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消えない灯り
2023年 74分 日本 カラー
監督:井上博貴 脚本:井上博貴
撮影:杉山弘樹 音楽:中西ゆういちろう
出演:織田美織 金澤美穂 宍戸美和公 塩顕治 北浦愛 諏訪珠理 温水洋一 朝加真由美 平田満
そうかそうか、などと思ったのは、独女の自分としてはやっぱり同じ立場ね、という部分でついつい共感点を探してしまうクセがあるから。
主人公の茉莉は有名出版社に勤めていたらしいのだが、異動先で上手くいかず……どうやら人間関係らしい……やめてしまって今はレストランでのアルバイトで口を糊している。
そのアルバイトも、さぼり上手のワカモンにいら立っても何も言えなかったり、古くからいるバイトさんを優遇されて、その穴を埋めていたのにと納得がいかなかったり、そもそもこの仕事自体がいかにも生計をたてるためにぶち込んでいるという感があって、なんかつまり、やさぐれている。
茉莉は実家を売却する方向で不動産屋さんと話を進めているのだが、それというのも、その実家に一人暮らしていた父親が突然死んでしまったから、なんである。
本作の冒頭は、その父親との会食シーンから始まる。突然東京に出てきた父親から連絡があって、事前に言ってくれた方が予定が付きやすいんだから、と文句を言いながらも、ボーナス出たばかりだからおごっちゃう、娘におごられるなんて幸せだと思いなさいよ、だなんて、オシャレなお店でおちょこを酌み交わしながら、仲の良い父と娘の様子は幸せそうだった。
でもその次のシークエンスでは、同じように連絡が来ても、茉莉は仕事の都合がつかない、と断った。それもLINEの文面上は努めて明るく、ごめーん!みたいな感じだったが、実際は仕事どころかほぼニート状態、部屋でうつうつと時を過ごしていたのだった。
そんな自分を、父親に見せられないと思ったのだろうが、その後ほどなくして父親は突然、亡くなってしまう。
心臓を押さえるようにしていた描写、病院にかかっていて言い渡されていたのかもしれないし、とにかく父親は自身の運命を予感していたのは違いなく、そして、後々茉莉が語るように、仕事が忙しいなんて嘘だってことを見抜いていたのもそうなのだろう。
時間が前後して回想が入れ込まれるのだけれど、仕事を辞めた直後あたりなのだろう、茉莉はしばらく休みがとれそうだから、と実家でひとときを過ごした。あの時の父親の表情は、……切羽詰まっていた茉莉には判らなかったのかもしれないけれど、そしてのちのち茉莉にも思い当たるけれど、見ている観客には、ああ、お見通しだなと判ってしまうのだった。
それは、父親を演じているのが、ああ大好きな平田満だからっ。彼はこの広い一軒家に一人、暮らしている。地方都市ならではの、だだっぴろい平屋建てスタイル。
一人、というのは、母親は茉莉曰く、男を作って出て行った、から。後々登場する母親、演じる朝加真由美氏の、いっかにもな自分勝手な母親キャラは、娘の茉莉をいら立たせるのに充分ではあるのだが、なんか懐かしいというか……こんな造形久しぶりに見たわ、という気もしたり。
茉莉の年頃ならば、両親が離婚しているというのはさほど珍しい事例ではないし、男を作って出て行った、という言い方自体に、夫婦間に何があったのか斟酌せずに、男を作るオンナこそが悪、それが逆のパターンはよくあるのにさぁ、と思っちゃったり。
すみません、フェミニズム野郎なもんだから(爆)。しかしてこの母親、朝加氏が巧みなもんで、つまりさ、家を売るという噂を聞きつけて、だったら私もちょいと、というために娘に接触してくる訳よ。
そらまぁ茉莉が煙たがるのもムリはない。勝手に出て行ったくせに、金の匂いを嗅ぎつけてくる、と。母親曰く、増築した時私も幾分出したんだから、というものの、それだってなんの証拠がある訳ではないよね??
出版社時代の同僚である友人はアルバイト生活の茉莉を心配して、キャリアを生かした、先輩が起業した出版社を推薦してくれるが、茉莉は前職を失敗してしまったという気持ちが強く、一歩を踏み出せない。
そしてその友人が心配するように……家を売ってしまった方が経済的にも安定するだろうと、もうこの先は価格が下がるばかりだというのは不動産屋からも言われていたことだったのだが。
実家のご近所さんからささやかれる、うろついている不審人物の情報。それは父親の教え子の女性、陽子であった。教師だったんだ、ということがこの時に明らかになり、いかにも地方都市ならではだと思うのだが、陽子が家庭の事情でのっぴきならなくなって茉莉の父親の元に身を寄せているのを目撃され、若い女をかこっているだのと噂されたのだと。
陽子の夫がそれを信じ込んじゃって彼が言いふらしている感もあったのかもしれないけれど、そもそも陽子は教え子であった学生時代の、家庭の貧困でお弁当を持たされなかった時に、茉莉の父親から不格好なおにぎりのお弁当を頂いたことが、始まりだったのだった。
ご近所さんや、陽子の夫の血走った詰め寄りに遭って、茉莉はまさかそうなのかと陽子に詰め寄るけれど、陽子から否定される。もちろん、証拠なんてない。ちょっとここは甘いというか、陽子の言うことを信じさせるのは難しいところがあるとは思うのだが、それはそれこそ、凡俗に犯された私たちの悪いところなのだろう。
茉莉が陽子の言うことを信じられたのは、そう……陽子から、父親が娘の茉莉のことを嬉しそうに話していた、あんなこと、こんなことと聞くたびに、そんな父親のことを知らなかったと、かみしめ続けるからなのだ。
冒頭の居酒屋でのシーンに接する限りでも、それなりに仲のいい親子に見えたし、出て行った母親への憎悪の感情を見るにつけ、父親のことを反動的に愛していたことも想像されたけれど、でも、そう、反動的であって。
父親が本当はどう考えていたか、出て行った妻のこと、そして娘の茉莉のことを、っていうことは、向き合わないまま、茉莉は自身の問題に切羽詰まっている間に、父親は死んでしまったのだった。
多くの親子関係はそうだと思う。そのことに親の死後思い当たって、まさに死ぬほど後悔するのだろうと思う。
そしてそこに、一人娘の茉莉には、実家の処分という選択がのしかかってくる。都会に出てきて自活している、もう実家に戻ることはない、よくあるパターンだけれど、茉莉は今、つまづいている。キャリアを生かした転職の道を用意されているのに、踏み出せない。
しかも、実家の居間の、おこたにあたっている父親の姿を再三、見てしまう。幻影、それはそうなのだろうけれど、困ったことに、陽子もまた、見てしまっている。
亡くなったと聞いてはいても、幻影を見てしまったから気になってしまって、何度も訪れて、不審者に間違われてしまったということなのだった。
父親の幻影をどう解釈するか。茉莉は、この家をもう少し残してほしい、自分の居る場所を守ってほしい、という父親のサインなんじゃないかと解釈した。陽子は、茉莉さんのことを心配しているのだと言って、ここに固執することに疑念を示した。
同じ幻影を見て、違う解釈。そして、しつこく付きまとう陽子の夫に茉莉が立ち向かった時、思いがけず陽子がそれを制したのだった。しかも、先生とソックリ、という言葉で。
茉莉の父である恩師を慕っていたのに、それをここで陽子は否定的な意味合いで使った。もう守られるだけの存在じゃないんだ。守られるだけでは、前に進んでいけない。先生、私、前に進む、生きていきますよと。
陽子の存在は、彼女の言うことを信じられるか否かによって180度変わってくるキャラであり、うっかりミステリになりそうなぐらいの立ち位置なのだけれど、そもそものテーマ性である空き家問題を考えれば、ここは素直に陽子の語ることを信じたいと思う。
茉莉の父親とのあれこれを疑う陽子の夫のザ・ストーカーっぷりがちょっと見てられないぐらいにベタだったので(爆)これをどっちにとるべきなのかしらんと思っちゃったりということもあったりして。
陽子を演じる金澤美穂氏のたたずまい、いかにも学生時代、家庭環境のみならず、もちろんそれが原因にもなって学生生活がうまくいかなかったんだろう、友達が上手く作れなかったんだろうということが推測され……それなりにちょっと判る部分があるもんだから(爆)、それは信じたいし、信じられると思う。
そして今、こんな不思議な縁ではあるけれど、茉莉と友達とも何とも言えない出会いを持ち、茉莉の父親の、せめて三回忌までは、この家を守ろうというのに、陽子が協力する……時々掃除をしたり、風を入れたり、ね。そう、前述したけれど、人が生活しなくなれば、あっという間に家は荒れる。ただ置かれているだけで、不思議に荒れてしまう。
