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土を喰らう十二ヵ月
2022年 111分 日本 カラー
監督: 中江裕司 脚本:中江裕司
撮影:松根広隆 音楽:大友良英
出演:沢田研二 松たか子 西田尚美 尾美としのり 瀧川鯉八 檀ふみ 火野正平 奈良岡朋子
鑑賞前にラジオで監督さんのお話を聞く機会があったのだけれど、フードコーディネーターではない、一回しか料理は作らない、と言ったという土井氏一球入魂の料理の数々が、沢田氏の手を通して、素敵男子の手と手を介して、ああもうこれは飯テロどころじゃない。
監督さんが言っていたように、沢田氏は自らやるのだと判るその手つき、ちょっと意外だったけれど、その意外さが嬉しかった。
沢田研二という人は、何だろうね、この魅力は。もちろん若い頃の美しさは衝撃だったけれど、年をとり、枯れた魅力というのとも違う、色気はもちろんだけど、チャーミングというか、憎めない頑固さというか……。
それは「キネマの神様」でも感じていたけれど、ああこれは、志村けん氏が演じる筈だったんだなあと思いながら見ていたから、本作は、まさに、彼に当て書きされたようなものなのだ。
もちろん、原作というか原案というか、水上勉氏の料理エッセイもメチャクチャ気になるけど(これは読みたい)、そこから監督が妄想してふくらました、料理が上手な身勝手なモテ男の造形は、きっともう最初から、沢田氏しか念頭になかったんじゃないのか。
そして料理に関してだって。小僧の頃に京都の禅寺で精進料理を学んだという設定が、土井先生の柔らかなイントネーション(京都じゃなくて大阪だけど)を即座に思い起こさせる。
そうだ……水上勉氏のそうしたバックボーンをそのまま持ってきているから、口減らしのために寺に出されたとか、沢田氏の年齢ではやはりちょっとずれているんだけれど、現在の時間軸を特段、調整してはいないんだよね。
かといって、今の、令和のそれだとハッキリ明示している訳でもなかった、気がする。沢田氏演じるツトムの年若い恋人、真知子は果たして、スマホを持っていただろうか?スーパーで買い物したとおぼしきレジ袋はまさしく現代だが、連載のタイトルだけでも、と原稿用紙を差し出し、ツトムもまた昔ながらの万年筆での執筆である。
ツトムが隠遁しているのは信州の山奥。雪に埋もれた古民家からざっくざっくと雪深い表へと歩み出す描写だけで心躍る。静寂、晴れた空、その青に映える純白の雪、雪を踏みしめる音。雪の中から宝物のように掘り出される大根。
土を喰らう十二ヵ月。真知子が言った、土の香り、土の味という滋味は、土の恵み、大地の恵み、この地球の命を頂く感謝、それをまさに、まさに、十二ヵ月通して見せてくれるこの幸せ。
先述したように、今の時間を明確にしないというのもあるけれど、それにしても小僧時代の経験をもとに、原始的な食生活を楽しむツトムなんである。
里芋の皮は包丁では向かない。水を張った足踏み式の装置で絶妙に皮を残す。囲炉裏であぶったお芋さんをおいしそうにほおばった真知子が放ったのが、土の味、という言葉だったのだ。
沢田研二氏と松たか子氏が恋人同士。それだけでワクワクする。年若い恋人、確かにそうだけれど、沢田氏演じるツトムがまぁその、初老といったお年頃なので、彼に比して年若いと言っても真知子もそれなりのお年頃。つまり、このお年頃の男子に付き合えるぐらいのキャリアと経験を積んだお年頃。
