好きなヴァル様演じるアイスマンが、マーヴェリックの気持ちの後押しになったんだろうし。
若いキャストが、立ち位置として単純すぎて、今一つ心に響かなかったのが物足りなかった、と思うのは、シニア同窓会みたいな満足感が、それじゃダメだと、未来につながらないという、焦燥感を感じたからなのかもしれないと思う。★★★☆☆


とら男
2021年 98分 日本 カラー
監督:村山和也 脚本:村山和也
撮影:Evgeny Suzuki 音楽:前口渉
出演:西村虎男 加藤才紀子 緒方彩乃 河野朝哉 河野正明 長澤唯史 南一恵 吉田君子 中谷内修 深瀬新 安澄かえで 大塚友則 河原康二 石川まこ

2022/8/23/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
話題になっている、ということだけ、どう話題になっているのかの情報も入れずに足を運んだから、どこからこんな題材で映画を撮ろうと思いついたんだろう、面白いな。この老刑事、知らない役者さんだけど、ものすっごい大ベテランの重鎮オーラビシバシだけどどなただろう、舞台の役者さんなのかしらん、と本気で思っていたので、本当にビックリした。
どこからどころか、面白い設定じゃなくって、この事件はほんまもんの未解決事件であり、主人公の老刑事を演じているのは、実際にこの事件に携わり、彼にとってただ一つの未解決事件となってしまった、その当の、本当に“トラオ”さんだっていうんだから!!!

まじか。そんな映画の作り方聞いたことない、てか、だとしたら、だとしたらどこまでホントなの。本当にとら男刑事は犯人の目星がついていたのに異動によって捜査から外れたから、時効になるのを歯噛みしながら眺めるしかなかったのか。犯人がこの町に生きて生活しているのを知っていて??まさか!!

この、どこまでホントなの、と思わせるところ、なのだろう。実際、こうした枠組みが用意された映画だと知っていたら、観ている時から衝撃だったとは思うが、でも、後から知ったって十分、十二分である。
とら男刑事が語る、そしてこれも実際の引退刑事であろうと思われる男性へのインタビューにうかがわれる、刑事個人がいくら確信を持っていても、結局は警察という組織の判断、しかもその捜査から離れれば口出しすることさえ叶わない、というのはきっと本当のことなのだろう、この組織至上主義というのがいかにも日本的、今も昔も、というのがうかがわれて戦慄が走る。

「金沢女性スイミングコーチ殺人事件」30年前に起きた事件だというなら、当時学生で、まだSNSどころかネットもない時代で、情報の取捨選択に偏ることなく、新聞やテレビのニュースを見るしかなかった時なのだから、知らなかった訳がない。
でもまるで覚えていない自分にそれこそ戦慄してしまう。それこそ、今のように情報を取捨選択してしまう時代なら、覚えていないどころか最初から咀嚼すらしなかったんじゃないかと思うと更にの戦慄である。

そしてそう……こんな風に、その時にはそれなりの衝撃と興味を持って接した筈の事件に、次から次へと起こる同様の事件たちに流されてしまって、いつか衝撃度だの、手口の凄惨さだの、殺しの人数だので事件を記憶するようになってしまったのだと思い至ってまたまた戦慄なんである。戦慄のハードルが低くなってる。恐ろしいことに。

推理小説の世界では完全犯罪というものはあり得ない筈なのに、時効という納得できない制度によって、それが成立してしまう。
時効、っていうのはそもそもどういう意味合いなのか。犯人にとって自責の念を感じ続けさせるだけの時間のことなのか、捜査の労力をこれ以上割けないということなのか。

後者なのだとしたら、まるでそれを、捜査側が言い訳にしているようにどうしても感じてしまう。だから、真犯人を嗅ぎつけた、とら男刑事を外したんじゃないか、なんて、作劇上のことだとはいえ、こんな風に巧みに真実と当人が織り込まれているのだから、そんなメッセージを感じちゃう。
そしてそれはきっと……この事件だけじゃなくてたっくさんあって。だってきっと、こんな風に未解決事件は無数にあるのだ。たまたまテレビで取り上げられた、それを、静かな一人暮らしを送っているとら男が耳にした、そこから物語が始まるのだけれど、それこそこんな風に、テレビのネタとして拾い上げられるだけのものに過ぎないのだ。