私、もうすっかり年をとってしまった、と思ったのは……。色々差異はあると思うけれど、私の世代の感覚では、親の実家、おじいちゃんおばあちゃんがいる家、というのは永遠で、誰かが受け継いでいっていて、大人になって訪ねたら誰かしら親戚がいる、そんなイメージだったのだ。
それが壊れたのが、私がすっかり大人、30代以上になってからのいろいろな経過があってからのことだったので、こんなこともあるんだと、それが珍しいことではなく、日本中の、あるいは世界中で起きていることなのだということに気づいたのは、恥ずかしながらつい最近なのかもしれない。
そのことが、この先、数年、数十年後に、私たちが死んでしまった後に、どういうことをもたらすのかと考えると、本作は結構怖い未来を警告しているんじゃないかと思ったりする。
茉莉はとりあえず、父親の三回忌までと言った。それぐらいしかできないのだ。だったら一体その先は……?甘い感傷だけではどうしようも出来ないのだ……。★★★☆☆
元祖アイドルAV女優と呼ばれているんだという。現在に近い写真も出回っており、現役風俗嬢であるらしい。
彼女にとってエロはまさに天職だったということだろう。そんな人生に触れると、本当にいろんな世界があることに目を開かれる思い。
そんな、彼女自身、あるいはAV女優、AV業界を実録ドラマのようなタッチで描く。実際、結構事実に即した物語なのかしらんと思われるのは、年をごまかしていた女の子の出演を摘発されて、影田マネージャー(池島ゆたか)が逮捕されちゃうという描写が、つい最近観た、「全裸監督」で、あったあった!と思ったから。
あの村西とおる氏だけでなく、そうしたことが少なからずあったんだろうなと。そして女優に恋しちゃうというのも「全裸監督」にもあった展開で、これまた少なからず……公にして作品を残している監督&女優コンビも記憶にあるし。
菊池エリ氏は、元祖アイドルAV女優の名に恥じぬ、そして80年代の空気を完璧にまとった、まさにアイドルな可愛らしさ。そう……本当に、80年代アイドルそのもの。両サイドをカールさせたあのヘアスタイルはまさしく80年代アイドルそのものなんだもの。
でも巨乳で、演技とは思えぬナチュラルさで、世の男たちを虜にした、という代表として、マネージャーの影田が描かれる。
マネジメントしている立場なのに、現場に立ちあって、顔はマジメさを保っているのに勃起を押さえられない。彼女の脱いだ下着を嗅いだりなめたりしちゃう。ああもう、それをことさらハァハァも言わずにだまってやるから余計にヤバい。
それでも表面上は面倒見のいいマネージャー。SMの注文に難色を示したり、彼女を守ることに心をくだきながら、でも一方でどんどんアイドルになっていく彼女の、雑誌の記事を食い入るように見てまた勃起したりしちゃう。
エリに夢中になるあまり、他の女の子たちのマネジメントがおろそかになり、不満が入ってきだしたあたりで、未成年を使った摘発がある。
その直前、影田はたまらずエリに告白している。告白、だなんて、まるで中学生男子みたいだ……凡百のピンクだったら、影田とエリのカラミぐらいありそうなもんだ。
なのに何もない。一ミリもない。キスさえ、いや、そんな雰囲気にさえ陥らない。エリにとって影田はあくまでマネージャーであり、それも、この世界に入る勇気を与えてくれた信頼のおける人物。
そんな、ドラマチックな展開もありつつ、当時のAV業界のリアルを垣間見られるのが本作のもう一つの魅力。
そもそもエリがこの業界に入ったのは、友人、百合子の紹介なんであった。この時には、てゆーかずっと、ヌードモデルと言っていて、AV女優とか、AVということさえ言っていなかったと思う。これは当時その名称がなかったのか、あるいは、ヌードモデルの方がAV女優と言うより敷居が低かったのか、気になるところである。
影田が風俗嬢をスカウトするシークエンスが興味深い。これは撮影手法も独特で、俯瞰、というか、もう天井からというか、もっと高い、これじゃ実際に声も聞こえないだろう真上からのカメラ。
ぽつんと置かれた粗末なベッドは、とても風俗の一室とは思われず、その床にぽかんと空いた穴に通じる梯子を上って風俗嬢が顔を出す。
なんというシュールな。なんか、全然違うけど、なんかなんか、ドッグヴィルをふと思いだしちゃったりして……。
ここだけが、リアルじゃない。実際に風俗嬢をスカウトすることはあるんだろうけれど、まるで、というかそのまんま、舞台装置そのものなんだもの。風俗嬢も、影田も、その表情はまるで見えない。真上から、影田が風俗嬢にしゃぶられているのが確認できるだけで。
名前や顔が出るんでしょう、だったらイヤだと、風俗嬢はその誘いを断った。諦めきれない影田は一回試しにとか、名前を変えればとか、メイクで顔も変われば判らなくなるとか言ったんだけれど、そもそも彼女は興味がなさそうだった。
風俗嬢というエロの仕事についているからと言って、そして、同じエロでもこっちが稼げると誘ったからといって、そうそうなびくもんじゃない。いやそもそも、まったく別。やはり女優であり、表現者でなければ、つとまらない世界なのだ。
中盤、エリをこの世界に誘った友人が、それでそんなことを言うのもナンだけど……といった形で、愚痴という形で、当時のAV女優は辛いよ状況を吐露する。
やり始めて2、3年でベテラン扱い。最初は毎日仕事がひっきりなしだけれど、次第に間遠になり、セックスの体位がどうの、ヤラセの盗み撮りだの納得のいかない仕事しか入らないようになるんだと。
エリにもSMの仕事が舞い込み、影田は、SMを引き受けるとそればっかりになってしまう、と躊躇する。でもこの時点でエリは売れっ子で、その仕事を持ちかけてきた側も、そんなの心配することはないと太鼓判を押すし、エリもあっけらかんと了承する。
仕事がノリにノッているこのシークエンスと、実際は影田がエリにばかり肩入れし、他の女優の現場に行かなくなったがゆえに、SM現場でヒドい目にあった女優からの怒鳴り込みが鮮やかに対照をなす。そして影田が児童福祉法で逮捕されてしまう流れまでが見事で。あぁ、エロと恋と仕事とその信頼関係、大事で難しい!!と思っちゃう。
影田はブタバコに入れられ、その間に当然、女優たちは皆、他のプロダクションに移ったり、フリーランスになったりしてしまう。
先述のように、そもそもその直前に、ちゃんとマネジメントしていないていたらくが示され、エリを受け入れたマネジメント会社の社長が、そうした影田の、よく言えば情の厚い、つまりは特定の女優に入れあげてしまっておろそかになっちゃう欠陥をエリに説いて聞かせるんである。
エリ以前にもあったことなのだと。しかもその相手に持ち逃げされて、すっからかんになったことさえあったのだと。
そうかそうか、この、R15として再編成されたタイトルは、菊池エリのことではなく、影の主人公とも言うべき、池島ゆたか監督演じる、影田マネージャーのことであり、それはきっと、この当時、菊池エリというアイドルAV女優に恋してしまった、あまたの男性たちを代弁していたことだったのだろう。
菊池エリ、実際の人気AV女優の様々な仕事ぶりを、デビューの初々しさから、ベテランとなって自慢の巨乳を揺らして男優を組み敷き、SMで亀甲縛りにろうそくをたらされるまで、さまざまに見せてくれる。
そして驚異的なことに、そのどれもが、どんなに過酷で刺激的であっても、愛らしい、80年代アイドルなスター性は損なわれないのだ。
出所した影田が、新しいスターをとスカウトに励む。電車で隣に座った女性に声をかける。すげなくされて、なぜかバッグの中に隠し持っているビール瓶(なんでそんなものを持ってるのか……)で殴られる。
反対側に座っていた大阪弁の女性が、自分を売り込んでくる。自分のおっぱいが舐めることができることをアピールして来る。しかも彼女はなぜか、炊飯器を抱え込み、自分で海苔巻きを作って食べているという超絶シュールさで、自分のおっぱいをなめながら、影田に海苔巻きをすすめ、有名になりたいんやと繰り返す。
何、このシュールさ。怖すぎる。抱えているくすんだ緑の炊飯器が怖すぎる。
このシークエンスはちょっとしたギャグのつもりだったのかもしれないけれど、本気で怖かったなぁ。意味を考えたら怖すぎるから、考えないようにしよう……。
ラストは、なんていうか……静かな収束。エリは影田を傷つけてしまったんではないかと悩み、怪しげな相談所でアニメ声の女から授けられた、どちらも悪くないけれど、それでも謝った方がいい時がある、と、つまりは自身の罪悪感を鎮めるためということだというのは、イジワルな見方だろうか??