でも、やっぱり年が離れているのが……というのがラストシークエンスで切なく響くものの、二人のいい距離感での恋人感覚が、私は凄く凄く、好きだった。このまま続けられる感じもしたけれど、それは、やっぱり理想過多だったのかなあ……。
あくまで作家と担当編集者という関係性が前提にあったからこそ、恋人というもう一つが乗っかっても、ヘンにベタつかない。土の香りを感じる美味しい料理にありつき、気軽に立ててくれるお抹茶を頂き、干し柿をほおばり、熱燗をさしつさされつして泊っていく、素敵じゃんと思ったけれど……。
まぁその、切ない話はおいとこう。本作は本当に、じっくりと、ぜいたくに撮っている。雪、花、紅葉、筍を掘りに行く竹林、幼い小僧の頃、兄弟子僧に連れられて筍の見つけ方、掘り方を教わった記憶が回想されたりする。
空をつくばかりにそびえたつ竹林、ふんわりと落葉が足を沈ませるその大地、小僧の頃の記憶と、今のツトムの時間が、そのままつながるような時空間。
ツトムは13年前に愛妻を亡くしている。その後の真知子との会話では、この妻が真知子の先輩編集者だったらしい。
遺影の前に置かれた遺骨に線香を供え、手を合わせる。そう、13年も経ってもいまだ納骨できていない。
妻の母親で、ヘンクツが故に息子夫婦と折り合い悪く一人暮らしをしているチエさんの元にツトムはちょいちょい訪ねていく。このシークエンスも涙が出るほど大好きである。
ヘンクツばあさんであるチエさんを演じる奈良岡朋子氏が最高だし、ツトムが彼女のことを、そのヘンクツが故に町の人々とは付き合いがないだろうと思い込んでいたのが、彼女の葬儀に続々と訪れる人が途切れないことによってくつがえされるのがイイんである。
そう……死んじゃうんだよね。ご高齢だし、娘に先立たれてて、どこか達観している感じがあった。娘の、つまりツトムの妻の遺骨をいつまでもそばにおいて、お墓を作らずにいること、ツトム自身の心の整理がいつまでもつかず、独り立ちできていないことを、チエさんは案じていた。
でもその伝え方はなんつーかぶっきらぼうだし、ツトムが箸を伸ばしたさんしょの佃煮は食べさせないし(爆)、でもたくあんはたんまり食わせて、味噌も樽ごと持って行かせて、あのバカ犬が待ってるだろ、と憎まれ口をたたく。
バカ犬だなんて。めちゃくちゃお利口な老犬。亡くなった奥さんが好物だったさんしょと名付けたこの老犬がもう、ひっそりとスクリーンのすみっこに、たたずんでいるだけなのに、その姿だけで胸が締め付けられて、なんど観客席からさんしょのけなげさがあふれる所作に、ためいきと微笑みが漏れる声があふれたことだろう!!
ツトムの山歩きのおっしょさんである大工さん。演じる火野正平が素敵すぎる。この人もまた、年を重ねて枯れるんじゃなく、唯一無二のチャーミングと色気を持ち続ける人。沢田氏と火野氏だなんて、そのカップリングは見たことなかった、気がする!!めちゃくちゃイイ!
チエさんの棺桶を特大サイズにしたのには笑ったが、豪華なほどいいんだという彼の言葉を写真館のスタッフも裏付けて、超巨大な遺影を持ってきたのには爆笑!!
でもそれがいいの。先述したようにツトムは、チエさんのヘンクツがゆえに孤独な生活をしていたと思い込んでいたのだが、違うの。町のおばちゃん連中にとっての尊敬する存在。味噌の作り方から何から……。
ここが男と女の違いでさ、男は単純に、ヘンクツで生きづらそう、孤立しているんだろうと思うのだろう。確かに年若い頃ならば、そういうこともあったかもしれない。でも年を重ね、特にオバチャンは、細かいことは気にしない。本当に価値ある人は嗅ぎ分ける、のさ!