でも、本作は、不思議なストーリーテリングの魅力に満ちている。実際の事件であるということと、そのご当人なんて思いもよらなかった、というのは、実際捜査に当たっていたかつての刑事、今は静かに野菜を育てながら暮らすとら男を演じる西村虎男氏の圧倒的オーラがまず一点。
だってロマンスグレイの長髪を後ろでポニーテールにまとめるなんていう伊達男っぷり、しわくちゃの顔立ちの中に人生の労苦がいやおうなくにじみ出ているという渋い魅力なのだもの。

なぜ、時効になったこの事件を、再び追うことになったのか、というそもそもの物語のきっかけも、とても個性的で、これこそが映画的!と叫びたくなるチャームに満ちている。
一人の女子大学生。学内でもいかにも地味なタイプに見えるかや子が、あれは植物学とかの講義なのか、生きた化石と称されるメタセコイアという植物に魅せられる。

魅せられる、というのはこの時点では言い過ぎかもしれない。結果的には運命的な出会い。卒論のテーマに選びたいと思うが、教授からは、もう新たな発見もない植物だからと難色を示された。
でもこの言葉こそがかや子の心に火をつけたんじゃないかと思う。わっかりやすく見た目も学内での様子も地味で引っ込み思案なかや子が、まるで自分に言われたかのような、生きた化石、新たな発見もない、という言葉に奮起したんじゃないかって思っちゃうのは、まぁなんつーか、私自身もそんな感じの学生時代だったからさ。

植物学という、いわば理系の研究から、まさかの殺人事件の再捜査にいざなわれる、という、ウルトラ級並みの飛び越え方。でもその不思議な化学反応の出会いが、なんとも、見たことない魅力で心惹かれる。
メタセコイアは、被害者の女性の髪にくっついていた。遺体が発見されたのは、彼女の職場であるスイミングスクールの駐車場の車の中。つまり犯人が自らその場所に戻した、それだけでも親密な関係であったことが判り、なぜ特定できなかったのかというのが、この映画で初めてこの事件に接する人だって思うこと。
まぁそれはまた別の重要なオチだからおいといて、メタセコイア、なのだ。これが殺害現場を特定することとなった。実際片方の靴が発見されたし、そうした物証も豊富だったのだが……。

生きた化石のメタセコイアが自生している場所として、殺害現場が特定できる、だなんて、誤解を恐れずに言えば確かに何か、何とも、ロマンティックというのは語弊があるけれども、確かに被害者が、ここだよと、ここで私は殺されたんだよと訴えているような気には、確かに、なる。
心によどんだ後悔を残しながら一人きりの日々を過ごしていた元刑事の独居老人が、卒論の調査旅行に訪れた女子大学生と、メタセコイアという、言ってしまえばオタク的な植物一発で、おでん屋で会話が発展するまでに至る、という導入部がものすごい吸引力がある。

かや子が自身を投影したであろうメタセコイア、一般的にはすぐに反応するとは思えない固有名詞に、おでんやで隣り合わせたしわくちゃのおじいちゃんの心の奥底の鍵穴を開いてしまうなんて、思いもしない。
だから、だから私は、ただただこれが、風変りだけれど魅力的なフィクション映画だと思って惹きこまれたのだ。

事実は小説より奇なり、だなんて、平凡なたとえが思い浮かんだりしてしまう。30年間、とら男や被害者の遺族や関係者以外は一ミリも思い出すことのなかった、無数に発生し、一瞬だけ騒がれ、風と消えていく事件や被害者たち。
より派手で、凄惨な事件は、社会問題という言い訳のもとに、結局その事件が社会をさして変えることもないのに、ネタとして派手だから、何度も蒸し返されるのは、決まったレギュラーメンバーの事件たち。
でも……あるのだきっと、こんな未解決事件が、たっくさん。なぜ犯人が特定できなかったのかと首をひねるような、本作で扱うような事件がきっと、数多くあるのだ。