でもとにかく、影田を訪ねて、ごめんなさい、という。そして……愛の告白をされたことに対しても、嬉しかったけれど、と。
影田とエリの最初の出会い、愛らしいルックス、サイドをカールした当時流行のヘアスタイル、そのお顔の向こうで友達の女の子がタバコをふかしてる。
エリがふかしてるんじゃないんだけど、ぼぉっとしたエリの、当時のアイドル歌手まんまの無防備な表情の奥のタバコの煙、この一発の画でグッとつかまれちゃうんだもの。この先が予感される、象徴的な画。
54分、うわ!一時間もなかったんだ。ピンク映画は60分強というのが平均だけれど、それは私が見始めてからだから、それより10年前だもんなぁ……。いや、R15版にしたことで、刺激的な部分を削られたということかな。
AVとピンクの女優のやり取りというか、この当時がどうだったのか、まだまだ黎明期と思しく、それは気になるところだけれど……いつか、誰か、このあたりの関係性を作品として発表してほしい。★★★☆☆
それにしてもこんな違うってあるかいな。そもそもの最初では海彦の父親は死んじゃうし、海彦は大学進学することさえ考えてなかったらしいし。そして本作の最も重要な、なのに中途半端に放り出される、ヒロイン、雪子の白血病なんて一ミリも出てこない。
雪子が医者の娘であるという設定も最終的な映画となった本作にはなかったし、他にもいろいろ細かい設定がことごとく違うのだよ。面白いことにデータベースは細かい描写まで縷々羅列されているので、映画を細かく見て書いているみたいに感じて、実際に観た観客の私が間違っているのだろうかと錯覚しちゃうぐらい。
驚くべきことに製作元の日活のデータベースでさえ、高校卒業後には父親の跡を継ぐことを決めていた、という明らかな相違がある。
これはどういうことなのだろう……本作の海彦は最初から大学進学を目指して、そのために新聞配達のバイトもしているし、父親もハッキリと、この仕事は俺の代で終わりだ、と言っているのになぁ。
そしてもう一つあった。本作の大きなファクター。恋人同士の高校生が心中するという事件である。このカップルは物語の冒頭、海彦と同じクラスの男子がワルグループに、お前のスケを俺に譲れと脅され、僕たちは愛し合っているんだ!と拒否する、という印象的なシークエンスがある。
そしてその後、海彦はこの恋人同士を駅のホームで見かけて、その思いつめた様子が彼の脳裏に焼き付き、その後の海彦の、雪子との恋愛関係に大きな影響を及ぼすのだが、これが第一稿の段階で全くないというのは、雪子の白血病の要素と同じく、なにかこの時代の、悲恋もののハヤリみたいなものをムリヤリ入れ込んだような気がしちゃう。
とゆーのもこれ、倉本聰大先生が脚本なのだが、ラストで思わず絶叫したように、あまりにもぶった切った中途半端さで、回収しなさすぎで、ええ??大先生、どうしちゃったの??と思い……もしかしたらいろいろな大人の事情があって、こんなんなっちゃったんじゃないのかなぁなんて勝手に想像しちゃって。
で、まぁ整理して話を戻すと……このタイトル通り、とても画になる北国の街が舞台なのね。情緒ある駅の様子がしっかり映されるから、この時代によくあったご当地映画、もう臆面もなくこの土地をバンバン宣伝しちゃうという要素はあったんだと思う。
絹織物の町として有名な新潟県十日町、というのが大前提だったのだろう。でも皮肉なことに、結果として映画に結実した中では、安い製品が幅を利かせ、海彦の父親はいわば最後の職人といった感じ。
もしかしたら最初の企画段階で、海彦がすんなり父親の跡を継ぐというのが時勢に合わないという判断だったのか。結果的に父親の病気ということがあったにしても、海彦は進学をあきらめて(あるいは、何年か遅らせてとりあえず家業の勉強をしてから、なのかもしれないが)継ぐ決意をし、それに親友まで巻き込むという(爆)。
絹織物のの伝統に若者を活躍させるぞ!みたいな、ちょっと強引かもしれない引っ張り方で。
海彦に舟木一夫、親友となるワルの藤田に山内賢、ヒロイン雪子に和泉雅子という、ここんとこ何度も遭遇している黄金のトライアングルである。
和泉雅子ははすっぱな女子を魅力的に演じているのがこれまで印象的だったので、白血病という、いわば薄幸の美少女というのはちょっと意外だけれど、透き通るような白い肌に、ちょっとヨーロッパ系のような端正な美貌が、海彦のみならず、この学校のマドンナ的存在であるのが大いにうなづける。
この当時からそばかすあったのねと(爆)。後に登山家になって、山焼けでそばかす発生なのかと思っていたからさ。
そして、白状します。私めっちゃ見間違いしてた。先述した、後に心中してしまう哀しき恋人同士、その女の子の方が雪子だとばかり思ってて(爆)。
なんかあんまり女子キャラ出てこないし、不良グループがイケてる女の子を、恋人がいるにもかかわらず力づくで脅してモノにする、という、そっから雪子もその憂き目に遭うもんだから、あれ?雪子の元カレその後登場せんけど……とかずーっと思って見続けてしまった(爆爆)。
んな訳あるかい。元カレいたら、あんな海彦との出会いから運命感じて、ラブラブならんわな、もう。
そう……なんか、とても美しい出会いなのよ。北国というより、雪国。もうそこら中真っ白。実際雪がしんしんと降り続けるロケーションでのシーンも数多く、大変だったろうなぁ……と勝手に心配しちゃう。
何か事故があって列車が遅れ、乗客がパンパンに、ドアの手すりにつかまってぶら下がるような形で発車する。今じゃあり得ないけど。雪子を守るように海彦が外側から手すりに?まる。
彼の帽子が風で飛ばされる。その帽子を探す道行きが、てゆーか、この密着の時間が、運命の出会いだった。もう見つめ合っちゃって、ヤバいもの。いや違うな。その前から二人は見知っていた。お互い秀才同士。列車の中で問題集と格闘している彼女を海彦は見ていたし、彼女もまた……。
そして海彦にとってもう一つの大事な出会い。学校の有名なワル、番長と呼ばれる藤田との出会いである。とはいうものの藤田は担任教師(葉山良二である時点で、良心的な存在であることは間違いないだろ)が目をかけていて、本当のワルじゃない、心根の優しい青年であることは、観客側にもすぐに判る。
本当のワルは、もう一つのチンピラグループ、和田が率いるヤツらであり、藤田は皆に慕われてはいるものの舎弟を引き連れるようなことはしないのに対し、和田は常に子分をぞろぞろ引き連れては、人数とこわもての圧で弱いものを圧する。てか、女の子を漁ること一点に終始しているあたりが(爆)しかもことごとく失敗してるし(爆爆)。
藤田はなぜだか、海彦をかまうというか、気に入ってるというか、やたらまとわりつくのよね。腐女子としてはいらぬ想像をしちゃいそうになるが(爆)。
本質的なマジメな男気を感じ取っていたというのが大前提であり、そもそもの企画段階にあったらしい、雪子に対する恋慕の気持ちが共通するのも、当然あったに違いない。
最終的な本作になっては、そんな感じは見せないけれど、海彦から雪子に親友だと紹介される藤田は、柄にもなくおどおどとするし、海彦を介しての友人としての存在だけで、彼女と直接的に話すことすらないんだけれど、なぁんか……親友とその彼女に対する切ないジレンマみたいな雰囲気を感じなくもないんだよな。
最終的に、海彦と雪子は別れることになる、別れる、というか、海彦側はこれが二人の真の愛を試すための試練だとか甘っちょろいことを言っているけれど、雪子にとっては自身の病気を抱えているから、そんなクソ甘いことを言ってる場合じゃない訳で。
海彦が雪子の白血病を知らないまま、それでも彼なりに切ない別れをし、彼女側は永遠の別れを覚悟するラストは、本当にさ、何なんだよ!!と言いたくなったり。
お互いの気持ちを自覚しあったあたりで、雪子は観客に対して自身の白血病を明かしてくれるのだけれど、あと生きられて6年、とモノローグする。6年、なんでそんな明確に中途半端な数字の6年。謎過ぎる。
海彦が彼女の顔色の悪さを心配するが、特段体調を崩すこともなく、彼女は東京の女子大に受かり、海彦と別れることになる。途中一瞬、彼女が海彦に自身の病気を告白しようとする場面もあるが、なんかいろいろあって、あれこれと遮られてしまう。
マジで雪子の白血病はいらなかったんじゃないかと思っちゃう。その病気のために彼女が苦しむ場面がある訳じゃなく、ドアの向こうで母親がよよと泣き崩れるシーンが用意されるとか、白血病、薄幸の少女、余命いくばくもないっつー。
……まぁ当時は仕方ない、今では、そんな簡単に不治の病にすんなよ、という憤りはあるものの、当時はね、白血病、そして海彦の父親に科せられた結核もまた、不治の病だった訳だから、哀しき物語が作りやすい訳だ。
でも作りやすいのに、その要素を付与したのに、使い切れず終わっちゃうとは……。海彦が悲しむのは、自身の事情、父親が病に倒れ、父子家庭だから父親をおいて東京に進学する訳にもいかない状況になったこと。
雪子と共に東京の大学に進学、ラブラブキャンパスライフを送る筈だった。まぁそんな軽薄な言い方をしていた訳じゃなかったけど、お互いに高め合って、一緒に東京に行ける、というモチベーションだった訳だけど。
海彦は雪子の病気を知らないから、父親の病気にショックを受けながらも、一年か二年、じっくり父親の病気を治して、自分もまた大学に行く、一方で父親の仕事を継ぐための勉強もする、と決意、離れる期間は二人の試練だと、雪子に告げる。
雪子に白血病という試練がなかったら、お互い若いし、成立する話だったのだろうが……だからね!海彦が雪子の白血病を一切知らないっつーのが、てか、白血病要素がめちゃくちゃとってつけたようで、その要素で彼女が具体的に苦しむシークエンスがないからさ。
なんで6年なんて中途半端な余命宣告?それをモノローグされるだけだからさぁ……。もちろん、雪子がつぶやく、愛する海彦にその事実を言えないこと、自分が幸せでいるために真実を告げず、つまり彼を利用しているんだという苦悩は胸に迫る。
でも、彼がその事実を一切知らず、彼自身の個人的事情によって、つまり彼が自分の方が可哀想な立場だと思っちゃってるような具合で、雪子の方だけがすべての事実を飲み込んで、もう会えないという覚悟を持ってだろう、東京に旅立つのが、そりゃないよ!!と思って……。