思いがけない弔問客の多さに通夜振る舞いの調理にてんてこまい、かけつけた真知子が手伝い、なんとか乗り切る。おばちゃんたちが、ツトムの精進料理を絶賛し、和やかな雰囲気の中で、チエさんをしのぶ。
凄く凄くいい。大好きなシーン。こんな風に送られたら最高。チエさんが信頼していたツトムの料理が、チエさんをリスペクトしていたおばちゃんたちに絶賛され、チエさんにも食べさせたかった、なんて言いながら、舌鼓を打ち……。
この葬儀はね、チエさんと上手く行ってなかった息子夫婦によってツトムに押し付けられ、遺骨もツトムが押し付けられる形になったんだけれど、まあつまり、この息子夫婦はちょっとした憎まれ役なんだけど、なんかそれほど憎めないというか。
中江監督のミューズと言いたい西田尚美氏の、ヤな役をやってもチャーミングが拭い去れない感じと、おどおどした尻に敷かれた亭主が似合いすぎる尾美としのり氏の雰囲気と。
彼らが憎まれ役になることによって、チエさんは幸せな晩年と幸せな葬儀と幸せな、……そう、散骨、したのだ。ツトム自ら骨をすりつぶして、船を出して川に撒いたのだった。
ラストシークエンスでツトムは心筋梗塞に陥り、真知子がいてくれたことで間一髪、一命をとりとめる。そんな出来事の前に、ラブラブ状態で、一緒に住まないか、なんてツトムは口説き、真知子は考えておくわ、と言った。
この時の彼女の本音というか、ホントの心情は、判らない。いなしただけで、そんな気はさらさらなかったのかもと思う。その方がリアルにホントだった気がする。
遠距離で、たまに、気まぐれに、仕事の催促とタイミングがあった時に訪ねてきて、その時の旬のものを、時には手入れや収穫も手伝って、ほおばって笑顔になって、酒も進んで、だなんて、最高に楽しいじゃん。離れているからこそ、たまにだからこそ、いわばイベント的だからこそ……。
ツトムが一緒に住まないかと提案した時にいったん真知子が保留したのは、保留という形はとったけれど、その時点で彼女は、そんな気はなかったんじゃないのか。嬉しかったのは当然だけれど……。
でもツトムが心筋梗塞で倒れ、生死の境をさまよい、生還した時に真知子がその誘いを受けると言った時、ツトムは、おめーこそが提案したくせに、断ったのだった。自分は一人で生きていきたい人間なんだと言って。
それは、それはきっと真実なんだろうと思う。もちろん、自身が病気に倒れ、余命とか考えたりして、真知子の若さとその未来を考えたこともあるとは思うけれど、彼の暮らしぶりは、一人だからこその楽しさであって、そこに時々恋人が訪ねてくるからこその楽しさであって。
それに気づいてしまったからこそ、そんなことを言ってしまったら恋人が離れてしまうことも承知で、つまり自分の勝手さを自覚したからこそ、彼女を自分の元においておくことへの勝手さというか、罪悪感が、あったのかなあ。
これはちょっと日本的というか、いまだにやっぱり、年の差カップルへの視線の厳しさはあるし、妙齢(の定義もアレだけど)の女性に対する、結婚しないのか圧力は、そう、いまだに、あるのだよね……。
本作が、先述したように時間軸の時代設定が明確じゃないんだけれど、だからこそ、今も昔も女性が世間のプレッシャーにさらされる結婚問題がある。でもさ、真知子さんはそんなことは気にしていなかったと思う。ツトムが好きだから、だから彼の病気に接して、一緒に暮らすと決心したのに、思いがけず拒否されて、でもその拒否も、ツトム側も自身のアイデンティティもあって悩むところがあって……。
もしかしたら、2人がこの点でとことん話し合ったらもしかしたらとも思うけれど、こと本作のテーマ性に関してはそういうことじゃなかったのだろう。
なんとなくもやもやはする。退院したツトムが覚悟を決めてか原稿に没頭している間にかかってくる電話のベルの音に、彼は全く反応しない。もしこの時電話に出ていたらどうだったろうと思う。
あんなにも、食にも酒にもしっくり来てたのに。モリモリ食べてはお酒も美味しそうにぐびぐびいく真知子に愛しいまなざしを向けていたのに。とてもとてもお似合いだったのに。
真知子が別れを告げに来るラスト、それまではオシャレであっても柔らかくラフなファッション、お互い気を使わない親密さをうかがわせていたのに、最後、真知子が結婚することを告げに来る、つまり別れのシーンでは、だっさ、と思わず口にしちゃうほどの、真っ赤なツーピースなんである。
