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ロストケア
2023年 114分 日本 カラー
監督:前田哲 脚本:龍居由佳里 前田哲
撮影:板倉陽子 音楽:原摩利彦
出演:松山ケンイチ 長澤まさみ 鈴鹿央士 坂井真紀 戸田菜穂 峯村リエ 加藤菜津 やす 岩谷健司 井上肇 綾戸智恵 梶原善 藤田弓子 柄本明
ああやだやだ。こんな奥歯にものが挟まったような言い方。つまりね、本作から即座に想像されたのは、あの忌まわしき相模原の事件。そしてあの事件、驚くべきことに、私にとっては驚くべきことに、犯人の気持ちが判るなどという論調が湧き上がって、これは相当、この日本はヤバいぞ、と思ったのだった。
非生産者、社会にも家族にも迷惑がかかる、生きていても仕方ない、彼らのために自分は手を下したのだという彼の言葉に、判る、という人たちがいることに驚愕した。
そしてそれは……本作に奇妙なまでにソックリで、そしてそれが、相模原の事件では知的障害を持つ人たちであり、本作では認知症が進んでいるお年寄りである。
奇妙なまでにソックリだけれど、動機もソックリだけど、同等に罪深いことだけれど、相模原の事件が、その論調に対するおかしさ、議論が巻き上がったのが当然のことだったけれど、本作のそれは、ひょっとして、結構みんな、共感しちゃってる……??という恐ろしさを感じたからなのであった。
介護施設のお年寄りたち、実に41人をひそかに殺した施設職員。そう、施設職員というのまでソックリ……。松ケン演じる斯波宗典なる青年が犯した恐るべき大量殺人は、彼言うところの、救ったんです、という信念によって遂行された。
恐ろしいのは、松ケンの憑依芝居だからこそもあるんだけれど、それを、ホントにそうかも……と思ってしまいそうになる、ということなのだ。介護によって家族が疲弊している、その家族、そして家族を苦しめている当事者を救うためにと、斯波はことに及んだ。
後に被害者遺族たちに話を聞き取ってみても、自分たちの苦労をよく汲んでくれていた職員であり、自分の親が殺されたと知っても、信じられないという表情は浮かべながらも、即座に彼を糾弾する人は誰一人いないのであった。
裁判の席でただ一人、人殺し!私の親を返せ!!と吠えた人はいたけれど、そんな風に憤るに至るまでの心の経過を示すことは一切なかった。つまり、本作は、斯波氏側に寄り添うている、と思われても仕方のない印象なのだ。
もちろん、対抗馬はいる。めっちゃ強力な対抗馬。なんたって大スター、長澤まさみ氏である。検事という立場で斯波の犯行であることを突き止めるところから始まるのだけれど、えー、こーゆーのって、刑事がやるもんじゃないの??という単純な疑問が起るが、それは刑事ドラマの見すぎなのだろうか……。
まあどっちでもいい、とにかく最初は介護施設の所長が利用者の家に合鍵で入り込んでコソ泥を行なっていた、同じタイミングで死んでいた利用者がニコチン注射されたことによるものであったことが明らかになる。
最初は当然所長が疑われたけれど、階段から落下して不慮の事故死を遂げていたもんだから。このあたりの展開では、え?どーゆーこと?だって予告編では松ケン扮する斯波が犯人だってことは明らかだったから、その感触を微塵も見せないもんだから、えーっどーゆーこと!!とマジに混乱する。まさかこんな、事件を惑乱させるキャラが登場するなんて思わなかったから。
所長は酒とギャンブルで身を持ち崩し、離婚して養育費もかさみ、利用者が認知症になっているのをいいことにコソ泥に入った。そこに居合わせたのが、その利用者を殺すために同じく合鍵で忍び込んでいた斯波。
斯波は、人を殺すことは救うことだと思ったのに、所長のコソ泥は許せなかったのか。なんという皮肉な。揉み合って、所長は階段から転落、死んでしまう。死体が二つである。