それなのにさ、海彦側の方が、行かないで―!!みたいな雰囲気なんだもん。おめー全然判ってねーだろ、と思っちゃって……。
改めて思えば、とって付けたような心中カップルだけれど、私もハズかしい思い違いがあったけれど(爆)、ダムで心中してしまった、哀しき恋人同士の物語は、やっぱり忘れられない。
北国の、雪がしんしんと降り積もるダムで、「天国に永遠の愛を求めて」と新聞に記された彼らの心中。海彦と雪子はその現場を訪れる。雪子は、本当に愛し合ってはいなかったんだと、きっとショックだったに違いないだろうに、そう言い放った。愛していたら、死にはしない。それは、自身に待ち受ける運命があるからこそ、怒りのように絞り出した言葉だったけれど、当然海彦に判る訳がない。
ホントにさ、あの倉本大先生が、こんな尻切れトンボなものを書く筈ないと思って……。八重歯が可愛いストイック男子の舟木一夫氏も、やんちゃでワルだけど純粋な山内賢も、透き通るような美少女、和泉雅子もメチャクチャ心に残るだけに。
データベースと実際の作品の違いは、今までもいろいろあったけど、本作に関しては、マジでいろいろ考えちゃったなぁ。★★★☆☆
でも、これは水木しげる氏原作と言っても、やはりこれはオリジナルストーリーかなぁ、きっとそうだよね。そもそもこれは第六期テレビシリーズが基になっていると知り、それは水木先生没後初のシリーズであるんだというんだから。
恥ずかしながら、こんなに脈々と鬼太郎が続いているとは知らなんだ。私が子供の頃見ていたのは2シリーズぐらいを繰り返し再放送していた覚えがあるから、そんなに作られ続けていることさえ、知らなかった。
で、その第六期シリーズは本当に今の、現代を舞台にしているというけれど、その時間軸は本作の冒頭と最後の部分である。
鬼太郎たちを取材したいと追いかける雑誌編集者が、哭倉村(なぐらむら)に向かう、そこに鬼太郎、目玉の親父、ねこ娘が立ちはだかって、これ以上来てはいけない、と牽制するも聞かず、闇の穴の中に落ちてしまう。
つまり、この編集者は、鬼太郎の誕生、つまり目玉の親父たち幽霊族が人間たちに駆逐されたその最後の、あまりにもひどい仕打ちを受けたあの時代の哭倉村の一部始終を目撃した、ということなのだろうか。
物語の最後、現代の時間に戻ってきて、編集者は鬼太郎たちが、あの時あまたいた怨霊の最後の最後、あの少年の怨霊と出会い、その苦しみ哀しみを解いてやって、天へと昇っていくのを見届ける。そこには、戦後、何もかもをなぎ倒すようにしていい意味でも悪い意味でもばく進していった、日本人の姿があった。
昭和31年という時代設定。哭倉村へ向かうのは、帝国血液銀行に勤める水木という男。水木!!戦場で上官にひどい目に遭わされ、玉砕を強要され、無数の戦友の無残な死を目撃し、銃弾が飛び交う中、生き延びて今ここにいる。
当然、水木先生本人を投影しているのは、その戦時中体験からも明らかである。水木はこのサラリーマン稼業の中でも、必死にのしあがろうとしている。奇跡的に生き延びたこの命、皆あの戦争のことを忘れたように生きているけれど、水木は決して忘れない。何度もうなされ、目覚める描写が繰り返される。
帝国血液銀行、というのは、つまり血を買い取るということなのだろうか。売血というのは確かに、この時代の貧乏学生や文士などがカネを作る手段として、聞いたことがある。
そしてこの企業は、製薬会社との取引もある。それが、この哭倉村の龍賀一族が経営する会社なんである。Mと呼ばれる血液製剤が本作の大きなキーワードとなる。あの大きな戦争に、小さな島国の日本が一時的にも隆盛を極めたのは、この秘薬が貢献していたんだと。
もちろんフィクションだけれど、不気味な説得力がある。日清戦争、つまり大国、中国を相手に勝利してしまうなんて、ファンタジーに近いものがあるもの。
秘薬を使ったというのが荒唐無稽としても、日本という国が、どんな手段を使っても、国民をあおり、戦争という地獄に向かわせたのは周知の事実で、玉砕だの特攻隊だの、字面は美しく、尊くさせて、しかし結局は無駄死にを奨励していたってことを、なるほど、こんな風に描くのか、って。
哭倉村は、もう全体に、不気味なんである。何か、犬神家とか、そんな、市川崑的な、日本映画の一つの系譜の、恐ろしさを感じる。単一民族であることを異様に誇らしく思う日本民族の、それが凝縮された感じ。
濃い血を望むがゆえに、忌まわしい近親相関が繰り返され、それが本作の最も重要なファクターとなる。よぼよぼのジジイに、孫娘が手込めにされていた訳で、想像もしたくない、吐き気がする事実。
水木がこの孫娘、沙代に村で出会った時には、まさかそんなこととは思いもしないほど、むしろ何も知らない無垢な乙女と思うほどに、可愛らしい少女だった。
しかし、次第に村の様子、龍賀一族の中に渦巻く欲望と牽制が見え始める。もう疑わしい人ばっかりだから、次々と殺人事件が起きても、……まさか、沙代とは思わないのであった。
そして……そうそう!目玉の親父よ!まだ、目玉じゃない、目玉だけじゃない、しっかりと、全身がある。ヘンな言い方だけど。
当たり前かもしれないけれど、鬼太郎によく似ていて、特にその目が、目玉の親父だから、というのもおかしいけれど、時に水木を怯えさせる、黒目が点のように小さい大きな瞳が鬼太郎ソックリ。
でも鬼太郎は少年の年のまま、少なくとも私たち読者や観客にとっては、鬼太郎は小学校3、4年生と思しき所で止まっている。産まれた時の赤ちゃんの姿はあるんだから、そこからは成長している筈なのに。
でも、全身があった時代の目玉の親父は、水木呼ぶところのゲゲ郎は、すらりとしたスタイルも良い着流し姿が妙に色っぽい青年なのであった。温泉につかるサービスシーン(?)さえ用意されている。
彼は生き別れた妻を探し続けている。幽霊族なんだから、生き別れたというのもヘンかもしれないが。その妻は、てゆーか、幽霊族たちが軒並み龍賀一族の当主、時貞によってとらえられ、Mの製剤のために血をとられ、絶滅に瀕したのであった。
それだけではない。Mの製剤のためには、幽霊族の血そのものでは使えない。人間に投与して、しぼり取る。その人間は、廃人になってしまう。
その描写が、後半、映し出される。アニメーションだけれど、デフォルメされているけれど、ずらずらずらと並んだ、かつて人であった筈の生ける屍は、吐き気がする恐ろしさ。
この事実を、村中が知っていた。隠蔽していた。だから、足を踏み入れた時から不穏だったのだ、不気味だったのだ。もちろんそこには、亡き当主後の跡目争い、遺産争いがあったにしても、そんなことさえ、凡俗のつまらぬことと思えるぐらい、深い闇が、あったのだ。
荒唐無稽にも思えるけれど、不思議に説得力があるのは、あの戦争で、国民全員が、殊に戦場に送られた男子たちが、確実に洗脳状態にあったと、今なら判るからなのだ。
そしてこの昭和31年という時代設定は絶妙で、戦争時代を知る時貞は、どちらの感覚も判るからこそ、金もうけのためなら、自ら贅沢に生きていくためなら、悪魔に魂を売ることもいとわない、ということだったんだろう。
怨霊たちを飼いならしていたつもりで、結果的に食い殺された。手込めにしていた孫娘にその怨霊がとりついたことも知らずに、でもそれを知っても、気に入っていたおもちゃが取り上げられたぐらいの不服感だった。いくらでも代わりはいるんだと。
ゲゲ郎と呼ばれる目玉の親父の若き頃と、水木との関係性は、最初こそ水木はゲゲ郎をなめてかかっていたけれど、不思議な事象も目にし、沙代との関りもあって、この村の秘密を暴き、ゲゲ郎の妻を探し出す手助けをすることを約する。
最終的には、ゲゲ郎から相棒とまで呼ばれる存在になる水木、そりゃそうだよね、この世界を産み出した水木先生の分身なのだから。
先述したけれど、水木は繰り返し戦場のトラウマを思い返し、この不気味な哭倉村の、龍賀一族の雰囲気に、それと同じものを嗅ぎ取るんである。
時貞の近親者はそろってワケアリ感覚がマンマンで、次々に謎の死を遂げていく。オチバレしちゃうけど、てゆーか、もう言ってるようなもんだけど、沙代の手にかかっている訳なのだが、それが判るまでには、結構な時間がかかる。その間に、ゲゲ郎と水木は心を通わせていくんである。
時貞の子供たちは総じて病んでいるのだが、可哀想な病み方をしているのがただ一人、孝三という人物である。彼が無数に描いている夢の中の女が、ゲゲ郎の妻そのものであることから、まさしくキーマンではあるのだけれど、彼は禁忌の島に立ち入ったことで、心を失ったと言われている。
そこには多くの謎がある。実際ゲゲ郎と共に立ち入った水木は、激しい頭痛を訴え、身体さえ満足に動かすことができない。
死んだはずの時貞が自分だけの楽園のようにして、君臨している。孫息子の時弥をよりしろにして、生きながらえるというキチク。サイアク、サイアク!!
時弥は、とても純真な少年だった。この忌まわしき村社会の中で、奇跡的に無邪気な人懐こい男の子だった。沙代もまたそう見えていたけれど、もうこの時点で彼女は邪悪な怨霊に乗っ取られていたのだから、時弥君は最後の砦だったのに……。
まず、時貞に乗っ取られ、だとしたら魂が、魂だけがどこかにさまよっていたのか。ゲゲ郎がこのクソジジイに翻弄されながらもようよう愛する妻を見つけ出し、このクソジジイをぶっ潰すクライマックスは壮観だが、とにかくこの間中、時弥君が、肉体はこのクソジジイに使われちゃっているけれど、どこかに生きている筈の魂が、どうなっているのかが、心配で心配で、仕方がなかった。
不穏な村パートも、禁忌の離れ島のパートもそれぞれそこそこの尺があり、重たい価値観が充満していて、その中で時弥君だけがキラキラと純真で、だからこそ希望を感じさせたのに……。
沙代を連れ出せたら。そんなことが可能だったら。物理的に、簡単に思えても、水木には出来なかった。いや、しようと思ったけれど、彼女の手を取ったけれど、ゲゲ郎を救い出さなければと思った。
先述した、吐き気がする、幽霊族、そして人間を、使い捨てにする、無駄にベッドが無数に置かれ、無駄に苦しむバケモノのようなクリーチャーが横たわる、無数に、無数に……ああ!