こんなカッコ、一度だってなかった。真知子は都会の編集ウーマンだから、垢ぬけてはいるけれど、抜け感があるというか、恋人のツトムの元に長距離、車を飛ばして駆けつける、リラックスなファッションで訪れていた。なのに、何この、塗り絵で塗りたくったみたいな真っ赤なツーピース……。
彼女との別れを経て、また冬が訪れる。ツトムは玄関の外に届けられた何個ものまるごと白菜に感謝のこうべをたれる。
こんもりと積もった雪をざくざくと踏みしめる。そう、元に戻った.ループが戻った。また四季の始まり。頂きますのはじまり。
個人的には、ツトムと真知子はいい距離感と関係のまま続いて欲しかったけど、こういう関係のカップルは、どこまでもはいけない、という結論なのかなあ。そうなのかなあ。そうでもないとも思うんだけれど、それは、楽観的過ぎるのだろうか……。★★★★★
慌てて確認してみたら、幽霊の出る事故物件、川瀬陽太氏が同じ役名での出演、本作では直(じか)引きと呼ばれる、古く言えば街娼、「スナックあけみ」のヒロインはエンコウで相場が下がって困ってる、という台詞が笑えたけれど、つまり同じこと。でもそこんところはピンクだから世界観を共有、とまではいかないか。
親子関係の喪失、だからこその渇望。川瀬氏とともに里見瑤子氏も二作ともに出ていて、双方ともにそのテーマ部分に深くかかわる、つまり、娘との愛を取り逃がしている哀しき母親。
確かに確かに、世界観共有している。しかし!だって、ぜっんぜんカラ―が違うんだもの。「スナックあけみ」がどこか寅さん的なというか、古き良き人情ドラマのようなあたたかな笑いにも満ちた、そう、人情喜劇とさえ言いたいような手触りだったのに対し、本作は、なんたってヒロインは喋らない(喋れない、と言った方がいいのか)し、これまた物言わぬ詩人がミステリアスなキーマンとして登場するし。
理論物理学者なる、なにか大正モダンとでも言いたいような風貌の紳士がヒロインの愛未(まなみ)とその事故物件の部屋でしんしんと食事をする毎週土曜日の様子は、ピンクなのに彼とは何事も起こらず、なんか……クラシックな時代の映画のワンシーンを思わせたりするぐらい。
愛未はまるで声を発しない。加えて笑顔さえも見せず不愛想である。だから、見た目もいいしプレイの技術もあるんだけれど、今日もまた店からクビを言い渡されたところである。
でもその直前に、不思議なことがあった。妙に愛未にシンパシィを寄せてくる同僚の風俗嬢が、ある日忽然と姿を消した。ていうのは特段展開上騒がれる訳じゃなくって、そのあたりが改めて考えてみると哀しいというか……身寄りのない風俗嬢が突然行方不明になったって、しかも客を相手にしていた時ではなかったから、誰も、気にもしなかったのだ。
愛未は……この時点では、なんたって物言わず無表情の彼女だから、そのことについてどう思っていたかとかは判らないんだけれど、でもこの人懐っこい同僚のことは、観客である私には妙に心に残った。
彼女が恋する路上の詩人、カヲルの“志集”を読みながら、彼女は別の世界へ行ってしまった、のだ。この時には、え?どういうこと?と訳が分からず、いやすべてを観終わってもあんまりよく判ってないんだけど(爆)。
でもまあ、ここでいったん、この世界観を整理しといた方が語りやすいかも。先述したように、パラレルワールドの先に、まずこの同僚女子は旅立っていったのだ。
似ているけれど少しずつ異なる世界が連なっているというパラレルワールド。愛未と同じ、天涯孤独で風俗にしか生きる道を見出せなかった彼女が、“カヲルの志集”から何かをつかんで、違う世界に移行した。いきなりそんな導入部だから面食らったけれど、まさしくそのテーマなのだ。
愛未が住む事故物件は、つまりはそんな磁場が形成しやすい場所だということなんだろう。愛未が運命の相手かもと思ってしまう、毎週土曜の来訪者である学者先生、江口が研究している世界であり、そのカギをカヲルが握っていた。
カヲルの“志集”の詩は、古代文字のような方程式のような、不思議な図案に満ち満ちている。つまりカヲルは……一体どんな存在だったのか。最初からパラレルワールドに通じている人物だったのか。
愛未と同様、言葉を発することがない。喋れないのか、喋らないのか判らないけれど、彼に関しては、天に人差し指を突き立てて何かを感知しているような描写があったりする。
言われるがままに江口の妻とセックスして、不条理にも江口からぼこぼこにされたり、常に受動的で、怒りもしない。そもそも愛未の同僚女子から愛されていることさえ、彼は判っていたのか。