そんな具合に、ちょっと犯罪ミステリなスリリングもある。でもそれは、心象的にはほんのちょっと、媚薬を嗅がされた程度、な印象。
検事の大友は部下の椎名(鈴鹿央士)の優秀なデータ処理能力によって、斯波の犯行だと突き止める。そこまでは、確かに、刑事ドラマっぽいスリリングがある。
でも、大友は、結局斯波を、攻め切れないんだよね。それは彼女もまた、老いた母親を介護施設に入れているという事情があるのだが、それ以上の事情がある。正直、ズルいと思う。彼女にこの設定を課した上で、斯波と対峙させるのは。
映画の冒頭、大友はタクシーで団地に乗り付ける。パトカーやら、住民やらがわらわら取り巻いている。孤独死。しかも二か月も発見されなかったのだと。
彼女がなぜこの現場に駆け付けたのか、明かされないまま斯波の側の物語がスタートする。頭の片隅に気にしながらも、観客はしばらく、彼女がなぜここに駆けつけたのか、忘れさせられる。
孤独死したのは彼女の父親で、両親が離婚後ほぼ没交渉であり、父親が死ぬ三か月前に何度も連絡があったけれど、そんなこれまでを口実に、スルーし続けた先のことだった。
あの時その連絡に応えていれば、と言ったのは、そう思ってはいても決して口にしてはいなかったのだろう、仕方なかったのだ、自分は悪くないと言い聞かせ続けていた矢先の、斯波の事件だった。
心揺れまくるに違いなかった。ここよ、ズルいのは。そんなことがない、何の事情にも左右されない人でなければ、冷静に、公正に、この事件を裁ける訳がない。
判ってる。そんなんじゃ物語が成立しないことぐらい判っているけれど、でもいわばダブル主演だもの。双方同じパワーバランス、同等の立場でガチで勝負しなければならないのだもの。
なのにそもそものキャラ設定時点で、彼女は斯波を打ち負かすだけの精神力が与えられていない。彼の動機に共感しちゃう人物設計にされちゃってる。
斯波の物言いは、自分が神の視点で語っている恐るべき殺人者なのに、彼女自身の事情で、彼がまさに神だと思っちゃうような心理状態になっていくのが目に見えるよう。でも検事としてそれはアカンと子供のように抗っているだけのように、ヒステリックに、説得力のない、凡庸な反論しか出来なくなっていく。
ここがまさしく一つのクライマックスなので、これはヤバいわ……とさすがに思う。もちろん、斯波を演じる松ケンの、完全にイッちゃってる犯罪者感と、それに戸惑うまさみ氏、というバランスはあるものの、松ケンの憑依は、イッちゃってる中に、どっしりとした説得力があり、どうしても彼の言葉に耳を傾けてしまう。
大友は、どんどん、錯乱していってしまうのだもの。そして最終的に、その錯乱した原因、父親を見殺しにし、母親の介護を金で解決した、という事実を彼の前で懺悔しちゃうんだもの。
前者はともかく、後者、母親の介護を施設に任せたことを大友が心苦しく思ってる、っていうこと自体が、大問題なのだ。それを、斯波や斯波たち介護スタッフが関わる利用者とその家族たちに照らし合わせることで本作の展開は成り立っている訳なのだけれど。
散々、さんっざん、ここでも言ってきた。私は独女。姪っ子甥っ子といった係累はいるし、老後彼らに見捨てられないように、今のうちに恩を売っとくわ、みたいなことは冗談めいて言ってはいる。
でも本音はそうじゃないんだ。一人で立派に死にたい。孤独死という言葉は大嫌い。孤独かどうかは、自分自身で感じ、決めることだ。孤独かどうかなんて、他人が決められる筈がない。勝手にカワイソがるなと言いたい。斯波に殺されてしまったお年寄りたちも、きっとそう思っていたと、私は思いたいのだ。勝手に可哀想かどうかなんて決めるなと。お前に何が判るというのかと。
殺されてしまった利用者、お年寄り側が、認知症で、物言わぬからという、憤りがある。それこそ、相模原の事件では、知的に障害があるから判んねぇんだろ、という視点があったことと同等の憤りだ。