彼らをバケモノにしたのは人間たちであり、それはカネのためであり、そのカネで贅沢な生活を送るためなのだった。この時代が、世界大戦と近いところにあって、だから、生々しく説得力がある、これまで我慢してきたのだから、豊かな人生を送りたいんだと。でもそれは、その中で何をどうチョイスするべきか。これは、間違ってる、間違っているんだもの。
ゲゲ郎の奥さんがずっとずっと苦しみ、その血を、その赤さを、美しい枝垂桜に映し出していた、夢のような、いや、悪夢のような、見ちゃいけない夢魔のような、後半のシークエンスは圧巻で。
そして……一体どれだけ会えていなかったのか、夫婦の愛を、涙こぼれる思いで見届けた。鬼太郎は、両親の深い愛によって、産まれたのだね。★★★★☆
正直、震災直後に乱立した震災映画(イヤな言い方だが)たちは、それは確かにジャーナリズム精神として大事な動きだったのかもしれないけれど、ヤラセが指摘された作品もあったし。
土足で踏み入るような印象や、感傷的やしたり顔や、そんな映画たちも多かったから、一時期震災映画疲れをしてしまって、なんか違う、間違っているというのとは違うのかもしれないけれど、と思ったものだった。
だから、ズバリ地元人である岩井監督が、実に10年以上経って、というのが、なんだかいろいろと胸に迫ってしまったのだ。
監督が語るに、最初は二人の女の子の小さな物語だったというのだから、そこからこの壮大な映画作品に至るまでに、震災がバックグラウンドになったことも、どのような変遷があったのかは判らない。
それこそ私がもやもやとしていた震災映画とは全く違って……本作は、見事な音楽映画として成り立っていて、そのバックグラウンドに震災がある、というのが、それがほかの土地の、他の災害であったかもしれないし、なんていうか、特別扱いしてないというか……。
人間が背負うバックグラウンドの一つであるというシンプルなスタンスを、彼女が今生きている、その理由の一つとしてあるのだという、そこまでの濾過が出来るのには、やっぱり10年かかっちゃうのかもしれない。
それにしても、それにしてもである。キリエを演じるアイナ・ジ・エンド氏の圧倒的さといったら、どうだろう!!BiSHのメンバーだったと言われて、BiSH、有名だよね、名前だけは知ってる……パフォーマンスをちゃんと見たことがなかったことに今更ながら悔やまれる。でも、そんな伝説的グループにいたというのがちょっと想像できないぐらい、ソロの、歌姫の圧巻のオーラに満ち溢れている。
岩井監督作品に魅せられてきた人たちなら、誰もが即座に思うだろう、CHARAが自分の秘蔵っ子なのだと、隠し玉のように嬉しそうに語っていた岩井監督のことを。
本当に、CHARAをほうふつとさせまくる独特のエロキューションの歌い方と、危うい色っぽさ。
タイトルロールでもあるけれど、それは彼女の本名ではない。お姉ちゃんの名前だ。本当の名前は路花(るか)。震災で家族を失い、流れ流れて大阪の地にホームレス状態で発見される。
大阪に来たのは、お姉ちゃんのフィアンセが進学する大学が大阪だったこと。フィアンセ、だなんて、夢見る年頃の女の子が口にする、非現実感たっぷりの言葉だ。
だからそれを、路花を発見した大阪の小学校の教師、寺石(黒木華)は、最初本気にしなかった。いかにも小学生の女の子が、お姉ちゃんの恋人を描写するのに言いそうなセリフだったから。
でもそれは本当だったし、フィアンセという言葉を引き出したのは、そのお姉ちゃん自身だった。あの震災の真っただ中、幼い妹を探しに行く途中、恋人の夏彦と電話をしながら、あなたのフィアンセと言っていい?と約束を取り付けたのだった。
津波にのまれてしまったのであろうこのお姉ちゃんの希(きりえ)と、妹の路花が成長してお姉ちゃんの名前を名乗るキリエと、演じるのは同じアイナ・ジ・エンド氏。
当たり前だけれど、成長した路花……キリエと名乗る彼女と、お姉ちゃんの希はソックリで、そのことが何かざわざわとした思いを起こさせるのは、ヤボなことを思っちゃう大人だからなのだろうか。演じるアイナ・ジ・エンド氏がヤバいぐらいにコケティッシュだから、劇中の福祉職員の胸中を慮っちゃうというか……。
夏彦と恋人同士だったお姉ちゃんの希。子供を宿したのはちょっとうっかりさん、思いがけなかったかもしれないけれど、戸惑いながらも二人は新しい命を育むことに迷いはなかったし、何より希のお母さんが後押ししてくれた。
キリスト教信者、その仲間が集まる慎ましい住居で、夏彦は妹の路花に出会い、再会したのが、震災後、希の行方も判らなくなった大阪の地なんである。
本作は実に13年の経緯を行ったり来たりするので、かつての路花で今のキリエ、そして恐らく津波にさらわれてしまった希、その二人のきりえを取り巻く人たちや展開が描かれていくんである。
中盤すっかり姿を消すという大胆な構成のイッコちゃんは、路花の高校時代の親友である。路花のお兄ちゃん、つまり希お姉ちゃんの恋人の夏彦が、イッコちゃん(これは改名後の名前だが)の家庭教師だったんである。
イッコちゃんを演じる広瀬すず氏が強烈な印象を残す。路花とは帯広の高校での先輩後輩同士。東京での再会時、路花は最初、彼女だとは気づかなかった。カラフルなウィッグに大きなサングラス、派手なファッションだったから。
当時から路花の歌声に魅了されていたイッコちゃんはマネージャーを申し出て、路上ライブをアシストし、元カレやらの住居を提供したりするのだが、ふっと姿を消し、結婚詐欺師として手配されるというぶっとびな展開である。
岩井作品に頻出するシスターフッド、という以上の……エロは不思議とないんだけれど、乙女的運命の絆というか……それを、久々に、そして決定的に見た、と思った。
彼女たちの間をつなぐのが、路花のお姉ちゃんの恋人であり、その彼がイッコちゃんの家庭教師で、イッコちゃんは故郷から逃げ出す足掛かりを、東京の大学に合格するという神ワザを、彼の指導によって得たのであった。
つまり二人にとっては、お兄ちゃん的、先生的存在であり、決して恋愛対象ではないんだけれど、めちゃくちゃ危ういんだよね。
そもそもこの関係性の設定自体が、甘やかな少女漫画チックで、昭和世代はそりゃ妄想しちゃうもの。女子高校生の部屋に若い男が家庭教師で入り込むなんて、昭和少女漫画妄想ワールドでしかありえないでしょ。
そして、路花はお母さん、お姉ちゃんが死んじゃって、頼れるのが彼しかいなくて、でも引き離されちゃって、死んだお姉ちゃんソックリになった今、彼の家に妹として入り浸りだなんて!
少女漫画妄想ワールドの域を飛び越えて、これはダメよ、行っちゃうよ、だってソックリなんだもん、お兄ちゃん、イッちゃうよ!!といらん心配をするのだが……。
私が俗なだけなのだろーか(爆)。でもさ、路花=キリエ=希を演じるアイナ・ジ・エンド氏があまりにもあやうげな色っぽさを発散させまくっているからさ。
中盤、イッコちゃん(当時は名前が違うけど)と路花が友情関係を育んでいる時の描写では、お兄ちゃんの家に普通に妹として住んでいるように見えていたのが、後々明かされるところとなると、里親と上手くいかなくて飛び出した路花が彼の家に入り浸り、問題になって連れ戻されるという経過があったのだった。
そりゃそうだろと思い、これを子供の各事情をきちんと斟酌しないお役所仕事を糾弾するのは簡単だけれど、それは判るんだけれど……。
路花の少女特有の無防備な色っぽさ、福祉職員が来ている間も、彼の家の中でミニスカ制服で物憂げに踊っている姿が、これはヤバいと思っちゃうんだもの。
ここまでで、路花というのか、希というのか困っちゃうほどに、切り離せないからなのだろう。演じているのが同一人物だという以上に、幼かった路花が、お姉ちゃんの名前のキリエを名乗った、という以上に、その名前で生きていくことを決めた時点で、お姉ちゃんのフィアンセの夏彦との関係性をそう断定したと、思わずにはいられないんだもの。
でも夏彦は、そうじゃない、そうじゃなかったんだろう、最後まで。あの震災の時、自身の子供を身ごもっている希と、電話をしていた。大学に合格した、でもそれが大阪で遠くになる、葛藤を抱えての電話をしていた。
セーラー服姿の希は、夏彦とちゃんと話がしたいと思って学校をサボって家に帰り、風呂に入って下着姿で彼と電話をしていた。その時、地震が襲ったのだった。
ブラとショーツ姿の希が、小さな浴室の湯が波打つほどの揺れに、それでも携帯電話を離さずに夏彦とつながり続ける。最初は、その無防備さゆえに、彼女の方が弱々しく見えた。
一つだけ年上の夏彦が心配する姿が頼もしく見えたのは一瞬で……キリエは幼い妹、路花を探しに飛び出した。避難先である小学校にもいなくて、いつも通っている教会に向かった。無事出会えたところまでは、夏彦に伝えられていたのに……。
という、東日本大震災を描くパートは、後半のほんの短い尺で、でも、わざわざ劇場前に立てかけられていたから、なにか……じわじわとその描写を待っていたような感覚に陥る。
実際は、本作は路花がキリエというシンガーとなって、路上で人気になり、彼女の才能にほれ込んだミュージシャンや業界人に声をかけられ、スタジオやイベントで実績を重ねていって……という、路花=キリエ=アイナ・ジ・エンド氏のパフォーマンスの魅力が詰まった、先述したように音楽映画の側面こそが大きいのだ。
岩井監督がほれ込んだんだろうと深く実感する、まず存在のオーラ、ハスキーでセクシーな歌声は、ジョプリンを舞台でやったというのがなるほど!!とうなづける。
後半のクライマックスシーン、公園でのフェスシーンで、近隣から騒音クレームが来て警察が駆けつけ、それでもその圧倒的な歌声で、観客たちを押さえつけようとする警察をものともせず、という場面は本当に圧巻。
でも正直言うと、とっていた筈の使用許可証が見当たらないってんで警察官ともみあいになり、なんていう展開は、そもそも最初から許可とってなかったんちゃう、と思わせちゃうワキの甘さがあって、ちょっとね。
本当に許可証とってたのに理不尽にストップかけられての、歌声で制圧するの、っていうのを期待しちゃったからさぁ。ルールは守ってくれないと、こういう場面はガッカリしちゃう。
イッコちゃんが結婚詐欺の容疑をかけられ、路花が居候していたところも出て行かざるをえなくなる。イッコちゃんに騙されたことへの憤りでキリエはレイプされかける展開があり、本当に、見ていてツラい。
イッコちゃんのキャラクター設定は、……確かに路花とシスターフッドな美しい絆を、少なくとも見た目では堪能できるものの、中盤すっぽりと姿を消すし、そのために路花はヒドい目に遭うし、なかなか……なんなの、イッコちゃん!と思っちゃうけれど。
でも、イッコちゃんが、そんな結婚詐欺の被害者と思しき男に、……恐らく殺されてのラストだと思うと……。イッコちゃんと路花は、それぞれに元の名前を捨てて、大人になってからの再会だった。
名前って、さ……。特にキリエは、見つかってはいないけれど、恐らくは、津波にさらわれて死んでしまったお姉ちゃんの名前だ。声を失い、歌声は響かせることができる路花は、いや、キリエは……どっちなの。
福祉施設や行政の非人道的なやりようを、幼い路花を保護した小学校教師、黒木華氏の安定の説得力で描く。でも、先述したように高校生となった路花が、里親の元から抜け出して夏彦の元に入り浸りになっているところから引き戻されるのも含めて、これを単純に、法に照らしてはいるのだというだけの理不尽なことだと糾弾するのは無理があると思ったのだけが、本作に対する違和感だった。
それは、アイナ・ジ・エンド氏の醸し出す危うい色気があったせいもあるかもだけど、でも何かな……確かに今の政治、行政は頑なだけれど、そのすべてを否定するのも違うのかなって、そういう雰囲気を感じたというか。
結局、路花がキリエとして生きていくのだとしたら、それは……アイデンティティを手放したということじゃないの?それは言っちゃいけないの??