愛未が住む事故物件、かつては学生の寮として使われていたらしい、風呂なし共同トイレだけれど、今は誰も入居者がいないから何室もあるこの一棟が独り占めですよ、というのが、独身女性一人暮らしにはあまりにもそぐわないうたい文句だけれど、愛未はすんなりこの事故物件に住み始める。
彼女の元に現れたのは、死んだ筈の父親。彼が出現して驚くことがなかったのは、事故物件だから幽霊が出ることは想定済みだったのか、あるいはこの物件だったら父親に会えると思ったからなのか。
でも父親は幽霊ではなかった。なんたって出現したその時から、娘とビールを飲みかわし、これが夢だったと相好を崩す。ビールも飲めるし、触れるし。
クライマックス、パラレルワールドの話を振られた愛未が「私の産み出した幻じゃないの?」と口にするのはそりゃあそのとおり、でも彼女は、幻だと思って、それでもいいと思って、父親と対峙していたのかと思うと、なんかグッとくるものがある。
父親が死んだのは、自分のせいだと自身を責め続けてきた。親子三人で行った海水浴、溺れた幼い自分を助けようとして、父親は死んだ。それ以降、母親は荒れまくり、酒を飲みまくり、男を連れ込みまくり、……何より、言ってはいけない台詞、お前が死ねば良かったんだと罵倒をして、そして、男と共に出ていった。
それ以来、愛未はひとりで生きてきた。先述した同僚女子が言うように、風俗で生きていくしかなかった、という状況を、心を殺して淡々と受け入れていたのだろう。同僚女子がカヲルの示したどこかの世界に行ってしまった冒頭のシークエンスが、本当に、本作のまさにキーテーマになっていたとは。
愛未の母親役に、本作でも難しい役どころを任される里見瑤子氏である。現在時間軸の、愛未が冷たい、でも何か気になる、といった視線を浴びせる、橋の下でブルーシートを囲い、人形を抱きしめながら客引きをしている、白塗りのイカレた女なんである。
人形は、赤ちゃんの人形。愛未は彼女が、自分の母親かも知れない、いや母親だと、思って視線を浴びせていたのだろうか。結局は本当にそうだったのかどうか。これまたアヤしすぎるホームレス男を客に引いて、小銭を奪われて殺されてしまうという、しんどいシークエンスが用意されているのだけれど、ただ象徴的に挿入されていたということなのかな、とも思って……。
しかし何より新鮮だったのは、川瀬氏が、ピンク映画において、まったくのカラミなしの、父親役オンリーでの登場だったことである。多分だけど(自信ない)、ピンクでカラミなしの川瀬氏を観るのは初ではなかろうか。
父親役―!!ああでも、そうだよね。20代の子供を持つ年齢、そうだよね。私と同じ年代だから、ずっとその活躍に接してきたから、そうかそうか、そうだよね、と思って……。それは里見瑤子氏もまた同じで、何とも感慨深いものがあるんだよなあ。
自分の産み出した幻だと思っていた父親から、実は、この世界よりちょっと文明の進んだ世界から来た、パラレルワールドをずっと探し続けて、生きている愛未をやっと探し当てた、と、父親は言うんである。
ということはつまり、ちょっとずつ違うパラレルワールドの世界では、あの海難事故で死んだのは愛未の方であった、という世界から来たお父さんであり、愛未にとってはその後、荒れ果てて自分を捨てた許せない母親も、その世界では生きていて、生きている愛未に会いたがっているという。
なかなかに、なかなかに……難しいスタンス。確かに母親は、今生きている、愛未の世界の母親だって、きっとあの、白塗りのホームレス女なんだろう、だって同じ里見瑤子だから。
同じ思いなんだろう。だからこそ狂気に落ちて、赤ちゃん代わりの人形を抱いて、愛する夫に死なれ、愛する娘を捨てた自分を、狂うことで何とか生かしているんだろう。そして最後にはくだらない男に殺される。それがこの世界の結末。
その世界から抜け出さないかと、自分たちの世界に来ないかと、父親がやってくる。でもそれは、違う世界の父親であって、それは父親と言えるのか。
なんだろう、この哲学的な問答は。普段の生活では一言も発せられない愛未が、幽霊かと観客に思わせた父親とすんなり会話が成立しちゃうところで、もうなんか、ヤラれた、と思うのだ。
きっと、彼女はこの世界では生きづらい、どころか、生きていけないのだろう。そしてそれは、同じく言葉を発しないカヲルと、彼に惹かれた同僚女子も同じ。
パラレルワールドという、もしかしたら自分はそのどこかの、パラレルの微妙な違いのどこかの世界の住人だったのかもしれない、というのを、だからこそその欠員を産めるがごとくやってくる、ちょっと進んだ技術を持ったパラレルの使者、という……うっわ!そう考えると、なんかつじつまがあっちゃう!!