想像力。ことあるごとにそのことを考える。自分自身が被害者側になった時のことを考える想像力。難しいことではないのに。
斯波の、介護職員になる前の事情が後半描かれる。これがね……切実なだけに、だから彼はそんな行動に出たのはやむなしみたいな、彼を責めるな、社会を責めろ、みたいな持っていきかたになっちゃうのが、待って待って待って、それはダメだよ、それは違うよ!!と思っちゃう。
なんたって松ケンと、父親は柄本明氏なもんだから、もうガッチガチに切羽詰まった親子の壮絶な介護状況が描かれて、これを盾にされたら、そりゃあ何も言えなくなっちゃう、これはダメだよ、と思ってしまう。
もちろん、彼らが体現し、糾弾しているのは、家族に責を負わせ、実情を見ずに捨て置く社会、国や自治体である。松ケン、柄本氏の壮絶なぶつかり合いは、その事実を伝えたいという想いであふれていて、見るのも辛い。
でもそれを、結果的に、作品としてどう伝わったかというと……どうなんだろう、と思うのだ。介護に苦しむ家族たちを救えぬ社会が悪い。それを描こうとしているんだろうとは思うけれど、伝わっているだろうか??
結果的にそれがねじれて、だからボケちゃった親を殺すのもしょうがないよね、双方疲れ切ってるんだから、誰かに手を下してほしいと思ってるんだよね、みたいな決着を、まず斯波が確立する。
それが、彼自身の壮絶な介護体験によるもので、社会にも見放されたことまでも説得力ある形で後押しされるから、そういう立場ではない人たちが、ウッカリ言えない状況に持って行かされるというのも、良くないと思うんだけれど……。
斯波と父親の、追い詰められまくりの介護シークエンス、斯波が一気に若白髪になったほどの、壮絶な生活の末に、父親が懇願する形で斯波は父親を殺す。彼曰く、救う。施設利用者の殺人は41人だったのに、斯波は42人だと言っていた、その一人目は父親だったのだ。
あまりにも壮絶だし、父親が懇願し、斯波が悩みに悩んだ末の、父親を苦しまずに死なせるための手立てまで考えての所業だったので、うっかりよく頑張ったね!とか言いそうになる自分に戦慄する。
違う違う、そうじゃない。そうじゃないんだよ!!ここが、重要な転換点な気がする。確かに父親は、麻痺した身体で、聞き取りにくい喋りで懸命に、殺してくれ、といった。もう殺してくれと。
殺してくれ、という言葉を、どうとらえたらいいのか。ストレートに、はい、じゃあ殺します、死にたいんだもんね、という訳にはいかない。その言葉の中には、そんな言葉を発するには、深すぎる、重すぎる理由がパンパンに詰まっているのだから。
だからこそその言葉が発せられた先に、マジで殺すのは、ありえないと、思った。ニコチンを注射された父親は、その反応だったんだろうけれど、目を見開いて、悶絶した、その表情が、お前が俺を殺すのかと、お前もか、みたいな、顔に見えたのだ。どうだろう、実際に、作り手さん側がどう思って書いたのかは判らないんだけれど……。
父親を殺した後に、折り紙の鶴を斯波がほどく。色紙の裏には父親のメッセージが書かれている。お前の父親で幸せだったと。こらー一番の泣かせどころ、斯波もむせび泣くが、正直、これはないわと思った。
だってさ、そもそもなぜこんなことを書いたの。まるで息子に殺されることを予期したみたいで不自然だし、父を殺した息子がこのメッセージを見てむせび泣くって、えげつない後悔だし、その後、同じ理由でお年寄りたちを殺しまくるっつーのが腑に落ちなくなる。
意思疎通ができなくなってしまった認知症のお年寄りを殺したのと、意思疎通ができた父親を殺したのと、全く違うし、どちらも絶対に許されないこと。
そして、意思疎通が出来ないからといって、認知症のお年寄りが、何も判らない、何も理解していないなんてどうして私たちに判るというのか、そういうことでしょ!!