美しい姉妹愛、そう感じられれば良かったけど、路花が希にはなれないんだよ、絶対に!!そう思うのだけれど……。★★★★☆
なのに何にも知らなかった、というか、めちゃくちゃ先入観があったんだなぁ、って。
先述したように確かに彼の一生もたどった覚えがある。法華経に没頭していたことも記憶していたし、もちろん妹トシの死、そこからあの哀しくも美しい「永訣の朝」が産まれたことだって知っていた、筈だったのに、なぁんにも知らなかったんだなぁ。
でもきっと、私のような認識が大多数だからこそ、本作の原作が話題になったんじゃなかろうかと思うのは、自分の無知を言い訳しているだろうか??
でも、アメニモマケズの詩や、農学に没頭したことや、清冽な詩や童話、そして何より、残されている写真からイメージされる朴訥さが、静かな、貧しい農民の青年、みたいに思っちゃってて、えぇー、ぜんっぜん違ったんだ!と思って……。
賢治が農学校を出たことは知っていたものの、農学校、というそれこそイメージで、当時そもそも中学への進学から更にその先の進学が、どれほど難しく稀なことだったかを、確かに考えてみればそうなのだと。
しかも東北の小都市の青年が……つまりそれだけ裕福な恵まれたおぼっちゃまであり、そんな青年があんな、無欲な、美しい詩や童話を産み出したということが、その奇跡こそが凄いことなのだということを、なぜ今まで気づかなかったのかというぐらいの驚き。
それを、これまた驚きの、父の愛からの視点で描いていく。こんなお父さんがいたなんて知らなかった、というのも、私の無知であるのはそうなんだろうけれど、でもきっと、原作小説が読者に与えた驚きはだからこそだったと思う。
こんなお父さん、当時の家父長制バリバリの、しかも裕福な質屋のダンナが、あんなにも息子を溺愛し、時にそのわがままに困惑しながらも折れ、その才能をまっすぐに信じ得るものだろうか??
原作が未読だから何とも言えないけれど、映画の尺としては長男である賢治への愛情オンリーに描かれている感はあるけれど、賢治の一番の理解者である妹のトシの説得に折れて賢治の進学を許したり、他のきょうだいたちも含めて家族の関係性が、ああきっと、このお父さんは子供たちすべてに愛情を注ぎ、そのことに誇りを持っていたんだろうと、思うのだ。
演じるのが役所さんだから、もうそれはさ、そのチャーミングさで、メチャクチャ体現してくれるんだもの。娘のトシに論破されたそのままに、賢治に鷹揚に言い渡すシーンなんか、役所さんの可愛らしさが前面に出てて、最高に愛おしい。
そして、そう……賢治のイメージ、違ったなあ。清貧で、朴訥で、静かな青年、じゃなかったんだ。すべてが真逆だった。裕福なおぼっちゃんで、その豊かさが農民を苦しめている存在なのかと苦悩する気難し屋で、日蓮宗に没頭してからは周囲から気がふれたと言われるほどの、太鼓をたたきまくって念仏を大声で唱えるふるまいを見せる、エキセントリックさ。
農学校に行ったのに、まずやりたいと言い出したのが人造宝石ビジネスだというのが驚きで、山っ気ありありなあたりはいかにも裕福なおぼっちゃんの猪突猛進、全然、ぜんっぜん、賢治のイメージと違って、もう驚くばかり。
だから、語弊があるかもしれないけれど、宮沢賢治という人は、最終的には作家というカテゴリに落ち着くけれど、それは……それこそ極端な言い方かもしれないけれど、愛する妹トシの死によって、定められた彼の仕事、ということだったのかもしれない、と思う。
農民を助けたい、その一心が、時に自分の無力に打ちのめされて宗教に走ったり、本当に情熱の人だったというのがメチャクチャ意外だった一方で、彼の創作意欲、意欲というより、常に、彼自身のようにあふれ出ているものだったからこそ、後年賢治の作品に触れる私たちは、まさかこんな情熱的な人生を送っているだなんて思いもせずに、賢治そのものを旅しているような気持になってしまうのだろうか。
役所さん演じる賢治の父は、彼もまた長男として家業の質屋を継いだのだけれど、自身に子供が産まれると、もうすっかり子供=賢治のことで頭一杯。自分は明治の新しい時代の父親なのだと、後にその言葉をトシに上げ足とられちゃうんだけれど、まぁそんな具合のちょっと、気負いだけが空回りしていたような若い父親。
でも確かに当時の新しい時代は確実に来ていたし、それを、後に恍惚の人となって最期を迎える賢治の祖父からの世代交代として、鮮やかに描かれている。
この祖父を演じる田中泯がまた最高で、厳格な、新しい時代など、自由な学問など、認めない、必要ない、といういかにもな厳父なのだけれど、彼にとっての長男である賢治の父、政次郎のデレパパっぷりを、その勢いに負けて止められない。
政次郎は賢治の赤痢をもらっちゃって終生腹が弱いことに悩まされるのだけれど、結局はそんな事態になったことを息子に許しちゃったお父さんであって、似た者親子というか、厳父に見えたこのおじいちゃんも、息子の政次郎のことが可愛くて仕方なかったんだろうなあ。
賢治を演じる菅田君は、実際の賢治よりはそらー格段のイケメン君だが、猪突猛進、思い込んだら誰の言うことも聞かない、時に気狂いかと思われるような激しさを持つのに、なんだかチャーミングで、誰もが好きにならずにいられない、そう……これぞ宮沢賢治なのよ、と無知だったくせにそう思っちゃう、思わせちゃう青年をさっすが、体現してくれる。
実際の人生ではどうか判らないけれど、宮沢賢治という人物は、若くして病魔に倒れたということもついつい伝説的に感じちゃう部分もあるけれど、なんつーか、セックスの匂いがしないというか。
何より、愛する妹と同じ病魔に倒れたということもあいまって、兄と妹、聖なる人生、信仰と家族への愛と、それを前提とした著作にささげた、というイメージがあって、それは本作で描かれる賢治で確かに回収されてはいるんだけれど、……それこそ本当に、実際はどうだったんだろうか??という気持ちはある。
妹のトシが亡くなるシーンが、やはり一番のクライマックスである。あめゆじゆとてちてけんじや、あの詩が、映し出される。やっぱりみぞれまでは再現できなかったか、とヤボなことを思いはするものの、哀しくもとてもとても美しい死にゆきのシーン。
ヤだな。死にゆくシーンを美しいと思うだなんて。賢治の死のシーンも、結局は死にゆくということに対する単純な感動になるのがヤだな、と思った。
でも、アレですよ、アレがあったんですよ。アメニモマケズ。あの詩を、父親の政次郎は賢治の手帳に見出していた。口では滋養のあるものを摂取して静養すればと言っていたものの、当時の不治の病である結核にかかってしまっては、当人も周囲も、当然判っていた。
農民たちに慕われ、信頼され、詩作もし、充実した日々を送っていた矢先だった。あの子はこれからなんですよと、政次郎は主治医にすがりついたけれど、事実はどうすることもできない。
実際に、死にゆく息子の枕元で、アメニモマケズを絶唱したのだろう、か?映画のフィクションかもしれないけど、でも……。あんなにも有名な詩なのに、全部知ってる、教科書にも載っていたぐらいだもの、なのに、こんなに、いい詩だったのかって、なんか、雷に打たれたぐらいに思って。
ああ……これはさ、これはやっぱり、子供の時には判らなかったなあ、って。そういう人に、私はなりたい。もうなんか、慟哭だった。でもこれを著したのは、賢治は37歳でなくなってしまったのだから、ちっとも私は、そんな年にはそんな境地には達することが出来てなかった。そういう人に、私はなりたい。賢治はそういう人だったよ。だからこそ、今、彼は、生き続けているんでしょ??