本当にね、かや子が図書館で過去の縮刷版の新聞記事を調べている描写でも、わざわざこんな記事を作り込んで大変だなーとか思っていたのだ。だからつまり私は、こういう事件ってありがちよね、だからフィクションに仕立て上げたのね、と思ったんだろうと思う。
かや子がとら男をけしかけて、再捜査本部を彼の自宅の一室に立ち上げる。ちゃんと毛筆でしたためて掲げて、地図やら写真やら付箋やら、緻密なメモ書きを貼りまくって、そして、捜査に当たっての心得なんぞもとら男老刑事はこれまた黒々とした毛筆で、記すのだ。

それはきっと彼自身が、当時胸に刻んだ、実際にそうして毛筆でしたためたであろうことなんだろう。
その中に、冤罪に気を付けるべき一文があった。白と黒、混ぜれば黒にもなる。そんな文言で、戒める一文。冤罪……とかや子はつぶやくにとどまるけれど、実はこの一点が、本作で隠れた……隠れた?キーワードだったんじゃないかと、思えてならない。

だって、時効だもの。本当にとら男元刑事が、当時から確信を持っていた犯人がいたとしたって、どうすることも出来ない。確信を持っていたにしても、捜査から外されていたら、証拠固めも取り調べも何もできない。それこそお前が犯人だ!!とか言って、冤罪を産む可能性満タンな行為なんぞ、出来る訳もないのだ。

だからこそ本作が、フィクションである意味がある。かや子がメタセコイアという、この事件のことを知ってたって、きっと覚えてもいない、そして一般社会の人間なら、聞いたこともない、まるで呪文のような名前の植物が、本来ならぜぇったいに結びつかない、地味な女子大学生と老いた元刑事を結びつける。
もちろん、本作を作り上げるに至っては、なんたって主演に当事者を迎えるんだから、相応な覚悟と心意気が作り手さん側にはあっただろうと思うし、感じる。

でも、最初に言っちゃったけど、そんなこと何も知らずに観ちゃったこちとらとしては、ウソみたいなホント、じゃなく、ホントみたいなウソ、まさにこれが映画、という魅力を感じちゃったのだ。
かや子ととら男の絶妙なカップリング、かや子が投宿している、ラブホテルまがいみたいな宿での、清掃係のおばちゃんとの何気ないやりとりから、おばちゃんがかや子を心配して相談に乗って、それが最終的に彼女に決定的なインスピレーショの与えるとか、私にとっては、これはまさしく、フィクション(いい意味での)の魅力に満ち満ちていたから、だから、真相を知って、ビックリしちゃったんだけれど。

本当の本当は、どうだったんだろう。とら男さんは、いや、……虎男さんは、本当に……ヤボだけれど、それを言っちゃうのはヤボだけれど。
とら男はね、かや子から叱責、いや、これはもはや、罵倒だな、されるのよ。かや子はとら男からいろいろアドバイスされながら聞き込みを進める。なんたって30年も経ってるから難しいんだけれど、手ごたえがありそうな人物に接触する時には、とら男のアドヴァイスを、いやまぁ、あんまり生かせなかったりもするけど(爆)、とにかく頑張る。

だからこそ、とら男が、犯人の特定は出来てるのに、いわばかや子の自由研究に付き合ってるみたいなことだったんじゃないかと、かや子が怒る。いや、彼女が怒ったのは、犯人の確信を得ているのに、当時の状況を伏せて、文化祭のアトラクションよろしく、捜査本部ごっこしてたのかよ、ということである。
それは確かにそう……でも、とら男には、その過程が必要だったのだろうと思う。やり直す。覚悟を決めて、やり直す。かつては組織に守られていたから自由に動けていたのが、外されたら何もできなくなったということを、今ここに再構築してみる。だとしたら、だとしたら……殺されてしまった若きスイミングコーチの女性の事件はやっぱりやっぱり、彼らが起き上がるキッカケにしかならずに終わってしまうのか。

最後はね、本当に怖かった。こいつだという相手に、とら男は会いに行った。特定した訳じゃない。うろたえる相手と、ニヤリとするとら男。それだけで充分だった。
かや子は、就職活動に臨んでいた。まだあの経験から抜け出せていないようなかや子の語る経験と度胸を、買ってくれる企業が、今の日本の社会にあるだろうか、と思う。★★★★☆


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