つまりね、つまりつまり……納得いかないのさ。私自身が、孤独老人に行きまっせ!と思っているから、納得いかないのだ。誰に同情しているの、同情している対象を思わせる時点でアウトやろと思っちゃう。
利用者、その家族、いろいろめっちゃ魅力的なキャストが数々いたのに、私がいろいろ言いたがりで、すみません!!
個人的には、坂井真紀氏の、ホッとした後の穏やかな恋の先の運命の相手、がグッときました。お相手のずんのやす氏が良かったね!!★★★☆☆
過ぎ去ってしまえばしばらくは話題にも上らなかったけど、そうした彼らが、特に男子よりも就職困難な女性(これはいまだにそうだが、当時はさらに如実だった)が結構な年齢になった時、スタートでつまづいてしまうと容易にそこから這い上がれない現実が、ようやく語られるようになった。
今頃問題にされたって遅いのだと、彼女たちは憤っているのか、それとも憤るまでの気力さえ持たずに、ただなんとかその日を生きているのか。
熊切監督と菊地凛子氏の顔合わせはムネアツである。彼女を最初に見た「空の穴」、次に「バベル」で彼女に遭遇した時にはしばらく気づかなかった。名前が変わっていたということもあったけれど、いきなりのオスカーノミネート、体当たり演技、ドギモを抜かれたから。
「空の穴」の時の彼女のことを今、明確に覚えている訳ではないんだけれど、本当に少女で、さなぎの前のような、心細さの中にこれからの時間をたっぷり持っているようなそんな印象だったように思う。
本作で彼女が演じる陽子は、42歳というしっかり大人の女性なのだけれど、さなぎのまま蝶になれずに震えている少女のよう。
陽子がパソコンに向かってカスタマーサポートのように打ち込んでいるのが仕事なのだろうか。明瞭に読みとれないけれど、いかにもやる気なさげにマニュアル通りの文章を打ち込み、相手からブチ切れられる、その画面を見ながら冷凍のイカ墨パスタをずずずとすすりあげる。
薄暗いアパートでのこの冒頭のシーンでは、むしろしたたかに生き抜いているようなしぶとさにも見えた。でも違ったのだ。
突然、ドアが叩かれる。イトコの茂(竹原ピストル)である。陽子の父親、彼にとってのおじさんが亡くなったと告げる。陽子の妹から、お姉ちゃんと連絡が取れないからと頼まれたのだという。
陽子のスマホが落下して割れて壊れていて、だから連絡が取れなかったのだと陽子は言うし確かにそうなのかもしれないけれど、絶対に、ぜえったいに、今まで連絡を取り合っていたようには思えないし、その後、この妹は登場しない。電話に出るのも親戚のおばちゃんなのだ。徹底して、陽子の係累は排除されて描かれる。父親が死んだというのに、まるで家族がその死んだ父親だけのよう。
でもその父親に対しても、陽子はねじれた感情を持っている。20年前、家を飛び出したきり会っていない。その時の彼女には夢があって、それを叶えるべくの進学なりをしたんだろうが、先述したように、夢を叶えられる人なんていたんだろうかという時代だった。
この道中語られる父親への想いは、彼女の年頃の父親、は、私よりも10近く下ではあるけれど、でもまだまだ昭和的家父長パワーに満ち満ちていて、反発はしているけれど、逃れることでしか自分を主張することができない、特に女の子は、そういう時代だった。
20年前から彼女にとっての父親は時が止まっているから、現れる父親がオダジョーであるというのが、切ない。幻のように、彼女にだけ見える形で現れる父親は、何にも言わない。
でも陽子がヒッチハイク中に乗せてくれた相手に物語るような、不機嫌で高圧的な父親のようには、オダジョーだから見えない。それが、20年会っていないから彼女の中で変化したのか、実際の晩年の父親の魂が、彼女の中の記憶の姿を借りて現れたのか……。