そう、本当に……意外な人物像で、案外それが知られてなくて、という原作小説からのことだったんだろうと思う。賢治の自費出版が一度は文芸評上で評価されてはいたものの、結局は鳴かず飛ばず、賢治の死後、家族たちが諦めずに出版したからこその今があるのであって、そう思うとちょっと怖いかもしれない。
私の学生時代の、宮沢賢治を近代文学上できちんと評価していなかったことはその流れにあるのかもしれない、たった30年ほど前ですら、そうだったんだと思うと、文学、に限らず、あらゆる分野でアカデミック至上主義、東京、大都市至上主義がやっぱりあるんだよなあと。
それこそ私の子供時代ぐらいの、30年プラス何年か前は、地方、私の暮らしていた北日本の、中央に対するコンプレックスはすさまじかった。それを思うと、賢治の時代はさぞかしと思い、小学生時代賢治に触れた私は確かにそう、思っていたことを思いだした。
多少は本作でもその感じに触れてはいるけれど、本当にそのコンプレックスは、すさまじかったと思う。それこそが、賢治の作家としての創作意欲に関係していたんじゃないかと思うぐらいだけれど……。でもそれはそれこそ私の被害妄想かもしれんしなあ。★★★★☆
冒頭こそ、コミカルに始まる。なんたって3Pである。ここは安定の二人、倖田李梨姐さんと辰巳ゆい姐さんである。まさしく間違いない安定さ。女優さんの入れ替わりが激しいピンク映画界において、芝居の安定感も含めて何を任せても安心して見られるベテラン女優さんは実に貴重である。
辰巳ゆい姐さんはこの冒頭だけの登場で、倖田李梨姐さん演じる理佳が、ヒロインあずみ(乙白さやか)のご近所さんという設定である。あずみはラブホでバイトをしており、理佳は不倫(この時は3Pだが)現場を見られたと思って狼狽するが、それ以降二人は道端で挨拶するだけで、関わることはない。
しかし、理佳の存在は、あずみとの好対照をなし、非常に意味深いのだ。いわばあずみは純愛を胸に秘めて今、静かな生活を送っている。理佳は不倫相手の男に、自分とのこれからを質したいのに、言い出せないでいる。
コミカル3P場面で始まったのに、倖田李梨姐さんはさすがの仕事をなさる。子持ちで身動きが取れない女の、愛されたい欲望が切ない。
あずみは義父と二人暮らし。あずみは3年前に夫を亡くし、義父は妻に先立たれて20年が経っている。義父と嫁の関係をテーマにするのはAVでは定番だし、男性の欲望をそそる要素であるのは想像に難くない。
でも映画となると。ここがね、ピンク映画だからAVと変わらないでしょ、と言われそうなところを、断固、そうじゃない、映画作品なのだから!!と声を大にして言いたいわけ。もちろん良質なAVもあるけれど、義父と嫁、という妄想を掻き立てる設定で、真に心震わせる物語を見た覚えはない。そりゃそうだよ、だって基本、男はいくつになっても若い女が好きで、嫁なんて欲望の対象に違いないだろ、と独女オンナは毒づく訳だからさ(爆)。
だから、この二人が、それぞれに喪失を抱えて二人暮らしを、実に3年も続けて、お互い心を寄せ合っているのに、それを言い出せないまま、だからお互い片思いだと思い込んでいる状態で二人暮らししているというのが、たまらなくて。
しかもその、お互いをつなぐたった一つの要素、あずみの夫であり、義父の息子である男の存在は、名前さえ明かされない。写真一つ示されるでもない、墓参りをするシーンさえ、その墓さえも描かれない。
好物だったという唐揚げを売っていたお店も、閉店するといい、あずみは仏前に供えるために買ってきた。そのお店も映されることはないし、供えられる場面もなく、あずみと義父はつまみ食いしながら、喪失した夫であり息子、そして義父の妻のことを語り合う。
もう長いこと二人で暮らしているのに、二人の間には亡き者の喪失しかない。あずみは夜中寝つけず、スマホを見ながら自らを慰めたりもするが、じっとその手を見つめる思いは、義父にあったのだと次第に判ってくる。
義父は早期退職をして、今は漫然と生活をしている。嫁のあずみから、病院に行くのを忘れないようにとか、塩分は控えた方がいいとか心配されながら、しかしその二人の食卓ははすかいに向かい合う微妙な距離感がある。
あずみは義父の身体を考えながら、漬物は買わないでおこうとか、肉じゃなくて魚にしようとか、テレビで見たそうめんチャンプルーを作ってみたり、考えてみればいつもいつも義父のことばかり考えているのだ。
ピンクだから、シャワーに入る場面などで、セクシーな下着姿を見せたりもするけれど、その後着替えると可愛らしいチェックのパジャマ姿だったりし、お互い想い合っているのはだんだんと観客にも染みわたってくるのに、初老の父と純真な娘、という見た目で、それはきっと、二人それぞれの鎧であり、なかなか壁を破れない。
そりゃそうだ……そこには、それぞれに愛した配偶者、そしてあずみの夫は義父の息子という禁断の共有があるのだから。
あずみの夫が亡くなっても彼女がこの家を出なかったこと、そしてそれを義父が受け入れたらしいことが何よりの証拠だと思うけれど、お互いそれを突きつめないまま、4年も経っているということ……もうそろそろ、もう、爆発する寸前だったのかもしれない。それを、お互い、待っていたのかもしれない。
夫は事故だった。車の往来の激しい横断歩道にしゃがんで、義父、そしてあずみも手を合わせていた。突然の喪失。あずみは当然、その時は夫を愛していただろうし、義父にとってあずみは愛する息子の嫁であっただろう。
それがあるから、それが確実にあるから……つまりは何の問題もないのに、今は男と女であるにすぎないのに、亡者への愛が、彼らを立ち止まらせる。
墓参りに行く途中、あずみは、もうずっと、おとうさんと呼んでいない、と呼びかけた。まるで決死の覚悟のように。それがどういう意味なのか、表面上は義理の親子として生活していても、判らない筈はないのだ。
彼の方もまた決死の覚悟で、あずみの寝室を訪ね、そこからの、実に実に、緊張感と長年の愛情が噴出するセックスは、心打たれまくりなのだった。
そうか、それがあるから、冒頭の3Pのひっどいエロコミカルや、李梨姐さんが不倫相手に責め立てようとしても、がつがつピストンされてうやむやにされちゃうというのと、めちゃくちゃ対照的になってて、なんというか……人間社会、世間、結婚しているから幸福な訳じゃないとか、なんかいろいろ、考えさせられちゃって……。
でも、あずみは、そういう意味では、そうした俗社会のあれこれから離れている。夫を亡くし、今はその父をひそかに愛している、というのは、誰にも言えない純愛ストーリー。義父と嫁という関係性を、私ら凡人が俗エロと考えちゃうのをぶっ飛ばしてくれるし、その義父もまた、自身の老いに対する諦めが、彼女への愛情の表出を邪魔する障壁になる切なさがある。
早期退職をし、再就職をしようと面接に出かけても、秒で落とされてしまう義父の悲哀は、そのことだけで、嫁を愛する資格さえないのではと思ったんじゃないかと推測しちゃって……勝手な妄想なんだけれど、でも、義父が就職活動に出たのは、この家に縛られている嫁を、解放してあげたいと思ったからなのかなあとか、いや、逆に、彼女と対等に愛し合いたいと思ったからなのか。
名義とか、そういうものを、きちんとしなければ、と彼は口にした。そこから急展開した感触があった。二人、恐る恐る身体を交わらせる長尺のシークエンスは、息をするのもはばかられるほどの緊張感。
長年していない、ヘタになった、と自嘲する義父に、そんなこと気にしないタイプなのかと思った、とあずみがほほ笑んだり。でも、静かに歩み寄り、最初はまるで、それこそお父さんが娘を抱き寄せるように始まったセックス、本当に長い時間をかけて、たっぷりのキスをして、高め合う。絶妙な暗闇と、演出のたおやかな光。
もしかしたら、成人劇場に見に来た観客は、トロいと、さっさとヤれ、とヤジが飛んだかもしれない。
お互い、いや、この時点に至っては、義父側に逡巡があって、挿入するのにも迷いがあって、でもそっからは、良かったなぁ。長年の、トータル7年も一緒にいたのに、こうしたかったという気持ちを、確かめ合えなかった、それが充満したセックスだった。
ラスト、シャワーを浴びに浴室にいる義父、入ってくるあずみは、その背中に寄り添い、ほほを寄せ、そして……子供のように泣きじゃくった。この涙の意味を、ずっと考えていた。ようやくつながれた嬉し涙だったのか、夫への贖罪の気持ちだったのか、義父に対する愛情があふれたのか。
……そのどれもであったようにも思うし、そのどれでもなかったようにも思う。まるで、こうなってしまって、離れなければならないと通告されたようにも、思えるほどの慟哭だった。
禁断の愛、なのだろうか。愛し合っているだけではだめなのだろうか。くだらない不倫スキャンダルに接するたび、そんなことを考える。くだらないのは、それをくだらなくする世間であり、愛し合っているあらゆる二人がそんなことに、屈しないでいてほしい。★★★☆☆
ああこれ、日本版ニューシネマパラダイスだと、思ったんだけれど、それこそこのクライマックス、ボロ泣きシーンが、カットされたキスシーンをつなげたニューシネマパラダイスの、あの号泣必至のシーンにも呼応するような気がしちゃう。
監督自身はいらないよ、と言っていた。メイキングだなんて、完成した作品にとっては裏事情を見せるような、恥部を見せるような、と思っていたのか判らないけれど、カットされたキスシーンが涙を誘うように、監督はいらないと思っていたメイキングが、まさにこの映画を完成させたのだから。
あーもー、あのシーンでめっちゃ泣いたから、そっちに引きずられちゃう。落ち着いていきましょう!