霊感があって見えちゃうとか、そういうのは実はパラレルワールドから来た使者なのだとか、生きている愛未を探しに探したとか、なんか、うっかり、納得しちゃうんだよ!!無数のパラレルワールドの中で、喪失や幸福のつじつま合わせを、いい意味で行っているというか……。
愛未が運命の相手じゃないかと、好きになってしまって、でも別れを告げられて(毎週食事をするだけで、付き合ってもないんだけれど)落ち込みまくるお相手、まさにこのパラレルワールドを研究している江口。
恋人が美しく聡明で、完璧すぎて信じることが出来ず、他の男に抱かせてテストをし続けたという、改めて考えてみればなんつーキチクな。ピンクだからなんとか画的にも成立するが、これはヒドいという設定。
そのテストの相手にカヲルを選んだのは何故だったのか。そもそも江口は愛未に声をかけた時、自分のことを覚えていますかと言ったけれど、どこでどう出会った相手だったんだろう。
カヲルを探していたのだって、何のつてだったのか。カヲルが奥さんを試すための人物だとなぜ特定できたのか。カヲルが書いていた詩、ではなく、あれはきっと、パラレルワールドへの方程式だったと思われる述作への興味に他ならない筈と思うのに、それに気づいたのは江口の娘に至って、という展開なんだよね。
えっ?マジで江口はまるで気づかず、偶然のようにカヲルを奥さんと寝てもらうだけの相手でチョイスしたの??そんなことないよね、だって、詩人を探している、と愛未に言っていたんだからさぁ……。
うーむ、私の理解力不足なのかなあ。愛未にしてもカヲルにしても、ミステリアスなキャラ設定が魅力なだけに、そこから人間性を掘り下げてほしいと思うだけに、ちょっと形骸的に感じたのは残念だったかなあ。
母親に対する思いがあった。憎んでた。自分を捨てて出ていった。愛未自身も死のうと思ったことがあった。でもそれは、父親が救ってくれた自分の命、お父さんの命を無駄にすることになるからと、ここまで歯を食いしばって生きてきた。
これは……感動したなあ。人間は時に、自分自身じゃなくって、他の存在、親や子供、パートナー、友人……彼らの思いに心を寄せて、生きようと、生きなければいけない、と思うのかもと思って。
その愛未の想いを、パラレルワールドというマジックですくいあげる。同じお母さん、気持ちはきっと同じ、でも、上手く表現できないお母さん、待ち続けているお母さん、どのワールドのお母さんもきっと、愛未のことを愛してる。きっと、愛してる。
何年後になるのだろうか。江口の娘が、事故物件だからこそ、父親がやり残した研究を続けるためにと、伝説のこの部屋に契約を締結する。
そして、別の世界に、カヲルと共に移動した愛未、赤ちゃんを抱え、父親のゴロウ、憎んでやまなかった母親と、なんという、幸せな、涙が出る、家族写真を撮ってる!!
現代の映画なのに、そしてパラレルワールドなのに、なぜかの、強烈なノスタルジーに胸が熱くなる。★★★★☆