そもそもなぜヒッチハイクになってしまったのか。茂は幼い子供と奥さんと共に陽子をピックアップし、弘前に向かう手筈だった。サービスエリアで子供が事故を起こし、病院に連れていくやらなんやらの間に陽子はぶらぶら散歩していたので、事態を把握出来てなかった。
スマホも壊れて携帯していなかったから、茂は陽子に連絡を取れず、陽子も何が起こったか判らず置き去りにされたと思い、所持金は小銭入れに入っていた二千円札と小銭がちょっと。
ここで、この位置からなら、この金額で自宅に帰ることはできたと思う。でも陽子は、弘前へ向かう選択をした。嫌っていた父親、20年も音沙汰なしの実家だったのに。
でもそう……そもそも、茂が迎えに来た時に、メチャクチャ逡巡して、向かうことを決めたのだった。でもあの時点では、陽子はその逡巡の末の決心がなんだったのか、明確にはつかめてなかったと思う。ヒッチハイクの旅となる中で、それを次第につかめて行ったのか。
北上するごとに、画面からもしんしんと寒さが増してくるのが判る。当然、心優しき人たちばかりじゃないし、その中で陽子の不器用さ、というか、その心優しくない筆頭のクズ男から発せられる、コミュ障、という表現がばっさりと陽子を言い当てている。
ハヤリ言葉のように語られるこのワードは、あまり好きじゃないけれど、まさに陽子はザ・コミュ障、なのだ。相手と目を合わせて話すことが出来ない。それは、イトコの茂とさえそうだったけれど、気安い身内だったし、父親が死んだショックもあったのかなと思っていたけれど、違ったのだ。
それが彼女が生来持っている性質なのか、外での仕事をしていない、いわゆる引きこもり状態から引き起こされたものなのかは、判らない。これがどっちなのか明確にされないことは、少し気になったりもする。もともと彼女自身が持つものによって生きづらくなったのか、先述したような生きづらさが引き起こしたのか、そこは大きく違ってくると思うから。
ここをあいまいにすると、上手く言えないけど、よくない、危険な気がする。生きづらい人たちをぼんやりと規定してしまうような気がする。
でもここは、陽子の旅に寄り添いたいし、彼女がこの勇気ある決断をしたその道行をハラハラと見守ることにする。
最初に乗せてくれた女性を演じるのは黒沢あすか。もう一目見てクセありそう。決して悪い人じゃなかった。ひとしきり自分の愚痴を浴びせてすっきり、聞いてくれてありがとう、と陽子のだんまりを特段いぶかしがるでもなかったし、パンもごちそうしてくれた。
でも、陽子からの借金の申し出には途端に冷たい反応だった。いや、これは、それで正解だ。自分の出来る領域まで、乗せてあげたことで充分だし、他人じゃなくても誰でも、人に金を貸すものじゃない。それは正しい。
もちろん、陽子にとっては必死だったし、最初のいい人だったし、絶望したのも判るけれど、むしろこの彼女は陽子に対して、優しさと共に厳しさも教えてくれた。一歩も外に出ないままの陽子にとって、見ないように聞こえないようにしていた外の世界を、厳しく教えてくれた。
誰も立ち寄らないような、トイレ休憩だけの駐車場で出会う、これまたヒッチハイクをしている少女は、しょっちゅうスマホに着信音が来るし、単なる家出少女か、とにかく、陽子と違って経済的に困窮してこんなことになっている訳ではないらしい、と陽子はストレートにこの少女にぶつける。
面白いんだけれど、ザ・コミュ障、いわゆる一般的大人に対しては目を見ることもできず、返事をするのもおぼつかず、蚊の鳴くような声で対応するしかない陽子が、この少女に対しては、まぁ寡黙ながらも、まるでセンパイのように心配げな口を利くし、やっと捕まったヒッチハイク席をゆずりさえ、するのだ。
だってここのトイレが怖くて一人で入れないんでしょ、なんていう他愛ない理由、それは陽子を、一人の先輩女子として、大人の女として、成長させた瞬間だったと、この時も、後から思い返しても、思う。