こいでん演じる近藤は、登場からホームレス男である。まだホームレスビギナーといったところか。ベテランホームレスに映画のチラシを売りつけられる。100円、50円でいいよ、もう三日も食ってないんだ、という言葉についほだされてしまうあたりが、近藤はまだ甘かった。
待ち合わせをしていた友人の木村(ライスの関町さん、ラジオで声だけ聴いていたから、お姿初見で感無量!)に借金を断られている間に、バッグを持ち去られてしまう。
ベンチでふて寝をしようとしていたところに、派手な原色ファッションのおばちゃんに声をかけられる。生活保護を勝ち取るサポートをするNPOだという、いかにもアヤしそうな声かけに、何人ものホームレスが釣られて集まっていて、その中に近藤のバッグを持ち去った男、佐藤(宇野祥平)もいたんである。
映画のチラシを売りつけていたから、そして近藤も思わずそれを買っていたから、二人とも映画好きなんだろうなという予感はあった。でも予想をはるかに超えていた。
近藤はかつてカルト的人気を誇ったホラー映画監督で、佐藤はホームレスの境遇に落ちても、月に二回は映画館で映画を観る。それが自分の意地なんだと、いう男だった。
またしてもついついクライマックス先走りするけれど、えーと、こーゆーオチを言っちゃうのはマジルール違反なんだけど、佐藤は、映画館で、死んじゃう訳さ。しかも、こんな出会いをした、ある意味どん底を味わい尽くした同志として出会った近藤の復帰作を見て、佐藤もまた、映画が好きな自分として人生を再スタートさせて、幸せの中で、死んだ訳さ。
これまた、もー、ずりーよー!!と絶叫しちゃう。本望だっただなんて、浅はかなことは言いたくないけど、いい映画を観た後は神様に祈るように手を合わせていた佐藤、大好きなカサブランカの上映のたびに足を運んで、手を合わせていた佐藤。その佐藤が、近藤が長いトンネルから抜け出た先の復帰作に手を合わせて天国に行ったなんて、たまらんじゃないか。
ヤバいな私、全然訳判らんまま進んでるぞ。軌道修正。ホームレスたちが集められて生活保護を支援するというアヤしげなNPO団体の講習に、近藤も最初は参加していたんだけれど、行くところがないという近藤を思いがけず拾ってくれたのが、ミニシアターを経営する梶原(吹越満)である。
なにかというと涙もろい彼が、経営にはどうやら向いていないらしいのは、赤字に直面すると昔なじみの仲間たちとの麻雀に逃げちゃうあたりであっさり判っちゃう。
でも、梶原だけじゃなくって、この銀平町の商店街の店主たち(が、この麻雀仲間なのであろう)は、もれなく悩んでいる。
いわゆるシャッター商店街だというのは、後に重い腰を上げて梶原が劇場50周年(だったかな)記念イベントを開催するPR動画を撮影する、その商店街の寂れた様子で明らかになっちゃう。全国各地、こうした場所は沢山あるんであろう訳で。
このミニシアター、という言葉も隔世の感があるけれど、それよりも更に年季の入った地元映画館、近藤はここに通っていたことを、忘れていたのか、後に梶原に語った様子ではまさかそんなことはなかろうが、ホームレスにまで落ちた事情には辛すぎる出来事があった訳だから、マジで消し去られていたのかもしれんなあ……。
それに彼が気づいた、というか、観客に示されるのは、古ぼけた古式ゆかしきとでも言いたくなるトイレをゴム手袋してごしごし掃除していた彼が、壁に書かれた自分の落書き、学生時代の、映画監督への夢を書いたそれを見て、こっぱずかしくも、誇らしく懐かしく、見つめた時なんであった。
つまりこの時点で、近藤はかなり回復していた。じわじわと明かされる近藤の、こんな状態に至るあれこれが、本当に辛くて、ホームレスに落ちるまでになっても、未編集のままの作品が入ったパソコンは手放さず持っているっていうのが、胸に迫って。
映画館経営者の梶原、演じるフッキ―が愛しすぎる。いつも客席はガラガラ、つまり来ているのは常連の5人だけ。なんとかせねばと思いながら、クラウドファンディングだなんて横文字に怖気づいて、何にも手が打てない。
なのに近藤を住まわせて、勝手に彼の事情を作り上げて泣いてしまう人情家である。つまりそんなところをつつけば勇気りんりんに動いちゃう、愛すべきキャラクター。
常連の五人はそれぞれ売れない、という肩書を付されるが、役者、映画ライター、トランペット吹き、という腕に覚えありのメンメンに、映画好きの中学生男子と、あれ?あと一人誰だっけ、五人だと思ってたけど四人だったっけ……ダメだなー私。
とにかく、50周年だかの、そのイベントを打とうということになる。そのメインは、近藤の未完成の新作上映。
ずっとついてくれていた助監督の青年が自殺して、近藤は映画を撮れなくなった。未完成のこの作品が手つかずになっていたということは、編集だけ残された状態だったらしいから、撮影は終わっていた段階であろうけれど、そんなタイミングで理由も判らずの自殺だったから、近藤は、自分が何か原因ではなかろうかと思っていた、らしい。
それは、本当に、かなりかなり先になっての明らかである。近藤が実は映画監督だったことさえ、本当に後半になってから示されるし、それが示された時も、インディーズとか、学生映画上がりなのかと思わせたところで、いやいや、カルト的ではあるけれど、むしろ今の時代はその方がカリスマ、なのに急に撮らなくなってしまったんだ、ということがじわじわと示されていく。
未完成の作品の主演女優は奥さんであり、奥さんは死んじゃった??いやいや、梶原が暴走先読みしたのは明らかだからそうじゃないよね、でも近藤は事情を明かしたがらないから、ついついそのままになっちゃって、それを聞きつけた元妻と娘が訪ねてくるんである。
このあたりから物語が急速に動き出す。梶原の勝手な憶測盛り上がりについ乗っかっちゃって、妻は死んだとウソをついた近藤。
一方で、NPOという立場で詐欺まがいに搾取しまくる団体から佐藤を救い出すという、ニューシネマパラダイス的な感動物語の中に、めちゃくちゃしっかり社会派シークエンスを入れつつである。
近藤がうっかりついたウソによってクラウドファンディングが頓挫しかけるという事態もあれど、SNS時代ということもあるだろうなあ、紆余曲折の末にたどり着いたイベントの、つまり本作のクライマックスは、メチャクチャ胸アツ。
近藤の復帰作であり新作も当然そうなんだけれど、やはりここで新作、どころかデビュー作が上映される、という女の子がいるのだ。ずっと通い続けたこの映画館で、自分の作った映画が上映されるのが夢だったと語る、つまりは今、学生さんだろうかと思しき女の子。
本作のかなり序盤で、梶原がスタッフ一同に次にかける候補なんだけど、という感じで見せていた。まあまあの高評価、イイよ、面白いじゃん、てな中、近藤だけが、ボロ泣きだった。
それを梶原が、奥さんが死んでしまって、自分は映画監督で(後者は合ってたけど)、というカン違いをするのだが、近藤がシンクロしたのは、どうしようもないヘタレ監督を叱咤激励する助監督が、ずっと自分を支え続けてくれた助監督の良太郎にソックリだったからなんであった。
若いが故のナマイキさが、可愛かったし、不安な自分を支えてくれた。劇中のヘタレ監督のような酒浸りの、まさにヘタレ監督ではなかったにしても、年下で、ナマイキな態度から遠慮なく叱咤激励してくれる良太郎に甘えてもいただろう。
だから、もしかしたら自分のせいでと思い、撮れなくなり、生活もおぼつかなくなり、離婚し、ホームレスにまでなってしまった、といことなのか。
佐藤や梶原との出会い、何より映画館に住み込んで働く生活が、近藤を変えたことは間違いない。それ以前の彼がどうだったかは判らないけれど、ウソくさいNPO団体に搾取されている佐藤を心配して救い出すことなんて、自分自身に手いっぱいであったろう頃の近藤にはとてもとてもできなかっただろうから。
映写技師を演じる、カッコよすぎる渡辺裕之氏にきゅんきゅんしまくる。近藤が映画を完成した歓声を聞きつけて、じゃあ踊ろう、と狭い廊下を男二人でくるくる踊るとか、萌えすぎるだろ!!
ほんの一瞬なんだけど、映画好き中学生少年と会話するシーンとかで、この男子はこのかっちょいい大人男子に出会い、フィルムの映写技師という消えゆく文化を支えるんではないかと妄想して萌え萌えしてしまう。現代女子中学生にはモテないかもしれんが、キミは絶対、モテる男に成長するさ、絶対!!
ずっと、心に引っ掛かりまくって、言ってしまえばトラウマであったであろう、自ら死を選んでしまった良太郎の菩提を弔いに行くんである。母親が片岡礼子氏だというのが、もうなんか、それだけで泣かせる。
彼女だけ、つまり父親は登場しない、母子家庭だったのか、そんなヤボな詮索はしないけれど、彼女が、そうね、なんていうのかな……絶対にいろいろ考えただろうし、もしかしたら、訪ねてこない近藤を、コイツのせいかと思ったかもしれないし。
でも彼女が言うように、誰にも判らないのだ。近藤が自分のせいかもしれないと吐き出した、その台詞を待っていたかのように、鮮やかに打ち返すように、私のせいかもしれない、と言った。そして間を置かずに、誰にも判らない、と加えた。
それは彼女が、考えに考え抜いて、導いた答えだっただろうことが、判る。つまりさ、近藤は、近藤もそりゃつらい思いをして、ホームレスにまでなった訳だけれど、負けたんだよ。良太郎の母親の辛さには、勝てる訳なくて、彼女が打ち返したホームランに、ぐうの音も出なかったに違いないのだ。だから、映画を作るしかないんだ。くよくよと、自己満足に考えるんじゃなくて。
でね、ようやく、冒頭で先走ってしまった話に戻れるけれど、ずっと完成できなかった新作は、ずっと支え続けてくれた助監督、良太郎の遺作だった。そのことに、つまり良太郎の死に向き合えなかったままの近藤であった。ようやく墓参りをし、お母さんと酒を酌み交わした。
日本版ニューシネマパラダイスと言ってしまったけれど、それはそうだと言いたいけれど、近年キツ過ぎる社会現象、若くしての自殺、そんな状況に若者が追い込まれる異常事態の現代社会が当然当然、反映されている。私は良太郎の母親世代、片岡礼子氏世代だから、また違う目線なのだけれど、これはキツいなあ。★★★★☆