だからこそその後遭遇するクズ男に、条件を提示したという言い訳の元に、つまりは巧妙に脅されレイプさながらにラブホでヤラれちゃうシークエンスには、胸が痛む。
いや、そんな穏やかな表現じゃ足らん、男がサイテーなのは当然だけれど、ああもう、世間知らずってのは、こーゆー目に遭うのだ、女は男の十倍も百倍も世間を知っていなくては生き抜けないのだよ!!と叫びたくなる。
だってさ、だって……まるで、陽子は、処女を破られたように見えた。もういい年、42歳。これまで陽子がどういう経過を経ていたのかは判らないけれど……今の時点での彼女から、なんだかいろいろ想像出来ちゃうというか……。
この前のシークエンスで、家出少女と思しき女の子にちょっかい出された時、ちょっと過剰に反発し、その女の子もひるんで、ゴメンね、と言った、あの描写が、恐らくあの少女はヘテロではなく、それを敏感に察知した陽子と思われると、陽子自身のそれまでのアイデンティティを想像したりもするんであった。
凄く繊細な問題だし、ここで明確に立ち入る訳ではないんだけれど、ちょっと、いろいろ想像しちゃったなぁ。陽子の前にあらわれる、彼女を否定するばかりの父親像っていうのが、そうした古い価値観っていうのが、なんだかそういう誘導を感じさせもしたし。
風吹ジュン、吉澤健の老夫婦の優しさが、シークエンスとしての尺も長いし、最も判りやすく胸に迫るけれど、一番グッと来たのは、サービスエリアで必死に、青森行きのスケッチブックを掲げ、誰か、誰か!!と叫んだ陽子に、はい、と手を上げた少年。
その父親は何も言わず運転し、陽子はなぜか、なぜだか、ここで、自分の気持ちを言いたくなる。あんなにもコミュ障、誰かと話すのが苦手なのに、聞いてくれませんかと、話し出す。
話して、聞く、それだけなのだ。運転する父親も、助手席の男の子も、何を言う訳じゃない。そして、男の子がスマホからの返信を陽子に告げる。(陽子の実家への)途中まで、送ってくれるそうです、と。
カットが変わると、青年のバイクに二ケツする陽子である。この青年も何を言うこともなく、去っていく。
どんどん北上するから、寒くなるし、雪も降ってくる。トイレが怖かった少女がくれたマフラー、風吹ジュン夫婦がプレゼントしてくれた防寒靴とスパッツ、段々とそれなりの装備になり、今は徒歩で迎えるところからてくてく歩いていく。
もうね、出棺の時間は過ぎていたのだ。陽子は焦っていて、もう間に合わないと思って、乗せてくれた父子に、みそぎのような気持で、あの告白をしたのかもしれない。
風吹ジュン夫婦に、握手を求めた、あの手のぬくもり。陽子は父親の手を、もう死んでしまったけれど、手を握りたいと思った。もう冷たいに違いないけれど、握りたいと思って、間に合いたくて、でも、もう出棺の時間は過ぎている。
待っていてくれる、そう思ったし、そのとおりだった。雪降る中、ようよう実家にたどり着き、外で遊んでいた茂の娘ちゃんが気づいてパーン!と家の中に入って父親に報告。茂が、陽子を目にして、出棺を待ってもらっていたから、と告げる。
膝から崩れ落ちる陽子。死んでしまっている。肉体があれど、もうそれはただの物体。そう言ってしまえばそれまでだけれど……骨になってしまうのと、肉体に触れるのは、やっぱり、違うよね……それはくだらない、人間の傲慢なのだと判ってる。肉が残ってようと、骨だけになろうと、死んでしまえばただの物質、それは判ってるけど、弱い人間は、どこかの時点で答え合わせをしなければ、それまでを清算できない、先に進めないのだ。
彼女が、彼女たちが、私より10も若いのだと思うとボーゼンとする。そんな若い、後輩の彼女たちを、私たちは守ることが出来ていない、まだ自分のことさえもままならないことを。それを時代や国や社会のせいにするのは簡単だけれど、それじゃダメなんだということも判っているから……。★★★☆☆